Coolier - 新生・東方創想話

ホロコースト

2012/05/12 02:34:00
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 ぬるい夏の夕暮れの匂いが辺りにたちこめている。ほんの一抹だけ混ざっている生臭さ、生き物の体液のような匂いは、どこか潮の香りに似ている。
 私がやたらとこの時間帯に落ち着きを覚えるのは、それが理由なのかもしれなかった。どれくらいの時間、私はここで眠っていたのだろう。蕩けるような眠気を覚えて横になった時には、まだぎらついた太陽が浮かんでいて、目を閉じてもひどくまぶしかったのを覚えている。
 空はいつの間にか赤い。寝返りをひとつ打って、初めて隣に誰かが腰掛けていたことに気づいた。きょとんと見上げる私がおかしいのか、くつくつと笑う。

「あら村紗。おはよう」

 朝起きた時と全く変わらない口調で言ってくるものだから、思わずおはようと返してしまった。藍の頭巾は西日を受けて、何だか柔らかく不思議な色に染まっている。少し頭を上げて一輪の方を向くと、枕代わりにしてしまっていたらしい、ひしゃげた帽子が姿を現した。

「一輪、何してるの」
「寝顔見てた」
「悪趣味ね。ずっと?」
「ううん、今しがた。あんまりくっきり畳の痕ついてるものだから」

 一輪はそう言って、自分の右頬を指で軽くつついた。私も同じようにするけれど、痺れた右頬にはほとんど感覚がない。それよりも、遠くから聞こえてくる風鈴の音が気になる。きっと聖の部屋だ。飴細工みたいに透明で薄っぺらい硝子の風鈴が、今目の前にあるみたいに脳裏に浮かんでくる。
 音に気を取られている私より先に、一輪が立ち上がった。座り方がきちんとしている彼女のスカートにはしわがひとつもない。うつ伏せで眠っていた私の私のスカーフは、とっくに折り目だらけになってしまっているというのに。

「そろそろ夕飯だから、顔と手洗ってから来てね」
「いつもながら子供扱いするよねえ」

 子供らしく反抗して、立ち上がって一輪に並んで歩く。夕飯を手伝ってきたらしい一輪からは何かの食べ物の匂いがした。私はそこで初めて、自分が空腹だったことに気づく。幽霊は食べなくても死なないが、腹は減るのだ。
 しばらく二人で廊下を歩く。他愛ない会話を交わしていると、ふいに少し離れたところから声が聞こえた。
 
「……本当に、こうして皆とまた夕食を囲めるのは素晴らしいことね」

 聞き慣れた、温かい声。まだ喋ることの出来ない幼子に語りかける母親のような柔らかさのようなもの。
 その声に、やや凛々しいような印象を受ける別の声が語りかける。

「聖、またそれですか」
「だって本当にそうじゃない、星。今日はナズーリンも来るのよね? そろそろかしら?」
「そうですね、夕餉に間に合うように来ると言っていましたから……」

 聖と星だ。少し先にある庫裏の暖簾の向こうから、二人の声が聞こえてきている。私と一輪は顔を見合わせ、少し早足気味にそちらへと向かった。そろそろ作った夕食を食堂へと運ぶところだろう。手伝わなければ、と思ったのだ。
 聖の声は少し熱に浮かされていた。最も、命蓮寺を建ててしばらく経った今でも、彼女の中の一種の興奮のようなものは抜け切れていない。それは、私達も同じことだけれど。
 どこかうっとりしたような口調で、聖は続けた。

「本当に素晴らしいわ。あなたにナズーリン、村紗。お寺に新しい妖怪も集まって……。ああ、それに何より、一輪! 彼女が雲山と一緒に立っているのを見た時は、本当に驚いたわ。例えいつか皆と再会することが出来たとしても、人間である一輪とはあの日が別れになってしまったのだろうと、封印中ずっと悔いていたものだから」

 聖の声が遠ざかってゆく。私は、自分がいつの間にか歩みを止めていたことに気づいた。
 数歩先を歩いていた一輪が振り返る。村紗、と心配そうな声が私を呼んだ。
 私は無理に笑って一輪の隣へと急ぐ。

 遠くで風鈴のちりんと鳴る音が、かすかに聞こえた気がした。











 誰かを嫌いになることも、好きになることも、案外簡単なものだ。
 少なくとも私は雲居一輪という少女相手に、相反するその感情をあっさりと抱くことが出来た。
 私が聖に拾われて、海を抜けだしてから数年。新しく入信したという尼の格好をした少女を、私は一目で嫌いになれた。理由なんて単純明快で、彼女が人間だったからだ。雲の妖怪を連れて風変わりだったとはいえ一輪は人間に違いなくて、人間ということは私が沈める相手ということでもある。しかし、私が彼女に手を出そうとしても怯えるわけでもなくしれっとした顔をしているし、毎回毎回殺気立った雲が邪魔をしてくるから、私は彼女も雲もまとめて嫌いになった。

 嫌いな相手とはなるべく顔を合わせたくないのは誰だって一緒だと思うけれど、同じ屋根の下で暮らす以上そうはいかない。
 おまけにここは寺で、三度の食事や修行の時間には寺の全ての者がひとところに集う。聖を慕う者たちは私のような妖怪が多くて、人間はあまりいなかった。中でも、出家して寺で生活を共にする者は彼女しかいなかった。それだけで、私が一輪を疎む理由は充分だった。
 たかが人間ごときに、聖の素晴らしさが理解出来るはずがない。
 正直なところを言えば、今でもそう思っている。妖怪の本質を理解して、救おうとしてくださる聖を理解できるのもまた、私達妖怪だ。私も人間として生を受けたとはいえ、もう千年以上も前に死んだ身だ。髪の毛一筋分すら、私の中に人間らしさなんてものが残っているのかほとほと怪しい。ともかく、そんな私は当時、その思想をほとんど強迫観念めいた勢いで抱いていて、だからこそ一輪という少女と寝食を共にするのが許せなかったのだ。


 何度殺そうとして、何度雲に殴り飛ばされたか覚えていない。
 けれども一年も経った頃、私の一輪に対する殺意だとか憎しみだとかは、水を混ぜ込んだみたいに薄れてきていた。 何かのきっかけで言葉を交わすようになって、彼女自身と接する機会が増えたからかもしれない。
 彼女と出会ったばかりの頃は、私が一方的に襲いかかるばかりで、まともに会話をしたことすらなかったのだから。今思えば、死んでいるくせにどうにも血の気の多い幽霊だったと反省する。
 最初は話しかけられたら答える程度、そのうちぽつぽつと会話を交わし、やがては友人になる。そんな正しい段取りを踏んで私は彼女と親しくなった。この頃ちょうど、この寺を疎ましく思っている一部の人間達の動きが目立つようになってきて、寺内での結束が強まりつつあったのも理由のひとつなのかもしれない。
 
 やがて人間が聖を封印し、私たちの寺をことごとく蹂躙して、私達はばらばらになった。
 私は地底へと落とされることになった。
 妖怪と親しくしていた仲間、という名目で放り込まれた一輪と一緒に。




 地底はそこまで悪い場所ではなかった。
 打ち捨てられた粗末な家はいくらでもあり、私と一輪が二人でやっていくには充分だった。多くを望まなければ金を得られる仕事だってある。ただし、初めの頃は私は一輪に、家の外には極力出ないように忠告していた。
 旧都には少なくとも、一輪を除けば人間はまったく住んでいないように見えた。いかにも妖気が充満して、人食いがうようよしているこの街に好んで住む人間なんているわけがない。いくら雲山がいるとはいえ、今までとは環境が違うのだから用心に用心を重ねるべきだと私は主張し、私の強固さに一輪も渋々ながらそれに頷いた。ただでさえ、いつかは私を置いて死んでしまうであろうこの人間の友人を、つまらない理由で死なせるのは絶対に嫌だった。一輪とて、今までのように「自分の身は自分で守れる」と断言できる状況ではないと分かっていたからこそ、頑固な彼女が首を縦に振ってくれたのだろう。
 だから、初めはそれなりに、うまくいくように思えた。聖を失った悲しみを舐め合いながら、どうにかやっていけると思っていたのだ。



 ちくりと胸の内側から刺すような、かすかな情動を覚えたのは、地底での生活にようやく慣れてきたかという時期だ。「お風呂入るね」と浴場に向かう一輪の背中をいつものように見送った時だった。

 今、追いかければ沈めて殺せる。

 声が響いて、私はいつの間に自分がそんなことを口走ったのかと口を押さえた。しかし一輪は何事もないように行ってしまったし、部屋の隅でふわふわ浮かんでいた雲山も特に変わらない様子でいたため、単に自分が脳内でそう呟いただけなのだと理解する。ほっと安心すると同時に、少し混乱した。
 何だって今、一輪を殺す必要があるのか。今や私より背の高くなった(ほんの一寸にも満たない差だけれど)友人は、私にとって唯一無二の存在となっている。昔のように無条件で疎んでいた時ならまだしも、今更彼女を「沈める対象」として見る理由なんてどこにもない。
 少し疲れているのかもしれない、と私は思った。慣れない暮らしをずっと続けて、おかしくなっていただけだろう。そう考えて、その日は早めに薄っぺらい布団を敷いた。ごろごろしていたらそのうち一輪が風呂から上がってきて、二人で身を寄せあって色々と話をした。ふわふわと落ち着かない彼女の藤色の髪から、風呂上りの良い匂いが漂ってきていたことを覚えている。その日はそのまま話し疲れて、二人で折り重なるようなおかしな格好で眠った。

 けれども翌日からやがて、一瞬の気の迷いと思えたその衝動が、影法師みたいに私について回るようになった。
 例えば、隣で寝息を立てている一輪の寝顔を見た時。料理をしている一輪の後ろ姿。ひとつひとつの些細な動作を目にして、私の脳に直接囁く声が聞こえる。今なら沈められる、今なら殺せる、首に手をやるだけであっという間。
 ああそうか、と気づく。私が妖怪としてこの世に存在している理由で最も大きいものは、「人間を沈めること」だ。聖の元にいる頃はさすがに目に付くような下手は犯さなかったけれど、それでもたまに一人や二人、水場で襲うことはあった。それが、私が死んでもなおこの世に留まっている意味なのだから。
 この地底には、人間はいない。一輪以外には。
 私の、妖怪としての核のようなものが矛先を向けられるのは、たった一人の友人しかいなかった。

 しばらくしてそのことに気づいて、私はそのまま泣き出したいくらいの悲しみに襲われた。
 自分をこれほど情けないと思ったことはなかった。理性も感情も飛び越えて、大切な友人を殺したいと思ってしまうほどのものが私の中にあるという事実が本当に惨めだった。実際に行動に起こしてしまうのが怖くて、私はわざと一輪と食事の時間をずらし、顔を合わせる回数を減らした。ただし、部屋がひとつしかないあばら屋なのだから、そうは言っても限界はある。執拗に口をつぐんでいる私を一輪は何度か問いただそうとしたけれど、私は頑として理由を話さなかった。話せるわけがなかった。
 眠れない日が続いて、私に背を向けて眠る彼女の寝息を聞くのが辛くて、深夜には家を出て旧都を徘徊するようになった。夜が静かではないという点で、旧都は優れた街だった。



 ある朝家に帰ってみれば、一輪が水桶の前で顔を洗おうとしているところだった。
 戸の前で立ち尽くす私を見て一輪は一瞬泣きそうな変な顔をした。けれどもすぐに笑って「おかえり」と言い、私に背を向けると屈んで顔を洗い始めた。その背中をぼんやり見ながら、美人だなあと寝不足の頭で考えた。


 本当に無意識だった。
 気がつけば、水桶に寄りかかるように一輪が倒れていて、ひっくり返った水桶からはおびただしい量の水が床へとあふれていた。
 一輪の首から上がぐっしょり濡れて、藤色の髪から水滴がぽたぽた垂れていたた。目を閉じてぴくりとも動かなかった。
 私が一輪の頭を水桶に押し込んで溺れさせたのだと気づくまでに、少し時間がかかった。

 
 ほとんど半狂乱になりながら水を吐かせる。呼吸をしていない私は、口移しで与えられるような酸素すら持ちあわせていなかったから、ただひたすら彼女の胸元を強く押すくらいしか出来なかった。家の周りを見まわりしていたらしい雲山が戻ってきた瞬間、彼は一瞬で分かるくらいにさっと顔色を変え(雲のくせに)慌てて一輪に寄ってきた。私の仕業だとは気づいていなかったように思う。彼は私にも心を開くようになってくれていたけれど、私が一輪を傷つけたとなれば、それこそ殺す勢いで殴りかかってきたに違いないから。
 幸いにも、一輪の呼吸が止まっていたのはほんの僅かな時間だった。数度胸を押したところで、力なく何度か咳をして、うっすらと一輪が目を開ける。私の腕の中でだらりと力の抜けたその体がまだ温かいことに、いるかも分からない神やら仏に本気で感謝した。
 私は泣きながら壊れた機械みたいに何度もごめんなさいと繰り返した。一輪は不思議そうな目で私を見ていた。





 もう隠し通せるわけもなかった。
 だから私は夜になって、話したいことがある、と一輪に切り出した。一輪は驚いたふうでもなく頷いて、雲山に少しの間家を空けてくれないかと訊いた。その方が私が話しやすいと考えたのだろう。雲山は何かを言いたげに眉をぴくりと動かしたけど、そのまま黙って窓から出ていった。
 行灯の明かりだけの仄暗い部屋の中で、私は一輪に向き直った。正直に話そうと決めていても、いざこうして向い合って座ると、最初の言葉は胸元でつかえてしまったみたいになかなか出てこなかった。誰が、自分に殺意を抱く相手とこのまま一緒に過ごしてゆきたいと考えるだろう? 私は今のまま一輪と生活を続けることが怖かったが、それ以上に、彼女と別れることが一番怖かった。その結論を一輪の口から聞くことを恐れていた。小刻みに腕が震え、俯いた私の視線は畳のほつれだとか焼け跡だとか、そんなものばかりをとらえていた。
 でもその間、一輪はじっとこちらを見つめていた。きちんと背筋を伸ばした正座で、何も言わずに私が喋るのを待っていた。ちらりと顔を上げた瞬間、私を見据える灰色の双眸と目が合って、私は逃げられないんだな、と思った。

 だからそこでようやく、私は話を始めた。何もかもだ。
 自分の意志とは関係なく、一輪を沈めたい殺したいと思ってしまう瞬間があるということ。日に日にそれが増えていっていること。私自身は一輪と離れたくはないと思っていること。そのためには今のままではいけないけれど、どうしたら良いのかがわからないということ。
 私がたどたどしく話している最中、一輪は何も言わなかった。ずっと黙って私の話を聞いていた。
 全てを吐露してしまうと、胸の内にぽかりと穴が空いたような、妙な気持ちになった。
 一輪はしばらく考えていた。それから私に訊いた。

「……私がここを出ていけば、村紗は苦しくなくなるの?」
 
 分からない、と私は正直に答えた。このまま一輪の側にいるのは、確かに苦しい。でも彼女と袂を分かつのもきっと、同じくらいに苦しい。しかし私が今日のようなことをまた引き起こしてしまう可能性がある以上、会わなくなるという結論に辿り着くことだって充分にありえると分かっていた。その場合、出てゆくのは私の方だということも。
 一輪はまた、考え込んでいた。
 考えながらぽつぽつと言った。自分達はまだ旧都では新参者で、一人ひとりで生きていくことは不可能ではないとしても、厳しいものがある。今まで二人でようやく暮らしてこれたような自分達が、急に自立して別々に生活することは物理的にも精神的にも難しい。何より、同じ地続きの場所で暮らしてゆく限り、離れて暮らすだけでは根本的な解決にならない。
 全て、一輪の言う通りだった。行動範囲が限られている以上、私達はまたどこかで顔を合わせる可能性が高いわけで、その時にまた私が同じようなことをしてしまったら意味がない。それになにより、私達はまだ一人きりで生きてゆけるほどの強さなんて持ちあわせていなかった。聖を失った喪失感も絶望も、なにひとつ、癒えていなかった。
 やや間があって、息を吸い込む音がひとつ聞こえる。


「私、人間やめるね」


 その言葉を聞いても、私は彼女が何を言ってるのか咄嗟に飲み込めなかった。ただ顔を上げて一輪を見た。
 一輪は、口角を柔らかく上げて笑っていた。どこかで完結してしまったような印象を受ける微笑だった。行灯の明かりが揺れて、一輪の顔を淡く照らしていた。

「ここは妖怪が蔓延する地なんだから、人間が妖怪になる方法のひとつやふたつ、選ばなければすぐ見つかると思うわ。幸い、今までずっと雲山の側にいたから、普通の人間よりは私は妖怪に近い位置にいると思うし」

 口調こそ柔らかかったけれど、もう彼女は決めてしまったのだ、と直感的に思った。
 引き止めるための言葉が私の脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消えた。まるで水泡のようだった。私の身勝手さが理由で、大切な人間を人間でなくさせてしまうなんて許されるはずがなかった。けれども、それ以外に、このまま二人で暮らしてゆくための策が私にはひとつも見つけられなかった。一輪だってそうだったからこそ、決意を持って口にしたのだろう。
 一輪は続ける。

「ちょうど良かったかもしれないわね。私も、そろそろ村紗の足手まといになったままじゃ駄目だなって、考えてた頃だったから。それにこのままじゃ私、あと何十年もしたらすぐ死んじゃうしね」

 また、少し泣きそうになった。足手まといだなんて思ったことは一度もなかった。むしろ、それは私だ。
 一輪の腕が伸びて、強張っている私の頬に触れた。柔らかくて温かい手のひらが私の冷たい頬を包んだ。人間を捨ててしまったら、この温かさすら彼女は失ってしまうのだろうか。そうはならないでほしいと思った。
 頬に触れていた手が首筋を滑って、私の肩を弱々しく寄せる。抱きしめられる格好になって初めて、私は一輪の体が昔よりずっと成長していたことに気づいた。あまりにも華奢だった肢体は女性らしい丸みを帯びて、彼女がとっくに私が死んだ時と同じくらいの年頃になっていたことは見て取れた。穏やかとも言える声で一輪が言った。

「妖怪になってこれからずっと側にいてあげるから、私の側にいてよ」

 私は、彼女に反対するすべも理由も、なにひとつ持ちあわせていなかった。










 気がつけば私の右手は一輪の左手の中にあった。
 じんわりと蒸し暑いせいか、少しだけ汗ばんだ手がきっちりと私の指を掴んでいる。

「姐さん、何かお手伝いしましょうか」

 一輪は暖簾を覗き込みながらそう言う。多分聖と星からは、私達の繋がれた手は死角になっていて見えない。まぁ、という聖の声が返ってきた。

「噂をすれば一輪」
「村紗もいますよ」
「じゃあ、二人でお皿とお櫃を運んでもらおうかしら。ちょっと重いけど」
「大丈夫です」

 一輪が返事をして、繋がれた手が一瞬解かれた。受け取った米櫃をはい、と渡される。五、六合近くの米が入っているせいでやや重いが、片手で持てない重さじゃない。厚い木の櫃越しに、中身のご飯の温かさが伝わってきて私のお腹あたりを温めている。
 そして重い方を私に手渡した一輪は、自分は軽い皿を抱えてしれっとした顔でまた手を取ってきた。何か言ってやろうかと思って、やめた。何となく黙ったまま、二人で夕暮れの廊下を歩く。

「なぁに、まだ引け目感じてたの? 村紗って細かいこと気にするタイプよね」

 一輪の言葉に、「別に」とだけ返した。こういう時には上手く口が回らなくなることを自覚している。無理に何かを喋ろうとして下手を打つより、黙り込んだほうがよっぽど賢い。

 結果的にこれが最良だったのだと思う。私は一輪に対して以前のような感情を覚えることはなくなり、一輪の寿命は伸びて、命蓮寺というこの場所に集うことが出来た。今からの夕餉だって、隣に一輪がいるのといないのでは、私にとって全く意味の異なった食卓になっていただろう。
 それでも、私が負い目や罪悪感を感じていないかと言えばもちろん嘘だ。一人の人間の人生をねじ曲げてしまった。彼女は人間を捨てたあの日から成長することをやめてしまった。
 驚くほど簡単に物事は進んだ。一輪はあの後、旧都で死んだ者を弔うささやかな仕事を初め、私達の生活は楽になった。羽の生えた妙な友人が出来て、時々三人で夕飯を食べたり飲みに行ったりもした。今もきっと食堂で、手伝いもせずふんぞり返って夕飯を待っているだけのそいつは、一輪が昔人間だったことを知らない。聖も星もナズーリンも、驚きこそすれ彼女本人に問いかけることはしなかった。私だけが知っているのだ。人間として生きて人間として死ぬはずだった一輪を。
 隣を歩く一輪を見る。何かを喋り続けているそのせわしない唇が、空と同じ色をしていた。何も考えずに手を伸ばした。
 
「村紗?」

 一輪は立ち止まって、戸惑ったように視線を私に転がした。私の人差し指は、彼女の下唇をごく軽く押し上げている。
 ほんの一瞬、私は瞼を下ろした。視界がぼやけたような暗い赤色に染まる。

 私は想像する。
 もしも私が船幽霊ではなくて、もっと別の妖怪。少なくとも、人間を襲わずとも自我を保っていられる妖怪として一輪の側にいたら。
 私達はあのままの何ひとつ変わらない生活を、旧都で続けていたのだろう。一輪はやがて一目で分かるくらいに私より背丈を伸ばし、きっと今より大人びた風貌で、癖のかかった藤色の髪を背中まで伸ばしている。あまりにも綺麗なものだから、私は宝石を自慢するように知り合いに彼女を見せびらかしたくなるけれど、人間である一輪は家から出て他の妖怪の目に触れるわけにはいかないのだ。一輪は日に日に歳を重ね、やがて白い手の甲にはしわが刻まれてゆく。私は毎日その手を取って指を絡めて他愛のない話をする。いつか彼女が死んでしまったら、火車やら地獄烏やらに見つからないように気をつけながら彼女を埋めるだろう。旧都に海はないけれど、灰を海に撒くなんて真似は絶対にしないと思う。海は死者にとって安息の地なんかじゃない。
 そうして私は、それから一人きりで旧都での生活を続ける。聖を救うことなんて考えもせず、一人でずっと。

「柔らかそうで、触りたいなあって思って」

 ゆっくりと目を開いて、私は笑った。
 人差し指を引っ込めて歩き出すと、一輪は呆れたような安心したようなため息をひとつ吐く。頭巾に隠されてちらちらとしか見えない耳が赤いのは、多分夕暮れの日差しとは無関係だろう。
 私の隣にいる一輪は、私に殺されかけたあの日までの一輪ではない。私が人間としての一輪のあれからを想像するたびに、私は何度頭の中で彼女を殺してきたのだろう。穏やかに、眠るように私の腕の中で朽ちた老女の姿を私は簡単に思い描くことが出来た。それから、屍のようにそれからの日々をやり過ごす私。

「触ってもいいけど、お金取るわよ」

 一輪はまたしれっとした顔に戻っていた。私に殺されないために人間を捨てた彼女は、私が頭の中で何度も何度も死なせていることを知ったら何を言うだろう。
 何も言わないかもしれない。笑い飛ばされるのが関の山かもしれない。

「私のも触らせてあげようか」
「夏場だしそれもいいかもね。血色悪くて、冷たそうですし」
「試してみよっか」

 一輪が再び歩みを止める。灰色の双眸が私を見る。
 ごめんなさいと伝える代わりにキスをした。少し肉厚な彼女の唇は、ぬるい夕暮れを内包している。







.

穏やかで愛のある虐殺 のようなもの。

求聞口授がすごくすごくムラいち妄想をかきたててくるのでムラムラします。

>>愚迂多良童子様
誤字を修正しました。ありがとうございます。
柚季
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コメント



0.3010簡易評価
8.90名前が無い程度の能力削除
明らかに危険な能力なのに殺意むらむらな村紗って意外と貴重な気がする。
口授が出るまでは「幻想郷で能力使える場所無くね?」だったのもあるかもしれないけど。
14.100名前を間違える程度の能力削除
妖怪に本当の意味で好意を持たれると、行き着く先は寿命なんかじゃないんだよな~としみじみ考えさせる作品でした。少なくとも、妖怪側にとっては。
旧地獄でしわしわになった一輪の遺体を慈愛顔で腐らないよう、無くさないよう大切に世話し、保管する水蜜さんもいいなぁ。
16.90奇声を発する程度の能力削除
こういう関係のムラいちは、やはり良いですね
18.100名前が無い程度の能力削除
妖怪と人間が一緒にいるだけでなく、共存しようと距離を縮めればこういうジレンマが出ますよね。
捕食者と被食者、特別な相手を作ってしまえば自分のアイデンティティを変化させざるを得ないという。
妖怪にとっての人間の美醜は顔だけでなく精神も含んでいそうですよね。
村紗は一輪のお婆ちゃんになった姿も愛せるのでしょうが、一輪側からすればどうなのでしょう。
今話は、村紗から見た切り口は妖怪にしてしまった負い目ですが、一輪から見れば別の感情もあるのかもしれませんね。

何にしても一輪良いよね、今回良い設定が増えて嬉しい限りです。
21.100愚迂多良童子削除
こう言う劣情を堪えるような、カタルシスな作品は堪らないなあ。
文章が好みのどストライクだってのもあって、かなり良かったです。
内容と全く関係ないけど、最後にちょこんと置いてあるドットがすごく気になる。
>>夜が静かではないという店で
店→点
23.100名前が無い程度の能力削除
一輪が達観しているような

ムラサ視点だとあっさりと人間をやめたように見える
でも一輪の心のうちではどうなのか気になるところ
24.100名前が無い程度の能力削除
冒頭と〆をね、きっちりしている作品は好きですよ
28.100名前が無い程度の能力削除
滾る
29.90名前が無い程度の能力削除
要領が良い人というのは、気持ちの整理をするのも上手なのかなと、読んでいて思いました。

過去回想という特性上、臨場感が乏しいという点が少々残念でしたかね。
30.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです
32.100名前が無い程度の能力削除
これはよいムラいち。
面白かったです。
33.100名前が無い程度の能力削除
一輪さんは村紗の話を聞く前から、もしかしたら命蓮寺に入ったときからずっと、人間をやめる機会を待っていたのかもしれません
・・・との内心を考えてしまうぐらい、キャラが生きていたと感じました
37.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
ムラいちすばらしい
39.100名前が無い程度の能力削除
さっそく口授作品が来たようで僕、満足!
43.100名前が無い程度の能力削除
これはすばらしいムラいちですね。
口授をもってますますムラいちの設定に深みが出たような気がします。

これの一輪さんverを是非読んでみたいです。
一輪さんは一輪さんで村紗に歪な執着がありそうだ。
49.100名前が無い程度の能力削除
お久しぶりです。相変わらずいいムラいちでした。
50.100名前が無い程度の能力削除
素敵です。文章が良くて、すっと物語の情景に入り込むことが出来ました。
51.90名前が無い程度の能力削除
折角追想文の体裁をとるのなら村紗の主観というか感情をぶちまけてもよかったかなとも思った。でもいいまとめ方だ。
雲山を受け入れ村紗も受け入れ人間の身で聖の境地も超えちゃう一輪さんはホンマ女神やでぇ・・・
53.100名前が無い程度の能力削除
一輪さんに惚れ惚れするわぁ
でも上の方々のコメ見てたら一輪さんが内心何考えてたのか気になってきた
54.100名前が無い程度の能力削除
口授以降、ずっと読みたかった物語だ。すごく良かった
62.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです
68.100名前が無い程度の能力削除
素敵です。
言葉にできないくらい
70.100名前が無い程度の能力削除
甘い
77.100福哭傀のクロ削除
何なんだろうこの気持ち……。求聞口授をここまで生かしたお話が書けるのは実に羨ましい。お見事です!
78.100名前が無い程度の能力削除
これはいいムラいち。
読んでいてこちらもムラムラしました。
80.90名前が無い程度の能力削除
ムラいち良いわあ