Coolier - 新生・東方創想話

平安時代のマミゾウさん

2012/04/14 18:12:06
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「最近は、新しい妖怪が生まれんで……京も寂しくなってしまったもんじゃのう」

 こう切り出す時、マミゾウの目は宙に向けられていることが多い。今回もそうだ。
 きっと彼女の目には、在りし日の京が映っていることだろう。
 夜な夜な大勢の妖怪たちが練り歩く、素晴らしい京の都。マミゾウが嘗てあった京への思いを吐露する時、隣に座るぬえは耳を傾けながら酒を呷るのが常である。
 酒が美味くなったことだけが、人間が増えたことで良くなった部分だ。どういうわけだか、人間という存在は酒造の技術に関しては途方も無い高みにあるらしい。
 その内、酒造りに対する情熱から妖怪でも生まれるのではないか。仮に生まれたとしても、すぐさま人間に退治されるのが関の山だろうが。

「うん、確かに寂しくなった。前はもっといろんな妖怪が居たはずなのにねぇ」
「そうじゃろう。ああ、みな居なくなってしまった……」
「あいつら、何処に行っちゃったんだろ。やられたならともかくさ、出て行くのに何も言わないって、不義理も良いとこだってば」
「おおかた、儂等では足手まといになるからじゃろう。あ奴らから見れば、まだまだ赤子のようなもんじゃよ」

 マミゾウは声を落とし、杯を傾けた。
 昔の京は魑魅魍魎が跋扈する魔都と呼ばれるほどの都であった。土蜘蛛が病気をばらまき、大江山の鬼たちが人々を連れ去っていく。
 百鬼夜行や青獅子が暴れまわり、天狗が空を行く。彼らの姿を見て人間たちは恐れおののき、家の隅っこで震えることしかできないのだ。
 ぬえとマミゾウもその中にあって、人を食うことはしなかったが様々な姿に化けて驚かせて回っていた。人間が真っ青な顔をして、腰を抜かすのが堪らなく愉快だった。
 食わないでくれ、殺さないでくれと懇願する様子を見下して、歪な声で笑ったものだ。
 だが時が経つにつれて人間たちに討伐されたり、自分から姿を消したりで、妖怪たちは姿を消していった。あの頃酒を酌み交わした土蜘蛛も鬼も、もう京には居ない。
 あれだけの力を持っていた彼らがどうやって退治されたのか、何故姿を消したのかは皆目見当がつかなかった。
 どうせ、卑怯な手段でも使ったのだろうとマミゾウは判断していた。人間とはそういうものなのだから。
 妖怪が数を減らすのに従って、ただ化かして驚かせるだけという二人に対しても人間は力を向けてくるようになった。
 理解の及ばない存在を全て排除し、夜の世界も自分の物にしようとする。飽くなき人間の野望と、時の権力者が自分の力を見せつけたいがための行動だろう。
 人間を殺さなかった自分たちを付け狙う理由を、マミゾウはそう考えていた。
 そんな人間に対して、二人は一緒に行動することで対抗することにした。一人では力不足かもしれないが、二人であればどうにかなる。取り残された者同士で仲良くやろうではないかと。
 二人で人間を化かし、それを肴にして酒をかっくらう。討伐しようとする人間どもを、力を合わせて撃退する。
 京を離れるという選択肢はなかった。生まれ育った場所に背を向けておめおめと逃げ出すなど、プライドが許さなかった。
 時が経つに連れて二人は、協力していく内に私生活でも共に過ごすようになっていった。
 人間を化かすときだけでなく、寝食を共にする。どちらかが悲しんでいればつられて悲しくなり、嬉しければ一緒に笑う。
 友人以上恋人未満といったところだろうか。
 そんな関係にすっかり慣れてしまった二人は、離れて暮らすことなど想像もしなかった。
 危うい関係だと、頭のどこかで分かっているつもりだった。どちらかが居なくなってしまったとき、残された方はどうなるのだろうか。
 しかし、相手の側に居ることが心地良いというのも事実なのだ。だからお互いに、その思いを閉じ込めることにした。

「なぁ、ぬえよ。お前さんは、何時まで一緒に居てくれるかのう?」
「さぁ? 私はずっとここに居るつもりだから、退治されるか、それこそマミゾウがどっかに行っちゃうんじゃない」

 すました顔で、ぬえは自分の意を伝えた。それから酒を注ぎ、すぐさま呷る。

「ただ一人の友を見捨てて、儂が何処に行くと言うんじゃ。そんなこと、天地がひっくり返ってもありえんわ」
「あ、そうなの? いや、ほら、マミゾウは最近さ、すっかり年寄り臭くなったでしょ? だから……何か私にそれが感染するんじゃないかって。嫌だからね、年寄りみたいになるなんてさぁ」

 ケラケラといたずらっぽい笑みを浮かべるぬえに、マミゾウは目を剥いた。
 好きでこうなったわけではない。噂が形となったぬえに比べて、マミゾウは狸から妖怪へと成った存在だ。外見は若いままだがしっかりと歳は取る。
 ぬえが羨ましいと思ったことなど、一度では済まない。

「はぁ!? そんなことあるものか! それを言うならぬえはちっとも成長しておらんではないか。何時までもちんちくりんのまんまじゃろうが」
「うわ、それ言う!? 見てろぉ、直ぐに追い抜いてやるから!」
「そうか、それならその時まで一緒に居てやろうではないか」
「絶対にマミゾウには吠え面かかせてやる! それからずっとばあさんって呼んでやるから!」
「呼べるものならな。無理だったら、ずっとぬえちゃんと呼んでやるわ!」

 互いに声を張り上げる。端から見れば、取っ組み合いの喧嘩になるのではないかと言うほどの剣幕だ。
 実際、二人は徐々にヒートアップしていき、ついにはぬえがマミゾウに飛びかかった。不意を突かれたためかあっさり押し倒され、縦横へ頬を引っ張り上げられる。
 しばらくそうやっていたぬえだったが、引っ張り上げたまま笑い始めた。

「マミゾウ、変な顔!」
「なんひゃとぅ! この!」

 笑い出してしまったことで、身体を押さえつけていた力が抜けてしまう。すかさずマミゾウは相手の腋へ手を挿し込みくすぐり始めた。
 ぬえは頬を引っ張り、マミゾウは脇をくすぐりながら、二人は心底楽しそうに笑い会う。宙をかき回す足が酒瓶に当たり、コロンと倒れた。
 二人は動きを止め、しまったという顔になる。だが酒瓶は空になっていたらしく、酒が流れててくる様子はない。
 転がっていく酒瓶を前に二人は顔を見合わせると、胸をなで下ろした。酔っぱらいたちはそれが何故か面白いと感じたらしく、馬鹿笑いを始めた。
 きっとこうやって、ずっと共に過ごすことが出来るのだとお互いに思っていた。










 闇に紛れるようにして、マミゾウは都を歩いていた。
 常に声や足音、気配などに気をつけながら進んでいく。尻尾や耳は隠し、街娘に見えるような服装を着てはいるが、万が一見つかってしまった時はどうなるか分からない。

「封印か八つ裂きか、それとも乙女の口には似合わんことでもされるか……」

 ぬえが聞いたら、何が乙女かと腹を抱えて笑っていただろう。
 これが太陽の昇っているうちなら問題はなかっただろう。真っ昼間から乱暴狼藉を働くような馬鹿は居ない。
 だが、今は状況が異なる。妙な気を起こすなと言う方が無理な話だ。

「さて、ぬえはどんな酒を持ってくるかのう。しょうもないのを持ってきおったら、承知せんぞ」

 二人が分かれて行動している理由は、ちょっとした気まぐれからの遊びである。
 京に住む人間の家から、より美味い酒を持ってくることが出来るのはどちらか。酒瓶を蹴り倒してから数日が経ち、備蓄していた酒が切れたところでぬえが提案したことだ。

「暇もつぶせるし、違う味の酒が手に入るって良いと思うでしょ」
「なるほどな。毎度毎度ただ盗んでくるよりは、こういう刺激があるのも悪くなかろうて」

 マミゾウが狙いを付けているのは、いかにも金を持っていそうな大きな屋敷である。
 ボロ小屋に住んでいる人間が見窄らしい服装であるのと対照的に、屋敷から出てくる貴族たちは誰も彼も、煌びやかな着物に身を包んでいた。

 ――あの連中、嫌らしそうに笑っとるわ。気品も何にもない、嫌らしい笑顔じゃ。
 ――マミゾウ、ああいうの嫌い?
 ――あまりな。あれは見せつけたいだけじゃ。中身が付いてきておらん。あれに着られる着物が哀れだわい。

 牛車に揺られながら踏ん反り返っている姿を見て、ぬえと囁きあったものだ。どうせ嗜好品にも金をかけて、良い物を集めているに違いないと。
 狙うのなら、絶好の獲物ということだ。
 そこで問題になるのは、得てして厳重な警備体制が敷かれているということだった。
 周りの掘っ建て小屋から道一つ分は離れているし、取り囲むように高い塀が築かれている。さらにその周囲を巡回する人間が居るという念の入れようだ。
 だが幸いにも、マミゾウには警備の目を誤魔化すことの出来る力があった。化けさせる程度の能力。対象は物や他人だけでなく、自分も含まれる。
 屋敷の近くまで来ると、化けたい相手を思い浮かべ力を込め始めた。ぐぐぐと歯を食いしばり、握りしめた拳は血が出んばかりだ。
 ある程度自分より巨大な物や、逆に小さい物へ化けようとすると、余計に力を使い集中を必要とする。
 これさえなければ、もっと安全に忍び込めるんじゃが。どうしようもないとは分かっていながら、つい高望みをしてしまう。
 マミゾウがわざわざ人間の姿で近くまで来たのも、これが原因である。帰りは満杯になった酒瓶を持って帰るのだから、余計な力を使いたくなかった。

「はっ!」

 力を込めた次の瞬間、マミゾウの足下から煙が噴き出し始め、瞬く間に身体を覆い隠していく。
 直ぐに煙は晴れたのだが、マミゾウは忽然と姿を消していた。代わりに居たのは一匹の黒猫である。
 体には酒瓶が二つ、落とさぬようくくりつけられていた。中身が入っていなければ、猫ほどの体格でも何とかなるものだ。
 化けたときにこうなるよう、事前に用意していたものである。闇夜に紛れることが出来れば、太った猫に見えるだろうと考えたのだ。

「……ナーオ」

 
 鳴き声が闇夜へ消えていく。仮に聞かれていたとしても、夜に猫がうろついているのはなんらおかしくない。怪しまれることはないだろう。
 猫は遠くに見える壁を金色の双眸で捉え、ゆっくりと歩き始めた。



 

 見つかること無く屋敷内へ入り込むと、マミゾウは元の姿へ戻った。
 どうやら警備は屋敷の外に集中しているらしく、中はほぼ無防備と言っても良かった。

「まったく、不用心なもんじゃのう。外ばかりで、内には目を向けんのか」

 それとも、とマミゾウは考える。妖怪など、最初から眼中にないのだろうか。
 確かに人間相手なら外の警備で事足りるだろう。だが、能力を使えばザルも同然だ。化かす妖怪が居ることは知っているだろうに、その事をまったく考えていない。
 忍び込むには楽なのだが、それほどまでに妖怪を軽視しているのかと思うと、寂しさを覚えるのだ。
 落胆しながら、暗闇に包まれた屋敷の中を慎重に進んでいく。
 やがて、やたらと巨大な部屋にぶち当たった。連日連夜、宴でも催しているのか異様に酒臭い。
 決して嫌いではない、むしろ好きと言える臭いだ。しかしマミゾウは不快そうに眉を顰め、その場を後にした。
 廊下を進んでいくと、光の漏れている部屋があった。こんな夜中に、誰か起きているのだろうか。興味を引かれたので、つい覗いてしまう。
 部屋の中では、でっぷりとふとった豚が眠りこけていた。膨らみきった腹が、呼吸にあわせて上下している。

「何じゃ、蝋燭の消し忘れか……。こいつが、この屋敷の主人じゃろうな。まったく、何という姿をしているんじゃ。贅沢を極めた人間というのは、こうもみっともないのかのう」

 一瞬で興味を失ったマミゾウは障子を閉じようとした。半分ほど閉じた所で、その手がぴたりと止まる。同時に体中から脂汗が流れ始めた。
 背後に、誰か居る。
 男に気を取られていたせいで、ここまで近づかれているのに気が付かなかった。何たる不覚。このマミゾウ、一生の恥かもしれん。
 背後にいる誰かは、何故何の動きもしてこないのだろう。叫び声の一つでも出せば、この盗人はたちまちご用だというのに。
 後悔の念と疑問が、交互にマミゾウの頭をかき回していく。落ち着けと自分に言い聞かせた。
 言葉を発するための呼吸音を、耳が拾い上げる。
 叫び声であるなら、最初の発声をした瞬間に口を塞ぐしかない。素早く動けるよう脚の筋肉に力を込める。

「あの……。もしかして貴方は妖怪、ですか?」

 おそるおそる訊ねてくる声。
 予想とは異なる言葉に、マミゾウは動くことが出来なかった。声の様子から判断するに、恐らく若い女だろう。
 大の男ではないだけ幸運か。何かあれば、直ぐ様物言えぬ体にすることが出来る。
 しかし、どれだけ待っても次の言葉はない。
 相手が二の句を継がないのは返答を待っているからだと判断し、何時でも動けるよう力を抜けずに話しかけた。

「ああ、如何にも儂は妖怪じゃ。お前さんからも見えておるじゃろう? この尻尾と耳が」

 背を向けたまま、マミゾウは尻尾と耳を微かに動かして見せた。
 これが見えているから、女は妖怪かと訊ねたのだろう。

「やっぱり、妖怪……。ここへはどうやって?」

 また質問か。何を考えているのか分からないが、叫ばず話しかけてきた勇気に答えてやるのは良いだろう。


「化けて、な。警備は厳重のようじゃが、儂らのような相手に、そんなものは通じんぞ。姿は変えれるし、化かすことも出来るからお茶の子さいさいじゃわい」
「わざわざ化けてですか?」
「ああ。コソコソやらんで、警備の人間をなぎ倒してやっても良いんじゃが、騒ぎを起こすと面倒だしのう。ま、お前さんぐらいなら大声を出す前に一捻りじゃわい」

 一捻り。その部分を強調してやった。
 しかし、女に動きはない。そそくさと逃げれば見逃してやるというのに、それが分らないのか。
 大声も出さず、動こうともしない。一体何がしたいのだろう。
 痺れを切らしたマミゾウは、身体を声の主へと向けた。そこには予想通り、年若い少女が立っていた。
 年の頃は十四、五と言ったところだろうか。人に好かれそうな顔立ちをしている。
 身に纏っているのは、煌びやかな屋敷に似合わない質素な寝間着。さて、果たしてこの家の人間だろうかと首をひねる。

「化かす……ううん、でも……それなら……」

 はっきりと聴き取ることができない程に小さな声で、少女は何事かを呟いていた。
 その様子がマミゾウを苛立たせた。
 こいつは何がしたいのだろう。逃げも叫びもしないのは、妖怪が怖くないということなのか。それほどに貴族は傲慢だというのか。
 ならばその細い手足、へし折って恐怖をたたき込んでやろう。
 どす黒い感情に任せて脚を動かそうとした瞬間、少女がようやく声を上げた。

「あの、お願いしたいことがあるんです!」
「……何? 何て言った?」

 まさかの言葉に、マミゾウの体から力が抜けてしまった。少女の言葉が直ぐには理解できず、思わず聞き返す。
 少女は自分を見つめる瞳に臆したのか、視線を外してしまう。

「貴方の力を見込んで、お願いがあると……言いました」
「お前さん、なぁ……」

 少女が自分を恐れていないように見え、マミゾウは再度苛立ちを募らせた。妖怪に対する恐怖心があるなら、お願いしますなどと口が裂けても言えないはずだ。
 無いのであれば、与えてやろう。
 背筋が凍るような威圧感を放ちながら、ゆっくりと少女へ近づいていく。目の前に立って睨めつけた時、マミゾウは気が付いた。
 か細い体が震えているのだ。黒い瞳は恐怖心をたたえ、表情は強ばっている。ふぅむとマミゾウは唸った。
 少し驚かせば卒倒しそうだというのに、そこまでしてお願いしたいことがあるのか。

「……それで、何じゃ。お前さんの願い、聞くだけ聞いてやろう」
「ああ……」

 少女の表情がほんの少し、明るくなった。依然、体の震えは止まっていない。
 聞くだけ聞いてやろうと言うのだから、その後にどうするかは目の前にいる妖怪次第なのだ。
 人間とは精神構造からして違う相手が、何を不快に感じるかなど分からない。次の瞬間、頭から喰われてしまうかもしれないのだ。
 だが、もう逃げることは出来ないだろう。その機会は与えられていたのに逃げなかったのは少女自身で、さらに願いがあるとまで言ったのだから。
 さて、それでどんな願いか。マミゾウが訊ねようとした瞬間、大気が震えた。
 寝返りの音と、大きないびき。しかも一度では済まず何度も繰り返されるそれに、二人は思わず顔を見合わせた。
 漂っていた緊張感がたちまち霧散していく。

「……のう、場所を変えんか?」
「ええ、そうですね。場所を変えて、話をしましょう」

 マミゾウの提案に、少女は頷いた。
 このいびきで住人が起き出してくる可能性があるし、落ち着いて話も出来ない。
 特に前者は重要な事だったので、少女が同意してくれたことにマミゾウは安堵していた。忍び込んでいたのがバレて人を呼ばれ、酒の入手に失敗したとなれば、ぬえにとことんまで馬鹿にされるだろう。
 そこでマミゾウは、自分が何故忍び込んでいたのかを思い出した。酒だ。きっとあるだろう良質の酒。
 あれだけデップリと肥えた豚が居るのだから、さぞかし食い物には拘っているだろう。これは期待できそうだ。

「おお、そうじゃ。儂の目的もあるし、酒の保管してある場所にせんかのう? 美味い酒なら、つまらん話も面白く感じるじゃろうて」

 余計な場所へ先導される前に、先手を打つ。

「はい、分かりました。その前に蝋燭を消さないと。危ないですから……そのために来たんですし」
「ああ、倒れでもしたら洒落にならんからのう。あそこはいっそう激しく燃えそうじゃ」
「それでは少しお待ちくださいね」

 少女はマミゾウの隣を通り、部屋へと姿を消した。漏れていた光がフッと消え、辺りが暗闇に飲まれていく。
 マミゾウの姿を照らすのは、窓から差し込む月光だけとなった。
 ややあって、お待たせしましたと少女が部屋から出てきた。いびきは未だけたたましく、彼女があの人間を起こした様子はない。

「それでは行きましょうか。後から付いてきてください」

 育ちの良さを感じ取れる所作で、少女が先導を始めた。マミゾウは警戒心を解くこと無く、背中を追いかけるのだった。
 




 廊下を歩きながら、二人は自己紹介を交わしていた。二ッ岩マミゾウだと名乗ると、少女は目を丸くした。

「妖怪にも名前ってあるんですね。化け狸なら、化け狸という名前だけなんだと思っていました」
「ふーむ、随分と妖怪に対しての理解が無いとみえる。名前を知るというのは、相手を理解することの第一歩と言うじゃろうに。確かにそういう妖怪も居ることは居るが、大抵はそういうのは種族の名称であって、名前ではない。現にこうして、儂には二ッ岩マミゾウという名前があるわけでな。お前さんが言うのは、付喪神みたいな連中だけじゃぞい。あやつらなら、一体一体に名前があるというわけではないからのう」
「なるほど……覚えておきます。えっと、二ッ岩さん? マミゾウさん?」

 少女の問いに、マミゾウは思わず苦笑した。
 二ッ岩さんというのはどうだろう。初めてそう呼ばれたが、随分と違和感があるものだ。
 ぬえは初対面からマミゾウと呼んでいたし、他の連中もそうだった。その呼び名に慣れているというのもあるだろうが、何より語呂が良くない。

「マミゾウで良いわい。で、お前さんは? 人間だの、貴族だのというんではなく、ちゃんと個人としての名があるんじゃろうに」
「ええ、もちろんです。私はこの家の娘で、彰子といいます」
「……何? 今、この家の娘と言ったのか?」
「ええ、そうですけど、それがどうかしたんですか?」

 マミゾウがピタリと足を止めてしまったので、彰子と名乗った少女も同じように足を止めてしまった。
 疑問符を浮かべる少女の顔を、注意深く見つめる。まるで観察しているかのようだ。
 端正で、幼さの残る顔立ちは誰からも好かれそうである。ぷっくりとした頬や、健康的な唇。じっと見つめられても不快感を抱きそうにない、くりくりとした瞳。
 貴族にはとても見えない身形のせいもあるだろうが……これはおかしいだろう。
 彰子は見つめられていることが恥ずかしいのか、顔をほんのり赤らめながら、何故かにっこりと笑った。

「どうしたんですか、そんなにじっと見られたら恥ずかしいですよ」
「あ、ああ。すまんのう。うーむ…親子だというに、あれとこんなに違うとはなぁ。人間はやはりよく分からんわい」

 目の前ではにかむ少女と、あれが親子というのは信じられないことだった。だが嘘を付く理由もないだろうから、疑っても仕方がない。
 きっと母親に似たか、あのような姿になる前はそっくりだったのだろう。マミゾウはそう結論づけた。
 同時に、ある不安が頭をよぎる。この娘も、あれと同じようになってしまうのだろうか。丸々と太り、醜い醜態をさらす。
 彰子のそんな姿を想像し、何を考えているのかと首を振った。自分が心配してどうするというのか。

「マミゾウさん、あれとこんなに違うというのは? 一体何と違うんです?」
「あ……うーむ……」

 どうやら聞かれてしまったようだ。
 さて、どうしたものかと頭をかいた。まさか「あの豚とお前さん、随分違うのう」などと言えるわけがない。
 言葉に詰まったマミゾウの様子から察知したのか、彰子は複雑そうな笑顔を見せた。

「よく言われるんです。昔はああでは無かったそうですよ。母がそう言っていました。権力を手に入れて、それを維持しているうちにああなってしまったと」
「すまんな、失礼なことを考えてしまって。そうか、昔は違っていたんじゃのう……。ならお前さんも将来はああなるかもしれんということじゃな」
「そうはなりません。なりたくはありませんよ、私は」
「ふむ……」

 冗談半分に言ったことだが、彰子はそれを強く否定した。しかし本当に出来るかは怪しいものである。
 一生というものはまだまだ長い。生きていくうちにいつの間にか、もしくは家のためだと強制され、それ以外にも数々の要因が彼女の決意を変えていく可能性があるのだ。

「出来ればそうあって欲しいものだわい。変わるなら悪い方向ではなく、良い方向へな。そっちになら、いくらでも変化すればいい。人間の一生は短いんじゃから、少しも変わらんというのは面白くなかろうて」
「ええ、マミゾウさんの言うとおり、良い方向にいけるよう頑張ります。だから……」

 全てを言わず、彰子はそこで言葉を切った。その表情は真剣そのものだ。

「未来を良い方向へ変えるよう、そうなるためのことを、マミゾウさんにお願いしたいのです」

 そう言葉を続けた。ふぅむとマミゾウが唸る。未来を良い方向へ変えるための願いというのは、一体どれほどのものか。
 引き受けると決めたわけではないが、やはり興味を惹かれる。さて、その内容も彼女が案内してくれる場所へたどり着けば分かることだろう。
 叶えられるか否かは、また別の話だ。





「ほう、これは……中々良い代物ではないか」
「そうでしょう。父は、こういうのには五月蠅いですから」
「ほうほう。儂が睨んだ通りじゃわい。これでしょうもなかったら、ちと困る事になるんでな」

 案内されてやって来た倉の中には、幾つもの酒樽が鎮座していた。
 むせかえるような酒の臭い。強烈ではあるが大部屋で嗅いだものとは違って、実に心地よく感じた。腹一杯に吸い込み、顔が崩れる。
 酒造りの職人たちが汗水を流して作り上げた、苦労の結晶だ。口をつける前から、どれだけ力を入れた逸品であるか推察することが出来る。
 先ず鼻を満足させたマミゾウは、遂に我慢できなくなり近くにあった樽へと飛びついた。酒瓶をつっこみ酒をすくい上げると、口から溢れるのではと彰子が心配するほどの勢いで空にした。
 次の瞬間、目尻がとろんと下がる。のどを焼いていく感覚が、心地よくてたまらない。これぞ、酒だ。
 他の酒も試してみるが、どれもこれも手放しで褒めたくなるような一級品ばかりだ。全てを持って帰れないのが、たまらなく惜しい。
 マミゾウはあれもこれもと一通り試飲すると、これが良いと決めた酒樽の中へ、持ってきていた二本の酒瓶を突っ込んだ。酒瓶から泡が出てこなくなったのを確認すると蓋をし、引き上げる。
 揺らしてみるが、一分の隙間もないほど酒の入った酒瓶からは何の音もしなかった。それに満足そうに頷いたマミゾウは、ようやくその赤ら顔を彰子へと向けた。
 
「これでよし、と。さて、次はお前さんのじゃな」
「あ、はい!」

 どっかりと座り込んだマミゾウの対面に、彰子も腰を下ろした。先ほどは随分と思い詰めた顔をしていた彰子だったが、嬉しそうにしているマミゾウの姿を見て緊張が和らいだのか、少しは穏やかな表情になっていた。

「一体何を儂に頼もうとしておったのかのう? ここの酒は良質じゃから、今は気分が良い。何を言っても構わんから、ほれ」

 栓を抜く小気味よい音と、濃厚な酒の臭いが広がっていく。マミゾウは赤ら顔をだらしなく緩ませながら、酒瓶を傾けた。
 確かにこの様子なら、大丈夫だろう。

「私と、ある人をこの都から連れ出して欲しいのです。このままでは、私たちは一生後悔することになってしまう。此処を離れて、何処か遠くへ連れて行って欲しいのです」
「ふぅむ。連れ出す、か」

 なるほど、化けさせる能力を持つ自分ならそれも容易い。姿を変えるなり、警備の人間を惑わすなりで手段には困らないだろう。お茶の子さいさいということだ。
 しかし、いざ頼み事を聞くと今度は理由が気になるものである。

「確かに、儂なら出来るじゃろうな。人間を化けさせたことはないが、他の動物は大丈夫と分かっておるし、問題はなかろうて。しかしな、家を捨て都を捨て……何故そうまでしたい? その理由は? ここに居れば、生活に困ることは無いと思うんじゃが」

 この家に居れば、一生裕福に暮らしていくことが出来るだろう。平民のようにぼろ小屋に住み、日々の糧に困ることもないのだ。
 本人が望めば様々な人間を顎で使うことが出来るし、質の良い生地で縫われた着物を着ることも出来る。勿論、豪華絢爛な装飾付きだ。
 酒と、それを共に酌み交わす仲間が居れば満足出来るマミゾウは、派手な着物や、異常に豪華な食事を羨ましいとは思ったことはない。
 だがそれらは人間にとって重要な要素ではないのか。どれか一つでも欠けている状態で満足するはずがない。

「確かにここに居れば、一生安泰に暮らしていくことが出来るでしょう。私がこういう服装をしているのは、ただ肌に合わないというだけです。生まれる家を決めることは出来ない。それは重々分かっていますから、そういったことに文句を言うつもりなどありませんでした」
「今は、変わったと?」

 マミゾウの問いに、彰子は首肯を返した。窓から差し込む光に照らし出された彼女の顔は、真剣みを増しているように見える。
 それを見たマミゾウは、酒瓶にしっかりと栓をして脇に置いた。
 話しやすいようにと態度を崩していたが、相手が驚くほど真剣なのだ。それに付き合ってやるべきだろう。

「はい。今は、もう違います。この家ではなく、もっと自由に……好きな相手と一緒になるぐらいの自由が欲しいのです。ここに居る限り、それは一生叶わない望み。だから……!」

 連れ出して欲しい。彰子はそう言葉を結んだ。全てを聞いたマミゾウは渋い顔をしている。
 好きな相手と一緒になりたいというだけの理由で裕福な暮らしを捨て、明日をも知れぬ生活へ身を投じるというのだから、理解できるはずがない。

「好きな相手と一緒になる自由……。お前さん、本当にそれだけでこの家と財を捨てると本気で言っておるのか? たったそれだけのために、約束された幸せを捨てるというのか?」

 ここに居れば将来も安泰だという意味で約束された幸せと言ったのだが、彰子は違う意味だと受け取ったらしい。
 マミゾウの言葉に、たちまち泣きそうな表情になってしまった。

「約束された……そのような相手と一緒になって……好きでもない相手と一緒になって、幸せになれるはずがありません! それと一生を過ごすというのは、私にはとても……!」

 搾り出すように言うと、彰子は両手で顔を覆ってしまった。
 なるほど、限りのある一生を好きでもない相手の側で過ごすのは嫌だろう。例えばぬえがそういう相手だとしたら、ずっと側に居ると思っただろうか。
 否だ。ありえない。一時の協力関係は築けるだろうが、何時かは必ず破綻するだろう。
 寿命の長短など関係ないのだ。たった一度しか無い生涯を実りあるものにしたいというのは、誰しもが思うことなのだから。
 そう考えると、力を貸しても良いのではと思えるのだ。

「なるほど、な。一生か……短い生涯、不幸なまま過ごすのは確かに嫌じゃろうな。色んな意味で人間は儚いからのう。後悔して、不幸なままポックリと死んでは浮かばれんじゃろうて」
「ですから……!」
「じゃがのう、協力は出来んぞ」

 彰子は何を言われたのか分からないようだったが、理解が及ぶに連れて悲痛な顔へ変わっていった。
 だがその想いを言葉にすることはせず、視線に込めてマミゾウを見やった。しばし無言のまま、互いの視線が交錯する。
 マミゾウの瞳に何かを物を感じたのか、彰子は諦めにも似た表情を浮かべた。

「そうですよね……妖怪のマミゾウさんが、人間を助ける理由なんてありませんもんね」

 どうも勘違いをしておるな。訂正をしなければとマミゾウは口を開いた。

「いや、そうではないんじゃよ。儂としては、お前さんを助けてやっても良いかと思っとるわけでのう」
「え……じゃあどうして……」
「お前さんを化けさせて、ほいそれまでよと……確かにそれでも良いかもしれんわい。じゃがな、それでその後もずっと幸せになるのか? 力のないお前さんが外の世界で生きていけるとでも? 生活は苦しくなり、徐々に関係は軋み始めると……そういうことじゃな」
「あ、う……」

 そして不幸な話の一丁上りとなる。マミゾウはそう続け、手を叩いた。さてどう言い返してくるかなと、口元を歪めた。
 対する彰子は、何も言うことが出来なかった。
 この家の庇護を受け続けて育った女が、地獄一歩手前の生活など出来るか。出来るものならやってみろと、そういうことだったが、それがどれだけ大変なことか想像出来たらしい。だから返す言葉が無いのだ。
 しかし切り捨てただけでは、酒の礼にはならないだろう。それは不義理だ。人間の不義理を嫌う自分が、同じ事をしてどうするというのか。
 言うだけならばいくらでも出来るが、ここは助け舟を出すところだろう。

「まったく、何も言えんのか。じゃあそうならんように、考えるんじゃよ。自分にまだ何が出来るのか、考えてやってみらんか」
「でも、他に何を……すれば良いのですか。父には頼みました。ですが、何もしてくれませんでした。それで、どうしろと……」
「頼んだというのは、一度だけか? それとも何度も? あの父親が望むような格好を、言動をして、それを対価に叶えてもらおうとは、思わんかったのかのう?」
「…………」

 この瞬間まで思いつきすらしなかったのか、やはり言葉はなかった。

「それ以外にもまだあるとは思うが、さて……あの父親じゃからきっと、お前さんが自分の望んだままの娘になれば、さぞ満足するじゃろうな。そんな可愛い娘のわがままを、一つぐらいは叶えてやろうという気になるかもしれんぞ」

 他人をただ頼るだけで、その相手が動くはずがない。虫の良い話というものだ。
 ただ頼られただけで力を尽くそうというのは、聖人ぐらいなものだろう。常人なら自分が望むことをされることで、初めて願いを叶えてやろうという気になる。
 簡単なことではないかも知れないが、それを選ばなかったときの困難を考えると、まだ楽な方だろう。

「本当にそれで、何とかなるのでしょうか?」
「さぁて、それは見当も付かん。まぁ、やらんよりは良いに決まってじゃろうて。それでも駄目だったときは、儂に頼むと良い。その時は、力を貸してやらんでもないぞ?」
「え……」
「思いつく限りのことをしてからじゃぞ。ここでこうやって話を聞いたのも、何かの縁かもしれんし、無下に突き放すのも性に合わん」
「あ、ありがとうございます!」

 彰子は笑顔になり、深々と頭を下げた。まったく大げさなと、頭をかきながら笑ってやった。
 実のところ、純粋な善意だけではなかった。
 マミゾウはこれまで、恋愛というものを経験したことがなかった。相手が居ないのだから仕方が無い。
 だから、この機会に観察でもしてみようと思ったのだ。人を愛すると言うだけで、どこまで人が頑張ることが出来るのか。ぬえに対しての好きと、こういう『好き』というのはどう違うのというのだろう。
 それらを間近で見ることが出来る、良いチャンスであった。先ほどの言葉も本心半分、直ぐに連れ出しては観察できないと言う思いが半分であった。
 マミゾウがそんな思いを抱いているなどと、彰子が気が付いた様子はない。

「ちゃんとお前さんが頑張っているか、たまに様子を見に来るとするわい。その時は話し相手ぐらいにはなっても良いんじゃが、どうかのう?」
「こちらこそ、お願いします」

 その言葉に、マミゾウは満足げな笑みを見せた。ここで断られては意味がない。
 さて、この娘はこれからどういう行動をするかのう。期待に心を躍らせながら、酒瓶の蓋を抜き中身を胃へ流し込んだ。
 ほう……と心地よさが口から漏れる。やはり、旨い。これをぬえに持って帰ってやったら、ひっくり返るのではないかと考えて、しまったと手を打った。

「そうじゃ。あんまりガバガバと飲むわけにはいかん。話も聞けたし、そろそろ帰るとするかのう」

 空っぽの酒瓶を名残惜しそうに、隙間無く詰まった酒瓶を愛しそうに抱き抱えると、マミゾウはぐるりと周囲を見渡した。
 酒と話に夢中になっていたせいで気が付かなかったが、ここには窓がない。

「外に面した廊下は無いかのう? 外がよく見える大きな窓があるところでも良いんじゃが」
「ありますよ。付いてきてください」

 先を行く彰子の後を、割っては大変だと酒瓶を大切そうに抱えたマミゾウがついて行った。





 こういう月を見ながら、隣にぬえを座らせて酒を飲んだらさぞかし旨いだろう。窓はおろか壁すらない吹き抜けの廊下から、マミゾウは月を眺めていた。
 彰子に案内された場所は、ここから抜け出すのにうってつけの場所であった。もしここを通っているときに曲者から襲われたら、一溜まりもないだろうなと想像し、外の厳重な警備を思い出した。
 なるほど、ここまでたどり着くことは難しいのだろう。

「おっと……あんまり考えていては、ぬえを待たせてしまうわい」

 マミゾウは紐を取り出すと、酒瓶を足へ括りつけた。試しに足を動かして微動だにしないのを確認すると、満足そうにうなずいた。その様子を不思議そうに眺めている彰子を後目に、意識を集中させ始めた。
 何へ化けるのか、姿形や大きさをしっかりと思い浮かべる。
 間髪入れずに、マミゾウの足下から煙が立ち上り始めた。驚いた彰子が壁際へ移動する。
 煙が晴れるとそこには一羽の鷲が翼を広げていた。狼をも捕食してしまうというその猛禽類の脚には、酒瓶が括りつけられている。

「すごい……」

 目の前の鷲が偽物などと、誰が想像できるだろうか。体躯は少々大きいが、警備の目なら問題なくごまかせるだろう。
 これが本物なら彰子の身が危険にさらされる可能性があるが、襲うこと無く一瞥するだけだ。その目に敵意はなく、友愛の光が宿っていた。慎重に近寄ると、恐る恐る手を伸ばし体を触れてみる。
 身体を撫でられ、鷲は気持ちよさそうに目を細めた。ああ、やっぱりこれはマミゾウさんなんだ。抱いていた不安が霧散していく。
 しばらくされるがままにされていたマミゾウだったが、やがてゆっくりと翼を動かし始めた。

「あ、あんまり引き留めてると駄目ですよね」

 彰子が羽の届かない場所まで離れると、鷲はいよいよ勢いよく翼を動かし始めた。そしてあっという間に上空へ飛び上がると、何度か屋敷の真上を旋回し始める。まるでさよならと言っているようで、彰子は大きく手を振った。
 それから力強く翼を動かし、大江山の方角へと消えていく。
 一人残された少女は、マミゾウが消えていった空を眺め続けるのだった。
 








 
 今日の月も、美しかった。彰子と出会った日のようだ。月を見上げ、マミゾウはそう思う。
 ぬえとマミゾウの二人は意気揚々と、都の外から住処への帰路に着いていた。
 彼女らは日中ではなく、夜に動く。月の光や、頼りのない松明の炎に彩られ、ぬえとマミゾウの化けた姿はより凄惨なものに見えるのだ。
 恐怖に染まった叫び声。それに反応してやってきた兵士たちも、この世のものとは思えない化け物の姿を見て、陸に上がった魚のように口をパクパクと動かすばかりだ。一瞬の後、頭から食われるのではないかという思いに襲われ、一目散に逃げていく。
 夜な夜な人々を襲う化物は、話を聞いただけの貴族たちをも震え上がらせているらしい。ぬえが夜の静寂を引き裂きながら吼えると、その声がかすかに聞こえただけで、がたがたと震えながら布団の中にもぐ込むという。
 何でも、ひっくり返ってそのままあの世へ旅経つ者も居るとか居ないとか。夜の世界をも統べようと言う人間が、随分と情けないものだ。
 今日も二人は人間たちの慌てふためく姿を笑い、酒の肴に丁度いいなどと話していた。
 悲鳴を聞きつけ集まっている警備の目をかい潜りながら、のんびりと移動していく。一度包囲を抜けてしまえば、ザルも同然だ。
 住処としている山への道筋には、一条戻り橋という話がある。
 都の外と、内を区切るかのように架けられている橋だ。この場で死者が一時生き返った事からこの名が付いた。
 警備の兵士ですら不気味がって夜には近寄ろうとしないその橋を、二人は意気揚々と渡っていく。妖怪が怪談を恐ろしがってどうするというのだろうか。
 橋を三分の二ほどまで渡ったとき、マミゾウが「アッ」と声を出した。

「どうしたのさ、マミゾウ」
「あれを見てみらんか。あんなところに、妙な奴がおるぞ」
「いや、変って私たち以上に変なのなんて……んん?」

 マミゾウが指した方向をぬえが見ると、そこには一人の人間が欄干にもたれ掛かるよう立っていた。
 その人間はうつむいたままで、こちらに気が付いたような素振りもない。その髪は月の光に当てられ、金色に輝いていた。
 着物は平民が着ている物と大差ないが、はたしてあれはこの国の人間だろうか。

「ねぇねぇ、こんな時間に何で人間が居るんだろ。こんな物騒なところに一人で居るんだし、もしかして死にたがり?」
「ううむ、儂にはさっぱり分からん。確かに随分とまぁ、不用心なもんじゃな。あの髪色だから……異人かのう。珍しい珍しいと言われて、夜の静かな時に一人になりたいと思ったのかもしれん。しかし珍しい……」

 蔭のある表情と髪が月光に照らし出され、息を飲むほどに美しかった。顔立ちや体つきから判断するに、女だろう。
 さて、どうしたものかと二人は顔を見合わせた。視線を絡みあわせて、互いに考えていることは同じだと感じ取り頷きあった。
 大いに興味を惹かれる相手だ。魑魅魍魎が跋扈すると言われている丑三つ時だというのに、何と不用心なことだろう。いったい何の目的があって、彼女はあの世とこの世を繋ぐ橋の上に居るのだろうか。それが知りたい。
 もし話が通じるのなら、異人と会話できるなど滅多にないことだ。勿論、最後には驚かせるつもりでいる。
 人にはないと判断できる部分を体にしまい、妖気を押し殺しながら二人はゆっくりと女に近づいていった。
 だいぶ近づいたとうのに、まだ女はこちらを見ようとはしない。
 風が吹き、女の髪がはためいた。その一瞬で、ぬえの目は女の異常な部分をしっかりと捉えていた。

「マミゾウ、さっきのあれ、見えた?」
「なんじゃあれは。人とは思えんあの耳……これはもしかすると、もしかするかもしれんのう」
「ああ、やっぱり? ただの自殺志願者ってわけじゃないみたい。でも、それはそれで良いかもなぁ」
「どちらにせよ、このままじゃぞ。妖気は隠したままで人間のように振る舞うんじゃ。ただの見間違いかもしれんしのう。ああいう耳の異人も、もしかすると居るやもしれん」
「うん、分かった。このままこのまま……」

 聞かれないような小声で言葉を交わし、何が起きても良いようにと、その足取りは更に遅くなった。
 あれが妖怪であれば、久方振りに仲間が増えることになるかもしれない。実に喜ばしいことだ。
 目の前を通りすぎようとした時、彼女はようやく顔を上げた。相手の動きを察知した二人は顔を向け、目を見張った。
 マミゾウの目は茶色、ぬえの目は黒色。だが、女の目は緑であった。
 これまで見たことのない色だ。日の本に住む人間は黒が普通で、一度だけ見たことのある異人は碧眼を持っていた。そのどちらでもない。
 そしてやはり、見間違いではなく、女の耳は天を突くように尖っていた。このような目の色と、耳を持つ人間など居るはずがない。
 間違いなく妖怪だろう。警戒する二人を見つめる女が、ゆっくりと口を開いた。

「一寸先も見えぬほどの夜だというのに、一人ではなく二人で居れば怖くないのかしらね……。それとも、最期が二人一緒なら満足ということ? ああ、そういう相手が居るというのが妬ましいわ……」

 地の底から響いてくるかのような、か細く不気味な声。
 それを聞いた瞬間、マミゾウの心がざわりと撫でられた。背筋に寒気が走り、冷や汗が流れ始める。

「なんじゃ、これは……この力は!」
「あ、ううう……。何これ、心がかきむしられるような……!」
「ああ、妬ましや妬ましや……ふふふ……」

 女の緑眼が、怪しげな光を宿していた。視線を外さねばと思うが、どうしてか釘付けになったまま動くことが出来無い。
 ざわり、ざわりと不快感が心をなで回していく。胸の中から、普段は抱くはずのない何かが沸き上がってくる。それを止めようと、マミゾウは思わず胸を押さえた。その程度で収まるはずもなく、徐々に膨れ上がっていく。
 隣を見ればぬえも同じ感覚に襲われているらしく、苦しそうな表情で胸を押さえていた。
 ああ、それにしてもだ。こいつの力は羨ましいのう。自分の身体を無理に変えなくても、違う姿へと変わっているように相手からは見えるんじゃから。羨ましい……羨ましい……。

「マミゾウは良いよねぇ。こう、ちゃんと成長出来てさぁ。私なんてずっとこんなんなんだから……」

 ぬえの口から出た言葉で、マミゾウは我に返った。きっと自分と同じような感情に襲われているのだろう。
 先ほどの言葉を思い返す。そう思うことはあったが、生まれ持った違いなのだから、気にしないことにしていた。ぬえの能力にも長所と欠点があるし、自分も同じなのだから。
 だが、親友に対しては二度と抱かないと思っていたそんな感情が、心の中から吹き出してきた。もう少しでぬえと同じように、相手を妬む言葉をはっきりと口にしていただろう。
 このままでは襲われかねんぞ。そう思ったマミゾウは大きく息を吸うと、腹の底に力を入れて怒鳴った。

「ぬえ! 落ち着かんか!! そういうのは後で幾らでも聞いてやるから、今はそういう気持ちを捨てるんじゃよ!」
「……お? うわ、あ、あれ。今何を言って……そう思わないようにしてたのに!」

 派手に大気を震わせた一喝で我に返ったぬえだったが、何が起きたのか理解できないらしく目を白黒させている。
 マミゾウは軋むほどに奥歯を噛み締めると、女を睨みつけた。仕掛けは把握できたのだから、もう二度と操られることはない。
 相手の心の中にある、嫉妬という感情を呼び覚ます。それがこの妖怪の能力だろう。妬ましい妬ましいと呟いていたことから、感情が高ぶると相手への影響力が増すのだと推測した。
 何時しか女は笑わなくなり、代わりに驚きの表情が顔に張り付いていた。何故、どうしてと微かに口が動いている。
 普通の人間であれば心を操れるだけの力をぶつけたはずなのだ。その顔が、次第に憤怒の表情へと変わっていく。

「何で……私はこんなにも貴方たちが妬ましいというのに、何で貴方たちは!」

 怒号と共に、二人へと力がぶつけられた。不可視だが、確かにそこにあると感じる。先ほどと同じ類の攻撃だろう。
 しかし、それはあっさりと障壁に阻まれた。同じ攻撃に二回もやられる気はないのだ。
 怒りから驚愕へ、女の顔が変わっていく。

「何でと言われてもな。ずっと二人で暮らして、足りない所を補い合ってきたから、互いに長所と短所があってしかるべきと分かっておるんじゃよ。今更、それを気にしても始まらんということじゃわい。ああ、それでも少しは羨ましいと思ってしまったがのう。それは認めんとな」
「そうそう。あんたの能力、私たちにはあまり利かないの」

 多少は利いていたというのに、すました顔でぬえが続いた。
 やれやれ、とマミゾウは頭をかいた。それから女へ視線を戻すと、彼女は驚きから悔しそうな表情へと変わるところだった。
 うううううと低く呻き、女が頭をかきむしる。整っていた金髪が乱れ、辺りに水滴が撒き散らされていく。
 まき散らされていく水、それに女が居た橋。水と橋にまつわる妖怪など居ただろうか……。あれこれ考え迷うマミゾウの脳裏に、ある神様の存在が浮かび上がってきた。そうだ、あの女神なら水と橋に関係がある。
 はたしてその通りだったとして、何故あの女神がこのような妖怪へと姿を変えてしまったのか。いったい彼女の身に、何が起きたというのだろう。
 彼女はただ、川の守り神として祀られていただけの筈だ。

「おい、ぬえよ。そろそろこっちの正体を明かしてやらんか。あやつ、何か妙な事情があって生まれたのかもしれん」
「ん? 妙な事情って何?」
「あとで一緒に説明してやる。何となくじゃが、あいつの正体が分かった気がするわい。仮に儂の想像が当たっていたとしたら、何が起きたのか事情を知りたいんじゃ」
「元々妖怪じゃない別の何かで、それが妖怪になったってこと? 橋と水に関係する何か……分かんないなぁ」
「だから説明してやると言っとろうに。あれはもっと、神聖なものだったはずなんじゃ。橋にまつわる女神、嫉妬なんぞとはまったく関係のない神様だったと記憶しておる」
「え、神様!? あれが!?」
「いったい何をごちゃごちゃと! うううう! その余裕が! 仲の良さそうな貴方たちが妬ましいのよ!」

 ぬえが叫んだ直後、堪忍袋の尾が切れたのか女が目を剥いた。髪の毛を振り乱し、濁りきった瞳で見据えてくる。
 美しかった面影など無く、突き立った耳と合わせて、まるで鬼のように見えた。あれこそまさしく鬼女だ。
 怒号と共に、憎悪と妬みの感情が二人の身体を吹き飛ばさんばかりの勢いで襲いかかってきた。ざらざらと、先ほどより強く心がなで回され、探られる。
 これは不味い。焦ったマミゾウとぬえは、慌てて隠していた尻尾と耳、羽をさらけ出した。同時に押さえていた妖力を全て解放し、それを耐え凌ぐ。
 取り殺してやろうとしていた女だったが、明らかに人間ではない特徴を晒している相手の姿に、驚愕の表情を見せた。同時に力の差を感じ取り後ずさる。
 腐っても何十年と生きている大妖怪の端くれだ。産声を上げたばかりであろう妖怪を圧倒するだけの力は持っているのだから、拳を交えずともそれを理解させてやればいい。

「あ、貴方たちは……人間ではない? そんな力を持ってて……」
「少しは冷静になったか? 儂らは人間でなく、この京を長く騒がせている妖怪じゃよ。まぁ最近生まれたというのなら、知らんのも無理はなかろうて」
「そうそう、二人共あんたと同じ存在ってこと。だからさ、お互いに人間じゃなくて同類なんだから、無意味に戦って数を減らす必要もないわけ。京に住んでるのなんて、ずっとずっと私とマミゾウだけだったんだから」
「二人きりだった?」
「そう、もっと大勢……それこそ儂らなんぞ影に隠れるほど居ったわけじゃよ。それが退治されたり姿を消したりで、何時の間にやら二人だけになっておる」
「だから、あんたが妖怪なら私たちの仲間になってほしいわけ。数少ない同族同士、喧嘩は程良くやって仲良くしようってこと。あんたの力は今までに見たことがないからさ、力押しだけじゃなくて、心を攻めるって凄く良い能力だと思うんだ。それを仲間に引き込まないなんて、勿体無いでしょ?」
「つまり、私の力を必要としていると、そう解釈して良いのかしら?」
「そういうことじゃ。独りきりで長い生を送るよりも、仲間が居った方が少しは憂いも晴れると思うぞ?」

 敵対心など無いことの証として、マミゾウは笑顔を見せた。下手に相手を言いくるめようとするよりも、適度に切り上げたほうが良い。やれ続けと、ぬえも笑顔になった。
 ふぅむと、女はそれらを見て考え込んだ。本当に心の底から必要としているのか、それとも何かしら企んでいるのかが分からない。
 だからと言って、無下に断るのも考えものだ。どちらか分らないのなら、誘いに乗ってやるのも悪くないだろう。

「ふぅん……。そういうことなら、ここで争っても仕方が無いわね。必要とされているのだから、力を貸してあげてもいいわよ」
「おお! お前さんの力があれば、あ奴らにもっと恐れを与えてやることが出来るじゃろう。感謝するぞ……橋姫よ」

 マミゾウの言葉に、女は目をみはった。

「なんだ。私のこと、知ってたの?」
「ああ。この京で橋にまつわる妖怪か神など、橋姫ぐらいしか居らんからのう。儂の予想は間違ってなかったようじゃな」
「え、橋姫? それって橋の守り神の事じゃなかったかなぁ」

 ぬえも以前、橋姫という名の神がどういった存在かを耳にした覚えがあった。さてどんな神様だったかなと、記憶を呼び起こしていく。
 橋は境界線だ。それを守り、通り越して進入しようとする外敵を阻む女神が、橋姫であったはずだ。当然だが、危害を加えるような神ではない。
 ならば人々の思いが募って妖怪に転じたのかと想像し、ありえないだろうと頭を振った。感謝されこそすれ、神様から物の怪に成るほど恨まれることなど無いだろう。
 だとしたら何故、嫉妬を操る妖怪になったというのか。どれだけ考えても、ぬえにはさっぱり分からなかった。

「確かに私は橋姫。そっちの小さいほうの言う通り、今でも橋の守り神よ。少しばかり変わっちゃったけどね」
「今なんて言った!?」

 小さいと言われ憤慨する正体不明を押さえつけながら、マミゾウは「やはり」と呟いた。
 今の彼女は、ただ橋を守っているだけの神様ではない。もっと別の何かに変わってしまっているのだ。
 何が起きてそうなってしまったのかは気になるが、いきなりそこに踏み込むのもどうだろうか。先ずは自己紹介からするべきだろう。

「儂は二ッ岩マミゾウ。化け狸じゃ。名前そのまんま、色んなものを化かすことが出来る。勿論、自分もな」
「私はぬえ。見ての通り絶世の美女で、姿を変えることが出来る。相手の考えてることに依存するから、マミゾウみたいに万能じゃないけどね」
「マミゾウに、ぬえで良いわね。これからよろしくお願いするわ」

 これでようやく仲間が増えた。それも嫉妬心を操るという、素晴らしい能力の持ち主だ。
 生き物なら誰しもが抱く感情で攻撃してくるのだから、相手からすればさぞ恐ろしいことだろう。少女としか思えない外見も、より不気味に見えるかもしれない。
 姿を晒すことに何の不利益もない事は、羨ましい限りだ。

「あのさあのさ、自己紹介は良いんだけど、何で橋姫がこうなっちゃったのか教えてよ」

 腑に落ちないと言った表情で、ぬえが口を尖らせた。同じ事を聞こうとしていたが、先を越されたのだから「そうだそうだ」と頷くしか無い。

「守り神と嫉妬を操る妖怪。全然違うじゃない。それが何で橋姫って、同じ名前をしてるのか全然分からないんだけど。さっき言ってた変わってしまったって、どういう風に?」
「そんなに気になるのかしら?」

 思わせぶりな態度の橋姫に、二人は顔を見合わせると視線を戻し首を縦に振った。

「つまらない話よ。面白くもなんともないお話。だから、お酒でもあると少しは聞けるようになるかもしれないわね」
「酒? ああ、マミゾウ持ってたよね?」

 訊ねられたマミゾウは腰に巻き付けた酒瓶へ手を伸ばした。適当に持ってきたもので中身が残っているか不安だったが、重みからそこそこの量が残っていることは感じることが出来た。
 腰から酒瓶を外すと、二人にも分かるよう揺らしてやった。水が容器の中で跳ねまわる音がする。

「ん。立ちん坊では落ち着かんし、腰を下ろしてゆっくりと話を聞くとするかのう。酒はこの通り、三人分以上はありそうじゃ」

 腰を下ろし欄干へ背中を預けると、酒瓶の栓を引っ張り抜いた。閉じ込められていた酒の匂いが溢れ出し、マミゾウの鼻孔を刺激する。早く飲みたいものだが、先走るのはいけない。
 マミゾウに習って、二人も腰を下ろした。それを見て一番乗りだと酒瓶を傾け喉を鳴らし、橋姫へと渡してやった。

「ほんの少し前。ある女が居てね……」

 橋姫は酒瓶に口を付け、ふぅと息を吐く。ああ、美味い。これならこの詰まらない話も、少しはスラスラと進むことだろう。




 あるところに女が居た。
 何の変哲もない、何処にでも行る普通の妻だ。日々家事に追われ、食事を作り、仕事に出ていた夫を笑顔で出迎える。
 自分も大変だが、夫は自分を食わせるために頑張っている。お互い様だ。あの人が居て、私があるのだから。それが、私たちの幸せ。
 特筆すべき点があるとすれば、献身的な妻であったという事だろう。それこそ、周囲で評判になるほどであった。
 だが、相手を想えば想うほど、裏切られたときの反動は大きいものだ。だから、妻がそれを知ったときの行動は、当然のことだった。
 それは夫の浮気である。
 愛する者の心変わりを知ったとき、女の胸中には様々な感情が渦巻いていた。
 裏切った夫へと憎しみと、怒りと、悲しみ。それに、何故という疑問。
 夫が浮気をしたのは、もしかすると自分が至らなかったせいかもしれないという、悔しさ。
 そして、愛する夫を奪った女に向けられたありとあらゆる負の感情。夫が惹かれたのは、自分にない何かがあったからだ。そういう思いから、特に妬みの感情が強かった。
 だから女は、それを自分が身につけようとした。
 色んな方法を探し、夫のために尽くそうとしていた。自分が至らないからだという思いと、奪おうとした相手への嫉妬心からだ。
 だが、夫は浮気を止めようとはしなかった。それを思い知る度に、妻の心の中で何かが育っていった。
 やがて、妻の努力が限界に達した頃、夫が妻に問いかけた。

「なぁ、別れてくれないか?」

 その時、女は呆けた表情を見せていた。だが何を言われたのか意味を理解した時、身の毛もよだつ表情へと変貌していた。
 人間の心の中には、様々な鬼が居る。普段は理性で押さえつけられているが、ある切っ掛けから解き放たれてしまうのだ。
 夫からそう言われたときに、女の中で育っていた鬼が解き放たれそうになってしまった。嫉妬心という感情で育っていた鬼だ。

「ああ、憎い。憎い。私を捨てた夫と、夫を奪った女が憎い、憎い!」

 自分を裏切った夫が、たまらなく憎い。
 夫だけではない、奪った女も憎い。この身を鬼と変え、妬ましい全てを食らい殺してくれる。
 妻は鬼になるべく、険しい道を越え、貴船神社へとむかい神にすがった。

「私を鬼に! この身に宿る恨みを全て力に変える、鬼にして欲しいのです!」

 妻は食事もとらず、七日間神社へと籠もり続けた。その形相は、まさしく鬼であった。
 その恨みの原因をかいま見た神は、妻を哀れに思ったという。そして、彼女へ神託を与えた。

「そんなにも鬼へと変わりたいのなら、髪を五本の角にし、身体を朱に染め、脚に松明を付けた鉄輪を頭に被り、口には両端を燃やした松明をくわえよ。そしてその身を、宇治川へと浸すのだ。そうすることで、お前は鬼と変わるだろう」

 その言葉を受けた妻の顔は、それこそここ最近で一番の笑顔だったという。
 家へと舞い戻った妻は、準備をし、宇治川へとその身を投げ入れ……鬼と化した。そうして鬼となった妻は夫と奪った女を惨殺し、本懐を遂げたのである。
 だが、話はここで終わらなかった。
 女の噂が風に乗って広まってしまったのだ。
 心に嫉妬心という名の鬼を宿していた人間たちは、自分も続けと同じような行動をとり、次から次へと、鬼となっていった。
 こんな事態になるなど、貴船神社に祀られた神は予想していたのだろうか。人間の中にあった嫉妬という感情がどれ程までにおぞましいものであったかを。
 川へと流された恨みは、橋の袂に淀みとなって溜まり続けた。
 さらに、こんな話が広まっていったのだ。橋に現れる鬼女に願いをかけると、妬ましい相手を取り殺してくれる。最初は人間の行った事であったはずが、何時しか妖怪の仕業となってしまった。
 淀みと、人々に広まっていった話。それらが橋の守り神であったはずの橋姫に影響を与え、何時しか彼女は嫉妬狂いの鬼へと、その本質を変えてしまったのだ。




「これが、自分の身体の起きた一部始終よ。私がこうなったのは、こういう話」

 ね、面白くはないでしょう。橋姫はそう続けた。もう随分と飲んでいるはずなのに、澄ました表情は変化が見られない。
 そんなことが起きていたのか。人間は色んな意味で恐ろしい存在だとは思っていたが、まさか自分の身を鬼へと変えることが出来るとは。
 信じられないといった顔で話を聞いていたぬえが、口を開いた。

「自分があがめていた神様をそんな風に変えるなんて、人間ってのはやっぱり理解できないわ。こんなことをしなけりゃ、これからもずっと自分たちを守ってくれる存在だったのにね」
「人間が望んだか望んでないか何て関係ないわ。こうなってしまったのは取り返しがつかないんだから、私はこの力を思うまま使うだけよ」

 マミゾウは酒瓶を傾けながら橋姫を見た。その顔からは、先ほどまで溢れんばかりだった嫉妬心が感じられなかった。
 話すことで、少しは楽になったのだろうか。鬼のような形相でもなければ、嫉妬にゆがんでいるわけでもない。ずっとこのままであれば、美しい顔なのにと少しばかり残念に思う。

「そろそろいいかしら? お酒も無くなりそうだしね」

 橋姫はすっかり軽くなった酒瓶をマミゾウへ渡すと、腰を上げた。二人もそれに続く。

「私の話も終わったことだし、そろそろ貴方たちも戻るでしょう。私に用があれば、ここに来れば会うことが出来るから」
「うむ。ようやく出来た仲間じゃ。また来させてもらおうかのう」
「次もまた酒を持ってくるからさ、今度は私たちの話でも聞いてよね」
「ええ。長い間生きている貴方たちなら、面白そうな話をいくつも知ってそうだし、楽しみにしておくわ」

 薄い笑みを浮かべる橋姫へ別れを告げ、二人はゆっくりと脚を動かし始めた。仲間が増えたことを喜ぶべきだというのに、その足取りは重い。

「こういうのも変だけどさ、何だか可哀想な感じがするなぁ」
「ああならなければ、人間から敬われるだけの存在だったわけじゃからのう……。これからもちょくちょく、様子を見に行くとするか」
「そうするかー」

 ふとマミゾウが振り向くと、彼女は何処へ姿を消したのやら、誰も居なかった。目を凝らしてみるが、闇夜の奥は何も見えない。

「マミゾウ?」
「ああ……」

 ぬえに促され、また会えると良いなと思いながら、マミゾウは歩き始めるのだった。 




 
 それから四日ほど経った頃、一条戻り橋で鬼女が出たという話が流れ始めた。
 夜も更けた頃にそこを通った人間が、鬼に襲われて取り殺されてしまうのだという。容姿こそ見た目麗しい美女だが、頭からは角が生え、目は異形であることを証明するかのような緑眼をしている。
 曰く、取り殺した相手を食らい、その美貌を手に入れたという。その現場を目撃した人間も居ると言うが、また妙に誇張された話だ。
 その噂と同時に、こんな話も広がっているという。その鬼は、妬ましい相手を教えると、その相手を取り殺せるほどの力を与えてくれるというのだ。
 そのせいか、その鬼へと願を掛けるものが後を絶たない。貴族たちはその噂を広めまいと必死になった。自分たちがどれほど妬まれているか、よく分かっているのだろう。
 実際のところ、橋姫にそのような力はない。あくまで力を与えるのではなく、その思いを増幅させるだけだ。言わば、背中を押しているだけ。だと言うのに、人間たちは噂を信じてやって来るのだ。

「あの橋姫すごいねぇ。話題の的って言うか、あいつしか見られてないのは妬ましいけど」
「おい、ぬえよ。お前さんまで、妬ましさの余り鬼になってはいかんぞ。儂らは今まで通り、驚かしていれば良いんじゃ。そうやってまたこの京を、妖怪の都にすれば良いのじゃからな」
「うん、そうだね。いやぁ、でもあの力は私が欲しかったなぁ」

 この調子で噂が広まっていけば、橋姫は凄まじい勢いで力を付けていくだろう。そうすれば、彼女を旗印として、各地に散らばった妖怪たちを呼び寄せることが出来るかもしれない。
 だからこそ、彼女の手助けをしてやらなければいけないだろう。さてさて、その日が楽しみじゃ。マミゾウは未来に思いを馳せ、怪しく笑うのであった。









 マミゾウはその日も、彰子の元を訪れていた。これで何度目になるだろうか。会った回数は、すでに両手で数えることの出来る回数を超えていた。
 長い人生の中で、今までも人間と会話をしたことはあったが、ここまで深い付き合いになったことはない。ただ少し話を聞いて、はいそれまでよ。そればかりであった。
 だが、彰子との会話は楽しいと思うのだ。コロコロと変わる表情はぬえにそっくりで、見ていて飽きない。彼女はあいにくと酒を飲むことが出来なかったが、マミゾウの話を愉快そうに聞いてくれるのだ。
 聞き上手の彰子と酒の旨さのおかげで、実に気持ちよく酔うことが出来ていた。勝手知ったる何とやら。毎回酒瓶を持参し、様々な酒を飲んでは赤ら顔になる。
 いつの間にか減っていく酒のことを、彰子がどうやって誤魔化しているかは分からないが、彼女は「気にしないでください」と言うのだ。最初こそ少しは気にしていたマミゾウだったが、この家の人間がそう言うのだからと気にしないようにしていた。

「お前さんにも、橋姫のことは前にも話したことがあるじゃろう?」
「ええ、一条戻り橋に居る妖怪で、近寄ってきた人間をたたり殺してしまうという……「鬼」ですよね。やっぱり父もそのことを知っていました」
「ふぅむ。そこは気にすることでは無いじゃろうな。どうせ貴族は、手に負えんと判断した瞬間に動こうとせんもんで……っと」

 口にしてからしまったという顔をしたが、彰子は「その通りですよ」と苦笑いを浮かべた。

「どれだけ財力と権力があっても、妖怪にそれが通用しないことはよく分かっていますから……。だから父は何もしないみたいです。せいぜい、近寄るなと言うぐらいです……」
「それが一番賢明じゃろうな。あの力なら、何十人と束にならんと退治することなど出来んわい。それでも、間違いなく死人が出るじゃろうなぁ。そんなことになれば、自分の地位が危なくなる。ならば、他の人間を見捨ててでも、自分と身内を守ることを優先するわい。儂はそれじゃあ我慢出来そうにないがのう」
「私たちのためという事ですか?」
「そういうことかもしれんぞ」

 ぐいっと酒瓶を傾ける。
 こうは言ったものの、彰子の父と会話を交わしたことはない。さらに子を成したこともないのだから、今までのは全て口から出任せだ。
 だが我が身の可愛さだけと言うのも、彼女を傷つけてしまうように感じ、そうは言えなかった。友人の肉親を悪く言うこともあるまい。

「だからな、お前さんが考え込む必要はないんじゃよ。お前さんは……おお、そうじゃ。色恋の方はどうなったかのう? 上手いこと進んでおるか?」
「あ……それなんですけど、父が働きかけてくれたおかげで、良い方向に進みそうなんです!」
「おお、それは良かった」

 苦しい話題の変え方だったが、それで正解だったようだ。暗い表情をしていた彰子が、見る見るうちに笑顔へ変わっていく。まるで、溢れんばかりの幸せがにじみ出ているかのようだ。
 彼女の答えを聞いてマミゾウも笑顔になり、また酒瓶を呷った。良い話を聞いて酒を飲むと、より上手く感じるものだ。この美味さを分けてやりたいと思う。

「それなら、ほれ。取らんかい」

 マミゾウは杯に酒を注ぐと、彰子へ手渡してやった。困惑する彼女に、傾けるような動作をしてやる。普段は年齢を理由にして飲むことを断られているが、今回ばかりは付き合ってもらわなければならない。
 今渡してやった酒は、彼女のためのものだからだ。祝われる本人が飲まなければ意味がないのである。

「祝い酒じゃよ。飲めんのは分かっておるが、今回ぐらいは良いじゃろう?」
「あ……そうですね。今回ぐらいは飲んでもバチは当たりませんよね」
「これぐらいでバチを当てるようなら、神様もその程度じゃわい。お前さんを祝う酒なんだからのう」
「それなら、折角ですし、いただきます。……あ、その前に、やらなければいけないことが」
「お、そうじゃな」

 二人は優しく酒瓶と杯をぶつけ合った。静まり返った部屋の中に、陶器がぶつかり合う音が広がっていく。大勢居るならともかく、二人きりなのだからこれをしなければ始まらないのだ。

「乾杯」
「乾杯」

 一人で何となく飲むよりもこうした方が、酒はより美味さを増すのだろう。真っ赤な顔の彰子に微笑んでやりながら、マミゾウはそう感じていた。









 同じ頃、ぬえは橋姫の元を訪れていた。
 一人で来るなんて、珍しい。橋姫はそう言って目を丸くした。
 何時も二人で行動している彼女らしか知らないのだから、そう思うのも当然である。
 もしかして何かあったのではないかと少し考えて、一人になってしまうような理由を思いついていた。

「喧嘩でもしたの?」
「そういうんじゃないよ。あいつと喧嘩しないなんていったら嘘になるけど、それで別れるなんて事は絶対にない。少しの間だけ距離を置くことはしても、そのままだなんて考えられないって」
「あら、そう」

 そうぶっきらぼうに言う。予想が外れたからと言うわけではない。
 二人の結びつきが相変わらずなのを感じ、橋姫は「妬ましいわね」と心の中で呟いていた。

「それなら、じゃあ何で今日は一人で来たのかしら?」
「うん、マミゾウがどこかに行っちゃってさ。こういうの、たまにあるんだ。で、一人で待つのも暇だから、話でもしようと来たってわけ。人間が来たら一緒に、ね。それまであんたも暇でしょ?」
「それは確かに……」

 一条戻り橋に橋姫という妖怪が居て、夜にやってくる人間を取り殺している。そんな噂が広まっていることは、橋姫本人も知っていた。
 殺そうとした人間が口走ったり、それをマミゾウらが肯定したからである。昼間に出歩くことのない橋姫にとって、二人は貴重な情報源であった。
 だからだろうか、余程の馬鹿か命知らずでなければ、黄昏時を過ぎてからこの橋を通るような人間が、めっきり少なくなってしまったのである。
 確かにぬえの言うとおり、人間が来るまで暇なのだ。ならば暇な間、会話に興じるのもいいだろう。

「ええ、暇なのは否定しないから、別に構わないわよ」
「うんうん、そうこなくっちゃね」

 言うと、ぬえは欄干へ背中を預けるように腰を下ろした。それから、手にしていた酒瓶を橋姫へと見せた。

「やっぱりこれがないとねぇ」
「……貴方たち、本当に酒が好きなのね」

 笑顔で酒を勧めてくるぬえに、橋姫は思わず呆れたような顔になった。ここへ来るとき、必ずと言っていいほど酒を持ってきている。
 文字通り酒におぼれているのではないか。もしかして、何かの中毒ではないかと疑うほどだ。
 そんなことを思われているとはつゆ知らず、ぬえはきょとんと首を傾げた。

「ん? そりゃあ大好きだよ。これを飲んでるときは幸せだし、話も弾むってもんでしょ。あんたも好きなんだと思ってたけど、もしかして嫌いだった?」
「好きか嫌いかって言われたら、そりゃあ好きに決まってるわよ」
「よしよし、じゃあホラホラ、グイっと」

 促されるままに杯を傾け、自然に顔が綻んだ。やはり、この二人が持ってくる酒は美味い。
 それを見たぬえは笑顔になると、自分も同じようにした。にへら、と顔が崩れる。
 しばらく酒を嚥下する音と、酒を注ぐ音だけが響き続けた。
 そうやって何も言わずに酒を飲み続けるぬえに痺れを切らしたのか、橋姫が催促した。

「で、わざわざ来たんだから何か用があったんじゃないの? それとも、本当に酒を飲むだけ?」
「あー、それがね。マミゾウのこともあるんだけど、あんたのことも気になってるんだ」
「あらあら、私のことを気にかけてくれてるの? ああ、嬉しいわねぇ」

 橋姫が思わせぶりに言うと、ぬえはうんうんと頷いた。
 確信が持てないとはいえ、数少ない仲間なのだ。その彼女に関係することなのだから、耳に入れておいて間違いはないだろう。
 ついでに、マミゾウが居ない寂しさも紛らわせて貰おうか。そう思い、酒と一緒に橋姫の元を訪れたのである。

「あんたの噂が広がっていくのが、早すぎると思うんだ」
「そうかしら? 最初に儀式をやった人間から、そのあとも続いたんだから、それもあって早いとかってことじゃないの?」
「うーん、それも考えたんだけどさぁ。やっぱり気になるんだよねぇ」
「気になるだけじゃ分からないわよ」
「そうだよねぇ。あー、でも何だろうなぁ、この胸騒ぎ……」

 難しそうな顔をしているぬえとは対照的に、橋姫はそんなこと何処吹く風と言った様子である。
 気になる、胸騒ぎがするというだけでやって来たぬえを、橋姫は心のどこかで笑っていた。ずっと二人だけだったのだから、警戒心が強くなっているだけなのだろう。心配性だとも思った。

「今度そういうのを言ってくるなら、確証を得てからにして欲しいわね。大体、私の噂が広まって、私以外の誰が得するっていうのかしら?」
「うん、それもあるんだよね。私らはそういうので力を増すんだし、そうする理由がないんだよね。ただ、それな私かマミゾウが話を広げれば良いだけでしょ? それをしようと思ってたら、もう話が広がってたんだよ」
「……それは私の? それとも、原因になった人間たち?」
「橋で人を襲う、何故か嫉妬心が吹き出してくる。これ、あんたしかないでしょ」
「なるほど、それは確かに私の事ね。でもそれで、だから誰が得をするって言うのかしら?」
「そこなんだよねぇ。そこがさっぱり分からないんだ」

 そう言って杯に目を落とすぬえを見ながら、そんなことをして誰が得をするのかと考えてみた。
 マミゾウとぬえは間違いなく、得をするだろう。やっと出来た仲間だと大喜びしていたし、力を付けて貰いたいという理由で噂を広めることをするかもしれない。実際、ぬえはそうするつもりだったと言っているのだから。
 だが、噂はすでに広まっていたと言う。そういえばと、思い返す。

「噂は本当だったのか、そんなことを言っていた人間が居たわね。妙に早いとは思ったけど、そのときは貴方たちが広めたんだと思っていたわ」
「だからやろうとしたんだって。でも分かんないのは、あんたの言うとおり、そんなことをして私たちの他に誰が得するのかって事」
「それは……居ないでしょう。噂を確かめよう、そんな噂なんて嘘に決まっている……。さっきも貴方が言ってたけど、そうやって確かめに来る人間が居るんだから、私はどんどん力を付けていく」
「だよねぇ。それで人間が得するなんて、ありえないんだから」

 人間の恐怖や、自分に願を掛けに来る愚かな人間の願いを糧に、妖怪は力を増す。そんなことをすれば当然退治しにくくなるのだから、人間には百害あって一理なしだ。
 だから、意図的に噂話を広めるなんてことをするような、そんな馬鹿な人間が居るはずがないと思った。そうでなくても話は勝手に広まっていくのだから、それを加速させる必要はないはずだ。
 噂を早く広め、妖怪に力を付けさせる。うん、やっぱりありえないわね。
 橋姫はしばらく考え込んでいたが、やがてため息を吐きながら首を振った。

「駄目ね、考えても分からない。やっぱり、人間がそんなことをする意味がないわね」
「うん……でも胸騒ぎってのは本当だから、気をつけててよ」
「はいはい、まぁ気をつけてはおくわね。それで、私だけじゃなくてマミゾウのことでもって言ってたでしょ?」

 やっぱりただの心配性か、気にしすぎだ。そう判断した橋姫は、話題を変えることにした。
 マミゾウのことと言われたぬえはキョトンとしていたが、自分の言葉を思い出したのか、直ぐに我に返った。

「ああ、マミゾウなんだけどさ。前からちょくちょく、何処に行くかも言わないで出て行っちゃうときがあるんだ。あんたのとこかと思ったんだけど、違う?」
「あら、私の所じゃないわね。あー……何、貴方は自分が仲間外れにされてると思ったのかしら?」
「それは……っ」

 ぬえは言葉に詰まると、顔を赤くしながら橋姫に顔を背けた。その態度からして、どうやら図星だったようだ。自分の所に来ていると言ったら、どのような反応を示すか気になってしまう。
 背を向けたままなにやら呟いていたぬえだったが、口を尖らせたままゆっくりと向き直った。

「違うっていうなら、それで良いんだ。前からちょくちょく居なくなってたから気にはしてたんだよ、うん」
「あら、前からって、何時から? 私と知り合う前、それとも後?」
「知り合う前からだよ。最近頻度が増えたような気がしてたからさ、確かめようと思って。うーん、あんたの所じゃないなら何処なんだろ」

 唸りながら首を傾げているぬえを見て、橋姫の口から自然とため息が漏れた。前から気になっていたのなら、そう思ったときに確かめれば良いだけのことではないか。まさか聞けない間柄というわけでもあるまい。
 しかしずっと二人きりで暮らしてきたと言うのなら、こういう事態になったことは殆ど無かっただろう。もしかすると、それに戸惑っているだけかもしれない。
 それならば、背中を押してやればいい。結果としてどういう方向に転ぶか、少し面白そうである。

「分からない事があるというのなら、それを素直に聞けばいいじゃない。ずっと一緒に居るらしいけど、それでも他人なんだから分かることと分からないこともあるものよ。それを聞き出すことも、相手を知るために必要なことなのだからね」
「うーん、それももっともだよね。今日も居ないんだし、聞いてみようかなぁ」
「そうそう。それで浮気でもしてたら、ぶっ飛ばしてやると良いわね。何なら、私の所に来ても良いのよ」
「誰が行くか! それで私の中にある妬みを食って力を付けようってんでしょうが」
「ええ、その通りよ。相手を強く想えば想うほど、裏切られた時の嫉妬は半端ないのだからね。そういう想いを抱かないよう、気をつけておきなさいよ」
「言われなくても、あんたとの話を聞いてるとそう思うわよ。私はあんたみたいになりたくないからね」

 強い嫉妬という感情は全てを崩壊させる。相手との関係が崩壊するだけならまだ良い方だろうが、周囲をも巻き込んでいくのだ。
 嫉妬心をもって力を付けることは出来るだろうが、それはまさしく劇薬である。出来ればそんな感情など、抱きたくはないというのが当然の感覚だ。

「それにさ、私とあいつはそういう関係じゃないんだから。マミゾウがどうしてたって、妬む事なんてないよ。私はただ気になってるだけなんだから」
「ふぅん……そういうものかしらね」

 ただ気になるからだけであれば、そういう感情を抱くことはない。ぬえはそう思うようにした。
 マミゾウが何処の誰と何をしていようかなど、自分には結局関係がないことなのだから。一緒に暮らしているから、それが気になっているだけなのだ。
 橋姫は目を細めてぬえを見た。嫉妬心が心の底から沸き上がってくる。
 そう思える相手が居るだけで妬ましい、妬ましくて仕方がない。そのような相手が居ないのだから、自分に無いものを持っている相手を妬むのは当然である。
 実に自然な感情なのだから、これを隠そうとする理由が見あたらないはずだった。だが同時に、何時か自分にもそう言う存在が出来ればいいと思っていることも事実なのだ。
 だが、自分にそんな相手が出来るだろうか。自分の深いところに入り込んできて、この能力もひっくるめて全て受け入れてくれるような相手。
 自分が妬ましいと言えば、それがどうしたと言ってくれるような、笑ってくれるような存在。
 そのような相手を思い描いて、あるわけがないと思い直した。人間だろうと妖怪だろうと、そんな存在が居るとは思えない。
 もしもそんな奴が居たら、それは相当な大馬鹿者だろう。
 ぬえやマミゾウも、そこまで深いところまで決して入り込もうとはしないのだ。はっきり言うなら、ただの友人でそれ以上でも以下でもない。
 彼女らですら、普通ではないと思う。嫉妬心を呼び起こし、心を操る妖怪など、人間はおろか怪異ですら近寄ろうとは思いはしない。避けられて当然なのだ。
 ずっとこのままなら、随分と寂しい存在じゃないかと自嘲した。少し親しいねというだけで、受け入れてくれる相手など居ないのだから。
 橋姫が暗い思いを抱いていることに、ぬえは気がついていないようだった。

「ええ、そうね。マミゾウとずっと一緒にいたから、気になっているだけよ。それは当然だわ」
「でしょ? うん、今日帰ったら聞いてみる」
「ええ。それでマミゾウが不貞を働いているかどうか、問いつめると良いわね。あの手のは多分、分かりやすい反応をすると思うわよ。私の中に淀み溜まっている記憶の中にも、そういうのがあるからよく分かるわ」
「いや、だから違うんだってば!」

 むっとして口をとがらせるぬえを見て、橋姫は笑みを見せた。先ほどの言葉は本心でもあり、からかいでもある。
 案の定、からかわれたと思ったぬえの反応を見ての笑みだ。
 端から見ればその笑顔は随分と寂しそうに見えたはずなのだが、ブーブーと文句を言うぬえがそれに気が付くことはなかった。







 ねぐらへ戻ると、もうマミゾウが戻ってきていた。
 彼女はぬえの姿を見ると笑みを浮かべ、脇に置いてあった酒瓶を掲げて見せると座るよう促した。
 またどこかで良い酒を手に入れたのかな。そう思いながら腰を下ろす。

「ほれ、また良い酒を手に入れることが出来たんじゃ。これで一杯やらんかのう? 味の方は保証できるぞ」
「……あれ、マミゾウちょっと酔ってる?」

 マミゾウの頬は、ほんのり赤みが差していた。注意深く鼻を利かせてみると、酒の臭いが微かにする。問いかけに対して、彼女は目尻を下げた。

「ああ、これを手に入れるときに少しばかり飲んできたからのう。いやぁ、美味いから仕方がない」
「ふぅん……」

 マミゾウが一人で出歩くようになったのも、どっちが良い酒を手に入れるかという勝負をしたあとからだった。
 そのときもこうやって、良い酒が手に入ったと言っていた。実際美味かったので、そのときは素直に負けをまとめたのである。
 もしかするとそのときに何かあったのだろうか。それが原因で、マミゾウは一人で出歩くようになったのかもしれない。

 ――やっぱり聞いてみるのが一番かな

 考えても仕方ないのだから、橋姫の言うとおり本人に聞くのが一番いいだろう。マミゾウの言うとおりに座ると、杯に酒を注ぎ込んで貰った。それを一口含み、ぬえは目を丸くした。

「あ、やっぱり美味しい」
「そうじゃろうそうじゃろう。これも上質じゃからな、美味くないと言ったら舌を疑うところだわい」

 マミゾウはかんらかんらと笑うと、同じように口を付けた。それから目を閉じ、満足そうな顔でため息を吐いた。
 やっぱり、マミゾウの持ってくる酒は美味しくて仕方がない。それこそ、その辺の安酒では我慢できなくなるのではないかと思えるほどだ。
 これだけの酒を、一体何処から手に入れてきたのだろう。これも前から少しは気にしていたことだ。
 今までは美味いから良いか、ぐらいで済ませていた。だが、橋姫は気になることがあるのなら、素直に相手へ聞けと言っていたのだ。
 何処へ出かけているのか、この酒はどこから手に入れているのか。両方まとめて聞いてしまおう。
 そう決心したぬえは杯の酒を全て飲み干すと、顔を赤くしているマミゾウへと問いかけてみた。

「マミゾウさ、こんな良い酒を何処で手に入れてるの?」
「ん~? どうしたんじゃ、突然」
「いや、ほら。いっつも良い酒ばっかり持って帰ってくるでしょ。こんなに良いのをどっから持ってきてるのかなって。気になってたんだ」
「なんじゃ、気になっておったならそう言えば良かったものを」

 その言葉から、どうやらマミゾウはどこから手に入れているのかを隠すつもりなど、これっぽっちも無いのだということが伺えた。
 これならもっと早くに聞いていても、別に良かったんじゃないかな。そんなことを思いながら、彼女の返答を待つ。
 マミゾウは空っぽになった自分の杯に酒を注ぎながら答えた。その手は少しばかり震えていて、相当酔っている様子が見て取れた。

「人間のな、貴族の屋敷じゃ。あそこには高価なものが集まっておるからのう。良いものを手に入れるにはうってつけの場所というわけじゃ。その中でも良いツテがあってな、いやぁこれが楽に貰ってくることが出来るんじゃよ」
「へぇ……そのツテって何なのよ?」
「ああ、これがまた面白い話でな。っと、ほれほれ、酒が注げるようにせんか」
「ん? ああ、じゃあ貰おうかな」

 マミゾウはにんまり笑うと、あぶなっかしい手つきでぬえが手にしている杯へ酒を注ぎこみながら話を続ける。

「前にぬえと、どっちが良い酒を手に入れるか勝負したことがあったじゃろう……っとっと」

 危うく溢れそうになるまで注いでしまい、マミゾウは慌てて垂直へと酒瓶を戻した。「おおお」とぬえの口からも声が漏れる。折角の酒なのだから、こぼれるのは勿体ない。
 危なかった危なかったと、マミゾウが笑った。

「そこでじゃ、儂は前から目を付けていた貴族の屋敷へと忍び込んだわけでな。いやぁ、大変だったわい」
「何が大変よ。あんたは化けたら簡単に忍び込めるでしょうが。上から一っ飛びでも、下から潜り込むのもお茶の子さいさいのくせに」

 さも苦労したというように喋るマミゾウに、ぬえは呆れ顔でつっこんでいた。自分の能力をよく知る相手にそんなくだらない誇張をするのだから、随分酔いが進んでいるのだろう。よく見ると、赤みが増したように見える。
 突っ込まれた化け狸はケラケラと笑い、口へと近づけた杯をクイッと傾けた。

「おお、確かにそうじゃな。そのときは猫に化けて行ったわけじゃが、もう忍び込むのが楽すぎて拍子抜けしてしまったわい」
「で、この酒はそこから今でも持ってきてるってこと?」
「そうそう、さすがぬえは察しが良いのう。物で溢れかえっとる貴族らしく、盗んでいっても気が付かんようでな。それに、そこに住んでおる娘と知り合いになったから、相手に知られたか否かは筒抜けで、安心できるんじゃよ」
「貴族の娘?」

 そんなのと知り合いになっているなど、初めて聞いた。
 訪ねたのは今が最初なのだから当然ではあるが、そのときに言ってくれても良かったのではないかとぬえは思う。

「そうそう。油断してたら見つかってしまったわけでのう。それがまた変な悩みを抱えておってな。それの話を聞いてやって、助言もしてやったら、また一緒に話しませんかなどと言ってきたわけじゃ。それでこうやって酒と引き替えに話を聞いて、助言もしてやっているわけじゃよ」
「じゃあマミゾウが一人で出かけるのって、それに会うため?」
「おう、そうじゃ。別に言うことでもないと思っておったが、気にしていたというのなら早く言えば良かったものを」
「……」

 マミゾウの答えを聞いて、ぬえは絶句してしまった。
 なるほど、これでマミゾウが一人で何処に出かけているのか、それにその理由も分かった。
 だが酒が欲しいのなら盗めばいいのだし、何故わざわざ人間と接触して酒を貰っているのかが分からない。
 人間という存在は残酷で、冷酷で、何をするのか分からない相手だとぬえは思っている。自分たちより異常な存在だからといって忌み嫌い、大勢で寄ってたかって退治しようとするからだ。
 人間がそんな風だから土蜘蛛は退治され、鬼たちは姿を消したのではないか。
 それが自分たちが原因で生まれた存在だったとしても、人間はお構いなしだった。ぬえが橋姫を気にしている理由はそれである。
 彼女の能力を考えると、噂が広まった時点で退治されてもおかしくないのだ。その原因の一つに、彼女へ願をかける女たちがあるのにも関わらず、それを無視するのが人間だ。
 それだけに、何故か橋姫が放って置かれているのか、不気味で仕方がない。一体連中は何を考えているのだろうか。
 だから、今度はマミゾウが心配になった。

「でもさ、もしその人間が誰かにマミゾウのことを言って、それで退治しようとされたらどうするつもりだったのよ。今は何ともないけど、信頼を得てから騙すつもりかもしれないじゃない」
「いや……あの子はそういうのとは違うと思うんじゃよ」
「何で分かるのさ! 人間なんてどいつもこいつも、ずる賢くて姑息って奴ばっかりじゃないか。だから、それでもう私たちだけになっちゃったんだから」
「儂も確かに、あの娘と会うまではそう思っておったわい。じゃがな、話を聞いている内にそうでもないと思い始めたんじゃよ。儂を退治しようというのなら、待ち伏せするなり、大声を出すなりすれば良いんじゃからな。それをせんかったということは、退治してやろうという気は無かったということだと思うわけでのう」
「それは……でもそうだとして、普通に見つかったりしたらどうするの。娘をたぶらかす妖怪だって、絶対に退治されるじゃない」
「うぅむ……」

 グッと杯を呷り、中身を空にする。酒瓶から注ごうとして、振っても中身が出てこなかったものだからマミゾウは残念そうな顔になった。
 随分と、心配してくれる。嬉しいことではあったが、心配しすぎではないかと思う。

「分かった分かった。その娘の願いは叶って相談役は要らなくなったわけじゃから、これからは忍び込んでも会いに行かんわい。置き手紙にしておくとするかのう」

 本当だろうかと、ぬえは疑問に思った。
 しかし、これ以上口を酸っぱくしても、効果のほどは期待できそうにない。結局、ぬえの心配を受け入れるか否かはマミゾウ次第なのだ。
 言って駄目なら、ついて行くという手段もある。だがそこまで干渉するべきかどうか、考え物ではあった。もしそんなことをして、マミゾウに拒絶でもされたらどうしよう。もし嫌われたら、そう思うとそこまでのことは出来ない。
 ぬえは、意外と寂しがり屋なのである。

「うん、それならいいんだ。マミゾウがどうにかなっちゃったら、折角増えたのにまた減っちゃうんだからさ。しかもそうなったら、私は橋姫と二人っきりだよ」
「そうか……。まぁ前に、ぬえの前から消えんと約束はしたんじゃから、それを破るわけにはいかんわい」
「そうそう。そんなことしたら、不義理な妖怪だったって延々言い続けてやるから」
「おお、怖い怖い。それは嫌じゃなぁ。そうならんように、気をつけんといかんのう」

 そう言って、マミゾウは困ったような笑みを浮かべた。二ッ岩マミゾウは不義理な妖怪だったなどと後生へと語り継がれるというのなら、死ぬに死ねない。 
 とりあえずこれで、釘は差せただろう。他にも話しておきたいことがあるのだから、話題を変えるならこの辺りだ。

「ところでマミゾウ。橋姫のことでちょっと気になることがあるんだけど。というか、気がついてるとは思うんだけどさ」
「うん?」

 橋姫に伝えた内容を話すと、マミゾウは唸りながら腕を組んだ。その事は確かに妙だとは思っていた。
 噂が広がるということは橋姫が力を増すことにも繋がるのだから、気にする必要はないかもしれない。だが、ぬえはそれが気になると言っているのだ。
 今まで心配をかけていたようだし、その不安を何とかしてやっても良いだろう。そのためにはどうしたら良いものか……。
 マミゾウは腕組みをしてしばらく考えていたが、何かを思いついたのか顔を上げた。

「気になるのならば、様子を見に行くのが一番じゃろうな。ここであーだこーだ言い合っても、何も始まらん。都に住んでいる人間から、橋姫の話を聞き出せばいい」
「それで何か分かるかな?」
「何とも言えんのう。人間たちが橋姫を恐れているという、分かり切ったことの再確認にしかならんかもしれんのう。じゃが何もせんで話すだけというのよりは、はるかにマシだと思うがのう」

 ふぅむと、今度はぬえが考え込む番になった。不安だ、気になる、心配だ。そう感じ、言うだけならいくらでも出来る。だが、それだけでそういった気持ちが払拭できるはずがない。どころか、きっと余計に増幅されるだろう。それでは意味がない。
 ならば分かる分からないは抜きにして、行動した方がマシだと思った。行動することで何か分かれば、それで良し。分からなければ、また少し様子を見て、それから考えても良いだろう。

「うん、そうだね。じゃあ明日、都に行って人間たちの様子を見てみようよ。早い方が良いだろうしさ」
「うむ。そこで何か分かって、お前さんの不安がどっかにいってくれれば良いんじゃがのう」

 そんなことを言いながら、マミゾウは心の中で何か分かる可能性を否定していた。ただ人間たちが橋姫を恐れている姿を見せて、ぬえを安心させたいだけである。
 今の橋姫を退治しようとするなら、人間が何人必要だろうか。その中で何人が犠牲になるというのだろう。噂を広めたとして、結局は何のメリットもないのだから。
 何かしらのメリット、見返りがあるからこそ一時の不利益を受け入れることが出来る。人間だの妖怪だの関係なく、見返り抜きで人のために動くなど、マミゾウには想像することが出来なかった。彰子のことも、酒を手に入れることと、観察ついでだ。
 この場合の不利益は、橋姫の力が増すこと。ならば利益は何だろうと考え、マミゾウには思いつくことが出来なかった。ただ退治するのが大変になるというだけだ。
 ぬえが納得する事が出来るのなら、それで良い。マミゾウはそう考えていた。










 マミゾウたちが橋姫と出会った頃に話は戻る。
 彼女らが橋を去ってから少しして、橋桁から一つの陰が飛び立った。
 人型の紙である。
 それは京の街を飛び続けた。風に吹き飛ばされているわけではなく、明らかに何らかの力でもって飛んでいる。
 やがて紙は一件の屋敷へとたどり着いた。急降下し、窓から薄暗い部屋へと飛び込んだ。
 部屋の中には、男と女が座っていた。ほのかな明かりに照らされる二人は、見るからに貴族と言った服に身を包んでいる。

「戻ってきた……ようですね」

 男は紙を取り上げると、目を閉じ、何事かを呟き始めた。
 しばらくそうやってから、女へと紙を渡す。女はそれを受け取ると、上機嫌そうに目尻を下げた。

「それで、この妖はどんな塩梅か? 良い具合に育ってくれそうかしら?」
「ええ、もともと人の業と、噂によって生まれたもののようですから。話が広まれば広まるほど、力を付けていくでしょう」
「では、話が広まるよう手を打ちなさい」
「はい。しかし、力を付けるまで放っておいても良いのでしょうか。間違いなく、死人が出ます」

 心配そうな男の声を、女は一笑した。
 男の心配は至極まっとうであるが、今更なにを言っているのだろう。
 最初から、そういうつもりであったではないか。

「それでいいではありませんか。また現れた、強力な力持つかもしれない相手なのです。鬼も居なくなってしまった今、私たちの力を示すには丁度良い相手でしょう。貴方も、それに賛同したはず」
「しかし……」
「しかしではないでしょう。貴方は、これから起きることを知りながら、賛同したのです。まだ京を騒がせる妖はいるが、化かすだけの存在など驚異にはならないと。それでは駄目なのだと」

 言葉を濁す男に、女はピシャリと言い放った。
 化かすだけの妖怪。マミゾウと、ぬえのことである。取り殺すでも食うでもなく、ただ化かすだけの存在など取るに足らない。
 気の弱い貴族たちは怯えているが、平民は狸と鵺程度では外出を控えたりはしないのだ。
 もっと強力な妖怪が居たのだし、命を取られるわけではないのだから、平気だというわけらしい。平民がそんな調子だから、怯えている貴族たちも大見得を切って「自分たちの力だけで退治してみせる」と触れ回ってしまった。
 結局今でも退治しきれず、陰では馬鹿にされているのだが、それで割を食ったのがこの部屋にいる男女である。
 意地を張り始めた貴族たちは、自分たちの力だけという所に拘りだしてしまった。それによって、自分たちにお鉢が回ってこなくなってしまったのだ。身内ではなく外部の、それもそれ専門の手を借りたと知れれば、物笑いの種になると思ったのだろうか。
 睨まれては面倒だと、下手に動くことが出来ずにいる。だが狸と鵺などではなく、それ以上の相手が現れたら自分たちに声がかかるだろう。
 そこで彼らは一計を案じたのだ。新たに生まれた妖怪が急速に力を増すよう手を回したのである。

「良いですか、これも貴方と、その子孫のためです。一族の安泰を望むのなら、強力な力を持った妖を退治し、権力を手にするしかないのですから」
「その力でもってこの地位まで昇った私たちには……それしか無いということでしょうか。母上よ」

 母と呼ばれた女は、狐を思わせる目をスゥと細めた。
 立ち上がると男に近寄り、その身体にしなだれかかる。それだけで、男は身体を強ばらせた。
 何故かは分からないが、こうされただけで心が鷲掴みにされたように感じてしまう。そして、言われたことに反対できなくなるのだ。
 母から息子へのお願いと言えば普通だが、明らかにそれ以上に拘束力を持っていた。

「そう、もう少しなのですよ? 妖はもとより、他の人間を蹴落としてでも、地位を手に入れる。そうすれば、全ては安定し、今後の心配はなくなるのですからね。それにはあと少しだけ……。だから、あの橋姫が力を付けてから退治するのです」
「力を付けすぎていて、退治できないということになってしまったら……」
「貴方の力は本物です。もっと自信を持ちなさい?」
「ですが……退治されるだけに生み出されるというのは、やはり少し……」

 スゥと女の指が、男の頭へと延びる。そして怪しく、優しくなで始めた。
 まるであやすように、女の手は動き続ける。

「貴方は相変わらず、心優しいのですね。自然と生まれたものではなく、意図的に生み出された相手に情を向ける。間違ってはいませんし、捨てろとも言いませんよ。気になるというのなら、退治ではなく封印すると良いでしょう。何も知らぬ人間から見れば、それでも大して変わりませんよ」
「それ……なら……」

 構わないのではないか。そういう気になっていく。
 母と話すと、何時もこうだ。男はそう呟いた。
 しまった、聞かれたかと思うが、女はそれに気が付く様子もなく、実際には口から出てはいなかったらしい。
 自分の意見を相手に承諾させつつ、相手の意見も少しは酌んでやる。それで良いと思わせるのだ。
 何かしらの力を使っているのかも知れないが、相手を意のままに動かすには一番手っ取り早い方法だろう。
 現に今、そうで良いと言ってしまっている。

「では、良いですね。あと当分の間、橋姫は放っておくようにしなさい。もっと力を付けるよう、噂を流し、時には人を向かわせて……。そう、出来るだけ早く強力になるようにするのですよ」
「……分かりました。そのように手配しておきます」

 生け贄をよこせと言うことだ。男はそれにもうなずいてしまった。
 噂話などと鼻で笑うような人間を選び、向かわせればいいだろう。もう後戻りなど出来ない。母の言うとおり、事を進めていくしかないのだ。
 優しい言葉と情を与え、助言もする。これで何も言うことが出来なくなってしまうのだ。何より母親なのだから、逆らいようがなかった。
 男の返事に女は満足したのか、口に手を当ててクスクスと笑い始めた。

「そう、それで良いのですよ。私は貴方を心の底から愛し、貴方や子孫たちが繁栄することを祈っているからこう言っていると、そう分かってくださいね」
「ええ……分かっていますよ。では、私はそろそろ失礼させていただきます」

 男は女を優しくどかすと、力なく部屋を出ていった。
 部屋に取り残された女は体勢を崩すと、懐から式神を取り出した。

「さぁ、あの子がちゃんとやるか見張っていて頂戴」

 力を込めると、それを放り投げた。式神はふわふわと地面に落ちそうになったが、シュウと浮き上がり窓の外へと飛んでいった。
 万が一の保険だ。ちゃんとやってくれなければ、せっかくここまで登り詰めたというのに、全て無駄になってしまう。
 なんとしても、支配者たちの懐へ潜り込むのだ。そうすれば、妖怪の身でありながら人間を支配することが出来る。そう、自分がこの国を動かすことが出来るのだ。
 そのために人間と交わり、子を産んだ。人成らざる力を持った子だったために最初は怪しまれたが、それが人々を脅かす妖怪を退治していくことで、信頼を得ることが出来た。そして人間にはどうしようもない妖怪を退治することで、地位を高めていく。
 そう、ちょっと力を隠すだけでいいのだ。連中はそれをせず、生まれ持った力を誇示していた。
 妖怪としては正しいだろうが、馬鹿正直な生き方だとあざ笑う。それでは自分の居場所を失うだけだ。
 これからは人間の時代がやってくるだろう。上手くとけ込むことが、長生きの秘訣であると思っている。

「あはははは、あと少し。そう、あと少し……!」

 狐目を細めて笑う女の着物がひるがえった。裾から人間にはないものが広がっていく。
 7本もの狐の尻尾だ。ゆらゆらと揺らめくそれを、天へと突き上げる。
 隠していた力を解き放つというのは、やはり気持ちの良いものだ。だが、全てが手にはいるかもしれないとなれば、幾らでも我慢できる。
 馬鹿正直な妖怪も、愚かに信じる人間も、馬鹿な連中だと、女は笑い続けるのだった。









 太陽の下を自由に歩く。普通のようで、今のマミゾウたちには出来ないことだった。耳と尻尾。人間には備わっていない箇所を、彼女は隠していた。ぬえも姿を変え、特徴的な羽を見えないようにしている。
 二人は都の外から野菜を売りに訪れた農民ということにして、そのように見える形をしていた。
 本音を言うなら、堂々と妖怪としての特徴をさらけ出して歩いて回りたかった。だが今そんなことを行えば、たちまち兵士たちに囲まれ、縄を打たれるだけでは済まないだろう。まだそうなるわけにはいかなかった。
 二人は空っぽのかごを背負って、都を歩いていく。平民のオンボロ小屋と、貴族の豪華絢爛な屋敷が酷くミスマッチだ。マミゾウらの服は敢えてみすぼらしくしているが、見かける人間の大半も対して変わらない。華やかなのは貴族だけである。
 豪華な服装に見合うだけのことを貴族たちが行っているとは思えなかったが、不満があるのなら人間たちが自分で何とかするだろう。

「ねぇマミゾウ、この前来たときよりも普通な感じがしない?」
「そうじゃなぁ。確かに、前よりも落ち着いておるのう。次は自分かとそわそわしていたはずなんじゃが」

 キョロキョロと辺りを見渡しても、以前ほどの異様な雰囲気は感じられない。驚異である橋姫は未だ退治されていないと言うのに、これはどういうことなのだろうか。

「ほら、やっぱり変なんだって。あんなに早く噂が広まるのも、まだ橋姫は居るのに、こんなに普通な感じになってるのも。おかしいんだよ」
「確かに、ぬえの言うとおりかもしれんわい。さて……」

 ならば、話を聞いてみよう。二人は暇そうな男をひっつかまえると、様子が変だと訪ねてみた。自分たちは外から来た。以前と、何となく雰囲気が違う感じがする。何か起きたのかと。
 男はマミゾウの説明に納得したのか、「橋姫ってのを知ってるか?」と話し始めた。

「恐ろしい化け物が前にも出てたが、ありゃあ人を喰わない。橋姫と比べたら、驚かせて喜んでるだけの妖怪だったわけだ。ところがな、橋姫ってのは人を呪い殺すんだ。もう何十人も殺されたらしい。怖い話だな」
「ああ、この妙な雰囲気はそれで……」
「まぁ、そうだな。貴族連中はやっぱり役に立たない。あいつらが退治しよう何て、到底不可能なことだからな。次は自分かってみんな震えてたわけよ」

 ここまでは、前にも聞いたことがある話だった。だが男は「ところがよ」と懐に手を入れ、一枚の紙切れを取り出した。
 その紙には三角や四角といった、様々な形をした図形が散りばめられている。それだけではなく、祝詞にも似た文字が書かれていた。
 二人はそれを注意深く観察すると、マミゾウがおもむろに手を伸ばした。だが指先が紙に触れた瞬間、彼女は目を見開き目にも留まらぬ早さで指を引っ込めた。訝しがる男に見えぬよう、愛想笑いをしてから背中を向ける。

「どうしたのさ?」
「ほれ、これを見てみい」

 何事かとのぞき込んできたぬえは、マミゾウの指を見て息を飲んだ。焼け焦げているのだ。かすかに、肉の焼ける嫌な臭いが漂っている。
 ただの紙切れではない。何が施されているのかは分からないが、少なくとも妖怪にとって害になるものであることは間違いないようだ。
 ぬえが愛想笑いのまま男へ顔を向けた。どうかしたのかと訪ねる男に、「急にお腹が痛くなったんだって」と苦しい言い訳を返した。
 男が次の言葉を喋るより先に、ぬえは男が手にしている紙切れを指さした。

「それっていったい何なの? 凄そうってのは分かるんだけどさ」
「ああ。凄いの何のって、これ持ってるだけで妙に安心できるわけだ。とんでもない化け物が居るってのに、それを感じないんだからな。それに、妖怪にあったらこれを叩きつけて、逃げれば何とかなるらしいんだとよ」
「ふぅん……妖怪にとっては有害ってことね」
「そういうことだろうな。いやぁ、良い物をもらったわ」

 男はそう言って、笑顔になった。
 ますますもって気になる。退治するとまではいかないが、これは確実に妖怪へダメージを与える代物だ。妖怪に会ったときに叩きつけろというのも、それを表している。怯んでいる間に逃げろと言うことだろう。
 だとすれば、非常に厄介だ。橋姫だけでなく、自分たちにも害をなす代物なのだから。

「貰い物って言ってたけど、どこで貰ったの?」

 背を向けていたマミゾウが、いつの間にかぬえの側に来ていた。ぬえが顔を向けると、マミゾウはヒラヒラと手を動かしてみせた。もうすっかり治ったのか、焦げていたはずの指先は元に戻っている。
 腹の具合は良いのかと訪ねた男に、マミゾウは何とも言えないような笑顔を浮かべた。

「貴族様のところで貰ったんだよ。まぁこんなものをくれるんだから、その貴族はまだマシってことだな。何なら、その屋敷でも教えてやろうか?」
「お願いできる?」
「減るもんでもないからな。別に構いやしないよ」

 こんな物を配る人間。それを確かめなければならない。このまま放っておけば、きっと橋姫だけでなく、自分たちにも良くない事態になるだろう。
 そうなる前に、何かしらの手を打つ必要があるだろうな。男の話を聞きながら、マミゾウはそんなことを考えていた。









 建築についてさっぱりなマミゾウだが、目の前にある屋敷がよく出来たものであることぐらいは分かった。
 屋敷からは、自分の財を見せつけようという意図が感じられなかった。ただ飾りたてれば満足するような、安易なものではない。職人たちがどれだけ力を込めて作り上げたのか、素人目にも分かるほどだ。
 その屋敷の周りに、人だかりが出来ていた。みすぼらしい服装ばかりの人間たちは、兵士たちの指示を受けると列を作り始めた。
 彼らは期待と不安を口にしながら並んでいる。本当にここでもらえるもので、妖怪を恐れる必要はなくなるのか。それ以外にも利くと言うがあやしいものだなどと、好き勝手に言い合っていた。
 おそらく、先ほどのお札を目的とした人間たちだろう。貴族は頼りにならないと言いながら、結局はその力にすがるしかないのだ。命とプライドを天秤に掛けて、どちらが重いかなど考えるまでもない。
 後から後からやって来る人間たちも、ほとんどが豊かな暮らしとは縁遠い姿をしていた。彼らは列に並ばず、ただ眺めているだけのマミゾウたちに奇異の眼差しを向けていた。
 列の中に、貴族らしき姿は見あたらない。こんなものが無くても、金に物を言わせて人間を雇い、警備をさせているのだから十分だという事なのだろうか。それとも、もう自分たちの分を確保させているのかもしれない。
 列はゆっくり進んでいく。マミゾウの横を通り、また新たな人間が最後尾に加わった。やはり、ぼろ切れのように見える布を身にまとっている。

「どうする? 並ぶの?」
「並ぶと言ってものう。あれに触れることは出来んのじゃから、いざ自分たちの番が来たところで困ることになるだけじゃわい」

 言いながら、マミゾウは自分の手を見つめた。少し触れただけで焼け焦げたのだ。もし掴んだらどうなるか、想像するに難くない。
 自分たちの順番が回ってきたとき、誤魔化すことなど出来るかは分からなかった。もしバレたら、一巻の終わりだ。

「そうだよねぇ……。でもここで帰ったら、相手の顔とかが分からないじゃない」
「うぅむ……どうしたもんかのう。ここで立ち続けるわけにもいかんじゃろうし……」

 良い考えが、さっぱり浮かんでこない。二人が途方に暮れていると、屋敷から、良い身形をした男がゆっくりと出てきた。男は途中で止まると、何事かを叫び始めた。その瞬間、並んでいた人間たちがざわつき始める。
 男はさらに列を下り、同じように叫ぶ。やがて、マミゾウたちが声を拾える位置で叫び始めた。

「今日の分はもう終わりだー! 欲しい者は、また明日来るようにー!」

 男の言葉に、ざわつきが大きくなった。せっかく並んでいたのに、無くなったとは何事だ。何故もっと数を用意しなかったんだ。
 不平と不満。男に責任はないのだが、可愛そうなことに、罵詈雑言の集中砲火を浴び始めてしまった。
 平民たちの文句を怒鳴りつけて押さえようとしていた男だったが、しばらくして多勢に無勢という状況に耐えられなくなったようだ。小走りで屋敷へと戻っていく。

「なんか必死だねぇ。そこまでして欲しいかな?」
「さぁな。藁にもすがりたい、明日が命日かも知れないなんて思ったら、そりゃあ怪しい物にも頼りたくなるじゃろうて。おお?」

 列の後ろにいた人間たちは肩を落としながら引き上げていくが、前の方はそうではないらしい。ずっと並んでいたにも関わらず貰うことが出来なかったものだから、直接文句を言ってやろうと屋敷へ突撃を始めたのである。ずっと待って貰えなかった。それも、命に関わるかも知れないと言うのだから、必死なものである。
 わぁわぁと押し寄せる民衆を兵士が押しとどめようとしたが、数に押されていた。暴徒寸前の勢いとはいえ、そうそう武器を向けるわけにはいかないようだ。盾や武器を使って敷地内に入らないよう踏ん張っている。

「これは、ちょうど良いかもしれんぞ。儂らもあれに乗じて……直接文句を言ってやろうではないか」
「何かしらの言葉がないと、あれは止まりそうにないもんね。書いてる本人が出てくるしかないだろうし」
「よし、ならば行くとするかのう」

 マミゾウとぬえは走り出し、盛り上がる民衆の中へと飛び込んでいった。一緒になって声を上げる。
 いよいよ勢いが増したところで、屋敷の奥から男が姿を現した。先ほど伝えにやって来た男と服装は似通っているが、間違いなく別人だ。
 それだけではない。口元はまるで巌のようで、足取りはしっかりとしている。そこら辺の貴族とは違い、地に足がついているようだ。
 一番の違いは、体から発される雰囲気だろうか。男が姿を現す直前から、それを感じ取った民衆はすっかり静まりかえっていた。それはマミゾウたちも同じで……いや、それ以上の物を感じていた。

「ぬえ、分かるか? この感覚……」
「当たり前でしょうが。あれって人間? とてもそんな風に見えないんだけどさ」
「お前さんもそう思うか。あれはまるで……」

 妖怪ではないか。マミゾウの言葉にぬえは頷いた。ただの人間ではないと、あの紙から分かることではあった。それでも、ここまでとは予想していなかったのだ。マミゾウとぬえ、彼女らと同じぐらいの力。想定外にもほどがある。
 男から視線を外さないマミゾウの隣で、ぬえがゆっくりと息を飲んだ。言葉を交わすまでもなく、彼女の緊張と驚きが伝わってくる。それを馬鹿にすることなど出来るはずがない。
 マミゾウも同じく、体がガチガチに強ばってしまっていた。どうしてか、指一本動かない。
 男は顔を動かし、民衆を見渡した。それからジッと正面を見据えた。瞬間、マミゾウの体に悪寒が走る。

 ――今、あれはこちらを見なかったか?

 そう思ってしまう。いや、あれは正面を見ただけだ。視界の中に、たまたま居たというだけだ。落ち着け、落ち着け……。
 目立たないように深呼吸をしたマミゾウは、ようやく自分が握り拳を作っていることに気がついた。じっとりと汗に塗れた拳を広げる。
 初めて自分たちを一人で倒せそうな人間と出会ったせいか、緊張しすぎていたようだ。もう一度、深呼吸をする。
 まだ相手と言葉を交わしてすらいないのだ。力をぶつけ合う前から、気持ちが負けてしまってどうするというのか。
 マミゾウは、まだガチガチに緊張しているぬえの体をつついてやった。彼女もそれで我に返ったのか、マミゾウの顔を見上げてきた。

「悪いわね。どうかしちゃってた」
「それは儂もじゃな。お互いに、驚きすぎなんじゃ。事が始まる前に喰われるぞ、これは」
「……うん、ありがと」

 ぬえは男へ顔を戻し、マミゾウもそれに習った。
 男はゆっくりと、厳かに歩き始めた。騒ぐものなど居ない。まるでこの周りだけが異空間になったようで、呼吸音が聞こえそうなぐらいに静まりかえっていた。
 男が近づいてくると、民衆を押さえ込んでいた兵士が慌てて姿勢を正し、一礼をした。自分たちを押さえつけていた兵士が離れたというのに、民衆は動こうとはしない。

「苦労をかける」

 一言声をかけ、男は自分を出せと叫んでいた人間たちの前に立った。大きく息を吸い込み、口を開けた。

「一日にかける量には限界がある。それは済まないと思う。命を脅かす問題にもう少し待って欲しいというのもおかしいが、待ってくれないだろうか」

 周囲へと響きわたる大声。
 男が言葉を発したことで、皆が我に返ったのかまた騒ぎ始めた。マミゾウたちも便乗して声を上げるが、男がどう動くか注意深く見つめていた。
 罵倒を一身に受ける男は、しかし眉一つ動かさない。しばらく言われるがままだったが、やがて大きく口を開けた。

「明日だ!! 明日、橋姫を退治しよう! 今日も配っていたものは、そのための準備だ!」

 男の宣言に、民衆が一斉にざわつき始めた。顔を見合わせ、話し合う者もいる。
 ほとんどの人間が、似たようなことを口にしていた。

「そんなことが出来るのか? 相手は何人も殺しているよう妖怪だぞ?」
「この札がどうしたっていうんだよ。何の意味があるんだ?」
「さっぱり分からん」

 細部は少しばかり異なるものの、どれも似たようなものだ。男は皆の疑問が似ていることを確認すると、

「私にはそれが出来るだけの力があるという事だ。君たちの疑問はもっともだが、明日の夜まで辛抱して欲しい。今日渡せなかった分、明日は増やすよう努力もする。とにかく、明日だ!」

 そう言って、男はきびすを返した。どうやら民衆の疑問に答えるつもりはないらしい。説明することが難しいのか、それとも説明するわけにはいかないのか。どちらなのか、誰も見当がつかない様子だ。
 どうする。どうしようか。囁き合う声がする。
 しかし男が一方的に告げるようにしてその場を立ち去ったため、戸惑う民衆は文句を言うタイミングを失ってしまったようだ。
 どうしようもなくなってしまった彼らは、腑に落ちない表情のまま三々五々家路につき始めた。往生際が悪い者もいたが、屋敷の中から戻ってくる様子がないため、仕方なく帰って行く。
 マミゾウたちも同じようにねぐらへと足を向けていた。

「あの男、明日の夜に橋姫を退治すると言っておったな。本当だと思うか?」
「あれが目立ちたがりってだけの貴族ってだけなら、間違いなく放っておいても良いんだけど……そうじゃないもんね」
「あの力は本物じゃわい。橋姫どころか、儂等も危ういかもしれんぞ」
「返り討ちに出来ても、ただじゃ済まないよねぇ……。見た目は人間、でもあれって妖怪なんじゃないの?」
「正体を隠した妖怪ということか? それがどうして、見ず知らずの人間を助けるというんじゃ。そんなもの、気が触れたか聖人か……」

 マミゾウはそこまで言うと、言葉を止めた。不思議に思ったぬえが首を傾げる。
 見ず知らずの人間を助けるなど、よほどの事がない限りあり得ないのだ。先ほどマミゾウが上げた連中も、理由無く行うのは気が触れた者だけだ。聖人でさえ、相手のためではなく自分のためにもなるから人助けを行う。情けは人のためならずと言うことだ。
 ならば、先ほどの男も何かしら得る物があるから、人助けを行っていたのだろう。それは一体何なのか……。

「ぬえ、お前さんの気になっていたこと。噂が広まるのが早いと言うことじゃったな」
「うん、そうだけど。何か気になることがあっった?」
「ああ、先ほどの男じゃ。あやつが本当に、橋姫を倒せるだけの力があるとする。じゃがな、ただ倒しただけで、人間たちがその事を何時までも覚えていたりすると思うか? ひっそりと、分からぬように倒したとしてじゃ」
「ひっそりと? それなら、気がつかない人間もいるかも知れないし、噂になってもその橋姫を信じている人間が少ないからすぐに消える……。あ」

 マミゾウが何を言いたいのか、ぬえも察知したようだ。間の抜けた声を上げた。おそらく彼女の中で、抱いていた疑問が解決されている最中だろう。

「じゃから、何かしらの手段を使って橋姫の噂を急いで広めた。広まって広まって、今度はあの札を持たせた人間を放ち、「これがあれば妖怪を恐れなくても良いようになる」そんな話を広めたんじゃろうな。そこで奴の名は広まる。そして最後に、あれをやれば仕上げという事じゃな」

 最後の仕上げ。そう、橋姫を倒すのだ。人心を惑わし、都を騒がせる妖怪を退治したとなれば、ただでさえ広まっていた男の名がさらに有名になるだろう。
 どころか、もっと上の地位にいる人間から声をかけられるかもしれない。何故男が退治することが出来たかなど、連中は気にしないだろう。
 どうして、どうやって。そのことよりも、何かしらの手段で退治したという事実が大事なのだ。自分の元に召し抱えておけば、また何かが起きたときに、少なくとも自分の身だけは守ることが出来る。
 そのためには、日頃から目をかけなければならないだろう。良い暮らしが出来るということだ。
 名誉と富。それらを得ることが出来るというのは、見ず知らずの人間を助ける理由になる。ただのハッタリなら評価は地に落ちるが、あれはそんなものではない。

「そうか、だから噂を広める必要があった……」
「人間がそんなことをするはずがないと、あんな力を持っているなど考えもしなかったんじゃな。知らなかった。想像も出来んかったわけじゃ」

 いや、想像する機会は、知る機会はあったはずなのだ。土蜘蛛が退治されたと聞いたとき、そんな馬鹿なと思った。
 さしもの土蜘蛛も、数で押されればどうしようもなかったのだろうと思っていたのだ。しかし、あのような人間なら一人か、あるいは少しの護衛だけで退治することが出来るかもしれない。ただの人間だと侮っていれば、殊更容易いだろう。

「橋姫を退治するのは明日……何で明日なんだろ。別にあんな力があるんだから、今日でも良いはずなのに」
「何かしらの準備があるかもしれん。他に理由は……思い浮かばんのう。しかし何かしらの準備があるからだとして、それを悠長に待つ理由は無かろうて。そんなことをされて橋姫の力が弱まったりしてみい、儂らで守りきれるか?」

 マミゾウの問いにぬえは考えを巡らせた。万全な状態の三人なら、おそらく返り討ちに出来るだろう。
 だがマミゾウの言う何かしらで橋姫の力が弱まって、それを守りながら戦うとなれば話は別だ。それなら戦闘の間はどこかに逃がせば良いかもしれないが、素直にそうしてくれるだろうか。いや、そもそも相手がそんなことをさせてくれるとは思えない。

「うーん、ちょっと自信がないなぁ。一網打尽にされそう」
「なら、やることは決まっておるな。準備など……いや、橋姫を退治などさせるわけにはいかん。ようやっと三人になったんじゃ。また減らされてたまるものか」

 相手が明日に動くというのなら、こちらは今日だ。先手を打てばいい。むざむざ退治されるのを待つ通りはないのだから。

「うんうん。で、どうやって?」
「どうやってって、そりゃあ決まっておるじゃろうが。儂らの能力をもってすれば、正面から挑む必要はないわけだしのう」

 ぬえはなるほど、と納得のいった顔をした。マミゾウの言うとおり、自分たちはこういう時に使える能力があるではないか。相手に直接危害を加えるわけではないが、便利な能力だ。

「ああ、なるほどね。こっそりこっそり」
「相手が何かしらの策を弄しておるんじゃから、こっちもそれなりに、な。馬鹿正直につっこんで、こっちが返り討ちにあってはアホらしいわい」

 マミゾウとぬえは顔を見合わせると、悪巧みを考えているときのように笑いあった。これが上手くいけば、三人そろって笑いあえるだろう。
 そのためにも、失敗するわけにはいかないのだ。笑いあいながらも、二人の目は真剣そのものであった。









 人間というものは、上への警戒心に欠けているとマミゾウは思っている。自分の背後でさえ怪しいのだから、頭上はもっと怪しいものだ。付け入るならそこである。
 マミゾウとぬえは飛んでいた。当然だが、人型のままではない。マミゾウは鳥に姿を変え、ぬえはそう見えるようにしている。万が一、頭上へ目を向けられても、人が飛んでいるよりはマシということだ。
 猫でも良かったが、昼間の騒動のせいかアリ一匹通さぬような警備が敷かれていた。さらにどれだけ夜が更けても、屋敷の火が落ちないのだ。彰子の屋敷へ忍び込んだ時のようにはいかないだろう。
 ならば、屋根裏だ。そこなら、ある程度自由に動き回ることが出来る。マミゾウがそう提案すると、「それで良いんじゃない?」とぬえはあっさり了承した。

 ――色々考えるのは、マミゾウに任せるや

 空から進入しようとマミゾウが提案したとき、ぬえはこう答えた。自分の好きに出来るから楽だと思うか、少しは自分で考えろと嘆くべきか。マミゾウは困ったような表情になるばかりだった。
 だがマミゾウは少し考えて、自分を信頼してくれているのだと思うことにしたのだ。ならばそれに答えなければいけない。
 ぬえと自分、二人で必ず橋姫のもとへ帰るのだ。
 二人は屋根裏へ入り込むと、元の姿へ戻った。外の様子を伺っても侵入がバレた様子はない。まずは第一段階だと、マミゾウは胸をなで下ろした。ここで大騒ぎになっては、男をこっそりと亡き者にするなど出来なくなってしまう。
 マミゾウが立てた作戦は、男が寝ている間に寝首をかくというものだった。男もそうだが、その周りにいる人間もそこら辺にいる人間と同じとは思えない。正面から行っても不可能。ならば、こうするしかないと考えたのだ。
 だが屋敷の明かりは煌々と灯ったままで、先ず出鼻を挫かれることになってしまった。ならとりあえず侵入し、寝るまで待つか一人になったところを襲うことにしたのである。

「マミゾウは相手が何処にいるかって分かる? 何処かの部屋にいるとか」
「屋敷の間取りが分からんのじゃから、それが分かるはずがなかろう。じゃがな、この屋敷の中から感じる一番強い妖気の場所に行けば、あ奴が居るじゃろうて」
「それなら迷わず行けそうだね。あんなのがゴロゴロ居るとか思いたくもないし」
「ああ……」

 考えたくないことであった。いや、考えないようにしていたというのが正しいか。あんなのが何人も居たら、どう足掻いてもこちらに勝ち目はない。もし他にも居るのなら、今日ここで始末する必要があるだろう。
 それだけ見つかってしまう可能性が高くなるので、やはりそうあって欲しくないとマミゾウは思った。いや、それは楽観的だろうか。ぬえめ、嫌なこと考えさせおって。苦々しい表情で睨むが、ぬえは訳も分からずキョトンとするばかりだ。

「マミゾウ? どうしちゃったのさ、ほら早く早く」
「あ、ああ」
 
 ぬえは自分の言葉が原因だとは微塵も思っていない様子である。マミゾウはため息を吐くと、男の妖気を探るべく意識を集中させ始めた。ぬえも同じようにしている。
 しばらくそうしていた二人だったが、やがて何かを探り当てたのかぬえが声を出した。

「ねぇ、これかな? ちょっと変な感じだけど」

 そう言って、ぬえは北を指さした。感じた方角は同じだと、肯定の意味を込めてマミゾウは頷いてやった。だがぬえの言うとおり、少し変である。
 男の妖気は確かにその方角から感じるが、別のモノが混じっているのだ。男と同じぐらい……いや、それ以上の妖力かもしれない。
 マミゾウの嫌な予想は、見事に的中していたのだ。この屋敷にいて、力を持っているのは男一人ではなかった。こちらもやはり、人間とは思えない。何とかしなくてはいけないということだ。

「二人分……まったく、一筋縄ではいかんということじゃな。こっちも放っておくわけにもいかんしのう。ひとまず様子を見て、あとは出たとこ勝負になるかもしれん」
「様子を見る?」

 どういうことかと、ぬえが首を傾げた。

「力を感じるのは同じ方角からじゃからして、もしかすると同じ部屋に居ったりするかもしれん。これだけの力を持つ相手を、同時に相手するなど不可能じゃわい」
「じゃあ一緒に居たら様子をうかがって、分かれてから一人ずつ?」
「そうなるのう。さ、行き当たりばったりとはいえ、やることは決まったんじゃ。行くとするかのう」
「ん」

 二人は音を立てないようゆっくりと四つん這いになった。屋根裏は息苦しく、何とか座れるほどの高さしかない。この体勢のまま進んでいくしかないのだ。

「これが終わっても、こりゃあ腰が大変なことになるかもしれんわい」
「そりゃマミゾウだけね。私はそんなことないから。若いから」
「……言いおるわ」

 悪態を付くぬえを一瞥し、マミゾウはゆっくりと慎重に進み始めた。床が軋む。どうか、槍とこんにちわをしませんように。そう願うばかりであった。




 妖気の源。その真上まで来て、マミゾウは安堵の息を吐いた。ここまで見つかることはなかった。だが問題はここからである。
 二つの妖気は、やはりほとんど同じ場所にいた。同じ方向にある別の部屋かと期待したが、無駄だったようである。

「で、ここからどうするの? いきなり乗り込むってのは、無しの方向で」
「何を言うかと思えば。当たり前じゃろうが。そんな危険な真似、出来るものか」
「うん、そうだよね」

 部屋の中からは、男女の声が聞こえていた。天井が邪魔をしてはっきりとは聞こえないが、時たま大きくなることから言い争っているように思える。どうしたものかとマミゾウは考え、天井板へ耳を当てた。
 そうすることで、声が何とか聞こえるようになった。

「マミゾウ、何を……」
「こうやって話を聞いて、声がしなくなったら天井板を外して中の様子を見るんじゃよ。少し静かにしておいてくれ」

 マミゾウが注意すると、ぬえは何か言いたげな顔になったが、同じように耳を天井板へ当てた。
「お」と、声には出さないがぬえの口が動いた。それを見ながら、マミゾウは耳へ意識を集中させる。一体何を言い争っているのだろうか。

「何故、昼間はあんなことを言ったのですか?」
「それが最善だと思ったからです。あのままではどうなっていたことか、分からないわけではないでしょう!」
「ですが、明日は満月。妖怪がどれだけ力を増すのか、知らないわけではないでしょう?」
「知っていますよ。何せ、私もそうですからね」

 男の言葉に、二人は息を飲んだ。私もそうですから。つまり、男も妖怪だと言うことになる。まるで妖怪のようだ、ではなかったのだ。なるほど、妖怪ならあれだけの力を持っていることに納得がいく。
 ぬえは何か言いたげだったが、マミゾウはそれを押しとどめた。まだ話を聞きたい。

「いいえ、貴方は半分は人間です。純粋な妖怪ほど、満月の影響を受けるわけではない。そこまで力を増すわけではないのです。分かっていますね?」
「……」

 男は返事をしなかったが、女はそれを肯定だととらえた。

「ならば満月の夜は避けるべきでした。ですが……分かっていて満月の夜でも構わないと言ったのですから、自分の力に自信はあるのでしょう?」
「それは……ええ、その通りです。誤魔化すだけではなく、出来るとは思ったからこそです」

 男は少し言い淀んだが、あとははっきりと自信ありげに答えた。
 床板の軋む音がした。どちからかが移動したのだろう。

「ええ、貴方は強い。貴方だけは私の力を濃く継いでくれた。私がこう言っているのも、貴方に何かあってはいけないと思っているからですよ?」
「はい……」

 合点のいった顔のマミゾウが、天井板から耳を離した。
 男は人間であって、妖怪でもある。半人半妖という存在を聞いたことはあったが、本当にいるとは思っていなかった。ただの噂話だと思っていたのだ。だが実際に、板一枚を挟んだ向こう側に居る。
 先ほどの会話から、一緒に居る女が母親で妖怪だということが分かった。何故妖怪が、同じ妖怪を退治しようと動くのか。彼女は何で人間と子を作ったのだろう。何故、何故と疑問は尽きない。
 だが、それを確かめるわけにはいかない。それは敵に姿をさらすことになるからだ。

「マミゾウ、マミゾウ。男の方がどっかに行ったみたい。今が絶好の機会!」

 ぬえの呼びかけで、マミゾウの思考は中断された。耳を床に当ててみるが、確かに男の声は聞こえてこない。そのかわり、嬉しそうな女の声はしていた。

「ああ、あの子はやっぱり良い子ねぇ。私の思うとおりに動いてくれる。こんなにすばらしいことはないわ。それにしても……」

 最初はくすくすと、だが次第に女の笑い声は大きくなっていく。心底面白そうに、愉快そうに女は笑い続けた。

「あの橋姫は予想以上だったわねぇ。こちらの想像以上に力を付けてくれて、これならもっと利用してやっても良かったかもしれないわね。もっともっと力を付けさせて……。驚かす妖怪なんて、あれに比べたら取るに足らないものよ。あんなものを倒しても、何の意味もないものね。まったく……」

 女の言葉を侮辱と受け取ったぬえが目を剥いた。天井をぶち破って殴り込んでやろうと腕を振り上げる。わざわざ噂を広めた理由も確かめることが出来たのだから、もう構わないだろう。
 マミゾウはぬえを止めなかった。彼女の手を止めたのは、女の言葉である。

「鼠のように隠れて、見つかっていないとでも思っていたのかしら?」

 腕を振り上げたまま、ぬえが凍り付いた。ぬえだけではなく、マミゾウもだ。女が何を言ったのか、その瞬間は理解することが出来なかった。
 刹那、天井の向こうから殺気が膨れ上がった。

「ぬ、え!」

 かろうじて動くことの出来たマミゾウが、ぬえへを突き飛ばした。直後、殺気が形となって天井を吹き飛ばす。突き飛ばしていなかったら、ぬえはこの世に別れを告げることになっていただろう。
 砕けた鋭い破片が、マミゾウを襲った。肉の焼ける臭い。それが何を意味するかを理解するより早く、マミゾウの脳を鋭い痛みが走り抜けていった。押さえきれなかった悲鳴が口から迸る。

「あ、あああ、マミゾウ!」
「ぐ、があ……」
「間抜けな妖怪ども……こんなことをしなかったら、もう少し長生きできただろうに」

 痛みにもだえるマミゾウと、取り乱すぬえ。二人の姿を確認した女は、目を細めて笑った。わざわざ死地に飛び込んできた獲物の姿が、殊更愉快に見えるらしい。まったくもって、馬鹿なものだとあざ笑う。
 女の笑い声は徐々にエスカレートしていった。体をくの字に曲げ、体を小刻みに震えさせながら、腹を抱えて笑い続ける。しばらくそうやっていた女だったが、突然ぴたりと動きを止めた。
 女の纏う着物の裾がめくり上がった。そこから顔を覗かせたのは、何本もの狐の尻尾だ。
 怪しく揺らめく尻尾は、体からあふれ出る妖気を受けて光り輝いていた。ぬえが思わず息を飲む。

「聞かれた、見られたのだから……生かして返すわけにはいかない」
「見せたのはそっちじゃないか!」

 叫ぶや否や、ぬえが光弾を放った。女は腕を振り、攻撃を全て打ち消した。効き目があると思ってやったわけではない。女の動きが少しでも遅れるだけで良かったのだ。

「少しばかり我慢してね」
「すまん……」

 ぬえはマミゾウを担ぎ上げると、屋根を攻撃し大穴を開けた。支えてやらなければ、余計な力を使わせてはいけない。少しでも、傷を癒す方へ使ってもらわなくては。
 開けた穴から、ほんの少しだけ欠けた月が見えた。なるほど、明日は満月だろう。
 マミゾウは痛みで顔をしかめたが、ここで文句を言っても仕方がないと歯を食いしばった。脂汗が止まらない。唇から血が出んばかりに歯を食い込ませる。少しでも力を緩めると、また悲鳴を上げてしまいそうだ。
 その顔を見てぬえは悲しそうな顔になったが、何時までもこうしてはいられないと、勢いよく飛び上がった。何処へ行くかなど、考えてはいない。少しでもここから遠く、遠くへ。その一心だ。
 次の瞬間、空気を切り裂く音がした。ドカッと音がして、ぬえの右肩から力が抜ける。見ると、そこから矢が生えていた。

「ぬえ……! ぬえ……!」

 早く逃げなければ。それは分かっていたが、誰が撃ってきたのかと探してしまう。マミゾウが呼びかけていたが、ぬえの耳には届いていなかった。
 屋敷の屋根を見ると、厳めしい表情で弓を構えた男が立っていた。弓のしなる音が、ここまで聞こえたかのように思えた。それは幻聴だったのかもしれないが、次に聞こえた空を斬る音は本物だったようだ。
 ドカッ。

「あ、え……」

 ぬえの口から、間抜けな声が漏れる。いや、漏れたのは声だけではなく、鮮血もだ。胸から一本、矢が生えている。
 ようやく、ぬえの体を痛みが襲い始めた。流れ出る血と一緒に、力が抜けていくのが分かる。彼女がが辛うじて混乱しなかったのは、背中に背負う重みがあるからだった。先ほどから、重みが増している。
 ぬえは矢の突き刺さった右肩を必死になって動かし、光弾を作ると男を攻撃した。
 足下が爆ぜ、男が下へ落ちた。だが、これで安心というわけではないようだ。騒ぎを察知した兵士たちが集まり始めていた。
 十や二十どころではない。こうしている間にも、数は増え続けている。

「ぬえ、大丈夫か……?」
「ま、まぁね。これぐらい何ともないって。うん、大丈夫大丈夫……」

 無論、強がりだ。血は止まらない上に、胸へ受けた矢は特によろしくない。ぬえは肩と胸の矢を引き抜いた。せめて傷をふさがなければと力を傷口へ送るが、治る気配は全くない。もっとゆっくり出来る場所で、力を集中させなければ……。
 マミゾウの状態も深刻だ。腕は当分使い物にならないだろうし、体に刺さっている破片が何処まで食い込んでいるのか分からなかった。
 こちらも安静にしていれば治るのだろうが、今の状況でそれは望むべくもない。
 ぬえはすこし考えると、背中のマミゾウへ語りかけた。

「ねぇマミゾウ、ここは私に任せてさ。マミゾウは先に戻っておかない?」
「お前、何を言っておる!」

 マミゾウは目を剥いたが、ぬえは顎で彼女の両腕を指した。焼けただれて、目も当てられない痛々しさだ。

「それでどうやるって。マミゾウがこのままここにいても、足手まといになるだけでしょ。 大丈夫大丈夫、片腕が満足に動かないだけだからさ」

 言って、安心させるように笑みを浮かべた。それでマミゾウが納得すればいいと思っていたが、胸の矢を受ける瞬間を見ているのだ。納得するはずがなかった。

「その傷で、お前さんを一人にしろと!? 馬鹿を言うな! そんなこと、出来るはずが無かろうが!」
「じゃあどうするのさ。動かない腕でどうやって戦うって? まだ両手が動く私の方が、百倍マシじゃない。マミゾウはまだ動く両足を動かして、逃げればいいのさ。私ならまだ大丈夫なんだから。何とかなるかも知れないでしょ」
「じゃが……」

 なおも口答えをしようとするマミゾウを、ぬえはため息で遮った。それから、呆れたような顔になった。

「何、マミゾウはずっと一緒に居た親友の言葉を聞けない、信じられないってわけ? あーあー、私ってそんなに頼りなく思われてたんだ。がっかり」
「っ……!」

 自分でも卑怯な言い方だと、ぬえは思った。マミゾウ自身、言われなくとも自分が満足に動けないことは分かっているだろう。それでも最期まで一緒に居たいと思っているはずだ。だが、それは自分がぬえの足を引っ張るということを意味している。そのことも、よく分かっていた。
 それを指摘された上に、信用していないのか、頼りないと思っているのかと言われたのだ。
 頼りないと思ったことなど、一度もない。信用していないなど、そんな馬鹿なことがあってたまるものか。ならばここはぬえに任せるべきだ。だが、彼女も傷を負っている。それを置いて一人で逃げても良いのか?
 マミゾウの頭を、様々な思いが駆け巡っていく。
 ややあって、マミゾウは泣きそうな顔でぬえを見た。いや、もう泣いていたのかもしれない。決めたのか、それとも決めきれないのか。もう十分猶予はやったはずだ。すでに、ぬえはどうするかを決めていた。
 マミゾウが決めかねているというのなら、決断を促してやらなくてはいけない。悠長に何時までも待てるわけではないのだ。
 だから、ぬえは力を使った。少女ではなく、異なる姿に見せることの出来る力。
 諦めたわけではない。焼けた腕と破片が突き刺さった体のマミゾウよりは、まだ力を振るうことが出来る。これならまだ突破できるかもしれないのだ。
 ぬえは身の毛もよだつ化け物へと姿を変え、兵士たちの元へ降り立った。途中で見上げたマミゾウが何かを言っていたようだが、どういうわけか聞こえなかった。

 ――お前たちの相手は、私だ!

 有らん限りの力を込め吼えた。獣の叫びが空気を振るわせ、恐れおののいた兵士が腰を抜かす。見ろ、こうやってしまえば簡単だ。マミゾウは早く逃げればいいんだ。
 そんな思いを込めて、また叫ぶ。まだ逃げようとしない人間相手には、素早く近づき腕を振るう。
 マミゾウが何時の間にか居なくなっていたことに気がつくが、まだここを離れるわけにはいかなかった。


「それはまやかし、本体はただの小娘ぞ! 何を恐れるものか!!」








 焼けた腕は治る気配すらない。体に突き刺さった破片は全て抜いたが、傷口はまだ塞がっていなかった。
 じくじくと、傷口が痛み続けている。ぬえのおかげで、誰にも追われることなく逃げることが出来そうだが、傷の状態が思わしくない。血を流しすぎたのと、治癒に力を使っているためか、マミゾウの視界が霞む。
 ねぐらまで持つのか、分からない状態だ。ここで力つきてしまっては、自分を逃がしてくれたぬえに申し訳が立たない。

「くそっ、くそっ……」

 あのまま一緒にいた方が良かったのかもしれない。ぬえに何と言われようが、もし戻ってこなかったら一生後悔することになる。嫌われるより、永遠に失われることの方が恐ろしい。
 だが、ぬえの望みはマミゾウを逃がすことだったのだ。どちらが良かったのか、マミゾウにはさっぱり分からなかった。

「ぬえの馬鹿め……あいつは大馬鹿者じゃ……」

 血と、涙が落ちていく。馬鹿め、馬鹿めとしゃくりあげながら呟き続けた。止めなければと思うが、一向に止まる気配はない。
 涙と血と鼻水で、マミゾウの顔はすっかりぐしゃぐしゃになっている。視界が霞むのは、涙のせいもあるのだろうか。

「う、お……」

 ぐらりとマミゾウの体が揺れた。体中に力が入らなくなってしまっている。いよいよ持って限界のようだ。
 間違いなく、ねぐらまでは持たないだろう。
 それだけは避けたかった。ぬえが命をかけて逃がしてくれたのだから、途中で力つきて人間に捕まるなどあってはならない。
 朦朧とする意識の中でマミゾウはどうしたら良いのか、必死に考えた。

「ああ、そうか……あそこなら……」

 考えて導き出した結論に基づいて、方角を変えた。向かう先が必ずしも安全とは言えないが、このまま力つきるよりは幾分か未来があるだろう。ならば、賭けてみる価値はあった。
 最後の力を振り絞りながら、マミゾウは夜の空を飛び続けた。




 目覚めたマミゾウの視界に飛び込んできたのは、明らかにねぐらとは違う天井だった。まだ意識が覚醒しきっていないのか、ここがどこか直ぐには分からなかった。
 やがて意識がはっきりしてくると、マミゾウは安堵のため息をもらした。視界に移っている天井に見覚えがあったのだ。どうやら、ちゃんとたどり着けたらしい。
 顔を左に動かすと、窓から射し込む光が見えた。自分はどれほど寝ていたのだろうかと、思わず首を傾げた。
 体には布団が掛けられていた。傷を刺激することが無く心地よい。相当限界だったのか、屋敷にたどり着く直前からの記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっていた。
 だがこの場所に寝かされているということは、人間たちに突き出されはしなかったということだ。
 ここは間違いなく、彰子の部屋だ。何度かこの場所で言葉を交わしたことがあった。

「ああ、マミゾウさん……良かった、気がつかれたんですね」
「彰子か……。目が覚めて、最初に聞いたのがお前さんの声で良かったわい」

 マミゾウは体を起こし声のした方へ顔を動かすと、安堵の表情を浮かべた彰子が目に留まった。彼女を頼ったのは正解だったのだ。今こうして、自分が無事でいることが何よりの証拠である。

「びっくりしましたよ、血だらけのマミゾウさんが飛び込んできたんですから」
「すまんな、お前さんぐらいしか頼れそうな相手が居なかったもんでのう」
「あ、それは嬉しいです」

 にっこりと、彰子が笑った。この笑顔は安心できるなと思うが、同時にぬえの笑顔が重なってしまった。最期に見せた笑顔……。
 とたんに胸の奥から熱い想いがこみ上げてきた。必死になって耐えようとするが、一度堰を切った感情はそう簡単に止まるわけがない。
 そんなわけがない、あれが最期なんて何で思ってしまったんだ。ぬえは必ず戻ってくる。マミゾウは自分に言い聞かせたが、何処かで否定する自分自身が居るのも確かだった。

「マミゾウさん? どこかまだ痛いんですか?」

 ぼろぼろと涙を流し始めたマミゾウを見て、彰子が目を丸くした。

「違う、違うんじゃ……儂は……儂は……ううああ……」

 傷の痛みではなく、もっと別の理由で泣いている。それが何かは分からないが、自分に出来ることはないかと彰子は逡巡した。
 彰子は近寄ると、震えている彼女の肩を抱き寄せた。何も言わず、聞くこともなく胸を貸すというのだ。だが今のマミゾウにはそれがありがたかった。
 マミゾウは胸を借りてひとしきり泣くと、しゃくりあげながら顔を離した。涙は止まったようだが、泣き腫らした眼は真っ赤になっている。

「いやぁ、みっともないところを見せてしまった」
「マミゾウさんもこんなに泣くことがあるんですね。びっくりしました」
「そりゃあ、儂だって泣くことぐらいあるに決まっておるわい。なぁ、彰子よ。貴族の屋敷に賊が入ったとか、そういう話を聞いておらんか? それに橋姫のこともじゃ」
「……ええ、両方とも聞いています」

 そうかとマミゾウは呟き、彰子へ体を向けた。どんな結果であろうと、正面から受け止めるつもりである。自分が選んで行ったことだ。受け入れるより他無い。

「三日前、安部晴明様のお屋敷に妖怪が入り込み、退治されたそうです。二人だったそうですが、一人は手傷を負いながら逃げた……これってマミゾウさんのことですよね?」
「ああ、そうじゃ……。やっぱり駄目だったか……ぬえ……」

 先ほど思いっきり流したせいか、涙は出てこなかった。もう二度と会えないという現実だけが、重くのし掛かる。あの笑顔を二度と見ることは出来ないし、声を聞くことは出来ないのだ。
 マミゾウは胸を押さえ、呻きながら体を前へ曲げる。後悔という感情が彼女の胸を締め付けていた。しばらくそうやって、後悔の念に苦しみ続けた。
 やはり彰子は何も言わない。先ほどの質問の答えは、この態度が雄弁に物語っていたからだ。
 どれほどそうしていただろうか。マミゾウはおもむろに顔を上げ、口を開いた。

「橋姫は……どうなったか聞いてはおらんか?」

 想像はできるが、聞かなくてはいけない。自分たちの行動したことの結果を聞く義務がマミゾウにはあるのだ。

「マミゾウさんが飛び込んできた次の日に、同じく退治されたと。父はそう言っていました」
「そう、か。やはりそうなったか……」

 自分たちが男を倒すことが出来ていれば、こうはならなかっただろう。ぬえも、橋姫もマミゾウの前から居なくなってしまったのだ。
 どれだけ後悔してもし足りない。時間が巻き戻ってくれないかと願うが、それは叶わぬ願いだ。
 あの場に居た妖怪、おそらくは妖狐だろう。あれを憎んでも憎みきれる物ではない。妖怪でありながら人間に組みし、妖怪を倒すことで自分の地位を高めようとするなど、恥以外の何者でもない。
 だが妖狐への怒りは、彰子の言葉によって彼女に向けられることとなった。

「仕方……ないと思います。退治されても……ありがたいとさえ思うんです」
「何じゃと?」

 マミゾウは自分の耳を疑った。布団を跳ね上げ立ち上がると、座っている彰子の前に立った。仁王立ちのまま見下ろしたが、彰子はうつむきがちで表情が見えない。

「退治されても仕方がないと言ったのか……? ありがたいと……?」
「はい……」
「お前……!」

 今まで何回も交わした会話の中で、マミゾウは自分にとってぬえや橋姫がどういった存在かを語っていた。仲間であり、数少ない友人だと。それがこの世から居なくなって、ありがたいと普通は言うだろうか。

「怖いからです! そのお二人も……今のマミゾウさんも!」

 しかし、マミゾウが理由を尋ねるより早く、彰子が叫んだ。怯えを隠し切れない表情で見上げてくる。
 彼女の瞳は動揺しているのか焦点が合っていないようで、体は震えていた。まるで初めて自分と出会ったときのようだ。
 マミゾウはその瞳に見つめられ、ようやく自分が憤怒の表情になっていることに気がついた。

「怖いじゃと?」
「マミゾウさんとは色々お話しすることが出来て、話が通じることと相手を理解し合えることが分かったから、変な感じですけど、もう怖くないんです。でも、鵺や橋姫は話したこともない。話が通じるかも分からない。会った瞬間に殺されるかもしれないし、瞬きをする間に殺されているかもしれないんです。それを怖いと思わない方が変ですよ。マミゾウさんと初めて会話をしたときだって、次の瞬間には殺されるかもって怖かったんですから」

 彰子が喋っているうちに、マミゾウの怒りはすっかり冷めていた。なるほど、相手のことが一つも分からず、しかも自分より力が強いとなれば恐れて当然である。それに話しかけてきた彰子は勇気があると言えるだろう。
 落ち着いたマミゾウは腰を下ろし、彰子と向き合うことにした。

「……じゃが、お前さんたちは妖怪と会話をしたがらん」
「鬼や土蜘蛛。他にも、父から橋姫より前にも人間を襲った妖怪たちのことは聞きました。そんなことがあれば、妖怪と話したくないと思うのがほとんどです。マミゾウさん、妖怪は人間と話をしたがりますか?」

 彰子に言われて、押し黙ることしか出来なかった。
 妖怪からしてみれば、人間は襲う相手でしかない。会話をするなど以ての外、そもそもそういう発想すら無いものだ。マミゾウ自身、彰子と出会わなければ一生縁のないことだっただろう。

「そうか、今までの儂らの行動を考えたら、人間が妖怪を恐れて退治したがるのは当然と言うことか……。じゃが、あの晴明とかいう人間は妖怪と同じような力を持っておる。それは良いのかのう?」
「あの方が妖怪じみた力を持っていることは、かなりの人が知っているはずです。でも会話は出来るし、私たちのために働いてくれている。それだけで、あの方を信じる理由になるんですよ」
「人間の役に立てば、信用されて退治されないというのか? じゃが、それは人間のせいで生まれた橋姫には無理な話だぞ。あれは本来、川の女神じゃった。それが今では恐ろしい妖怪だと言われておる。それに人間の役に立てなど、無理な話じゃ」

 妖怪としての橋姫が生まれた経緯は知っていたので、彰子は顔をしかめてうつむいた。

「そうですよね……。無理ですよね……」
「ああ、彰子の言いたいことも分かるが、そういう妖怪も居るからのう」
「一番は、そういう方も含めて人間も一緒に暮らせる場所があることですね」
「そんな世界があるとは思えんのう。あまりにも突拍子のない、理想郷じゃ」

 そこは人間が妖怪を退治しても、妖怪が人間を襲っても誰も悲しまない世界だということだ。
 もしかすると、こうやって腰を据えて話が出来るかもしれない。だが、ありえないとマミゾウは吐き捨てて笑った。今までの関係を維持しつつ、手を取り合って生きていくなど不可能だ。
 しかし単なる理想と切って捨てるのはどうかと、彰子は思う。

「マミゾウさん、無ければ作るというのはどうでしょう」
「作ると……?」
「はい。マミゾウさんの思う、理想郷をです。無いのだと諦めるより、一からでも作り上げた方がマミゾウさんらしいと思うんですが。大切な友人を失ったマミゾウさんなら、出来ると思います」
「はは、それを言われるとな……」

 決して簡単な話ではない。
 マミゾウは妖怪のことなら分かるが、人間のことは彰子しか分からないのだ。付き合っていく相手のことを知らずに、そんなものが作れるとは思えなかった。
 長く生きているというのに、まさしく井の中の蛙であった。人間と話したことがないのだから、相手をまるで知らないのだ。
 ならば、相手を知らなければいけないだろう。

「何にしても、ここでは無理じゃろうな。妖怪が暴れすぎた。済んでいる連中は、妖怪の顔など当分見たくないじゃろうて」
「それは……仕方ないかもしれないですね」

 マミゾウは苦笑いを浮かべた。彰子の言うとおりなら、自業自得以外の何者でもない。

「なら儂は京を離れようと思う。ここにずっと居ても、何も先に進まんじゃろうしな」
「私にマミゾウさんを止める権利はありませんよ。出来ることは……」

 彰子は立ち上がると、部屋の隅へ向かい置いてあった酒瓶と二つの杯を手に取った。マミゾウの前に座ると、一つを手渡す。
 受け取ったマミゾウが何事かと目を丸くした。

「起きられたら、先ず飲まれるかと思いまして。準備して置いたんです」
「何と、用意が良い……というか起きたら最初に飲むって、流石にそこまでではないぞ?」
「そうなんですか? いつも飲まれてましたから、そうだとばかり。そうでないなら、まだ理解が足りませんね」

 杯に酒を注いで貰うと、一息に飲み干した。嚥下した酒が五臓六腑にしみこんでいく。話に夢中で気にも留めなかったが、どうやらすっかり治ったようだ。ゆっくり休ませて貰ったおかげか、妖力は体の治癒に注げたようだ。

「ああ、美味い。美味いぞ」
「やっぱりお酒が大好きなんですね」

 マミゾウは何も言わずに杯を突き出した。彰子はそれへ溢れんばかりに注ぐと、自分の杯にもそそぎ込んだ。

「マミゾウさんが旅立つのですから、今日ぐらいは良いと思うんです」
「そうそう。こういう日ぐらいは良いんじゃよ。ほら、ぐいっと」

 少しばかり躊躇したようだったが、彰子は杯の酒を一気に飲み干した。一瞬で顔が真っ赤になってしまう。それが愉快に思えて、マミゾウはゲラゲラと笑い、杯を傾けた。
 顔を真っ赤にした彰子が、すかさず酒をそそぎ込む。二人の酒盛りは窓から射し込む光が、オレンジ色になるまで続くのだった。





 痛む頭を抱えながら彰子が起きたとき、外はもう真っ暗になっていた。体に布団が掛けられている。マミゾウさんがやってくれたのだと、彰子は微笑んだ。
 完全に記憶が飛んでしまっている。周りを見ると、空になった酒瓶が綺麗に並んでいた。飲めないと言うのに、一体何杯を空にしたのだろう。
 予想はしていたことだったが、すでにマミゾウの姿はそこになかった。最後に挨拶をしたかったと肩を落とすが、気を取り直して部屋の片付けを始めた。
 手を動かしながら、もう京を離れたのだろうかと思いを巡らせる。京を発ったとして、今は何処にいるのだろう。それともまだ、旅立つ準備の真っ最中なのだろうか。
 はたして、また会うことは出来るだろうか。これで今生の別れというのは寂しいものだから、また何時か会いたい。そんなことを思いながら、部屋の片づけを続けるのだった。




「先ずは西にでも行ってみるかのう。この日の本の端まで行って、海でも見たいわい」

 平包みを持ったマミゾウは街道をのんびり歩いていた。何を急ぐことがあろうか。京を遠く離れたのはこれが初めてなのだから、全てが新鮮に見える。
 外は広い。もっと早くに飛び出すべきだったのだ。あのまま京に引きこもっているのでは、せっかくの長寿も宝の持ち腐れだろう。

「まだまだたっぷり時間はあるんじゃから、急く必要も無かろうて」

 そんなことを言いながら、マミゾウは前を見据えて歩き続けるのだった。
そこそこ長いのはもうやりません
筒教信者
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コメント



0.470簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
妖怪キャラの過去を扱った作品は幾らか見てきましたが、ここまで引き込まれる物は初めてです!
あなたは間違いなく創想話、いえ日本の文学界の宝になれます!
これからも応援してます!
3.70名前が無い程度の能力削除
これはこの後も続くんだよね?
物語のプロローグとしては上質だけど、このまま終わるなら
どうかと思う。
続き期待してます。
4.70名前が無い程度の能力削除
え。え、ちょっと、ここで終わるのはひどいじゃないか
なんというか東方STGでいうとこの、コンテニュークリアみたいな終わりかたです
安倍晴明や七尾の狐の話はどこにも落ち着いていないし
ぬえやパルスィが封印される運命なのは仕方ないにしろ
マミゾウさんがあっさり諦めちゃったように見えて腑に落ちません
彰子とマミゾウのエピソードも、ここまで文章を費やす必要があったのかしらん
5.80名前が無い程度の能力削除
このお話だとヌエは頼政に出会う100年前から活躍(?)してたのか……。もう十分ベテランの妖怪ですね!
あとマミゾウさん(狸)と狐の相性が悪いのはここから始まったか!?

(p.s.)
文化の話をさせていただくと
当時の酒は濁酒しかありません。上級貴族も濁酒しか飲んでませんでした。これは奈良時代から平安中期まで変わってません。なので大きく酒造技術が上がってはいないかな~、と。
あ、でもただの感想なので変にお気になさらず。
9.90名前が無い程度の能力削除
続き 続きをはよ(途中なので-10てんです)
10.90名前が無い程度の能力削除
もうちょい削れた気もしますが面白かったです
13.100名前が無い程度の能力削除
これは読んでない人が多そう。
楽しく一気に読みました。マミゾウ萌えで。
終盤の前のめりな感じも別に欠点ではないと思います。
終わり方もアリだと思います。総じて良作かと。
16.100名前が無い程度の能力削除
これはいい過去話。
東方の設定を理解するためにイメージできなきゃいけない時代なんですけど、
きちんと書く人は割りと少ないんですよね。
次も期待しています。
18.80万年削除
感想としてはいろいろありますが
なぜ平安期の若いマミゾウさんを幼女として描写しなかったし・・・