Coolier - 新生・東方創想話

深淵の挨拶

2012/11/24 00:13:53
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『おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ』
 ――フリードリヒ・ニーチェ





 ちりんという音は、扉につけている鈴のものだ。僕はそれがあまり好きではない。集中して字を追っているとき、思索に耽っているとき、邪魔にしかならない。読解が面倒な哲学書を読んでいる最中なら尚更。
 本当は外してしまいたいけれど、僕は思索家である前に読書家である前に商売人なのだから仕方がない。

「いらっしゃい」

 一度扉へと眼を向けた。もしも大人しそうな客であったなら、放ってしまって、また読書に戻ろうと思った。

「お今日和」

 残念ながら、放っておいていい客ではなかった。

「これはまた、珍しいお客様だ」

 僕は観念して本を置き、彼女に向き合った。
 もう香霖堂では早くもストーブが活躍しているというのに、彼女は日傘を持っていた。

「今日の日差しはそんなに強いかい」
「妖怪の身ですから。陽の光は肌に毒なのですわ」

 紫は頬に手を当てた。絹の長手袋に劣らぬほどに肌は白い。人形じみているといってもいい。しかし西洋人形とも言い切れないのは、彼女の名前だけのせいではない。
 この妖怪少女について僕にわかることなんて高が知れている。彼女については何がどうなっているのかまるでわからない。そもそも境界を操るという能力からして馬鹿げている。存在そのものがいんちきなのだ。
 容姿すら彼女を縛れない。幼女の姿をした彼女が――その知性と品格に相応しい――妙齢の女性にだってなれることを僕は知っている。見たことはないが。
 八雲紫。名が体を表すなら、体は彼女の何を表しているのだろう。
 彼女の何が、無垢な笑顔が似合うその顔立ちで、

「ふふ」

 薄く開いた唇から舌先をちらりと見せるのか。紅も要らない無色の鮮やかさを、湿り気を帯びた肉の柔らかさを、そうと知って気付かせる。
 見た目魔理沙よりも幼い少女がする仕草ではない。できる仕草でもあるまい。これだから紫と話すのは精神衛生に好くない。
 好くないので、僕は軽口で彼女を牽制する。

「しおらしいことをいうね。君が」
「あら。私、しおらしいですわ。淑女ですもの」
「淑女なら自分をそうは言わないだろう。しかし君は存外、古い価値観を引きずっているのだね。意外だよ」

 昨今の幻想郷における少女の暴れっぷり(人妖問わず)は今更振り返るまでもないだろう。彼女らは好きなように生きていて、貞淑など求めるべくもない。彼女らは、遊ぶのが楽しくて楽しくて仕様がないのだから。

「だって、こういうの、お好きでしょう?」

 紫は日傘の柄を机にかけて、僕を覗きこむように顔を近づけた。目一杯背伸びをしながら、それを気づかせないように。

「ねえ、霖之助さん」

 僕の視界が、紫の顔で埋まる。彼女は薄く笑っている。それ以外を見せるつもりなんてないように、紫はいつでも笑っている。
 さっきまで読んでいた本のフレーズが頭を過ぎった。何度も何度も読んだ、狂人になったある哲学者の言葉。『おまえが長く深淵を覗くならば――』

「魔理沙が私くらいだったのは、どのくらい昔でした?」

 ――どうしてそこで魔理沙が出てくる?
 ――魔理沙と君と、何の関係があるっていうんだ?
 問いを飲み込んで、眼を閉じた。

「……ずいぶん昔のことさ。君の歴史に比べれば、つい最近なのだろうけれどね」
「もう、いやな人」

 紫の顔が離れるのを感じたあと、僕は眼を開けた。
 網膜に飛び込んできた景色の中で、彼女の瞳が濃い紫水晶のように薄暗い光を湛えている。
 目と目が逢う。惹き込まれる。

「今日はご挨拶に参りました」

 僕は怪訝な顔をしなかっただろうか。言葉の意味を把握するのに少し時間が掛かった。

「……あ、ああ。もうそんな時期だったんだね。年々秋が短くなっていくように感じるよ」

 ここで「何の挨拶かな」などと口にしようものなら、彼女は瞳を三日月のように歪めて僕をなじっただろう。「ひどいわ」とか言って、何がひどいのか説明も無しで。
 それでも、数瞬の遅さが紫には少しだけ不満なようだった。

「ぎりぎり合格にしてあげましょう。けれどもうストーブを出しているのですから、もっと早く気づくべきでしたのよ?」
「あいにく、太陽の明るさにも気づかない出不精でね……」
「外に出るべきですわ。来年はとても暖かいようです。私も早く目覚めるかもしれません」

 紫はすっと背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。妖怪の賢者であろうと――いやそうであるから――彼女の挨拶は礼儀正しかった。

「今年もお世話になりました。来年もよろしくお願いいたします」

 彼女の冬眠前の挨拶は、今年最後の挨拶。
 新年の挨拶だった。
 これが恒例行事となってしまったのはいつからだろう。もうどれだけ繰り返したか、僕は覚えていない。
 紫は常連とは言い難い。ストーブの燃料のやり取りは式に任せっきり。たまに――気紛れだと彼女は言って――骨董品を手に提げて来るときがあるくらいだ。商品を買ってくれたことはない。彼女にとって僕の店は魅力的ではないのだろう。

「こちらこそ。来年もよろしくお願いします」

 しかし僕は商人だ。客から挨拶されたのだから、椅子に座っているわけにはいかない。立ち上がり、しっかりと礼儀を尽くす。
 でたらめな彼女との、規則的な機会。挨拶の文句は決まりきっている。その後のやり取りも。

「逢引のお誘い?」

 そう嘯いて、冬の間忘れられそうもない笑みを僕に向けることも、すべてすべて彼女にとって恒例行事なのだ。

「……商いのことですよ」
「あら残念」

 椅子に深く座り、さっきまで読んでいた机の本に手を伸ばした。そろそろ読書に戻りたいという仕草のつもりだった。指先で本の表紙の感触を確かめながら、僕は沈黙する。次に続ける軽口はすでに僕の頭から零れ落ちている。
 これで挨拶は終わりだ。そして挨拶をするためだけに、彼女は来たのだ。これ以上など、何も、ない。

「では」

 紫は机の日傘に手を伸ばす。
 ゆっくりと、見せつけるように。
 白い右手を、本に置いた僕の手のほうへと伸ばして。

「お暇いたしますわ。ごきげんよう」

 ひょいと日傘を掴むと、開いた隙間の中へと消えた。



「……やれやれ」

 僕は思わず深い溜息をついていた。紫との会話は、とても疲れる。恒例行事となってもまだ慣れない。
 本を開いてみたが、まるで頭に入らない。代わりに頭の中であの言葉がぐるぐる回っている。諌めるように、誘うように。『深淵もまた等しくおまえを――』
 隙間の閉じた中空をぼうっと眺める。本人のいない空間に彼女の姿を思い浮かべる。妄想の彼女はやはり妖しく微笑んでいる。それ以外の表情を僕は知らない。「お今日和」「ねえ、霖之助さん」「だって、こういうの、お好きでしょう?」まるで“何か”があるように仄めかす。いやらしいほどあからさまに、真意を深い闇の奥に置きながら、声だけ鈴のように響かせて。
 妄想の中で僕は紫を糾弾する。僕には君がわからない。わかることなどできまい。君の力の前では、僕なんて取るに足らない。君の知性をもってすれば、僕のつまらなさはもう十分わかっただろう。なのにどうして飽きずに僕を惑わす? 僕が何をしたって言うんだ? 「悪ふざけはもうたくさんだ。やめてくれ……」妄想の中でなら、僕は簡単に失言する。

 いつのまにか紅の引かれた彼女の唇。
 そして彼女の言葉。深淵のそれ。

「いやな人。悪ふざけなんて。私はこんなにも――」










 ばん、と本の表紙を叩いて妄想を遮った。

「狂人はどうして狂人になったのか。ありえないものを、手の届かない処に求めたからさ」

 これが深淵のやり口なのだ。
 僕は狂人にはならない。 










 風が入って来た。紫は扉を完全には閉めなかったらしい。
 閉めに扉の方へと歩いて、ふと、そのまま外に出てみた。思ったよりも太陽はまだ高くにあった。風は冷たいが、なるほど、日の光は暖かい。思えばまだ晩秋なのだ。本当に寒くなるのはこれからだ。
 彼女が来ない季節が来るのだと、僕はようやく実感した。

 閉店の札を扉を掛けて、そのまま居間へと向かった。今日はもう店番を続ける気にもなれない。こんなに心乱される日は稀だ。そんな日に限って客が続けて来ることもあるまい。
 机の本はそのまま、次に彼女が来る日まで積んでおくことにした。しかしこれは、人が狂う季節に読むものではないだろう。そう思った後で、それもまた恒例行事だったと気づいた。
「もっともっと開きましょうか? 私の、あなたへの隙間」
Ministery
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コメント



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1.80もじょ削除
何とも言えないじっとりとした空気が良いですね。
続きがあれば是非読みたいです。
2.100名前が無い程度の能力削除
紫にとってはなんでもない戯れに過ぎないかもしれない、そんなことに振り回されている霖之助が真面目に本のフレーズと合わせて思考する様が、原作でも色々と深く考えがちな彼らしく滑稽で良かったです。
3.80奇声を発する程度の能力削除
こういう雰囲気のお話好きです
4.80保冷剤削除
冬の入り口ってそういう季節でしたっけ……鬱になるのがそこで、躁になるのが春なのかな。
しかし魔理沙持ち出してえぐるあたりスキマは魔理沙なのですね。
10.100名前が無い程度の能力削除
妖怪らしさあふれるちょっと怖いゆかりん、大好きです。
12.100名前が無い程度の能力削除
少女なのに少女らしくない紫が最高でした。霖之助超がんばれ。
18.90名前が無い程度の能力削除
言葉で、背中を撫でられた感覚を覚えました。好み。
19.70名前が無い程度の能力削除
もう少し、何かが欲しかったかな。雰囲気よくできているとは思うのだけれど。
21.70名前が無い程度の能力削除
何処かから誰かに見られているような、そんな気持ちになりました。
とても良い雰囲気でした。
28.100名前が無い程度の能力削除
紫がとてもドストライクでした‼
まさに「妖怪」という感じですね。
霖之助は幻想郷の住人をユニークな視点
で語れる良いキャラだと再認識。
31.90名前が無い程度の能力削除
作者氏の堅実な文体は好みだ。
敢えて、晒さないのを前提とする話作りも良い。
えっ、でもこの話ってぶっちゃけ紫が誘惑して霖之助が幼女に劣情を抱くそれだけの話でしょ?
皆なその真面目な語り口に騙されているよ!!

ところで作者様は殆ど二年振りともなる投稿なのですね。
一つ書くのにどれぐらい温められるのかは知りませんが、前作前々作も記憶に残る物でした。
作者様が望まれるのなら時間が掛かろうとまた書いて下さりませ。ついでに自分も喜びます。