Coolier - 新生・東方創想話

天国への階段

2011/10/30 22:05:56
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捨てられた書き付けに○●◇回程は書き続けたから、私は「死」と「ね」の二つの字だけは天界の誰より美しく書ける自信がある。
それはもう確信といって良かった。私の心の中だけでは。


隠す気など毛頭無かったが、霊夢の神社をつぶしたあの異変を起こした事がお父様にばれてから、天界は久しぶりにてんやわんやの騒ぎとなっていた。天人は、普段はすべての事象に対して居丈高に接していながら、そのくせ、こういうときには何をどうしていいのか分からないものだから、皆、自分が引っ越しの準備をしているのか夜逃げの準備をして居るのか分からない混乱であった。

普段は高貴なる天界の住人等と気取ってはいても、幻想郷の面々、特に強力な術を使いこなす八雲紫などとは正面切って対立したくないのが天人の実情だ。

だから、
「これ、天子! 人の話を聞いておるのか?」
今、お父様の幾分気取ったお叱りを受けているのだ。

私が、お父様の屋敷で正座を始めさせられてから二時間もたつか。
天人のあるべき心得から始まり、私たちがそろって天人になった「名誉ある」いきさつ、比那名居家の一員であることの気構えに至るまで、お父様は始終叫ぶようにさえずっていた。
名誉あるって、いったって、ねえ。と私は内心思うのだが。

少しあけられた円窓から中庭に目をやると、丁度縁側に沿って植えられて、三日まえから花を咲かせているヒナギクに、白黒の小鳥が舞い降りていたところだった。
隣の屋敷に住む、見た目の年齢が私と同じくらいの陶子が、戯れに植えていったものだ。

陶子は天人らしいと評判の娘だ。そうしておいて、いつも私と比較されながら優雅に微笑む。
ちなみに、私がヒナギクの隣に植えたローズマリーは一ヶ月で根が腐った。陶子が我が家に訪れたおりに、水をやりすぎた、と庭師は私を哀れむように見下して言った。

昨日は少しばかり雪が降ったせいか、しんしんとした外の寒さが部屋の内部にまで入り込んできている。
天人の体力であれば問題無いが、そのほかの生き物には辛いだろう。
つまり、今、部屋の中にいる私達が、外にいる三人の衣玖の同類の代わりに、せっせと雪かきをするべきじゃないのかしら。生物学的にはその方が合理的だ。ほら、屋根の上にいるあの子なんて、顔と耳を真っ赤にして真っ白い息を吐いているし。けれど、それが仕事だとか使命だとかという理屈で、この屋敷の者は誰一人としてあの子に声をかける者は居ない。他の天人達は、本当に気がついていないのだろうか? 彼女達がごく時たま見せる恐ろしい目つきに。

人は、誰しもなにがしかの仮面をかぶっている。
あの八雲紫だって、普段は呆けたような顔をしていても、幻想郷の守護者を自認しているときは、そういう者の、いかにも責任感を持っていそうな顔つきや態度へと化粧を変える。
お父様だって、家族以外の他人へは「立派な一天人」をする。だからといって、私と接する時はどうかというと、「天人の父」として私に接するのだ。
ならば独りの時はどうか?
何のことはない。そのときは、自分が「そうありたい自分」や「演じるのが楽な自分」に役割を明け渡すだけ。
自然体の自分や、本来の自分など存在しえないのだ。


「天子! こちらを向きなさい!」
似合いもしないのに薄紫色の元禄羽織を羽織ったお父様。
地上にいた頃は清貧とかいって、私やお母様も、風邪を引きそうな貧しい着物を着ていたのだけれど、そんなのはもう昔。今となっては、天人の格式とやらの方が重要らしい。ご苦労なことだ。

私が正面をむき直したとき、視界の端にいた衣玖が、たしなめるようにお父様に言った。
天人でもないのに、私と同じように板張りの上で正座をして、まるで衣玖本人が、私と同じく、どこぞで悪さをしでかしたような神妙な顔をしているのが馬鹿らしかった。
「まあまあ、総領娘様も反省なされているようですし。本日はこの辺りでお終いとされてはいかがでしょう?」


ね? と、衣玖は同意を得るかのように、さぐる目つきで私を見あげる。

まったく、ずいぶん唐突に場の主導権を渡されたものだ。
雰囲気的に、この場で衣玖が私に望んでいる行動は、あまりにも明確だった。

しかし、だ。
普段、この二人に認識されている私は、間違ってもこのような場で、神妙に謝罪などしないものだ。
そんなことをしたら、二人の認識上、重大な認識齟齬が起こりうるだろう。
わかりやすくはっきりと言えば、二人は「ぎょっとする」筈だ。
だから、この場で私が深く謝罪する、という行為は間違い。


正解は、
「あー、はいはい。分かりましたお父様」
私は、普段天界で認識されている通りの、「頭のちょっとゆるい天人の面汚し」を演じる。
ついでに鼻くそでもほじって、器用に丸めたそれを、ピンとお父様の顔へはじいてやれば完璧だったかもしれない。

「まじめに聞きなさい!」
お父様は、今居る部屋が、八畳ほどの大きさであるのに、八十畳ほどの部屋の隅っこに話しかけるような声を張り上げる。
「落ち着いてください。ああ、どうしましょう、困ったわ」
衣玖は想定どおりにうろたえている。

ああ、これでいい。
全ては予定調和。

お父様は激高し、衣玖はおろおろするばかり。
二人が一般的に認知されてる性格から言えば、実に最適化された行動と言えた。

二人は、今の自己の行動が、自分の本心から出た物だと信じているだろう。
だが、それは真実か?

人は意識的にしろ、無意識的にしろ、他者と比較することによって自己の特質を認識し、自己の気質を自然に会得する。

それによって自我という物が発生するわけだが。
周知のように、自分が発生するよりも前に、他者による領域の環境が先に存在する。あの薬師でもない限りは。
ならば、明らかに環境、すなわち他者が自分というものを決定づけているはずなのだ。

あの「素直な陶子ちゃん」だって、自分の振る舞いが天人に相応しいと思っているから、私のような規格はずれの天人とも、颯爽と笑顔でつきあっていけるのだ。その証拠に、私の枯れたローズマリーの隣で見事に成長しつつあったヒナギクを見たとき、私は確かに見た。
顔は心底同情するように私を慰めたが、瞳の奥では、喜悦の色が隠しきれていなかった。


自己の手が及ばぬ、他者の集団による環境によって自己が形成、認識される物ならば。
実は、自己形成において、自分自身の意志で形成する余地など何一つ無いと言うことなのだ。

人が認識する私こそが真。本当の私など偽。
残念ながら、それが真実。
人は、与えられたカードで、与えられた役割を演じるしかないのだ。


結局、お父様の演説はそれから一時間以上続いた。
私は当分の間、家で謹慎する事をお父様に命じられた。
当分とはどのくらいか?
天界のメンツが保たれ、同時に八雲紫への言い訳が立つくらいの時間だ。名目上は尊大に豪奢な椅子にふんぞり返りながらも、実際の所はちらちらと八雲紫の顔色を盗み見る、ということ。


私は家付き小姓妖怪のひゆりに引きつられ、謹慎される和室へ連れて行かれた。
衣玖と好対照な、見た目だけは貧弱な肉付きをしている立見ひゆりの、ゆれるセミロングの髪に先導され、脅迫されるように、私は屋敷内の、誰にも使われていない部屋に案内された。
「用事がございましたら、いつでもお呼びください」そういって私を部屋に押し込めると、ひゆりは無表情で背を向き、部屋から唯一外に出られる襖を閉めた。
襖を少し開くと、姿を確認せぬ間に、ひゆりの声が聞こえてくる。
「何かごようですか?」
「もしかして、ずっと私を見張るつもり?」
「ええ、そのつもりですが」
「おなか空いたら?」
「時間になれば、担当の者が食事をお持ちいたします」
「もよおしたら?」
「小生が厠まで付き添います」

あらかじめ問答のパターンが想定されているかのように、刹那の時間でもって返答するひゆりの声に、私はたまらずため息をついた。

改めて、部屋を見回す。
この部屋は六畳もない、屋敷で一番狭い部屋だった。
私だけの言葉で言い換えると、お母様の部屋だった。
といっても、お母様がこの部屋にいらしたことは一度たりとも無いんだけれどね。
むしろお母様は、天界に足を踏み入れたことすらなかった。
なぜなら、私達が天人の資格を手に入れる直前に、病であっさりと死んでしまったから。


地上の未練を天界へ持ち込むのは不味いとかどうだか言って渋るお父様を、私が何とか説得して、この部屋を割り当ててもらったものだった。
だって、家族でしょう? 私とお父様の部屋はあるのに、お母様の部屋がないなんておかしな話じゃない。

昔は家族三人、とても仲良しだったのに。
ふと、母様の葬式の時、私はとても泣いたのを思い出した。
私が哀しくて辛いのに、お父様ときたら、全く泣きもせず、時には参列者と談笑までしていたのをはっきりと覚えている。
お母様はもう悲しんだり怒ったりも出来ないというのに。
いや、あれは仕方がない。この国の葬式とは古来からそういう物なのだから。けれど、記憶に残った印象は消せないのだ。

ふと、壁にあけられた金具の跡を見る。
かつてそこには、「仲良きことは美しき哉」という、お母様直筆の書が飾られていた物だった。
けれど、ここに来て百年だか経過したときに、不心得な掃除係の小姓が、もはやボロボロになっていたそれをうっかり処分してしまっていたのだ。そのときから、ここにはもう、畳とあかり取りの窓以外は何も無い、誠に殺風景な部屋になり果てていた。

がらんとした畳の牢獄。寒さが足の指をせめる。
天人は丈夫なので、このくらいの寒さは問題になどならなかったが。
私はいつまでもここで、膝を抱えてふてくされるつもりなどは無かった。

私は少し身体を飛翔させて、部屋の隅の天井板を押し、音が漏れないよう、天井板をそっと浮かせた。
屋敷の連中はみな、誰一人としてこの部屋に興味など持たないせいか、気がついていないようではあるが。
実は、ここから外に出られる秘密の道筋があるのだった。


結局、謹慎を開始してから一時間後に、私は、屋敷内の誰にもばれることなく外出することに成功した。

なのに、敷地の最後の塀を乗り越えたところで、いきなり笑顔の衣玖と出くわしたのだ。

正直いって気に入らない。
音もなく着地して、屋敷に隣接する道を歩き出した私に、衣玖はとがめるでもなく語った。
「総領娘様のお父上だって、なにも総領娘様が憎くてあのようなお叱り方をするのではないのですよ」
「うるさい、分かってる」私は衣玖に背中を向けつつも、一応顔だけは衣玖を見つつ、歩みを早める。

私の教育係を勝手に他称されても、なぜだか悪い気はしないらしい酔狂な衣玖は、そんな私を見て困ったように微笑みながら、諭すように私に話しかける。だが、私は知っている。衣玖は今と全く同じ表情で、三年前まで彼女がこっそり飼っていた、まるで聞き分けのない地上の柴犬に対してへも接していたことを。
だから、まだ小さくて無邪気なその子犬が「事故」で死んだときも、私自身は驚きも、同情もしなかった。それどころか、実は私こそ、その子犬を○◎◇※▼したかったのだ。
「幸いというかなんと言いますか、まだお父上たちは貴方が家から抜け出したことに気がついていないようです。今のうちに部屋にお戻りくださいな」

それはそうだろう。
屋敷の中は日常の通り、不気味に静まりかえっていて、ともすれば誰も中にいない様にも思えた。
私の脱走が、例えば仕事一筋のひゆり等にばれているのであれば、それこそ、江戸城に忍び込んだ五右衛門を追い立てるかのように、号令や駆け足の音が屋敷中を駆け回っているでしょうからね。
右側の塀は私の屋敷。左側の屋敷は、陶子の一族の屋敷。どちらも、裏庭の方面。
心の奥に隠された醜い面からお互いが顔を背けるように、この路地裏は両家に放置されている。滅多に人の通らない、忘れられかけた道。


そこを抜けて、坂道を通るくねくねとした道へ出た。
ここを下って行けば、いずれ天狗どもの住まう領域へと下ることが出来る道だ。
さっきの路地裏ほどではないが、この細い道もあまり人通りは激しい方ではない。
そして、さらにその先は、あの幻想の土地。


ふと、自分が喉が渇いていることに気づく。
そこらで桃でももいで行こうかと考えた矢先、後方から衣玖の手が差し出された。
「総領娘様。喉が渇いたのではありませんか?」

私はお礼も言わず、無言でその桃を一つ奪い取り、袖で何回か表面を擦った後、前歯全体を使って桃にかぶりついた。
若干まだ熟れ切っていないその桃には、私の上下の歯形がくっきりと型となって浮かびあがった。
衣玖はそれを見て、ニコニコと笑っている。

天人は桃を食べるが、よっぽどのことでもない限り、丸かじり、なんて「はしたない」真似などしない。
よっぽどのこと、というと、それこそ生死の縁をさまようような場合だけ。つまり、まともな天人は絶対に桃を丸かじりしないのだ。
今の私の姿をお父様が見たら、謹慎の期間は五割増しになるに違いないだろう。

けれど、私が天人らしくない事をすると。
どういう訳か、衣玖はこのように暖かく微笑むのだった。


そのとき、向こうから、見た目の年齢は私と同じくらいの、女の天人が二人談笑しながらやってきた。

「あら、失礼。ごきげんよう」
二人は、地上の夢見る生物たちが天人をイメージする姿を具現したかのように、まさに上品な仕草と雰囲気でもって、狭い道の途中にいる私たち二人をかわし、しゃなり、しゃなりと後方へ歩いていった。
どういう偶然か、どちらも、薄紫色を基調とした衣服を着ていた。
まるで、お父様が今日着ていた元禄羽織のような。

よほど愉快な話をしているのだろうか、二人とも手を口にあて、楽しそうに笑いながら喋くっている。

私たちを通り過ぎた後に、二人の笑い声が大きくなったのは気のせいだろうか?
私の理性は気のせいだといっていたが、感情はその通りだと叫んでいた。私は感情を信じた。
早くなりがちな呼吸を、必死で整える。

畜生。

消えろ。死ね。

一刻も早く此処からいなくなれ。

その直後、衣玖が突然咳払いをした。
「ごほっ、失礼」
今の私には、何でもわざとらしく聞こえる。
「先日冷えたので、少し風邪を引いてしまったみたいで」
衣玖のそれも、間違いなく言い訳みているように思えてならなかった。
本当に、それ、風邪?
何か、私に言いたいことがあって、わざと咳をしたんじゃないの?

そう、言いかけた自分の口を、怖くて無理矢理に押さえつける。
「下界の人里でも風邪がはやりだしたそうですし。総領娘様も、くれぐれも気をつけてくださいね。といっても、丈夫な天人のかたはお風邪などはめされませんよね。さあ、私もご一緒いたしますから、お願いですから部屋にお戻りください」


私は、二人の天人が私に向けている筈の笑い声を跳ね返すように、おまけに衣玖にも当てつけるかのように、努めて明るい声を出し、衣玖に言い捨てた。
「まあ、そのうち考えるわ」
私はそう言い捨てて、突如飛翔し、猛スピードで地上に赴く。衣玖からもらった天界の桃をかじりながら。

「総領娘様、おまちください。待って!」
衣玖がそう発言していたようで、慌てた風に後を追ってくる気配を感じたけれど、そんなことにはかまわずに、私は飛行速度をひたすら上げていった。



十分後。
天狗の山を、中腹あたりまで降りたところで、恐る恐る振り返る。
やはりというか、そこには衣玖はいなかった。
天人でない衣玖にあの速度は出せないわ。私は自分の心に、ひたすらそう言い聞かせた。

このあたりは天狗の領域だというのに、私に突っかかってくる天狗の類は一匹たりともいやしなかった。そのくせ、私を監視している気配は、無駄に多く感じるのだ。遠くから注意深く、びくびくしながら覗き込んでいる臆病者の類の気配が。

何故そんなことが分かるかって?
まあ、普通に生きている物には分からないでしょうね。
だが、私には分かるのだ。私だけは関知できるのだ。常日頃からこの種の視線を受け続けてきた者のみが会得する感知能力。
この世でもあの世でも、どこに行っても一切不要な、まったく不必要で無駄な能力。


そういえば、衣玖は根っからのまじめ気質なのだろう。
こういった視線が発する、ぬめったような生暖かい不快さを、彼女の視線は一度も持ったことがなかった。

彼女、今頃は、私を探してどこぞでおろおろしているのやも知れない。
あれは、確実に私のことを100%善意でもって話しかけてくる。

私も、ちょっと反省してみようかな。絶対に肯定し得ない問いを、己の内に少しだけ考える。
善意がすなわち善につながるかどうかはさておき、少しは私も衣玖の言葉に真摯に向き合ったほうが良いのかもしれない。

だが、そうするのはどうしても嫌なのだ。このことは、私がどうしようもなく下種で野卑た最低の生命体であることの証明となってしまうわけだが。まあそれは仕方が無い。だって紛う事なき真実なのだから。



さて、どうしよう。
行く当てのない私の飛行進路は、自然に博麗神社へ向かっていたらしい。
気がつくと、神社の上空に滞空していた。
夕日にさらされた神社は、かなり寂れて見えた。実際寂れているのだろう。誰も参拝客来てないようだし。

縁側には、霊夢が正座をして座っている。
私が庭に降り立ったのを見て、
「あら、天子じゃない」と相変わらずのすました口調で言った。

「うん。私よ」
どうしようか。
霊夢の隣に、縁側に並んで座った私は、何をすることもなく、両足をぶらぶらするしかなかった。

ぶらぶら。
正直いって、ここに来たって今の私には何もすることがない。

ぶらぶら。
この行為に特に意味はないのだが。
ぶらぶら。
はっきり言えば、手持ちぶさただった。

ぶらぶら。両足が地上の重力に引かれる。
私の両足が、交互に縁側の奥へ行ったり来たりしている。

突然、私の顔と私の足の間に、霊夢が顔を突っ込んできた。
そして、無遠慮に私の顔を見上げる。
「あんた、なんか酷い顔みたいだけど、大丈夫?」


「大丈夫よ。気のせいじゃない?」
「ふーん、そう」
ドキッとした私の心のうちを知ってかしらずか、霊夢はそういうだけ言うと、私に興味を失ったのか、また、縁側に一人で正座してお茶を飲み始めた。


「ところで、今日は私になんの用?」
「なによ、用が無ければ来ちゃいけないってわけ?」

「いやべつに。それにしてもあんたといいあいつらといい、どうして賽銭入れそうにない連中ばっかりウチに来るのかしら?」
霊夢は、まったく悪意なく、本当に不思議そうに首を傾げていた。

「あいつら? 誰かいるの?」
「ええ、珍しいことに二人連れでね。いまは萃香が台所に連れ込んで、一人だけの宴会にお供をさせてるわ」


と、そのとき、
「だれかいるのらー?」と、台所から萃香がやってきた。
口調から察するに、馬鹿みたいに機嫌良く、楽しいお酒を飲んでいるらしい。


私を見つけるやいなや、
「おお、天子じゃないか、飲もうよ。なっ」
と腕を無遠慮に思い切り引っ張ってくる。今日はそんな気分じゃないのに。

「ちょっと今日は気分じゃないの。ほっといて」
「何だよ、つれないなー」
そう、表面だけはぶんむくれる萃香に、台所らしきあたりから、赤い姿と白い姿、確かプリズムリバーとかいう姉妹がやってきた。


それを見ていた霊夢が言った。
「ところで、たしかあんた達って三人組よね。今日はあの黒いのは来なかったの?」

全身を白系統の服装で固めた騒霊、メルランが明るく応えた。
「ルナサ姉さんのこと? 今朝がた『死にたい』っていって部屋に引き籠もっちゃったから、家において来ちゃった」
「え、いいの?」私も霊夢も唖然としたが、二人のプリズムリバーはしれっとしたていで話す。
「いいのよ。本来は三人そろった演奏じゃないと全力は出せないけど、今日は元々練習で、誰かに聞かすためじゃなかったから」
「いやそうじゃなくて、そんな状態のルナサをほっといて良かったの?」

赤い、リリカと名乗る方が言った。
「うん、ルナ姉はたまにそんな気分になることがあるのよ。そゆ時はほっとかれて、一人になった方がかえって落ち着くみたいだし」


姉妹とは言っても、所詮は他人ね。
私がそんな感想を持ったことを知って知らずか、霊夢は一つ、大きなあくびをした。
「ふーん、そうなの。ま、どうでもいいわ」

そういえば、この二人は騒霊とかいう幽霊だったか。
彼女達の目は、どことなく、お母様の澄んだ目に似ていた。死ぬ間際に私の手首を握って来られたときの。

思わず身を震わせる。

気がつけば、大陽は既に地平の内側へ沈んでしまっていた。
空の半分は、既に星空の世界となっている。
細く紅い月が、西の地平へ今にも沈みそうだった。

「おや、もうこんな時間か。晩ご飯何にしようかしら」
そういいつつ立ち上がった霊夢は、私に向かって、
「天子、あんたは帰らなくていいの?」
「え。そうねえ」
口ごもった私の目を、霊夢はじっと見つめてきた。


「……じー」
こういう時の霊夢の目は何やら恐ろしい。私は始めて知った。
恐怖ではないが、なにやら心の内を全て見透かされそうで、ただひたすらに、驚異的なのだった。

「なによ」そういった私の顔は、おそらくふくれっ面をしていたのだろう。
「……いや、べっつにー」
そういって、この巫女は私から視線をそらし、今まさに帰らんとしていた騒霊二人に呼び止めた。

「あんたたち、おゆはん、食べてく?」



「はい、召し上がれ」
霊夢の言葉で私たちはちゃぶ台を囲む。
そこにあったのは、人数分の大きい味噌汁茶碗のみ。

「なにこれ」
「なにって、根深汁だけど?」要するに長ネギが具の味噌汁だ。
「そうじゃなくて、ご飯はこれだけなの?」
「いい? 天子。日本には一汁一菜というありがたい格言があるのよ」
そういう霊夢はしたり顔だった。

「一菜は?」
「ほれ、ここにあるじゃん」
指差す先の味噌汁にはぶつ切りにされたネギが浮かんでいる。
「じゃあ、ご飯は?」
「なに言ってるの? 一汁一菜に飯の文字はないじゃん。それともあるってんならあんたが白米持ってきなさいよ!」涙目だった。
「その、あの。ごめん」
「いいのよ。いつもは私だってこんな粗末なご飯を食べてるわけじゃないのよ。本当よ! ただ、最近は参拝客もあんまりこなくて、早苗の来訪もないから白米や果物が底をついてるのよ」
「よくやっていけてるわね。この神社」
「ちょっとー。普段は私だって人並みくらいのご飯食べられますー」
ふくれっつらになってきた。少し凶悪な気配も出ている。

とおもったら、一転、
「あー。あの寺とまではいかなくとも、守屋神社くらいにお賽銭に余裕があったらなー。私なんか、紫を外に使いに出して、へいさんろうの胡桃入り大月餅を月に二回くらいおやつに食べちゃうんだけどなー」
今度は幸せそうにほんわかし始めた。なんというか、春だ。主に頭が。


「いいじゃないか温かいお味噌汁なんだから。団欒団欒」
鬼はいつでもにこやかそうだった。

この人数で小さなちゃぶ台を囲むので、団欒には違いなかったが、食事の時間は一瞬で終わった。
「お粗末さまでした」
「ほんとにね」
思わず本音が口を出る。ご覧ください。こちらに見えるのが紅白巫女の青筋でございます。
「ウチの料理に不満があるなら、天界で食え、天界で」
「味や風味に不満があるわけじゃないのよ。量が絶対的に足りてないっていってるわけ」
味に関しては、いい意味で泥臭い感じで、天界にはない風味だったけれども。

鬼が言った。
「あんた天人なんだろ? 他の普通の人間よりは恵まれてるんだから、ちったあ我慢というか妥協しなよ」
「別になりたくてなったわけじゃないもん。天人」
二人の霊がそろってため息をついた。
「とはいえ、さすがにこれは、私達の普段の晩ご飯のほうが豪勢よねえ。量としては」
「そうねリリカ。量としては」

「ちょっと、さすがの温厚な霊夢さんもこれにはムカッときましたわ」
ぷちんと音がした気がするが、気のせいに違いない。
「えっ?」
「温厚?」
「えっ?」
「私はノらないよ。後が怖いからな」とは鬼。

「いい仲してるわねあんたら三人。なんか事情がありそうだから、あんたを今日くらいウチの神社に止めてやろうとしたけど。そんな気はきれいさっぱりなくなったわ。天子、そんなにノリが合うならその姉妹の家に泊めてもらいなさい!」

「ちょと待って、なにを言ってるの?」
「何を唐突にそんな」
プリズムリバー姉妹の困惑した言葉を無視した霊夢は、私は、二人の楽しい仲間とでも言うかのように、ぽぽぽぽ~んと追い出された。





日付が明日へと移り変わろうかという頃。さて寝るか、と霊夢がいそいそと布団に入り込んだときのことだった。
静かな暗闇の外から、たしかに、ごめんください、と、声がする。
居候の鬼は、台所で飲んだくれたままで、今の声には気がついていないようだ。

湯たんぽでせっかく暖ためた布団に心の中でしばしの別れを惜しみつつ、霊夢はそこに向かった。
そこには、あからさまに焦っている様子の永江衣玖がいた。肩を上下させつつ呼吸している。

「霊夢さん。恐れ入りますが、今日、総領娘様がここに来ませんでしたか?」
「来たけど?」
「ああ、良かった。実は、総領娘様、家出なされたみたいで。まだ家に帰られていないのです。どちらに行かれたのかご存じでしたら、教えてください」

霊夢は頷き、口を開けたが、閉めた。
直後、餓鬼大将のような笑みを浮かべてかぶりを振った。
「知ってるわ、でも教えない」
「え? どうしてですか?」
「なんとなくよ。ま、心配しなくても外で震えてなんかはいないから大丈夫でしょ、多分」

「そんなことおっしゃらずに、教えてください!」
「……それで正解なの?」
「どういうことですか?」


「私が居場所を教えたとして、貴方は迎えに行くでしょう?」
「はい」衣玖は当然のごとくと頷いた。
「それでいいのかって聞いたの」
衣玖は腕を組み、首をかしげる。霊夢も、なぜか首をかしげていた。
「私にはあなたのおっしゃる意味が分かりません」
「気にしないで。しゃべくってる私のほうも、実は何いってるのか、半分も分かってないから。どうしても、というなら、明日来なさい。それくらいの時間がたったら、教えてあげなくもないわ」
「そんな」
「それじゃ、おやすみばいびー」
ぴしゃん。と、無情にも彼女の鼻っ面の前で扉が閉められる。


「……Fuck!」思わずそう口にしてしまった後に、衣玖ははっとして思わず辺りをうかがった。
彼女が発した完全なブロンクス訛りの英語は、今までと同様、幻想郷の中では誰にも、ただの一人にも聞かれることはなかったようだった。
その事実を確認して、ほっと息をつく衣玖。彼女の過去の秘密は依然として完璧に守られている。

だが、衣玖は頭を振り、気合を入れなおす。
現状、彼女を悩ましている問題は何も解決してはいないのだ。

まったく、自分だけは他者のすべてを理解しているとでも思い込んでいるあの愛しき馬鹿天人娘は!
あの娘は、することなすこと、そういったしぐさがいちいち自分の過去の忘れたい恥部を思い起こさせる。
だが、かといって一緒にいても、なぜか不快ではない。むしろあの娘は、巣から転がり落ちてしまって悲しげな泣き声をあげる雛鳥を、衣玖には連想させるのだった。

だから、衣玖は決めたのだ。実行できているかどうかはさておいて。
かわいがるだけではなく、真に天子に愛情を注ごうと。
まったく、こんなに人を心配させて。見つけたら、ちょっと位は役得を楽しんでも罰は当たらないだろう。
衣玖は、想像の中で、ふくれっつらをしたままの天子を思う存分撫で回し始めた。

それにしても。
「ばいびーって……古っ」衣玖は思わずつぶやいた。


プリズムリバー三姉妹の家は、天界の立地でない、幻想郷の家としてはそこそこ大きな家だった。巨木をくり貫いたような形をした家で、いびつながらも円状の間取りをとっているようだった。玄関から直接大広間につながっており、そこから放射線状に、それぞれの個室やら台所やらが配置されていた。

「とおーちゃーく!」
メルランは相変わらず上機嫌に地上に降り立つ。
自分の家に帰ることの何がそんなに楽しいというのか。
「ただいま」
リリカが玄関の鍵を開けると、そこには結構こじゃれた広間が広がっていた。すべてが木目調で統一されている。幽霊の住む家なのに、どういうわけだか全体的にぬくもりが感じられる。

「くつろいでってよ。禄に何もないところだけど」
「そうさせて貰うわ」
私がそういうのを聞くか聞かないかの内に、リリカは広間から続く扉の内のひとつ、黄色の縁取りがされた黒い扉に手をかけ、ためらいなくそれを開け、暗闇の空間に向かって声をかけた。
「ルナねえ、まだ駄目?」
どうやら、そこが長女の部屋らしい。

リリカに続いて一歩踏み入り、真っ暗に近いルナサの部屋にようやく目が慣れた私は、そこにある光景を脳で咀嚼すること三秒後、
「おうわっ!」思わずそんな声を漏らしてしまった。

壁紙から家具に至るまで黒系統の色で占められた、決して陽気とはいえない部屋の中、たしかルナサとかいう騒霊が、寝巻きらしきゆったりとした格好でベッドの一角で体育座りしており、おまけに、部屋の天上の中央からどういうわけだか静かに垂れ下がっている、絞首刑をするような形の太い荒縄を、ただひたすらにじいっと見つめていたからだった。想像して欲しい。それらがランプの弱い火で照らし出されている様を。

だが、私に衝撃をもたらしたその光景も、実の姉妹にはなんの効果もないようで、
「やっほー姉さん、元気?」
私の背後から、メルランがまことにのんきそうな声を発していた。
「うん、もう大丈夫」暗闇の部屋の主が答える。
「ルナねえ、永遠亭のお薬、ちゃんと飲んだ?」

「うん。昼すぎに飲んだから、効いてきたのはついさっきだけどね。おかげで十分持ち直せたわ。ありがとう。さっきまで食欲なくって、今日は丸一日何も食べてないからおなか空いちゃった」
「そっか。食欲でたんだ」リリカが言った。

その後、私と二人の騒霊は、軽く着替えたルナサを囲んで大広間にいた。
「と、言うわけで、あたしらそのまま追い出されちゃったのよ」メルランは言った。
「メル姉なんかお箸持ったままでさ」そういうリリカも、機嫌はいいようだった。
「そうなの。で、つれてきちゃったの? この方」
ガウンを着た留守番のルナサは私を指差した。
「まあ、なんか」
「ことのなりゆきで、ね」
二人は頷き返す。
「まったく、あんたたち二人は」ルナサはそういって、改めて私に向き直り、
「急で何もないけれど、ゆっくりして言ってくださいな。ええと……」

「比那名居天子。天子でいいわ」
「そう。天子、それじゃご飯足りないでしょう。まっててね。今用意するから。メルラン、リリカ。あなたたちも何か食べるでしょう? 私がビーフシチュー作るわ」
ルナサは優しく笑って台所らしき方向へ去っていった。


直後、リリカが私のほうを向いた。
「あ、そうだ天子」
「なに?」
「あなたが使う寝室、ルナ姉の隣でいい?」
「え、ええ」なんだかんだで、この騒霊たちの中では、私は泊まることになっているらしい。まあ、別にかまわないけどね。

それにしても、ルナサという騒霊は、ずいぶん寛容に私を受け入れたものだ。
「ねえ」私は二人にどちらともなく話しかけた。
「このうちって、急な来客とか、お泊りとか多いの? 今日の私みたいに」

「んなわけないじゃない」メルランが意味深に笑う。
「私ら幽霊よ? 生きてる者は普通そんな家に泊まるわけないでしょうに」

「じゃあ、なんで私を当たり前のように入れてるのよ?」
リリカが、人差し指をピンとたて、私の口をふさぐ。
「あなた、自分で思ってるよりも、感情が顔に出やすいのよ?」
私は想像の中で、こいつの体を緋想の剣によって尻から頭まで貫いた。

「まあ、それは冗談としても、泊まってってよ。ルナ姉さんも久々の来客だからって張り切ってるみたいだし」
「そうそう。姉さんのビーフシチューなんてめったに食べられないのよ」そういうメルランは心底嬉しそうだった。



メルランの言うとおり、ルナサの手料理は中々のものだった。
グラスに注がれた水は、牛肉を咀嚼した後の私の舌を容赦なく冷やしていった。
「やっぱりルナ姉のビーフシチューは最高ね。お客が居るときじゃないと食べられないのが残念だけど」
「お粗末様。おかわりいる?」
「いるけど、姉さんもちゃんと食べなきゃだめよ? 今日はそれ一食でしょ?」
「じゃあ、少しだけ」
立ち上がるルナサのそばで、私は手に取ったパンを縦に引き裂く。
パンの裂け目から立ち上がる湯気を消火するように、私はそれをシチューに浸し、噛み締める。
やけどしそうな熱さが、舌からのどへ降りていった。


「ご馳走様」
そう、誰かと手を合わせて唱和するのはいつ振りのことだろうか?
足並みそろえたようなタイミングで食事は終わり、そのまま流れるように宴会じみた呑みに移っていた。


嫌だな。
そのとき、
「さて、今日の当番は私ね」
リリカは飲んでいる二人の姉妹をおいて立ち上がり、食器をいくつか積んで、持ち去っていった。

私が台所だろうと見当をつけた場所に、はたしてリリカは居た。
彼女は私が残りの食器を持ってきたのを見て、
「ああ、ありがとう。お客様なのに」にっと笑い、泡だらけの手で私から食器を取り上げる。
「食事を作ったのはルナサなのに洗うのはリリカなの?」そんなことを、ふと聞いてみる。

「うん、本当は今日の料理当番は私だからね。ルナ姉、ああルナサ姉さんが料理やる気になったから、つくるのだけ代わってもらったのよ」
「あなた、ずいぶんルナサに気を使うのね」
「気を使うって、別にそんなんじゃないよ」
リリカは微笑んだ。
「だって私たちは姉妹だし、ルナサ姉さんの料理は本当においしいし」

「あなた好きなの? ああいう性格が?」
「どういう意味? ルナサ姉さんはルナサ姉さんだから私は好きなのよ」
リリカは手を拭いて私に向き直った。


ちょうどその時、居間から声がした。

「お姉ちゃんはもっと明るく生きるべきなのよー!」
「ほっといてよ、メルラン。私は別にこういう性格でいいと思ってるから。それに、みんなが明るく前向きな性格ばかりじゃかえって気持ち悪い」
「ハッピーに生きるには、それなりに努力しなくちゃ! 姉さんは本心で自分の今の性格で楽しく生きてると思ってるの? 姉さんは色々と努力が足りないんじゃない?」
「失敬な。演奏には常に研鑽を磨いてるよ。努力が足りないとは言われたくないな」
居間に戻ると、かなり険悪な雰囲気になっているように私には思えた。
「研鑽してたら、もう少し肩で風を切る態度になってもいいんじゃない? 今の姉さんが、生き方がそれでいいなんて、私、全然共感できないわ」

「ああもう、メル姉もルナ姉も! なんで私抜きで話すると、二人ともすぐ喧嘩腰になるかなあ?」
二人の間に、ピンクのエプロンをしたリリカが割って入った。
リリカはまずルナサに、
「ルナ姉。メル姉も別にルナ姉の演奏技術をけなしてるわけじゃないよ」
次にメルランに向かい、
「それに、メル姉! メル姉は自分が理解しにくい物を全否定しすぎ!」
そういって、リリカは、二人の頭を押さえつけた。
「ほら、二人とも謝る!」

どういうわけか、険悪な空気が、第三者の私にも感じられるくらい、凪いだ。
「いいのよ、私は。自分の感性には誇りを抱いてすらいるわ」
「そうね。姉さんのバイオリンは世界一なのは認めるわ。まったく、リリカにはかなわないわね」そういうメルランは微笑みすら浮かべている。
「まったく、調子がいいんだから」ルナサも笑った。
「まあ、何でもポジティブに受け止めてしまうのが私の悪い癖ね。将来の落とし穴とか、重大な計画の欠陥とか、そんなのはまるでない物事のように考えてしまう。目的地が素晴らしいところに思えたなら、途中の路がたとえ地雷原でもまっすぐに突っ走るのが私」
「うん。メルランはそれでいいのよ。わたしがこれでいいように」

「じゃ、そういうことで。メル姉、ルナ姉、改めて飲もうよ」
「そうね」

「じゃあ、天子はどうする?」リリカが私に顔を向ける。
私は少しだけ考え、答えた。
「早いけど、もう寝ようかな」

「ならリリカのパジャマを用意するわね」その声にリリカが反応した。
「えっ別にいいけど、メル姉、なんで私のなの?」
メルランは笑って、
「だって貴方、姉さんや私のだったらぶかぶかになるじゃない、ほら、主に上半身の一部分が」
おい、おいおいおい。
と、思ったらリリカが爆発した。
「うがー! メル姉、このやらー! 姉妹で独りだけおっぱいでかいからってなー! 生意気こいてたらなー! いつかこの私が後悔させてやるー! 絶対ぜよー!」南斗水鳥拳の構えをしている。


ルナサは、吹き出しつつ、私にいった。
「リリカは興奮すると妙ちきりんな訛りが出るんだ。だからごめんね」
何がごめんというのか。腹立つ。
結局、私が客室のベッドに入るまで、それから三十分経過することとなった。

始めてお父様に無断で外泊する。
門限を破る事なんてしょっちゅうだったけど、そんな日でも、必ず天界の家に帰るのが、私のちょっとしたこだわりであり、自慢だった。

でも、いいわ。それももう終わり。
どうせあの家に私を待ってくれる者なんて一人もいやしないんだから。


意識が揺れる。

確かあのときは、必死な様子であの子を探し回る衣玖をからかった後、気晴らしに一人で散歩していた夕暮れ時のことだった。
私が偶然見つけた衣玖の犬は、天界の端、土地が断崖になって途切れている辺で寂しそうにうずくまっていた。

私がいくら呼びかけても、いつも通り犬は私を警戒して、私の側に寄ろうとしなかった。
そのくせ、私があきらめてその場を離れようとすると、絶妙な距離感で私の後をひょこひょこ付いてくるのだ。

迷子になって、自分がどこにいるのかも分からないくせに。

私がどんな荒れ地を歩いても、この犬は生意気にも必死に付いてくるのだ。
鞠くらいしかない図体で、危なっかしげに岩と岩の間を飛び越えてだ。
そのくせ、私が近づくと逃げる。


生意気な。
もう、こんな犬はほっといて、私は家に帰ろう。
と、私がちょっと歩くスピードを速めたときだった。

がら、がらがら。
崖が崩れるような、そんな無機質な音と同時に。


きゃうん。

唐突に、声がした様な気がした。

振り返ると、さっきまでいたそこに、犬は居なかった。
私達が今居る天界の地から、僅かばかり地盤が崩れ去った気配がした。

あの犬がさっきまで居た場所に駆け寄って、地上を見下ろす。
すると、三十メートル位下の、断崖の突起の側に、その犬は横たわっていた。


私は飛行して、そこに近づく。
真新しい落石が散らばっている寂しい所で、身体を斜めに傾けて力なく倒れている憐れな姿。
背の硬い茶色の毛と対照的だった、いつもはふさふさとした白い腹の毛は、真っ赤な血や肉でびちゃびちゃになってしまっていた。それは周囲の岩も同じで、血や臓物で赤黒く変色していた。見上げる位置に生えている短い枯れ枝が、この子の血を吸っていた。

そして。
私が恐る恐る近づくと、あの子は、私をみて、力一杯、ふるふる震えながらも、無理矢理起き上がろうとしたの。

あの時、既におなかの中の大切な物が、半分以上無くなっていたんでしょうね。
あの子は直ぐに力尽きたわ。


でもね。
あの子は。
私を。
慌てて抱きかかえた私の腕を。
私が差し出した手を。

ぺろっと、舐めたのよ。

自分は苦しそうな呼吸をしてるくせに。
ヒューヒューって、おなかの裂けた傷口から息が漏れてるのに。
目だけは私を見て。
本当に綺麗な目で。哀しそうな目で。


何度かしか会ったことのない私を。
自分の視界に入ったとたん、吠えかける対象だった私を。
私はあなたが、衣玖になんて名づけられたのかも知らなかったというのに。

私に向かって、口を開けかけて。
そのまま、動かなくなったの。


私は両手で、その子の身体と臓腑をかき集めたわ。
あまりにも数が多くて、この子のそれから小石や砂利とかを全部取り除くことは出来なかった。

思えば、そのときが初めてだった気がする。
あの子が、私に自分の身体を抱っこする事を許したのは。

結局、衣玖が探し回っている天界にその子を連れて帰った頃は、もう全天に星が瞬いていた。


秋の栗を拾い集めるように、自分の着ている上着でその子を包んで持って行ったのだけど、当然か、道行く天人はみんな私達をみて顔を顰めたわ。
私が触ったばかりの時は湯気すら立っていたその子のそれも、もうどうしようもないほどに冷たくなってしまっていたわ。


不良天人が下々の命を戯れに奪ったとでも思ったのでしょうね。
あとから、お父様には、
「命を奪う以上に、天界に穢れを持ち込みおって」と、こっぴどく叱られたわ。
「だって子の犬は衣玖にとてもなついていて――」
私は最後までいうとこすら許されなかった。
「そんなことは聞いてない。儂が聞きたいのは、何故天界を血と死で穢したのかという事だ」
「……」
正座した足をとおして、床の冷たさが心に残った。
「どうして、お前は……何故お前はそんなにこの私を困らせるのだ?」
「……御免なさい」
その日は風がやけに強かった。


天界で地上の生物の死体なんて、不吉もいい所だから、衣玖と私は、他の天人にばれないように夜が更けるのを待ってから、その子を、衣玖とその子が好きだった、あの桃の木の根本にこっそりと埋めたわ。

結局、私は衣玖と一緒に泣くことしか出来なかった。
私は、何も言うことができずに、衣玖を抱きしめて、二人で声を立てずに涙を流すことしかできなかったのよ。

衣玖は何も聞こうとしなかったし、私も何も話さなかった。


そして、私の泥まみれになった衣装は、どんな名水で洗っても、
擦っても擦っても、ちいとも綺麗にならなかった。

だって、
私の両の手のひらは、どこまでも血まみれだったから。



小さな叫び声が自分の物だと気づくのと、今居るところがプリズムリバーの家のベッドの中だと気づくのは、ほとんど同時のことだった。
夢でぼんやりとした頭が、次第にはっきりとしてくる。
隣の居間への扉から明かりが漏れている。三姉妹はまだおきているようだ。


「わらしらちわぁ~。うんこしないのぉ~。なざなら~? ……アイドルらからぁ~! ……おえっぷ」
「ルナ姉ー。大変、こっち来て! メル姉がゲロ吐いたー!」
ああもう、と口調だけは煩わしそうに呟いたルナサは、やや小走りに、メルランの元へ向かっていく。
「ほらもう。メルランはいつになったら自分のお酒の量を学ぶの? 全く」

そういいつつも、ルナサは優しく、メルランの俯せに屈んだ背中をさすっていた。
「お酒を飲むのは楽しいことよ。それを制限するなんてとんでもないことだわ」
顔を青くしつつも、後悔の色を全く見せない口調でメルランは言った。

この発言には、さすがのルナサも呆れたようだ。
それはリリカも同じ感想を持ったようで、呆れたように、メルランに水の入ったグラスを差し出した。
「ほらルナ姉。飲みなよ」
「ありがと」
ごくごくごく。
「あ~、生き返るわぁ~」

「そう、良かった。もう一杯いる?」
「水よりもリリカのちっぱいを思う存分さわさわしたい気分だわ」

「オーケー分かった。ルナ姉、メル姉を始末しよう。それも今すぐに」
「おお、こわいこわい」
「いい加減にしなよメルラン。全くこの子は。ところでリリカ、私のために、一杯、いつものカクテルを作ってくれないかな?」

「ええ、いいわよ。他でもないルナ姉のたのみですから。メル姉には絶対作ってやらないけどー。いつも見たく、梅成分を多めに?」
「うん。でも、今日はアルコールを少なめにお願い」
分かったわ、とリリカはルナサに背を向けた。

「えへへ~、姉さん」
「何?」
ルナサがメルランに聞く。
同時に、メルランは顔を、座っているルナサの膝に埋めた。
「なでなでして」
「はい? メルラン、悪酔いしすぎよ、あなた……」

「なでなでー」
「全く、はいはい」
なでなで。
「えへへー」
満面の笑顔だった。

そこに、紅い飲物を持って来たリリカ。
「あ、メル姉ずーるーいー! ルナ姉を独り占めしてー!」
はなーれーなーさーいーといいながら、メルランに無理矢理ヘッドロックを決めるも、メルランはてこでも動く気配がないようだった。
「それなら、こーしてやるー」
リリカはメルランとルナサの座っているソファのうしろに回り込み、
「ぎゅー!」後ろからルナサを抱きついた。
「ああ、リリカ。あんたも相当酔ってるのね……」
そう、ため息をつくルナサも、微笑んでいる辺り、なかなか悪い気をして居ないようだった。



そのように三十分も姉妹にもみくちゃにされた後、ようやく一人になったルナサは、居間の端に設置されたカウンターの席に座って、背中を向いたまま、
「あなたも何か飲む?」
「気がついていたのね」私は言った。

「まあね」ルナサはそういって、横の席に並び座った私に、自身が盛っていたグラスを差し出した。
「私が考えたルナサスペシャル。美味しいよ」
「頂くわ」
私はその、幾分かは粘性すらありそうな紅い液体を、恐る恐る唇に近づけた。

「どう? トマトジュースが隠し味なの。美味しいと思わない?」
「うーん。正直、微妙ね」
ぶっちゃけ、まずかった。
「それを飲んだものは何故だかみんなそういうね。美味しいと思うのになー」
そういいつつも、ルナサは私に烏龍茶を用意してくれた。


「仲、いいじゃない」二人の騒霊はソファーの上で仲良く肩を並べて寝ていた。
「自慢の妹達さ。貴方も家族がいるでしょう?」
どういうわけだか胸が痛くなる。
「お父様がいるわ。お母様は、もうとっくのむかしにいないけど」
何故か、衣玖の顔が浮かんだが、それを忘れるかように喋る。
「それは、嫌なことを聞いちゃったか」
「いいえ、別にいいわ。私達が天界に住む前の、本当に昔のことだもの」
そう、とルナサは相づちを打ち、自分のグラスを静かに傾けた。


あれはお母様のお葬式が終わって三日後のこと。
私はお父様に呼び出され、名居さまの屋敷に始めて訪れた。
「名居さまにおかれましてはごきげんうるわしゅうございます」
暗記したとおりの挨拶を申し上げた私の視線は、地に向けられたままだった。たとえ顔を上げていても、御簾で名居さまの顔を見ることは出来なかったのだが。

「うむ。面をあげよ」
その声は、御簾越しに居るであろう名居さまの声ではなく、私がよく知っている、お母様が死んでから一度も家に帰らなかったお父様の声だった。側に控えて居るのだろう。

お父様は、名居さまの次の言葉を私に伝えようとして、
「……なんですと? しかし、前例が」少し狼狽えた様子だった。

その時、御簾がいそいそと取り払われた。
「よいのじゃ。そなた、地子というそうじゃな。なるほど、良い目をしておる」
幾分張りのある、若々しいというより当時の私と同じくらい幼い、といっても良さそうな声だった。このとき、私はお父様が仕えている名居様が女性であることを始めて知った。

「まったくお主も無骨がすぎる。このような可愛い娘がいたのなら、なぜ私が聞き出す前にぬしが言い出さぬのか」
「はっ」恐れ多いとばかりに平服するお父様を見て、名居さまはため息をついた。

私はといえば、やんごとなきお方相手に、なにを返事して良いやら全く分からなかった。どう返事した物かと黙っていると、
「こたびは本当に忙しくてのう。そなたの父君には大変世話になった。本来なら、父君もぬしの家に帰らせる暇をあたえるべきだったのじゃろうが、あるいは天地が割れるほどの事態になっていたかもしれぬでな」

私はひれ伏して返答に換えた。
「ふむ、そのかわりといっては何じゃが、我らの働きが天に認められてな。将来のことじゃが、私は天人として天界に住めるよう許されたのじゃ」
「おめでとうございまする」
「そしたらじゃ。都合がよい事に、ぬしと父君も一緒に天界に住むことすら許された。何事もたのんでみるもんじゃな」

正直、このときの私はどう反応して良いやら分からなかった。そもそも天界も天人も、一体それが何なのかすら分かっていなかったからだ。

「これ。これは大変名誉なことだぞ」
そういうお父様の言葉を制して、名居さまはいった。
「そなたの母君のことは、まことに残念じゃった」
そんな声が私の耳たぶに響く。
「母君は、いつ頃から具合が悪かったのかえ?」

「えっと、へんな咳をしだしたのが一年くらい前で、半年前くらいからもうずっと床にふせっておりました」私は応えた。
「そうか。丁度、私達が忙しくなり始めた頃じゃな。なるほどのう……」
なにやら頷き、
「ぬしの母君はさぞ優しかったのであろうな。そなたの目を見れば分かる。父君のような無愛想な無骨者と契りを結びながら、そなたのような子を育てることが出来たのだからな」
「はい。私のお母様は、とってもやさしい人でした」

「ところで、ぬしの母君の名は、なんと申すのか」
私はその名を口にした。
「わかった。誓おう。私は永遠にその名を忘れまいぞ」



「ところで、おとうさんと、話はするのかい?」ルナサが、いつもまにか空になった私のグラスに烏龍茶をつぎ足す。
「あんまり」いいえ、ほとんど。

「話はいいものだ。家族だってね、言わなくたってわかり合える部分も無い訳じゃないけど、それ以上に、話さなきゃ分かるものも分からない事が多い」
私は烏龍茶を一気に飲み干した。
「へえ、ふーん」

「私に限っていえば、メルランやリリカは他人でない家族だからこそ、私は、二人に自分の感情や欠点を無制限にさらけ出す事ができる。自分の欠点を一番認めないのは自分自身で、家族はその欠点を含めて、その人の存在を丸々許している、なんてことはよくある事さ。まあ、逆もよくある話だけれどね」
「なにそれ、全然よくわかんない」
「まあ、酔っぱらいの戯れ言さ。気にしないで」
「最初から聞き流してる」


ふう、とルナサが呼吸をした。
「久しぶりに一人で弾きたい気分」
人差し指をパチン、と鳴らすと、どこからかバイオリンが出現し、静かに曲をかなではじめた。

「これ、何て曲?」
「ヴルタヴァ。スメタナの交響詩の一部よ。モルダウといったらわかるかしら?」
ルナサは目をつぶり、耳を傾けた。

「ごめん、わからない」
「外の曲。私一人で演奏できるように編曲してあるの。ついでに少し曲調を柔らかくして」

透明な、きれいな編曲だ。
目を閉じると、液体的な清らかさが、耳を洗い流していくようだった。


ふと、身震いをした。
なんとなく、このまま聞いていたら、意識が薄れていって、そのまま闇の中へ融け落ちそうな気がしたからだ。
鳥肌と共に、我に返る。

咳き込んだお母様と、私になついてくるあの子犬。
低い気温では断じてない妙な寒さが、私の首根っこを通り魔のように駆け抜けていった。



「ごめん。あなたは天人だから大丈夫だとおもっていた」
ルナサがそう言ったのが聞こえる。
「そう、本当は只の人間。私は天人になんかなるべきじゃなかった。お母様が死んだときに一緒に逝けば良かった! そうすれば、楽しくないのに毎日こんな後ろめたい思いをしなくてすんだのに! でも私はあの時、お母様の動かなくなった身体が怖くて恐ろしくて、逃げてしまった。だから私は一昨日だって汗びっしょりで真夜中に起きたの」
居間が元の静寂に包まれていたことに、今さら気がつく。

「……うん」
ルナサはそう頷いて、私をそっと抱く。彼女の冷たい身体が真後ろから私を覆い被さるまで、私は、自分が自分を抱きかかえて震えている事に気がつかなかった。


いつの間にか荒れていた呼吸も元に戻ってゆく。
私は胸元にそっと添えられたルナサの手を握る。
今だけは、ルナサの冷たい体温が心地よかった。

私の心臓がゆっくりとしたリズムを刻んでいる。
「ねえ」
「うん?」
ルナサはまるで小さな子をあやすかのように聞き返してきたが、私はまるで気にならなかった。
冷たい人差し指で、私がいつの間にか流していた涙を拭ってくれた。

「人が死ぬことって、どう思う?」
我ながら馬鹿みたいな質問だと思う。
けれど、なぜか聞くのを辞められなかった。

「死、か」ルナサは一つ、深呼吸をした。
彼女の胸の動きを、私は背中で感じた。

「私は、死と生が不幸と幸福の分かれ目だとは思わない。幻想郷ではことに」
「そう」私は曖昧に頷く。
「こういっちゃなんだけど、生きている貴方はあまり幸福そうな顔をして居ないし、私は自分を幸せなほうだと思っている」
私は無言で頷いた。気がする。


生きる事。生き続けることが、ただ幸せなことだとは限らない、か。
生きることそのものが、自分にとって苦役であるのならば、そのものは不死であることに対して罪悪感を感じる必要もない、のか?
さあ、どうだろう。

私、馬鹿みたいにほっとしてる。
自分の属性は全く変わり無いのに、今までにないくらい気持ちが楽になるなんて、なんだか詐欺みたい。

罪深き不死の天人が、ね。
たしかに、私は不真面目な不貞天人だ。これは認めねばなるまい。
「ふふっ」自分の口から笑い声が出たことに、驚いた。


「ねえ、天子。どうしてそんなこと聞くの?」
「なんとなく、よ」私はルナサ自分の肩越しにを見上げ、苦痛なしに笑顔を向けた。

「そういえば、あなたはいけない悪戯っ子だったわね」
「ええ。我こそが悪名たかい天子様よ」
前を向いた私の頭の頂点に、ルナサのアゴがのせられた。

「そんな感じで、あの異変を起こしたの?」
「想像にお任せするわ」私は意地の悪い笑顔をしてみる。

「天界には貴方を本当の意味で叱る人が居ないのかもね」
「なにそれ」私は軽い力でルナサをふりほどこうとしたが、かなわなかった。
「自分の裏も表も、全部ひっくるめてさらけ出せる相手が見つかるといいね」
「……うん」思わず肩の力が抜けていく。
「そういう人がすぐ近くに居て、一刻も早く見つかるといいね」
「……ね」

そうして、ルナサは、
「さて、よい子も悪い子も寝なさい。私も寝るから」
と、最後に、私のおでこに、おやすみのキスをしてくれたのだった。



翌朝。
まさか地上でお父様と向き合う羽目になるとは思わなかった。

あの霊夢が、プリズムリバーの家の前まで、お父様を連れてきたのだった。どういう訳だか衣玖も引き連れて。

しまったなあ。
生まれて初めて家出して、ついでに無断外泊してみたはいいものの、帰るときどういう態度をとればすればいいのか、まるで考えてなかった。
玄関で立ち尽くす私は、へらへらとそんなことを考えていた。

ここの子になる、とかいって駄々をこねてみようかしら。
さて、お父様はどうするつもりか。

衣玖の横で、しばらく無言で立ち尽くしていたお父様は、急に私の懐にやってきて、
「馬鹿者!」
いきなり天地が逆さまになった。気がつくと、私の全身が地に横たわっていた。
右頬が熱い。そこを手のひらで押さえると、ひりひりする。
頬を殴られたのだと気がつくのにしばらく時間がかかった。

何でもない事のように立ち上がる。つもりだったが、少し意識が横にぶれる。足がふらつく。
私が完全に立ち上がるまで、お父様は何もしなかった。
というか、天人として誇り高くあるお父様がこんな野蛮なまねをするとは、ちょっと信じられなかった。

文句か、はたまた皮肉の一つでも言ってやろうと、お父様の目を睨み付ける。
するとお父様は、泣いてるのか怒っているのか分からないような顔つきをしていた。
口を開くが、なんと言ってよいものか見当が付かない。

急に、お父様のあらあらしい腕に全身が締め付けられた。
「まったく。あの部屋の、天井裏の抜け穴から抜け出すのはこの際かまわん。しかしだ。天界を離れるなら書置きのひとつでもするべきだろうに。おまけに年頃のお前が無断で朝帰りなどと!」

なぜか思わず私が全身に張り巡らせている力が抜けた。
今の私は、完全に抱きすくめられたお父様の腕力だけで立っていることだろう。


「ごめんなさい」
思っても見ない言葉が、どういうわけだか私の口から発せられる。
自分でも吃驚するくらい拍子抜けに、私のその言葉がでた。
「まったく……まったく……」
そう喋くっている馬鹿なお父様は、もう涙声だった。


だから私は、お父様に抱きつき返すことで、今言った事の訂正、とすることにしたのだった。
「ねぇ、貴方が地上に出てきたの 地震と関係無いよね? ね? 」
万年
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コメント



0.910簡易評価
1.100奇声を発する程度の能力削除
おおう…
読み終わった後、急にストンと落ちた気分になりました
3.90名前が無い程度の能力削除
うぅむ、ルナサ姉はやはり良いなぁ。
いや本筋とは違うのですがね。
12.90名前が無い程度の能力削除
家族いいね。
14.100名前が無い程度の能力削除
和解ではありませんが、それでも大きな一歩ですね
登場人物もみんな素敵でした
面白い作品をありがとうございます
15.90とーなす削除
深くまで穿って書かれた天子の心情に、なるほどなあと思わされました。
16.100名前が無い程度の能力削除
この天子いいな
20.100名前が無い程度の能力削除
ああ、いい……真っ先にそう思えるほどすんなり染み渡りました。