Coolier - 新生・東方創想話

さとりの居ない食卓

2012/07/29 00:37:36
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「――そういう事だから今夜、お姉ちゃんは出かけなくてはいけないの」

 自室にて慌ただしく必要書類やら筆記用具やら財布やらを黄色のバッグに詰め込みながら、古明地さとりが背後に立つ妹、古明地こいしに告げた。
 地底に住む者として、旧都で開かれる鬼の会合に出席しない訳にはいかない。
幻想郷であれ外の世界であれ、一定のコミュニティに根差す以上地域の仕事をしない訳にはいかない。井戸端会議コミュニティの情報網は緻密な上、不味い事にその殆どが感情で構成されている。『世話好きなオバちゃん』という通称で呼ばれる事の多い構成員の大半は目を皿にして人の荒を探す事を生業にしており、気もない男女をくっ付けたり、気に喰わない家庭の愚痴や根も葉もない噂で他人の耳を劈いたりする事に掛けては、神の采配も斯くやと言った所。幻想郷のロリ閻魔でさえ立ち入ろうとしない部分に問答無用で手を突っ込み、他家の幼女の口に飴ちゃんを押し込み、我が物顔で住民を『同じ場所に住む仲間』という匣に詰め込んでしまう。押し入れに冬物の布団を入れる時みたいに。
 だから、どんなに気が乗らなくても行かない訳にはいかない。地霊殿に引きこもって、何をしているのかについて邪推されるのは我慢ならなかったし、(以前風邪で参加出来なかった時には、妹が何やらぷらせんた? を集めているらしいと噂された。怖くて聞けないので真偽は定かではないが)最悪の場合には村八分にされてしまう。
 最も、忌み嫌われた種族である彼女たちがこれ以上村八された所で一体何の不都合があるかについて、さとりは考えない。特に無いから。
 臭い物にシュールストレミングの空き缶で蓋をするが如く、厄介者に厄介な仕事を押し付けられている、という不満は有れど、灼熱地獄跡の管理を任されている妖怪としての義務もまた有った。だからどれ程厭でも、参加しない訳には行かなかった。

「だから夕飯はこいしに作って貰いたいの。ペット達のご飯は、お台所の戸棚の中にある餌を上げて頂戴。こいしのご飯は、冷蔵庫の中の物を適当に見繕って食べてね。もしも何も作りたくない様だったら、旧都で御惣菜を買って来て上げるから、ご飯だけは炊いておいてね。お燐とお空に言えば、あの娘たちならご飯位までなら炊けるから」

 パートに出る前のオバちゃんよろしく色々と気を揉みながら、さとりはチラチラと壁時計を確認する。まだ充分間に合う時間ではあるが、ギリギリに会合場所に入ると(重役出勤か……)という心の声が聞こえて来てしまうので、なるべく早く着いて置きたかった。「そもそも出勤じゃないだろう」とツッコミを入れると、またとやかく言われてしまう事だし。

「うん。任せておいてよ。大丈夫だから」

「本当? でも、無茶はしないでね。ほら、貴女、この前お姉ちゃんが留守にした時、全部のペットの毛に片結びを沢山作って、『侵入者が足を引っ掛けるように』って言って、ペット達が踏みつけられる事前提の良く判らないトラップを仕掛けたりしたじゃない? お姉ちゃん、ちょっと心配かな」

「お姉ちゃんは心配性だなぁ。私がそんな変な事する様な子に見える?」

「いや見えるとか見えないとかじゃなくて、実際にやったから心配しているのだけれど……でもまあ、任せるわよ。ベビーシッターとか雇うお金無いし、こいしはベビーじゃないし、そもそもそんな職業出来る位、社交性に富んだ妖怪は地底には居ないから……」

 慌ただしく自室を後にして玄関ホールへと向かうさとりの背中を押しながら、こいしはニコニコして彼女を急かした。

「ほらほら、早く行かないと遅刻しちゃうよ。お姉ちゃんはあんまりお酒強くないんだから、勇儀に『遅刻のペナルティに一杯飲みな!』って日本酒を樽ごと渡されたりしたら死んじゃうんでしょ?」

「うん。そうね。それは死んじゃうし、勇儀さんはやりかねないし、現にこの前そんな光景見ちゃったしね。上半期お姉ちゃん的トラウマリストの上位に食い込んでるもんね。じゃあ、よろしくね? あと、こいし、そろそろお姉ちゃんの背骨が限界だから、その押し方やめてね?」

 いつの間にか貫手で背骨をゴリゴリする方式に移っていたこいしに、玄関ホールへと入った辺りになって漸く、さとりがやんわりと引き攣った笑みで懇願した。

「うにゅ。さとり様、お出かけですか?」

「お空。さっき会合に行くって伝えられたばっかりだろ、しっかりしなよ」

 玄関口に並んで立っていたお燐とお空が、さとりとこいしの姿を見て、そんなやりとりを始めた。こいしの嬉々とした笑みを見てお燐はこっそりとお空の耳に唇を寄せ、

(――地獄はこれからだよ)

 と小さく呟いた。

(うにゅ? 地獄はここだよ?)

(……覚悟を決めなってこった。さとり様は今夜は遅くまで帰られない。こいし様のご面倒はあたい達が見なくちゃいけないんだよ。この前みたいに『ここの羽根を切ると飛べなくなるんだって、外の世界の動物園では全部の鳥がやってるんだよ?』ってな具合の因縁を吹っ掛けられるのは厭だろ?)

(飛べなくなるのは嫌だなぁ……でも、羽根のないお燐もさとり様も他の皆も、空は飛べるからなぁ……)

 そんなペット二匹のやりとりを第三の目でチラリと覗き、さとりは心配を募らせる。愛しい妹が満面の笑みを浮かべている事も、その心配に拍車をかけた。

「お燐、お空、後はよろしくね……しっかり、頑張ってね」

 玄関扉のノブに手を掛けながら、さとりが不安そうな眼差しで二匹を見る。語尾に取って付けた様な励ましの言葉を残されてお燐は震え上がるが、お空は「お土産よろしくお願いしますねぇ」等と呑気な事を言っていた。

「それじゃ、行って来ますね。知らない人が来ても家に上げちゃいけませんよ。お姉ちゃんは留守だからと言ってね。こいし、重ねて言うけど、無茶はしないでね」

「うん! 大丈夫! 任せておいて!」
 
 大げさに手を振るこいしを見て溜め息を吐きつつも、さとりは玄関扉の向こうへと身体を滑らせた。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい!」

 一人と二匹が声を合わせて言った。お燐だけは小さく「早く帰って来て下さいね」と付け足した。館に合わせたサイズの扉は妙に大きな音を立てて軋み、細く切り取られたさとりの姿を飲み込んでバタン、とエントランスホールのだだっ広い空間に響きを残した。

「……腹パン?」

 玄関扉の境目を見つめていたこいしが、出し抜けにポツリと呟く。願望とも予定とも取れないその一言に、お燐もお空も聞こえなかった振りをした。

「さて、お姉ちゃんも行っちゃったことだし、早速ご飯を作るよ!」

 意気揚々と声を上げ、こいしがエントランスから台所へと至る道へと歩いて行く。珍しく何かしら考えが有る様子のこいしの背中に、お燐が恐る恐る声を掛けた。

「こいし様は、何か食べたい物とか有るんですか?」

「お姉ちゃん」

「即答ですね。いやいや、さとり様の事ではなくて……夕食の事ですよ」

「お姉ちゃん」

「あー……夕食の時間までにさとり様は戻られないと思いますがねぇ……」

 助けを求める様な目線でお燐が背後のお空を見るが、「お腹空いたなぁ」と独り言を呟く親友が頼りになるとは思えなかった。

「私は冷蔵庫の物を勝手に食べるよ。そうじゃなくて、私はお燐とお空の為に、何か手作りをしてあげたいと思っているの」

「え、それは……本当ですか?」

「私は嘘吐かないもん」

「やったぁ! こいし様の手料理だぁ!」

 最早胸中には不安の二文字しか無いお燐が、馬鹿正直に喜ぶ親友を睨みつけるも、残念ながらそんな言外のコミュニケーションが通じるほど、お空は賢くは無かった。

「二人にはいつもお世話になってるからね。たまには缶詰の冷たくて味気ないご飯なんかじゃ無くて、温かくて豪華な物が食べたいでしょ? お姉ちゃんは健康に悪いからって言って誕生日くらいにしか良い物を食べさせて上げてないけど、お姉ちゃんが居ない時くらい贅沢したって罰は当たらないよ」

 こいしが柔和に微笑みながら、背後の二匹に振り返る。

「こいし様……」

 不覚にもその言葉に少々感動してしまったお燐は、こいしの行動を不安に思っていた自らを恥じ、かつ飼い主の思いやりに感謝した。
自分は仕えるべき主に対して、一体どれほど酷い事を考えていたのだろう。こいし様はこんなにも優しい御方じゃないか。確かに無意識で行動するようになってからというもの、寝ている間に尻尾を二重テグス結びにされたり、付けたくもない首輪で絞殺されそうになったり、金属製の梨を【検閲済み】にブチ込まれそうになったりしたくらいで、疑心暗鬼に陥る程の事では無いじゃないか。お燐はそう思って目頭を拭った。善意で構成された言葉は得てして人を盲目にすると相場が決まっている。人ではないが。

「良かったね、お燐。こいし様が優しい人で」

「そうだね、お空。あたいが間違ってたよ。変にビクビクしてた自分が馬鹿みたいだ。お空、あたいを殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。あたいは、酷い思い込みをした。お空が若しあたいを殴ってくれなかったら、あたいは……うべぁ!」

 お燐がセリヌンティウスの為に走った男みたいな高説を垂れている途中で、お空が言われた通りに力一杯にお燐を殴り、火車猫の華奢な身体は玄関ホールを横切ってぶっ飛んだ。
 左手ならばまだ良かっただろう。だが『ちから一ぱい』と言われた素直なお空が繰り出したのは、八咫烏の持ち得る全力を第三の足に込めた一撃だった。

「お燐! 大丈夫!?」

「――へへ、なぁに、掠り傷さ……」

「本当!? 大丈夫なのね!? あー良かった!」
 
 後頭部と両耳からダラダラ血を流すお燐の横で、お空が胸を撫で下ろす。
 お燐はそれきりピクリとも動かなくなった。

「お燐? 何だ、寝ちゃったか……」

「それじゃ二人は私の替わりに、人に変化出来ないペット達のご飯を上げてよ。私は台所に居るから、絶対に中を見ちゃ駄目だよ」

 廊下へと至ったこいしが壁際の二匹に向けて人差し指を唇に当てて言うと、彼女は廊下の向こう側へと走り去って行った。

「判りました! それじゃ行ってきます! お燐! 起きたらで良いから、お台所の戸棚に餌を取りに行ってね!」

 彼女自身の大好きなモノ(死体)みたいになってしまったお燐に向けて、こいしとは別の方向に有る廊下へと走り去るお空は笑った。親友からの返答が無い事にすら、地獄烏は気付く事が出来ない。
 流石に妖怪の端くれ足るお燐が、この位で死にはしない。気を失っているだけだ。
 少しすれば傷も治る。吸血鬼程ではないが、妖怪は得てして生命力も強いし、自己治癒能力も高い。頭蓋骨が陥没して骨の破片が脳に食い込む位は軽傷と言っても良いだろう。

 ただ残念な事に、後にお燐は『寧ろあそこで死んどけば良かったかもねぇ……』と後悔する事となる。妖怪の逞しさも、時にはマイナスに働く事が有るという訳だ。



「さ、腕に寄りをかけて作ったご飯だよ! 沢山食べてね!」

 食堂には今、こいし、お燐、お空の一人と二匹が揃っている。当然のことながら、人の形を取る事の出来る者でなくては、テーブルを使用する事が出来ない。現状において、古明地姉妹が飼っているペットの中では図抜けた妖力を持つお燐とお空のみが、その権利を与えられているという訳だ。
 それは本来ならば、光栄なことなのだろう。少なくともお燐は、確かに食卓に着く事を許されている事を僅かながら誇りにも思っていたし、数少ない自慢の一つでもあった。
 だが今夜に限っては、人化出来ないペット達が羨ましく思えた。
 今、言葉を失っているお燐の目の前には、あろう事か野菜炒めが鎮座していた。
 人参やキャベツはまだ良い。しかし皿の中には広範囲に玉ねぎやニラ、ニンニクのスライスが顔を覗かせている。その隣には特製のスープが有るが、液面に丸のままグリルされた玉ねぎが十字に切られて浮かんでいた。

「こいし様……これは、一体……?」

 不器用に頭部を包帯でグルグル巻きにしたお燐が、独り言のように呟く。

「ほら、お燐って野菜嫌いじゃない? それを克服出来るように、お野菜の美味しさを余すところなく際立たせた物を作って、お野菜を好きになって欲しいなって思ったの」

「そうですか……こいし様はお優しいですね……でも、あたいは猫なんで……ちょっと玉ねぎとかは……」

「駄目だよお燐。好き嫌いしたら大きくなれませんからね?」

 不機嫌そうにこいしが唇を尖らせる。お燐は乾いた笑いを漏らした。
 ネギ類の野菜に含まれているアリルプロピルジスルファイド等の成分は、猫、犬等の愛玩動物の赤血球を破壊し、溶血性貧血やハインツ小体性貧血を起こし、量によっては死に至る事もあるのは最早常識とも言える。妖怪で、しかも人の姿になる事も出来るお燐ではあるが、目の前に並んでいる皿を平らげて生きていられる気はしなかった。皿から立ち上る湯気が骸骨の形に見えたのは、きっと錯覚では無いのだろうと彼女は思った。

「それで、お空のお皿に乗ってるのは……何です? あれ?」

 お燐が横に座るお空のテーブルの上を指さす。食事の開始を今か今かと待ちわびているお空の目の前には大皿が置かれ、その上には真っ黒なビニール袋に詰め込まれた何かが乗っていた。

「生ごみ」

「あぁ成程ね、そうですか……それで、その、袋の横のアレは、何ですか?」

「焼き鳥」

「……あたい達、何かいけない事とかしちゃいましたかね……?」

「何も?」

「どうしたの? お燐、こいし様が折角私達の為にご飯を作ってくれたのに……」

「お空、アンタはそれで良いのかい? 人の姿でテーブルに着いて、ビニール袋を引き裂いて中の生ごみ食べるのかい? 妖怪とは言え、鳥類のアンタが焼き鳥を頬張るのかい?」

「うにゅ……何か、問題ある?」

「あたいはアンタの頭が、ちょいと問題だとは思うがねぇ……」

「もう! お燐は好き嫌いし過ぎだよ?」

「いや、その、御免なさい。でも、こいし様があたい達の為に頑張って下さったその心意気だけで、あたいはもうお腹一杯ですよ。それに、こいし様はご飯無いじゃないですか。この美味しそうな野菜のフルコースはこいし様が食べるとして、あたいは缶詰で良いですよ?」

 こいしの機嫌を損ねない様に言葉を選んで、お燐は何とか食中毒まっしぐらの未来を回避しようと足掻いた。こいしは、ふうと溜め息を吐くと、スカートのポケットから小さな小瓶を取りだした。

「しょうがないなぁ……お燐の好き嫌いを直す為にも、とっておきの調味料を使ってあげるから」

 こいしはお燐の側まで歩み寄ると、野菜炒めとオニオンスープの上に小瓶の中に詰まっていた粉末状の物を振り掛ける。

「いえ、こいし様、好き嫌いとか味付けどうこうでは無くてですね、その、ほら、あたいって猫じゃないですか? で、猫って言うのは玉ねぎとかを食べると食中毒に――」

 皿の上の料理の香りを一嗅ぎしたお燐の眼から突然生気が失われた。頭が乗っかった首がグラリと揺れ、テーブルに額を強かに打ち付ける。その衝撃で皿が少々跳ね上がって大きな音を立て、隣に座っていたお空がビクリと身を竦ませる。

「な、何……? どうしたの? お燐……?」

 親友の問い掛けに、お燐は応えない。唇がだらしなく緩み、明後日に向けられた眼は下方三白眼の様相を呈し、呼気を漏らす様にして小さく笑う彼女の肢体は、時折小刻みに震え、そして跳ねていた。
 お察しの通り、小瓶の中身はマタタビである。

「――こ、これです……あ、あた、あた、いの食べべべべたいお料理は、こ、これこ、これ、です……うへへ」

 とろりと蕩けた目でどこか遠い世界へと旅立ってしまったらしいお燐が呟いた。
マタタビの持つ効力はネコ科の動物にのみ有効であるが故に、普段何気なくマタタビを与える猫の飼い主には、彼のマタタビに依る恍惚感を真に知る事は叶わないだろう。ネコ科の生物でありながら人に化けられるお燐であるからこそ、マタタビの強力な恍惚感を喧伝し得る存在になるのではないだろうか。
 だがしかし、ここで少し考えて貰いたい。俗に言うイッちゃった眼をした女性が、仮に人混みの中から覚束無い足取りで現れたとして、アナタはそれを愛くるしいと認識し得るだろうか? 
 正直な所、何をして来るのか判らなくて怖い、という感覚が防衛本能を呼び覚まし、出来る限り離れたい、関わり合いになりたくない、と思うのが自然な反応なのではないだろうか? それが見知らぬ女性でなく、親しい存在ならばそれは尚更の事だろう。
 だから今少なくともお空は、ドン引きした表情でお燐を見ている訳だ。
 何気なく愛猫にマタタビをやってゴロゴロ喉を鳴らす様を含み笑いで見た経験のある読者諸兄に置いては、どうかその様の尋常でない光景を少し考えて貰いたい。
だからと言って猫にマタタビをやるな、と説教している訳ではない。どれ程偉い会社員だって時には晩酌をするだろう。酔わずに生きていけるほどに浮世は優しくないのだ。そりゃあ、猫だって時には酔っぱらいたかろう。そのささやかな現実逃避を奪う権利は誰にも無い。閑話休題。

「さ、これでやっとご飯が食べられるね!」

「……お燐、はしたないよ……? ちゃんと頂きますしないと……」

 出来る限りお燐から身を離そうと尻込みするお空がトランス状態のお燐を窘めるが、血走った眼で野菜炒めの皿に抱きつく様にして過呼吸気味に香りを嗅ぎまくり始めたお燐には、お空の忠告など最早聞こえていない様だった。
 と、その時、エントランスホールの方から、来客を告げるチャイムが鳴り響いた。

「あ、お姉ちゃんかな? ゴメンね、頂きますの合図はちょっと待っててね?」

「えと、早く、帰って来て下さいね……?」

 皿を持ってお燐から席を二つ分ほど離しながら、お空が不安げな表情で廊下へと出るこいしの背中に向けて言った。
 こいしがエントランスホールへと向かう間にも、チャイムは二、三度館の中に響いた。鍵は掛けなかったから、お姉ちゃんならばチャイムを一度鳴らしたら直ぐにでも入って来る筈なのに、と訝しみつつもこいしは玄関へと小走りで向かう。

「ハイハイ、今開けるよ」

 扉を開けるが、そこに居たのは姉ではなかった。微妙に目線を逸らす仏頂面でそこに立っていたのは、橋姫の水橋パルスィだった。

「アンタがこいし? 私、橋姫の水橋パルスィ」

「知ってるよ。いつも地上に行く時、私はアナタの事を見てたから」

「気持ち悪い事言わないで頂戴。私はアンタに逢うのは初めてだし、アンタが地上に出るのを許可した覚えも無いわ」

「うん。だっていつもアナタは私に気付いてくれないもんね」

「あぁ、判った判った。ストーカー紛いの会話をする為にこんな陰気な館に来てやった訳じゃないの。アンタの姉の事よ」

 腕組をしたパルスィは、そこで初めて溜め息交じりにこいしの顔をチラリと見る。こいしが小首を傾げると、パルスィは再度溜め息を吐いてこいしから目を逸らした。

「アンタの姉さん、今日は帰って来ないわよ」

「どうして?」

「会合の終わり際に、勇儀のバカが、『外から入ってきた珍しい酒が有るらしいから一緒に飲もう!』とか何とか言ってあの線の細いお嬢ちゃんを居酒屋に拉致ってね。私もその場には居たんだけど、しこたま飲ませたらあの娘の顔が紫色になって、服がゲロ塗れになって、歩くのも無理そうだったから、今夜は勇儀の家に泊まらせる事にしたの」

「ふぅん……お姉ちゃんだって妖怪なんだし、よっぽど無茶しない限り、潰れたりしない筈なんだけどなぁ……どんなお酒?」

「さぁ? 確か、スピ……何とかって言うお酒だったかしらね。それをジョッキに二杯くらいかしら? 火を着けたら燃えたし、かなり強いお酒だとは思うけど、私は飲まなかったから良く判らないわ」

「ジョッキ二杯くらいでそんなになっちゃうなんて、お姉ちゃんはお酒弱いなぁ……」

 こいしはそう言ってカラカラと笑った。ジョッキ二杯という言葉のイメージだけが先行して、姉が飲まされた酒が度数九十六度もある常識外れの一品だという事は伝わらなかった。因みに消毒用スプレーに使われるアルコールの度数は、精々が七、八十度程度だ。
 さとりが弱いのではなく、そんな物を浴びるほど飲んでもケロリとしている勇儀が、(脳の)異常なのだ。それを考えればさとりは頑張った方だし、酒宴に加わらず、一人ポツンと遠巻きに見ていたパルスィの選択は賢かったと言えよう。

「まぁ、それだけを伝えに来たのよ。さとりの奴、死にそうな顔してた癖にアンタの事を心配してたからね。私も柄に無い事をするもんだわ。本当にお人好しよね。それにしてもあんなに心配してくれる奴がいるなんて、羨ましい限りだわ。私はいつも独りぼっちで橋の上に居るもんだから、私の事を心配してくれる奴なんて居ないもんね」

 パルスィは自分の吐いた言葉自体にイラついてか、言い終わると落ち着かない様子で爪を噛んだ。

「じゃあ、伝え終わったし、私は帰るわよ」

 そう言って踵を返したパルスィの袖を、こいしが矢庭に掴んだ。

「ちょ、な、何よ?」

「ご飯食べて行かない?」

 こいしは無邪気に微笑みながら、館の中を指さす。

「はぁ? 何でよ? て言うか、私はもう酒屋でおつまみをちょっと食べたし……そりゃ、少しはお腹も空いてるけど……でも、勇儀にはすぐ戻るって言っちゃったし……あの大酒飲みにさとりの世話が出来るとは思えないし……アイツの家を出る直前、『取りあえずゲロ塗れの服をこのままにはしちゃおられんねぇ』とかヘラヘラ笑って言いながら、あの馬鹿がさとりの服をビリビリに引き裂いてたの見ちゃったし……」

 こいしに掴まれていない方の手で口元を隠しながら、パルスィは言い訳じみた言葉を次々に並べた。

「丁度私達もこれからご飯なの。お燐とお空の分のご飯は私が作ったんだ。今更一人増える位何でも無いよ」

 袖を離す気配の無いこいしを見ながらパルスィは少々逡巡していたが、やがて頭を振るうとこいしから袖を引っ手繰った。

「――判ったわよ。アンタがそんなに言うんなら、仕方がないから行ってあげる。でも、ちょっとだけよ。私も忙しいんだから」

 本当はこれといった用事もないパルスィが肩を竦める。

「本当? やった! ありがとう」

 こいしは無邪気に喜ぶと再びパルスィの手を取って、食堂へと小走りで向かった。本来ならば「引っ張らないでよ」と文句の一つでも言う所だが、パルスィは何も言わず彼女にされるがまま、食堂へと赴いた。
 そして、食堂の惨状を見て後悔した。
 テーブルに突っ伏したお燐がビクンビクン、と身体を震わせているのを、お空は生ごみを頬張りながらも怪訝な目で見つめている。食堂には彼女の口と黒いビニール袋の隙間から漏れ出る酸っぱい様な臭気が充満していた。
 お燐の手はベタベタと油まみれだった。手掴みで野菜炒めを頬張ったらしく、テーブルの上には野菜屑がボロボロと零れていた。食中毒決定。お燐が死ぬまであと三時間。彼女の地獄の苦しみは、今はまだ訪れない。

 ――なに……これ……。

 最早パルスィの胸中からは、ディナーに誘われたというむず痒い嬉しさなど雲散霧消していた。

「あ、こいし様」

「こら、お空。まだ頂きますの挨拶をしてないでしょ」

「ゴ、ゴメンなさい……お腹空いてたから……」

「――ねぇ、こいし」

「何? パルスィ」

「帰って良い? 用事を思い出したの」

「えーとね……駄目ぇ」

 こいしはパルスィの細い肩を両手で掴むと、無理矢理椅子に座らせた。

「こいし様、それは誰ですか?」

 立ち上がったお空がパルスィに顔を近づけて、マジマジと彼女の横顔を見ながらこいしに問うた。お空の口から漂う酸っぱい臭いに耐えられず、パルスィはこれ見よがしに鼻を抓んで身体を引く。

「これ? これはね、橋姫の水橋パルスィだよ」

「人の事を、それ、とか、これ、呼ばわりしないで頂戴……それにしても、この前の騒動の原因が地霊殿の猫と鳥のせいだとは聞いてはいたけどね。人に変化出来るなんて聞いて無かったわ。こっちの鳥が、空とか言う奴なのね?」

「うつほ、じゃなくてお空って呼んでよ」

「そう、お空。アンタのせいで私は良く判らない人間にのされて散々な目に逢ったわ。あと、生臭いから側に寄らないで……それで、そっちの、その、何か……釣り上げた魚みたいになってるのが、燐なのね?」

 お空の肩口を押して自分から遠ざけたパルスィは、何やら形容しがたい程嫌そうな顔をして今尚机に突っ伏すお燐を指さす。
 お燐は自分の名前を呼ばれた事に気付いたのか気付いていないのか、虚ろな目線でパルスィをチラリと見やると、再び皿の上のマタタビの匂いを嗅ぐ事に耽溺した。

「何でこの猫は、こんなにビクンビクンしてるの?」

「さぁ? 悔しいんじゃない?」

「何がよ……気持ち悪い事言わないでよ……」

「でも……? でもぉ? からのーっ?」

「ちょ、くっつかないで。止めてってば」

 パルスィは、こんな混沌とした空間におめおめ引きずり込まれてしまった自分の甘さを悔やみながらも、机の上の料理に目をやる。
 野菜炒め、オニオンスープ、焼き鳥、生ごみ。
 自分はアレらを食べさせられるのだろうか、と思うとゾッとした。生ごみについては断固として固辞するつもりではあるが、食べられそうに見える物でさえも碌な物がない。
 焼き鳥はゴミ袋のすぐ側に置かれている。あの肉が生ごみからのリサイクルでない保証は無い。野菜炒めとオニオンスープの二つは見た目こそ普通だが先ほどから匂いを嗅いではだらしない笑みと涎を一緒に零す猫の姿を見るに、アレはきっと食べ物では無いのだろうと思った。相当ヤバい薬が混入されてないと、ああはならない。
 逃げよう。彼女はそう思った。
 逃げなくては。何とかしてこの混沌から逃げる事だけが、生還への道程だ。
 パルスィはそっと後ろを振り返る。椅子の背もたれの背後にはこいしがニコニコしながら立っていて、その目は絶え間なくパルスィに注がれている。表情こそ無邪気で楽しそうだが、目はまるで猛禽類のそれだ。下手に立ち上がった瞬間に首を落とされるんじゃないかとさえ思った。釈迦の掌に居ると悟った時の孫悟空の気持ちが多少理解出来た。

「――それで、私の分は?」

 まずは話を合わせよう、と考えたパルスィが、こいしに向き直って問う。気付かれない様にそっと、左手を袂に差し入れた。アレを喰えとテーブルの上の物を指さされたら、間髪入れずに弾幕を叩きこんでその隙に逃げる算段だった。

「あ、いけない。うっかりしてた。今、用意するからちょっと待っててね。暫しご歓談を」

 こいしは両手をパン、と打ち鳴らすと、漸くパルスィの背後から離れた。彼女は小さく安堵の溜め息を吐く。

「お腹が空いてるんだったら、私の分を――」

「絶対に要らない。ちょっと黙ってて」

 生ごみを差し出し掛けたお空の言葉を遮る様に、パルスィがピシャリと言い放つ。お空は肩を竦めて「こんなに美味しいのに」と林檎の芯を口に放り込んだ。地霊殿の所の鴉はちょっと頭がアレだとは聞いていたが、アレなのは頭だけでは無いらしいと彼女は悟る。

「パルスィは、嫌いな物とかあるの?」

 台所に立ったこいしが、カーテンを掻き分けてパルスィに聞いてきた。

「え? あ、そうね……肉の脂身とか、唐揚げとか……胃に持たれる物は基本的に嫌いね。あぁ、でも、天麩羅だけは許す」

「そう、残念。それじゃあ人間は食べられないかなぁ……」

「え? 今なんて?」

「もうちょっとで出来るから、待っててね」

 バキバキグシャグシャと妙な音が台所から聞こえてきたが、パルスィは聞こえない振りを決め込む。こいしが何の料理を作ろうとしていたのかについても、考えないようにした。
 橋姫もまた鬼の一種だが、成り立ちとしては生来の鬼ではない。狂おしいほどの嫉妬心に駆られた人間の女性がその末に異形の者と化すとされた伝承が、橋姫を形成する元素だ。 それは即ち、元々は人間であった事を示す。
 だから、少なくともパルスィは人を食べない。食べた事も無いし、食べたいとも思わない。想像しただけで気持ちが悪くなる位だ……。

――というか、私は何を呑気に食事が出て来るまで待っているのよ。

 生ごみを勧められたり、嫌いな物を答えたりしていて、うっかり逃げようと思っていた事を彼女は失念していた。
 テーブルの上を見る限りまともな料理が出て来るとは思えないし、そんな得をしないギャンブルなどに命を張るのは嫌だった。こいしが台所に立っている今がチャンスだ。このままでは最悪死ぬかもしれない。現状私は俎上の鯉だ。何とかして逃げなくてはいけない。そう思って、彼女はテーブルの下でグッと拳を握る。

――後は、ペット共の隙を伺うだけ……。

 パルスィはチラリと現在食卓に付いている二匹に目をやる。お空は生ごみを喰らい終わったのか、焼き鳥に手を伸ばしている。さりげなく同族を喰うな、と心の中で突っ込みを入れた。

――否、そもそも鴉って肉食の鳥よね。雀とか鳩とか襲って食べるわよね……。
――じゃあ良いのか……。

 また考えが脱線しかけたのを改める為に、パルスィはブンブンと首を振る。どうも普段一人でいる事に慣れているせいか、周りでゴチャゴチャやられていると集中力が乱されて行けない。

――少なくともお空は、御不浄を借りる振りでもすればすぐに騙せるでしょ。

 パルスィはそう結論付けて、今度はお燐へと目線を移す。
 言うに及ばず、お燐は相変わらずマタタビの効果で意識だけは天界へと旅立たせている。テーブルクロスにはお燐が零した涎が、円形状に染みになっているのが見えた。汚い。
 現状ではお燐もパルスィも、こいしの被害者のビフォーアフターだと言えなくもないが、俎上の鯉度合いは、どちらかというと四肢を痙攣させている彼女の方が上に思えた。

――生き残っても廃人かしらね。否、廃猫というべきかしら。どうでも良いけど。

 つまり、現状騙す必要が有るのは、生ごみに舌鼓を打っていた頭がアレなお空だけなのだ。変にダラダラと時間を延ばしてこいしが戻って来てしまったら、もう死ぬしかない。『ほーら、粒々入りの心太ですよぉ』なんて笑顔で言いつつカエルの卵を差し出すこいしは、想像に難くない……。

――ヤバ……もうちょっとショックの低い物を考えれば良かった。吐きそう。

 彼女は内部でグルグルと何かが回り始めた胸の辺りを擦った。
 兎にも角にも、逃げるならば今しかない。パルスィは決断して席を立ち、何事かと小首を傾げるお空の顔を見る。

「ちょっと御不浄を貸して頂戴」

「うにゅ? 良いけど、場所は判る? 私、案内するよ?」

「それには及ばないわ。前に一度、来た事が有るから。場所は判るわ」

「そお? じゃ、行ってらっしゃい」

 矢張り、お空は御しやすい。
 計画通り、と口元が緩みかけたパルスィが食堂のドアノブに手を掛ける。
 すると背後からカーテンを掻き分ける音が聞こえて、「アレ?」と、こいしの声が聞こえてきた。

「パルスィ何処へ行っちゃうの?」

 その問いかけに心臓が飛び出んばかりに驚くパルスィだが、よもや「このまま逃げる」と本当の事を言う訳にも行かず、精一杯に自然な表情を取り繕ってから、振り向いた。

「ちょっと御不浄を借りるわ」

「ふぅん、そう……もう出来たから、早く戻って来てね」

「えぇ。そのつもりよ」

 間一髪。何とかゲテモノだか毒だかを食べさせられる前に逃げる事が出来た。胸を撫で下ろしたくなるのを堪えて、パルスィは扉を開ける。薄暗く殺風景な地霊殿の廊下が、まるで桃源郷の様に思われた。

「――違うらろぉ」

 と、不意にパルスィの背後から、全く呂律の回っていない声が一つ。
 射竦められたようにパルスィの動きが止まる。
その声の主は、お燐だった。

「どうしたの? お燐、何が違うの?」

 こいしが優しくお燐に問い掛ける。
 パルスィの全身から、嘘の様に冷や汗がどっと沸き出てきた。
 ヤ○中の戯言であってくれ、と彼女は指一本動かす事も出来ない中で祈った。

「橋姫はちれー殿に来た事にゃいだろぉ? 御不じょーの場所にゃんてわかんにゃいだろぉ? にゃんで嘘を吐くぅ? 本当は、御不じょーにゃんて、どーでもいーから、そんな嘘を吐くんじゃにゃいのかいぃ?」

 パルスィはその言葉には応えなかった。
 取り繕うよりも、走る事を選んだ。

「あ、逃げた!」

「追うよぉお! おくうぅううう!!」

 四肢に力が走らないらしいお燐が倒れ込むようにして、テーブルの上に登って哀れな橋姫を追い掛ける体勢に入ったお空の背にしがみ付く。

「二人とも頑張ってね。私は、お料理の仕上げをしなくちゃいけないから。パルスィが綺麗になる様にってお呪いを込めながら作ったプラセンタの水煮をお皿に注いで待ってるね」

 こいしが笑顔で手にした鍋の中身について、詳しく描写するつもりはない。僭越ながら、読者諸兄もプラセンタの原型の生々しい記述など読みたくはないであろうと判断した。パルスィにとって脱兎の如く逃げ出した事は賢い事であった、とだけ書いておこう。
 彼女が逃げ切れれば、の話だが。
 パルスィは何とかエントランスホールまで辿りついていた。目指すゴールは目の前だ。外にさえ出てしまえば、何とかなる。死なずに済む。運動不足が祟って肺が限界まで至っていたが、酸素吸入不足でさえも橋姫の華奢な足を止める事は出来なかった。

「待てーっ!」

 背後の廊下から、どこか楽しんでいる様なお空の大声が聞こえてきた。瞬間、パルスィの脳裏に、笑顔でアリを踏み潰す子供の映像が浮かんだ。多分、今のお空の心情は、あんな感じなのだろうな、と彼女は思った。
 しかしもう、目指す扉は目の前だ。エントランスを半分横切った。
 あと十メートル。
 この歩幅なら大体十五歩程だろうか。

「いたなぁ! 逃げられると思ったかぁ!」

 未だに呂律の回っていないお燐の大声が、エントランスホールに木霊する。

「ひっ……!」

 柄にも無くパルスィが背後を見て悲鳴を上げた。
 しかし、もう扉のノブは目の前だ。
 後は開けて、隙間に身体を滑り込ませて、外に出るだけ――。

「お空ぅ! 一発弩ハデにぶっ放してやるらぁ!」

「でも、お屋敷の中で核融合したら、さとり様に怒られちゃうよ……?」

「構うかぁ! あたいが許しゅ! やれ! やれぇ!」

「うーん……お燐が言うなら……」

 背後から物騒なやりとりが聞こえる。パルスィはノブを掴んだ。
 震える手でそれを捻り、扉に体重を乗せる。
 ガツ、と扉が何かに引っかかる硬い感触が帰って来た。

――開かない……!?

 パルスィの顔からサッと血の気が引いた。
 背後から這い寄る高音の鳴動が、エントランスの冷え切った硬質な空気を振動させる。
 咄嗟に哀れな橋姫が振り返る。
 お空の第三の足が、自分に向けられているのが見えた。
 その先端に、漂う光の粒子が収束しているのも見えた。
 お空の背中に負ぶさるお燐が、競馬場の観客よろしく歓声を上げている。
 掻き集められて行く光点は、互いに融合し合って徐々に膨らんで行く。
 ビー玉大からピンポン玉大へ。野球ボール大へ。小玉スイカ大へ。サッカーボール大へ。
 それは極小の太陽その物だった。圧倒的な熱量の塊だった。破壊と死の予兆だった。
 鳴動は耳を劈かんばかりになる。広大なエントランスホールの空気は灼熱地獄の炎でさえ及ばぬ熱さを持つ。お空の足もとのステンドグラスが溶ける。

――あんな物が私に当たったら、間違いなく死んでしまう!

 パルスィは最早半狂乱で扉を押したり引いたりした。自分が気付かぬ内に鍵が掛けられている事に漸く気付き、ツマミを探すがどこにも見当たらない。

「行けぇ! やれぇ! やっちまえ!」

 興奮したお燐のそんな叫びですら、核熱収束の鳴動が飲み込んでしまう。

「待って! 止めて! 嫌! イヤ! 助けて! 誰か助けてぇええっ!!」

 パルスィが叫ぶ。躍起になってドアを両手で叩く。無慈悲な扉は開かれない。
 助けは来ない。現実は非情である。

「――爆符『ギガフレア』!!」

 パン、と破裂音が轟いた。空気が熱に耐えきれずに弾けた音だった。
 小振りな太陽がパルスィ目掛けて発射された。
 彼女は走馬灯を見た。夫が妾に入れ込む姿。地底に落とされた時の記憶。先の異変で人間からボコボコにされた思い出。浮かび上がった何もかもが、碌な物では無かった。
 お空の背中でお燐が暴れていたせいか狙いは微妙にずれて、放たれたお空のスペルカードは扉に激突した。しかしだからと言って、その後に齎される爆発を思えば当たった場所の差異は微々たるものだった。
 核融合に依る破壊が全てを飲み込んだ。パルスィの姿は爆炎に飲み込まれて掻き消えた。爆風がお空の背からお燐を吹き飛ばす。地霊殿のエントランスホールが三分の二程消し飛んだ。
 大分風通しの良くなってしまった玄関を見て、床に転がったお燐が満足気に頷いた。彼女が突然訪れた腹痛によってマタタビ酔いから醒めるのは、それから十分程経過した後の事だった。



「お燐、大丈夫?」

「……だいじょばない」

 翌日、お燐の姿はベッドの上に有った。案の定、食中毒に依って彼女は生死の境を彷徨っている。
 さとりが半裸で泣きながら帰って来たのは、早朝の事だった。目が覚めたら素っ裸で勇儀と同じ布団に包まっていた彼女には居酒屋でスピリタスを飲まされた以降の記憶が全く無く、妙な勘違いをするには条件が揃い過ぎていた。
 温かいベッドに戻って昨日の過ちは忘れようと目論んでいた彼女にとって地霊殿が半壊していた光景は、心的外傷を負った心にトドメを刺すには充分過ぎた。オーバーキルだった。元気出して、とこいしから手渡されたプラセンタ鍋を碌に見もせず机の上に、彼女は夕刻を迎えようとしている今現在も引きこもったまま、出てこようとしない。まだ悲鳴が聞こえて来ていないという事は、きっとまだ鍋の中身は確認していないという事だろう。
 パルスィは妖怪だった事も幸いして七時間に及ぶ手術の末に、何とか一命を取り留めた。退院するまでは数カ月掛かるらしい。
 今は面会謝絶らしいが、見舞いを許可されたら、果物でも持って行って謝罪しない訳には行くまい。お燐はそう思った。恐らく投げつけられると思われるので、バナナやキウイ等、ぶつけられても痛くない果物を買うべきだろう。
 こいしの姿は見えない。さとりに鍋を渡した後は、フラフラとどこかへ行ってしまった。
 もしかしたらパルスィの事が気に入って、様子を見に行ったのかもしれない。
 お燐がそう考えて先ほどお空に頼んで台所の食器棚を見に行かせたら、大きめのタッパーが一つ見当たらなかったとの事。相変わらずの腹痛と貧血で酔っぱらった末の行動を自責する事も出来ないが、『あぁ、パルスィからは死ぬまで恨まれるんだろうな』と彼女はそう思った。

「でも、こいし様が作ってくれた料理、美味しかったね。また作ってくれたら良いね」

 唯一何の被害も被っていないお空が、伏せるお燐に笑い掛けた。

「――ハハハ……」

 お燐は乾いた笑いを漏らす。こういう時だけは、親友の鳥頭が凄く羨ましく思えるから不思議だ。
 と、さとりの部屋から悲鳴が聞こえた。
 漸く、鍋の中身を見てしまった様だ。折角の妹の行為ではあるが、現状に置いては時限式トラウマ製造機にしかならなかったらしかった。

「うにゅ? さとり様? どうしたのかな?」

「……あーあ。行かなくて良いよお空。多分鍵は開かないから」

 これで、あともう六時間は部屋からお出でにならないだろうな、と思いながらお燐は額に浮かんだ油汗を寝巻きの袖に染み込ませた。

 これは余談ではあるが、後日さとりは自分が出かける時にはベビーシッターとして地上から霧雨魔理沙を呼び寄せる事を決心した。
 その結果として地霊殿の半壊やら橋姫の半死やら、妹からグロテスクな鍋を差し出される事やらは避けられる様になった物の、今度は地霊殿からごっそりと物が盗まれる事となった。
 さとりの胃痛は留まる事を知らない。
基本的に酷い目に逢うパルスィは可愛いと思うんです。
夏後冬前
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コメント



0.1270簡易評価
3.70名前が無い程度の能力削除
ちょっと無理やり作ってる観があって素直に笑えなかったです。面白いことは面白いのでもっと自然に書いてもらえると。
>胃痛は留まる事を知らない
などは無理な用法か。これだと胃痛が過ぎ去ったという意味になりそうです。
今までシリアス作品で光るものがあったので色々と期待します。次回作あたりすごいのが来るに違いない……!(プレッシャー)
6.80名前が無い程度の能力削除
いろいろあったけど後書きには全力同意です
10.100名前が無い程度の能力削除
ろくな奴がいねぇ
13.100名前が無い程度の能力削除
さとり主婦だこれ!

>パートに出る前のオバちゃんよろしく色々と気を揉みながら
ウチのお母さんだこれ!

さとりとこいしじゃなくてパルのSSだこれ!
14.60名前が無い程度の能力削除
真面目すぎると思います
表現や説明が丁寧で、調べたり考えたりするの頑張ってるなー、と思いました。最後まで息切れせずしっかり頑張ってるのはすごいです
しかし地の文が長いところは、読んでいて鬱陶しいと感じる部分がありました
きっちり書くことは得意そうですので、読みやすいようにする工夫をしていただけると良いかと思います。文章削るとか
15.80奇声を発する程度の能力削除
少し表現が過剰過ぎるかなと思いました
でも全体的には良かったです
18.100名前が無い程度の能力削除
お、おう…
19.80名前が無い程度の能力削除
少し読みにくかったです
26.100名前が無い程度の能力削除
自分はこの作品は好きです。
この丁寧な表現を、ユーモアを交えて、より緩急をつけて描けば活きてくるように思われます。
先程まで『ドグラ・マグラ』を読んでいたせいか、そんなに読みにくくは感じませんでしたね。
30.100もんてまん削除
いいですね。面白かったです。