――ねえ、お姉様。
――何かしら。
――私はどうして、ここに居るの?
――それは、貴方のためよ。
――それじゃ、意味が解らないわ。
――いつか、きっと解るはず。
――ねえ、お姉様。
――何かしら。
――私はいつまで、こうしているの?
――それは、私にも判らない。
――これじゃ、囚われのお姫様だわ。
――それなら、私は魔王様かしら。
――ねえ、お姉様。
――何かしら。
――私はどうすれば、ここから出られるの?
――そうね、貴方が…。
これから一つ、話をするとしよう。
どんな話かは、聞いてみれば分かるであろう。
だから、しばしの間、黙って耳を傾けていると良い。
ことの始まりは、ある日の午後。霧の湖の畔に立つ吸血鬼の館、紅魔館を一柱の神が訪れたことに端を発する。
館の門番である紅美鈴は、その神のことを強く警戒したが、無理矢理に館に侵入する意思が無いことを知ると、彼女と世間話を始めた。
美鈴は相手の家族の自慢話を聞かされるとともに、館の住人の奔放さや、自らの労働環境の劣悪さについて愚痴を溢していた。
他愛のない雑談を続けていく中で、来訪者である神、洩矢諏訪子が、ふと一人の娘の話に強い興味を示した。
話題に上がった娘の名は、フランドール・スカーレット。この館の主人、吸血鬼レミリア・スカーレットの妹である。
彼女は姉であるレミリアの命によって、実に四百と九十五年もの間、館の地下室に閉じ込められていた。
近年になって地下室からは出ることが許されたが、それでもなお、館の敷地より外に出ることは叶わない。
「それじゃあ、生まれてこのかた、この陰気な館から出たことがないってこと?」
「私が知る限りは、そうですね」
時折、美鈴が主人に対して、フランドールを外に出さないのかと尋ねても、「それがフランのためなのよ」と言われるだけで碌に会話にすらならなかった。
フランドールは生来、全てを破壊する力をその身に宿している。仮に乱用すれば、どれほどの被害が生まれるかも判らないほどの強大な力である。
おそらく、レミリアが彼女を館の中に繋ぎ止めておきたいのは、その能力が原因であろう。美鈴は諏訪子にそう説明した。
「それぐらいなら、何とかなるんじゃないかな」
諏訪子は軽い調子で言う。
仮に、自分がフランドールの力で十回や二十回破壊されようとも、何ら支障は無いと。
神にありがちな傲慢な発言ではあるが、これは断じて虚勢の類ではなかった。
「一度、うちにお泊まりさせてみない?」
この提案に、美鈴は大層驚いた。皆から恐れられているフランドールを自ら招き入れようとする者があるなどと、考えたこともなかったのである。
しかし、そんなことを主人が許すはずがない。美鈴が慌ててそう伝えると、諏訪子は特に気分を害した風でもなく、顔にうっすらと笑みを浮かべた。
「そっか。まあ、家庭の事情だからね」
自分からレミリアに何かを言うつもりはないとした上で、彼女はこう付け加えた。
「だけど、もし来られるのなら、いつでも言ってね」
この時、諏訪子の胸中にどれほどの悪意があったのか。それは誰にも判らない。
まして、これから語られる話の中に、この女は二度と顔を出してこない。
ともあれ、彼女の発言が此度の一件の発端となったことは、疑いようもない事実であった。
フランドールが窮屈な地下室から解放されて以来、美鈴はたびたび彼女の遊び相手になっていた。
天性のものか、はたまた長い監禁生活のためか、時に論理と倫理を度外視したがるフランドールの性格に難儀しながらも、美鈴はその役目を嫌厭する様子を見せたことが無い。むしろ、進んで引き受けようとしている節すらある。
そのことは、彼女が主従関係の延長だけでフランドールと接しているわけではないことの証左であると言えよう。
美鈴は幾度もフランドールと言葉を交わして、彼女が館の外に行きたがっていることをよく知っていたし、出来ることなら、そうさせてやりたいとさえ思っていた。
そのため、これまでに例のない諏訪子の申し出は、彼女の軟禁を解く良い機会になるのではないかと思ったのであろう。
諏訪子がその場から去っていくのを見届けると、美鈴はすぐさま館の中へ入り、主人の下へと向かったのであった。
「貴方は、自分が何を言っているのか、理解しているのかしら?」
窓一つ無い幽暗な廊下にて、美鈴からフランドールを外泊させる提案を聞かされたレミリアは、如何にも不愉快そうな声で尋ねた。
その傍らには館のメイド長、十六夜咲夜が口を閉ざして立っている。
「…はい」
美鈴が返答するまでに幾らかの時間を要したのは、主人の機嫌の悪さを察してのことであろう。
「そう。それなら、フランが私の可愛い可愛い妹だということは、知ってる?」
聞くまでもないことである。
「存じ上げています」
「だったら」
その声に明確な怒りの色が表れる。
レミリアは、生まれながらの蒼白な顔に埋め込まれた紅い瞳をギラギラと光らせている。
「もし、フランに何かあったらどうするのよ」
どう考えても、何かあるとしたらフランドールではなく、その周りの方だろう。
問い詰められている美鈴も、二人のやり取りを傍観している咲夜も、そんな思いが明らさまに顔に出ていた。
しかし、レミリアが言いたいのは、そういうことではない。懸念は、破壊の更にその先に在るのだから。
美鈴もその真意を全く理解出来ないほど愚かではないが、ここで退いては過去の問答の二の舞である。
「ですが、フランドール様だって、たまには…」
己の分を弁えず話を続けようとする美鈴に、レミリアの怒りはささやかな殺意へと変貌する。
その足が美鈴の方へと歩きだそうとしたところで、咲夜が二人の間に割って入った。
吸血鬼の紅い瞳が、その顔をギロリと睨む。
「お嬢様。使用人の非礼は、私の不徳の致すところです」
「咲夜さん…」
「ですから」
突如、美鈴の前に三本のナイフが現れ、そのまま彼女の胸へと突き刺さった。
これは、人間でありながら不可思議な力で時間を止めることが出来る咲夜の、得意とする攻撃方法の一つである。
実際にナイフが体に触れるのは時間が動き出してからであるため、回避するのは不可能ではない。しかし、それは攻撃を予想出来た場合のこと。
「お嬢様の手を煩わせることはありません」
「あ…」
鋭い痛みが美鈴を襲う。彼女が強靭な妖怪ではなく脆弱な人間であったなら、文句なく命を落としていたであろう。
それでも、そのナイフは彼女の意識を奪うのに十分な威力を持っていた。
急速に薄れていく意識の中で、美鈴は咲夜の冷徹な言葉を聞いた。
「美鈴。目が覚めたら、速やかに持ち場に戻りなさい」
意識が戻った時、美鈴は何処かの壁にもたれかかって座っていた。
ぼんやりと目を開けた彼女の前で、何者かがしゃがみこんで、その顔をじっと見つめている。
「ねえ、美鈴。廊下で寝るのは行儀が良くないわ」
「うわ!? フランドール様!」
如何にも。その何者かとはレミリアの妹、フランドールであった。
美鈴がキョロキョロと辺りを見回してみると、そこは先ほど倒れた廊下に相違ない。
しかし、彼女には廊下の真ん中に倒れ込んだ記憶しかなかったのにも関わらず、何故か今は壁際に座らされている。
また、ナイフが突き刺さった胸元には包帯が巻かれ、傷の手当てが為されていた。
「また咲夜に怒られるよ?」
「…そうですね」
何処か悲しげに呟いた美鈴に、フランドールは首を傾げた。いつもの彼女なら、軽口の一つも叩くような場面だったからであろう。
美鈴はしばらく何事かを思案した後、座ったまま姿勢を正した。
「…フランドール様」
「なーに?」
「博麗とは別の、神社の人が…、遊びに来ないかって言っていらしたんですけど」
神社の人とは、言うまでもなく諏訪子のことである。
今、この幻想郷でまともに機能している神社といえば、前々から幻想郷の結界を管理している博麗神社か、諏訪子が居る守矢神社の二つしかない。
「わりと新しい神社のことね。妖怪の山だっけ」
「はい」
全く館の外に出たことがないフランドールといえども、美鈴や咲夜、新聞記者の鴉天狗、頻繁に館に忍び込む人間の魔法使いなどから、幻想郷の話を聞くことはある。
地域の呼称や施設の存在ぐらいは、それなりに心得ていた。
「良いんじゃない。お休み貰えるなら、行ってきたら?」
「いえ、私じゃなくて」
思わず苦笑する美鈴。
フランドールはとぼけるのをやめて、小さく溜め息を吐きつつ肩をすくめた。
「無理無理。あいつが許してくれないもの」
「あいつ呼ばわりはダメですよ」
「律儀ねー。さっきもあんな目に遭ったのに」
その言葉に、美鈴は驚きを隠せなかった。
どうやら、先ほどの成り行きはフランドールも承知のことであったらしい。
彼女は意地の悪い笑みを浮かべ、滔々と語りだした。
「だけど、そうね。それが正解。彼女に逆らってはいけないわ。あなたは館の使用人。お姉様の僕(しもべ)なんだもの」
いきなり妙に芝居めいた口調で話す彼女の言い分を聞き、美鈴は目を伏した。
主人に逆らうなということは、つまるところ、彼女を外出させるのを諦めろという警告に他ならない。
「…フランドール様は、外に出たくないんですか?」
「行きたいわ」
美鈴の目が再びフランドールの顔を見る。
彼女は窓の無い壁を見つめて、その瞳には映らない、まだ見ぬ館の外の世界へと思いを馳せている。
「行きたいに決まっているじゃない。私はもう何百年も、この館の中に閉じ篭っているのよ?」
数年前。未だ地下に閉じ込められていた頃、実際に館の外へ出て行こうと、姉が居ない隙を見て暴れだしたこともある。
しかし、結局その時も、姉の友人である魔法使いや、外から来た人間の妨害に遭い、その願いが果たされることはなかった。
後でそのことを聞いたレミリアが、彼女に地下室から抜け出る許可を与えたものの、それで心が満たされたわけでもない。
「地下室から出してもらえたぐらいで、満足出来るもんですか。私だって、まだまだ我がままを言いたいお年頃なんだから」
「だったら」
「お姉様は許さない」
有無を言わさぬ強い語勢で、美鈴の言葉が遮られる。
「美鈴だって、死にたくはないでしょ?」
「そんなこと…」
それ以上は言葉を紡げなかった。
事実、主人であるレミリアに許しを出すつもりが無い限り、彼女がフランドールにしてやれることは何も無いのである。
「早く門に帰りなよ。私も、今は遊ぶ気分じゃないし」
そう言い残して、フランドールは廊下の闇へと消えて行った。
その場に残された美鈴は歯を食い縛り、右の拳で壁を殴り付けた。どうやら加減が上手くいかなかったらしく、壁に小さなヒビが入る。
彼女は「しまった」という顔をして、しばらく固まっていたが、やがて何事もなかったように立ち上がり、そそくさとその場を離れた。
しかし、この館において、レミリアに一切の隠し事は出来ない。ほんの五分後には壁の修理をしに戻ってくる羽目になったのであった。
美鈴は諦めなかった。
主人の怒りを買い、メイド長から手痛い仕置きを受けたあの日から、必ず日に一回か二回はレミリアにフランドールの外出許可を求めるようになっていた。
その都度、咲夜から――時にはレミリア当人から、人間ならば容易く死に至るほどの制裁を加えられたが、それでも彼女は諦めようとしない。
何故(なにゆえ)、そこまで躍起になっているのか。その理由は、美鈴自身が理解していたかどうかも疑わしい。
おそらくは、己の身を案じてくれたフランドールへの感謝の気持ちと、直(じか)に聞いた彼女の本音が、その主な原動力となっていたのであろう。
美鈴が日課として嘆願をするようになってから数日が経過した、ある日のこと。
その日は空に黒い雲が広がる雨模様で、雨を嫌うレミリアの機嫌は殊更に良くなかった。
「お嬢様! フランドール様のことでお話が…」
そこへ、いつものように申し立てにやって来た美鈴は、主人のその幼い外見にそぐわぬ怪力で頭を掴まれ、館の門に向かって勢いよく投げ飛ばされた。
彼女は庭で一度跳ねた後、門に激しく叩き付けられ、そのまま意識を失った。
「黙って番をしていなさい」
その言葉はおそらく、美鈴の耳には届いていなかったであろう。
それから、ほんの数分後。
ひしゃげた門を乗り越えて、その下で気絶している門番をチラチラと見ながら、館の敷地内へと侵入してくる者があった。
「何だ、こりゃ。強盗でも来たのか?」
自分のことを棚に上げて、とは、この娘のために生まれてきた言葉に違いない。
この侵入者、普通の魔法使いを自称する人間、霧雨魔理沙こそ、頻繁に館を訪れては地下にある巨大図書館の蔵書を失敬して帰る不届き者の強盗なのである。
魔理沙は倒れている美鈴のことを気にかけながらも、目的の図書館に向かうべく館の中へと歩を進めた。
「また門番が寝てたぜ。ちょっと不用心すぎるんじゃないか?」
「同意はするけど、貴方に言われたくないわね」
図書館で小奇麗なテーブルの前に座り、いつも通り本を読んでいた魔女パチュリー・ノーレッジは、無断で入ってきて早々に館の不用心さを謗る魔理沙をジロリと睨んだ。
「貴方みたいのが来なければ、門番なんて居なくても平和なのよ」
「ははあ、なるほど。つまり、私はあいつの存在意義になってやってるわけだ」
まったくもって、口の減らない娘である。
「いい加減、盗んだ本を返しなさいよ」
「借りてるだけだぜ。死んだら返す」
「貸した覚えはない」
パチュリーから白い目で見られるのも構わず、魔理沙は当然のように本棚を物色し始める。
普段であれば、パチュリーも彼女を魔法で撃退しようと試みるのであるが、この日は持病の喘息の調子が良くなかったらしい。不愉快極まりないほどに堂々とした泥棒を恨めしそうに見ながら深い溜め息を吐くと、諦めて本の続きを読み始めた。
「ところでさ」
ご丁寧に脚立まで取り出してきて本棚を見ていた魔理沙が、不意に話しかけた。
「今日の曲者は私だけか?」
「知らないわ。…どうして?」
「門がへこんでた」
「ああ、そう」
パチュリーはそれで問題が解消したとばかりに口を閉ざしたが、魔理沙の疑問は解決していない。
彼女は脚立から降りて来て、テーブルを挟んでパチュリーの反対側に置かれた椅子に腰を下ろすと、門の異常について説明を求めた。
しばらくは聞き流していたパチュリーであったが、あまりに喧しく問われるので参ってしまい、とうとう本に栞を挟んで魔理沙の質問に答えることにした。
「美鈴がバカをやってるのよ」
「バカ?」
パチュリーは簡潔に説明した。諏訪子が館を訪れたこと。それを切っ掛けとして、美鈴がフランドールを連れ出そうと躍起になっていること。
粗方話し終えたところで、話を聞いていた魔理沙がきょとんとした様子で言った。
「行かせてやれば良いじゃねーか」
それ以外に結論の在るはずもないと言いたそうな表情である。
魔理沙はこれまで館へ忍び込んだ際に、何度もフランドールと遭遇している。初めのうちは退屈凌ぎとして危険な戦いを強いられた魔理沙であったが、幾度もの接触を経て、今では彼女の数少ない話し相手の一人となっていた。
しかし、彼女が館の外に出られない理由について――あるいは全く外に出たことがないという事実については、どうやら知らなかったらしい。と言うより、それを話には聞いていながら、フランドールの普段の様子を見て、そう厳密なものではないと捉えていたようである。
「レミィが許さないわ」
「そんなの、他人(ひと)が決めることじゃないだろ」
魔理沙の語気が明らかに強くなる。
しかし、パチュリーに動じた様子はない。
「貴方らしい言い分ね」
「何だよ」
「別に」
魔理沙が人里にある実家から勘当されていることは、周知の事実であった。
もっとも、パチュリーもその詳しい経緯など知りはしない。ただ、彼女はたとえ家系や血縁の関係があろうと、他者に縛られることを好まない。そう認識しているだけである。
「でも、貴方は一つ誤解してるわ」
「何を」
「フランは、ああ見えて、レミィを信頼しているの」
「アイツが?」
心から意外そうな声が出る。無理もない。フランドールと話をしている時、魔理沙は姉の愚痴ばかり聞かされているのだから。
「そうでなければ、あの子が未だに館の中に居る理由が説明出来ないでしょう?」
本気で出ようと思えば、出られる機会は幾らでもあった。その気になれば、館そのものを破壊することさえ可能なのに。
それでもフランドールが館の中に留まっているのは、それが彼女のためだというレミリアの言葉を信じているからだろうとパチュリーは語る。
「それが正しいかどうかも判らないのにか」
「違うわ。あの子にとっては、それが正しいのよ」
「何で」
「何故なら、レミィはフランを愛しているから」
その説明に、魔理沙は頭を抱えた。
パチュリーが口にした単語の一つ一つは知っていても、その全体の意味が理解出来ないらしい。
「何なんだよ、その理屈は」
「解らない?」
「解るか!」
手のひらでテーブルの上面を叩き、魔理沙が大声を上げた。
「それじゃあ、私の話はここまでね」
冷ややかにそう述べると、パチュリーは再び栞を挟んだ本を開き、その続きを読み始める。
魔理沙はしばらく何事かを喚いていたが、今度は先ほどと異なり、完全に黙殺されてしまう。ついに、彼女もパチュリーとの会話を諦めざるを得なくなった。
「…もういい。今日はもう帰る」
「あら、そう。二度と来なくて良いわよ」
それには何も言い返さず、魔理沙は如何にも不機嫌そうな顔をして、図書館を後にした。
魔理沙が館の正面から出てきた時、美鈴は既に意識を取り戻し、門の歪みを直しているところであった。
「あ。あんた、また勝手に入ったね!」
「お前が寝てるからだろ」
未だもって仏頂面をしたままの魔理沙が答える。
美鈴は間もなく異常に気が付いた。普段なら、風呂敷に包んだ大量の本を提げて出てくる彼女が、今日は手ぶらで帰ってきている。
「今回は収穫なし? フランドール様にでも遭ったの?」
「違ぇよ」
いつも無駄に明るい彼女らしからぬ無愛想な反応に、美鈴は首を捻る。
魔理沙はそんな美鈴の顔を見て、「はあ」と溜め息を吐いた。
「人の顔見て溜め息吐かないでよ」
「なあ、美鈴」
「何?」
「どうして、フランは自分で外に出ようとしないんだ?」
美鈴は眉をひそめた。
昨今、自分がしていることと無関係な質問だとは思えなかったのであろう。
「誰から聞いたの?」
「私が訊いてるんだぜ」
「すっとぼけてんじゃないよ。咲夜さん?」
「いいや。パチュリーだ」
「パチュリー様が?」
諏訪子の来訪より現在に至るまで、美鈴がパチュリーに相談したことは一度も無かった。と言うのも、相談しようとして図書館を訪ねても、本を読むのに忙しいからと話すら聞いてもらえなかったためである。
そのパチュリーが今回の件について魔理沙に話したということは、美鈴にとって意外な事実であったらしい。
「私は質問に答えたぜ。次はお前の番だ」
そう言って魔理沙は美鈴を指差し、自分の問いへの回答を迫った。
「そんなの簡単よ。お嬢様が許さないから…」
「おい。お前こそ、そらとぼけんな」
彼女が聞きたいのは、そんなことではない。だからと言って、パチュリーにされたような答え方も求めてはいない。
図書館での会話の内容など知らない美鈴であったが、彼女が解りやすい説明を欲していることは察知したらしく、しばらく頭の中で自分の考えを整理した。
「…たぶん、怖いからだと思う」
「アイツが何を怖がる必要があるんだ?」
「壊してしまうことを、よ」
世界が広がれば広がるほど、大切にしたいものも増える。
全てを破壊する力を持つフランドールにとって、それは苦悩の種が増えることに等しい。
「そんな繊細な奴だっけ」
「あんたが思ってるより、ずっと優しいわ」
「だけど、そんなの、壊さなきゃ良いだけじゃねーか」
「私もそう思った」
しかし、そう簡単な話ではなかった。
以前、美鈴がフランドールに同じ趣旨のことを言った時、彼女はさも当然とばかりに、こう発言したのである。
――お姉様が、私は存在(もの)を壊すと言っていたわ。
それは遥か昔、彼女がまだ何かを壊すことしか知らなかった頃、彼女にとって唯一の世界であったレミリアが、その心に刻み込んだ呪いの言葉。
それから幾百年の時を経て、ある程度の思慮分別が付くようになった後も、その言葉はフランドールの意識に深く根付いたままであった。
むしろ、彼女がその意味を理解出来るようになってから、より一層強く効果を発揮し始めたと言える。
「どうして、そんなことを…」
「決まってるでしょ」
全ては愛しい妹を守るため。
そのためにレミリアは彼女の世界を狭めた。たとえ彼女が、自分にとっての全てを壊そうとも、後悔しなくて済むように。
だから、たった一度きりの外出であろうと、決して許そうとはしない。その一度が、フランドールの世界を広げてしまう危険がある限りは。
「狂ってるぜ」
「やめて」
魔理沙の率直な感想に嫌悪感を示し、美鈴は唇を噛んだ。彼女自身、思っていても口に出したくはないことなのであろう。
「…悪い」
珍しく素直に謝りつつ、魔理沙は頭を掻いた。
「結局、レミリアにしか出来ない、か」
美鈴のおかげで、彼女はパチュリーが言っていたことを理解出来たようである。
「お嬢様が一言、もう大丈夫だって言ってくれたら、フランドール様は自由になれるのよ」
「そのために、お前は頑張ってんだな」
「…うん」
しかし、それは困難を極める荊の道に他ならない。
言霊の呪いに蝕まれているのは、フランドールだけではないのだから。
「あ、そうだ。咲夜は何て言ってるんだ?」
美鈴と同じで、比較的フランドールと親しい咲夜なら、力になってくれないだろうか。
そんな期待を抱いていたらしい魔理沙であったが、美鈴の表情は先ほどまでに輪をかけて暗くなる。
「咲夜さんはあれからずっと、お嬢様と一緒に居るわ。フランドール様のことについては、何も言ってくれない…」
おそらくは、不干渉を厳命されているのだろうと美鈴は想像していた。
結論を言うと、それは正しい。数日前、レミリアは咲夜に対し、フランドールのことに関して一切の口を挟むな、と命じていたのである。
それを徹底するためか、美鈴との会話さえ必要最低限にしていた咲夜の冷酷な態度に、彼女は少なからず心の痛みを感じていた。
「あんた、しばらく来ない方が良いわ。もし、お嬢様に出くわしたら、どうなるか…」
「おいおい。私は元々、招かれざる客だぜ」
魔理沙はそう言って苦笑しながらも、「ありがとな」と礼を言った。
それが話をしてもらったことに対してなのか、今の忠告に対してなのかは、誰にも判らない。その両方かも知れない。
「それじゃあ。また来るぜ」
「来るなってば」
呆れた様子で苦笑いを浮かべた美鈴に見送られ、魔理沙は自前の箒に跨がり空の彼方へと飛び去った。
翌日、美鈴はいつも通り、レミリアに例の話を持ちかけようとした。
「フランドール様だって、やって良いことと悪いことの区別ぐらい…!」
「何度言えば分かるのかしら」
言い終えるのを待ってももらえず、咲夜から持ち場を離れたことに対する罰を受けた美鈴は、また、しばしの意識不明を経て目を覚ました。
この日の昼寝場所は地下の図書館である。
また床に倒れ込んだのにも関わらず、丁寧に並べられた椅子の上で起き上がった美鈴の目の前には、普段通り本を読み耽るパチュリーが座っていた。
「おはよう」
「お、おはようございます。パチュリー様」
美鈴は身を縮こまらせた。どうやら、図書館を騒がせたことを叱責されるものと思ったらしい。
しかし、そんな彼女にパチュリーが言ったことは、その予想と異なるものであった。
「貴方も懲りないのね。いい加減にしないと、本当に殺されるわよ?」
パチュリーの視線は手に持った本から動いていない。
そのためか、彼女の発言を単なる洒落と受け取ったらしく、美鈴は顔に笑みを浮かべる。
「これでも、体は丈夫ですから」
「二十一分」
突如として呈示された時間に、美鈴はポカンとして言葉を失った。
いったい、何の話かと考え始めてから間もなく、パチュリーが再び口を開いた。
「たった今、貴方が気絶していた時間よ。前に居眠りを咎められていた時と比べると、ざっと三倍くらいかしら」
美鈴の額に汗が滲む。
彼女は自分が倒れている時間など気にしていなかった。ましてや、その時間が従来よりも遥かに長くなっているなどとは、考えもしなかったのであろう。
「貴方の疲れが溜まっているのか、それとも、レミィたちが本気になってきているのか」
おそらくは後者である。パチュリーの声からは、そんな考えが窺われた。
彼女は本のページをめくりながら、続けて言った。
「フランのことは忘れなさい。貴方じゃ役者が足りてない」
これを聞いた美鈴は、にわかに椅子から立ち上がり、パチュリーの目の前のテーブルに両手のひらを叩き付けた。
「それじゃフランドール様はずっとこの館に閉じ込められたままじゃないですか!」
「彼女が何をしてくれたの? 貴方が命を懸けるほどの価値がある?」
その五月蝿さに不快感を示すでもなく、パチュリーは淡々と言葉を返す。
「フランは壊すわ。物も、人も、妖怪も。ただ、全てを壊すだけ。何故なら、それしか出来ないから。…レミィは、いつもそう言ってる」
「そんなことありません!」
両手をテーブルに付いたまま、再び美鈴が声を上げた。
その声の大きさたるや、遥か遠くで本の整理をしていた小悪魔が、何事かと思ってこそこそと様子を見に来たほどである。
「フランドール様だって普通の妖怪みたいに暮らせますよ! お嬢様もそう思ったから地下室から出してあげたんじゃないですか!」
現に、自分や魔理沙は彼女に壊されていないではないか。美鈴が根拠としているのは、概ね、そんなところであろう。
碌に呼吸もせずにまくし立てたおかげで、美鈴は目眩に見舞われる。その顔は幾分か赤みを帯びて、すっかり息が上がってしまっていた。
「貴方がそうやってお人好しだから、この図書館の蔵書も減っていくのね」
パチュリーは読んでいた本をそっと閉じると、何処からか一枚の紙切れを取り出してきて、美鈴の目の前に差し出した。
「これは?」
「レミィからよ」
それは、中央にスカーレット家の文書であることを示す透かしの入った、契約の儀式以外では滅多に使用しない特別な紙であった。
上部に名宛人として美鈴の名が記され、そのすぐ下に要件が簡潔に書き述べられている。
『七日後の満月の夜、討議の席を設ける。』
さらに下部には、この日の日付の記載と、署名が為されていた。それは、レミリアと咲夜の連名であった。
これを読んで、美鈴はその目を大きく見開いた。やがて、書状を持つ手がふるふると小刻みに震え始める。
「満月の夜…。貴方に、その意味が解る?」
「…はい」
月の満ちる夜は、妖怪どもの狂気が最も昂る時である。夜の世界に君臨する王、吸血鬼とてその例外ではない。
無論、そこで穏便な話し合いなど望めるはずもなく、その一文の示すところは、違(たが)う意見を賭けての決闘に他ならないのである。
主人との間に絶望的な力の差がある美鈴にとっては、死刑宣告と言っても過言ではない。
彼女の目から涙が零れる。涙は頬を伝い、文書の上へと落とされるが、紙はその雫を受け入れることなく表面を這わせた。
「美鈴。今なら、まだ間に合うわ。レミィに赦しを」
「お嬢様が…」
パチュリーの言葉を美鈴が遮る。実際には、無理矢理に発言を止められるほどの声ではなかったが、彼女はその口が何を語るのかに興味を持ったらしい。
「お嬢様が、私に戦う機会をくれた…!」
これほど前向きな捉え方をするとは、パチュリーに予想出来たであろうか。
確かにこれまで、美鈴はレミリアや咲夜から一方的に制裁を受けるばかりで、彼女の方から武力を行使した試しはない。
しかし、その許可を得られたところで、彼女に何が出来ると言うのか。主人はおろか、咲夜にも戦闘力では遠く及ばない彼女に。
「呆れたわね」
そう呟くと、パチュリーは椅子から立ち上がって指を振り、先ほどまで読んでいた本をふわふわと浮遊させて本棚へと返した。
その代わりに別の一冊を同じようにして棚から呼び寄せ、それを抱えて図書館の出入口に向かって歩き始めた。
「帰ってきたら、土葬ぐらいはしてあげる」
「どちらへ?」
「外。大規模な魔法の実験をしに行くのよ。言ってなかったかしら」
言ってあるはずがない。ほんの十分ほど前、小悪魔に外出の可能性を示唆する発言をしたのが最初なのだから。
当然、美鈴は初耳であると答え、行き先と帰りの日時について尋ねた。
「場所は幻想郷の何処か。今日から八日間ほど留守にするわ」
「…パチュリー様は、フランドール様のこと」
「興味ないわ」
パチュリーはきっぱりと言い切った。
別段、彼女の助けなど期待もしていなかったであろう美鈴も、ここまで冷たく突き放されては流石に堪えたらしく、またも表情が曇る。
「あの子も私に興味がないもの。何か不満?」
「…いえ」
俯き、視線を床にやりながら、彼女は小さく嘘を吐いた。
本心では大いに不服に感じていても、それを口にしたところで何にもならないのである。
「それじゃあね。これから一週間、心残りのないように過ごしなさい」
「行ってらっしゃいませ」
しんと静まり返った図書館に残された美鈴は、しばらく俯いたまま黙って立ち尽くしていた。その右手には先ほどの書状が握りしめられている。
本棚の陰から様子を窺っていた小悪魔が声をかけようか迷っていると、彼女は一度大きく深呼吸をしてから自分の両頬を手のひらで叩き、顔を上げて図書館から出て行った。
あの書状を受け取ってから、美鈴はレミリアとの接触を控えた。
フランドールの外泊許可を求めるのもぴたりと止め、門の前で武道の鍛練に勤しむようになっていた。
その真剣さと言えば、主人であるレミリアをして、これまで一度たりとも見たことが無いと思わせたほどである。
「必ず、お二人を、倒す…!」
固く握りしめた拳で空(くう)を穿つ彼女の瞳は、まるで外敵から群れを守ろうと必死に闘う獣のようであった。
普段からこの調子であれば、館に侵入しようとする愚か者も多少は減るのかも知れない。
それと、丁度この頃から、咲夜は物資の調達のために館を留守にすることが多くなった。
ただでさえ多くなかった館の住人の会話は極端に少なくなり、その冷戦とも称するべき重々しい雰囲気に、メイドとして働く妖精たちは怯えながら過ごしていた。
四日目の明け方、美鈴が久方ぶりの休息を取るために自室へ向かって暗い廊下を歩いていると、蝋燭の灯りの死角である闇の中から、真っ黒い蝙蝠の大群が飛び出してきた。
蝙蝠たちはみるみるうちに美鈴の目の前へと集まっていき、やがて一人の少女の姿を象ると、その表面に色を浮かび上がらせた。
「フランドール様」
「びっくりした?」
「しました」
「嘘吐き」
奇怪な登場の仕方をする妖怪など、この幻想郷には吐いて捨てるほど居る。
日頃からそれらを相手にしている美鈴が、今さら蝙蝠ぐらいで驚く道理はないのである。
しかし、フランドールにとっては、そんなことはどうでも良かったらしい。
「ねえ、美鈴。お姉様に謝りなよ」
「嫌(や)です」
にっこりと微笑んで即答する美鈴。
もはや、その意思を覆すことは誰にも出来そうになかった。
「良いの? 死んじゃうよ?」
「これでも体は丈夫ですから」
「ダメよ。私が壊すもの」
フランドールは口元に気味の悪い笑みを浮かべる。
それを見て、美鈴の顔からはさっと笑みが消え失せた。
「私を期待させておいて、失敗するなんて有り得ないでしょ?」
美鈴は己の心臓を誰かに握られているような悪寒を覚える。
それもそのはず。今、フランドールの右手の中には美鈴の「目」がある。彼女がこれを握り潰せば、「目」を失った美鈴はたちどころに死んでしまうのである。
「もし、お姉様があなたを赦しても、私は絶対に赦さない。だから…」
その手から美鈴の「目」が消える。
フランドールは不気味に微笑むのをやめて、何処か寂しげな顔で美鈴のことを見上げた。
「負けたら、すぐにここから出てって」
その言葉に、美鈴の膝が折られる。美鈴は目の高さをフランドールに合わせ、彼女の背中に手を回してぎゅっと抱き締めた。
フランドールにとってこの行動は予想外であったらしく、彼女は些か戸惑った様子で瞳を美鈴の頭の方へと動かした。
「どうしたの、美鈴?」
「大丈夫。きっと、勝ってみせますから」
そう言って、彼女はより一層、力を籠めてフランドールのことを抱き締める。
フランドールは寂しげに笑い、ぼそっと何かを呟いた。何を言っていたのかは、美鈴にしか分からない。
「フランドール様」
不意に、何者かの声がかかる。
二人が声のした方を見上げると、無表情の咲夜が彼女たちを見下ろしていた。
美鈴は慌ててフランドールから離れ、咲夜から見て彼女の斜め後ろの位置に立ち、姿勢を正す。
「なあに、咲夜?」
咲夜はほんの一瞬だけ美鈴の顔に目をやってから、すぐにフランドールへと視線を移し、口を開いた。
「お嬢様の命により、貴方には今一度、あの部屋へ入って頂くことになりました」
「ああ、そう」
「え!?」
あの部屋とは、長年に亘りフランドールを閉じ込めていた地下室のことである。
突然の通達に狼狽え、思わず声を漏らした美鈴に対して、フランドールは落ち着き払った様子であった。おそらく、こうなることが予想出来ていたのであろう。
「それも、私のため?」
「はい」
「ふーん」
さして興味もないという風に、彼女は地下に下りる階段がある方へ向かって歩き始めた。
美鈴は何やら物申したげにしていたが、咲夜から指を口に当てる仕草で「何も言うな」と伝えられ、大人しく黙っていた。
いずれにせよ自分がレミリアたちとの決闘に勝てば、すぐに解放してやれる。そんな打算的な思いがあったのに違いない。
「また退屈まみれの日々に逆戻りってわけね」
「しばらくはお暇になりませんよう、読み物を用意致しました」
「本なんか詰まらないわ」
「そう仰らず」
闇の中へと溶けて行く二人を静かに見送ってから、美鈴は再び自室に向かって歩きだした。
その瞳の中には、これまでよりも一層、揺るぎの無い決意が刻み込まれている。
しかし、彼女が如何に強い意志を持っていたところで、敵は運命を操る紅魔の王と、時を操る白銀(しろがね)の騎士。その力は、あまりにも強大。
彼女を一つの終焉へと導く運命の歯車は、一瞬たりとも止まることなく、無慈悲にギリギリと音を立てて回り続けていた。
約束の時は瞬く間にやって来た。
残酷な時の流れは、しがない門番に何ら特別な力を授けることなく、狂気に満ちた月の夜を迎える。
一点の曇りもない星空の下、美鈴は目を閉じて静かに精神を集中させながら、主人の使いに呼ばれる時を待ち続けていた。
やがて、彼女は何者かが近付いてくる気配を感じ取ると、その目を開いて空を仰いだ。
紅く輝く真円の月が、彼女の瞳を己と同じ色に染め上げる。
ここまで来たら、もはや後に退くことは出来ない。いや、彼女にとっては最初から、退路など無かったのかも知れない。
ついに、館の門と向かい合う扉がゆっくりと開かれ、レミリアと咲夜の二人が庭へと姿を現した。
「美鈴。こちらへ」
その呼び掛けに応じ、彼女は門の内側へと入る。
一陣の風が庭の花畑をざわざわと騒がせる中、美鈴は眼前に立ちはだかる主人の顔を真っ直ぐに見つめた。
「中でお待ちくだされば、私から伺いますのに」
「良いのよ。今日は、あんなに美しい月が出ているんだもの」
レミリアは両腕と背中の羽を大きく広げ、禍々しい月の明かりをその全身で享受する。
「そうですね。フランドール様にも見せてあげたいくらいです」
言葉の端を尖らせて美鈴が言うと、レミリアは三日月のような口をして「ふふっ」と笑った。
「やっぱり、考えを改めるつもりはないのね」
「当然です」
「残念だわ。次の門番は優秀だと良いのだけれど」
指を鳴らしてレミリアが咲夜に合図を送る。咲夜はこれを受けて、静かに前へと歩み出た。
彼女と美鈴を一対一で戦わせ、レミリア自身は闘いを傍観する魂胆なのである。
「咲夜。美鈴。先に言っておくわ」
「何ですか」
「今宵、これから、この館の敷地内で起こる事柄に限り、博麗と八雲は一切関知しない」
この七日の間に、レミリアは秘密裏にその約束を取り付けていた。
幻想郷の均衡と平穏を守る二つの絶対的な力。それらが関与しないということは、即ち…。
「ルールは無用、ということでよろしいですか」
「その通り」
咲夜がレミリアに言質を取ったところで、美鈴は即座に臨戦態勢に入った。
ルール無用ということは、もはや戦いは始まっていると言っても何らおかしくはない。
それに相対する咲夜も、既にその手に数本のナイフを所持していた。
「承知致しました。では…」
咲夜が何かを言おうとした、その時である。突如、館の庭が流星雨に見舞われた。
正確に言うなら、五芒星を象った数百の魔力の塊が、一斉にレミリアと咲夜の頭上から降り注がれた。
凄まじい騒音が鳴り渡り、砂埃が激しく舞い上げられる。
「聞こえたぜ。ルール無用だって?」
上空から箒に乗った人間の娘が飛んで来て、美鈴の傍へと降り立った。
「魔理沙。あんた、何しに来たの?」
「ちょっとしたお手伝いだよ、十一人目のインディアン」
「何よ、それ」
魔理沙はそれ以上、何も言わず、先ほど弾幕を撃ち込んだ所に目を向けている。
風が砂埃を払いのけると、服装一つ乱れていないレミリアと咲夜が、再びその姿を現した。
「ようこそ魔理沙。今宵はとても素敵な夜ね」
「同感だ。今日は星がよく見えるからな」
「それで? この度は、我が館に何のご用かしら?」
「宅配便だよ」
彼女は勿体振った様子でニヤリと笑い、手に持った箒をくるりと回転させてから、その先端をレミリアの方へと向けた。
「レミリア・スカーレットさんに、素敵な魔法を届けに来たぜ!」
啖呵を切った魔理沙と同じく、レミリアもまた不気味に笑う。
よもや、この時、この場所へ来て、美鈴やフランドールのこととは無関係に、ただ喧嘩を売りに来たということはあるまい。
満月の夜に、法を無くした吸血鬼の館に来るということが、どれほど危険で愚かなことか、彼女は解っていないらしい。
ならば、教えてやろうではないか。
レミリアはその全身から紅い瘴気を立ち上らせる。
「咲夜」
「はい」
「貴方はここで予定通り、美鈴を折檻しなさい。私は屋上で、この不届き者を始末するわ」
「…かしこまりました」
咲夜が言い終えるのとほぼ同時に、美鈴の手が素早く動いた。その拳に弾かれた四本のナイフが悉く地面へと落とされる。
普段の彼女ならば出来なかったであろう、素晴らしい反応である。
「やるじゃねーか。こっちは任せたぜ」
「あんたに任される謂れは無い」
手並みを褒める魔理沙には一瞥もくれず、美鈴はそう言い捨てた。しかし、その唇の端が僅かに持ち上げられる。
「でも、ありがとう。正直助かるわ」
「礼にゃ及ばねーよ。私はただの代理だからな」
相変わらずわけの解らないことを言う魔理沙に、レミリアと咲夜は揃って怪訝そうな顔をする。
一方、美鈴はもはや、その意味を考えるつもりが無いらしく、表情に変化を与えない。
「頼むから、私が行くまで死なないでよね」
「そいつは私の台詞だぜ」
不敵に笑いながらそう言うと、魔理沙は再び箒に跨がり、ふわりと宙へ浮かび上がった。
「さて、と。屋上で私に倒されるんだったよな。早く行こうぜ」
「相変わらず、不遜な人間だこと」
額に青筋を浮かび上がらせつつ、レミリアも空へと舞い上がる。二人はその速さを競うようにして、館の上へと飛んで行った。
その様子を見上げていた咲夜に、すかさず美鈴が襲いかかる。彼女は音もなく咲夜の足元へと潜り込み、首元を狙って勢いよく蹴り上げた。
まともに当たれば死んでしまうかも知れないが、そんなことを気にしながら闘っていたのでは、絶対に勝てない。それどころか、本気で殺すつもりで挑んでも、なお咲夜には届かないのである。
案の定、美鈴の脚は何もない空中を穿つ。彼女はすぐさま腕を使ってその場から飛び退き、自分に向かって来ていた数本のナイフを避けた。
姿を消した咲夜はいつの間にか、つい三秒ほど前まで美鈴が居た場所に立っている。
「今のを避けますか。やっぱり咲夜さん、能力を差し引いても人間離れしすぎですよ」
「よく言われるわ」
美鈴は体をぐるりと回転させ、四方に出現したナイフを片端から叩き落とす。
更に、そのうち二本が咲夜に向けて投げ返された。咲夜は手に持った一本のナイフで事も無げにそれらを弾く。
「美鈴。ハンデをあげる」
「…貰えるものは貰いますけど、どういう風の吹き回しですか?」
「別に。ただの気まぐれよ」
咲夜は何の意味もなく気まぐれを起こすような性格ではない。
無論、こんなことを言い出したのにも、それなりの理由が有るはずである。もっとも、それを説明することは絶対に無いであろうが。
彼女は何処からか一つの砂時計を取りだすと、それを美鈴に投げ渡した。
屋根の上では、レミリアと魔理沙が空中で互いに距離を取って対峙していた。
「まったく。あの分からず屋を懲らしめてお仕舞いだと思っていたのに、どうして貴方が出てくるのかしら?」
「あいつには借りがあるからな」
「何の借りだか」
「お前も、よく知ってるはずだぜ!」
魔理沙が大量の魔法弾――つまりは魔力の塊を周囲にばらまき、それらが一斉にレミリアに向かって集まる。
瞬く間に包囲されたレミリアであったが、それに動じることもなく、体を無数の黒い蝙蝠へと変化させた。その一匹一匹が迫り来る弾幕を避けながら散らばっていく。
一箇所に集結した魔法弾が小さな爆発を起こすが、既にその中心から離れている蝙蝠たちには届かなかった。
魔理沙は首を動かして辺りを見回す。しかし、漆黒の蝙蝠は音もなく夜の闇に紛れており、その姿を見付け出すことが出来ない。
数秒が経過した後、魔理沙の背後、下方から数百の紅い針が襲いかかる。彼女がそれに気が付いた時には、それらはもはや回避不可能な所まで接近していた。
ところが、魔理沙に突き刺さるはずだった針は、その体に触れる直前で、鉄板に衝突したような音を立てて片端から弾き飛ばされる。
「防護魔法をかけて来たの?」
「まあな」
「面倒ね」
人の姿へと戻ったレミリアは、そっと館の上に降り立った。それから一呼吸置いて、屋根にヒビが入るほど強く踏み込み、彗星の如き速さで空へと跳ねた。
魔理沙は慌てて乗っている箒ごと体を横に動かし、鋭く尖らされた吸血鬼の爪を紙一重の所で避ける。すかさず振り向き、自分を通り過ぎて更に上空まで行ったレミリアに向かって数十の魔法弾を放つが、それらは全てレミリアの腕の一薙ぎでかき消されてしまう。
「なあ、レミリア。勝負の途中で悪いんだけどさ。一つ、訊いても良いか?」
「何かしら?」
「どうして、あの時、霧を出した?」
レミリアの背に浮かぶ紅い月を見て思い出したのか、魔理沙は突然、古い話を持ち出してきた。
彼女が言っているのは数年前、初めてこの紅魔館に来ることになった異変のことである。
その異変では紅い色をした深い霧が幻想郷を覆い、その元凶である吸血鬼を退治するべく、魔理沙や博麗の巫女が個別に館の中へと乗り込んで来た。
結果として、レミリアは巫女との決闘に破れ、霧を出すことを断念せざるを得なくなったのであった。
「決まってるでしょ。鬱陶しい太陽の光を遮るためよ」
「それだけか?」
「…何が言いたい?」
にわかにレミリアの表情が強張る。
「あれが切っ掛けだったよな。あいつが地下から出てきたのは」
異変が解決されて以来、たびたび館を訪れるようになった魔理沙や巫女とレミリアの会話を、フランドールは地下で聞いていた。
それによって、彼女は外から来た人間に強い興味を示し、館の外に出たいと表立って主張するようになった。
そして、それから間もなく、レミリアは彼女の地下室への監禁を解いたのである。
「それがどうしたのよ」
「しらばっくれんな。運命通りだったんだろ?」
「何のことだか、解らないわ!」
金切り声を上げたレミリアの周囲に大きな魔法弾が幾つも出現し、眼下の魔理沙に向かって一直線に飛んで行く。
対する魔理沙もほぼ同じ数、同じ大きさの魔法弾を呼び出し、飛んでくる物と衝突させた。一部の魔法弾が相殺しきれず、魔理沙に命中して弾け飛ぶが、彼女に堪えた様子はない。
「素直になれよ。お前も本当は」
「黙れ!」
レミリアの手の中に生まれた一本の槍が、魔理沙に向かって投げつけられる。
先ほどのレミリア自身より何倍も速く飛んで来た槍に反応出来ず、魔理沙は正面からそれを受けてしまい、斜め下に向かって吹き飛ばされた。
槍は彼女を箒から強引に引き離し、轟音とともに館の屋根に衝突した。
館の庭では、微かに息の上がった咲夜が冷たい目をして佇み、その前方で美鈴が膝をついている。
咲夜の右方、館の壁際の地面には先ほどの砂時計が置かれており、さらさらと時の経過を伝えていた。
「あと二分あるけれど、もう限界?」
「冗談言わないでください」
美鈴の左腕と胸部にはナイフが深く刺さっている。
彼女はそれらを右手で強引に引き抜いて投げ捨てると、口元に笑みを浮かべつつ立ち上がった。ナイフを抜いたことにより傷口から血が溢れ出すが、全く意に介そうとはしない。
「これぐらい、何でもないですよ」
「貴方が倒れてくれれば、すぐにお嬢様を止めに行けるのに」
そう呟いて、咲夜はチラと屋根の上を見た。つい先ほど聴こえてきた衝突音を気にしているのであろう。
その様子を見た美鈴が「ふふっ」と笑い声を漏らす。
「何よ」
「やっぱり優しいですね、咲夜さんは」
先ほどレミリアが見せた跳躍と比較しても遜色ないほどの、恐るべき速さで咲夜の背後へと回り込んだ美鈴の手刀が、その延髄を狙って放たれた。
自らの衝突によって砕き割られた屋根の上で、魔理沙は空を仰ぐようにして倒れていた。その瞳には、空を覆う満天の星空が映し出されている。
彼女はむくっと上半身を起こすと、槍の穂先が当たった腹部を手で押さえた。
「今のは効いたな…」
「まだ動けるとは」
上空から降りて来たレミリアが、空中で魔理沙を見下ろしながら感嘆の声を漏らす。
先の攻撃は単なる威(おど)しではない。人間はおろか、多少強い程度の妖怪でも確実に仕留めることが出来るほどの威力で放ったものである。
「大した強度ね、その防護魔法。どれくらい掛けて練り上げたのかしら」
「さてね。一週間かな」
なるほど。その労力に見合った防御力は十二分に得られている。守備に関しては及第点であると言えよう。しかし、耐えるだけでは戦いには勝てない。
魔理沙は完全に攻守の配分を誤っている。防護魔法に力を使いすぎたのだ。レミリアはそう確信した。
その証拠に、彼女はこれまでに、これといって大きい魔法を攻撃に使っていない。日頃から愛用している小型の八卦炉も碌に使わない始末である。
「そんなもので私に勝てるとでも?」
「ああ。勝つつもりだぜ」
相変わらず分を弁えない人間である。
その残渣(ざんさ)のような魔力で何をしようと、レミリアに傷を付けることすら叶わないことは分かっているであろうに。
それでも彼女が戦うのは、囚われの吸血鬼のためか。それとも、死に急ぐ門番のためか。
いずれにせよ、この娘もまた、大変なお人好しであることは間違いあるまい。
「理解に苦しむわ。どうして、そこまでするの?」
「そうだな。友達だから、とか。そんなとこじゃないか?」
「まるで他人事みたいな言い方ね」
「ああ。他人(ひと)のことだからな」
「…どういう意味?」
魔理沙は懐から小型の八卦炉を取り出し、表面の埃をぱたぱたと払いながら話を続ける。
「本当はフランを自由にしてやりたいくせに、あいつがあまりにも大切すぎて、なかなか踏ん切りをつけられない」
「何を」
「そんな友達をさ、見てられないんだってよ」
「…ッ!」
レミリアはようやく気が付いた。彼女の後ろに潜む影に。彼女をここへ送り込んできた、七曜の魔女の存在に。
「言ったはずだぜ。私は代理だって」
魔理沙はまた懐に手を入れ、小さな石を取り出すと、それを小型八卦炉の中へと放り込んだ。
間もなく、周囲の空間に魔力が満ちる。砕けた屋根の破片が空へと舞い上げられ、大気が低い音を立てて振動する。
生粋の魔法使いが七日七晩の時を掛けて、たった一つの石に詰め込んだ膨大すぎる魔力が、人間である魔理沙の容量を遥かに超えて溢れ出しているのである。
「さあ、受け取れよ、レミリア! パチュリー・ノーレッジさんからの、お届け物だ!」
レミリアは再びその手に槍を召喚したが、もはや時、既に遅し。八卦炉の噴射口は真っ直ぐにレミリアへと向けられていた。
龍の神かと見間違うほどの、眩い巨大な光の帯が、幻想郷の空を駆ける。
光は瞬く間にレミリアをその身に呑み込み、悲鳴を上げる暇も与えず、その体を塵へと変えた。
館の主人の部屋の中。その床に敷かれた絨毯の上で寝転がり、魔理沙は空に浮かぶ紅い月を眺めていた。彼女の周りには瓦礫が散乱している。
「パチュリー…。想いを籠めすぎだぜ…」
呆れたように笑いながら、ボソッと呟く。
精霊の力も借りず、あれほどの純粋な魔力をこの娘に託したということは、当の本人は今頃、疲れて眠っているのであろう。
特大の魔法を放った反動で天井に開いた大きな穴の淵から、パラパラと砂が落ちてくる。
その上から、二つの頭が揃って中を覗き込んできた。
「魔理沙!」
「生きてる!?」
慌てて、咲夜と美鈴が部屋の中へと降りて来る。
咲夜は服が少し汚れているだけであるが、美鈴の方は酷い有り様であった。体の至るところに砂がつき、服の胸元は赤く滲んで、左の前腕からもぽたぽたと血が滴り落ちている。
「生きてるよ」
魔理沙は徐に体を起こし、キョロキョロと頭を動かし始めた。何かを探しているらしい。
「箒なら庭に落ちてたわ」
「…拾って来てくれても良かったんだぜ?」
「それより、さっきのバカでかい光は何だったのよ。お嬢様は?」
状況が把握出来ない美鈴の質問を受け、彼女は天井の穴を仰ぎ見ると、すっと空を指差した。
「レミリアは星になったのさ」
次の瞬間、上から箒が落ちてきて、その柄の端の部分が魔理沙の額に命中する。
彼女は小さい呻き声を上げると、再び仰向けに倒れ込んだ。
「なってないわよ」
何事もなかったような姿のレミリアが、澄ました顔をしてゆっくりと部屋に降りて来た。
「お嬢様。ご無事で何よりですわ」
「何だよ、しぶといな」
魔理沙は痛む額を手でさすりながら、傍らに落ちた箒を拾いつつ、その場で立ち上がった。
既に、彼女の纏っていた防護魔法は消え失せており、八卦炉に入れた石の魔力もすっかり無くなってしまっている。
「じゃあ、二回戦だな」
それなのに、この自信は何処から湧いてくるのか。既に手札を使い切ったであろうにも関わらず、その眼光は全く衰えていない。
そんな彼女の言葉に呼応するように、美鈴も納めていた気を復活させた。こちらも到底、満身創痍の体とは思えぬ気迫である。
更に、それらに続いて、咲夜もまた何処からかナイフを取り出した。あろうことか、その瞳と殺気は、主人であるレミリアの方を向いている。
「咲夜。それは何の真似?」
「申し訳ございません。残念ながら、美鈴に負けてしまいまして」
べっとりと血の付いたナイフを顔の前で横に振りながら、咲夜はにっこりと微笑んだ。
「え、何? お前、勝ってたのかよ」
如何にも意外そうな魔理沙を横目で見ながら、美鈴は「ふふん」と笑って胸を張る。
四分間、気絶しなかったら勝ちという、百歩も二百歩も譲った条件下での勝利とは思えぬ威張りようである。
もっとも、時間制限が無かった場合、終始一撃必殺を狙い続けた彼女が咲夜を倒せなかったとも限らないが。
ルール無用を公認した以上、咲夜がどんな行動に出ようと、それを咎めるつもりはない。
レミリアはしばらく黙って三人の方を見ていたが、やがて体の向きを変えると、部屋の出入口である扉に向かって、つかつかと歩きだした。
「咲夜。いつも通り、美鈴の手当てをしなさい」
「はい」
既に咲夜の手には、赤く染まったナイフの代わりに真っ白い包帯が持たれている。
美鈴は力が抜けたようにその場に座り込むと、「ふう」と息を吐いた。
「お、おい。何処行くんだ?」
「あら。そんなの決まってるでしょ」
魔理沙が戸惑った様子で声をかけたのも気に留めず、レミリアは悠々と扉を開けた。
「可愛い妹の所へよ」
四回のノックの後、レミリアが重厚な扉を開けて部屋に入ってきた時、フランドールはソファに寝そべって本を読んでいるところであった。
「あ、お姉様。久しぶり」
「ええ、久しぶりね、フラン」
レミリアは扉を閉めずに部屋の中へと歩を進める。
見れば、ソファの近くのテーブルの上には、人里で借りるか買うかしてきたのであろう、幻想郷の外の世界の書物が何冊か置かれている。
たった今、フランドールが手にしている本もそれらと同じで、本の題名には『諏訪』の文字が入っていた。
それらを見て、レミリアは思わずクックッと笑う。咲夜が何の本を差し入れていたのかなど、全く気にもしていなかったのである。
「ねえ、フラン」
「なあに?」
フランドールは栞を挟み込んで本を閉じ、ひょい、とソファから飛び降りた。
それから、本をそっとテーブルの上に置き、レミリアの目の前まで歩いて来る。
「…貴方、本を破かなくなったわね」
「咲夜に怒られるもの」
「壁もあまり壊さなくなったし」
「お姉様は壊すのにね」
「うるさい」
余計な茶々を入れられ、レミリアの眉がキュッとつり上げられる。
フランドールは手で自分の口を押さえつつも、「だって本当のことじゃない」とでも言いたそうな目をしていた。
「…フラン。貴方はもう、外へ出ても心配ないわ」
「うん。知ってる」
間髪入れぬ即答であった。レミリアの口から深い溜め息が漏れる。
親友に背中を押されるまで決断出来ずにいた自分と違って、フランドールの呪縛は疾(と)うに解けていたのだ。
薄々勘付いてはいたが、それならば何故、強引に出て行ってくれなかったのか。そうしてくれれば、早々に諦めもついたであろうに。
そんなレミリアの気持ちを察したのか、フランドールは悪戯を企てる悪童のような笑みを浮かべた。
「だって、お姉様が言ったのよ?」
「…何のこと?」
「忘れちゃった? 私が、お姫様なの」
それは、ずっとずっと昔のこと。
未だ己の力の強さすら認識出来ていなかった無邪気な彼女との、ほんの些細な会話。
ようやく、その時のことを思い出し、レミリアは声を上げて笑いだした。
「貴方、そんなものを待ってたの?」
「そーよ。素敵でしょ」
「そうね。羨ましいわ」
「なのに、どうしてお姉様が迎えに来ちゃうのよ。やり直して」
フランドールはぷい、とそっぽを向いて、開け放たれた扉を指差した。
「はいはい。今、呼んで来てあげる」
さて、どちらを呼ぼう? ここを間違えると、また臍を曲げられてしまう。
いや、考えるまでもないか。
あちらは所詮、魔王を裏切った魔女の代理に過ぎぬ。第一、背丈が足りない。
そうだ。己の運命に抗ってでも懸命に戦った者こそが、その役目を与えられるのに相応しいのだ。
独り静かに考え事をしつつ暗い廊下を歩きながら、レミリアはまたクスリと笑う。
「それで十一人目だったのね」
――ねえ、お姉様。
――何かしら。
――私はどうすれば、ここから出られるの?
――そうね、貴方が勇敢な王子様に助け出されれば、かしら。
――王子様。素敵ね。
――だから、良い子にしていなさい。
「あの…、フランドール様。本当にこのまま戻るんですか?」
「そーよ。まさか重いなんて言わないわよね?」
「そりゃ言いませんけど、お洋服に血がつきますよ」
「私を何だと思ってるのよ」
「…そうですねぇ。こうやってると、何だかお姫様みたいですね」
大満足の姫君を両腕で抱え、傷だらけの王子は階段を上って行った。
以上が、我が最愛の妹が自由を手に入れるまでの物語である。
これからの彼女の話が聞きたいなら、他の誰かをあたってほしい。
何せ私も、この館の外までは目が届かないのでね。
――何かしら。
――私はどうして、ここに居るの?
――それは、貴方のためよ。
――それじゃ、意味が解らないわ。
――いつか、きっと解るはず。
――ねえ、お姉様。
――何かしら。
――私はいつまで、こうしているの?
――それは、私にも判らない。
――これじゃ、囚われのお姫様だわ。
――それなら、私は魔王様かしら。
――ねえ、お姉様。
――何かしら。
――私はどうすれば、ここから出られるの?
――そうね、貴方が…。
これから一つ、話をするとしよう。
どんな話かは、聞いてみれば分かるであろう。
だから、しばしの間、黙って耳を傾けていると良い。
ことの始まりは、ある日の午後。霧の湖の畔に立つ吸血鬼の館、紅魔館を一柱の神が訪れたことに端を発する。
館の門番である紅美鈴は、その神のことを強く警戒したが、無理矢理に館に侵入する意思が無いことを知ると、彼女と世間話を始めた。
美鈴は相手の家族の自慢話を聞かされるとともに、館の住人の奔放さや、自らの労働環境の劣悪さについて愚痴を溢していた。
他愛のない雑談を続けていく中で、来訪者である神、洩矢諏訪子が、ふと一人の娘の話に強い興味を示した。
話題に上がった娘の名は、フランドール・スカーレット。この館の主人、吸血鬼レミリア・スカーレットの妹である。
彼女は姉であるレミリアの命によって、実に四百と九十五年もの間、館の地下室に閉じ込められていた。
近年になって地下室からは出ることが許されたが、それでもなお、館の敷地より外に出ることは叶わない。
「それじゃあ、生まれてこのかた、この陰気な館から出たことがないってこと?」
「私が知る限りは、そうですね」
時折、美鈴が主人に対して、フランドールを外に出さないのかと尋ねても、「それがフランのためなのよ」と言われるだけで碌に会話にすらならなかった。
フランドールは生来、全てを破壊する力をその身に宿している。仮に乱用すれば、どれほどの被害が生まれるかも判らないほどの強大な力である。
おそらく、レミリアが彼女を館の中に繋ぎ止めておきたいのは、その能力が原因であろう。美鈴は諏訪子にそう説明した。
「それぐらいなら、何とかなるんじゃないかな」
諏訪子は軽い調子で言う。
仮に、自分がフランドールの力で十回や二十回破壊されようとも、何ら支障は無いと。
神にありがちな傲慢な発言ではあるが、これは断じて虚勢の類ではなかった。
「一度、うちにお泊まりさせてみない?」
この提案に、美鈴は大層驚いた。皆から恐れられているフランドールを自ら招き入れようとする者があるなどと、考えたこともなかったのである。
しかし、そんなことを主人が許すはずがない。美鈴が慌ててそう伝えると、諏訪子は特に気分を害した風でもなく、顔にうっすらと笑みを浮かべた。
「そっか。まあ、家庭の事情だからね」
自分からレミリアに何かを言うつもりはないとした上で、彼女はこう付け加えた。
「だけど、もし来られるのなら、いつでも言ってね」
この時、諏訪子の胸中にどれほどの悪意があったのか。それは誰にも判らない。
まして、これから語られる話の中に、この女は二度と顔を出してこない。
ともあれ、彼女の発言が此度の一件の発端となったことは、疑いようもない事実であった。
フランドールが窮屈な地下室から解放されて以来、美鈴はたびたび彼女の遊び相手になっていた。
天性のものか、はたまた長い監禁生活のためか、時に論理と倫理を度外視したがるフランドールの性格に難儀しながらも、美鈴はその役目を嫌厭する様子を見せたことが無い。むしろ、進んで引き受けようとしている節すらある。
そのことは、彼女が主従関係の延長だけでフランドールと接しているわけではないことの証左であると言えよう。
美鈴は幾度もフランドールと言葉を交わして、彼女が館の外に行きたがっていることをよく知っていたし、出来ることなら、そうさせてやりたいとさえ思っていた。
そのため、これまでに例のない諏訪子の申し出は、彼女の軟禁を解く良い機会になるのではないかと思ったのであろう。
諏訪子がその場から去っていくのを見届けると、美鈴はすぐさま館の中へ入り、主人の下へと向かったのであった。
「貴方は、自分が何を言っているのか、理解しているのかしら?」
窓一つ無い幽暗な廊下にて、美鈴からフランドールを外泊させる提案を聞かされたレミリアは、如何にも不愉快そうな声で尋ねた。
その傍らには館のメイド長、十六夜咲夜が口を閉ざして立っている。
「…はい」
美鈴が返答するまでに幾らかの時間を要したのは、主人の機嫌の悪さを察してのことであろう。
「そう。それなら、フランが私の可愛い可愛い妹だということは、知ってる?」
聞くまでもないことである。
「存じ上げています」
「だったら」
その声に明確な怒りの色が表れる。
レミリアは、生まれながらの蒼白な顔に埋め込まれた紅い瞳をギラギラと光らせている。
「もし、フランに何かあったらどうするのよ」
どう考えても、何かあるとしたらフランドールではなく、その周りの方だろう。
問い詰められている美鈴も、二人のやり取りを傍観している咲夜も、そんな思いが明らさまに顔に出ていた。
しかし、レミリアが言いたいのは、そういうことではない。懸念は、破壊の更にその先に在るのだから。
美鈴もその真意を全く理解出来ないほど愚かではないが、ここで退いては過去の問答の二の舞である。
「ですが、フランドール様だって、たまには…」
己の分を弁えず話を続けようとする美鈴に、レミリアの怒りはささやかな殺意へと変貌する。
その足が美鈴の方へと歩きだそうとしたところで、咲夜が二人の間に割って入った。
吸血鬼の紅い瞳が、その顔をギロリと睨む。
「お嬢様。使用人の非礼は、私の不徳の致すところです」
「咲夜さん…」
「ですから」
突如、美鈴の前に三本のナイフが現れ、そのまま彼女の胸へと突き刺さった。
これは、人間でありながら不可思議な力で時間を止めることが出来る咲夜の、得意とする攻撃方法の一つである。
実際にナイフが体に触れるのは時間が動き出してからであるため、回避するのは不可能ではない。しかし、それは攻撃を予想出来た場合のこと。
「お嬢様の手を煩わせることはありません」
「あ…」
鋭い痛みが美鈴を襲う。彼女が強靭な妖怪ではなく脆弱な人間であったなら、文句なく命を落としていたであろう。
それでも、そのナイフは彼女の意識を奪うのに十分な威力を持っていた。
急速に薄れていく意識の中で、美鈴は咲夜の冷徹な言葉を聞いた。
「美鈴。目が覚めたら、速やかに持ち場に戻りなさい」
意識が戻った時、美鈴は何処かの壁にもたれかかって座っていた。
ぼんやりと目を開けた彼女の前で、何者かがしゃがみこんで、その顔をじっと見つめている。
「ねえ、美鈴。廊下で寝るのは行儀が良くないわ」
「うわ!? フランドール様!」
如何にも。その何者かとはレミリアの妹、フランドールであった。
美鈴がキョロキョロと辺りを見回してみると、そこは先ほど倒れた廊下に相違ない。
しかし、彼女には廊下の真ん中に倒れ込んだ記憶しかなかったのにも関わらず、何故か今は壁際に座らされている。
また、ナイフが突き刺さった胸元には包帯が巻かれ、傷の手当てが為されていた。
「また咲夜に怒られるよ?」
「…そうですね」
何処か悲しげに呟いた美鈴に、フランドールは首を傾げた。いつもの彼女なら、軽口の一つも叩くような場面だったからであろう。
美鈴はしばらく何事かを思案した後、座ったまま姿勢を正した。
「…フランドール様」
「なーに?」
「博麗とは別の、神社の人が…、遊びに来ないかって言っていらしたんですけど」
神社の人とは、言うまでもなく諏訪子のことである。
今、この幻想郷でまともに機能している神社といえば、前々から幻想郷の結界を管理している博麗神社か、諏訪子が居る守矢神社の二つしかない。
「わりと新しい神社のことね。妖怪の山だっけ」
「はい」
全く館の外に出たことがないフランドールといえども、美鈴や咲夜、新聞記者の鴉天狗、頻繁に館に忍び込む人間の魔法使いなどから、幻想郷の話を聞くことはある。
地域の呼称や施設の存在ぐらいは、それなりに心得ていた。
「良いんじゃない。お休み貰えるなら、行ってきたら?」
「いえ、私じゃなくて」
思わず苦笑する美鈴。
フランドールはとぼけるのをやめて、小さく溜め息を吐きつつ肩をすくめた。
「無理無理。あいつが許してくれないもの」
「あいつ呼ばわりはダメですよ」
「律儀ねー。さっきもあんな目に遭ったのに」
その言葉に、美鈴は驚きを隠せなかった。
どうやら、先ほどの成り行きはフランドールも承知のことであったらしい。
彼女は意地の悪い笑みを浮かべ、滔々と語りだした。
「だけど、そうね。それが正解。彼女に逆らってはいけないわ。あなたは館の使用人。お姉様の僕(しもべ)なんだもの」
いきなり妙に芝居めいた口調で話す彼女の言い分を聞き、美鈴は目を伏した。
主人に逆らうなということは、つまるところ、彼女を外出させるのを諦めろという警告に他ならない。
「…フランドール様は、外に出たくないんですか?」
「行きたいわ」
美鈴の目が再びフランドールの顔を見る。
彼女は窓の無い壁を見つめて、その瞳には映らない、まだ見ぬ館の外の世界へと思いを馳せている。
「行きたいに決まっているじゃない。私はもう何百年も、この館の中に閉じ篭っているのよ?」
数年前。未だ地下に閉じ込められていた頃、実際に館の外へ出て行こうと、姉が居ない隙を見て暴れだしたこともある。
しかし、結局その時も、姉の友人である魔法使いや、外から来た人間の妨害に遭い、その願いが果たされることはなかった。
後でそのことを聞いたレミリアが、彼女に地下室から抜け出る許可を与えたものの、それで心が満たされたわけでもない。
「地下室から出してもらえたぐらいで、満足出来るもんですか。私だって、まだまだ我がままを言いたいお年頃なんだから」
「だったら」
「お姉様は許さない」
有無を言わさぬ強い語勢で、美鈴の言葉が遮られる。
「美鈴だって、死にたくはないでしょ?」
「そんなこと…」
それ以上は言葉を紡げなかった。
事実、主人であるレミリアに許しを出すつもりが無い限り、彼女がフランドールにしてやれることは何も無いのである。
「早く門に帰りなよ。私も、今は遊ぶ気分じゃないし」
そう言い残して、フランドールは廊下の闇へと消えて行った。
その場に残された美鈴は歯を食い縛り、右の拳で壁を殴り付けた。どうやら加減が上手くいかなかったらしく、壁に小さなヒビが入る。
彼女は「しまった」という顔をして、しばらく固まっていたが、やがて何事もなかったように立ち上がり、そそくさとその場を離れた。
しかし、この館において、レミリアに一切の隠し事は出来ない。ほんの五分後には壁の修理をしに戻ってくる羽目になったのであった。
美鈴は諦めなかった。
主人の怒りを買い、メイド長から手痛い仕置きを受けたあの日から、必ず日に一回か二回はレミリアにフランドールの外出許可を求めるようになっていた。
その都度、咲夜から――時にはレミリア当人から、人間ならば容易く死に至るほどの制裁を加えられたが、それでも彼女は諦めようとしない。
何故(なにゆえ)、そこまで躍起になっているのか。その理由は、美鈴自身が理解していたかどうかも疑わしい。
おそらくは、己の身を案じてくれたフランドールへの感謝の気持ちと、直(じか)に聞いた彼女の本音が、その主な原動力となっていたのであろう。
美鈴が日課として嘆願をするようになってから数日が経過した、ある日のこと。
その日は空に黒い雲が広がる雨模様で、雨を嫌うレミリアの機嫌は殊更に良くなかった。
「お嬢様! フランドール様のことでお話が…」
そこへ、いつものように申し立てにやって来た美鈴は、主人のその幼い外見にそぐわぬ怪力で頭を掴まれ、館の門に向かって勢いよく投げ飛ばされた。
彼女は庭で一度跳ねた後、門に激しく叩き付けられ、そのまま意識を失った。
「黙って番をしていなさい」
その言葉はおそらく、美鈴の耳には届いていなかったであろう。
それから、ほんの数分後。
ひしゃげた門を乗り越えて、その下で気絶している門番をチラチラと見ながら、館の敷地内へと侵入してくる者があった。
「何だ、こりゃ。強盗でも来たのか?」
自分のことを棚に上げて、とは、この娘のために生まれてきた言葉に違いない。
この侵入者、普通の魔法使いを自称する人間、霧雨魔理沙こそ、頻繁に館を訪れては地下にある巨大図書館の蔵書を失敬して帰る不届き者の強盗なのである。
魔理沙は倒れている美鈴のことを気にかけながらも、目的の図書館に向かうべく館の中へと歩を進めた。
「また門番が寝てたぜ。ちょっと不用心すぎるんじゃないか?」
「同意はするけど、貴方に言われたくないわね」
図書館で小奇麗なテーブルの前に座り、いつも通り本を読んでいた魔女パチュリー・ノーレッジは、無断で入ってきて早々に館の不用心さを謗る魔理沙をジロリと睨んだ。
「貴方みたいのが来なければ、門番なんて居なくても平和なのよ」
「ははあ、なるほど。つまり、私はあいつの存在意義になってやってるわけだ」
まったくもって、口の減らない娘である。
「いい加減、盗んだ本を返しなさいよ」
「借りてるだけだぜ。死んだら返す」
「貸した覚えはない」
パチュリーから白い目で見られるのも構わず、魔理沙は当然のように本棚を物色し始める。
普段であれば、パチュリーも彼女を魔法で撃退しようと試みるのであるが、この日は持病の喘息の調子が良くなかったらしい。不愉快極まりないほどに堂々とした泥棒を恨めしそうに見ながら深い溜め息を吐くと、諦めて本の続きを読み始めた。
「ところでさ」
ご丁寧に脚立まで取り出してきて本棚を見ていた魔理沙が、不意に話しかけた。
「今日の曲者は私だけか?」
「知らないわ。…どうして?」
「門がへこんでた」
「ああ、そう」
パチュリーはそれで問題が解消したとばかりに口を閉ざしたが、魔理沙の疑問は解決していない。
彼女は脚立から降りて来て、テーブルを挟んでパチュリーの反対側に置かれた椅子に腰を下ろすと、門の異常について説明を求めた。
しばらくは聞き流していたパチュリーであったが、あまりに喧しく問われるので参ってしまい、とうとう本に栞を挟んで魔理沙の質問に答えることにした。
「美鈴がバカをやってるのよ」
「バカ?」
パチュリーは簡潔に説明した。諏訪子が館を訪れたこと。それを切っ掛けとして、美鈴がフランドールを連れ出そうと躍起になっていること。
粗方話し終えたところで、話を聞いていた魔理沙がきょとんとした様子で言った。
「行かせてやれば良いじゃねーか」
それ以外に結論の在るはずもないと言いたそうな表情である。
魔理沙はこれまで館へ忍び込んだ際に、何度もフランドールと遭遇している。初めのうちは退屈凌ぎとして危険な戦いを強いられた魔理沙であったが、幾度もの接触を経て、今では彼女の数少ない話し相手の一人となっていた。
しかし、彼女が館の外に出られない理由について――あるいは全く外に出たことがないという事実については、どうやら知らなかったらしい。と言うより、それを話には聞いていながら、フランドールの普段の様子を見て、そう厳密なものではないと捉えていたようである。
「レミィが許さないわ」
「そんなの、他人(ひと)が決めることじゃないだろ」
魔理沙の語気が明らかに強くなる。
しかし、パチュリーに動じた様子はない。
「貴方らしい言い分ね」
「何だよ」
「別に」
魔理沙が人里にある実家から勘当されていることは、周知の事実であった。
もっとも、パチュリーもその詳しい経緯など知りはしない。ただ、彼女はたとえ家系や血縁の関係があろうと、他者に縛られることを好まない。そう認識しているだけである。
「でも、貴方は一つ誤解してるわ」
「何を」
「フランは、ああ見えて、レミィを信頼しているの」
「アイツが?」
心から意外そうな声が出る。無理もない。フランドールと話をしている時、魔理沙は姉の愚痴ばかり聞かされているのだから。
「そうでなければ、あの子が未だに館の中に居る理由が説明出来ないでしょう?」
本気で出ようと思えば、出られる機会は幾らでもあった。その気になれば、館そのものを破壊することさえ可能なのに。
それでもフランドールが館の中に留まっているのは、それが彼女のためだというレミリアの言葉を信じているからだろうとパチュリーは語る。
「それが正しいかどうかも判らないのにか」
「違うわ。あの子にとっては、それが正しいのよ」
「何で」
「何故なら、レミィはフランを愛しているから」
その説明に、魔理沙は頭を抱えた。
パチュリーが口にした単語の一つ一つは知っていても、その全体の意味が理解出来ないらしい。
「何なんだよ、その理屈は」
「解らない?」
「解るか!」
手のひらでテーブルの上面を叩き、魔理沙が大声を上げた。
「それじゃあ、私の話はここまでね」
冷ややかにそう述べると、パチュリーは再び栞を挟んだ本を開き、その続きを読み始める。
魔理沙はしばらく何事かを喚いていたが、今度は先ほどと異なり、完全に黙殺されてしまう。ついに、彼女もパチュリーとの会話を諦めざるを得なくなった。
「…もういい。今日はもう帰る」
「あら、そう。二度と来なくて良いわよ」
それには何も言い返さず、魔理沙は如何にも不機嫌そうな顔をして、図書館を後にした。
魔理沙が館の正面から出てきた時、美鈴は既に意識を取り戻し、門の歪みを直しているところであった。
「あ。あんた、また勝手に入ったね!」
「お前が寝てるからだろ」
未だもって仏頂面をしたままの魔理沙が答える。
美鈴は間もなく異常に気が付いた。普段なら、風呂敷に包んだ大量の本を提げて出てくる彼女が、今日は手ぶらで帰ってきている。
「今回は収穫なし? フランドール様にでも遭ったの?」
「違ぇよ」
いつも無駄に明るい彼女らしからぬ無愛想な反応に、美鈴は首を捻る。
魔理沙はそんな美鈴の顔を見て、「はあ」と溜め息を吐いた。
「人の顔見て溜め息吐かないでよ」
「なあ、美鈴」
「何?」
「どうして、フランは自分で外に出ようとしないんだ?」
美鈴は眉をひそめた。
昨今、自分がしていることと無関係な質問だとは思えなかったのであろう。
「誰から聞いたの?」
「私が訊いてるんだぜ」
「すっとぼけてんじゃないよ。咲夜さん?」
「いいや。パチュリーだ」
「パチュリー様が?」
諏訪子の来訪より現在に至るまで、美鈴がパチュリーに相談したことは一度も無かった。と言うのも、相談しようとして図書館を訪ねても、本を読むのに忙しいからと話すら聞いてもらえなかったためである。
そのパチュリーが今回の件について魔理沙に話したということは、美鈴にとって意外な事実であったらしい。
「私は質問に答えたぜ。次はお前の番だ」
そう言って魔理沙は美鈴を指差し、自分の問いへの回答を迫った。
「そんなの簡単よ。お嬢様が許さないから…」
「おい。お前こそ、そらとぼけんな」
彼女が聞きたいのは、そんなことではない。だからと言って、パチュリーにされたような答え方も求めてはいない。
図書館での会話の内容など知らない美鈴であったが、彼女が解りやすい説明を欲していることは察知したらしく、しばらく頭の中で自分の考えを整理した。
「…たぶん、怖いからだと思う」
「アイツが何を怖がる必要があるんだ?」
「壊してしまうことを、よ」
世界が広がれば広がるほど、大切にしたいものも増える。
全てを破壊する力を持つフランドールにとって、それは苦悩の種が増えることに等しい。
「そんな繊細な奴だっけ」
「あんたが思ってるより、ずっと優しいわ」
「だけど、そんなの、壊さなきゃ良いだけじゃねーか」
「私もそう思った」
しかし、そう簡単な話ではなかった。
以前、美鈴がフランドールに同じ趣旨のことを言った時、彼女はさも当然とばかりに、こう発言したのである。
――お姉様が、私は存在(もの)を壊すと言っていたわ。
それは遥か昔、彼女がまだ何かを壊すことしか知らなかった頃、彼女にとって唯一の世界であったレミリアが、その心に刻み込んだ呪いの言葉。
それから幾百年の時を経て、ある程度の思慮分別が付くようになった後も、その言葉はフランドールの意識に深く根付いたままであった。
むしろ、彼女がその意味を理解出来るようになってから、より一層強く効果を発揮し始めたと言える。
「どうして、そんなことを…」
「決まってるでしょ」
全ては愛しい妹を守るため。
そのためにレミリアは彼女の世界を狭めた。たとえ彼女が、自分にとっての全てを壊そうとも、後悔しなくて済むように。
だから、たった一度きりの外出であろうと、決して許そうとはしない。その一度が、フランドールの世界を広げてしまう危険がある限りは。
「狂ってるぜ」
「やめて」
魔理沙の率直な感想に嫌悪感を示し、美鈴は唇を噛んだ。彼女自身、思っていても口に出したくはないことなのであろう。
「…悪い」
珍しく素直に謝りつつ、魔理沙は頭を掻いた。
「結局、レミリアにしか出来ない、か」
美鈴のおかげで、彼女はパチュリーが言っていたことを理解出来たようである。
「お嬢様が一言、もう大丈夫だって言ってくれたら、フランドール様は自由になれるのよ」
「そのために、お前は頑張ってんだな」
「…うん」
しかし、それは困難を極める荊の道に他ならない。
言霊の呪いに蝕まれているのは、フランドールだけではないのだから。
「あ、そうだ。咲夜は何て言ってるんだ?」
美鈴と同じで、比較的フランドールと親しい咲夜なら、力になってくれないだろうか。
そんな期待を抱いていたらしい魔理沙であったが、美鈴の表情は先ほどまでに輪をかけて暗くなる。
「咲夜さんはあれからずっと、お嬢様と一緒に居るわ。フランドール様のことについては、何も言ってくれない…」
おそらくは、不干渉を厳命されているのだろうと美鈴は想像していた。
結論を言うと、それは正しい。数日前、レミリアは咲夜に対し、フランドールのことに関して一切の口を挟むな、と命じていたのである。
それを徹底するためか、美鈴との会話さえ必要最低限にしていた咲夜の冷酷な態度に、彼女は少なからず心の痛みを感じていた。
「あんた、しばらく来ない方が良いわ。もし、お嬢様に出くわしたら、どうなるか…」
「おいおい。私は元々、招かれざる客だぜ」
魔理沙はそう言って苦笑しながらも、「ありがとな」と礼を言った。
それが話をしてもらったことに対してなのか、今の忠告に対してなのかは、誰にも判らない。その両方かも知れない。
「それじゃあ。また来るぜ」
「来るなってば」
呆れた様子で苦笑いを浮かべた美鈴に見送られ、魔理沙は自前の箒に跨がり空の彼方へと飛び去った。
翌日、美鈴はいつも通り、レミリアに例の話を持ちかけようとした。
「フランドール様だって、やって良いことと悪いことの区別ぐらい…!」
「何度言えば分かるのかしら」
言い終えるのを待ってももらえず、咲夜から持ち場を離れたことに対する罰を受けた美鈴は、また、しばしの意識不明を経て目を覚ました。
この日の昼寝場所は地下の図書館である。
また床に倒れ込んだのにも関わらず、丁寧に並べられた椅子の上で起き上がった美鈴の目の前には、普段通り本を読み耽るパチュリーが座っていた。
「おはよう」
「お、おはようございます。パチュリー様」
美鈴は身を縮こまらせた。どうやら、図書館を騒がせたことを叱責されるものと思ったらしい。
しかし、そんな彼女にパチュリーが言ったことは、その予想と異なるものであった。
「貴方も懲りないのね。いい加減にしないと、本当に殺されるわよ?」
パチュリーの視線は手に持った本から動いていない。
そのためか、彼女の発言を単なる洒落と受け取ったらしく、美鈴は顔に笑みを浮かべる。
「これでも、体は丈夫ですから」
「二十一分」
突如として呈示された時間に、美鈴はポカンとして言葉を失った。
いったい、何の話かと考え始めてから間もなく、パチュリーが再び口を開いた。
「たった今、貴方が気絶していた時間よ。前に居眠りを咎められていた時と比べると、ざっと三倍くらいかしら」
美鈴の額に汗が滲む。
彼女は自分が倒れている時間など気にしていなかった。ましてや、その時間が従来よりも遥かに長くなっているなどとは、考えもしなかったのであろう。
「貴方の疲れが溜まっているのか、それとも、レミィたちが本気になってきているのか」
おそらくは後者である。パチュリーの声からは、そんな考えが窺われた。
彼女は本のページをめくりながら、続けて言った。
「フランのことは忘れなさい。貴方じゃ役者が足りてない」
これを聞いた美鈴は、にわかに椅子から立ち上がり、パチュリーの目の前のテーブルに両手のひらを叩き付けた。
「それじゃフランドール様はずっとこの館に閉じ込められたままじゃないですか!」
「彼女が何をしてくれたの? 貴方が命を懸けるほどの価値がある?」
その五月蝿さに不快感を示すでもなく、パチュリーは淡々と言葉を返す。
「フランは壊すわ。物も、人も、妖怪も。ただ、全てを壊すだけ。何故なら、それしか出来ないから。…レミィは、いつもそう言ってる」
「そんなことありません!」
両手をテーブルに付いたまま、再び美鈴が声を上げた。
その声の大きさたるや、遥か遠くで本の整理をしていた小悪魔が、何事かと思ってこそこそと様子を見に来たほどである。
「フランドール様だって普通の妖怪みたいに暮らせますよ! お嬢様もそう思ったから地下室から出してあげたんじゃないですか!」
現に、自分や魔理沙は彼女に壊されていないではないか。美鈴が根拠としているのは、概ね、そんなところであろう。
碌に呼吸もせずにまくし立てたおかげで、美鈴は目眩に見舞われる。その顔は幾分か赤みを帯びて、すっかり息が上がってしまっていた。
「貴方がそうやってお人好しだから、この図書館の蔵書も減っていくのね」
パチュリーは読んでいた本をそっと閉じると、何処からか一枚の紙切れを取り出してきて、美鈴の目の前に差し出した。
「これは?」
「レミィからよ」
それは、中央にスカーレット家の文書であることを示す透かしの入った、契約の儀式以外では滅多に使用しない特別な紙であった。
上部に名宛人として美鈴の名が記され、そのすぐ下に要件が簡潔に書き述べられている。
『七日後の満月の夜、討議の席を設ける。』
さらに下部には、この日の日付の記載と、署名が為されていた。それは、レミリアと咲夜の連名であった。
これを読んで、美鈴はその目を大きく見開いた。やがて、書状を持つ手がふるふると小刻みに震え始める。
「満月の夜…。貴方に、その意味が解る?」
「…はい」
月の満ちる夜は、妖怪どもの狂気が最も昂る時である。夜の世界に君臨する王、吸血鬼とてその例外ではない。
無論、そこで穏便な話し合いなど望めるはずもなく、その一文の示すところは、違(たが)う意見を賭けての決闘に他ならないのである。
主人との間に絶望的な力の差がある美鈴にとっては、死刑宣告と言っても過言ではない。
彼女の目から涙が零れる。涙は頬を伝い、文書の上へと落とされるが、紙はその雫を受け入れることなく表面を這わせた。
「美鈴。今なら、まだ間に合うわ。レミィに赦しを」
「お嬢様が…」
パチュリーの言葉を美鈴が遮る。実際には、無理矢理に発言を止められるほどの声ではなかったが、彼女はその口が何を語るのかに興味を持ったらしい。
「お嬢様が、私に戦う機会をくれた…!」
これほど前向きな捉え方をするとは、パチュリーに予想出来たであろうか。
確かにこれまで、美鈴はレミリアや咲夜から一方的に制裁を受けるばかりで、彼女の方から武力を行使した試しはない。
しかし、その許可を得られたところで、彼女に何が出来ると言うのか。主人はおろか、咲夜にも戦闘力では遠く及ばない彼女に。
「呆れたわね」
そう呟くと、パチュリーは椅子から立ち上がって指を振り、先ほどまで読んでいた本をふわふわと浮遊させて本棚へと返した。
その代わりに別の一冊を同じようにして棚から呼び寄せ、それを抱えて図書館の出入口に向かって歩き始めた。
「帰ってきたら、土葬ぐらいはしてあげる」
「どちらへ?」
「外。大規模な魔法の実験をしに行くのよ。言ってなかったかしら」
言ってあるはずがない。ほんの十分ほど前、小悪魔に外出の可能性を示唆する発言をしたのが最初なのだから。
当然、美鈴は初耳であると答え、行き先と帰りの日時について尋ねた。
「場所は幻想郷の何処か。今日から八日間ほど留守にするわ」
「…パチュリー様は、フランドール様のこと」
「興味ないわ」
パチュリーはきっぱりと言い切った。
別段、彼女の助けなど期待もしていなかったであろう美鈴も、ここまで冷たく突き放されては流石に堪えたらしく、またも表情が曇る。
「あの子も私に興味がないもの。何か不満?」
「…いえ」
俯き、視線を床にやりながら、彼女は小さく嘘を吐いた。
本心では大いに不服に感じていても、それを口にしたところで何にもならないのである。
「それじゃあね。これから一週間、心残りのないように過ごしなさい」
「行ってらっしゃいませ」
しんと静まり返った図書館に残された美鈴は、しばらく俯いたまま黙って立ち尽くしていた。その右手には先ほどの書状が握りしめられている。
本棚の陰から様子を窺っていた小悪魔が声をかけようか迷っていると、彼女は一度大きく深呼吸をしてから自分の両頬を手のひらで叩き、顔を上げて図書館から出て行った。
あの書状を受け取ってから、美鈴はレミリアとの接触を控えた。
フランドールの外泊許可を求めるのもぴたりと止め、門の前で武道の鍛練に勤しむようになっていた。
その真剣さと言えば、主人であるレミリアをして、これまで一度たりとも見たことが無いと思わせたほどである。
「必ず、お二人を、倒す…!」
固く握りしめた拳で空(くう)を穿つ彼女の瞳は、まるで外敵から群れを守ろうと必死に闘う獣のようであった。
普段からこの調子であれば、館に侵入しようとする愚か者も多少は減るのかも知れない。
それと、丁度この頃から、咲夜は物資の調達のために館を留守にすることが多くなった。
ただでさえ多くなかった館の住人の会話は極端に少なくなり、その冷戦とも称するべき重々しい雰囲気に、メイドとして働く妖精たちは怯えながら過ごしていた。
四日目の明け方、美鈴が久方ぶりの休息を取るために自室へ向かって暗い廊下を歩いていると、蝋燭の灯りの死角である闇の中から、真っ黒い蝙蝠の大群が飛び出してきた。
蝙蝠たちはみるみるうちに美鈴の目の前へと集まっていき、やがて一人の少女の姿を象ると、その表面に色を浮かび上がらせた。
「フランドール様」
「びっくりした?」
「しました」
「嘘吐き」
奇怪な登場の仕方をする妖怪など、この幻想郷には吐いて捨てるほど居る。
日頃からそれらを相手にしている美鈴が、今さら蝙蝠ぐらいで驚く道理はないのである。
しかし、フランドールにとっては、そんなことはどうでも良かったらしい。
「ねえ、美鈴。お姉様に謝りなよ」
「嫌(や)です」
にっこりと微笑んで即答する美鈴。
もはや、その意思を覆すことは誰にも出来そうになかった。
「良いの? 死んじゃうよ?」
「これでも体は丈夫ですから」
「ダメよ。私が壊すもの」
フランドールは口元に気味の悪い笑みを浮かべる。
それを見て、美鈴の顔からはさっと笑みが消え失せた。
「私を期待させておいて、失敗するなんて有り得ないでしょ?」
美鈴は己の心臓を誰かに握られているような悪寒を覚える。
それもそのはず。今、フランドールの右手の中には美鈴の「目」がある。彼女がこれを握り潰せば、「目」を失った美鈴はたちどころに死んでしまうのである。
「もし、お姉様があなたを赦しても、私は絶対に赦さない。だから…」
その手から美鈴の「目」が消える。
フランドールは不気味に微笑むのをやめて、何処か寂しげな顔で美鈴のことを見上げた。
「負けたら、すぐにここから出てって」
その言葉に、美鈴の膝が折られる。美鈴は目の高さをフランドールに合わせ、彼女の背中に手を回してぎゅっと抱き締めた。
フランドールにとってこの行動は予想外であったらしく、彼女は些か戸惑った様子で瞳を美鈴の頭の方へと動かした。
「どうしたの、美鈴?」
「大丈夫。きっと、勝ってみせますから」
そう言って、彼女はより一層、力を籠めてフランドールのことを抱き締める。
フランドールは寂しげに笑い、ぼそっと何かを呟いた。何を言っていたのかは、美鈴にしか分からない。
「フランドール様」
不意に、何者かの声がかかる。
二人が声のした方を見上げると、無表情の咲夜が彼女たちを見下ろしていた。
美鈴は慌ててフランドールから離れ、咲夜から見て彼女の斜め後ろの位置に立ち、姿勢を正す。
「なあに、咲夜?」
咲夜はほんの一瞬だけ美鈴の顔に目をやってから、すぐにフランドールへと視線を移し、口を開いた。
「お嬢様の命により、貴方には今一度、あの部屋へ入って頂くことになりました」
「ああ、そう」
「え!?」
あの部屋とは、長年に亘りフランドールを閉じ込めていた地下室のことである。
突然の通達に狼狽え、思わず声を漏らした美鈴に対して、フランドールは落ち着き払った様子であった。おそらく、こうなることが予想出来ていたのであろう。
「それも、私のため?」
「はい」
「ふーん」
さして興味もないという風に、彼女は地下に下りる階段がある方へ向かって歩き始めた。
美鈴は何やら物申したげにしていたが、咲夜から指を口に当てる仕草で「何も言うな」と伝えられ、大人しく黙っていた。
いずれにせよ自分がレミリアたちとの決闘に勝てば、すぐに解放してやれる。そんな打算的な思いがあったのに違いない。
「また退屈まみれの日々に逆戻りってわけね」
「しばらくはお暇になりませんよう、読み物を用意致しました」
「本なんか詰まらないわ」
「そう仰らず」
闇の中へと溶けて行く二人を静かに見送ってから、美鈴は再び自室に向かって歩きだした。
その瞳の中には、これまでよりも一層、揺るぎの無い決意が刻み込まれている。
しかし、彼女が如何に強い意志を持っていたところで、敵は運命を操る紅魔の王と、時を操る白銀(しろがね)の騎士。その力は、あまりにも強大。
彼女を一つの終焉へと導く運命の歯車は、一瞬たりとも止まることなく、無慈悲にギリギリと音を立てて回り続けていた。
約束の時は瞬く間にやって来た。
残酷な時の流れは、しがない門番に何ら特別な力を授けることなく、狂気に満ちた月の夜を迎える。
一点の曇りもない星空の下、美鈴は目を閉じて静かに精神を集中させながら、主人の使いに呼ばれる時を待ち続けていた。
やがて、彼女は何者かが近付いてくる気配を感じ取ると、その目を開いて空を仰いだ。
紅く輝く真円の月が、彼女の瞳を己と同じ色に染め上げる。
ここまで来たら、もはや後に退くことは出来ない。いや、彼女にとっては最初から、退路など無かったのかも知れない。
ついに、館の門と向かい合う扉がゆっくりと開かれ、レミリアと咲夜の二人が庭へと姿を現した。
「美鈴。こちらへ」
その呼び掛けに応じ、彼女は門の内側へと入る。
一陣の風が庭の花畑をざわざわと騒がせる中、美鈴は眼前に立ちはだかる主人の顔を真っ直ぐに見つめた。
「中でお待ちくだされば、私から伺いますのに」
「良いのよ。今日は、あんなに美しい月が出ているんだもの」
レミリアは両腕と背中の羽を大きく広げ、禍々しい月の明かりをその全身で享受する。
「そうですね。フランドール様にも見せてあげたいくらいです」
言葉の端を尖らせて美鈴が言うと、レミリアは三日月のような口をして「ふふっ」と笑った。
「やっぱり、考えを改めるつもりはないのね」
「当然です」
「残念だわ。次の門番は優秀だと良いのだけれど」
指を鳴らしてレミリアが咲夜に合図を送る。咲夜はこれを受けて、静かに前へと歩み出た。
彼女と美鈴を一対一で戦わせ、レミリア自身は闘いを傍観する魂胆なのである。
「咲夜。美鈴。先に言っておくわ」
「何ですか」
「今宵、これから、この館の敷地内で起こる事柄に限り、博麗と八雲は一切関知しない」
この七日の間に、レミリアは秘密裏にその約束を取り付けていた。
幻想郷の均衡と平穏を守る二つの絶対的な力。それらが関与しないということは、即ち…。
「ルールは無用、ということでよろしいですか」
「その通り」
咲夜がレミリアに言質を取ったところで、美鈴は即座に臨戦態勢に入った。
ルール無用ということは、もはや戦いは始まっていると言っても何らおかしくはない。
それに相対する咲夜も、既にその手に数本のナイフを所持していた。
「承知致しました。では…」
咲夜が何かを言おうとした、その時である。突如、館の庭が流星雨に見舞われた。
正確に言うなら、五芒星を象った数百の魔力の塊が、一斉にレミリアと咲夜の頭上から降り注がれた。
凄まじい騒音が鳴り渡り、砂埃が激しく舞い上げられる。
「聞こえたぜ。ルール無用だって?」
上空から箒に乗った人間の娘が飛んで来て、美鈴の傍へと降り立った。
「魔理沙。あんた、何しに来たの?」
「ちょっとしたお手伝いだよ、十一人目のインディアン」
「何よ、それ」
魔理沙はそれ以上、何も言わず、先ほど弾幕を撃ち込んだ所に目を向けている。
風が砂埃を払いのけると、服装一つ乱れていないレミリアと咲夜が、再びその姿を現した。
「ようこそ魔理沙。今宵はとても素敵な夜ね」
「同感だ。今日は星がよく見えるからな」
「それで? この度は、我が館に何のご用かしら?」
「宅配便だよ」
彼女は勿体振った様子でニヤリと笑い、手に持った箒をくるりと回転させてから、その先端をレミリアの方へと向けた。
「レミリア・スカーレットさんに、素敵な魔法を届けに来たぜ!」
啖呵を切った魔理沙と同じく、レミリアもまた不気味に笑う。
よもや、この時、この場所へ来て、美鈴やフランドールのこととは無関係に、ただ喧嘩を売りに来たということはあるまい。
満月の夜に、法を無くした吸血鬼の館に来るということが、どれほど危険で愚かなことか、彼女は解っていないらしい。
ならば、教えてやろうではないか。
レミリアはその全身から紅い瘴気を立ち上らせる。
「咲夜」
「はい」
「貴方はここで予定通り、美鈴を折檻しなさい。私は屋上で、この不届き者を始末するわ」
「…かしこまりました」
咲夜が言い終えるのとほぼ同時に、美鈴の手が素早く動いた。その拳に弾かれた四本のナイフが悉く地面へと落とされる。
普段の彼女ならば出来なかったであろう、素晴らしい反応である。
「やるじゃねーか。こっちは任せたぜ」
「あんたに任される謂れは無い」
手並みを褒める魔理沙には一瞥もくれず、美鈴はそう言い捨てた。しかし、その唇の端が僅かに持ち上げられる。
「でも、ありがとう。正直助かるわ」
「礼にゃ及ばねーよ。私はただの代理だからな」
相変わらずわけの解らないことを言う魔理沙に、レミリアと咲夜は揃って怪訝そうな顔をする。
一方、美鈴はもはや、その意味を考えるつもりが無いらしく、表情に変化を与えない。
「頼むから、私が行くまで死なないでよね」
「そいつは私の台詞だぜ」
不敵に笑いながらそう言うと、魔理沙は再び箒に跨がり、ふわりと宙へ浮かび上がった。
「さて、と。屋上で私に倒されるんだったよな。早く行こうぜ」
「相変わらず、不遜な人間だこと」
額に青筋を浮かび上がらせつつ、レミリアも空へと舞い上がる。二人はその速さを競うようにして、館の上へと飛んで行った。
その様子を見上げていた咲夜に、すかさず美鈴が襲いかかる。彼女は音もなく咲夜の足元へと潜り込み、首元を狙って勢いよく蹴り上げた。
まともに当たれば死んでしまうかも知れないが、そんなことを気にしながら闘っていたのでは、絶対に勝てない。それどころか、本気で殺すつもりで挑んでも、なお咲夜には届かないのである。
案の定、美鈴の脚は何もない空中を穿つ。彼女はすぐさま腕を使ってその場から飛び退き、自分に向かって来ていた数本のナイフを避けた。
姿を消した咲夜はいつの間にか、つい三秒ほど前まで美鈴が居た場所に立っている。
「今のを避けますか。やっぱり咲夜さん、能力を差し引いても人間離れしすぎですよ」
「よく言われるわ」
美鈴は体をぐるりと回転させ、四方に出現したナイフを片端から叩き落とす。
更に、そのうち二本が咲夜に向けて投げ返された。咲夜は手に持った一本のナイフで事も無げにそれらを弾く。
「美鈴。ハンデをあげる」
「…貰えるものは貰いますけど、どういう風の吹き回しですか?」
「別に。ただの気まぐれよ」
咲夜は何の意味もなく気まぐれを起こすような性格ではない。
無論、こんなことを言い出したのにも、それなりの理由が有るはずである。もっとも、それを説明することは絶対に無いであろうが。
彼女は何処からか一つの砂時計を取りだすと、それを美鈴に投げ渡した。
屋根の上では、レミリアと魔理沙が空中で互いに距離を取って対峙していた。
「まったく。あの分からず屋を懲らしめてお仕舞いだと思っていたのに、どうして貴方が出てくるのかしら?」
「あいつには借りがあるからな」
「何の借りだか」
「お前も、よく知ってるはずだぜ!」
魔理沙が大量の魔法弾――つまりは魔力の塊を周囲にばらまき、それらが一斉にレミリアに向かって集まる。
瞬く間に包囲されたレミリアであったが、それに動じることもなく、体を無数の黒い蝙蝠へと変化させた。その一匹一匹が迫り来る弾幕を避けながら散らばっていく。
一箇所に集結した魔法弾が小さな爆発を起こすが、既にその中心から離れている蝙蝠たちには届かなかった。
魔理沙は首を動かして辺りを見回す。しかし、漆黒の蝙蝠は音もなく夜の闇に紛れており、その姿を見付け出すことが出来ない。
数秒が経過した後、魔理沙の背後、下方から数百の紅い針が襲いかかる。彼女がそれに気が付いた時には、それらはもはや回避不可能な所まで接近していた。
ところが、魔理沙に突き刺さるはずだった針は、その体に触れる直前で、鉄板に衝突したような音を立てて片端から弾き飛ばされる。
「防護魔法をかけて来たの?」
「まあな」
「面倒ね」
人の姿へと戻ったレミリアは、そっと館の上に降り立った。それから一呼吸置いて、屋根にヒビが入るほど強く踏み込み、彗星の如き速さで空へと跳ねた。
魔理沙は慌てて乗っている箒ごと体を横に動かし、鋭く尖らされた吸血鬼の爪を紙一重の所で避ける。すかさず振り向き、自分を通り過ぎて更に上空まで行ったレミリアに向かって数十の魔法弾を放つが、それらは全てレミリアの腕の一薙ぎでかき消されてしまう。
「なあ、レミリア。勝負の途中で悪いんだけどさ。一つ、訊いても良いか?」
「何かしら?」
「どうして、あの時、霧を出した?」
レミリアの背に浮かぶ紅い月を見て思い出したのか、魔理沙は突然、古い話を持ち出してきた。
彼女が言っているのは数年前、初めてこの紅魔館に来ることになった異変のことである。
その異変では紅い色をした深い霧が幻想郷を覆い、その元凶である吸血鬼を退治するべく、魔理沙や博麗の巫女が個別に館の中へと乗り込んで来た。
結果として、レミリアは巫女との決闘に破れ、霧を出すことを断念せざるを得なくなったのであった。
「決まってるでしょ。鬱陶しい太陽の光を遮るためよ」
「それだけか?」
「…何が言いたい?」
にわかにレミリアの表情が強張る。
「あれが切っ掛けだったよな。あいつが地下から出てきたのは」
異変が解決されて以来、たびたび館を訪れるようになった魔理沙や巫女とレミリアの会話を、フランドールは地下で聞いていた。
それによって、彼女は外から来た人間に強い興味を示し、館の外に出たいと表立って主張するようになった。
そして、それから間もなく、レミリアは彼女の地下室への監禁を解いたのである。
「それがどうしたのよ」
「しらばっくれんな。運命通りだったんだろ?」
「何のことだか、解らないわ!」
金切り声を上げたレミリアの周囲に大きな魔法弾が幾つも出現し、眼下の魔理沙に向かって一直線に飛んで行く。
対する魔理沙もほぼ同じ数、同じ大きさの魔法弾を呼び出し、飛んでくる物と衝突させた。一部の魔法弾が相殺しきれず、魔理沙に命中して弾け飛ぶが、彼女に堪えた様子はない。
「素直になれよ。お前も本当は」
「黙れ!」
レミリアの手の中に生まれた一本の槍が、魔理沙に向かって投げつけられる。
先ほどのレミリア自身より何倍も速く飛んで来た槍に反応出来ず、魔理沙は正面からそれを受けてしまい、斜め下に向かって吹き飛ばされた。
槍は彼女を箒から強引に引き離し、轟音とともに館の屋根に衝突した。
館の庭では、微かに息の上がった咲夜が冷たい目をして佇み、その前方で美鈴が膝をついている。
咲夜の右方、館の壁際の地面には先ほどの砂時計が置かれており、さらさらと時の経過を伝えていた。
「あと二分あるけれど、もう限界?」
「冗談言わないでください」
美鈴の左腕と胸部にはナイフが深く刺さっている。
彼女はそれらを右手で強引に引き抜いて投げ捨てると、口元に笑みを浮かべつつ立ち上がった。ナイフを抜いたことにより傷口から血が溢れ出すが、全く意に介そうとはしない。
「これぐらい、何でもないですよ」
「貴方が倒れてくれれば、すぐにお嬢様を止めに行けるのに」
そう呟いて、咲夜はチラと屋根の上を見た。つい先ほど聴こえてきた衝突音を気にしているのであろう。
その様子を見た美鈴が「ふふっ」と笑い声を漏らす。
「何よ」
「やっぱり優しいですね、咲夜さんは」
先ほどレミリアが見せた跳躍と比較しても遜色ないほどの、恐るべき速さで咲夜の背後へと回り込んだ美鈴の手刀が、その延髄を狙って放たれた。
自らの衝突によって砕き割られた屋根の上で、魔理沙は空を仰ぐようにして倒れていた。その瞳には、空を覆う満天の星空が映し出されている。
彼女はむくっと上半身を起こすと、槍の穂先が当たった腹部を手で押さえた。
「今のは効いたな…」
「まだ動けるとは」
上空から降りて来たレミリアが、空中で魔理沙を見下ろしながら感嘆の声を漏らす。
先の攻撃は単なる威(おど)しではない。人間はおろか、多少強い程度の妖怪でも確実に仕留めることが出来るほどの威力で放ったものである。
「大した強度ね、その防護魔法。どれくらい掛けて練り上げたのかしら」
「さてね。一週間かな」
なるほど。その労力に見合った防御力は十二分に得られている。守備に関しては及第点であると言えよう。しかし、耐えるだけでは戦いには勝てない。
魔理沙は完全に攻守の配分を誤っている。防護魔法に力を使いすぎたのだ。レミリアはそう確信した。
その証拠に、彼女はこれまでに、これといって大きい魔法を攻撃に使っていない。日頃から愛用している小型の八卦炉も碌に使わない始末である。
「そんなもので私に勝てるとでも?」
「ああ。勝つつもりだぜ」
相変わらず分を弁えない人間である。
その残渣(ざんさ)のような魔力で何をしようと、レミリアに傷を付けることすら叶わないことは分かっているであろうに。
それでも彼女が戦うのは、囚われの吸血鬼のためか。それとも、死に急ぐ門番のためか。
いずれにせよ、この娘もまた、大変なお人好しであることは間違いあるまい。
「理解に苦しむわ。どうして、そこまでするの?」
「そうだな。友達だから、とか。そんなとこじゃないか?」
「まるで他人事みたいな言い方ね」
「ああ。他人(ひと)のことだからな」
「…どういう意味?」
魔理沙は懐から小型の八卦炉を取り出し、表面の埃をぱたぱたと払いながら話を続ける。
「本当はフランを自由にしてやりたいくせに、あいつがあまりにも大切すぎて、なかなか踏ん切りをつけられない」
「何を」
「そんな友達をさ、見てられないんだってよ」
「…ッ!」
レミリアはようやく気が付いた。彼女の後ろに潜む影に。彼女をここへ送り込んできた、七曜の魔女の存在に。
「言ったはずだぜ。私は代理だって」
魔理沙はまた懐に手を入れ、小さな石を取り出すと、それを小型八卦炉の中へと放り込んだ。
間もなく、周囲の空間に魔力が満ちる。砕けた屋根の破片が空へと舞い上げられ、大気が低い音を立てて振動する。
生粋の魔法使いが七日七晩の時を掛けて、たった一つの石に詰め込んだ膨大すぎる魔力が、人間である魔理沙の容量を遥かに超えて溢れ出しているのである。
「さあ、受け取れよ、レミリア! パチュリー・ノーレッジさんからの、お届け物だ!」
レミリアは再びその手に槍を召喚したが、もはや時、既に遅し。八卦炉の噴射口は真っ直ぐにレミリアへと向けられていた。
龍の神かと見間違うほどの、眩い巨大な光の帯が、幻想郷の空を駆ける。
光は瞬く間にレミリアをその身に呑み込み、悲鳴を上げる暇も与えず、その体を塵へと変えた。
館の主人の部屋の中。その床に敷かれた絨毯の上で寝転がり、魔理沙は空に浮かぶ紅い月を眺めていた。彼女の周りには瓦礫が散乱している。
「パチュリー…。想いを籠めすぎだぜ…」
呆れたように笑いながら、ボソッと呟く。
精霊の力も借りず、あれほどの純粋な魔力をこの娘に託したということは、当の本人は今頃、疲れて眠っているのであろう。
特大の魔法を放った反動で天井に開いた大きな穴の淵から、パラパラと砂が落ちてくる。
その上から、二つの頭が揃って中を覗き込んできた。
「魔理沙!」
「生きてる!?」
慌てて、咲夜と美鈴が部屋の中へと降りて来る。
咲夜は服が少し汚れているだけであるが、美鈴の方は酷い有り様であった。体の至るところに砂がつき、服の胸元は赤く滲んで、左の前腕からもぽたぽたと血が滴り落ちている。
「生きてるよ」
魔理沙は徐に体を起こし、キョロキョロと頭を動かし始めた。何かを探しているらしい。
「箒なら庭に落ちてたわ」
「…拾って来てくれても良かったんだぜ?」
「それより、さっきのバカでかい光は何だったのよ。お嬢様は?」
状況が把握出来ない美鈴の質問を受け、彼女は天井の穴を仰ぎ見ると、すっと空を指差した。
「レミリアは星になったのさ」
次の瞬間、上から箒が落ちてきて、その柄の端の部分が魔理沙の額に命中する。
彼女は小さい呻き声を上げると、再び仰向けに倒れ込んだ。
「なってないわよ」
何事もなかったような姿のレミリアが、澄ました顔をしてゆっくりと部屋に降りて来た。
「お嬢様。ご無事で何よりですわ」
「何だよ、しぶといな」
魔理沙は痛む額を手でさすりながら、傍らに落ちた箒を拾いつつ、その場で立ち上がった。
既に、彼女の纏っていた防護魔法は消え失せており、八卦炉に入れた石の魔力もすっかり無くなってしまっている。
「じゃあ、二回戦だな」
それなのに、この自信は何処から湧いてくるのか。既に手札を使い切ったであろうにも関わらず、その眼光は全く衰えていない。
そんな彼女の言葉に呼応するように、美鈴も納めていた気を復活させた。こちらも到底、満身創痍の体とは思えぬ気迫である。
更に、それらに続いて、咲夜もまた何処からかナイフを取り出した。あろうことか、その瞳と殺気は、主人であるレミリアの方を向いている。
「咲夜。それは何の真似?」
「申し訳ございません。残念ながら、美鈴に負けてしまいまして」
べっとりと血の付いたナイフを顔の前で横に振りながら、咲夜はにっこりと微笑んだ。
「え、何? お前、勝ってたのかよ」
如何にも意外そうな魔理沙を横目で見ながら、美鈴は「ふふん」と笑って胸を張る。
四分間、気絶しなかったら勝ちという、百歩も二百歩も譲った条件下での勝利とは思えぬ威張りようである。
もっとも、時間制限が無かった場合、終始一撃必殺を狙い続けた彼女が咲夜を倒せなかったとも限らないが。
ルール無用を公認した以上、咲夜がどんな行動に出ようと、それを咎めるつもりはない。
レミリアはしばらく黙って三人の方を見ていたが、やがて体の向きを変えると、部屋の出入口である扉に向かって、つかつかと歩きだした。
「咲夜。いつも通り、美鈴の手当てをしなさい」
「はい」
既に咲夜の手には、赤く染まったナイフの代わりに真っ白い包帯が持たれている。
美鈴は力が抜けたようにその場に座り込むと、「ふう」と息を吐いた。
「お、おい。何処行くんだ?」
「あら。そんなの決まってるでしょ」
魔理沙が戸惑った様子で声をかけたのも気に留めず、レミリアは悠々と扉を開けた。
「可愛い妹の所へよ」
四回のノックの後、レミリアが重厚な扉を開けて部屋に入ってきた時、フランドールはソファに寝そべって本を読んでいるところであった。
「あ、お姉様。久しぶり」
「ええ、久しぶりね、フラン」
レミリアは扉を閉めずに部屋の中へと歩を進める。
見れば、ソファの近くのテーブルの上には、人里で借りるか買うかしてきたのであろう、幻想郷の外の世界の書物が何冊か置かれている。
たった今、フランドールが手にしている本もそれらと同じで、本の題名には『諏訪』の文字が入っていた。
それらを見て、レミリアは思わずクックッと笑う。咲夜が何の本を差し入れていたのかなど、全く気にもしていなかったのである。
「ねえ、フラン」
「なあに?」
フランドールは栞を挟み込んで本を閉じ、ひょい、とソファから飛び降りた。
それから、本をそっとテーブルの上に置き、レミリアの目の前まで歩いて来る。
「…貴方、本を破かなくなったわね」
「咲夜に怒られるもの」
「壁もあまり壊さなくなったし」
「お姉様は壊すのにね」
「うるさい」
余計な茶々を入れられ、レミリアの眉がキュッとつり上げられる。
フランドールは手で自分の口を押さえつつも、「だって本当のことじゃない」とでも言いたそうな目をしていた。
「…フラン。貴方はもう、外へ出ても心配ないわ」
「うん。知ってる」
間髪入れぬ即答であった。レミリアの口から深い溜め息が漏れる。
親友に背中を押されるまで決断出来ずにいた自分と違って、フランドールの呪縛は疾(と)うに解けていたのだ。
薄々勘付いてはいたが、それならば何故、強引に出て行ってくれなかったのか。そうしてくれれば、早々に諦めもついたであろうに。
そんなレミリアの気持ちを察したのか、フランドールは悪戯を企てる悪童のような笑みを浮かべた。
「だって、お姉様が言ったのよ?」
「…何のこと?」
「忘れちゃった? 私が、お姫様なの」
それは、ずっとずっと昔のこと。
未だ己の力の強さすら認識出来ていなかった無邪気な彼女との、ほんの些細な会話。
ようやく、その時のことを思い出し、レミリアは声を上げて笑いだした。
「貴方、そんなものを待ってたの?」
「そーよ。素敵でしょ」
「そうね。羨ましいわ」
「なのに、どうしてお姉様が迎えに来ちゃうのよ。やり直して」
フランドールはぷい、とそっぽを向いて、開け放たれた扉を指差した。
「はいはい。今、呼んで来てあげる」
さて、どちらを呼ぼう? ここを間違えると、また臍を曲げられてしまう。
いや、考えるまでもないか。
あちらは所詮、魔王を裏切った魔女の代理に過ぎぬ。第一、背丈が足りない。
そうだ。己の運命に抗ってでも懸命に戦った者こそが、その役目を与えられるのに相応しいのだ。
独り静かに考え事をしつつ暗い廊下を歩きながら、レミリアはまたクスリと笑う。
「それで十一人目だったのね」
――ねえ、お姉様。
――何かしら。
――私はどうすれば、ここから出られるの?
――そうね、貴方が勇敢な王子様に助け出されれば、かしら。
――王子様。素敵ね。
――だから、良い子にしていなさい。
「あの…、フランドール様。本当にこのまま戻るんですか?」
「そーよ。まさか重いなんて言わないわよね?」
「そりゃ言いませんけど、お洋服に血がつきますよ」
「私を何だと思ってるのよ」
「…そうですねぇ。こうやってると、何だかお姫様みたいですね」
大満足の姫君を両腕で抱え、傷だらけの王子は階段を上って行った。
以上が、我が最愛の妹が自由を手に入れるまでの物語である。
これからの彼女の話が聞きたいなら、他の誰かをあたってほしい。
何せ私も、この館の外までは目が届かないのでね。
幽閉説を元にするなら、アリかな……と思いました。
ただ後半、魔理沙に持ってかれた感がありますね。軸は美鈴にしっかり置いといてほしかったかも。
フランドールの性格付けは好みでした。なんというか、妹らしい。
ただ、バトルのシーンは美鈴より魔理沙にもってかれちゃった気がします。
続きのお泊まりの話、書いてもいいのよ?(チラッ
それでもとても面白く良かったです
かくれて動いていたパチュリーもかっこよかった