Coolier - 新生・東方創想話

雪兎

2012/01/20 15:27:13
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 地底にも雪は降る。

 地上にあるはずの雪がどのような経路を辿って地の底まで降り注ぐのか、私には分からない。
 触れれば消えてしまうような白い結晶が空の無い地底の岩肌を舞い降ちる様は、幻想的でありながらも不可思議な光景だった。
 しかし地底まで辿り着いた雪も、地表に降り積もることなく消えてしまう。灼熱地獄だった頃の名残が地熱として残る地底では、雪がその繊細な姿を保つことはできない。

 橋の欄干に身を預け、降りしきる雪が黒い川の水面に溶けていくのを呆然と眺める。
 橋姫に身を落とした私には、穏やかな流れを見守ることしかできない。
 ただ橋と共にある、それが私なのだから。
 
 たゆたう水面に人影が映り込んだ。朱に染められた唐傘を携える小柄な影は、私の横に並ぶと静かに口を開いた。
「ご機嫌いかがですか。水橋さん」
 形だけの微笑みを浮かべる少女の来訪は私の気持ちを更に沈ませた。引き籠もるかのように地霊殿から出歩かない古明地さとりが、こんな地底の外れになんの用があるというのか? どうせ碌でも無い用件に決まっている。
「新年の挨拶に伺いました。では納得してくれませんか」
「ただ挨拶に来たわけではない、と言いたいのかしら」
 切れ長の瞳が猫のように細められる。表情の薄いさとりの心中を察するのは難しい。
「妹の、こいしのことを聞かせてほしくて来ました」
 こいしの名を聞いて心がざわめく。やはり碌でもない用件だったわけだ。
「あの子が再び心を開くことができるのか、私にもわかりません。しかしせめて、あの子の苦しみを知り一緒に苦しんであげられたなら……それが、なにも気づけなかった駄目な姉の、責任の取り方だと考えています」
 静かに唇から紡ぎ出された言葉は、私にある罪を否が応でも思い起こさせる。
「残念だけど、地上でこいしがどんな目に遭ったのか私も知らない。期待には応えられないと思う」
 悟りを捨てて心を閉ざすしかないほど、彼女が深い絶望を味わいそして追い詰められていたとは想像できるが。
「あなたがこいしから何も聞かされていないことは存じています。しかし、あなたは私の知らない、こいしの何かを知っています。違いますか?」
 さとりの必死な眼差しが重圧となって私の心を押し潰そうとする。
 やっぱり雪の日は碌なことが無い。
「喋りづらい事ならば思い浮かべるだけでも結構です。私が……読みますから」
 消えてしまいそうな囁きだった。
 落ち込んだ私の気分は当分晴れそうもない。




    1

 どれほど昔のことだっただろうか。5年、10年……いや、もっとか。
 時間の流れの希薄な私には、何時のことだったか思い出すことはできない。
 とにかく、何年も昔のこと。
 その日私の下を訪れたさとりも、今よりずっと小さく少女というより子供と呼ぶほうが似合う姿だった。目に鮮やかな赤い振り袖も、正月というより七五三を連想させる。
 ああ、そうだ。この時もたしか、正月だったっけ。

「あけましておめでとうございます」
 年齢と不釣り合いに見える丁寧なお辞儀を、私は無関心に眺める。
 どこかで甘酒でも引っ掛けてきたのだろうか。上気した頬にうっすら紅が差している。
「おめでたいのかしらね。私には昨日も今日も明日も、なにも変わらない日でしか無いのだけれど」
 風に乗って旧都の祭り囃子が聞こえてくる。おめでたいと言うのなら、こんな人気の無いところに来なくてもあっちで楽しめばいいのに。
「相変わらずですね」
 穏やかに微笑んだ表情は子供らしくなく、どこか不自然に写る。
 さとりの背後から見慣れない子供が顔を出した。黄色い晴れ着のその子供は、さとりよりも更に二回りほど小柄で、物心ついてまだ間もないのではないかと思えるほど幼い。
「誰?」
「ああ、会うのは初めてでしたでしょうか。妹のこいしです」
 そういえばさとりに妹がいると以前聞いたような気もする。興味が無いから忘れていたけど。
 さとりの妹だというその子供は、好奇心に輝く青い瞳で私を見上げると
「はじめましてー!」
 耳を塞ぎたくなる大音量での挨拶だった。
 面倒臭そうな子供だ。無邪気というよりも無遠慮。元気というよりもデリカシーに欠ける。あまり近くを彷徨かれると鬱陶しいことだろう。
「こいし面倒じゃないもん!」
 心を覗いたのだろうか? さとりの妹なら同じ能力を持っていてもおかしくは無い。あまりいい気はしないけれど。
「こいし、初めて会う人の心を読むなんて失礼です。謝りなさい」
「え?う、うん。ごめんなさい」
 姉に咎められて意気消沈したこいしは、大げさなほどしっかりと謝った後に、私に向けて小さな手を差し出した。
「仲直りの握手」
「そういうの好きじゃないから」
 意識的に目を背ける。こいしはどうしていいか分からず、重苦しい空気が流れる。
 私の知ったことじゃない。
 誰にも近づいてほしく無い、そっとしておいて欲しいのだから、曖昧に流さずにはっきりと拒絶の意思を表すべきだ。
 誰かと繋がるということは、いつか繋がりが途切れるということ。失う悲しさを味わうくらいならば、いっそ最初から何も無いほうがいい。

 はっきりと避けたつもりでいたのだけれど、次の日もこいしは私のところにやって来た。
「こんにちはー」
 あれだけ露骨な態度を受けても、にこやかに挨拶してくる。周りが見えてないのか、酷く鈍感なのか。どのみち面倒だ。
「……面倒じゃないもん」
 こいしは口をへの字にして不機嫌を表す。相手にしたらペースに乗せられてしまいそうだ。
 私が無関心を決め込むと沈黙に我慢できなくなったのか、こいしが再び口を開く。
「ねえ、お姉さんなんて名前なの」
 名前なんて聞いてどうするつもりなのか。
「わたし、お姉さんとお友達になりたいの。お友達になるには、まず名前を聞かないと駄目でしょ」
 やっぱり分かってない。私は誰とも友達になんかなりたくない。誰にも触れられずそっとしておいて欲しい。
 厄介払いも面倒臭い、それになんだか損な役回りだ。私はこいしと目を合わせずに拒絶の言葉を告げる。
「親しくない人の心を勝手に覗く人なんて信用できない。そんな人とは友達になれないわよ」
 予想以上に厳しい言葉を返されて困惑するこいしだったが、しばらくの沈黙の後「わかった」と呟きを残して帰っていった。

 翌日もこいしは笑顔のままやって来た。自分でもやり過ぎかと思うくらい辛く当たっているはずなのに、なにが楽しくて私の所になんて来るのか、むしろ不思議に思えてくる。
「わたし、やっぱりお姉さんと友達になりたいから。だから、お姉さんの心を読まないようにがんばる」
 悟りの妖怪というのは、接している相手の心が見えてしまうのが普通なのだと、さとりに聞かされたことがある。相手の心を読まないようにするには、意識して心から目を逸らさなければいけないらしかった。
 それが辛いことなのかどうかは、悟りの妖怪ではない私には推し量れない。
「これあげる」
 こいしが差し出したのは、真っ赤なリンゴ飴。
「いらない」
 無表情に返すとこいしは、えーっ、と大げさな驚きの声をあげる。
「お姉さんの分とわたしの分と、二つ持ってきたのよ。お姉さんが食べてくれなかったら、わたしは二つも食べられないから一つ余っちゃう……しょうが無い。勿体ないけど川に捨てちゃおうかしら」
 川に身を乗り出して投げ込もうとするリンゴ飴を、そっと取り上げる。
「食べ物を粗末にするなって、さとりから教わってないの?」
 咄嗟に取り上げてしまったが、その後のことは考えていなかった。期待に満ちたこいしの視線を感じる。
 やっぱり捨てるというわけにはいかないし、こいしに返しても収まりが悪い。こうなると私がリンゴ飴を食べるしか無い。こいしの思う壺となってしまうけど、仕方が無い。
 深い赤色のリンゴ飴に口を付けると、鮮やかな甘さが広がってくる。照れくさそうに私を見つめてたこいしが「おいしい?」と尋ねる。
「別に……普通だわ」
 舌で蕩ける甘さは感じるが、それが嬉しいわけでも楽しいわけでもなかった。でもこいしはそんな私の様子に満足したらしく、橋の欄干に凭れてちょこんと座ると、自分のリンゴ飴を嬉しそうに舐めている。
「やった……」
 小さく呟くこいしの声が聞こえた。

「おーう、元気にしてたか」
 騒々しい足音とともに勇儀がやって来た。こいつも少し面倒臭い。なにが楽しいのか、ふらりと私のところにやって来てはこちらの都合も碌に聞かず、酒を呑むから付き合えと言い出す。
 旧都に行けば一緒に呑んでくれる楽しい仲間なんていくらでも居るだろうに、なんでわざわざこんな寂しいところに来るのやら。
「相変わらずよ。元気じゃなかったらこんな所にいるはずないじゃない」
「そりゃまぁそうだな。……ん?」
 見慣れない鬼を興味深そうに見上げるこいしの視線に、勇儀は気づく。
「こんにちは鬼さん」
「ああ、こんにちは。おチビちゃん誰だっけ」
「……さとりの妹よ」
 成り行きで私が説明をすると、勇儀はああ、と納得の声を上げる。彼女もこいしと会うのは初めてなのだろうか。
「さとりの妹ってことは、おチビちゃんも他人の心が読めるわけ?」
「おチビちゃんじゃないよ、私はこいし!」
「ああ、ごめんごめん、こいしちゃんね」
 こいしは大きく頷く。
「あのね、親しくない人の心を覗くのは失礼なことなの。だから鬼さんの心も覗けるけど、わたし覗かないよ」
「鬼さんじゃなくて勇儀だ」
「わかった、勇儀ね」
 元気の良いこいしの返事を聞き、勇儀は満足げに微笑む。きっとこいしのことが気に入ったのだろう。そのうち酒を勧めだすかもしれない。
「私は心を読まれても気にしないからさ、なに考えてるか読んでみなよ」
「えっ、でも……」
 こいしは私の顔を伺う。いちいち私の事なんて気にする必要無いのに。
「本人がいいって言ってるなら、覗けばいいんじゃない」
「うん」
 真剣な表情で勇儀を見上げていたこいしだったが、突然「きゃっ!」と短い悲鳴を上げたかと思うと、慌てて私の陰に隠れるようにして縋り付いてきた。
「ちょっと、何なの?」
「勇儀、わたしのこと食べようとしてるの。頭から齧って食べるって。お姉さん助けて!」
「はぁ、食べる?」
 勇儀を見ると、にやにやと意地の悪そうな笑いを浮かべている。なるほど。心の読めるこいしをからかおうと勇儀は悪戯したわけだ。
 縋り付いて本気で怖がっているこいしが可笑しくて、気づくと私は声を上げて笑い出していた。
「鬼が妖怪を食べるわけないじゃない。悪戯よ」
「えっ、ほ、本当!?」
「ごめんごめん、ちょっと悪ふざけが過ぎた」
 頭を掻いて謝る勇儀だったが、こいしは私にしがみついたまま疑いの眼差しを向けている。その様子がまた可笑しくて、私は更に笑い声を上げる。
「そんなに心配しなくても大丈夫だから」
「本当に、本当に食べない?」
「ああ勿論。約束するよ」
 その言葉に安心したのか、こいしは縋り付く手を離して勇儀に歩み寄る。元々妖怪なんて食べないのだから、約束もなにも在ったもんじゃ無いのだけれど。
「あっ!」
 安心して落ち着きを取り戻したこいしは、私の顔を見て驚きの声を上げる。
「お姉さん、いま笑ってた!」
「ごめん。あなたが本気で怖がってるのが可笑しかったから」
「違うの。お姉さん初めて笑ってくれたの。わたし嬉しいの!」
 何なんだろう? 改めてそんなこと言われると急に恥ずかしくなってくる。確かに笑ったことには変わりないのだけれど、それはこいしに笑いかけたわけじゃないし、喜ぶようなことなのだろうか?
「お姉さん美人だから、笑うととっても可愛い」
「なっ、突然なにを言い出すのよ」
「そうそう、こいつ素材はいいのにやたらと無愛想だから、勿体ないんだよな」
「勇儀まで、なに言ってるのよ!」
 いつのまにか二人で意気投合して、私の顔を眺めてニヤニヤ笑ってる。こっちは顔から火が出そうなほど恥ずかしいっていうのに! こいつら本当に面倒臭い。
「でも、良かったじゃん」
「なにがよ!」
「詳しいことは知らないけど、なんか今のあんた、胸のつっかえが取れたって、そんな顔してるよ」
「別に、そんなこと……」
 何よ。何なのよ、こいつら。
 私は放っておいて欲しいのに、こいつらは遠慮無く私の気持ちに入り込んでくる。
 人の気も知らないで、にこにこと幸せそうに笑う。
 そんな眩しい顔を向けられたら、独りで怒っている私が馬鹿みたいじゃないか。
 ああ、もう。馬鹿馬鹿しい。
 こいしが不思議そうに私を見つめる。慌てて目を逸らす。
 目を逸らしたのに、私は避けているのに、こいしは今まで見せたことのないような晴れやかな笑顔を浮かべてくる。
 見てるだけで幸せが伝わってきそうな、素敵な笑顔だった。意地を張ってるだけの私が馬鹿みたいに思えてくる、そんな笑顔。
「……名前」
「え!?」
「パルスィ……水橋パルスィ」
 決して友達になりたいというこいしの気持ちを汲んだわけではないのだけれど、ここまで恥ずかしい表情を晒しておいて名前は教えませんでは、なんだかひどく不格好な気がしていたたまれなかった。
 言葉の意味が分からず、こいしは暫くきょとんとしていたが、やがて「うわぁ」と歓喜の声を上げて、踊り出さんばかりに喜びの表情を浮かべる。
「パルスィ。すごく可愛い名前ね」
「……ありがとう」
 嫌な気持ちがゆっくりと溶けて、すこしずつ心が軽くなっていくような、なんだか不思議な気分だった。




「こいしが私のところに来たのは、さとりの指示なんじゃないかとも思ったのだけれど」
「それは買い被りすぎですよ」
 地底の住人にも打ち解けない私を心配したさとりが、人懐っこく無邪気なこいしと仲良くさせることで、わだかまりを解きほぐそうとしたのではないか。
「あの子があなたと仲良くなりたいと言ったのなら、それはあの子の意思です。私は何も言っていません」
 さとりは寂しそうに笑う。
「あの子は私と違って、純粋で優しくて、可哀想なくらい繊細ですから」
 言われるまでも無く、私にもわかっていた。
 こいしは無遠慮でデリカシーに欠ける子供なんかじゃなかった。本当は多感で脆く、そして儚い。
 張り付いた笑顔は喜びから来る物では無く、それは拒絶されないための微笑み。
 その微笑みに隠れた心は、それでも私に受け入れてもらえないことが怖くて悲しくて、どうしようもないくらいに怯えていたことだろう。
「あなたの寂しすぎる心の中を覗いて、きっとあの子なりに感じるものがあったのでしょう。優しい子ですから」
こいしを語るさとりの言葉からは深い慈しみが感じられた。それがとても悲しかった。




    2

 次の日、こいしはやって来なかった。

 別にこいしが居てもいなくても、私の日常は変化しないはずだった。たまたま何日か普通じゃなかっただけで、むしろ独りでいることのほうが私の普通の生活なはずだった。
 普段どおりの日常を送っているはずだったのに、心がふわふわと落ち着かないことに気づいてしまう。何だろう、私はこいしを待っているのだろうか? 最初は鬱陶しい子供だと思っていたはずなのに。遠ざけるように避けていたはずなのに。今はどうだろう? わからない。自分の気持ちが分からなかった。
 二日経ち、三日経ってもこいしは現れなかった。
 約束があるわけじゃないし、こんな人気の無い寂しい所、来ない方が普通なのだ。そう割り切って気持ちを納得させようとしたが、何の知らせもなく突然に来なくなったということが酷く気になった。
 あんな小さな子供が長い時間外に出ずっぱりだったのだから、風邪を拗らせて寝込んでいるのかもしれない。だとしたら私のほうから地霊殿を訪ねて、お見舞いに行ってやろうかしら。私が訪ねて行ったらこいしは喜んでくれるだろうか?
 考えを巡らせるうちに、自分らしくないことを考えていると気づいて、急に恥ずかしくなってくる。これでは私がこいしと会いたがっているみたいじゃないか。

 四日目。
 降り始めた雪が暗い空でゆらゆらと踊る。
 俯いて寂しそうに歩くこいしは、無言で私の隣に立つ。
「どうしたの」
「……お姉ちゃんと喧嘩した」
 消え入りそうなこいしの声。いつもの無邪気で元気な姿からは想像がつかない。
「雪が見たいっていったら、お姉ちゃんが怒り出して」
「雪だったら今も降ってるわよ」
「違うの」
 こいしは小さく首を振る。
「わたし地上の雪が見たいの。地上だと雪は溶けなくて、地面を真っ白にするんでしょ? わたしそれが見たいの」
 地上という言葉を聞いて納得がいった。様々な理由で地上を追われた私たちにとって、地上は忌まわしい記憶を思い起こさせる、いわば禁忌のようなもの。さとりも例外ではなく、心を読める能力が災いして辛い目に遭ったと聞いている。
 もし何も知らない妹が地上に行きたいと無邪気に言い出したら、さとりが強い態度で反対するのは当然のことだろう。
「地上から帰ってきたお燐の心を覗いたの、そうしたら景色がとっても綺麗で。わたし、絶対に見たいって思ったから、地上に行きたいってお姉ちゃんにお願いしたの。でもお姉ちゃん、物凄く怒り出して。あんなに怒ったお姉ちゃん初めて見た」
 こいしの泣きそうな声は痛々しく、胸が締め付けられる。
「しばらく外に出たら駄目だってお姉ちゃんに言われてたから、パルスィとも会えなかった。ごめんね」
「謝ることじゃないよ」
「でもわたしパルスィに会わなきゃって思ったから、家出してきたの」
「お姉ちゃんを心配させちゃ駄目じゃない」
 綿毛のようなふわふわとした髪を、そっと撫でる。こいしは私に身を預け、心地よさそうに目を閉じる。こいしの温もりが伝わってきた。
 もう、いいや。もう、認めてしまおう。
 私はこの子を愛おしいと思っている。
 この子が、姉に逆らって家出してまで叶えたい願いがあるというのなら、私がそれを叶えてあげたい。
 地上に行くことに迷いが無いわけではないが、今はそれを飲み込むべきだ。
「ねえ、雪、見に行こっか」
「えっ!?」
 驚いて見開かれたこいしの瞳は、心配そうに揺れていた。
「でも……いいの?」
 遠慮がちな声を聞き、私はこいしを優しく抱きしめる。僅かにあった迷いが溶けるように消えていく。
「家出してきたのならどのみち怒られるんでしょ。同じ怒られるなら、ちょっとだけ雪を見てから怒られてもいいじゃない」
「パルスィ……」
「そのかわり、雪を見て気が済んだらお姉ちゃんのところに帰って、ちゃんと謝るのよ」
「うん、わかった」
 嬉しそうな笑顔を綻ばせるこいしに、気づくと私も笑顔を返していた。
 自然と笑顔が浮かんだことがむず痒くて、なんだか照れくさくなってしまった。




「こいしはあなたと仲良くなれたことを、とても喜んでいました。初めて会った時はあんなに避けられていたのに、笑顔を見せてくれた、名前を教えてくれたと」
 嬉しそうなこいしの笑顔を思い出し、心が痛むのを感じた。
「あなたと仲良くなれたことで、あの子は、諦めなければ地上の人たちとも仲良くなれると思い始めていました。あの子の外出を禁じたのはそれが理由です。私は、あの子が先走るのを恐れていました」
「くっ!」
 衝動的な怒りで頭に血が上る。諦めなければ地上の住人とも分かり合える? なにを馬鹿なことを言っているんだ。地上との軋轢はそんな単純な物じゃないのに。
 しかし幼すぎるこいしにそんなこと理解するのは無理だ。さとりの対処も強引だとはいえ、決して間違ってはいない。
 怒りの矛先が思い当たらないことに私は気づく。
「続けてください」
 さとりは静かに呟いた。




 地上へと続く鍾乳洞を、こいしと並んで歩く。薄暗い鍾乳洞に、水滴の落ちる音だけが寂しげに反響していた。
「なんだか薄気味悪い」
「そうだね」
 暗く人気の無い鍾乳洞を歩くのは、私でもあまり気が進まない。まだ子供なこいしなら尚更のこと不安を感じているだろう。
「ん?なにやら珍しい奴が歩いてるね」
 唐突に声のした方を見ると、土蜘蛛のヤマメが天井からぶら下がっていた。
「パルスィ何あれ!?」
「あれはヤマメ。悪い奴じゃないから心配しなくていいよ」
「そっちの小さいのは初めて見る顔ね。誰だい」
「この子はさとりの妹のこいし」
「はじめまして!」
 さとりの妹と聞いて興味が湧いたのか、ヤマメは私たちのところに降りてきてこいしの顔をまじまじと眺めだす。
「そういえばアレに妹がいた気もするな。前に見た時は赤ん坊だったけど」
「お姉ちゃんを知ってるの」
「地底に住んでる奴は大抵知ってるよ。ここは地底の入り口だからね」
 ヤマメは人の良さそうな笑顔を浮かべる。
「で、ひょっとしてあんた達、地上に行くのかい」
「この子に雪の積もったところを見せてあげようと思って」
「そっか、地底じゃ積もらないからね。まあ何にせよ気をつけるんだよ、地上の連中はあまりいい顔しないから」
「うん、わかってる」
 ひとしきり話して気が済んだのか、ヤマメは再び天井に戻って姿を眩ましてしまった。
「ねぇ」
 こいしが袖を引いて、小さな声で話しかける。
「お姉ちゃんも言ってたけど、地上の人たちは私たちのことが嫌いなの?」
「ん、どうなんだろう」
 私は返答に少し困る。
「地上の人たちが全員私たちのことを嫌ってるわけじゃないけど、嫌ってる人もいるから、そういう人たちに会わないように気をつけた方がいいってことかな」
「……ふーん」
 嫌われているから地底に住んでいる、だから嫌われているのにわざわざ地上に行くべきじゃない。本心はそう思っていた。
 しかし、まだ小さいこいしに希望の無い現実を告げるのはなんだか残酷なことのように思える。
 こいしの歩幅に合わせてゆっくり歩いていると、やがて行く先に地上から差す光が見えてきた。

「わっ、眩しい」
 鍾乳洞を抜けたところで足が止まる。地底では馴染みの無い太陽の強い光で、一瞬目が眩む。
 視界が回復すると、そこには一面を白く塗りつぶされた、雪の世界が広がっていた。
「…………きれい」
 地面も、森の木々も、遠くに見える山も、目に見える全てが足跡ひとつ無い真っ白な新雪に覆われていて、ただ空だけが淀んだ青さで雪景色を照らしている。
 白い景色の中で、こいしは驚きのあまり言葉も無く立ち尽くしていた。
「あなたがあんなに見たがっていた地上の雪よ。どうかしら」
「これ……ぜんぶ雪なの?」
「ええ、もちろん」
「……わぁー」
 こいしは深い青色の目を喜びに輝かせて、私に飛びついてきた。
「すごい!凄いよパルスィ!ここも、あそこも、全部、ぜーんぶ雪だなんて!!」
「ちょっと、危ない」
「あははっ、雪だ雪だ、雪だー!」
 跳ねるように私の手から逃れたこいしは、広がる雪景色に向かって元気に走り出す。積もった雪に、小さな足跡が次々と残されていく。
「あんまり走ると転ぶわよ」
「わっ!」
 新雪を踏みしめて走り回っていたこいしは、雪に足を取られて転んでしまう。
「だから言ったじゃ無い。雪は滑るんだから」
「えいっ」
 慌てて追いかけた私に、冷たい雪が浴びせられた。
「あはは、パルスィ雪まみれ」
「このっ!」
 足下の雪を目一杯かき集め、こいしに投げつける。
「お返しっ」
「きゃっ、冷たいー」
 気がつくと私はこいしと雪を掛けあって、はしゃいでいた。

 積もった雪の上に寝転がる。見上げた空は淡い灰色の雪雲がゆっくりと形を変え流れている。雪の感触は冷たいが、地上の光は地底には無い暖かさが感じられ心地よい。
 疎らに雪の降ってくる空を眺めているうち、生まれ故郷の都のことを思い出していた。 身を切るような冬の寒さは辛かったが、静かに降る雪の似合う整然とした街並みが、私は好きだった。
「パルスィの生まれた所、きれい」
「……うん」
「あ、ごめんなさい。心、覗いちゃ駄目だよね」
「いいよ。こいしになら心を見られても嫌じゃない」
「ん、ありがと」
 不思議な気持ちだった。私はこの子を避けていたはずだったのに、今は私の好きだった都のことを知って欲しい、一緒に好きになって欲しいとすら思っている。
「行ってみたいな、パルスィの生まれた所」
「それは難しいかな。幻想郷の外にあるからね」
「そっか。でも、行きたいって信じていれば、きっといつかは行けるよね」
「うん、そうだねきっと」
 行けるわけが無いと否定することは簡単だったが、私の気持ちは、こいしの言葉を信じたいと思っていた。どんなことが起こっても不思議じゃ無い幻想郷なのだから、こいしが私の故郷に行くことだって、できるかもしれない。
「その時はパルスィも一緒に行こうね」
「うん」

「あ、パルスィ見て」
 身を起こしたこいしの指差す先には、茶色い野兎が顔を出していた。野兎は周りの様子を伺うように警戒しながらも、一定の場所から離れられずにいた。
「ウサギさんだー」
「あ、こいし」
 止める間もなく、こいしは兎めがけて駆け出していた。警戒心の強い兎を追いかけても、すぐに逃げられてしまうだけなのに、まだ幼いこいしには分からないのだろう。
 しばらく兎を元気に追いかけ回していたこいしだったが、ふと何かを見つけて立ち止まる。
「どうしたの」
「ねぇ、パルスィ……」
 こいしの足下には、小さな兎が横たわっていた。さっきの野兎の子供なのかもしれない。小さな兎は息をしていなかった。
「寒さに耐えられなかったのね、可哀想に」
「パルスィ、この子助けてあげて!」
「それは出来ないわ。この子はもう死んでいる」
「でも、かわいそうだよ!」
「……いい、こいし」
 こいしの目をじっと見て、私は話しかける。
「一度失われてしまった命は、もう二度と元には戻らないの。いくら可哀想でも、私たちにはどうすることもできないの」
「……」
 寂しそうに小さく頷く。死んでしまった子兎も、それを見つめるこいしも、命の価値を考えるにはあまりにも幼すぎる。
「せめてこの子が安らかに眠れるように、私たちで埋めてあげましょ」
「わかった」
 木陰の、土の軟らかそうなところを見つけて、二人で穴を掘った。動かない子兎をこいしが穴の底にそっと寝かせ、優しく土を被せていく。
 小さい命が失われるのを見るのは耐えがたい。それは私の罪を思い起こさせるようで、深い後悔の念に捕らわれそうになる。
「あの子、天国に行けるかなぁ」
 なにげない、こいしの呟きが耳に届いた。
「罪の無い子供だもの、きっと行けるわよ」
 それは、こいしに返した言葉ではなく、自分自身に向けた言葉だったのかもしれない。




    3

 初めての地上、初めての雪景色。きっとはしゃぎ疲れてしまったのだろう。
 こいしは私の背中で安らかな寝息を立てている。
 地底へ続く鍾乳洞に、土を蹴る足音だけが寂しく響いていた。
 背中越しに、はっきりとした重さと熱いくらいの温もりが伝わってくる。その存在があまりにも愛おしくて、私の気持ちは堪えることができそうにない。
 長い時間をかけて忘れようとした想いが、心に染みいるよう、ゆっくり拡がっていく。
「ねんねん……ころり……よ……」
 歌うことの叶わなかった歌が、不意に口を吐いた。
 背中で身じろぎする感触が伝わってくる。
「ごめん、起こしちゃった」
「パルスィ、それ何の歌」
「これはね、子守唄」
「子守唄?」
「そう。人間のお母さんがね、子供を寝かしつけるときに歌うのよ」
「なんだか、寂しい歌」
 そこで言葉が途絶えた。ただ足音だけが響く。
 背中越しの感触が悲しみとなって、私の心を締め付ける。
 この子はさとりの妹のこいしだ。私の子供なんかじゃない。
「ねぇ、パルスィ泣いてるの」
「ん? 泣いてないわよ」
「でもパルスィの心、とっても悲しそう」
 私の心を覗いたこいしは、声にならない声を上げ、身を硬くする。
「パルスィの赤ちゃん……産まれてこなかった……」
「……うん」
「ごめんなさい、これ……覗いちゃ駄目だよね!?」
「いいよ、別に。みんな知ってることだもん」
 こいしは小さな体で、私の背中を強く抱きしめた。

 あの人の裏切りが私には許せなかった。
 あの人の裏切りが悲しすぎて、悔しすぎて、私の心は壊れてしまった。
 黒い妬みに心を占められた私は、裏切ったあの人を殺し、あの人を唆した女を殺し、あの人たちの親族を殺し、罪の無い無関係な人々を殺し……気がつけば私は鬼となっていた。
 お腹にいた子供は、鬼の私の下には産まれてきてくれなかった。
 すべては弱すぎた私の招いた自業自得。……そんな風に割り切れるわけがない。
 地上を追われた鬼の私に残されていたのは、いつ終わるとも知れぬ、ただ悔やみ続けるだけの生。
 もし、あのとき妬みに囚われず、人として子を産んでいれば……。
「ねぇパルスィ」
「なに」
「パルスィは、わたしがパルスィの子供だったら良かったと思う?」
「……わからないよ。あなたはこいし、私の子供じゃないもの」
「そうだね」
「こいしは、私の子供だったら良かったと思うの?」
「んー、わかんない。でもわたしパルスィと仲良くなれて、とっても良かった」
「……うん」
「パルスィは?」
「私も、こいしと会えてよかった」
 思っていたよりもずっと素直に、気持ちは言葉になった。




    4

 流石に毎日ではなかったが、それからもこいしは、たびたび私のところへ遊びに来ていた。何をするというわけでもないが、こいしと共に過ごす時間は、私に心地よい安らぎを与えてくれた。
 友達のような、姉妹のような、親子のような、なんとも曖昧な関係だったが、とにかく私にとってこいしは大切な存在で、こいしにとっての私も、掛け替えのない存在だった。
 でも、そんな心安らかな関係も、長くは続かなかった。
 地上への憧れを抑えきれなかったこいしは、私にもさとりにも気取られること無く地上へと出掛けていった。私たちがそれに気づいた時には、既に取り返しの付かない事態となっていた。
 地上での絶望を独りで抱えて、こいしは心を閉ざした。そうすることでしか、あの子の心は救われなかったのだと思う。

 あの雪の日のことを私は悔やんでいる。
 忌み嫌われた妖怪がのこのこと地上に出て行けば、どんな目に遭うか分からないわけがない。なのに何故、こいしを連れ出してしまったのだろうか。
 情に絆された、可哀想だった。言い訳ならいくらでもできる。でもどんな言い訳を重ねても、こいしの味わった絶望は無かったことにはならない。
 全ては私の軽率な行動が招いた事だ。私がこいしをあんな目に遭わせたも同
「違う!!」
 叫びにも似たさとりの怒声に驚き、私の思考は中断される。
「それを、あなたは背負ってはいけない。あなたは……」
 冷えきったさとりの手が、私の手に重ねられる。
 小さな背中は、今にも崩れ落ちてしまいそうなほど弱々しい。
 たった一人の大切な妹と、心が通じなくなったさとり。彼女の苦悩が私には痛いほど理解できた。
 こいしを地上に連れて行かなければ、さとりはこんな苦しみを負わなくてもよかった。
 やっぱり、悔やんでも悔やみきれない。
「……私では、届かないのですね」
 さとりは小さく首を振って呟いた。
 傘を差して立ち上がると、悲しみに暮れた瞳で私を見つめる。
「今でも、こいしに会えてよかったと、思ってくれていますか」
 わからない。
 私がこいしと出会わなければ、あの子は今も笑顔を曇らせることもなく。
 でも……。
 押し黙った私の返事を待たずに、悲しそうなため息を残してさとりは去って行った。




 橋の欄干に身を預け、降りしきる雪が黒い川の水面に溶けていくのを呆然と眺める。
 橋姫に身を落とした私には、穏やかな流れを見守ることしかできない。
 ただ見守っているべきだった。
 流れの中に身を置いたのが間違いだった。
 私なんかと出会わなければ、こいしは今も……。
「パルスィは美人なんだから、笑わないと勿体ないよ」
 記憶にあるよりも大人びた声が、聞こえた気がした。
 振り向いた先に、なにか白い物が見えた。
「……ううっ」
 心の奥が温かくなるのを感じる。
 そこには、雪で作られた兎が二匹。
 大きい兎と小さい兎。
 雪兎の親子は、仲良く寄り添っていた。

 涙を堪えることができなかった。

    終










  
 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
生煮え
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コメント



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2.90oblivion削除
悲しいなあ
無粋と知りつつ、雪解けを待ちたくもなります
5.80奇声を発する程度の能力削除
切ない感じが良かったです
10.90名前が無い程度の能力削除
うぅ、悲しいなぁ
13.90名前が無い程度の能力削除
いつか雪溶ける日を
15.80名前が無い程度の能力削除
おぉう。しかし悪くない読後感
16.100名前が正体不明である程度の能力削除
さあ、雪よとっととメルトしろ。
17.100フェッサー削除
やり直せない過去を悔やんでも仕方ないのだけれども…。
互いにこいしちゃんを想う、パルスィとさとりんの関係がもどかしくも良いですねぇ。
28.100名前が無い程度の能力削除
何回読み返しても素晴らしいです
29.100サク_ウマ削除
とても良いものでした