Coolier - 新生・東方創想話

from M to N, from N to M

2012/06/21 23:47:21
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―― from M to N, from N to M ――



 まるで空の上で戦争でも勃発したみたいな大雨だった。

 そこでは確かに多くの血が流されたはずだった。赤色の、新鮮な血液だ。それは血の雨となって地上に満遍なく降り注いでいた。地上に生きる自分には、それが血だと分からないだけだ。灰色の雲に洗われて色を抜き取られ、透明な雫となって舞い落ちてきたのだ。透明な血液たちは銃火のごとく地上に叩きつけられて、川に混じり海に溶けていった。
 私たちが普段呑んでいる水とは、結局のところは誰かの流した血でしかないのだ。

 そんなイメージを封獣ぬえが抱いたのは、自室で血のように赤いワインを舐めていたからだった。カベルネ・ソーヴィニヨンの安物だった。八雲の輸入雑貨店で買い求めたものだ。ぬえの小遣いの殆どは、その雑貨店での消費で消える。ぬえはお得意様だった。“ごーるどかーど”とかいうスペルカードみたいな板きれも貰った。それを呈示すると店の者が一割引きしてくれるのだ。悪くない待遇だった。
 迫撃砲が着弾したみたいな雨音が続いている。こんな雨が悪意を振りかざしている夜は、ぬえは眠らないことにしている。別に雨音にトラウマがあるわけでもないし、きちんとした約束があるわけでもないのだけれど……。
 ぬえは野良猫みたいに丸まって、カベルネのワインを舐め続けていた。雨音の爆撃のなかでも、ワインを流し込む微かな音は聴き取れた。喉の奥が熱くなる音も聴き取れた。そのワインは些か感情的なところはあるにせよ、悪くない味わいだった。ボスニア戦争みたいな雨が降り続くなかで、ぬえは結構楽しい気分で赤ワインを舐め続けた。

□     □     □

 それから三十分ばかり経った頃、障子のガラスが控え目にノックされた。来たな、と思って、ぬえは身体を起こして振り返った。ガラスの向こうには紺色の浴衣が六月の悪夢のように覗いていた。いいよ、と云ってから、ぬえは胡坐をかいて赤ワインの口をコルク栓で閉じた。優雅なひと時はお終いなのだ。
 ぬえ、と毛玉のような声が転がった。喉に入れたら詰まりそうな声だった。音を立てないように障子を開けて現れたのは、同居人の舟幽霊だった。浴衣の肩は少しだけ雨に濡れていた。
 ぬえは片手を挙げて挨拶してやった。
「やれやれ」
「また来ちゃった」
「仕方ないぬぇ、ほんと、ムラサってば」
「えへへ」
 村紗水蜜はイチゴのように照れた。ほんのりと上気した頬、困ったような笑顔、唇の間に覗いた白い歯、とても幽霊には見えなかった。それでも、注意して身体の輪郭を眺めてみると、ところどころが透けていた。存在が綿菓子みたいに危うくなっているようだった。今日は時間が掛かるかもなぁ、とぬえは思った。

 それから、ぬえは部屋に入ってきた水蜜を、黙って抱きしめた。腕は使わない。二色三対の羽を動かして、背中合わせに抱きしめた。その間、ぬえの両腕はワインボトルを抱えていた。ぬえは水蜜の黒い髪のことを思った。濡れているせいで黒蜜みたいにどろりとしている。甘い潮の匂いがする髪なのだ。牙を出したくなる衝動を、ぬえは堪えていた。
 たぶん十分くらい。その間、水蜜は黙って、お腹に巻きついたぬえの羽をいじっていた。撫でたり、つねったり、握ったり、ハムスターでも愛でるみたいに。薬指ですーっと線を引かれたとき、ぬえの背筋は弓なりにのけ反った。
「ちょっと!」
「あ、ごめ――ごめんね」
「まったく、もう」
「ごめんってば」
「まぁ好いんだけどさ……」
 悪くはなかった。

「今日さ、聖がね」
「うんうん」
 雨音は続いている。砲撃のように。雪崩のように。誰かの慟哭のように。
 水蜜は、ぬえの羽を結んだり開いたりしながら、機関銃みたいに話し続けていた。今夜は、いつも以上に話すことがいっぱいあるようだった。ぬえは出来るだけ優しく相槌を打ってやりながら、ワインボトルの形を指でなぞっていた。
 それは、たぶん、安らかな時間であるはずだった。梅雨は酷いけれど、悪くない時間であるはずだった。好く晴れた昼下がり、羊たちが原っぱで草を食んでいるように、のどかな時間であるはずだった。話し続けるうちに、水蜜の口調はしっかりしてきたし、身体の震えも止まっていたし、輪郭も線を整え始めた。
 水蜜は本当にいろいろな話をしてくれた。ぬえは相槌を打ち続けていた。言葉は岩壁から染み出る水のように湧き続けていた。そうすることで、まるで肩に背負った荷物を下ろすことが出来るかのように、水蜜は話し続けた。羽に水蜜の指の感触が跳ねていた。ただ背中合わせになって、ぬえは水蜜と大切な時間を分け合った。

 ぬえは頭のなかで時間を数えた。もうそろそろ切り上げの時間だった。
「ムラサ、そろそろ……」
「それでさ――え、なに」
「そろそろ、戻った方が好いんじゃないかな」
 寝床を抜け出してきている。誰かに見つかったら何と思われるか分かったもんじゃない。ぬえは、こんな風に水蜜と逢っているところを見られるのは、なんだか不味い気がしていた。私にとってじゃなくて、ムラサにとって不味いんだ、と思っていた。

 舟幽霊が、こちらを振り返った。
 水蜜は頬に紙風船でも当たったみたいに、ぬえの言葉を吟味しているように見えた。あるいは、何も考えていないように見えた。言葉は届いたはずだった。クラシックの演奏ほど心地好くは、響かなかったかもしれないけれど。
 水蜜の海色の瞳から、真珠みたいな涙が零れた。頬を伝うことなく、真っ直ぐにぬえの青色の羽へと落っこちた。後から後から涙が溢れて、大きな音を立ててぬえの羽に落ちた。水蜜は黙って泣き続けた。嗚咽はなかった。嗚咽を零すには、水蜜は妖怪として永く生き過ぎているようだった。私と同じように、とぬえはぼんやりと思った。
 水蜜の口が小さく動いた。その言葉を読み取ることは出来なかった。「どうして」と聞こえたし、「わかった」とも見えたし、「いやだよ」とも読めた。すべては雨音がかき消してしまった。ぬえは先程の赤ワインのことを思い出していた。自分の立てた音なら、はっきりと分かるのに、傍にいる誰かの心の音が分からないのは、何故なんだろう、とぬえは思った。なんとなく理不尽な気がした。

 ぬえは水蜜の血の涙を眺めていた。ごくり、と唾を呑んだ。牙が疼いた。次の瞬間、水蜜の姿は視界から消えていた。あれま、と思う間もなく、ぬえは四畳半の畳に押し倒されていた。ビルディング破砕用の鉄球のような圧力が首にかかり、すべての音が周りから消えた。シンカーゴーストが目の前にいた。親指を立てた両腕がぬえの首にのしかかっていた。赤ワインの雫がぬえの唇から飛び散った。
 ムラサ、と呼んだつもりだった。声は響かなかった。喉の奥で潰れた。何故かは分からないが、ブラームスのハンガリー舞曲が頭のなかでオートリピートされ始めた。
 以前にも、こんなことがあった。台風の夜だった。水蜜は不安定だった。同じように首を絞められた。あの時は、どうしたんだっけ、とぬえは答えを探した。けれど駄目だった。何かを考えるには酸素が足りなかった。地球の中心へと投げ落とされたような圧倒的な浮遊感が襲ってきた。
 ええい、ままよ、と二色三対の羽と、それと両腕を水蜜の方へと伸ばした。羽を背中に巻きつけ、腕で腰をつかんだ。渾身の力を込めて抱き寄せた。一瞬、首が潰れたんじゃないかと思ったけれど、ちゃんと息は吸えた。ぬえは羽と腕で水蜜を抱きしめたまま、溺れた意識を繋ぎとめるのに必死になった。

 視界の隅で、ワインボトルが世界から見放されたように転がっていた。あれで水蜜の頭を叩き割ることも出来たのだろう。でも、ぬえは抱きしめた。両腕を使ってしまった。羽じゃなくて、腕を。そう選択してしまった。いや、選択の余地はなかったのかもしれない。でも、するべきじゃなかった。私がしちゃいけないはずだったんだ、とぬえは思った。ムラサを両腕で抱きしめてやるのは、私以外の相応しい誰かじゃないといけなかったんだ。
「ぬえ、ぬえ……?」
「いいって、そのままで」
「わた、わたし――」
「気にしないで、眠りなよ」
 明日も早いんだからさ。ぬえは水蜜の黒蜜みたいな髪を撫でながら云った。

 水蜜が眠ったのを確認した後、ぬえは舟幽霊の身体を抱えて、そっと自室を出た。水蜜は腕のなかで人間の少女のように眠り続けていた。部屋の布団は敷かれていた。水蜜をそっと横たえてから、ぬえは足音を忍ばせて部屋を出た。水蜜の寝顔を十秒だけ眺めてから、障子の戸を閉めた。ことん、という音がした。海の泡が弾けたみたいな音だった。
 自室の四畳半に戻ったぬえは、黙って赤ワインを呑み続けた。腕には水蜜の背中の感触が残っていた。どんなに呑んでも振り払えなかった。何かのしるしのように。
 ぬえはワインボトルを見つめながら、水蜜の指について考え、海色の瞳について考え、血の涙について考え、いつまでも変わらない赤ワインの美味しさについて考えた。頭の奥底では、未だにブラームスのハンガリー舞曲がリピートされ続けていた。

 そして、雨は降り続いていた。

□     □     □

「それで、何にもしなかったわけか」
「うるさい」
「据え膳喰わぬは、かい。とんだタマなしじゃのぉ、おぬし」
「うるさい」
 翌日も雨は降り続いていた。四畳半では蓬莱人と毛玉が将棋をしていた。ぬえは寝転びながら、二人のからかいに応戦していた。やっぱり相談するべきじゃなかったのだ。
「別に好いじゃないの。向こうは頼りにしてくれてんでしょ? 抱きしめたくらいでなに沈んでんだか」
「藤原はこの寺に住んでないから、そんなことが云えるんだよ」
 ふぅん、と藤原妹紅は盤面を見つめて唸っていた。二ッ岩マミゾウは酒を呑みながら笑っていた。
「ぬえは、この寺じゃ浮いとるからの。踏み込めないのも無理はないて」
「マミゾウだって浮いてるじゃないの!」
 ぬえは憤然と起き上がって、マミゾウに殴り掛かった。けれど拳は受け止められて、引き寄せられたぬえは、マミゾウの腕のなかにすっぽりと収まってしまった。まるでカンガルーの子どもにでもなったような気分だった。
「よしよし」
 頭を撫でられた。昨夜とは立場が逆だった。ぬえの顔はトマトみたいになった。鏡なんて見なくても分かった。
「ちょっとちょっと、止めてよマミゾウ」
「止めて欲しくなんてない癖に」
 妹紅が笑っていた。ぬえは必死にもがいた。
「これこれ――おい妹紅」
「あいよ」
 妹紅が立ち上がって目の前にしゃがみこんだ。
「……よくやった、封獣。ほんと、よくやったよ」
 妹紅まで頭を撫でてきた。暖かい手のひらだった。身体中の力が抜けた。
「流石はぬえじゃ。儂らでは、そんなに上手くは出来んかったはずじゃ」
 マミゾウは抱きしめる力を強くしてくれた。
 二人の腐れ縁は、ただ笑っていた。深くまで訊ねるわけでもなく、ただ、ぬえの話を受け入れてくれていた。妹紅のリボンと、マミゾウの耳が、そろって跳ねていた。

 じわり、そんな音が目の奥で響いた。
 泣いちゃいけない、と思った。その涙は、もっと大切な瞬間のためにとっておくべきだと思った。でも、その大切な瞬間がどんな色をしているのか、ぬえにはさっぱり分からなかった。正体不明だった。誰のためにも泣けない。自分のためだけの涙が喉の奥で渦巻いていた。
 外は、まるで空の上で戦争でも勃発したみたいな大雨だった。そこでは多くの血が流されたはずだった。赤色の、新鮮な血液だ。それは血の涙となって、地上に降り注いでいた。地上で生きる自分には、それが涙と分からないだけなのだ。水蜜の零した涙も、自分の堪えた涙も、灰色の雲に色を抜き取られ、混じり合って海へと溶けていく。
 命蓮寺の誰にも見せたくない涙を、水蜜は抱えていた。それを掬ってやれるのは自分だけだった。それを救ってやれるのも自分だけだった。私は、もっと前に、きちんと両腕でムラサを抱きしめてやるべきだったんだ。妹紅とマミゾウに抱きしめられて初めて、ぬえはそのことに気づいた。

 ――私たちが普段呑んでいる水とは、結局のところは、誰かの流した涙でしかない。

□     □     □

 その日の夜、雨は小降りになっていた。
 ぬえは独りで赤ワインを舐めていた。いつものことなのに、今夜はなんだか落ち着かなかった。四畳半の自室で、独りきりで酒を呑んでいることが、なんだか致命的に間違ったことのように思えてきた。
 それでも、ノックの音は木霊する。
「ぬえ、昨日はごめん」
 舟幽霊は開口一番に、そう云った。
「私、頑張るから。出来るだけ、ぬえに頼らないように頑張るから」
 だから、お願い、嫌いにならないで。
 浴衣の裾をぎゅっと握りしめて、水蜜は頭を下げてきた。
 ぬえはワインボトルを部屋の隅に放り投げた。ごとり、という確かな音は、なんだか赤ワインに応援してもらっているように聞こえた。バンジージャンプでもしているみたいに、心臓が不規則な音を立てた。
「ムラサ」
 と声を転がして、ぬえは水蜜のもとへと飛んで行った。驚く舟幽霊が身をかわす間もなく、ぬえは両腕を水蜜の背中に回して力いっぱいに抱きしめた。水蜜の黒髪が、ぬえの黒髪の真横にあった。水蜜は縁側に尻餅をついていた。それでも、ぬえは腕を離さなかった。二色三対の羽まで伸ばして、全力で水蜜にハグをした。
「ぬえ」
「やだ」
「あのさ」
「いっちゃやだよ、ムラサ」
「……ぬえ」
 たぶん、どこへでも好いから、その一瞬だけで好いから、連れ出して欲しい二人だったのだろう。

 頑張らなくても好いよ、とぬえは腕のなかの水蜜に呼びかけた。声にならない声で。言葉にならない言葉で。ぬえは水蜜に呼びかけ続けた。ムラサには必要なんだ、涙を見せられるような人が。肩の荷を下ろして甘えられるような人が。私がムラサを必要としていたように。そんなことも分からないまま、ずっと中途半端にやって来たから、あんなことになっちゃったんだ。
 だから、今度からは、もっと頼って欲しい。私も、もっとムラサを頼るから。ムラサから私へ。私からムラサへ。

 水蜜の手のひらが、ぬえの黒髪に触れた。水蜜の撫で方は、妹紅ともマミゾウとも違っていた。どこまでも不器用で、どこまでも柔らかだった。遠い昔のことを思い出すような感触だった。撫でられるたびに涙腺が緩んだ。
 水蜜に頭を撫でられることで、ぬえは、ようやく泣くことができた。
 二人は一緒になって泣きながら、何度も何度も「ありがとう」という言葉を交換し合った。涙の一粒一粒が溶け合って、二人だけの川になり、海になり、そして言葉になる。

 その時、雨は止んでいた。虫の音が聴こえた。蛙が歌っていた。
 世界は、晴れの予感で満ちていた。



~ おしまい ~

.
いつの間にか梅雨がやって参りました。過去作にご感想をくださった皆さん、改めてお礼を申し上げます。

求聞口授が発売されました。ぬえちゃんは命蓮寺では浮いてるそうですが、だからこそ村紗が相談できる
こともあるんじゃないかと思います。そういったストレスは、身近な人には却って相談がしにくいものです。
古くからの友人になら腹を割って話せる、時には涙だって見せられる、そんな素敵な距離感を目指しました。

求聞口授でムラいち熱がヤバいとは思いますが、ここは、あえて声を大にして主張したいです。
ムラぬえも凄いんだぞ!!! ここまで読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます!
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以下、コメント返信になります。

>>1
 まさにシンカーゴースト! 初見は怖かったです。それをイメージしてみました。
 ムラぬえは微妙な距離感がすごく印象的なカップリングだと思うのです。
>>9
 ありがとうございます。作風を好きになってもらえるのは一番の喜びです。
>>10
 ムラぬえ! いやっほう! ……それで、口授のムラいちのこと。
 一輪さんは元人間ということが判明して、元人間の村紗との共通項が生まれたのは、
 カップリング的には大きな新事実と思いましたので。それでの後書きなんですね。
>>16
 どうぞお目覚めください! さあ! さあ!
>>17
 ぬゅっぬゅ。お読み頂きありがとうございました!
>>22
 そうです、なぜこんなにも、この二人に惹かれるのでしょう!
 他のどのカップリングよりも、“もどかしさ”を感じるのです。
>>24
 心をくすぐるコメントをありがとうございます。
 ムラぬえで長いのも書いてみたいですね。
>>26
 コメントを残して下さり、どうもありがとうございます。
 出来る限り周囲の環境や小道具を活かして表現しようとした覚えがあります。
 情緒的と云って頂けて嬉しいです。書きたいことが伝わった、ということですから。
かべるね
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コメント



0.1040簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
ムラサさんと絞殺の親和性は異常
まあ、危うい愛って良いよね
9.90奇声を発する程度の能力削除
この雰囲気、好き
10.100名前が無い程度の能力削除
だよな!ムラぬえだよな!
つか口授にムラいち要素が有ったっけ、自分が見落としたりしてたかな?
16.90ぺ・四潤削除
こういうムラぬえもあるのか……何かに目覚めそうだ……
17.100名前が無い程度の能力削除
にゅっにゅ
22.100名前が無い程度の能力削除
ああ…! やっぱりムラヌエはいいもんですよねっ!
24.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしいむらぬえでした!
26.100名前が無い程度の能力削除
雨音と二人の心が重なり、情緒的で素敵な作品でした。