Coolier - 新生・東方創想話

夢幻紅月

2012/01/14 15:12:07
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1:手が届かないと知りながら




 月は、それはそれはとても美しい。
 とても美しいのだから何度も恋い焦がれてしまう。日に日に姿を変えるけれども本質は一切変わらない。優しく淡い光で夜を照らす。かの身に孕み、秘めたるのは狂気。常ならぬ異なる者。夜の住人にとっての謂わば太陽。
 …そんな月と彼女は良く似ている、と思った事は一度や二度ではない。しかし彼女はまた太陽のような気質も秘めている。…月も親友が言うには科学的には太陽の光を受けて光り輝くものなのだから同じなのかもしれないけれど。
 月と太陽。当て嵌めればどちらでも納得がいく。そして何より共通しているのは、どんなに手を伸ばそうとも手は届かないと言う事だろう。
 届かないから彼女は変わらない。愛おしい彼女のままだ。だからこそ彼女を私は好いている。気に入っている。
 手に届く事はないと、その瞳を向けられる事など無いと知っている。彼女はどこか浮世に生きている。俗には塗れているけれど。どちらかと言えば己の世界を独自に持っていてその法則に基づいて生きている。
 それが――私、レミリア・スカーレットが思い人たる彼女に抱く思い。届かないと知りながらもあまりにも恋しすぎて思わざるを得ないあの人。



 ――……。



 だから、きっと夢なのだろう。
 まるで血のように染まった深紅の瞳を湛えた”彼女”が私に手を差し伸べている。
 淡い笑みは時折見せる彼女の笑みと似ているけれども”決定的”に何かが異なる。
 手に届かぬと思いを抱いた彼女に何故かは手を伸ばせば届いてしまうと思う程に。
 その姿に何を抱く。それは喜びなのか、驚きなのか、悲しみなのか、怒りなのか。
 ただ、これは私の知る”彼女”ではないと断ずるにはあまりにも簡単すぎるのだ。
 彼女の瞳は紅くないから。そして彼女の背には翼なんて在るはずもないのだから。
 ……けれども。
 …そう、だけれども。
 これは”彼女”ではないと知りながらも、”彼女”がもしも望んでくれれば―――。



 * * *



「――………夢」


 まだ重たい瞳、薄開きになった瞳が覗くのは見慣れた天井だ。目覚めた、という感覚があまりにも重たいのか、レミリアは額に手を置いて瞳を閉じた。
 僅かに寝汗を掻いているのがわかる。あの夢見は良かったのか、悪かったのか。まったくもって変な夢を見たのものだ、とレミリアは自嘲する。
 布団から這い出て床に足をつける。足探りで部屋履きであるスリッパを探して足を入れる。布団の暖かさが心地よかったからか、どうにも肌寒くて腕をさすった。
 そのまま布団の上に腰を下ろして吐息を1つ。膝の上に肘を置くように手をつき、手を組ませて顎を乗せる。ふぅ、と再度吐息を漏らして虚空をぼんやりと見つめる。


「…変な夢」


 レミリアは夢を見るのが希だ。そういうタチなのだろう、と思っているが、だからこそ一度見た夢というのは何故か強く印象が残ってつい覚えてしまうのだ。
 だから今回の夢の内容も鮮明に覚えている。それが余りにも滑稽な、あり得ない自分の願望がふんだんに混ぜられた夢だった事にレミリアは自嘲を隠せない。


「貴方は、私の傍になんて居てくれないのにね」


 きっと、それは覆らない。そんな事はあり得ない事は自分が良く知っている。だからこそこれはただの自分の願望だとレミリアは断じたのだ。


「――でも…、あぁ…彼女だったら、あんな綺麗な紅い瞳に染まるんだろうな。翼も立派で、本当に紅い月が似合う”吸血鬼(ヒト)”になってくれるんだろうな」


 どこか夢見心地で、望むのなら自由で、想像するのは無料なら。ならば思わざるには居られない。あの光景を、垣間見たあの夢を、その記憶を鮮明に焼き付けるかのように。


「…でも、貴方は私を見てくれない。私の眷属になんて…なってくれないものね」


 どこか切なそうに、だが確信を以て、小さくくす、と笑ってレミリアは呟いた。


「ねぇ、―――霊夢」






2:終わりの始まり





 それは何気ない昼下がりの、ふと振り返れば何度かはあっただろう光景だった。
 場所は博麗神社。そこに集うのはこの神社の巫女を務める博麗霊夢。博麗神社によく足を運ぶ霊夢の友人、霧雨魔理沙。山の上にある守矢神社の風祝、東風谷早苗。そして紅魔館の誇る瀟洒なメイド長、十六夜咲夜。
 幻想郷でも有力な人間達という括りに該当する者たちがこうして顔を合わせる事は実はさして少なくはない。人間という共通点もある事からか、顔を合わせばそれなりに世間話に興じる程度には交友がある。
 それがたまたま今回は神社であったという事。多くはないが、決してあり得ないとは言えないタイミング。


「――メイド長を辞めようと考えてるのよ」


 しかし、咲夜が零したその言葉が彼女たちの日常を大きく変えるにはあまりにも十分すぎる一言であった。


「…は?」


 咲夜の一言に沈黙が過ぎった四人。真っ先に声を漏らしたのは魔理沙だった。霊夢が出した煎餅を噛み砕いた状態で硬直していた彼女は煎餅のカスを口元から零しながら声を上げた。
 早苗も眼を何度も瞬きさせて咲夜を見つめている。霊夢も意外そうな表情を浮かべながら咲夜を見つめている。視線を集めている咲夜と言えばのんびりとした様子でマイペースに緑茶を啜っている。


「メイド長をやめるって…」
「もちろん、メイドを辞める訳じゃないけれどね。そろそろ、後任を探そうと考えてるのよ」
「…後任?」


 そう、と疑問の声に咲夜は頷きと共に答える。


「私は人間。寿命が永遠でもないし、晩年に近づけば身体も録に動かなくなるからこの時期が丁度良いのかな、ってね。そう思ったのよ」
「……そりゃ、まぁ。そうだけどよ。なんか意外だぜ…」


 魔理沙が残った煎餅を噛み、飲み下しながら咲夜に告げる。どこか呆気取られた様子なのは咲夜の一言がそれだけ意外だったという表れであろう。生涯現役、勝手な想像ではあるが咲夜はそれを貫き通すと思っていたからだ。


「あら? そんなに意外?」
「…咲夜さんってずっとメイドやってるかと、勝手に思ってましたから」


 おおよそ魔理沙と同じ事を考えていた早苗も少し戸惑うように言葉を紡いだ。そう、と咲夜は早苗の言葉を受け止めて何かを思案するように顎に手を添えた。


「もちろん、この身体が動かなくなるまで仕事はするつもりよ。けれど、ずっと続けられる訳じゃないし……その、ね」
「…?」
「…自分の幸せってのを、遅まきながら考えててね。まぁ、女である事とかね?」


 空気が完全に固まった。魔理沙と早苗はまるで時を止められたように静止し、霊夢でさえやや驚いたように咲夜を見つめている。咲夜はどこか困ったように微笑みながら三人の視線を受け止める。


「そ、その。何だ? 咲夜…それって…その、あれだ」
「…えと…え、と、ですね?」
「…何よ。そんなに私が色恋沙汰の話をするのが意外かしら?」
「意外以外の何だと言うのよ」


 呆れるように霊夢が咲夜に言う。魔理沙と早苗は霊夢の言葉を後押しするように、何度も強く頷いている。


「…そうね。確かに私が言うのはおかしいわよね…」
「…自覚あるのかよ」
「ワーカーホリックなのは自覚してるわよ。…まぁ、恋愛云々はともかく、ね。自覚があるからこそ、そろそろプライベートな時間を作ってみようかと思って。まぁそれならまずは後任の育成かな、と思っただけよ。…それで貴方達、どっかに私に代わるような人材に心当たり無い?」
「無いだろ」
「なかなかそんな優良物件いませんよ」


 咲夜の問いかけに返す魔理沙と早苗の声には呆れが篭もっていた。咲夜は自身で言うようにワーカーホリックの気がある。瀟洒なメイドである事を心がけている彼女の従者っぷりはなかなかに追従する者がいない。
 上げられるとすれば八雲紫の式、八雲藍などであるが、その数は片手で数えられる程だろう。それ程までに咲夜の能力は優秀であり、高いのだ。いきなり咲夜並の従者を望むと言われてもそこまでの人材がいるかどうか疑問が浮かぶのも当然だ。


「…ま、そうよね。そこは気長に探すとして、ね」


 ふぅ、と吐息を1つ。どこか重たげな溜息を吐きながら咲夜は三人を見回した。


「…ねぇ、貴方達はこれからどうするつもりなの?」


 咲夜の問いかけ。それは咲夜のように今後の事について何か決めている事があるのか、という問いかけだろう。それに真っ先に答えたのは早苗だった。


「そうですね…。私はずっと守矢の風祝やってますよ。そりゃ結婚とかも出来たら良いですけど…最終的には私は神に昇格するつもりですから」
「貴方が神様、ねぇ?」
「まぁ暫定的な予想図ですけどね。それでも私の根底にあるのはやっぱり守矢神社の発展ですから。信仰第一です!」


 そこに揺るぎはないと早苗は胸を張って言う。それに咲夜は納得したように頷く。次に声を上げたのは魔理沙だった。


「…私は、正直迷ってる部分があるかな」
「迷う?」
「このまま人間として死ぬか、魔法使いになるのかを、な」


 魔理沙は迷いを滲ませる彼女らしかぬ弱い口調で言った。彼女は当初、人間として生きて、人間として死ぬつもりだった。人間としてどこまで魔法を極められるのか、そうして残せた結果こそが満足なると考えていた。
 その思いは今でも胸に残っている。けれど魔法の深淵を学んでいく内にもっと深奥を己のものとしたい欲求も生まれたのだ。そして知れば知る程、途方もない時間がかかるのは目に見えていてわかっていたのだ。


「確かに魔法は極めたい。けれど、不老の存在になってまで極めたいと思っているのか、まだ正直私にはわからない。…パチュリーやアリス、聖の話も聞いて余計にな。だからどうだ、とは言えない。これから先なんて、正直まだ考えられやしない。目の前でいっぱいいっぱいだぜ」


 迷いはあるし、いずれ決断しなければならない時が来るのを魔理沙は悟っている。だからこそ悔いの無いように今を精一杯生きようと、己の出来うる限りを続ける、と魔理沙は己の決意をそっと口にする。
 そして、残された一人は霊夢。


「…私は、得に別に何も考えてないわね。考える気にもならない。なるようになるんじゃないかしら?」


 どうでも良いと言うように霊夢は呟いた。どこか拍子抜けした、と言うように魔理沙と早苗が肩を竦めさせた。それが一気に話題の熱を冷めさせたのか話題は咲夜の後任の件や咲夜の男性の好みのタイプなどに逸れていった。
 霊夢は興味なさそうにお茶をすすり出す。そんな霊夢を咲夜が見つめている事に気づかずに。



 * * *



 時間が流れ、魔理沙が去り、早苗が去った後、残ったのは咲夜と霊夢だけだった。霊夢は茶飲みなどを片付け、咲夜は未だに縁側に腰をかけて空を見上げていた。
 片付けが終わった霊夢は未だに縁側に腰をかけている咲夜を見る。ただぼんやりと空を見上げている咲夜に対し、霊夢は呆れたように吐息を吐き出しながら咲夜に問いかけた。


「…アンタ、仕事はどうしたのよ」
「たまにはお暇貰う時だって私にはあるわよ」
「…そのお暇をここで消費するのはよしてくれないかしら」
「…じゃあ、用件を済ませましょうか。聞きたい事があるのよ」


 咲夜は振り返る。霊夢と視線が合う。…咲夜の表情はどこか凪いだような静かな雰囲気を醸し出していた。


「貴方は、ずっとそのままでいられるの?」
「……?」
「貴方は、いつまで囚われないままなのかしら? これからも、貴方は浮き続けるの?」
「……何が言いたいのよ?」


 霊夢は咲夜の問いかけに眼を細める。咲夜は霊夢を見つめる。ただ静かにだ。


「貴方の能力。それってずっと不変のもの?」
「……空に浮く程度の能力の事? そんなの、わからないわよ」


 霊夢の能力。それはありとあらゆるものから浮く事の出来る能力だ。何事にも縛られないその力は霊夢らしい能力と言えよう。彼女の性格もそれに準じたものだ。
 霊夢が持って生まれた天性のもの。これが不変なのか、と問われれば霊夢には何とも言えない。何故なら息をするように当たり前に得ている能力だからだ。


「…そう」
「…急にどうしたのよ?」
「ちょっと気になってね。……早苗は望み、魔理沙は自分で見いだした。でも、貴方はそうだと思えない。早苗のようにそこにある事を望む訳でもないし、魔理沙のように見いだす事もしない。違って?」
「……まぁ、そうね。多分そうだと思うわ。何か自分からしようとは思わないわね」
「それで貴方は良いの? って思って」
「……さぁ? 言ったでしょ? なってみないとそんなのわからないってさ」
「貴方はそうだから愛されるのよね。素っ気ないけれど誰にも平等で真っ直ぐで。本人は捻くれてるけど、それが可愛いもんだから、ね」
「あぁ?」


 何言ってんだ、という表情で霊夢は咲夜を見つめた。いきなり自分が愛されてるだの、可愛いだの、そんな言葉が自分に似合うだなんて思っていない霊夢は明らかに訳がわからないと言った表情で咲夜を見た。
 そして息を呑んだ。咲夜の瞳は和やかな話をしている筈なのにどこか鋭い。まるで彼女の持つナイフのような鋭さで彼女は霊夢を見据えていた。


「空を飛ぶ鳥が地に墜ちたら生きていけるのかしら?」
「……」
「……これはただのお節介ね。でも、ちょっとは考えて貰えないかしら?」
「…なんでよ? 私がどうなろうと、アンタの知ったこっちゃないでしょ」
「そうね。私は知らないわ」
「なら―――」
「私は、ね。…その言葉の意味。もうちょっと考えて貰えれば御の字かしらね。それじゃね」


 ただそれだけ告げて何か言いかけた霊夢の言葉を遮って咲夜は姿を消した。まるでそこにいなかったかのように一瞬にして。


「…んだってよ…ったく」


 訳がわからない、と言うように霊夢は舌打ちを零すのであった。そして咲夜がいた場所を睨み付ける。そこには唯一の証として彼女が使っていた湯飲みだけが残されていた。



3:墜ちたのは月の涙と失われる翼



 今になって何故かあの日との咲夜とのやりとりを霊夢は思い出すようになっていた。
 あれから…時は流れた。短いとも言えない、けれど長いとも言えない。そもそも時の感じ方など人によって違うのだ。それも妖怪ともなれば尚更の事。そして妖怪にとってはそれは一瞬の瞬きのようだったのかも、しれない。
 泣き声が、聞こえる。
 幾つもの泣き声が、聞こえる。
 何故ここにいるのかと霊夢は問いかける。ここは紅魔館。…紅の色彩に染まる舘は今、その住人が黒を纏っていた。それは喪を示すものである。


「……早すぎるんだぜ、あの馬鹿」


 ぽつりと、隣にいた魔理沙が呟きを零した。
 普段の魔女風貌の黒装束とは異なる黒装束。…彼女なりに喪を示したものなのだろう。その呟きに霊夢は何も言わなかった。何も、言えなかった。
 魔理沙も何か反応を期待していた訳ではないだろう。そのまま彼女は歩いていった。彼女の事だ。この舘には彼女と親しい者もいる。今、泣き声をあげている悪魔の妹であり、普段の明るさを失ったように押し黙るこの舘の門番や、感情を見せない表情で淡々と葬儀を終えていく魔女。
 彼女たちの事が放っておけないのだろう。だから魔理沙は行った。…そして、つい、探してしまう姿がある。そしてその姿は呆気なく見つかってしまう。
 何故なら、その周囲には誰もいない。ぽっかりと穴が空いてしまったかのようにその傍に誰もいないのだ。色鮮やかな華を敷き詰めた棺桶、そこに横たわる彼女をただ見つめるだけの彼女がいる。
 ぽっかりと穴が空いてしまったかのように。全てが抜け落ちてしまったかのようにただそこにあるだけで。悲しみも、傲りも、何も見えないただの空っぽのがらんどう。
 …そこに足を踏み入れる者はいない。誰も近寄れないし、近寄らない。ただ彼女はそこに一人、ただ色が抜け落ちて、意志も失って佇むしかないようで。


「…レミリア」


 だからこそ、霊夢は踏み込んだ。
 理由は、本人にもわからなかった。
 レミリアからの反応はない。
 霊夢はレミリアの肩に手を置いた。
 レミリアはようやく気づいたというように。


「……霊夢?」


 顔を上げた。
 色を失った顔だった。
 がらんどうで。
 からっぽで。
 なにもなくて。
 光もない。
 感情もない。


「……?」


 何故見つめられてるかわからないというように。
 何故霊夢がいるのかがわからないというように。


「……レミリア」
「…どうした? 霊夢。そんな変な顔して」
「…そりゃ、するわよ」
「…だよなぁ。…死んでしまったもんなぁ。霊夢だって、変な顔するよなぁ」


 呆れたように、からっぽな声でレミリアは呟く。


「……ほら、あそこさ」
「…?」
「…フランと泣いてる、あれ」


 レミリアが指さす先には魔理沙がいる。フランがいる。そして、もう一人少女がいる。
 顔立ちはまだ幼く、可愛らしいと言うよりかは綺麗と言うべき整った顔立ちをしている少女がいる。
 霊夢は彼女を知っている。彼女は妖精だ。霧の湖に住まう、氷精のチルノと仲の良かった特段力の強かった妖精だ。そして、彼女が握る銀時計が誰のものだったのかを知っている。それを握りしめて彼女が泣いている理由を霊夢は知っている。知って、いるのだ。


「後任だよ。どこから拾ってきたらしいんだけどさ。すとん、ってわかってしまったんだ。そうしたら、覚悟しようと思ってさ。でも、ぼんやりしてたら、いつの間にか、ほら、もう、寝ててさ」


 そっと、レミリアは手を伸ばす。
 華に包まれて眠る彼女の頬にその指が触れる。


「もう、起きなくてさ。そういえば、遺言、だったんだろうな。フランが何事か、険しい顔で私を引っ張ってきてさ。皆、集まっててさ。私が来たら、満面の笑顔で何か言ってて、んでもって最後には、幸せでした、って。言うだけ言ったら、寝ちゃってさ。もう、冷たくて。あぁ、起きないんだなぁ、もうってわかってさ。そしたら、美鈴は泣くわ、フランは泣くわ、アイツは泣くわで、やかましくてさ。パチェがいなかったら全然話が進んでなかったね」
「……そう」
「何も、できなくて、さ」


 指が、震えて。
 指だけじゃなくて。
 彼女が、震えていて。
 今にも、崩れ落ちそうで。
 霊夢が手を伸ばす。その肩に触れる。
 レミリアが、くるり、と身を回す。
 霊夢と向き直るように。


「私…何も、出来ないんだ。霊夢、見てくれ、涙も、出てこない。動こうという気も起きない。誰かに押されれば倒されてしまう程、腑抜けになってしまったんだ」
「…レミリア」
「…死んだんだよ」


 ――咲夜が、死んだよ。
 レミリアはからっぽな声でそう言った。あまりにも空虚で耳を塞ぎたくなる声で。


「………咲夜が、死んで、しまったというのに、私は…何も…、して、やれてない、あいつの、死を、受け止めることも、できて、なくて」
「…レミリア」
「わらえない、し、なみだも、でて、こない、どうして、フランは、泣いてて、美鈴だって、かなし、んでて、パチェもあんな、顔、みたこと、ないかおで、悲しいんだって、わかる、のに、私は」
「レミリア」
「葬儀も、私は、何も、してないんだ、ただ、咲夜の傍にいるだけで…私は…なに、も」
「――レミリア」
「霊夢、私は―――」





 ――何も感じられない。今は、感じたくない。





 その夜、雨が降った。まるで空が泣くかのような豪雨だった。



 * * *



「…霊夢が、自分から健康診断を願い出るなんて珍しいね」


 呟きを漏らしたのは鈴仙だった。霊夢の腕に刺した注射器で採決した血を保存し、霊夢の手にガーゼを当てて止血をする。慣れた手際をぼんやりと見ながら霊夢は呟く。
 ここは鈴仙の住居であり、医療設備が整えられている永遠亭の一室だ。鈴仙が言った通り、霊夢は己の健康状態を調べる為に永遠亭を訪れていたのだ。


「…咲夜が、死んだからね」
「…そう、ね」


 鈴仙はどこか反応に困ったように笑みを浮かべた。彼女も咲夜の死に際には立ち会ったという。あれから鈴仙もそれなりに実力はつけてきたようである。無論、医者としてだが。


「…アイツの死因も、私には関係ないとは言えないからさ」
「先天性の能力が原因だからね。…でも霊夢と咲夜の能力は違うじゃない? 咲夜は直接肉体に直結する能力だから仕様がないって言えば仕様がないし。…元来、そうだったのか、その能力を持つ故にそうなったのかは今となってはわからないけど」


 器具の片付けをし、次の診察の準備を整えながら鈴仙は言葉を続けた。


「…私にとって、本当に自分で持った患者ってのは咲夜が初めてなのかな。師匠に任されて。厄介払いだったのかもしれないけど、咲夜は師匠でもどうにも出来ないって話だったしね」
「……そう。アンタが咲夜を診てた、ってのはそういう事なんでしょうね」
「えぇ。…私も、途中からは帰ってきて良いって言われたけど。最後まで診るのが自分の仕事だと思って最後まで診たわ。…なんか、咲夜と弾幕ごっこしたのがそう昔でもないのに、凄く懐かしく思えるぐらい、アイツ見る影もなく弱っていってさ。トドメに、ほら、なんだっけ? あの子。後任のメイド長。…あの子に、自分の能力を込めた銀時計、渡してさ。ってかその為に魔導く書、持ってこさせたのよアイツ。私がわざわざ魔女に頭下げに言ったのよ? そしたら魔女ったらいつもより悪い目つきで私を睨み付けてくるし。何よ、失礼するわ」


 思い出して感情がぶり返してきたのか鈴仙は機嫌が悪そうにそう言った。


「…辞めとけ、って言ったんだけどなぁ。実際さ、確かに出来たわよ。咲夜の能力を込めるのは。魔力を通せば対象の時間は延ばせるし、時を止められる。でも、それだけ。あの子が咲夜ほど能力は使えない。咲夜みたいに止まった時の中で動ける訳でもない」
「でも紅魔館はそれで最低限の機能、咲夜が生きていた頃の生活レベルは維持してるんでしょ? それに、時計なら壊れる事が無い限り続く」
「それも、持ち主次第だけどね。…フランちゃんの要望でフランちゃんの魔力も維持に回されてるらしいけど。だからあの妖精メイド長、今ではレミリアの専属って言うよりかはフランちゃんの専属ね」


 霊夢は止血の為にガーゼを当てていた手をそっと離す。掌を眺めるように、ぼんやりとした表情を浮かべる。


「……やっぱり、アイツの隣には、咲夜よね」
「……そう、ね」


 霊夢の口にしたアイツが誰を指し示すのか悟った鈴仙は、ただ一言呟くだけで何も言わなかった。
 言いようの無い無言の空気が満ちる中、とんとん、と誰かが戸を叩く音が響いた。


「うどんげー? って、霊夢、来てたの? 珍しい」
「…あら、引きこもりじゃない。日光浴びてる?」
「浴びる必要あるの? ってか失礼ね。良いのよ、私は月の姫だから。月と共にある生活を送るのよ」
「ま、まぁまぁ。所で姫様、何かご用で?」

 部屋に入ってきたのは輝夜だった。輝夜は霊夢を見ればもの珍しそうに霊夢をしげしげと見つめた。霊夢はそんな輝夜の態度に対し、軽く鼻を鳴らし告げた。
 輝夜の眉がやや寄った事に気づいた鈴仙が慌てたようにフォローに入るため、輝夜に用件を尋ねた。


「そうそう、うどんげ、なんかおやつ無い?」
「おやつって…わかりましたよ。なんか簡単に食べれる甘味でも作りますから。ちょうど一通り終わりましたし」
「そう? じゃあ私は帰るわよ」


 腕を晒していた袖を直し、霊夢は軽く首を回し、身体を解すように身体を伸ばしながら立ち上がる。そのまま輝夜の入ってきた戸の向こうへと向かおうとする。しかしそこで輝夜が入り口を塞いでくる為、霊夢は出る事が叶わなかった。


「…何よ」
「ちょっと、ね」
「だから、何?」
「別に」





 ―――なんか、アンタらしくない、って思って。





 * * *





 身体が、重い。
 何故かそう感じた。空を飛ぶのが鬱陶しくなる。普段は感じない重力感。
 …なんとなく、帰宅路の歩みが遅くなる。空に浮くのが鬱陶しくなって遂には神社の手前の階段で下りて地に足を着く。
 足に地が付く重力感が良いようの無い安堵感を与えてくれる。不自然に感じる身体の重みは消えていた。そのまま霊夢は階段を一段、一段上っていく。
そう言えば、と霊夢は思う。こうして階段を上って家路に向かうのはいつ振りだろうと考える。空を飛べるようになってからこの階段は使用した記憶があまり無かった。
 だから、それはどこか予感めいたものがあったのを霊夢は感じていた。
 伸びる影法師。自分以外の影が伸びている事を霊夢は悟り、階段の上を見上げた。


「…紫」


 そこにいたのは、妖怪の賢者にして幻想郷の管理人を務める紫がいる。
 …その傍らに少女がいる。幼い少女だ。どこか浮世離れした雰囲気を纏った少女はぼんやりと霊夢を見つめている。霊夢は少女と視線を合わせる。…暫く見つめ合った後、小さく吐息をして霊夢は紫を見た。
 …何とも言えない表情だった。そして敢えて言うならばその表情にはどこか諦めと哀愁の色があった。


「…博麗霊夢」


 霊夢、とではなく、敢えてフルネームで呼ぶ。それは紫の癖のようなものだ。業務連絡をする際は博麗霊夢と、私人として付き合う時は霊夢と、彼女が意図してそう呼び分けていたのかは定かではないが、長年の経験から霊夢は察していた。


「…引継ぎを」
「…そう」


 ただ、それだけ。紫の言葉に霊夢はそれだけを理解した。だから、それ以上の返答が浮かばなかった。何故、など浮かぶ訳もない。ただそうなるだろうな、となんとなくわかっていた。


「……霊夢」
「……何よ。わかってるわ。大丈夫。この仕事まで適当にやるつもりはないわ」
「……そうじゃ、……いいえ。……」
「……何よ?」
「…なんでもないわ」


 霊夢に紫は小さな声を残して、彼女は去っていった。何を言いたかったのか聞こえなかったが、消えてしまっては仕様がない、と。霊夢は紫が消えていった後を見つめ、小さく吐息。
 そのまま階段を上っていく。紫の傍らにいた少女は何を言う訳でもなく、ただぼんやりとした瞳で霊夢を見つめていた。霊夢は少女と視線を合わせるように屈む。


「……」
「……」
「…名前は?」
「……社」
「…そう」


 社、と名乗った少女に、霊夢は淡々とした反応を返してゆっくりと屈んでいた膝を伸ばし立ち上がる。


「…とりあえず、入りましょう。社。教えなきゃいけない事が山ほどあるわ」
「…わかった」





 その日、霊夢は空を飛べなくなった。





4..深紅の月



 奇妙な感覚だった。
 まるで世界が変わってしまったかのように感じられる。具体的にどこがどう、とは言えないけれども霊夢の生活は確かに変わってしまっていたのだ。
 故にかどうにも気になる事が増えた。例えばそれは置物に乗っかっている埃だとか、境内で社と名乗る紫が連れてきた少女の掃き残しだとか、そんな些細な事がついつい気になってしまう。
 端的に言ってしまえば落ち着かないのだ。その中で社は不貞不貞しいまでに普通に生活している。…生活している、と言っても全て霊夢が一から教えたからではあるのだが。


「…引継ぎ、か」


 霊夢は紫の残した言葉を思い返す。引継ぎ、と。
 それを意味する事を霊夢は実感と共に感じていた。―――己の能力が消え失せたその時からなんとなくわかっていたのだ。
 一通り家事を教えた。―――これからこの神社が彼女の住む場所となるから。
 術や技の伝授をした。―――これからその秘術が彼女の扱う秘術となるから。
 ただ、それだけで終わり。家事はともかく、術や技は教えなくてもなんとなく見て覚えてくれたようだった。ほとんど手間のかからない子だった。
 まるで人形のように頷いて、逆らう事もせず、ただ流されるままに言われた事を為した。ただ、それだけ。
 けれど決して彼女は人形ではない。彼女は人間で、そして博麗の巫女なのだから。言われずとも境内の掃除は習慣としていたし、自分が教えていない筈の秘伝書を蔵から持ち出して眺めていたりもした。
 なんだ、随分と違うもんだ、と比べて霊夢は思う。それが尚更、自分がもう博麗の巫女としての役目を終えているような気もして感慨に耽る。
 これから博麗の巫女はあの子となり、あの子が新たな博麗の巫女像を作っていくのだろうと、そう考えてしまう。そうすれば、もう自分が博麗の巫女の括りとして物事を考えるのは終わりになってしまう。
 神社の掃除はしなくていい。お茶の準備もいらない。ここを守り、住まう立場ではなく、だんだんと間借りしているだけのような錯覚。ここから離れていく心に霊夢は何ら疑念を抱かなかった。


「――さて、と」


 こと、と。
 小さく音が響く。


「………」


 縁側に下りて、振り返る。
 ここで育ち、育てられ、育ってきた。
 ここで過ごし、時を重ね、今に至り。
 終わりが来る、時を悟り、理解する。
 長い時間、考え続けて、結論に達し。
 それが、”霊夢”の解答だと納得する。


「…まずは、着替えますか」


 故に、彼女は歩き出す。



 * * *



 静かな夜だった。
 どこから虫の鳴き声が聞こえる。今が暖かい季節で良かったと思う。
 日は沈み、月が浮かび上がる時刻。だが月明かりは雲によって隠されその月光を大地に降り注ぐ事はない。
 そして更に闇に包まれる暗い森。そこを提灯を灯して歩く。さくさくと落ちた葉を踏みしめながら歩いていく。
 ふと、足音が止まった。目の前を横切るように不自然なまでの暗闇が横切ったからだ。


「…や」
「…ふん」


 暗闇の向こうから響いた声。それに返した応えは小さな鼻息。不自然な暗闇が溶けるように消え、そこに残されるのは金髪の少女。
 ルーミア、と名を呼んだ。名を呼ばれた少女はどこか嬉しそうにはにかみながら両手を広げてくるり、と回り、スカートの端を持ち上げて一礼をした。そうして顔を上げれば悪戯っぽい表情でまるで誇るように視線を向けてくる。


「久しぶり? 霊夢」
「…そうね。久しぶりね。何時ぐらい?」
「メイド長の葬式以来、じゃないかな?」
「そう…随分会ってなかったのね」
「霊夢は、そういう感覚なんだ」
「えぇ」


 ルーミアの問いに霊夢は答える。淀みなく、迷い無く、そしてどこまでも素直に。


「…ふふ」
「…? 何よ」
「紅白姿じゃない霊夢って、新鮮だね」


 そう。ルーミアが言うように霊夢の身に纏っているのは見慣れた紅白の巫女服ではない。
 それは闇に溶け込んでしまいそうな漆黒の衣。喪を現すかのような喪服を霊夢は身に纏っていた。髪を結ぶリボンも無いために、霊夢の身に纏う色は黒が大半を占めている。


「…まぁ、持って行ける服がこれしかないってのは、我ながらどうかと思うんだけどね」
「はは、霊夢らしいや」


 ルーミアは楽しげに笑って告げる。くすくす、くすくすと一通り笑って、ルーミアは覗き込むように霊夢の顔を見つめた。


「ねぇ? 霊夢」
「…ん?」
「重たそうだね」
「…そうねぇ、重たいわねぇ」


 ルーミアの問いかけに霊夢は少し困ったように、だがどこかまんざらではない、と言うように笑った。
 そっか、とルーミアは笑う。そして、くる、と霊夢に背を向けるように回る。そのまま一歩、二歩、前に進んでルーミアは霊夢、と再度名を呼ぶ。


「…一応、聞いておくね? 貴方は、食べて良い人類? それとも駄目な人類?」
「…お断りする人類よ」
「あはは、食べて良い人類ってのは、否定しないんだ」
「私に、そこまでの価値があるならね。惜しむ気もないから、尚更ね。でも、お断りするわ」


 霊夢は歩き出す。ルーミアの隣に並び、そして追い越していくように。ルーミアを抜き去って歩んでいく霊夢の背をルーミアは見送る。その紅い瞳は細められ、口元には笑みが浮かぶ。


「…寂しさは、調味料にならないのかー」


 隠れた月の光に焦がれるように空を見上げ、ルーミアの呟きが闇夜に溶けるように消えていく。
 彼女の瞳が捉えていた霊夢の姿は森の奥。消えてしまった彼女にルーミアはひらり、ひらり手を振った。





「さようなら、霊夢」





 * * *



 ただ暗い湖は先の見えぬだけの恐ろしい場所だ。
 霊夢は湖沿いを歩いていく。静かな湖畔は何も音をもたらさず、霊夢の耳に届くのは梟の鳴き声だけだ。
 どれだけ歩いただろうか。霊夢は不意に顔をあげて空を見上げた。僅かに肌に触れる冷気。あぁ、アイツがいるだろうな、と霊夢は手を翳し、見つめるようにその影を見た。


「…や、チルノ」


 親しい友人に出会ったように霊夢は掲げていた手を軽く振って影に声をかける。そこにいたのは青い衣装を纏った氷精、チルノだった。だが、その姿は霊夢の知る彼女とは異なる姿だ。
 落ち着いた様子に、どこか冷えた視線を霊夢に向けるチルノ。…それは霊夢の記憶のどのチルノとも噛み合わない。良く言えば天真爛漫、悪く言えば馬鹿だったチルノがこうも冷静に自分を見下ろしているのはどうにも慣れない。


「…契約、上手くいってるみたいね。ちゃんと”仕事”出来てるの?」
「…してるからここにいるんだよ。何しに来たのさ。こんな夜に」


 どこか不機嫌そうにチルノは両腕を組んで告げる。霊夢を見下ろしながら彼女は言葉を重ねる。参ったな、と言うように霊夢は頭を掻いた。


「こんな夜だからこそ、ね。寂しいじゃない? 月が隠されてるんじゃおちおち月見も出来ないじゃない」
「…月が出たい、って言ってる訳じゃないなら、それで良いんじゃない? それに月なら明日なら出るかもしれない」
「もしかしたら、ずっと曇るかもしれない」
「あり得ないね」
「あり得たら?」
「その時は異常だよ」


 チルノが腕を掲げる。その腕に集束する力は彼女の特筆たる冷気。それを弾幕の形へと変じながら霊夢をチルノは睨み付けた。


「で? アンタは何をしに来たんだ、霊夢。今のアンタがここに来る理由なんて無いだろ?」
「あら、無知ね。その”私”は果たして私とイコールであるのかしら? チルノ」
「イコールだけど、イコールじゃない。人は変わる、とでも言いたいのか?」
「そうでしょう? 貴方も、私もね」
「…あぁ、そうだね。それじゃあ私には知り得ない。じゃあ、問うしかないね。――紅魔館に何の用だい?」
「私用よ」
「アポは?」
「無いに決まってるじゃない」


 チルノは眉を寄せ、霊夢はどこか困ったように笑みを浮かべる。そっか、とチルノは小さく呟き頷いた。霊夢も、そうよ、と小さく呟き頷いた。


「じゃあ、――引き返せ、霊夢。アポもないお前を通す理由は、ない」
「止まるとでも思って?」
「そう、なら――」
「そうよ、なら――」


 続く言葉は1つだ。


「――紅魔館巡回警護役、だっけ? 今は?」
「そうだよ、ただの人間」
「そう、ね。じゃあ――ただの人間だけど、ちょっと通らせて貰うわ」
「…いいや、アンタはここで―――凍てついていきな!」


 チルノが弾幕を解き放ち、霊夢が大地を踏みしめる足に力を込めた。



 * * *



 月の無い夜は薄暗い。灯りをつけた縁側、そこで何もない空を見上げながらぼんやりとした瞳で空を見上げるのは霊夢が神社に残した少女、社だ。
 その身に纏うのは紅白の装束。霊夢が身に纏っていた巫女装束と同じもの。少女はただ静かに自身の煎れたお茶をそっと口に含みながら時を過ごしていた。
 その隣にはもう一つ、湯飲みがあり、茶が注がれている。その湯飲みに伸びる手があった。それは隙間より伸びる手。それを横目で確認するも、気にした様子もなく少女はお茶を含んだ。


「……紫様」


 ぽつりと、小さく消え入ってしまいそうな声で少女が誰かの名を呼んだ。
 応えるようにずるり、と隙間より身を乗り出したのは紫だった。どこか色のない表情を浮かべながら彼女は無言で少女の隣に腰掛ける。


「…行ったのね。あの子は」
「…はい」
「……そう」
「…はい」


 ただ、静かに言葉を交わす。虫の音も、梟の声も、どこか遠いこの神社では息づかいすらも耳に届く程の静寂。


「…あの子は、囚われたの」
「…霊夢様がでしょうか」
「何にも囚われず、何にも感心せず、巫女としては最高の、歴代最高の巫女だったでしょう。ろくな修行も必要とせず、最低限の機能を保ち、かつ、打ち出す結果は最高に近かった。恐らくきっと歴代最高にして、これからも続くなら必ず博麗の巫女の五指に上げられる程の優秀な巫女として名を残し続けると思うわ」
「…空を飛ぶ程度の能力が故に、ですか」
「…そう。それこそ”博麗霊夢”たる由縁。でもね、巫女もまた人であり、人は人のままに死す定め。巫女という種族ではなく、巫女という人間だから、終わりは必然。破綻は予定調和。人である事に囚われるのも、また運命」


 どこから取り出した扇子を開き、口元を隠しながら紫は語りを続ける。


「力と、役割と、それが博麗霊夢たる由縁にして、欠ければ博麗霊夢の破綻は日を見るよりも明らか。――だから、貴方はここにいるのよ」
「存じております」
「…そう。可愛くないわね、貴方」
「……はぁ」
「…つまらないわね。霊夢も、さぞつまらなかったでしょうね」
「そうでしょう。私は可愛くないですから」
「……本当に憎たらしい」
「そうでございますか」
「えぇ、そうでございますよ」


 紫は扇子を畳み、再度湯飲みを手にとってお茶を喉に通す。


「――ところで、良いの? あの子、蔵の物、片っ端から持って行ったみたいだけど」
「えぇ。私には必要のないもので、霊夢様こそ必要にしてらっしゃると思いますから」
「…そう。あの子にこそ、ね」
「えぇ。あそこにあったのは抗いのための力。私が持つべきは調停の力。それは決して抗う力にあらず…。ならば、霊夢様こそが持つに相応しい品々でございました故に」
「…ありがとう、と言うべきかしら? 博麗の巫女」
「泣く子には、敵いませぬ。それが僅かなれど師と仰いだ方ならば、尚更に」


 ふぅ、と。少女は吐息を1つ吐き出す。目を伏せ、思いを馳せるかのように。その情景を思い出すかのように。


「静かな、泣き声でしたから。故に耳に響き、心を打つ。―――今宵、雲は晴れますかな?」
「…全てを知るは我等に出来ず、全知たるは―――運命のみぞ?」
「運命の瞳は閉ざされているのならば、知るものは在らず?」
「――ならば、瞳を開くのは何ぞ?」


 ――それは。


「全ては、彼女の御心のままに。偽ならば果て、真なれば至る。――願わくば、それが真なる事を」


 祈りを捧げるように少女は手を合わせる。その様を紫はただ見据え、そっと瞳を伏せた。



 * * *



 甲高い音が響く。それは刀を鞘へと戻す際になった音。
 霊夢の手に握られるのは白木の鞘の刀だ。かつて博麗神社にご神刀として祀られていたのか、出自はよくわからないが霊力の篭もった刀。それを納め、荒れた息を整えながら霊夢は自身の背後に横たわるチルノを見た。
 周囲は氷塊が地に突き刺さっていたりと荒れ果てた光景になっている。そこで大の字になって寝転がっているチルノ。やれやれ、と言うように霊夢は肩を竦めて霊夢はチルノに告げた。


「…私の勝ちで、良いでしょ?」
「…あぁ」
「…んじゃ、行くわ」
「…勝手にいけ」


 大地に寝そべったチルノはひらひら、と手を振って霊夢を追い払うように仕草する。その仕草に霊夢はどこか微笑ましいものを見るように見つめた後、刀を腰の帯に差し直して歩き出した。
 大地に寝そべるチルノはぼんやりと空を見上げている。ただ、何かを考える訳でもないように、ただ、何をする訳でもなくぼんやりと。


「…パチュリー様に、どやされるかな。まぁ、いっか」


 はぁ、と、吐息を1つ。


「…勝ちたくないわ。あんな霊夢に。かといって、手加減出来ないし。あーぁ、本当に…」


 チルノは片手を顔に被せるように乗せた。隠した表情はどこか無念そうに歪んでいて、漏れる吐息は余りにも重いもの。





「…つまんなくなっちゃったね、霊夢」





 * * *





 霊夢は重たい身体を引きずるようにして歩く。黒の装束はチルノとの弾幕ごっこで所々が破れ、その肌には少なくない傷が浮かんでいる。それでも霊夢は歩き続けている。


「…飛べないって…不便ね」


 既に己の身からかつての力は失われている。残っているのはまるで残りカスとも言えるような頼りない力。それを博麗の蔵から持ち出した物で補強し、ここに至る。
 チルノとの弾幕ごっこで慣れない刀を振りまわし、不様に転げ回りながらも弾幕を回避し、勝利をもぎ取った。その慣れない身体の痛みに霊夢は顔を顰める。打ち身、打撲、切り傷、凍傷、あぁ、こんなにも痛いものなのかと霊夢は思う。


「…お」


 それでも霊夢は歩み続けてようやくそこに辿り着いた。それは闇夜の中でもわかってしまう程の紅の色彩に染められた舘。――その名は、紅魔館。
 そしてその門の前に立つ女性を霊夢は見知っている。手を後ろで組み、静かな様子で瞳を閉じて佇む彼女は霊夢の接近に気づいたのか、ゆっくりと瞳を開けた。霊夢と彼女の視線が絡み合う、そして、霊夢は紅魔館の門番、紅美鈴に苦笑を浮かべるのであった。


「……アンタいつから夜勤になったのよ」
「今日はたまたま、深夜番だっただけですよ。こんばんわ霊夢さん。その傷はチルノにやられたんですか?」
「えぇ。…アイツも考えて弾幕を打つようになってきたもんだからやりずらいわ。これがパチュリーとの契約の効果?」
「えぇ。…チルノが望み、パチュリー様が応じた契約です」
「…咲夜が大妖精を見つけて、メイドとして誘い出した頃からかしら。アイツもここで暮らすようになったのは」
「今では立派な巡回役ですよ。…もうちょっと昔の可愛げがあっても良いとは思うんですけどね」


 それは世間話のように、霊夢と美鈴はのんびりと話しを続ける。何も気負う事もない友人の語らい。笑みを浮かべていた霊夢だったが、不意に声を止め、胸に手を当てた。


「……うん。やっぱ、そうなのかなぁ」
「…何が、でしょうか?」


 うーん、と。霊夢は悩むように声を上げて、そしてうん、と納得するように頷き、声を上げた。


「私、博麗の巫女、辞めたのよ」
「えぇ。後任の子をこの前、見ましたよ」
「そ。憎たらしい子でしょ?」
「いや、見かけただけなのでどんな子かまでは…」
「そう。…まぁ、だからお役ご免って訳でさ」
「それは、おめでとうございます?」
「なのかしらね? でさ。まぁ、暇を持て余すじゃない」
「貴方がですか?」
「どういう意味よ。…まぁ、そんな訳でさ」
「いやいや、説明になってないじゃないですか」
「良いじゃない。で、通してくれる?」
「アポ無しで、”ただの人間”を通す程、私も伊達や酔狂ではないので」
「じゃあ、押し通るわ」
「出来るとでも?」


 美鈴はいつの間にか霊夢の背後に立っていた。その視線はいつになく厳しいもので、霊夢を見下ろすように美鈴は見る。


「…チルノはまだまだ力を持て余していますし、今の貴方の相手はチルノには辛いでしょう。そして今の貴方でもそれだけ揃えればチルノに届くでしょう。ですが――私を退けるには余りにも貴方自身が脆弱過ぎる」


 霊夢が振り返る。
 美鈴が拳を握り。
 霊夢が手刀を振るい。
 美鈴が手首を押さえ。
 攻防は一瞬、停滞し。
 霊夢が弾かれるように跳び。
 追うように飛んできた美鈴に蹴り飛ばされた。


「――が、っ…!」


 揺れる。
 視界が揺れる。
 歪んで。
 視界が歪んで。
 乱れて。
 視界が乱れて。
 意識が。
 意識が飛びかける。
 痛くて。
 呻く声が痛みを示す。
 そりゃ、そうだろう。
 痛いのは痛いのだ。それが常識だ。常識なのだ。


「…今の貴方じゃ、何にも護られていない。常識なんですよ。それが今の貴方です」
「…思ったより、……、…げ、ほっ……! …高尚な、もん、だったのね」
「――そうよ? そんな事も、貴方理解してなかったの?」


 不意に霊夢の耳に届いたのは、そんな凜とした声だった。
 舞い降りるのは色鮮やかに光を放つ羽根を持つ幼き吸血鬼の姿。どこか呆れたように霊夢を見下ろすその姿に、霊夢は僅かに唇を釣り上げた。


「妹様」
「下がって、美鈴。私が対応するわ」


 すっ、と。舞い降りた吸血鬼の少女はやんわりと美鈴に手を翳し、美鈴を控えさせる。美鈴は僅かに眉を寄せたが、すぐに力を抜いた。それを確認した吸血鬼の少女は改めて霊夢と向き直る。


「…こんばんわ、フラン」
「…こんばんわ、霊夢」
「貴方、夜更かしかしら?」
「吸血鬼相手に何を言ってるの? お馬鹿さん。夜の時間は私たちのものだと言う事をもう忘れたの? いいえ、お馬鹿さんよね。己すら理解しない貴方だもの。ここは幻想郷。常識外である事が、何よりの強み。それこそ貴方たる由縁だった。…けれど今の貴方は、不様ね」


 這い蹲り、痛みに震え、涙を目に浮かべる霊夢に舞い降りた吸血鬼の少女、フランは呆れたように告げる。確かに苦しげにフランと美鈴の二人を見上げる姿は確かに不様と称するべきなのかもしれない。
 かつての霊夢であればそもそも美鈴の一撃を回避出来ていたかもしれない。そもそも美鈴の一撃を受け止めて反撃に出れたかもしれない。それは鍛えていない霊夢と鍛えている美鈴ではあり得ない事かもしれないが、霊夢の能力が故にそれは計り得なかった。
 常識から逸脱する力こそ、霊夢が博麗の巫女たり得た由縁。けれどその力は失われてしまっている。失われてしまったのだ。最早、今となっては霊夢は唯の人にしか過ぎない。


「貴方は、博麗の巫女としては天才だった。幻想郷に調和した、二人とない巫女なんでしょうね。けれど、今の貴方はただの人」
「……」
「改めて、問いましょう。――何をしにここへ?」
「…引きこもりが、随分と好奇心旺盛に動いてるじゃない」


 フランは静かに問う。その意義を。その意志を。知るべく。敢えて佇み霊夢の応えを待つ。その問いに霊夢は苦笑を浮かべながら軽口をフランに返す。
 霊夢は息を整える。痛みに震える体を叱咤しながらゆっくりと立ち上がった。大きく息を吸い、涙を拭って勢いよく息を吐き出し、フランを見据えた。


「……アイツが、さ」
「……」
「咲夜が、私に残したもんだからよ」


 アイツが、言った。考えろと。
 アイツが、示した。考えろと。
 アイツが、残した。考えろと。
 アイツが、問うた。考えてと。
 アイツが、望んだ。考えてと。
 アイツが、祈った。考えてと。


「それは、決して私の為じゃないし、それはアイツの自己満足で、アイツが何を望んでたのかそれはわからない。けどアイツは言った。私に残した。そして、問うの本人は先行くように死んだ」


 そうね、と。霊夢が吐息と共に言葉を吐き出す。


「それが、まるで花火みたいでさ。鮮烈に記憶に残るのに、ぱっ、と消えちゃって、さ。
 もう一度見たいなんて望めないのにさ。それが、あんまりにも綺麗に思えて。
 アイツ、満足して死んだんだな、って。わかっちゃってさ」


 それは、いつか来る終わりを示した物。
 霊夢にも待ついつかの終わり。それを示したのは誰でもない咲夜だった。


「気づいたら、私の能力も薄れてきて、終いには消えちゃって。気づいたら後任が出来てて、引継ぎしろって紫にも言われて、博麗の巫女としての、博麗霊夢が終わるって気づいちゃったら、余計に考えさせられてさ」


 そして、気づいたんだ。


「…萃香が、いつの間にかいなくなってて」


 あの酒飲み鬼はいつの間にか姿を消していた。時折、忘れた頃にふらりとやってくるだけで。彼女が消えたのは何時の頃だっただろうか。
 あれは…そう、咲夜がその言葉を残したぐらいからだっただろうか。何かを察したような表情を浮かべて自分を見ていたと思ったら、消えてしまった。あれから言葉を交わせただろうかと、考えるぐらいにはもう顔を合わせてない。


「…文が、来なくなって」


 最近は霊夢さんの周りもつまらないですねぇ、としょっちゅう来ていたカラス天狗のパパラッチもその回数は減って来なくなっていた。
 あれだけやかましかったのがいなくなって清々した。けれど新聞は増える一方。置いていくと共に少し話していた頃を思い出す事もあった。


「魔理沙も、研究に忙しいのか、来なくてさ。早苗も、参拝客が増えて忙しくなって。紫さえも顔を見せに来なかった」


 一人。
 また一人。
 またもう一人と。
 神社に訪ねる者は減っていった。
 あの日から、少しずつ、少しずつ。


「それがどうだとか、言う気はないわ。だって自分勝手な奴らだもの。そして私も勝手にしてたわ。――そんな中で、アイツは、私を訪ねるんだ」


 日光が駄目な癖に昼間に起きてて、日傘を差してまで神社に来て、お茶をたかっては、文句をつけてくる。
 喧嘩をして、こっちが勝てばダダを捏ねるわ、咲夜に泣きついてみせるわ、それが演技だったりして、下手に出れば調子に乗り、本当に鬱陶しくて厄介な奴だった。
 ”ごきげんよう! 霊夢”、だなんて調子の良い声でこっちの気も知らずに訪ねてきて、勝手に寛いで行くような面倒な奴で。


「なんか、だからなのかな。アイツが目に入るようになった。アイツが気になるようになった。少しずつ離れていくのを感じてる中で、それでも私の所を訪ねてくるアイツが……きっと、いつの間にか気になってて」
「…それで?」
「それで、アイツ、咲夜、死んだじゃない?」
「…えぇ」
「引きこもったじゃない、アイツ」


 霊夢の言葉に、フランの顔が歪む。それは悲しみを隠しきれない悲哀の表情。
 そう。あれから、レミリアは己の自室に閉じこもっている。
 誰が呼びかけても、ただぼんやりと時計を見るだけで何もしない。
 食事を出されれば食べる。だけど、会話が成立しない。
 ただ生きているだけ。ただ、生きているだけなのだと。


「私の所に来なくなって…あぁ、って気づいたんだ。だんだん離れていくのに、アイツは私の傍に来てくれた。だったらって…思っちゃったのよ。それで、気づいちゃったのよ」


 はは、と。漏れた笑みはどこか気恥ずかしげに、どこか憂鬱な気も含め、けれどそれを受け入れ、確信を以て霊夢は告げた。


「何もなくなる私でも、まだ見て貰えたら、それはさ、きっと寂しくないんだろうなって。…私はきっと、本当に弱いからさ」
「…それで?」
「――泣きつきに来たのよ。ただ、それだけ。じゃないと寂しいから」
「…寂しいなら、人里にでも行けば良いじゃない」
「わかってるのに、酷いわねぇ、貴方」


 霊夢は、笑う。片手で顔を押さえて、どうしようもない感情を持て余すように。


「私だって、人並みよ? 今は」
「その人並みが、お姉様の目に留まると?」
「…いいえ、きっと、私じゃ無理ね」
「じゃあ、ここには、何故?」


 問う。フランはただ静かに霊夢へと問うのだ。その真意が知りたいと、霊夢の心の奥まで覗き込むように。


「ただ失われるだけの貴方が、お姉様の目に留まろうとして、仮に見て貰えたとして、何を望むというの?」
「その答えは、もう――示されてるでしょ?」


 霊夢は、笑う。
 フランは、苦笑。


「――本気で?」
「えぇ。マジと読むぐらい」
「じゃあ、…骨が折れるなぁ」
「通しなさいよ、じゃあ」
「えぇ…ちょっと、妹としては複雑なんだけどなぁ」
「そう―――」


 霊夢が、嗤う。
 フランが、微笑む。
 そっとフランが美鈴に更に下がれと手で示す。
 美鈴はどこか呆れたように二人から距離を取る。
 風が吹く。二人の間を流れていくように。
 風が流れる。時を動かすように世界を駆けて。
 払われる雲、差し込む月光。照らすは二人の役者。


「――良い月ね」


 それは、紅く、大きな月。妖を魅せる狂気の紅月。


「――楽しい夜にしましょうか。眠り姫も目を覚ましてしまうような、飽きないよう夜にね」
「出来るものなら…―――認めてあげなくもないよっ!!」



 * * *



 ちく、たく、ちく、たく。
 ただ時計は時を刻む。
 ちく、たく、ちく、たく。
 一秒、二秒、三秒…。ただ数えていく。
 ちく、たく、ちく、たく。
 その秒針の小さな音をただ聞いていたかった。
 ちく、たく、ちく、たく。
 ただ、このままこの小さな音に埋もれれば良いのにとさえ、思ってしまった。
 ちく、たく、ちく、たく。
 時計は止まらない。ただ、時を刻む。
 見つめるだけ。ただ時計が時を刻むのをじっ、と見ている。
 レミリアはそうして1日の大半を過ごしていた。何をする訳でもなく、ただぼんやりと時計を見つめて、腹が空く頃には適当にメイドが食事を持ってきてくれるし、眠りたくなったら眠ればいい。
 だから、ただ時計を見続けていた。ただ、ただそれだけしかレミリアには出来なかった。
 ちく、たく、ちく、たく。


「―――そんなに、面白い?」


 不意に声が聞こえた。けれど、応える元気もレミリアには無い。ただ煩わしいだけ。だから時計の音を聞きたいから意図的に音をシャットアウトした。
 それがいけなかったのか。レミリアの手の中にある時計。それにそっと手を覆い被すように乗せ、レミリアの視線を遮る手に気づかなかったのは。あ、と思ってレミリアは顔を上げた。
 深紅の瞳が、自分を覗き込んでいた。


「……ぇ?」


 あれ? と違和感。
 彼女の瞳はこんなにも紅かっただろうか、と。そんな違和感にして疑問だった。
 不機嫌さを隠そうともしない彼女はそっと、そのまま時計の手を握るレミリアの手を握った。


「…随分、大事にしてるじゃない」
「……ぇ、と」
「でも、そんなに見てて飽きないの? こんなちくたくちくたく動くもの見るぐらいならアルバムか何かでもないのかしら?」
「ちょ、ちょっと!」


 レミリアは抗議の声を上げた。彼女は動じた様子もなく、ただ霊夢を見つめている。その瞳に見つめられていると何も言えなくなって、レミリアは一度自身を落ち着かせる為に深呼吸をした。
 どれだけの深呼吸を繰り返しただろうか。レミリアは顔を上げる。そこには自分の手に手を重ねる彼女がいる。仏頂面でこちらを見つめてくるのは彼女他ならない。――けれど、彼女にはあり得ない姿で。


「…霊夢、よね?」
「…そうね。”博麗霊夢”だったものを霊夢と呼ぶなら、私は霊夢よ」
「うそ…」


 信じられない、と言うようにレミリアは首を振る。


「…だって、霊夢が巫女服じゃないのはおかしいじゃない」
「そりゃ、巫女辞めたし」
「だって、霊夢がここにいるのはおかしいじゃない」
「そりゃ、用事があったし」
「だって、霊夢は…霊夢、は…!」


 困惑と、驚愕と、混乱と。ぐるぐるとレミリアの頭の中を駆けめぐる。それは自分の頭の中を掻き乱して答えを出そうにも出させてはくれない。


「霊夢は…そんな瞳の色はしてない」
「…今、どんな色?」


 霊夢は問う。その問いにレミリアは霊夢と視線を合わせる。そしてレミリアは己の手を霊夢の頬へと伸ばした。


「綺麗な、紅よ」
「そう」
「牙も、出てきてる」
「…もうそこまで変化出てるんだ」
「影に…翼が見える」
「完全じゃないから、ただの偶像だけどね」


 そう、今の霊夢の姿はまるで―――吸血鬼のようだ。
 犬歯が尖りを見せ、瞳は深紅の色に染まっている。月の光に照らされて伸びる影には翼の影が見えている。


「…っ…! っ、霊夢…! どうして…!? 答えろ!!」


 霊夢の胸ぐらを掴み上げ、レミリアは吠える。どうして、何故、とその憤りをぶつけるように。困惑と驚愕、混乱のままにただレミリアは霊夢の瞳を見つめる。
 静かに自身を見下ろす瞳は深紅。見れば見るほど深い紅。あぁ、どうしてそんな瞳の色を彼女はしているんだろう? どうして、これじゃ、思ってしまうじゃないか。





「……切欠は、咲夜が死んでからだった」





 びく、と。咲夜という名に反応してレミリアは身を震わせる。


「アイツは、私に考えろって言って死んでいった。死ぬ以前から私に問いかけを残して。自分はそれで満足だと道を示して、歩ききった。魔理沙や早苗も、そうやって自分の満足と思える場所を探して歩いてる。魔法使い、風祝、己に定めた、求めた在り方と共に。
 けど、私にとって博麗の巫女という称号は血肉であり、共にあり続けるものだった。私の性格も、私の生活も、博麗の巫女として、博麗神社に根付くものだった。
 けれど永遠は無いの。私はいずれ博麗の巫女を辞めなきゃいけない時が来る。それを、咲夜の死で悟らされた。そして考えた。色々考えたのよ」


 霊夢は、手を伸ばす。


「考えている内に、私の能力が日に日に弱くなっていくのを自覚した。終わりを、予感した。そのぐらいの頃からかしら。一人、また一人って、神社に訪れる奴は減っていったわ。私に目に映る奴はまた一人、また一人って消えていった」
「…霊夢」
「そんな中、アンタは、よく神社に来た」


 そっと、レミリアの頬を撫でるように霊夢は触れる。慈しむように、愛おしげにその歩を優しく撫でるように。


「咲夜は、だからわかってたんだと思う。私の思い、全ての建前を捨て、本当の私になった時に残されるものを。だからそれをアイツも望んだんだと思う」
「…咲夜が、望んだもの?」
「そう」


 ちく、たく、ちく、たく。時計はただ時を刻んでいる。レミリアの手が、霊夢の手がその時計を握っている。


「私は、博麗の巫女を辞めて、空を飛ぶ程度の能力を失って、初めて足に地を着いたの。そして知った。重い、という事が。抱える、という事が。…それは、逃げ出したくなる程、死んでしまいたくなる程、けれど死にたくないと怯える程、怖いの。
 飛べないという枷がここまで心を縛るとは思っていなかったの。些細なことが目に付くようになって、色々考えるようになった。常識に思考が囚われて私は本当に弱くなった。気にもしなかった事に苛まれるようになった。
 そして、博麗の巫女を辞めた私に残されるもの。それこそが咲夜が望んだ可能性。アイツが示そうとした未来」


 それはね? と謡うように霊夢は告げる。


「自分を愛してくれた人を、愛してくれるかもしれない人に全力で甘えたい、って事で。我ながら笑ってしまうぐらいに情けなくて、でも誰にも譲れない思い」


 霊夢の言葉にレミリアは静かに息を呑む。


「私はもう空を飛べない。羽ばたく為の翼はもう幻想だから。けれどこの思いは現実だから。だから、ここまで来た。全てをかなぐり捨てでもここに来たかった。貴方に、会いたかった。レミリア」
「霊、夢」
「離れていく奴らの中で、私に顔を合わせてくれる貴方は誰よりも輝いて見えた。咲夜が死んだとき、その悲しみを胸に抱きながら進み出す者たちを背に貴方は止まり続けた」


 ねぇ、と。


「自惚れでなければ、聞いて良いかしら?」
「…言ってみなさいよ」
「…咲夜が死んで、私も死ぬって思ったら悲しかった?」
「……」
「咲夜がいなくなって、私もいなくなるって思ったら辛かった?」
「……」
「私も、人間だから。だからもう何も感じたくないって言ってくれたの? 私が―――死んでしまう事に耐えられないから」


 長い沈黙が降りてくる。それは本当に、本当に長い沈黙だった。
 レミリアの身体が小さく震える。引き結んだ唇は震えて、その瞳からは涙が零れ落ちた。





「悲しいに…決まってるじゃない!
 辛いに、決まってるじゃない…!
 貴方は人間だから! 咲夜も、貴方も、私と一緒にいてくれない!
 こんなにも好きなのに! こんなにも傍にいたいのに!
 ずっと笑って、飽きるまで笑って、最後まで笑ったまま終わりを迎えたい位…一緒に生きて死にたかった!
 なのに咲夜は置いていく。どんなに泣いても傍に居てくれなかった…!
 わかってた…! いつかアイツは私を置いていく! だって…咲夜はそれが幸せだったから!! じゃあ、邪魔なんて出来ないじゃないっ!!
 貴方も、そんな人間なのよ、霊夢ッ!!」


 吐息を振るわせ、涙を浮かべた瞳を鋭く睨み付けるように霊夢に向け、憤りを叩きつけるようにレミリアは叫んだ。


「どうして、人間なんて好きになっちゃったのよ…! 嫌い…嫌い、嫌い…人間なんて嫌い! 人間なんて―――」
「――良いのよ」


 レミリアの叫びを受け止めるように、応えるように霊夢はそう応え、レミリアの身体を抱きしめる為に両手を背中に回す。


「嫌いで良い。――私が、嫌われないようになりに行くから」
「……っ……!」
「ありがとう。レミリア。どうなるかわからなかったけど、ね。―――案外、悪くないわね」


 霊夢は真正面からレミリアを見据えるようにレミリアの顎に手を添えて自分に向けさせる。レミリアの深紅の瞳と、霊夢の深紅の瞳が絡み合う。


「命を燃やせる、見苦しいまでにしがみついて、生き足掻く。そしてその先が人を捨てる事でも構わない。貴方が私を見てくれるなら、それで構わない」
「…ぁ」
「――私を、連れてってくれる? レミリア」





 間が空く。
 どれだけの間だったろうか。
 深紅の月が浮かぶ夜。
 月光に照らされる2つの影。
 ゆっくりと、その影が1つになる様を。
 見ていたのは、あぁ、月だけ。





5.誓約の夜





「…貴方も随分と無茶したのね?」
「あら? まぁ、あの時、命がけだったのは事実として認めるけれど」
「己の身に何を”降霊”させたかわかって?」
「当然。じゃなきゃこんなにスムーズに私がここいる訳ないでしょ」
「…そうね。貴方は常識から浮いていた存在。その能力が失われど知識と経験は消える事はない。…妬ましいわね」
「ちょっと、橋姫が来るわよ?」
「貴方は、可能性の自身を降霊させたのね。それも、悪魔召喚で」
「そういう事」
「常識から浮くという事は、同時に全ての常識に触れるという事でもある。…貴方はアカシックレコード、予め決められている運命に干渉出来た」
「出来ていた、というのが正しいけどね。それを私自身が覚えてなきゃただそれだけ。実際私はそんなの何にも覚えてないしね。ただ感覚は残ってるから印象深かったら思い出せるけどね」
「それが、貴方が降霊させれた理由?」
「そうじゃないの? それに”自分とまったく同じ魂”を喰らえる機会もないし、僅かでもその吉兆があれば喰らえずとも、喰らおうとも赴くのは当然のことだわ」
「貴方も、変わったわね」
「かもしれないわ。…そして、私はあるがままに、ね」





「…行くの?」
「えぇ。約束があるのよ。それじゃ、また」
「えぇ。また来なさい」





「…やれやれ、とんだ奴に惚れられたもんね。まんざらじゃないし…咲夜とは本当に真逆な奴ね。その方が、あの子には良いのかもね」





 * * *





 月は、それはそれはとても美しい。
 とても美しいのだから何度も恋い焦がれてしまう。日に日に姿を変えるけれども本質は一切変わらない。優しく淡い光で夜を照らす。かの身に孕み、秘めたるのは狂気。常ならぬ異なる者。夜の住人にとっての謂わば太陽。
 …そんな月と彼女は良く似ている、と思った事は一度や二度ではない。しかし彼女はまた太陽のような気質も秘めている。…月も親友が言うには科学的には太陽の光を受けて光り輝くものなのだから同じなのかもしれないけれど。
 月と太陽。当て嵌めればどちらでも納得がいく。そして何より共通しているのは、どんなに手を伸ばそうとも手は届かないと言う事だろう。
 届かないから彼女は変わらない。愛おしい彼女のままだ。だからこそ彼女を私は好いている。気に入っている。
 手に届く事はないと、その瞳を向けられる事など無いと思っていた。彼女はどこか浮世に生きていた。そして俗には塗れていた。彼女は己の世界に己独自の法則を持っていてその法則に基づいて生きている。
 それが――私、レミリア・スカーレットが思い人たる彼女に抱く思い。届かないと思っていたあまりにも恋しすぎて愛おしいあの人。



 ――レミリア。



 だから、まるで夢のようだ。
 まるで血のように染まった深紅の瞳を湛えた”彼女”が私に手を差し伸べている。
 淡い笑みは時折見せる”かつて”の笑みと似ているけども決定的に何かが異なり。
 手に届かぬと思いを抱いた彼女に何故かは手を伸ばせば届いてしまうと思う程に。
 その姿に何を抱く。それは喜びなのか、驚きなのか、悲しみなのか、怒りなのか。
 ただこれは私の知っていた”彼女”じゃないと思うに呆気ない程簡単すぎるのだ。
 ”彼女”の瞳は紅くないのだから。彼女の背には翼なんて在るはずないのだから。
 ……けれども。
 …そう、だけれども。
 これは”彼女”ではないと知りながらも、彼女である事を認められる。
 そして、望んでくれれば―――。





「――レイム!!」





 ――私は愛おしいその人の名を叫んで、その胸に飛び込むのだ。
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コメント



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1.90名前が無い程度の能力削除
いいですね。楽しめました。
3.100奇声を発する程度の能力削除
素晴らしいの一言です
4.100名前が無い程度の能力削除
少し切ないながらも、楽しめました
12.100名前が正体不明である程度の能力削除
死にネタは苦手なんだよな…
でも、おもしろかったです。
14.100名前が無い程度の能力削除
最後のレイムが“レイム”なところにこだわりを感じる
面白かったです
20.100名前が無い程度の能力削除
面白かった。
このレイレミ(霊レミにあらず)の続編を読んでみたいです。
21.100名前が無い程度の能力削除
こういう話は好み。
23.100名前が無い程度の能力削除
とても面白かったです。