ケロちゃん風雨に負けず。
雨に打たれて嬉しそうに飛び跳ねるカエルを見て、メリーはそんな益体もないことを思った。
突然の雨であった。
お天気キャスターのお姉さんは、笑顔で「本日は晴天なり」と太鼓判を押していたし、現に先ほどまでは暖かな日差しが降り注いでいたのである。そんな日に傘など持っているはずもなかった。
「移り気なのは秋の空だけにしてほしいわねえ」
屋根つきのバス停に駆け込めたのは幸いだったものの、しばらくは動けそうにもない。春の陽気にあてられ、珍しく今日は四条の方にでも繰り出してみようかと考えていたメリーは、ため息をつくしかなかった。
寂れたバス停の周りには、時間をつぶせそうな喫茶店の類は見当たらない。バスが来る時刻までにもまだ間があった。所在なさげにバッグを抱きながら、メリーは何となく降りしきる雨を見つめていた。
静かな世界に、雨音だけがささやくように耳をくすぐる。こんな日は、ついアンニュイを気取って物思いにふけってみたくなる。それでなくとも、雨には人をぼんやりとさせる、ある種の魔力のようなものがあった。
「お茶とお菓子でもあれば最高のシチュエーションなんだけど」
苦笑しつつも、悪い気分ではなかった。ゆっくりと晴れ間を待とう。そう気を取り直し、バッグから忍ばせていた文庫本を取り出そうとして、メリーはふと気づいた。
「あら、珍しい」
小さなアマガエルが、メリーの足元を飛び跳ねていた。街中ではとんと見かけなくなっていただけに、メリーは軽い驚きとともに、雨に濡れる緑色を見つめていた。
思いがけぬ闖入者。それともお邪魔したのはこちらのほうか。
「カエルといえば」
メリーは遠い昔のことを思い出していた。
まだ幼いころ、メリーは日本人である母方の実家に滞在していた期間があった。そこは、今のメリーなら「小泉八雲が称えたような」と表現するであろう、近代化以前の自然が幻想のように残る秘境だった。
幼いメリーは、同じ年頃の子どもたちとともに田んぼで捕まえた、おたまじゃくしを飼っていた。幼さゆえの拙い飼育のため、死なせてしまうこともあったが、それでも何匹かは立派にカエルへと成長していった。
それを目の当たりにしたメリーは、心底驚き、そして感動した。あの黒くて丸くてにょろにょろしたおたまじゃくしに足が生え、しっぽがなくなっていき、最後には似ても似つかぬ姿になる。その過程は、かつてのメリーにとって、魔法のような不思議そのものだったのである。
思えば、その頃の自分は随分と不思議に飢えていた。今はどうだろうか。メリーが雨の音にまかせて思考に沈もうとしていると、
「ん?」
カエルが、メリーの履いたブーツに、ぴょんと飛び乗った。そしてそれっきりじっと動かなくなってしまった。
じっと雨を見つめるているかのようなカエルを見て、メリーの頬が緩む。彼もまた、雨の魔力にあてられた哲学者か、はたまた一人さびしくベンチに座る自分に付き合ってくれる、水も滴る小さな紳士か。
自分の妙な想像に、また一つ笑みをこぼしたそのときである。
「あー降られた降られた。まいったなあ、もう」
上から下まで白黒な少女が、バス停に飛び込んできた。
雨の日の静けさを破って現れた、予想外の新来者。同じ大学の子だろうか。頭に乗せた帽子は傘の代わりになるはずもなく、少女は濡れ鼠とまではいかないまでも、相当の苦労をしてここに辿り着いたようである。
気休めでもと、メリーがハンカチを手渡そうとすると、
「ねえ、服透けてないわよね?」少女はそんなことを尋ねてきた。
いきなりの問いに、メリーは面食らってしまった。初対面の自分に、なんと際どいことを聞くのか。
「え、ええ。大丈夫よ」
「そ。ああ、良かった。あられもない姿になってたらどうしようかと」
ホッとしたように息をつきながら、少女が隣に座る。
「つ、使います?」
「や、これは親切にどうも」
取り出したハンカチを恐る恐る差し出すと、少女は丁寧に頭を下げながらそれを受け取った。メリーは服を濡らす雫をふき取る少女をしばらく見ていたが、自分のやっていることに気付いて慌てて目を逸らす。あられもない姿ではないとはいえ、守るべきマナーがある。
「ありがとう。助かっちゃったわ」
洗って返すという申し出を丁重に辞して、ハンカチをバッグに戻す。またバス停に静寂が戻ってきた。
こういう時は得てして気まずさを感じてしまうのがメリーの常であったが、今は不思議と居心地は悪くなかった。
同年代の女の子だからとも思ったが、そういうのとは違うような気がする。ちらりと隣を見ると、少女はやはりぼんやりと雨を見つめていた。その表情から、少女の考えを読み取るのは難しかった。哲学者の顔である。自分も向こうからはそう見えているのだろうかと思いながら、視線を戻した。
徐々に雨が弱ってきた。もうすぐ晴れ間がのぞくかもしれない。この一日の隙間のような雨宿りの時間も、そろそろ終わりである。
そう思うと、メリーはどこか名残惜しさのようなものを覚えた。つくづく妙な感覚であった。これも雨の魔力のなせる業なのかもしれなかった。その不思議な力に背を押されるように、声を掛けようとして、
『あの』
メリーと白黒の少女の声が、示し合わせたように重なる。
白黒の少女が、目を丸くしていた。きっと自分も同じ表情をしているのだろう。
思わず、吹き出してしまった。少女も笑っている。二人の鈴のような笑い声が、かすかに響いていた雨音をかき消していった。
ひとしきり笑い合ったあと、ねえ、と白黒の少女が呼びかけながら言った。
「さっきはどうしてあんなにご機嫌だったの?」
「さっき?」
「ほら、私がここに逃げ込んできたとき、貴方、楽しそうに笑ってたでしょ?」
しばし考えて、少女の言っていることに思い至る。顔が赤くなるのを、メリーは自覚していた。
「み……見てたの?」
少女はニヤニヤと笑うだけである。
ごまかそうとも思ったが、いい歳をした女子が一人で笑っている姿に対する冴えた言い訳は、メリーには出来そうもなかった。観念したようにため息をつき、メリーはありのままを述べた。
「カエルよ」
「カエル?」
「そう、カエル。ケロケロ」
「ああ」
「カエルぴょこぴょこみぴょこぽこ」
「あ、ちょっと噛んだ」
余計なことをして、余計な恥をかいてしまった。いよいよ熱く火照る顔を俯かせながら、メリーはボソボソと自分の怪しい挙動の理由を話した。
「できれば笑い飛ばしてね。それでも引かれるよりはマシだわ」
話を聞き終えた少女は、メリーの要望通り、笑った。しかしそれは、彼女の想定していたものとは種類が違うように見える。
「今時そんなことを考える子がいるなんてねえ」少女は言った。
「でも、嫌いじゃない。むしろ好きっていうか、うん。嬉しい、かな」
「嬉しい?」
白黒の少女の顔は、彼女が語る通りの感情を表していた。お世辞や気遣いの類ではないと、メリーでも一目でわかる、そんな表情だった。
「貴方、今すっごい恥ずかしいでしょ」
「恥ずかしいわねえ」
「普通ならこんな話、誰にも言いたくないでしょ」
「ないわねえ」
「でしょ? だからさ、なかなか出会えないのよ」
「何と?」
少女は被っていた帽子を外し、メリーをじっと見つめる。その瞳に惹きつけられたかのように、目が離せなくなった。
少女は言った。
「“不思議”を信じる人」
ともすれば雨音に紛れてしまいそうな小さな声は、しかしメリーの耳に何よりも確かなものとして伝えられた。
二人の間に流れた沈黙。そのなかで、少女の言葉が残響するかのように、メリーの奥底にある何かが揺さぶられていた。戸惑いとともに、どこか懐かしさを覚える。そんな、正体不明の感覚だった。
「なんてね」
帽子をかぶり直した白黒の少女によって破られた。金縛りから解けたように、二人は視線を降りやみそうな雨に向ける。メリーは、胸の裡の動揺を悟られないよう、冷静さを装って言った。
「貴方、今すっごい恥ずかしいでしょ」
「恥ずかしいねえ」
「お互い素性を知らなくてよかったわ」
「まったく。彼もきっと呆れてるわね」
「彼?」
少女が指さした先。それを認めたメリーは、苦笑しながら唇に人差し指を添え、
「……内緒にしておいてね」
そして二人は同時に立ち上がる。雨はもう上がっていた。
メリーはしばしの時間を共にした少女の顔を、心に刻むようにじっと見つめる。交わした言葉はごくわずか。彼女の人となりはおろか、名前すら知らない。それでも、一つだけわかることがある。
つまるところ、彼女は幼き日のメリーと同じなのだろう。自分が忘れかけていたものを、彼女は今も持ち合わせていたのだ。
そして、この出会いともいえない邂逅は、メリーの奥底に眠っていたそれを、少なからず揺さぶった。三つ子の魂百まで。果たしてこのことが、自分のこれからに影響するのか。今のメリーにはわかるはずもない。
雨が上がった今、二人を包む静寂は完全なものとなっていた。やがて、どちらともなく笑い合い、
「じゃあ、またね」
「ええ、また」
それを最後に、二人はお互い背を向けて歩き出した。振り返ることも、しなかった。
それなりに名残惜しさはある。しかし縁があれば、またお目にかかることもあるだろうし、なければそれまで。人と人の関係なんてそんなものだ。それでも、メリーの歩みはいたって軽快だった。
空を仰ぎ見る。残念ながら虹まで見えることはなかったが、雲間から差し込む陽光に、メリーは気持ちよさそうに目を細めた。
「移り気な空に感謝、かしらね」
遠く、カエルの鳴き声がケロケロと鳴り響いた。
気のせいかもしれないけれど、それでもよかった。
二人の少女が再び出会うのは、もう少し先の話。
そして二人の少女が不思議を追い求めるべく手を取り合うのは、さらにもう少し先の話。
二人の少女による、ちょっと不思議な霊能サークル。
その名は――。
確かに秘封年ですね、今年は
秘封倶楽部の始まりを、自分は、なかなか想像できそうで、想像できないんですが、この作品はその辺り、良く出来ていると思います。
面白かったです
今年を機にもっと秘封の創作増えろ!
素敵です