ぐりりと思い切りよくナイフを眼に捻じ込んだ。
抵抗を感じながらもずぶずぶと金属が沈み、応えるように温かい液体が溢れてくる。眼を貫いた刃はその奥の胸へ刺さり、身体を震わせる。
顔を上げれば何もかも失くしてしまったような姉の顔が見えた。口を動かそうとする度、私は手首を回し押し込んでいく。息が漏れる。呼吸は私もあなたも上手く出来てないだろう。
お互いに顔を見つめ合った。不思議と目が離せない。柄から手に気持ちの悪い感触が広がっていく。怖くなってもう一度握りなおした。
振り切るように眼をつぶってナイフを引いた。力のままに向こうから倒れ掛かってくるのがわかる。意識が消え、だらりとした死人になったことを確認してゆっくりとまぶたを開ける。
こうして私はお姉ちゃんを殺したのです。
霍青娥、青娥にゃんにゃんに会ったのはぶらり一人旅をしていた春のよく晴れた日だった。彼女の服みたいに穏やかな青い空が広がっていたっけ。
その時の私は無意識で訪れたマヨヒガの俵おにぎりがおいしかったので、柳の下のドジョウではないもののブランチよろしく狙っていたのである。
いつもの放浪のようにするりと意識を手放した後にまた手繰り寄せてみると、今まで来たことのない場所に私は立っていた。
見回したら見回しただけ広がっていくような空間で、どこかからか風が吹いてきたのでぎゅっと帽子を押さえた。何の変哲もない草原を風が駆けていく。地上にはありふれた光景に思えたけれど、不思議と今までに感じたことのない雰囲気がした。
ここはどこなんだろう。
颯爽と風は吹き抜けていったあと、視界に人影が増えていた。
ラピスラズリのような髪をたなびかせる美人さんがいたんだ。
一体いつからいたんだろう、気付かれない私に気付かれないなんてすごい。
そんな感情を押しのけて思った。おいしそう。
白磁のような肌がおいしそう。こっちを見つけて向けるきょとんとした顔がおいしそう。凝縮された精気がおいしそう。意識に潜む子供のような好奇心が、ああ。おいしそう。
彼女はもちろん、普通の人間じゃないのだろう。
食い気を頭に浮かべていた私にそんな彼女はふわりとした笑みを浮かべた。
うわぁ、どきどきしちゃうね。お姉ちゃんの底意地悪い笑いやお空の太陽みたいな笑顔とも違う。自分の武器をわかってる笑みだね。そのくせ無邪気にも感じるのが卑怯だわ。
「あなた、仙界へ入れるなんて高名な仙人様かしら」
「ええ、まあ」
そう言うと、自然なしぐさで唇に人差し指をあてられた。
「嘘つきなのね」
「あら、ばれちゃいますか」
するりと白い羽衣を浮かばせて一歩彼女は後ずさる。
さっきのような心臓打ち抜く笑顔で私に腕を向けた。
「妖怪のあなたがこんな場所まで来るなんて。私でも食べに来たのかしら」
「そうね。見てるとおなかが空いちゃうわ」
意趣返しみたいに愛嬌振り撒いて笑ってみると、間の空気がびりびりする。
「うふふ、これだって冗談だわ。肉体を食べるだなんて楽しくないし、残酷でもないの」
「そうかしら。からだが壊れてしまうのは痛いし、直すのも大変なのよ」
「からだは欠けるより朽ちさせる方が好みだわ」
「あら、趣味が合いそうね。自分もそうなってしまいたい?」
「それは好きな人に譲るわ」
「苦痛は欲しい?」
「隣人へあげる」
「快楽を与えるのは?」
「誰かから私へ」
「からだの腐敗は何かしら?」
「花飾りで」
「忘我は」
「抱擁」
「死にゆく恋人へと」
「無償の愛を。でもきっとそっちは私だわ」
そこまで聞くと彼女は考え込むような顔を一瞬浮かべ、子供のような表情で顔をほころばせた。
「こんなに趣味が合うなんて人でも妖怪でも初めて。わたしの名は霍青娥、青娥娘々とでも呼んでください」
「にゃんにゃん、いい舌触りね。古明地こいし。こちらこそよろしく、青娥にゃんにゃん」
大人になりかけの少女の手と少女みたいな大人の女性の手が触れ合う。美しき邪仙との邂逅だった。
「なんで妖怪なんかここに連れてきたんですか」
導かれるままについていくと突然大きな建物が現れた。豪奢ながらも無駄がない洗練された意匠だ。
中に入るや否や混ぜるのに失敗したような緑色の亡霊と対面した。菜箸と櫛を持ち、布団たたきを背負った霊と。
「友達ですわ」
「どうも、友達のこいしちゃんですわ」
そっとスカートの端を摘まんでおじぎなんてしてみる。
「はぁ、とりあえず私は寝坊した太子の寝癖直しと無駄に早起きした布都の昼食作りと布団干しがあるので邪魔しないでくださいね」
苦労人らしき亡霊はふよんふよんという擬音が似合うよう飛んで行った。
「愉快そうな同居人ね」
「ええ、興味の尽きない方々です。さ、わたしの工房はこちらですわ」
前を行く青娥は妙に歩き方も扇情的だった。がらんとした廊下で二人きり、桃の香りがする。首筋にかぶりつこうとする無意識を抑え、よだれをくいとぬぐって歩いて行く。
工房は彼女のまとう雰囲気みたいに明るかった。太陽の光が天井のなんだかよくわからないものを通して、淡い光線となって注いでいる。柔らかい青を基調とした壁や床は落ち着いてカフェオレでも飲みたい気分にさせる。
まあ、整理されて、転がって、並べてある元生物を見てもそんな気分な人は数少ないだろうね。
生乾きのもので服を汚したら怒られちゃうなぁとか考えていると一つがもぞもぞ動いて起きだした。
「おかえりー。む、おはよう? 青娥さま」
「ただいま。芳香」
今までより二倍くらい甘ったるく青娥が声をかける。相手は中途半端に青っ白い顔にお札を貼り付け能天気そうに笑っていた。生きているように笑う。
「うふふ、こいしさん。この子は宮古芳香。わたしの可愛い可愛いキョンシー」
もっと鼻にかかる調子で頭に声が入ってくる。
「と、いうわけでわたしは青娥にゃんにゃんにキョンシー作りの手ほどきを受けることにしたのです!」
お姉ちゃんとの団欒タイムにそんな宣言をしてみた。クッキーを摘まむ手が止まってるのは念入りに工房の様子を説明したからかしら。地底暮らしは変に死体に造詣が深いのでさぞかし鮮明に想起できます。素敵。
「何がそういうわけで、なのかしら」
「だって死んだものが生きたように動くの。生死の境目なんてファジーにしちゃえることって非人道的、妖怪チックに溢れてるわ」
お姉ちゃんなんて生きてるのに死体みたいな顔色と根性だし。
ふうとお姉ちゃんは疲れた溜め息をつく。合わせたように膝の上にいたお燐が猫から人に変化した。背中には毛でわからなかったクッキーの粉が落ちている。お姉ちゃんは悪いやつだ。そんな姉はお燐を重そうにしていた。
「死体なんてぐったりくったり潰れちまっているのがいいんじゃないですか。生きていた時のものがすっかり台無しになってるのがあたいの心をくすぐるんですよ」
「ほう、死体検定師範代火焔猫燐。動く死体は邪道かしら」
「いや、死体に貴賎なしってのが唯一人間とおんなじ価値観だから否定はしないですよ。好みを別にしてもこいし様がキョンシー使うようになったら妖精や怨霊使うあたいと被るじゃないですか。あいでんててーの危機ですよう」
「お燐には猫耳あるじゃん」
「地霊殿に何匹猫がいると」
「あ、でもわたしのほうが猫耳似合うよね」
「に゛ー」
「……とりあえずわたしの膝から降りて会話してほしいのだけど」
灼熱地獄の燃料もお空が無限のエネルギーっぽいのを手に入れたんだし大丈夫だろう。妖精も怨霊も、猫も杓子も、そして死体が闊歩する空間って幻想らしくて素晴らしいと思う。宮古芳香、あんな能天気に笑うのがたくさんいたら地底ももっと楽しそうになるだろうか。こいしちゃんのキョンシー量産計画は今まさに胎動を始めるのだ。
「こいし、死体に関わるからといって安易に死人を増やさないようにね」
「わかってるわ。ばれないように、でしょ」
「わかってないじゃない。その青娥という人が止めてくれれば良いのだけれど、こいしと趣味が合うだなんてきっとろくでもないわ」
「ろくでもないお姉ちゃんにろくでもないと言われるなんて可哀想ね。青娥にゃんにゃんと、わたし」
わざとらしく嘆いてみると、呆れたような視線で見つめられた。ぞくぞくするなあ。でもそれより肌があわけだつのがもっと奥の視線。無意識からちょっとだけ浮いたところにある怯えが私を見ている。心が見えないことがそんなに怖いのかしら。私たち以外は誰にも見えないのに? 姉がハートの奥で心底妹に怯えている。そのことの方がよっぽど怖いと思うのは間違いかしら。
でも、まあ、いいや。大したことじゃないし。見なかったことになんて簡単にできる。無意識の深いとこへ、みんな嫌なことは捨ててしまえばいいのさ。
後ろから抱きしめると彼女が震えるのがわかった。怖いの。怖いよね。楽にしてあげるよ。
何か言っているようだけど不思議と聞こえてこない。すんと匂いを嗅いであげるとくすぐったそうにしている。
そうっとかつ大胆に、首に腕をかけ締め上げる。中で脈打つのが伝わってくる。
ふざけていると思っただろうあなたはもう遅いのだ。取り返しがつかない。
もがいても叫ぼうとしても通じないよ。だって怯えているのでしょう。精神は妖怪の根幹。揺るがされた相手に勝てるわけがない。怯え恐れ理解しなかったあなたは負ける。五体が千切れても生きる妖怪も死ぬのです。
次第に全てが弱まっていく。最期の足掻きも、絞り出した声も、呼吸も脈も命も、みんな。彼女が潰えてしまうことに感慨なんて抱かぬようさらに力を込めた。
私の腕を掻き毟っていた手が落ちる。何がが抜けたように首が傾いた。その時、断末魔の代わりにのどから誰かの名前がこぼれた。
一瞬地面がなくなる錯覚に陥る。自分がどこかに行ってしまって、そのまま消えてしまう感覚。現実を保とうとよろめきながらあなたから後ずさった。
こうして私はお姉ちゃんを殺したのです。
「青娥老師、これで合ってますか」
「上出来ね。まさか邪仙方面でもこんな弟子を持てるなんて、幸せだわ―」
青娥にキョンシー作りを教えてもらうことにしたら、何故だか彼女はノリノリで『私のことは老師と呼びなさい』なんて言い始めた。私もノリノリで呼んだらとても嬉しそうに抱きついてきた。ついでにおしりを触ってきた。なるほど邪仙だ。
さらりと筆をすべらせ札に字を残す。キョンシーに貼り付けるものだ。すっかり符を作るのは慣れてしまった。できた分は地霊殿に持って帰って壁にひたすらくっつけている。
「本当は符に込めるための霊力を鍛える修行もあるのだけれど。あなたはもう強力な妖怪みたいだし省いてしまいましょうか」
「まあ強いですからね」
「次は死体をキョンシーへと変え蘇らせる術式を教えましょう。順序的には符よりも先だけれど、符はいざというときの制御になりますし、何よりも難易度がぐっと上がりますわ」
「それは楽しみね。高いハードルほど蹴り倒して進んでいきたいもの。超えたところにはリジッドパラダイス。青娥老師みたいに死体を操れるようになるのでしょう?」
「あら、わたしクラスになろうなんて生意気で可愛いわ。あなたには才能もあるけれど何よりこの霍青娥が教えてるのが大きいのよ」
そっと手の甲へ自分の手のひらを重ねてそんなことを言う。いちいちさりげないスキンシップをしてくるのだ仙人様は。人の持つ壁をするりすり抜けていくよう。何だか恥ずかしくなってしまう。そっぽを向くと宮古芳香が手術台みたいなところで眠っているのが見えた。
そうだ、宮古芳香。私がキョンシーを作ろうと思ったきっかけ。ところどころ彼女の意識は腐り落ちてしまうことがあるのだけど、無意識が果てしない純粋さで存在していた。精神が前時代みたいに単純でその結果美しい。覗いていて楽な気分になれた。妖怪化して変に知恵をつけた動物たちよりもずっと。具体的には心なんてもちろんわからないけど、きっと眼を開いたままでも一緒に居れそうな気がする。
ただ腐って難しいことが考えられなくなっただけなんだろうけど、死んで一度全部失くして清算されて、ただ蘇るんじゃない、生まれ変わったのだとこいしちゃんはロマンチックに考える。私みたいに。眼を開けた私が死に、閉じた私が生まれたように。
「ねえ、わたしにも芳香みたいな子は作れますか?」
「大変ね。でも、できるわ。あなたならば」
とりあえず適当な死体をお燐が見繕ってきたのでキョンシーにしよう。
話を聞くと罪人らしく、吊ってあったものを持ってきたらしい。ぼろの衣服、ぼさぼさに伸びた髪、血も止まった幾つもの裂傷、死人だなあ。
中庭に寝かせて周りに鎖のような文字を白のチョークで刻んでゆく。ぐるりと取り囲んだところで、額に符をあて筆を出した。
自分でも驚くほど落ち着いて文言を書いていく。まるで死体自身がもう一度動きたいがため手伝ってくれているよう。書き終わったところでお燐から怨霊を受け取る。本人そのものの魂を入れるのはよほど新鮮なものじゃない限り不可能だそうだ。そりゃあ新地獄の方々が持って行ってしまうものね。他人の精神を焼き焦がさんとする怨霊を抑えつけて死体に簡単な呪いで縛り付けた。
死体の真横に立ち上がり、妖気を骸へ這わせる。一度深呼吸、気を落ち着けてから術式を唱える。するすると口からこぼれていって、不安なほど早く終わってしまった。死人を蘇らす。死から生、静から動がこんなにあっけないなんてふと私もたやすく死んでしまうのかしらなんて、思った。
唱えきって不思議と動けないお燐と私。対照的に死体がみじろぎを始め、濁った眼をぐるんと回した。かっと口が開く。搾り出すような空気の震え。そこでキョンシーに舌がないことに気付いた。
明らかに不自然な動き、子供が人形を手で起こしたみたいに立ち上がって止まった。
「いやあ、キョンシーですね。久方ぶりに見ます」
「一人でできるようになったのだよ。お燐、ほめても構わないわ」
「うーむ、すごいですけど……、死んでる方がらしくて好きかなあ」
「方向性の違いによる解散かしら」
仏頂面を通り越して狂った表情でキョンシーは棒立ちのままだ。
「笑え」
芳香の笑顔を思い出すように命じる。ほおを釣り上げてますますアブナイ感じだ。
こういうんじゃないんだよなあ。
次の命令はどうしようなんて考えた瞬間、爆炎。怨霊なんか比べものにならない熱量が目の前にあった。なんだか一気に色々感じたような気がしたけどわかったのはいつの間にか尻餅をついていたこと、それと欠片も残さず死体が灰になったことだった。
首が壊れたみたいに炎が飛んできた方へ向く。
「お空と、お姉ちゃんか」
あれだけ瞬間的にキョンシーだけ消滅させられるのなんてそれはお空で間違いない。私の邪魔をするのもここではお姉ちゃんだけなので、二人がいるのは当然だろう。
「こいし。……こいし、怨霊に身体を与えようなんて馬鹿なことをしたのは何故かしら」
「大丈夫よ。キョンシーだから言うことは聞くわ」
「それは習ったばかりでしょう。何かあったらどうするのですか。怨霊は恨み辛みの塊なのだから、わかっているのに」
「わたしより強いなんてことは無いのに。心配のし過ぎよ」
「そんな問題じゃないわ」
「ふう。なら怨霊はもう使わない。いいよね」
「あなたのことだから、きっとこれ以上教わるなと言っても無駄ね。自分がやっていることが何か、ちゃんと理解して行動なさい」
感情が滲み出そうなほどの視線をお姉ちゃんはずっと私に向けていた。
「あなたのキョンシー、ごめんね」
そう言うとお姉ちゃんと連れてお空が中庭から出て行った。
「あ、あのすいません。こいしさま」
ずっと縮こまっていたのね、お燐。しょうがないわ。なんだかんだ言って怒ったお姉ちゃんは怖いもの。
そっと立ち上がって撫でてやる。
「いいの、お燐。謝ることなんてないよ」
きっとお姉ちゃんは怨霊の心が読めるからこんなに心配したのだろう。怨嗟が詰まった動く死体なんて誰だって怖いもの。もっと綺麗なキョンシー作ろうとしていた予定だから。私の失敗。
お姉ちゃんもあんなに心配してたのはきっとそのせいよね。大事な妹とペットが危なかったんだもの。
決して、怨霊を好奇心のまま玩具にする私が何を起こすのか。怨霊をも恐れさせるお姉ちゃんが心配なわけないよねぇ。
火かき棒を持ってフルスイングして彼女の側頭部にぶち当てたらスープをこぼしちゃったような不快感とボールを思いっきり遠くへ投げたような爽快感が襲ってきてそうして彼女は大きな音と共に転がるものだからうつぶせになってしまいしょうがないから仰向けにするとよく傷の具合がわかり少しだけ目的がかしいだけど気にせず普通の方法じゃ死なないので絶望を与えるようずっと眼を合わせながら火かき棒を振り下ろして振り下ろすたびに振動が伝わってきてぶるぶると手が震えるからその都度握り直しやっぱり振り下ろしてあなたの命は潰れてしまった。
こうして私はお姉ちゃんを殺したのです。
「降霊の術も死体自体を弄る技術もひとまずこれで教えきったわ」
「本当!? 今日からわたしも邪仙かしら」
「まだまだよ。邪仙になるなら口ではとても言えないようなこともしないといけないですし、キョンシー道も奥が深いのです。とりあえず初段はあげるわ、キョンシー製造の」
白い指でつんと額を突かれた。ふわりとした匂いが漂う。くすぐったい。
「火車式死体検定は二段なのに」
「逆に気になるわねそれ」
「おはよー青娥さまー」
「おはよう、今日は早起きなのね」
ぴーんと糸に引かれるように、やはり宮古芳香も不自然な起き方をする。キョンシーってみなこうなのだろうか。
「起きたばかりで悪いけれど、この丹を神子のところまでお願いしてもいいかしら」
「まーかーされたぞー」
丹の入った袋を持って芳香はさっそく跳ねていこうとしたが、工房の入り口で止まってしまった。
「右よ」
青娥がそういうとまたびよおんと跳ねていく。
「ねえ、青娥老師。どうして芳香なの」
「あら、どういう意味かしら」
「芳香は確かに強いけど、関節が曲がりにくいし物覚えも良くない。あなたならもっと性能のいいキョンシーだって作れるでしょう」
「んー、二人以上近くに置くとお互いわたしを取り合ってしまうから……、というのは事実だけれど。彼女は成功作だからかしら」
「どーゆーこと?」
「普通にキョンシーを作っただけだと性格は少しは反映されるもののただの忠実な奴隷になってしまうわ。それが昔は嫌でね、色々頭に手を加えたりしたの。少しは自分で考えるようにね。そうすると恐れるのよ、わたしのこと。そこらへんの人間からしたら生き返らせてくれた恩人というより死体を操る危険人物なのよね。命令は聞いてくれるけど怯えたような視線ばかりで、疲れてしまうの」
疲れてしまう、か。怯えた目つきにそんなことを思うなんて。私が感じていた覚りへの目つきに何を思ったっけ。感じているさとりからの目つきはどう思っているのだっけ。うんざりしているのかしら。スカートの端をちょっとくしゃっとさせた。
「芳香はそんな折に出会った人でね。わたしが怪しい術を使っても怯まず付き合ってくれたわ。そんな良い人ぶりから早死にしたわ。こんな大悪人は生き永らえてるのに、悔しくてね。当時の技術をありったけ注ぎ込んでキョンシーにした。けれど、彼女は人のまま生きたいと言う様な性格で、死に瀕していても仙人になってくれなかった。彼女にまで嫌われるのは怖かったから賭けで感情まで変えようとしたの。そして出来たのが宮古芳香。成功だったわ。生前と変わらない笑顔でわたしに笑ってくれた。でもそれから違う死体に同じ術を施しても好いてはくれなかった。偶然の産物かしらね。だからあの子の頭には手が出せないままというわけ。腐敗は進んでいるけれど、それは千年の愛の証明よ」
見たことのない表情をしていた。今まで見せたことのない表情を青娥がしている。別に特別色っぽいわけでも艶があるわけでもなかったのに、ふっと昔を思い出している彼女の横顔は透明で。うっかりしたら惹きこまれてしまいそうだった。これが彼女の本当の顔なんだろうか。
「でも」
色のない顔に青が戻ってくる。綺麗な水色。毒の色。
「あなたならそれができる。無意識を操るというあなたなら。感情の芯を、心の深淵を操ってどんな子だって生み出せる」
膝に手を乗せる。下からそっと私の顔を覗き込む。桃のむせるような香り。
いつもの彼女。人を落とす彼女に戻った。蠱惑的なあなた、けれども脳には戻ってこない。
どんな子だって生み出せる。私の思うがまま、死体を好きなへ変えて蘇らせる。
その言葉がぐるぐると廻る。
私の恐れた視線を神のように反転させてしまう。好かれ、愛され、包まれる。眼を閉じる前の私の夢見た世界、死者の世界。
それを放棄したけど、今の私が望む世界。無意識世界に逃げ込んだわたしにまだ気をかける彼女、そんな彼女は私に怯えているから。
お姉ちゃんを変える。二人何も言わず通じていたころのような関係へ。またし姉が私を恐れない世界へ親愛をくれる世界へ、その力が今私にあるのだ。
生きた揺れる心は掴むのが困難だろう。死んだ心の沈んだところを刺して押して千切ってキスして。
ねぇ。
お姉ちゃんが死ぬ。死にます。殺すのです。生き返らすのです。
変える。
私に、怯えるあなたを嫌いなあなたを苦しそうなあなたを。
私を、愛するあなたに好きなあなたに幸せなあなたに。
変えてあげる。
かつんかつんと廊下を歩く。地霊殿のステンドグラスから差し込む光で明暗はっきり分かれた廊下、音を響かせて歩く。
「あら、こいし。どうかした」
お姉ちゃんに出会う。眠そうな眼をして紙の束を抱えていた。ぐりぐりと指で髪先をいじっている。
「散歩?」
「家の中で? 変わってるわね」
「変わってるけど変わるから。ついて行ってもいいかな」
「いいけど……、書類仕事をするだけよ」
怪訝そうな顔をしていた。
お姉ちゃんと二人地霊殿の廊下を歩く。かつんぺたりと二つの足音が交互に響く。
窓の光を浴びてお姉ちゃんが歩く。壁の陰を私が歩く。
明るい廊下を私が進む。暗い廊下をお姉ちゃんが進む。
静かだった。いつも聞こえてくる猫の鳴き声も灼熱地獄跡の業火の音も聞こえない。足跡だけがふくらみ、はじける。
お姉ちゃんは私からきっかり三歩前を歩いていく。とんとんとんとそのリズムで隠し持ったナイフで刺せる。
ふわりと飛んで首に手をかけられる。
転がった火かき棒を振るえる。
ハートの弾が胸を貫く。
植木鉢が激突する。
脊椎が折れる。
硝子の破片。
怨霊の毒。
犬の牙。
恐怖。
お姉ちゃんを殺す。何度も何度も殺す。
そうしてそのたび生き返らせる。
キョンシーのお姉ちゃんはやっぱり私に怯えた視線をぶつけたから。何度も何度もやり直す。死体は死なないから幾らでも繰り返す。理想のお姉ちゃんへ、素敵な姉妹へ。
目指して邁進する。
その一歩を今踏み出して――。
「こいし?」
お姉ちゃんが振り返る。
「あなた、泣きそうな顔を」
プーアル茶をそっと啜る。独特な風味が広がった。きっと高級なんだと思う。
うずうずとした感じで青娥が話しかけてきた。
「ねえ、こいし。誰かに試してみたかしら。示した術、心を曲げるキョンシー
の技」
「青娥にゃんにゃん」
「何かしら」
「きっと芳香の心は死ぬ前も死んだ後も変わってないわ。それしか成功してないなら、きっと全部間違ってたのよ」
「でも、彼女は良識溢れる人物だったわ。人を勝手に蘇らせたあげく小間使いにするような邪仙を愛してくれるわけが」
「それだけ好きだったのよ、青娥のこと。たとえ何をされても心から、好きだと思って笑えるくらい」
「言い切るのね」
「根拠もあるわ」
「どうぞ」
「ロマンチックじゃない」
数拍の静寂の後、はあーっとイメージが崩れてしまいそうな溜め息を彼女がついた。
「そうね。きっとそうだわ。ロマンチックを信じないで乙女はできないもの」
そう行って透明な笑顔をつくる。昔のことを話してくれたときの顔。
あんまり見てると本当に恋してしまいそうだったから慌ててお茶の残りを飲み干した。
「青娥さまー、猫が追っかけてくるぞー」
「死体は死体らしく動かないでねおねーさん!」
あらあらなんて言って青娥は立ち上がった。
「また死体談義でもしましょうね」
「うん、遊びに来るよ」
お燐を引き連れて地霊殿へ帰ると甘いいい匂いがした。厨房から流れてくる香りのもとはお姉ちゃんと一緒にやってきた。
チョコチップクッキ―、どうやらちょうど焼き立てみたいだ。
「仕事が終わったら甘いものが食べたくなって」
誰に言い訳してるのだろう。
「お燐は猫だしチョコレートダメよね」
「まさかまさか、女の子の妖獣はチョコレート食べるために人型になるんです。だから大丈夫。おそらく、多分、きっと」
「あー、三人でおいしそうなもの食べようとしてる。燃すよ」
「まあ結局一番乗りはこいしちゃんですがもぐもぐ」
「何先に食べてるんですか、ココアも出すのに」
無意識を使って特急のつまみぐい。お姉ちゃんは渋った顔をしたけれど、親指立ててのグーサインを出すとグーサインで返してきた。
照れくさそうな視線の向こうに、まだ恐怖がある気がした。
けれどもきっと、死のうが死ぬまいが変わらないのだ。芳香も私も。眼を閉じる前の私から閉じた私になったけれど、私がそう思っただけで何にも変わってないのかもしれない。
お姉ちゃんの視線も昔と変わってないんだろう。そう思うと瞳の奥の恐怖はすっかり消えてしまった。
死だとかキョンシーとか無意識とか、別に要らなかったんだ。
そう、術なんて、なんて――。
なんて。
なんで。
――なんでお姉ちゃんの額に符が貼ってあるの?
お燐やお空、もちろんお姉ちゃんを見ても気付いていない。まるで無意識に眼を逸らしているみたいに。
無意識、私は。いや、だって。
頭が焦げ付きそうになって光景が浮かぶ。お姉ちゃんを殺す想像、妄想。
そんなことが、
想像が質感を持って蘇る。荒い息遣い、流れる赤、消える鼓動と意識。
嫌だ嫌だ。これがまやかしでそれが現実なんて。
「こいし?」
あなたはもう死んでいるの? 悪戯だと言ってよ。怨霊で遊んだ私を脅かそうとしたんだって。
ああ、こんなの欲しくない。
じゃあ、じゃあ無意識へ沈めてしまおう。もう呼び起されないような深い所へ。忘れてしまおう無意識の底へ。だって笑顔でいたいから。
本当をさっきみたいに妄想に戻すのだ。それが一番幸せだから。
お姉ちゃんが柔らかい笑顔で言う。
「ココアはまだ熱いから気を付けてね」
「あ、ありがとう」
お姉ちゃんはきっと地霊殿が暖かいから顔が赤いと思ってるんだろうなあ。あなたの笑顔にときめいたからなんて言えないぜ。少なくともこのときは心が読まれなくて一安心。ふーっと息でココアに波面を立てた。
何かをごまかすように。
いや、ハッピーダークエンドか?
恋が死体
さとりさま……
最後にガツンと落としてくる話も心に来ますが、最初からバッドエンド臭全開でストーリー全体に居たたまれない雰囲気がにじみ出てる話も心に来る。
こいしも娘々もいいキャラしていて素敵。
文章に漂うこいしの香りも良かったです
だれうま。
これは素敵なダーティーエンド。どす黒い残酷さとは違う、しかし純粋な酷薄さでもない。
なんなんだろうこのふわふわとした感覚は。
まさしくこいしちゃんを感じる文章でした。
にゃんにゃんと芳香の関係性も、ロマンチックでいいなあ。
話はなんか洗濯船を思い出した。