Coolier - 新生・東方創想話

ハロウフォゴットンワールド 上

2012/09/27 13:28:00
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 三日間降り続いた雨が漸く止んだ今日の空は、大気中の塵が洗い流されたからか吸い込まれていくみたいに真っ青だった。水滴を湛える葉っぱが太陽を透かしてエメラルドの様に輝き、生命力の持つ美しさを体現していた。
 眠りから目を覚ました多々良小傘は、久方ぶりに見た青空に心を躍らせる。宿のない彼女はこの季節、冬になれば熊が冬眠の為にやってくる洞穴に居場所を定めている。春先は獣臭くてとても居られたものではないが、秋口に差し掛かっているこの季節ならばその臭いも薄れ、中々に快適な住居へと早変わりする。
 今日は何をしようかな、と洞穴を後にした彼女は空を見上げながら考え始めた。まだ雨足の弱まっていなかった昨夜、命蓮寺裏の墓地に現れた人間の一家を脅かす事に成功していたので、腹はそこそこ満ちていた。空腹ではない朝はそれだけでも気分の良さを増してくれる。

 彼女が人里へと赴こうと思い至ったのは、やはりいつもと変わらない気紛れによる物なのだろう。人間が沢山いると、それだけでムズムズと脅かしてやりたいという生理的な欲求に駆られるが、平常を保ってさえいれば別段迫害されることも無い。こんな気分の良い日に一人だけでボンヤリとしているのは勿体ないと思ったのだ。
 植物の呼気と腐葉土の香りが混じった森の中の獣道を、彼女は鼻歌交じりに進んでいく。枝から枝へと飛び回るリスの姿や、心地よい囀りを響かせる小鳥の姿を見つつ小傘はその一匹一匹に挨拶をして回りたいような、そんな気分を胸中に湛えていた。

「ふーんふん……ハロウ……ハロウ……ふーんふーん」

 鼻歌の合間に口ずさみながら、やがて小傘は人里の入口へと至った。
 里への入口の両端には、村の若い男が交代で警備の任に当たっている。妖怪から里を守るという名目はあるがその職務は有名無実化しており、獲物さえ持っておらず手ぶらの男二人は、へらへらと笑いながら今季の畑の実り具合について語り合っていた。
 自らの片割れである傘を手に、小傘は相変わらず鼻歌交じりに二人の間を通って里の中へと入っていった。二人の男は小傘が妖怪で有る事に気付いた様子を見せ、二人して目を見合わせた後に片方が伝令所へと走って、鐘を一度だけカン、と鳴らした。



◆◆◆



 鐘を鳴らすのは、人里に妖怪が侵入した際の決まりごとだ。
 何度も鐘を打ち鳴らせば、それは異常事態の発生を知らせる物となる。
 低級の妖獣や、生まれて日が浅い人喰い等々、幻想郷内部において人と妖怪が共存するための取り決めを守れないと判断された妖怪の接近時などが、これに相当する。
 しかし一度だけならば、恐らくは放っておいても里の住民に危害を加えないであろう妖怪に対する、一応の注意喚起に過ぎない。人里にその様な高知能の妖怪が入る事は儘有る事なので、一度だけ鳴らされる鐘の音は既に人里の日常風景と同化している。
 事実、一度だけしか鐘が鳴らなかったと知った里の住人達は慌てた素振りも無く、平時と変わらない生活を続けている。

 しかし茶屋の中にてあんみつに舌鼓を打っていた山の巫女、東風谷早苗ただ一人だけはその鐘の音に過剰な反応を見せた。
 神奈子に今日一日の暇を貰って人里に遊びに来ていた彼女は匙を置き、キッと窓の外へと視線を向ける。

「――今、鐘が鳴りましたね?」

 念を押すような口調で茶屋の店員に問いかけた早苗は、尚も窓の外へと視線を固定させたままに、戦場の兵士染みた警戒に身体を強張らせている。その姿勢は安穏とした人里の様子からは明らかに浮いていたが、早苗は気にも留めない。

「あぁ、でも、一回でしたでしょう? なら、特に気にする必要はありませんよ」

 若い女性の店員は、湯気の上がる緑茶をあんみつの横に置きながら、あっけらかんと言ってのけた。

「でも、妖怪が人里に入ったのでしょう? なら、一刻も早く退治しないと……」

「大丈夫ですって。妖怪って言っても全部が全部、人間に危害を加える訳じゃないんですから。大方風見幽香様とか、八雲藍様とか、そんな妖怪が買い物か何かにいらっしゃっただけでしょう。なら、気にすることはありませんよ。それより、早く飲まないと緑茶が冷めてしまいますよ?」

 人里の常識にまだ慣れていない様子の早苗に小さく微笑みながら、店員は緑茶を指した。しかし、それでも納得のいっていないらしき早苗は決意に目を輝かせ、慌ただしく袂から財布を取り出すと、小銭を机の上にばら撒いて立ち上がる。

「御免なさい。でも、私、行かなくちゃ」

 そう言い残すと、早苗は店員が止める暇もなく茶屋を飛び出した。

「……え? あ、ちょっと!」

 静止を求める店員の声も虚しく、早苗は人里に侵入した妖怪の姿を求めて大通りを走る。袂より御幣を抜き出し、妖怪の気配が無いかと辺りを見回しながら走る彼女の行動理念は、善意によって構成されてはいたが、肩に力の入った彼女の挙動は里の人々からの好奇の視線を集めるには充分すぎた。



◆◆◆



 一方小傘は早苗が暴走を始めた事など露とも知らず、呑気に鼻歌を歌いながら大通りを闊歩していた。

「懐かしいなあ……」

 ボンヤリと彼女は呟きつつ、自分の記憶の奥底にある人里の記憶と現在の光景とを重ね合わせて小さく笑っていた。
 多々良小傘がまだ傘であった頃、他人に使役されることを至上の目的とする道具であった頃、彼女が人里の光景を見ることが出来るのは雨天の場合に限られていた。
 彼女は傘であったのだから、それは当然の事なのかもしれない。だが、だからこそ、彼女は晴天に外を出歩けているという幸福を噛みしめていた。この感情は、彼女が傘のままで変化せずに居たら味わうことの出来なかった類の感情だろう。
 時折往来を行き交う人の視線が、先ほどの鐘の音はこの娘の侵入を告げるものだったか、とばかりに小傘へ向けられる。視線に気付いた小傘が上機嫌に笑みを返すと、害意の無い事を悟った里の住民も笑顔を浮かべる。

 ――人間と顔を合わせるのは、楽しいな。

 朝から殆ど有頂天であった小傘のテンションは、気紛れに人里へと降りて来た事によって更に加速していく。
 これでもしも彼女が空腹であったら、形振り構わず片端から人間を脅かしに掛かっていた事は間違いない。そうなれば、二度と人里への立ち入りを許可されなくなっただろう。基本的に考えなしに行動する彼女にとって、本日の気紛れはプラスに働いたようだった。

「……あ」

 上機嫌に歩いていた小傘が、ふとある一軒の屋敷の目の前で足を止めた。長屋が立ち並ぶ人里に置いて、その一軒家は住まう者の財力を喧伝する様に大きく構えている。
 否、かつて住まって居た者、と呼称する方が正しいのだろう。
 屋敷は荒れ放題だった。小ぢんまりとした庭先の草花は無秩序にツタや葉を伸ばし、締め切られた雨戸は形を歪ませて、明かりもない室内の雑然とした光景を覗かせている。表札は剥がされ、生け垣は枯れ、瓦も数枚落ちているその屋敷に、今はもう人が住んでいないことは一目で判った。
 立ち尽くした小傘は、ぎゅうと胸の前の衣服を掴む。水色の衣服に皺が寄り、先ほどまでは酷く上機嫌であったはずの小傘の方が、小さく震え始めた。

「――見つけましたよ! 妖怪め!」

 と、不意に威勢の良い大声が街道の向こう側から轟いた。妖怪退治という善行に目を曇らせた東風谷早苗だった。しかし小傘は、早苗が走り寄って来るのにもまるで気が付いていない様子で、服を掴んだままギュッと目を閉じている。
 やがて小傘の傍らまでやってきた早苗は、息が切れた様子もなく御幣の先を小傘に据えて、神妙な面持ちで啖呵を切り出した。

「さあさあ! 現人神であるこの東風谷早苗が居るときに人里を襲撃するとは、貴女も運の無い妖怪のようですね! 貴女が何を考えていようと、この東風谷早苗の目の黒いうちには人里の人間の皆様に危害を加えるような真似を許しはしません!」

 それでも尚、小傘は早苗に一瞥もくれようとはしなかった。
 無視されていることに気付いて居るのか居ないのか、早苗は袂よりスペルカードを取り出しながら、高らかに宣戦布告を始める。

「カードの宣言をなさい! 私は八枚です! それとも逃げ出しますか? 残念! 正義の守屋神社はそんな事を許しはしないのですよ!」

 そんな勇ましい口上もまるで届かず、その場に早苗など居ないかのように、小傘はフラフラと廃屋の敷地内へと入っていった。そこまで来て漸く小傘の様子が平時とは違うことに気付いたらしい早苗が、キョトンと首を傾げる。

「あれぇ? あんな娘でしたっけ?」

 小傘とは何度か顔を合わせた事も有るだけに、その度にヘラヘラとして弾幕勝負を吹っかけて来た小傘の神妙な様子は、昂ぶっていた彼女の闘争心と宣伝欲求を静まらせるには充分だった。
 肩透かしを食らったような気分で、早苗は御幣もスペルカードも袂に仕舞って、小傘の後を追いかける。玄関前に佇む小傘の背中を見据えつつ、荒れ果てた敷地内に足を踏み入れた早苗は、朽ちかけたあばら屋を見て眉根を潜めた。

「何ですか? このボロっちい家は……」

 そう彼女が問いかけるも、早苗の言葉が聞こえていない様子の小傘は、鍵の掛けられているらしい引き戸をガタンガタンと騒々しく引き開けようとしている。

「鍵が掛かってるんじゃないんですか? 貴女何してるんですか? さっきから」

 問いかけるや否や、引き戸を開ける事を諦めたらしい小傘が戸から手を放し、矢庭に思いきり蹴りを入れた。

「わ! ちょ! こ、小傘さん!?」

 老朽化が進んだ木の扉が妖怪の脚力に耐え得る筈もなく、二つにへし折れた引き戸が支えを失って崩れ落ちる。小傘は一言も口を利くことなく、木片を踏み付けながらあばら屋の中へと入った。彼女は三和土の片隅に置かれていた埃だらけの大きな壺に目をやると、下駄を履いたまま薄暗い廊下の奥へと歩を進めていく。

「ちょ、ちょっと待って下さいって!」

 慌てて早苗も後を追う。土足で上がるのに多少の抵抗が有ったが、素足で廃屋の奥へと入って何か踏んだら嫌だと思い返し、彼女も靴を履いたまま中に入ることにした。
 一歩足を踏み下ろす度に、板張りの廊下はキィキィと軋んだ。堆積していた埃が舞い上がり、早苗は何度も何度も目の前の空間を手で払った。玄関口から差し込む日光が塵を映し上がらせ、その粉塵の多さは、もう何年も人が踏み入っていないことを物語っている。足元をムカデやらワラジムシやらの蟲共が這っているのを、早苗がおぞましく思っている間にも、小傘はズンズンと屋敷の奥へと進んでいく。その足取りに、迷いはない。

 ――まるで、構造を熟知してるみたいね……。

 廊下の角を右へ曲がった小傘を見失うまいと、早苗も抜き足差し足で進めていた歩調を上げる。しかし、荒れ果てていて封鎖は完全ではないとはいえ、雨戸を締め切った室内は暗い。端々から光線の様に差し込む日の光以外に光源は無く、まだ暗闇に目も慣れ切っていない早苗は歩みを早める事さえ一苦労だった。

「小傘さん? ちょっと、小傘さんってば」

 漸く角までたどり着いた早苗が奥の方へと顔を覗かせると、丁度小傘が奥まった所にある一室の中へと足を踏み入れている場面に出くわす。間一髪で小傘を見失わずに済んだ事に胸を撫で下ろしつつ、彼女はさらに小傘の後を追う。
 奥まった場所に位置するその廊下は、玄関からの光を取り入れていた先ほどの廊下よりも更に薄暗く、所々板が腐って穴が開いている個所も見受けられて、焦る気持ちとは裏腹に、慎重な移動を余儀なくされた。
 何とか床を踏み抜くことも無く小傘が入った部屋の前に辿り着いた早苗は、部屋の真ん中に置かれていた座椅子にポツンと腰を下ろし、呆けたように上を向いている小傘の姿を発見する。

「何ですか? ここ。貴女一体、何がしたいんです?」

 早苗も室内に足を踏み入れつつ、薄暗い室内へと目をやった。歪んだ雨戸の隙間から光が差し込んでいて、窓のすぐ下に鎮座している文机と思しきガラクタの上では雨にでも濡れたのかグシャグシャになった書物が置かれているのが目に入った。
 早苗は先ほどからまるで返事をしようとしない小傘を余所に、傾いた雨戸を苦心して開けて、室内に明かりを取り入れる。中途半端に暗闇に慣れ始めていた目の奥が、強い日光に鈍痛を訴えた。
 明かりを取り入れた事によって早苗は、今自分が居るこの部屋はどうやら書斎のような物だったのだろうと推量した。
 壁一面に和綴じの書籍が並んでいて、窓に近ければ近いほど本は酷く傷んでいた。多量の本を支える棚の板は重さに耐え切れなかったのか凹み始めていて、今にも割れて書物が雪崩を起こしそうだ。
 先ほどは暗くて良く判らなかったが、文机の上には筆と硯が打っ棄ってあった。書き物を初めて、一段落したところで筆を硯に置き、そしてそのまま何年も放置したとしか思えない光景だった。
 矢庭に外からそよ風が入ってきて、早苗は久方ぶりに新鮮な空気を肺に取り入れる。埃混じりの澱んだ空気が、如何に気分の悪い物だろうかと再確認する。そして早苗は、膝を抱えて座る小傘と目線を合わせて、彼女の線の細い両肩にポン、と手を置いた。

「小傘さん? ちょっと? 私の声、聞こえてます?」

ポカンと天井を仰いでいた小傘は、早苗に揺さぶられて漸く彼女と視線を合わせ、そこでやっと早苗の存在に気が付いたように、ふと弱弱しく微笑んで見せた。

「――早苗? 何で、ここに居んの?」

「それ、私の台詞ですよ。さっきから呼んでも読んでも返事すらしないし、失礼じゃないんですか?」

「あぁ、そうなの……ゴメンね」

 予想に反して素直に謝られ、早苗は言葉に詰まる。
 てっきり、またちゃらんぽらんな返事でもしてくると思っていたのに、余りにもその返事は小傘らしくないものだった。

「で、ここ何なんです? ここに何か有るんですか?」

「何も無いみたいだね」

「またそうやって他人事みたいに……私は、貴女はどうしてこんなボロ家に入ったのかってことを聞きたいんですよ」

「どうしても何も……ここ私の家だし」

「はぁ?」

 またも予想外の言葉が飛び出してきて、早苗は当惑させられる。

「ま、正確には私の持ち主だった人の家、なんだけどね」

 言うなり立ち上がった小傘はポンポンと尻の辺りを叩くと、またも早苗を残してフラフラと幽鬼染みた足取りで書斎を後にした。

「あ、ち、ちょっと!?」

 来た方向とは逆の向きへと廊下を歩き出した小傘の背を、早苗は再度追いかける。妖怪は夜目でも利くのかスイスイと歩く小傘に反して、早苗は矢張り忍者よろしく抜き足差し足で慎重に歩を進めなくてはならないのがもどかしい。
 小傘は、廊下の突き当りの部屋にある襖を開けて中へと滑り込んだ。何で折角の休日にこんな埃塗れのボロ家で、こんな事をしているんだろう? と早苗は自分自身に悪態をつきながら、穴の開いた廊下を進んでいく。

 辿り着いた部屋は、書斎よりも二畳ほど大きい程度の部屋だった。
 壁際には箪笥が二つ並び、その殆どの引出は開け放してあった。滑り出した引出が床に打ち捨てられてもいる。泥棒でも入ったのだろうか。なら、お宝の類は期待できないな、と早苗は巫女の身ながらそんな罰当たりな事をふと考える。
 部屋の中央には、埃や泥に塗れた布団が二組並んでいた。箪笥の惨状とは正反対に、こちらは朽ちかけてこそ居るものの荒らされた様子は無かった。かつて侵入した泥棒の類が、布団なんぞに興味を持つとも思えない。
 小傘はその内の片方、窓際に位置する布団の上に横になっている。目を閉じている訳でもなく、かといって何かを見ている訳でもなく、その眼は虚ろだった。

「何してるんです? いい加減に答えてくれてもいいんじゃありません?」

 早苗は小傘の身体を跨ぎ、雨戸を開けながら溜め息交じりに尋ねる。書斎の雨戸よりも、すんなりと開いた。泥棒の侵入経路は恐らくここなのだろう。盗みを終えた後も律儀に雨戸を閉めるとは、几帳面なのか、それとも窓から侵入したことを悟られたくなかったのか。

「――この布団は、女の子が寝てた布団なの」

 早苗に背を向けたまま、ポツリと小傘が零す。

「私を一目見るなり、『変な色、茄子みたい。可愛くないね』ってそう言ったちっちゃな女の子。でも、文句を言いながらも雨の日にはいつも私を使ってくれてたの。お父さんに我が儘言っちゃいけないって思ってたのかもね。お母さんがどこかに居なくなって、お父さんが慣れない家の仕事に苦労してたの、見てたみたいだし」

 早苗は黙っていた。独り言染みた小傘の台詞で、彼女にも漸く自分が置かれている状況が朧げながら見え始めてくる。
 小傘は付喪神だ。付喪神とは、長く使われたのちに捨てられた道具が、人への恨みを持って妖怪化した存在だ。つまり小傘は妖怪となる前は、単なる一本の傘に過ぎなかったのだ。
 このあばら屋は、小傘の持ち主だった家族が住んでいた家なのだろう。小傘は、その時の記憶を辿っているのだ。自分が道具だった時の遠い記憶を。

「――名前、何て言ったっけなぁ……私、あの女の子の事大好きだったのになぁ……寺子屋で『わ、変な傘』って言われて、『そうでしょ、変な傘でしょ』って笑って返してて、いつも『もっと可愛い傘が欲しい』って言ってた癖に、それでも私の事を使うのを止めなくて、お小遣いが貯まっても傘屋に見に行ったりすることも無くて、雨の道を歩くときは、いっつも同じ異国語の歌を口ずさんでたあの子の事、大好きだったのになぁ……どうしよう……私、忘れちゃったよ……あの子の名前、どうしても、思い出せないや……」

 酷くボンヤリとした声で、小傘は一人で呟いている。早苗は、小傘の小さな背中を眺める事が心苦しく、雨戸の外に見える庭を眺めていた。
 小傘の身体が震えることは無かった。声が涙に濡れることも無かった。ただ困惑だけがそこにあった。
 上手く悲しむことが出来ないのかもしれない、と早苗はそよ風に揺れる雑草やら薄紫色の小さな花を眺めながら思った。
 きっと、彼女の記憶は遠すぎるのだ。無くしてしまっても仕方がないくらいに。記憶だけは鮮明に浮かび上がっても、それは感情という実態を伴っていないただの虚像だ。

 早苗にもその感覚は理解出来る。幼いころに両親にぬいぐるみを買って貰ってはしゃいだ記憶を思い返しても、その時と同じようにはしゃぐことは出来ない。そのぬいぐるみを水溜りに落としてしまって泣いた記憶を思い返しても、その時と同じように泣くことは出来ない。記憶は色褪せてしまうものだからだ。遠ければ遠いほどに、劣化してしまう物だからだ。

「……ふーんふん……ハロウ、ハロウ……ハロゥ、フォゴットンワールド……ハロウ、ハロウ……ふーんふーん……」

 鼻歌交じりに口ずさみながら、小傘は心ここに在らずといった面持ちでフラフラと立ち上がり、またも早苗を置いて部屋を後にする。
 何も言わず、早苗は小傘の後を追う。恐らく休日は潰れてしまうだろうが、ここまで関与していて今更知らん振りなんて出来る筈も無かった。
 難なく進む小傘を苦心しながら追う事にも、そろそろ早苗は慣れ始めていた。人間の適応能力というものは案外高いのだなぁ、とまたもどこかの部屋の中に入り込む小傘の背中を目で追いつつ思う。どこに足を踏み下ろしたら良いかも何となく把握出来るようになったし、蟲が這っているのも気にならなくなってきている。舞い上がる埃は流石にまだ慣れないが、埃を肺に入れる事に慣れる自分も少し嫌だ。

 次の部屋は、箪笥が沢山立ち並んでいた。先ほどの寝室と思しき部屋の箪笥よりも小さめだが、数は四つもある。その分、泥棒が確認すべき引出も多いわけで、荒れ方は今まで巡ってきた二室よりも酷いように思われた。
 小傘は自らの半身を手に立ち尽くしたまま、ジッと二つ並んだ箪笥同士の隙間に空いた空間を見つめている。
 早苗が小傘の肩越しに覗き込むと、そこには割れた姿見が佇んでいた。
 鏡の破片の大半は、まだ姿見にへばりついたままだが、二つ三つほどの欠片が床に転がっている。それを見て、早苗は自分が馬鹿みたいに靴を脱がなくて良かったと思う。

 ――それにしても、随分と立派な姿見ねぇ……。

 早苗は繁々と姿見の枠を見る。埃に塗れてこそ居るが、木彫りらしい枠の装飾は今だ朽ちてはおらず、工芸品には疎い早苗でもその技術の高さを理解することが出来た。
 姿見の右下に彫られているのは、鳥獣戯画風に二本足で立ち上がる鶴と亀の半立体の像だ。そして左上に目をやると、そこには恐らく窓からの景色をイメージしたのであろう、格子の隙間から見える満月と草花が、やはり半立体に彫り上げられている。
 芸術に対する専門的な知識も無い早苗は、「高価そうですねぇ」という感想ぐらいしか出て来ない。現にこの姿見はそれなりに値が張ったのだろう。家構えから見て何となく判ってはいたが、やはりこの家は金持ちの一家が住んでいたのだろうか。
 そんな事を早苗が考えていると、小傘が突然フゥ、と大きな溜め息を吐いた。

「――お父さんはお母さんの事を忘れられないの」

「は?」

 その台詞の違和感に、早苗は思わず声を上げる。
 口調がまるで違ったのだ。普段の小傘とは。
 声が同じであっても、口ぶりがほんの少し違うだけで他者に与える印象は激変する。普段の小傘のちゃらんぽらんな話し方を知っているだけに、早苗はその違和感に薄ら寒さすら覚えた。
 演技というには、口調にブレが無さすぎる。誰かになり切っている様な、誰かの台詞をオウム返ししているような、そんな妙な印象を早苗は受けた。

「アナタをお父さんが私に贈ったのはね、紫色はお母さんが好きな色だったからなのよ。ナスみたいな濃い紫色。没落貴族の末裔の癖に自分の事を高貴な身分だと勘違いしてたから、アナタみたいに変な紫色が大好きだったの。お父さんは私の前でお母さんの話はしないけど、私はお父さんが今もお母さんの部屋に行って、以前に贈った品物を眺めてる事を知ってるの。思い出を探ってる事を知ってるの。お父さんの事は大好きだけど、お母さんの事を諦めきれない所と、無意識に私とお母さんを重ねて見る所は嫌い。大嫌い。お父さんが目を細めて私を見る時にはね、決まって私の向こう側にお母さんの姿を見ているのよ」

「ちょ……ちょっと……小傘、さん?」

 姿見を睨んだまま、割れた姿見の向こう側から睨み返す不完全な自分の虚像を睨み付けたまま、誰かを小馬鹿にした様な、嘲笑う様な口調で小傘は言葉を重ねた。
 小傘と姿見の間に割って入る勇気など無く、早苗は割れた姿見の向こうの小傘を見る。オッドアイである彼女の瞳を観察することは易しい事では無かったが、それでも焦点が合って居ないらしい事だけは辛うじて確認できた。

「情けないっていうか……哀れ、なんだろうなぁって自分の親ながら思っちゃうわねぇ……結局は、お父さんも、私も、『忘れられたモノ』に過ぎないのにねぇ……あ、でも、アナタの事は、何やかんや好きよ? 道具に罪は無いし、大きいからちっとも濡れなくて快適だし、理由はどうあれ、アナタを使ってるとお父さんは喜ぶし、ね」

 鏡に映った自分自身につらつらと説明した小傘は、最後にもう一度大きく溜め息を吐くと、ピタリと閉じた貝の様に押し黙る。異様な振る舞いをした小傘に声を掛けるのが恐ろしく、早苗は彼女に声を掛けることが出来ない。
 ややあって小傘は、矢庭に首を傾げる。どうして自分が姿見なんか見ているんだろうか? と彼女自身理解出来ていないような、そんな表情を浮かべていた。
 そして小傘は、部屋を後にする。もうこの繰り返しにも慣れてきたので、一々何かを言うことも無く早苗は素直に小傘の背中を追う。ひょいひょいと鼻歌交じりで廊下を進みながら、小傘は廊下の三つ目にあたる角を右に曲がった。

「……ふーんふん……ハロウ、ハロウ……ハロゥ、フォゴットンワールド……ハロウ、ハロウ……ザ・ワールド・ザットハド……ふーんふふーん……」

 さっきと同じ歌だ、と早苗は思う。

 ――聞いた事の無い歌だけど、確か小傘のスペルカードの一枚の名前と同じじゃなかったかな……?

 そんな事を薄ボンヤリと思い出しながら、早苗は三つ目の角を右折した。これが丁度四本目の廊下、長方形の屋敷の最後の一辺となる。早苗は頭の中に簡易的な見取り図を組み立てながらそう考えた。
 廊下を時計回りに巡って入った部屋は、全て左手側だった。回廊仕立ての廊下に囲まれた中央の部屋には、まだ足を踏み入れていない。歪んだ雨戸の隙間から幾本も光が筋状に差し込む中、早苗の思った通り、小傘は右手側の襖を開けて中に入る。朽ち果て具合こそ強かったものの縁側と思しき廊下は雨戸の歪みのお蔭で視界も良好で、早苗はすぐに中央の部屋に入ることが出来た。

 早苗もある程度予想はしていたが、やはりそこは大広間である様だった。畳張りの部屋の中央には大木を縦に切って作られた豪奢なテーブルが埃に塗れている。床の間にはどうやら松の木の盆栽を飾っていたようだが、水をやる人手もなく放置された盆栽の葉は落ち、苔玉は枯れ、かつて荘厳であっただろう面影はどこにも見当たらない。盆栽の背後の掛け軸は中国の山並みを描いた水墨画だ。これは少し黄ばんでこそ居るものの、表面に埃が堆積している以外は大して痛むことも無く、身動き一つなく鎮座していた。

 しかし、室内に小傘の背中は見えなかった。
 小傘は確かにこの部屋に入ったはずなのに……と早苗は辺りを見回してすぐ、次の間へ至る襖が開け放たれているのを確認する。どうやら中央の空間は、襖で二つに分かれていたらしい。隣の部屋の隅でしゃがみ込んでいる小傘の背中が窺えた。彼女はこの部屋を素通りして隣の部屋へと移ったようだ。
 敷居を跨いだ早苗は、しゃがむ小傘の隣に立つ。隣の広間とシンメトリーになっているらしく、こちらにも先ほどの広間と同様のテーブルが据えられていた。床の間には鶉が二羽、一本の竹の傍に佇む掛け軸。その前には梅らしき盆栽が置かれている。小傘はその、床の間の前に陣取っていた。

「今度は何が有るんです?」

 小傘の持つ彼女の半身を手で少し傾けながら、早苗は尋ねる。
 そこにあったのは、年代物の蓄音機だった。小傘は床の間の横にある箪笥からレコードを出しては広げて眺める作業を繰り返していた。

「それ、壊れてるんじゃないんですか?」

 早苗は蓄音機を指差しながら、一心不乱にレコードのジャケットに目を落とす小傘の背中に言う。金属製のラッパの部分にヒビが入って欠け、埃に塗れた蓄音機が今もまだレコードを読み込めるようには、彼女には思えなかった。

「壊れてなんてないよ」

「でも、割れてますよ? それ」

「鳴るよ。絶対」

 小傘は早苗の方を振り向きもせずに、断言する。先ほど姿見の前で彼女が見せた異様な雰囲気は、今の小傘からは窺えない。まともに会話が通じた事で、早苗は小傘がおかしくなってしまった訳ではないらしい事を知って密かに胸を撫で下ろす。
 すると、ジャケットの文字を指で追っていた小傘の動きが、一枚のレコードの上で止まる。ボロボロになったレコードのタイトルにはアルファベットの羅列が有るが、小傘は英語を読む事が出来るのだろうか、と早苗は思う。

「あった」

 漸く目当ての一枚を探し当てたらしい小傘は、しかしさして喜ぶ様子もなく無感動に一言だけ呟いた。

「――『Hallo,Forgotten World』……ですね」

 目を細めた早苗は、何とかジャケットの文字を読み上げる。

「早苗、これ、読めるの?」

「簡単な英語でしたら、学校で嫌ってくらい習いましたしね。というか、貴女は読めてなかったんですか?」

「私は、昔あの子がこれを持ってたのを見ただけだから……」

 言いつつ小傘は、蓄音機の上にそのレコードを乗せた。針をレコードの溝の上に置き、ハンドルを回す。どうやらレコードは問題なく回り始め、固唾を飲む小傘と早苗の耳に、酷くザラザラとした音質の曲が流れ始める。



May be you don't think about my sadness when I walk in rainy forest.
Always, you stayed by my side, but now I can't see your shadow.

You had gone. Can you be happiness without me?
Please remember me that you had thrown over sometimes.

Hallo,Hallo,Forgotten World.
Hallo,Hallo,The World that had forget me.

Always, I’m worried about your happiness when I walk under my umbrella.
Can you live comfortably? But there is no my shadow, isn't it?

You had gone. The World is cold and sadly.
I loved the day of rain, because I could stay by your side

Now I can't see your shadow. I hope sunny day much. Why?

Hallo,Hallo,Forgotten World.
Hallo,Hallo,The World that had forget me.



 そこまで流れた所で、レコードは回転を止めた。
 小傘は何も言わず、レコードの盤面に目を落としている。
 音は割れ、女性歌手も早口な上に、早苗も英語が堪能という訳でもなく酷く聞き取り辛かったが、それでも何となく、歌詞が言わんとしている事は理解出来た。
 寂しい歌だった。
 捨てられた人が、それでも居なくなった人の事を想う歌だった。捨てられてしまった事を悲しみながらも、恨みながらも、きっとあの人は自分の事など忘れてしまったのだと気付きながらも、それでもどこかで暮す大切な人の幸せを祈る歌だった。
 早苗は背後から、微動だにせず盤面を見つめ続けている小傘の事を見る。小傘が持つ紫色の傘を見る。そして今聴いた歌を口ずさみながら、彼女を手にして雨の下を歩いたであろう少女の事を想った。母親に捨てられたと思しき少女の心境を、想像した。
 そして同時に早苗は、この歌はまるで小傘の為に誂えられた曲じゃないか、と考える。
 付喪神はかつて大切にされた道具が捨てられた末に、人を恨んで妖怪と化す現象だ。

 ――何故、道具が恨むの?

 どれほど文明が発達しても、道具の性能が向上しても、人間は万能じゃない。どんな道具もいつかは壊れる。どんな道具もやがては忘れられてしまう。そういった別離さえも前提として生み出される道具が、使用者を恨む理由は……。

「――右は松の間……左は梅の間……松竹梅……」

 矢庭に小傘がブツブツと呟き始めて、思考の海へと深く沈んでいた早苗は不意に現実へと揺り戻された。

「小傘さん。貴女、今の歌詞の意味、判りましたか?」

「この子が教えてくれた」

 愛おしげに蓄音機のラッパの部分を撫でながら、小傘が答える。

「この家の道具たちは、みんな私と同じなんだ。捨てられた訳じゃないから、付喪神にはなれなかったみたいだけど。でも、だからこそ、私に力を貸してくれるの」

 そこまで言葉を紡いだ小傘は、ふと蓄音機から手を放す。

「――私だけが、捨てられた」

 ポツリと小傘の口の端に上った無感情なその台詞に、早苗はグッと言葉を詰まらせた。締め付けられるみたいに胸が痛んだ。上手く感情を享受出来ていない小傘に代わって早苗がその寄る辺ない感情を受け止める。

「早苗」

 立ち上がりつつも、振り向くことなく小傘の背中が早苗の名前を呼ぶ。

「――何、ですか?」

「そっちの部屋に行って、床の間の掛け軸を外して見て」

 小傘の胸中には何らかの確信が有るらしく、彼女の言葉に迷いはない。早苗は頷くと、小傘に言われたとおりに松の盆栽が飾られている隣の部屋へと向かう。

「ふんふーん……Hallo,Hallo,Forgotten World……Hallo,Hallo,The World that had forget me……ふーんふーん……」

 最初は朧げだったらしき小傘の鼻歌は、彼女の遠い記憶が甦るに連れて、徐々に徐々に鮮明になっていく。けれど、どうしてか早苗は、手放しでそれを祝福する気にはなれなかった。遠い記憶を呼び覚ます行為が善行なのか悪行なのか、それは小傘にとって良い事なのか、悪い事なのか。彼女には判別を付けることが出来なかったからだ。

 仮に、『捨てられた』という前提そのものが間違っていたら。小傘の元の所有者が、実は小傘を捨てた訳では無かったという結論に彼女が至ったら、付喪神である彼女は一体どうなる? かつて自分を大切に使っていた人間に捨てられた、という絶対条件が消失してしまったら? それでも小傘は、自分の存在を保つことが出来るのだろうか? 確執の消えた満足感を胸に、明日以降も付喪神で居ることが出来るのか……?

 それでも早苗は今更、小傘の記憶を巡る行程を中断させる事など出来る筈がないと悟っていた。遠い遠い彼女の記憶の中に、自分の姿は無い。私は部外者だ。小傘の所有者であった少女と、小傘の間に割って入る資格など私には無い、と彼女は知っていた。
 僅かに躊躇いながらも早苗は床の間に足を掛け、水墨画の掛け軸を取り払う。
 掛け軸の向こう側から現れたのは、四角く区切られた小さな扉だった。

「これは……?」

「それを開けて、中の取っ手を左に倒して」

 言われたとおりに扉を開けると、中から彼女の言った通りに古めかしいレバーが姿を見せる。確認した訳でもないだろうに、彼女の指示はまるで横から見てでも居るかのように的確だった。

 ――『コレ』もまた、道具なのでしょうか……?

 恐る恐るレバーを握りながら、早苗はそんな事を考える。
 幾らかつてこの家に住まって居たとは言え、彼女は傘の付喪神だ。傘は、家の中に持ち込む類の道具では無い。所有者の名前すら忘れてしまうほどの長い時間を経て、それでも小傘が迷う事無く家の中を探索出来る筈はない。

『この家の道具たちは、みんな私に力を貸してくれる』と小傘は言った。
 早苗には何も聞こえはしないが、小傘の耳には、この家に打ち捨てられた道具たちの声が聞こえているのかもしれない。
 そうならば、小傘の迷いのない足取りも頷ける。恐らくは使用したことなど無いであろう蓄音機を、小傘が容易に操って見せた事は、早苗の考えを裏付ける物に相違ない。

 ……嫌な予感がした。

 互いに噛み合って回る歯車に異物を差し入れたかのように、ヌルリ、とした悪寒染みた感情が早苗の思考を割って湧き上がってくる。
 理屈ではない。それでも確かに、彼女は言い知れぬ予感に囚われていた。小傘の言うことに、唯々諾々と従っていてはいけない、という忌避感。彼女の無意識は、レバーを倒すことを強く拒絶している。

「どうしたの? 早く」

 隣の部屋から聞こえた小傘の声が急かすように、しかし無感情に早苗の鼓膜を揺さぶった。それは、普段の小傘には有るまじき声音だった。
 彼女の様子が違うのは、ノスタルジーのせいだと思っていた。
 しかし今にして思えば、郷愁的な気分だけでは説明出来ない言動など幾らでもあったではないか。早苗は喉を鳴らして唾を飲み込む。家の中は蒸し暑く、気付けば早苗は酷く汗を掻いていた。喉も乾いている。緊張感ゆえか、今までそんな事にも気付いて居なかった事実は、彼女を驚愕させる。

「早く」

 小傘が再度、早苗に命じた。命じた、としか表現出来ない言い方だった。ちゃらんぽらんとした普段の小傘なら、そんな刺々しい物言いなど決してしないだろうと早苗は思った。

 ――小傘さんは、操られているのではないでしょうか。

 不意に早苗はそんな思いに囚われる。

 ――私に、道具たちの声は聞こえない。けれど、打ち捨てられた道具たちに宿っている意志の残滓のような物が、小傘さんも気付かない内に、彼女を操っているのでは……?

 仮にその突拍子もない考えが、正しかったとしたならば、この家の道具たちは一体何をしようと考えているのか? 小傘に何をさせようとしているのか? レバーを掴んだまま、早苗は立ち尽くす。額から流れた汗が、右目に入って鈍く痛んだ。
 禍々しい物の深淵を覗き込むような、言い得ぬ恐怖がジワリと胸中に滲む。嫌な予感は増すばかりだ。だとしても、今更自分に何が出来るのか。小傘を引っ叩けば正気に戻るのか。説得すれば、答えてくれるのか。根拠もないというのに……。

 延々と悩んでいた早苗の右手を、冷たい感触が覆った。気付けば早苗の横には小傘が立っていた。驚く間もなく、小傘の冷たい手は早苗の手を握り、レバーごと左に捩じる。ガチャリ、と絡繰りのスイッチを入れたような音がした。

「小傘、さん……?」

 早苗の呼びかけに、小傘は無表情で一瞥をくれただけで何も言わなかった。早苗の背筋を冷や汗が一筋なぞる。
 屋敷が鳴動を始めた。小規模な地震でも起こっている様だった。カラカラ、カラカラと鎖を巻き上げるような硬質の音が微かに早苗の耳を不協和に覆う。
 異変は隣の梅の間で起こっていた。畳張りの床がせり上がりはじめ、テーブルが滑り下りたと思いきや、バランスを失ってひっくり返り、廊下側の襖を二、三枚なぎ倒した。粉塵が巻き起こり、雨戸に引っかかった襖はテーブルによって、くの字に圧し折られる。
 巻き上がった埃が落ち着かぬ間に、絡繰りの動作は止まって屋敷の震えも止んだ。雨後の筍の様に現れたそれは、地下への入口だった。

「ふんふーん……You had gone. The World is cold and sadly. I loved the day of rain, because I could stay by your side……Now I can't see your shadow. I hope sunny day much. Why?……ふーんふーん……」

 驚いた様子もなく、小傘はまたも先ほどの歌詞を口ずさみながら、矢庭に現れた地下への階段を一段ずつ降りていく。小傘の背中が見えなくなるまで、呆気にとられた早苗は身動きが出来なかった。

 ――逃げるなら今だ。

 早鐘のように鳴る心音の最中、そんな言葉が脳髄から駆け上ってきた。
 どうして逃げる必要があるのか、早苗には判らない。しかし、先ほどから湧き上がる嫌な予感は、地下への入口を見るに至って確信へと変わっている。

 ――この先には、何か嫌なモノがある。ここで逃げなかった事を後悔するモノが、舌なめずりをして待っている……。

 巫女という役職ゆえか、現人神という種ゆえか、早苗は眼前に迫る脅威に対しては敏感だった。それは第六感に過ぎないのではあるが、この幻想郷に置いては何よりも優先すべき感覚だった。

 しかし、小傘は既に行ってしまった。
 妖怪とはいえ顔見知りの存在を見捨てることは、限りなく彼女の中では悪に等しい行為だった。何かしらの脅威が待っているからこそ、小傘の為にも逃げる選択肢は初めから無かった。
 胸に手を当てて、深呼吸をする。粉塵のせいで咳き込みそうにはなったが、どうやら埃塗れの空間にすら慣れてしまったようだと彼女は思った。今だ心臓は鼓動を強めている。しかし、早苗は意を決して階段を下りて行った。
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コメント



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2.50名前が無い程度の能力削除
前半は全てプロローグのようですね
本編であろう後半を読んできます