「……もう、朝か」
やけに静かだと思ったら、夜半から雨が降っていたらしい。
雨だれは結構な音量になるはずなのに、寝床の中にいるとむしろ静寂を感じさせる。しかし、私の場合は天候はあまり関係が無い。普段通りの時間に起きたのは、長年の習慣で身に付いた体内時計というやつだ。
ここ八雲家で一番早く起きるのは私である。家事全般は私の担当なので、自然と早く起きることになろうというものだ。まあ、普段は二人暮らしのこの家で、どちらが起きるのが早いだの遅いだのはないのだが。
肌寒かった季節から最近一気に暖かくなり、そろそろ衣替えの時期だろうか。少し寝汗も掻いてしまっているから、布団を薄いものに替えた方がいいかもしれない。ただでさえ短い私の睡眠に、少しでも安らぎを求めるために。
外の井戸で水を汲み、朝食の支度を始める。
「朝食は一日の活力剤」とは外の言葉だったか。妖怪にとって食事はそれほど大きな意味はないはずだが、何十年か前から我が主は私に毎日朝食を作るように命じられた。材料も人間の食べるものと変わらない。最近の幻想郷の人間は面白い、と仰っていたから(特に巫女はお気に入りだ)、妙なところで距離を縮めようとしたのかもしれない。
これが理由かはわからないが、本来主の仕事であるはずの結界の管理も、私に回ってくるようになった。これによってただでさえ短い私の安息の時間が減ったうえ、当の自分は人間以上に睡眠を取るのだから始末に負えない。敬愛すべき主なれど、ちょっとは気にかけてくれても良いじゃないか。そんなことを考えながら朝食を作り終え、主を起こしに向かう。
「紫様、おはようござ――」
主の寝室のふすまをガラリとやると、のり巻きがいた。
ピシャリ。
瞬時にふすまを閉め、聡明な大妖怪の式、つまり私は思考する。例え予想外の出来事に遭遇しようと、八雲の九尾は狼狽えない。
今見た光景に語弊は無いはず。「いた」というのは生物に対して使う言葉。もちろん普通ののり巻きは生物ではないから、私が見たのは生きているのり巻きであるという事だ。さらに言うと、やけに大きなのり巻きだったような。いや、薄暗くて見間違えた可能性もある。のり巻きではなく、昆布巻きや伊達巻き、春巻きだったかも――
「おはよう、藍。何故閉めるのよ」
「おはようございます、紫様。お一人で起きられるならもっと早く起きてきて下さい」
考えたくないことから目をそらしていた私は、諦念と共にのり巻き、もとい我が主と挨拶を交わす。あまりじっくりと眺めたくはない主の姿を見ると、自分の帯を何本も使って掛け布団を巻き付け、自らを巨大な巻き物と化して立っている。しばらくじとっとした目で私を眺めた後、
「ところで藍、何か私に言う事はないかしら?」
少々鼻息荒く問いかけてきた。キラキラの目に、にやけ顔が鬱陶しい。
ここで私は、少々返答に困ることになった。
何バカなことをやってるんですか。
妖怪の賢者ともあろうものが、人前に出せない格好をしないで下さい。
幽々子殿に食べてもらうつもりですか。なら茹でて差し上げましょうか。
頭に浮かぶ言葉は、しかし主の望む返答ではあるまい。普段の私の苦労を知っている主ならば、蹴り飛ばしたくなるほどの悪ふざけをわざわざくそ忙しい朝の時間に起こすようなことはしないはずだ。たとえ思いつきで行動を起こし、私の仕事を増やして下さる我が主であろうと。
……などと思ってみたが、今日はどうも現実逃避が多くなっていけない。もうわかっているはずだ、これはただ私をからかっているだけだと。つまり、
「HAHAHA紫様!それじゃあスキマ妖怪じゃなくて、○○○妖怪じゃないですかー!!」
「そうよ藍ー!今日の私はスキマじゃなくて、○○○よー!!」
「「あっはっはっはっはっは」」
というようなやり取りをしたいだけに決まっている。間違いない、つきあいが長い私にはわかる。
つまり私が○○○妖怪と突っ込めば、主の突発的奇行は終わりを告げるわけで。
「ひどい寝癖ですね」
「それ以外」
「目ヤニがこびりついてますよ」
「……それ以外」
「幽々子殿に食べてもらうつもりですか。なら茹でて差し上げましょうか」
「それ以外!てか何よそれ!!」
「申し訳ありません、私の愚見ではそれぐらいしか」
突っ込まなかった。
連日の疲れと、それの原因である主への少しばかりの不満が、私に的確な突っ込みを入れる事を拒否させたのだ。そして私は、主はこういうときに引っ込みがつかなくなる事を知っている。
「もういい!ごはん食べるわよ!」
「はい、しかしその前に洗顔なさったほうが」
「わかってるわよ!」
ぴょこぴょこと両足跳びで進み、2回ほど転んだ頃、ようやく自分は飛べる事を思い出したらしい。普段慣れていない飛び方で、ふらふらしながら廊下を漂っていく主。さて、今回はいつまで意地を張っていられるだろうか。内心でため息をつきながら、私は最後まで突っ込まない事に決めた。
今日はごく基本的なメニュー。白米、味噌汁、生卵に焼き魚だ。海産の魚は外界から主が失敬している。半獣を通じて人里に卸すついでに、我が家でも食べる分を調達しているらしい。
両手が使えなくてどうやって食べるのかな、と思って見ていたら、スキマから手だけを出して食べ始めた。なるほど、布団も自分で巻き付けたのはスキマを使ったのか。下らない思いつきに能力まで使うこだわりに、我が主ながら呆れる。
「そういえば、最近は橙を見ないけど?」
「ここ最近はマヨヒガに籠りっぱなしですよ。幻想郷中の猫がサミットを開くとかで」
「へぇ、議題は何なのかしら」
「いかに効率よく、かつ安全に魚屋から御馳走を盗むか」
「……あまり効率よくされても人間が困るわね。釘を刺しておかないと」
「といっても猫の知恵ですから。人間もそこまで愚かではないでしょう」
我が式も随分と単独行動の時間が長くなった。式を打ってしばらくは、私の後にべったり付いてきてごろごろと喉を鳴らしていたものだったが。成長に頼もしさを覚える半面、親心には一抹の寂しさを感じる。いや、子供を産んだ事は無いけれど。
じんかいせんじゅつー、とか言いながら大量の猫とともに魚屋に襲撃をかける式の姿を想像して、ちょっと吹きそうになった。
「今日は白玉楼まで出かける予定でしたね」
「へっ?え、ええ、そうね」
明らかに狼狽えている。まあ当然か。このままではおそらく昨日思いついたであろう「○○○妖怪」という突っ込みを誰からも受けないまま、八雲紫・のり巻きモードを解除しなければならぬ。ご友人である幽々子殿の前で、この姿をさらすわけにもいかないだろう。
まあ、悪ふざけもここまでか。そう考えていたら、
「このまますぐ行くわよ、藍。供をなさい」
「はい?」
これは驚いた。目の前のよく眠る大妖怪は、起きながらにして寝言を言う能力を習得したらしい。
「その姿のままで、ですか?」
「そうよ。何か問題でも?」
「……いえ、私は紫様の式。その意向に従うまでです」
「よろしい。私の傘を持ってきて頂戴。あれは雨の日でも使えるから」
どうやら本気のようだ。雨の日とは言え、外に出る以上他の住人に姿を見られる可能性もあるというのに。
「わざわざ外に出なくとも、スキマを使えばよろしいのでは?」
「この姿で妖夢の前にいきなり現れてみなさい。動転してこっちの顔も見ずに切りかかってくるに決まってるわ」
なるほど否定できない。先代の庭師とも面識のある私は、あの未熟な今代の反応を想像して納得した。そして今の台詞を鑑みるに、自分がいかに奇怪な格好をしているかの自覚はあるようだ。普段から胡散臭いと呼ばれている主も、今回ばかりは胡散臭いを通り越して、変だ。
ここまでして突っ込みを待つとは、主にとってそこまで意味をもつものなのか甚だ疑問だが、仕方ない。ここは私が突っ込むべきか……
「傘は貴方が持ってね。すごく大切なものだから、大事に扱うように」
「確かにいつもお持ちになってますね。そんなに大事なものなんですか?」
「あなたを式にする前からのつきあいよ。話せば長くなるけど」
「その割には相手にぶん投げたり、叩きつけたり、振り回しながら突撃したりしてますが」
「ほら行くわよ!」
「あ、ちょっと!私の傘がまだ……」
「狐なんだから平気でしょ!」
ものすごい勢いで家を飛び出していくのり巻き。話を流された私もあわてて付いていく。さっきのようにスキマを使えば傘も持てるだろうに、間違いなく今朝の意趣返しだ。毛皮があるのは尻尾だけだというのに。
空を飛ぶのり巻きと、後ろから律儀に傘を掲げる狐。はたから見たらどのように映るだろうか、などと考えたが、悲しくなってきたのでやめた。
今日の早朝から気温は高くなるのは予想していたが、雨という天候の割になかなかに蒸し暑い。私は起きた時、普段着に着替えていたが、布団にくるまっている主は無論寝巻である。加えて、今の布団は冬用の厚いものだから、中身はかなり悲惨な状態になっているだろう。
ちらりと顔を伺うと、やはりだらだらと汗をかいていた。身じろぎ出来ず気をつけの姿勢で突っ立っている主を想像するとちょっと気の毒な気もしたが、これは主の意向であるし、私も昨日手入れしたばかりの自慢の尻尾をびしょぬれにされているので、やはり何も言わない。しかしそろそろ、こんな傍迷惑な思いつきをした主と、早く突っ込まなかった過去の私とに腹が立ってきた。
幸い誰にも会わずに白玉楼までたどり着いた。雨はそこそこ強くなっていたから、よほどの好きものでない限り、目的もなく外に出る者はいないだろう。(私が犠牲となって)掲げてきた傘のおかげで、主はほとんど濡れていない。軽く戸を叩いて声をかける。
「ごめんくださいな」
「ああ、紫様。お待ちしており――」
奥から出てきた妖夢が固まる。ここまでは想像の範囲内、これ以降の反応が気になるので、私は黙っている事にした。
「あ、あの、紫様……?」
「ああ、藍は傘を忘れちゃってね。申し訳ないけど湯の用意をしてあげて」
「はあ、しかし、あの……」
「幽々子には私から言っておくから。お邪魔するわよ」
さすが主、相手に突っ込ませる暇も与えないとは。しかし、「傘を忘れた」はないだろう。家を出る前から降っていたのに、濡れながら外に出るとは馬鹿の二乗だ。こっちはわざわざ主の為に服と尻尾を犠牲にしたというのに。
「すまないな妖夢、床が濡れるから手ぬぐいを貸してくれ」
「あ、それは用意してあります。お風呂は廊下の奥ですので……今、着替えを持ってきますから」
尻尾の水気を出来るだけ切りながら、妖夢に話しかける。しばらくぽけっと主を見送っていた妖夢は、あわてたように走って行ってしまった。どうやら彼女の理解を超えた光景だったらしい。全ての対応は幽々子殿に任せるようだ。
賢明な判断であると思う。式の私でさえ理解できない行動を取る主に合わせられるのは、友人である幽々子殿だけだ。どこか抜けているようでしっかりと本質を見抜いている幽々子殿を見ると、私もまだ鍛錬が足りぬと感じさせられる。しかし……主や幽々子殿のような妖怪(亡霊)になりたいか、と問われれば……話はまた別だ。
「お待たせしました。もうお湯が沸きましたから、早く温まってください」
「ありがとう。やけに沸くのが早いんじゃないか?」
「幽々子様の指示で、少し前から沸かしておいたんです。誰か使うような気がするから、と」
「理由には納得がいかないが……ありがたく使わせてもらおう」
その理屈だと、今日の天候、主の突発的思いつき、私の同行などを予測していた事になる。断言してもいいが、他の二つならまだしも主の(すさまじく傍迷惑な)思いつきに対応できる者など、この世界に存在しない。例え幽々子殿であれ、だ。
まあこんな事もあるのかもしれないな。湯船につかりながらぼおっとそんな事を考えた。今回は主と幽々子殿の二人で話し合う事になっていたから、少しくらいゆっくりしても問題あるまい。まだ式に話すのは早い問題なのだろうか?もしそうなら少し、悔しい。
もともと私を連れてくる予定などなかったのだから、私も主が留守の間につかの間の休息を楽しもうと思っていたのだ。外界の数学書の、定理の矛盾を突いたり、新しい定理を発見したりするのが楽しい。無縁塚には、どういうわけか一つの問題に幾人もの学者が同時に取り組んだというような内容の本が流れ着く。何人でやろうが、何回やろうが結果は同じ、それが数学の魅力であるはず。なぜ人間は一人で取り組むのを嫌うのだろう?
風呂からあがり、新しい服を借りて外を見ると、雨も上がっていた。温まった体をまた冷やすのは憂鬱だったから、これは運が良かった。これではここに風呂に入りに来ただけだな、と心中で苦笑していると、空の色とは対極的な、陰鬱な顔の主が出てきた。
「紫様。もう御用事は済みましたか?顔色が悪いようですが、何か問題でも」
「いえ、特に。話し合いには問題無かったわ」
「それはなによりです」
主はなんとというか、やっぱりというか、のり巻きのままだった。「幽々子ならわかると思ったのに……」と、ぶつぶつ呟いているのが聞こえる。続いて出てきた幽々子殿は、私の顔を見てにやにやしていた。あ、これは絶対に気付いているな。
「じゃあね、紫。今度は手土産を忘れないように」
「そんなちょっとじゃ満足しないでしょ。来るたびに何か渡してたら八雲家は破産よ」
大して意味もない軽口を叩き合うお二人。顔色はやっぱり対照的だ。
見送りに出てきた妖夢に、主は起きぬけに私にしたものと同じ問いを投げかけた。妖夢は少し考えてから、首をかしげながら言った。
「……切られる立場の気持ちを、考えておられるのですか?」
居合切りの巻きワラに見えたらしい。剣士らしいひらめきだが、その発想はなかった。
すっかり意気消沈した主と共に我が家へ到着する。幽々子殿ならうまい切り返しを考えてくれるのでは、と少し期待していたのだが、今回は考えが甘かったらしい。あの方も主と一緒で、とにかく一般の思考とは(悪い意味で)かけ離れている。さて、これをどう収束させようか?
「紫様、昼食のご希望は?」
「まかせるわ……」
これはだめだ。たかが突っ込みの一つや二つ、流してしまえばいいものを。こんなことなら、朝に突っ込んでおいたほうが良かったかもしれない。ここまでこじれると、今普通に突っ込んでも「わかってたなら朝に突っ込みなさいよおおお」とか言いながら怒るに違いない。どうしたものか。
悩んだ末、私が出した答えは。
「紫様、昼食の用意出来ましたよー」
「ありがとう藍……って」
海産物から卵、新鮮な野菜までふんだんに使った各種のり巻き、もち米と牛蒡・いんげんの肉巻き、アスパラガスのベーコン巻き、エビのレタス巻き、生春巻き、わざわざ巻きすを引っ張り出して作った伊達巻き、一時間煮込んで作った昆布巻き。飲み物は、香霖堂で仕入れたキャラメルマキアート。
「あの、藍?」
「久々に力を入れて作りました。顔色が優れないようなので、甘めの味付けにしてあります」
「それは非常にありがたいんだけど、なんで全部巻き」
「さあ、何時までスマキになっているんです。目の前に私しかいないとは言え、自分の能力はそう何度も披露するものではありませんよ。横着せずに自分の腕で食べてください」
「! 藍、あなた……し、しょうがないわね。そこまで気を使ってもらっちゃ、聞かないわけにいかないわよね」
「はいはい。その前に着替えましょうか」
うれしそうに笑う主を見て、私も頬を綻ばせる。
他の様々な巻き物の力を借りつつ、結局私が言う羽目になってしまった。しかしこれ以上主を引っ込みの付かない状態にさせておくのも式として心苦しい。後始末は従者の役目だ。
私が朝に一言突っ込むだけで、今日の受難は無かったのだろう。しかしまあ……良しとしよう。目の前でにこにこしながら料理を頬張る、敬愛すべき我が主を見れたのだから。
なんで、キャラメルマキアート?と思ったけど、キャラメル『マキ』アートってことね。
でも、この和食には絶対会わないだろうなぁw
まったりした雰囲気があって和みました
すだれは窓の外に垂らす日差しよけです
スマキ妖怪という響きが良いですね
でもきっと一人勝ちなのは幽々子なんだろうな。