Coolier - 新生・東方創想話

二億九千万年の瞳

2012/03/10 12:20:46
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 テーブルの上を、小さな虫が這っていた。リグルが手を伸ばすより早く、それは本に置いた魔女の手によじのぼった。
 気だるげな視線が振り下ろされる。
「あ、あ。殺さないであげて」
 ゆらり持ち上げられた手がリグルの前に伸び、細い手首があらわになる。
「別にそんな気はないわよ。そいつが」虫はおとなしくリグルの指に歩いて移った。「私の大事な本を盗む不逞の輩でないかぎりは、ね」
 丸々と大きなお腹をしたアリだ。
 魔女はふと、眉をひそめた。
「でも放っておけば、この館の土台や柱に使われている材木を食い荒らされてしまうかもしれない。そうなる前に、とどめをさしておくべきだったかしら」
 アリは、リグルの指の腹にしがみついてじっとしている。
「それはシロアリでしょ。この子は違うわ」
「似たようなものじゃない」
 広大な図書館を、リグルは見渡した。本棚にぎっしり詰め込まれた本の一冊一冊は、まるで部屋全体の大きさを測る定規の目盛りのようだ。
「ここの本、全部読んでるの?」
「まあ、大体ね」
「それなのに、アリとシロアリの区別もつかないわけ?」
 魔女、パチュリー・ノーレッジは、にたぁと嫌な笑いを浮かべた。図書館中の本に書かれている文字が折り重なったような、向こう側の見透かせない笑みだった。
「比喩よ」
「どんな」
 音も立てず咲夜がやってきて、丁寧すぎる手つきで二人の間に、紅茶の湯気を残していった。



「元気でね」
 花壇脇の盛り土に放されたアリは、そこで立ち止まったまま、頭の角を振っている。
 湖の上に傘のような雲がかかり、広い庭は影に包まれている。5月の午後にしては肌寒かった。
 森でふらふらしていたリグルの前に、紅魔館が誇るメイド長が現れたのには、二つ理由があった。
 ひとつは、前庭の菜園で育てているトマトとナスに大量発生したカメムシ。毎年同じところに湧くからなんとかならないか、という相談だった。
 リグルとカメムシが面前つき合わせての「話し合い」の結果、なんとかならなかった。
「役立たず。もう、いいわ」
 レミリア・スカーレットはぷりぷり怒って妖精メイドたちに駆除を命じ、自室にひきあげてしまった。
 それから、リグルは図書館で魔女からもうひとつの用件を聞かされていたわけだが、アリを逃がそうと庭に出てきても、メイドたちは菜園を囲む柵の前で横並びになり、お互い顔を見合わせているばかり。そろいの手袋だけが勇ましい。
「虫けらの女王なんでしょ。どうにかしなさいよ」
 長い裾をひきずって、パチュリーが遅れて庭に出てきた。
「別に王様のつもりなんかないわよ。ま、一時的にどいてもらうことくらいはできるけどね」
「じゃ、そうしてあげればいいじゃない」
「退治しようっていうなら、まず勝負。人間でも妖怪でも、基本でしょ」
「駆除するなとは言わないわけね」
「手を汚してほしいわけ」
「ふうん」
 パチュリーは、リグルの足元に屈みこんだ。「じゃ、こっちの女王様にお願いしようかしら」
 はち切れんばかりの腹を揺らして、アリはまだリグルの靴先の感触を確かめている。
「なんだ、ちゃんと知ってるじゃない」
「当然よ」
「そう、正確には、この子はこれから女王になるの。……昨日までは、この背中に羽があったのよ。彼女に恋した大勢の王子様と大空でダンスして、一番すてきな相手と恋に落ちるの」
「『幸運なだけ』のオスと交尾して、それでオスはみんな死ぬ。この時期、羽の生えたアリの死骸が明かりの下に集まるから、掃除が面倒なのよね。本に挟まったりするし」
 リグルの、ありったけの感情を込めた視線をさらりと受け流して、魔女は館を振り返った。
「来たわね」
 小さく開いた正面扉の隙間から、金髪の少女がおずおずと顔を出した。



「それ」を見た館の住人は、フランドール・スカーレットが最初にして唯一だという。
 彼女のことをリグルはあまり知らない。姉と同じ吸血鬼であるという事実と、とっても「ヤバい」よ、という噂ぐらい。
 頭上をぐるりと飛翔して、フランドールはリグルの全身をしげしげと観察していた。
 赤い瞳が灯火に揺れ、大妖の強大な力を否応なく意識させる。体の端から刃物で寸分刻みにされているかのようだ。
「ど、どこで見たのさ?」
 勇気を奮い立たせた質問は、あっさり無視される。
 地下へと下る階段の踊り場に降り立つと、フランドールは追いついたリグルにぐいと顔を近づけてきた。
「むし?」 
 ことさら、頭から伸びた触角にご執心のようだ。
「そう。この娘は、ホタルの妖怪」
 ランプを手にしたパチュリーが後ろから答える。
「名前は?」
「リ、リグル」
 リグルは喉から声を絞り出す。フランドールの瞳もすべすべした肌も、宝石をぶら下げた翼も、何もかもがきらきらと輝き、目が眩みそうだった。
「知ってるよ。月にも、風にも名前があるんだよね。虫に名前があっても、おかしくないね」
 端正だが幼くもある微笑みが、不意に目の前でかき消えた。
 驚いて立ち止まったリグルの脇を平然とパチュリーが下りていく。追いかけていくと、階段の途切れた先に古めかしい石造りの扉があり、その前にフランドールと咲夜が立っていた。
 パチュリーと目を合わせ、小さくうなずいた咲夜が扉を引きあける。
 重々しい扉が鉄のレールの上を走り、少し幅の狭くなった通路があらわれる。
「ここから先は、最近拡張したエリアです。地上階の収蔵が手狭になってまいりましたので……。フランドール様にも手伝っていただいて、館の地下を庭の方へ空間を拡げ、いくつかの部屋とそれをつなぐ廊下を作りました」
 かつん、かつんと硬質な足音をたて、先に立ったメイド長の影が長く伸びる。
「この先です。フランドール様が、見たというのは」
「ねえ、リグル?」
 後を追って入ろうとしたところで袖を引っ張られる。フランドールは通路の境に立ち止まり、じっとリグルを見上げていた。自分の方が少しだけ背が高いことに、リグルは気づいた。
「虫に、心はあるの?」
 不思議な声音だった。
 地下に自分の部屋を持つフランドールは、拡張された地下通路を好んで散歩していたらしい。
 そこで彼女は見たというのだ。
 太古に滅んだはずの巨大昆虫の、幽霊を。



 メガネウロプシス・アメリカラ。
 図書館でリグルをテーブルに招き、使い魔の持ってきた本を開いたパチュリーは、ひとつの挿絵を指し示した。
「ひっ」
 思わずのけぞったリグルに、冷たい視線が浴びせかけられた。
「あなたが驚いてどうするの」
「こ、こんな虫、私知らないもの」
「そうでしょうねえ」
 人間も、妖怪も居なかった大昔の生き物だもの、と魔女は言った。
 彼女が指を置いた挿絵は、一言で言えば、巨大なトンボである。構図も大迫力で、だからリグルは驚いたのだ。
「こーんな感じだったのかな~」
 わざわざ、魔女はその分厚い本を地下まで持ってきていたようだ。
「きゃあっ」
 いきなり、ランプの照らす下で巨大トンボのページを突きつけられ、リグルは尻餅を搗きかける。フランドールが背中を支えてくれた。
「もう、パチュリーってば。おいたはダメよ」
「ふふ、妹様。つい面白くてね」
 廊下の先で、ランプをかかげて咲夜が待っている。
 メガネウロプシス・アメリカラは、古生代石炭紀末、2億9千万年前の地上に生息していたとされる巨大なトンボだ。翼を開いた横の長さは大きなもので60センチから70センチに達したという。
「あなたの方が大きいじゃない」
 背のマントをつまんでからかってくる魔女を無視する。咲夜がちょいちょいと指差した先には、闇に満たされた廊下が伸びている。
「プラトン、アリストテレス」
 二羽の蛾が、マントの裏から飛び出し、ほのかに燐粉を曳いて廊下の奥へ飛び去った。
「なにそれ、名づけたの?」
「うん。意味は知らないけど、かっこいいでしょ」
「あ、そ、そうね……」
 パチュリーは本を抱えて口ごもる。
「この辺だったんですよね、フランドール様」
 咲夜の手の中に一瞬時計があらわれ、すぐに消える。
「そう。飛んでたらさ、後ろで気配を感じたの。振り返ったら、おっきな影が映ってた。その挿絵と同じかわかんないけど、羽音がして、長い脚の影も、くっきり見えたわ。青白い火の玉が浮かんでて、でも姿は見えなかったんだ」
 ちょうどそこ、とフランドールは曲がり角の手前の壁を指さす。
「羽音については、妖精メイドたちも何人か耳にしたようですわ。皆、顔面蒼白で逃げ帰ってきましたが」
「ぶーん、じゃないんだよ。ごおお、だよ?」
 フランドールのばたばたさせる腕をつかんで、パチュリーは、そんなに羽ばたけなかったはずよ、とやんわり首を振った。
「フランの話と、いくつかのキーワードから、メガネウラ科の近縁種と確信したわ」
「へえ」
 リグルはいまさら、魔女に敬意を抱く。言葉の裏にはきっと綿密な下調べがあったろう。
「ヤンバルテナガコガネかもしれない」
「おい」
 ぜんぜん違うだろうに。
「古代の地層というのは、案外浅いところにあるものですね」 
 咲夜が天井を見上げて呟く。空間を拡張するとき、そいつの化石を気づかず掘り出したのかもしれませんね、と。
「虫の幽霊、ねえ」
 三人とともにそろりそろりと前進しながら、リグルは考えていた。冥界に行けば虫の幽霊にも会えるという。しかしリグル自身は、死んだあとの虫のたましいに、直接出会ったことはなかった。
「ん……?」
「どうしたの、リグルきゅん」
「馴れ馴れしいなあ」
「むきゅー」
「……いや、今気づいたんだけど、なんで最初に冥界のお嬢様を呼ばなかったの。幽霊の専門家なんでしょ。私より適役じゃないの?」
「ああ、そうね」
 魔女とメイドが顔を見合わせた。
「いや、西行寺幽々子にはもう知らせたのです」暗がりによく見えないが、咲夜は苦笑したようだ。「だけど、翼長70センチのトンボだって伝えたら、その、それ以来連絡が途絶えまして」
「ああ、うん」
 わかるわかる。
 虫の妖怪なんてやってると、そんな扱いばかりだ。
「それでいっそお嬢様に頼んで追い出してもらおうとしたのですが、翼長70センチのトンボだって伝えたら、しばらく地下には立ち入らないと……」
「ああ、うん……」
 巨大トンボどころかその後出てきた恐竜だって片手で屠りそうな面々だが、やはり苦手なものは苦手らしい。
「咲夜は、なんで平気なのよ。私は研究目的ならなんでもこいだけど、あなたは」
 うーんと考えた末、咲夜はぽんと手を打った。
「おらが田舎じゃあ、イナゴば普通に食べっから」
「咲夜!?」
 魔女が両目をびっくり見開いた。眠そうじゃない顔もできるんだ、とリグルは感心した。


「ホタルって、どうやって飼えばいいの?」
 割と衝撃的な発言である。私ホタルだって言ってるやん!
 天井をさかさまに歩くように飛んでいたフランドールが、リグルの前に降り立ってにっこり笑う。
「えっと……。それは、大人の虫? それなら、水しか飲まないから、食べ物は気にしなくっていいけど……」
 フランちゃんにこにこ。
「子供のころから育てようと思ったら、大変だよ。どのホタルかにもよるけど、水場がいるでしょ。それもつめたくてきれいな水じゃないと駄目だし、それに食べるものも、ちっちゃな貝とかだし」
「そんなこと聞いてるんじゃないの!」
 いきなり怒られた。
「どうやって飼うかじゃないの。どうやるかなの!」
「ど、どういうこと?」
 前を行く魔女が背中を折ってくつくつ笑う。
 腕組みして口をへの字にしていたフランドールだったが、いきなり相好を崩し、リグルの背中をどんと押した。
「うわあ」
 たたらを踏んで、壁に手をつく。
「えへへ。リグルってさ、あんまり妖怪っぽくないね」
「へ? そ、そう?」
「うん」
 面食らうばかりだが、彼女の機嫌は悪くなさそうなので、それ以上突っ込まないことにした。
「居ないわね」
 ドアのない小部屋をランプで照らし、パチュリーが振り向いた。
「もうとっくに成仏してるんじゃないですかね」
 そして今頃は、パチュリー様のような根暗な美少女に転生しているんです、と咲夜。
「あら、咲夜は生まれ変わりを信じるタイプ?」
「コーヒーカップの底に残った模様で恋を占うタイプです」
 するどい目つきのメイド長は、壁面の煉瓦の隙間を指でなぞっている。
「いっそ、他の幽霊も集めて、ミステリースポットとして広く開放するというのはどうでしょう。夏も近いですし、涼しさを求めて人気が出るかもしれません」 
「夜になると地面の底から、恨みつらみのうめき声が聞こえてくるわけね。私は嫌よ。図書館は地下だから、読書の妨げになるわ」
 咲夜が唇に指をあてる。全員が黙ると、地下をめぐる通路に本来こもった音がよみがえってくる。水音や風の音に混じって、正体のわからない軋みや鼓動が、幾重にも重なり、リグル達を取り巻いていた。
 魔女がふっと息を吐いた。
「まじめな話、霊魂はそこまで確固たる存在ではないわ。よっぽど強い怨念や執着でもないかぎり、安定して存続できるものではない。まして」彼女はリグルに軽く手を振ってみせた。「失礼? 大昔の、そんな原始的な生き物に、複雑な感情があるなんてね」
「ホタルね、飼ってたの」
 フランドールの呟きは、リグルにしか聞こえなかったかもしれない。
「咲夜がつかまえてきてくれたの。グラスに入れて、お姉さまと光るところを見てた」
「そんなこともありましたね」
 咲夜が小さくうなずいた。そろえた指先を神経質に気にしていたフランドールが、薄闇に光沢の流れる瞳をリグルに向ける。
「でも、一晩で死んじゃった。水をあげなかったからかな。ひどいことをしたと、思う?」
 リグルは当惑した。こういう問いかけははじめてではないが、いつも困る。絵に描かれたリンゴを指さし、これ美味しいかな? と聞かれているようなものだ。
「それは寿命だったのよ。水しか飲まないのは、長く生きる必要がないから。そのホタルは、きっと生殖も済ませて、もうすべてのエネルギーを使い果たしていたのよ。自然界には、そういう生き物は他にも沢山いるわ」
 慰めるというより、パチュリーは平坦な事実をただ読み上げているようだった。フランドールは魔女に流し目をくれて、ぺろりと上唇を舐めた。
「そろそろ戻りましょうか。どうも、空振りのようですし」
 咲夜が天井を見上げたところで、リグルの触角にぴりりと刺激がはしる。
 これの意味するところといえば。
「どうかした? リグル」
 フランドールが覗き込む。
「アリストテレスがやられた……」
「え?」
「あっちの方!」
 リグルは駆け出した。後ろで魔女が何かわめいているが、壁を蹴ってそのまま道を折れる。
 濃密な闇がどっと押し寄せ、リグルと後につづく者たちの間隙を埋めた。





 後になれば、臆病なはずの彼女が、パチュリーたちと別れて平気だったのは奇妙と思えるのだが、そのときのリグルは疑問にすら感じていなかった。
「虫の幽霊」に半信半疑だったのもある。
 ――こころはあるの?
 そんなこと、わかんないよ。
 色づき香る果実のように、黄金色の稲穂のように、それと指さし示すことができないものなんか。
 フランドールの質問を思い出すと、どういうわけか、何かを思い出しそうになる。思い出せないとわかっているから、イライラする。
 右に左に、一つずつ角を折れてしばらく走った。いつの間にか、魔女たちの気配は完全に消失している。
 どうしてこんなに暗いんだろう。
 リグルはいぶかった。月のない夜でも、彼女の眼は人間よりはるかに見通せるはずなのだ。
 壁に手をつき、ゆっくり歩き出す。
 咲夜の話では、この廊下は出来たばかりのはずだが、まるで相当の年季を経たかのように、壁は古びて石の角が磨り減っている。
 しかし、それが見せかけだとリグルにはわかる。こういう場所に巣くうはずの小さな生き物たちの気配が、ほとんど感じられないからだ。
 それゆえ探しやすい。
「アリストテレス」
 蛍火を浮かせる。
 ヒトリガのアリストテレスは死んではいないようだ。かじかんだ人間の指のように六本足を丸め、廊下の隅でじっとしている。手のひらにのせると、床と同じ温度に身体が冷えている。
 マントの裏にしまいこみ、また進む。
「また分かれ道か」
 突き当たりで左右に通路が伸びている。リグルはあきれた。いったい、あのメイド長はどんな地下倉庫にするつもりなのだろう。内臓みたいに入り組んで、まるで悪魔封じの迷宮だ。
 しばし迷って、右へと歩く。すぐに行き止まり、扉が立ちふさがった。
 おそるおそるノブを回す。がちゃりと、大きな音が反響する。
 天井の低い小部屋である。不ぞろいの煉瓦を漆喰で固めた壁に沿って、奥行きのある棚が並んでいる。反対側には、すでにいくつかの物品が未整理のまま寄せて置かれている。古そうな器に燭台、何が入っているのかわからない木箱、巻いた敷物、ワインボトル。
 部屋の奥にはそのまま通路がつづいている。リグルのまとった燐光をうけて、複雑な陰影が壁に波のような縞模様をつくっている。一歩進むたびに時代を遡っていくようだ。
 フランドールが見たのはきっと本物の巨大トンボだったにちがいない。挿絵を見て怯えたことなどすっかり忘れて、だんだんとリグルは気持ちを高ぶらせていた。幽霊などではない、古代からの生き残り。遠い、遠いご先祖様。ぜひ、会ってみたい。はるか長い時間を、どうにかして土の底で生き延び、待ち続けていたんだ。ふたたび地上の空を舞う日を。
 そんなことはありえないと、魔女がいれば指摘しただろう。
 暑く湿った太古の森の空気がよみがえる。ゆるやかな羽ばたきを耳が聞く。巨大な影が、今まさにリグルの頭上を通過しようとしていた。
 そのものは目覚め、何を思っているのか。
 いや思ってなどいない。思うことなど必要ない。
 ココロなど、いらない。
 気流に乗るための雄大な翼。獲物をとらえるたくましい顎。
 それで十分じゃないか。
 どうせ死ねば、何も残らない。巨体は風と土になるだけだ。
 まさに蟲だ。あるべき姿だ。
 なんて、なんて素敵なんだろう。リグルは、ほとんど涙を流さんばかりに歓喜していた。
 行く手に階段がある。右からの廊下を走ってきたフランドールが、きょろきょろとあたりを見回し、ひらりと階下に身を躍らせた。
「ねえ、リグル、どこ行ったのー?」
 単独行動している彼女は、きっと自分の強さに自信があるのだろう。妬みと親しみが、同時に弾けて溶け合い、白熱する。心の縁がじりじりと焦げていく。
 ちょっとびっくりさせてやろう。
 足音を忍ばせ、フランドールの後ろから飛び込んでいく。階段を乗り越えると、華奢な背中はすぐ前にあった。
「え?」
 その瞬間まで、リグルの理性は、まったくただの悪戯心のつもりだった。
 格別するどい牙など持ってはいない。けれどもかぶりと遠慮なくこめた顎の力によって、リグルの糸切り歯はフランドールの首の円筒半ばまでやすやすと達した。
 血の味とともに、濃密に溢れた恐怖の感情が流れ込んでくる。
 彼女にもやはり怖いものがあるのだと、リグルは深く満足した。
 私は蟲の王だ。
「!?」
 破られた気管からひゅーひゅー息が漏れ、フランドールの叫びは声にならない。
 死骸のように見開かれていた瞳孔に意思が戻り、涙が一筋頬をつたう。ぐるりと動いた眼球がリグルを確認した。傷ついた組織が猛烈な勢いでみるみる再生していく。
「なんなのよ!」
 吸血鬼の全身から赤光が放たれる。なかば突き飛ばされるようにリグルは離れた。勢いのまま天井を駆け抜け階下の通路に飛び降りる。一瞬遅れて、あてずっぽうに放たれたらしき光弾が壁をうがち、炸裂した。
 炎の照り返しを受け、首から下を真っ赤に汚した少女が、よろめいて瓦礫にもたれかかる。――転んじゃう、助けないと。そう思った。足はまったく正反対の方向に動いた。思考の薄皮一枚しか自由にならないことを、ようやくリグルは認識した。残りすべてを、味わったことのない甘美な興奮が満たしている。
 通路に逃げ込む。壁越しにおそるべき眼光が心臓を貫いた。恐怖を燃料に、リグルはどんどん走った。 
 後ろでまた閃光。
 爆発。










 通路の床が大きく跳ねた。もう何度目か。
 壁に背をあててパチュリーは揺れに耐えた。
「フランね」
「派手にやっていますね」
 反対側の壁に手をついて、咲夜が目を細める。どうやら、振動の大元は移動しているようだ。
「件の幽霊、見つけたんでしょうか」
「うーん」
 フランドールは、リグルを探しに二人から離れた。彼女だとすれば移動スピードが速すぎるのが、パチュリーは気になっていた。まるでひどく動揺しているかのようだ。
「妹様は、虫も幽霊も一切平気だと思ったんだけどね……」
「よっぽど大きいんでしょうか」
 もしくは追いかけたくなるほど可愛いとか、と咲夜は胸の前で手を組み合わせた。
「いや、トンボよ?」
「そうですね。フランドール様の魅力には、遠く及ばないでしょうね」
「その文脈で持ち上げられても、フランは嬉しくないと思うわ」
 通路の両脇がひらける。端までは見通せないが、宙に渡された回廊になっているらしい。パチュリーは足をとめて耳を澄ませた。爆音と振動は断続的に伝わってくる。
「ここで待ち受けるのが得策ね。うまく追い出してくれればいいんだけど」
 霊体に効果のありそうなスペルを考える。咲夜も、腿につけたシースからナイフを抜き取って、つるりと刃先を撫でた。
「妖蟲はどこへ行ったんでしょう」
「そうなのよね。巨大トンボの顎の露となっていなければいいのだけれど」
「彼女、何の役にも立ってませんよね」
「にべもないこと言わないの」
 回廊の反対側で、足音がした。
「そうだよー」
 ランプの光の輪に、よろめきながらリグルが加わる。
「どこ行ってたの。トンボは、見つけた?」
「見つけたけれど」ぺたりと、パチュリーの足元にへたり込む。「すぐ消えちゃった。ちょっとここ、広すぎるよぉ」
「フランドール様に会いませんでしたか?」
 回廊の手すりに手をかけて、身を乗り出した咲夜が左右を見回す。爆発音はしばらく止んでいる。リグルは首をかしげた。
「さあ、見ていないけど……」
 咲夜が天井を指さした。空気を通す穴か、丸く開いた暗がりから、ふらふらと近づいてくるものがある。細かな粒子が光を反射する。プラトンだかアリストテレスだか、アテナイの賢者の名をもらった蛾の片割れだ。
「しもべのご帰還よ」
 触角にとまったマイマイガを、リグルは穏やかな目つきで見上げた。
 ある根拠のない確信がパチュリーの背筋をつたった。妖蟲の眼差しは、彼女以外のすべてのものを完全に等価と見なしている。人も妖怪も、生物も無生物も、風や空、時間にいたるまで、等しく整列させられているかのように。
 とある古めかしい、純粋で残忍な存在の前に。
 手すりに置いたランプの灯がゆれる。そのとき、パチュリーは今まで影になっていたリグルの襟元に、かなり大きな黒い染みがあることに気づいた。  
 灯火はいよいよ大きく揺らぎ、唐突に消えた。
「危ない!」
 叫びと同時に、咲夜に袖を強く引かれ、パチュリーはのけぞった。倒れこむ眼前を生暖かいものが通り過ぎ、首のあったあたりでがちりと硬いものが噛み合わされる。
 ぷんと、血の濃い匂いがした。
「パチュリー、気をつけて、リグル、なんだかおかしいんだ!」
 回廊の下方から、フランドールの声がした。ランプの消えた周囲は真っ暗だ。
 咲夜に引きずられて通路を下がりながら、フランドールの無事に安堵し緩む精神を、パチュリーは引き締めようと躍起になっていた。血を見てもしやと思ってしまった。無事にきまっている。状況が把握できない。思考がひとまず停滞している。
「『アグニシャイン』」
 闇より深い影が躍る。パチュリーは大雑把な狙いで火球を放った。
 回廊に火柱が立つ。一瞬、全員の位置関係が明らかになる。下の通路に立ったフランドールは血まみれだ。リグルは手すりの上に立って歯をむき出している。壁に投影されたその背中に、存在しないはずの巨大な羽が加わっていることに、パチュリーは気づいた。
 また暗転。
 影が走る。身をひねってかわし、ひらりとパチュリーは飛翔した。
「咲夜」
 側面から、ナイフで。言いかけたところで、パチンと音がした。たぶん、銀時計の蓋を閉じる音だ。
「盛り上がってきたところ、申し訳ありません」
 頭上から、咲夜の声がした。
「え?」
「お嬢様のお茶の時間ですので、これにて失礼いたします」
「ちょ、ちょちょちょっとあなた」
 一人分の気配が消える。図ったように手元に落ちてきたトランプのカードを、パチュリーはくしゃりと握り締めた。
「……マジですか」
「パチュリー、よけて!」
 炎の杖を構えて、フランドールが回廊を飛び越えてくる。
「そんな無茶な」
 パチュリーは回避に迷い、結果フランドールの狙いは中途半端になる。着弾した小爆発を余裕ですり抜け、リグルはまっすぐ回廊の出口にいるパチュリーに迫った。
(まずい、やられる!)
 持っていた本で首筋をかばいつつ、しゃがみこむことしかできない。
 腰を落とすと同時に頭上の空気を二度、するどく穿って何かが通り過ぎた。
 低い悲鳴。
 おそるおそる本から顔を出す。床に落ちた影の、四枚の翼の先端を一本ずつ銀のナイフで縫い付けられ、リグルはパチュリーの眼前で凍りついたように静止していた。
「なぁんちゃって」
 背後で足音が、優雅に着地する。
「咲夜!」
「お嬢様のお許しをいただいてきました。いわく、影を狙えと。パチュリー様、たぶんあまり長くは抑えられません」
「十分よ」
 身体があるのなら好都合、ひとつ気つけをくれてやろう。 
 妖蟲の足元に転がりこみながら、異なる二つの気を編み合わせる。
 金の縦糸、木の横糸。
「『エレメンタルハーベスター』」
 出現した回転する巨大な歯車が、リグルを天井近くまで高々と跳ね飛ばした。





      ----------------------

 
 お願い、もう一度光ってみせて?

 耳元で、そんな囁きが聞こえた。
(駄目よ。もう、疲れたの。未練も、ないの。やるべきことは、すべてやり終えたの)
 お願い、もう一度だけ……。 
 落ちていく感覚が先にあった。目が開いた。
 リグルは真っ先に手を前に持ってきて握り締めた。思い通りになる。何度も、指を開いたり閉じたりした。
 暗がりをゆっくり降りていく。パチュリーたちの姿は見えない。
 硬い床に足がついた。
 やはり誰もいない。ずっと向こうに、かすかに青白い光が見えるだけだ。
 他にどうしようもなく、リグルはそちらへ歩き出した。
 すぐに気がつく。足音がしない。
(こりゃあ私、死んじゃったかな)
 パチュリーの魔法で吹き飛ばされたのは覚えている。幽霊を探しに来たら、自分が幽霊になってしまったというわけか。
 青い光は、近づくにつれて人型の輪郭になる。しゃがみこんだ娘だ。
 リグルに気がつくと、娘は顔をもたげた。くわ、と歯をむきだして威嚇する。
「うわわ」
 逃げ出しかけて、気がついた。私たぶん、死んでるじゃん?
「こ、こわくなんかないよ!」
 叫んで、胸をはる。そうだ。お化けは死なないんだ。
 闇の底でどこから射しているのか、娘の半身にはさらさらと粉のような光がまといつき、肌にそって流れていた。
「あ、あなたが幽霊?」
 魔女の見せてくれた本のページを思い出す。名前、なんて言ってたっけ。
「大昔に生きてた、ご先祖様なの?」
 リグルを見上げるうつろな瞳に、戸惑いが浮かんだ。頭から突き出た一対の触角は同じだが、あとは少しもリグルに似ていない。髪は青く長く、腰まである。背中の羽はさらに長大で、一枚だけでリグルの身長くらいありそうだった。
 好奇心が、静かに湧き上がる。
「なんおくねん前って言ってたかなあ。この辺の森なんて、そのころはどうだったの? やっぱり、木や花も今よりずっと大きかったのかしら。お日様はひとつだけ? 夜はもっと暗かったの?」
 透明な羽に網のように通う翅脈に、色とりどりの光が流れる。
「ねえ。人間や妖怪なんて、いなかったんだもんね。あんな連中、いつの間にいたんだって思ったでしょ」
 リグルを見上げる大きな瞳から、涙がふた筋、さっと流れた。形のいい唇が、おうさま、と声もなく象った。
「私、王様なんかじゃないって。どうして泣くの?」
 おうさま!
 突如、娘が立ち上がる。背はリグルよりずっと高い。逆立った髪の下でらんらんと目が輝き、挑みかかるように両手を掲げて覆いかぶさろうとする。
 けれど怖くはない。これ以上死にようがない。
 巨大な翼を開こうとして、娘はもんどりうって倒れる。見れば、羽にはそれぞれナイフが突き立ち、床に繋ぎ止められていた。
「怯えないで。大丈夫よ」
 膝小僧をかかえて涙を浮かべる娘に、リグルは手を差し伸べた。
「あなたは一人じゃないって。いやー、なんだか私、死んじゃったみたいだからさ。冥界でも三途の川でも、一緒に渡ってあげるよ。大盤振る舞い!」
 娘はうつむいた。
 膝に置いた手に手を重ねてさすると、その上にぽたりと、青く輝く涙が落ちた。娘は小さく、何度か首を振った。
「うん? どうしたの」
 にわかに周りが騒がしくなる。振り向くと、なじんだ面々が近づいてくる。
「あ」
 自分の血でブラウスを染めたフランドールに、リグルはあわてて駆け寄る。ひどいことをしてしまった。謝って、ゆるしてもらえるだろうか。
 ところが、三人ともリグルに気づかない。そのまますれ違ってしまう。
「ねえ、これ、リグルかしら」
 じっと動かない蟲の娘を囲んで立ち、パチュリーは咲夜とフランドールに尋ねる。
「どうでしょう?」
「うーん。なんか、違うよね」
 ぜんぜん違うでしょ!
 と、叫んでみても、声も届いていない様子だ。本をあごに当てて、魔女はうーんと思案する。
「どうだったかしら。あの子の顔かたち……」
 ひどい、なんなのそれ! 
 フランドールはともかく、パチュリーはそれなりに一緒にいたはずなのに。
「どう、咲夜。覚えてる?」
「さあ……」手の間でナイフを行き来させて、咲夜は娘のあちこちを目で点検している。「私、興味のうすいことは記憶していたくない性質でして」
 もっとひどい!
「こんなにスタイルよかったっけ?」
 しゃがみこんだフランドールが、隙間をつくった両の手のひらで、こーんな感じ? と曲線をえがいてみせる。
「言われてみれば、そうですね」
「もっとつまんない体型だったかも」
 メイドと魔女がうなずく。
 ああ、もう好き勝手に言えばいいよ……。
 やっぱり死んでるから、気づいてももらえないんだ。――二重に落ち込んで、リグルはその場で膝を抱えた。
「ちょっと美人すぎる気がするし」
「鼻ももっと低かったような」
「二重まぶただったっけ?」
 三人の放言の切れ間に、ぱたりとかすかな音がした。見ればパチュリーの足元に、先刻の新米女王アリがひっくり返っていた。服にくっついて地下までついてきていたらしい。もがいて起き上がり、のろのろ歩き出す。
 蟲の娘も顔を上げ、じっとアリに見入っていた。
「……」
 アリの行進に気づいたパチュリーは、しばらく黙って見ていたが、本を小脇にかかえると、人差し指に炎をともす。
 その指をアリに向けた。
「パチュリー?」
 フランドールが首をかしげ、すぐに機敏に飛び退いた。
 リグルは目をみはる。ナイフの刺さった羽を半ば引きずり、娘は魔女の指先とアリとの間に割って入ろうとしたのだ。
 小さくうなずき、パチュリーは火を吹き消した。
「なるほど。あなたはリグルじゃないわね」
「さっきからそう言ってるじゃない!」
 ぐらりと眩暈がした。
 しかしそれ以上にリグルを驚かせたのは、地下回廊に響き渡った自身の大音声である。
「あら」
 まじまじと見つめる三人が目の前にいた。
「……えーと。今度は、リグルかしら?」
 蟲の娘の居た場所に、居た姿勢で、リグルはぽかんとして座り込んでいた。







 命とは言わないまでも、腕の一本、触角の片方くらいは、覚悟していたつもりだった。
 それなのに、フランドールは早々に自室に引っ込んでしまい、リグルは謝らせてもらえなかった。
「我らが眷属が、よりにもよって喉笛に噛み付かれるとはねえ……」
 図書館へやってきた姉の吸血鬼は、従者の淹れた紅茶をすすって、渋い顔をした。
「いつから操られていたのかは、わかんないの。噛んだことは覚えてるしね」
 身体を乗っ取られていたみたいよ、とパチュリーが言い添えてくれていたのだが、正直に言うことにした。ちらりとリグルを見たレミリアは「ふん」と鼻を鳴らし、もう一口紅茶を含む。
「咲夜ー、これ苦い!」
「おっしゃると思ってましたわ」
 とろーりとろとろー。妙な歌を歌いつつ、咲夜は主の突き出したカップに蜂蜜を注ぎ入れていく。
「まあ、いいさ」一礼して退出するメイド長を目で追い、レミリアが指を立てた。
「もしもあいつに手を出していたら、ただではすまなかったろうけどね」
「うん」
 リグルは心底同意した。相手が人間でなくて本当によかった。
「勘違いしてるね? 人間なら、フランのように油断はしないってことさ。敵意を見せたところでお前、八つ裂きにされているでしょうね」
 ケタケタと楽しげに笑い、紅魔の主はカップに口をつけた。なにこれ甘すぎる! と椅子から浮いた足をバタつかせている。
 しばし沈黙のお茶会が続いた。やがて席を立ち扉に向かうレミリアを、リグルは呼び止めた。
「あ、あの……ごめん、ね。心配したでしょ」
 フランドールの首筋に引っかき傷すら残っていないのは目にしている。それでも、言わずにいられなかった。
「なに? ……ああ」
 遅れて察しのついた様子のレミリアは、決まり悪そうに唇を噛み、目を泳がせた。
「変な妖怪ね、あなた」
 肩をすくめて彼女は出てゆき、残されたリグルはぐったり椅子にもたれた。凝り固まっていた手足を伸ばす。
 疲労がまるごと眠気になって、まぶたにのしかかる。
 ――もう一度、光って?
 囁きが聞こえたのを、思い出した。
 いつかどこかで、そうお願いされたのかもしれない。ちっぽけな蛍だったころ、人間の子供にでも捕らわれて。
(勝手な話よねえ)
 もしくは、リグルの仲間の誰かが。
 おびただしい小さな、心なき声が、リグルの内側にある。今また、もうひとつの声がそこへ加わろうとしていた。
 まぶたの裏の暗がりに、ぽつんと光が浮かぶ。
 青い髪の娘は、くびきから逃れた美しい羽を広げ、静かに立っていた。
「どうも私、生きてたみたい。一緒にはいけないや」
 声をかけると、湖のような瞳が、すがるようにリグルを見た。
「それとも、このまま私の中で生きてく? それでも、いいよ。……ただし」
 声も態度も変えていない。なのに、羽も角も縮め、明らかに娘はおびえた。
「その心は、捨てて。邪魔だから」
 どうして、こんなこと言っちゃうんだろう。
 きっと夢だからだ。――リグルは、ぶるぶる震える娘の肩をそっと撫でた。
「どうする?」
 見つめるリグルの前で、膨大な時間が、瞬く間に過ぎたようだった。一度だけはっきりと、娘はうなずいた。前髪の下から、青いしずくがいくつもいくつも、闇へと滴り落ちていく。
「泣き虫だね」
 私は夢をみている。



 やはり眠ってしまったらしい。
 リグルが目をあけると、レミリアのいた席にパチュリーの姿があった。コイン大の青い結晶を指ではさみ、明かりに透かして中を覗いている。
 地下の通路で、リグルの手の甲に落ちた青い涙の痕が固まっていた。パチュリーはそれを調べに、図書館の奥の部屋にこもっていたのだ。
「どうやら、殺されなかったみたいね」
 リグルの目覚めに気づいたらしく、結晶を睨んだまま独り言のように言う。
「どうも、そうみたい」
「何よりだわ」
 柱時計の針は、眠る前から大きく動いてはいない。
「簡単に調べたところでは、琥珀に似ているわね。青いのは珍しいけれど」パチュリーは、リグルとの間に結晶を置く。二人の手元には、いつの間にか湯気の立つ新しい紅茶が置かれていた。
「中に昆虫の体組織らしい紋様が見えるわ。種類まではわからないけど。これ、欲しい? 持っていくのなら――」
「ううん、いらない」
「そう。でも、危ないかしらね。またお化けでも出たら」
 魔女の指が結晶をつつく。
「大丈夫よ」
「わかるの?」
「うん。そこにはもう、何もいない」
 パチュリーは粘っこい目つきをリグルの顔から下へ流していく。襟元の血のあとはすっかり消えている。シャツだけ着替えさせられたらしい。咲夜の仕業だろうが、器用なものだ。
 地下でのことを少し話す。蟲の娘の具体的な容姿にふれると、パチュリーは詳しく聞きたがり、リグルの説明のあとで間違いないか、と念を押した。
「すると、あなたにはちゃんと別人として見えていたのね」
 なんでも、パチュリーたちにはリグルそっくりに見えていたらしい。目つきや鼻の形やら、ひとつひとつのパーツは微妙に違うようで、全体を見直すとどこがおかしいのかわからなくなってしまう。ガラスに描かれた絵を重ねたように、輪郭がだぶって揺らめき、まばたきする間にもその姿は変化していくようだった。
「じゃあ、どうして私じゃないって、わかったの」
 リグルは尋ねた。
 カップを口元へ運び、立ち上る湯気の向こうで、パチュリーはしばらく黙っていた。
「うーん。リグルあなた、アリを殺さない私を一度信じたでしょ」
「ええ」
「うまくいえないんだけど」パチュリーは紅茶を含み、ゆっくりと嚥下した。「それなら、もう一度信じてくれると思ったの。それだけ」
「なに、それ」
「ふふ。でも、身を挺して庇おうとするなんてね。意外な反応だったわ」
「王様だからでしょ。そう言ってたし」
 今になればリグルはわかる。私が王様だ、と娘は宣言していたのだ。
「なるほど。とり憑いていたから、適当な表現を探したのかしら。――でも」
「何がおかしいの?」
「ふふ、別に。立派な王様ね」
 魔女が何を愉快そうにしているのか、リグルにはわからなかった。
 もっと休んでいけば、という申し出を断り、図書館をあとにした。石造りの建物に長居するのはどうも苦手だ。
 庭に出ると、菜園を囲んだ妖精メイドたちが、焚き火をしテントを張っている。長期戦の構えだ。
 湖の向こうに日が暮れていく。
 門へ向かおうとして、足元に動く小さな影に目がとまった。
「またか。もはや妖怪ね」
 苦笑が出る。
 大きなお腹のアリが、そろえた前足で、自分の触角を拭っていた。
「なにやってるのよあなた。やるべきこと、あるでしょ他に」
 卵産むとか、産むとか。
「それとも、しもべにでもなる?」
 ふと思いついた。虫の知らせサービスなんてやっていたっけ。そのアレンジだ。
 屈みこんで、アリに笑いかけた。
「このお屋敷の地下に、女の子が住んでる。吸血鬼の女の子ね。もし、頑張って巣穴を掘りすぎちゃったら、あなたでもあなたの子供でもいいから、会いに行ってあげてくれないかしら。姿を見せるだけでいいから、ね?」
 きっとそれが、あの子の知りたいことだから。
 じゃあね、と手を振ってリグルは飛び立った。地上のアリはすぐに見えなくなった。


 森のねぐらに帰り着いて、ベッドに潜り込むと、まる二晩、リグルはぐっすり眠った。
 長い長い夢を見た気がしたけれど、起きてみればその中身はすべてすっきり忘れていた。





<了>
バッタやコオロギを水に溺れさせて、お腹を押して「人工呼吸」などと称して息を吹き返させたり。
子供のころは、ホント酷いことばっかりしてましたね。
それで大人になると「大切なことを教わった」などと懐かしむんだから、我ながら勝手なものです。
教えられたのは、間違いないのでしょうけれど。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます!
――――
指摘感謝です、修正させていただきました。
鹿路
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コメント



0.830簡易評価
2.90一級天人削除
子供の頃は平気で虫をつかんだりできるけど、大人になると見るのもダメって人は結構多い。
虫とふれあえる期間を設けてるあたり、人間ってのはうまく出来ている。
3.90奇声を発する程度の能力削除
うーむ、色々考えるお話でした
4.100名前が無い程度の能力削除
これは貴重。私も昆虫は苦手です。
8.80名前が無い程度の能力削除
大人になってもクワガタとかカブトムシは大丈夫なのに、カマキリあたりからちょっと触るのはイヤになってくる。やらかくてキモいから。人間とはゲンキンなもんですな

自分が直に接するんでなければ巨大トンボとか鬼萌えるんですが
11.100名前が無い程度の能力削除
暗闇の地下を頭の中に再現させる見事な文章にはいつもながら感嘆します。
蛍のお話から時系列続いていたのですね。
紅魔館の皆さんもますますご健在のようで、楽しませていただきました。

ところで霊夢さんのお話は…
12.100コチドリ削除
重厚と軽妙、緊張と緩和。
その行ったり来たりが凄く心地よい。とてもとても惹き込まれました。

感じた面白さを言語化してしまうのが惜しい作品というのもあるのだな、と。
いやはや、御見それ致しました。
14.100名前が無い程度の能力削除
良かったです。
16.100アン・シャーリー削除
大ファンです
17.100名前が無い程度の能力削除
ちょっとだけ悲しく素敵なお話でした。
18.100名前が無い程度の能力削除
おもしろすぎて顔がほころんだ。
素敵な話をいつもありがとう。
21.100名前が無い程度の能力削除
私にとっては苦手な部類の話だったのですが、それでも、面白いと思いました。
23.100名前が無い程度の能力削除
話が始まってすぐに引き込まれて、最後まで楽しめました。
この短さで、キャラクターの一人一人に魅力を感じることができたのは驚きです。
すばらしいの一言。
25.無評価鹿路削除
>ところで霊夢さんのお話は…
お、おう(笑)。なんか書きたいんですけどね。居てくれるだけ、で安心してしまうというか。

説明不足と過多の狭間で悩んだSSでした。読んでくれてありがとう。
そろそろ「実際の」啓蟄ですね。小さな彼らと、今年はどんな風に出会うのか、ちょっと楽しみ。
……苦手な人のところには、あまり現れませんように(笑
26.80愚迂多良童子削除
うぅ~ん? 良く分からないな。
28.90名前が無い程度の能力削除
じめじめしていて、美しい。
自分でも何を言ってるのかよくわからないけど、兎に角そう感じました。
31.100名前が無い程度の能力削除
この緊張感というか空気感というか、キャラたちの発する呼吸音がクセになります。
34.100名前が無い程度の能力削除
「とある古めかしい、純粋で残忍な存在の前に。」
心を打たれました。