Coolier - 新生・東方創想話

自動人形の見る夢 後編

2005/07/11 08:58:46
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*この話は、作品集17の『自動人形』『自動人形の見る夢 前編』の続きです。
*若干のグロ表現を含みますのでご注意下さい。
*この話は、アリスが幻想郷に辿り付く前の話です。中世ヨーロッパをイメージしており
ます。オリキャラを多数含みますのでご注意下さい。




 墨をぶち撒けたような夜空。月も星も一寸先すらも見えない曇天。真夏であるにも関
わらず妙に冷たい風が渦を巻く。
 虫達は怯えたように声を潜め、鳥達は早々に塒に篭り、獣達は森から姿を消している。

 そんな―――嫌な夜だった。


 だが、それこそが本来の夜。何物の存在すら許さぬ完全な闇。万物に『眠り』と
いう名の死を齎す本当の夜の姿。
 月に、星に、虫の声に、風情を求めるなど夜の恐怖を誤魔化すための戯言に過ぎない。

 夜の本質は『停止』

 生命も、物質も、時間も、空間も、夜の名の下に全て等しく『停止』する。

 そんな夜の中に蠢くものは夜の使徒。夜の本質である『停止』を齎すために存在を
許された者だけ。

 それは、獲物を求める群狼であり、

 それは、死告の唄を囀る小夜鳴鳥であり、

 そして、生命を奪う事に特化した暗殺者だった。


 村を見下ろす小高い丘に二人の男。

 一人は闇よりなお暗い黒き衣を全身に纏い、顔も目元以外は黒い布で覆っており、
その表情を伺う事は出来ない。
 布の隙間から覗く昏く冷たい眼差しは、全てを拒絶する凍土の厳しさだった。

 一人は黒いマントに黒スーツ、シルクハットに樫の杖と、オペラハウスで見かける
ような瀟洒な格好。整えられた口髭を蓄えた端正な顔立ち。
 しかし、その昏く歪んだ眼差しは、全てを嘲笑うメフィストフェレスのそれだった。

 マントの男が奇妙な響きの甲高い声で隣の男に声を掛ける。

「で、どうする気カネ?」
「どう、とは?」
「決まってイルだろ。『目標』は目の前。何時まで此処で待っているつもりダ?」
「まだ早い。村が完全に寝静まってから……その方が騒ぎは少ない」
「ハっ! ズイ分と気の長イ事だね! 一度敗れテ臆病風に吹かレたか?」

 マントの男の嘲りにも耳を貸さず、黒装束の男は沈黙を保つ。

「たかガ人形だろう? 何をそんなに警戒する必要があるんダ。いつも通りにすれ
ば良いジャないカ」
「……上は無駄な流血を望んでいない。後処理の事も考えろ」
「上、ねェ。」

 くつくつとマントの男は顔を歪めて笑う。

「上が『殲滅士』でアるこの私を派遣しタ時点で、何を期待しテいるか判るだロ?
流血を望まナい? ソれこそ愚問。自動人形の製造は絶対ノ禁忌。基督教との妥協
を求めるヤツらにとって、『生命の創造』ト無限の魔力回路でアる『オルレアンの
心臓』の存在ハ秘中の秘。知る者全て殲滅すル、ソれが私の存在意義ダ」

「………どちらにせよ、しばし待て。できるだけ騒ぎは少ない方が良い」

ふん、と鼻を鳴らして、黒マントの男が背を向け村の方へと足を向ける。

「待て、何処へいく気だ」
「安心しタまえ。君達の邪魔はシない。隠密行動なれバこそ私がいナい方が良い
だロ?」

 マントの男の姿が闇に溶け込み見えなくなる。
 黒装束の男は舌打ちするが引き止めようとはしない。

(あと二刻……か)

 黒装束の男はその時をじっと待つ。

 獲物を狙う豹のように、

 網を張る蜘蛛のように、

 石像のように動かず、ただひたすらにその時を待っていた。





第四章 『人形』




「嫌な夜ね……」

 私は診療所の二階に設けた自室のベッドに腰掛け、窓の外を眺めていた。
 月も星もない昏い夜。何か胸の奥がざわつくような、言語化できない感覚(例え
るなら不安?)に捕らわれる。
 暗闇を人が怖れるのは視覚情報が極端に制限されるから。
 制限された情報を想像で補おうとする時に妄想が混入し、ありえない筈のものを
幻視する。ありえないもの、すなわち理解できないものは容易に恐怖へと繋がる
だろう。
 理解できないという事は何をされるか解らないという事。だから怖い。
 故に人は暗闇を怖れるのだと、そう認識していた。

 だが、それは暗闇の恐怖の一側面。

 私は暗闇でも昼間のように見通す事も出来る『幻視の目』を持っている。
 それなのに不安を感じるという矛盾。
 これが『予感』というものだろうか。
 現状の現象、及び過去の事例から演算される『未来予測』ではなく、
 理由や理屈は欠片もなくとも魂が慄く『感覚』

 そして、それを齎す『夜』

 自分の中に刻まれた知識にないため表現が出来ないのがもどかしい。

 ただ……今夜何かが起きる。そんな気がした。



「なぁアリスー ここってどうすんだ?」

 ティルは部屋の真ん中で胡坐をかき、慣れない針仕事に悪戦苦闘していた。

「あ、それはね。ここで折り返して―――違う、違う。ここで一旦、糸止めす
るの。そうすると後から解れても直し易いでしょ」

 ティルが人形の服を縫っている。
 最初はどうなるものかと思ったが、ティルは飲み込みが早い上に器用だった。
 先日、私がプレゼントした人形の服が破れたので、直し方を教えて欲しいと
夜中にいきなり押し掛けてきた。

 ティルは相変わらずだ。
 
 巣を叩き落して蜂に追い掛け回されたり、馬小屋の飼葉桶に唐辛子を混ぜ込ん
だり、箒に跨って二階から飛び降り藁草の山に頭から突っ込んだりしていた。
 最近ではこんな感じで時々料理や裁縫を教えてやる事もある。
 口は悪いが中々素直でこちらとしても教え甲斐があった。

「え~と、こんな感じか」
「そうそう、中々上手じゃない。でね、ここでこうして―――」
「うわ。何その細かい刺繍! そんなゴテゴテしたのは嫌だぜ」
「何言ってるの。こういう細かい作業の積み重ねが全体の完成度を高めるのよ」
「やり過ぎると重たいだけだぜ。精神的にも物理的にも」

 まだ不安は続いているが、ティルに不安を悟られないようにしなくては。
 聡い子だから下手な演技はすぐに見破るだろう。

 だがまぁ大丈夫だ。

 ティルと一緒にいるのが楽しいのは本当だから。


「さて、もう遅いわ。そろそろ帰らないとお父さん心配するわよ?」
「あぁ、今日はアリスんとこ泊まるって言ってきたから大丈夫」
「え、と、初耳なんですけど……普通、先に泊まっていいか聞かない?」
「……駄目、か?」

 なんて、今にも消え入りそうなか弱い声で、目を潤ませた上目遣いで、私の顔を
覗き込んでくる。
 コイツ、私のツボを心得てやがる。
 正直、ティルが泊まっていくのは大歓迎だ。
 だが今夜は先程感じた不安が拭い去れていない。
 だけど……でも……

「くっ! し、仕方ないわね。泊めてあげるわよ」

 よっしゃーと、はしゃぐティル。やはり演技だったか。
 しかしあの顔は、分かっていても避けることが出来ないガード不能の無敵技。
 あー自分が腹ただしい。

 まぁ考えようによっては、何かあったとき傍にいる方が守りやすいか。
 
 チラリとテーブルの上に飾っている人形達を見る。

 この村に辿り着くまでに各地を廻った際に集めた私の大事な収集物(コレクシ
ョン)。かなり古びたものもあったが独自に手を加え修繕、改良しており、経た
年月を感じさせながらも、その美しさ、可憐さは損なわれていない。

 私が人形収集を始めたのは、ある街に立ち寄り、ゴミ捨て場に無造作に打ち棄てら
れた人形を見つけたのが最初だった。

 雨に打たれ、色がくすみ、ボロボロになったそれを―――

 人の形を模したものを見た時―――

 自分自身と、この世に生まれ出る事も叶わなかった姉達の姿を幻視した。

 ゴミ捨て場に転がる哀れな人形。もしかしたら自分も同じような境遇になってい
たかもしれない……見捨てる事が出来なかった。

 ゴミを掻き分けてその人形を手に取る。
 陶器でできたビスクドール、和洋折衷の服装はぼろぼろ、その肌は汚れくすんで
いる。
 けれどガラス細工の瞳が、まだ生きていたいと私に告げた。

 私は脳内に蓄積された知識から人形作成の手順を引っ張り出す。

 ウッドチップと水に溶かした紙粘土で罅割れた肌を補修し、人形の服の解れを縫
い直し、陶器の肌を丁寧に磨く。
 ボロボロの人形の修繕は、新規に作成するよりも手間と時間が掛かる。
 陽に焼け、雨に晒された肌と、新しく加えた肌の色が合わない。
 服の布も、同じ柄が手に入らない。

 だが……妥協したくなかった。

 補修用の粘土として土の選定から行い、必要であれば布も自分で染めた。
 ボサボサだった髪を丁寧に梳り整える。きめ細かい肌を丁寧に磨く。
 修繕に数ヶ月を掛け、満足のいく出来で仕上がった時、

 ―――人形が、私に微笑んだ気がした。

 その後も各地で同じ事を繰り返す。
 ある時は古道具屋で。
 ある時は朽ちた洋館で。

 そうして私の旅が続く。それに合わせて人形達は増えていった。

 現在、七体。

 この娘達は私の妹のようなもの。

 ティルにプレゼントした娘は最初の一体。オリエンタルな魅力に溢れた上海人形。

 今も一生懸命破れた服の補修を続けるティルの姿を見て安心する。
 この娘ならきっと大事にしてくれる。
 ティルに抱えられた人形も幸せそうだ。

 もしもの時はティルを守ってね。そう心の中で語りかける。

 ―――人形が、頷いた気がした。



「さ、もう遅いから寝ましょう」
「えーまだ早いぜ」
「子供は寝る時間よ。ほら、歯を磨いてらっしゃい」

 ティルはブツブツ言いながらも洗面所に向かう。

 一人になった私はそっと窓の外を覗いてみた。
 今にも泣き出しそうな空。強い風が吹き。窓枠をガタガタと揺らしていく。

「嵐でもくるのかしら?」 

 自分の感覚を研ぎ澄ませば接近する低気圧の存在を感じる。夜半に降水するのは
間違いないだろう。

 そのせいだろうか。この言いようのない不安感は。

 まるで沼の底にいるような、ねっとりと絡みつく淀んだ空気。
 暑いのか、寒いのかすら判断できない曖昧な皮膚感覚。
 窓の外には、ただ、ただ、黒い夜が広がっているだけ。
 その『黒』が余りにも『黒』だから、こんな気分になるのだろうか。

 思考がうまく纏まらない。

 シナプスに霞が掛かる。言語野の位置すらも曖昧模糊。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、
触覚すらも厚いフィルターを透過させているよう。

 こんな夜は早く寝るに限る。
 ティルが戻ってくる前に、寝巻きに着替えよう。



 その声が聞こえたのは、胸のリボンに手を掛けた時だった。



 私はその瞬間、部屋を飛び出す。
 飛び出す寸前、上海人形を手に取ったのは、きっとこの不快な夜がずっと警告し
てくれていたおかげだろう。

 私はこの夜に感謝する―――呪いの言葉と共に。

 廊下を飛ぶような速さで走り抜け、階段を一気に飛び降りる。
 廊下の角に身体をぶつける事で向きを変える。
 ぶつけた瞬間、壁に穴を、肩に痛みを与えたが意識する暇もない。

 診療室。

 先程の声はあちらから聞こえた。一瞬だったが間違えはしない。

 あの時、聞こえた声は―――悲鳴。

 閉じられた扉を速度を一切殺さないままに足で蹴破る。
 吹き飛ばされた哀れな扉は、巻き込まれた者を殺しかねない勢いで二つの人影の
元に転がった。

 一つは、明かりのない室内で闇よりもなお暗い布をその身に纏った男。
 一つは、首筋に鈍く光る刃物を押し当てられ背中から男に抱えられているティル。

 開け放たれた扉から差し込む光が、二つの影を浮かび上がらせていた。

「ティ――!」
「動くな」

 私の叫びを男が絶ち切る。
 ティルの顔は青ざめているものの取り乱してはいない。
 今は大人しくしているが、あれは自力で何とかしようと考えている顔だ。
 本当に強い娘。今も私に心配させないよう軽くウインクしてみせている。
 おかげで、私も少しだけ冷静になれた。

 改めて男を見る。目元以外、全身を黒装束で包んだ姿は表情すらも判断できないが、
その氷のような目には憶えがあった。

 聴覚を研ぎ澄ませば、室内に複数の心音を関知。あと三人隠れている。

「―――前に、夜の森でお会いしたわね。どういうつもりかしら?」

 私は男に気付かれないよう、手にした上海人形に魔力を込める。
 自分の魂を切り分けて人形の中に流し込む。
 手、良し。足、良し。
 自分と人形が重なって行く。
 視界が二重になるのを脳内で分割処理、分割した思考をそのまま人形の操作に
割り振り自己の人格から独立させる。
 魂の分割、思考の並列処理、霊を憑依させる東洋の式とは異なる分け身の顕現。
 人の手により生み出された私と、私の胸郭に埋め込まれた魔石『オルレアンの心臓』
によって織り成す奇跡。

 他の誰にも真似出来ない私だけのオリジナルスペル『人形裁判』
 身体的には人間と変わらない私が持つ、私だけの力。

 私は、手にした人形を男の死角にさりげなく回しながら言葉を紡ぐ。注意をこち
らに向けさせなければ……

「貴方達って本当に無粋ね。こんな夜更けにレディの家に突然押し掛けるなんて。
逢引の誘いならもっとスマートにお願いしたいわね」

 軽口を叩きながら、男達の動向を探る。
 こいつらの狙いは私だ。
 異端審問官か、協会か。どちらにせよ歓迎できる用件ではあるまい。
 絶対にティルだけでも無事に逃がさないと。

 未だ姿を見せない黒い影が、室内を音もなく移動し死角を無くす。
 最初にこいつらと出会った時、人形繰りを見せたのは失敗だった。ちゃんと対策
を練ってきている。私は唇を噛み締めた。

「我々に付いて来て貰う。我々も無益な殺生は好まない」

 男の淡々とした宣告。戦って敗北するとは思わないが、抵抗すればティルも無事
では済むまい。
 ここは一度言う通りにした方が良い。

「判ったわ。貴方達に付い――」
「何をしとるんじゃ! 貴様ら」

 横合いから上がった叫びに目を向ける。
 寝巻き姿の先生が、真っ赤な顔で激しい怒りを表していた。

 突然の誰何(すいか)に男達の間に、一瞬の動揺が走る。

 ティルは目をギラリと輝かせると、後から羽交い締めにされた状態から男のつま
先を踵で思いっきり踏み付ける。
 男の手が緩むと同時に身を屈め鞠のように転がると、男の元から離れて私の足元
に辿り付いた。
 私や男達が先生の叫びに気を取られた一瞬に、これだけの事をやるとは。

「……やっぱりアンタ、只者じゃないわね」

 私の呆れ半分の呟きに、ティルは、へへんと鼻を擦って胸を張る。 
 全く―――本当に、頼もしい相棒だ。

「先生、こちらへ。説明は後で」

 ティルと先生を背中に回す。背後の警戒を上海人形に任せ、男達と対峙する。

「とりあえず、ここは退いてくれない? 貴方達もあんまり表立って動けるタイ
プじゃないでしょ」

 リーダー格と思われる男に声を掛けるが、男はそれに答えない。鈍い銀の輝きを
こちらに向けて腰を落とす。

「そう……やる気、ね。先生、ティル、絶対に私から離れないで」

 俺もやるー、と猛るティルを先生にお願いして抑えて貰う。

 先生は疑問を込めた目で私を見る。
 私も先生を見る。
 私と先生の視線が交錯する。

 ―――先生は何も言わず、何も聞かずに頷いた。

 私の大切な人たち。

 絶対に守ってみせる。


 薬品棚の影から一人、ナイフを構えて襲い掛かる。コイツは囮。本命はベッドの
影から投擲された黒塗りのナイフ。しかも私ではなくティルを狙っている。
 瞬時にそこまでを見取ると、囮の男に向かって一直線に疾った。
 虚を付かれた男の心音が驚愕により跳ね上がる。それを聞き分けると同時に踏み
込みの足を入れ替え転進。
 リーダー格と思われる男に向かって矛先を向ける。

 ティルに向かって放たれたナイフを上海人形が叩き落とす。

 リーダー格の男が私に向かってナイフを振るう。

 その二つの行為は同時だった。

 男のナイフが私の首に向かって迫る。
 だが、すでに全ての感覚を戦闘用に切り替え、動体視力と反応速度を上げている
私にはその軌跡が酷くゆっくりと見えた。
 大きく足を開いた踏み込みで身を沈めるのと間合いを詰める事を同時に成す。
 私の頭上をナイフが疾り抜けた直後、男の鳩尾に肩口から吶喊。

 男は反対側の壁際にいた別の男を巻き込みながら壁に叩きつけられた。

「ティル! 先生! 逃げるわよ」

 いかに私が人間以上の反応速度を持っているとはいえ、筋力は普通の人間と変わ
らない。
 壁に叩きつけられた男達も気絶させるまでも至っていない。
 態勢を整えるためにもここは退くべきだ。

 私はティルの手を取り自室に向かって走る。
 先生も走って付いてきているのを確認するが年が年だ。余り速度を上げる訳には
いかない。
 廊下を曲がり階段に足を掛けた瞬間、階段の上から無数のナイフが降ってくる。
 咄嗟に壁を蹴って慣性を殺すと、ティルと先生を抱えて廊下に身を伏せる。
 頭上を無数のナイフの雨が飛び過ぎる。

 ―――出来るか? 

 私は脳内に記憶を元にした自室の間取を投影。
 棚の上に飾った人形達をイメージしながら、手持ちの人形全てに己の魂を飛ばす。
 こんな離れた位置、しかも見えない状態での起動は初めてだ。

 うまくいくか―――いや、してみせる!

 脳内の意識を七つに分割。その全てに同時にアクセス。微細な調整は不要。取り
敢えず動けば良い。感覚の同調が不十分なままで無理矢理、起動処理を行う。

 階段からも廊下からも無数の足音が聞こえてきた。
 まずい……このままじゃ間に合わない。

「アリス……」
 ティルが私のスカートに縋り付く。
 自身の心配をしているのではない。人形とのシンクロのために意識の全てを向け
忘我の表情となった私を心配してくれているのだ。

 そんな顔しないで―――絶対に守ってみせるから。

 廊下に現れた男がナイフを振り被って投擲。標的は私。放たれたナイフの数は五本。
 迎撃のために上海人形を飛ばす。
 一本―――上海人形が右手でナイフを叩き落とす。
 二本―――上海人形が左手でナイフを叩き落とす。
 三本―――上海人形が身体でナイフを受けとめる。衝撃で地に落ちる。
 四本―――人形達とのリンクが完了。起動と同時にこの場に向け移動開始。
 五本――――――――――――――――――――――駄目、間に合わない!

 ナイフが肉に突き刺さる音が二度、耳朶を揺すぶる。

 ナイフは私の前に飛び出した―――先生の胸元を貫いていた。

「せ、先生!」

 私は人形達とのリンクを一旦解除し、倒れた先生を抱き起こそうとした。

 先生は私を強い力で突き飛ばす。 

 先生は口元から血を流しながらも、

 ―――逃げろ、と言った。

 先生の傷を覗き込む。
 あぁ、そこは駄目だ、そこに刺さっていては助からない……
 ティルは呆然として先生の顔を覗き込んでいる。
 その顔からは一切の表情が欠けていた。

 私達は、冷たくなっていく先生から離れる事も出来ず、
 私達に襲い来る人影にも何の反応もできなくて、
 壊れた人形のようにそこに佇んでいる。

 襲い来る影がナイフを振りかざす。背後からは雨のように降り注ぐナイフの群れ。

 絶対不可避の殺意の具現が一点に重なった瞬間、




 その全てが弾かれ、地に落ちた。



 私はゆらりと立ち上がる。

 足元には七体の人形。

 仏蘭西、和蘭、倭国、露西亜、西蔵、倫敦、そして―――上海。

 各地を彷徨い、そして出会った私の妹達。

 直剣、ナイフ、鉄扇、曲刀、鉄杖、銃、そして―――魔道書。

 それぞれが、それぞれに相応しい武器を携えて私の前に立つ。

 私は自身の固有意識を放棄。自己の魂、全てを人形達に注ぎ込む。

 命令するのは唯一つ。

『こいつらを此処から叩き出せ』







 ―――命令の遂行に要した時間は、二分三十二秒だった。




第五章 『夜』


「先生……」

 すでに冷たくなってしまった先生の亡骸を抱き締める。
 涙は出ない。悲しい時に涙を流すなんて嘘だ。大きすぎる悲しみは心を停止させるだけ。
 ほら、ティルだってずっと呆然としたまま、涙なんか流していない。

「先生……」

 意味もなく先生の名を呼ぶ。死んだ者は帰らない。それはこの世における絶対法則。
 だが造られた生命、私という例外もこの世に存在するのだ。
 死者が蘇るくらいの奇跡の一つや二つ起こってもいいじゃないか。

「先生……」

 いくら呼んでも―――答えはなかった。

 先生は私という存在を受け入れてくれた。
 先生は私が人でないと解っても変わらず接してくれた。
 先生は私を自分の娘のように大事にしてくれた。

 いつも私をからかって、炊事洗濯とこき使われて、最近では治療も往診も私に任せっ
きりで、自分はいつものほほんとお茶ばかり飲んで……

 それでも、私は先生が好きだった。

 ありがとう?

 ごめんなさい?

 どちらの言葉を紡ぐべきか迷い―――結局、どちらも口にする事は出来なかった。




 まだ呆然として座り込んだままのティルの手を取る。

「行こう……ここは危ないわ」
「先生、ここに置いてくのか?」

 ティルは魂の抜けた表情で私を見上げる。その言葉が胸を抉る。

「―――今は、無理。さっきのヤツらも気絶させただけだし。とりあえずティルを家
まで送るわ。あいつらの狙いは私だけなんだから」
「アリスはどうするんだ」
「そう、ね。逃げようかな。何処か遠くに……」
「一人で、か?」
「一人で、よ」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫、よ」

 私は、無理矢理に笑顔をつくる。大丈夫。私は一人でも―――大丈夫。

「……俺、アリスのその顔、嫌いだ」
「ティル?」
「子供だからって馬鹿にしてんのかっ! なめんなっ! 何でもかんでも一人で
背負い込んで。アリスが悪いことした訳じゃないんだろ。何でアリスが一人で出て
行かなきゃなんないんだよっ! 何だよ、その顔は! 偽もんの笑顔で騙せるとでも
思ってんのか。そんな作りもんの笑顔で俺を騙せると思ってんのか。そんなに俺が
馬鹿に見えるのか!」

 私は言葉を失う。ティルに限らずここまでの怒気を浴びせられたのは初めて。
 初めての経験に私はビクリと身を竦ませる。

「一人で出て行くだって。そんな泣きそうな目をしてるくせに何処へ行こうってん
だよ! ここだろ。アリスが居たい場所はここなんだろ? ここだって言えよっ!
馬鹿野郎!」

 私の心が揺さぶられる。
 ティルの叫びが、私の心の一番奥にいる怯えた『彼女』を揺すっている。
 人間ではないという劣等感。存在を否定される事の恐怖。
 そんなもので構成された、いつもビクビクと怯えて俯いている『彼女』

 ティルの言葉に『彼女』はゆっくりと顔を上げる。

「私、ここにいてもいいのかなぁ……」
「俺が、アリスにいて欲しいんだよ」

 ―――私の頬を涙が伝う。先生の死にも泣けなかった私が。

 ―――どうやら、私の涙は嬉しい時にしか流れないらしい。

 私たちの足元で静かに眠っている先生の顔が、微笑んだような気がした。





「で、どうすんだ?」
「そうね。やっぱり一度ティルは家に帰った方が良いと思う。さっき窓の外に放り出
したヤツらの姿もなかったし……多分、また仕掛けてくると思うから」

 そんな訳で現在私達はティルの家に向かっている。
 周囲の警戒を人形達に任せているとはいえ余り目立つ行動はできない。
 家の影から影へ気配を殺しコソコソと移動していく。
 こうなると月も星も出ていない闇夜は逆にありがたい。

「その後どうすんだよ? あいつらとやりあうなら手を貸すぜ」
「うーん、戦って勝てない訳じゃないけど……話あってみようと思う。あいつらの狙
いは私の中に埋め込まれた『オルレアンの心臓』なんだし。それを渡せば手を出さな
いと思うから」
「心臓って……心臓なかったら死ぬじゃないか」
「あ、違う違う。『オルレアンの心臓』っていうのは錬金術師の最終目的である
『賢者の石』精製における失敗作でね。『賢者の石』には至らないけど、魔力を
大幅に増幅するの。今は私の右胸に埋め込まれているけど、この石のおかげで魔法
を使ったり、人形繰りが出来るってわけ。別に渡したからって死ぬ訳じゃないわ」
「何でそんなもん持ってんだ?」
「……私の父親が、ね。完璧を求める為に協会から盗み出したの」

 ふーん? と言ってティルは話を断ち切る。
 私が父親の話を避けているのを知っているからだろう。
 あの時の行為を後悔する訳ではないが、できればティルには知られたくなかった。

 私たちは闇に紛れて移動していく。
 それにしても嫌な夜だ。空気がじっとりと淀んでいる。時折、妙に冷たい風が吹き
抜けるが、更なる淀みを運んでくるだけ。

 深海の底―――いや、そんな綺麗な表現は似合わない。淀んだ汚泥を掻き分けている
ような感覚。空気の中に意図的な何かが混入しているような感じ。気になって空気中
の成分をチェックしてみたが特に怪しいものは検知されない。

 だとすれば、この重さは精神的な圧迫感によるものか。

 襲撃、先生の死、不明瞭な未来への不安。
 それらの事が混然として私の感覚に影響を与えているのは勿論だが、この夜に対する
印象は襲撃を受ける前から何一つ変わっていない。

 敢えて言葉にするなら―――この『夜』そのものが重く私の上に圧し掛かっている。
 そんな感じだ。

 垣根から顔を覗かせて周囲を確認。ティルの家に向かうには広場を通り抜けなければ
いけない。見通しが良過ぎる、見つかる事を前提に行動した方が良い。

「ティル、一気に走るわよ」
「応」

 私たちは小声で言葉を交わす。
 人形を前後左右に配置、上空に三体配置し背中合わせに全方位を警戒。
 複数の視界に目が回りそうになるが何とか制御する。

 私たちは視線でタイミングを合わせ一気に走り出した。
 ここからティルの家まで約200m、止まらずに一気に駆け抜ける。

 あと150m―――横合いの森から矢が数本放たれる。私たちの右側面に配置した
露西亜人形が、曲刀で矢を纏めて斬り落とす。

 あと100m―――森から複数の人影が飛び出す。露西亜人形に加え、上空に配置
した倫敦人形が銃で牽制。二体で迎撃に当たらせる。

 あと50m――――左からもボーガンを構えた男達が駆け寄ってくる。放たれた矢を
京人形が舞うような動作で手にした鉄扇で払う。仏蘭西人形が直刀を片手に男達の
集団に勇猛果敢に飛び込んでいく。

 あと30、20、10、0m。着いた。



 扉に駆け寄り、ノブに手を伸ばした瞬間に、



 巨大な炎と轟音がティルの家を包み込んだ。




「――――!!」

 私は咄嗟にティルを抱え込み身体を丸める。
 叩き付けるような爆風に吹き飛ばされ地面をゴロゴロと転がった。
 全身に激しい衝撃、思考も感覚も何もかもが粉々に吹き飛ばされる。

 10mも地面を転がって漸く回転が止まる。
 私は抱え込んだティルを確認。幸い大きな怪我はなさそうだ。

「ティル! 生きてる! 大丈夫?」
「……何とか生きてるぜ……ってアリス! 火、火がっ!」

 言われて自分の身体を見ると、スカートに火が飛び移り赤々と燃えている。
 私は再び地面に転がり、その火を何とか消し止めた。

「アリス! おい! 大丈夫か?」
「何とか……大丈夫、よ」

 スカートは焦げてぼろぼろ、全身はズキズキ痛むし、髪も少し焦げている。
 酷い有様だったが、まぁギリギリで大丈夫と言えるだろう。
 それよりも―――

「ティルの家が……」

 私の声にティルは弾かれたように燃えている自分の家を振り返る。

 漆黒の闇の中、その家だけが己の生命を薪木として存在を主張していた。
 赤々と燃える炎、時折響く轟音、数々の思い出をも糧として轟々と燃えていた。

「お、親父、親父ぃ――――!!」

 燃えさかる炎に向かって駆け出そうとするティルを、咄嗟のところで抱き止める。

「ティル! 駄目よっ!」
「放せ! 放せよっ! 親父、親父が……親父はまだ怪我が治ってないんだぞっ!」

 暴れるティルを必死に抱き止める。
 無論、私だって気持ちはティルと同じだ。今すぐにでもあの炎の中に飛び込みたい。
 だが、あの炎の勢いでは―――最早、間に合わない。

「放せって!」

 ティルは私の手を振りほどくと、燃えさかる業火の中に迷いもなく飛び込もうとする。

「駄目!」

 私は、咄嗟に京人形を飛ばしてティルに当身を放った。

「ぐ―――!」

 首筋に、人形の手による一閃を受けたティルが足元から崩れ落ちる。
 私は駆け寄ると、そのぐったりとした身体をぎゅっと抱きしめた。

「ごめん……ティル……」

 私は唇を噛み締める。唇から流れ出る血の感覚も気にならなかった。






「驚いテ、貰えたカね?」

 突然、暗闇から掛けられた声に反射的に顔を向ける。

「闇夜に篝る(かかる)誘蛾の灯火。観客がなくてはつまらないのでネ。爆風が
君達に向かわなイように気を付けタつもりだヨ。怪我はないかナ?」

 黒いマントに黒スーツ、黒いシルクハットに樫の杖。端正な顔立ちに優雅な口髭。
オペラハウスで見かけるような紳士の姿。

 だがその目は、その声は、その身に纏った空気は―――この『夜』と同じ。
 凶々しく、忌々しく、毒にまみれ、怖ましい―――それは、この『夜』そのもの。

 私はティルを抱えたまま、男を睨む。

「貴方―――何?」

 私の質問に男はくつくつと哂う。

「何? か。全く端的な質問だネ。名前でもなく、肩書きでもなク、存在を問うか! 
いやいや全く持って素晴らしイ。こんナ状況でもなければ星空の下で愛を語り合いたい
ものだヨ。本当に運命という奴ハ無粋だネ」

 男はニヤニヤと哂いながら言葉を繋げる。

「質問に答えよう、美しイお嬢さん。私ハ『殲滅士』 名前も無く、肩書きも無く、
ただ与えラれた命令のままに滅びを齎す者。命ぜられるままに、生命を、存在を、
意味を、意義を、その全てを無に還す。誰一人として例外は無く、何一つとして見逃
さなイ。絶望も、悔恨も、怨恨も、全てを殲滅するが故に何一つ残しはしなイ。
それが私だヨ。美しイお嬢さん」

 男は凶々しく言葉を紡ぎ、呪詛のような響きで私の心を蝕んでいく。
 コイツとは絶対に相容れない、そう確信する。
 目の前の男を睨みながら周囲を確認すると、黒装束の男達も半ば呆然と立ち竦んでいた。

 私は不審に思う―――コイツら、仲間じゃないのか?

 黒装束のリーダー格と思しき男が、マントの男を摑んで詰問する。

「貴様、どういうつもりだ。あれだけ事を隠密に運べと―――ぐっ!」

 言葉を言い終える前に、黒装束の顔が歪む。
 その胸元からは鋭利な銀の刃が突き出ていた。
 黒装束の男は崩れるように地面に転がる。黒装束の背後に佇むのは小柄な黒い人影。

 あれは―――人形?

「全ク持ってアレだよね? 暗闇でコソコソと。君たチには華がない。美学がなイ。
そんな者に、コの夜を越える資格はなイ。ホら、さっさと退場したまエ」

 男が右手を上げると、黒い人形は黒装束の背中に再びナイフを突き立てた。
 男の顔が苦悶に歪み、大量の血が夜を染める。

「き、貴様―――!」

 私たちの周囲を囲んでいた黒装束の男達が、地面に伏した男を救おうと殺到する。
 黒マントの男に対する明確な殺意を持って。

 呆然と立ち竦む私たちを通り過ぎ、黒マントの男に向かって刃を振るう。
 前後左右から振るわれる必殺の刃、避ける手段など在りはしない。

 だが刹那の光芒が奔り、倒れ付したのは黒装束の方。

 男の前には黒塗りの人形が十二体。

 男を守る城壁のように立ちはだかっていた。

「う、嘘―――?」

 『人形裁判』は私だけのオリジナルスペル。
 自動人形の卓越した並列処理能力と、魔石の生み出す桁違いな魔力があって初めて
顕現する奇跡。
 まして十二体もの同時処理となれば、私でも処理速度が追い付かず脳神経(ニューロン)
が焼き付けを起こすだろう。

 こんな真似、人間に出来る訳ない――――人間? ―――まさか!

「ん、ん――? 気付いたカな? 気付いちゃったカな? ソう、私もまた造られた
者サ。君と同じク、ね」

 私は愕然とする。
 自動人形の製造は禁忌中の禁忌。それ故に私の父は協会を追われた。
 故に伝承ならば兎も角、現存する自動人形は私のみの筈だ。

「……貴方、協会の使いじゃないの?」

「いやいや、協会のものサ。協会ノ命令に従う事で生命を永ラえていル哀れナ人形だヨ。
そういう意味じゃ君の事ガ心底羨ましい。あんな下種共に頭を下げテ生きなければ
なラない屈辱を……理解して貰えるカな? 同情しテ貰えるかナ? 本当に本当に
哀れな存在だと涙を流して貰えるかナ? 同じ人形でありながら、一人ぬくぬくと
暮らしてきた君なんゾに、私のこの屈辱の十分の一でも理解する事ガ出来るのかナ!」

 男は狂ったように哂う。

 私はこの男から発せられる空気が何なのか、やっと理解できた。

 ―――これは『憎悪』

 私が一番初めに獲得した感情。人々と関わりを持つ事で、少しずつ薄くなっていた情動。

 吐き気がする。私が手に入れた最初のものがこんな怖しいものだったとは。

 そしてこの男は、そんなものだけを抱えて生きてきたというのか―――いや、それを
生きてきたと言えるのか?

 確かに私にはこの男の事など理解出来ないし、したくもない。

 だが私と同じく造られた者として、何も感じずにはいられない。

 私は顔を背け、沈黙する事しか出来なかった。


「ぐ―――貴様、裏切るつもりか?」

 最初に刺された黒装束の男が声を上げる。黒装束は赤に染まり、広場に大きな血だまり
を作っている。
 あの出血量では長くあるまい。今でも生きている事が奇跡だ。

「オや? まダ生きていタのかネ? 見苦しいネぇ、早ク死んじゃいナよ」

 男は、黒装束の男の顔を踏み付けてニヤニヤと哂う。

「それに裏切るだっテ? マさか! これは命令通りさ。『オルレアンの心臓』と自動
人形、この二つを知る者は全て殲滅せヨ、これが私ガ受けた命令だヨ―――無論、君達
も含めテ、ね」

「な、何だと!」

「これが上の意思サ―――な、下種だロ?」

 黒装束の男が、顔を憎しみに歪めたまま絶命する。
 その最期の表情を見て、また男の顔が嫌らしく歪む。

「そういえバ、まだ何人か息があるヨうだネ―――殺れ」

 男が右手を上げると、足元の黒い人形達が音程の壊れた狂笑を上げ宙を舞う。

 生き残った黒装束達は、応戦する者、逃げ出す者、行動は様々だったが結果は一つ。

 『殲滅』の名の下に、死が積み上げられていく。



 私はティルを抱えて、


 その惨劇を見ている事しか、出来なかった―――






第六章 『人形遣い』


 惨劇の夜が過ぎていく。

 応戦する者、逃げ出す者、行動は様々だったが結果は一つ。

 黒い人形の手にした槍で貫かれ、ナイフで切り刻まれ、炎で焼かれていく。

 全てが等しく『殲滅』されていく。

 それの何処に人間の尊厳がある? 
 それの何処に人間としての意味がある?
 唯の肉の塊となっていく彼ら。
 切り刻まれ、粉砕され、蹂躙されていく彼ら。

 彼らにも、きっと誇れる人生があった。
 家族があった。
 恋人がいた。
 友達がいた。

 ―――存在する意味があった。

 なのに消えていく。
 生命の炎が消えていく。
 虫けらを潰すように労苦なく消されていく。

 ―――こんな、こんな事ってない。

 私は人間が怖かった。
 脳内に焼き付けられた記録、人間の歴史。
 それは戦争の歴史。
 人は互いに憎み、争い、血を流し、血を流されて生きて来た。

 人間はみな愚かで、弱くて、哀しくて―――だから、私は人間が怖かった。

 でも私は知った。知ることができた。
 
 生きる為に人の集団の中に紛れ込んだ時、直接触れ合う人々はみんな優しかった。
 流れ者の私を無条件で受け入れ、共に笑い、共に生き、共に暮らしてきた。

 私が人間じゃないと知った後も変わらず受け入れてくれた先生。

 無言で夕食のお裾分けをしてくれるアレクさん。

 そして――――ティル。

 今なら胸を張って言える。私は人間が好きだ。

 人という種で見るのではなく、人間という個で見る事が必要なんだ。

 私だって、自動人形という種ではなく―――

 『アリス・マーガトロイド』という個なんだから。


 だから、だから―――もうこれ以上、人を殺させはしない。


 この惨劇を―――止めてやる!



「止めなさいっ!」

 私は震える足を抑えて立ち上がり、目の前の惨劇の主を睨み付ける。

「ん、何かナ? 君の順番はまだだヨ。もう少しデ終わるカら大人しくシていた
まえ」

 男は私の視線も意に介さず、まるで塵でも見るような目で私を見る。

「止めろって言ってるでしょ!」

 私は男に向かって仏蘭西人形、露西亜人形を飛ばす。
 直刀と曲刀の連撃。
 剣豪もかくやという速度で振り下ろすだけでなく、僅かに時間差を付けた必殺の一撃。
 直刀が脳天を、曲刀が胴を薙ぐ。

 キン! と冷えた金属音が迸る。

 必殺の連撃は―――突如、男の前に出現した一体の黒い人形に受け止められていた。
 重さに勝る二刀を、小振りな両手に構えたナイフで抑えている。

「危ないナぁ。大人しくしてろって言ってるだロ?」

 黒い人形が踊るようにナイフを振るう。
 たった二閃で、仏蘭西人形は右手を、露西亜人形は左手を斬り飛ばされ、地面に叩き
付けられた。

「このっ!」

 倫敦人形が中空から銃を、上海人形が魔術による赤い熱線を放つ。
 同時に、地に落ちた仏蘭西人形と露西亜人形も大地から天空に向けて再び刀を振るう。
 回避するには後方に下がるしかない。
 そして、そこには京人形が死の鉄扇を広げ待ち構えている。

 必殺の陣形、これならばいかにあの男といえども避わせまい。

「ハハッ!」

 男は心から嬉しそうに笑う。まるでじゃれつく子犬をあしらうかのように。

「●●●●●●●」

 常人には発音不可能な特殊な言語。
 その言葉と共に、男の足元から赤い障壁が立ち上がり全ての攻撃を弾き返した。

「なっ!」

 ありえない、今のは結界魔術。
 人形繰りだけでも多大な魔力を消費するというのに、人形を繰りながらあれ程強固な
結界をも同時に展開するなんて。

「全く勇ましイお嬢さんだねェ―――ソんなに早く死にたいのかイ?」

 男はニヤニヤとした表情を崩さない。

 私は再び人形を繰る。
 多元的に、連鎖的に、断続的に。
 右翼から、左翼から、後背から。
 彼方から、此方から、進みながら、退きながら。

 私の考え得る全ての陣形で男に襲い掛かる。

 一度で突破できないなら二度、三度、八度、十五度、二十三度。

 すでに私の人形達はぼろぼろ。
 右手を失い、左足を失い、服は焼け焦げ、泥に塗れ、
 地面に何度も叩き付けられている。

 その度に立ち上がり、また戦いに赴く私の妹達。

 男は巧みに人形を繰る。
 妹達の斬撃を、連撃を、銃弾を、魔弾を、
 全て避わし、すかし、いなし、撥ね退け、叩き落とす。

 人形一体ずつの各個撃破を狙う。
 寸前まで追い込ませておきながら、嘲笑うように難なく包囲網を突破する。

 数で負け、技量で負け、戦術でも敗れた。
 こちらの『意図』は全て読まれている。

 最早、勝てる道理はない。

「はぁはぁ―――はぁ、ぐっ!」

 頭が痛い。
 頭蓋が割れそうだ。
 七体の人形の同時稼動、しかもこれ程長時間の戦闘は初めての経験。
 脳神経が悲鳴を上げ、肺は酸素の供給を主張し、心臓は限界を訴えている。

 『オルレアンの心臓』からの魔力供給は続いているが、もう私の身体が保たない。

 どうしよう、どうすれば良い?
 相手の行動を予測しようにも、男は私の攻撃に対し受動的に対応してるだけ。
 今だって、私が動かなければ何もしない。
 男はただ遊んでいるだけ、これでは予測も立てようがないじゃないか。

 私の望み通り殲滅は中断しているが、あくまでも中断だ。
 この男を止めるには決定的に私の力が足りない。

 私は再び唇を噛み締め、己の無力を呪う。
 己の意思を通す事も出来ないなんて!

「うん、良い目ダ。己の無力さを噛み締めてイるんだロ? 私に向けられル憎しみの
目。私に投げ掛けラれる憎しみノ言葉。ソの全てガ私を讃えル賛歌だヨ! この時
の為だけに、私は存在していると言って良イ!」

 男はマントを広げ、誇らしげに高らかと笑う。

「だが、まだ足りなイ。もっともっと私を憎んで貰わないとネ。ソの程度では絶望
には程遠イ。知っテるかい? 本当に絶望した時ノ人間の顔を! 泣ク、笑ウ、怒ル、
表情なんテ他人に見せるもの。余裕ガある証拠サ。本当に行き詰った人間かラは表情
が消えル。代わりに瞳の奥に、全ての感情を混ぜ合わせタ色が浮かぶんダ。それは、
とてもとてモ綺麗なものなんだヨ!」

 五月蝿い。もう黙れ。

 私は必死で会心の一手を思索する。
 興に乗ってべらべらと下らない話を続けるが良い。
 その間にこの男を倒す方法を―――

「そんな訳デ、君にはモっと絶望して貰おうかナ? コれだけの騒ぎに誰も出て来な
いのは何故だろうネ?」

「――――え?」

「この村の人間はソんなに眠りが深い寝惚助なのかナ? それとも皆、耳が聞こえな
いのかナ? それとも皆、怖れを為しテ家の中で震えているのかナ?」

 私は男の言葉を理解する前に、聴覚を最大値まで上げた。

 聴こえるはずのその音が―――

 村人達の心臓の鼓動音が―――

 一つとして聴こえない。


「貴方、まさか!」

「実はネ、先程燃えたあの家。狙って爆薬を仕掛けた訳ジャないんだヨ。本当に
偶々サ。どの家に逃げ込んでも良かったんだヨ? ちゃんと全部に仕掛けて置いた
んだかラ。こんな風にネ!」

 男が指をパチンと鳴らす。

 家が、館が、店が、学校が―――村の全てが―――紅蓮の炎に飲み込まれた。



「あ……あぁああああっ!」

 村が燃えている。轟々と、赤々と。
 命を、歴史を、人の思いを、何もかも飲み込んで。
 昏く閉ざされた夜を彩る篝火が、天を焦がさんとばかりに踊り狂う。
 燃え崩れる建築物の織り成す崩壊の音が響き渡り、不協和音の旋律を奏でる。

 炎に合わせて男が踊る。
 黒い人形も狂笑を上げて舞い狂う。
 それはまるで黒祈祷(サバト)のような原始的な光景。

 私は、ただ惚けたように立ち尽くしている。
 身体が動かない。
 心も―――動かない。

「あハはははハハはハ! 良いネ! その顔、私はそれガ見たかったんダ! 人形の
分際デ人の擬態をしてる君のその顔を! 私と同じ人形の癖にのうのうと人の中に
紛れ込んデいる君のその顔を!」

 私は立ち尽くすだけ。
 踊り狂う炎だけを見つめ、崩れ落ちる響きだけを耳にしていた。

「君の所為だヨ。君が人間の中に紛れ込んだりするから、こんな悲劇ガ起きるんダ! 
フラスコで生まれた者はフラスコに還レ! 造られた人形に相応しイ生き様を
選べ! 望みなど棄てロ! 人間に期待するナ! 己が運命を呪エ! 絶望して
果てるが良イ!」

 男の言葉が、私の空虚な心を通り過ぎる。

 何となくわかった―――この男も、それを望んだことがあるのだと―――


 私はもう―――動く事も出来なかった。




「ふざけるなっ!」

 その声に、私も男も顔を向ける。

「勝手な事ほざいてんじゃねぇ! 親父を返せ! 村を……皆を返せ!」

 そこにはティルが立っていた。

 ティルの背後で、激情に呼応するかの如く炎が一層強く燃え上がる。

「何が人形だ! アリスを、俺の友達を! 手前なんかと一緒にするんじゃねぇ!」

 ティルの言葉を聞き流し、つまらない物でも見るように男が目を細める。

「―――邪魔だネ」

 男の右手がティルに向けられる。

 私は弾かれたように駆け出す。
 おそらくは生涯最速の疾走。
 先程までの硬直が嘘のように身体が動く。
 空気が邪魔だ。
 肉体が邪魔だ。
 私の心だけならすでに辿り付いているというのに。

 あと少しで肉体が追い付く。

 あと一歩で、ティルの手に届く。

 あと半歩で――――――――光の刃がティルの胸を貫いた。



 私の目の前で、酷くゆっくりと崩れ落ちる。
 私の腕の中で、血を吐き苦しげに顔を歪ませる。
 私の抱えているのは―――致命傷を負い、もう救ける事の出来ない―――ティル。

 私はティルを抱えたまま膝から崩れ落ちる。

 言葉が出ない。

 身体が動かない。

 音が聞こえない。

 腕の中の感触がない。

 脳が現実を認識しようとしない。

 ただ苦しげな、ティルの顔を見ている。

 血が私の服を赤く染め、その身体から体温が徐々に失われていく。

 『死』がティルを連れ去ろうとしている―――なのに、私は指一本動かせない。

 私に何かを伝えようと、ティルが震える手を私の頬に添える。

「……アリス……畜生……ア、リ……―――――」

 ポタリと、その手が落ちる。その瞳から光が消える。身体の奥から生み出される熱が
消える。

 ティルの命の火が―――消えた。



 私は―――


 風景が消えた。

 雑音が消えタ。

 風の匂いがキエタ。

 血のアジガキエタ。

 カラダノカンカクガキエタ。


                ―――――――――壊 レ タ。











「堕ちタか―――」

 男は、少女を抱え込み座り込んだままの人形を見つめている。

 炎に刺激されたか、空を覆う濁った雲がポツリ、ポツリと雨を吐き出す。
 すぐに雨は勢いを増し、滝のような激しさで地面を穿ち始めた。

 激しく降りしきる雨に、男はその身を任せる。
 その人形を見つめる男の表情には先程までの侮蔑の色はない。
 同族に対する哀れみか、その顔に浮かぶのはただの哀しさだった。

 男は疲れたように首を一つ振ると、目の前の人形に少しだけ優しい声で語り掛ける。

「今、楽にしてあげル―――願わくば、二度とこのような呪われた生を授からずに
済みますよう―――」

 男が右手を上げ、振り下ろす。
 十二体の人形が一斉にナイフを投擲する。
 十二条の銀光が一点に向けて集う。
 ナイフは蹲ったままの人形の脳天に吸い込まれる。

 連続する刺突音。
 あまりにも密集し過ぎて、重なり響く金属音。

 いかに人外といえ即死は免れない

 

 ―――筈だった。

「何っ!」

 十二本のナイフ。その全てが、上海人形の掲げる厚い魔道書で止められていた。

「馬鹿ナっ! 『糸』は繋がっテいないのニ!」

 『糸』それは術者と対象物を結ぶ力場の流れ。
 度重なる実験により男に植え付けられた力。
 人の殺気を、魔術師の放つ魔法を、相手の狙いを、『糸』の動きを読む。
 それが男の持つ『能力』
 先程までは人形と人形を結ぶ『糸』がはっきりと視えていた。
 故に、どのような攻撃も全て発せられる前に判明していた。
 なのに―――
 今は確かに『糸』は繋がっていない。
 僅かに残滓が残るのみ。
 あの程度の繋がりでは人形を操る事など出来る筈はないのに!

 驚愕する男の前に、次々と傷付いた人形達が集う。

 仏蘭西、和蘭、倭国、露西亜、西蔵、倫敦、そして―――上海。

 どの人形も『糸』が読めない。

「マさか……こいつら自力で動いてイるのカ!?」

 人形達は答えずに、意思の篭もった瞳で男を睨み付けている。


 ゆらりと空気が揺れる。

 『八体目』の人形が立ち上がる。

 凍り付いた表情のまま、その紅い瞳を見開いて―――

 『アリス・マーガトロイド』という固有名詞を持った人形が立ち上がる。



 雨に濡れた金色の髪が顔に掛かり、その白貌を覆い隠す。
 しかしその視線は前髪で遮られる事なく、男の瞳に突き刺さった。
 質量さえ感じられる『殺意』の塊。意思も何も感じられない仮面のような顔。

 ただ一つの意思を実行する為だけの自動人形。

 男は言葉を無くす。
 全身に冷たい汗が流れる。
 人形を繰る為の指先が凍る。

 男は襲い来る恐怖に駆られて、己が操る人形全てを放つ。
 十二体の人形による殺人演舞。
 統制も、制御もなく、ただ敵を『殲滅』するためだけの衝動的な舞踏。
 十二体の人形が両手に構えた刃物による、二十四の白銀の輝跡。

 生者を一切許さぬ、その苛烈な斬撃を―――

 数において劣る七体の人形が、個別に思考、判断し、その全てを弾き返す。

「クっ! 『糸』が読めヌ!」

 七体の人形が空を翔る。

 それを追うように疾る影一つ。

 『糸』の読めない攻撃を、男に防ぐ術はない。




 十二体の黒い人形が、破壊されるのと―――

 『アリス・マーガトロイド』の白く細い指先が、男の心臓を貫くのは―――

 全くの同時だった。




「……そうか……お前は『人形使い』ではナく、意思を持つ人形達を従えた『人形
遣い』という事カ……」

 アリスは男の顔を見つめているが、その顔には何の表情も浮かんでいない。
 ただ、その白い顔に掛かる雨粒が、涙のように流れるのみ。

「……行くが良い」

 男は顔を苦痛で歪ませながらも、どこか安堵しているように見える。

「……呪われた運命を抱えテ……一人孤独に生きるが良イ。地獄で貴様の生き様、
見届けてヤろう! クフ、クフハハハ、クハハハハハハハハハハ!」

 

 アリスは男の心臓を貫いたままの腕を振る。

 

 狂笑を上げる男の身体が―――引き裂かれた。




 






 夜が明けていく。

 燃え堕ちた村は、ガラクタの山。
 そこにあった人の営みや綴られ続けた歴史が灰燼と消え、
 そこに残る血も、匂いも、想いも、全て雨が洗い流していく。

 私は降りしきる雨の中で一人佇む。

 その腕にはティルの亡骸。

 凍りついた心を取り戻すと同時に蘇った、噴き上げ荒れ狂う感情。

 私は吼える。

 誰もいない廃墟に、私の慟哭が空しく響く。

 私の魂の叫び。



 それは誰にも届かないままに、夜明けの空へと、吸い込まれていく。



 そして、惨劇の夜は―――終わりを告げた。



















 その後、私は一人で各地を彷徨う。

 街を、村を、山を、森を。

 だけどもう一度、人の営みの中に入り込む勇気、

 そんなもの……私には残っていなかった……

 




 そして、私が最後に迷い込んだ場所。



 そこは―――














~エピローグ~







 ……ティルなら素敵な女の子になれるわよ。私が保証する

 ……本当か?

 ……本当よ

 ……アリスみたいに、か?

 ……私みたいに、ね

 ……

 …

 あぁ、私は今、夢の中にいる。

 それは過ぎ去ってしまったもの。

 私の手のひらから零れ落ちてしまったもの。

 もう、手に入らないもの……

 あれ?

 そうだっけ?

 確か、もう一度あの輝きをこの手に―――




 私は薄く目を開く。

 柔らかな初夏の日差しが枕元まで差し込み、私の頬を優しく撫でている。
 意識がぼやけている。覚醒しきっていない。
 自動人形の癖に低血圧とは、完璧を期すにも程がある。

「……あれ? 何を手に入れたんだっけ……」

 霞の掛かったような胡乱な脳で、自分の記憶を辿る。
 だが、こんな曖昧な感情の残滓をもとに記憶を検索しても答えなどある筈もない。

 私は再び瞳を閉じる。
 二度寝はみっともないだろうか……何、構うものか。どうせ誰が見ている訳でなし。

 柔らかい日差し。
 太陽の匂いのするシーツ。
 幸せな気持ちに包まれながら、私は夢の世界をその身を任せようと―――
 …………
 ………
 ……誰も?

 私は勢いよく身体をベッドから起こし、部屋の中を見渡す。

 右、変化なし。

 中央、変化なし。

 左、いた!

 テーブルに腰掛け、足をブラブラさせている黒白。
 人のカップを勝手に使い、分厚い本を片手に、優雅にお茶を飲んでいる。
 あれは私の秘蔵の魔道書! 棚にはきちんと鍵を掛けておいたのに!

「よう、お早いお目覚めだな。寝過ぎると脳が溶けるぜ」

 黒のワンピースに白いエプロンを着けた、あまり目出度くない色取り。
 トレードマークの黒い三角帽は傍らに置いてある。
 緩くウェーブの掛かった金色の髪を耳元で三つ編みにし、指先でくるくると弄んでいる。

 霧雨 魔理沙。

 私と同じく魔法の森に一人で住む、自称『音速の魔法使い』

「アンタっ! また人の家に勝手に上がり込んで!」
「ノックはしたぜ」

 まったく、もう! 私はベッドから下りてスリッパを足に通す。
 魔理沙は再び、読んでいた魔道書へと視線を戻す。

 チラリと魔道書を保管しておいた棚へと目をやる。特に壊された様子はない。
 コイツ、どうして鍵の隠し場所まで知ってるんだ?
 頭の中で、コイツに見付からない鍵の隠し場所を検索、シュミレートする。
 ……駄目だ。何処に隠そうとコイツは絶対見つけ出す。
 もし見付からなければ、躊躇いなく棚を壊すだろう。

 私は深い溜息をついた。

「お茶、飲むか?」
「私のよっ!」

 そうだったか? と言って、私に笑顔を見せる。


 太陽のような―――笑顔を―――


 瞬間、私の記憶野から過去が勝手に溢れ出す。

 無くしてしまったもの―――

 私の手のひらから零れ落ちてしまったもの―――

 もう、手に入らないもの―――

 記憶と視覚が重なる。記憶と異なる箇所を意図的に改竄。相似している箇所のみを
選別し、欠損部を脳内で捏造。
 目の前の存在と、過去の思い出を統合しようと―――

「違うっ!」


 都合の良い妄想を生み出そうとした己の弱さを、意思の力で叩き潰す。
 目の前の存在は、決して過去の思い出の代償ではない。

 過去は過去。今は今。

 どちらも私にとって、かけがえのない大切なもの。
 
 忘れたくないもの。
 失いたくないもの。

 ティルは私の初めての友達。私に、ここにいて欲しいと言ってくれた存在。

 魔理沙は―――いつも顔を合わせると喧嘩ばかりだ。余りにも傍若無人な振る舞いに、
本気で腹が立つ時もある。

 最初に出会った時の印象は最悪。

 偉そうな態度と、人を人とも思わぬ言動。

 私の持つ魔道書を奪いにやって来たコソ泥、もとい強盗犯。

 そのくせ、その後も悪びれもせずにやって来て、こう言うのだ。

 (喉が渇いたな。この家じゃ客に茶も出さないのか?)って。


 人との交わりを怖れ、暗い森の中に隠れて暮らす事しか出来ない弱い自分。
 暗い森の中で一人孤独に時を過ごすうちに、荒れ果て歪んでいく精神。
 他人も自分も何もかも、どうでも良いと思ってしまう投げやりな心。
 例え、明日世界が終わろうとも構わないという自暴自棄。
 嫌いな、自分。
 嫌な、自分。

 そんな私の閉じた世界に、土足で、無断で、勝手に上がり込んでくる存在。
 欲しいと思った物は、傷付こうとも傷付けようとも求め続ける強い精神。
 いつもいつも自分勝手で、自分の都合だけで私を振りまわす傲慢さ。
 気の向いた時だけ、私の側にいてくれる気紛れな猫。
 私が好きな、彼女。
 霧雨 魔理沙。

「どうした? 急に変な顔して。何か変なもんでも食べたのか?」

 私は答えられず、ただ魔理沙の顔を見つめる。

 今、私はどんな顔をしているのだろう?

 自動人形が聞いて呆れる。自己の状態の把握すら満足に出来ないなんて。

「な、何でもないわよ!」

 慌てて意識を切り替えて、顔を背ける。
 変なヤツ~と言って魔理沙がまた笑う。えぇ、どうせ私は変なヤツですよ。

「まぁ、茶でも飲んで落ち着け。今日はアールグレイだぜ」
「だから、私のだってのに……まぁ頂くわ」

 魔理沙が新しいカップに乱暴な手付きでお茶を注ぐ。表面張力の限界に挑戦するかの
如く、なみなみと。

「さぁ飲め」
「飲めるかっ! 無茶言わないで!」
「茶ならあるぜ。なみなみと、な」

 全く、あー言えばこー言う。

「本当、口だけは敵わないわね……」

 こぼさないように注意しながらカップに口を付ける。
 美味しい。
 非常に飲みにくかったが、甘い紅茶の薫りが鼻腔を擽る。

 魔理沙も再びカップに口を付ける。

 紅茶の薫りが室内に立ち込め、本来、無色である空気をセピア色に染める。
 柔らかな日差しが窓から差し込み、空気中の埃に当たってキラキラと輝いている。

 私達の紅茶を飲む音だけが聞こえる。

 静謐で穏やかな時が過ぎる。

 そして―――私達は紅茶を飲み終えた。




「さて、じゃあそろそろ帰るか」
「あんた、本当に何しに来たのよ?」

 人が寝ている時に勝手に上がり込んで、勝手に人の魔道書を読んで、それでお茶を飲ん
だらさよならって訳?

「これが私のスタイルだぜ。知らないのか?」

 えぇ、よ~く知ってるわ。

「じゃあな。また気が向いたら遊びにくるぜ」

 魔理沙はトレードマークの帽子を被り、壁に立て掛けた箒を手にすると、玄関のドアへ
と向かう。

「あ……」

 思わず声が出た。

「? どうかしたか?」
「え、いやいや、何でもないわよっ!」

 私は慌てて両手を振る。顔が赤くなっているのが自分でも判る。

「……相変わらず……変なヤツだな」

 そう言って、去り際に笑顔を残す。

 私の大好きな―――

 太陽のような笑顔を―――





 魔理沙が去った後、机に飾ってあった人形達に目を向ける。

 仏蘭西、和蘭、倭国、露西亜、西蔵、倫敦、そして―――上海。

 あれからもずっと側に居てくれた私の妹達。

 上海人形を手に取り、私はぎゅっと抱きしめた。

 そこに残るティルの温もりを確認するかのように。

 ふっと心の中を優しい風が吹き抜けた気がした。

 

 もうじき夏が来る。

 あの笑顔を連想させる、眩しい太陽の季節は―――そこまで来ていた。

                  



        




                        ~終~


こんにちは、床間たろひです。
思いがけず時間が掛かってしまい申し訳ありませんでした。
稚拙な文章ですが、今、私に出来る事を詰め込んでアリスの過去を
書き上げました。

これは、あくまでも私の妄想。ですがこういう可能性もあるかも?
と思って頂ければ幸いです。




と、こう書いておいて何ですが、この「アリス・マーガトロイド」は
東方のアリスとは違うかもしれません。

だってこの「アリス」はアーティフル・サクリファイス(造られしもの
の尊い犠牲)を使えないでしょうから。

では、ご意見・ご感想 お待ちしております。


*補足修正致しました。
床間たろひ
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コメント



0.930簡易評価
3.無評価紅狂削除
せめて戦闘シーンぐらいは東方らしさ(弾幕り合い)をだして欲しかった…。
5.40他人四日削除
文章は中々読みやすかったです。
後はやはり東方らしさを如何に読者に伝えるかだと。
21.20吟砂削除
オリジナルでここまで作られたのは凄いと思います。
殺伐とした戦闘シーンも幻想郷外の話ですし、まぁ納得。
只、東方らしさ云々は置いといてアリスが幻想郷へ至る前の話なら
最後にどのように幻想郷へ至ったのかを書いて欲しかったと思います。
最後の過去を夢で振り返った状態にしたのは、やや無理やりな感じを
受けますし、読んでて冷めた感を否めません・・・率直に惜しいかなと・・・
22.70名前が無い程度の能力削除
正直、この話ってそんなに東方から逸脱してるかなぁと前編から思っていました。
後編を読んでも私には東方らしくない、という違和感があまり感じられませんでした。別の方が書いた作品には時に東方らしくない、と思う事もあるんですがね。

十分楽しませてもらいました。東方としても、自分は。まぁ少数派の意見なので
あまり参考にしない方が今後の為だと思います。陰ながら応援させて頂きます。
24.無評価床間たろひ削除
 ご感想ありがとうございました。
 正直、この作品をアップするのは躊躇いがありました。
 投稿する以上、少なくとも自分は面白いと思うものを世に出す訳ですが、
その自分の感覚が正しいのか? という点にはいつも疑問を持っています。
 主観は何処まで行っても主観であり、絶対に客観足り得ない。ならばこそ
他人に問うしかありません。
 不快に思われた方にはお詫びを申し上げるしかありません。
 申し訳ありませんでした。


吟砂様へ

 ご指摘の点、確かに言葉足らずでした。私にとって幻想郷とは、現世に
おいて行き場をなくしたもの、その役目を終えたもの、意味を無くして
しまったもの、つまり『幻想』が最期に辿り着く場所という認識があります。
 だからこそ感じる郷愁。
 その上で単なる郷愁に浸るのではなく、新しい何かを生み出す力。
 だからこそ伝わるエネルギー。
 その二つの矛盾こそが、東方の魅力と思っています。

 現世で行き場を無くした者に、そっと開かれる幻想の扉。

 多分、アリスは気が付けば幻想になっていた……そう思い書きました。

 あーでも確かにありゃ唐突過ぎたなぁ。これからも精進しますので、
お見捨て無きようお願い致します。
25.無評価吟砂削除
>床間たろひ様
偉そうにのたまった稚拙な感想にレスをつけて頂きありがとうございます。
他人四日様も書いておられますが、貴方様の文書は本当に読みやすく
魅せられます。それ故、今作は惜しさも一入強く感じれたのだと思います。

あ、それと『幻想』の考えには一つアドバイス(?)を・・・
只管欲し、想い、希い、それでもたどり着けない地点
無くなってしまったのではなく、今もずっと夢であり続ける地点
これも『幻想』ではないでしょうか?何かの欠片になれば幸いです。
長々二度の書き込み失礼しました。次の作品心待ちにしております。
27.60名前が無い程度の能力削除
あまりオリキャラは好きではないんですが、結構面白かったです。
ただ、ご自分でもおっしゃられているように最後がちょっと唐突かなと。
これからも頑張ってください。
28.80とらねこ削除
 アリスの凄惨な過去と、その果てに手に入れた幸福な現在。「殲滅士」の男も、もしここにたどり着いていたならああはならなかったかも。
29.無評価床間たろひ削除
うわーん! とらねこさ~ん!
前編で貴方を初めとした方々の応援がなければ後編書けなかったですよ。
前編で期待して下さった方々に応える事が出来なかったのかと一人で
もがいておりました。
読んで下さり大感謝です!

32.70温泉削除
正直に言うなら、本当に惜しいと思いました。東方としても、オリジナルとしても。
個人的かつ身勝手な意見ですが、それがすごく悔しかったです。

だけれどそれは、裏を返せばこの作品がそれほどまでに魅力ある作品だったということを、補足させていただきます。
35.100名前が無い程度の能力削除
今更ですが、とても面白かったです。先が気になる展開、非常に読みやすい文章、最高でした。アリスの設定に関してですが二次創作では個々人が好き勝手に考えて良いと思っている身ですので、全然気になりませんでした。

今後も頑張って下さい。応援しています。