Coolier - 新生・東方創想話

歩け! イヌバシリさん vol.8(終)

2013/01/12 16:47:09
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※超絶オリジナル設定注意。
※一部残虐表現有り。



一作目は作品集144
二作目は作品集148
三作目は作品集154
四作目は作品集159
五作目は作品集165
六作目は作品集171
七作目は作品集174 にあります。


【 登場人物 】

犬走椛:哨戒を任務とする白狼天狗。幼い頃に天狗社会上層部の手違いで住んでいた集落を壊滅させられる。
    成長してからは大天狗の下で裏稼業に従事していた。そのため大天狗とは長い付き合い。死線を多く潜っていたため、他の白狼天狗よりも圧倒的に強い。
    自分の故郷があった場所に守矢神社がダムを計画していると聞き、かつてない衝撃を受ける。

射命丸文:新聞記者の鴉天狗。椛のことを好いている。発行する新聞も能力も高い評価を得ており、他の天狗から一目を置かれている。
     神奈子から椛の過去を聞き、守矢側に寝返り、山を情報を流している。
     秘密裏に進めている計画がある。

姫海棠はたて:新聞記者の鴉天狗。引篭もりだったが今ではそれほど苦もなく他人と話せる。
       現在は天魔に弟子入りし、一人前になるための鍛錬を積んでいる。天魔とは血縁関係にあることを本人は知らない。
       椛の過去や、ダム計画の事は一切知らない。蚊帳の外の状態。

大天狗:中間管理職。見た目は妙齢の女性。最古の天狗の一人。椛のことを『モミちゃん』と呼ぶ。フレンドリーな性格。
    独身であることを気にしている。そのため合コンを頻繁に企画する。失敗率は脅威の99.8%を誇る。
    ダム開発が提案された土地の権利書を持っているため、天狗の中で一番最初にダム計画を神奈子から聞かされた。

天魔:天狗社会の最高位。見た目は童女だが最古の天狗の一人。天狗最強。
   唯一の血縁関係にあるはたてを気にかけており、弟子として傍に置いている。


八坂神奈子:守矢神社の神。神としての絶大な力を誇る。信仰のためなら他者を平気で利用する。
      椛の過去を知り、椛の故郷をダム計画の舞台にすることを考案した。

洩矢諏訪子:守矢神社の神のもう一人の神。祟り神の統括者であるためか、時おり残忍な面を見せる。
      巫女の早苗を誰よりも気にかけている。そのため神奈子とはそのことで何度も衝突する。
      天魔に親近感を持っており、姫海棠はたてのことを『お姫ちゃん』と呼ぶ。




【 prologue 】


犬走椛が東風谷早苗から樹海がダムに沈むという話を聞いた次の日。
彼女は哨戒の任務が終わると一目散に大天狗の屋敷へと向かった。

屋敷の門の前に辿りついた時、ちょうど外出から戻ってきた大天狗と出くわした。

「大天狗様っ!」
「あれ? 今日は報告も受け取る書類も無い日のはずだけど? なんかあったっけ?」
「あの樹海に関することで、気になる噂を耳にしたもので」
「…誰から聞いたの?」
「守矢の巫女です」

大天狗の表情が神妙なものに変った。

「その話は中でしましょうか」

顎をしゃくって、屋敷に入るよう促した。

「おかえりなさいませ大天狗様」
「これから大事な話をする。誰も近づけるな」
「御意」

玄関で出迎えた従者にそう伝え、自室へと向かった。





「さて、どっから話したらいいかな」
「やはり本当なんですね」
「うん。それをさっきまで話してたの」

今日の朝。大天狗は天魔に。守矢がダムの話を持ちかけてきた事を知らせた。
その後すぐに重鎮に召集をかけ、緊急の会議が開かれた。

「ダムになんか沈みませんよね?」
「わかんない」
「頼りないこと言わないでください」
「先日の山火事によって、かなりの範囲の木がダメになった。これまであの場所が大雨に見舞われても、あの木が大量の雨水を貯蔵してくれていたわ。それが無くなった」

今まで木が蓄えてくれてた水が、そのまま麓まで流れることになると、川の氾濫や、床上浸水等の恐れがあった。

「もちろん、氾濫や洪水が起こるっていうのはあくまで“可能性がある”ってだけ。木が無くても平気な、安定した土地なのかもしれない」
「じゃあ無理にダムなんて作らなくても」

この山に住む者である以上、山の自然をダム開発という形で壊したいと考える者はまずいない。

「それがね」

大天狗は小さく首を振った。

「一部の老害……ゴホン、重鎮にとっては、ダム建設ってのは朗報だったりするのよ。賛成する奴が出てきた」
「何故です?」
「あの土地は山の歴史の暗部だからね。ダムに沈めてしまいたいと考える重鎮も中にはいるわけよ」

樹海はかつて、上層部の手違いによって白狼天狗虐殺の惨劇が起きた現場であり、それ以降は公に出来ない理由で死んだ白狼天狗の死体を捨てる場所として使われてきた曰く付きの区域である。
その土地を潰したいと思う者がいても不思議ではなかった。

「臭いものには蓋ってやつ?」
「大天狗様はどちら側ですか?」
「出来ることなら残しておきたいわ。天魔ちゃんも同じ考えだと思う」
「そう、ですか」

ほぅと安堵の息を吐いた。
影響力が強い二人が反対の立場である以上、易々とダム建設が決まるとは思えない。

「来週と再来週で話し合って、再来々週の会合でダムに賛成か反対かを投票で決めることになったわ」

山全体に公表しては収拾が付かなくなるという理由から、この件は極秘として、重鎮達の中でのみ協議し決断を下すことになった。

「ダムにしたいと考える連中は多いのですか?」
「残したい3割、潰したい3割、どちらでも良いが4割。正直、厳しいかも」

大天狗は煙管を取り出す。

「禁煙中では?」
「やめた。ストレスが溜まってしょうがない」
「そうですか」
「そういうワケで火ぃちょうだい。ソコに入ってるからさ」

マッチが入ってる棚を指差す。
イラついた手で上手くマッチを擦る自信が無かった。

「それくらい自分でやってくださいよ」
「他人に火をつけてもらった方が美味しいのよ」
「そんなモンですか?」
「そういうモンよ」

面倒くさがりながらも棚を物色し、目当ての物を見つけて、大天狗の横に座る。

「しかし、案外冷静で安心したわ。もっと取り乱すかと思った」
「焦って大局を見失うほど、未熟ではありませんよ。じゃあ着けますね」
「お願い」

大天狗が加える煙管の先に手を伸ばす。

「でも内心、気が気じゃありません。だからお願いしますよ大天狗様」
「うん、任してちょうだ…熱ッ天魔ちゃんとも話し合っアチッ、対策を……あつッ、熱いってば!!」
「わっ」

顔に当たる火花に耐えかねて立ち上がる。

「なんで顔面間近で火打石を擦るかな!?」
「え? あっ…」

ようやく自分がしていたことに気付く。

「あっつ、これちょっとしたプチ整形じゃん」
「申し訳ありません」
「ひょっとしてメチャクチャ動揺してる? してるよね?」

よくよく見れば、椛の瞳孔が全開に開いている。

「そんなことありませんよ大天狗様」
「大天狗様はコッチ! それ部屋の柱!」
「大天狗様が二人? これは残像?」

(ダメだわ、動揺しまくってるせいで、普段のボケとツッコミの構図が入れ替わってる…)







山の一角にたくさんの墓石が並ぶ場所がある。
その中でもひときわ立派な墓の前に姫海棠はたてと天魔はいた。

「別に、お主まで付き合う必要などないぞ?」
「この人にはたくさんお世話になっていたので」
「ならば好きにすると良い」

はたては手桶を、天魔は献花をそれぞれ手にしている。
墓参りを言い出したのは天魔である。
ダムについての会合が終わったその足でここに向かう途中、はたてと会った。
彼の墓参りをする旨を伝えると、はたても同行を願い出た。

「相変わらず人望があるのう」
「お花、いりませんでしたね」

すでに墓前には真新しい花が供えられていた。
彼が亡くなってからだいぶ時間が経っているにも関わらず、墓参りに訪れる者は多い。
備え付けられている花瓶に自分達が持ってきた花を追加し、必要ないとは思いつつも二人で墓石を磨いた。
他の墓よりも大きかったが、汚れている箇所が無いため作業はすぐに終わった。

「こやつと親交があったのか?」
「はい。引篭もる前から、色々と気にかけてくれてて、私にとってお爺ちゃんみたいな人でした」
「そうか」

二人は静かに墓前で手を合わせ、黙祷を捧げた。

「お主は先に帰っておれ。儂はまだ少しここでやることがあるのでな」
「わかりました。お先に失礼します」

はたての後姿が遠くにあることを確認して、天魔は腰を下ろした。

「ずいぶんと前から面倒を見てくれていたそうじゃな。お前のことを『お爺ちゃんみたいな人』だと抜かしておったわ」

その言葉に対して僅かばかり嫉妬心が芽生えたのは内緒である。

「お陰で今はちゃんと山に馴染んでおる、まだちょっと不安な部分もあるがの。あれには才能がある。きっと化けるぞ。なんせ儂の血を引いておるからな。かなり薄いが」

弟子に取ってまだそれほど時間は経っていないが、基礎だけはみっちりと鍛えた。
はたてにその自覚は無いが、同年代の鴉天狗の中で頭一つ分抜き出ている。

「さて、自慢話はここまでにするか」

墓石を前にしても口がちゃんと回るのを確かめて、本題を切り出した。

「お前が大昔に大失態を犯したあの土地を覚えておるか? 無実の白狼天狗が大勢殺された痛ましい事故のあった土地じゃ」

犬走椛という偽名の白狼天狗が生まれる切っ掛けとなった場所であることを天魔は知らない。

「思えば、あの一件からお前は変ったのう。不遜な態度をやめ。あれだけ見下していた白狼天狗に親身になり、一線を退いてからは差別撤廃に身を投げうった」

彼の働きによって、天狗社会の歪みは幾分か矯正された。
そして様々な天狗の良き相談役として多くの者を支えてきた実績もあり、彼を恩師のように仰ぐ天狗は決して少なくはない。

「お前を変えた切っ掛けとなった場所が今、ダムに沈もうとしておる」

今日の話し合いの様子を見るに、あの土地に後ろめたい過去がある連中はダムに反対する素振りを見せず、それどころかダム建設を助長する発言さえする者も居た。

「お主のことじゃ。もし今も生きておったなら、何が何でもあの土地を守ろうとするじゃろうな」

人望のあった彼なら、保身のことしか頭にない重鎮共すら説得できたに違いないと天魔は思う。

「儂も出来ることは全部やってみるつもりじゃ。少しでも、お前が愛したこの山を、はたて達のような未来ある若い天狗に残してやりたいからの」

立ち上がってなお、自身の背丈よりずっと大きな墓石にそう宣言した。













天魔が去ってしばらくして、射命丸文が墓の前に降り立った。

「死んでも人気者ですね。羨ましい限りです」

先に来ていた二人と同様の感想を述べ、周囲に誰もいないことを確認してから、静かに両手を合わせて目を閉じる。

「私もはたても、貴方を尊敬しています。輝かしい功績のその裏で、許されないことをたくさんしていたとしても、その念が揺らぐことは決してありません」

そう前置きをしてから、目を開けた。

「聞きましたよ二柱から、貴方と椛さんの間に何があったのか」

椛の故郷を全滅させた張本人。
そして死後、その事を悔いて厄ガエルとなって椛の前に現れた事を、神奈子から知らされた。

「どういう経緯で椛さんが生き残りであることを知ったのかはわかりませんが、さぞ椛さんに対して負い目を感じていたのでしょうね」

死後、化けカエルになってまで出てきたのだ、相当な後悔があると見て間違いない。

「どうして誰にも打ち明けようとしなかったのですか? ひょっとしたら何か手があったかもしれないのに」

単純に発覚を恐れてなのか。
それとも、全ての責任は自分にあると考え独りで背負い込んだのか。
彼の人柄からして、おそらく後者なのだと文は推測している。

「でもですね。想いは伝わらねば何の価値もないんです。貴方は椛さんに対して何もしていない。いくら悔いていようと『生前も死後も貴方は椛さんを苦しめ続けた』それが事実です」

結局彼は、椛個人に対して、謝罪も償いもしないまま逝ってしまった。

「家族と友人を奪ったヤツが、皆から慕われ偉人と讃えられながら天寿を全うするのは、さぞ腸(ハラワタ)が煮えくり返る思いでしょうね。きっと私がこうしている今も彼女は貴方に対して憎悪の炎を燃やしているのかもしれません」

彼の葬儀があった晩、彼を悪く言おうとした椛を咎めたのを思い出す。
今なら、なぜ椛があんな事を口走ったのかわかる。
そしてそれを咎めてしまった無知な自分を恨んだ。

「貴方はこの山の為に十分過ぎるほど働いた。今更『償え』なんて言うつもりはありません。だから任せてください」

墓石に背を向ける。

「元部下として、貴方が遣り残したことを、きっちりと終わらせてきます。安心して眠ってください」

文の足は、守矢神社に向いていた。














文が墓地から去ったのと同時刻、木々が鬱蒼と生い茂る樹海の中に椛はいた。

「絶対に、ここは沈めませんから」

墓石も何も無い、ただそこに屹立する一本の楓に向かい、椛はそう告げた。
それだけを言いに来た椛は、踵を返して樹海を出ようとする。

「厄いわね」

振り返った椛の目の前、いつからソコにいたのか、音も気配もなく鍵山雛が立っていた。

「相変わらず神出鬼没ですね」
「褒め言葉して受け取っておくわね」
「ここは立入禁止ですよ」
「天狗が勝手に決めたルールに部外者の私が従う道理は無いわ」
「それもそうですね」
「そんなことより、貴女には見えるかしら? この地から溢れ出す大量の厄が」

スカートの裾をつまみ、雛は優雅にくるりと回った。

「この辺りが急に厄っぽくなったけど、何か心当たりない? 犬走***ちゃん?」
「その名を知っているなら、ここがどんな地かご存知でしょう?」
「ここの悲劇は知ってるわ。でもここ最近になってこれだけ急激に厄が増えるのは異常よ。このままだと完全に閉鎖しないと…」
「ここは私の故郷だ! そんな勝手を許すと思うか!?」

気付けば恫喝まがいの声を上げていた。

「…すみません」

冷静さを取り戻し、無礼を詫びた。

「貴女の心の繊細な場所に土足で踏み込んだ私も悪かったわ」
「ではこれで。厄神とはいえ、雛さんもあまりここには長居しないでくださいよ」

雛の横を通り過ぎ、樹海の外に向かい歩いていく。

「困ってることがあるなら言いなさい。何か力になれ……行っちゃった。相変わらず余裕の無い子ね。貴女もそう思うでしょ?」
「まぁ昔からああいう奴だから」

楓の木の横、白狼天狗の少女が首をすくめて、すぐに消えてしまった。









【 歩け! イヌバシリさん ~ last episode ~ 】






一週間が経ち、この日、重鎮達による一回目の会合が行われた。

「どうでしたか?」
「あんまり良い流れじゃないわ」

夕方、哨戒を終えて大天狗の屋敷にやってきた椛に大天狗はそう告げた。
4割が『しょうがいない』と言ってダムに賛成。3割が反対。残りが無回答な状況だと説明した。

「ダムの代案として、排水用の水路を新たに設けて一番近くの川と繋げるって案を出したけど。これから計画を立ててたんじゃ雨期に間に合わないって反対されたわ」

ダムは設計図がすでに出来ているため、道具と資材さえあればすぐに着工可能な状態だった。
堰止めをするための巨大なコンクリート壁を、窪地に一枚設けるという工法は、外の世界では重力ダムと呼ばれているものらしく、今回の規模なら短期間低コストで行えるらしい。

「代案があれば、老害を言いくるめられると思ったけど、アイツらあれこれ理由をつけてダム建設に持ってこうとしてるのよ。よっぽど沈めたいらしいわ」

いけ好かない連中の顔が浮かんだため、頭を軽く振って思考から追い出す。

「私にも何か」
「残念だけど、何も無いから。大人しくしてて。あの土地の過去を知る白狼天狗が出てくると、事態がややこしくなるから」
「しかし…」

当事者でありながら、何も出来ないことに小さな憤りを感じ、袴を強く握る。

「モミちゃん、ここ最近ダムのことで頭が一杯でしょ? 無理も無いかもしれないけど」

不安でろくに睡眠が取れていない事は、表情を見ればすぐにわかった。

「お小遣いあげるからさ、今日くらいそれでパーッと遊んできなよ。気晴らしになるよ?」

がま口財布を取り出して椛の前に置く。
辛いことを一瞬でも忘れさせるための、大天狗なりの気遣いだった。

「有りがたい話ですが、結構です」
「じゃあ私と一緒に逆ナンしに行こう。たまにはお洒落して男と遊べば? 楽しいわよ?」
「それは大天狗様が行きたいだけでしょう?」
「大天狗お姉さんに逆らうとは良い度胸。こうなったら意地でも付き合ってもらうわよ。うりゃー!」
「おわっ!」

大天狗が椛にじゃれつくように飛び掛り、押し倒して馬乗りになる。

「さあ可愛くなっちゃいなさい!」

椛を片手だけで押さえつつ、化粧品が入った小箱に手を伸ばす。

「これなんてどう? 外の世界でしか作られてない口紅。あの八雲紫も愛用するっていう超レア物よ?」

キャップを外して椛の唇に近づける。

「モミちゃんなら、口紅塗るだけでだいぶ印象変わると思うんだけど?」
「どいてください! 私には必要ないですから!」

本気で嫌がる椛。

「薄く塗るだけ! 先で軽くなぞるだけだから!」
「いいですってば!!」

「失礼します。お茶が入りまし…」

二人にお茶と和菓子を届けに来た従者が襖を開けた。
そして固まった。

「(口紅の)先っちょだけ! (口紅の)先っちょだけだか……ん?」
「いくら大天狗様でも怒りま……ん?」

「…」

従者の目が合う。

「お、お邪魔しました!!」

従者は慌てて襖を閉めようとする。

「待ちなさい!」

閉まる直前の襖に大天狗が足がすべりこませる。

「そうですよね! 『誰も近づけるな』っていったら普通そういう意味ですよね!? すみませんでした!」
「待ちなさい! アンタは何か重大な勘違いをしてる!」
「な、何も見ておりません故! ごゆるりと続きを! 先っちょといかず根元まで!」
「違うから! 私とモミちゃんはそういう関係じゃないから!!」
「某、そういうことに理解はありますからご安心を!」
「だーかーらー! 私とモミちゃんはそういうんじゃなくて…」
「椛殿って牛若丸と雰囲気が似てますもんね!」
「昔の男の名前出してんじゃないわよォォ!!」

大天狗と椛、二人掛かりの説得により、その三十分後に従者の誤解は解けた。







天魔の屋敷。
会合を終えた天魔が帰ってきた。

「帰ったぞ」
「お帰りなさいませ天魔様」

女中が出迎えた。

「はたてはどうしておる?」
「天魔様の御言いつけ通り、奥から三番目のお部屋で修行されておりますが」
「また居眠りなどしとらんだろうな?」
「半刻ごとに様子を伺いましたが真面目に取り組まれておりましたよ」
「そうか」

怠け癖があるのか、目を離すとすぐ楽をしようとする傾向があるため、定期的に見回りするよう彼女には伝えておいた。
荷物を預け、はたてが修行する部屋に向かう。
襖がはじめから開け放たれてあるお陰で、わざわざ覗き見をしなくてもはたての姿が見えた。

はたては部屋の真ん中で正座し、目の前に置かれた岩に傾注している。

「ふー」

小さく息を吐いてから、目の前の岩に手を翳す。念写をする要領で妖力を込めると岩が小さく震え始めた。
震えは徐々に大きくなり、やがて生きているかのように岩が跳ね始めた。

「もうだめ。疲れた」

突然、糸が切れた人形のように、はたては横向きに寝転んだ。
岩もそれきり動かなくなった。動いたのはせいぜい十秒程度だった。

「今戻ったぞ」
「え、あ、て、天魔様!? お、お帰りなさいませ! こ、これは別にサボっているわけじゃ…」
「案ずるな、ちゃんと見ておった。今日はこれくらいにするか」

そう言って、はたての前にある岩を掴んだ。

「この岩は何なんですか? 普通の岩じゃ、妖力を篭めても動きませんよね?」
「この霊石は山の洞窟の鍾乳石を加工したものでな、妖力の干渉を受ける不思議な岩じゃ」

この岩を使い天魔は、妖術の基礎である『妖力を込める』という感覚を養わせていた。

「初めてにしては上出来じゃったぞ」
「そうですか?」
「だが、まだまだじゃ」

天魔は掴んでいた岩を宙に浮かび上がらせ、部屋を三周させてから最初の位置に戻した。

「これくらいは出来るようにならんとな」
「うう、頑張ります」

実はこの岩、動かすには繊細な妖力の制御を要求されるため、中級の天狗でも思い通りに動かすのに相当難儀する一品だった。
それをはたては初日で跳ねるところまでやって見せていた。
天魔は内心、はたての素質に大きな期待を寄せていた。

「片付けをしたら今日はもう帰っても良いぞ」
(あれ?)

この時はたては、天魔の様子が普段と違うことに気付いた。

「ひょっとして、疲れてますか?」
「ん、まぁ最近肩こりがな」

疲労の正体は今日の会議による心労なのだが、適当な事を言って誤魔化した。

「よろしければお揉みましょうか?」
「そうじゃな。では後で頼もうか」

どこか気恥ずかしそうに頬を掻きながら、自室に戻っていった。

「さてと」

はたては言いつけ通り、部屋の片づけを始める。







(この岩は土蔵だっけ?)

部屋を一通り片付けて、あとは庭にある土蔵に霊石を戻すだけとなった。
靴を履き、土蔵へ向かう。

「この場所で良かったっけ? うん良いはず、多分」

用途のわからぬ様々な道具が納められた土蔵。その片隅に岩を置いてその場を後にした。

「冷たっ」

土蔵を出てすぐ、はたての頬に冷たいものが触れた。
見上げれば鉛色の空から、申し訳程度の量の雪がぽつりぽつりと舞っていた。

「もうそんな時期なんだ」

寒い時間と温かい時間が混在する中間期の終わりを告げる雪が、はたての髪に触れては溶ける。

「寒いのは嫌だなぁ、暑いのも嫌だけど」
「同感ね」
「…静葉さん」

屋敷の門の下に古武術の師範をしてもらっている秋静葉が来ていた。

「今日も鍛錬かしら? 精が出るわね」
「天魔様に御用ですか?」
「いいえ。はたてさんによ」
「私に?」
「冬も本格的になってきたからお別れを言いに来たの」

別段、冬眠するというわけではないが、次の秋まで殆ど家に篭りきりになるため、世話になった相手に姉妹で手分けして挨拶回りをするのが、毎年の恒例だった。

「じゃあ、天魔様も呼んで来ますね」
「いいのよ。天魔様からは『自分の所に挨拶は不要』ってずっと昔に言われてるの。あの人はあの人で色々と思うところがあるみたいで」

手に平に落ちる雪を寂しそうに見つめながら静葉は言った。

「ごめんなさいね。貴女にもっと秋式防衛術を教えたかったのだけれど」
「すごく、残念です」

ようやく静葉の特訓にも慣れて、これから本格的に鍛えてもらえる矢先の、突然の別れだった。

「静葉さんに鍛えてもらえば、自分にもっと自信が持てると思ってたんですけど…」
「はたてさん、貴女は何歳の頃に、夜道を一人で歩けるようになった?」
「えっと」

急な質問に、はたては考え込む。

「十二歳くらいかな? もっと遅かったかも」
「生まれて初めて、勇気を出して自分の意思で夜道に一人で足を踏み入れた時の事を覚えてる?」
「なんとなくですけど」
「その時の気持ちを思い出せば、どんなものにでも挑戦できるはずよ」

静葉ははたての胸を指差した。

「貴女には才能がある。そしてその才能を発揮するための力を、天魔様との鍛錬でしっかりと身につけた。あとは覚悟だけ」
「覚悟?」
「そうよ。『体』『技』は揃ってる。あとは『心』がちゃんと定まれば、この体は貴女の期待に応えてくれるわ。暗闇にも恐れず踏み込む勇気と覚悟を持ちなさい」
「踏み込む…」
「ちなみに、秋式防衛術の戦闘理念は『不当な攻撃には正当な報復を』よ。覚えておいて」
「すっごいカウンター狙いな理念ですね」












静葉と別れを交わして、天魔の書斎までやってくる。

「失礼します」

襖を開けると、子供用の脚が短い机に向かい、同じく子供用の椅子に座って書類に判を捺す天魔の姿があった。
何も知らぬ者が見れば、子供がお絵かきをして遊んでいるようにしか見えない。

「門で話声が聞こえたようじゃが?」
「静葉さんが、今年のお別れを」
「そうか。道理で今日は冷えるワケじゃ」
「どうして挨拶はいらないんですか?」
「歳を取ると別れという言葉に敏感になってしもうてな。お二人の気持ちを無碍にするようで悪いとは思っているのじゃが」

古の時代から多くの同胞を見送ってきた天魔。
山が静寂に包まれるこの時期に別れの言葉を聞くと、嫌でも死別という単語が頭に浮かび、過去の辛いことが思い出された。

「肩、お揉みしますね」
「そういえばそんな話をしておったな。では頼む」

口ではそう言いつつも、その言葉をしっかりと覚えており、楽しみにしていた天魔。
仕事中はまだかまだかと足をずっとバタつかせていた。

「気持ち良いですか?」
「悪くない。このまま続けてくれ」
「良かった。誰かの肩を揉むなんてこと殆ど無かったから」
「親の肩は揉まなんだのか?」
「二人とも早くに死んじゃいましたから」
「すまん」
「いえ」

気まずい沈黙が、二人を包む。

(空気が重い、何か話題を振らねば)

この空気を変えるため、ふと気になったことを彼女に投げかけた。

「ところでお主。付き合っている男はいるのか?」
「……いません」
「そうか」

再び沈黙。

(まずいぞ。また止まってしまった。何でも良い。話を続けねば)

この直後、苦し紛れの放った言葉を天魔は後悔することになる。

「なら見合いとかせんか?」
「ふぇっ!?」

まったく予期していない言葉に、はたての手に自然と力が篭る。

「まだ早いと思うがの、お主もいずれ嫁ぐ身じゃ。今の内に男を見る目を養っておいて損は無いぞ? いやな。決して孫…じゃなくて、お主の子の顔が見たいわけではなく…イデデデデデ!!」
「お、お見合いだなんてそんな!」

取り乱したはたての手が、天魔の肩を無意識の内に握り締めていた。

「いだだだだだだだだだだ!!」
「そ、そもそも私、誰かと付き合ったことすらまともに…」
「あだだだだだだだだ!!」
「結婚っていったらアレですよね! 当たり前のように手を繋いで、当たり前のようにキスなんかして、当たり前のように夜を…」
「ぎゃオオオオおおおおおおおおおおおおおおお!!」

鍛えられ握力が段違いに向上した手は、天魔の無防備な肩に深刻なダメージを与えていた。

「じょ、冗談じゃ! 少しからかっただけじゃ! 真に受けるでない!」
「そ、そうですか。良かった」

はたての手から力が抜ける。

「おごぉぉぉぉ…」

ようやく開放され、机に突っ伏して小さく悶える天魔。
冷静さを取り戻したはたては、自身のしでかしたことを理解する。

「あの、その…ごめんなさい」
「気にするな、からかった儂にも非はある。雪が本降りになる前に、今日はもう帰ると良い」
「はい、では失礼しますね」
「気をつけてな」

はたてが部屋を出るのを見届けてから、全体重を椅子に預ける。

「何をやっておるのじゃろうな、儂は」

天魔は恐れていた。はたてがいなくなり、自身の血縁者が途絶えることを。
はたてを失うのは怖い、同時に血縁者がいなくなり、自身に近しい者が消えることも無意識の内に怖れていた。
だから見合いの話を出し、世継ぎなどというば馬鹿げた話題を口走ってしまった。

「はたての生涯に、儂がどうこう口出しするなどお門違いも甚だしいわい……しかし、はたての旦那か、想像もつかんな」

あの極度の人見知りを娶る男が果たしているのかと妄想を巡らせる。

「顔は良いからのう、性格が今よりもっと明るくなれば、引く手数多になるじゃろうな」

男と付き合うはたての姿は何とか想像できた。次はどんな男なら彼女を任せられるかを考える。

「儂よりも強い男でなければ、交際は認められんな」

はたてに交際相手が出来るのは、まだまだ先のようである。
















天魔の屋敷を去ったはたては、椛の家の玄関をノックしていた。

「椛ー」
「いらっしゃい。そろそろ来る頃だと思ってましたよ」
「どうしたのその唇? 赤いよ?」
「何でもありません。干し肉と間違えて朱肉を噛んだだけです」
「どんな状況?」

天魔と『椛から一本を取れれば 本格的に剣の稽古をつける』という賭けをしたはたては、一週間ほど前から椛に挑んでいる。
最も、今のはたての腕前では挑む以前の問題であるため、椛から上達のための稽古をつけて貰っている状態である。
毎日とはいかないが二日に一回ほどの間隔で二人は会っていた。

「少し歩くと開けた場所があります。今日はそこでやりましょう」

『どんな足場でも剣が振れるように』という椛の持論から、鍛錬の場所をいつも変えていた。

「え? やるの? 雪降ってるのに?」

はたては椛の勉強だけを見るつもりでやって来ていた。
この天候ではやらないと思ったが、どうやら椛には関係ないようだ。

「雪が降ってきて寒いから、なんて理由で敵は待ってはくれませんよ?」
「私が敵なら雪降ってる日は休む」
「まぁまぁ。寒い時の体を動かし方は、知っておいて損はありませんから」

前回の稽古ではたてが家に置いていった木刀を持って玄関から出た椛は、今日の練習場所まで案内する。

「じゃあまず素振りからいきましょうか」
「昨日は家で鏡を見ながら振ったから、フォームは良くなったと思う」
「それは楽しみです」

その自主錬の成果を見せるべく三十回木刀を振る。

「どう?」
「…」
「なんで顔を手で覆うのっ!?」
「今日は寒いですし。まぁ…」
「やめてそういうフォロー!」

大勢からその才能を期待されているはたてだが、何故か剣術という部門においては全くと言って良いほど素質が無い。
仮に十年続けても、半年稽古しただけの白狼天狗の子供に勝てるかどうか怪しい。





「そういえばコレってどう思う?」

練習メニューを一通りこなした後、椛が見ている前で、握っていた柄を180度回転させ持ち変えた。

「逆手持ちですか?」
「変かな?」

以前、文に詰められた時に咄嗟に振った逆手。

「意外としっくりくるんだけど。片手で持つからカメラも一緒に持てるし」
(素人が逆手か)

逆手の長所と短所を知り尽くしている椛としては、はたてに薦められる型ではなかった。

「なんか皆して真手の評判が悪いみたいだから」
「だから逆手持ちの方が適正があると思ったのですか?」
「そうだよ」
(よし、諦めてもらおう)

生兵法は怪我の元という諺があり、戦場においてその言葉が正しいことを経験している椛は、即刻止めさせようと思った。

「では今から私の攻撃を防いでみてください」
「え?」
「大丈夫、寸止めにしますから」

了解も得ず、椛は飛び掛った。

「ヤァッ!」
「わ!」

不意打ちに近いそれを、はたては咄嗟に受け止めた。

「お、止められてる?」
「器用なのか、不器用なのか、相変わらずわからない方ですね貴女は」
「それって褒めてるの?」

思わぬ収穫を得た後は、勉強の時間に移った。
ここで二人の師弟関係は入れ替わる。





「できました」
「じゃあ採点するから待ってて」
「お願いします」

一週間ほど前、はたてが天魔と賭けをしたのと同時期に、椛は大天狗から隊長昇格試験を受けるよう命じられた。
試験内容は実力と学力を測るのだが、椛はこれまで学問とは無縁の生涯を歩んできたため、はたてに教えを乞う事にした。
椛が剣術をはたてに教え、はたてが学問を椛に教えるという、持ちつ持たれつの関係が成立していた。

(うん、前に間違えた所がちゃんと直ってる)

この調子なら、昇格試験までになんとかなりそうな気がした。

(椛は上達してるのに、私はなぁ)

不甲斐ない自分に対して、思わず溜息が漏れる。
この時ふと、今日静葉と会話した内容が脳裏を過ぎった。

「ところで、椛は何歳の頃に、夜道を一人で歩けるようになった?」

ただの好奇心で訊いてみた。

「物心がついた頃にはすでに歩いていたような気がします」
「そうなんだ。私なんて十二歳くらいまで、怖くて夜道を歩けなかったよ。夜道が怖くなくなるまでとても時間が掛かった」

少しずつ出歩く回数を重ね、慣れていくことで恐怖を薄れさせていたのを思い出す。

「やっぱり椛はすご…」
「すごいですねはたてさんは」
「なんで?」
「私は今も怖いままですから」
「え?」

意外な言葉だった。

「歩く時、あの暗闇の中から自分を害するモノが飛び出してくるのではないか、食い殺そうと待ち伏せしているのではないかと、この歳になっても不安でたまりません」

実際にそれに似た経験があるのだろう。
だから夜道に対してそのような恐怖を抱き続けているのだとはたては思った。

(苦労してるんだなぁ、私と違って)
「はたてさんは優しいですね」
「どうして?」
「白狼天狗に親身になってくれる鴉天狗なんて、はたてさんくらいですよ」

その表情から、彼女が何を考えていたのかを椛は読み取っていた。

「はたてさんみたいな方がこの山の幹部になってくれれば、私達が肩身の狭い思いをしなくても済みそうなんですがね」
「私なんかより、文の方がよっぽど白狼天狗のことを考えてるよ……あ、そうだ」

文の名前が出たため、椛に尋ねることにした。

「そういえば最近、文に会った?」
「いいえ。はたてさんは?」
「私も全然」

両者とも、とある一件で文と顔が会わせ辛くなっていた。
一週間以上、文とは会話をしていない。
山で偶然文を見かける事が何度かあったが、話しかけようかどうか迷っている内に、文は姿を消してしまっていた。
お互いがお互いを避けているようで、後味が悪かった。

「次見つけたら、話かけてみるね」
「私もそうします」

お互いにそう約束を交わして、はたては途中だった採点を再開させる。

「ん? 椛。この問題の回答なんだけど」
「どうしました?」
「歴史の『彦山豊前坊が生前残した有名な言葉は?』って問題」
「ああ『盛りのついたブスほど厄介なものは無い』って答えた問題ですか?」
「わからないからって、テキトーに書いちゃダメだよ」
「真面目に答えましたよ? 生前、あの方の口癖がそれでしたし」
「違うよ。『天狗はいつの時代においても常に最新、最強たれ』だよ」
「そんな馬鹿な」
「常識的に考えたらそうだよ……あれ?」

問題の解説欄に注意書きがあるのに気づく。

「他の回答として『盛りのついたブスほど厄介なものは無い』も可って小さい字で書いてある」

さすが大天狗様が監修してるだけあった。



守矢神社。
はたてが椛の採点を行っている頃。文は守矢神社にやって来ていた。
今日行われた会合の内容を神奈子に報告するためだ。

「ダム賛成派が増えました。良い展開です」
「どうしてそんな事わかるの? 会議所には近づけないんでしょう?」
「こう耳を傾けていると、風が声を運んできてくれるんですよ。風を操れば、どんな遠くの音だって拾えます」

耳を欹(そばだ)てる動作をしながら、自信満々に言い放つ。

「ダム賛成派は『低コスト』と『短期間』を売りにダムを推しているようですね」
「まぁ小規模な重力ダムだからね。設計図があるから、あとは人数しだいよ。気掛かりなのは樹海を彷徨う怨霊達ね」
「怨霊ですか?」

以前、あの樹海で出会った白狼天狗の少女の霊を思い出す。
怨霊と呼ぶには余りにも可憐な少女だったが。

「あそこにはこの山に恨み辛みを残して死んだ白狼天狗の怨念で溢れている。それを放置したままダムを完成させたらどんな厄災が起こるかわからないわ」
「何か対策は?」
「なぁに、地鎮祭をやれば追っ払えるよ」

神奈子ではなく、彼女の隣にいた諏訪子が答える。

「ただ、形式だけで済ませる普通の地鎮祭じゃアレは祓えない、本格的にやる必要がある。それもこっそりと」
「こっそりですか?」

過去の悪行を掘り起こされたくない天狗の重鎮に『ここに眠る大量の白狼天狗の霊を鎮めたいから、そのための地鎮祭をする』と伝えたら、話が拗れるに決まっている。
だから承諾を得ずにこっそりやってしまうつもりでいた。
諏訪子の言葉に大きく頷いてから、神奈子は口を開く。

「やるならダム開発が決まる前に実行したい。開発が始まればあの土地で大げさなことは出来ないからね」
「もしも投票でダム反対の結果が出たら、ただの徒労ですよ?」
「構わないよ。この山はいずれ私達が中心になる。そんなとき、すぐ近くにあんな穢れた場所があったら不愉快で仕方が無い」
「…」
「お、神奈子。コイツ何か言いたそうな顔してるよ?」
「別に何も。では、私はこれで」
「他に奴に勘付かれるんじゃないよ」
「心配御無用」

雪が降りしきる中、傘もささずに文は飛び去っていった。

「どう思うアイツ?」

諏訪子は神奈子に、文が信用に足る存在かを尋ねた。

「首に鈴はつけてあるわ」
「お前が思っている以上にアイツは優秀だよ。鈴を鳴らさないで歩くくらい、ワケないと思うけど?」
「もちろん用心はしている。しかし裏切りがバレて一番都合が悪いのは文よ」
「そりゃあそうだけどさ」
「天狗一匹が出来ることなんてタカが知れているわ」
「神奈子がそこまで言うなら別にいいさ」

諏訪子が顔を上げる。
文の姿はもう見えない。




「さて。ちゃんと録音できてるでしょうか?」

飛びながら鞄に手を入れて、小さなテープレコーダーを取り出し、耳に近づけて再生ボタンを押した。
先ほど二柱した会話が鮮明に聞こえた。

「うん、今回もバッチリですね」

満足げに頷き、加速した。














神社を出た文は樹海までやって来た。

(今日も、会えませんかね)

椛の先輩を名乗る少女の霊に会って以来、文はここに何度も足を運んでいた。
しかし一度会ったきり、それから彼女とは再開を果たせていない。

(あれは私が見た幻覚だったのでしょうか)

情緒不安定な時に自分が見た幻。そう考えたら、本当にそんな気がして堪らなく不安になる。その時だった。

「ここは立入禁止って言ったじゃないか鴉天狗さん」
「ッ!」

大げさとも思える動作で声がした方を向く。

「こんな寒い日に来てくれたのに、居留守使うわけにはいかないからね」

可愛らしい笑みを浮かべた白狼天狗の少女が倒木に腰掛けていた。

「まあ立ち話もなんだし、座んなよお姉さん」

肩にかかるしなやかな銀色の髪を揺らしながら、隣を叩いて座るよう促す。
畏まりながら文はそこに座った。

「で、何? ここ沈めちゃう系?」
「大昔に死んだ人が今風の言葉使わないでくださいよ」
「それで沈むの? 沈めないの?」
「沈むと思います、今のままだと」
「そっか…」
「やっぱり怒ってますよね?」
「私はそれほどでも無いけどね、他はわかんないな」
「他ですか?」

白狼天狗の少女は地面を指差した。

「そう。この土地の地面を一枚剥がすと、そこはもう魑魅魍魎の坩堝(るつぼ)さ、無念や苦痛、恨みや後悔の念を抱えた怨霊がわんさかいる。
 ここをダムにするのなら、そいつらをなんとかしないと。でなきゃ水難事故ワースト1位の名所になるだろうね」
「二柱もその事は察知しております。きっと近いうち、二柱によってここの怨念は全て祓われるでしょう」
「まあ私自身ただの残留思念だし、本当の私の魂はとっくの昔に消えちゃってるから、今更消えることに恐怖は無いから良いけど」
「失礼を承知で一つ訊いてもいいですか?」
「ドンと訊いとくれ。生前のスリーサイズや経験人数、なんだって答えちゃうよ。まあ経験人数って言っても、プライベートより仕事で股開いた数の方が多いけど」
「先輩さんはどのような最期を迎えたのですか?」
「本当に失礼な事訊くね。ちょっと引くよ」

その言葉通り、尻一つ分文から遠ざかった。

「別に話してもいいけど、面白くないぞ?」
「構いません」
「えーと、どういう状況だったっけ……ああ、そうだ大天狗の命令で、不正商人を椛と一緒に始末した時だ」
「椛さんも一緒に?」
「強かったぞあいつは。何度も一緒に仕事したけど、アレにはゾッとする怖さがあった。死んでも戦いたくないね」

椛が居たから色々な修羅場を抜けられたと彼女は思う。

「おっと話が脱線したね。それで、その不正商人を始末する時に深手を負っちゃってさ。これから医者に行くって時に大天狗が現れた。私達を始末しに」
「なぜ貴女方を? 依頼主じゃないですか?」
「元々、大天狗は私等を商人殺しの下手人として、抹殺するつもりだった。よく考えればわかる事だった。権力を持ってた偉い商人が殺されて、それが迷宮入りになったってんじゃ、大天狗の沽券に関わる」

だから犯人をちゃんと用意しておく必要があった。

「その時に大天狗が椛にこう言った『そいつを差し出せばお前は見逃す』って。きっと大天狗様なりの慈悲だろうね」
「それじゃあ椛さんは先輩を?」
「違う違う。椛はそんな薄情な奴じゃない。私は自分の意思で椛の肩から離れた」

そして彼女は絶命した。

「私の死体は裸にひん剥かれてから、商人の家の前で磔の晒し物にされて、ウジが湧くようになったらこの樹海に捨てられたよ」

だから彼女の霊はここにいる。

「…」

自分の最期を明るく語る彼女に、文は言葉を失う。

「ダムの償いは必ず」
「よしとくれ、死者に供え物をする以上に無駄なことなんて無いよ。私はむしろ、ここがダムに沈んでも良いとさえ思ってる」
「何故ですか?」
「あいつ、たまにココに来るんだけどね。いーーつも思いつめた顔してんだよ。昔のことを何時までも引きずってる。後ろを向いて、後ろ向きに歩けば、一応前には進めるけどさ。やっぱ前見て歩いた方が楽しいじゃん?」

椛にとって、ここは過去の象徴である。樹海が無くなればひょっとしたら前を向いてくれるかもしれないと彼女は考える。

「死後、椛さんに会ったことは?」
「無いよ。会えるってわかったら、自殺してコッチ側に来るかもしれないから」
「どうして椛さんにそこまで?」
「後輩の面倒を見るのが、先輩の務めだからね」

彼女と会話をすればするほど、椛がこの少女に心を惹かれた理由がわかった。

「残念です。もし貴女が生きていたら、良い友人になっていた気がします」
「私が生きている未来っていうのは、椛が死んじまってる未来だよ。あの時はどっちかが死なないと生き残れない状況だったから」
「それはそうですけど」
「私と椛、どっちが生きていた方が良かった?」
「そりゃあ椛さんですね。貴女のような積極的な性格の方では、はたてが萎縮してしまいます。何より私自身、椛さんが居なければ変われなかった」
「それで良い。無いモノねだりは虚しくなるだけだ」

悪戯が成功した子供のように笑うと、彼女は姿を消した。

「さて、行きますか」

彼女に会えるのは、今日がもう最後のような気がした。























一回目の会合から、さらに一週間が経過した。
この日が最後の会合となり、あとは来週の投票日を控えているだけだ。

日の沈みかけた夕暮れ時、早苗は神社の灯篭の蝋燭に、火を灯して回っていた。
最後の灯篭に火を着けたのを見計らい椛は声をかけた。

「こんばんわ」
「あら椛さん」

神社に来る前、今日行われた会合の結果を大天狗に聞きに行った椛は、ますます状況が芳しくないことを聞いた。ダム賛成派がついに5割に達したらしい。
その事実に居ても立ってもいられなくなった彼女は、自然と足を神社に向けていた。

「神奈子様、諏訪子様はいらっしゃいますか?」
「生憎と今お出かけになって…」
「わっ!」
「きゃっ!?」

早苗の両肩を、突然現れた諏訪子が掴んだ。

「たーだいま早苗ー♪」
「もぅ、びっくりしたじゃないですか」
「ごめんよ、早苗が可愛いもんだからつい、ね」

諏訪子に続き、神奈子も姿を表す。

「帰ったよ早苗」
「神奈子様もお帰りなさいませ」
「おや、こりゃまた珍しい客だね」

全てを見透かしたような目で椛を見る。
さっきまで二柱は文と人目に着かない場所で会っており、今日の会合の結果を聞いていた。

「上がっていきなさい」

椛は社務所の一室に通された。
神奈子と諏訪子は和室の上座であぐらを掻き、椛は下座で正座する。

「来た目的はわかるわ。ダムの件ね?」
「なぜあの場所を選んだのですか?」
「失礼だな。その言い方だと、まるで私達が放火したみた…」
「理由は色々とある」

とぼけようとした諏訪子の言葉に、神奈子の声が被さった。

「おい神奈子!」
「構わないわ。明確な証拠が無い限り、天狗は私達をしょっぴけない。私達がコレに何を話そうと、後で『冗談だった、からかっただけだ』と言えば全てうやむやになる話よ」

その余裕から、神奈子はあっさりと自白したのだ。

「理由とはなんですか?」
「あの樹海は山の暗部だから。ダムに沈めたいと思う重鎮と、思わない重鎮が出来て、そいつらが内部対立するかもしれないでしょう?」
「仲違いさせる為だけに山を焼いたのですか」
「もちろんそれだけじゃないわ。ダムが出来れば私等の技術力を誇示できるし、ダムが観光地化して人間が見物しに来るようになればもっと信仰が得られる。良いこと尽くめよ」
「そんな事の為に…」

相変わらず、自分達の都合で平気で他者を踏みにじるこの神社のやり方に、怒りがこみ上げてくる。

「その顔。お前さんはダムに反対のようね」
「当たり前でしょう」
「もし、ダムに沈まない方法が一つだけあるとしたらどうする?」
「あるんですか!?」

思わず身を乗り出した。

「簡単よ。この山に住むすべての天狗が私達に心の底からひれ伏せば良い。そこから生まれた膨大な信仰を使えば、土着神の力をもってこの山を水害から守ることなんて造作も無いわ」

そうなればダム自体が必要なくなり、樹海は現状の姿を保てる。

「そんなこと不可能に決まっているでしょう」

期待して損したと、すぐ脱力した。

「ところでこれ、覚えているかい?」

神奈子との会話が途切れると、諏訪子は彫刻刀を取り出した。
それを見た時、全身の毛が逆立った。
かつて二柱に、天狗社会を裏切り仲間になれと言われ、断る度に生爪を剥がされた。その時に使われた凶器だった。

「あの時、神奈子がお前を勧誘したのは、このダム計画があったからさ」

神奈子は椛を広告塔にしようと考えていた。

「山火事が起きて、神奈子がダムの提案を大天狗に持ちかけてすぐ、お前さんの生い立ちと、あの樹海の過去を天狗社会に暴露して、天狗社会を引っ掻き回してやろうというのが当初の予定さ」
「あそこに埋まってる白狼天狗に同情した連中を大勢こっちに引き込んで、そいつらから得た信仰で、水害を必要最低限防げる土地に強化、それでダムが不要になるっていう感動のシナリオを用意してたんだけどね」
「馬鹿だねぇ、あの時こっちに寝返っておけば、故郷が守られてたのに」

真面目に話す神奈子の横で、意地悪く諏訪子は笑う。

「そんなお前に最後のチャンスだ」

諏訪子は彫刻刀を椛の前に放った。

「それで目ん玉エグり出せ。そうしたらダム計画を中止にしてやるよ」
「おい諏訪子、何を言って…」
「いいじゃないか。千里先が見られる目、神の供物・生贄として、かなりの上物だと思うよ?」
「…二言はありませんね?」
「いいからさっさと抉れよ」

刃先を見つめて、深呼吸を繰り返す椛。
椛が息を止めた瞬間、彫刻刀の刃先が錆びて崩れ落ちた。
神奈子が溜息を吐く。

「諏訪子なりの冗談よ、真に受けちゃ駄目。もう帰りなさい」

神奈子は立ち上がると部屋を出る。

「そんな濁った目なんかいるかバーカ」

諏訪子がその後に続いた。

椛を残し、二柱は部屋を出て行った。
二柱は並んで廊下を進む。

「私が刃物を壊さなきゃ。本当に目玉をエグり出してたわよ」
「別に良いだろあんな奴どうなっても。それよりもあの彫刻刀、早苗のだったんだぞ?」
「たまにアンタとは会話が成立しないね」
「お互い様だろそんなの」

険悪な雰囲気のまま、早苗が夕飯の支度をする台所へと向かった。













社務所を出て、神社の石段を下ると、そこで椛を待つ人物がいた。

「守矢神社に行くとか何考えてるの?」
「…いてもたってもいられず。すみません」
「まあいいわ」

意気消沈した椛を見て、大天狗はそれ以上言えなかった。

「やはり監視されてたんですね」

落葉した杉の木の枝にとまっているカラスを見る。
椛の視線を受けると、カラスは逃げるように飛び去っていった。

「うん、モミちゃんは今回、私の中ではマーク対象だから。ごめんね」
「いえ」
「私、夕飯まだだから付き合ってくれる?」
「生憎と今は素寒貧です」
「いいよ。出したげるから」

神社から天狗の集落に向かう途中に、ぽつんと立っている屋台があり、大天狗の足がそこで止まった。

「お忍びで使う屋台よ。大将も信用できるし、滅多に客も来ないから天魔ちゃんと内緒話をする時とかに良く使うの」

暖簾をくぐり大将と目が合う。年老いた風貌の鴉天狗だった。
初めて見る天狗だが、彼から漂う雰囲気で現役の頃はそれなりの地位に居たのだと推測できた。

「二柱とは、何を話してきたの?」
「ダムは本当に必要なのかを訊いてきました」
「それで?」
「天狗社会に揺さぶりをかけるのが最大の目的だと。そしてダム建設が決まれば山に守矢の力を誇示でき、人も集まるため願ったり叶ったりだと」
「ほんっとに知能犯ねあいつら」
「このままじゃ本当に…」

大天狗は椛にずいっと近づき、とっくりを差し出した。

「呑んで忘れちゃいなさい、今だけでも」
「しかし」
「四六時中、同じことばかり考えてちゃ、身が持たないわよ?」
「…いただきます」

少し迷ってから、お猪口に注がれた酒に軽く口をつける。

「良い香りですね」
「でしょ? 防腐剤とかまったく使ってない高級な生酒よ。悪酔いしないからドンドンいっちゃいなさい」
「じゃあもう一杯」
「そうこなくちゃ。大将、魚焼いて。あとはお任せで適当に」
「へい」

それから二人は会話もそこそこに、質の良い料理に舌鼓を打つ。
ひとしき食べ終え、腹が膨れた頃、椛は大天狗から視線を向けられているのに気付いた。

「どうしました? 私の顔なんてそんな珍しいものじゃないでしょう?」
「いやね、モミちゃんと初めて会った時のことを思い出してたの」

橋の下で痩せ衰えていた白狼天狗の少女。蝿がたかり、最初見た時は死体だと思った。
当時の彼女なら、たかが白狼天狗と見捨てていたが、その時にふと、数週間前に全滅した白狼天狗の集落のことを思い出した。
その件に間接的に関わっていたという負い目から、思わず彼女を拾い上げていた。
彼女を哨戒部隊が泊まる詰所に雑用として預けたのだが、まさかその後、自身が秘密裏に運営していた組合に入ってくるとは思いもしなかった。

「あの時の子がずいぶんと大きくなったなーって」
「感謝してますよ大天狗様には」
「でもって、恨んでもいるでしょう? 死んだ方がマシだって思えることを一杯させてきたし」
「…」

しばしの沈黙。
少し間をおいてから、椛は空になったとっくりを持った。

「もう一本、開けてもらってもいいですか?」
「そうね、今日はどんどん飲もう。大将、大瓶一本開けちゃって。あとそれに合いそうなツマミ見繕って」



数十分後。



「だーかーらーいいですかー大天狗様!」
「ひっ!」

すっかり出来上がった椛はドンとテーブルを叩いた。

「この際だからはっきりと言いますけどねぇ! その身長じゃモテませんよ! なんですか7.5尺って! 斬馬刀ですか!」
「んなこと言ったって、これでも一族の中じゃ低い方だし、親戚からよく『小さくて可愛いね』って…」
「その身長で小さいって煙突ですか貴女達の祖先はッ!?」
「ち、違います。れっきとした天狗で…」
「知ってますよんなこと!! 真面目に答えないでください!!」
「うひーモミちゃんが意外と酒乱だー、言ってることがメッチャ理不尽だー」

真っ赤な顔の椛に、戦々恐々とする大天狗。

「もっと色々と言わせてもらいますけどね!」
「はい、はい」
「貴女様はいつも~~~フニャ」
「えっとモミちゃん? どったの?」

テーブルに突っ伏して、椛は寝息を立てていた。

「寝てる?」

絡んできた酔っ払いが潰れて、ようやく緊張から開放される。

「あーびっくりした」

一人、残った酒をお猪口を傾けた。

「この世に大天狗様にあんな口がきける者がいたんですね」
「きっとこの子だけだろうね」

洗い物をしていた大将がそう言った。その額には冷や汗の玉がいくつも滲んでいる。
椛がいつ大天狗に殺されるのかと、気が気でなかった。
大天狗が最も気にしている身長のことを指摘して、無事でいた天狗を見たのは初めてだった。

「付き合ってよ大将。一人で飲むほど寂しいことは無いわ。せっかくだから酔っ払った大将も見せてよ」
「ご勘弁願います。大天狗様の隣じゃ、樽で飲んでも酔えませんよ緊張して」
「むー」
「それが出来るこの白狼天狗は、一体何者なんですか?」
「何者なんだろうね?」

大天狗は首を傾げた。拾う前の椛のことを何一つ知らなかった。




河童の集落。
酔った椛を大天狗が負ぶって岐路に着いたその頃。

「にとりーー、いる?」

ノックしてから金庫のように分厚い鉄扉を開けるはたて。

「いらっしゃい……って、一人でここに来たの?」
「うん、そうだけど?」

今、二人がいるのは地下の工房。『誰にも邪魔されない空間』をコンセプトに、にとりが設計・建築した作業空間である。
そのため、ここに来るまでの通路には侵入者撃退のための罠がいくつも張り巡らされている。

「あの道を本当にたった一人で? 怪我一つ負わず?」

攻略される度に、より強固で強力で理不尽な装置を追加していった。
今のこの通路は、かつて三人で挑んだ時よりも格段に難易度が増している。
それを独りで突破してやってきた彼女に驚嘆する。

「私の最高傑作。クマ四天王を倒したの?」

クマ四天王とは、侵入者を殲滅するためににとりが最近開発した侵入者撃退ロボである。
怪力を誇り、ハチミツを原動力として動く熊乃風参。
緩急をつけた動きで相手を惑わし攻めに転じる理羅津熊。
音も無く敵の背後に忍び寄る熊門。
恐ろしい見た目とその口から放つ咆哮が敵を怯ませる眼論熊。
この四体、最高の布陣である。

「壊しちゃった。ごめん」
(変ったなぁこの子は)

出会ったばかりの頃を思い出す。

(自信が無さそうな態度は相変わらずだけど、俯かなくなったし。あとオーラっていうのかな? 徳が上がったというのか、よくわからないけど何か変った)

当初あった頼り無さそうな雰囲気はもうどこにも無かった。

「それで今日は何の用なの?」
「最近カメラの反応が悪いから、見てもらおうと思って」
「今やってるのがもうちょっとで終わるから、テキトーに掛けて待っててよ」
「うん、わかった」

腰掛けるのに程良い段差を見つけ、そこに腰を下ろす。
にとりは四角い箱の蓋を開け、作業を再開させた。

「そういえば最近バラバラだね。少し前まではいつも一緒に行動してたのに」

視線を手元の機械に固定した状態で、はたてに話しかける。

「何かあったの? 喧嘩したとか?」
「そういうわけじゃ無い……と思う」

姿を見せなくなった文、勉強中に時おり思いつめたような表情をする椛と、自分の知らない所で何かが起きていることはわかる。
それをわかっていながら、どうする事も出来ない自分の無力さを痛感する日々がここ最近続いていた。

「まぁ、三人がつるむ様になった最初の頃は、逆にそれが不思議だったけど。『なんで一緒にいるんだろう?』ってよく思ったよ」
「どうして?」
「だって三人とも、向いている方向がてんでバラバラだったんだもん」
「向いている方向?」
「椛は過去をずっと引きずってるみたいだし、文さんは今が良ければそれで良いってスタンスだし」
「私は?」
「なんというか『明日から頑張る』って感じだった」
「あー、否定できない」

過去ばかり見ている椛、今を重視する文、未来に期待するはたて。
天狗社会の過去と今と未来を象徴する三人のように、にとりには見えていた。

「階級も違う、価値観もずれてる、お互いの欠点を補いあってるわけでも無い。でも一緒に居る。本当に不思議な三人だよ」
「言われてみればそうだね」
「もうすぐ開発中のコピー機も完成するからさ、その時はまた三人で取材に来てよ。独占取材させたげるからさ」
「ありがとう」

そこで二人の会話が途切れ、にとりが機械をいじくる小さな音だけが、部屋に反響する。





「んーー、まぁ今日はこんなところかな」

機械の蓋を閉めてから、大きく伸びをした。

「待たせたね」
「うん」

はたてから携帯型カメラを受け取ると、それを様々な角度から眺め始めた。

「あー、こりゃ湿気のせいだね」
「直りそう?」
「楽勝」

そう言って、はたてが見ている目の前で、彼女の携帯を解体していく。
部品ごとにされた携帯型カメラは、盆に乗せられて風が吹き出すダクトの前に置かれた。

「しばらくこのままにしておけば大丈夫だよ。水分が完全に蒸発したら、また組み直すよ」
「どれくらい待てば良い?」
「2~3時間くらいかな?」
「けっこうかかるね」

外に出て、また戻ってくるにしても中途半端な時間だった。

「仮眠とったら? 時間も時間だし」
「え? あ、もうこんな時間なんだ」

部屋の時計の針は深夜を指していた。
思い返せば、ここに挑んだは夕方頃だった。

「布団ならあっちにあるよ」
「そしたらにとりの分が」
「私はいいよ。修理しておきたいやつがもう一つあるから」
「近くで見させてもらっても良い?」

まだたいした眠気も無く。工房も一通り見て回ってしまい、手持ち無沙汰になったはたては、にとりの作業を間近で見たいと申し出た。

「いいよ。火花が出る作業じゃないし」

はたてが作業台まで来てから、にとりは風呂敷をあけた。

「ハト時計?」
「うん、ウチの村長が長年使ってるやつだけど。調子が悪いみたいだからって修理を頼まれたんだ」

時刻が刻まれた板を外すと、中の歯車が露出した。

「だいぶ痛んでる部品があるな」

にとりは調子の悪そうな歯車を取り出すと、それを金槌で叩き歪みを直してから元に場所に戻し、最後に油を一滴垂らす。
その作業を繰り返す。

「新しいのと交換しないの?」
「軋んだ歯車でも、こうして治療して油を注せばまだまだ現役さ」

戻された歯車はにとりの指に押されると滑らかに回りだした。

「確かに、時計全体のことを考えれば、古そうな歯車は全部新品に変えた方がいいんだよ。そうすれば不具合を起す確立がぐっと減るからね。でも椛たち白狼天狗を見てると、どうもそういう気が起きなくて」
「椛?」
「うん。昔、酒の席で椛が愚痴ってたんだ『危険な任務に就いて、そのまま使い捨てにされかけた事が何度もある』って。本当か冗談か知らないけど」

その話が、にとりのモノ作りに取り組む姿勢に、少なからず影響を与えていた。
部品一つ一つを大事にすることがモノ作りとしての正しい姿だと今のにとりは考えている。

「ああ、でもこの子はもうダメだな。今までご苦労様」

歯の一部が欠けた歯車を外し、労うように一撫でしてから、『リサイクル箱』と書かれた箱の中に大事に置いた。

「捨てちゃうの?」
「捨てないよ。溶かせばまた使えるからね。歯車としての役割が終わっても、また別で活躍できる場をちゃんと用意してあげなきゃ」
「愛だね」

「天狗社会もさ、愛のある社会であって欲しいよ」

小声でそう呟いたその言葉は、しっかりとはたての耳に届いていた。







三時間後、メンテナンスされたカメラが手元に戻ってくる。

「ありがとうにとり。急に来てごめんね」
「良いよ。また調子悪くなったら持ってきなよ」
「ありがとう」
「あ、そうだ」
「 ? 」

にとりがハッとして顔を上げた。

「文さんに会ったらさ、貸した道具を返すように言ってくれない?」
「何を貸したの?」
「音声を録音するテープレコーダーと、暗い場所でもフラッシュ無しで撮れる暗視レンズとか」
「なんかスパイアイテムみたいだね…わかった。伝えとく」
「お願いね」

安全な通路ではなく、ここに来るために通った危険な道を、はたては逆走して帰って行った。









にとりの工房を出た時、辺りは暗闇に包まれていた。

(長居しすぎた。もうすぐ朝になっちゃうな)

飛びながら、東の空が白んでいるのを確認して、直してもらったばかりの携帯型カメラを操作する。

「うん、ちゃんと反応する。これでやっと検索が再開でき……ッ!?」

画面に表示された映像を見て、減速した。

「やっと見つけた」

画面に映し出された景色は、ここからそう遠くない場所だった。



「文!!」

巨木の太い枝に腰掛けていた彼女に呼びかける。

「おや、はたて。どうしてここに?」
「ついさっき、ここで写真撮ったでしょ?」
「ええ。それが?」
「『文が今撮った写真』で検索をかけたら、ここの景色が写ったから」
「なるほど」

久しぶりの会話だった。

「今まで何をやってたの?」
「そんなことより、もうすぐ朝日が昇ります。きっと感動しますよ」

まるでその言葉が合図だったかのように、日の光が幻想郷に差し込んできた。

「すごい」

一日の営みが始まったことを知らせる優しい光。それに照らされ、山が暗闇の中から徐々に自らの姿を鮮明にしていく。
川が輝きだし、野鳥の鳴き声が聞こえて、今山が起床したのだと本能的にわかった。
この光景にはたては、言い知れぬ安らぎを感じた。

「椛さんが教えてくれたんです」
「椛が?」

ここは、引篭もっていたはたての説得に成功してまだ間もない頃、初めて自分に優しい表情を見せてくれた、文にとって思い出深い場所だった。
この景色を眺める椛の横顔を今も鮮明に覚えている。

「椛さんは、他の天狗よりもずっと辛い思いをしてきました」

天狗社会に利用され、裏切られ、弄ばれ、踏みにじられ続けた白狼天狗の少女。

「沢山の事に絶望していたはずなのに、この山を見限らなかった。それが不思議でしょうがなかったので何故かと尋ねたことがありました」

すると彼女はこの景色があるからだと答えた。
あの時は、単にここから見える景色が美しく、それに感動したのだと思った。
しかし、今なら彼女が言いたかった本当の意味がわかる。
文は山の東側を指差した。

「あの場所が何かご存知ですか?」
「えっと樹海だよね。昔に色々とあったっていう」

その回答に文は満足げに頷く。
ここからは、山の景色が一望できた。樹海もよく見える。

「山の東側に位置するあの場所は、今この時だけは明るくなってるんです」

あの樹海は一日中、日が当たらない場所という認識でいたはたてにとってその事実は小さな驚きだった。

「大切な者たちが眠る場所に、ちゃんと日が届いているこの瞬間の景色が、椛さんはたまらなく愛おしいのだと思います」

日陰者の椛が守りたいと言ったこの景色。
それが今、存続するかどうかの瀬戸際にある。

「貴女の身の安全のために詳細は伏せますが、今この山は八坂神奈子の引いた絵図面通りに動いています」
「何のこと?」
「最後の忠告です。しばらく大人しくしていなさい。少しでも不穏な空気を感じたら、深入りせずに真っ直ぐ家に戻る。いいですね?」

二、三週間前にも、同じようなことを言われたのを思い出す。

「でもまぁ今は、この景色を楽しみましょう」

文の厳しい顔が緩んだため、はたては緊張から開放される。

「うん。そうだね」

椛が愛したというこの景色を、胸に刻み込むことにした。

「私の他に椛も、文のこと気にしてたよ。何か事件に巻き込まれたんじゃないかって。だからこの後、椛の所に…」

いつの間にか文は姿を消していた。
この日、はたては方々を探したが、とうとう文を見つけることが出来なかった。


樹海の存続を占う投票日は、一週間後である。

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