Coolier - 新生・東方創想話

金色イクラと永久サナギ

2012/12/20 19:04:34
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 小振りな壺を抱えた霍青娥が私との面会を希望して屋敷の戸を叩いた、と侍女の弥恵から伝えられた時、恥ずかしながら私は文机に突っ伏して午睡を楽しんでいる真っ最中であった。
 障子を開け放っていた窓から差し込む光は温かく、庭に植わった楡の木に止まった尾長鳥の囀りは不覚にも寝ながらにして涎を垂らしていた私を嘲っている様にも聞こえた。初夏の事である。
 慌てて手鏡を持ち出し髪の乱れを直した私は、青娥をお通しする様に弥恵に申し付けて客間へとそそくさ移動した。

――霍青娥。

 口授執筆の際に話を聞こうとしたが、結局逢う事の叶わなかった女性である。
 忙しいから、という理由で面会を固辞された為、仕方なく彼女の欄は豊聡耳神子らよりの話と、霖之助さんが偶然所蔵していた、彼女についての記述がある『聊斎志異』という書物からの情報で賄った。
 正直に言ってそれらの情報は、彼女に対する悪印象を私の中に植え付けた。
 他人とは違った倫理観を持ち、身勝手で、常に良からぬ事を企んでいる女性。
 当然、口授に置いては出来る限りに公平な記述に留めて置いた。だが、会ったことも無い彼女の人物像から導き出されたその印象は、余り愉快とは言えない類の物だ。

……そんな霍青娥が、私に何の用があるというのだろう?

 客間へと廊下を歩きつつ、確か彼女は唐からこの国へと渡って来た女性であると記憶を手繰り、先だって霖之助さんより頂いた烏龍茶でお持て成しする事を思いついた。しかしすぐについ先日、烏龍茶の美味しさに嵌っていた事もあって最後の茶葉を使い切ってしまった事を思い出し、仕方が無いから緑茶で良いや、と考え直す。
 どうにも寝起きは頭の回転が悪い。それにしてもさっき見ていた夢はとても楽しかった気がするのだけど、客間の襖に手を掛けた時には既に夢の詳細はすっぽりと抜け落ちてしまっていて、何がどのように楽しかったのか皆目見当もつかない。
 私の求聞持の能力も、夢にまで適応される訳ではないのだ。されても困る。怖い夢が死ぬまで私の脳裏に残る事を考えれば、おちおち夜更けに御不浄へ行けなくなる事は目に見えていたからだ。

 紫色の座布団の上で膝を折って待っていると、程なくして青娥を引き連れた弥恵が客間の襖を開けた。目に鮮やかな空色の髪を結った彼女は、私を認めると目を細めて微笑を浮かべた。綺麗な女性だ。傾国の美女、という慣用句が私の脳裏をサッと走る。
 否、傅国の美女と言った方が、私の印象を正しく表しているかもしれない。
 国でさえも傅くほどに美しい女性……美辞麗句は尽くせば尽くすほどに安っぽくなると知っているので、私はそんな思いを億尾にも出さないように気を付けた。

「貴女が、稗田阿求さんね?」

「そういう貴女は霍青娥さん――お噂はかねがね伺って居ります。お話を聞く事こそ叶いませんでしたが、求聞口授の編纂の際には大変お世話になりまして……」

「あら、良いのよ良いのよ。そんなに畏まらないで。私は貴女と単純にお喋りをしに来ただけなのですから」

 言いつつ彼女は私の対面に座ると、持っていた壺を机の中央に置いた。
 壺――と言ってもそれほど大きい物では無い。水仙を活けるのに丁度良さそうな緑色のその壺には木製の蓋がちょこん、と乗っかっていた。

「お土産……というよりは、この壺の中身について、貴女とお話をしたいと思っておりますの」

 まじまじと壺の品定めをしていた私の視線に気付いてか、青娥はくすくす笑いを浮かべながら言った。少々不作法だったかな、と私は赤面する。

「失礼します」

 と、弥恵が緑茶を携えて客間の襖を引く。客人と私に緑茶を出す弥恵の仕草を青娥は目で追って、客間から会話が無くなった。やがて弥恵が客間を出ようとしたところで「ちょっと貴女」と、青娥が弥恵を引き留めた。

「……何か?」

 すわ何か失敗でもしたのかしら、と微妙に引き攣った表情を浮かべる弥恵に、青娥は優しく微笑みかける。

「申し訳ないのだけれど、小皿を二枚と匙を三つ持って来て頂ける? 匙の一本は少し大きめの物だと非常に助かるのだけれど」

「……? 畏まりました。少々お待ちを」

 一礼した弥恵は客間を後にして襖を閉じた。襖の向こうで彼女は胸を撫で下ろしているのだろうな、と私は想像する。私の身の回りの事は何でもそつなく熟してくれる優秀な侍女なのだが、如何せんまだ若いからか彼女は客人の応対が何よりも苦手なのだ。若いとは言っても、私より八つも年上だけれど。

「――さて」

 湯気を立てる湯呑に手を伸ばした青娥は、緑茶で舌を湿らせた後にそう切り出した。

「お話というのはね。私が新たに始めようとしている、とある事業についての事ですの」

「事業、ですか……?」

 それと壺の中身に関連があるのだろうか、と想像する。

「えぇ……とは言っても、退屈しのぎ程度の他愛ない物ですわ。順調に事が進むようでしたら里の誰かに任せてしまおうとも思っておりますし、私はお金についての関心もさほど持ち合わせておりませんし……阿求さん、鮭という魚をご存じ?」

「シャケですか? えぇ、勿論……とは言っても、私は食べた事はありませんがね。海の無い幻想郷では、回遊魚は生息出来ませんから……あくまで、先代が残した資料での知識のみです」

「えぇ、そうでしょうそうでしょう……端的に申しますと私の事業と言うのはですね、その鮭の育成、というか養殖の事ですの」

「え? そんな事が可能なのですか?」

 耳を疑った私が身を乗り出すと、青娥はまるで焦らすみたいに湯呑に手を伸ばして緑茶を啜った。

「えぇ、仙術の秘儀を使いましてね。擬似的に鮭に近い性質を持つ新種の魚を作り出しました。回遊魚ではなく、純粋に淡水魚としての鮭を」

 講談で張扇を叩く調子でトン、と青娥が卓上に湯呑を置くとそこで丁度襖が開き、弥恵が青娥に乞われた物を持って来た。私と青娥の前にそれらを置いた弥恵に青娥が礼を言い、襖の向こうに弥恵が行ってしまうまで、彼女は微笑を浮かべて弥恵を見ていた。
 思ったよりも悪い人では無いのかもしれない、と私は青娥の横顔を見ながら思った。

「……さて、この壺の中に入っているのは、その鮭が産んだ卵を醤油漬けにした物ですわ」

 腰を浮かせた青娥が壺の蓋を取ると、良く冷えた醤油の香りがふわりと私の鼻腔をくすぐった。青娥が大きい方の匙を手にして壺に突っ込む。引き上げられた匙の上には小粒で透き通った紅色の魚卵が、外からの光を受けて煌々と照り輝いている。

「わぁ……これがイクラ、という奴なのですね」

「その通りです」

 言いつつ彼女は私の前の小皿を手繰り寄せ、匙の上に山盛りになったイクラを皿によそってくれた。匙が三回程小皿の上と壺の中を往復した所で、皿の上には数え切れない程のイクラが山なりになっていた。彼女から差し出された皿を一礼してから受け取ると、お醤油の香りが何とも言えず強くなる。

「ありがとうございます」

「ちょっと塩気が強い事ですし、炊いたご飯の上に乗せて食べると美味ですわ。淑やかではないかもしれませんが」

 机の上に小皿を置いた私に、青娥が微笑みかけてくる。
次いで青娥は自分の皿にもイクラを盛るとばかり思っていたが、彼女は壺から匙を引き抜くと、壺に蓋をして座布団の上に座り直してしまった。

「さ、召し上がってください」

「……良いんですか?」

 彼女の用意が出来るまで待つつもりだった私は、肩透かしを食った様な思いで問う。

「どうぞ。温まってしまわない内に」

「そうですか。それでは、遠慮なく……」

 匙を手にして、イクラを一掬い。あむ、と口の中に入れると、きりっとした醤油の塩分が舌を心地よく刺激する。鼻の奥に冷たく香りが突き抜けて、奥歯で魚卵を噛み潰すと、プチッと潰れる食感が楽しい。粒の中からはドロリと濃厚な汁が零れ、それが醤油と混じり合って深い旨味を演出する。

「ふわぁ……凄く美味しいです……イクラというのは、こんな味だったのですね」

「喜んで貰えたなら何よりですわ」

 机の上に両肘を突いて私の様子を観察している風の青娥が、ニッコリと微笑んだ。

「美味しいですが確かにしょっぱいから、ご飯が欲しくなりますね。冷やした日本酒なんかも合うかも知れませんねぇ……いやはや……んふふ……」

 記述だけを読んで理論的に物事を知っても、感覚を追体験することは出来ない。特に味覚関連の文章は精細に描かれる事が多いので、味の知らない物を絶賛されていると非常にもどかしく思う。

 稗田家が幻想郷に包括されるより前の時代の『私』の中には、イクラが何よりの好物という者が居て、その当時の私の日記などを読む度に一度は食べてみたい物だとしみじみ思っていた物だが、まさかこんな風にして叶うとは夢にも思わなかった。
 多幸感を噛みしめつつ嚥下すると、口の中で爽やかな香りと味わいの残滓がふわふわと漂っている。ふぅ、と一息。舌に残る塩分を緑茶で流すが、やはり少々物足りない。
 冷酒が欲しいなぁ、弥恵に言って持って来てもらおうかなぁ、と思いつつ匙でイクラを掬う。すると紅色の粒の中に一粒だけ、黄色のイクラが混じっているのに気付いた。

「おや……」

「あら? 見つけましたか?」

 私の手が止まったのを見た青娥が、身を乗り出して黄色のイクラを確認する。

「あぁ、有りますわね……それが『金色イクラ』ですわ。どうです? 綺麗でしょう?」

「『金色イクラ』……ですか」

 私は普通のイクラの中に一粒だけ混じる黄色のイクラを見下ろす。成程、金色だと言われればそのようにも見えてくる。他の紅いイクラに比べれば色合いの差は歴然で、選り分けようと思えば、それはきっと容易い作業になるのだろうと思った。

「えぇ、そうです。それは先ほど言いました私の事業の要でもあり、本日貴女にお見せしようと思っておりました物ですの」

 ……事業の要? 私に見せようと思っていた?

 いまいち彼女の言わんとしている所が判らない。
 美味しいイクラを振る舞ってくれたのは純粋に嬉しいが、思えばその為だけに私を訪ねて来るようにも思えない。
 彼女は何をしようとしているのだろう。

「この『金色イクラ』が、どう貴女の事業に関わって来るのですか?」

「私も意図して『金色イクラ』を作り出そうとしたのではないのです。鮭に似た生態の魚を作り出す試行錯誤の途中、偶然それの様な金色のイクラを見つけましたの。試しに『金色イクラ』を孵化させてみた所、面白い事が判りました」

「面白い事、ですか?」

「えぇ、『金色イクラ』から生まれた鮭の稚魚は、普通のイクラから生まれた鮭よりも大きく立派に育ち、とても賢く、より沢山の卵を孕むのです。その差はイクラの色の差以上に歴然でしたわ」

 青娥はおもむろに腰を浮かせると、先ほど乗せた壺の蓋を取った。
 目を細めて壺の中を確認しながら、繊細な親指と人差し指に挟み込んだ匙で注意深く壺の中から『金色イクラ』のみを選り分けて、小皿の上に移していく。砂金さらいみたいだな、と私は思った。

「同じ母体から生まれたにもかかわらず、両者の間には先天的に大きな違いがある。それは、別種の生き物と紛う程に。私はこの『金色イクラ』を基軸に据えて、鮭の養殖を進めてみようと思いますの。優れた遺伝子を保護する事で、その種族の生命としてのレベルを底上げする……さて、阿求さん? これって、何かに似ていると思いません?」

 十数粒ほど『金色イクラ』を小皿に移し替えた所で匙を置き、また元通り蓋を置いた青娥が微笑みかけて来て、私はふむ、と腕を組み記憶の中を検める。

 それはきっと彼女の作り出した新種の鮭と同様、何かの生き物なのだろうと私は当たりを付ける。成長の差異に後天的な要素よりも先天的な要素が深く関わってくると言うならば、それは余り複雑な生命ではないだろう。
 確か爬虫類の中に、卵の置かれていた環境の温度差によって性差が分かれる物が居た筈だ。しかしそれはあくまで同種の生き物だし、完全に先天的とは言いかねる。
ならばもっと単純な生き物だろうか。脊椎動物ですら無いのかもしれない。
 昆虫とか。
 そこまで思い至った所で(何故か連想したリグル・ナイトバグの顔と共に)ようやく答えに近しい物が出て来た。

「……蟻とか蜂とか、そういった社会性昆虫とか、ですかね?」

「うーん……ちょっと近いけれど、私の意図している所とは違いますわね。女王蟻や女王蜂になる事を予め決定づけられているという訳では無く、『金色イクラ』はあくまで突然変異的に、普通のイクラに混じって出現するのです。もっと身近な存在を思い描いてくださいませ?」

 ――身近な存在?
 それでいて先天的な要素が最終的な成長に大きく関わって、尚且つそれは偶発的な要素によって変わってくる?

 正直、全く見当もつかない。
 ありとあらゆる記憶を引っ張り出したせいで、膨大な量のそれらが私の頭の中で交通渋滞を引き起こしている。

「……ちょっと、判りません……答えを教えてください」

 私は頭を振って降参の意を示す。
 すると青娥はニィッと唇を横に引き伸ばして、手元の匙で『金色イクラ』の一粒を掬い上げて、優しく諭すみたいな口調で一言、

「――貴女の事ですよ」

 と、言った。


 …………ハァ?


「御阿礼の子は、稗田の家系に求聞持という御印を持って、何代かに一人生まれてくる。先天的に求聞持の能力を持ち、他の人間のそれとは根本的に異なる記憶力と記述で、人間という種族その物に貢献する……『金色イクラ』の輝かしい色こそは御印であり、『金色イクラ』から生まれた稚魚は凡百の稚魚など足元にも及ばない程に優れ、その稚魚こそが、私の事業の根幹となる。素敵でしょう? 私は、私の作り上げたこの新種の鮭に、『ミアレ鮭』という名前を付けようと思っておりますの……良い考えとは思いません?」

 青娥は人懐こそうな微笑みを浮かべたまま、匙の上に乗せていた『金色イクラ』を口に運んで、プチン、と噛み潰した。

 ――褒められているのか? 私は。
 正直に言って微塵も嬉しくない。
 如何に彼女が感嘆の台詞を並べようと、鮭の生態と自分の血筋を同列に語られた事に変わりは無い。それで誰が喜ぶと言うのか。
 私は今更のように、目の前のこの女性は人間ではなく、仙女という人間とは異なった存在なのだという事を思い出した。
 彼女は(恐らくは)無意識の内に、人間という種族そのものを見下して考えているのだろう。だから悪びれもせず、自分の作り出した新種の魚に『私』の名を使う等と言い出したのだ。そこにきっと悪意は無い。無いからこそ余計に腹立たしい。
 私は彼女の内に巣くう、種としての差異から来る傲慢を垣間見た。

「私の事業は、きっと里に利益をもたらす事でしょう。『ミアレ鮭』の取引は、きっと今以上に妖怪達からの支持を受けますわ。養殖が軌道に乗ったら、その権利は全て貴女に譲渡させて頂きます」

 そう言って彼女は立ち上がると、半ば呆然としている私を尻目に襖へと向かう。

「それでは本日はお暇させて頂きます。そちらの壺とイクラは差し上げますわ。近隣の方々にお裾分けなさると良いでしょう。今度は養殖の権利の譲渡の際にお伺い致しますね」

 襖を開けた青娥はニッコリと微笑んで私に柔らかく手を振ると、客間を後にした。
 一人残された私は座り込んだままギリギリと歯軋りをして、彼女の残して行った『金色イクラ』を見つめていた。

◆◆◆

 意趣返しである。
 先方に悪意は無かったとて、このままでは腹の虫が治まらない。
 弥恵に頼んで白米を炊いて貰い、丼によそった炊き立てのご飯の上にイクラを乗せて食べながら、私はどのような方法が一番良いかを考えていた。
 近隣の住民にお裾分けした青娥のイクラは、すこぶる評判が良かった。事実、とても美味しい。人ならざる者の傲慢を残して行った彼女が如何に腹立たしかろうが、イクラに罪は無い。

 彼女の事業は成功を収めるだろう。
 だからこそ、このまま彼女の施しを唯々諾々と受け入れるような情けない真似だけは避けねばならない。

 鮭は一度卵を産んだら死んでしまう。後の世代に命を引き継ぐ責務を全うしたら、それ以上生きることは出来ない。そんな鮭の習性もまた妙に暗示的で苛々とさせられる。他者と比べて先の短い自分の行く末を、突き付けられているような気分になるのだ。
 
 二杯目のイクラ丼を食べ終わった辺りで私は霖之助さんに借りっ放しだった『聊斎志異』を書斎から引っ張り出し、彼女についての記述を穴が開くほどに読み返した。内容は一文字たりとも忘れてはいなかったが、何か新しい発見があれば、と思った。
 
 目には目を。歯には歯を。
 こちらも暗示的な方法でもって彼女に報いるべきだ。多量の悪意は無粋極まる。連綿と繋がって来た『私たち』の記憶や知識こそが私の武器だ。
 霍青娥。邪仙。仙女と言う存在について。彼女の半生について。慎重に私は論理を積み重ねていく。
 三度ほど彼女の項目を読み返した辺りで、良案を思いついた。奇しくも彼女との問答がその助けとなった。既に日は落ち始め、辺りの風景は赤み掛かって、カッコウの鳴き声が私の部屋の中にまで染み入って来ている。
 この時間ならば、訪ねても問題は無いだろう。
 そう判断した私は弥恵に一言出かけてくる旨を伝えると、慧音先生の元へと向かった。
 私一人で妖怪に協力を仰ぐ事は出来ない。
 里の守護者である彼女が一緒ならば、きっと円滑に話をすることが出来るだろう。
 ――蟲妖である、リグル・ナイトバグと。

◆◆◆

「こんな時間に呼び出してしまって、申し訳ありません」

「あらあら、お気になさらないで。鍛錬を欠かさずに行っていれば、少々長い夜を過ごした所で苦にはなりませんもの」

 あれから二週間が過ぎた。
 機が熟した事を確認した私は、万全の準備を整えて青娥を呼び出した。豊聡耳神子に取り次ぎを依頼すると、青娥は私の指定した時間に里の入口で私を待っていた。
 日の暮れ果てた里の街道にはポツポツと提灯の明かりが灯り、月の無い夜空の星は、私たちを覆い尽くさんばかりに頭上でひしめき合っている。
 しぃ――っと。一定の音階で擦れ合う様に響く虫達の輪唱は、静謐にする事を強要されている心地になる。立て板に水を流すが如く饒舌な青娥も、思惑を胸に秘めた私も、あるいはそれが為にか口数は少ない。私の屋敷へと赴く間、転がる小石を踏み付けにする足音のみが、遠慮がちに虫の声を遮っていた。

「さ、どうぞ」

「お邪魔致しますわ」

 玄関にて、私の誘いに従って履物を脱いだ青娥の白い足が板張りの床を踏む。

「先日は気付きませんでしたが、纏足ではないのですね」

「えぇ。もう夫に媚びる必要も無くなりましたので。あれをさせられると痛いし、歩き辛くて敵いませんのよ?」

「それを目的とした風習と聞きました」

「男というのは幼稚な欲求を野蛮な方法で遂げようとする愚かしい生き物ですわ。きっと貴女も、その内にそれが判る日が訪れますよ」

 そう言って履物を揃えた青娥は頬に手を当てて、しっとりとした笑みを浮かべる。
 ――死ぬまでに私が殿方と寄り添う未来など、果たして本当に訪れるのだろうか?
 実感の湧かない思いに囚われ、私は青娥に背を向けてから大いに不快感を眉間に集約させた。
 私自身が子をなす必要があるのか? それとも御阿礼の血筋を繋げる役目は、恐らくは求聞持の能力を持たない、未だ見ぬ私の弟あるいは妹が担う事になるのか?
 私はイクラの事を考えている。紅と金のイクラを並べて思考している。紅いイクラから生まれた鮭が、いつか金のイクラを産む事を切望される想像を。金のイクラから生まれた鮭が紅いイクラを産み、それがいつしかまた『金色イクラ』を産み落とす想像を。
 酷く嫌な気分になった。イクラに頼った想像が自分の中でしっくりと来てしまうというその事実は、堪らなく私を不快にさせた。これではまるで、青娥に掛けられた呪いの様ではないか。

「お見せしたい物は、こちらの部屋にあります」

 気を取り直すために咳払いを二、三度行った私が、客間へと至る襖を開く。灯篭の火は点けたままにしていた。なので部屋の中には、少々揺らめくような橙色の明かりが満ちている。

「楽しみですわ」

 青娥に座る様に促すと、私は物置の奥に置いておいた竹ひご製の籠を取り出して、机の上に置く。

「――これは、何ですか? 中に入っているのは黒土の様ですが……」

 湯呑大の籠を上から見た青娥は、首を傾げて私の顔を見上げる。

「黒土、だけでは無いのですよ。中に入っているのは」

 座布団の上に膝を折ると、私は注意深く籠の中の黒土を左右に除けていく。指の第二関節辺りまで掘り進んだ所で目当てのモノを見つけると、青娥の眉根が訝しそうに歪む。

「虫、ですわね……見た所、何かのサナギのようですが、何の虫ですか?」

 被せられていた土を退けられたサナギを、青娥が見下ろす。
 それには答えずに私は立ち上がり、部屋の隅に置いてあった灯篭の蝋燭の火を、ふぅと吹き消した。
 今宵は新月だ。月明かりすら入り込まない客間には、自らの手の形さえ判別の付かない程の濃密な闇がどっと押し寄せた。

 しかし卓上では仄かに燐光を放つモノがある。

 月明かりにすらかき消されるほど弱々しいその光は、しかし今この客間の中では何よりも強い光源として己が存在を主張している。
 青娥が息を飲む音が闇の向こうから聞こえた。

「――もうお判りでしょう? それはホタルのサナギです」

「……まぁ」

 微かにホタルの光を受けた青娥の手が、おずおずと籠に伸びるのが見えた。

「綺麗ですわね……この国に来てから何度かホタルを見はしましたが、サナギまで光ることが出来るとは、寡聞にして知りませんでしたわ」

 大なり小なり、彼女の胸には感動の念が去来しているのだろう。彼女の声は、少々の水気を含んでいた。
 好奇心旺盛な者が持つ未知の物に触れる喜びは、常人のそれを上回る。
 まして彼女は千年近く生きて来たのだ。
 知らぬ物に触れる機会は少なく、それを見る歓喜の念はどれほど強い事か。

 ……さて、ここまでは計画通り。

 私は手探りで燐寸を探し当てて、蝋燭に火を灯す。無粋な橙の明かりが再び客間を見たし、それに飲み込まれてホタルの火は見えなくなってしまった。

「それはただのホタルのサナギではありません。とある妖に寄生された、世にも珍しいホタルなのです」

「……妖怪、ですか?」

「――えぇ。その妖怪は、名前を『永久サナギ』と言います」

 青娥の対面にある自分の座布団に座ると私は青娥から籠を受け取り、元通り黒土をサナギに被せる。傍らに用意していた手拭いで指に付いた土を落とすと、私は青娥に向き直る。

「『永久サナギ』は完全変態を行う虫――即ち、サナギの時期がある虫がまだ幼虫の時期に寄生します。妖、と申しましても幻想郷に数多蠢く強大無比な力を持った者共に比べればその妖力は非常に弱く、人間に害を為す事は一切ございません。そう言った意味では、どちらかと言うと虫の間のみで流行する病に近い存在かもしれませんね」

 青娥は両肘を机に立て、顔の前で両手を組む格好で熱心に私の話を聞き入っている。成程、向上心が非常に強いという話は本当らしい、と私は思った。

「『永久サナギ』に寄生された幼虫にも、殆ど変化はありません。普通に餌を食べ、普通に捕食者から逃げまどい、普通に成長していきます。むしろ寄生された幼虫の方が、他の虫よりも圧倒的に生きる力は強まります。しかし成長しきったその幼虫が、いざサナギになると、そこでピタッと成長が止まってしまうのです。文字通り、永久に近い期間をずっとサナギのままで過ごす事になるのですね。記録によると、六百年近くもサナギのまま過ごしたアゲハチョウなんてのも居たそうです」

「ふむ、成程……大変勉強になりますわ」

 青娥はチラと机の上の籠を見やり、唇の端に笑みを携える。それが愛想笑いによる物か、はたまた何かしらの企みを思いついたのか、そこまでは判らなかった。

「『永久サナギ』は、寄生した虫をサナギの期間に留め置く程度の能力しか有りません。寄生されたサナギから『永久サナギ』の種の様な物が分泌されているかもしれないという説もありますが、何分妖怪なので定かでは有りません。寄生されたとも知らず、サナギはいつか成虫になる日を夢見続けています。その道が永久に閉ざされてしまったとも知らず……ましてこのホタルのサナギは成虫と同じように光る事も出来るので、そんな勘違いの念も、ひとしおでしょう……さて、青娥さん? これって、何かに似ていると思いません?」

 そう言ってニッコリと彼女に微笑みかける。
 青娥は暫しの間、机の上の籠を眺めながら考えていたが、やがて答えに思い至ったと見えて両目を見開いた。苦々しげな笑みを浮かべて探る様に私を見、私の表情が変わらない事を悟ると、溜め息と共に一言、

「――私の事、ですね?」

 と言った。
 どうやら、彼女は随分頭が良いらしい。青娥の苦々しげな表情を見た私は、意趣返しの成功を悟って、ほくそ笑む。

「仙人の最終目標は天人へと昇華する事。いわば仙人とは、天人へと至るまでのサナギの様な存在。しかし私は邪仙。天女への道を閉ざされた存在。永久にサナギのままで居る事を余儀なくされた存在。だからこそ天女に匹敵するまでの力を得ようと自己を研鑽しては来ましたが、結局サナギで有る事は変わらない……成虫同様、光ることの出来るそのホタルの『永久サナギ』の如く……」

「別に良いんじゃないですか? 綺麗に光れるんだから。この世にも珍しいホタルの『永久サナギ』は、とある蟲の王たる少女に頼み込んで造って貰ったモノで、この世に二つとないのです。私はこの『永久サナギ』に、『タケノボウ』という名前を付けて可愛がるつもりです……良い考えだと思いません?」

 名前の事を口にした途端、青娥の眉根がピクリと反応した。愉悦を抑えきれずニヤリとした笑いが唇を押し上げる感触を味わう。

「――成程、私についての文献は既に目になさっている、という事ですね? 仙女になる為に私が『竹の棒』を使って、死んだように見せかけたという事さえも知っているという訳ですか……」

 フゥと溜め息を吐いた青娥が天井を仰ぐ。
 やがて彼女の肩が震えだしたかと思うと、青娥はさも面白くて仕方が無いとばかりに大声で笑い出した。
 それは完全なる敗北を知った人間が相手を讃えて浮かべる笑みと、全く同じ種類の物だった。

「――成程、成程……貴女みたいに頭の良い子は、私大好きよ? 全くもって見事な意趣返しね? か弱い人間でしかない貴女が、わざわざ蟲妖怪の親玉の力まで借りて……温室育ちのお嬢ちゃんだとばかり思っていたけれど、どうやらそんな認識は改めなくっちゃいけないみたいねぇ?」

 クスクスと笑いを浮かべながら私を見る青娥からは、どうやら他者を見下すために紡がれる気持ちの悪い態度は消え失せていた。
 
 天上の者と成る為に上昇を続けて来た霍青娥という仙女が、私の居る場所まで降りて来たのだ。彼女と対等の立場に立つという事が、良い事か悪い事かは抜きにしても。

「ねぇ? 私たち、きっと良い友達になれるわ。お酒の蓄えはこの家にも有る? 別に無かったら私が用意するから良いけれど」

「――えぇ、上等の日本酒を用意してあります」

 私が笑いかけると、青娥は目を細めて更に忍び笑いを漏らす。

「そ。準備の良い子ね……色々と考えがあって進めて来た事業も、今日で終わりにしましょう。『ミアレ鮭』の公表も事業の譲渡も取り止め。もう、どうでも良くなっちゃった。貴女と仲良くなれるのなら、それで構わないわ。今から家に戻ってイクラを取って来るから、酒宴でも開きましょ」

「良いですね。貴女の作ったイクラが美味しかったのは事実ですし」

「貴女のサナギも綺麗だったわ。機会があったら、また見せて頂戴。それじゃ、すぐに戻って来るから、一寸待ってて頂戴ね」

 そう言って青娥は縁側に至る障子を開くと、腰に携えていた羽衣を広げて腰かけ、月の無い夜空へと飛んで行ってしまった。

 開け放たれた障子から、夜の闇に飲み込まれた青娥を私は見ていた。『永久サナギ』の燐光に負けない程の美しさを持って、満天の星空が私を見下ろしてくる。

 いざこざがあり、勝負があり、そして最後には酒宴で仲直り。

 此度の出来事は弾幕ごっこの叶わない私が体験出来た『異変解決』だった、という事だろうか。

Fin
イクラを手土産にしたら、リグルはコロッと買収されました。
夏後冬前
[email protected]
http://blog.livedoor.jp/kago_tozenn/
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コメント



0.550簡易評価
3.100侍心削除
どこかの昔話にあったような…?気のせいかな?
面白かったです。
4.100名前が無い程度の能力削除
阿求ならではの面白い意趣返しでした。
イクラを食べるシーンでついつい涎が……

誤字報告を
> 私はそんな思いを億尾にも出さないように気を付けた。
“億尾”ではなく“曖”でしょうか。
5.80奇声を発する程度の能力削除
面白いですね
6.100名前が無い程度の能力削除
リグルチョロすぎぃ! いいのかいな、同胞を殺してくれと言うようなもんだろうに
9.80名前が無い程度の能力削除
読まされるなあ。
うまい掌編だ。
13.100名前が無い程度の能力削除
これぞ幻想郷流。

お見事。
18.100名前が無い程度の能力削除
知識の深さと相手への理解に基づいた意地悪勝負、趣深いものでした。面白かったです。