Coolier - 新生・東方創想話

日輪がまた輝くとき その一

2011/11/22 20:33:50
最終更新
サイズ
123.15KB
ページ数
1
閲覧数
917
評価数
7/24
POINT
1540
Rate
12.52

分類タグ



目次.

1.古代日本の戦争/2.斑鳩宮の聖童女/3.日本皇
4.物部の娘/5.聖徳太子の奥様/6.物部と蘇我の闘い
7.穂積天然要塞の死闘・前/8.穂積天然要塞の死闘・後/幕間.山道にて







 書物というのは便利なものである。
 文字に残すことによって、自分たちの歴史や文化、思想……あるいは魂というものを後世に伝えられるからだ。
 しかし、受け取る側は注意しなければならない。
 その文章というのが、真に事実を伝える“正しさ”を持っているかどうか、という点についてだ。
 もしかしたら筆者が自分に都合の良い歴史を残そうとして書いたものかもしれない。あるいは創作のつもりで書いたものが史実として捉えられたり、書き写され受け継がれていく間に本来とは別の意味になったりしたのかも……。
 凡夫のみならず、博識な賢者、高名な学者、あるいは幻想の創造主さえも、その異なる歴史書の綴り手になる可能性があるのだ。
 そうして事実とは異なる内容を記した書が、貴方の手元にもあるかもしれない。
 例えば貴方が次のような事柄を書から学び、そして事実だと思っているのなら、残念ながらその書は破棄すべきだろう。
 ――私の事を、単なる政治家であるとか、仏教を広めた人物であるとか、男であるとか。そう学んだのならね。




1.古代日本の戦争





 この国が戦乱によって最も荒れていた時代。それは群雄割拠する戦国時代でも、国の命運を賭けた世界大戦のさなかでもない。実は、この飛鳥時代であった。
 日本がまだ「大和」という国であった時代。各地の有力な武士もののふが組織した武装集団は、やがて豪族と呼ばれる政治的権力を持つ軍隊となった。
 そして豪族らは、互いの土地と権力を奪い合うために合戦を始めた。土地は血に染まり、民は啜り泣き、それでも彼らは「大和」という国をその手に掴み取る為に戦い続けた。

 ここにもまた、戦火が灯る。
 有力豪族の一つである葛城氏と、最近になって力をつけてきた蘇我氏の合戦である。
 山の上に陣を構える葛城宿禰すくねの軍は、麓に広がる森に潜んだ蘇我の軍勢へと容赦ない攻撃を続けていた。
 もとより蘇我から仕掛けた戦い。攻城戦になるのは分かっていたはずであるが、蘇我は攻め手側の不利を覆せていないようだった。

「……張り合いがないのう」

 葛城の総大将である宿禰が、心底つまらなそうに漏らした。
 力こそ全て、という世界を生き抜いてきたのが豪族の首長たちである。この宿禰も例外ではなく、彼は指揮官というよりは先陣を切って戦う武士であった。そして何より『強き者との戦い』を望む、言ってしまえば戦闘狂の類。
 だからこそ、ただ山の上から矢を降らすだけで終わりそうな、自らの豪腕が活かされぬ今回の戦いを憂いていた。
 しかし、そこで脇に控えていた参謀役が、ひっそりと耳打ちをしてくる。

「宿禰様。しかし蘇我はまだ油断がなりません。奴らには“戦神”がいます」

 その言葉に宿禰は眉をひそめ、しかし嬉しそうに聞き返す。

「……戦神? なんだそれは」

 参謀は表情を硬くし、ゆっくりと頷いた。

「蘇我の擁する武士です。弱小豪族であった蘇我が、最近になって急激に勢力を伸ばしている裏には、人ならざる力を持つ……戦神の活躍があると言われています」
「しかし、見ろ。蘇我の兵はもはや疲労困憊、息も絶え絶え。戦神とやらの影は微塵も見えぬ」
「……蘇我は今、別所にて息長氏とも合戦を交えていると聞きます。もしや、戦神はそちらで戦っているのかもしれませぬ。……息長氏との戦いが終わり次第、こちらに向かうとしたら……?」
「ふん。それこそ我の望むところよ。例え、そんな奴が来たとしてもなぁ。……我の剣の錆にしてやるまで!」

 宿禰は叫び、腰の長剣を威勢良く抜いて豪快に笑った。本陣の葛城兵たちは、我らが将のそんな豪胆さを見て安心する。そして釣られるようにして笑いだすのであった。

 ――その時ちょうど、麓の蘇我陣営にて動きがあった。その意味を宿禰が知っていれば、彼らはこのようにして笑うことなど出来なかっただろう。



   ◇   ◇   ◇



「神子様!」

 先ほどまで、戦いに疲れきっていた者が発するとは思えない、生気と希望に満ち溢れた声が、森にこだました。
 その“原因”が兵士の間を静かに歩いて行く。ゆるりと森の中を歩く姿を見て、兵たちは次々に頭を下げ、あるいは歓声をあげる。
 ここまで兵に慕われるという事は、よほどの武士なのであろうか。

 いや、その人は――彼女は武士ではなかった。

 この血なまぐさい戦場には全くもって似合わない、静謐で清らかな美しさ。ただ手に持った長剣だけが、彼女の戦う意志を表している。――それさえなければ、まるで彼女は空から舞い降りた天女か、あるいは皇女か巫女か、とかく貴き人のようにしか見えない。

「おぉ、なんと神々しい……」

 目の錯覚であろうか? 兵士たちには彼女の身体が淡く輝いて見えていた。
 否、幾つもの戦場を彼女と共に駆けてきた彼らは知っているのだ。――それが錯覚などではないと。

「みなさん。駆けつけるのが遅れて、すみません。……さぁ、立ち上がりましょう!」

 蓮の花びらが水に落ちたかのような、涼やかで軽やかな、しかしはっきりと心の奥まで届く――そんな声が兵士たちの耳に入る。
 すると、今まで木にもたれかかっていた手負いの者たちが、あるいは仲間の亡骸のそばで打ちひしがれていた者たちが、すっくと立ち上がり武器をその手にとった。

「勝利の時は来ました。我が丙子椒林の剣に続き、葛城の軍勢を打ち倒すのです!」

 その言葉が終わると同時に、森の中を雄叫びが支配する。さきほどまで天上から降り注ぐ矢の雨で完膚無きまでに叩きのめされていた軍勢が、まるで常勝の兵であるが如く、覇者の気勢に包まれるのだ。
 少女がゆっくりと森を出ていった。その後ろから、蘇我の兵たちが鬨の声を上げながら随行する。――それはまるで勝利の凱旋。

「葛城の軍勢率いる、葛城宿禰殿! 聴いて頂きたい!」

 山の上にある敵陣の方へ、少女が声を上げる。その言葉は風にでも乗ったのか、不思議と山全体に響き渡った。

「私は豊聡耳神子。蘇我軍の大将である。――貴殿との一騎打ちを望む! 無用な殺生は望まぬ!」

 それを聞いた葛城の本陣はざわめいた。あと一歩まで追い詰めた敵から、まさか一騎打ちを申し込まれるとは。
 そんな馬鹿げた提案があるものだろうか。誰が受けて立つというのか。
 しかし一騎打ちを愛してやまない宿禰は「それも良いが」と一旦は腰を上げる。
 だが。

「いや、しかし。劣勢だからといって、一発逆転に賭けようとするのは……情けないわなァ。気に入らん」

 どっかと地面に腰を降ろすと、すぐさま側近に命じた。あの煩く叫んでいる軟弱者を、矢で射殺せと。
 命令はすぐさま弓兵たちに伝わる。また大将が危ない橋を渡ろうと心変わりする前に、さっさと射殺してしまうのだ。葛城の兵たちはそう考えて嬉々として矢を番える。

「一騎打ち……乗りませんか」

 神子は返事がないのを受けて、残念そうに呟いた。彼女は依然、山の入口にて無防備に立っている。そして葛城の軍勢は、彼女へ向けて一斉に弓を引く。
 風を切る、ぴゅるりという音と共に、空を覆いつくさんばかりの矢の雨が降り注いだ。

「……仕方あるまい」

 神子は空を見上げつつ、冷静に呟いた。あと数秒もしないうちに、その柔肌を無数の鏃が突き破ってしまうというのに。
 彼女は至って静かに、ただ棒立ちのままに目を閉じた。

「おぉ……戦神様」
「我らが戦神。蘇我を勝利に導く者よ」

 兵士たちは感涙するような勢いで、彼女へと祈りを捧げた。
 分かっているのだ。今までの戦いでもそうだった。彼女に矢の雨などは、効かない。

「日輪よ、我を護りたまえ!」

 叫ぶのと同時、神子の背後に大きな光の輪っかが現れた。
 それはちょうど、天から降臨する神が背負う後光のような形。日輪は強い光を発しながら次第に大きくなり、神子の身体を眩い光で包み込む。
 降り注いだ凶悪な鏃の群れは、その光の中に入り込むと、まるで最初から無かったかのように消滅していった。全ての鏃が日輪の中に消え失せたあと、そこには淡い光を湛えた神子だけが残る。
 敵も味方も静まり返り、そこには争いが存在しない。ただの静寂が広がる。

「……戦いましょう。全ては……良き国の為に」

 神子は愛刀を鞘から引き抜き、祈りを捧げるように両手で握った後、そして切っ先を天に向けた。本物の太陽の光が、その美しい刃を輝かせる。
 彼女が、それを振り下ろした――のと同時に。

「全軍突撃ッ!」

 今までの歓声が序の口であったと言わざるを得ない、男たちの覇気が大地を揺らす。
 そして、その先頭を疾走するのは神子。彼女の足は馬より速く、流れる風のような流麗さで戦場を駆けていく。
 最低限、目の前に立ちはだかる兵を斬り捨てる。出来るだけ人死にを出したくないという彼女の言葉は真意であった。だが、いざ斬らなければならないとしたら、一切の容赦なく敵は屠る。
 美しい少女の姿にはひどく似合わない長剣。刃に刻まれた文字より「丙子椒林剣」と呼ばれるそれは、まるで鎌鼬のように葛城の兵を切り裂き、一閃にて沈めていく。
 神子の号令より一分もせずに、その剣は葛城の本陣に辿り着いた。使い手はそこでようやく動きを止めると、陣の奥に待ち構えていた宿禰に切っ先を向ける。

「葛城宿禰ですね?」

 宿禰は追い詰められていた。圧倒的優勢からものの数分、圧倒的劣勢、圧倒的危機。しかし、その顔は笑っている。この未だかつてない強敵の出現に。

「来たかッ! 戦神!!」
「いかにも、我は蘇我を勝利に導く者! いざ、勝負!」

 神子の蹴った地面から、爆発したように土塊が舞い上がる。彼女の身体が再び、神速の領域に達した。その姿はもはや周りの兵には捉えることなど出来ず、かろうじて認識出来たのは歴戦の武士である宿禰だけであったろう。
 そんな彼にとっても、それはあまりにも一瞬の事であった。

「吻ッ」

 気合一閃。神子の振り払った刃は、宿禰の構えた剣と彼の首をまとめて切断した。
 総大将の首が宙を舞う。周りの忠臣たちが目で捉えられたのは、その光景からがやっとだったに違いない。

「勝敗は決した。我らの勝ちである」

 宿禰の身体が崩れ落ちるのと同時。敵本陣のど真ん中で行われたその勝利宣言に、異を唱えるものは誰もいなかった。



 ◇  ◇  ◇



 占領した敵陣から、すでに勝敗の決した戦場を見下ろす。
 絶対的な総大将を失った葛城の兵士たちは戦意を喪失し、次々と蘇我兵に捕らえられていく。
 丙子椒林剣を鞘に収めた神子は、ひとつ溜息をついた。

「どうした? 勝利した戦神には似つかわしくない溜息だな」
鵜眞うま。……分かるでしょう?」

 神子へと話しかけた男。彼女より二回りほど年上の彼は、その痩せぎすな身体を品のよい衣装で包んでいた。
 戦場には似つかわしくない格好なのも当然である。彼こそが蘇我氏を率いる男、そして神子の盟友である蘇我鵜眞なのだ。

「宿禰を殺さずに戦を終わらせたかった……。そういう事かな」
「ええ。私は彼に恨みがあるわけではなかった。ただ蘇我が力をつける為に、この地方の覇権を争う相手として選ばれただけ……。出来るなら降伏して欲しかったのです」
「お前ほどの武士が持つ、途方もない力の差を見せつけられても……。氏を束ねる者、戦わずしてひれ伏すことなど選べはしないのだ。彼も最後の相手が、お前で良かったと思っているはずだろう」

 鵜眞は幼少の頃より、この神子という少女と知り合いである。
 否、知り合いどころか、鵜眞にとって神子は養娘のようなものだ。その関係は義理の親子に近い。
 だから鵜眞は、彼女がその身につけた強大な力に相反して、無用な殺生を好まないことを知っていた。

「我ながら非道い男であると思うよ。お前が争いを好まない性分である事を知っておりながら、我が軍の総大将を務めさせているのだから」

 鵜眞は自嘲気味に言った。それを神子はすぐさまに否定する。

「いいえ、鵜眞。私は望んでやっている。私と鵜眞の目指すところは同じ、未来永劫に平和で豊かな国を作ること……。その為に、まずは蘇我がこの国を治めなければならない」
「……ああ。神子には戦いの才と同じくらい、いや、それ以上に人を治める才がある。早くこのような血生臭い場所からは、お前を遠ざけてやりたいものだが」
「でも、これで蘇我は大きく力を付けることが出来ましたね。戦いの終わりに、また一歩近づけた」
「そうだな。これで残る障壁は物部氏くらいなものか……。物部杜矢とは以前に調停を結んだが、それをこちらから破棄する時がこようとはな」
「……感無量、と言って……いいのかしらね」

 今、大和の国は最大の戦乱を迎えようとしていた。
 鵜眞と神子が率いる新進気鋭の蘇我氏。古代より神々の血統として大和を治めてきた物部氏。
 この二つの勢力が、国を分かつ決戦の時を迎えようとしているのだ。




2.斑鳩宮の聖童女





 豊聡耳神子は多くを望まない。
 彼女とて人並みの欲はあるものの、それによって人格を左右される事は、純然たる悪だと理解しているからだ。
 そんな彼女が望んだ数少ない物の一つが、この斑鳩宮である。
 平たく言えば神子の宮殿。しかし、彼女が作り上げたのは豪勢な住処ではなく、静かに落ち着いて過ごせる静養地のようなものであった。彼女は戦がない時期、この斑鳩宮で心と体を休める。
 彼女の生来の性格として、一人でいるのは苦ではなかったが、その人徳の所為か、この宮にはひっきりなしに客が来る。

「太子様! おかえりなさい!」
「ああ、留守を預かってくれていたのですね。ありがとう、布都」

 帰ってきた神子を最初に出迎えたのは、神子よりも背と歳がちょっと下の少女。物部布都であった。
 布都は斑鳩宮の客――というよりはむしろ住人である。
 戦で宮を空ける神子よりも、よっぽどこの地で過ごす時間が長い。

「あれ? 鵜眞殿は?」

 布都はキョロキョロと周りを見渡し、人を探しているようだった。

「ああ、彼なら戦後の処理に残りました。……なんだ、君も夫の事は気にするのですね」
「違いますよー。鵜眞殿とは土産を買ってくるって約束をしたんです。……なんだ、がっかり」
「ふふ、彼は忙しいですからね。私と違って、敵を倒してそれで終わりという訳ではないですから」

 この物部布都は、蘇我鵜眞の妻である。
 といっても会話の通り、布都と鵜眞はお互いを夫婦だとは思っていない。かといって関係が悪いわけではない。――歳の通りに父と娘、または兄と妹くらいの感覚でいるのだ。

 では、なぜ彼らは夫婦という立場になったのか?

 布都は元々、今や蘇我の最大の敵となった物部の人間である。しかも、氏を束ねる物部杜矢の実の妹だ。
 以前、蘇我氏が物部氏に停戦調停を求めたことがあった。――勢力を伸ばした結果、成り行き上で開戦したものの、互いに別の有力豪族とも戦を交えており、それどころではないという状態になってしまったからだ。
 その時に、鵜眞は自分の娘を、杜矢は自分の妹を嫁がせることで互いに“人質”を相手方に送り込んだのだ。そのおかげで調停は穏便に成立した。
 そういう訳で物部布都は調停の為の人質として、蘇我鵜眞の妻となったのである。

「それで、太子様! 今度の戦はどういった具合でしたか?」

 布都はその小さな身体をそわそわと揺らしながら、満面の笑みで尋ねた。

「土産の代わりに土産話を……ですか。ただ、面白い話ではないですよ?」
「いいんです。我は太子様の活躍を聞くだけで、とっても楽しいんです。わくわくします!」
「変わった子ですね、君は。戦の話を聞いて目を輝かせるなど……」
「だって、ただの戦じゃないでしょう? 太子様の目指す素晴らしい国へ向けて、一歩一歩進んでいく……。その過程なんですから! ねぇ、太子様ぁ、いいでしょ?」
「……ふっ。分かりました。お話しましょうか」

 神子にとって弱点があるとすれば、布都がその一つとして数えられるだろう。
 なにしろ、こうして彼女に何かをねだられると、神子はついつい応えてしまうのだから。

「今回の戦いは時間との戦いでもありました……。何せ二箇所で同時に戦が始まってしまいましたからね。ところが私の身体はひとつしかない。手早く片方の戦を終わらせ、もう一つの戦へと駆けつける事が求められました……」

 布都は目をまん丸くして、食い入るように話を聴いた。
 彼女は神子の話を聞くのが大好きであった。物部の人間である布都が、蘇我での暮らしを苦痛と感じてはいない――むしろ、こうして楽しんでいる――それは神子のおかげによる所が大きい。

 そんな神子と布都が出会ったのは、数年前の事であった。
 神子が蘇我軍を率いる者として、そこそこ名を知られ始めた頃。

「妻の遊び相手を探しているんだが」

 そう言って鵜眞が、斑鳩宮に布都を連れてきた。
 鵜眞いわく――嫁としてもらったはいいが、歳も離れた上に多忙な自分では、布都にかまってやる事もできない。そして本人は気にしていないようであるが、自分の周りには蘇我の人間が集まる。物部の血筋である布都を疎ましく思う者もあろう。それではあまりにも可哀想である。
 ……という配慮のもと、歳も近く女同士だから遊び相手になってくれ、と神子に白羽の矢が立ったのだ。
 言われた当初は『随分と適当な人事だな』と神子は呆れた。しかし鵜眞からすれば、神子に任せておけば間違いはないだろう、という絶大な信頼があった訳であり、天性の察知でそれを薄々と感じてしまえる神子は、彼の期待に応えようと引き受けたのである。
 そんな理由で出会った二人であるが、布都と遊んでやるのは神子にとっても悪いことではなかった。戦続きで疲れ果てる生活の中で、彼女と遊ぶ事はひと時の安らぎを与えてくれるのだ。
 天涯孤独の身に近い神子にとって、妹のような存在である布都は、唯一気兼ねなく話せる相手となった。

「……そして、私は葛城宿禰を倒したのです」

 神子の話が終わると、布都は手を叩いて大はしゃぎする。

「おぉ! 流石は太子様! 太子様がいる限り、蘇我軍は無敵ですね!」
「そんな事はありませんよ。私はあくまでも一個人に過ぎません。蘇我の勝利は、鵜眞や大勢の武士がいてこそ……」
「この調子でいけば、蘇我氏が大和を治めるのも時間の問題! そうすれば、太子様が統治者となるのですね?」

 布都が期待に目を輝かせているので、少々心苦しいながらも神子は首を横に振る。

「いやいや、私はあくまでも軍の総大将をしているまで。国の統治は君の夫が、鵜眞がやることですよ」
「え~。我は太子様が国を治めるのが良いと思うなぁ。だって、太子様とお話するのって楽しいもの」
「ははは、話が楽しければ国を治められる訳ではないですよ」

 と、そこで。
 無邪気に笑っていた布都の顔が、すっと真剣味を帯びる。

「でも、太子様も分かっておられるのでしょう? 自分が人を統べるべくして生まれたのだと」

 神子は心臓が高鳴るのを感じた。
 そして「まったく、この娘は時たま異様に鋭い時がある」――と、心中呟く。
 それもそのはず。布都はただの姫ではない。以前は大物忌という高位な神職を務めていた上、物部の直系血族である――つまりは古代日本の神の血を色濃く受け継いでいるのだ。どちらかといえば、神子と同じ「非凡」な部類の人間に入るわけである。
 普段見せている『無邪気な童』の振る舞いが演技という訳ではないのだろうが、布都には二面性があると神子も感じていた。
 そして“こっちの布都”には、いつもやっている子供をあやす様な舌先三寸が通用しない。だから神子も心して答える。

「……私も、その気がないわけではない。しかし、私を育ててくれたのは鵜眞です。その鵜眞を差し置いて……私が人の上に立つなど」

 人は、己が何を為すべきか、その答えを必ずしも知っているとは限らない。
 だが神子は知っていた。己の力が「人を統べる」為にあるものだと。そして、自分なら国という人の集まりを導き、平和な世を作れるのだと。
 その才能と資格があると、理解していた。

「風の噂で聞きました。太子様は元々高貴な生まれのお方……。それが故あって馬小屋に捨てられてしまったと」
「……それを知っているから、君は私の事を太子と呼ぶのでしょう? なら分かるはずです。そんな私を拾ってくれた鵜眞に、私がどれだけ感謝しているのかを」
「鵜眞殿は聡明な方です。太子様が人の上に立つべきお方だと、分かっているはず。そして分かっているならば、自分から身を引いて太子様を王とすべき。なんなら、私が説得しましょうか? 一応、妻ですし」

 布都の言葉に、神子は思わず声を大きくする。

「なりません! ……私はあくまでも鵜眞の手足となって動く、駒でいたいのです。――幸いにして彼と私の思い描く理想郷は一致しています。彼の覇権を手伝うことが、私の理想を叶えることにもなるのです」

 神子の話にも、しかし布都は首を縦に振らなかった。

「太子様。あなたには才がある、格がある。そして、それに伴うのは責務です」
「……それも、分かっています。私は人の上に立ち、導く責任があると」
「それでも鵜眞殿の為に?」
「いや……それだけでは……。鵜眞に遠慮しているだけでは、ないのかもしれません」

 気付けば、斑鳩宮の庭を夕日が照らしていた。白砂が真っ赤に染まり、そこに広がる風景はまるで曼珠沙華の園。
 中庭に降りた神子は腰の剣に手をやりながら、沈みゆく太陽を眺める。
 その神々しい姿に、思わず布都は膝をついた。そして頭を垂れて、乞う。

「太子様、どうか教えてください。あなたの心を縛り付けているのは、一体何なのですか? 我にその悩みを、少しでも分けては下さりませぬか? 我は……あなたの力になりたいのです」
「ありがとう、布都。……でも、この憂いは……まだ口には出来ません」

 申し訳なさそうに呟くと、太子は静かにその場を離れていく。

「太子様……」

 一人残された布都は、ぐっと拳を握った。
 もし、己が男であり武士であったら。神子と共に戦場を駆ける事が出来たなら。――その憂いを自分に話してくれたのではないかと、忸怩たる思いに駆られる。
 ただ姫として皆から愛される立場である事が、彼女には我慢ならなかった。

 物部布都は、太子の役に立ちたかったのである。




3.日本皇





 葛城氏を打ち倒した戦より、すでに三月ほどが経っていた。
 もはや物部氏との二強になった蘇我氏のもとには、周りの弱小なる豪族たちが「配下にならせてくれ」と頭を下げにくる。それは物部氏にしても同じで、勢力の二極化は歯止めが効かず、いよいよ大和の権力はこの二氏が分かつことになった。
 こうも周りの豪族たちが軍門に下るのは、鵜眞の内政の上手さもあるが、何よりも神子の存在が大きかった。
 どんな劣勢の戦場においても、その“戦神”が降臨すれば蘇我が勝利する――
 そんな神がかり的な逸話が大和中を駆け巡り、零細な豪族からすれば蘇我と争う意欲すらもなくなるという訳である。
 ここまでは、鵜眞と神子の思惑通りであった。

 ただ一つ、誤算があるとすれば――それは大和王だ。
 もとより大和という国は王が治めており、豪族たちはその手足として戦をする存在であった。
 王の力が弱まり形骸化し、豪族たちが勝手に領土を分け合ったことが戦乱の始まりであるが、依然として民たちの間では王を敬う気持ちが強い。
 そして物部氏は古来より王との結びつきが強く、今もその背後には王の存在がある。そして王より「民の求心」という強大な力添えを得ているのだ。

 問題というのは、最近になって、王が蘇我の急進について拒否反応を示したことである。
 曰く――王に反逆する蘇我氏を許すな。
 今や何の軍事力も持たなくなった王が、明確に特定の氏を敵対視するのは、初めてで異例のことである。
 鵜眞としては当初、物部氏との戦いで優勢に立った時点で、お飾りの王に「物部氏に代わり、蘇我氏を王の直属とする」と強制的に明言してもらい、それで大和を影から治めるつもりであった。
 だが、王がここまで強い拒否反応を示し公言しては、それは叶わないだろう。

 ここまで順調であった道筋が崩れ、鵜眞は頭を悩ませた。
 戦は神子に任せ、都にて蟄居して一から計画を練り直すことしばらく。
 そして長い時間をかけ、彼はようやく新しい道筋を描き出した。それを伝える為に今宵、神子を邸宅へと呼び出したのだ。

「お邪魔します」

 蘇我の都にある鵜眞の屋敷。
 やってきた神子を出迎えるのは鵜眞本人。
 彼は住処に見張りの兵などを置くことを嫌っていた。

「よく来てくれた。軍の会議があったのだろう? 疲れたところで悪いな」
「いいえ、大丈夫ですわ。それより鵜眞……話とは一体?」

 居間にて座した二人の間に、緊張感が漂う。
 今や国の半分に影響力を持つ二人の密談だ。
 どんな凄まじい話が出てきてもおかしくない。
 鵜眞が真剣な顔つきで、静かに切り出した。

「神子……頼みがある……」
「……なんですか?」
「頼みづらい事ではあるのだが……」
「何を今更。何でも言ってください」
「分かった……では……」
「はい」
「男になってくれ」

 沈黙。

「んっなァ!? っにっを、言ってるんですか!」

 神子の手刀が鵜眞の頭頂部を突いた。

「あててて……。何をする神子? 無意味な暴力などお前らしくもない」
「無意味じゃないでしょう。変な冗談を言うものだから……」
「冗談では、ない」

 鵜眞の落ち着き払った態度と、真に迫る言葉。神子は彼の言うことが本気であると感じ取った。
 神子は咳払いを挟んでから、気を取り直して足を組む。

「どういう事ですか?」

 僅かな沈黙を挟んでから、鵜眞はゆっくりと言葉を紡いでいく。

「神子。お前に……王になってもらいたいのだ」

 おう、おう、王……。
 その言葉を頭の中で何度か繰り返し、神子は理解と同時に愕然とする。

「……気は確かですか?」
「確かだ。大和王とは別に……全く新しい、国を治める王……。日本皇を創り上げる」
「……馬鹿な。そんなの、上手くいくはずがない。民も武士も、私だって納得できない」

 あまりにも突拍子もない発案。
 だが、鵜眞が冷徹なまでの現実主義者だと知っている神子は、それが冗談には聞こえず、逆に寒気がした。
 この人は、この国を一から作り直す気なのか、と。

「今の大和王だって、その興りは権力者が勝手に名乗り始めた……それだけに過ぎぬはず。……力あるものが担ぎ上げれば、民は勝手についてくる。そういうものだ」
「そんな……。そ、それに、私が王になるとしても……。それが、なんで男になるって話に……」
「お前はあまり女らしい身体つきではないからな、男と偽ってもそう疑念は持たれまい」
「し、失礼なっ。……いや、そういう事ではなくてですね……」
「冗談だよ」

 鵜眞は娘をからかう父親のような、余裕を持った笑みを浮かべながら言葉を続ける。

「昔は……。そう、神子が尊敬している卑弥呼だったかな。確かにああいった女王が存在していた。だが、今は武士の時代だ。血と鉄が力の時代であり、神の力は薄れてきている……。女が王になることが許されない時代がやってきているんだ」
「……そういった展望については、私は鵜眞を絶対的に信用している。……女が王になるのが向いていないのも、確かだとしましょう。だけれど、なんで私が男と偽ってまで王になるのです? 王に向いているとしたら、鵜眞を置いて他にないでしょう」

 そこで彼は首を横に振りつつ、愉快そうに口ひげを揺らした。

「馬鹿を言ってはいけない。私は根っからの裏方だ。それに歳を考えても、そう長くは生きられないだろう。対してお前は若いし……。なによりお前ほど王に向いている人を、私は知らない」
「いや……」

 否定しようとする神子の言葉を遮り、鵜眞は続ける。

「この武士の時代、まず王は強くなくてはならない。その点について、自分を卑下する気はないだろう?」
「う、まぁ……。そういう意味でなら」

 自らの掌を、二、三度握りしめてみる。
 この手で何人の敵を倒してきたか。何度の戦を勝ちに導いてきたか。
 それすらをも否定すれば、それは倒してきた相手への侮辱にもなりかねない。

「次に。武士の時代といっても、やはり王に多少の神性は必要だ。……お前は敵味方から、何と呼ばれている?」
「戦神……」
「そして、何より! 王には人を惹きつける力が必要だ。お前が兵から慕われ、布都に懐かれているのは、強いからではない。――お前の人柄だ」

 そこで神子は自らの両耳を塞いだ。
 固く目をつむり、ぐっと唇を噛む。

「……や、やめてください。鵜眞の言葉を聞かされると、自分が王に向いているんじゃないかって……錯覚してしまう」
「錯覚じゃない。己を過小評価するな。いや、自らの能力から逃れるんじゃない。お前は、豊聡耳神子は、王になるべくして生まれたのだ」
「……鵜眞」

 神子は耳を塞いでいた両手を離し、そして静かに鵜眞を見た。
 そして問う。長年、ともに歩んだ盟友に。そして父親代わりの人に。

「鵜眞が私を拾って育ててくれたのは……。私が王になる人だと、見抜いていたからなのですか?」

 静かに問うた神子の言葉は、彼の心臓を高く鼓動させた。
 蘇我鵜眞は感じ取る。これは戦神、あるいは豊聡耳神子としての問いですらない。――ひとりの少女が、父に聞いているのだと。
 きっと、この質問に誤った答えをすれば、自分の手元から神子というかけがえのない存在が消えてしまう。そのような予兆を感じ取れる程度には、鵜眞にも研ぎ澄まされたものがあった。
 だが彼は一切の思慮をせず、ありのまま、ただ事実を伝える。

「私は捨てられたお前を見た時、一目で“この赤子は、ここで死ぬべきではない”と思った。だから、拾った。……それだけだ」

 この答えが神子を納得させたのだろうか。
 それは分からない。ただ彼女はその答えをひっそりと胸の内にしまうように、眼を閉じていた。

「……そう。ねぇ、鵜眞」

 神子は頷き、そして微笑んだ。
 敢えて喩えるとすれば、綿のようにやわらかく、見る者の心をじんわりと溶かすような、ふわりとした微笑み。

「なんだ」

 鵜眞は常日頃思うことを、反芻していた。
 神子の微笑みは全てを包み込むような優しさがある。
 これこそが、民を容易に従わせることが出来て、そして何より民を救うものだと。
 だから自分は彼女に賭けている。己が覇権を握ることは、彼女を王にさせる近道になる。――だから鵜眞は戦うのだ。

「卑弥呼という女王の話は、鵜眞から聞いたのでしたね」
「ああ、まだ神子が十もいかないほど昔。歴史を学ばせる一環で話したな」
「ええ、彼女は素晴らしい人だったのでしょう。神の力を借りて、民をひとつにまとめた。そして平和な国を作り上げた……。私がそれを聞いた時、なんと言ったか憶えていますか?」

 鵜眞はその問いを耳にして、何か納得したかのように答えを返す。

「“ならば何故、今の世はこんなにも戦いに溢れているのでしょうね”……だったか」
「……そう。卑弥呼という素晴らしい女王が、素晴らしい国を作った。それでも、未来である今は、また戦いの繰り返し……。つまり卑弥呼が死んだ後は、全てが元通りになってしまったのです」
「良き統治者がいても、それが死んでしまっては、良き国は続かないという事だ。あるいは良き統治者が、いつまでも良きままでいられるとは限らない。……それは、人間である以上は仕方のないことだよ、神子」
「それでも私は……。太陽は永遠に昇り沈み。川は悠久の時を流れ。大地は永劫静かに横たわり。なのに国は……国はやがて滅ぶ。たとえ私や鵜眞が良い国を作っても、私たちが死んだ後にはどうなるか分からない。いいえ、きっと滅ぶのでしょう? それが――」
「それが、耐えられない」
「……ええ」

 神子は弱みを見せない。
 それが絶対的な崇拝対象になるべくして、鵜眞の望む通りに育てられたから。――と言ってしまうのは簡単だ。
 普通の人間は、育てられただけでは完璧になれない。
 彼女は生まれた時より、そういう人間であったのだ。人の悩みや苦しみを静かに聞き、微笑みをもってそれを癒す。貴き人であったのだ。
 だが彼女の中にも闇はあった。闇というにはあまりにも儚く、清らかな悩み。
 それが自らの死した後、自らの国の民のことを思っての事だった。

「……驚いた。私はまだまだ、神子という人のことを見くびっていたらしい」
「茶化さないでください」
「いや、それほどの気高さを持っていたとは。私のようなただの政治屋には、到底たどり着けない境地だ」
「でも鵜眞とは……何度も国造りについて語り、お互いの理想が一致していると信じています」
「私の場合は、自分が作る国の事だけだ。神子のように自分が死んだあとの事までは、考えが及ばないさ」
「私は理想を語っているだけだからでしょう。鵜眞のように実際に国を作っている訳ではない……」
「神子!」

 突如として鵜眞が大きな声を出したものだから、神子は思わず肩を跳ね上げた。
 それに構わず、鵜眞は言い聞かせるように、静かに語りかける。

「自らの死した後のことまで考える、お前の理想は確かに素晴らしい。だが今はまだ、国を作り上げられるかどうか、必死に戦っている最中なのだ。まずは私たちの国を作ろう。悩むのは、それからでも良いだろう?」

 確かに鵜眞の言う通りではある。
 まだ国を獲る事すらできていないのに、自分の死した後の事を考えるなど、とんだ夢想家だ。
 しかし、彼女は理解しているからこそ悩むのだ。きっと自分たちは、この国を治める事になる。

「……すみません、鵜眞。私は……私はどうしても……」
「難しい話だ。後継者が自分と同じくらいの能力を持ってくれるとは限らない。特に神子ほどの才覚となると、尚更な。……うむ。こうなったら、私たちが不老不死にでもなるしかないか。……はっはっは!」
「ふっ、今日の鵜眞は鵜眞らしくないですね。冗談など……」

 自らを励ます為の軽口であると、神子は分かっていた。だから気持ちを切り替え、その場では明るく振舞う。

 そして後日、神子は彼の提案した日本皇の立ち上げ、そして自らが男としてその地位に就くことを承諾する。
 しかし、この時。
 鵜眞の口にした「不老不死」という言葉は、彼女の心の中に一つ、鉛のように重い不純物を落としていたのである。
 それには誰も気付かない。鵜眞も神子も、誰も。




4.物部の娘





「……はッ……ふッ……!」

 掛け声と共に振るわれる剣は、鍛錬用に造られた木偶を次々と斬り捨てる。
 少女が握るのは、その細腕とは対象的な直刃の大刀である。流麗な動きで舞いのように剣を操るかと思えば、力強く丸太のような太さの木偶を斬り捨てる。その矛盾の同居は、人間離れしており、美しい。
 事実、それを斑鳩宮の廊下から眺めていた布都は、見惚れてしばらく呆けていた程だ。

「……ふぅ」

 鍛錬を終えた神子が大刀を鞘にしまいながら、布都の方へと戻ってくる。

「あっ、太子様! 見事な太刀筋でしたね!」

 布都はハッとすると、用意していた布を慌てて渡す。
 受け取った神子は汗を拭い「ありがとう」と返した。
 それを見て布都は満足気に頷く。

「それにしても立派な剣ですね。太子様によく似合います!」
「そう言ってもらえると嬉しいです。これは私が剣の師から受け継いだ、大切な物ですから」
「……そうなんですか。太子様にも師が?」
「当然です。私は何も生まれた時から、今の力を持っていた訳ではありません。政は鵜眞より、剣は椒林から学んだのです」

 布都はピンと来た。剣の刃に刻まれた「丙子椒林」という文字の意味については、以前より気になっていたからだ。

「あっ、知ってますよ。その剣って丙子椒林剣っていうんですよね。剣に師匠の名前を入れるなんて、太子様はよっぽど師匠を尊敬しているんですね!」
「あ、いや。この剣の名前は、師匠が自らつけたのです。私が名付けた訳では……」
「自ら? 剣に自分の名前をつけたんですか? 結構、自分好きな方だったんですねぇ」
「いえ、違いますよ。この文字には深い意味が込められているんです。――ちょうど良い。息が整うまで、師匠の話をしてあげましょう」

 それは神子が、十にも満たない時のことであった。
 当時、蘇我鵜眞は悩んでいた。神子が持つ溢れんばかりの才を、どのようにして活かすべきか。
 人に慕われる才覚、人を導く才覚。そして神聖さ。彼女を王の立場へと据える事を、鵜眞は特に違和感もなく己の使命だと感じていた。
 だがそれと同時に、彼女が戦の才も持っていることを知り、困惑した。如何せん、自分は戦がてんで苦手だ。戦略なら得意、戦術もある程度はかじった事がある。しかし自ら戦う事になれば、鵜眞は素人以下という体たらくであった。
 だから彼女に戦いを教える事など、自分に出来はしなかった。そして他に神子の教育を任せられるような、信頼に足る人物にアテもない。このままでは、彼女の才能の一つが無駄になってしまうと嘆いた。
 そんなある日。市井の調査に出た鵜眞は、都でこんな話を小耳に挟む。

「この近くに、剣が得意な男がいるらしい。大陸から来た剣の達人だそうだ」

 ただの噂ではあったが、一目見ておいても損はない。鵜眞はそう思って、噂の剣士を兵練所へと招いた。そして近衛兵の何人かと試合をさせてみる事にしたのだ。
 結果は、驚くべき事に全試合引き分け。どういう事かと言えば、戦おうとしてもすぐに両者の木刀がへし折れて、試合にならないのだ。
 周りの臣下たちは興ざめと溜息をついたが、鵜眞は理解していた。これは無駄な争いを好まぬ男が、わざと引き分けを狙ったのだと。そんな芸当が出来る男、剣に疎い鵜眞でも実力の高さを感じられた。
 そして鵜眞は男を呼び出し、頭を下げ、神子に稽古をつけるように頼んだのだ。男は見た目こそ若いが、心根がしっかりとした印象だったのも、鵜眞の好感度を上げた。

「女の……しかも小さな子供に稽古を……? お戯れを」

 最初はそう言って、しぶしぶと神子に会った男――それが椒林であった。
 しかし、彼が神子の才能に惚れ込むのに二度目はいらなかった。翌日、彼は鵜眞に直訴し、より多くの時間を剣術に割く訳にはいかないかと頼み込んだ。
 鵜眞としては彼女を剣豪にする気はなく、あくまでも才能を無駄にさせないための稽古であった。だが、あれほどの卓越した剣士が、自分に頭を下げてまで頼むことに、底知れぬ大きな可能性を感じた。
 結局、鵜眞はしばらく神子を椒林に預けて修行させることにしたのだ。

 神子にとっても、その修業は有意義なものとなった。それは、剣術に関してのみではない。
 鵜眞の英才教育を受けていた神子は、彼の宮殿から外に出たことがあまりなかった。しかし、椒林との修行は森や山や川、あるいは民の生活の中で行われた。それによって、民との関わりが持てるようになり、神子の世界は一気に広がったのだ。

 後に神子は尋ねた。

「師匠。もしかして、私を修行に連れ出したのは、私に見聞を広めさせる意味もあったのでは?」

 だが、椒林は苦笑いする。

「私にそんな深い考えが、ある訳ないだろう」

 しかし、神子は思うのだ。きっと師匠も、私をただの剣豪にするつもりなどなかったのだ、と。
 鵜眞の教育で手が届いていなかった部分。人の上に立つ為に必要な、心の部分。それを師匠は育ててくれたに違いない。
 そんな事が出来る椒林自身も、昔は名を馳せた名士だったのではないだろうか。神子はそう思い、病床に伏せた彼に聞いてみた。
 だが、やはり彼は苦笑いをする。彼は褒められると、こうして逃げる癖があった。

「まさか。私はしがない旅の者。ただ、この国が気に入って住み着いていただけの、普通の人だよ」
「そうですか。でも、あなたは素晴らしい師匠だった。きっと、人を育てる力というのに秀でた……素晴らしき人だった」

 この人物ほど、自分を驚かす人もいなかった。そのように神子は振り返る。
 自分の才をあまりにも話さないものだから、たまに見せる深い知識や高い技術には目を疑ってしまう。
 その最たるものが、これであった。

「神子。そこの戸棚の上に……、一振りの大刀がある。大陸の錬鉄技術と、この国の砥礪技術が組み合わさった、私の最高傑作だ」
「……師匠。鍛冶も出来たのですか」
「前に言わなかったか? ほら、私が料理をしている時に」
「それは家事でしょう」

 あまりにも下らない会話に、神子は思わず笑ってしまった。
 苦境にあっても人を笑顔にさせる心構え。それも思えば椒林から学んだものであった。

「それは名付けて、丙子椒林剣。持つ者の闘志が消えぬ限り、絶対にその刃は折れることがない……。使ってくれ」
「ありがたく、頂戴いたします。……師匠」

 大刀を手にした神子は、静かに微笑んだ。

「その剣と共にあれば、私の魂も共にある。その身が傷つかぬままに……その剣だけがいつか折れる日を祈って、神子」

 剣を教えた師匠は、しかし彼女がそれを好んでいるわけでないことも知っていた。別れの言葉まで、一歩も二歩も先を行く。

 僅かな時間であった。彼に師事した時間は。
 ただ神子にとっては、彼から学んだものは鵜眞からのそれと同じくらいに大きく、その感謝も大きい。
 だから彼女は丙子椒林剣を手に、今も戦場を駆け巡るのだ。



   ◇   ◇   ◇



「といった話です。……って、布都?」
「うぅぅう~。良い話でずねぇ……ぐすっ」

 神子の話を聴き終えた布都は、鼻水を垂らして泣いていた。
 それには神子も思わずたじろいでしまう。

「そんな、ちょっとした昔話ではないですか……!?」
「うぅ、感動しました。色んな人の想いを背負って、太子様は戦っておられるのですね! ……よし、決めましたよ!」
「……な、何をですか」

 少し嫌な予感がしつつも、神子は尋ねてみる。
 布都はエヘンと胸を張り、高らかに宣言した。

「我は戦には出られない! しかし元・大物忌として、出来る限りの手助けをします!」
「気持ちは嬉しいのだけれど……。大物忌としての協力って、何があるのかしら……?」
「例えば、我が祈祷をします。それで気まぐれな日本の神様が、お願いを聞いてくれるとします。さらに運が良ければ雨を降らせたり、風を吹かせたり出来ます!」
「す、すごい。かもしれないですね」
「そうでしょう、そうでしょう。いざとなったら、我の力をお使いください!」

 布都はやる気に満ち溢れて、何やら祈祷のような格好を真似てはしゃいでいる。
 そんな彼女を見て、神子は表情を曇らせた。

「う、うん。……ねぇ、布都?」
「ん? なんですか??」
「あの、聞きたいことがあるのです」

 以前から訊こうとは思っていた。
 蘇我の戦について楽しそうに話す彼女を見ては、いつか尋ねなければならぬと。
 しかし布都の明るい笑顔を見ていると、躊躇わざるを得なかった。
 だが、勇気を出して質問する。

「布都。……あなた、分かっているのですか? 今や蘇我の敵は、物部氏だけ。つまり私がこれから戦うとしたら、それはあなたの親兄弟になるかもしれないのですよ」

 しかも敵の総大将は、布都の実兄である杜矢。
 つまり神子と杜矢が一騎打ちをする可能性もあるのだ。
 彼女はどう思っているのか。血の繋がった一族と、神子が殺し合う事について。

 その質問に対し、布都は――笑っていた。

「えへへ、分かっていますよ、太子様。我はそれを分かって、それで鵜眞の妻となったのですから」
「……あなたには、辛い思いをさせますね」
「いいえ、私は辛い思いなんて……。我はもはや、蘇我の人間ですから~」

 それは誰が見ても歪であると分かる、不自然な笑顔。
 変に明るい口調も、本音を隠そうとしているのが露見している。
 だが、それを強がりだと誤認してしまったのは、神子の失策であった。

「辛いのならば、言ってください。私も物部氏の人々を憎んでいる訳ではありません。できることなら争わずに戦いを終わらせたい」
「大丈夫ですって! 我のことは気にせず、存分に戦ってください」
「しかし……親兄弟の縁というのは、そう簡単に断ち切れる訳では――」
「いいんです!」

 神子の言葉に割って入った、布都の叫び。
 それは正しく、溢れでてしまった感情の噴火。
 止めどなく流れる言葉は、布都の唇を戦慄かせる。

「いいんですよ! 我は……我は物部など……!!」

 珍しく声を荒らげた布都に対し、神子は思わず黙りこんでしまった。
 思えば――神子が話を聴いていたのは、己と関わりの薄い者ばかりであった。
 自分の性別すら知らぬ兵士たちや、自分を蘇我の人間と思っている民など。
 関わり濃い者との会話といっても鵜眞や椒林が相手であり、それは相手が大人という事もあって神子が逆に気を使われていた。
 だから初めてなのであった。
 布都という、年下で、しかも親しい仲の者と衝突してしまったのは。

「布都……。私は……その」

 珍しく、神子は口ごもった。
 相手に対してどう受け答えをしていいか分からない。
 それは彼女の人生において初めての経験である。

「あ……あぁ!? すみません、そんなつもりじゃ……」

 目に浮かべた涙を慌てて拭きながら、布都は逃げるように廊下を走った。
 神子はそれを呼び止めることも出来ずに布都の後ろ姿を見送る。心臓が見えない手に鷲掴みにされたような、そんな息苦しさを感じながら。
 そして布都が廊下の曲がり角に差し掛かった時。

「うわ!」

 彼女が小さな悲鳴を上げて転んだ。
 いや、転んだというよりは、衝突を避ける為に上手く受け流された形だ。
 布都との衝突を回避したその人物は、曲がり角からひょっこりと顔を出し、神子に向けて屈託のない笑顔を浮かべた。
 どこか、同じ人間とは思えないような、妙に整った顔立ち。
 雪のように白い肌が印象的だ。

「……あの、どちら様ですか」

 不法侵入者か? と訝しる神子に対し、その人物は優雅に頭を下げて挨拶をした。

「申し遅れました。私は蘇我屠自古。そして――」

 女はその場でくるりと一回転すると、服の裾を掴んで膝を折った。
 そして、台詞に最後の一言を付け足す。

「あなたの妻です」




5.聖徳太子の奥様





「はぁ? 何を言っておるのだ? 太子様! この頭のおかしな女、早く斬り捨ててしまいましょう!」

 床に打ち付けた尻をさすりながら、布都が大声で喚く。
 それを冷ややかな目で見下ろしながら、屠自古はフッと息を漏らした。

「あぁ、失礼。物部布都姫。声を掛けづらい空気だったので、機を伺っていたら……突如としてこちらに駆けてきたので、すっ飛ばしてしまいました。軽いから思いのほか、飛距離が出ましたが」
「この女ぁ……! 私が鵜眞の妃と知っての狼藉かっ」

 顔を真っ赤にして怒る布都に対して、屠自古はあくまでも冷静に佇むのみ。
 神子はオロオロしながら遠巻きに、布都へと小声で囁いた。

「えっと、布都……こういう時だけ鵜眞の名前を出すのは良くないですよ……?」

 その言葉を聞いた屠自古は、ポンと手槌を打つとニヤリと笑った。

「ああ、そういえば布都姫は一応、私の義母でもありましたね。失礼しました……お・か・あ・さ・ま?」

 神子と布都は、突如現れたこの女の発する言葉について、未だにひとつも理解が出来ないでいた。
 膨大な数のクエスチョンマークを頭に掲げ、二人して首を傾げる。

「どういう事ですか?」
「えっ。なにをいってんだ、このおんな???」

 すっかりと混乱した場を収める為、一人の男がその場に駆けつけた。
 彼にしては珍しく、汗を垂らして息を上げながら。

「やめ、やめーい! 会って早々に憎まれ口を叩くんじゃない、屠自古!」
「あっ、鵜眞ではないですか。珍しいですね、斑鳩宮に来るなんて。それで、これは一体……?」
「ああ、今から説明する! 全く……」

 鵜眞の登場に、屠自古は途端に口を噤んだ。そして淑女のようにすっと身を引く。
 布都は何か言いたそうに屠自古を睨みつけるが、神子の手招きで彼女の側に駆け寄った。

「あー、ごほん! 自己紹介すらせなんだか……」
「説明しましたよ、父上。半分くらいは」
「どうせ、わざと変な説明をしたんだろう! えー、こっちの屠自古は……私の娘であり、そして神子、お前の嫁だ」
「はぁ……? どうしたのです、鵜眞殿。あなたまで言動がおかしいですよ」

 全く事情が掴めない布都の横で、神子はおおよその事情が掴めた様子で、顔を青ざめさせる。

「鵜眞……! まさか、あなた……?」

 神子の反応を意に介さず、鵜眞は布都が事情を知らない事に今さらながら気付いて「これは失策」と頭を掻いた。

「……そうか。神子を良く知る布都にも、この話はしておかねばな。……神子の想像通り、この屠自古は聖徳王が男であると示す為の、偽装の妻である」

 聖徳王とは、鵜眞が名付けた神子の『王としての名』である。
 つまり初代日本皇・聖徳王といった具合に歴史へ名を刻む予定だ。
 そんな聖徳王は男であるから、当然、妃も必要になる。そして、その人物には全ての事情を知り、なおかつ口外しない事が求められる。
 その条件に当てはまるのが、鵜眞の娘である屠自古という事なのだろう。

「……鵜眞。それは、あまりにも……」
「あら、神子様。私ではご不満でしょうか?」

 悪戯っぽく笑みを浮かべ、小首を傾げながら屠自古が尋ねる。
 そんな態度に神子は困惑した。

「う、いや……。不満うんぬんよりも、だって、女同士ではないですか」
「だから、神子が女であるのを隠す為に結婚するのではないか。なに、別に夫婦関係といっても私と布都姫のようなものでも構わないだろう。子供だって、どうにかして誤魔化せる。――神子の正体を知る者は、最小限に留めなければいけないからな」

 突然の事態に神子は頭を混乱させながらも、自分が王として、つまりは男として生きていくのに「女との結婚」が必要不可欠であるのを理解は出来た。

「……だが、しかし。それでは屠自古さんがあまりにも報われないでしょう。女である私と結婚するという事は、好きな男性と恋をすることも、子供を授かることも出来なくなる……」
「ご心配には及びません。私はどうせ、女として幸せになる気はありませんから」
「それって、どういう……?」

 そこで鵜眞が頭を掻きながら、ため息混じりに説明する。

「ああ、うちの娘はちょっと変わっててな。なんというか……」

 言いづらそうにする父に代わり、屠自古がさらっと言葉を紡ぐ。

「端的に言えば、私は戦いの中に身を置くことが好きなのです」
「うん。この通りに、私に似ず武士体質なんだよ、娘は」
「は、はぁ」
「という訳で、神子様。私は幼少の頃より、戦の中で武勇をあげ、そして散ることを望んでいました。しかし鵜眞の娘という立場ではそれが叶わず……。でも戦神の妻となれば、共に戦場へと出ることが出来ましょう? それこそが、私の望み。だから私は……あなたと結婚したいのです」
「戦神の妻となり、あなたも神になるというつもりですか」
「神、などと……私の面の皮はそこまで厚くないですわ。私はただ神子様に宣言していただきたいだけです。妻は私を助けるために、共に戦場に立つのだ、と」

 女の身でありながら戦場に出る。
 自分がそういった立場にあり続けた神子には、あまり違和感がある言葉には聞こえなかった。
 しかしこの時代。女が戦場に出るというのは、極めて珍しく、あるいは禁忌とされている事だった。
 神子はそのあまりの強さからもはや人という枠から外れ、神のような扱いをされている。それ故の二つ名が、戦神なのだ。神が男か女かという疑問を持つものなど、兵の中にはいない。それに彼女がいれば自分たちの軍は必勝なのだから、女が戦場に立つなどもってのほか、と鼻息を荒くする者もいなかった。
 そして屠自古は戦神の妻となり、共に戦場に立って夫を助ける、というお墨付きをもらうつもりなのだ。

「それは、まぁ、私が言うのも何ですが……。危険ではないでしょうか?」
「安心しろ。屠自古はお前ほどではないが、強い。……全く、本当、誰に似たんだか……はぁ」

 呆れたような物言いの父に向かって、屠自古は真っ向から言い返す。

「もとより我らは豪族の血を引く者。軟弱な政略家になったお父様の方が、おかしいのです」
「と、屠自古さん。そのような言い方、あんまりですよ。鵜眞は優れた政治家であり……」
「あーあー。大丈夫だ、神子。……それで、お前としてはどうなのだ。屠自古との形だけの結婚、認めてくれると助かるのだが」

 もとより神子は、少女として歳相応の恋をすることや、子供を授かるといった幸せは望んでいなかった。彼女は生まれた時より、平和な国を産むという目的にのみ全てを注いでいるのだ。――その点に関しては、神子と屠自古は似たもの同士かもしれない。
 よって、屠自古さえ承諾するのであれば、神子としてはこの結婚は反対するものでもない。合理的に考えれば、結婚すべきである。
 だが何か「そこまでして良いのか」という後ろめたさが彼女を躊躇わせていた。
 これを承諾してしまうと、何か超えてはいけないものを一歩、超えてしまうような感覚。それが神子の胸中にはあった。

「神子様……。どうか、その首を縦に」

 突如、屠自古が膝をつき、神子へと頭を垂れる。

「ちょっと、やめて下さい! 頭を下げるなど……」

 駆け寄ろうとした神子を牽制するように、屠自古が顔を上げて、その鈍く光る双眸を向けた。

「私は、この機会を逃せば……戦場に立つ夢が……露と消えます。そうなれば後は鵜眞の娘として、どこぞの有力豪族の姫として嫁ぐことになるのでしょう。そして宮殿の奥底で優雅に暮らす……。そんな未来しか待っていないのなら、いっその事……私は自らの命を絶ってしまいたい」

 真剣な目付きで、彼女は自らの胸中を晒け出した。
 その言葉は口をついて出た虚言などではなく、心の底から搾り出されたかのような真実味があった。そんな娘の告白に、鵜眞も思わず息を呑む。

「……待ちなさい」

 神子は腰に差していた笏を手に取ると、それで屠自古の頭をぺしり、と叩いた。
 そして膝をつくと、きょとんとした屠自古の顔を覗き込むようにして、また微笑んだ。

「自らの命を捨てるという言葉。聞き捨てなりません。絶望は人を殺すと云いますが、望みを絶つのは自らの意思。自害など、するものではありませんよ」
「……それでも、私は戦場に立ちたい。迫り来る殺意と殺意の合間で、刃の切っ先を交わし合う世界に……この身を投じたい。――ああ、自分でも狂っているのが分かる。でも、私はそうありたいのです」

 歯を食いしばって懇願する屠自古の頭を、神子の胸が柔らかく包みこんだ。

「あなたの言葉。真意であると感じることが出来ました。決して興味や嗜好などではない、あなた自身の生き方であると……。その成就の為に私は、協力を惜しみません」
「神子様、それじゃあ……!」
「ええ、私はあなたを妻として迎え入れます。しかし、妻というのは夫を影ながら支えるもの。我が妻となったからには、私よりも前に立って命を落とすことは許されませんよ」

 屠自古は神子の胸から顔を離し、瞳を潤ませて彼女を見つめた。

「ああ、本当にあなたは父から聞いていた通りだ。……聖徳王、あなたはきっと素晴らしい為政者になる。そして私の弓は、きっとその手助けになる」

 こうして蘇我屠自古は、豊聡耳神子――いや、聖徳王の妃となった。
 鵜眞、屠自古、神子の間にはこの時、彼ら同士にしか分からない強い絆が生まれたのである。
 ただ、その場に一人だけ、頭を抱えている少女がいた。

「うわ~! どうしよう……太子様まで頭がおかしくなってしまったのか~? 鵜眞殿も狂ってしまった……蘇我氏はどうなってしまうのだ~? 我はどうすれば~??」

 混乱しきってゴロゴロと廊下を転げまわる布都を見て、三人はそれぞれの表情を浮かべる。

「……ああ。とりあえず、布都姫に事情を話しておこうか」
「ええ、そうしましょう……」
「ふふ。面白いから、しばらくこのままにしておきたいけど」




6.物部と蘇我の闘い





 最近、布都の機嫌が悪い――
 というのは斑鳩宮に住む召使の間では、有名な話だ。
 もともと我儘な彼女の扱いに困っていた召使たちは、機嫌を損ねているらしい布都の事を、ますます避けるようになった。
 近頃は神子も忙しく、書斎に閉じこもりきり。よって彼女に声を掛けるのは一人だけだった。

「布都姫、ご機嫌いかが?」
「良いように見えるとしたら、おぬしは馬鹿だろう」

 縁側で日向ぼっこをしていた布都は、むすっとした表情を隠そうともせずに返事をする。
 対して屠自古は意にも介さず、布都の脇に座り込んだ。

「……私が神子様と結婚したこと。嫉妬してるの?」
「ぶぶっ。何を言うか!?」

 顔を真っ赤にして否定する布都を、屠自古は慈しむような目で見る。

「そりゃ、そうよねぇ。たった一人で蘇我に嫁いで、話し相手といえば神子様くらいしかいなかったんだもの。それが突然現れた何処の馬の骨とも知らない奴に、横からサッと盗られたらねぇ」
「け、結婚といっても……おぬしと太子様は愛し合っている訳ではないだろう!」
「そうよ? でも、私は神子様が必要とする“聖徳王の妻”を完璧にこなせる自信がある。神子様はその見返りとして私を戦場に立たせてくれる。……つまり、お互いに得をする関係ってことね」
「ふ、ふーん」
「それで、布都姫。あなたがいて神子様は、何か得をするのかしら?」

 あからさまな挑発。
 だが、それは布都の急所を上手くついた言葉だった。

「……! わ、我だって……! おぬしに負けないくらい、太子様のお役に立てるぞっ」
「具体的に提示してください。それとも、日向ぼっこが神子様の役に立つのかしら?」
「ぐ、ぬぬぬ~!!」

 布都の顔がみるみるうちに憤怒で赤くなる。そして

「おーい、誰かー! 的を持て!」

 布都の号令で、召使たちがゾロゾロと集まってきた。
 一様に「やれやれ」「またか」といった表情。

「あら? 何をするつもりかしら?」
「勝負だ! 中庭に的を用意させた。そこで弓矢の勝負をしようではないか! それで我がおぬしより役に立つことを証明する!」
「えっ、本気で言ってるの? あなた、そんな細腕で弓を引ける?」
「馬鹿にするなよ。弓矢は戦場だけのものではない。大物忌として神事を執り行っていた頃、矢の扱いをしていた覚えがある」
「ふーん。……実戦形式なら負ける気がしないけど、確かに的当てなら勝負は分からないかもね。いいわ、やりましょう」

 屠自古は部屋へと弓を取りに行き、布都は近衛兵に言って訓練用の弓矢を持ってこさせた。
 的は外壁の手前に設置され、射る場所は縁側からと定める。つまり広大な中庭を最大限利用した、最大距離の的当てというわけだ。

「随分と遠いわね……」
「ふん。臆したか!」
「いや、あなたの矢が的まで届くかが心配だわ……。お先にどうぞ?」
「ば、馬鹿にして……! 見ておれ~」

 布都が弓矢を構え、その小さな体を目一杯に使って弦を引き絞った。
 右腕が僅かに震えているものの、なかなか様になる立ち姿だ。
 今まで布都を怠惰な姫だと軽んじていた召使たちも「おぉ!?」と感嘆の声を上げる。

「……いっけェ!」

 掛け声と共に、布都の右手が矢を離す。
 放たれた矢は力なく放物線を描きながらも、五重丸の描かれた的の、中心から一個ずれたあたりに突き刺さった。

『おぉぉぉ!!』

 意外な好成績に召使たちは歓声を上げ、屠自古も目を丸くして拍手を送った。

「ど、どうだ……。ああ、久しぶりだったから腕が痛くなりそう……」
「お見事ね。ただのハッタリじゃなかったか。……それじゃ、次は私の番ね」
「う、うむ」

 不安そうな布都をよそに、屠自古は弓を持って縁側へ向かう。
 まず、彼女は威勢良く腕を捲った。美しい深緑の衣装。そこから現れた蠱惑的な白い肌に、召使たちは思わず見惚れた。
 引き締まった腕が、戦用の大きな弓をしならせ、弦をぎりぎりと軋ませる。
 慣れた動きと、あまりの迫力に一同が声を失ったまま。

「……しッ!」

 屠自古の目が見開かれ、矢は放たれた。放物線ではなく直線を引いた矢は、真っ直ぐに庭を突っ切る。
 そして鏃は、的から大きく外れて壁に突き刺さった。
 しばしの静寂。
 それを打ち破ったのは、布都の高笑いだ。

「ふ、はは……ふーっははっははは! やーい、やーい! 大外れしてやんのー! 我の勝ちだー!」
「残念。布都姫の勝ちね。それでは失礼」

 そういうと屠自古は踵を返して、さっさと宮の奥へと引っ込んだ。
 敗走したな、と布都はご満悦で的の方へと駆けていく。

「屠自古の奴め。あれだけ大口を叩いておいて、こーんな所に打ち込んでしまうとはなァ。そりゃ急ぎ足で逃げていくのも無理はな……い……」

 外壁に突き刺さった屠自古の矢を見て、布都の顔から笑みが消えていく。
 その目は釘付けになっていた。真っ白な外壁に串刺しとなった一匹の蜂の死骸に。

「まさか……いや……」

 布都は召使に片付けを命じると、慌てて屠自古の消えていった方へ駆ける。
 彼女の姿を探す、といっても、この先には神子の書斎しかない。
 それに気付いた布都は、足音を忍ばせて書斎の扉に近づいていった。
 やがて聞こえてくるのは、神子の声だ。

「……ああ、すみません」
「いえ、こちらこそ……。気付くのが遅れるとは、一生の不覚」
「不覚というなら、私の事でしょう。蜂に刺されるなんて、戦神が聞いて呆れます」
「……最近は、新しい法を作る為に慣れない勉学に勤しんでおられる。――疲れているのでしょう」
「はは……。戦ってばかりで、学をおろそかにしていたのがバレてしまいましたね」

 戸が僅かに開いている。そこから布都が覗くと、ちょうど屠自古が神子の二の腕に口をつけているところであった。

「ぬ……お……ぬぁああああーーー!!」

 布都は我慢が出来ずに大声を上げ、書斎へと飛び込んでいった。

「うわわわわ! 布都!? どうしたのですか、急に!!」
「むっ」

 吸い出した血を持参の壺に吐きながら、屠自古は軽やかに布都の突撃を躱す。
 そして床に転がった闖入者へ向けて、ニヤニヤと笑いながら声を掛ける。

「やれやれ、夫婦の部屋に断りなく入るとは。それでも姫ですか? 失礼な」
「いやいや、屠自古さん。私たちはあくまでも、立場上の夫婦な訳ですからね。そういう物言いは誤解が生じるというか、なんというか」
「うぬぅぅ! 屠自古! さっきの勝負は我の負けだ! 二回戦を所望するぞ!」

 悔しさで顔を真っ赤にした布都が、腕をぐるぐる回しながら叫ぶ。頭を屠自古に抑えられているので、その拳は物理的に届かないのが悲しい。

「いいわよ。布都姫の気が済むまで、勝負してあげましょう。ただし、今度は的のど真ん中に当てさせてもらうわよ。一切の容赦なくね」
「ちょっと待ちなさい。君たち、一体何を……?」
「太子様は黙っててくださいーッ! 我はこの女に勝たなければいけないのです!」
「む、ちょっと。屠自古、君、説明してください」
「いいの、いいの。あ・な・た……は勉強してて下さいね」

 屠自古は唇に人差し指を当てて神子を茶化し、布都を部屋の外に連れ出していく。
 “妻”の迫力に押され、神子はそれをただ見送ることしか出来なかった。

「一体、何だったのでしょう……?」

 やがて書斎から離れたところ。
 落ち着きを取り戻した布都が、屠自古へと一つの提案をした。

「そうだ。弓矢勝負は止めにしよう」
「あら。いくらやっても私には敵わないってことが、ようやく分かったのかしら?」
「ああ、流石に蜂を射抜く奴には勝てまい。だが、他の勝負なら勝てる!」
「へぇ、例えば? “聖徳王の妻”としての勝負よ?」
「……妻か。うーん、そうだな……掃除とか……」

 布都の発想に、屠自古は「意外ね」と驚いた。

「あなた、掃除とか得意なの?」
「いや、やったことない」
「……普通、選択権をもらったら自分の得意分野で勝負しない?」
「だって、我が屠自古に勝てそうなものがパッとは思いつかないんだもの。だから妻と聞いて真っ先に思いついた“掃除勝負”にしようという訳だ」
「まぁ、良いわ。……といっても、どうやって勝負しようかしら? 実は午前中に、もう斑鳩宮の部屋を全部掃除しちゃったのよね。というか掃除って『いざ勝負』って競うものじゃなくて、日頃からの気配りが大事なものだとは思わない?」
「うぬ……。それも一理あるな……。それでは、料理勝負はどうだ?」
「料理の心得は?」
「いや、やったことない」
「繰り返しになるから、あえて言わないわ。……そうね、じゃあ料理を神子様に食べてもらって、美味しい方が勝ちにしましょう」
「た、太子様に食べてもらうのか!?」
「え? だって“聖徳王の妻”勝負よ? 本人に食べてもらうのが一番じゃない」
「わ、分かった。それで勝負しよう」
「……あなたの、その向こう見ずな所。嫌いじゃないわ」

 こうして第二回戦は料理勝負となった。
 斑鳩宮の立派な調理設備を使い、屠自古と布都が料理を作る。
 調理の制限時間は「太陽が最も高く昇る時まで」としたので、今からだと約一時間になる。そして、それを神子がお昼ごはんとして食べ、どちらが美味しいか判定してもらう。
 無論、審査員本人には内緒での勝負だ。

「あ、ちょっと」

 調理開始の寸前、近くにいた料理担当の召使を見つけ、屠自古が声を掛けた。

「はい。なんでしょうか、屠自古様」
「……あなた、それとなく布都の料理を手伝ってあげて」
「えっ? しかし、これは一対一の勝負では……」
「斑鳩宮が火事にでもなったら、笑い事じゃなくなるでしょ」
「わ、分かりました」

 こうして布都の周りには、手助けとして何人かの料理人が控え、彼女の料理をそれとなく助けた。
 一方で屠自古は一人、黙々と料理を作る。その包丁さばきは手早く正確で、本職の料理人たちも思わず唸ってしまうほど。料理とは別の用件で、肉を切り裂くのに手慣れているからだろうか。

「……という訳で、審査の準備が整いました」

 大きな食堂には、神子が一人ぽつんと座っている。
 それを扉の向こうから屠自古と布都が覗く。
 神子に食事を運ぶ給仕は、二つの料理を左右に分けて並べていった。

「……給仕長。二つほど質問があるのですが」
「なんでしょうか」
「まず、布都と屠自古は何処へ行ったのです? 何故、私一人で食事なのでしょう?」
「布都様と屠自古様は、山へ遊びに行きました。夕刻帰るそうです」
「二つ目の質問です。何故、料理が二種類……明らかに左右に分けて配膳されているのですか?」
「はい。これは厨房の職人から、神子様の好みの味付けを知りたい、という要望がありまして。そのために二種類の料理を作らせていただきました。両方を召し上がって、それぞれの感想を頂きたいとの事です」
「……分かりました。ありがとうございます。では……」

 神子はまず、左手に並べられた料理に手を伸ばした。
 それは布都が作った料理であり、素人ながら、まぁ、なんとか形になったものである。

「いただきます」

 口に含み、神子は黙して咀嚼する。
 そして、二、三度の頷き。

「……太子様ぁ。……どうですかぁ~」

 扉の向こうから小声で祈る布都を代弁するように、給仕長が尋ねる。

「神子様。お味は?」
「うん。美味しいですね」

 その言葉が出た瞬間、布都は自らの口を押さえて歓喜に小躍りした。目にはもはや涙すら浮かんでいる。
 屠自古は固い表情のまま「ふーん」と漏らした。そのこめかみには一筋の汗が流れている。

「今までの料理と比べ……少し、粗? のようなものが感じられますが。基本的には美味しいことに変わりがありません。いささか簡単に作れる料理が目立ちますが、ふむ……この料理からは私に対する情愛を感じます。……っと、これは味の評価ではありませんかね。ごちそうさまでした」
「では……続いて右側の料理をどうぞ」

 給仕長に促され、神子はもうひとつの料理群へと手を伸ばす。こちらは屠自古の料理である。

「……神子様。あなたが味覚障害でなければ……私が勝てるはずです」
「くっくっく。すでに我の料理は高評価だ……。諦めるのだな!」

 扉の向こうで行われている小声でのやり取りなど知らぬ神子は、黙々と屠自古の料理を食べていく。そして、また二、三度頷いた。

「驚いた。美味しいですね」
「ほほう。どのように?」

 屠自古はグッと拳を握り、布都はハラハラと次の言葉に耳を傾ける。

「なんというか……私があまり食べたことのない料理です。見栄えや儀礼的な意味を一切排した、極めて現実的な食事であると思います。栄養面では……これは、宮廷料理というよりは戦場での食事に近いのではないですか? 食べると力がつきそうですね。彩りが少し偏ってる気もするのですが、とにかく味付けが私の好みに合います。ごちそうさまでした」
「そ、それでは……つまるところ。選ぶとしたら、どちらの料理になりますか?」
「えっ。うーん。どちらも毎日食べるには、少し……」
「ど、どちらか選んでください!! 勝敗が決しなければ、私は……私はッ……!」
「えっ、ええっ」

 まるで命が懸かっているかのような給仕長の迫り方に、神子は大いに動揺しながらも、頭を悩ませ真剣に選ぶ。

「そうですね……。まぁ、どちらかと言えば……ちょっと、しつこいですけど……こちらかな」

 神子が選んだのは――屠自古の料理であった。
 扉の外では崩れ落ちる布都と、胸をなで下ろす屠自古。

「う、うわーん! そんなぁ」
「……ふぅ。戦とは即ち生き残る術。料理の一つも出来なければ、武士とは言えないのよ……」

 今度はなかなかの接戦であった。
 しかし、勝ったのは屠自古である。

「さて、これで2勝0敗ね。私こそが聖徳王の妻に相応しいということで、よろしいかしら?」
「ちょ、ちょっと待って。……あの……そうだ!」

 布都が何かを思いつき、その表情を明るくする。

「最後の勝負! 次で最後だから!」
「まっ、次で負けても私は2勝1敗だけど……。次の勝負は2勝分と数えても良いわよ」
「本当!? ありがとう、屠自古!」
「それで? 次の勝負は何にするのかしら?」
「えっとね、最後の勝負は……! ずばり、神通力勝負!」
「……なるほど。ようやく自分の得意分野で仕掛けてきたか」

 屠自古は嬉しそうに頷いて、その勝負を引き受けた。



    ◇    ◇    ◇



 中庭に人が集められた。
 神通力勝負の勝敗は、彼らの裁定によって決まる。
 ずばり、どっちがより“すごそうな”神通力を発するかの、採点競技だ。

「えー。それでは審査員の皆さん。より“すごそう”だと思った神通力の使い手を選び、その名前が書かれた札を、この投票箱に入れてくださーい」

 召使がルールを発表し、観客たちに「布都」「屠自古」と書かれた札をそれぞれ配布する。
 ちなみにこの札は布都の命令で、召使たちが急ピッチで作ったものだ。

「さて、それではいいかしら?」
「……弓矢勝負では先を譲ってもらった。先に屠自古から良いぞ」

 布都は自信たっぷりに腕を組みつつ、一歩後ろに下がる。
 彼女は元・大物忌である。大物忌と言えば、この国の神職の中でも最上級の重職であり、一握りの才を持った清らかな少女だけが務めることの出来るもの。
 その職に就いていたというだけで、布都が如何に神通力に優れているかというのは察しがつく。
 さらに彼女は血統も優れている。何せ神様の直属の子孫だというのだから、ただ単に豪族の娘であるという屠自古とは、最初から勝負にならないのである。

「……分かったわ。それでは皆の衆! 刮目せよ!」
「ふん。弓矢の腕は認めるが、武士の屠自古に何の神通力を発する事が出来るというのか……」
「さあ、いでよ」

 屠自古は右手を天に向け、瞳を閉じた。
 すると彼女の周りに、何やら雷光のようなものが発生する。

「およ?」
「召雷!」

 けたたましい爆音と共に、中庭に立っていた背の高い樹に雷が落ちた。雲など一つもない、晴れ渡った夕暮れなのにである。
 それは即ち、屠自古の神通力に他ならない。
 黒焦げになった樹が、ミシミシと音を立てながら地面に倒れた。

『うぉぉぉ!』

 そのド派手な見た目に沸いた観客たちは、手に持った「屠自古」の札をポイポイと投票箱へ放り投げる。

「わー! 待て、待て! まだ我の演技があるだろうが!?」
「ふぅ……。さて、次は布都姫の番ね?」
「あっ、屠自古! おぬし、どういう事だ!? なぜ、あのような召雷術……しかも高位なものを扱える!?」
「そりゃあ、私には才能があったからね。幼い頃は父上が神職にさせようとしたくらいよ。猛反発して今の道を選んだんだけど」
「それは、そうだろう……。これだけの才能がありながら、なぜ、武士などに……」

 そこで屠自古は、足元の小石を拾いはじめた。
 そして、それを布都の足下に並べていく。

「なんだ、これは?」
「いい? 布都の神通力の才能がこの石十個分だとする。これは凡そ人の行き着く最高の数よ」
「あ、ああ?」
「そして私は……神通力の石が七個だった。そして弓矢の石が十二個だった。つまりは、そういう訳よ。……私は、より自分の力が生きる場所を選んだだけ」
「……そういうことなのか。――ちなみに、神子様はどのくらいの石を持っているのだ?」
「神通力は百個、武術全般は八十個って所じゃない?」

 屠自古は並べた石を足で払うと、布都の肩をポンと叩いた。

「さて、次はあなたの番ね。あなたの神通力は、私よりも石三個分は多いはず。本来の力を出せれば、私のよりも凄まじい術を魅せられるはずでしょ?」
「……言われなくとも!」

 布都は中庭に飛び出し、そして地面に膝をついた。
 召雷によって湧いていた観客も、次に布都が何をするのかと注目を始める。

「……神よ……を……らせたまえ」

 一分。布都は何事かを呟きながら、手を合わせて天に祈り続けた。
 屠自古の召雷が即効性のある力であった為、観客たちは「こっちは時間が掛かるものだな」と期待に胸を膨らませる。
 さらに一分。布都はまだ祈り続けている。「随分と時間が掛かるなぁ」と観客は飽きを見せる。
 さらに、さらに。時間は経てども、布都の祈りは何事も起こさない。それでも彼女は天に祈り続けた。
 やがて、観客は興冷めして去っていく。投票箱に屠自古の札を投げ入れてから。
 更に時間が経過し、それでも布都は必死に何かを祈っていた。

「……布都姫」
「……」
「布都姫」
「なんだ、祈祷の邪魔だ」
「観客、もういないわよ」

 言われなくても分かっている。
 布都は口中でその言葉を噛み潰し、静かに立ち上がった。
 薄暗くなった中庭には、屠自古の他に人はいない。

「……我の力は、効果が出るまでに時間が掛かるのだ」
「ええ、分かっている。大きな力を呼び起こすのには、それだけ神との対話に時間を掛けなければいけないものね」
「ならば、屠自古は」
「私も時間を掛ければ、もっと大きな雷を呼べた。ただし、見た目の派手さと消費する時間を考えて、あの程度の雷を呼ぶに留まった」
「器用なのだな。屠自古は」

 布都は少し、顎を引いて、それから天を見上げた。星が綺麗だ。

「布都姫。あなたはこれから、蘇我と物部の戦いに巻き込まれていく。神子様はあなたの肉体を守ろうとするのでしょうけど、心までも守ってくれるとは限らない。守れるとは限らない」
「何が言いたいのだ。蘇我屠自古」
「戦い方を知りなさい。……剣や矢を用いた戦いの事じゃないわよ」
「無論、神通力を用いたものでもないのだな」
「不得手なものからは逃げることを知りなさい。自分の特色を活かせる立ち振る舞いをしなさい。自分の長所を時と場合に合ったように駆使なさい」
「……耳が痛い」
「布都姫。私たちはこれから、神子様を支える為の盟友と成れなければいけない。戦場では私が神子様をお守りする。だから布都姫、あなたは彼女の穏やかな時を守って欲しい」

 布都は依然として空を見上げたまま、目を見開いて「嗚呼」と声を漏らす。
 そして、目の前にいる“好敵手”へと感謝するのだ。

「……屠自古。我は、分かったよ。聖徳王の妻に相応しいのは、屠自古をおいて他にいない。我は別の道を探す」
「よろしい。……今日は色々、頑張ったね」

 布都はもう、空を見上げるしかなかった。
 屠自古が優しく頭を撫でるものだから。



    ◇    ◇    ◇



 ぺしっ。

 笏が屠自古の頭を叩いた。

「あてて」
「全く、あなたという人は」
「神子様……。いつから?」

 あの後、思う存分泣いたせいで腹をすかせた布都を、ちょうど夕飯だからと屠自古は食堂へと送り出した。その折に神子の姿が見えないと振り向いた瞬間に、不意打ちを喰らった。
 人の気配には敏感なはずの己がこうも簡単に後ろを取られてしまうとは、これも神子の才がなせる技なのか、と感心する。

「屠自古。あなたの考えは分かりました。しかし、ですね」
「やり方って奴がある、ですか。……了解です。すみません」

 悪びれた風も見せず、屠自古は頭を垂れた。反省の弁ではなく、会話を終わらせる為の言葉。
 神子はそれを看破して、諭すように続ける。

「そう、それなのです。布都は子供なのですから、もっと優しくしてあげても――」
「子供といっても、我々と三つくらいしか変わらないでしょう? それに戦乱は歳を慮ってはくれませんよ」
「……しかし」
「分かってますよ。布都は勘違いしてましたけど、私は根っから不器用なんです。神子様の様に上手くやろうとしても、出来無いんです」

 珍しく感情的に、後半は早口でまくし立てた。
 それを受け止めるように、神子は微笑みながら彼女を労った。

「屠自古、あなたは良くやってくれています。私の事を気遣い、布都の事を気遣い、蘇我の事を気遣い。そして、それを表に出そうとはしない」

 神子の言葉から逃げるように、屠自古は彼女に背を向けた。
 そして布都の待つ食堂への扉に手を掛ける。

「……買い被りです。私は戦えていればそれで良い。――頭のおかしな女ですから」

 その肩を、後ろから優しく捕まえる手があった。
 そして信じられぬほど穏やかな声が、屠自古の耳元を撫ぜる。

「私にどうか、あなたを気遣わせて欲しい」

 しばし時が止まったかのように、二人は黙りこくった。

「……やれやれ。本当に惚れそうになるから困るよ」

 屠自古は自らの肩にある温もりを、その手でそっと払いのけた。




7.穂積天然要塞の死闘・前





 神子が正式に聖徳王と名乗り、蘇我氏がそれを支持する立場であると表明してから、はや一月が経とうとしていた。
 蘇我を勝利へ導く“戦神”の台頭に沸いたのは、無知な民だけであった。元より絶大な戦果によって知名度を上げていた為、敵味方の兵士たちの反応は「ようやくか」「いよいよだな」という冷静なものであったのだ。
 こうして、ついに「蘇我氏と聖徳王」対「物部氏と大和王」の構図が出来上がる。
 しばらくはお互いの出方を伺っていた両者だが、先に仕掛けて来たのは物部氏であった。自分の配下である穂積氏に命じて、蘇我氏に対して宣戦布告を行わせたのだ。
 蘇我・物部の前哨戦ともなる戦い、そして神子は聖徳王としての初陣。大きな意味を持った戦いが今、始まろうとしていた。

「全ての兵が揃いました」

 ここは蘇我の領内で最も穂積領と近い土地。強襲により奪われた砦を取り戻す為、神子が率いる蘇我軍が集まった。
 総大将はもちろん豊聡耳神子――聖徳王。そして副将として屠自古が脇を固める。無論の事、布都は斑鳩宮でお留守番……のはずだった。

「出来るだけ、太子様の近くで手助けをしたいのです!!」

 そう言って聞かない布都に、神子は頭を悩ませた。
 しかし屠自古は意外にも肯定的であった。

「良いではないですか。本陣での雑務を手伝いたいという事でしたし、戦いには関わりませんよ」
「……しかし、布都には戦場の空気を吸って欲しくないのです」
「慣れておかねばならないでしょう。そういう血を持っているのですから。それに……」
「それに?」
「私は嬉しいですよ。この蘇我軍の真っ只中に、物部の人間である自分の身を置くという試練。それに布都が自ら挑むというのですからね」
「そう。それも不安です。万が一の事があれば……」
「心配性ですね。誰か信用の置ける人間を、お目付け役にしては如何ですか?」

 神子は大将にしては珍しく、部下の意見を良く聞いた。それを我が弱いからだ、と揶揄する者も中にはいるのだが、実際はそうではない。
 彼女は自分の持つ意見と、他人の出した意見。どちらがより優れているかを、極めて客観的に判断できるのであった。
 そして、布都の扱いについては屠自古の方が正しいということにも気付いている。

「……分かりました。布都のお姉さん役は、きっと私よりも屠自古の方が向いているでしょうしね。誰か適当な者に、布都の面倒をみてもらいましょう」
「ふふ。私は嫌われる方のお姉さんでしょうけどね。神子様は好かれる方のお姉さんです」

 そんな訳で、神子は信頼の置ける臣下である小野衣孟(いもう)に、布都のお守りを任せた。
 様子を見ていると、布都は衣孟の元で張り切って仕事を始めたようだ。なので神子と屠自古は安心して軍議に向かった。

「……さて、どう攻めますかね」

 屠自古の言葉に、神子は地形図を取り出して思案する。
 元々は蘇我の砦だったのだから、その構造や周りの地形に関しては、十分な情報がある。

「綺麗事を言うようですが……やはり私は無駄な殺生を好みません。私が突撃して最低限の犠牲で決着をつけましょう」
「まぁ、それが一番確実とも言えますが……。しかし穂積軍は我が軍や葛城軍と違い、武勇の大将が率いる軍隊ではなく、組織力を重んじる作りと聞きます。大将を討ち取っても、他の兵が戦意を失う可能性は低い」
「ふむ。つまり、結局はこちらの軍も動かして制圧をしないといけない……か」
「この砦の要所は、正面門の頑強さです。ここを打ち破ろうとする間に、砦からの矢で兵を失うのが痛い。神子様には何とかして門を開けてもらいたいですね、そうすれば後は私たちが片付けましょう」
「……分かりました。何とかします」

 一つの強大な駒がある軍の、なんと作戦の立てやすい事か。軍議はそれで閉じ、蘇我軍は夜明けが来るまで待機となった。
 神子が「少し夜風に当たってきます」と先に本陣から離れたので、屠自古は布都の様子を見にいく。なんだかんだと、やはり彼女も布都のことが気になるのだ。
 しかし様子を窺うと、布都はどうやら色々と失敗をしたらしく、衣孟が後処理に汗を流していた。「頑張れよ」と口中で呟いてから、屠自古も本陣を後にする。

「……さてと。兵たちの様子でも見るか」

 屠自古は兵たちの集まる草原へと足を運んだ。
 槍や剣、弓矢など、それぞれの隊が武器を持ち、地面へと腰を降ろしている。
 周りの兵と話をする者もあれば、ただ一人で膝を抱えて黙する者もいる。
 明日になれば死ぬかもしれない。そんな夜を迎えて、兵士たちの緊張も極まっているのだろう。それぞれの方法で時間を過ごしているのだ。

「ん? あれは……」

 何やら、ひと際に話し声が大きな一角を見つけ、屠自古はそこへ足を運んだ。
 その中心にいる人物を見て、屠自古は思わず目を疑う。

「って、神子様!? 総大将がこんな所で何を……」

 話しかけようとした屠自古は、しかし思い留まって、しばし遠巻きに様子を見る事とした。
 神子は兵士たちの真ん中に立ち、微笑みながら静かに頷いている。
 兵士たちは膝をついて頭を下げながら、神子に何事かを訴えかけているようだ。
 屠自古は兵士たちの声を聞き取ろうと、耳をそばだてた。

「……初めてなんです。剣を持つのなんて……」
「私には年老いた母がいます……。万が一明日、私が死んだら……」
「とにかく怖いのです……」

 一斉に喋っているせいで、正確には聞き取れなかったが、兵士たちの言葉は大体がそんな意味だった。

「あぁ、なるほどな。良くあることだ」

 新兵に限らず、兵士たちが戦の前に不安になるのは当然のこと。
 だが、それを総大将である神子が自ら聞き取っているというのは、屠自古の知るところではなかった。
 神子は周りから次々とぶつけられる不安を受け止め、一人ひとりに優しい言葉を掛けている。それで幾分かは彼らの不安も解けたようだ。

「ちょっと、神子様」

 その場を離れた神子を捕まえ、すぐさま屠自古は苦言を呈する。

「下っ端の面倒見など、副将の私やその隊の長がやりますよ。神子様は他にも色々と心労のかかる仕事があるのですから、ゆっくりと休んでいてください」

 神子は「ありがとう」と返しながらも首を横に振る。

「兵も民です。全ての民の声を聞き入れる事が、私の使命ですから」
「……それでは、あなたが疲れてしまうでしょう」
「君にそのように言ってもらえるだけで、私は十分ですよ。さぁ、明日の開戦に備えて休みましょう」

 寝所へと向かっていく神子の背中を見ながら、屠自古はやれやれと溜息をついた。

 確かにあの方は、ただ強いだけではないのだ。
 戦いに妄執している自分を受け入れてくれたのと同じように、全ての人間に対して、その暖かな懐で抱きしめようとされる方なのだ。
 そんな神子こそが、国を統べる王に相応しい。私はそれを全力で支えよう。

 そのように決意すると同時に、少し嫉妬心も抱いてしまう屠自古であった。



   ◇   ◇   ◇



 朝露が草木を濡らす時刻。
 蘇我軍は進行を始めた。――だが、彼らはすぐに異変に気付く。
 陣から砦までの間に、全く敵の影がないのだ。結局、彼らは何事もなく砦の近くへと辿り着いてしまった。
 神子はそこで一旦進軍を止め、陣を構える事にした。

「……静かすぎるな」

 屠自古は砦の遠望を睨みながら、不審がって呟いた。

「ええ。もしや砦は既に放棄されているのか……と思うくらいですね」
「あるいは……。神子様が単独で突撃するのを見越して、何かしらの罠を張っているか」

 既に神子の戦いぶりは、大和中に広まっている。
 そうすれば、自ずと手の内――例えば神子の単身突撃戦術――も敵は知る所となる。
 それを利用する敵が出てくる頃だと、屠自古も警戒をしていた所なのだ。

「私に対してどのような罠を張るのか、少し見てみたい気もしますが……。しかし、砦がもぬけの殻だとしたら……何かの時間稼ぎをしているという事でしょうか?」
「元より穂積は、本気で蘇我を落とす気などないでしょうしね。物部に言われて、ちょっかいを出しに来ただけでしょうから」
「無血開城……。出来れば理想的ですが」

 周りを見渡しても、あまりの静けさに兵士たちは困惑している様子。

「穂積は正攻法を使わないと聞きますが……噂通りに搦め手を使って来たという事でしょうか。あまり様子見をしていると、こちらの兵士に動揺が広がる」
「そうですね。……よい。ここは、やはり私が行ってきましょう」
「……お願いします」

 流石の屠自古も、ここでは神子の力に頼ってしまう。
 何しろ神子という戦力は、戦術を考える者にとって便利過ぎる。
 戦術性の高い遊技、例えば将棋で言うなら「飛車と角行の動きを合わせた上に、一手で二回行動が出来る」というくらいの便利な駒だ。自身が王将の役割を担っているという危険性はあるものの、それを補って余りある戦力であろう。

「皆の者、聞け!」

 兵士たちの前に立った神子が、声を上げる。その手には抜き身の丙子椒林剣が掲げられている。

「周知の通り、敵は我らの接近に対して、なんら反応を示さない。そのような腰抜け共には、私一人でも十分であろう。皆の手を煩わせるまでもない!」

 多少、ざわめきが起こった。恐らくは神子の身を案じての事だろう。主に若い新兵らが動揺している。
 しかし、周りの熟練した兵士たちが「神子様なら大丈夫だ」と諭していき、兵士たちは落ち着きを取り戻していく。
 そしてすぐ「ついに戦神の舞いを目の当たりにすることが出来る」という期待で、新兵たちは活気づいていった。

「では、いざゆかん!」

 掛け声と共に、神子が一人で砦へと駆けていく。
 その風のような疾さに兵士たちは湧き、後ろから歓声とも声援ともつかぬ叫びで神子を後押しする。

「……本当に何もない」

 砦の中から矢を射るための窓も、見張りの為の矢倉も沈黙したままだ。
 神子は正面門まで達すると、そのまま跳躍して塀を乗り越えた。身長の倍以上はある塀も、神子の前では意味をなさない。
 そして、砦の中に着地した神子は、剣を構える。

「こういう罠か」

 正面門の内側では、数十人の男たちが槍を手に神子を待ち構えていた。
 ぐるりと周りを囲まれた状態は、普通ならば絶体絶命。だが、戦神にとっては危機とは言い難かった。
 そのはずであったのだが。

「……? 君たちは……」

 しかし、神子の動きはそこで止まった。
 自分を待ち構えて兵士を配置するという罠は、ある程度予見していたし、仕掛けられても容易に対処出来るはず。
 だが、問題は彼らの格好だった。
 彼らは兵士の格好をしていなかった。普通の民が着ているような布の服に身を包み、ただその手には槍を持っている。そして、その顔は蒼白であった。とても、これから戦おうという者の顔ではない。

「く、おお……覚悟ォー!」

 痺れを切らしたかのように、男の一人が突進してくる。
 足取りは覚束なく、全く腰が入っていない槍の突き出し。

「待ちなさい! 少し、話を……!」

 言いながらも槍の穂先を躱し、男の攻撃を受け流す。勢い余り地面に転がった仲間を見て、他の者たちも意を決したかのように雄叫びを上げた。

「うわあァー!」
「頼む、死んでくれェェ!」

 鬨の声というよりも、地獄の底から手を伸ばし助けを求めるような、そんな悲痛な叫び。
 それに動揺しながらも、しかし神子とて攻撃を喰らう訳にはいかない。

「やむを得ません……!」

 突き出された槍を半身になって躱すと、神子はその柄を握り、そのまま使い手の方に押し返した。神子の腕力に負けた男は、その鍔をみぞおちにめり込ませて白目を剥く。

「し、死ねェ!」

 背後から繰り出された刺突は、振り向きざまの丙子椒林剣がはじき飛ばす。槍は刃先をへし折られて、ただの棍棒へと成り下がる。そして、同時に使い手の心も折れた。
 一旦、大きく跳躍して男たちの輪から抜け出すと、その後は一方的であった。
 慌てふためく男たちの合間を縫うように駆けていき、反撃の余地なく次々と打ち倒していく。武器を失うか、あるいは意識を失った男たちは、次々と地面に伏せていった。

「……やはり。この人たちは戦いに慣れていない。それどころか、戦いを望んでいない……?」

 最後の一人を残すのみとなった神子は、その手に持った槍を真っ二つに斬り飛ばすと、腰を抜かした男へと笏を突きつけた。

「聞きたい事があります」
「あ……ァわ……」
「君たちは戦いを望んでいませんでしたね。何故、この砦で私を待ち構え、そして襲いかかって来たのですか?」
「あ……あぁ……貴方様が、聖徳王……。た、たた……助けてください!」

 男は泣き崩れ、神子に全ての事情を話した。
 自分たちは砦周辺に住んでいた蘇我の民であり、穂積軍に家族を捕らわれて、神子を討つように無理矢理に待ちぶせをさせられていた。神子を討てなければ、家族の命はない、と脅されて。
 彼の話に嘘はないと、神子はその場で感じ取った。

「……そうでしたか」
「王に刃を向けた罪は、この命で償います。ただ、どうか家族を……助けては頂けないでしょうか……!」

 気付けば、地面に伏せていた男たちが神子の周りに集まり、地面に頭を打ち付けるようにして懇願していた。

「止めてください。私は君たちを罰するつもりなど、ありません」
「ま、まさか……」
「……憎むべきは穂積の軍勢。民の家族を奪い、無理やりに戦いへ誘おうとするなど、許せません。安心なさい、君たちの家族は私が救い出す」

 門を開放した神子は、大歓声に包まれながら自陣へと戻った。たった一人で、しかも無傷で砦を落とした神子を崇めて皆が狂乱する。
 しかし、その険しい表情を見て取った屠自古は、すぐさまに彼女を本陣の奥へと連れ込んだ。そして問い質すように尋ねる。

「神子様、何がありました?」
「……屠自古。都にいる鵜眞へ伝えてください。我々はこのまま、穂積の都へ向けて進軍すると」
「え……。ちょっと待ってください! 今回の戦いはあくまでも、奪われた砦を取り戻すまで……。穂積を滅ぼそうと深入りすれば、それこそ物部の思う壺ですよ!?」
「実はですね……」

 そこで神子は、穂積の使った卑劣な戦術について説明をした。
 聞いた屠自古も、思わず顔をしかめる。

「なんと……武士の風上にも置けぬ奴らだ……。確かに、そんな奴らは討ち滅ぼすべきです。が……」
「何よりも、私は彼らの家族を救い出さなければならない。……恐らく、連れ去られた民は、砦を攻めた軍と共に穂積の都へと帰っていったに違いない。――鵜眞が良いように交渉してくれないでしょうか……?」
「……難しいでしょうね。神子様を討つ事を解放の条件とした人質なのですから、それが失敗したとあれば、すぐにでも憂き目に遭っていて、おかしくはない」

 屠自古の見解に同調した神子は、意を決して宣言した。

「ならば、やはり私は……このまま穂積を攻めます」

 通常で考えれば民の数人、軍を動かしてまで助けるまでもない。ましてや神子自らが危険を冒す必要があるなら、見捨てるのが上策だ。
 しかし、それを出来ないのが豊聡耳神子。聖徳王と名乗るに相応しい人格なのだ。
 ならば、その妻である屠自古が反対をする理由はない。

「……父には一応、伝えておきましょう。ただし、時間がありません。返事を待っている暇など無いですよ」
「すみません。これは、私の我儘です。勝手な想いで軍を動かすなど……将として失格ですね」
「なぁに。父に斬首を命じられたら、私も一緒ですよ。夫婦ともども、仲良く斬られましょう」

 こうして蘇我軍は予定を変更し、砦を拠点として穂積の領地へと攻め入る事となった。
 そして軍議のあと……。

「え? 太子様たちは進軍するのですか? じゃあ、我も一緒に……」

 話を聞いた布都は、予想通りの反応をした。
 だから、神子と屠自古も予め用意していた返事をする。

「絶対に」
「駄目です」
「なんでですかー!」

 これより先は敵陣へと攻め入る強行軍。神子の傍といえども安全ではない。
 布都には神子たちが帰ってくるまで、取り返した砦に居てもらうことにした。
 今回ばかりは彼女たちの足枷にはなりたくないと、布都もしぶしぶながら了承してくれる。
 ちなみに。ここまでのお守りで疲れきっていた小野衣孟は「布都が砦で働くのを助けて欲しい」と神子に依頼され、顔がひきつっていた。
 屠自古はそんな彼を不憫に思い、布都のお守りを自分の配下に任せ、衣孟を本隊へと戻してあげるのであった。



   ◇   ◇   ◇



 穂積氏は勢力の小さな豪族であった。
 神がかった力を持つ人物がいた訳でもなく、軍隊も特別に秀でた力を持ってはいなかった。さらに領地は険しい山に囲まれているせいで国同士の物流から外れ、さらに雨の降らない場所としても有名で作物もろくに実らない痩せた土地であった。
 それでも物部氏の物量に屈するまで、その小さな領地を守り続けてきた。それを可能にしたのには大きな理由がある。
 それが穂積天然要塞だ。
 穂積の都は山に囲まれた盆地にあり、そこまで攻め入るには、必ずこの要塞を通らなければいけない。
 この要塞は山岳に築かれた天然要塞であり、自然に出来た巨大洞窟を利用したもの。それらの洞窟は内部で複雑に繋がりあっており、全ての構造を把握しているのは穂積氏だけである。
 曰く、攻め入った敵軍は気付けば辺りを穂積の兵に囲まれ、四方八方から攻められて撤退を余儀なくされるという。しかも退いた相手は逃がさずに全滅させるという、機密保持の徹底ぶりだ。
 洞窟を利用した軍隊運用。この一点に重きを置いた穂積軍は、未だかつてこの天然要塞を落とされたことがない。

 そこに、戦神率いる蘇我軍がやってきた。
 要塞のある山を望める草原、領地の境界線に陣を敷く。
 家族を奪われた蘇我の農民たちは、全ての私財を投げ出す覚悟で神子たちに協力した。おかげで兵糧は十分。人質の問題さえなければ長期戦も可能なくらいであった。

「……あれが、噂の天然要塞ですか」
「私も初めて見ます。というよりも、実際に要塞内部を見た者は、生きて帰った試しがないですからね。初めて見るのは当然でしょう」
「大和有数の、難攻不落の要塞……。しかし、相手が数に任せた勝負をするというのなら、私が露払いをすれば済む話ですが」
「……いや。今回は神子様。あなた個人の力でも確実とは言い難い。洞窟を利用した戦法は、攻撃よりも防御に優れたものと推測されます。あなたが一つの隊に攻撃を仕掛けようとすれば、それらは洞窟の中に引っ込んでしまう。そして、また別の隊が別の洞窟からあなたを攻撃しようとする。その繰り返し」

 天然要塞に攻めいった敵が生きて帰れなくとも、情報だけは隙間を縫って要塞を出入りする。
 屠自古は付近の領民たちから集めた情報を元に、要塞における穂積軍の戦略を想定したのだ。

「とんでもない持久戦になりそうですね」
「最悪、洞窟の中まで深追いしたあなたを、生き埋めにする戦術だってあるかもしれない。……今回ばかりは、あなたを突撃させる事は出来ません」
「……分かりました。屠自古がそういうのなら、従いましょう」
「あっ、いや……。あくまでもこれは、副将としての意見に過ぎません。最後の決断は、聖徳王に」

 屠自古は自重したが、他の将たちも神子に任せるのは反対のようだった。
 かといって本隊を運用したとして、要塞が攻略出来るかは定かでない。歴史上この要塞は破られた事がないのだ。闇雲に攻めても、無駄に兵士を死なすだけになる可能性が高い。

「突如として攻め入る事になりましたからね。……準備もないし、効果的な策が思い当たらない」
「……私の我儘でした進軍です。やはり、ここは私が……」
「いや! 駄目です。神子様が行くくらいなら、私が行きます……。って、あ!」

 そこで屠自古が何かを思いついたように、目を大きく見開いた。
 しかし、すぐに「いや……」と呟いて、唇を噛みながら首を横に振った。
 そんな動きをすれば嫌でも気になる。神子は尋ねた。

「どうしたのですか?」
「あ、いえ。妙案を思いついたのですが……しかし、これは使えない」
「どんな策でしょうか。聞かせてください」
「……例えば、こんな作戦があります」

 言うと屠自古は、地形図を手にとって説明を始めた。その概要はこうだ。
 まず、屠自古の隊が先陣を切って要塞に攻め入る。相手は獲物が来たと喜び勇み、洞窟に囲まれた場所まで屠自古隊を引き入れるはず。
 そこで暫く攻撃に耐え、その間に洞窟の入り口を把握する。後は、屠自古の召雷術を用いて洞窟の中を焼き尽くすのだ。
 そうすれば、全ての洞窟が繋がっている故に、穂積の軍は一挙に壊滅する。

「……おぉ! 流石は屠自古様。戦神の妃をされているだけある。見事な戦術ですな」

 一人の将が感嘆の声を上げる。
 だが、そこで屠自古が一つの付け足しをした。

「しかし、この策を成功させるには条件があります。召雷は広範囲に打っても、曲がりくねった洞窟の中までは侵入出来ません。それを可能にするには、十分な湿気が必要なのです」
「湿気?」
「そう。雷は水によって拡散されるものです。例えば大雨が降って、洞窟の中が湿気に覆われたならば、召雷を拡散させる事によって洞窟全体を攻撃できます」

 そこで見識に長けた高齢の将が疑問を口にする。

「洞窟、というのは水の神が住む場所と言われております。もとより湿気というものに満ちておるのではないですかな?」

 しかし屠自古は残念そうに首を振る。

「確かに洞窟の奥はすでに湿気に覆われているかもしれない。しかし穂積は枯れた土地です。洞窟の入り口、そしてその周りは雷の拡散を阻む乾燥した空気に覆われているはずです。いくら火矢で砦に火をつけたとしても、川を挟んだむこうにある都まで炎は届かないでしょう?」

 ふと、そこまで黙っていた神子が暗い表情でいたことに気付き、屠自古はさりげなく付け足す。

「ちなみに……召雷が拡散すれば威力は弱まり、直撃しても敵が二・三日は動けなくなるだけです。虐殺にはなりませんから、蘇我の名誉も守られることでしょう」

 それを聞いてホッと胸をなで下ろす神子に、屠自古は「全くこの人は」と呆れる。しかし敵兵の命を心配する彼女らしさに安心もした。
 だが、ここまで長々と説明した作戦も、屠自古は最初から使えないと断じている。その理由は、蘇我軍がここを攻める事情にあった。

「つまり、この作戦は雨が降らなければ使えないという事です。ということですので……」

 それを聞いた将たちは屠自古の言わんとしている事に気付き、一斉に落胆の表情を浮かべる。

「そんな……。今は快晴ですし、もし数日間も雨が降らなかったら……。間に合わない」

 人質を救いたい神子にとっては、雨が降るのを悠長に待っている余裕はなかった。だから屠自古はこの作戦を思いついたものの、自分の中ですぐに棄却したのだ。

「山の天気は変わりやすいと聞きます。天が我らに味方して、今すぐにでも雨が降り始めたら……この作戦を実行するのが良いと思うのですが」

 屠自古は雨の一滴すら降りそうにない、快晴そのものの空を睨みながら言った。
 一方で神子には、雨が今すぐに降るかどうかの他に、気がかりなことがある。

「しかも、雨が降りそう……または降ってきたから進軍したとしても、いざという時に雨が上がっていたら大変です。攻撃も出来ず退却も出来ず、屠自古の隊が孤立してしまいます」
「それは、しょうがないでしょう。天気というのは人間にはどうしようもない、神様の気まぐれで決まるものですからね。雨が急に上がったりしたら、その時は、そういう運命だったと諦めますよ」
「ならば、たとえ今すぐに天から恵みの雨が降ろうとも、そんな運任せの作戦に屠自古を向かわせることは出来ません……」
「……しかし、み……聖徳王。他に手立てがあるのですか? 他の作戦を考える時間も……」

 つい熱を持ち始めた軍議場の中で、一人の若い将がおずおずと手を挙げた。
 先ほどまで布都のお守りをさせられていた、小野衣孟である。

「あの~……。先ほど、屠自古様が言ってましたよね。天気は神様の気まぐれで決まるって……」
「そうですね。何か心当たりが?」
「えーっと。あの方、確か……“そういう事”が出来るんじゃないですかね?」
「あの方って……あ」

『布都!?』

 神子と屠自古の声が重なり、数分後、砦へと早馬が走らされた。




8.穂積天然要塞の死闘・後





「それでは、行って参ります」

 大きな弓を手に持った屠自古が、神子へ向けて出陣を告げる。
 自ら敵の術中に嵌りにいくという、危険な役回り。だが彼女にしか出来ないことであり、彼女になら任せられると神子は思っていた。
 だから悲壮感などは出さずに、互いに笑顔すら浮かべて相対する。

「……その格好のままで往くのですね。動きづらくはないのですか?」

 屠自古が身に纏っている美しい深緑の着物を指し、神子は尋ねた。

「神子様だって普段着のまま戦っているではないですか」
「私のこれは……元より戦い易いようにと、華やかさと動きやすさを兼ね揃えているのです」
「なるほど。だったら、私の服だって戦向きですよ。私が汚れ一つない衣装をこの身に、優雅に戦い続ける限り、部下の心は死ぬことがないですからね」
「……意外です。あなたの口から“優雅に戦う”という言葉が出るとは」
「ふふ。あくまでも戦果重視の結果、優雅に戦おうというのですよ。私はあなたと違って一人では戦えない。部下が使い物にならなくなれば、自分の命が危うくなりますからね。自分の盾は多いほうが良い」
「また、そのような事を……。あなたほどに部下思いの将も珍しいでしょうに」
「……あぁ、神子様。もう行かなくてはいけません。それでは……雨が上がったらまた会いましょう」
「ええ。気をつけて……」

 屠自古の隊が山岳要塞へと侵攻していく。恐らく、彼女らが要塞の中へ誘い込まれるまでは、何も問題ない。お互いに「相手を罠に嵌めよう」と予定調和の動きをするだろうから。
 肝心なのは、祈祷の方である。

 ――数時間前。

「……我の力で……勝敗が決するというのです、か」
「勝敗が決するとは言わない。ただ、私が生きるか死ぬかが決まる、とだけは言っておこう」
「屠自古……。そんな重圧の掛かることを、何故わざわざ言うのですか」
「事実でしょう? それに、私の生き死にで重圧が掛かるほど、私と布都姫は仲良くないですからね」

 砦より呼び出された布都は、最初「一緒に戦えるのですね!」と元気にはしゃいでいた。
 しかし自分の役割と、その意味を聞かされると一転。その顔が青ざめるのを隠せずにいた。

「布都……。あなたが出来ないのであれば、もしくは自信がないのであれば作戦は中止します。いえ、私としては確実に出来るという自信がなければ、是非言って欲しい。屠自古を危険に晒す訳にはいきませんから」
「……私は旦那様から愛されてるねぇ。しかし、王。危険に晒されぬ兵など一人もおりませぬ。迅速な勝利が求められるこの場面、布都の成否が半々だとしても、私は実行するべきだと思いますよ」

 神子と屠自古、二人の意見に挟まれた布都は落ち着きなく身体を揺らし、空を見上げた。そこには雨の「あ」の字も見せぬ燦々たる太陽。

「布都、どうなのですか? はっきりと言ってください。雨雲を呼ぶことが、可能なのか否か」
「……我は……」

 周りの武将たちの目もある。自分が出来ないと言えば、きっとこの作戦は中止となる。
 役に立ちたい。でも失敗すれば、屠自古が死ぬかもしれない。いや、死ぬ。

 葛藤が布都を苛み、しかし、彼女は自分で決定した。
 彼女はその為にここまで来たのだ。戦い以外で神子の役に立とうと。
 そんな約束を、他ならぬ屠自古と交わしたのだから。

「出来ます。我は雨雲を呼ぶことが出来ます。なにせ……元・大物忌ですからね!」
「良く言った、布都姫。ちなみに……雨が降るまで、どのくらい掛かる? 今すぐに祈祷を始めたとして」
「じ、時間か。……太陽があの一本杉の頭に刺さるくらい、までだな」

 布都が指さしたのは山あいに見える、背の高い杉の木。沈んでいく太陽がそこに隠れるまでは、おおよそ二時間といったところだろう。

「本当か!?」

 屠自古は驚きのあまり、思わず布都の肩を掴んだ。その驚きぶりには他の将たちも何事かとざわめく。
 何しろ神の力に理解あるものは知っているのだ。雨乞いというのは通常、何日もかけて行うものであると。それが二時間で出来ると言われれば、つい大声も出よう。

「い、如何なされたのですか? 屠自古殿」
「あ、いや失敬。……そんな短い時間で雨を降らせられるとしたら、文句のつけようがない。今すぐにでも私が出陣すれば、ちょうど要塞に入る頃に雨が降るか。……元・大物忌の肩書きは伊達じゃないって事ね」

 感心する屠自古をよそに、しかし神子は心配な様子であった。

「……布都。もう一度だけ尋ねますよ。――本当に雨を降らす事が出来るのですね?」
「え、ええ。我の力ならば……あっ、でも……」
「でも?」
「我が出来るのは雨雲を呼び寄せるところまで……。それがいつまでこの地に留まるかは分かりません。折角呼び寄せても、すぐに雨が上がってしまうかも……」

 その不安には、屠自古が答える。

「安心なさい。私は雨が降る前から乗り込むつもりだ。降ってきたのと同時に、召雷をすれば問題ない」
「そ、そうか。あっ、でも……えっと、あと……」
「あと?」
「この戦場には儀式の為の品がありません。よって、他の物から力を拝借しなければいけない」
「他の物とはなんですか?」
「人の意思……。雨を降らせたいと願う、大勢の人の力が必要です。我が中心となって、その思いを神に届ける事によって雨乞いは成功します」

 こちらの不安も解決は簡単だ。神子と屠自古は思わず笑顔になる。

「人か。それならば、腐るほどいるじゃないか!」
「兵たちに説明して、協力してもらいましょう。布都、それで良いですか?」
「ええ! それならば大丈夫です。きっと我が雨を降らし、蘇我軍に勝利をもたらしましょう!」

 こうして布都の雨乞いを軸とした、召雷作戦が決行されることになった。
 屠自古たちは出陣の準備をし、布都の雨乞いが実を結ぶのを待つ。そして雨雲が発生した所で侵攻、雨が降る中で攻撃に耐えながら洞窟の位置を把握し、湿気が十分に溜まったら召雷で一気に勝利。それが全体の流れだ。

「それでは皆さん。こちらにいます布都姫が、今から雨乞いの為の祈祷を始めます。皆は彼女を囲み、我が軍の勝利の為に『雨よ降れ』と祈って下さい。皆の、一人ひとりの願いがあって初めて成功するのです。強く、ひたすらに願うのです」

 集まった大勢の兵士の前で、神子が説明をする。布都は急造の祭壇で、静かに座していた。

「……大丈夫ですかね。屠自古、やはり……」
「まだ心配してるんですか? 大丈夫、雨が降らなかったらトンズラこきますよ。正直な話、人質の為に命を張るほど、お人好しではないですから……。私はね」
「いえ……。雨が降るかも心配ではありますが、それよりも布都です。砦までの戦いなどでは本陣の雑務などをしていただけでした。しかし、今回は蘇我の兵たちの中に一人、取り残されて祈祷をするのです。それは……彼女の心を苦しめるような事になるかもしれない……」
「……物部氏の姫か。まぁ、快く思っていない兵もいるでしょうね。ただでさえ、神子様は布都を溺愛ですし。嫉妬されるかも」
「で、溺愛などしていませんが……。そうした悪意を感じ取ってしまえるほど、彼女は神性が高い子です」
「多くの悪意に包まれて、祈祷が中断するかもしれない。下手をすりゃ心に傷をつけるかもしれない……か。まぁ、そのくらい揉まれた方が良い経験になるとは思いますがね」
「しかし……」
「神子様。もっと自分の兵を信じてあげたら如何ですか? 蘇我の連中だって、そんなに悪い人ばかりじゃないですよ」

 屠自古の言葉に、神子は恥じ入った様子で目を伏せた。

「……それもそうですね。屠自古、すみません」
「私に謝らないでくださいよ。……さて、蘇我の民。失望させてくれるなよ」

 そんな会話をよそに、布都の祈祷はついに始まろうとしていた。
 なにやら難しい言葉を天に向って投げかけ、握り合わせた両手を太陽に向ける布都の姿は、神子たちが見ていた無邪気な少女とはかけ離れたものであった。
 それは聖童女と謳われるにふさわしい勇ましさ、清らかさ。

「……初めて見ましたよ。布都のあんな姿」
「ええ。仲が良い人間でも、知っているようで、知らないものですからね」
「布都が大物忌やってた時の姿、見てみたいなぁ。きっと笑っちゃいますよ、私。……そういえば、何で彼女は引退したんですかね? クビになったとか?」
「いえいえ。大物忌とは十歳までの童女にしか務められない神職ですからね。布都は十一歳の誕生日を迎えると同時に、大物忌を辞して鵜眞の元へ嫁いできたと聞きます」
「……引退と同時に、うちに嫁いで来たんですか? ……それもおかしな話ですが……」
「そうですか? 何かおかしいでしょうか」
「だって、そんなすごい神職についていた娘を、調停の為とはいえ嫁がせるなんて……。杜矢には妹の布都の他にも、娘や何やらと差し出せる身内はいたはずですよ。それも引退と同時となると、まるで待っていたかのようじゃないですか」
「……言われて見れば……」

 そんな会話を打ち消したのは、兵士たちの大きなざわめきだった。
 気付いた神子と屠自古が空を見上げると、そこにはさっきまで影も形もなかった黒い雲が、もくもくと姿を現していた。

「すごい! 祈祷を始めてすぐだというのに!」

 それは時間にして、ほんの十分程度のことだった。屠自古は布都に驚かされっぱなしだ。

「布都……。やはり彼女はやってくれそうですね」
「さて、進軍は晴れている内にやった方が楽だ。さっそく、出陣の支度をして参ります」
「ええ、私はここで祈祷を見守ります。いってらっしゃい」

 太陽の光を失い、薄暗くなった草原。そこに集まった蘇我の兵たちは、黙々と祈りを捧げる。
 その中心にいる少女は、額から大粒の汗を流しながら、一心不乱に神との会話を続けていた。



   ◇   ◇   ◇



 屠自古率いる先遣隊が敵陣に攻め入ったのは、もはや随分と前のことに感じられる。
 それほどまでに、何もないのだ。
 忙しく働いていれば一日などあっという間だが、暇を持て余してうたた寝ばかりしていれば一日は長い。それは戦場においても同じことのようであった。
 敵の攻撃はおろか、牽制や様子見といった気配すらなかった。

 噂に聞く枯れた山。緑が少なく岩肌がむき出しになっている道を、彼女たちは進んでいく。

「……随分と大人しいですね」
「ああ。まさか、ここまで何もしてこないとは思わなかったよ」

 屠自古に随行するのは、蘇我の将である蘇我蔵麻呂。屠自古の異母弟でもある。
 蘇我鵜眞は、子供の多い男であった。布都のように実質、夫婦関係にない者を含めれば妻も十以上いる。
 あまりにも一族が多いと関係も希薄になる。屠自古と蔵麻呂のように血を分けた兄弟でも、本人同士は大した繋がりがない場合が多い。
 むしろ彼女らは兄弟としての関わりよりも、武士としての関わりの方が長いのだ。だから他人行儀というように映るかもしれないが、上下関係もはっきりしているし深い情もない。

「このままでは、早く着き過ぎるかもしれませんね」

 空に浮かぶ黒雲を眺めながら、蔵麻呂が呟いた。
 風の中に僅かな湿り気を感じるものの、肝心の雨はまだ降ってきてはいない。
 屠自古も「ああ」と同意する。

「要塞前で警戒しているように見せ、多少の時間を潰した方がいいかもしれないわね。……兵たちに伝えてちょうだい」
「分かりました」

 屠自古隊は要塞の近くまで到達すると、そこで暫く様子を伺った。
 あまりに早く着いても雨が降らなければしょうがない。今回の作戦ではそういった時間調整が重要なのだ。

「時読みから報告です。祈祷が始まってから、間もなく“一つの読み”が経過すると」
「一つ……か。そろそろ降ってもおかしくないのだけれど」

 時読みとは、蘇我の誇る特殊な兵種である。
 彼らは自分の心臓の鼓動を目安に携帯する札をめくっていき、時間の経過を正確に計る。
 それによって戦にかかった時間を記録したり、今回のように時間経過が重要な作戦に随行するのだ。
 そして“一つの読み”とは一時間を意味し、つまりは布都の指定した時間まで半分を経過したということだ。

「……分かった。どうやら自分たちの要塞についてこちらが警戒しているのは、相手も良くご存知のようだ。あんまり待たせても失礼だから、そろそろご招待を受けようか。……全兵、移動の準備をせよ!」

 屠自古が弓の弦に指を這わせながら、楽しそうに命じた。

「……屠自古殿は、本当に戦うのがお好きなのですね。昔と違い」

 その様子を見た蔵麻呂が、淡々とした様子で訊いた。屠自古は「その通りだ」と誇らしげに返す。

「この臭い……。戦いの臭いが私は好きなのだ。私はこうして気兼ねなく戦場に立てる日を、心待ちにしていた。――蔵麻呂は戦いをどう捉える?」

 屠自古の声に、蔵麻呂は声を小さくする。
 周りの兵たちに聞こえぬよう、耳打ちのようにして。

「私は……戦いがあまり好きではありません。本当は父のような政治家になりたかった」
「なれば、何故この戦場にいる?」
「才が……自分には戦いの才しかないと分かってしまったのです。政をする才に乏しく、兵を率いる才を持つと、自分で分かってしまったのですよ」

 自分と似ているようで、全く違う悩みなのだな、と屠自古は思った。
 才能に恵まれて、その通りに戦いたかったのに、女であるという理由でそれが叶わなかった自分。
 対して蔵麻呂は政治家として活躍したかったが、その才能がなかった。そして、戦いという別の道で才能が開花した。
 それは確かに悲劇ではある。しかし、まだ随分とマシではないか。

「ふむ。気付いて良かったじゃないか。才に合わぬ事をして生涯を無為に過ごすより、よっぽど有意義だ。その蘇我の血を色濃く継いだ身体、誇らしく思うと良い」

 気合を入れるように蔵麻呂の背を軽く叩いた。これから戦いだというのに、そんな事でウジウジされていても困る。
 そして、屠自古は兵を鼓舞するように威勢よく宣言した。

「さぁ、行くぞ! 未だかつて落とされた事のない穂積の要塞。我々の手で、見事うち崩してみせるのだ!」
『おぉォー!』

 兵たちの雄叫びと共に、いよいよ屠自古は要塞へと侵攻していった。
 と言っても天然の地形を利用した要塞である。どこからが要塞であるのか、はっきりとは分からない。
 その代わり、敵が教えてくれる。「ここからが我ら自慢の要塞である」と。矢の雨をもって教えてくれた。

「来たぞ!」

 右前方、崖の上に作られた柵から撃ち手が覗く。盾となる木々が少ない代わりに、彼らは調達した木材で柵や壁を作るようだ。
 屠自古は素早く矢をつがえると、誰よりも早く反撃に出た。
 放たれた矢は雷光を纏って空気を切り裂き、柵を突き破っていく。
 その直撃と同時に稲光が地上に咲き、崖の上の敵兵たちが断末魔をあげる。

「適度に反撃しつつ、左の道へ往くぞ」

 敵も、ここで食い止めようとして、本気で攻撃してきた訳ではない。
 彼らの目的はあくまでも巣穴への誘導。敵軍を“喰らう”ための罠へ誘うこと。
 そして屠自古たちの目的も、敵の巣食う中心部まで辿りつくこと。
 ならば、ここでの反撃と味方の損害は最小限に留め、敵が誘導したい方へと誘われてやるのが最善。

「退け、退けーッ!」

 敵には怪しまれぬよう、必死の形相で撤退を指示する。
 今度は逃げ道を塞ぐように、今来た道から敵が湧いてきた。

「……なるほど。これが洞窟を利用した戦法か」
「突然、湧いてきたように見えますね」
「恐らくは崖の上にある洞窟から、回りこんで来たのだろう。……大概の敵はいつの間にか囲まれた事に驚き、咄嗟に手薄な所に逃げると……」

 そして屠自古たちも矢を撃ち返しながら、敵陣の奥へと押し込まれていく。

「……こちらの兵が、何人かやられてしまったか。しかし、まぁ最小限だな」
「屠自古殿が撃った雷光の矢、あれで攻撃が大分薄まりましたね。はったりでも効きました。かなり力を抑えているのでしょう?」
「あまり強いのを撃ち過ぎても、警戒されて罠まで誘導されなくなるかもしれないしね。それに奥の手は隠しておきたい」

 ふと、空を見上げる。
 もはや青色はなくなり、空は完全に黒い雲で覆われた。
 今にも降ってきそうな天気だ。

「……さぁて。あまり濡れたくはない。機を見計らって飛び込んでいくぞ」

 攻撃を受けながら山道を移動し、やがて屠自古たちは一本道に導かれていた。
 ここから自分たちが取れる選択肢は、退却か進軍か。退却すれば強烈な攻撃で追い返され、進めば敵の“狩場”へ到着する。なるほど、こうして今までの敵は嵌められてきたのだ。

「だが、今度ばかりは我々の術中に嵌ってもらうぞ」

 隊は敵の攻撃を背にしながら、早々と道を進んでいく。
 やがて屠自古たちは、すり鉢状の地形の底にたどり着いていた。周りは断崖絶壁。来た道と行く道は、どちらも急な勾配の坂となっている。重い武具に身を包んだ兵士たちがこれを登るには、かなり労力がいるだろう。ましてや戦いながらなど不可能だ。

「ここだな。……来るか?」
「全員散開し、攻撃に備えよ!」

 蔵麻呂の命じる声が響くのと同時、崖の上から一斉に矢が降り注ぐ。
 屠自古は右手を上に挙げ、力の限りに叫んだ。

「召雷!」

 右手から放たれた雷光が、降り注ぐ矢の大半を焼き尽くす。しかし、残りの驚異が彼女たちの頭頂に喰らいつこうと加速した。

「ぐぁ!」
「あああ!」

 周りで何人かの悲鳴が聞こえた。しかし、それに構わず屠自古は弓を引き、崖上に向けて矢を放つ。
 兵士たちには囮になってもらい、その間に自分は洞窟の位置を把握するのだ。

「頼んだわよ、みんな」

 あまりに召雷を使いすぎる訳にもいかない。「敵の術師に歯が立たない」と思われて撤退されれば、全ては水泡に帰す。
 屠自古は戦場で一人、目立たずやられず、動き回る。

「各自崖を背にせよ! 正面の敵に反撃するのだ!」

 その間の指揮を代わるため、蔵麻呂が補佐として随行している。彼は屠自古に代わり指揮を執りながら、矢の的にならぬよう動き廻り、そして適度に矢を撃ち返す。

「一つ……二つ……」

 一方で屠自古は洞窟の位置を確認しつつ、矢で確実に敵兵の数を減らしていく。

「おっと」

 自分を狙ってきた矢を軽やかに躱す。そこで屠自古は、ふと戦況を確認してみた。
 こちらの兵士が数人倒れている。十人以下、上出来である。
 さて、そろそろか。と彼女は大きく息を吸った。

「撤退だ! 一旦退け、退け!」

 その声に反応し、幾人かの兵がもと来た道へと戻ろうとする。
 するとそこには、さっきまで居なかったはずの敵兵が既に待ち構えていた。

「屠自古様! 退路が塞がれています!」

 部下の悲痛な叫びを聞いて屠自古は、内心「なかなかの演技をする」と部下を褒めた。
 実際、矢の雨に打たれ続けている兵士たちにとっては撤退したいのも半分本心であるが、そもそもこの撤退劇は敵を欺く為の作戦なのだ。
 敵の罠に嵌ったあとは、蔵麻呂が指揮を執る事に決めてある。だから屠自古の命令はあくまでも偽物、彼女の偽命令に従ってみせる兵士は予め決めてある。
 恐らく敵兵は退却に失敗した蘇我兵を見て、罠に嵌って退却も出来ない、いつもと同じ哀れな獲物だと見下しているのだろう。だが屠自古は、逆転への布石を着実に打っている。

「十一……十二……まだあるのか? いや、もう十分だろう!」

 これだけの入り口に雷を流しこめば、隅々まで行き渡るはずだ。
 屠自古はそのように確信して、蔵麻呂へと「準備完了」の合図をした。
 彼は泥にまみれた顔にうっすらと笑顔を浮かべ、大きく頷く。

「さて、これであとは雨が来れば……勝ちだ!」

 弓を撃ち、さらに一人の敵兵を屠った。
 敵も迂闊に身を晒すことを恐れ、曲射による当てずっぽうな攻撃に切り替えてきている。おかげで屠自古たちの被害も激減し、時間稼ぎが容易になってきた。
 度々、飛来する鏃に気を配りながらも、屠自古は蔵麻呂の元へと近づいていった。

「蔵麻呂っ、あとどれほどだ?」
「分かりません。時読みがやられました」
「……くそ。いや、しかし、もう大分経つはずだ。そろそろ、あの雲から雨が落ちてきても、おかしくはない。っと!」

 矢をひらりと躱し、出所に向けて反撃する。彼女が背負っている矢も残り少なくなってきた。

「屠自古殿、矢を」
「ああ、すまない」
「なに、私が使うよりも有意義だ。……それにしても」
「どうした?」
「……あの雲」
「雲が、どうかしたか」
「本当に雨雲なんですかね」
「……何を、馬鹿な事を言ってる! それより、反撃を休むなよ!」

 あれが雨雲でなければ。それは雨が降らないという事か?
 雨が降らないという事はつまり。
 それは自分たちの全滅を意味している。

「そんな馬鹿な事が……」
「屠自古殿!」
「どうした、蔵麻呂!」
「時読みの死体、今、見たのですが」
「結論を言え! さっきから……」
「こやつ、死ぬ間際に、時間経過の札を全て、めくっておりました」

――つまり、それは、布都の言っていた二時間など、とうに過ぎていたということ。

 言った瞬間。蔵麻呂の胸に矢が突き刺さる。
 動きが止まった獲物を狙い、周りから一斉に矢が放たれた。
 屠自古の目の前で、蘇我蔵麻呂は針鼠のようになって倒れる。全身から血を吹き流し、力尽き。



  ◇   ◇   ◇



 蘇我の本陣。雨乞いは依然として続いている。しかし、その場の空気が次第に変わってきていた。
 戦神の命に応じて一心不乱に祈りを捧げていた兵も、やがて雨粒の一つさえ落とさない頭上の雲に不信感を覚え始めたのだ。
 布都は身体を大きく揺さぶり、全身から生命力を搾り出すかのように、必死の祈祷を続けていた。
 そんな彼女を見る兵士たちの目が、次第に疑惑の色を濃くしていく。

 その様子をただ心配そうに、神子と衣孟が見つめていた。

「……そろそろ、太陽が杉の木に隠れますね」
「神子様。屠自古様が敵陣に入って、かなりの時間が経っています。いい加減に雨が降らないと……」
「待つしかありません。布都の力を信じて、ただ屠自古が耐えるのを祈るしか……」

 衣孟に対して言った言葉とは裏腹に、神子自身の心中も焦りに支配されつつあった。
 雨雲が発生してからはや一時間。しかし黒い雲は雨の一滴も落とさず、ただ太陽を覆い隠しているのみである。

「いよいよとなったら、私が屠自古を援護しに行くしかありません」
「それは……。罠に嵌っている味方を助けるのには、かなりの危険が伴います。承服でき兼ねますね」
「しかし、このまま見殺しにするわけには……」
「神子様。布都姫様を信じましょう。……僅かながらの付き合いでしたが、彼女は虚栄を張ったり屠自古様を陥れるような人ではないと理解できました。あの方はきっと、やります」
「そう、そうですね。私が信じなければ……。ありがとう、衣孟」

 一方、布都は延々と神に語り続けながら、この場にいる他の誰よりも焦っていた。

「神よ、恵みの雨を……どうか!」

 彼女が行っているのは、簡単に言ってしまえば“神への懇願”である。
『雨を降らせてください。お願いします』
 という願い事を、相手が了承してくれるまで続けているのだ。
 ただし、普通の人間がそんなお願いをしたくらいで神は動かない。
 やはり布都のような類まれなる力を持った者が祈祷をして、初めて神々は聞く耳を持つのだ。
 更に彼女は神の血を引いている事もあり、神々により近い存在。
 自分たちと似たような存在の願いは、嫌でも気になるものなのだ。神様も依怙贔屓はするということ。
 だから布都には雨乞いを成功させる自信があった。
 盛大な儀式による介添えがなくとも、蘇我兵たちの願いによって代替は出来ると踏んでいた。

 だが、彼女の願いは神々に届かない。

『なんで……なんでよ。早く雨を降らせてよ……。そうしないと屠自古が……死んでしまうというのにッ』

 彼女はじわりと滲む涙を押しとどめるよう、一層の大声を張り上げて天に祈る。もう喉は枯れ果て、疲れで手が痺れ、心臓は大きく脈打ち呼吸を速くする。

「神よ、恵の雫をこの地へ齎し給え!」

 何故、神が無視をするのか。
 私が物部を離れて、蘇我に与しているからか?
 それを怒って神は、私を無視するのか?

 そんな猜疑が彼女の心に広がっていく。

「……やはり、物部の娘だな」

 そんな呟きが布都の耳に入った。
 今まで懸命に祈りを捧げていた兵たちの間に、雨など降らす事は出来ないという諦めの気持ちが現れたのだ。祈りを辞めた彼らが考えるのは、中心で祈祷を続けている布都について。
 彼女の力が足りなくて雨が降らないのか? 初めから雨を降らす事など出来なかったのではないか?
 ならば、何故彼女は「出来る」などと言ったのか。

「聞いた事がある。布都姫と屠自古様は仲が悪いそうだ」
「なるほど。それで屠自古様を謀殺しようと、雨乞いが出来ると嘘をついたのか」
「なんと汚い、許せない。所詮は物部の姫か」
「そんな女を重用した王も王だ。敵の虚言に踊らされるなど……」

 先ほどまで雨を降らす為に一丸となり、布都を味方していた蘇我の兵士たち。
 それが一転して彼女に対する悪意となって、その身体を取り囲む。

『違うッ! 我は……そんな事、思っていない。屠自古を殺そうなど、思っていない! 我には出来る筈なのだ。見事に雨を降らし、蘇我と太子様に勝利をもたらすことが。そして、屠自古を助ける事が……。出来るはずなんだ……! なのに……何故、なんで雨が降らない!』

 呼吸が荒くなる。
 手の感覚が消失する。
 内臓が何やら痛む。
 それらは、決して祈祷のせいだけではない。
 布都の視界がぐんにゃりと歪む。



 ぺしん。



 いつか聞いた事のある音が、彼女の耳に入る。それが布都の心を、悪意の泥中より掬い上げた。
 思わず音のあった方へと振り返る。そこには、兵の頭を笏で抑える神子の姿があった。

「なりません」

 布都への猜疑でざわついていた兵士たちが、彼女の柔和な声によって静まり返る。

「今はただ、皆の心を一つにする時。物部布都は必ずや雨を降らせる。私はそう信じています」
「あ、しょ、聖徳王。しかし……」
「納得がいかないのなら、私が責任を持ちましょう。雨が降らないというのなら、私が命に替えても先遣隊を救い、戦を勝利に導きましょう。――いいえ。しかし、雨は降る」

 言いながら神子は兵たちの間を歩き、布都の傍にやってきた。

「そうでしょう? 物部布都」
「た、太子様。我は……我は、出来るはずなんです。嘘なんてついてません。我の力は……!」

 今にも泣き出しそうな彼女へと、神子はそっと耳打ちした。

『安心なさい。雨が降っても降らなくても。屠自古が死ぬ事はありません。この戦は、勝利します』

 そういうと神子は一人、砦の方に向けて駆け出した。

「あっ、ちょ! 聖徳王ッ!?」

 衣孟が慌てて追いかけようとするが、神子の早足には追いつけるはずもない。
 王の小さな背中は、あっという間に山の中に消えていった。

「……おいおい、戦神がいなくなったぞ」
「どうすりゃいいんだ?」

 困惑する兵士たちを見て、衣孟はとっさに大声を張った。

「聞いただろう! お前達の猜疑が、聖徳王を戦の終結に向かわせた! 残された我々に出来るのは、今一度心をひとつにして雨を降らせる事だ! 王の手を煩わせるなよ! 我々が蘇我を勝利に導くのだ!」

 言って衣孟は兵たちと同じように、地面に座して祈りを始めた。
 将の姿に兵卒は従う。蘇我軍は再び、雨乞いの為に一つになる。
 兵たちが捧げるのは、先ほどまでの純な願いとは異なる。罪悪感? 責任感? 将からの罰を恐れて? しかし、願いは願いだ。
 その中心で布都は、力強く祈祷を再開した。

「太子様。我は必ずや……」



   ◇   ◇   ◇



 神子は駆けた。
 屠自古たちの戦っている場所へ向かう為、その脚が張り裂けんばかりの力で地面を蹴った。
 敵の誘導などは要らない。彼女には分かっている。彼女には聞き取れる事が出来る。今まさに窮地に立たされている味方の、助けを求める声が。

「屠自古っ!」

 戦場に飛び込むな否や、神子は丙子椒林剣を抜いた。振るった一閃は降り注ぐ矢を、まるで突風にでも煽られたかのように逸らしてしまう。

「み、神子様? どうしてここに……」

 地面に片膝を着きながら、弓に矢をつがえた屠自古が目を疑っている。

「屠自古、無事ですか!? 兵たちは……?」
「見ての通り、半壊状態です。雨は、雨はまだですか……!?」

 屠自古の隊は、ほとんど壊滅状態であった。多くの兵が地面に伏せ、生きている者も立っているのがやっと。
 見れば屠自古も右腕から出血している。それよりも、命を奪おうと迫る鏃から長時間逃れ続けた事による、肉体と精神の磨耗が大きいようだ。

「雨は……雨は降るはずです。その間、私が敵の攻撃を止める」
「直に、敵がトドメを刺しに白兵戦を仕掛けてくるでしょう。そうなれば召雷作戦も意味がなくなる……。なんとか奴らを穴蔵に押し込んでいてください」
「分かっています。さぁ、岩陰で休みなさい」

 会話が終わるなり神子は大きく跳躍する。
 切り立った高い崖を一足飛びで乗り越えてくる。――そんな全く予想のつかない動きに、穂積の兵たちは動揺した。
 だが戦神の話は前々から聞いている。何人かの兵は落ち着いた様子で、宙空にいる神子へと弓を引いた。
 人は空中で身動きを取ることは出来ない。
 いくら戦神と言えども、これでは避けようがあるまい。

 穂積兵のそんな認識は、もちろん甘すぎた。

「日輪よ!」

 神子の身体を太陽の輝きが覆う。眩い光に目を潰された穂積兵たちは、神子の姿を見失った。
 そして次の瞬間には、彼女が懐に飛び込んでいる。

「がっ!」
「ぐぉッ!?」

 短い叫びを上げながら、兵士たちが次々と倒れる。
 それを見た周りの兵士たちは、顔を青ざめさせる。
 何せ彼らは弓兵。剣を持った敵が近くにいては、抵抗もままならない。

「逃げろ! 中に行け!」

 隊長らしき人間が洞窟の入り口で、兵たちを招き入れようとしている。
 神子はそれを見咎めると、入り口へと走った。

「うわァ! 奴が来たぞ!」

 悲鳴を上げながら洞窟に滑りこむと、兵士たちは我先にと洞窟の奥へと逃げこむ。
 だが神子としても、追い打ちを掛ける必要はない。ああして洞窟に逃げ込んでくれれば、それで良いのだ。

「降ろせ!」

 隊長の声が聞こえるのに一歩遅れて、神子の目の前に巨大な柵が降りてきた。
 どうやら洞窟の入り口を塞げるよう、上下に開閉出来る柵を設けているようだ。
 入り口を塞いで洞窟に篭ってくれるのなら、むしろ好都合。神子は柵の前から離れた。

「さて、次の洞窟に……」

 言って神子が振り返ると、その目の前に無数の矢が迫ってきていた。
 ありとあらゆる方向から撃ちこまれた、数多の凶器。

「う、わッ!?」

 思わず神子も冷や汗を流しつつ、剣で矢を切り払う。右足を鏃が掠め、うっすらと血が出てきた。戦場で血を見せるなど、もう随分と久しい事だ。
 自分が命を落とすかもしれない。
 戦場に立つものなら誰しもが掲げている覚悟を、この神子も数年ぶりに意識した。

「しまった。これは!」

 神子はそこで理解する。
 この洞窟の入り口は、それぞれ他の洞窟から覗ける位置にあるのだ。
 つまり柵によって締めだされた敵は、周りの洞窟から一斉射撃を浴びる事になる。
 気付いた神子が日輪の力を発現するのと同時、第二波が飛んできた。

「これは……くっ」

 剣と神通力によって矢を防ぎつつも、神子はこの要塞の恐ろしさをその肌で感じていた。
 どこかの洞窟へと攻撃を仕掛ければ、頑強な柵によって締めだされる。そして他の洞窟からの一斉射だ。
 これを正攻法によって突破するには、敵の矢が尽きるのを待つしかないのではないか、とすら思われる。
 だが、ここは敵の本拠地。矢が主力の敵軍が、こちらよりも先に矢を切らす事などありえない。
 つまり正攻法によっての突破は、不可能。

「私の力なら柵を壊す事も出来ますが……しかし」

 そうして洞窟に攻め入って、閉じ込められたりしたら大変だ。
 むしろ、こうして自分一人に敵が集中している間は、すり鉢の底にいる屠自古たちは無事。
 そう考えれば今の状況は、至って順調だと言える。

「だが、しかし……。ぐぅ!?」

 剣を振るう手に痺れがあった。既に矢を切り払う事、数十回。彼女とて疲労を感じない訳ではない。
 今までは敵が攻撃をする前に、神子が敵を倒していたというのもある。こうして倒せない敵から延々と攻撃を受けるという戦いは、彼女が思っていた以上の消耗を強いてくる。

「だが、休む訳にも……!」

 彼女の心は折れない。
 それは手にもった丙子椒林剣が、その美しい刃を保っている事で証明される。

「手……が……!」

 痺れにより手指が感覚を失い、気を抜けば剣がどこかへ飛んでいってしまいそう。
 額から汗が垂れる。美しい衣装も、既にずぶ濡れだ。

「あっ、つ……!」

 鏃がついに肌を越え、肉を浅く裂いた。
 真っ白な二の腕に一筋の朱が引かれる。

「ここで、死ぬわけには……」

 地面もぬかるみ、足が滑らないように注意が必要である。
 拭っても、拭っても、顔を滴るものがおさまらない。

 死。
 それを意識する。
 ここで死ぬのか。
 理想の国を作る夢は、ここで途絶えるのか。
 そう考えると、自分という存在のなんと矮小なことか。
 さんざん偉そうなことを人に言っておいて、ここで死ねば全ては無に帰す。
 なんと、無意味なのだ。死とは全てを意味のない事にする。遺したものなど人にとっては無意味なのだ。全ては歴史の中に埋もれ歪曲していく。

「神子様ッ!」
「あ……」

 遠くから聞こえた屠自古の叫びで、神子はようやく気付いた。
 そう。すでに辺りは豪雨によって、容赦なく洗われていたのだ。

「すみません!」

 神子は大きく飛び退いて、洞窟の入口から離れた。
 その際に肩を矢が掠めていったが、それも今は痛みを感じさせない。

「……待ちくたびれたわ。布都の奴め!」

 屠自古は嬉しそうに笑いながら、その右手を天に突き上げた。

「召雷!!」

 特大の雷が地面に向かい、途中から枝分かれする。まるで導かれるように雷光が、口を開けた洞窟へと吸い込まれていく。
 穴蔵からこだまするのは甲高い悲鳴。地獄の底から沸き上がるのは僅かな歓声。
 穂積天然要塞は“構築”から数百年、この日、初めて敵の前に屈した。



   ◇   ◇   ◇



 本陣に戻ってきた屠自古たちは、大歓声に包まれた。
 すでに大きな落雷を合図として、掃討部隊が要塞の制圧に向かっている。
 ここに残っているのは、衣孟らが率いる僅かな兵。それでも、轟いた勝鬨の大きさはいつもと比べ物にならない。

「やりましたね、聖徳王。あの穂積要塞を落とすとは……あなたの名声は更に上がるでしょう」

 近づいてきた衣孟の賞賛の言葉を、しかし神子は素直には受け取れないでいた。

「……私は、将として失格です。今回の戦いはあまりにも犠牲が多すぎた」

 屠自古たちの隊はほぼ壊滅状態と言って良かった。あまりに急いた攻めの代償は、それだけ大きかったのだ。
 蘇我蔵麻呂を始めとした有能な将を失い、屠自古自身も手負い。彼女は神子に支えられながら、ここまで歩いてくるのがやっとだった。

「神子様……もう、大丈夫です」
「屠自古! そうだ、早く治療を……」
「いえ、私は……大丈夫です。それより他の者を……」

 そう言って屠自古が神子から離れた瞬間、小さな影が飛び込んできた。
 ひらりと衣装の裾を靡かせて、それは屠自古の胸にひしとしがみついた。

「ううぅう……うわぁぁああ」

 勝利を収めた感涙にしては、随分と悲壮な鳴き声が辺りに響く。
 屠自古は震える手で、自らの胸元にある頭を撫でた。

「やれやれ、いきなり泣きつかれても困るよ。どうしたんだ、布都……」
「うわああああ……ごめん、ごめんなさい……我のせいで……!」
「落ち着きなさい。……どうした? 布都のおかげで私たちは勝てたんじゃないか?」

 そこで布都はようやく顔をあげる。そこには涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった泣きっ面。

「我は頑張ったんだ……いつもの通りにやったんだ……でも、でも……なかなか雨が降らなかった。だから、そのせいで屠自古たちが……兵がたくさん死んだんだ!」
「馬鹿だな。死んだ兵は誰も布都を恨んじゃいないよ。もちろん死ぬよりは生きる方がいいけど、戦場では死ぬのが当たり前なもの。自分たちの死で蘇我が勝ったと聞けば、あの世での誇りになるだろうさ」
「……でも、でも違うんだ。屠自古たちの時はいくら祈っても届かなかった……だけど、けど太子様が……太子様が戦場に向かった後……太子様が死んじゃうって思ったら、そしたら届いた……ようやく雨が降ってくれたんだ。……だから、だからごめんなさい、屠自古!」

 しゃくり上げながら必死で弁明する布都を見て、屠自古は口元を緩ませ、思わず吹き出した。

「馬鹿だなぁ。そんな事は本人に言わなくても良いんだよ。“あなたの為に頑張って雨を降らせました”って言っときな」

 もう一度布都の頭を撫でてやると、彼女は力尽きるように倒れこんだ。
 それを咄嗟に支えた神子は改めて思うのだ。今回の戦いにおける傷の深さというものを。

 結局、蘇我軍が要塞を落とした時点で穂積氏は降伏をした。
 条件として蘇我領で捕らえた民の解放を提示すると、彼らはそれに従って人質を返還してきた。
 この段階で物部の介入があるかと思ったのだが、どうやらまだ仕掛けてはこないらしい。
 しかし、これを機に物部が蘇我と正面切って戦争状態に入るのは間違いないだろう。



   ◇   ◇   ◇



 蘇我氏の都、鵜眞の邸宅にて。神子は神妙な面持ちで座していた。

「……今回の戦いの責は、もちろん私にあります。どんな罰でも受ける覚悟です」

 鵜眞に向けて謝罪をする神子は表情を固くして、床に置いた丙子椒林剣を一瞥する。つまり彼女は、この場で斬首をしても構わないというのだ。
 それに対して鵜眞は一度「ふむ」と頷いてから、ゆっくりと口を開いた。

「それで……神子よ。お前は何を言っている? 何を謝るというのだ」
「え? あ、いや。――穂積領への勝手な侵攻。これにより物部は同盟豪族を救うという大義名分を得て、我々に牙を剥くことが出来ます。……鵜眞の描いている道筋を壊したことになる」
「……それで?」
「しかも、今回の要塞攻略では多くの兵を失いました。詳細は耳に入っていると思いますが、布都のせいでは決してありません。無謀な強行軍を指示した私の責任です」
「……しかし、穂積の天然要塞を落とした」
「戦果は勝利でしょう。しかし、あまりにも多くの犠牲が……」
「神子。剣をしまえ」

 厳しい口調の鵜眞に、僅かながら萎縮する。やはり父親代わりの彼の言葉は、神子にとっても特別である。愛剣を手に取ると、言われた通りに腰へと戻す。

「いいか、神子よ。戦争というのは人が死ぬものだ。……今までがあまりにも出来過ぎていた。お前の活躍により仲間が死ななかったのは、あまりにも傲慢な戦果であり過ぎたのだ。今回のような犠牲が、これからの戦いではいくらでも必要になってくる」
「……はい。それは、そうかもしれません」
「そして、聖徳王。お前は“自らを責めることなど許されない”のだ」
「それは……どういう事ですか?」

 いささか目つきを厳しくして、神子は問うた。

「今回の戦い、お前の言うとおりに失策と言えば失策だ。しかし、こう言えばどうだ?」

 そこで鵜眞は声色を変え、あたかもうわさ話をする民のような口調になる。

『未だかつて攻略されていなかった難攻不落の要塞を、聖徳王が攻め落としたらしい』
『しかも、その目的は囚われた民を助ける為だったそうだ』
『屠自古姫の神通力が活躍したそうだ。布都姫は天候を操り、戦況を有利にしたらしい』
『蔵麻呂様が命を落としたそうだ。民の為に尊い犠牲になったのだ』
『あぁ、我らが蘇我の軍は。聖徳王はなんと素晴らしいのだろう』

 鵜眞が口を閉じ、部屋の中はしばらく沈黙が続いた。
 まるで歯を食いしばるかのように、神子は固く口を閉じたままだ。
 やがて鼻から深いため息を吐きながら、鵜眞が続きを話す。

「……そういう事だ。聖徳王は完璧でなければいけない。民から崇められる存在でなければいけない。その為に私は、どんな手でも使ってお前を“王”にする」
「虚言ではない……。しかし、限りなく都合の良い話にするというのですね」
「一つも嘘は言っていない。多大な犠牲が出たという事実を潜め、あの要塞を落としたという事実を強調するまで。……お前が許容しないのは分かっている」
「ええ。私はそのようなやり方、好きません」
「しかし、神子」

 鵜眞は笑みを浮かべた。それは自嘲の意味があったのだろうか。
 神子には分からなかった。いつの間にか、鵜眞の話している言葉が、上手く呑み込めない。
 十いる兵の言葉は聞き取れるというのに、最も親しい人間一人の言葉が聞こえなくなっていた。

 確かに鵜眞とは義理の親子であり、刎頸の交わりといえる堅い絆で結ばれているはずだ。そして、その根底には共通する『理想の国』という未来があり、依然としてそれに変わりはないはず。
 だが神子は感じ取ってしまった。
 鵜眞と自分が同じなのは、見ている未来だけなのではないか、と。
 それは彼の発した次の言葉で、決定的になる。

「お前はもう、聖徳王なのだよ」




幕間.山道にて





 暖かい陽気に包まれた山道を、聖徳王御一行が歩いて行く。
 穂積氏との戦から、はや数週間。傷も癒えた彼女たちは気分転換にと遊行へやってきたのだ。

「鹿肉! 鹿肉~!」

 ひときわ楽しそうにしているのは布都である。彼女の好物である鹿を狩ろうと屠自古が提案してから、ずっとこの調子ではしゃいでいる。
 その様子を見て微笑んでいる神子と、弓を片手に辺りを見回すのが屠自古。その後ろからは何人かの将が随行している。
 本当は女三人だけで遊びに行こうとしたのだが「王が外に出かけるというのに無防備すぎる。護衛として何人かの兵はつけねばならない」と鵜眞に怒られてしまった。
 そこで衣孟を始めとした忠臣が幾人か抜擢され、こうしてお供する事になったのである。

「やはり片岡の地は自然豊かで良いですね。一時はこの山で修行をしていた事があるのです。私にとっては思い出深い場所の一つだ」

 大きく伸びをする神子を見て、隣の屠自古は口元を緩ませた。

「なるほど。それで先ほどから神子様の表情も、少し和らいでいるのですね」
「……え? そ、そうですか? 自分では普段と変わらないつもりでしたが……」
「あの戦いからこちら、神子様はどこか元気がありませんでしたから。――こうして遊びに出かけるのも、時には大切ですよ」
「……ありがとう、屠自古。でも安心してください。私は大丈夫ですよ」
「鹿肉、鹿肉~!」

 静かに散策を楽しむ神子たちとは対照的に、布都はテンションが上がりきっている様子で、どんどん先へと走る。
 それを慌てて追いかけていくのは衣孟。彼は今回も布都の御目付け役に任命されたのだ。


「布都姫様~。早く進めば鹿が出てくる訳ではないのですよ~」
「しかにく~!」

 そんな様子を見て、神子と屠自古は互いに目を合わせて思わず吹き出してしまった。

「布都も……元気が出て良かったです。そうは思いませんか? 屠自古」
「ええ。彼女には大変な思いをさせてしまいましたね。でも、あの経験のおかげで多少は打たれ強くなったと思います」
「……ありがとう」
「何の御礼ですか?」

 怪訝そうに屠自古が問うと、神子は苦笑いをした。

「私は布都と遊んであげるだけで、彼女のためを……本当に彼女のためになる事を、考えてはいなかったのかもしれません。――貴方のような良い導き手がいるおかげで、布都もこの先、正しき道を強かに生きていけるに違いない」
「そんな大した事じゃないですよ。それに……貴方は王なのですから、妃に礼など言わなくて良いのです。……他の将の目もありますしね」

 ここにいるのは少数精鋭の武士たち。しかし、その中でも神子が女であると知っているのは、衣孟くらいのものである。
 雑兵だけでなく、ある程度の位を持った将からしても、神子の存在はあまりにも神々しい。彼女のことを人間ではない、と信じきっている者もいるし、下手に近づいてバチが当たってはかなわない、と思う者もいる。
 それぞれの理由で将たちは、神子に必要以上に近寄ろうとしないし、その存在の眩さに直視することを阻まれている。王に身を近寄らせれば年頃の娘にふさわしい香しさを持っていることや、身体つきが男のそれでないことは分かるはずなのだ。しかし、彼らは知らないし、知ろうともしない。
 薄々は感づいたとしても、はっきりと神子の正体を知っているのは、本当に限られた人間だけなのである。
 この辺りの神子についての差配も、鵜眞が上手にやってくれているのだろう。

 そんな彼らからすれば、神子に気兼ねなく近づいて楽しそうにおしゃべりをしている布都や屠自古には、ちょっとした畏怖を感じる。だから彼女たちは三人だけで話しているというわけだ。

「……さて、そろそろ頃合いです。獲物が出てくるかもしれません」
「おっと、そうだった。ふふ、幼少の頃より鹿狩りには良く興じたもの。この屠自古めが一撃にて仕留めてみせましょ――」
「太子様~!!」

 屠自古の言葉を遮って、布都が叫びながら駆けてくる。
 先ほどまで鹿肉に目を輝かせていたのとは違い、顔にはなにか焦りの色があった。

「どうしたのです、布都?」
「あ、あっちで……人が倒れてるんです!」
「なんですって……? 行きましょう」

 神子は布都の来た方角へと一目散に走り始めた。

「日輪がまた輝くとき その一」を読んでいただきまして、ありがとうございます。
東方神霊廟の委託販売から数日後。ひと通りのキャラでクリアを果たした私はこの話を書き始めました。
今までプレイしてきた東方Projectの中でも、キャラや音楽、単純にプレイしていての楽しさなどがハンパなかったです。
その興奮をそのまま二次創作に向けた結果が今作です。
よろしければ引き続きお楽しみください。
yunta
konparo@gmail.com
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.840簡易評価
2.100名前が正体不明である程度の能力削除
さあ、次だ。
3.100名前が無い程度の能力削除
これは続きを読まざるを得ない
9.100名前が無い程度の能力削除
蔵麻呂ぉおおおおおおおおおおおお!かわいそうに…脇役とて、俺はその名を忘れんぞぉおお!
さてと、続き…続き…
12.100名前が無い程度の能力削除
待っていました……。そうですか、「一番乗り」は貴方になりましたか……。
東方神霊廟のキャラクターは設定が難しすぎて私などには手を出せない代物。
それをこのように楽しく読める物語として消化することができる作品を待っていました。
今まで多くの前日譚を手がけてきた貴方なら期待もできようもの。続き、読ませていただきます。
19.100名前が無い程度の能力削除
 
20.100名前が無い程度の能力削除
布都ちゃんが、なんてかわいい
21.100非現実世界に棲む者削除
歴史物は大変面白いものばかりです。
この作品もかなり面白いです。
さて早速続きを読みにいこう。