Coolier - 新生・東方創想話

輪転のノスタルジア

2012/09/12 23:07:53
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 ちゅん、ちゅん、かぁー、かぁー

 小鳥のさえずりを目覚まし代わりにして、妹紅は目を覚ます。
 一晩中世話になった枕に別れを告げてから、部屋の隅に置きっぱなしの姿見の前で正座してみたら。
 あまりにすっきりした顔をしているのに妹紅自身が驚いた。
 ただ、そのすっきりのための名残が、目尻から首元へ伸びているのを見つけて、慌てて水桶で顔を洗う。
 これでよし、と、頬を叩いて気合いを入れ直し、出かける準備を整えていたら。

『妹紅様へ』

 という、手紙というのもお粗末な一枚の紙が、文々。新聞の号外と一緒に入り口に挟まっているのに気が付いた。何かと思い手にとっては見るが、表面は丁寧な文字で書かれたその宛名だけ。なので裏面に何かあるのかも知れないとひっくり返せば、

『昨夜はありがとうございました。私も大事なく、元気です。
 それで阿音のことで折り入ってご相談したいので、お手数かとは思いますが足をお運び下さいますよう、よろしくお願い致します』

 阿祷より、と。
 差出人の名前で締められたその手紙を見て、昨晩の映像が蘇ってしまい。わずかながら気が重くなってしまう。
 それでも乗りかかった船、最後まで付き合うべきかと決意を新たにして、扉を開けたら。

「ああもぉ~! 遅い、遅いですよ! 妹紅さん!
 いったい何時まで寝てるんですか!」

 何故か、妹紅を待ちかまえるように立つ。
 興奮状態の射命丸文に怒られた。
 かぁー、かぁーと文の肩で鳴く、鴉と一緒に。


『真剣な相談の場だから邪魔しないように』


 とりあえず、特ダネを嗅ぎつけたらしい文に釘を刺すだけ刺して、妹紅は文と一緒に稗田家の門を潜った。
 途中で文だけ止められるかと思ったが、使用人の話によれば、文も招待されているとのこと。となればやはり、阿音がハクタク化した記事を人間たちに素早く、正確に伝えることにより、人里での偏見をなくすという意味合いがあるのだろう。
 母というものは大変だなと、妹紅は苦笑しながら案内された客間に入り――

「お待ちしておりました」

 深々と頭を下げる阿祷の横で、にこにこして座る。
 薄い緑色の長髪と、角と、尻尾を持つ少女を

「……」

 夜が明けてもハクタク状態を維持し続けている阿音を見て、思わず絶句したのだった。





「どうしましょう、これ……」
「いや、私に聞かれても……」

 阿祷と阿音、そして妹紅と文。
 それぞれが対面に座る中で、阿祷が本音を口にする。
 本当に、どうしよう。
 それくらいしか浮かんでこないのだろう。
 ただ、それ以上に気になる部分があるわけで……

「……阿音、なにかすごく上機嫌に見えるんだけど」
「あ、わかります? わかっちゃいます? いやー、やだなぁ~」

 しかも若干うざったくなっている。
 すると、話したそうにしている阿音の声を切って、阿祷が二人の間に割って入った。

「阿音が錯乱状態にあったということで、今朝一緒に謝罪に行きましたら自警団の問題は片づきました。そして、私に暴力を振るったことも、帰ってきてから謝ってくれたのでそれで水に流しました」
「なるほど、それで……」

 悩み事が晴れたことで嬉しそうにしているのかも知れない。
 しかし、人間の身でありながら後天的にハクタクを受け入れたのだ。戸惑いや、憤りがあってしかるべきだろう。
 と、妹紅が難しい顔をしている隙をついて、いままでメモだけを取っていた文が、妹紅が考えていることと同じようなことを質問した。

「急にハクタク化して、困ったことはないですか?」と。

 阿音は、まず、正座していた足を崩し、足を覆っていた布地を軽く浮かせて、緑色の尻尾を横に出す。

「いつもみたいに着物を着ようとしたら、これが邪魔になって。それに、どんな服を着ても2時間ほどすると、この変な緑色の服に替わっちゃうことかな。
 私の中のそのハクタクっていうやつがそうするのかも……」
「ふむ、そういえば……、あなたと似ている慧……」
「気にしなくて良いよ」
「あややや、妹紅さん。気を遣わせて申し訳ない、では、改めて。慧音さんという方も、そのハクタク状態だと同じ衣服しか身につけていませんでした。
 てっきりそういう服が好みなのかと思っておりましたが、なるほどなるほど。そういうコトもあるんですね」

 慧音は人間の時にもハクタクと色違いの服を着ていることが多かった。
 もしかしたら、それもハクタクが影響していたのかも知れない。

「服以外で変わったとも多々あるとは思いますが、特に大きなコトはなんでしょう?」
「大きなこと、ふふふ、大きなコトか~、やっぱりあれかなっ」

 文がさらに質問を重ねると、阿音はまた緩んだ顔になり。

「霖之助が、『その姿でも十分魅力的』って言ってくれたことかなっ!」

 ノロケだした。
 おそらく最初から嬉しそうにしているのはこれが原因なのだろう。人里でやらかしたマイナス感情よりも、霖之助が半人半獣になった自分を見ても受け入れてくれたというプラスの感情が大いに勝っているから。
 その様子を見て、文も何故か目を輝かせ始めた。

「落ち込んで、泣いてる私をずっと抱きしめてくれて!」
「ほうほう!」
「大丈夫だよって、優しく、何度も話しかけてくれて!」
「それからそれから!」

 なんだろう、このワンサイドバカップル。
 それに加えて、阿祷がものすごく気まずそうにしてるのもなんだろう。

「あー、文って新聞記者だよね? えーっと、こんなコト言っちゃって良いのかなぁ」

 と、言いながらも文の方を気にしているところを見ると、傍目から見ても話したくて仕方ないように見える。
 それを文が見逃すわけもなく。
 待ってましたと言わんばかりに、阿音を促した。
 ただ、今までの内容から言って、ちょっと親しい友人くらいでもできそうなことばかりなので、特に大騒ぎすることでもない。
 そう判断した妹紅は、出されたお茶をずずっと煤って。

「霖之助の赤ちゃん、できちゃったかも……」
「ごふっ!?」

 妹紅はむせた。盛大に、むせた。
 霖之助が、である。
 あの、霖之助が、である。
 妹紅は、圧倒的な威力の不意打ちのせいで呼吸困難な状況に追いつめられてしまう。

「お、おおおおおっ! こ、これは! 文々。新聞の独占スクープにさせていただいてかましませんね? ね? ね?」
「あ、駄目だよ! まだ秘密なんだから!」
「あ、ご心配なさらず! ことがことですので、許可があるまでしっかりと眠らせておきます。しかし発表のタイミングを見誤らぬよう綿密なスケジュールは立てたいところですね」
「で、でもぉ」
「ほらほら、阿音さんもぉ~、い~っぱいの人に祝福して貰った方が……、ふふ、嬉しいでしょ?」
「そ、そうかな、えへへ……」

 何故だろうか、妹紅の視界の中で文が悪魔に見えてきた。
 言葉巧みに望む結果に持って行こうとしているところを見ると、小悪魔という感じだが。
 しかし妹紅はまだ信じられない。確かに考え方を変えてみると言っていたのは霖之助本人であったが、告白のような内容も聞こえてこないし。
 そのような相手に手を出すとは考えにくかった。
 それで、静かなままの阿祷の方にどう思うかと聞こうとして……

「なんで、そんな汗を?」
「い、いえ、なんでも。人数が多いと室温が上がりやすいというではありませんか」

 阿祷がどこかうちひしがれた様子で、畳の上に手を突き、冷や汗を流していた。最初は子供発言のショックかとも思ったが、阿音が嬉しそうにしゃべりはじめたときもどこか調子がおかしかった。
 それを重ねて判断した妹紅は、一つの仮定を思いついた。

「……ねえ、阿音、どうやって子供が出来るか、知ってる?」

 普通は顔を赤らめて、『そんな恥ずかしいこと』のような態度を取るもの。
 しかし、こくんっと軽く首を振る様子と、阿祷はわたわたと手を振り始めたことからして、

「……えっと、夜、同じ屋根の下で一夜を過ごしたら、子供が出来るかも知れないって。
 母さんが」
「……」
「……」

 無言の二つの視線を受けて、阿祷がぷいっと顔を背ける。
 けれど、静まりかえる場に耐えられなくなったのか。
 ぷるぷると、正座したまま全身を震えさせ始め……
 最後には、ばんばんっと畳を叩きながら、涙目で叫んだ。

「ええ、ええ! 知りませんよ! 本で読んだ知識くらいしかありませんよ! 悪かったですね、我が子に教えられない親で、悪かったですね! そういうことは男性の方が手取り足取り腰取り教えればいいんです!!」
「ま、まあまあ、落ち着いて落ち着いて」

 大きな地雷を踏んでしまったようで、今度は阿祷が大興奮。
 妹紅は何とか宥めよう声を掛けるがなかなか収まらない。阿音は性知識について何かおかしなことがあったのかと首を傾げるばかり。
 しかし、ここで救世主が立ち上がる。

「ふふ、仕方ありませんねぇ。ゴシップ記事を書くにはそう言った深い知識は不可欠。この射命丸文が一肌脱ごうじゃありませんか!
 阿音さん! あなたに正しい性というものを再教育して差し上げます!」
「え、ええ!? 間違ってたの、私?」
「はい、悲しい話ですが」
「……でも、赤ちゃんはこうのとりが運んでくるって所は、あってるよね?」
「なるほど、それは初心者が一番陥りやすい罠です」
「わ、罠……」
「ええ、赤ちゃんがどこから生まれるか、それは単純」

 文は自慢げに人差し指を立てて、教鞭を振るう教師のように咳払いをしてから。一言、阿音に事実を告げる。

「卵です」

 そういえば、鴉って卵生だったと。
 阿祷と妹紅は再認識したのだった。




 ◇ ◇ ◇





 卵生は抜きにして、とりあえず稗田家で文の大人の講座が繰り広げられている中、妹紅は別な場所の門を叩いていた。
 講座の前、文が渡すのを忘れていたと慌てて取り出した書状によって、移動を余儀なくされたのである。
 その書状の最初には、立派な文字でこんな言葉が書いてあった。

『出頭命令書   自警団代表より』と。

 加えて、至急などという危険な文字が文章の中にあったため、しょうがなく妹紅は自警団までやってきたわけである。
 門番に連れられて、玄関ではなく砂利の敷き詰められた庭の方へと案内されてから。ひげを蓄えたざんばら頭の、ちょっと偉そうな中年男性の前まで歩かされた。
 妹紅がその男の前に立って、門番が本来の仕事場に戻った後で、その大男はゆっくりと妹紅に問い掛けた。

「急に呼び出しをしてすまない。私は自警団の副団長をしているものだが、ほんの少しばかり質問させて貰いたい。
 昨晩のことだが、何かもめ事を起こさなかったか?」
 
 身に覚えがあるかと問われれば、ありすぎるので困る。
 むしろどれを話すべきかと妹紅が悩んでいると。
 
「妖怪を人里へわざと逃がしたという報告が、自警団からあるのだが?」
「あー、あのときのことね」

 阿祷が自警団に謝ったと聞いていたので、妹紅は特に悩むことなく。

「あのときの妖怪は阿音がハクタク状態になってたときのもので、私は興奮状態の彼女を人里の外に一端避難させただけよ」

 素直に阿音だったと告げてみる。
 すると、やはりと言った様子で男が軽くと息をこぼし。

「これで全て繋がった、すまなかったな。事件の詳細をまとめるためにどうしても必要だったのだ」

 おそらくはその後妹紅が自警団を止めたことも報告に上がっているのだろうが、事情が事情なのでお咎め無しのようである。
 それじゃあ、と妹紅が帰ろうとすると。

「これは個人的な興味で質問しているだけなのだが。人里の中ではなく外へ出そうとした理由を聞いても構わないか?」
「個人的な質問?」
「そうだ、重要調書には書くつもりはない」

 ということは、このまま妹紅が帰ってしまっても問題ない。
 だが、妹紅は中年男の奧、こっそりと二人のやり取りを覗く白い陰を見つけて、ぽんっと手を打った。

「人間に捕まえられそうになって、人間不信になってたから少し距離を置かせた方が良いかと思っただけ、これでいい?」
「ああ、協力を感謝する」
 
 さすがに好意を寄せている人の元へ行かせたかったからなどと言えるはずもない。当たり障りのないことだけを伝えて、自警団の外へ出た。
 そしてしばらく歩いてから角を曲がったところで、

「妹紅様!」

 布都が後ろから駆け寄ってくる。
 そして、頭を下げてから、

「さきほどの受け答え、さすが妹紅様は堂々としておりましたな。やはり人の上に立つものはああでなければ」

 などと、盗み聞きをしていたことに悪びれもせず、なめらかに話し続けるものだから妹紅はにこっと、微笑んで。

「私が、阿音に攻撃をしようとしたとか話すと思って、ひやひやしてたでしょ?」
「な、何を馬鹿なことをっ! 我はそんなやましいことなどっ!」
「そう、じゃあ。そのことをあの副団長って人に話してこようかな~」

 そう言った瞬間、布都の全身が大袈裟に跳ねた。
 続けて妹紅が回れ右しようとすると、もの凄い勢いで妹紅に抱きついてくる。

「申し訳ありませぬっ! それだけは、それだけはご勘弁をっ!」
 
 素直じゃない布都の豹変振りに思わず笑みをこぼし、冗談だと告げて立ち去ろうとすると、今度は妹紅が酷いと文句を言い出した。

「まったく、妹紅様は我をなんだとおもっておいでか!」
「あはは、ごめんね」
「我が殴り飛ばされたときも介抱すらなかったではありませぬか!
 親身になって協力したと言うのに!」

 ふと、妹紅はあの満月の夜のことを思い出してみる。
 確かに阿音とのやり取りの中で、耳に布都の声らしき呻きが残っているようないないような。
 正直言えば、阿音の方に集中してしまっていたため、まったくと言っていいほど残っていなかった。
 そんな怒りが積もり積もっているようで、布都は妹紅の身体から離れて、あの夜のことを思い出すように瞳を閉じる。

「尸解仙でもあのような馬鹿力で殴られれば、無事ではいられないというのに! 妹紅様と良い他の自警団といい、我を放置するとはっ!
 聞いておりますか、妹紅さ――、
 あれ? 妹紅様~?」

 そう、目を閉じてしまったから。
 妹紅が空を飛んでこっそり逃げるのも、布都はまったく気が付かなかったのだった。




 そうして、ちょっと余計な時間をくってから妹紅が戻った稗田家では……
 正座する阿音が真剣な顔で文と対峙していて。

「文、いえ、文先生と呼ばせて頂いても?」

 どうやら、効果は抜群のようであった。

「ふふふ、そう言って頂いても構いません。さて復習ですよ、男女の関係で大事なことは?」
「既成事実を作ることです!」

 しかも、鴉だけあって真っ黒な方向に……





 ◇ ◇ ◇





「こういう仕事は、何か久しぶりな気がする」

 とりあえず、テンションが上がりすぎた文と阿音に対し、焦げるくらいの教育的指導を実施することに成功した妹紅は、稗田家の二人を引き連れて永遠亭までやってきた。
 文も取材したいと文句を言っていたが、さすがに一度目は家族だけで行かせるべきだと妹紅が止めたので、しぶしぶ了承し人里で分かれることとなったのだ。

「えーっと、私って別に病気って訳じゃ、ないんだよね?」
「念のためです。素直に受診しなさい」
「はぁ~い……」

 永遠亭の入り口で妹紅と分かれた二人はそのまま診療所の中に入っていく。
 その瞬間、受付係の鈴仙が驚きの悲鳴を上げるのを外で聞き、くすりと吐息を零して、入り口の塀にその身を預けた。
 妹紅も阿音の身体の状況を知りたいのは当然であったが、文にも伝えたとおりだ。いきなり家族と混ざるのは無粋だと思ったから、詳しい内容については話せる部分だけ阿祷から聞けばいい、と。
 だからのんびりと、緑の天井を眺めながら、笹の葉が触れ合うざわめきに耳を傾けていた。
 細い葉っぱ独特の、高く、さらさらとした、澄んだ音。
 風鈴に似たその心地よい音楽に身を委ねていたら。

 かさり、

 そんな音が身近に聞こえて、視線だけを下に落とした。
 すると、てゐが妹紅と同じように塀に背中を預けて、気持ちよさそうに目を閉じている。邪魔や悪戯をするつもりがないなら、放っておくべきかと。妹紅は特に追い払うこともなく、一緒に竹林の風景と声を楽しみ続けた。
 そうして、竹林の中にそよそよとした風が、わずかに流れたとき。

「あれって……慧音?」

 挨拶も何もなく、てゐが声を出す。
 答えるべきかどうか、妹紅はしばらく間を取って。

「阿音よ。稗田家の阿音。姿形はそっくりだけど……阿音は阿音以外にありえない」
「そっか」

 と、その答えに満足したのか。
 てゐは壁から離れて、ぴょんっと、ひと飛び。
 
「あいつが慧音だって言ったら、姫様の変わりにちょっとだけ説教しようかと思ったのになー、残念っ」
「いたずら兎に説教されちゃ、おしまいね」
「残念、人生の先輩ってやつなんだよ。私はね」

 そうして、またぴょんっと飛んで、妹紅から離れると、いつのまに集まってきたのだろうか。遠目で妹紅を見守る人型の妖怪兎たちの輪に入って、なにやら指示を出し始める。
 傍目ではまったく同じにしか見えない、部下達一人一人に。
 
「なるほど、先輩か」

 そう妹紅がつぶやいたとき、診療所の扉が開いて、見知った顔が飛び出してくる。

「異常なし、健康体だって!」

 そうしていきなり妹紅の腕を取り、嬉しそうにその場で笑う阿音を見て。

「やっぱり、阿音は阿音だね」
「え?」

 ありのままの本心を伝える。
 けれど、阿音は当然、何のことかわからず。

「落ち着きがない、ということですね」
「母さん酷い!」

 母親の追い打ちに方に反応して、頬を膨らませてしまった。
 ただ、そんな母と娘の関係を見ているだけで。

「違うんだろうね、やっぱり」

 そのことが実感できて、妹紅は少しだけ胸に穴が開いた気がした。





 ◇ ◇ ◇





 阿音がハクタク化してから、1週間たっても、阿音はその姿のままだった。その間は大事を取って安静にさせていたわけだが、変化がないと言うことで阿祷はその姿のまま人里で生活させることにした。
 同時に、天狗の新聞を利用して、少しでも早く阿音を馴染ませようと。
 その結果、休んでいた寺子屋の手伝いも問題なく再開でき、現在は角や尻尾が子供に大人気だという。
 通常業務の寺子屋が自由になったと言うことは、つまり……

「いらっしゃいませー♪ あ、妹紅か」
「何よ、そのあからさまなトーンダウンは」
「だって、妹紅って……基本何も買わないじゃない?」
「こういう上級者の買い物をウィンドウショッピングっていうのよ。天狗が言ってたから間違いない」

 霖之助の手伝いも再開というわけだ。
 阿祷の話では、阿音が家の中で言う不満の約半分がこのことだったらしい。満月の夜の一件から一週間も顔を合わせられなかったのだから、当然と言えば当然なのかも知れない。
 ただ、慧音に似た姿の彼女が寺子屋よりこちらの手伝いを優先することは、妹紅としては複雑な心境ではあったが、年頃だから仕方ないとも言える。

「それにしても、店番のときもその格好なのね」
「仕方ないよ、着替えてもこの服になっちゃうもの」
「僕としてはその入れ替わる瞬間というものも見てみたいものなんだけどね」

 姿形は変わっても、霖之助はやはりいつもの阿音として受け入れているようにも見える。むしろ半人半獣になってからは、客観的に距離を縮めているようにも見えるのは気のせいだろうか。

「霖之助、おつりとかの予備はここでいいの?」
「ああ、使うときはほとんどないと思うけど、そこの下にまとめておいてくれると助かるよ」
「はーい」

 むしろ、彼女がいる間は霖之助が隣で道具作りに専念するという、完全な分業体制となってしまっている。
 やはり同じ半人同士、気が合うと言うことだろうか。
 ただ、妹紅には少し気になっていることがある。
 まだ本人には話していないが……、実を言うと阿音のおまもりは偽物とすり替えてあったのだ。それで道中妖怪に襲われるかということを試してみたわけである。もちろん、こっそり妹紅が空から護衛しながら。
 すると、どうだろう。

「まさか、妖怪の方が逃げるとはね……」
「ん? 何か気に入った?」
「いやいや、単なる独り言」

 人間と妖怪の寿命が違う。つまり人里周辺の妖怪たちは慧音のこと、主にハクタク状態の慧音の恐ろしさを覚えていて、目に付いた瞬間慌てて逃げたと言うところだろうか。
 妖力の制御をしたことがない阿音が垂れ流しにしているわずかな力も、その恐怖を煽っているのかも知れない。
 以上のような結果が出てしまったので、妹紅はふと思った。

「ねえ、霖之助? 阿音がいるときって、客足は良い?」
「そうだね。妖怪のお客は少し減る感じかな? 昼間だから仕方ない気もするけど。
 人間がいるからびっくりして帰る妖怪の客もいた気がするよ。そもそもそんなにひっきりなしに来るわけでもないしね」
「……あー、そっかー、なるほどぅ」

 看板娘、といより……
 ハクタク状態だと、店を潰しかねないんじゃないか、と。
 そんなことを心配してみたが、どうやら影響は軽微らしい。
 霖之助によれば、人間とは違い生活費を多く必要としないのが大きく、趣味という名目で店を続けるならばそうそう難しくないとのこと。

「誰かさんが店を壊すこともなくなったからね。加えてツケも減った」
「そっちの出費の方がでかかったのね」
「ああ、恥ずかしい限りだよ」

 と、懐かしい過去の話を二人でしていると。
 阿音それに耳を傾けており。

「霧雨さんのところの、女の子の話?」

 妹紅に対抗し、なんとか話しについて来ようとする。それだけでも微笑ましい。やはり少しでも歴史的な知識を増やそうと、阿祷の元で勉強しているのかも知れない。

「へえ、阿音もなかなか頑張ってるじゃない」
「何が?」
「ほら、さっきの女の子の話。歴史書か何かで見たんでしょ?」
「え?」

 妹紅が尋ねると、阿音は急に黙り込み、頭の上にハテナマークを浮かべた。

「いや、なんとなく。二人で話してること知りたいなーて思ったら出てきた」
「……そういえば、そう言う種族だったわね」
「え? そう言う種族って?」
「阿音……自分の中にいる種族のことくらい勉強しなさい。霖之助からも何とか言ってよ」
「まあまあ、そういったところも阿音らしいじゃないか。味があって」
「だよねー! 妹紅が気にしすぎなんだよ」

 霖之助は現在甘口らしい。
 それだけを理解した妹紅は、深いため息をついて、並び会う二人を見る。
 阿音が女性から見て長身であるせいか、霖之助と並んでいても見劣りせず。年齢よりも大人びた外見からしても、実に絵になる。
 華刺しに生けられた、すらりと長い二輪の花。そう表現しても良いくらいだ。

「んふふ~、でも、ハクタクか。結構便利かも♪」

 ころころと表情を変える阿音が、黙って立っていればの話だが……

「もしかしてこれを使えば、妹紅の弱みを握ったりとか……」
「こらこら」
「冗談だってば、ただ、確かに寺子屋で授業をするときとかに役に立つかな。だって過去の異変とか、私があんまり知らないこともこうやって考えれば――っ!?」

 そうやって慣れない身体で、慣れない能力を使おうとしたからだろうか。
 阿音はいきなり頭を押さえて、会計棚の上に上半身を預けてしまう。
 慌てて二人が近寄るが、

「あー、びっくりした……」

 息を荒くし、涙目になりながら。
 阿音はなんとか身体を起こした。
 それでも、頭に違和感が残るようで角の付け根あたりを撫でている。

「なんかすっごい、バーって……いろいろ入ってきた……」
「大丈夫かい? 傷みは?」
「うん、大丈夫……、ごめんね、心配掛けて」

 霖之助が反対側の角の付け根を撫でてやると、落ち着いた様子でふうっと息を吐く。

「今、どんな知識を集めようとしたの?」
「えっと、昔にあった異変について……」
「あのね……、あなたが生まれる前にいくつ異変があったと思ってるのよ。一気に流れ込みすぎるでしょ、それじゃあ」
「……ん、わかった。便利だけど、ちょっと怖いね、これ」

 国の王に仕える、ハクタクの本来の能力は、国の歴史を集め、そして国政が滞りなく行われるよう王のための歴史を創る。善にも悪にも変化することが出来る能力だ。だから本質的に怖い能力であるのには違いないのだが……
 そこに到達する前に、

『なんとなく大雑把に歴史を集めてみよう』

 という行為により、別な意味の恐怖を味わってしまったようだ。

「あー、そっか。こんな感じで小出しにやればいいのか」
「阿音、あまりやりすぎないようにね。店番の方も任せているんだから」

 ただ、すぐさま引き出す感覚を掴むのは素質があるのかないのか。
 霖之助に戒められるまで、続けてしまっている。
 ただ、その様子から見て能力を使用しても一般生活に支障がある、というわけでもなさそうだ。

「じゃあ、私は戻るよ。阿音の状態の報告を心配性な母親に頼まれてるからね」
「あ、やっぱりそう言うので来たんだ。信用無いなぁ、私」
「それだけ大事ってコトよ。そんなに膨れない」

 そして、さよならと告げて手を振ると。
 阿音はたった今収集したばかりの歴史の片鱗で何かを見たのだろう。
 何か思いついたように、ぱんっと手を叩いて。

「輝夜って人と仲良くね」

 なんてことを、慧音の顔で言うものだから。

「え? 何? 私変なこと言った?」

 妹紅はついつい腹を抱えて笑ってしまったのだった。





 ◇ ◇ ◇





『そうですか、それならば安心ですね』

 歴史の編纂作業をほとんど終え、後は寿命を迎えるまでまったり過ごすだけ。
 そんな阿祷にとって、大きな心配事の一つである阿音の身体に今のところ異常がない。それを報告すると、阿祷はほっと胸を撫で下ろしたようだった。

『診断ではそういったことを言われましたが、やはり心配なもので』

 永遠亭の名医曰く。
『慧音のときのように人間状態と妖怪状態が交互に発生する場合、その分身体に負担が掛かる。むしろどちらかの状態で安定した方が、肉体的にも精神的にも負担は少ないだろう』
 それが彼女の判断であった。
 しかし、阿祷は安心することができず、外出することになった阿音を見張るべくして、またしても妹紅を頼ったのだった。一応多少の謝礼付きで。
 そうしてさらに、1週間。
 寺子屋も調査対象に加えて聞き込みなどをしてみたところ。

『阿音に簡単な歴史の授業を任せられるようになった』
 
 そんな声が先生から上がり、子供達からも阿音の授業はわかりやすくて好きだという声がいくつもあった。難しい部分が出てくるとそうもいかないかもしれないが、良い兆候だろう。ハクタクの力を有効利用しているようにも見える。
 阿音本人も体質が変化してしまったのをそんなに否定的に捉えず、恋に仕事にと全力で取り組んでいるのもその成長の手助けとなっているのかもしれない。
 ただ、ある一点。
 稗田家では、小さいときから余り運動というものを教えていないらしく……

「あ、あの……大丈、夫?」

 せっかく肉体が強化されたのだから体術を学ぼう。
 ということで、今日一日休みを取って美鈴のところで訓練を受けた結果。

「へにゃはわふへぇぇぇ……」

 開始15分でへろへろになってしまった。
 力の入れ方がめちゃくちゃで、せっかくの獣の怪力を生かし切れていないというのが美鈴の結論。力を使っているのではなく、力に使われてしまっているから稽古を付ける段階にすらないらしい。よって、全力で戦おうとすると今のように短時間でぐったり。力の配分ができていないというか、持久力がないというか。美鈴は攻撃を受け流していただけなのに、荒い息のまま地面に転がされてしまう。
 結果『まずは基礎体力を付けましょう』ということで、ていよく追い返されてしまった。
 布都を吹き飛ばした攻撃を間近で見たことのある妹紅としては、筋があるようにも見えたのだが、どうやらあれは火事場の馬鹿力。偶然の産物だったようである。

「こ、こんでょこそぉぅ……」

 その帰路で、妹紅の背中に担がれたまま再戦を誓うが、それすらも言葉になっていない。それでも、本人が諦めていないのは、阿祷のためなのだろうなと、妹紅は感じていた。
 稗田家で育てられながら、頭脳明晰とまではいかず、普通の人間と同程度の知識しか持たない。どうがんばっても能力を持つ母親の手助けもできず、手伝おうとすれば逆に足手まといになる。
 そんなことをずっと、繰り返してきたから、人里を守れる力を……
 いや、母親を守り、手伝える力を得たのが嬉しくて溜まらない。妹紅は、そう感じてしまうのだ。
 だからこそ、いまが一番危ない時期であり、そのための訓練でもあったのだから。

「これでよくわかったでしょ? いくらハクタクの力を得ても、使いこなせなかったら何にも成らないってね」

 次の満月の夜。
 自警団を手伝いたいと軽い気持ちで言わせないため、妹紅が今日という日を準備していたのだから。
 己の体を武器にして向かってくる妖怪に対処できるかどうかを、阿音本人に理解させるために。

「身体能力を使いこなせるまで、満月の夜は安静にすること」
「……」

 その無言は、おそらく肯定を意味するものなのだろう。
 けれど、尻尾を振り回して妹紅のすね裏あたりを叩くのは、阿音なりの小さな抵抗かも知れない。
 頭では理解できるけど、納得したくない。
 だから妹紅はふうっとため息をついて、機会をあげることにした。

「明日の朝、太陽が上がる頃に玄関の前に立ってたら、また連れて行ってあげる」
「っ! ほ、ほんと?」
「ええ、本当よ。ちゃんと朝起きられたら、ね?」
「わかった! 絶対起きる!」

 そして、人里の入り口まで阿音を背負って届けた妹紅は、意味深な笑みを浮かべながら阿音を見送り、竹林へと戻ったのだった。

 そして、次の日。

 妹紅がまだ薄暗い時間に稗田家へと足を運んだら。
 門の前に、一人、立っていた。

「おはよう」
「はい、おはようございます」

 阿音ではなく、阿祷が。
 そしてどこか申し訳なさそうに表情を曇らせた。

「……えーっと、妹紅、大変言いにくいことなのですが」
「ああ、わかってるわかってる。たぶんそうなると思ったから」

 昨日、15分でスタミナ切れを起こすほど全身を動かしたのだ。
 加えて運動経験のあまりない阿音である。
 それが何を生み出すかというと。

「……全身筋肉痛で、布団から出られず」

 玄関先で乾いた笑い声が重なる中。
 傷みで寝返りすら打てない阿音が、しくしくと泣きながら布団にくるまっていた。





 ◇ ◇ ◇





 阿音は不意に何かの気配を感じて振り返った。
 物音がしたわけではない。
 誰かに見られている気がした、ただそれだけだった。
 けれど、そこには畳んだ敷き布団だけが置いてあるだけで、後は姿見くらい。

 満月の日だから血が昂ぶっているだけかも知れないと自分を落ち着けて、阿音はまた作業に集中し始める。
 満月の夜だから寺子屋もなく昼からは部屋で休むだけ。
 そんな時間を利用して、阿音は歴史の中から探していた。
 美鈴に訓練をつけてもらってからおおよそ二週間以上が経過してはいるものの、阿音の身体能力はまだ充分とは言えず。能力も自由自在と言うにはほど遠い。
 だから今、阿音が利用できる歴史を探す力を少し応用した程度で人里を防衛する手段はないか。それを母である阿祷にも内緒で調べ続けていた。
 その後ろめたさが、さっきのよくわからない気配を生んでしまったのかも知れない。
 
「集中、集中……」

 心の乱れが生んだまやかし。
 阿音は自分に言い聞かせながら、居住まいを正す。
 そして、阿祷がもっているものと同じような座卓の上に両手を置いて、『過去に利用されたハクタクの能力』というものを大雑把に探そうとした。
 しかし、やはり歴史の改変の事例が多く、それ以外の応用法を抜き出すのが大変な作業になってしまう。
 それならば、と。
 阿音はとうとう、自分で禁じていた手法に出ることにした。

『過去に、たった一人で満月の暴走から里を守りきったことのある女性』

 慧音という女性の歴史を覗いてみようと思ったのだ。
 ただ、その女性は……妹紅と親しい位置に居たとも阿祷から聞いていた。だから、いままで世話になってきた妹紅の秘密まで覗いてしまいそうで、その罪悪感から最後の手段として残しておいたのだった。
 しかし、後天的にハクタクに取り憑かれたということ。
 そして、阿音が慧音と似ているということ。
 その点からしても、応用しやすい手法があるんじゃないか。
 そんな、誰かの役に立ちたい。という欲望が溢れ、阿音はとうとう、その歴史を開いた。

「……え?」

 するとどうだろうか、今までの歴史を見たときと違う。
 何故か懐かしい感覚が、阿音の中を駆けめぐる。春の暖かな日差しを全身で感じているような、そんな心地良さ。
 その優しい流れに乗って、慧音という女性の歴史が阿音の中に流れ込んだ。

「なん、で?」

 そうやって、流れ込む度。
 自分の知識として、慧音と妹紅の記憶が蓄積されていく度。
 阿音の瞳から大粒の涙が零れる。
 確かに、悲しい物語だ。
 それでも、能力を使って覗いてきた歴史と比べればそんなに大差のない悲劇と言っていいだろう。
 それなのに、止まらない。

「どう、して……」

 暖かい感情が、涙を止めてくれない。
 能力の活用法を見つけ、能力を解除したその後も静かに零れ続けた。
 そんなよくわからない感情に引きずられないよう、阿音は何度も深呼吸を繰り返し、机の上の布巾で顔を拭く。

「……もう、なんなのよ」

 そんな制御しきれない身体の異変に怖さを感じながらも、阿音は気を取り直して、慧音の歴史の中で見つけた技術。

『歴史を隠す(食べる)』

 それを試すことにした。
 まずは、手元にある乾いた筆。それを手にとって、この筆が机の上になかった場合の歴史を想像し……、あったという歴史を包み込む。
 するとどうだろうか、筆の色が淡くなっていき……そして、

「あれ?」

 それだけだった。
 薄い膜に覆われたように、色は確かに薄くなっている。
 これで隠すことには成功しているはずなのだが、慧音の目にはどうしても筆が残って見えた。
 阿音はそんな状態で数分悩み。
 ぽんっと胸の前で手を打って、何を思ったかもう片方の手にも細い筆を持って阿祷の部屋へと掛けだした。

「ねえねえ、お母さん! お母さん! 見てこれ!」

 開け放たれたままの入り口を潜り、はしたないとしりながら膝で畳の上を滑るように阿祷の前へ。
 行儀が悪いと言いたとうにあからさまに眉を潜める阿祷であったが、阿音が握った両手を出しているのを見て、首を捻る。

「細筆、のようだけど? 壊れたの?」

 その一言で阿音の顔が明るくなる。

「やった! ありがとう、お母さん!」
「え? えっと? あ、こら! 廊下は走らない!」

 そして阿音はすぐに自分の部屋に戻って、歴史を隠した方。
 阿音が何も持っていないと言った方の手を挙げて、喜びを表現。ただ、うるさくすると怪しまれるので少々控えめに。
 どうやらハクタクである阿音には見えるが、他の存在には見えない状態になるらしい。だが、それを見破った妖怪もいると歴史の中にあったので、あまり過信してもいけないのかもしれないが。

「よし、じゃあ……今度は、机!」

 そうやってどんどん大きなものに挑戦していって、どれも一回で半透明にすることが出来た。
 しかも物品が大きくなっても、使う力の大きさはほとんど変化しない。
 なかったという歴史であるという歴史を隠す。
 世界の認識を弄るという点では、大きさは問題じゃないのかも知れない。

「さて、じゃあ……今度はちょっとだけ……人里を」

 それを実感した阿音は、ほんの一瞬だけ人里が消えるというイメージを歴史の中に創った。これで人里を覆う感覚で、能力を維持できれば、みんなが安全になる。
 阿音自身は近くの命蓮寺にでも避難すれば、襲われて能力解除という最悪の結末も阻止することが出来るに違いない。
 どんどんと頭の中に溢れる幸せな結果。
 それに想いを馳せながら、阿音は能力を解放した。

 直後――

『ミツケ、タ……』

 奇妙な声が、頭の中に響いた。
 そんな気がしたとき、

「――っ!」

 声にならない悲鳴が、阿音のから絞り出される。
 中から、頭の中をぐちゃぐちゃに弄り回されるような。
 傷みとして認識できないほどの衝撃が、阿音の中で暴れ回る。

 たすけてっ

 そう叫びたいのに、舌は天井に向かって震えるばかりで……
 痙攣し続ける身体は、立ち上がることすら許さない。
 
『ミツケタッ!!』

 そして、もう一度、聞き覚えのない声が阿音の頭の中に響いたとき。
 彼女の意識は、闇の中に解け……、墜ちた。





 ◇ ◇ ◇





「月が、綺麗だね……って、私の柄じゃないかな」

 竹林を抜けたところにある、丘の上。
 その開けた場所で、妹紅は一升瓶を傾けて、不格好な置き石に酒をばらまいた。人里での手伝いも一段落し、後は阿音の頑張り次第。
 そこまでやったのだから、今日くらいはのんびりしようと草原に背中を預け満月を見上げる。
 雲一つなく澄んだ闇色、その中に浮かび上がる淡い光を見上げていると。
 何も言わない慧音が横で膝を抱えている気がして、なんだか暖かい気持ちになれる。
 このまま朝まで過ごそうか。
 そんなことを考えていたら、満月の上に黒い点が生まれた。
 目をこすってもそれは消えず、気のせいかそれはどんどん大きくなって。

「こんなところにいたのですか! 妹紅さん!」

 その黒が一気に視界に広がったと思ったら。
 音が届くのと同じくらいの勢いで、すぐ目の前に文が空から降ってきた。
 しかも珍しく息を切らし、肩を上下させている。

「そんな大声でどうしたのよ。取材を受ける気分じゃないから、行った行った」

 しっし、と妹紅が手を伸ばして追い払おうとすると、その手を逆に掴まれてしまう。

「ちょ、ちょっとぉ!」

 妹紅が文句を言うより速く、射命丸は空へ飛び上がりそのまま加速。
 あっというまに丘を離れて風に乗った。
 しかし、理由もわからず捕まった妹紅がそのまま大人しくしているわけもなく。掴まれた部分に熱を集め始めた。
 すると、文は速度をわずかに緩め、

「……満月が昇った直後、人里が消えました」

 その一言は、妹紅の炎を消すには充分過ぎた。

「ですから、取材するにしても事態の沈静化を図るにしても、妹紅さんの協力が不可欠と判断しました! それでも不服なら焼いて頂いて結構!」
「……わかった、急いで!」
「いわれずともっ!」

 全力で飛ぶとき以外は発現させない黒翼を拡げ、また速度を引き上げる。
 暴れる風が分厚い壁のように感じ、声を上げるどころか、息をするのも困難なほど。
 掴まれている腕も激しく傷み、抜けるような錯覚すらある。
 それでも、不死の妹紅なら意識を失わず、耐えられるだろう。
 それを文なりに考慮した上の、限界ぎりぎりの速度だった。
 そんな無理のおかげで、すでに眼下には平地にぽっかりと開いた空間が、

 人里があったはずの空き地がすぐ真下にあった。
 
 その証拠の一つとして、人里に向かって集まった妖怪の群れが見えるのと……
 それと同じくらい、地面に横になって気絶する妖怪達が見えること。
 間違いなく、そこに人里があったはずなのだ。
 そんな妖怪達が転がされたままの場所を目標に文は急降下し、わずかに減速しながら妹紅を投下。直後、妹紅が炎の羽を背中に生み出して、たんっと、華麗に着地を決めた。

「私は一端命蓮寺の方々と合流します! 妹紅さんも何かありましたら!」
「大きな花火でも打ち上げてみるよ!」
「そうして下さると助かりますっ! ではっ!」

 地上と、空。
 文とわかれた妹紅は、気絶した妖怪を飛び越え、まだ元気にうろついてうる妖怪は軽く気絶させながら、人里の正門付近へと向かった。
 この人里が消える現象は、妹紅も良く知っている。能力を発動させられる種族が、ハクタクであることも、歴史上隠れているだけで、本当はここに人里があることも知っている。知っているからこそ、最悪の情報もその頭の中にあった。
 使用中の術者は、必ず里の外にいなくてはいけないといことだ。

「ああ、もう……こんなときに」

 妹紅を邪魔者だと判断した妖怪4体が前方から群がってくる。しかし妹紅は一度身を沈めてあえて誘い込んでから。

「悪いね、急ぎなのよ!」

 しゃがみ込んだまま、左足を軸に、そして右足の先に妖力を溜め。
 飛び上がると同時に、一気に薙ぎ払った。
 単なる回し蹴りじゃない。右かかとの後ろ、そこで小さな炎を爆発させることで破壊力を底上げした一撃だ。物理攻撃と術的な攻撃を同時に受けた妖怪は、放物線を描くように吹っ飛んで動かなくなった。
 それを見せつけ、威嚇するように、周囲を睨み付けてから妹紅はまた走り出した。

『なんで能力を使った後、安全な人里の中に居ないか? だって? ははは、馬鹿だなあ妹紅は。歴史上隠してしまった人里の中に私が入ってしまった場合、能力を使った術者本人が歴史から隠れてしまう。
 つまり、里を隠した術者がいないのに、里が隠れた。そんなおかしなことになってしまう。その矛盾が発生した時点で、里が満月の下に晒されてしまうんだ』

 そんなことを、当たり前のように言う。
 古い親友の言葉を思い出しながら。

『それに、ハクタクの状態なら……、少しの傷くらい問題ないからね』

 不死でもないくせに、平気な振りをして妖怪たちの注意を集めようとする。
 そんな大切な人のことを思い出しながら、あえて人里よりも少し離れた場所を目指した。妖怪たちが集まりやすく、また、余計な力を使っても里に被害が及ばない。
 能力を覚え始めた阿音が試しに使ってみただけなら、文が目指した命蓮寺組に保護されている可能性が高い。
 だが、もし……である。
 ハクタクの力を知り尽くし、妖怪への対処法も心得ている。
 そんな、誰かがこの現象を引き起こしている場合は、別な行動を取るはずだ。

 それを知る妹紅は、妖怪の流れに沿って進んだ。
 人里の位置が確認できて、それでいて十分広さがある平地。
 そこに何故か集まり始める妖怪を追いかけた。
 中心を窺い知ることが出来ないほど集まっている妖怪は10や20ではない。一区画の妖怪がここに集結しているようにさえ見える。
 だからこそ、そのタイミングで。

 トンっと。

 妹紅は地面を蹴る。
 誰に命令されるでもなく、ただ、なんとなく。
 理由はそう、『そんな気がしたから』だ。
 そうやって妹紅が浮き上がった刹那、地上から光が溢れた。
 闇を彩る月よりも、眩しく、強い光が、妖怪達が集まる中心部から零れ。それは光の線となって、妖怪を貫いていく。
 何本も、何本も、まるで意志のある槍のように連なる光線は、逃げまどう妖怪たちを踊るように薙いでいき。

 わずかな滞空が終わって妹紅が地面に足を付けた頃には、横たわる妖怪の群れが一つ完成していた。
 その中心には、ことを成し終えて満足げに佇む人影があった。
 頭から生えた角を天に向け、力の余波によって流れる薄い緑色の長髪と、尻尾をなびかせる。大人びた外見の、少女が一人……
 月明かりの下で、まっすぐ妹紅を見つめていた。

「妹紅……」

 その声は妹紅の記憶よりも、少し若く、高い。

「妹紅……」
 
 顔つきもまだ、妹紅の記憶よりもずいぶんと幼い。
 なのに、わかってしまう。
 彼女がいったい何者なのかが、はっきりとわかってりまう。
 見覚えのある攻撃だったからじゃない。身体で感じてしまったからだ。
 その呼びかけに残る、戸惑いと、躊躇いと……

「妹紅っ!」

 確かな、喜び。
 そして、強くぶつかり、抱きついてくる感触。
 その全てが……
 
「慧……音……?」

 妹紅が諦めた大切な記憶を……
 妹紅が失った心の断片を揺り動かしていた。





 ◇ ◇ ◇





「あの動きは、確かに慧音そのものだった」

 夜が明けてから、稗田家を訪れた妹紅はそれを正直に阿祷に告げた。
 人里が隠してから、効率よく妖怪を気絶させながら人里を守る。そんな芸当が今の阿音にできるはずがない、と。
 正座した膝の上で手を置き、小さくなる。そんなすぐ隣の阿音を見て、その様子からも再認識した。

「妖怪達を大方退けた後、急に意識を失うように倒れて……、その後にたぶん阿音と入れ替わったんじゃないかと思う。私が目の前にいて、びっくりしていたから」
「……阿音、それは事実なのですか?」

 この部屋の中で本来一番大きな身体のはずの阿音は、阿祷に尋ねられて更に背中を丸め、より小さくなった。
 それでも、阿祷は許すつもりはないらしく。

「阿音!」

 妹紅が聞いたことのない大きさの怒鳴り声が、阿音に向けられる。
 すると、びくりとあからさまに怯えた様子で、嗚咽を零しながら、阿音は唇を動かし始める。

「だって……わた、わたしも、お母さんとか、人里とか、守る、お手伝いしたくっ……て」

 短く言葉を切って話し出した阿音、それをじっと見つめたまま急かすこともなく。阿祷は頷きながら聞いていた。

「だから、今の私でも、できることないかなって思って、そしたら、慧音って人のやり方で、守れるかなって……だから……慧音さんと、妹紅……の歴史もみちゃって」

 なるほど、と。妹紅はため息をついた。
 阿音が朝まで一言も理由を話そうとしなかったのは、この後ろめたさがあったからだろう。ということはもう、妹紅と慧音がどういった中にあったのか知ってしまっているに違いない。

「それで、方法がわかって……ためしたら、小物とか、簡単に隠せて……試しに、人里をほんのちょっとの時間だけ隠す準備をしてたら、声が聞こえて……入れ替わってた」
「声というのは、慧音さんのですか?」
「うん……そうだと思う。それで私の身体返してってお願いして、そしたら……ハクタクの戦い方、教えてくれるって言ったから……」
「一晩だけ、身体を貸したということですか?」
「うん……」
「まったくもう。阿音、あなたという子は……どうしてそういう無茶を相談もなしにやるのですか」
「……ごめんなさい」

 確かに、慧音の活躍もあって、里の防衛は驚くほど短時間で沈静化した。
 普段ならちょっとした群れがいくつかやってくるのだが、慧音がそれを事前に潰してしまったため。
 ほぼ単独攻撃しかできなくなってしまい、その程度の散発的な攻撃など人里防衛お手伝い中の命蓮寺の方々に通用するはずもなく。
 
「人里の自警団は満月の夜のために特別な訓練もしているのです。その努力が無駄になるようなことが連続で起きれば、その分だけ士気も落ちてしまうというものです。だから協力するにしても度を超えないようにする。それが大事だというのに……」
「……そんなこと私に言われても」
「慧音さんができたこと、それをもしあなたら実現可能になったら、思う存分使わず、我慢できますか?」
「たぶん……」

 しゅんとする阿音を見て、妹紅は気まずそうに頬を掻いた。
 まさしく、昨日の慧音はその『調子に乗った状態』であった。自分の活躍を見て欲しいと、妹紅に言わんばかりに。
 スペルカードを媒体としない、相手を気絶させることを目的とした攻撃。ほどほどの威力のアマテラスを妖怪を集めては連発、もはや手加減しているのかどうかすらわからない状況であった。

「まあ、そのあたりは置いておいても良いとしてもです。阿音、一番大事なのは貴方の身体のこと。傷みや、違和感は?」
「最初は、すっごく頭が痛かったけど……朝交代したときは全然だった。夜起きたことが夢の中みたいに感じて、でも、しっかり感触が残ってるみたい。だからたぶん、あの光線も使える気がする」
「入れ替わることは?」
「たぶん、結構簡単に出来ちゃう気がする」
「それを防ぐことは?」
「それも今なら、出来る気がする」
「ならば……」

 阿祷は妹紅を前にしても、こう言うつもりだったのだろう。
 もう慧音と交代するのは止めなさい、と。
 それは母親として当然の言葉に違いなかった。
 しかし――

「それでね、お母さん。私、夜の間のほんの少しの時間を……慧音さんにあげることって出来ないかな」

 あまりに予想外の言葉を実の娘からぶつけられた阿祷は……
 ただ、言葉を返すこともなく。
 何度も瞬きを繰り返すばかりだった。





 きっと、人はアレを大地を揺るがす雄叫びと表現するだろう。
 阿音から慧音のことでお願いされたとき、阿祷から発せられた拒絶の意志を。
 家が壊れると錯覚するほどの怒声を。
 半日以上たつのに妹紅の耳に残っているような、そんな錯覚すら感じさせるのだ。
 そんな耳鳴りに苦笑しながら、竹林を歩き、いつもの丘まで足を運べば。

 ころんっと。

 先客が一人。
 妹紅に背中を向ける形で草の上に転がっていた。
 そして、妹紅の足が草と擦れて、かさかさという乾いた音を立てる度にばんっばんっと。大きな尻尾が地面を叩く。
 おもいっきり不満そうに。

「私に許された時間は1刻、約2時間しかないんだ」

 ばんっと、また一つ。

「ここに来るまでに、平常なら20分。帰りに20分で合計往復40分だ。それは仕方ない、阿音との約束だから。
 だからこそ、私なりに頑張って移動して15分で到着した。それ以上ない速さだったと、自負している」

 さらに、ばんっと、また一つ。

「しかし、何故か今夜は妹紅と過ごせる時間が1時間しかなくなった。これはいったいどういうコトだろう?」
「もう、そんなに怒らないでよ。慧音。遅刻したのは謝るから」
「怒ってない。拗ねてるだけだ。妹紅が私と過ごす時間を初日から大切にしてくれなかったという不満と言っても良い」
「自分で言うのね、それを」
「誰かさんは多少きつく言わないと、次もまた遅刻してくるからな」

 それだけ言い切ると、今度はさっきと違う動きで、とんとんっと尻尾が二回。草の絨毯の上で跳ねた。
 早く座れと催促していると気づいた妹紅は、顔が少しにやけるのを隠そうともせずに、慧音の少し後ろに腰を下ろして、尻尾をふとももの上に乗せた。
 そして、昔を思い出すように指で毛を梳いてやると。尻尾から余計な力が抜け、全重量を妹紅に預けてだらんっとしてしまう。

「やはり、妹紅の手は反則だな」
「何が反則よ。自分が気に入る加減にできるよう、そっちが仕込んだんじゃない」
「……そういえば、そうだったかな」

 穏やかな風がながれる中、二人は少しの間静かに、お互いの感触を確かめるように静寂を受け入れた。
 あのとき、阿祷に強く反対されても、曲げなかった阿音の意志。
 自分は妹紅に命を救われたことがある。ならその人の大切だった人をこのまま見殺しにするようなこと、できない。だからせめて一日の中の阿音が眠っているときだけでもと阿祷と阿音が話し合った結果。1刻という時間なら良いと、阿祷が言ったのだ。
 その言葉のおかげで、妹紅と慧音はまた、会うことが出来た。姿形はあの頃のままとは行かないが、それでも感じられた。
 大切な人に必要とされる、そんな喜びを。
 けれど、妹紅は言わなければならない言葉があって……

「ごめんね」

 ただ、それだけ。
 理由も言わず、ただ慧音の背中にぶつけた。
 それでも、慧音はその言葉だけで十分だと、背中を向けたまま尻尾を持ち上げて。

「いいよ。こうして、また会えたから」

 妹紅の頬を優しく撫でた。
 その感触を、妹紅の体温を確かめるように。

「それに、だ。妹紅にもう一度会うために、ハクタクを利用した私こそ、非難されてしかるべきだ」
「ハクタクを、利用した?」
「ああ、そうだよ。私の中にいたハクタクは血で子孫を繋げることもできるが、私が少女の頃に半獣化したときのように、精神だけの状態で乗り移ることもできる。
 ある程度力を溜める必要があるから、すぐにとはいかないみたいだが」
「それで、力を溜め終わったから、阿音に?」
「ああ、それは本当に偶然だ。あの吸血鬼的に言えば、運命、といったところかもしれない。ハクタクは偉い身分の者の近くに居たがる習性があるだけだから、阿音に乗り移ったのはやはり……一度同じ名前を持ったからハクタクが勘違いしたのかもしれないな。
 ずいぶん長くから潜伏していたようだが、妹紅は気付いてくれなかったのか?」
「気付けって方が無理じゃない? 妖力も出してないのに」
「ははは、それもそうか」

 ただ、妹紅はそれに違和感を覚えていた人物を一人知っている。
 それが霖之助だった。人と妖怪の混血だからこそ、阿音の身体の中の変化について微妙に何かを感じ取っていたのかもしれない。
 それを気付けた影にも、別な感情があったのかも。

「しかしだ。純粋にハクタクを引き継いだだけなら感情は、意識はずっと阿音のものだ。しかし、私は……、私自身の体験や知識、感情を司る全てを、死に際に預けたんだ。私の半身だったハクタクに。
 どうせ転生したら、そこでやり直しだ。過去の記憶なんて消え去ってしまう。それが怖かった。もう二度とこの感情を持ったまま妹紅と会えないと思うと、怖くて仕方なかった。だから私は、心の中の悪魔に……心を奪われた」

 妹紅の顔を撫でていた尻尾の動きを止めて、また暖かな膝の上に戻す。そして妹紅が手の動きを再開させたところで、顔を少しだけ妹紅の方へと向けようとして。
 何故か動きを止める。

「もしかしたら、私は……ハクタクを引き継いだ者の人生をめちゃくちゃにしても、妹紅と一緒に居たい。そう思ってしまったのかもしれない。
 今だって、その欲望を自分で否定することができないんだ。
 だから、妹紅が……、こんな私と会うのはもう嫌だと言ってくれれば……
 今ならば、間に合う気がするんだ……だから……」

 そしても、妹紅は知る。
 慧音も同じなのだと。
 妹紅を残して、自分だけ先に別の世界に行き
 大切な思い出を忘れて新たな生を受け、生きる。それが怖かったから、それを少しでも否定したかったから、慧音は最期の最期だけ足掻いた。
 足掻いて、しまったのだ。
 その後のことなど考えず、欲望を優先して。そうして生み出したこの結末を、慧音自身責任を感じているのだろう。
 それでも、妹紅が言えたのはこの一言だけ。

「おかえり」

 他に伝え方もあったのかもしれない。
 別な慰め方があったのかもしれない。

「おかえり……、慧音」

 それ以上の言葉はいらないと、そう思った。
 自分たちを綺麗に誤魔化す言葉なんて余計なだけだと、ただ純粋な感情だけをぶつけた。
 それを受けた慧音の尻尾が一度、強張って。
 小刻みに震え始める。

「ああ、ただいま……、ただいま、妹紅」

 声にまで震えが伝染し、鼻をすする音も背中越しに聞こえてきた。
 だから妹紅は、阿音に戻らなければいけないぎりぎりの時間まで。
 慧音が満足するまで、一緒に涼やかな夜風を感じていた。






「んふふ、ふーっふっふっふ」

 それから妹紅と阿音と慧音、そのおかしな三角関係が始まった。
 妹紅は昼間は竹炭を作り、深夜は何をするでなく慧音と共にゆったりした時間を過ごす。それで、夕方は何をしているかというと。

「見てよ、妹紅! 私はとうとう、人を超えてしまったわ!」

 いやいや、正式に言うと分類人間じゃないからね。
 と言うと、凄い寂しそうな顔をするので、妹紅は疲れた様子で肩を落とし、高笑いを続ける阿音に近寄っていく。
 こんな人気のない人里の外れで何をしているかというと、阿音のための弾幕レッスン。妖怪との戦い方を教えるための、実践的な訓練であった。
 満月の時のように慧音に代わって、それで感覚を掴めば早いだろうと妹紅が言うのだが。

『人の力に頼ろうとしてこうなったのだから、自分の能力くらい自分で使いこなしなさい』

 と、誰かさんのモノマネをしながら伝えられた。
 とにかく、慧音の力を頼るのは最後の手段にしたらしい。というわけで、少しずつ少しずつ歴史操作以外の能力を開拓しようと試みて、ついに今日。
 満月の日から二週間目にしてとうとう。

「これが空を支配する気分なのね! 最高だわ!」

 阿音は飛んだ。
 とうとう、重力から解き放たれ、浮き上がったのだ。

「ふふふ、蟻が米粒のようだ!」

 ものの見事に、30センチほど。

「うん、むしろ米粒の方が大きいからね?」

 満月の夜の次の日からずっと飛ぶ練習をして、やっと成果が出たようである。ことの始まりは阿音状態でのときに、いっつも垂れ流しにしていた妖力の制御の練習。そのついでに、『制御できた力を下に向けて出すイメージ』を利用して飛ぶ。

「まあ、高さは別として最初の関門は合格かな。それから出す量を調整して、高さを調節する。それができるようになったら、自由に空を飛べるようになるよ」
「……ねえ、妹紅?」
「ん? どうしたの? 何か具合でも悪い?」

 珍しく阿音が青い顔をしていたので、心配そうに近寄った。
 妹紅が来るまで練習しすぎて妖力切れを起こしたのかと思ったからだ。
 しかし、阿音は真剣な顔で妹紅を見つめ返し。

「屋根より高く上がったら、私、吐ける自信がある」

 そして、妹紅は知った。
 阿音が高所恐怖症であるということに。
 だから、妹紅は微笑みを返して。

「二週間前に言ってよ……」

 額に右手を当てて、首を左右に振ったのだった。
 
「私は地上で生きるんだもん! 木登りとかもしないもん!」
「むきにならなくていいから……ほら、さっさと降りて。今はちゃんと地上限定のスペルカードバトルルールあるんだから。無理に飛ぶ必要もないの」
「え? そうなの?」
「……歴史も合わせて勉強しとくようにって言われなかった?」
「い、いやだなぁ! やってるよ、やっちゃってますよ。でもそういう歴史よりも、やっぱりいろんな人の馴れ初めとか見る方が楽しく――
 痛いっ! 角捻るの超痛いっ!」
「阿祷と約束しなかった? 一般的な歴史は見ていいけど! 個人的な歴史はあんまり覗くなって!」
「だ、だってぇ、ついつい目というか、頭に入ってきちゃうんだもん……いらない情報」
「じゃあ、そういうのを丸ごと調整できるように頑張ること!」
「は、はーい!」

 やっと角を解放されて、涙目で付け根を撫でる阿音。
 変化してから満月を挟んでも元の姿に戻らないところを見ると、状態はこれで安定してしまったのだろう。
 妹紅も見慣れてしまって、今では昔の阿音の姿よりもこちらのほうが自然に頭に浮かんでくるほど。
 ただ、その顔がわずかに曇って。

「慧音さんみたいに、上手くできればなぁ……そしたら、みんなの手助けが出来るのに」
「生意気なこと言わない」
「だって……」

 歴史を一度覗いてみたから、阿音にもわかっているのだろう。
 今の自分と、過去の慧音との違いが。
 姿形は似ているのに、その実力は全然違う。それに劣等感を感じているようにも見えた。

『このまま放っておくと訓練すらできない精神状態になってしまうかも知れない』

 そう悟った妹紅は、指先で炎を出し、阿音の注意を再度向けさせてから口を開いた。
 
「とにかく! 地上での力の使い方を勉強していかなきゃいけないけど。ハクタクの身体能力とか自分で試したことは?」
「何気なく湯呑み掴んだら、割れちゃって。お母さんに怒られた」
「試したっていうのかなそれ……」

 まずは肉体的に強化されたことを実感することが大切だと妹紅は阿音に教えた。そしてどこまで出来るのかも合わせて。

「慧音はその身体能力を生かした独特の体術が得意だったけど」
「あ、歴史で見た。頭突きでしょ」
「その得意技が出せるように自分に有利な位置取りと、姿勢づくりができていた。だから、はぐれ妖怪程度ならそれで撃退できたというわけ」
「……そうなのか」
「それに人間と妖獣のハーフってことは、人間の性質も大きく受け継いでいるから。他の妖怪と違う大きな利点がある。それはわかる?」

 阿音は腕を組み、少しだけ悩んでから何かを思い出す。

「人間にできて、妖怪ができないっていうか。やりにくいこと……ってことは、成長?」
「そうそう、他者に初めて認めらることで存在する。そんな精神寄りの神様や妖怪は、自分で力の絶対量を操作するのは難しいの。
 でも妖獣は肉体に依存している、加えて人間は精神よりも肉体。ということは、肉体の成長がすべての能力向上に繋がるということなのよ」
「うんうん」
「だからあなたにまず必要なのは、まず、それ」
「うんうん……って、え?」
 
 言いながら笑顔で迫ってくる妹紅。
 それに何かを感じたのか、阿音はじりじりと下がりながら、誤魔化し笑いをして

「……それって、私が大嫌いな……
 基礎練習とか、筋力トレーニングとかいうやつじゃ……」
「正解♪」

 それから阿音の拒絶の悲鳴と共に、新しい特訓の日々が始まったのだった。



 ただし……



「妹紅のせいで、体が痛い」

 夜な夜な、筋肉痛の愚痴を言われ続ける毎日も、併せて始まったのだった。





 そして、その厳しい訓練の結果を示す、その次の満月の夜。

「……体内会議の結果、私が出ることとなった」
「何その斬新な四文字熟語」

 心配で人里まで下りてきた妹紅を待っていたのは、阿音と入れ替わった慧音だった。ただし、今回は人里を歴史から隠すことなく、自警団の補助として自由行動を許されている。
 そのため稗田家の玄関で妹紅と合流してからは、自警団の足音を聞きながら月明かりに照らされた人里の中を歩いている状態。
 ぴったりとくっついて歩いている姿を見れば、年頃の男女でいえば逢引と言ってもいいかもしれない。
 ただ、その密着には少々問題があって。

「あ、うん、慧音?」
「ああ、どうした?」
「……湿布くさい」
「言うな……、意識すると、痛む」

 慧音が能力を使わない理由の一つが、これである。表向きは自警団を主とする防衛に協力する。ただそれだけであったが、
『ものすごく体が痛いから、長時間集中して闘えそうにない』
 実はこっちの方が重傷であった。
 なので、ハクタク状態の肉体を動かし慣れている慧音に交代したというわけだった。

「『ごめんねー、大事な日に。ちょっと調子悪いから。てへ♪』だ、そうだよ」
「あー、心の中で阿音が謝ってるの?」
「そのようだ、中と外から声が聞こえるというのは、慣れないものだな」
 
 どうやら中にいるときもお互いの意思疎通はできるらしい。

「というか片方の考えていることが筒抜けなんだよ。だから阿音が霖之助と一緒にいると騒がしくてしょうがない」
「で、それを慧音が私にばらしたから、今も心の中で大騒ぎしてる感じ?」
「ああ、そのとおりだ」

 そういうと暗がりの中で自分の胸に右手を当てて、左手の指で困ったようにこめかみあたりを掻いている。
 おそらくはなんでそんなことを言うのかと、慧音の意識の裏で暴れているのだろう。
 片眉がずっと傾き続けているのもその影響か。

「やっと収まった、さて、妹紅。どのあたりを目指そうか。個人的には、自警団の警備体制というのが気になるんだが、その……あれだ。私がいたときより皆が協力して守っているところが見てみたいというかだな……」
「全然色気のない場所を選ぶのね」
「いいじゃないか、別に。そ、それに私たちは自警団の協力者という扱いなのだろう? この腕章を付けているのなら形だけでも協力するべきということであって、あまり自分勝手なこともしていられないんじゃないかなと、そう客観的に思っているわけでだな……」
「いいよ、わかってる。慧音は心配性だしね」
「わ、わかっているなら、そういう意地悪はやめてくれ」
「じゃあ、警備員の多そうな南通り方へ行ってみようか」

 妹紅は右腕に身に着けた腕章を指差して、同じものを腕に巻く慧音を先導するようにして歩く。身体的に不調だから守るという意味と、妖怪を見たら人里を守るために飛び出そうとする慧音を止めるため。
 そして、なにより――

「妹紅様~、お久しぶりでございますぞ!」

 なにか、厄介な白い影が見えるからだ。
 それが妹紅と慧音の姿を見つけてかなり元気に手を振っている。ここで無視するのもなんなので妹紅は自然な足取りで近づいて行った。

「こんばんは、布都。警備の方は万全?」
「はっ、妹紅様に命じられるまでもなく、我は全身全霊を持って妖怪の気配を追っておるわけで」
「それで、妖力を追ったら私たちを見つけちゃったとかそういう話?」
「な、なななななな、何をいっておられるのやら! 我はまず、挨拶をしにきたというわけで、腕章つけてたから慌てて攻撃するのやめたとかそういうわけでは!!」
 
 どうやら不意打ち攻撃の癖は治っていないらしい。
 腕章を貰ってきて成功だったと、妹紅は心の底から思った、
 そして、改めて慧音を照会しようと、顔を後ろに向けたら。

「こんばんは、布都は相変わらず真面目だな」
「おお、これはこれは慧音殿。隊長殿からは体調不良で後衛に回ると聞いておりましたが、前衛にでられるのですか?」
「いや、皆の様子を見学したくてね」
「おお、それは結構。我からみても人里の練度は上がっております故」

 そういえば、と、妹紅はぽんっと手を叩いた。思い出したのだ。布都が阿音の変化を一番最初に見たとき、その姿を慧音だと言ったのを。
 
「ただ、この姿で居るのはたぶん今夜くらいだ。次からは阿音が出てくるだろうから、よろしく頼むよ」
「心得た、それでは我も本部へ戻るしましょうぞ」

 そう言い終えるが早いか、足下に開いた空間の中に飛び込んで、あっという間に二人の前から姿を消した。

「相変わらずだな、100年以上経っても」
「妖怪とかは変わりにくいって言うじゃない」
「ふむ、それもそうだ」

 妹紅と慧音は見つめ合い、くすりっと微笑んでまた目的地へと歩き始めた。
 ただ、その道中に。

「妹紅、ところであの布都とは親しいのか?」
「……親しいと言えば、そうなるのかも」

 一方通行な好意によるものであるが、親しいと言えるかは妹紅も自身がない。けれど、その答えに何故か慧音は悲しそうに頷く。

「もし、もし、だぞ。慧音。
 お前があの布都のことを気にしているのなら……、悪くないと思うんだ。ああ見えて根は真面目だし、人里の防衛でも自主的に手伝ってくれることも多々あった。
 それに、あいつは仙人の部類で寿命などない。だから、妹紅とは」
「お似合いとか言ったら、殴る」
「……」
「付き合ってみろなんていったら、絶交だから」
「……妹紅」

 自分より小さな妹紅の背中、その肩のところに慧音は少しだけ顔を触れさせて。

「私は、幸せ者だな」

 妹紅が振り返ったときにはもうそこに慧音の頭はなく。
 少し後ろで腰に手を当てて、嬉しそうに立つ慧音がいた。
 尻尾も、いままでにないくらい激しく揺れている。

「さあ、行くぞ妹紅! 妖怪達を追い払いに!」
「あ、こら、慧音! だから、やる気あんまり出しちゃ駄目なんだってば!」

 少々、有頂天状態になってしまった慧音は、ずんずんっと、大股で歩き始めた。
 妹紅が慌てて自粛を促しても、慧音はその勢いで一気に南門の外まで出てしまい……


「…………わ、悪気は、なかったんだぞ?」


 ハクタク状態は感情の起伏が激しい。
 しかし、いくら妹紅のことで気分が良くなったからと言って。

「慧音……」

 追い払った妖怪の数で、自警団を軽く上回ってしまったわけで……
 本末転倒もいいところであった。
 身体の不調はどこにいったのかと、問いただしたくなる活躍だったのだから。
 そんなことを注意しながら、妹紅と慧音は稗田の家に戻った頃はもう明け方。

「阿音は、眠ってる?」
「どうだろう。途中で声がしなくなったから、もしかしたらそうなのかもしれない」
「慧音が大活躍してるときに起きてたら、大分いい経験ができたと思うんだけどね」
「もういいだろうそのことは、茶化さないでくれ」

 唇を尖らせる慧音を見て、妹紅が笑う。

「こほんっ! ただ、このまま私が入ると長時間入れ替わったことがばれてしまうかもしれないから。眠っている阿音と交代するよ」
「ああ、そうかそう言う約束だったものね。いいよ、倒れそうになったら私が支えるから。すぐ交代しても」
「そうか、悪いな。では、少々胸を借りるぞ」

 そう言って、慧音は正面から妹紅の肩に抱きつき、一気に意識を手放す。すると阿音の身体から一気に力が抜けて、沈み込もうとしてしまう。
 それを妹紅が腰を掴んで支えると、

「んあ?」

 その衝撃で起きてしまったようで、阿音が細目で妹紅の顔をじーっと見つめ始める。それでもやはりまだ空が暗い時間だ。
 すぐさま瞳を閉じて、寝息を立ててしまう。

「しょうがないなぁ……」

 妹紅は阿音を抱き寄せながら飛び上がり、庭から直接阿音の部屋へと移動すると。敷かれっぱなしの布団の上にその身を優しく乗せる。
 すると、すんすんっと枕の上で鼻を鳴らしてから、薄い掛け布団をぎゅっと抱きしめた。夢の中では愛しの人と抱き合っているのかもしれない。

「正夢になるといいね」

 妹紅はそれだけ残して立ち去ると、阿祷が用意してあった客間へと入り、少々遅い睡眠を取ったのだった。
 ただ、この時間から眠ると言うことは。



「……あ、何かお日様が高~い」

 朝食無視の昼まで熟睡コースに違いない。
 廊下から漂ってきた良い香りに誘われて身を起こし、居間まで出てみる。そこには姿勢を正した阿祷と、欠伸を繰り返す阿音が食膳を並べて座っていた。
 そしてもう一つ、阿音のとなりにも準備された場所があって。

「ささ、どうぞ」

 まるで妹紅が起きてくるのを察していたかのように、阿祷が笑顔で席を勧めてくる。もちろん妹紅もそれを受け、

「いただきますっ!」

 全員綺麗に手を合わせて、箸を掴んだ。
 と、

 ころん、コロン

 直後、堅いものがぶつかる音。
 続けて、何かが畳の上に転がる音が聞こえてくる。
 妹紅の、すぐ隣から。
 何気なくそっちを見ると、阿音がうつらうつらと船を漕ぎながら、畳の上に落ちた二本の箸を探していた。

「もう、阿音。いい加減起きなさい!」
「んー?」
「ははは、私だってまだ眠いくらいだもの。それに昨日は頑張って身体動かしたみたいだし」

 おもいっきり慧音が。
 などという事実を奧に隠し、阿祷を宥める。

「今日一日は駄目じゃないかな。明日から元に戻るでしょ」
「それならばいいのですが……、ああ、こら、ご飯が零れるでしょう!」

 まるでまだ3才くらいの子供にご飯を与えるように、阿祷はなんとか阿音に昼食を食べさせ、また自室へと戻らせる。
 その後、阿祷と妹紅は3時間ほど阿音の今後について意見を交わしていた。
 と、噂をすれば影。さすがに眠気が収まったのか、再び阿音が部屋に入ってきて『おはよ』と短い挨拶をしてくる。
 二人は苦笑いしながら、こんにちは、と返し阿音の様子を見る。
 起きたと言っても疲れが抜けきっていないのか、まだ惚けたような顔をしていた。明日からの寺子屋が心配になるくらいの様子だった。
 どうやらそれを本人も自覚しているようで。

「ねえ、お母さん。ちょっと診療所行ってきてもいい?」
「そうですね。何か栄養剤でも貰った方が良いでしょうか……、あ、妹紅さん。申し訳ありませんが今から二人分の護衛をお願いできませんか?」
「ああ、わかっ――」
「だいじょうぶー、ひとりぶんでいいよぉー」

 阿音がそう告げた瞬間、その膝が急にかくんっと折れて。
 
「あ、こら! 阿音待てっ! って、あ……」

 そのままぺたんっと座り込んだ。
 そして、阿音の意識はそのまま深くまで沈んでしまい。
 変わりに出てきた慧音はわたわたと、阿祷と妹紅の顔を交互に眺めていた。おそらく約束のことがあったのでどうしていいかわからないのだろう。
 それは阿祷も同じのようで、助けを求めるように妹紅を見上げていた。
 だから妹紅が仕方なく頷いてみると、阿祷もため息を吐きながら首を縦に振る。

「そう、ですね。こうなっては仕方ありません。慧音さん。よろしくお願いできますか?」
「あ、ああ、すまないな」

 かくして、ちょっぴり気まずい面子での外出が実現してしまったのだった。
 
 



 ◇ ◇ ◇





 平日の診療時間が終わるまで後1時間。
 お客が居なくなった待合室をぼ~っと眺めていた鈴仙の視界の中で、入り口のドアが動いた。

「いらっしゃいませ~。って、あれ? 稗田さんって診療日今日でしたっけ?」

 受付窓口から鈴仙が声を上げるが、阿祷は今日は自分のじゃないと言い。
 入るのを躊躇っていた少女を前に出す。

「ああ。阿音さんの検診ですね」
「ええっと、半分だけ正解です」
「……半分? だって、阿音さんですよね? って、あ」

 それに続けて妹紅が複雑な顔で入ってくるのを見て、阿祷に向けてぱたぱたと手を振った。

「阿祷さん、もしかして残り半分って、あの妹紅のことですか?
 いやいや、いらないですってほんと。あの人不死身ですし」
「ですから、妹紅さんでもなくて……、ですね。半分なんですよ」

 阿祷は阿音の方を指さし、大きな息を吐く。
 しかし、鈴仙は混乱するばかり。阿音一人を診察するだけなのに、何故そんな半分だけという謎かけをされなければいけないのかと。
 その様子を見て、阿祷は阿音に自己紹介するように言う。
 すると、咳払いをしつつ阿音が前に出て。

「慧音だ」
「……は?」
「上白沢 慧音だと言っている」
「あはは~、阿音ちゃん、そんな冗談ばっかり。お姉さんを困らせても何もでな――」

 と、言いながら。鈴仙は周囲を見渡す。
 阿祷の、妹紅の、そして慧音と名乗る緑髪の人物の表情を確認し。

「ちょ、ちょっと待って下さいね! 今、師匠を呼びますので!」

 何かを察したのか慌てて奧へと掛けだした。
 わかってくれたようだと、阿祷たちは胸を撫で下ろすが。
 わかったことがもう一つ。

『し、師匠、け、けけけけけけけ、けね、けーね! はくたく!』
『……鈴仙、何をそんな慌てて』
『で、ですから、慧音がっ! あ、わきゃあああああっ!?』

 ガラガラ、ドシャーン……

「……もうしばらく、待たないと駄目そうですね」

 それは診療準備にもう少し時間が掛かるだろうということだった。





「……大体理解したわ。あなたたちの状況もね」

 阿音のカルテを手にしながら、椅子をくるりと回転させて永琳は言う。ちょっとたんこぶのできた弟子を後ろに従えて。

「片方の結論から言わせて貰うわね。さっき診察した結果なのだけれど、確かに肉体的な疲労は見られるわね。でもそんな重いこともないから栄養剤を注射しておきました」

 診察の準備ができたとき、永琳は阿音じゃなくて慧音のまま1人で診察を受けるようにと3人に告げた。
 それで今、診察結果と治療結果を淡々と報告している。
 やはり肉体は半人半獣状態で安定しており、疲労以外に異常はないと。

「そうですか。それで健康は回復するんですね」
「ええ、肉体的にはね」

 それでも、含みのある言い方をする永琳に何か違和感を覚えた。
 それは阿祷だけでなく、妹紅や慧音もそうだった。
 いや、敢えて結論をぼやけさせようと言うような態度に、不安すら感じたかも知れない。

「では、精神面で何か問題があると言うことなのか?」

 その感情のまま慧音が返すと、永琳は瞳を伏せて。

「そうよ」

 短く、言い切った。
 阿祷が息を呑み、震える声で叫ぶ。

「そんな! あのときは、あのときは安定してるって言っていたじゃありませんか! それに、いまだって!」
「あのときとは状況がまるで違う。だって、阿音の中に慧音が居たなんて、知るはずもなかったもの。同じ器に精神が二つある。
 それがわかっていれば、問題ないなんて結論を医者として軽々しく出さない」
「……それは、そうですが」

 肩を落とす阿祷に、永琳は一冊の本を差し出した。
 その本のタイトルには今の阿音に関係しそうな二重人格という単語が含まれており、本の中にはしおりが刺さっていた。

「肉体のみに多く依存する人間の場合、強いストレスを受けたときにそれから逃げるため人格を分けることがある。それはある意味精神病の一つなのだけれど、さっきも言ったっとおり、人間は肉体に強く依存する。つまり精神がいくつあっても、影響を受けにくいと言うこと。
 けれど、妖獣は違う。確かに、妖怪よりは肉体に依存するけれど。それでも精神に強く影響を受けるのは事実。そんな器に、二つの精神が入っていた場合、どんなことが起きるかしらね」

 ハクタクを身体の中に宿したことのある慧音でもそれはわからない。
 何故なら、慧音の中にいたハクタクは意志というものを持たなかったからだ。ただ単純に能力の基盤として、そこにあり続けた。
 しかし、今回は違う。
 慧音という精神を持ったハクタクが阿祷の肉体に入ってしまったのだ。

「そうよね、誰にもわからない。歴史にだって残っていないと思うわ。私だって明確な知識を持ち合わせていない症例ですもの。
 ごくまれに妖怪で同じことが起きた場合だと、別の精神を持つ個体に分かれてしまうことが多いのよ。だから……あなたたちには考える時間が必要だと思うのよ……」

 永琳が言いたいことを理解した阿祷の顔から血の気が引いていく。
 慧音も、膝の上にてを置いたまま、かたかたと震え始めた。
 それでもまだいまいち理解できない妹紅だけは、不安だけを募らせていた。だから永琳の言葉を思い出し、もう一度考える。
 肉体を持つ人間なら、うまくいけば二つ以上の精神を持てる。
 精神対の妖怪なら、二つの個体に分かれられる。
 ただ、それが今回は半人半獣だ。

「えっと……」

 分けられない器であって、しかも一つの精神しか受け入れられない。
 それで安定していたと仮定するなら。
 二つの精神を持つ今は、不安定な状態と言える。
 安定するには、やはり精神が一つの状態に戻らないといけないわけ、で……

「ねえ、永琳……、私は輝夜と長い間殺し合いをしてきた。だから私の疑問には答えたくないのかも知れない。けど、今だけは、本当のことを教えて欲しいの……。
 もしかして、阿音と慧音は同じ身体の中に居ちゃいけないってこと、なの?」
「……そうよ」
「もし、無理矢理二人でいようとしたら?」
「……妹紅、あなたも薄々感じ取っているのでしょう? そんなものたったの二つに一つよ」

 永琳は両手を上げて、3人の前に見せ神妙な顔つきで絞り出すように告げる。
 
「こうやって混ざるか……」

 最初は、手を組んで見せて。

「片方が、消えるか……」

 次に、片方を下げる。
 その単純な動きだけで、妹紅は誰かに心臓を掴まれているように感じた。
 息をするのすら忘れるほどの絶望で、気が狂いそうなほどだった。
 何故なら……永琳は……

「……つまり、は。ここにいる慧音さんが居なくなれば……阿音は助かる。そういうことなのですね……」

 幽鬼のような顔つきでつぶやく阿祷の言葉通り。
 慧音が、消えれば解決するのだという。
 それで、全てが元通りなのだという。
 妹紅は奥歯を噛み締める。
 そんなことをさせてたまるかと、怒鳴り散らしてやりたいくらいだった。
 けれど、理性がそれを許さない。
 阿祷がどれだけ阿音を大切にしてきたか、それを理解してしまっていたから。それを否定する声だけは上げることができなかった。

「そうね、外からの力で……無理矢理慧音を攻撃するか、精神を自壊させれば……可能かも知れないわね」
「……なら、やってください」

 そのときほど、冷めた阿祷の声は聞いたことがなかった。
 妹紅が瞳を潤ませて睨んでも、それをまっすぐに受け止めて。
 
「……私は誰から恨まれてもいい。殺されたっていい……。
 だから、阿音だけは……阿音だけは、助けて、ください」

 深く、妹紅に頭を下げた。
 自分の言葉が何を意味しているのか、それを十分わかりきっていた。
 それでも、妹紅は諦めきれない。
 だから、一瞬頭の中に浮かんだ欲望を口に出そうとしてしまった。

『阿音が、いなくなればいい』

 それを意識した瞬間、手足が妹紅の意識と関係なしに震え始めた。
 全身が首を振って必死に拒絶する。
 そんな錯覚すら感じた。
 張りつめた空気なのかで、永琳の緊張を少しでも解すべきだと。鈴仙は思った。それが助手である鈴仙の仕事であるはずだと想いお茶を入れようとする……だが、足が動かなかった。
 当事者でないはずの、鈴仙の足が今行動して注目を浴びることを心から恐れてしまっていた。

「……言いたいことは各々あるでしょう。けれどね、もしその阿祷の手段を取るにしても大きな問題が一つあるわ。
 その消える側の精神が、消えることを了承しなければいけないことよ。一欠片の悔いも残さない形でね。別の形で無理矢理引きはがそうとすれば、残る側の心にも大きな損傷を与えることになる。最悪の形、ただ、生きているだけの人形になるかも」
「そんなもの、できるはずがっ!」

 阿祷は叫んでいた。
 その馬鹿げた言葉を聞いて、反射的に叫んでしまっていた。
 
「そうね……慧音、あなたもわかっているのでしょう? あなたがそれほどまでに、別の身体に乗り移ってまで貫き通したかった心を、全部否定して、自分から消えることは?」
「……できない、だろうね」
 
 慧音も重々しく、首を横に振る。
 口では軽々しく、私が消えればいいと言えるかも知れない。
 しかし、心の奥底で妹紅への想いが捨てられない。

「阿音だって、あなただって、想い人がいる。それを忘れて、消え去ることを選ばなければいけない。薬で忘れさせるにしても、身体が同じだと必ずもう片方の大切な記憶も奪う」

 心を真の意味で殺さなければ、意味がない。
 そう告げられて、阿祷も慧音も、妹紅さえ言葉を失う。

「そ、それでは! もう一つの、もう一つの解け合って、混ざるというのは!!」
「……そうね、精神的な力関係が拮抗しているのなら、お互いの知識を持った人格となるだけ。
 けれど、片方に大きな精神力のアドバンテージがある場合……
 そちらに融合する形となる。
 考え方、生活の癖は強い方だけが残り、齢方から引き継げるのは大切な想いの一部だけ。人間と妖獣の精神依存度、それを十分理解しているあなたなら。
 もう、この話の結論は見えたでしょう? 阿祷」
「そん、な……」

 阿祷は両手で顔を覆う。
 死人のような、真っ青な肌を晒しながら……
 
「時間は、その融合するまでの時間はどれくらい、あるのですか……」
「そうね……残酷なことだけれど……阿音と交代しなくても、慧音の状態でそれを判断することはできるわ。
 ねえ、慧音? あなた、阿祷のことをどう思う?」

 そう尋ねられて、慧音は自然とある単語を口にしようとした。
 ただ、それを言おうとしたことに気づいた途端、信じられない様子で目を見開く。

「……母親だと、言おうとした」
「っ!?」
「そういう、ことよ。阿音が慧音を受け入れたことも、それを加速させてしまったのでしょうね……、一週間ほどで阿音の意識は消えてしまうのかも知れない」

 阿祷はもう、人間らしい言葉を発することができなかった。
 頭を抱えて、蹲って。
 頭の中で必死に否定することしかできなかった。

「それじゃあ、慧音。阿音に変わってもらえる?」

 こくり、と。
 無言で頷いた慧音は、阿音と変わるその前に妹紅に微笑んで見せた。

「妹紅、そんな亡霊のような顔をしないでくれ。私なら、大丈夫だよ。ちゃんと妹紅が私を救う刃となってくれると、信じているからね……」
「慧音……」

 それだけ告げると、その意識を沈め。
 深い場所で漂っていた阿音の精神を押し上げた。

「……阿音、慧音の精神を通して貴方にも届いていたのなら、わかるわね?」
「うん、ちょっと……怖いけど。お母さんと、大好きな人と、それに、みんなと。少しでも多くの時間を過ごせるように、やってみるよ」

 どう足掻いても、お前は消える。
 そう宣告されたはずなのに、阿音は清々しいとさえ思える顔で微笑んで、阿祷をそっと抱きしめる。

「行こう、お母さん」

 阿音の名を呼び、泣き続ける母親を胸に抱いて。
 今日はここで分かれましょうと、妹紅に告げる。
 その姿は、この場にいる誰よりも大人びていて……

 ……そして、美しかった。





 鈴仙が二人を人里まで送ってから、妹紅は逃げるように診療所を飛び出した。
 どこにもぶつけようのない黒い感情。それが溢れかえりそうになり、あのままだと輝夜に八つ当たりしかねなかったからだ。
 だから夜風にでも当たって頭を冷やそうとしたが、身体の熱は少しも消えようとしない。
 どんどんと、妹紅の心を燃やしていくようだった。

「なんでだよっ! 何で慧音が……あんな想いをしないといけないんだっ!!」

 だから、感情に任せるまま炎を竹林の上にぶち撒けた。
 腕全体が燃え上がるほどの力で、ただがむしゃらに。
 炎の弾幕を放ち続ける。
 と、そこで……

 ぱしゃり、と。

 まばゆい光が、妹紅の自虐的な行動を止めた。

「何しに来たの? 燃やされたい?」
「あややや、そんな睨まないで下さいよ。私はただ、約束を守りに来ただけだというのに」

 約束なんてした覚えがない。
 そう言い返したが、文は何食わぬ顔で手を上下に揺らす。

「またまたご冗談を、ほらほら人里で約束したじゃないですか。
 何かあったら花火を打ち上げて知らせるって」
「あれは、あのときだけの!」
「そんな話は無かったです。ということは約束は、約束のまま。それで駆け付けたら幽霊だか亡霊だかみたいな顔の妹紅さんがいるじゃないですか。これはシャッターチャンスと思ったわけでして」

 亡霊みたいな顔。
 慧音もそう言っていた。
 それを思い出すと、少しだけ心が晴れてきた。
 そのとき、慧音は信じると言っていたから。
 妹紅を信じる、と。

「……亡霊?」

 と、冷えた頭で考えて、不自然さを感じた。

「文さっきの言葉もう一回」
「約束は、約束? ってところですか?」
「ううん、もっと後!」
「シャッターチャンス?」
「違うその間!」
「幽霊みたいな顔?」
「そう、それよ! 普通はその使い方をするはずなの!」

 子供達に教えていた慧音だ。
 そんな単純な言葉遣いを間違えるはずがない。それでも慧音は間違えた。妹紅に信じていると言って間違えたのだ。
 だから妹紅は……

「……文、手帳の1枚と万年筆」
「え? 駄目ですよ、これは私の大切な商売道具……」
「この距離で私に手帳ごと燃やされるのと、一枚だけ私に渡すの。どっちがいい?」
「うぅぅぅ~~、わかりました! わかりましたから! 渡します、渡せばいいんでしょう。もぉ~」

 文は泣く泣く手帳の最後のページを丁寧に破ると、万年筆と一緒に妹紅に渡す。
 妹紅はそれを荒々しく受け取ると、竹の幹を下敷き代わりにして器用に文字を書いていき、完成品を文に押しつけた。

「ちょっと、何を……」

 文はその紙を開きながら、文句を言いおうとしたが、その声が途中で止まる。
 
「本気、ですか?」

 そして、確かめるような目を妹紅に向けた。

「私よりも面識のある文が持って行った方が、きっと受け入れてくれるだろうから。それに天狗は、仲間を大切にするというでしょう?
 だから、私の心をわかってくれると思ったんだけど」
「……わかりませんよ」

 さっきまでの、軽い表情の文はもう居なかった。
 黒翼を拡げ、妹紅をまっすぐ見つめる二つの瞳だけが宵闇の中で爛々と輝く。

「どんなことがあろうとも、天狗は仲間を見捨てませんからね!」

 叫びと同時に、暴風が妹紅を襲い。
 それが止んだ後にはもう、文の姿はなかった。

「……そうだよ。仲間だから、見捨てられないんだ」

 そして妹紅も紅の羽を広げて、空高くへ舞い上がった。
 満月の名残が残る、明るい夜空へと。






「阿音……、阿音……」

 稗田の屋敷に戻ってから、阿祷はそのまま気を失い。
 うなされながらも最愛の娘の名を呼んでいた。
 阿音はそれに応えるように、優しく阿祷の手を握り愛おしそうに撫でた。いつのまにか母親より大きくなっていた阿音であったが、今夜ほど母親の姿が小さく、か弱く感じたことはなかった。
 そうやって精神をすり減らすほど、想われているんだ。
 触れ合う温もりが大切なことを伝えてくれる。
 悪夢でも見ているのだろうか、名前を呼びながら首を振り何かを必死で探し、首を左右に振り続ける。
 
「お母さん」

 その額に手を置き呼び掛けると、次第に動きは穏やかになり、すやすやと寝息を立て始めた。そうやって静かな寝息を立てている姿は、阿音より年上とは到底思えない。
 成人女性だと言っても、初対面の人は信じてくれないかもしれない。
 それでも、阿音の中では立派な、ダメなことをしたら叱ってくれる。憧れの母親でしかない。
 そんな大切な家族を今日は一杯泣かせてしまった。
 一杯、悲しませてしまった。
 きっと、後、一週間……
 阿祷はずっと、諦めないで過ごすのだろう。
 体は弱いが、負けず嫌いで、我を通す。そんな母親だから、阿音が諦めても、最後の最期まであきらめないに違いない。
 どれだけ、苦しくても、大丈夫だと。そう言い続けるに違いない。

 ――そうしたら、どれだけお母さんはどれだけ悲しむんだろう。

 今日だけで、こうなってしまった。
 それが一週間、どんどん酷くなる自分を見せることになる。
 自分の身体だから阿音にはそれがよくわかっていた。
 きっとどんどん記憶や体験が慧音の方にくっついていってしまう。それでも阿音が弱いから、どんどん掻き消されて……

「それを、お母さんが、見るんだ……」

 嫌だな、と。
 阿音はただ、思った。
 でもその『嫌』は凄く強くて、それだけは絶対に避けなければいけないと。そう思えた。

「ねえ、聞こえる?」

 思ったから、阿音は阿祷を起こさないように立ち上がると。
 少しだけ欠けた満月が照らす廊下へと出た。

「慧音、さん? 聞こえてるんだよね?」

 月に右手をかかげて、開いた。
 伸ばす手は降り注ぐ月の光を隠すだけで、何も掴むことはない。
 それでも阿音は自分の手をじっと見つめて、語りかけ続ける。

「私の心の声、聞こえてるんでしょ? 嫌なんだ、私。お母さんの負担になるのは絶対に。だって、私を拾ってからどれだけ苦労してきたかずっと見てきた。
 歴史の仕事で忙しいのに、私と一杯遊んでくれたし。私を一杯叱ってくれた。だからもう、お母さんを泣かせたくないんだ。わかるでしょ?」

 高く上げた手を胸に戻して、ぎゅっと力いっぱい服を握りしめる。
 
「もう、終わらせてよ……」

 その声には震えも、ない。恐怖など微塵もなく。
 迷いすらないようにも思えた。
 だから――

「ああ、終わらせようか。阿音」

 薄く瞳を開いた慧音は、そのまま自分の胸の中に力を送り込んで……
 一つの声を、消し去った。





「阿音っ!」

 そんな、悪夢だった。
 阿音が自分の意志で居なくなろうとする。最悪の結末の。
 阿祷は何が起きたか分からず、自分の周囲を見渡す。
 敷いた覚えのない布団、そして、見覚えのある部屋。
 もう、作業もすることはないと、綺麗に片づけられた、何も置かれていない仕事机。

 ああ、夢か。と。

 そこで、理解する。
 廊下に出て見覚えのある月を見上げて、胸を撫で下ろした。
 あれからあまり時間が経っていない。
 月の位置でわかる。
 記憶力のおかげでこの日付の、この月の位置だけで、阿祷は時間を知ることができた。

 あまりになんでも置きすぎたから、それを整理するために頭が悪夢を見せた。
 そんなところだろうと、阿祷は深呼吸一つして、一度自室に戻り。

 こつん、と。

 その左足の先に何かが触れた。
 筆だ。
 いつのまにか机の上から転げ落ちたのだろうと、何気なく広い。筆入れの中に戻そうとして、手が止まる。
 
 もう、その筆が入っていたからだ。

 阿祷が愛用する筆が、きちんと。
 箱の中に納まっている。
 じゃあこれはなんだろう。
 誰の筆だろ――

 そこまでだった。
 思考が、冷静で居られたのは。

「阿音……」

 よく忘れ物をする阿音のために、阿祷はその持ち物に小さく名前を書く。
 大きくなってからは、恥ずかしいからと文句を言われるので、ちょっとわかりにくいところに入れるのが阿祷の小さな楽しみだった。
 そんな、阿祷にしかわからない場所に……

 ひっそりと刻み込まれた、娘の名が書かれた筆。

「阿音っ!!」

 走った。
 走って、走って、愛娘の部屋を開ける。
 その愛しい姿を探して、必死で、開いた。
 それなのに、そこに阿音の姿などなく……

「お待ちしておりました……、阿祷さん」
「っ!? あなたはっ!」

 従者のように阿祷にかしずく。
 白い耳と尻尾を持った天狗がそこにいた。





 かたん……

 鈴仙は小さな物音を感じて、身を起こした。
 耳が捉えた発生源は廊下の方。
 昔の経験から、一瞬、

『賊でも侵入したか』

 と、身を起こして、廊下まで出てしまうが。
 
「……うん、普通、そうだよね」

 安穏な地上世界で誰がそんなことをするのかと、慌てて行動した自分が急に恥ずかしくなり。誰にも見られていないか確認して、そっと部屋に戻り――

 がたんっ

「っ!」

 二回目の大きな物音で、鈴仙はかけ出した。
 物音の発生源は永琳の部屋。
 深夜だから寝ぼけて大きな音を立てただけ、それだけなのかもしれない。
 それでも鈴仙は妙な胸騒ぎは収まらない。

 目的地、到着。
 攻撃用妖力、準備完了。
 
 鈴仙は右腕に力を溜め込み、左手で入り口を荒々しく開いた瞬間。

「このっ!」

 躊躇いなく、撃つ。
 荒縄で拘束された永琳の上にのし掛かろうとする、1人の獣。
 それを追い払うために、三つ。
 頭と胸と腰、を狙った攻撃を。
 四つん這いになった状態で全弾避けられるはずがない。
 その鈴仙の判断は正しかった。

「さすがだな……」
「え?」

 だが、鈴仙の攻撃は空中で止まり、霧散してしまう。

「しかし、永琳を気に掛けてしまい、貫通力を押さえたのは失敗だった」

 確かに、貫通力を押さえて目標に当たったら小さく拡散する弾を撃ったはずだった。
 でも、その緑色の妖獣は確かに鈴仙の視界の中にある。
 障害物など無かった。
 障害物なんて、

「!」

 そのときだった鈴仙の視界の中で変化が起こったのは。
 何もなかったはずの場所に、突如縦に置かれた畳の壁が出現し、鈴仙の視界を完全に奪う。

「まさか、歴史で隠して……」

 それに目を奪われてしまった鈴仙の隙を、侵入者が見逃してくれるはずがなく。
 畳が置かれていない両側の障子を突き破って廊下に出ると、反応しきれない鈴仙の後ろに回り込んだ直後。
 そのまま首と腕を強く掴み、廊下に組み伏せた。
 傷みで、呻き声を上げる鈴仙に情けを掛けることもなく力を強め続け、再び歴史で畳を消した。

「さて、警備も押さえたことだ。永琳……さっさと出してくれるとありがたいんだがな……。この兎の呼吸が止まる前に」
「う、がぁぅ」
「慧音……貴方は、そこまで堕ちてしまったというの?」

 月明かりが映し出したその緑の獣の姿はまさしく、阿音。
 いや、ハクタクの能力を熟知した、慧音だった。

「貴方なら、理解しているはずよ。アレがどういったものか……、一時の感情だけで流されたら取り返しのつかないことになる」

 腕の自由を奪っていた縄を隠し持っていたメスで切り裂き、永琳が立ち上がる。しかし彼女が本領を発揮するための弓もまた、歴史で隠されてしまっていた。

「そんなことはどうでもいい。渡さなければ、兎が一匹死ぬだけだ」

 慧音がいままで見せたことのない、冷め切った瞳。
 それに呑まれてないよう、永琳も鋭い眼光でにらみ返した。

「さあ、蓬莱の薬を、渡して貰おうか?」

 永琳は、首を横に振る。

「鈴仙が犠牲になってもか? それは、大切な仲間の命よりも重いのか?」
「……鈴仙だって月兎よ、それくらいの覚悟は」
「はて? 私の歴史ではそういうのが怖くて逃げたのではなかったかな?」
「……」

 慧音の腕の力が強くなるにつれ、鈴仙の動きが緩慢になっていく。
 それでも抵抗をやめず、何とか抜け出そうとするのは、生きることを諦めていないことに他ならない。

「それに、永琳。貴方もそうだ。
 月にいたときはどうだったか知らないが、地上で診療所を経営する中で目を曇らせたか。私の目から見て、弟子の命を諦めたようには到底見えない」
「……そう見える、だけでしょう?」
「じゃあ試してみようか?」
「あ、あ゛ぁぁぁっ!」

 永琳は医者として、はっとなった。
 慧音が力を加える角度、それは明らかに命を奪えるものだったから。
 だから永琳は蓬莱の薬と鈴仙の命を天秤に掛けるまでもなく。

「待ちなさ――」

 制止の声を上げようとした。
 だが――

「待て!」

 その声は別の声にかき消された。
 慧音と同じような、太い尻尾を持つ白い天狗によって。
 その声よりも早く、背後に生まれてた新たな気配に反応した慧音だったが、廊下に降り立ったその姿を見た瞬間、あからさまに顔を歪めた。
 地上最速とも謳われる白狼天狗の速度と勝負するには分が悪いと、一瞬で判断し鈴仙の体から離たその直後、白銀の一線が慧音がいた空間を横に薙ぐ。
 白狼天狗は鈴仙の無事を横目で確認すると、飛び上がった慧音に追い撃ちを掛けるために飛び上がろうとするが。
 何故か、その場で刀を振り下ろした。

「……本当に、分の悪い相手だ」

 すると、どうだろうか。
 何もなかったはずの空間に切断音が響き、屋根と庭の木を繋いでいたロープがその姿を見せて、廊下と庭に落ちた。
 そのまま飛び上がっていたら、身体のどこかに当たり、バランスを崩していたはずの見えない罠。
 それをこの白狼天狗はあっさりと見切っていたのだ。
 けれど、その間に慧音は中庭を挟んだ塀の上まで逃げ、忌々しげに新たな影を見下ろしていた。

「……犬走 椛」

 視界の中の全てを見渡す、千里眼。
 そんな椛の視界の中では、歴史で隠した簡単な罠がすべて見切られてしまう。しかも先程見せたとおりかなりの速度も、刀を振るだけの力も持ち合わせる。
 スペルカードなしでは戦いたくない相手と言って良い。

「呼び出したのは、誰?」
「それに答える必要が?」

 問答無用。
 椛はすでに戦闘態勢で、永遠亭の塀の上まで逃げた慧音に狙いを定めていた。
 人間では、追えないはずの距離であっても。
 椛にとっては、間合いの中でしかない。

「待ってください、椛さん」

 けれど、それを止める声が椛の後ろから上がる。
 そして躊躇うことなく椛の前に出て、

「慧音さん! いえ、慧音! 阿音を返して下さい! いますぐっ!」

 阿祷は声を張り上げた。
 しかし、慧音は首を横に振る。
 それでも阿祷は諦めず、慧音を指差した。

「あなたも聞いたでしょう! 一週間だけなんですよ! 私と阿音に残された時間はそれだけしかないのにっ! それさえも奪うというのですか!」
「阿祷、私は奪ってなんかいない。阿音がその一週間も辛いと言ったから、変わっただけだ」
「嘘です! そんなの!」
「嘘じゃないよ。阿音は言っていた。今日だけでもあれだけ悲しそうにする阿祷をみていくないないと。私に必死に語りかけてきた」
「……そん、な」

 ここまで追ってきたのに、突きつけられたのは聞きたくもなかった事実。
 それに打ちひしがれ、阿祷は廊下にへたり込んでしまう。

「それが阿音の、最後の願いだよ。だから私は心の奥底に阿音を封じた。でもその後私はどうなるんだろうね、阿祷」
「そんなの……私が知るわけが……」
「そう、阿音がいなくなったら、私は阿祷だけでなく人里から憎しみの対象となるだろうね。そうなった場合、私はまた人里を追われる。
 じゃあ、また、人里を守ることで、命を張ることで存在意義を示せと言うか?
 それも無理だろう。もう人里の警備態勢は出来上がってしまっている。ならば今度はどうやって生きていけばいい?
 人に捨てられた、半人半獣はどうやっていきていけばいい?
 それを理解してしまったから、私は思ったんだ」

 ぞくりとするような笑み。
 それを浮かべながら、慧音は両腕を肩の高さまで上げ、大型の弾幕を作り上げた。

「もう、妹紅しか、いないとね」

 そして放たれた二つの青と赤の大玉は、空中でぶつかり合うと強い光を発しながら消えた。

「……慧音」
 
 その大玉と同じように。
 もうその姿は永遠亭のどこにもなく、消え去っていた。





 ◇ ◇ ◇





「……遅刻だよ。慧音」

 竹林を抜けたところにある丘に、妹紅はいた。
 崩れ去る前の、日常の名残。
 1刻だけの逢瀬とまるで変わらない態度で、妹紅は振り返る。

「あんまり暇だったから、そのあたりのはぐれ幽霊と遊んじゃったじゃない」

 振り返った手の中には、白っぽい幽霊が丸くなっていて。妹紅が指で突くと慌てて浮き上がり、妹紅の上で漂い始める。
 そんな妹紅の姿を眺めていた慧音は、何故か視線を周囲に動かし。
 何かを諦めたように微笑んだ。
 
「……私が何をしてきたか、聞かないのか?」
「ん? 聞いて欲しい?」
「少し、だけ」
「わかった」

 妹紅は頷き、慧音の瞳をまっすぐに見る。
 そんな暖かな視線から逃げるように、慧音は一歩二歩と、丘の頂上付近へと近づいて月を見上げた。

「阿音が、これ以上苦しむ母親を見たくないと私に告げてきた。この身体を私に譲ると」
「うん」
「だから私は、阿音の精神を封じて……、この肉体で生きることにしたよ。誰に非難されても構わない。私は、妹紅、お前と生きていたいんだ」

 涙を溜めた瞳を隠すことなく、月明かりを背にして慧音は訴えた。
 
「もう、阿祷なんて関係ない。人里も、永遠亭だって! 妹紅さえ一緒にいてくれれば、それでいいんだ」

 誰かを裏切っても。
 誰かを犠牲にしても。
 妹紅と一緒にいたい。

「それはいけないことなのか? 妹紅? 本当に、許されないことなのか?
 お前と一緒に、永遠を……
 そう願うことは、罪深いことなのか?」

 輪廻から外れても。
 人とは違うモノに変異したとしても。
 妹紅と一緒にいたい。
 慧音は、静かに、それでいてはっきりとした口調で妹紅に訴える。
 きっと、否定される。
 それを理解しているから。

「ああ、そうだね。それはいけないことだよ。
 私みたいなおかしなやつは、もう生まれない方が良い……。慧音も、私の歴史をみたことがあるんでしょう?
 本当に、私みたいになりたいの?」
「……ああ、妹紅と一緒にいられるなら」
「そっか」

 短い言葉で応えると妹紅は無造作に置かれていた刀を掴んだ。
 柄の先端に、毛の飾りが施された独特の刀を。
 妹紅は刃を鞘から抜き取り、美しい刀身を撫でてから。

 その先端を自分の胸の中心に押し当てる。

「……慧音が亡霊と言ったから、この刀を思い出した」

 不死身でも、一瞬の痛覚は誤魔化せない。
 致命的な傷を故意に維持しようとするなら、尚更だ。
 それでも妹紅は、微笑みながら告げる。

「本当に迷いを捨てたなら……私の心臓、慧音にあげる」





「……蓬莱人の、生肝?」
「そうです! そうなんです!! 何も蓬莱の薬にこだわらなくてもいいんです! 不老不死になろうと、本気で思うなら!」

 阿祷は永遠亭に駆け付けたときと同様に、椛の背中に乗っていた。
 椛の嗅覚で阿音の匂いを探り、そこへ向かう。
 原始的で単純だからこそ、最も有効な移動法であった。
 竹林の中を駆け抜けるたび、置いて行かれた空気が阿祷の頬を撫でていく。
 だからだろうか、熱が奪われ、多少の冷静さを取り戻すことができたのは。
 それで、少しだけ怖くなった。

「そういえば、椛さん。あなたが私の助力をしてくれる理由について、まだお伺いしていなかったような……」

 天狗は外の世界に干渉するのは避ける。
 それは阿祷も良く知っている話だ。
 特に保守派に分類される椛は、その傾向が強いと聞いた覚えもある。
 追いつめられて、藁にもすがる思いで掴んだ椛という人物が、阿祷側だという保証はどこにもないのだから。
 もしかしたら慧音側で、敢えて遠回りしている可能性だってあるのだから。
 しかし、そんな阿祷の不安など素知らぬ顔で。

「天狗は、縦社会ですから」

 あっさりと言い返す。
 その一言で、阿祷の疑問は解けた。
 稗田家と多少関係を持った上司の鴉天狗、文がいたからだ。
 ただ、今度は何故文が動いたかというのが問題になってくるわけだ。

 文は一体、誰のために、と。

 また黙り込んでしまった阿祷を気にして、椛は速度を維持したまま、言いにくそうにぼそりとつぶやく。

「大切な仲間のためです、あなたも一肌脱ぎなさい……と、真顔で言われましたので……
 信用してあげても……よろしいかと……」
「仲間……ですか」

 人里の最も近い天狗。
 だからといって、全面的に信用するのは危ないかも知れない。
 それでも、阿祷は信じようと思った。

「そうです。仲間です。天狗は一度でも仲間と思った相手は絶対に裏切りません。表面上は嘘を吐いたり、いたずらしてきたり、そういうことをしてきますが。
 芯は、しっかりしている奴です。あの馬鹿は……」

 ケンカばかりしていても、必ずどこかで繋がっている。天狗の仲間意識の強さに感銘を受けつつも、阿祷は慧音が言っていたことを思い出す。
 少しだけ冷えた頭で考える。
 慧音は阿音が望んで、慧音に体を譲ると言った。
 それがもし、慧音の欲望からではなく。真実だとするなら……
 もし、慧音の阿音に関する言動が、すべて真実だったとするなら。
 おかしなことが、あったからだ。

 希望的観測からというわけではない。

 慧音は確かに、こう言っていたのだ。
『阿音を取り込んだ』
 ではなく。

『阿音を封じた』と。

 それに、椛が言う話が本当なら……
 仲間を救うというのなら。

 それを発現した当人の、文は、どこにいる?

 くっつきそうで、その事実が繋がらない。
 わからない情報ばかりが、集まりすぎて、謎が謎を呼んでいく。
 こんな感情のままでもう一度慧音と会ってどうするのかと、阿祷は自分を叱責する。とにかく、今は慧音のいう蓬莱人化だけは避けなければいけない。
 そんな気がしていた。

「見えたっ!」

 そのとき、椛が緊張した声を上げる。
 確かにそのさき、どんどんと大きくなる二つの影がそこにあり。
 妹紅が今、まさに、一本の刀を胸に突き入れようとしていて……

「妹紅っ! 駄目ぇぇぇっっ!!」

 間に合わないと知りながらも、阿音は叫ぶ。
 椛が慌てて速度を上げるが、手遅れだ。
 竹林を走る椛と、それに背負われた阿祷。声でその影が迫っていると知った慧音は、一度身体を竹林の方へと向け、月を背負う。
 淡い月の光の中にその身を預けた。
 その姿に……
 何故かもう1人が重なる。
 さっきまで胸に刀を押し当てていた妹紅が、身体の向きを変えた慧音の後ろに回り込んだ。本当に流れるような、綺麗な動きで重なった。
 身長の高い慧音の後ろで、その姿が見えなくなったのに……

 高く、高く、持ち上げられた刀だけが月の光を反射し、輝いて見えた。
 その美しく、残酷な煌めきが動いたとき。
 慧音の背中、一筋の。

「――っ!」

 誰のモノかわからない悲鳴が響いた。
 それを証明するかのように、阿祷と椛の視界の中で慧音の身体がゆっくり傾き、倒れていく。
 その数秒に満たない時間が、永遠にも感じられた。
 そして、音もないまま慧音が地に伏したとき。
 月が照らし出した真実は、ただ、ただ残酷で……

「嘘……」

 あまりのことに足を止めた椛の上、そこで震える阿音の声だけが静寂の中に響いた。
 その声で我に返った椛が、阿音を下ろして慌てて前に進む。
 地を蹴り、竹を蹴り、刹那のうちに距離を詰めた椛は、倒れた慧音を助け起こそうと手を伸ばすが。

「きゃぅっ!?」

 まさに、電光石火。
 一瞬のうちに降ってきた黒い影に行く手を阻まれ、弾き飛ばされる。
 それでも空中で体勢を整えてなんとか踏ん張ると、今度は距離を詰めることなく。10歩ほど離れた位置で刀を抜いた。

「……いったい何の真似だ!」
 
 椛が怒りをぶつけても、新たに姿を見せた人影は平然とした顔で扇を揺らす。

「協力しろと言っておきながら! 何故っ!」
「あややや、何の真似とはこちらの台詞。場違いな行動は慎んでいただきたいものですね。ああ、そうそう、そちらの阿祷さんも。こっそり近づこうなどとしないことです。
 でないと……」

 かちゃり、と。
 阿祷のすぐ傍で金属音が鳴り。

「でないと、首が飛びますよ?」

 暗がりから気配を生んだ妖夢が、その言葉を引き継いだ。
 普通の日本刀よりも長く、鈍く光る一本の刀を首と同じ高さで見せつけられる中、阿祷は少しだけ疑問を解決させたのだった。
 文と妖夢と、目の前の長い刀を見て。
 文が、どこで、何をしていたか、妹紅が何をしたのか

「妹紅……、あなたは……」

 倒れた慧音とそれをただ見下ろすだけの妹紅。
 刀を右手に持ったまま、月を背に立ち尽くす。
 その姿に椛も、阿音も目を奪われる中で、

「よかった……」

 やっと、妹紅が言葉を発した。

「やっぱり、私の大好きな……優しい慧音だ……」

 刀を置いて、草の上に膝を付けて座り紅くなった慧音の肩を、優しく撫でる。
 それを見て、椛だけが首を横に振った。
 椛の位置からでは傷は見えない、流れる血も確認できない。
 それでも、あれだけの勢いで斬りつけたのだ。
 無事に済むはずがない。
 早く止血と、治療を施さなければ死に至るのは間違いないのだから。

 と、椛はそこまで考えて、鼻を鳴らした。
 すんすん、と、小さく鼻を動かした。
 偶然、椛は二人の風下にいる。
 加えて、白狼天狗の嗅覚だ。人間の血独特のあの匂い、鉄錆に似た匂いがしつこいくらい鼻を刺激して然るべきなのに。
 ほんのわずかしか、それを感じない。

 その疑問に答えるように。

「酷いな、妹紅は……」

 背中から斬られたはずの、重体のはずの慧音が、俯せ状態から寝返りをうった。
 
「本当に、斬られたかと思ったよ……」

 それだけでなく、ゆっくりと身体を起こすと地面に腰を下ろした状態で、妹紅に不満を伝え、拗ねたように目を細める。

「本当なら、長さで気が付くべきだったんだろうな。しかし、妖夢が居なかったから、その効果は望めないと思って、本当に妹紅と生きていこうと、そう思ったのに……」
「あはは、ごめん。でもそうしないといけない気がしたの。
 慧音が一番強くこの世界に残りたいって感じる場面を創らないと、意味がないって思った。慧音が無理矢理蓬莱の薬を手に入れようとしたのも、そのためでしょ?」
「……はあ、敵わないな……妹紅には」

 ああ、斬られて見せただけか。
 文も先に話してくれればいいのに。
 二人のやり取りを見ていた椛がそうやって安堵して、また近づこうとするが。
 再び文がそれを止める。
 微笑みあいながら、楽しそうに話をする二人の邪魔をするな。
 そういうことかと思い、苦笑しながら頷くが、文はそれを小声で『違う』という。続けて慧音の肩を見ろと、言われ……、
 模造刀で付けられた傷が肩にあるだけだろうと、椛が小声で返そうとするが。その目は血とは別な、薄く白いもやのようなモノを捉えていた。
 それは肩からどんどん上に昇って、狼煙のような筋を空まで伸ばしていた。
 ただ、その白いもやを見て、椛は背筋に寒気を感じる。
 それが血よりも、何か、もっと大切な……、救いようのないモノが抜け落ちているように見えたから。

 それなのに、慧音は平然と、何もなかったように笑っていて……

「そうだ、妹紅。私は生きたいと思いたかった。そう強く願えるものが必要だと思った。だから妹紅と同じ存在になれるものが手元にあればと思った。
 だからね、妹紅が心臓を食べても良いと言ってくれたときは素直に嬉しかった。それは、本当だよ」
「それでも、駄目だったんだね……」
「ああ、そのようだ……。
 しかしあれは……魂魄家の者しか真価を発揮できない刀だったはずだ。それなのに何故」

 慧音は、妹紅の右手を見た。
 刀を握っていたはずのそこに何かあるのかもしれないと思ったからだ。
 
「そうか、もうそこから……はは、凄いな妹紅は……」

 そして、見つける。
 妹紅が単なる幽霊だと言っていたはずの白い霊体が、妹紅の腕を包み込んでいたのだ。
 
「半霊か、妖夢の」
「うん、そうだよ。だからこそ、私は持てたし、使えたんだ。
 私自身で、この刀を振らないといけないと、思ったから……」

 妹紅は、半霊に覆われたままの手でもう一度刀を掴む。
 もう一振りの楼観剣よりも短く、切れ味の悪い刀。

「この白楼剣で……、慧音を斬ったんだ」

 それでも……迷いを絶てる刀。

「すまない、妹紅。最後までおまえに世話を掛けてしまって……」

 妹紅は、慧音が迷っていたことを知っていた。
 慧音が何をして欲しかったのかも、
 それでも、だ。それをわかりにくく伝えた理由も、わかってしまっていた。
 もう一つあったはずの結末を、少なからず望んでいたことも。
 だから妹紅は、我慢した。

「私だって、慧音と一緒に生きていたかったよ」

 我慢して、文にお願いして。

「ああ、そうだな」
「もしかしたら、って思った。私だって、迷いながら刀を握った!」

 我慢して、慧音に嘘を吐いて。

「ああ……」
「でも、やっぱり! 私が大好きな慧音のままだったから! 優しい慧音のままだったから!」
「……優しくなんて、ないよ」
「じゃあ、なんでもっと、生きたいって思わないのよ! 阿音なんて捨てて、自分は自分のまま生きたいって、思わないのよ! 
 そっちの方が強かったら! こんなことにならなかったのにっ!」

 心で血反吐を吐きながら、白楼剣を振り下ろした。
 
『妹紅と、生きたい』
『このまま、消えたい』

 二つの想いでおしつぶされそうなほど迷い、心痛める慧音に向かって、
 妹紅は振り下ろした。
 妖夢の手助けを受けて、その迷いを断ち切った。
 妹紅もまた、相反する希望を抱えながら。

 その結果、もし永林が言っていたような、純粋な感情だけが残ったとしたら……
 その強い感情だけが、慧音に影響を与えるとしたら……

「これじゃあ……これじゃあ、私が、慧音を殺したみたい……」

 だからもう、我慢の限界だった。
 心の奥底ではこうなるとわかっていたのに、すがりついた最後の希望が捨てきれないままに辿り着いてしまった。
 覚悟なんて出来ていない癖に、大見得をきった。その報いのようだった。
 妹紅は慧音と同じように、地面の上で座り込むと大声を上げて泣く。。
 人目をはばからずに、ただ溢れる想いに身を預けた。
 こすってもこすっても流れる涙は止まらない。

「……妹紅」

 迷子になった子供のように泣く。そんな妹紅に、微笑みかけ。
  
「……私は、殺されてなんていない。お前は、私の背中を押しただけだ。私が悩み、苦しみ、どうしたらいいかわからなくなったとき。
 私を、そっと前に進めてくれた。たった、それだけのことだ。
 だから、妹紅は……」

 慧音はただ、無言でその身を抱く。
 それでも、泣き声は大きくなるばかりで……

「私の最高の、親友だよ」

 その悲しい声は、闇色の夜空に吸い込まれていった。





「悪いが席を外してくれるか?」

 妹紅が慧音の胸の中で泣いているとき、慧音は困ったように、文に告げた。
 文はこくりと無言で頷いて、雰囲気に呑まれていた椛を押し、阿祷の方へと。
 それに続いて妖夢も刀を鞘に収めて、阿祷から離れ消える。半霊も妹紅の右手から剥がれて、白楼剣を引きずりながら消えていく。
 そして文と椛に促され阿祷は、
 
「……最後に、一つだけ」

 そういって、慧音に声をぶつける。
 だから慧音はその質問が飛んでくるより早く、求めているはずの答えを返した。

「阿音なら、ちゃんと無事だ。白楼剣の影響も受けていない」

 けれど阿祷は言葉を止めず。

「慧音、さん。あなたが阿音を消さずに、封印したのは……、すべて覚悟の上だったからですか? 阿音を守るために……」
「さあ、どうだろうね。その迷いにいたる原因も、白楼剣で消えてしまったようだ」
「そう、ですか……」

 それ以上探ることなく、阿祷は深々と頭を下げて文と椛について行く。

 
 それから四半刻ほど経っただろうか。
 妹紅が落ち着きを取り戻し、慧音の腕の中から離れたのは。
 照れくさそうに、頭の後ろのリボンを直しながら、何も言えないでいる妹紅に、慧音は一つだけお願いをすることにした。


「……ねえ、普通、逆じゃない?」
「何がだ?」
「ほら、こう、弱っていく友人を見送るとかそう言う場面だと、そっちの方が膝枕をされることがあると思うんだけど」
「うん」
「なんで私がされてるの?」
「だから言っただろう? 私がしたいからだ」
「……あ、っそう」
「それに、これなら妹紅の顔が良く見える」
「恥ずかしい台詞禁止。そういうの、もういいでしょ、あれだけ一杯言ったんだから」
「でも、紅くなる妹紅」
「あ、そんなこというと、もうやらせてあげない」

 そんな普段通りの会話が自然に出てきてしまったことに気づき、どちらからとも言わず笑い出してしまう。
 慧音の体温を感じながら、妹紅は両手を上げて伸びをする。

「これくらいが、丁度いい気がする。私たちには」
「ああ、そうだな。ところで、文に協力を頼んだのはやはり妹紅の発案か?」
「ええ、慧音と相性の良さそうな椛と、妖夢の協力を得るためにね。だって、白玉楼の主って私のこと妙に嫌ってるから」
「私に変わって、改めて礼を言っておいてもらえるか?」
「ええ、そうさせて貰うつもり」
「あ、あと……そうだな、永遠亭にも少々乱暴なことをしてしまったからそちらには……謝罪を……」
「乱暴って、どれくらい?」
「……ははは」
「相当、やったのね」
「……ああ、ちょっとばかり気が立ってしまってね」
「ま、輝夜に言うことにするよ。どうせまた会うだろうし」
「あ、そうだ。それと……」
「慧音~」
「あはは……、いやぁ、少しの時間だったが世話になったものが多くてね。わかった、やめる。礼とか謝罪はこれで終わりにするよ、うん」

 それでも、その心配する様子が慧音らしい。
 それを指摘されてシュンとするところも、いつものままだ。

「それにしても、妹紅は変わらないな」
「……嫌味をどうもありがとう」
「あ、ち、違うぞ。そういうことじゃなくでな。あー、そうだ。なんというか、自意識過剰なだけかも知れないんだが、私が居なくなった後もうちょっと塞ぎ込んでしまうかなと、心配だったんだ」
「まあ慧音が起きる前に、いろいろあったから、かな」
「阿祷たちと、か?」
「そういうこと、久しぶりに楽しかったよ」

 妹紅の返事を聞いて、少し慧音が悲しそうな顔をした。
 もしかすると、これからは会わないという意味で受け取ってしまったのかもしれない。
 どれだけ心配性なんだと、妹紅は心の中で笑いながら。

「阿祷や阿音たちと付き合ってるから、楽しいよ」
「そうか、うん。それならいいんだ!」

 簡単に言い直しただけで、慧音の表情が明るくなる。

「……妹紅は、私の自慢の友人だからな。もっとみんなに知って貰わないとな」
「そう?」
「ああ、そうだとも。私が人里で頑張れたのは、妹紅が励ましてくれたからなんだぞ。
 あ、そうだ! 大変なことを忘れるところだったじゃないか、妹紅!」
「何よ、大変なことって」

 背を伸ばし、妹紅をふとももの上に乗せたまま、正座し直すと。
 少しだけ、顔を近づけて恥ずかしそうに笑った。

「ありがとう、妹紅……」
「……大変なことってそれ? だから、恥ずかしいこと禁止って」
「ありがとう」
「だから……」
「あーりーがーとーうー」
「……もう」

 妹紅は居心地悪そうに、ぷいっと、顔を横に向ける。
 それでも目だけで慧音を見上げ、頬を火照らせたまま。

「……どういたしまして」

 それを聞いた慧音は、本当に、本当に満足そうに微笑む。
 そして一つだけ息を吐いてから、沈み始める月を眺めた。
 
 それから、会話もなく。
 
 慧音と妹紅は、静かに一緒にいる時間を楽しんで、



「ねえ? 慧音?」
「……」
「慧音?」
「あ、ああ、なんだ?」

 気を抜いていたのか、一瞬びくりと慧音の身体が緊張する。
 それを服越しに感じ取った妹紅が不思議そうな顔をするが、特に気にせず話を続けた。

「いつかの、花見のときもこんな感じだったっけ」
「花見?」
「ああ、霊夢がいたころ。結構わいわい盛り上がったときもさ、慧音ってば、そっちの輪に加わらずに、私の近くにばかり居てさ」
「それは、まあ、その……」
「あのとき、違うやつのところで楽しんでくれば? って、言ったら。なんか酔った勢いで怒ったじゃない。あのとき、なんて言ったか覚えてる?」
「……ごめ、あっ、……す、すまない、ちょっと、覚えがないというか」
「ん? ああ、酔ってたもんね。仕方ないか」

 妹紅は懐かしそうに目を細め、その思い出を楽しんでいるようだった。
 慧音はそれを見つめ続ける。

「ああ、そうそう。私と輝夜の決闘を始めて見た後も、こんな感じで膝枕してもらったんだっけ。あのときは、本当に無理矢理って感じで頭を押さえつけられたけど」
「うん……」
「親から貰った身体をもっと大切にしろとか、おもいっきり怒ってさ」
「うん……」
「私、不死身だから大丈夫だって言うのに」
「ごめん……」
「そう、今みたいにちょっと泣きそうな顔でさ、本気で怒ってくれたから、あのときは、嬉しくて」
「ごめんなさい……」
「ん? 何よ慧音、そんなに……」

 ぽたり、と。
 妹紅の頬に生暖かい感触が生まれる。
 それに気づいた妹紅は、慧音は涙もろいねと苦笑しながらその瞳をじっと見て。

「そっか……」

 あのときか、と、悟った。
 それまでは慧音から話をしてくれたのに、急に何も言わなくなった。
 それが不安で、嫌な予感がして、妹紅が自分から話しかけていた。

 きっと、そのときだったんだと。
 妹紅はそれを静かに受け入れて。

「ごめんなさい……」

 瞳に涙を溜めて、謝り続けることしかできなくなった慧音の頬に、そっと手を伸ばす。

「もう、いいよ。もうそんなことしなくていいから」

 そして、親指で涙の筋を拭きながら……

「慧音を看取らせてくれて、ありがとう……、阿音」

 心からの感謝を、阿音に送った。


 そして、また一つ。

 少女の泣き声が響く中で。
 東の空が、新しい一日の始まりを告げ始めていた。
 淡く、優しく、今日という日を祝福するように。




 
 
 ◇ ◇ ◇





 それから1年後。

 妹紅はとある場所に呼び出された。
 華に彩られた招待状には、稗田家とありその他の情報は、

『必ず来られたし』

 そんな脅しめいた文章だけ。
 何事かと思って、昼過ぎまで行くべきか行かざるべきか迷った結果。

「来ちゃったよ……」
 
 足を運んでしまう自分を攻めたい気分で一杯の妹紅だった。
 とにかく進まなければ始まらないと、恐る恐る門を潜ってみれば。

 がしっ

「へ?」

 いつもより少しだけめかし込んだ服装の文と。

 がしっ

「へ?」

 いつもよりかなりめかし込んだ衣装の阿祷に、左右の腕を掴まれ。

『一名様ごあんな~~い!』
「え、あ、ちょ、ちょっとぉ!?」

 ずるずると、無理矢理引きずられるまま。
 稗田家の広間へと搬入された。

『稗田家、結婚披露宴三次会』

 という奇妙な紙が張り付いた、騒がしい部屋へと。





 それからしばらくして。
 その会場から大きな感嘆の声が上がる。
 
「妹紅さん、綺麗~~っ!」
「う、うるさいな……、着物が良いだけだよ!」

 ハクタクの力のせいでそのままの衣服の阿音は、目を輝かせて妹紅の姿を眺めた。 
 いきなり文と阿祷に確保され、その格好じゃ相応しくないと、すぐさま隣の部屋へ。そしてすでに準備されていたと思われる、着物を着ろと言われて。
 もう、何がなんだかわからないうちに使用人に着せて貰った結果が、これ。
 白一色の地味なものかと思いきや、その素朴さの中に上品さを兼ねた逸品。
 絹でも縫い込んであるのか、自然と煌めく布地は着る者の魅力を引き立て、女性らしい純真さを魅せる。

「ええ、本当にお似合いですよ」
「見事なものだよ」

 続いて、その両脇に座る阿祷といつもの服装の霖之助が、白無垢を着こなす妹紅を賞賛し。
 
「あ、妹紅さん。視線こっちもくださ~い!」

 文に至ってはもう、シャッターを切りまくっていた。 
 20畳近い広間に居るのはたった5人だけ。上座3人、そしてその右側に文と妹紅が並ぶ奇妙なL字型。
 そんなよくわからない状況下に置かれながらも、妹紅だって女性である。
 
「……本当に、そんな悪くない感じなの?」

 綺麗と言われ続ければ、やはりその身なりが気になるようで。
 用意された御膳の前で立ちながら、手足を軽く動かしていた。

「ええ、もちろんですよ」

 そして、すでに箸を進めていた四人も息を合わせたように頷いて。

『腰から上だけは』

 息を合わせて、ちんちくりんさを褒め讃えた。

「しょうがないでしょう、長すぎなのよこれ! ねえ、最初からわかってたでしょあんたたち!」

 ぶんぶんと手を振っても、まったく袖から手らしい影が出てこない。
 まるで大人の真似をして大きい服をせがんだ駄々っ子ようであった。

「仕方ありませんよ、愛しい娘の阿音用に準備していた着物ですからね。
 妹紅が、着れば、そりゃあ……、ぷっ」
「笑った! 今、おもいっきり笑った!」
「妹紅さん、違うんです! お母さんはそういうのじゃなくて……
 ハクタクの力で普通の服が身につけられなくなった私に変わって、是非妹紅に着て欲しいって……親しい間柄の妹紅だから……」

 妹紅は、はっと。阿祷を見た。
 そんなことなど知らず、怒鳴り散らしてしまった自分を恥じながら。

「着たら、絶対みんな笑顔になるって!」
「そっか、ごめんね、阿音。私、勘違いして……」
「……面白さ的な意味で」
「確信犯っ!」
「ふむ、僕から見ても裾をずりずり引きながら歩く姿はなかなか愛らしいのではないかと思うよ」
「だから、それが嫌だって言ってるの!」
「あ、霖之助……、色目つかってる」
「ああもう、黙ってなさいバカップルの片割れ!」

 わずかな時間でずいぶんと疲労した妹紅は、ぜーぜーと荒い息をつきながら、やっと準備された御膳のところに座ることができた。
 すると、文が耳元に顔を寄せてきて。

「ああは言っておりますが、皆さん嬉しいのですよ。妹紅さんは神前結婚式の席を休んだでしょう? その後の披露宴も」
「……仕方ないじゃない。私を怖がるやつだっているんだから、場を壊すだけよ。稗田家の面子って奴もあるでしょ?」
「ええ、ですから。今回特別にこの場を準備したかったと、こうおっしゃっていたわけでして……お酒が入ってはしゃぎ過ぎなところも見えますが……」

 と、その二人のこそこそしたやりとりを見て、阿祷は少々不機嫌そうに尋ねた。

「文、何かいらぬことを伝えてはいませんよね?」
「いえいえ、私が機密情報を漏らすはずがないじゃないですか。いやですよぅ、ただの取材交渉ですって。この姿の写真を遣うためには、不機嫌な妹紅さんを説得する必要があるかと思いまして」

 しかし、文は動揺一つ見せることなく、嘘でもないことを答えた。
 確かに、妹紅の不満を解消し取材を優位に進めるには、この会の開かれた経緯を知らせることが近道であるのだから。
 そんなやりとりを横目で身ながら、素直じゃないなと、心の中で笑う。
 阿祷はもう、30間近。
 もうすぐ、歴史を保存するための作業に入り、淡々と歴史を繋ぐための部品に成り果てる。
 妹紅と同じ、人間とは違う何かに変わらなければいけない。
 だから阿祷にとって、これは幸せな一瞬。
 阿音と過ごせる、思い出の時間。
 それは一瞬のうちに消える、幻でしかない。
 妹紅の側に、慧音が居たことも、永遠から見ればないにも等しいものなのだろう。

「ふふーん、いいわよ。阿祷がそう来るなら、受けて立とうじゃない。この前みたいに、潰してあげる」
「ほほう、私に対して飲み比べですか。いいでしょう! 受けて立ちます!」

 これからも、妹紅が繰り返す思い出は、すべて一瞬のうちに消えていく。
 それはきっと間違いないのだろう。
 くるくると、人の輪廻が回る中で、外から眺めることしかできないのだろう。

 ならば、と妹紅は思うのだ。

「さあ、いざ尋常に!」
「勝負っ!」

 おもいっきり楽しんでやることにしよう。
 楽しくて、楽しくて、昔のことを忘れるくらい今の一瞬を楽しみ尽くしてやるんだと。





 寂しがり屋の慧音が羨ましがって、
 すぐに転生したいとべそをかくまで。

 



END





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