Coolier - 新生・東方創想話

夢違 前編

2011/10/30 01:00:12
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『現の現実と夢の現実、現の私と夢の私、それぞれが存在するわ』
        ――夢違科学世紀:マエリベリー・ハーン








 夢を見ていたのかもしれない。

「紫様、おはようございます。」

 最初に目に入ったのは寝室の天井だった。散々見慣れていたはずの板張りのそれは、なぜだかとても懐かしく感じた。不規則に歪んだ同心円の木目が、整然とした格の網目によって区切られている。混沌と秩序、不安と安定。それは私を象徴しているようで、どこか誇らしくもあった。
 前髪を掻き上げながら、視線を横へずらす。そこにあるのは恭しげに頭を垂れる式の姿か。未だ焦点が合い切らぬ中、頭蓋の奥にじんわりと広がる鈍い痛みだけがしっかりとした現実感でもって私を捕えている。

「おはよう藍。いま何時?」
「寅の刻、4時前です。」

 ふっと息が漏れた。どうやら西方巡りのせいで時間感覚が狂ったままのようだ。重い体をぐいと引きずり上げる。まだ疲れは残っているらしい。一つ深く息を吐いて、まとわりつく眠気を追い払う。

「まだお疲れのご様子で」

 私の心持ちを見透かしたように、横から声が投げ掛けられる。声の主は私の式、名は八雲藍。かつて大陸に名を轟かせたこの妖狐も、今や私の手となり足となって働く道具である。
 唐風の衣に身を包み、携えた大きな九つの尾と護符で彩った帽子に潜む耳以外は、さして人と変わらぬ姿かたちをしている。といっても色香を宿した体躯には並々ならぬ力強さがあり、短くそろえられた金色の髪は同色に輝く尾の毛並みとあいまって、人ならざる者特有の神々しさに満ちている。被せられた従順な面の下に垣間見える妖艶さと自立心は、本来持っている溢れんばかりの資質が、私の術式でもってさえも抑え切れていないことを示しているのかもしれない。

「お食事の支度が整っておりますが、如何なされますか?」
「そうね……頂くわ。」

 ほんのわずか頷いた藍は、そのまま音もなく部屋を後にした。人けの掃けた部屋で、軽く伸びをする。仕事熱心なのはいいのだが、ああも気ばかり遣われると逆にこちらも気が休まらないというものだ。いずれあれにもなにか娯楽をやらねばなるまい。もう一度深く深呼吸をして、私は褥(しとね)から腰を上げた。
 私が部屋に入る頃には既に膳は並んでいた。久々の炊いた米に茹でた筍、干し肉は鹿だろうか。てきぱきと動いていた藍は、こちらの気配に気付くやいなや下座におりた。腰掛けた私は藍にも崩すよう告げる。主従としての弁えは無論としても、やたら堅苦しい席は好みではない。

「西方行脚は如何でしたか?」

 畏まった態度はそのまま、しかし私の意図を多少なりとも酌んでか藍はそんなことを尋ねてきた。半年ぶりの米はやはり美味い。噛む度にじわりと口に広がる甘みは、自分がこの東の果てに浮かぶ島の妖怪であったことをしみじみと思い出させてくれる。

「こちらと変わらないわね」私は小さく眉根を寄せた。「回教徒の街は美しかったけれど、それより西は血の臭いだけ。神と悪魔の区別もつかない馬鹿共が、イェルサレムのためとうそぶいて略奪と殺戮に勤しんでる、ひどい乱痴気騒ぎよ。」
「それはそれは」
「楽しかったといえば食事だけかしらね。"肉"がどこでも簡単に手に入るものだから。」

 苦笑いとともに軽口を振ったつもりだったが、藍はあまり乗ってきてくれなかった。代わりに飛んできたのは、物々しい口調をまとったこんな質問だけ。

「しかして、向こうの"唯一神"なるものには、接触できたのでしょうか?」

 筍をかじる。香辛料と乳製品に慣れきった舌には少々薄味であったが、初春の爽やかな風味は臓腑に染み付いた死臭を幾分かは洗い流してくれる。とはいえ今の京も、血生臭さの度合いでいけばどっこいどっこいやもしれぬが。
 時間を掛けて筍を味わってから、藍に答えを返す。

「ダメだった。取り巻き連中がうるさくてね。向こうの土着神とは何人か知己を得たんだけど、尋ねてみたら鼻で笑ってたわ。始終父親の顔を見てびくびくしてるだけの青二才だから、大方自分からは出てこられないんだろうってね。」
「なかなかに口さがない土着神ですね。」
「まあ向こうからしたら、信仰を奪われ、土地を追われ、名も変えられて、終いには悪魔扱いだからねえ。言いたくもなるでしょうよ。」
「だとすれば彼らもやはり……」

 そこで言いよどんだ藍に、視線だけで応える。向こうもそれで悟ったのか、たちまち目を伏せた。

 わざわざ西方くんだりまで足を伸ばしたのは、移住の可否を見極めるためだった。彼の地は私たち妖にとって住みよい大地であり続けられるのか、それを見たかった。だが結局あちらも同じ。使い方を知らぬまま"知恵"だけをつけた人間が、人外と伍し、そして凌駕しつつある。"神"の御名の下、各地の土着神や"魔物"を次々と平らげていく人の狂宴、最果ての地で繰り広げられていたのはそういう光景だった。
 そしてこの東の果てに浮かぶ島国においてもそれは変わらない。貴族連中が滑稽に踊り狂う今の京は、妖が跋扈するに格好の土地といえた。陥穽、姦計、そして裏切り――人の戦に妖怪が手を貸し、人が妖怪に同族の掃滅を乞う。もはや人と妖の境すら褪せた狂乱の世は、確かに退屈はしなかった。
 だがしかしそれは、人が妖怪を超え出る力を持ち始めていることを同時に意味しているのではないか?――そういった私の懸念を真面目に取りあう連中はほとんどいない。鬼などに至っては人間が自分らと対等に戦えるようになったと喜んでいる節さえある。
 だとしてもだ。あの人間が、同族さえ平然と手にかけるあの連中が、もしこのまま不相応に力を増していくならば、その先に待ち受けているのは何か。この混迷の果て、増長に増長を続けた人は挙句われわれ妖をどう扱うか――私はそれを案じていた。だからこそ先手を打っての西方行脚であったわけだが、突きつけられた現実は私をいっそう暗澹たる思いにさせるだけに終わった。

「京では、鵺が墜ちたそうです」

 箸を置いた私に、目を伏せたままの藍がぼそりと告げた。名を上げるため、力を示すため……理由は知らない。ただかつて人を震え上がらせた名だたる連中が人によって退治される、そんな知らせを聞くことも多くなった。茶を一つすすって、懊悩を紛らすように小さく息を吐く。

「そう」

 鬼が人に負けることも多くなったと聞く。もとより勝ちすぎないよう上手く加減をしていたのだが、最近は人も手を変え品を変え――それこそ汚い手も含めて――追儺(ついな)のやり方を洗練させているらしく、本気を出しても一敗地にまみれることが増えてきたという。
 別に鬼や他の妖怪連中を哀れんでいるわけでも、はたまた賢人面して一つ忠言してやりたいわけでもなかった。弱い奴は何をせずともその内くたばっていく。その摂理に口を挟む気は毛頭ない。ただ妖が人間ごときに捻られるのをむざむざと見ていたくなかっただけだ。それは妖において一際名の知れた存在である私自身までもが侮辱されているようで、我慢ならなかったのである。

「一度、手合わせしてみたかったんだけどね。」
「……残念です」

 空になった湯呑みを置く。藍は言われるでもなくがらんどうの膳を下げた。俯いたまま、笑顔なく。
 ふと、先ほど見ていた夢のことが頭をちらついた。内容はよく覚えていない。なにかとても幸せな夢だった気がするが、細かい部分となるととんと頭から抜け落ちている。まあそれだけで十分だ。現の向こうに幸福があるならば、それは何事にも代えがたい吉報に他ならない。ふわふわとした遠く懐かしい夢の記憶が、依然として頭の奥に残る痛みと混じり合い、滲んでいく。

「――そんなことより藍、出掛けに頼んでおいたものはどうなったのかしら?」
「はい、こちらに。」

 膳を片付け部屋に戻ってきた藍の手には、分厚い紙の束があった。そつのなさに私の頬も思わずほころんだのだろう、つられて藍の顔にも笑みが浮かぶ。文字でびっしりと埋め尽くされた雁皮の紙束を受け取り、ぱらぱらと目を通す。

「なにか変化はあった?」
「それがどうやら力を増すばかりのようで。益々人を死に誘い、魂を喰らい続けております。」
「良いことね」

 資料の中のいかめしい文字列は、今しがたの受け答えをしっかりと裏付けるものであった。私は驚いてさえいた。出掛け前に予想していた以上の成長ぶりであったからだ。
 資料を流し見しつつ、術式の計算を組み立て直す。満開までの時間を換算に入れると、更に強固な結界を組まねば"あれ"を手中に入れることはできぬやもしれぬ。

「わかりました。藍、要石は5つ。地脈の流れをちゃんと頭において、力が相殺されることのなきよう石の属性の違いをきちんと考慮に入れること。」
「はっ」
「鬼か狸あたりに訊きなさい。こういうことは連中の方が詳しいわ。」
「御意」

 そう指示を飛ばしている最中も、頭の中ではとんとんとんと術式が積み上がっていく。寝起きにしてはすこぶる調子が良い。あらゆる可能性を考慮し導き出された結論は、しかし当初の目論見を揺るがすものではなかった。私の予定に綻びなどない。

「――それで、例の人間はまだ"いる"のね?」

 質問というよりは確認といった方がいい問いに、藍もさも当然といった口ぶりで返す。

「はい、あの妖怪桜の成長にあわせるように、富士見の娘も力を増しております。」

 こくりと頷く。つまりことは全て順調ということだ。ならば悪くはない。

「……わかりました。一応自分の目で確認しておかないとね。どれだけ立派に育ったか。」
「すぐお出掛けになりますか?」
「いや、夜が明けてからにするわ。人間どもの都合に合わせてやるのも、たまにはいいでしょう。」

 その言葉を聞き遂げる前にそろりと立ち上がった藍は、床を整えるため寝室へ入っていった。手にあった分厚い資料を畳に投げる。ぽすんと軽い音がして、後は静かになった。
 すっかり満ちた胃のせいか、寝起きに脳みそなどを回したせいか、はたまた京の冥い空気のせいか、再びの眠気が私の全身をがっしりと押さえ込んでいた。
 やはりまだ疲れているのかもしれない。体はずしりと重いのに、頭だけが忙しなく駆けずり回っている。目を瞑ると取りとめのない想念とともに、雷にも似た閃光がまぶたの裏を走っては消えていく。その瞬きは先ほどから頭の奥底に響いていた鈍い痛みと溶け合って、ろうそくのように仄かな熱だけを眼底に落とす。
 やはりもう一寝入りするべきだろう、そう思っておもむろに立ち上がる。日が昇ってからまた出かけねばならない。時間間隔の狂った生活はしばらく続くのだ。あの娘に見立て通りの利用価値があるのか、これから見極めねばならないのだから。




 *




 夢を見ていた。

 後ろから引っ張られるように上体を跳ねあげた。机の上には付けっぱなしになったままのパソコンが一つ。その周りには開きっぱなしのノートやら、色とりどりの付箋が挟まった本やら、コピー用紙の束やら……すっかり寝入ってしまったわけか。
 慌ててパソコンを調べる。立ち上がったままになっていた文書ファイルは、最後に意味不明の数式が書き加えられていたことを除いてはちゃんと形になっていた。下から上へ向かってざっとスクロールしていくと、たちまち一ページ目がスクリーンに姿を現す。


   神話の同異性に関する相対性精神学的考察――『感応論』を手がかりにして

                       マエリベリー・ハーン


 なんとか終わったと、保存のアイコンをクリックしながら一つ息を吐く。どう書き上げたのかも覚えていないが、とりあえず間に合ったわけだ。これで今日の卒論中間報告会は乗り切れるはず。
 携帯が鳴り響いていたことに、遅ればせながら気付いた。目覚ましのアラーム、半分閉じたままの目をこらしてモニターの隅にある時間表示を確認する。……もう10時過ぎてるのか。

「ああ、寝すぎね……」

 前髪を掻き上げながら、ちらと横にある窓へと視線を向ける。外には午前中にもかかわらずうっすら冥い京都の街並みと、それを嘲笑うように降り注ぐ力強い陽光があった。7月も終わろうという頃、こんな時間からすでにうんざりするほど暑い。どれだけ人が進歩しても、京の夏を和らげるのは無理ってことなんだろうか。
 じんわりと頭を締め付けてくる痛みに抗いながら立ち上がる。足がもつれかけた。まあそれも仕方ないか。なんせここしばらくは論文の追い込みで昼も夜も分からない生活が続いてたわけだし。

 思い切り伸びをしてから、いつ着替えたのかも分からない部屋着をベッドの上に放り投げた。生まれた時の姿でシャワー室に飛び込む。はしたないよなと自嘲しつつ、いつもやってしまう。なにせ机からシャワー室までは十歩ほど、一人暮らしの大学生のワンルーム生活なんてこんなもんだ。
 頭上から降り注ぐ温水は、ふわふわとした私の頭を幾分かは目覚めさせてくれた。感覚が失せたままだった四肢にも、少しずつ神経が通っていく。やけに肩と腰が張っている。机に突っ伏して眠り呆けてたんだから当然といえば当然か。べたべたに絡まっていた髪の毛を念入りにすすいでから、シャワーの栓を閉める。体を拭き、とりあえず肌着だけを身に纏う。そしてこれからが本番なのだ。
 ドライヤー片手に鏡と合間見える。私の髪は癖っ毛だ。鏡の向こうの爆弾頭を一睨みしてから、複雑にうねる金糸にブラシの歯をねじ込んでいく。日本人にとって見慣れない色の毛にはしばしば羨望の眼が注がれたが、こうした扱いの厄介さもあったから、自分の髪を自慢に思ったことなんてない。ブラシにこれでもかと抵抗する強情さに苛立ちを覚える中、ふと頭に先ほど見た夢の一幕が浮かんだ。

「ああいうお手伝いさんがいればなあ……」

 どんな夢だったのかはいまひとつ覚えてないのだが、綺麗な女の人が甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたことだけはしっかり記憶にとどめていた。ああいう人が私も欲しい。朝起きたらご飯を作ってくれて、髪を梳いてくれて、着替えを手伝ってくれて……うーんなんて素晴らしい生活だろう。是非そんな御身分になってみたいものだ。
 そんなしょうもない妄想に浸っているうちに、髪も何とか人前に出せるレベルまでまとまってきたらしい。こうやって起き掛けの貴重なエネルギーをごっそり持っていかれるのだ。たまったもんじゃないだろう。やはり"あいつ"みたいにもう少し髪を短くした方がいいだろうか。

「でもそんなことしたら蓮子に笑われるのがオチか……」

 誰に聞かせるでもなくそう呟いて、ドライヤーのスイッチを切る。喧しかったモーター音がじわじわと掻き消えて、後は静かになった。ぽやっとした顔つきをしていた鏡の自分へ苦笑いを向けて、冷蔵庫へと足を運ぶ。入っていたのは必要最低限を下回る食料と調味料類、後はいつ買ったのかも記憶にない品が数点。そんなスカスカの空間と対照的に、ドアポケットには酒缶がひしめいている。
 侘しい生活観に満ちた冷蔵庫からバターとハムを取り出すと、続けてポットに水を注ぎいれる。今じゃ電気で一分掛からず湯が沸く時代だ。スイッチを入れてから、冷蔵庫の上に転がっていた袋から食パンを一枚取り出し、バターを塗りたくる。その上にハムを数切れのせて半分にたたむと朝ごはんの完成だ。ちょうど湯も沸いた。

「ああ、カップあっちか。」

 夜通しコーヒーを飲んでいたことを今更思い出す。即席サンドイッチを盛った皿とやかん型の電動ポットを持って、机まで戻る。コーヒー渋が環を作っているマグカップへ適当にインスタントコーヒーの粉末を投げ込み、ポットの湯を注ぐ。立ち上る湯気と安っぽい香りが蒸し暑い部屋に立ち昇ったところで、ようやく朝食の時間と相成った。
 味気のないサンドイッチをかじりつつ、私はもう一度発表用のレジュメに目を通していた。今から読み直してどうにかなるものでもなかろうが、触ってないと不安でもあった。出来としては自分でも悪くはないと思いつつ、やはり人前での発表となると少し勝手が違うところもある。
 論文の内容をかいつまんで言うと、要するに日本と西洋の比較神話論みたいなものだ。今回考察したのは日本神話におけるイザナキとイザナミの関係と、ギリシア神話におけるオルぺウスとエウリュディケの関係である。

 この二つの話の相同性は古くから指摘されてきた。イザナキとイザナミの方は、おおざっぱに言うと黄泉国へ去った妻イザナミを、夫イザナキが迎えにいこうとする話だ。イザナミの元まで辿り着いたイザナキだったが、部屋の中を見ないでくれという妻の言葉を無視して、中を覗いてしまう。そこには体中が爛れ腐り蛆のわいた、変わり果てた姿のイザナミがいた。彼は恐れをなして逃げ帰り、醜い姿を見られたと恥じた妻は彼のことを憎む。そして二人は別れてしまうという筋立てだ。
 オルぺウスの話もまたよく知られているだろう。めとったばかりの妻エウリュディケを失った彼が、冥府まで死んだ妻を迎えにいく。吟遊詩人であった彼は妻を失った哀切を歌い上げることで冥府の者の心をも虜にし、エウリュディケを連れ帰ることを許される。ただし地上へ辿りつくまで決して妻の方を振り返ってはならない、という条件付きで。
 エウリュディケを引き連れ地上を目指したオルぺウスだったが、もう少しで地上の世界へ戻れるというところで、妻がまだ着いてきてくれているのか一瞬不安になり、約束を破って後ろを振り向いてしまう。たちまちにしてエウリュディケは冥府へと引き戻され、二人は離れ離れとなる、そういう話だ。

 もちろん細部を見れば結構違うような気もするし、実際そう考える人も多いのだが、構造的に見ると類似性が見受けられることもあって、以前から喧々諤々の議論がなされてきた部分でもある。人類学における神話の構造研究などはよく知られているだろう。もちろん私の専門分野である精神科学からの知見も存在する。ユングの「普遍無意識」や「原型」の概念を用いた議論が代表的だ。そうした既存の考察を現在の相対性精神学の概念に則って批判的に再検討するのが、私の論文の眼目である。

 スクリーンを流れる文字列を眺めながら、ぱさぱさのサンドイッチをコーヒーで胃に流し込む。人工肉を固めたハムに人工乳から作ったバター、それに人工小麦をこねくり回したパン――その食事は"作業"と形容するのがもっとも適切なように思えた。一つ天然の野菜にでもかぶりついてみたいもんだ。少しはこの暑さも紛れるかもしれない。そういえば夢の中ではもっと美味しいものを食べていなかったか? なんだか一度そんな気がしてしまうと、そうであったに違いないとさえ思えてしまう。
 事実、味などに思いを馳せる間もなく、気付けば皿は空になっていた。仕事のなくなった手が無意識に携帯を掴む。最初に目に入ったのは待ち受けで笑う少女。散々見慣れていたはずのそれは、なぜだかとても懐かしく感じた。
 宇佐見蓮子――それが少女の名前だ。「秘封倶楽部」という二人だけから成るオカルトサークルの片割れである。女子大生を少女呼ばわりするのは語弊があるかもしれないが、一緒にいると本当に少女そのままの反応を示すので間違ってはいないと思う。

 懐かしいというのはたいした意味でもない。私は精神科学、蓮子は物理学と、専攻がまったく違う。だからサークル活動が停滞するとなかなか会う機会が作れないという、ただそれだけのことである。特に蓮子も私も夏休み前の卒論中間報告会、そして少し置いて大学院の入学試験と、最近は色々と忙しい。もっともうちの大学の場合、中から院に上がる分にはこの中間報告でちゃんと成果を見せてさえおけば、後がだいぶ楽になるという裏事情もあったりする。すなわち最大の山場は今日この日といっても過言ではないのだ。
 蓮子と最後に会ったのは三日前、いっしょに晩ご飯を食べに行った時だろうか。その時はかなり余裕そうに見えた。まあ別に不思議でもなんでもない。長く付き合ってきてよくわかったが、あの子は頭のつくりが違う。
 まともなレフリーつき論文を"もっと"書けと、指導教授から突っつかれているとかいう話も聞いた。それはつまり本人がやる気になればいつでも世に発表できるような発想を抱えてるということだろう。サークル活動ではいつもふざけてばっかりで、およそ真面目に勉強しているようには見えないのだが、本業の方の出来は抜群にいいのだ。

 大学というところは偶にそういう奴がいる。普段は遊び歩いてばかりで勉強している様子など微塵も窺えないくせに、こっちが何日も掛けて必死で読んだ本を原著でさらっと読んでくるわ――しかもこちらよりはるかに読みが深いのだ――、権威主義の塊みたいな教授を軽々と凹ませたりしてみせるわ、なぜか他学科の人間よりその分野に詳しいわと、まあ「天才」なんて安っぽいレッテルを貼りたくなってしまうこっちの方が惨めな思いをするだけという、そんなタイプの奴が。蓮子もそういう神童じみたところがあった。

 ――ふと、さっきからずっとこの宇佐見蓮子なる人物のことばかり考えていたことに気付く。スクリーンを意味もなく流し見しつつ、感慨のない食事をとっている時から、いやおそらく先ほど鏡の前で「蓮子」という名をぼそりと呟いてからずっと、意識を捕えていたのは他でもない、あの子だ。短くした髪型を、おそろいになった髪型を、茶目っ気たっぷりに冷やかしてくる蓮子――そんな光景を取りとめもなく思い浮かべていた。
 まあそれも仕方ない。だってここ数日は辛気臭い部屋で一人きり、論文相手にうんうん頭を捻っていたのだ。少しぐらいは現実逃避をしても罰は当たるまい。蓮子といると退屈しなかった。冥い街、ともすれば退屈な学生生活、「秘封倶楽部」はそんな暗鬱な日常に射す唯一の光となっていた。それは疑いようもない。
 携帯のメール欄を開く。昨日届いた蓮子からのメール。報告会が終わったら打ち上げしようという文面。それだけで寝起きの気だるさも、うだるような暑さも、報告会のプレッシャーも和らぐ。これから待ち受ける試練の続きに愉楽があるならば、それは何事にも代えがたい吉報に他ならない。起き掛けに頭を覆っていた鈍い痛みも、今ではすっかりどこかへすっとんでいた。
 椅子から身を起こし、大学へ向かう準備にかかる。紫色のドレスを纏い、白の帽子を頭に載せる。出しなにもう一度鏡の前で髪形をチェックした。前髪の真ん中辺りにある一房、さっきからそこに居心地の悪さを感じていたのである。やっぱり上手くまとまらなかったのかもしれない。ふと人に見られたときのことを想像して、もう一度その部分を繰り返し手櫛で押し撫でる。鏡の中の顔は、なぜだか火が出んばかりに真っ赤であった。
 革靴に足を押し込んで、意気揚々と扉を開ける。しかし出迎えたのはあまりに無慈悲な京都の夏。掌に収まるほどしかない私の体力など、通学用バスの待ち合い場に辿りつく手前で根こそぎ奪われかねないくらいの暑さだ。重たい体を前に進めながら、なんとしてもバスの中でもう一眠りするぞと決意するのであった。







『それは人間であれ妖怪であれ、あらゆる生き物にとって、生きていく事は辛いことの積み重ねだからである』
                            ――東方紫香花:八雲紫







 またあの夢か。

「紫様、そろそろお時間です」

 重いまぶたを持ち上げる。仮眠のつもりがずいぶんと熟睡してしまったようだ。自己嫌悪で口の中をいっぱいにしながら、首だけを声の方へと向ける。

「藍、今は?」
「巳の刻、10時です。」

 返ってきたのはしごく簡潔な説明。上体だけを起こすと、しばし掌でこめかみを揉みしだく。やはりこの時間に起きるのは妖怪として辛いものがある。若干明るさの増した冥い部屋は私にとって目の毒でしかない。
 藍の動きには無駄がなかった。そそくさと音も立てずに私の背に回ると、上でまとめていた髪を下ろす。腰ほどまである金糸がさらりと落ちて、毛先が褥にまで掛かる。そのまま用意していた櫛で髪を漉き始めた。私の髪は癖が強いが、藍は苦にする様子もなく櫛を入れていく。それはさながらせせらぎに木の葉を流すかのごとき鮮やかな手際であった。梳かすたびに毛が軽く引っ張られて、頭皮がくいと持ち上がる。それはどこか按摩に似た感触で、鈍い痛みが残ったままだった脳髄をそっと和くれる。
 横にあった姿見に、なんとなしに視線がいった。甲斐甲斐しく働く藍と、半分寝ぼけたままの私がいる。そういえば最近は身支度も藍に任せきりで、鏡を覗くこともめっきり少なくなっていた。陰気で青白い顔が眼を細め、睨みつけでもするように己が姿を窺いみている。なぜだか居たたまれなくなって姿見から眼をそらした。
 そんなことをしているうちに藍は梳かす作業を終えていたようだ。流麗な手さばきで私の髪をひと掴みほどの束に分けると、赤のリボンでそれを一つ一つ結わえていく。横の髪も同じ色のリボンで飾り立てると、満足そうに一礼し、後ろへ下がった。

「ありがとう、藍。」
「いえ。お食事は如何なされますか?」

 伏せていた顔を上げる。視線の先では春のうららかな陽光が障子紙の上で踊っている。刻々と姿を変える光と影のまだら模様、そんなものにぼんやりと目を奪われながら、ふと頭に先ほど見た夢の一幕が浮かんだ。

「いや、いいわ。すぐに出ます。」
「ではお召し物を」

 しっかりと記憶に留めていたわけではない。ただ、口の中に妙な後味が残っていた。何か食べ慣れないものを無理やり口に押し込んだような不快感、胃がそれを消化することを拒否するようなむかつき、およそ食欲などわいてこなかった。
 立ち上がった私へ、藍はしずしずと服を差し出す。長襦袢を畳に落とし、紫色のドレスに身を包む。赤の紐で彩った帽子を頭に載せ、肘まである白の長手袋を嵌める。頭の奥底では依然として、鈍痛が細波を立てたまま。愛用の扇子を軽く持ち上げて、すっと虚空を撫でる。薄暗かった室内に漆黒の亀裂が開く。

「それでは行ってくるわ。留守番お願いね。」
「はい」

 正座したまま頭を下げる藍を後ろに置いて、私は亀裂の中に融けていった。




 久々に目の当たりにした京は相も変わらず冥かった。妖気と邪気に満ち満ちた街並みを一瞥して、目的地へ急ぐ。そこは都からかなり離れた、小高い山のさらに向こうにある。山を越えた頃には、いっそうの妖気が禍々しい圧力でもって私の来訪を迎えてくれた。立ち込める死臭はどれだけ肺いっぱいに吸い込んでも慣れようがないほど。西方で散々嗅ぎ慣れたと思っていたが、ここはまた別格と言える。さすがの私も閉口せざるをえなかった。
 山中の獣道をしばらく進むと、妙に開けた場所に出た。まるでそこにあった生態系の連なりが根こそぎ消し飛んだかのような寒々しい荒野、その中心にそびえる一本の大樹。まだかなり離れた所にあるのいうのに、こちらを押し潰さんと言わんばかりの威圧感を撒き散らしている。
 一歩一歩、大樹の方へと歩み寄る。もはや刺激としか知覚しえない死臭は、べとりと空気を穢しながら私の皮膚を冒す。人10人ほどが手を繋いで取り囲んでも足りないほどの野太い幹、それはなおも伸び上がらんとする生命力を体現しているふうにも、朽ちかけた巨木の哀れな末路を象徴しているふうにも見えた。まだ桜の時期には少々早いのだろう、枝中につぼみこそ纏わせているが、あの血を思わせる薄紅色の花びらは姿を見せていない。
 西行妖と呼ばれるこの妖怪桜が力を持ち出したのはつい10年ほどのこと、とある高名な歌人がこの下で死んでからとされる。しかしそこからの"進化"は少なからず私を驚かせた。その歌聖を慕う人間共の血を次々と吸い始めた西行妖は、今では人間はおろか妖怪でさえまともに御することができないほどの存在と成り果てた。そう、それほどの力を得たのだ。

   力が、ほしかった

 その思いに駆られるようになったのは、果たしていつごろからだったろうか。
 名のある実力者を手当たり次第に屈服させる――このところの私を突き動かしていたのはそんな衝動だった。己が力を誇示せんがため、そして更なる格を得んがためと。人間どものから頼りにされていた退魔師に格の違いを見せつけ、行く土地土地で大きな顔をしていた妖どもをねじ伏せ、鬼さえも打ちのめす。土着神、仙人、天人……どんな連中でもお構いなしだ。目に入る存在全てに自分の力を知らしめてやらねば、気がすまなかった。
 その願いは成就されつつあったと思う。今や"境界の妖怪"の力はすっかり世に轟き渡り、"八雲"の名前一つで大抵の事はこちらの意のままに動くようになった。向けられる畏怖、羨望、そして怨嗟の念。それは私の心を大いに満たした。だというのに、それだけの満足を得られるようになってもなお――いやむしろ得れば得るほど――私はひたすら強さを求めようとした。泥沼に沈みもがく時、人はきっとこういう感覚を覚えるのだろう。
 何が私にそうさせるのか――増長する人への怯えに駆られたがためか、ただ生き長らえたいという原初的な本能に引きずられでもしたのか、はたまた妖としての自然な欲求のなす業なのか――それは自分でもわからない。ただ取り憑かれでもしたかのように、私はここのところ力にこだわっていたのである。
 そんな私がこの妖木、西行妖に目を付けたのは、全くもって自然な帰結と言えただろう。魅入られたものを尽く死にいざなう禁忌の力。確かにこうして合間見えてみればよくわかる。今まで対峙した中でもとび切りおぞましく、そしてたまらなく魅力的なことに。
 自然と拳に力が入っていることに気付いた。ぱっと湧き上がる屈辱感を払わんと、西行妖を睨み上げる。慄いている?――そんな馬鹿げた疑念がちらと頭を掠めた。こんな桜相手に私が身を竦ませるなど、ありえるわけがなかろうに。
 事実これをねじ伏せるための術式はもう組み上がっているのだ。どうやら人間共も似たようなことを考えているらしいが、連中のちゃちな結界ではこの妖怪桜の力を封じるのがせいぜいだろう。私の式ならば妖怪桜を封じつつ、かつその力を自分の中に取り込むことができる。この禍々しい妖気を自らのものにできる。更なる格を――それこそ生と死の境界を超え出るほどの力を――得ることができる。藍に色々調べさせていたのも、全てがこの計画のためであった。


「――自殺を御所望ですか?」


 どれほど西行妖を見つめていたのだろうか。その声が届くまで、私は背後の気配に気付けなかった。致し方なくもある。こんな死の臭いしかしない場所に近づける者など、他にいないと思っていたから。投げかけられた声はかぼそくおっとりとしていて、この空野に溶けてなくなってしまいそうなほど。なのに聞く者の耳へ抉りこんでくるような、妙な鋭さが混じっていた。
 吸い寄せられるように、私は声の元へ振り返る。そしてその眼は囚われたまま動けなくなってしまった。当然あったはずの警戒心すら、一切が剥ぎ取られでもしたかのごとく。
 立っていたのは少女だった。まだあどけなさすら感じさせる笑顔には、しかし一種独特の奥行きと深みがあった。凛々しく怜悧な目鼻立ちに似合わぬやつれた、青白い肌の色。落ち窪みうっすらと陰の差す目元の奥には、底知れぬ深い光を纏った瞳が嵌め込められている。
 桜よりわずかに赤みの強い髪は肩に触れるかどうかといったところで切りそろえられていて、そのふわふわとした髪質は、ふつと消えてしまうような儚さに満ちている。各々の部位が見せる歪な落差。剛胆さと繊細さが同居した面立ちの下に広がる深淵――私はこの娘が人間だとにわかに信じることができなかった。

「珍しいですね。妖怪の方が自殺なんて。」

 娘はちらとこちらへ微笑みを投げてから、真横に並び立つ。私より拳一つほど小さなその体躯は、春風に舞い上げられて飛んでいってしまうのではないかと思うほど華奢であった。粗末な着物に身を包み、そこから朽ちた小枝のような四肢を覗かせて、漏れ出る死臭のおぞましさは、先ほどまでの比ではない。しかし死霊の群れの奥に潜ませた所作一つ一つののたおやかさは、京に蔓延るどの貴族連中よりも気品に溢れている。それは傲慢さすら覚えるほど、完璧な風雅を放っていたのだ。
 今しがたこちらへ向けた微笑のまま、少女は眼前にそびえ立つ西行妖を見上げる。その笑みは柔らかったが、しかしどこかつまらなそうにも見えた。

「……自殺なんかしないわ。」

 はっと我に返った私は、思わず顔を逃がしてしまった。横の娘は笑みを湛えたまま、桜の方をぼんやりと見ている。その視線から遠ざかろうと、私も桜へ目を上げる。

「ではどうしてこんな所へいらしたのですか?」
「花を見に来たの。それだけです。」

 小袖で口元を覆いながら、娘はくすくすと笑い出す。緩んだまなじりの内にあった瞳が視界に入る。なぜだかこちらが恥じ入ってしまった。

「花を見るといっても、まだつぼみだけで花は開いておりませんのに。」
「花見というのはね、花を見ることではなく、花に思いを馳せることです。それにもっとも適しているのは花が開く直前なのよ。」
「……なるほど」

 満足そうにまばたきした娘は、そのまま視線を西行妖に戻す。それは枝に咲き誇る固いつぼみを眺めていたのか、それとももっと遠くを見ていたのか。ただ瞳の中には花を愛でる心など微塵も浮かんではいないと、そう直感的に悟った。

「さすが妖怪の方は聡明ですね。確かに仰るとおりです。最も美しい桜は満開に咲き誇った姿ではない。その姿を想う人の内にあるのですもの。」
「そう、そうね」
「宴もそうです。始まってからよりも、今始らんとする瞬間が一番愛おしい。」

 そんなふうに言葉を交わしながら、腹の底に已みがたい怒りが広がっていることをはっきりと自覚する。それは私をひどく辱め、困惑させたのだ。こんなことは初めてだった。人間と並びながら、このように和気藹々と会話を交わすなど。
 もちろん人間共と話したことがないわけではない。施政者や陰陽師、神官に僧侶……私の前にひれ伏した、或いは寝首を掻きに来た連中は掃いて捨てるほどいる。しかしそういった連中がまとっていた畏怖、追従、敵意の色を、今目の前にいる少女からは露ほども感じなかった。ただあったのは無防備きわまりない親しみだけ。人間ごときから親愛の情を向けられている――これほどの屈辱がありうるだろうか。
 たちまちにして心がどす黒く染まっていく。それは次第に抑制が困難なものにまで膨らまんとしていた。人間の小娘ごときに、すっかり心乱されている――自分の心持ちをはっきりと理解すればするほど、今目の前にある優美なしぐさも、柔和な微笑みも、懇ろな言葉も、すべてが私を愚弄するための倨傲な振る舞いにしか見えなくなってくる。易々と晒されたあの細い喉笛を掴みあげ掻っ切ってやれば、一瞬で屠ることもできように――はちきれんばかりの苛立ちの中、そんなことすら頭を掠めた。
 そこまで思い至ってようやく冷静になれたらしい。己の堪え性のなさにたまらず漏れ出た含み笑いを、小娘は自分に向けられたものと勘違いしたらしかった。

「あら、失礼しました」と慌てた様子でこいつは私へと向き直る。「私、西行寺幽々子と申します。ご挨拶が遅れてしまい申し訳ありません。」
「八雲紫といいます。はじめまして」
「せっかくのお花見を邪魔してしまい申し訳ありませんでした。実は私ここからすぐの処にある庵に住んでおりまして、この桜の様子を見にくるのが日課となっているもので。」

 だが、私がそんな物騒な考えに至ったのは当然とも言える。ここに来た目的とは、要するにそれだったのだから。

 名乗られる必要などない。この娘のことはよく知っている。そう、こいつこそ件の歌聖の娘、西行妖の力を抑えつけているという富士見の娘だ。同時に自らも死霊を統べることができるという。見たのは一度きり、まだ物心もつかない頃であったろうか。当然遠巻きから眺めていただけの私のことも、またその頃にはもう定まっていた自身の運命にも、気付いていなかっただろう。
 西行妖の力は日に日に強まっている。そしてそれに比例するように、この幽々子という娘の力も強まっている。今では取り殺すぐらいのことは雑作もなくできるはずだ。そんなものに近寄る人間がいるわけもない。この娘が西行妖の近くで、死霊に取り囲まれながらひとり寂しく暮らしているということは、藍の報告にも書いてあった。
 だがこのまだ幼さの残る少女が持つ忌まわしい力は、同時に多くの者にとって垂涎の的でもある。特に京の術者連中、そして西行寺の本家は、この妖怪桜の封印には富士見の娘の存在が欠かせざるものだと見抜いていた。

「紫様、もし宜しければ私の家においでくださいませんか? 庭からもこの桜がよく見えます。花見にはよい所ですよ。」
「……それこそお邪魔ではないかしら?」

 そして連中共と同じように、私の術式にもこの娘の体がいるのだ。西行妖の力を全てこいつの中に封じ、そして喰らうことで、私はこの桜、そしてそれを抑えている娘の力を得ることができる。死に誘い、死を操り、死を超える力を。

「そんなことはありません。客が来ることなどめったにありませんから。独り身ゆえたいした気遣いもできませんが、宜しければ是非。」

 いっぱいの笑顔をつくって頷いてやった私に、幽々子はぱっと顔を光らせる。あまりに無垢なその表情に、私はとっさに扇子で口元を覆い隠した。




 *




「――それでは、中間報告会を始めます」

 その声によって、夢から現へと引き戻される。まだぼやけたままの頭を振って、司会役の教授を見遣る。

「最初は、ハーンさんですね。では宜しくお願いします。」

 そうだった。しょっぱなの発表だった。ここに来る前にコピーしてきたレジュメの束を適当に出席者へ配り、おもむろに立ち上がる。ぶっちゃけまだ目は醒めてない。

「はい、えーと……では最初に発表しますマエリベリー・ハーンです。宜しくお願いします。」

 四角く輪をなした机に向かって、そう言葉を投げながら軽く頭を下げる。座の一角を学科の教授連が占め、残りの空間を同期の学生たちが埋めているようだ。レジュメに目を通す者、私へ視線を向ける者、いずれ回ってくる発表に気が気でない者――共通しているのは辛気臭い顔ばかりってことぐらいか。
 居眠りしてたせいで開ききってなかった声帯をこじ開けるため咳払いを入れてから、改めて口を切った。

「私の研究は、東洋と西洋の神話比較を相対性精神学における『感応論』から再検討することを目的としています。
 本論で扱う神話とは、ギリシア神話においてオルぺウスが死んだ妻エウリュディケを冥界から連れ帰ろうとする話、そして日本神話の『国産み』においてイザナキが黄泉の国へ去った妻イザナミを連れ帰ろうとする話です。本日はこの神話比較の先行研究とその問題点、そして『感応論』を適用することによってもたらされる新たな視座と、今後の検討課題について報告させて頂きたいと思います。
 さて、今申し上げました二つの神話の類似性については、過去にも多くの論者によって指摘がなされてきました。レジュメの1ページに、代表的な議論をまとめてありますのでご覧下さい……」

 と話を起こしながら、少しずつ頭の冴えを手繰り寄せていく。ようやく周りを見回すだけの余裕も出てきたのか、改めて聴衆の方へ視線を送る。気だるそうな座の一番隅にいた顔に、私は惹き付けられた。思わず発表の手を止めてしまいそうになるほど。

「あ、ああはい。えと……様々な議論の中で、代表的かつ重要な論点として挙げられるのが、レヴィ=ストロースによる構造人類学と、ユングによる『原型』の理論でしょう。
 デュメジルの比較神話学の影響を受けたレヴィ=ストロースの構造人類学においては、各地域の神話をまず『神話素』という"コード"へと還元します。そこから神話を読み解くことで、一見多様にみえる神話の間に普遍的な共通性があることを彼は示しました。これは本論に重要な示唆を与えるものです。
 しかし徹底した構造論の視座に立つ彼の神話学はその内容を捨象します。神話そのものの豊穣さを削ぎ落とすことがもたらす諸々の問題点は、彼の中で複雑な葛藤を孕みながらも最終的には等閑視されているように思われます。
 ユングの『原型』も同様に、異なる神話の間には深層意識レベルでの共通性があると考えます。彼は意識と個人的無意識の下に、人類が共通して抱いている普遍無意識なるものがあると仮定しました。そして普遍無意識を構成する『原型』は、生命体の間で時空を越え共有されているものだと考えたのです。
 これらの議論に従って本論で取り上げようとしている事例を解釈するならば、古代ギリシア人と古代日本人が共通する『原型』や『神話素』に基づき、それぞれの神話を編み出したのだと考えることができるでしょう。」

 もう一度ちらと問題の方向に視線を向ける。隅のパイプ椅子にちょこんと腰掛けていたのは宇佐見蓮子、向こうも私の視線に気付いたのか、軽く手を上げて笑顔を返してきた。それは緊張を和らげる一方で、私にいっそうの緊張をもたらしたらしい。裏返りそうになる声を抑えながら、必死に発表を続ける。

「しかしこれらの説明では『なぜ二つの神話の間には多様な差異があるのか』という疑問にうまく答えられません。すなわちこれら先行研究は、普遍性をもった構造から類似性を説明しようとするあまり、なぜ相同と差異がそこに混在するのか、そしてなぜその混在のパターンが神話ごとにまったく異なる形式をとりうるのかという点には深い注意を払っていないのです。こうした課題を乗り越えるため、今回は相対性精神学の一つである『感応論』を概念的に拡張しつつ、適用することを試みました。
 感応論は相対性精神学の古典的概念です。すなわちこれは普遍無意識などが前提としてきた全人類共通の構造という考え方とは立場を異にするものであり、中範囲における無意識間の相互作用に重きを置く考え方であります。
 人々が共通性を獲得するプロセスにおいて、いわゆる普遍的構造ではなく、個人間の『感応作用』――ある個人の無意識が伸縮し、他者の無意識に直接影響を与えるという効果に着目します。これは元々シンクロニシティ現象やテレパシー、或いは俗に"お告げ"と呼ばれる精神体験を説明するための概念として導入されました。代表的な論者としては……」

 なんとか反らそうとしていた視線は、しかし逆に蓮子の方を見ることを懸命に促しているようだった。もうレジュメには目を通しきったのか、蓮子は頬杖を付きながらこちらの方へ柔らかな視線を投げかけている。ふと出掛けにいじった前髪の一房が異様に気になった。持っていたレジュメに顔を埋めるようにして、先を急ぐ。

「――こうした『感応論』は超統一物理学等、他分野における諸理論の影響を受け、近年更なる展開を見せています。すなわち『感応』は物理的・直接的な接触のあった人の間だけで起きるのではなく、時間や空間を越えた『心的次元』の平面でも起こりうるのではないかという考え方が提起されたのです。
 本稿においてはこの議論を立脚点として、二つの神話の類似性を説明することを試みています。つまりかつてのギリシア人とヤマトの民が、もっと言ってしまえばオルぺウスとイザナキ、エウリュディケとイザナミ自身が時空を超えた感応をすることで、かような類似性がもたらされたのではないかと。
 この場合、両者の間の差異をどう説明できるでしょうか? ここで鍵となるのは実存哲学における『投企』の概念です。これは現実に投げ出された人間が、その状況を受け入れ、逆にその中に自己の可能性を投じることで、新しい現実を主体的に模索していくことを言います。
 無意識間の『感応』はそれまでの精神分析学が考えていた普遍無意識やエスほどに人々を強く拘束するものではありません。それは言うなれば無意識から湧き上がる"暗示"なのです。しかしそうした暗示が人々によって逆らいがたく、時として過酷な状況を仄めかすことには変わりません。その暗示に対し、個々人の意識・無意識がそれぞれが拘束されている状況の中で何を選択していくのか。ここにより強い注意が払われるべきでしょう。残念なことに現在の『感応論』においても、この点には深い注意が払われていません。
 以上のような考察を基にして、本稿では投企に向かうための状況という観点から神話構造を再解釈することを提案しています。具体的な解釈については現在も検討を行っている最中ですが、一例としては……」

 もう自分がどんな口ぶりで発表しているのか、自分でもはっきりしないといった有様だ。クーラーの効きが悪いのか、部屋が蒸し暑くてくらくらする。脳髄に酸素が回っていない感じだ。そんな状態でも言葉はよどみなく口を出るものである。頭は完全にどこか遠くの世界へ行っていたというのに。これも徹夜の無意識状態で書き上げた成果だろうか。
 気付けばレジュメは終わり近くまで来ていた。

「……このようにして、神話に見られる差異について新たな知見を得ることが可能となりました。しかしここで一つ注目しておくべき点があることは改めて指摘しておかねばならないでしょう。それは両方の神話とも、結局離別という悲劇的結末に至っているという点です。このような結末を食い止めることができなかったということは、『投企』という概念を導入した際、我々に深刻な示唆をもたらします。
 つまり今回の考察で推察される主体的働きかけなどでは変えることのできない構造の頑健さ、言うならば主体の意志に抗う"運命の力"がここに隠れているのです。こうした"変わりにくさ"と投企の関係、構造に対する主体の働きかけが持つ可能性と限界については、今後いっそうの検討を加えねばならないと考えております。以上です。」
「はい、ありがとうございました。では質問のある方。」

 その一言に、私は糸が切れたように椅子へ腰を落とした。全身から力が抜け、妙な汗がどっと噴き出してくる。瞳が久方ぶりに現の世界をしっかと捕捉する。壁に掛かった時計の針は、予定よりずいぶん早く発表が終わってしまったことを示していた。ようやく、自分がやたら早口で喋っていたことに気が付けたわけだ。たまらず俯く。滲み出た汗のせいで、前髪の一房がべったりと額に張り付いていた。
 さして厄介な質問はなかった――気がする。一つとんでもなく的外れな質問が出たが、指導教授が取り持ったおかげで特に場を乱すことにはならなかった。
 無事次の発表者の番に移り、ようやく私は空気を味わうことができた。改めて持ち上げた視線の先には蓮子がいる。余裕たっぷりに、しかし優しく笑みを浮かべる彼女と、苦々しげにアイコンタクトを交わす。ちょいと持ち上げた眉は、「ご苦労様」というメッセージなのだろう。苦労が増したのはお前のせいだっての、全く……
 残りの発表はほとんど耳に入らなかった。半分以上の研究内容は先刻承知済みだったということもある。しかしそれ以上に恥ずかしくてたまらなかった。あんなみっともない姿を見られた……そのことで頭がいっぱいで、もはや報告会など二の次だった。汗と湿気でしなしなになった前髪を絶えずいじくっていたら時間が来ていた、喩えるならそんな感じだろうか。

 散会後、研究室で指導教授と軽く会話を交わし、私はそそくさと研究棟を後にした。教授からはまあまあよい評価をもらえたものの――まあもっともあの発表は「緊張しすぎだ」と笑われたのだが――、こっちはそれどころではなかった。廊下ですれ違った教授連や発表を終えた同士からのお誘いを丁重に辞退して、私は一路待ち合わせ場所へと急いだ。

「よう、ご苦労さんメリー。」

 いつも使うカフェの一角、いつも使う隅の席――そこは不良オカルトサークル「秘封倶楽部」の"部室"である。やはりいつも通り壁側の席に陣取っていた蓮子が、しかし珍しく私のことを待っていた。
 こちらへ向かって調子よく手を振った蓮子は、被っていた伊達な黒帽をひょいと頭から外した。白いシャツに灰色のネクタイをぶら下げて、黒のスカートといういでたちだ。艶のある黒髪と併せてモノトーンに纏められた身なりは、一見するとひどくフォーマルで、堅苦しさすら感じるかもしれない。確かに落ち着いた、頭のいい奴特有のどこか悟ったふうな面があることは否定できない。それは側にいると、不思議な安心感をもたらしてくれる源泉でもある。
 しかし帽子に巻きつけられた大きなリボンや、片方だけ少し長めに伸ばされちょこんと結わえられたお下げなどは、年齢に似つかわぬ子供らしさにも満ちている。二人きりのサークル活動を主導する原動力となっている向こう見ずな行動力、それを牽引する好奇心と無邪気さ。生真面目そうな外見から時折り覗く色とりどりの表情はとてもアンバランスで、しかしそれこそがこの宇佐見蓮子という人間に魅力的な奥行きを持たせているんだろう。
 今もそんな印象そのまま、頬杖の上の利発そうな顔に屈託のない笑みを被せながら、私が腰掛けるのを待っていたのだった。

「10分41秒遅刻だよ、メリー」
「蓮子にそう言われる日が来るとは思わなかったわ。」
「私も言ってみたかったんだよねー たまにはさ。」

 なんでも蓮子は月を見ると今いる位置が分かり、星を見ると正確な時刻がわかるんだそうだ。一方の私はというと、結界の切れ目を見ることができる。そんなちょっと変わった眼を持つ二人が世の中に隠された秘密を暴く――それが「秘封倶楽部」というサークルだ。世間的に見ればしょうもないどころか犯罪ものである。結界暴きはいまやタブーなのだから。
 とまあ一応社交辞令的に切れ目が見えるんだとは言ってみたものの、最近見えるどころの話ではなくなってきているらしい。夢の世界からお土産を持ってきて蓮子を呆れさせるというのはもはやお約束で、そこはちょっと悩みどころである。しかしこの眼があったからこうして蓮子と奇っ怪なオカルトサークルを結成できたわけで、そういう意味では大いに感謝しなくてはならない。
 拗ねたような私のそぶりを見て、蓮子はちょっぴり済まなそうにはにかむ。なんでかわからないが、見ているこっちが悪いことをしたみたいな気分になる。じれったい間に耐え切れず、私は一つため息を吐く。

「遅れたことは悪かったわ。」
「ふざけただけだって。別に気にしてないよ」蓮子は背もたれに肩肘を乗せながらおどけてみせる。「それよか今日は大変だったね。なかなか面白かったよ。テンパるメリーの顔。」

 やっぱり見られた。唇を突き出して上目遣いにじっと睨む私に、蓮子は「冗談だよ」と舌を出す。この空気から一刻も早く逃げたかったので、とりあえず思いついた話題を振ることにした。

「なんで来たのよ?」
「なんでって、報告会は聴講自由じゃない。来ちゃいけなかった?」

 軽くあしらわれた。もう何だか無性に腹が立ってきたので、ウエイトレスを呼びつけてケーキセットを注文する。コーヒー一杯で時間を潰していた蓮子も同じものを頼んだ。
 ウエイトレスが去って、また二人きりに戻る。なんと口を開いたものか、話したい事はたくさんあったはずなのになぜか言葉が出てこない。きりきりとした羞恥と、久方ぶりに顔を合わせられたことへの安堵、そしてそわそわとした高揚感――そんな感情が押し合い圧し合いして、喉が詰まってしまったらしい。
 ようやく運ばれてきたコーヒーを喘ぐように一すすりしても、その胸の高ぶりは消えないのであった。

「いやでも面白かったよ、メリーの発表。」
「だからそれはもういいって」
「違うって。中身の方」蓮子はたしなめるように掌をこっちに向けた。「『心的次元』をああいうふうに解釈するってのは、なかなかスリリングだと思うわ。あの概念については、未だに論争が尽きない部分でもあるし。古典的な物理学における時間・空間の相対性と、精神的な時間・空間の相対性を果たして全部いっしょくたに定式化できるのかっていうのは、私もあんまり確信が持てないでいるのよね。」
「私も定式化ができるとは思っていないわ」すかさずやり返す。「『心的次元』なんて概念が超統一物理学の中から出てきたっていう事実自体が、世界を一つの式に落とし込むことの不可能性を示唆しているのよ。還元主義なんて、古い議論だわ。」

 こっちの反論にひょいと冗談っぽく首をすくめた蓮子は、頬杖の中にあった人差し指をピンと立てる。

「機械論的な心身観なんてこっちだってお呼びじゃないわよ。心が予見不能な複雑性を持つことはよーく分かってる。複雑であることを単純な式で表せるっていうのがキモなんだから。」
「私が言いたいのはね、それが本当に複雑なのかってこと。予想のつかなさを予想のつかないまま客観化しちゃうなんて、退屈なことだと思わない?」

 と少しばかりきつめの口調で飛び出した私の問いに、蓮子はほんの少し戸惑いを見せる。目を伏せお下げを結わえている白のリボンをいじり、しばし黙考してから、

「退屈ね……まあ、価値の話をされちゃうとこっちもなんとも言い難いというか……」

 と言葉を濁す。なんだかひどく邪険された気がして、たまらずむきになって突っかかる。

「そうよ。それなら私達は結局何もできないって言ってるのと同じじゃない? 『どうなるかわかりませんね、はい』なんてさ、結局虚無主義でしかないのよ。主観性は常に世界から排除されてるわ。」
「ところが主観性を取り入れるからこそ、話が無限に複雑になっていくわけで。メリーの夢だってそうでしょう? 単に睡眠中のメリーが境界を越えて別の可能世界に行っていると考えればまだ理解可能なややこしさだわ。でもそこに夢のメリーとか現のメリーとかいう重層的主観を混ぜるととたんに話がメチャクチャになっちゃう。
 確かにこちらの時間ではたかだか数時間程度の睡眠が、夢の世界の出来事として一生ほどの時間に感じられることがある。はるか彼方で実際に起こった出来事のように感じられることもある。それが『心的次元』における夢の相対性。華胥の国で遊んでるみたいなもんね。でもそこに別の自我を想定したり現実との対応関係を説明付ける必然性はないわ。蝶と人をごっちゃにする方はナンセンス。」
「そうやって睡眠という生理作用と夢という精神活動を無批判的に関係付ける態度が感心できないわけよ。それこそ心的相互作用に対する根本的な理解不足なの。」

 むきになってと言っても、それはつまるところ普段どおりのやり取りだ。蓮子は私の乱脈した論立てにも懇切丁寧に付き合ってくれる。この子の回転のよさに引きずられて、知らず知らずのうちに熱中してしまう。毎度毎度会話のペースを持ってかれてる悔しさを感じないわけじゃない。でもそれ以上に、私はこの時間が大好きなのだ。
 きっとこれが一番気楽な距離だからだろう。小難しい理屈で着飾った会話をしている分には、蓮子に触れすぎることもないし、こちらも余計なことを言い出す心配がない。機知と笑いを織り交ぜて飄々と持論を繰り出す蓮子を見ていると、私もほっとできた。
 熱を取り戻したテーブルに、ケーキが運ばれてきた。興味がそちらに移ったのか、テーブルにしばし静寂が戻る。そうなっても向かいに座るこの子をついつい眼で追ってしまう。ナイフとフォークを行儀よく扱いながらケーキに舌鼓を打っていた蓮子が、ふいに視線を投げてくる。その度ごとに目が合ったかと、なぜかこちらが視線をそらす。よくよく見ればみっともないやり取りに違いあるまい。まあ、こいつは私のそぶりをいちいち気に掛ける奴じゃないだろうけど。
 そんな見立てどおり、蓮子は思い出したみたいに話を戻した。

「まあさ、夢を介した他者とのコミュニケーションなんて偶然が見せる錯覚よって、少し前の私なら言ったんだろうけど、メリーみたいに無茶苦茶な夢を見られると、そうも断言できなくなっちゃうのは確かよねぇ」
「そうそう。ここに立派な例証がいるんだから。」
「そういや最近はそっち系の話ご無沙汰だったけど、なんか面白い夢見た?」

 瞳を輝かせながら、蓮子が訊いてきた。ちょっと言いよどむ。さっきも報告会が始まる前に変な夢を見た気がするが、いまひとつ記憶が不鮮明である。しかしそれ以上に、あの夢を蓮子に話していいものか、そういう漠とした不安が胸を過ぎった。
 もちろん理由なんてない。ただなんとなくそう思っただけ。わずかばかりの逡巡を置いて、結局私は話すことにした。待ちきれないといった様子でこっちに視線を送ってくる蓮子に負けたのかもしれない。

「最近は……なんとなく同じ夢を見るわ。一続きのような。」
「いつも夢で行くあの世界ってこと?」
「いや、ちょっと違う気がするの」私はなぜか気乗りしないしゃべり口で、押し出すように続けた。「時代が違うのかなあ……いつもの世界はもうちょっと明るい気がするんだけど。そこで狐のお嬢さんに身の回りのお世話してもらったりとかしてね。」

「そりゃ面白いわね」と蓮子は笑う。なんか小馬鹿にされた感じがしたので、小さな咳払いを入れてから続きに戻る。

「それでね、報告会の前にもその夢見たんだけど、なんだかすっごい綺麗な人に会ったの。なんていうか……こう触ったら消えちゃうような、ちょっと危なっかしい感じの。髪の長さとか背丈とかは蓮子ぐらいかな。髪は鮮やかな桜色だったけど。」
「なによそれ。私そんな派手なカラーリングしてないし、第一触っても消えないわよ。」

 そう言って蓮子はけらけらと笑う。まあ確かにそうだろう。あの少女から感じた淑やかさみたいなものはこいつと一番関係なさそうなものだ。
 その後もここ最近見ている夢の中身を喋ったが、なにぶん記憶が不鮮明なので、断片的な話しかできなかった。だとしても、馴染みのテーブルで行われる夢のカウンセリング――私たち「秘封倶楽部」の活動――は、今日一日散々かき乱されたこの脳髄を程よく冷やしてくれたのかもしれない。ようやく落ち着きを取り戻した私は、満面の笑みでケーキにぱくつく蓮子へなんとなしに話を振った。

「それよりさ、蓮子はいつなの? 報告会」
「ああ。うちの学科は明後日よ。」

「余裕でございますことで」と軽口を叩く。蓮子はにかっと頬を緩めた。それはなにもかもいつも通りに見えた。だから私が次にこう訊いたことは、なんら不自然なことではなかったはずである。

「そっちだって一応さ、院へ上がるための大事な評価になるわけでしょ。いくら蓮子が優秀だからってこんなところで油売ってるのはどうなのよ?」
「え? 私院には行かないよ。」

 世界が、少しずつ動きを止めていったように思えた。周囲の喧騒も、口に残っていた人工ケーキのどきつい甘みも、じめじめとした夏の夜風も、なにもかも靄がかかってくすんでいく。
 向かい合う蓮子も空気の変化を敏感に察したのかもしれない。一瞬真顔になったあどけない面立ちを、私はどれだけ見つめていたのだろうか。すぐさまさっきと同じ、いやそれ以上の笑顔をつくった蓮子は、申し訳なさ気に頭を掻きながら、説明を始めた。

「ああ、そういえば言ってなかったね……ごめんごめん。いや、前一緒にうちの実家に帰ったじゃない。あん時にね、卒業したら家業を継げって。元々別のきょうだいが継ぐはずだったんだけど、お父さんが私にしろってうるさかったらしくてねえ。」

 蓮子の声は耳には届いていたはずである。それどころか、告げられた言葉の一つ一つは私の脳裏へ瞬時に刻まれ、深く深く食い込んでいった。にもかかわらず私は上の空で、その言葉が体からすり抜けていくような錯覚に襲われていた。

「この間だってさ、聞いてよ。突然電話掛かってきたと思ったらね、卒業したらすぐ縁談をまとめたいから、今年の夏休みは少し早めに帰って来いとかって。まあ家のしきたりだからしょうがないんだけどさ。でもそんなに焦んなくたっていいと思わない?」
「じゃ……じゃあ蓮子は卒業したら東京に帰るの?」

 うわ言のように呟いた。それはさっきの報告会など比較にならないほど惨めな口調だったに違いない。蓮子は目をぱちくりさせながら、そっと撫でるように

「うん、そうだよ。」

 と告げてきた。もはや視覚すら霞む。ぐにゃりと歪んだ世界の中心にいた蓮子は、はっとした顔をしておどけてみせる。何もかも笑い飛ばすように。

「もうそんな顔しないでよー 確かにさ、言うの遅れちゃったのはごめん。早く言わなきゃとは思ってたんだけど……だからさ、時々でもいいからちゃんと連絡ちょうだいよ。今日も変な夢見た! くらいの話でいいからさ。今はメールもネットもあるから、便利になったもんよね。うん」

 瀟洒なナイフ捌きで品よく最後の一切れを平らげた蓮子は、コーヒーをすすった。いつも通りの笑みを浮かべて、噛んで含めるように何度も何度も頷きながら。

「あ、ああ……そう、そうなんだ」

 消えかけた感覚が、その笑顔に叩き起こされる。胸の奥で膨張しかけた感情が、瞬時にしてねじ伏せられる。……落ち着け、あんなに楽しそうにしている蓮子を困らす真似をするんじゃない。

「なんだ。もう、早く言ってくれればよかったのに、へぇ……」
「うん……ごめんね。なんか言うタイミングを逃しちゃって。」
「ははは、蓮子らしくもない……」

 引きずり出した笑い声に、蓮子も笑い返す。おぼろげだった意識がはっきりしてくる。蓮子の声がしっかりと耳に届く。かつてないほどの勢いで頭が回っていた。薄皮が一枚めくれたみたいに、全身の感覚が研ぎ澄まされる。

「じゃあ、そろそろ行きましょう? お腹すいちゃったわ。」
「あ、ちょっと待ってメリー!」

 椅子から跳ね上がった私に、蓮子は慌てて付き従う。体がふわふわして、自分のものでないかのよう。真っ直ぐ歩けているのかさえ自信が持てない。追いついた蓮子が私の手を取る。掌の感触はあまりに柔らかく、軋む脳髄を和してくれる。私はようやく自然に笑うことができた。

「やっと予約取れたんだよ。ほら、前からメリーが行きたいって言ってたお店。楽しみだね!」

 向けられる思いやり。快活な声。伝わる温もり、笑顔――それがすぐ横にあってよかったと思った。もしなかったら、たぶん私は立っていられなかっただろう。







『脅かしていい気になっているようでは小さいです。それが傲れる妖怪の愚かさなのでしょう』
                         ――東方緋想天:永江衣玖







「紫様、大丈夫ですか?」

 その声によって、夢から現へと引き戻される。まだぼやけたままの視線の先には、こちらを覗き込む藍の姿が見える。

「ぅ……ああ、おはよう……」
「おはようございます。起こしてしまったようで」藍はそこで曰くありげに恐縮した。「……ただ、ひどくうなされておられた故……もしやお体の具合がと」
「そんなことはありません。」

 案じ顔の藍を振り払うように、あえて厳粛な口ぶりでその言を遮った。それでもなおこの頑固な式は不安の色を残したままだ。仕方なく笑みで取り繕う。

「あんな小娘に魂を吸われたりなんかしないわ。貴方は少し考えすぎです。」
「いえ、そういうことでは――」
「そんなことより早く行かなくてはね。少し寝すぎてしまったようだから。」

 足元では陽光が遊んでいた。ゆらゆらと形を変える輝かしい光景にも、次第に慣れを覚えてきている。
 いつものように藍が髪を結わえている間、私はなんとなしに足元で繰り広げられる演舞を眺めていた。降り注ぐ光線の角度は前日よりわずかに低い。つまり寝すぎたわけではないということだ。にもかかわらずさっき思わずあんなことを口走ってしまったのは、藍の言ったとおり夢のせいなのかもしれない。
 背中に冷たいものが通るのを感じた。寝汗などいつぶりであろうか。

「如何でしょうか、紫様。」

 と髪を整え終えた藍が珍しく訊いてきた。予想になかった問いに、慌てて意識を髪へと集中させる。

「……前髪が少し歪んでいないかしら? ほら、ここのところ。」
「申し訳ありません。」

 計らずして飛び出したその言葉に、誰より私自身が驚いていた。髪型に注文を入れるなどいったい何の気紛れか。私が指差した部分にもう一度念入りに櫛を入れた後、藍は手鏡を差し出してきた。鏡の向こうにある顔はこちらが思っていたより赤みが差していて、健康そうに見える。
 藍に視線だけを送って腰を上げる。今日も同じく紫のドレスに袖を通して、帽子を被り、手袋を嵌め扇子を懐へ差す。

「やはり私の考えすぎでした。今日の紫様は大変体調が宜しいようにお見受けします。」

 着替えを終えた私に、藍はそんなことを告げてきた。確かにその通りかもしれない。血が体中の隅々まで駆け巡り、寝起きの気だるさなど霧散してしまったふうに思える。おそらく事が滞りなく進んでいるからだろう。あんなにしつこかった頭痛も今日はさしてひどくはない。

「そうね。では行ってきます。」

 藍はそっとはにかんで一礼を向ける。幸福が零れんばかりに滲み出たその面差しは、向けられた者に返礼を催させる力があった。反射的にぺこりとお辞儀を返して、私は虚空の中にその身を融かしていった。




「まあ、ようこそいらっしゃいました紫様。」

 待ち構えでもされていたかのように、玄関先に姿を現したとたん声を掛けられる。振り向いた先にいたのは死霊の群れと、西行寺の娘。

「ああ、突然お邪魔してごめんなさい。」
「いえいえ、今日もいらして下さるのだろうかとずっと気にかけていたのですよ。ささ、どうぞお上がりください。」

 と屈託のない顔で幽々子は言った。そして遠慮なく私の手を取ると、そのまま家の中に引っ張っていく。最初こうされた時は思わず顔をしかめたが、幽々子は悪びれる様子もなく「申し訳ありません。なにぶん礼儀を知らぬ身でありまして」と一笑するのみであった。あの時きちんと注意しておけばよかったのかもしれない。向けられた無作法に対する言いようのない苦々しさに混じって、そんな後悔が連れ立った。
 幽々子に探りを入れるようになってから、もう幾日か経った。今ではあの西行妖も少しずつではあるがほころび始め、一分咲きといったふうである。一方の幽々子はといえば、同じように顔をほころばせて、連日私がやって来るのを心待ちにでもしているらしい様子だ。人の身ゆえの蒙昧とはいえ、あまりに幼稚な振る舞いだという念を禁じえない。確かにその間ずっと此処に顔を出してはいた。だが、だからといって私の訪問を楽しみにする人間など果たして在ってよいものだろうか?
 事実あまりに隔絶された環境で生まれ育ったせいか、この幽々子という娘は疑うという感情を持ち合わせていないかのようであった。妖怪である私を平然と家に招きいれ、それが何日か続いてもなんら不自然と感じていない。その応対は私を閉口させると同時に、こちらの自尊心を著しく傷つけるものだった。人から畏れられない妖怪など、存在する価値もない。

「今、お茶を淹れて参ります。」

 うきうきと桜色の髪を揺らしながら、幽々子は土座を下りていった。ああいうそぶりを見せられると、先ほどまでの懊悩がひどく馬鹿馬鹿しいものに思えてくる。ただ世間知らずなだけの娘にあれこれ気を揉んでいるのだ。間抜けもいいところだろう。
 通された住処は廃墟と形容したくなるほど、荒れ果てた平屋だった。ところどころ藁葺きが崩れかけている屋根には、蟲どもが我が物顔で居を構えている。藁を敷いた土座も荒れ放題で、土の上にそのまま座っているのとさして変わらない有様。全体的に小屋が傾いでいるのだろう、どの戸も満足に閉まらず、動くたびに薄い土壁がぽろぽろと音を立てて剥がれていく。土座と土間を申し訳程度に仕切っているのは煤けた屏風、一つだけ場にそぐわぬ調度品は京で暮らしていた頃の名残か。他の細々とした調度品も相当年季の入ったものばかりで、こちらがよほど神経を尖らせないとすぐ壊れてしまいそうだ。
 そんなおよそ生者が住むに耐えない空間に、しかしただ一つだけ彩りがある。柱に花が生けられていたのだ。たいした花でもない。大方近くに生えていたスミレか何かだろう。竹を編んで作った一輪挿しは、よほどの名工の手による作か、精緻な網目が絡まりあい、玄妙な雰囲気を纏っている。
 そこにざっくりと生けられた小ぶりなスミレ――しかしそれがこの廃墟の景色をなにもかも一変させてしまうのだ。このつつましくも野趣深い薄紫の花を美しく見せんがために家が自ら朽ちたのではないか、そんな錯覚にすっと引きこまれるのである。そうなると傾いだ壁も剥げた床も、天井を埋めた蜘蛛の巣さえも、とたんに尊いものに見えてしまう。それはまさしく魔法だった。

「お待たせいたしました。」

 艶やかな茶器をヒビだらけの盆に載せ、幽々子が屏風の向こうから飛び出してきた。茶器や茶葉は私が運んできた大陸のものだ。最初通されたとき水しか出てこなかったため、何の気まぐれかやったのである。無論淹れ方を知っているはずもなかったが、飲み込みはよいらしく、今ではすっかり一人で淹れられるようになっていた。
 朽葉色の液体が注がれた器に口をつけながら、私は幽々子に絶えず注意を向けていた。わざわざこいつに接近し、こうして住処にまで出向いているはもちろんいくつかの狙いがあってのことだ。一つは西行寺の連中に横取りされないため。しかしそれ以上にこの娘の持つ力をしっかりと把握しておきたかったことがある。結界を組むのは西行妖が満開になった時、それまでに富士見の娘の底を――いずれ我が物となるであろう力を――見ておきたかった。本当に私の贄となるだけの価値があるかどうかを。
 それでも、わざわざ家にまで上がり込み、一緒に茶を酌み交わすほどの関係を持つ予定は一切なかったのだが。

「この"茶"というものは本当に美味しいですね。」幽々子は感心したそぶりで呟いた。「これも宋国では膾炙した風習なのですか?」
「ええそうよ」私はそっけなく返す。「さして珍しいものでもないわ。向こうではありふれた品。」
「だとしても私にとってこれ以上の味はありません。紫様は多くをご存知でしょうから、逆にこのささやかな幸福を知ることはできぬのかもしれませんね。」

 静かに笑みを湛えながら、幽々子は間を置かず切り返す。心の内にあった安っぽい優越感を見透かされたようで、また恥ずかしさと悔しさで胸がいっぱいになった。
 ――そうなのだ。ここに来てから、私は会話の主導権を終始この小娘に取られっぱなしだった。無論それは思い込みだ。こいつは何も考えず喋っているだけ。それをこちらが深く取りすぎているにすぎない。かくも暢気で白痴な娘と膝をつき合わせて話す機会なぞなかったから、讒言ばかり張り巡らしてくる連中と話す時の癖が抜けないのだろう。しかしなればこそ私の妖としての誇りは傷ついた。何とかして幽々子に物事の道理を教えてやろうと、意固地になっていたのである。
 そう、要するにそんなことなのだ。こうして予定を曲げてまで幽々子の家に毎日通いつめ、延々と居座ったりしているのも、つまりはその程度のことに執着したが故なのだろう。そして自分がそんな子供っぽい考えに囚われていることを自覚すればするほど、またいっそうこの心は恥辱に染まるのであった。

「まあそうでしょうね」私は努めてもったいぶった口ぶりで続ける。「貴方とは生きてきた時間が違う。新鮮な喜びなんてものとは、もう長らく会っていないのでしょう。」
「でも羨ましいですわ。先日お話くださった西方の風説など、私なぞには到底知る術もない事柄ばかりですもの。紫様ほどのお力があれば、それも瑣末なことなのでしょうが。」

 しみじみとした調子で幽々子は嘆息を付く。なのにその口ぶりはひどく芝居臭くも見えた。ちらと横目で窺う。幽々子は茶をすすりながら、何事か物思いにふけっている。どこか物憂げで、今しがた口から出た世辞などどこへやら、こちらのことなど歯牙にも掛けていないような佇まいをして。
 私は訳がわからなかった。一たびごとに移ろいを見せるこの娘に、すっかり翻弄されるがままになっている。思わず噛みしめそうになった唇をこじ開ける。

「そういえば昨日は随分と話し込んでしまったわね。退屈させてしまったでしょう?」
「まさか。とても惹き込まれてしまいました。食べ物の話が特に驚きました。特に、ええと……なんでしたっけ、確か麦の粉を練り固め膨らませたものを焼くとか。」
「あら、米の獲れないところではどこにでもある食べ物よ。唐菓子みたいなもの。なんなら今度持ってきてあげましょうか。」

 知らずうちに受け答えの声が弾んでいることに気付いて、私は慌てて扇子で口元を隠す。幽々子は「それは楽しみです」ところころ笑っている。それは場違いなほど優美で、およそ己の宿命を引き受けるだけの資格を有していないふうにも見受けられる。思わず扇子の下にある唇を尖らせた。幽々子は初めて会った時から決してゆとりある物腰を崩さない。あまりの暢気さに、本当にこれが西行寺の娘なのかと訝しんだことも一度や二度ではなかった。
 にもかかわらず、私は一かけらの失望も抱いていなかった。それどころかこれの依り代としての適正をすっかり確信するようになっていたのである。それは一連の立ち振る舞いの背後に、強靭なる精神を感じ取ったからかもしれない。それは如実に表出される類のものではない。しかし側にいればだれとて容易に察することができるもの。そして妖にとってはその精神の強さが、何よりも重要なのだ。
 それは同時に、ある種の興味を私の内へと引き寄せたのかもしれない。かくも窮乏極まる境遇にありながら、いくら世間知らずの痴れ者とはいえ、こうも何食わぬ顔で私と対峙することなぞそう易々とできることでもない。一種尊大さすら覚える気品に満ちた振る舞いは何によってもたらされるのか、どうしても理解できなかったのだ。

「あの、紫様」幽々子は声色を一変させて、探るようにこちらを覗きみる。「もうすぐ昼餉となりますが、如何なさいますか?」

 そしてすっとこちらに体を寄せる。藁の上にあった手に手を重ね、下から仰ぐように真っ直ぐ視線を合わせてくる。栗色に輝く瞳が、私の視界いっぱいに広がった。隠しようもない動揺が頬を走る。一瞬舞い降りた静寂の中で、なぜか先ほど藍にいじらせた前髪の一房が異様に気になった。

「そ、そうね……せっかくですし頂こうかしら」
「では今準備いたします。」

 幽々子はぱあっと頬を赤らめ、跳ねるように屏風の向こうへ消えていった。喉元に詰まっていた息が肩から漏れる。
 不可思議な感覚だった。延髄をくっと締め上げられるような痛み、だがそれはずっと頭に居座っていた鈍痛とは明らかに異なるもの。むしろ幽々子と顔をあわせるようになって初めて味わった痛みと言っていい。いったいどういうことか? 呪わしい業を背負ったみすぼらしい人ごときが、私になにがしかの苦悶をもたらすなど、ありえるだろうか?
 ……確かに変わった女だ。それは認めねばなるまい。なぜかあれには当然あるべきはずの悲愴感が一切ない。それどころかある種の幸福感さえ漂わせている。まるで己に降り注ぐ残酷な宿業を受け入れている、いやそれどころか愛でようとさえしているかのような、そんな達観が笑顔の下に棚引いている気がしてならなかったのだ。
 だとすればだ、あのたおやかで、同時に傲岸たる振る舞いも要するにその延長なのではなかろうか。あの女は私のことを、それこそ愚図な迷い子のように見なしてあれやこれやと哀れんでやっているつもりになっているのかもしれない。今まで一人こっきりで暮らしてきた悲惨な娘が、初めて知己を得られたと有頂天になっているのかもしれない。だから一つ世話でも焼いてやらねばと、必死に愛想を振りまき媚を売っているのだろう。
 まったく身の程知らずもいいところだ。いったい私を誰だと思っているのか。嘲笑すら漏れない。だがしかし、あんな奴にそう思わせてしまう自分の腋の甘さに、どうしようもなく腹が立ったのも事実だった。
 柱に掛けてあるスミレに自然と目が吸い寄せられる。思わず頭を垂れたくなってしまいそうな衝動と、そう思ってしまうことへの発作的な怒り。相反する心に引っ張られながら、しかしなぜだか胸の中に熱がじんわりと広がっていく。

 しばらくして幽々子が膳を持ってきた。そこにあった料理は、私がかつて食べた中で最も惨めなものだったと断言できた。
 仏教を表面だけなぞったせいですっかり味気の失せてしまった貴族の献立、それをろくな食材もないこの環境で無理に再現しようとした結果、かろうじて見てくれだけの整った、無残な味をした皿が二つ三つあるだけであった。
 出来合いの感想を並べながら、幽々子がかつて宮中で名を馳せた西行寺家の娘であったことが否応なく頭をもたげた。そう気付いてしまうと、目の前で箸を口へと運ぶその瀟洒な所作も、とたんにくすんで見えてしまう。この娘とあの連中には、何の関係もないはずなのに。
 先ほどまでののぼせたような感覚はとうに消え、ただ黙々と供されたものを口に運ぶ。その食事は"作業"と形容するのがもっとも適切のように思えた。幽々子に付き従いでもするかのようにその都度心持ちを移ろわせる今の私――それはまさしく自嘲の的でしかなかっただろう。

「……やはりお口にあいませんでしたでしょうか?」

 私の暗い面持ちを気取ってか、幽々子は申し訳なさ気に尋ねてきた。慌てて取り繕う。幽々子も愛好を崩したが、それは明らかに影のある笑みだった。

「このような辺鄙な場所では、食材を集めるのにも一苦労でして。」
「……そうでしょうね」
「ご安心ください」幽々子はすぐさま表情を明るくした。「次はもっとお口にあうような食材を用意しておきますので。」

 小さく頷いてから簡単な世辞と次回への期待を述べた私に、幽々子は満面の笑顔で応える。きっと私の表情はまたくすんでしまっているのだろう。向けられた笑顔をどう扱えばいいのか、そんな瑣末なことすらわからなくなっている。

「食べるものは私が持ってくるわ。」

 だからこの言葉がふいに口をついたのは、この悟性のなす業ではなかったはずである。うなされたように、私は早口でこうまくし立てていた。

「だから貴方はあまり無理をしないで、まず自分がしっかり食べて精をつけなさい。今の貴方は余りにやつれていて、誰かをもてなすどころではないわ。そんななりでは、せっかくの笑顔も泣くというものよ。」

 ずっと笑みを湛えていた幽々子も、この時ばかりは狐につままれたような顔になった。庵全体にむっと充満した死臭が、しかし次の瞬間たちどころに霧散した。そして場に唯一残っていたのは、なんだか力のない笑顔のみであった。

「……そうですね。仰るとおりです。こんな貧相ななりでは、失礼というものですね。お気遣い、ありがとうございます。」




 *




 ふっと目を醒ますと、そこはカフェの一角だった。

 いつもの店、いつもの席である。居眠りでもしていたんだろう。丸まった背骨はミシミシと音を立て、視界はぼやけたまま、口の中に溜まっていた唾液は粘度を増し甘みすら感じる。まるで全身が目覚めることを拒否しているかのようで、私は自然と落ちてくるまぶたの猛攻に必死で抗っていた。それも仕方なくはある。何せここのところまともに寝てないんだから。
 あの日、蓮子と楽しく食事をして別れた後から、一切の記憶が途切れている。翌朝太陽の昇る前に、私はベッドの上に自分が転がっているのを見つけた。その間のことを何も覚えていないのだ。普通に考えれば帰宅してすぐベッドに崩れ落ち、眠りに落ちたってことになるはずなのだが、ベッドの上に転がっていた肢体はおよそ眠りから醒めたとは思えないほど疲弊しきっていた。報告会の準備をしていた頃の方が、遥かに気持ちの良い日の出を見ていたと思う。
 その日は結局ベッドの上で一日過ごした。幸か不幸かまったく空腹を感じなかったし、四肢が動く気配もなかった。久しぶりに自由の身になったというのに、何かに縛り付けられでもしたみたいに体が動かなかった。ただ頭だけが忙しなく駆けずり回り、とりとめのないことを考え続けていたのである。


 ――確かに以前蓮子の帰省に付いていった際、実家が相当のお屋敷であることに驚かされたものだった。かつてこの国の中心として君臨した東京には、今も地方の豪族みたいな名家がひしめいているというのは誰でも知っていることである。宇佐見家もそんな家系の一つなのだろう、その時はそう思ったくらいだった。
 あの子の家のご厄介になった時少しばかり顔を合わせた、蓮子の父親のことが続けて頭を過ぎった。あのお調子者の蓮子と血が繋がっているとはおよそ思えないほどの堅物――そんな印象の人だった。生まれも育ちも遷都後の京都である私にとって、家父長制だの家柄だのなんてものはとっくに幻想の世界の話だと思っていたが、あの古きよき東京にはまだそんな風習が残っていたわけである。
 だがそれ以上に鮮烈な記憶として脳裏に焼きついているのは、あの蓮子がそんなカビの生えたしきたりになんら違和感を持っていなかったことだ。権威などとは一切無縁の、自由奔放を地で行ってると思っていたあいつがそらんじる調子で家の儀礼をこなすのだ。終いには私にも懇切丁寧に作法を教えてくれる始末。もはや身体化された宇佐見家に対する忠心、そんなものを見せ付けられるたび面食らう思いをした。あんな前世紀の振る舞いを、よりによってあの蓮子から見るとは思っていなかったのだ。


 引力に任せたまぶたの攻めをなんとか退け、腕時計に視線を移す。約束の時間にはあと1分。どうせいつもみたいに遅刻して来るんだろう。ほとんど手付かずのままだったコーヒーに口をつける。とうに熱を失ったその液体は、しかし私の口腔よりは爽やかな風味を残していた。コーヒーのおかげで取り戻した五感を、もう一度雑念に沈める。

 今日は蓮子の卒論中間報告会の終了を祝するというのが活動の名目にはなっている。ちらと顔を出そうとかとも思ったが、およそ私に分かる内容でもなかろうし、そもそも蓮子と顔を合わすのはどこか尻込みした。あの子から笑顔を振りまかれても、どう返していいかイメージできなかったのだ。
 何を馬鹿げたことをと思う。そんなものはいちいち頭で考えてすることじゃないだろうに。そうだと分かっていても、私はその状況に置かれた時の自分をとうとう想像できなかった。そんなわけで、蓮子と会うのはあの晩以来だ。
 蓮子はいつも通りまめに電話やメールをよこしてくれた。お誘いのメールも当然来たが、体調が悪いからと全ておざなりに返してしまった。
 それが裏目に出たのかもしれない。終いには私の体を案ずる内容がひっきりなしに届くようになった。どれも私のことを心から気にかけてくれてるのだという誠意がこれでもかと伝わってくる内容で、だからこそ読むたびにこの身は引き裂かれた。あの晩ふっともたげた正体不明の不安が冥いベッドの上ですくすくと育っていくのを、その文面はこれでもかと助けたからだ。そう、蓮子の優しさは最高の餌だった。脳髄を貪り、肥えていくあの忌まわしい頭痛にとっては。

「悪いメリー! ちょっと遅れた。」
「……今日は5分遅刻ね。」
「正確には5分14秒かな。おまけしてくれるのは嬉しいけど。」

 ぼんやりと物思いにふけっていた私の向かいに、蓮子が滑り込むように駆け込んできた。すっかり日常茶飯事と化した挨拶を交わした後、いつにも増して人当たり良く見える笑顔に、私も笑みで返す。ちゃんと笑えてるのかは自信がないが。

「どうだね、体調はよくなったかい?」

 蓮子は無駄に元気よく尋ねる。だからこっちもできる限り元気よく答えた。

「うん……まあまあ、かな。それより蓮子は無事終わったの? 報告会。」
「ああ、あんなの楽勝楽勝」蓮子は歯切れよく言葉を連ねる。「そんなことより本当に大丈夫なの? なんか声に元気ないよ。」

 やっぱり私のごまかしなんかが蓮子に通じるはずもない。自身へ向かってしかめた顔を、蓮子は冗談と受け取ったらしい。今度は茶化し半分の苦笑いを返される。今の蓮子の言葉に嘘はないだろう。元気なぞあるはずもない。そして「そんなことより」という言葉にも、嘘はないはずだ。

「平気よ。ここ2日寝たらよくなったわ。今はお腹減ってるだけ。ろくに食べてないから。」
「そっか……ごめんね。私が無理に引っ張り回したのが良くなかったね。あの時メリー疲れてるみたいだったし。」
「そんなことないって。蓮子は関係ないの。それより今日はどこ行くの?」
「うーんどうしよっか……あんまり重いものはよくないよね。ねえ、一応さ、今のメリーでも食べられそうかな、ってお店チェックしてきたんだけど、どこがいいかな?」

 リボンで結わえたおさげをいじりながら、蓮子はメモをこちらに差し出してくる。それに目を通す私と、こちらの返事を待つ蓮子。テーブル全体に沈黙が立ち込める。耐えられなかった。またあの雑念が、二日前から私の頭を苛み続けるあの鈍い痛みが、忍び寄ってくる。何か、なんでもいい。会話を続けないと。

「別に気にしないで」ろくに目を通さぬままメモを返す。「何でも食べられるから。ただお腹空いてるだけで、胃腸の調子が悪いわけじゃないし。」
「そう? ならいいんだけど……」
「いくらなんでも寝すぎたのかもね。ちょっと話してたら元に戻るわよ。」

 その言葉が効いたのか、蓮子はたちまちいつも通りに話を振り出した。これでいい。こうしていれば、訳のわからない不安感に苛まれることもない。変わりなくいられるんだ。
 そこからは他愛ない雑談が続いた。ここ数日の近況報告や、例の発表会の様子。それが済めばいつものオカルト談義だ。
 どこから探してきたのか、奇妙な噂話や写真をこれでもかと浴びせかけてくる蓮子に、私も自分なりの見解を示す。機知とややこしい専門用語で着飾った会話は睡眠不足の頭には少々酷かとも思ったが、案外話せるものだった。きっとこれが私の日常だからだろう。こうして蓮子と話していることこそが、私にとってもっともかけがえのない時間なんだ。
 蓮子は蓮子で好き勝手喋っているようで、常にこちらに配慮を回してくれていた。私が何と返すかで、頭がきちんと働いているか、回復具合を見極めてくれてるんだろう。ばれないようにやっているつもりなんだろうが、そんなの見てれば手に取るようにわかる。気付かないわけないじゃないか、だって私は――

「――そうそう、この間のメリーの発表でいまひとつ分からなかったんだけどさ」こちらの回復具合にある程度の確信を得たのか、蓮子はふいにこう切り出してきた。「『投企』と『感応』の関係性についてなんだけど、存在論との関連が分からないのよ。つまりさ、その他の誰かと感応しあって暗示を得たとするじゃない? それに反応して当事者が意識なり態度なりを改めるっていう実践的な生のあり方は理屈としては理解できるんだけどさ、でも暗示に対する対応が人それぞれで違うのは個々人が埋め込まれた社会や文化の違いで説明すれば十分だとも思うのよ。環境による制約ね。なんでそこに主観的な投企を持ち込むのかなあと。」
「意識は存在に拘束されてるから、暗示もそういう存在的状況に拘束されるだろうってことね」私はふわふわしたままの頭を懸命に回す。「でもそれじゃあ世界は変化しないじゃない? 客観的な存在を変えるには、やはり個々のレベルからの働きかけが駆動因として要るのよ。特に今回みたいな事例だと当事者は受け入れがたい現実に直面し、それに拘束されているわけだから、彼らがあるがままを無抵抗に受け入れるなんて選択はとりえない。」
「つまり、フィードバックを念頭に置いてるわけだ。世界と個人の間の。世界は私たちを拘束し、個人はその状況の中で自己の存在を賭けて世界に抗おうとする。それによって世界も少しずつ変わっていく。」
「うーん……基本的にはそうかな。でも、個人対世界ってのは簡略化しすぎかも。人1人の力じゃ世界なんて変えられないしね。そこになんらかの中間集団を想定するべきじゃないかしら。」

 そうだ、蓮子の言うとおりだ。現実は変わるものなんだ。古臭いしきたりなんて、こちらの働きかけ次第で打破できるはずなんだ。自分で書いてたことじゃないか、何で気がつかなかったんだ。だから、大丈夫――

「それって他者の協力ってこと?」
「協力なんてそう得られるもんじゃないのは確か。ただそこまでいけたとしたら何かが変わるでしょう。私の考える感応論はそのきっかけなのよ。知りもしない他者との無意識間の応答が、個人を揺さぶり世界との関わり方を変えていく。それが複合的に起こればもっと大きな変革へと進展するかもしれないじゃない? それこそ世界の在り方を変えるぐらいの。」

 蓮子だって気付くはずなんだ。きっかけさえあれば。そうしたらきっと――

「ううむ。つまりだ、自己言及システムに無意識レベルで他者が介在する仕組みを挟み込もうってわけか。それによってミクロな自己言及をメゾレベルへ拡張していくと。そうするとさ、例えばメリーはなんか暗示を受けたりとかしたことあるの? 例の夢とかで。」
「……え?」

 たぶんおそろしく間の抜けた声を返してしまったんだろう。蓮子は面白がるというより純粋に意外そうな顔をした。

「いや、ごめんねいきなり変なこと訊いて。でもメリー説でいくとさ、超時空的な暗示の伝達手段としては夢が一番それらしいじゃない? だったらメリーはそういう経験あるのかなあって。」

 慌てた様子で付け加えられたのは、あまり考えたことのない問い。じんわりとした頭痛もこの時ばかりはどこかへいってしまったような気がした。

「ううんどうなのかなあ……あくまで暗示だから、明確に示されるものじゃないと思ってたし。でもさ、こういう眼を持ったことと無関係なわけはないって予感はあるのよ。」
「それは私も思うの。でもね、暗示に対する無意識的な応答となると余りに曖昧模糊とした話で。なんか身近な事例があれば説得力を増しそうかなと思うのよ。」
「そういうのは本人に聞くより、周囲に聞くべきかも。自覚できるものじゃないし。それか私の周りにいる人、例えば蓮子に与えた影響を見てみるとかさ。私たちが間主観的に見て変化しているとか。」

 と曖昧に返しながら、この頭をたちまちにして占拠したのはまったく別の疑問――私は蓮子に何かをもたらしたんだろうか。私は本当に蓮子にとって必要な存在なんだろうか。

「そりゃメリーと会ってから変なことばっかり起きるからね、当然私も色々変わったとは思うんだけど。それは夢の暗示の結果なのかなあと疑問に思うわけよ。」

 私は蓮子の隣にいるだけの価値がある人間なんだろうか。蓮子は、私のことを必要としているんだろうか。

「私は、そうだとは思ってるんだけどね……」
「あたしだってメリーの夢の話が何の意味も持っていないなんて思ってないわ」蓮子はお下げを指でいじりながら頬を緩める。「ただね、その夢ってのがメリーやそれを又聞きしてる私に対してどういう意味を持つか、とんと分からないわけで。だからメリーのアイデアを活かせないかなと思ったのよ。そうだ、ここ2日はなんか見た? この間の続きとか。考えるヒントになるかも。」

 この眼は、この力は、きっと蓮子にとって素晴らしい出会いになっただろう。この子の興味を惹き、きっと何かをもたらしただろう。では、私は? 蓮子は、私をどう想っているの――

「あ、ああ夢ね! ええ、見たわ。この間の続きっぽいやつ。」

 ダメだダメだ。それは、考えちゃいけない。そんなことは想像したくない。なんどもなんども必死で掻き消し続けたその可能性……そうでなかった時のことなんて、想像さえできない。
 ああ、急いで会話を元に戻さなきゃ。この2日間ずっとこの頭を押さえ込み、捩じ上げ、貪っていたあの疑問から逃れなくちゃ。今はさっき見た夢の話をすればいい。蓮子が喜んでくれる、あの話さえしておけば。
 ほら、蓮子は待ってくれている。いつも通り包み込むような眼でこちらを真っ直ぐ見つめながら、私が口を開くのをずっと待ってくれている。それでいいんだ。これさえ続いてくれたら、私は何も要らないんだから。

「あの、えと確か、おうちの中だったかな。場所は」どっ外れた音程のまま話を切り出す。「そこで、お茶を飲んで、ご飯を食べたような……でも、なに食べたかはあんまり覚えてない。」
「一人で食べたの?」
「そうじゃなかった。あの、ほらこないだも話した人。桜色の髪した、蓮子ぐらいの――」
「ああ、例の触ったら消えちゃう人ね。そうすると確かに同じ夢っぽいわね。」

 不可思議な感覚だった。断片的な記憶を拾い上げていただけなのに、喋れば喋るほど夢の出来事が鮮明化してくる。まるでジグソーパズルのピースが一つ一つ嵌め込まれていくように。茶の味、侘しい食卓、そして柱に掛かっていたスミレの花。

「どんな家だったの?」
「ひどくおんぼろの、廃墟みたいな庵。畳はなくて屋根も床も藁で出来てたし、土間なんかもあったから、相当古い時代なんだと思うけど。」
「へえ、じゃあ土座と土間のつくりなの。鎌倉か平安後期ぐらいかな?」

 そして幽々子という名前の桜色をした少女。その姿、仕草の一つ一つまでが鮮明に脳裏に浮かぶ。気高さに満ち満ちているのに、みすぼらしいなりをしていて、とっても純粋で無邪気なのに、どこか空虚で捕えどころがなくて。

「でも、不思議と居てもいやな感じはなかったわ……どことなく居心地のいい雰囲気があって。」
「そうなんだ。その手の古民家とかってちょっと知識不足だからなんとも想像できないなあ。」

 そして夢の中の私があの少女をどう想っていたか。上辺では見下しながらもその実どんなに心惹かれていたか。あの瑞々しい想い。この記憶はいったい何なんだろうか。これじゃまるであてつけだ。夢の中の初々しい二人と優しい蓮子、そして惨めな私。

 ずっと真剣な面持ちで夢の話を聞いてくれてた蓮子が、うーんと唸りながらお下げを結わえたリボンをいじりだす。沈黙がまた場を支配した。悔しさが、怒りが胸に込み上げてくる。夢の中の幸せなやり取り、この私じゃとてもあんなふうにできないだろう。私は、この子を疑っているのだ。蓮子が元々どう考えていたのかなんて、知りもしないくせに。
 考えずともわかることだ。蓮子は何も変わってない。変わったのは私だけ。あの晩告げられた言葉、それはずっと見ないふりをしてきた心の醜さをこれ以上ないほどに暴いてしまったんだ。あの夜から波のようにこの胸に押し寄せ、そして引いていく欲望。身の程知らずの妄信と、果てしない猜疑心。延々と回り続けるその中で、一つの確信だけが結晶化していく。私はいつまでもこの子と――

 我に返る。また口数が減っている。脳髄がぐちゃぐちゃで、何を喋ったらいいか思いつかない。それでも蓮子は話題を振ってくれる。丁寧に言葉を選びながら、私が私でいられるよう夢の話に次々と質問をぶつけてきてくれる。答えなきゃ。その優しさに、気遣いに。

「しかし、なんか話聞いてると妬けちゃうわねえ」こちらの説明を粗方聞き終えたところで、蓮子はとびきり子供っぽい笑みを浮かべた。「夢の中のメリーとその女の子、何だかすごくいい感じじゃない? なに、もしかしてメリーも惚れちゃったりするの? そうなるとさ。」

 軽口を叩いたつもりだったんだろう。いつもみたいに。

「そんな……ないわよ」
「ほんとー? やっぱそういうもんなのかなぁ。ってことは夢のメリーと現実のメリーだと、精神までは一致しないってことになるのかな。でもすっごい美人なんでしょ、その人。」
「まあ、美人っていうか……」
「メリーがそうやって女の人を言うのをあんまり聞いたことなかったからさ。やっぱりさ、なんというか気になるわけですよ。……うん」

 返事が途切れた。答えを待つ蓮子は頬杖を崩してまた白のリボンをいじりだす。ダメだ、答えねば、何かを。

「……だからね、メリーってさ――」
「……てよ……」
「ん? ごめん、今なんて――」
「もういいかげんにしてよ!!」

 でも、限界だった。ちょっと伏せがちだった蓮子の顔がやにわに上がる。

「なんでっ、なんであんたはいつもそうやって――」
「あ、えと、ごめんメリー……ちょっとふざけただけで、メリーがそんな」

 そんなにすまなそうな顔されても、あんなに優しくされても、どれだけ気を遣われても、傷つくだけじゃないか。なんでそれに気付いてくれない?

「もうやめてよっ! そんなに構われたって、そんなことされたって迷惑なだけなのよ!」
「メ、メリー……ごめん、私が悪かったから落ち着いて――」

 テーブルから跳ね上がった私の手を蓮子が掴む。その感触、もうじき思い出になってしまうその温もり――耐え切れず振り払った。

「だから、なんであんたは、なんで、なんでそんなにわかってくれないの……」

 蓮子はもう払われた手を上げることなく、しょげたように怯えていた。まるで折檻された子供みたいに。やめろ。そんな態度を取るな。その無邪気さがどれだけ私を惨めな思いにさせるのか、なんでわからないんだ!
 気付けば私は泣き出していた。涙を流す道理なんてあるはずもない。そんな資格は蓮子にしかないのに。
 すすり泣く私に蓮子はおろおろと、青白い顔をしながら掛ける言葉を探しているようだった。手を胸の前で縮こませて、言葉を搾り出すこともできずただ唇だけをへし曲げながら。何を言おうともがいているかはわかってる。「ごめんなさい」だ。謝ろうとしてる。でも何を謝ればいいのかわからなくて、そんな自分を責めている。もう、やめてくれ……
 蓮子の泣き顔なんて見たくない。それは優しさが流す涙であって、私のために流す涙じゃないんだから。
 もう何も言ってほしくない。そんな真心のこもった言葉を掛けられる価値なんて、私にはこれっぽっちもないんだから。

 だから、そんな私にできたのは、傷心の蓮子を置き去りにして無言のまま逃げ出すことだけだった。







『人の心なんて見ても落ち込むだけで 良い事なんて何一つ無いもん』
             ――東方地霊殿:古明地こいし







 ふっと目を醒ますと、そこは藁敷きの粗末な土座だった。

「お目覚めですか?」

 すぐ横から声を掛けられる。幽々子だった。

「ああ……私ったらごめんなさい」

 慌てて身を起こす。寝起きのみっともない姿を見られたかと思うと、顔から火が出そうになった。幽々子は慌てた様子でたしなめてくる。

「いえいえゆっくりなさって下さい。妖怪は夜起きて昼眠るのが道理。私のせいで紫様にご足労を煩わせているのですから。」
「そんなこと、あるわけないじゃない」
「今お茶を淹れてきます。紫様はどうかおくつろぎを。」

 その言葉だけを残し、幽々子は土間の方へと駆け下りていった。まるでこちらの動揺を思んばかったかのように。まだぼんやりとしたままの頭を振る。自分の陋劣さが信じられなかった。いくら人間とはいえ相手は西行寺の娘、死霊を統べる力を持つおぞましい存在。そんな奴の住処でうたたねをするとは……
 改めて見開かれた視界に映るのは、例の朽ち果てた、死霊の飛び交う庵だけだ。天井に点在する孔からは柔らかな光が降り注ぎ、細長い柱を作っている。ほんわりと身を包む春の温もり、私には眩しすぎる陽の乱反射。散々寝たはずなのに、またまどろみに落ちてしまいそうな気さえしてしまう。
 頭の下に長いこと敷かれていたせいでしわのよった帽子を整えながら、ふと自分の髪が今どうなっているのか気になった。無論この家に鏡なんてものはない。藍が丁寧に結わえてくれた後ろ髪はほとんど崩れていないように見えたが、前髪がよくわからない。適当に手櫛で押し撫でてみるが、すればするほど自信がなくなっていく。小さな手鏡ぐらいは、常に持っているべきだろうか。
 そうこうしているうちに幽々子が茶器を手に戻ってきた。すっかり手慣れた様子で注がれた茶に私も相伴する。朽葉色の液体が立ち上らせる穏やかな芳香は、春眠のまどろみを程よく揺すってくれる。ほんのりと舌に残る渋みと甘み、それはゆるゆると口に残る眠気の味と混じり合いながら胸へと落ちていく。たとえどれほどの悪夢を見たとしても、この一杯はその苦々しさを溶かしてくれるに違いない――そう思わせる滋味。

「ご馳走様」

 空になった茶碗を置いてそう呟いた私に、幽々子は睫毛を伏せたままそっとはにかむ。

「目は醒めたでしょうか。」
「ええ、もうすっかり。ありがとう。」

 私も自然と笑みが漏れた。慌てて扇子で口元を覆う。

「ありがとうだなんて……おやめください。」

 と、頬をほのかに赤らめ幽々子は代弁するかのように呟く。余りのみっともなさに、ただ顔を伏せるしかできなかった。
 静謐が庵を包む。幽々子は一度こちらの方をちらと見たきりで、後は口を閉ざしてしまった。私のすぐ側に寄り添ったまま、しかしこちらを見るわけでもなく淑やかに腰掛けて。
 遠くで鳥のさえずる声が聞こえた。小さく俯き半ば目を閉じたまま、何かを待ちわびているみたいなそぶりを投げてくる幽々子。気を遣って会話の一つでも切り出そうかとも思ったのに、喉から声が出てこない。この空気を破ることにたまらない罪深さを覚えたのだ。
 ごくりと唾を飲む。呼吸の仕方を忘れたでもしたかのように喘ぎながら、自分がすっかり狼狽しきっていることに気付く。どうして幽々子が相手になるとこんなに遠慮をしてしまうのか、もう訳がわからない。いや、それだけじゃない。どうして幽々子と目が合うとたちまちにしてそらしてしまうのか、どうして掛ける言葉が一つとして出てこないのか、どうしてこうも足繁く幽々子の所へ通っているのか、自分でもさっぱりわからなかった。
 ――何を言ってるんだ私は? ここに来たのはあくまでも確認。これの様子を窺うためじゃないか。こいつの力を見定めるため、私の格を上げるための道具として有用か否かを見ておきたかっただけのはず。
 まだ幽々子が何かを殺めるところを見てはいない。だから観察をずるずると継続せざるをえなかった。最初は妖である私を追い払おうと四肢振り乱して抵抗してくるに違いあるまいと軽く考えていたが、結局この小娘は虫一匹殺せそうにない暢気な馬鹿だった。それだけのことだろう。そう結論付けてしまえばごくごく簡単なことじゃないか。こいつに染み付いた死の臭い、気質の禍々しさはもういやというほど実感したのだから。

 沈黙に耐えられない。幽々子は死んだようにじっと座ったまま。佇む姿には依然としてうっとりするほど艶があるのに、こちらが心配になってしまうほど虚ろで、愁いにも満ちている。戦慄を覚えずにはいられない。よもやこの娘からは、人として当然備わってなければならぬ精神が磨り減り、枯れ落ちてしまっているのではないだろうか。これが背負う宿業を思えば、それは十分あり得ることだ。にもかかわらず、かくも荘厳たる佇まいは何なのか。何がそれをもたらすのか?
 ……やはりあるのだ。万華鏡のような移ろいを見せるこの娘には何か裏がある。私が見通しえない何かが。それが悔しくてしょうがなかった。まるで己の無知蒙昧さを幽々子から暗になじられているような、そんな気すらしたのである。

「お腹の方は如何でしょうか紫様? 宜しければ今すぐ支度を整えますが。」

 ずっと遠くを見ていた幽々子が、やにわに焦点を合わせてくる。むき出しの心臓を鷲掴みにするように、煌煌と光を放つ瞳を向けて。

「別に、平気よ。それより貴方はちゃんと食べているの?」
「私は食べていますよ。紫様が見たこともない食材を毎日持ってきてくださるので、すっかり太ってしまいました。」

 小袖で口元を覆いながら、幽々子はどこかうれしそうにそんなことを口にした。傍目にはとてもそんなふうには見えない。私が諸国からかき集めた食い物を幽々子に与えているというのは事実だ。そしてそれを少量ながら毎日口にしていることも確からしい。だが、その痩せこけた体に人並みの肉が付いたようには、着物越しからも到底窺えなかった。
 さすればその言も幽々子一流の気遣いなのかもしれない。私が食い物を持って来ることへの、それぐらいしかできない私へのせめてもの感謝。だからこそいっそう惨めだった。人間ごときに気を遣われていることが、ではない。そうまでされているこの子を人並みの体躯にしてやることさえできない自分がだ。"八雲紫"は、それしきのことすらできやしないのだろうか?

「どうでしょうか? 少しは魅力的になったでしょうか?」

 肩を左右に振りながら、幽々子は弾んだ調子で訊いてくる。目を伏せようとしたがそれはすんでで憚られた。これしきの問いからさえも逃げるわけにはいかない。

「……貴方はもう十分魅力的よ。ただ、やつれていてほしくないだけ。もう少しね。」
「そう、そうですか……もう少し、もう少しですね、はい」

 と、少し困惑気味に幽々子は返す。なんだか放り投げるような口調だった。私は慌てて取り繕う。

「あ、そうだ。目覚ましがてら、散歩にでも行きましょうか? ちょうど貴方もあの桜の様子を見に行く時分でしょう?」
「え、ええ……そうですね。失念しておりました。では……参りましょうか。」

 幽々子も少し慌てたそぶりで首肯した。立ち上がってその手を取る。かさかさした手の甲。春の陽気にかき消えてしまいそうな微かな温もり。幽々子がこちらに視線を向けることはない。ただその手だけが心持ちを伝えてくる。色のない、じんわりとした命の灯火を。私は離さずにいることしかできなかった。
 外に出ると心地よい風が頬をくすぐった。さっき中にいた時にはあれほど死の臭いがきつかった空気も、春風に吹かれると多少は生の趣きを取り戻すのだろうか。無骨な枝をしだいに彩り始めた桜の花びらが、そよ風に乗ってこちらにまで漂ってくる。三分咲きといったところであろうか。
 幽々子は相変わらず下を向いたまま、どこか沈痛にも見える足取りで私の少し後を歩いていた。蒼穹に混じる薄紅色へ目を向けることもない。いや、そもそもそんなものなぞ最初から興味はないとでも言いたげな面持ちをしていた。掛ける言葉が思いつかない。思わず力が入りそうになった手をほどいて、幽々子の方へと向き直った。

「やっぱり戻りましょうか? あまり気分も優れないようだし。」
「そんなことありません」幽々子は笑顔を上げて即答する。「あちらの方へ行きませんか? まだ桜には早いようですし。」

 そして逆に私の手を引っ張ってずんずん進んで行く。また気を遣われてしまった。腹の底に怒りが灯る。いい加減しろ、いったい貴様はどれだけ無力なのだ? あれだけ力を貪ろうと、境界の妖怪などと畏れられようと、結局この娘の相手一つ満足にこなせないではないか。なにが強さだ、とんだお笑い種じゃないか?
 どうせまた酷い顔を幽々子に向けているのだろう。視線を地面に落とした格好でされるがまま。私にできることといえば、繋いだ手の温もりを絶やさぬように握り返す、それがせいぜいだった。
 幽々子が案内してくれたのは、庵の裏側にある小さな原っぱだった。そこには色とりどりの草花がまだかろうじて残っている。察するにここは地脈の流れに恵まれているようだ。例のスミレもここで摘んだものらしい。
 幽々子は隅の方に駆けていくと、しゃがみこんでなにがしかをしげしげと眺めていた。丸まった細い背筋は児戯を思わせる佇まいで、棒立ちのままそれを見ていた私も、自然と頬が緩む。春風はいっそう芳しく、そこに在った人と妖を包み込む。赤のリボンで結い上げた金糸も舞い、私ごと巻き上げられてしまいそうな気持ちになった。

「紫様もご覧ください」幽々子はしゃがんだまま手招きする。「猫がおりますわ。」

 確かに幽々子の前には、小さな黒猫がいた。迷い込みでもしたのか、落ち着きのない様子で相対する幽々子に尾を立てている。私も誘われるままに幽々子の横へしゃがみこみ、猫に声を掛ける。二人並んで猫のご機嫌をとる様は、傍から見ればさぞ滑稽であっただろう。
 しばしの苦闘の後、そのわがまま娘はようやく私の懐の中に収まった。幽々子は爛々と瞳を輝かせながら私の胸で転がる小動物を見ている。それは先ほど私の横にあった瞳とは似ても似つかぬ柔らかさ。しばし忘れていた痛みがまたちくりと胸を刺す。
 思わぬ乱入者のおかげで会話は弾んだ。動物というものをほとんど知らなかったらしい幽々子は、方々で私が見聞した生き物の話に相槌を交えながら耳を傾けてくれた。こちらも話し込んでいるうちにそれまでの感傷など忘れてしまったのか、口調にも幾分滑らかさが戻ろうとしていた。
 野原をぐるりと見て回り庵へと戻る道すがら、ポツンと開けた一角の脇を通ったのはそんな心持ちの時である。

「紫様は彼岸花はお好きですか?」

幽々子が指差したそこは妙に物寂しい、ひんやりとした空間だった。土がひっくり返され、地面がむき出しのままになっている。畑に見えなくもないが、ところどころ伸びているのは確かに彼岸花の跡か。

「秋になるとあそこは彼岸花でいっぱいになるのです。紫様にも是非お見せしたかったのですが。」
「ううん……申し訳ないけれど、彼岸花ってあまり好みではないの。」
「あら、それは残念です。」
「どこか気味の悪い感じがしてね、あの華って。」

 普段なら気取れたであろうそのやり取りの含意も、すっかり気が大きくなっていた今の私には気付き得なかった。返された暢気な感想に、幽々子はさらりと言葉を被せる。

「それはそうやもしれませんね。あそこは死人を埋めておく、いわば墓地ですもの。」

 ぴたと、私の歩が止まる。一時遅れて幽々子の足も止まった。引き攣った顔の私に、幽々子は無機質な微笑を返す。なぜか嘲笑われている気がした。

「以前は使者や刺客が来ても追い払うだけで済ませられたのですが、最近は力を御することも難しくなってしまいまして。仕方なくあそこに葬ることにしていますの。」

 微笑を崩さずそう言った。なんら色のない、乾ききった声で。そしてもう一度しっかりと微笑みかけてくる。今度はうれしそうに。

「でも、紫様は大丈夫です。お強いですから。私も気兼ねせずにいられます。本当にありがとうございます。」

 ぞわりと、幽々子は抑えていたものを解く。窒息せんばかりの死臭、押し倒されんばかりの霊圧。眉一つ動かさず、先程までと一切変わらぬ艶姿をしていた幽々子は、しかし先ほどとは全く別の"モノ"になっていた。
 ……当たり前だ。馬鹿じゃないのか? 知らないはずがない。この娘が、自分自身の力に無自覚なまま心底無邪気に暮らしているなど、あるはずがないじゃないか。暢気なのは、世間知らずの馬鹿は、私だ。春の陽気に、この子の笑顔に中てられてなんにも見ずにへらへらしていたのは、私の方じゃないか。それを見たいがためにここへ赴いたのに、そんなことも忘れてうたたねに呆けていたのは、他の誰でもない、この私じゃないか。
 幽々子は笑顔のまま申し訳なさ気に首を軽く傾げる。鈍く深い輝きを灯した瞳が、私の体を容赦なく射抜く。

「その猫も、紫様がいらして助かったことでしょう。もし私に抱かれていたら今頃は命を獲られていたに違いありませんもの。」

 腕が、膝が戦慄く。何にだ? 幽々子の力にか? 幽々子が撒き散らす死臭にか? それとも自分の馬鹿さ加減にか? 違う。そんなものじゃない。この愁いに満ちた瞳にだ。憂いのない言葉にだ。それは私なんぞが知り得るあらゆる強さを超越している。これはなんだ? なぜそうあれる?
 幽々子が私の小袖に指を添わせる。向けられたほんのささやかな謝辞、臓腑の底から抉られるような敬愛、この身を焼き尽くさんばかりの気高さ。自失した陋劣な悟性にかわって、本能だけがそれにしっかと正対する。

「ごめん、なさい……」

 一番驚いていたのは、そんなことをいきなり告げられた幽々子だったろう。死臭の帳がたちまちにして混濁する。言った私はといえば、吐露が自分の口から飛び出したことにその時点でも気づいていない有様だった。地面に刺さったままの視線を上げることができない。小袖に置かれたままになっていた幽々子の指は、仄かな震えをまとっているふうに感じた。

「あ、あの……紫様?」

 その声で目が醒める。金縛りから解けた勢いそのままに顔を上げ、幽々子をじっと見遣る。暑い。燃えるように暑い。戸惑い、いやもはや苛立ちにも似た表情に見つめられながら、私はようやく喉元から言葉を引っ張り上げた。

「あ……ご、ごめんなさいっ!」

 しかしそれは結局変わらない。出せたのはさっきと同じ言葉だけ。それ以外のものが出てくる気が微塵もしない。当たり前だ。他に何ができる? 私にはこの子のために涙を流す資格なんかないし、この子に優しい言葉を掛けてやれるだけの力もないんだから。

 だから、そんな私にできたのは、呆然とした幽々子を置き去りにして無言のまま逃げ出すことだけだった。




 *




 夢から醒めると、ベッドの上だった。

 頬に当たっているのはよく知っている感触だ。突っ伏したまま首だけを横に向け寝てしまったんだろう。寝違えでもしたのだろうか、鈍い頭痛がじんわりと頭を締め付けてくる。
 頭の下に長いこと敷かれていたせいでしわのよった帽子を整えながら、仄冥い室内をぐるりと見回す。特に印象に残るところもないありふれたワンルームは、カーテンにぴちりと密閉され灰色にくすんでいる。部屋に差し込んだ夏の陽光がフローリングの上でゆらゆらと遊ぶ、なんて洒落たこともない。どこまでも空虚で、凡庸な部屋。
 軋む頭を押さえつつ重い体を引きずり上げる。今は何時なのだろうか? ベッドの端に転がっていた携帯を掴み上げ、時刻を見ようとして気付く。着信とメールが入っていることに。携帯をそれ以上手の中に収めておく勇気が湧かず、すぐ横に放り投げた。薄闇のなか目を凝らし、壁に掛けてあった時計を見る。二つの針はぴったりと寄り添いながら真上を向いている。12時、か……
 カーテンを開ける気にもならず、先ほどやっとの思いで持ち上げた体を再びベッドの上に倒す。白いだけの天井が視界に広がる。何か行動を起こすなんて気になれるわけもなく、かといって再びまどろみの中に溶けていくだけの度胸もなく、私はからっぽな部屋の置物にでもなったかのようにベッドの上に転がっていた。

 ぼんやりと、どうでもいいことが頭を掠めては消える。バイトは? レポートは? 食事は?――全てが閃光のように脳髄に立ち上っては消えていく。それはなにも考えていないのと等しい。だからそんなことをだらだらと続けていると、寝しなに打ち消したはずの想念がじわじわと湧き立ってきそうになる。恐ろしくなって頭を振る。あれは違うんだ。混乱していたせいで、ただ頭が暴走しただけ。そうに決まってる。
 本当にそうだろうか?――ひどく冷静な声が頭蓋に響いた――あれが本音なのではないだろうか。昨晩、懊悩の果てに辿りついたあの結論こそが、真に偽りない私なのではないだろうか。体温が少しずつ下がっていく。頭の芯から熱が失せていき、それが全身を侵食していくような、底気味悪い薄ら寒さが背中を走る。しかしそれは同時に安寧をもたらすのだ。悪寒とともにすぅーっと抜けていく。力が、頭痛が、悩みが。まるで麻薬みたいに。

 たまらずベッドから跳ね上がる。常に視界に入ってくるのは携帯電話。毟るように掴み上げるとそれをポケットにねじ込んだ。いよいよ頭痛がひどくなる。ああダメだ、少し落ち着こう。そうだ、こういう時はシャワーでも浴びるのが一番だ。ふらつく体を持ち上げよろよろと水場へ駆け込む。簡単なつくりのユニットバス、水垢まみれの水栓ハンドル、温いシャワー……全てが不快でしかない。
 適当に体をすすぐと、体を拭き新しい服に身を包む。髪を漉かねばと思ったが、なんだかひどく億劫になり結局手につかなかった。どうせ誰とも会いやしない。

 またすることがなくなってしまった。何かを食べるにしても買い置きがなかった気がする。とりあえず冷蔵庫を開けてみた。殺風景な庫内に見てるこっちがうんざりする。もういい。何か買ってこよう。そう決心して、荒っぽく冷蔵庫のドアを閉める。
 吸い寄せられでもするかのようにベッドへと戻ってくる。時計を見るとまだ15分ほどしか経っていなかった。絶望する。どうやって時間を潰せばいいか、想像もつかない……いや、それは嘘だ。したいことはある。携帯電話だ。未読のメール、着信履歴――誰からかは分かってる。だからこそ見たい。見たくない。
 そう、この逆方向の力、それが私の心を昨晩から真っ二つにしているのだ。爆ぜるように立ち上がり、脱衣所に置きっ放しになっていた携帯を取りに戻る。狭苦しい部屋の中を意味もなくうろうろと、さっきから私はいったい何をやってるんだろうか。前に進む度胸もない分際で。
 三たび腰掛けたベッドの上で、取ってきた携帯を手の中で転がしながら、しかし開くことなく時間だけが過ぎていく。じわじわと形を成していく邪念。ダメだ、これじゃ結局おんなじだ。落ち着け、冷静に、一つ一つ考えるんだ。

――私は宇佐見蓮子を愛している

 これはもう疑いようもない。昨日蓮子に怒鳴り散らしてから、この部屋に戻ってきて、ベッドで泣き寝入りするころにはもう――いやそうじゃない。もっと前から気付いてたことだ。そう思わないようにしていただけ、踏み込むのが怖かったから。だから今この携帯を開いて待ち受けの笑顔を見たいと思うのも、心のこもったメールを読みたいと思うのも、もしかしたら残っているかもしれない留守電のメッセージを聞きたいと思うのも、ごくごく自然のことなんだ。
 まただ。心の中に冷笑が響く――メッセージ? 心のこもったメール? またそんなわけのわからないことを言ってお茶を濁すつもりなのか? もっと頭を働かせるんだ、冷静に、客観的になれ。本当にそんなものが入っているのか? 別人からかもしれない。確認してもいないのにどうしてそう言いきれる?
 そしてだ、それがよしんば蓮子からだったとしても、どうしてそれが"心のこもった"などと言い切れるんだ? また身勝手な考えをしていることにどうして気付かない。よく考えるんだ。そのメールは昨晩私がしでかした愚行に対する怒り、罵倒かもしれない、絶交の挨拶かもしれない。そうだろう?
 また頭を振る。今度はもう千切れんばかりに。懲りずに噴き出してくる馬鹿げた考えを掻き消さんと。私はさっきから何を言ってるんだ? よおく思い出せ。蓮子のあの笑顔は、私に対する気遣いはどう見たって本物だろう? 蓮子が、私を何とも想ってないなんてことがありえるはずがない。私を嫌ったり見捨てたりなんか、するはずがない。だってずっと、一緒だったんだ。二人きりで秘封倶楽部を作って、二人でいろんなところへ行ったんだ。いろんなことを分かち合ったんだ。あんなに仲良く、語り合ったんだ!
 空笑いが漏れる。ひどく幼稚な考えに我慢がならなかった。あれに"真心"があったなんてどうして断言できるんだろう――そう思ったからだ。蓮子は優しい子、それは確かだ。ずっと付き合ってきてよくわかる。あの子は、臆病なくらい優しい。だがしかしだ、よく考えてみなければならない。その優しさとは私に対する優しさだったのだろうか? だってあの子は誰にでも優しいだろう? 親にも、想い人にも、友人にも、見ず知らずの人にも、初めて会った人にも、そして"ただ"のサークル仲間にも――

「ちがうっ!」

 惨めな悲鳴が、だれもいない灰色の部屋に響いて消える。私は知らずうちに戦慄く手で携帯を握り締めていた。これがなければ死んでしまうとでも言わんばかりに強く、強く。
 続けて出てくるはずだった言葉は、喉元につかえてなぜかそれ以上前に進もうとはしない。ダメだ、これじゃダメなんだ。こんな堂々巡りをしていてはまた出てきてしまう。"あれ"が。もっと醜悪で、もっと卑劣な……
 そもそもなんでだ? なんでこんな馬鹿げたことばかり考えているんだ? 私は、蓮子のことを信じている。それだけでいいじゃないか。確かにあの子の胸の内なんてわからない。でも……いやそういうことじゃないはずだ。あの子のことを大切に想うというのはそういうことじゃあないはずなんだ。たとえあの子が私の想いとは別の想いを抱いていたとしても、私たちの間にあるのは無二の関係なんだから。そう、だから、簡単な話なんだ。ややこしく考える必要なんてこれっぽっちもない。
 もし蓮子のことが本当に好きなら、送り出してあげればいい。それで実家を継ぐ彼女を見守ってあげればいい。だって蓮子は一言だってお別れしようなんて言ってないのだ。東京に行っても仲良くしようって、連絡取り合おうって、機会を作って会おうって言ってくれてるんだ。それが何よりの証拠じゃないか。蓮子は私を捨てて東京に帰るんじゃない。あの子は何度も私に伝えてくれている。私のことを大切に思ってくれてるって、大切な"友人"として――

 ぞわりと、悪寒が走る。まただ。なんで……どうしてなんだ。どうあっても"奴"が出てくる。あの最低な、下劣な、本当の"私"が――
 見開いたままだったまぶたを閉じる。噛み合わない奥歯を食いしばり、大きく深呼吸した。肺腑に溜まった瘴気を残らず追い払うために。こんな時こそ落ち着かないといけない。冷静にならないと、いつものマエリベリー・ハーンに、いやいつもの"メリー"に戻らないといけないんだ。
 ……やっぱり携帯を見よう。そうすればいいだけのことじゃないか。そこにはちゃんとある。蓮子の言葉が。本心かどうかなんてわからない。でもいつもと同じ、ちょっと子供っぽくて、でも明晰で、そして優しい言葉がそこにある。だから携帯を開けばいい。そして残っている着信と、メールを読めばきっと落ち着ける。そう、何もかも元通りになるんだ。
 頬を涙が伝う。脳髄からの至極まっとうな呼びかけに、しかし震える指は応えてくれない。まるで指が携帯の開け方を忘れてしまったかのように。思わず漏れたのは場違いな嗤い声。蔑みに満ちた醜悪な自嘲だった。たちまち心が怒りに燃える。真っ二つに叩き割らんばかりの勢いで鷲づかみにした携帯が鳴り響いたのは、その瞬間だった。

 全身が跳ねる。掌の奥で振動を続けるそれを、歪んだ顔が恐る恐る覗きみる。液晶に表示されていたのは「蓮子」という文字。
 携帯を開こうとする。手が震えて上手くできない。開くのにひどく時間を要した。なのにいつまでたってもそれは鳴り止んでくれない。着信ボタンがどこにあったか思い出すのにまた時間を費やした。それでも携帯が鳴り止むことはない。観念したように、私はそれを耳に当てた。

「も、もしもし……」
「メリー!? ああ、よかった……」

 受話器の向こうから聞こえてきたのは安堵の声。優しい蓮子の声。愛おしいあの子の声。

「あ、あの……えと」
「メリー、ごめんね。電話なんかして……」

 情けない呻き声は、しかし向こうの方がずっと強かった。蓮子はとつとつと続ける。くぐもった言葉には、しかし紛れもない真摯さに満ちていた。

「本当にごめんなさい。私が、悪かったんだ。メリーに、酷い事……」

 ……やめてくれ、なんで謝るんだ。

「ち、違うの。蓮子――」
「本当に、ごめん。んと、あの、ずっと失礼なことばっかりして、メリーの気持ちなんにも理解しないで勝手なことばっかり言って、本当にごめんなさい……ずっと、嫌だったんだよね、だからあんなに怒らせちゃって……」

 受話器越しに自嘲が漏れる。違う。違う違う! そうじゃない。嫌なわけがない。謝られる理由なんてない。だって蓮子にはなんの非もないんだ。最低なのは……

「情けなくてさ、どうしたらいいかわかんなくて。メリーの家に行かなきゃと思ったのにできなくて、電話だってメールだって、なんて言ったらいいかわかんなくて……本当にごめんなさい。でもこれだけは伝えなくちゃダメなんだって思ったの。ちゃんと、謝りたい。まず何よりも最初にやらなきゃいけないのはメリーに会って謝ることだって……ごめん私ばっかり身勝手なことばっかり言って」

 謝らなければいけないのは、蓮子の気持ちを一切無視してるのは……引き下がらなければいけないのは私なんだ。それをどうして、どうしてそっちが謝るんだ!? よけい露になってしまうだけじゃないか、自分がどれだけ惨めな人間か、愚かな存在か、卑劣な女かをっ!

「だから、もしメリーが許してくれるなら、また会いたいんだ。ちゃんと、仲直りしたい。ダメかな……」

 安堵している。今私は安堵している。鼻をすすりながら言葉を継ぐ蓮子に、きっと口元を三日月みたいに吊り上げて欣喜している。弱々しい声だけど仲直りしたいって言ってくれた。蓮子はやっぱり私のことが大好きなんだって確信できた。そう、疑うことなんて端っからこれ一つなかった。だから言ってしまえばいい。"私"がずっと言いたかったことを。ここ数日、この冥い部屋の中で考えていたことを。

「そ、そんな……なに言ってるのよ。と、当然じゃない……」

 私の口が動く。ああダメだ。動いてしまう。あのおぞましい考えが、必死に否定し続けた"あれ"が、ダメなのに……

「メリー……?」
「ただ昨日はね、ちょっと気分が優れなかっただけ。私の方こそ怒鳴ったりしてごめんなさい。蓮子は、悪くないのよ。なぁんにも」

 信じられないほど滑らかに、私の口が言葉を吐き出していく。電話の向こうにいる蓮子からは怯えが窺えた。別人と電話している感覚に襲われたんだろう。

「そ、そうなの? でもあの時――」
「気にしないで。本当にそれだけだったの。ちょっと苛々しちゃっててね……蓮子のせいじゃないの。勘違いさせちゃったね。」

 今あの子はどんな顔をして私の声を聞いているんだろうか。同じように安堵しているんだろうか。それともまだ不安が胸から掻き消えていないんだろうか。その姿を見てみたいという淫らな考えが頭から離れない。
 会いたいんだ。蓮子に。あの子の笑顔が見たい。直接声が聞きたい。触れ合いたい――そう、これじゃあダメなんだ。電話越しなんかじゃ、こんな会話じゃ満足できない。できるわけがない。

「それなら、いいんだけど……じゃ、じゃあ」

 蓮子の声がうわずる。私の優しい言葉を聞いて、欲にまみれた薄汚い甘言にほだされて。ダメだ、蓮子聞いちゃダメだ。お願い、早く電話を切って。

「うん。そうね、じゃあせっかくだからさ……」

 いつまでもこうしていたい。いつまでも蓮子と一緒にいたい。東京なんかに帰してたまるか。だから、連れて行けばいいんだ。蓮子もずっと行きたがってた"あそこ"に。二人一緒に行けばいい。そうすれば蓮子は――

「今週の終わりにでもさ、久しぶりに遠出しない? 仲直りも兼ねて。」

 ダメだ、ダメ蓮子ダメ、蓮子、嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ!!

「えっと、それってどこかへ結界暴きに行くって、こと?」
「そう、そうなの。実はね、どうしても行っておきたかった場所があるの。ほら、この間蓮子が教えてくれた……」

 涙が止まらない。きっと今私は哂っている。これ以上ないほど醜い笑顔で。
 なおも調子よく誘惑を続けながら、さっき見ていた夢のことが訳もなく頭を巡っていた。夢の私、幽々子に「ごめんなさい」と言った私。あの衝動的な懺悔が残酷なほど鮮明に脳裏をよぎった。なぜあの私が蓮子の前にいないんだろう。こんな私こそ夢の中に消えてなくなってしまえばいいのに。

 にやりと歪んだ口が、弾んだ声色で最後の言葉を吐き出した。

「博麗神社っていうところなんだけど……」
「博麗って……あのこないだ行き損ねた?」
「うんそう。あの神社。」







『私が寺にいた頃と人間は変わっていないな』
        ――東方星蓮船:聖白蓮







 夢から醒めると、布団の上だった。

 頬に当たっているのはよく知っている感触だ。突っ伏したまま首だけを横に向けて寝ていたらしい。半身を上げて藍を呼びつける。珍しく出てこない。

「すみませんでした紫様。こんなに早くお目覚めになるとは。」

 何度か声を上げた後、そう申し訳なさ気に寝室に駆け込んできた式の向こうからは、先日持ち帰ってきた黒猫の甘え声がひっきりなしに聞こえてくる。
 あの日家に持ち帰り処遇を任せてから、藍はすっかりあの猫に掛かりきりだ。流れで引き取ったもののどうすればいいかわからず、とりあえずこれに預けてみたのだが、まさかここまで夢中になるとは思わなかった。別に飼えといったつもりもなかったのだが。もっとも命じた仕事はちゃんとこなしているので、今更やめろというのも気が引ける。

「別にいいわ。髪をお願い。」
「え、あ……はい!」

 事実ここ最近の藍はやけに上機嫌だ。少し落ち着きに欠ける節もあるが、そんな式を間近で見ていると薄冥かった家に光が差すようで、悪い気はしない。弾むような手さばきで髪を結い合わせていくのを、私は真向かいに据えられた姿見越しに眺めていた。
 藍の言う通り、今朝はかなり早く目を醒ましたらしい。部屋に差し込む朝日は、まだかなり弱々しくも見える。思わず欠伸が漏れた。自然と起きたというよりはうなされて叩き起こされたような、すっきりしない目覚めである。そういえば夢見はよくなかった気もする。夢の記憶を手繰ろうとしている間に、藍は後ろ髪を結うのを終えたようだ。

「ありがとう。前の方は私でやるわ。」

 その一言に藍はたいそう驚いたふうに見えた。一瞬間を置いてから、しかしこの式は穏やかな笑みをつくって部屋を後にする。何だか馬鹿にされたような気もしたが、いちいち難癖をつけるのも野暮というものだ。姿見に映る前髪に櫛を当てていく。相変わらずの癖っ毛で、久方ぶりに扱う櫛はなかなか言うことをきいてくれない。こんな作業を易々とこなしていた藍に、少しばかり敬服した。
 着替えを済ましたころ、藍が戻ってきた。手にあったのは分厚い紙の束。それを恭しくこちらに手渡してから、そらんじるように報告を始めた。

「要石については鬼の方と連絡を取り、当てはつきました。ただ、蝦夷と壱岐の方から運ばせる分についてはもう幾日か必要との事です。必要とされる呪符については既に用意を済ませてあります。」
「そう。ご苦労様」

 申し分のない報告に、私も満足できたはずだった。口をついたどこか含みのある返答に、藍も伏せていた顔を上げる。

「何か御懸案が……?」
「そうではないわ」私は小さく頭を振って笑みをつくる。「まだ眠いだけでしょう。」
「そうですか」にこやかに藍は笑みを返す。「順調に事が進んでいるのならば何よりです。失礼しました。」
「ええ……順調、ね。」

 満足げに頷く藍。朝餉の支度を頼むと、軽やかな足取りで土間へと引っ込んでいった。再び独りきりになった寝室で大きく深呼吸する。重苦しい胸のつかえを吐き出すように深く。そう、全て順調"だった"はずなのだ。
 自己欺瞞を嘲笑うかのように、先日の一件がふっと頭をもたげる。あの日幽々子の下から逃げ帰ってきてから、私はあの庵に顔を出せずにいた。何故だか足がそちらへ向かうことを拒むのだ。特段礼を失したわけでもあるまいに、行って良いものかという奇妙な罪悪感を覚えていたのである。
 そう、落ち着いて考えてみれば大した失策でもない。むろん無礼な振る舞いであったことには違いないが、きちんと謝れば済む話だ。今あれとの関係を絶ってしまうのは得策ではない。かといって今までどおりの関係を続けるわけにもいかないだろう。要するに近づきすぎたのだ。あまりの不憫さに少々情がいってしまったのやも知れぬ。だが私も今一度人と妖、使う者と使われる者の関係を弁え直さねばなるまい。
 そうと決まれば事は簡単だ。とっととあの娘のところに行って片をつけてこよう。簡単に謝辞を述べ、手土産の一つでも持っていけばよい。
 西行寺の連中がどう動くかは確かに気にならないわけではないが、奴らが近づけぬよう結界の一つでも張っておけば十分だろう。もうこちらの準備は整ったのだ。あとは満開になるのを待つだけ、あの娘の機嫌を取りに行くのも最後としよう。

 運ばれてきた朝餉は山菜と味噌というごく簡単なものだったが、味はすこぶるよかった。気を衒わずとも、煌びやかな材料に頼らずとも誠実に作ればこれほどの味を引き出せる。果たして私にこれが作れるのだろうか?――箸を口に運びながら頭に浮かんだのはそんな問い。ふと幽々子が朝餉になにを食べたのか無性に気になった。あの子ならば"こつ"さえ掴めばすぐこういうものも作れるようになるだろう。あれは賢い。そう、もしや妖よりも。
 苦笑が漏れた。そんなことをだらだら考えている自分が馬鹿らしくなったからだ。人を妖より上と見るなど、かつての私であれば到底看過できない考えだったのではなかろうか。それが随分と気安くなったものだ。もうすぐ贄となる人の未来に思いを馳せるなど。
 その笑い声に中てられでもしたのだろうか、藍もつられてはにかんだ。

「やはり最近の紫様はとても生き生きとしていらっしゃるようで。」
「……そう?」ちょっと拗ねたように訊き返す。「あまり気分はよくないわ。何だか胸が重いし。」
「確かにお辛そうな表情を見せるときもあります。ただ、それはどこか温かみのある辛さに思えるのです。」

 眉を顰める。なにを言わんとしているのかよくわからなかった。藍は少しばかり恐縮そうに肩を縮こませたが、面立ちの輝きは揺るがなかった。

「ずいぶんと小難しいことを言うようになったものね。私には貴方の方がずっと楽しそうに見えるけれど?」
「それはそうです」藍は臆面もなく答える。「私は八雲紫の式。紫様が御多幸であれば私も同じように喜びを享受し、御心痛であれば私もまた苦痛に苛まれるのですから。もし私が幸福そうに見えるのであれば、それは紫様のお心持ちの映したものに他ならないのですよ。」

 凛とした声だった。はっとする。いつも聞いていた声のはずなのに、初めて聞く響きをそこに覚えた。赤子のように藍を凝視していた眼が、次の瞬間下へと落ちる。その間も藍は何も言わず、空になった膳を片付けていく。穏やかな表情の中に愉悦を滲ませて。
 何かが振り切れたように私は立ち上がった。落ち着きなく部屋を後にしようとする私に、藍は一礼とともに声を掛けた。

「いってらっしゃいませ。事が紫様の御心通りに進むことを願っております。」




「こんにちは、ご機嫌いかが?」

 私が例の庵に着いた時、幽々子はちょうど外から帰ってきたところだった。水でも汲みにいっていたのか、着物の袖を捲くり上げ、小枝のような腕がむき出しになっている。触れたら折れてしまいそうな、その華奢な腕、柄でもない力仕事でいっそう青白くなった頬――なぜか胸が痛む。

「ああ……紫様。どうもいらっしゃいませ」

 こちらの声に気付いて、幽々子も慌てて挨拶を返す。なんだかいつにも増して力のない、ぼそぼそとした口調だった。居たたまれなくなって、その肩に手を置く。

「ごめんなさい。忙しいところに押し掛けてしまって。」
「いえ、そんなことはありません。」
「これを運ぶのは私がやっておくわ。貴方は部屋で休んでいなさいな。」

 しばしの躊躇の後、幽々子はその言に従った。水を甕に移してから、私もいそいそと土座に上がる。着替えを済ませていた幽々子は、周りに一杯の霊を漂わせながら、茶を入れる様子もなく屏風の側に座っていた。やはりひどく倦んだ様子で、首をしな垂れながらうっすらと睫毛を伏せている。

「すみません、何のおもてなしもしないで。今お茶を」
「いいのよ」立ち上がろうとする幽々子を制しつつ言った。「そんなに気遣ってもらわなくても大丈夫。お茶は私が淹れるわ。幽々子、疲れているように見えるもの。いいからお休みなさい。」

 幽々子は何か言い返したそうに口を半分ばかり開いたが、何もかも億劫なったかのようにほんの少し浮かせていた腰を落とすと、緩ませた頬だけをこちらへ返してくる。私もにっこり微笑み返してから、

「そうだ、今日は私が昼餉を作りましょう。いいかしら?」

 と提案した。それまでずっとのれんに腕押しだった幽々子のそぶりに、今日初めて――いや、もしや会ってから初めて――光が差した気がした。先ほどまでの気の抜けた態度はどこへやら、桜色の髪をふわふわと揺らして、「本当ですか?」としつこく聞き返してくる始末だ。こちらもあれやこれやと相槌を打って調子を合わせてから、茶の支度をしに土間へと下りた。
 屏風で土座から仕切られた土間に一人きり、初めて浮かれている自分に気付く。……何をしているんだ私は。簡単な世辞を行って帰るはずだったのに、これではいつもと同じではないか。丁寧に整えてきた前髪を掻きあげ、額に爪を立てる――なにも変わらない。これで順調などといったいどの口が言えたのだ?
 苛立ちと屈辱の味が口いっぱいに広がる。久しくなかった頭を締め付けられる感覚――しかしそれは脳髄の奥から響く鈍いものではなく、刺すような鋭い痛みだった。土間に連なる戸口からは西行妖が見える。既につぼみのほとんどは綻び、五分咲きを優に超えていた。こちらまで漂ってくる桜の花びら、そこに塗り込められた耐え難い死臭。吐き気を抑えられない。よろけそうになる体を引きずって私は土座へと上がる。

 茶を煎じている間、幽々子はひどく饒舌だった。最初戸口で顔を合わせた時の気だるい面立ちが嘘のように、珍しくあちらから色々と話題を振ってくる。しかもそのほとんどは食事の話。よほど昼餉の提案が嬉しかったのだろうか。
 そのあどけない笑顔を、曇りのない声に触れているだけで先ほどの頭痛も消えていく。あけすけな、しかし当たり障りのない会話を続けているうちに、すっかり太陽は天頂近くにまで駆け上っていた。

「あら、もうこんな時間なのね」ことさら感慨深げに私は呟いた。「そろそろ昼餉にしましょうか。」
「え、ええ……そうですね。もうそんな時間が来たのですね。」

 と答えた幽々子の口調は今日見せた不自然なしぐさの中でもとびぬけて違和感に満ちたものだった。ひどく狼狽して思いつめたように声を裏返しながら、それでいて期待に胸弾ますように声を上ずらせている。普段の尊大にも見える落ち着き払った態度も、その時ばかりは影を潜めていた。
 しかし向こうからすれば私の口調も似たようなものだったろう。こちらへ来る前、幽々子に簡単な謝罪の言を述べるとあれほど高らかに決意しておきながら、今に至るまで何をどう謝ればいいのかとんと思いつけずにいたのだ。
 終始会話の隙を窺うように言葉を紡いでいた私は、幽々子から見ればひどく不自然に映ったに違いない。にもかかわらず、今はそのことへの恥ずかしさというものをさして感じなかった。

「そうね。早いものね。何にしましょうか? 幽々子は何が食べたい?」

 と訊いたのは当たり前であったと思う。幽々子はさっきからずっと食事のことを気に掛けていたし、私を急かしているふうにも見えたからだ。よほど腹でも空かせているのかと、単なる気遣いから尋ねたこの問いは、しかしこちらの予想とは全く異なる反応をもたらした。
 それまでずっと快活に動いていた幽々子の表情が、ぴたりと凍ったのだ。しばし呆然とこちらに視線を泳がせる幽々子。何か拙いことでも言ったかと、たまらず言葉を繋ぐ。

「えと、幽々子?……どうかして?」
「えっ、ああ! ご、ごめんなさい……」白昼夢から醒めたように幽々子は声を上げた。「え、えと……紫様の召し上がりたいもので……」
「そう? 何があるかしらねぇ。この間持ってきた兎はまだ残っているかしら?」
「残っていないかと」
「なら、干物があったから羹(あつもの)にでもしましょうか。今日は山菜を持ってきたの。茹でて頂きましょう。」

 そんなふうに会話を交わしながら、私はずっと焦燥感に駆られていた。幽々子の態度がおかしいのだ。こちらと話を合わすため慌てて笑顔を取り繕ってからずっと、そのしぐさには明らかな動揺と憤怒、そして言いようのない苦悶が窺えた。すっと背筋に嫌なものが走る。また私は無能を晒したのだろうか。この子の気持ちを汲み取れず、傷つけてしまったのだろうか。そんな疑念から逃げるように、屏風の裏へ駆け込んだ。
 一人きりで料理をするなど、本当に久しぶりのことであった。西方へ一人繰り出していた時も、基本身の回りのことは現地で仕立てた式にやらせていたから、こうして食材と真面目に対峙することなどなかったのである。
 食事を作ってやるなどと威勢のいいことを言ったはいいが、正直煮炊き一つとっても自信が持てない。やり方を忘れたわけではない。幽々子の好みがよくわからないのだ。人の好む味は果たして我々と同じなのか、よくよく考えれば私は知らない。血生臭さは抑えたほうがいいだろうが、さすればその分味つけは濃い目がいいのだろうか――そんな一つ一つが悩みの種となった。釜を見るに、朝方に米を炊いた気配がない。やはり腹を空かせていたのだろう。

 屏風越しに感じる気配に苛まれながらもどうにかこしらえた膳を、幽々子の元へ運ぶ。これがあの娘への最後の施しとなろう。仲良く膳を囲んで、一言告げて、それで終わりだ。終わらせなければならない。
 期せずして朝の献立と似たものになったことに気付く。誤魔化しようのない皿だ。幽々子にそれがどう受け止められるのか、どうしようもなく気になった。
 膳を前にした幽々子の面立ちはやはり暗いままだった。それはいつだか桜の前で見せた退屈そうな表情と同じ。身の竦む思いがする。あれほど立ち込めていた死臭も、今はほとんど感じなかった。
 無言のまま箸だけが進んでいく。手前味噌ながら味はよかったと思う。自分の腕を誇りたいわけではない。この食卓がきっと私にそう思わせたのだ。料理は舌だけで味わうものではない。食べる環境も同じくらい、いやもっと重要なのだろう。
 しかしそう思っていたのは私だけだったのかもしれない。幽々子はいつも以上にのろのろと、詰め込むように供された食事を口に入れていた。申し訳なさが、ひっきりなしにこの頭を苛む。やはり私には作れないのだろうか。幽々子や藍ではない私には。

「ごめんなさい……あまり美味しくなかったわね」できるだけ言い訳がましくならないように努めながら、私は口を開く。「幽々子の舌に合うようにと思ったのだけれど、ダメね……」
「そんなこと、ありません」そっけない調子で、幽々子はこちらを見ずに答える。「とてもよくできていました。美味しく頂けましたわ。」
「いいのよ……気を遣わなくて。」

 やけにとつとつとした喋り口になっていることに、ふと気付いた。後は一つ挨拶をして席を立てばよいだけ。なのに全身がそれを拒絶する。幽々子がちらとこちらを見遣る。射抜くような、深い闇を宿した眼光。まともに見ることすら叶わない。

「ごめんなさいね、この間も、今日も……何の力にもなってやれなくて。迷惑ばかり掛けてしまっているでしょう。」

 返事はなかった。手ごたえのない表情を浮かべて、視線を上げたり下げたりしているだけ。急きたてられるように口が動く。

「なにも分からなくて。どうしたらいいのかも……ダメね。ごめんなさい。でもね、私ここに来て――」
「別に」幽々子がやにわに口を挟む。「別にそんなにお気を遣って下さらなくともよいのです。私は、紫様が少しでも満足して頂ければそれで構わなかったのですから。」

 傲然たる強い口調だった。まるで問い詰めでもするような荒々しさと、哀願するような物悲しさが同居していた。聞きなれないその調子に、私も伏せていた顔を上げる。幽々子はたちまち睫毛を伏せる。

「私は、とても満足しているわ。貴方と出会えてよかったと思っている。幽々子と出会ってから、私は色々なことを知った、そんな気がするの。」
「本当ですか?」刺すような、腫れ物に触るかのような声で幽々子は語を継ぐ。「私なぞが、紫様に何がしかをもたらし得たとは思えません。」
「そんなことはない。貴方は――」
「では、ではどうして……」

そこで幽々子は一度言葉を切った。噛みしめられた唇は、涙をこらえているふうにさえ見えた。一瞬訪れた重い沈黙。逡巡を切り裂き幽々子は鋭く問うた。

「――私をお食べにならないのですか?」

 空気が、時間さえも凍った気がした。

 もう視線がそらされることはない。燃える瞳をしっかりとこちらへ据え置いて、幽々子はそのまま微動だにしない。それはこちらの答えを聞くまで梃子でも動くまいと全身で告げているかに見えた。その視線に、私はどんな顔を向けていられたのだろうか。衝動的に開こうとした口は、しかし痙攣してそれ以上動いてくれなかった。

――ただご安心ください。次はもっとお口にあうような食材を用意しておきますので

 いつか聞いた幽々子の言葉が、ぐるぐると頭を巡る。

――仰るとおりです。こんな貧相ななりでは、失礼というものですね。お気遣い、ありがとうございます

 はじめから、何もかもわかっていたんじゃないか。

――どうでしょうか? 少しは魅力的になったでしょうか?

 この子は私の浅はかな狙いなどとうにお見通しで、それをずっとなじっていたんじゃないか。

――そう、そうですか……もう少し、もう少しですね、はい

 私があの京の連中と、あの裏地に弔った奴らと何一つ変わらない存在だと最初から知っていながら、ずっとこの笑顔を、この敬愛を向けてくれていたんじゃないか。
 当然だ。物心ついてからこの子に擦り寄ってきたのは、私みたいなクズばかりだ。わかるに決まってる。聡明な幽々子なら、相手の本性なんて少し一緒にいればたちまち勘付くことなのだ。それを、そうでありながらこんな……
 震えている。肩でも膝でもない。もっと奥の方から、臓の底から戦慄が噴き上がってくる。それはいまだ味わったことのない真の畏怖。見透かされたとか、愚弄されたとかいう感情はこれっぽっちも湧いてこない。ただ私が敵と知りながら、こうやってすっと接し続けてくれたこと、それに絶望的な恐怖を覚えた。そんなこと私には絶対にできない。

「食べないわ」

 その言葉が口から引きずり出されたのは、ガタガタと慄いていたちょうどその最中だった。何故そんなことを言ったのか、この脳髄に理解できるはずもない。それは本当に自分が言ったのかと思うほど、力強く迷いのない言葉だった。

「私は、貴方を食べたりしない。幽々子をそんなふうに見たりしない。だから……許して頂戴……」

 幽々子の顔に初めて感情が走った気がした。ふくよかな頬を引き攣らせながら、浴びせられた答えにどう答えていいか途方に暮れている、そんなふうにも見えた。しばしの間ひどく慌てふためいたそぶりで表情を立て直そうともがいていた幽々子は、やがて青白い面立ちに真っ赤な絶望を滲ませて、こう呻いた。

「すみません。やはり少々疲れているようです……今日はもうお帰り願えませんか。」




 *




 夢はそこで途切れた。

 腰掛けていたのは固い椅子だった。尻に伝わってくるのは小刻みな振動。右目の端ではのどかな田園風景が滑らかに平行移動している。

「あ、メリー起きた?」

 向かいに座っていたのは蓮子だ。ようやく目を醒ました私を少しおちょくるような笑顔、しかしそこにはこちらの機嫌を探るような慎重さが窺えた。

「ん、ああ……私寝ちゃってた?」

 慌てて寝ぼけ眼をこする。寝起きのみっともない表情を見られたかと思うと、顔から火が出そうになった。蓮子は慌てた様子でたしなめてくる。

「いいって。まだ当分着かないし。しばらくゆっくりしてなよ。」
「あ、うん……ごめん」

 蓮子はにこりと笑うと、紙コップに入ったコーヒーを一すすりする。そういえばさっき車内販売の人が通路のところをうろうろしていたな。
 周囲の状況を見回しながら、夢とごちゃ混ぜになっていた感覚を一つ一つ整理していく。ヒロシゲからこの特急ライナーに乗り換え、ボックス席に座って発車を待っていた、そこらへんまではちゃんと記憶がある。たぶんそのまま居眠りしてしまったんだろう。時計を見るにまだ東京駅を出発してから30分と経っていない。ヒロシゲのような無振動の最新鋭列車でもないこのローカル鉄道の乗り心地に、どこか郷愁でも覚えてしまったのだろうか。

「蓮子、コーヒー買ったの?」
「あ、ごめん。冷めちゃうかなと思ったからメリーのは買っておかなかったわ。これ飲んでいいよ。私新しいの買って来る。」

 と言って先ほどまで口をつけていたコーヒーを私の手に持たせる。有無を言わさず駆け出していく蓮子に一瞬腰を上げかけたが、結局そのまま待つことにした。どうにも頭がふらふらする。自然と起きたというよりはうなされて叩き起こされたような、すっきりしない目覚めだった。
 蓮子の温もりが残るコーヒーに口をつける。さっきまでこれをあの子が飲んでいたことを思い出してふいに恥ずかしくなった。なんだかそれ以上飲むのは気が引けて、その紙コップを窓枠のところに置く。
 車内は7月にしては暑くもなく、かと言ってさして涼しくもなかった。東京駅は不快極まりない蒸し暑さだったが、北上していくにつれその不快感も多少は失せた気がする。にもかかわらず爽快感を覚えないのは、年代物の車両の空調が甘いせいか、はたまた無意識のうちに京都の暑さを恋しがっているためか。車窓に広がるのどかな田園風景もそれなりに味があったが、忙しなく真横に溶けていく風景からは心奪われるほどの雅趣を感じない。要するに旅の高揚感なるものは一向に湧いてこなかったわけだ。カタコトと揺れる地方線にも、そのボックス席で飲むいかにもな味のインスタントコーヒーにも。
 紙コップの横には秘封倶楽部の活動ノートがあった。よくある大学ノートの隅からは、一枚の写真が半分ばかり顔を覗かせている。ノートの最後あたりに挟まったその写真をつまみあげた。写っていたのは寂れた夜の神社、そして写真からはみ出さんばかりにひしめき合う結界の切れ目。
 博麗神社の情報を見つけてきたのは蓮子だった。東京から更に北へ進んだところにある寂れた神社、そこに大きな結界の切れ目が在るという噂をどこからか聞きつけたらしい。
 ありがちな伝承とともにこの神社の写真を見せられて、私はおおいに驚いた。おそらく今まで見たあらゆる結界の切れ目、そのすべてを合わせたとしても足りないくらいの揺らぎがそこにあったのだ。しかもそれはあくまで写真越し、もし直接見たらいったいどうなるのか。そして恐怖し悟った。ここに行ってはならないと。
 本能が告げてきたのだ。もしここへ私が行けば、それこそ本当に結界の向こう側に飲まれて二度と帰ってこられなくなる。そしてその犠牲は私だけに留まらない。だからその時は色々理由をつけて断った。蓮子を巻き込みたくはなかったから。

 でも、今はそうじゃない。むしろ――

「ただいまー」

 蓮子が戻ってきた。手にはコーヒーだけではなく、弁当包みもあった。そういえばもうお昼の時間だ。

「ありがとう。お弁当買って来てくれたの?」
「そうそう! なんか売店のおばちゃんに勧められちゃってね。ここいらの名物なんだってさ。」

 蓮子は努めて明るく振舞っている。急な旅行の申し出にも嫌な顔一つせず、旅券から宿の予約といった諸々をあっという間に済ませてくれた。空いた時間を使って東京観光をしないかとまで提案されたのだ。どうせ神社探索は真夜中になるから、到着を少し遅らせれば色々回れるとかなんとか言われて。結局それは断った。今の私が東京の街並みを楽しめるはずもない。
 ことさら注意を傾けずともすぐわかってしまう。蓮子は細心の注意を払って、私を気に掛けてくれている。それはもう卑屈なくらいだった。ヒロシゲに乗って東京に着くまでの一時間弱、そして乗換えを挟んで今こうしてローカル線に乗る道すがら、蓮子からなにか物を貰ったのはいったい何度目だろう。別に欲しいと言ったつもりなんかないのに、蓮子は先んじて動くのだった。それはこちらの機微にいちいち一喜一憂してくれているふうにも見えて、たまらなく愛おしかった。そして、そんな健気な蓮子を見ているのがたまらなく辛かった。だって見れば見るほど私が喜んでしまうじゃないか。この計画への自信が確信へと変わっていってしまうじゃないか。

「メリー、お腹空いてなかった?」

 ふと焦点を戻す。そこには弁当包みを差し出したまま、おずおずとこちらに問いかける蓮子がいた。狂ったようにまばたきを繰り返す。何をぼけっとしているんだ? とうとう蓮子の思いやりにさえ応えられなくなったのか?

「そんなことないわ。いただきます。」

 にこりと微笑みをつくってやると、蓮子にたちまち光が戻る。飛び跳ねんばかりのしぐさで席に着くと、大げさな反応とともに弁当包みを開いていく。その全てが私を元気付けようとしてくれている表れだとしたら、どれほど我が身を呪っても足りない。きっと今の私はさぞかし醜い表情をしているんだろう。
 蓮子が一つ一つ褒めちぎるほど、弁当が美味いとは感じなかった。確かにあまり都会では見ない素材を使っていて新鮮さはある。だが味付けが濃いので、なにか特色と言うものを感じるまでにはいかない。おかずも単調で味の変化もなく、食べ続けると飽きが来る。そもそもこの肉も特産を謳っているが人工肉だろう。今どき地方とはいえ天然ものを駅弁に使えるはずもない。そう思うとよけい味気なかった。
 それでも自室のワンルームで食べる、味も素っ気もないご飯よりずっと美味しく感じるのは、こういう列車の中で景色を見ながら、そしてなにより蓮子と一緒に食べているからだろう。料理は舌だけで味わうものではない。食べる環境も同じくらい、いやもっと重要だってことだ。

「美味しかったね」早々と弁当を平らげた蓮子は、そう話を振ってきた。「やっぱりお勧めってだけはあるわ。」
「うん。そうね、けど……」喉を引っ攣らせながら答える。「やっぱり人工肉ってのは味気ないわ。せっかくの名産品なのに。」
「そんなことないわよ。別に人造ものだって天然ものだって成分的には同じなんだから。それは心理バイアスの問題でしょ。」
「その心理面こそが大問題なのよ。食事は味蕾の化学反応じゃなくて全人的活動なんだから。」

 蓮子が見せる痛々しいまでの快活さをわざと踏み荒らすかのように、粗暴な調子で投げられた反論に対して、蓮子は白のリボンで結ったお下げをいじりながら、一つ一つ言葉を選びつつ応答する。それはなるたけいつも通りの会話をしようと、一生懸命努めているふうにも見えた。

「もちろん食事は舌だけでするものじゃないわ。駅弁の美味しさってのはシチュエーションによるところが大きいわけだしね。でもね、やっぱり人造は不味いっていうのは偏見よ。さっきもヒロシゲで話したじゃない? バーチャルな風景が実物の風景より味気ないっていうのはおかしいって。」
「私は物足りなく思うけどな」
「でも刺激としての情報はどちらも同じわけよ。その刺激に反応するメリーの心理が違うだけでね。それをリアルとバーチャルの差のせいにするのはおかしいわ。」
「うーん……」

 会話はそこで途切れてしまった。私がそれ以上言い返そうとしないのを見て、蓮子はこの話題に飽きたと思ったのか、それとも言い過ぎたと反省したのか。ともかくこの子はもう話題を別方向へすり替えてしまった。
 そんな懸命の配慮に、私もとつとつと相槌を打つしかできなかったように思う。頭の中では今しがた蓮子が言った言葉がぐるぐると回っていたのだ――やはり私は蓮子にとって単なる"刺激"にすぎないのだろうかと。マエリベリー・ハーンという"記号"に過ぎないのだろうかと。
 それなら同じだ。京都にいようと東京にいようと、直接話そうと電話越しに話そうと。全て刺激としては同質なんだから。だったら私は――

「――メリー、やっぱり……体調悪い?」

 そこまで思いつめたところで、ようやく蓮子の声に気付いた。先ほどまでの無理に仕立てた余裕綽々な物腰はどこへやら、ひどくおっかなびっくりな調子で。叱られた子どもが親の顔色を窺う時のそぶりさえ思わせる姿に、私は悔悟で口の中を一杯にしながら告げる。

「そんなことないって。気にしないで。」
「そう……? なんか元気なさそうに見えたから、ね。うん……」

 そこで蓮子は口をつぐむ。何がしか続けようとしたのを思いとどめたふうにも見えた。ボックス席の振動が、私の心臓をぞわりと揺さぶる。

「こないだは……ごめんね。」

 そしてぐさりと射抜かれる。蓮子から改めて謝られるなんて思ってなかった。何度謝っても謝り切れないことをしているのは、こっちなのに。

「さっきも言ったじゃない……謝らなきゃいけないのは私の方よ。こないだはひどいこと言ってごめんなさい。」
「そんなことない……メリーが会ってくれるって言ってくれてうれしかったの。もう二度と会ってくれないんじゃないかって、ごめんね。」

 そんなわけない。蓮子に会いたくないわけがない。私は、貴女とずっと一緒にいたいんだから。

「メリーはさ、私といて楽しい?」

 そう言うやいなや、蓮子の顔は真っ赤になった。わたわたと忙しなく手の置き場を変えながら、膝頭へ突き刺した視線をどうにかこちらへ持ち上げようとあがいて。
 ほんの一時置いてから、蓮子は慌てて付け足した。

「いや、違うんだよ。そういうんじゃなくて、えと、ね……なんか申し訳なくてさ。ほら、私ってしょうもない奴だから、メリーに色々嫌な思いさせちゃってるんだろうな、とかね。うん、ごめん……」
「そんなことない」無意識に口が動いた。「私は、楽しいわ。蓮子と一緒にいて、蓮子と出会って秘封倶楽部を立ち上げて、本当によかったと思ってる。迷惑かけられただなんて、そんなこと一度とだって思ったことない。迷惑掛けてるのは……私よ。だから、ごめんね。」

 それ以上は言えなかった。言ってしまえばよかったのに、私が続けることを赦さなかった。今の私にそれ以上の想いを告げる資格など、あるわけないもの。
 両手を膝の上に置きながら、耳たぶを赤らめてずっと俯いていた蓮子は、やはりとても幸せそうだった。きっと私は今満面の笑みを浮かべているんだろう。にたにたと、何もかも思い通りにいっていることに満足して。願わくば蓮子がその下卑た含み笑いを見ることがないようにと、心の中で祈る。それくらいしか、今の私にはできないから。
 列車がトンネルに入った。暗黒に塗りつぶされた車窓に、私の顔が映る。軽蔑する気にすらなれず、さっと目を伏せた。
 闇に包まれた世界で、夢の記憶だけが鮮明に輝く。ああ、夢の世界に戻りたかった。いつまでも眠ったまま、夢の私であり続けたかった。あちらの私なら、きっと蓮子とも誠実に向き合える。今の告白の続きだって、ちゃんとできる。蓮子もずっと幸せでいられる。なぜ私なんかがあんな夢を見られるんだろう。妬ましくてたまらなかった。羨ましくてしかたなかった。

「蓮子は、うれしい?」薄気味悪い、甘ったるい声で私は訊いた。「今日、私と一緒に博麗神社に行けて、よかったと思う?」

 最低の問いだ。答えは決まっている。だから尋ねたのだ。

「も、もちろんよ!」蓮子はこの気を逃すまいと、精一杯愛らしく答えてくれた。「よかったと思ってるに決まってるじゃない。ずっと行きかたったんだもの。メリーが見ている結界の向こう側、私もそれが見てみたい。メリーがこんな自信満々なの初めてだもの。期待しないではいられないってものよ。」

 あははっ、ああうれしかろう。ほら、はしゃげよ私。もっと喜べ。
 希望通りの答えを引き出せてさぞ満足だろう? なあ? この言葉がずっと欲しかったんだろう? 
 蓮子を、向こうの世界へ連れて行く。私たち二人、あちらの世界でいつまでも一緒に生きていく――そんな目論みの根拠ができて。
 だって蓮子が望んでるんだもの。そう、これは私のわがままじゃないんだ。私はなぁんにも悪くない。私は、大好きな蓮子の願いをかなえてあげるだけなんだから。

 トンネルの暗闇はまだ続いていた。いつまでも、まるで光が私の上に降り注ぐことを拒絶しているかのように。







『思ってはいたが、自分の力ではどうしようも無い事も分っていた』
        ――東方妖々夢:キャラ設定







「紫様、紫様大丈夫ですか!?」

 起きているのか目覚めているのかわからない頭に響いたのはその声だった。鉛のような目蓋を必死にこじ開ける。目の前にいた藍はずいぶん当惑していた。

「んぁ……どうしたの、藍?」
「い、いえ。ひどくうなされておられたので、なにかあったのかと……」

 藍に言われるまでもなかった。心臓は割れんばかりの拍動を打ち、さながらどこかを駆け回ってきた後のように全身から汗を垂らしている。しかしそれは冷たい汗だった。血の気の失せた白い手は、震えでもしているのか。荒い息を静めようと、藍は繰り返し私の背中をさすっていた。

「落ち着きましたでしょうか?」藍は諭すような言い方で尋ねた。「昨日ご帰宅してから大変お辛そうで、御食事も召し上がらずお休みになられたままで……水をお持ちしましょうか?」

 藍はあくまでも甲斐甲斐しくこちらを気遣ってくれる。そして、私の心を抉っていく。やめろ。もう私に構うな。惨めになるだけだろう? 優しくされる資格なんて、私にはあるはずもない。

「いい。いらないわ」
「しかし顔色もよくありません。何か口になされた方が――」
「要らないといってるでしょう。下がりなさい」
「でしたら湯浴みなど――」
「言ってることがわからないのっ! 下がりなさい!!」

 惨めな怒号が、灰色の寝室に響いて消える。私は知らずうちに戦慄く拳を握り締めていた。無様な姿を晒す主人を前にしても、藍はたじろぎすらしない。一瞬悲痛に表情を曇らせ、しかし私に寄り添い続ける藍。本当によくできた式だ。なんでこいつなんかが私の式をしているんだろう。私なんぞの命に従ってるより、自分で考えた方がずっとまともなことを為しえただろうに。

 私は、いったいどうしてしまったのだろうか? 

 体に力が入らない。先ほど爆ぜた激情も、寝起きの浮遊感も、あの頭痛さえも消えてしまった。一切が体から抜け落ちたまま、今身を覆うのは昨日の記憶だけ。思い出そうとするだけで身悶える。あの訳のわからない宣言はなんだったんだ? 「食べない」などと、本来の目的を何もかもぶち壊すようなあの愚劣極まりない吐露は、いったい何処から出てきたって言うんだ? おかしいじゃないか、私はどうしてしまったんだ?
 涙が頬を伝う。己が矜持を取り戻せと叫ぶ脳髄に、しかし体は応えてくれない。代わりに心を支配するのは、やはり幽々子だけなのだ。そのことに気付いても、もはや屈辱を覚えない。ほんの小娘に自分の浅はかさを見抜かれ、これ以上ないほど侮辱されたというのに、憤怒はかけらも湧かない。だって、そう思うだけの自尊心なんて、残ってなかったから。
 前だったら、あんな小娘ためらいなく屠れたはずだ。この私にあんな口を利いた人間は容赦しなかったはずなんだ。なのに今は、幽々子の庵へ行くと想像しただけで足が竦む。褥から起き上がることさえできない。行きたくないんじゃない、行ってはならないと心が告げるのだ。そんなことが赦されるはずがないと、私ごときがあの子に近づくなど畏れ多いと、なによりも私自身がそう考えてしまうのだ。

「紫、様……」
「藍、もういいわ。」

 やっと飛び出した主人の言葉がひどく力ないものであったことに動揺を隠せなかったのだろう。その顔が青白く引き攣った。

「どういう、ことでしょうか……?」
「もう、いいの。要石も、術式の確認ももう必要ない。もう、全部無意味。あの桜は諦めるわ……」

 これ以上ないほどに打ちひしがれながら、ポツリポツリと言葉を漏らす。それ以外の選択肢があるか? 私なんかに、思いつけるはずもない。

「ダメなの、もうなにもかも。私、負けたの。あの富士見の娘に。もう……無理よ。幽々子を贄に使うなんて、殺すなんて。」

 あの子は人、ただの駒でしかなかったはずなのに。私は妖。ただの能無しでしかなかったのに。

「もう、どうしていいか、わかんないのよ……私なんかじゃもう、どうしていいか……」
「――紫様」

 くしゃくしゃになった顔を、そっと持ち上げられる。真正面に据え置かれた藍の口から放たれた言葉は、低く雄雄しかった。

「紫様。どうかお聞き下さい。貴方は私の主人です。貴方はありとあらゆる境界を統べるお方です。紫様、貴方はお強いのです。誰よりも。人と妖の境界など、紫様にとって何の意味がありましょう?」

 一つ一つはっきりと、厳かに言葉を紡ぐ藍の目には光るものがあった。この子は、どうして泣いているのだろう。

「だから、どうか御自愛を。どうかその御心を自らの手で傷つけたりなさらないで下さい。私は紫様の式です。言葉はなくとも、紫様のことは誰よりもわかっておるつもりです。紫様は、我らは負けなど致しません。誰が嘘など言いますか? だって、私はあの八雲紫の式なのですよ。こんな私に八雲の姓を、尊厳を下さったのは、他ならぬ紫様なのですよ……だから、だから……」

 そして藍の額が、すとんと私の懐に落ちた。胸に、嗚咽が響く。そしてそれは脳髄へと駆け上がる。
 私が……藍に? 違う、逆だ。私は、この子に尊厳なんかこれっぽっちも与えちゃいない。藍を八雲の姓をやって誇りを与えたんじゃない。私はただ道具として使いたかっただけだ。なのに、この子は泣いてくれる。感謝してくれる。こんな私に、尊厳を与えてくれる。
 ……なんで泣いているかって、そんなの簡単なことじゃないか。私を慈しんでくれてるからだ。だから、自分のことを道具としてしか扱おうとしない、こんなどうしょうもない主人をここまで敬ってくれるんじゃないか。それこそが、情けをかけるって事だろうが。

「――藍、頼んでおいた術式の材料は全部用意できているのね?」

 力を取り戻した声に、藍の顔も上がる。

「は、はい……」
「神木を2つ、いや3つ追加できるかしら? 明日中に。」

 信じられないほど頭が澄み切る。
 同じだったのだ。私が、幽々子を使うんじゃない。私があの子を道具にするのでも、あの子に物を恵んでやるのでも、あの子に同情するのでもない。そうじゃないんだ。ずっともらっていたのは、私の方なんだ。私が持っていなかったものをずっと注いでくれてたのは、幽々子なんだ。簡単なことじゃないか。だから私はあそこへ行ったのだ。あの子の立ち振る舞いに心揺さぶられて、幽々子の隣にいたいと願ったのだ。
 だったら、やることは一つだろう? もし私が境界を統べる妖怪であるならば、本当にそれだけの力を持つ存在であるならば、今度こそ幽々子にしっかりとお礼をすべきだろう? そうでない強さなど、何の意味がある? 人間一人救えずして、何が力だというのだ。幽々子に恩を返すこともできぬ者が、妖の頭目気取りなど、ちゃんちゃらおかしいじゃないか。
 藍も意図を察して即答する。

「はい! 必ず」
「急いで。術式を組み直す。私の結界の一部を使って、あの桜を封じる。幽々子だけを刳り抜く。呪符もすべて書き直しよ。休みはないと思いなさい。」
「直ちに取り掛かります!」

 跳ね上がろうとした藍の肩を抑えて、抱きとめた。どうしても伝えておきたかった。この式に。

「ゆっ、紫様……?」
「ありがとう……藍、本当にありがとう。」
「そっ、そんな――」
「貴方のおかげで気付けた。遅すぎたけどようやくわかった。答えはこんな近くにあったのに。だから、ありがとう。藍」

 藍の掌を背中に感じた。すっと溶けてしまいそうな柔らかさ、温かさ。大丈夫だ、私も感じられる。これならあの子にもちゃんと伝えられる。

「藍、ごめんね。少しだけ出かけてくるわ。」
「……はい、わかっております。」

 顔を離して再び見つめあう。そして頷きあった。藍は朗らかな顔をしていた。

「ちゃんと言ってくる。ちゃんと、謝らないと。」
「行ってらっしゃいませ」



 庵の前に飛び出し、扉に向かって駆けた。庭は一面の桜吹雪。視界の端に映る西行妖は八分咲きを迎えようとしている。もう時間は、ない。

「幽々子っ!」

 屏風の陰に、あの子はいた。どこか気の抜けたふうに、部屋の隅で体を縮めて正座していた。呵責の念が頭を突き刺す。

「紫、様ですか」

 うっとうしいとでも言いたげに、生返事を向けられる。壁のような霊圧と死臭が私を押し返す。当然だ。そうされて然るべき仕打ちを私はこの子にしたんだ。でも、いやだからこそ言わなくてはならない。

「幽々子、ごめんなさい。」
「もう、いいんです。すみません、だからもう――」
「私と一緒にここを出ましょう。」

 幽々子の華奢な肩が跳ねた。俯いたままの顔がこちらを向くことはない。それでもいい。逃げてはならない。

「私貴方に嘘を吐いてた。最初ここに来たのは幽々子が見抜いていた通り、あの西行妖のためだった。貴方に近づいたのも全部そう。あの妖怪桜を手に入れるための道具として使う、ただそれだけだった。でも、今は違う。こうして幽々子の前に来たのは、そんなことのためじゃない。」
「おやめ、下さい……嘘なんて、嘘を吐いていたのは――」
「貴方を助けたい。幽々子、貴方をあの西行妖の頸木から解き放ちたい。私のためじゃないわ。貴方のために、貴方には生きてほしいの。それぐらいしか、私にはできない。貴方に返せるものがない。ごめんなさい。でも幽々子、貴方はもっと幸せに生きる資格がある。貴方は、こんなところで死んでいい人間じゃないわ。だから――」
「そんな。私は……人間です。紫様は――」
「そんなことどうだっていい。幽々子、貴方言ってくれたわよね。私のこと強いって――違うわ。私は強くなんてなかった。そう、私は最低だった。本当に強いのは幽々子、貴方よ。
 幽々子は私に教えてくれたの。憐れむことと見下すことの区別もつかなかった、敬われることと諂われることの区別さえつかなかったこんなどうしようもない妖怪に、貴方は初めて尊厳を与えてくれたの。敵でしかない私に向き合って、慈悲とはどんなものかって教えてくれたのは、幽々子なの。
 だから助けたい。幽々子から教えてもらったことを絶対無駄になんかしない。必ずこの恩は返す。約束するわ。死の呪いなんて全部乗り越えてみせる。今更こんな調子のいいことって馬鹿にされてもいい。幽々子はきっと私でさえも赦そうとしてしまう、けど私なんか嫌いのままで構わないから。それでも私は、貴方を心から尊敬している。幽々子はなによりも美しい。だからお願い、私と一緒に来て。貴方をあんな桜に殺させはしない。生きて。」

 ひどく早口だった。呂律もろくに回っていなかったかもしれない。最後の方は何を言ったかも覚えていない。でも初めて心と頭を通じさせてものが言えた気がした。
 懺悔するように幽々子の側へ腰を落とし、床の上にあった掌に掌を被せる。冷たい手。幽明の境にある弱々しくも品位を宿した手。震えが止むことはない。幽々子に寄り添うこと、言葉を交わすこと、触れること――すべてが畏ろしい。でも、それは高潔なる魂への畏懼だ。だから放しちゃいけない。
 ずっと地面に突き刺さっていた幽々子の視線が、一瞬こちらを向いた気がした。ずっと底の見えなかった瞳にぽっと光が射す。色をなくしていた虚ろな面立ちが、ほんの一瞬凄まじい力でもってこちらを睨みつけてきた気がした。私と目が合ってしまった幽々子は、すかさずいつもと同じ笑みをつくろうとする。しかし顔面に浮かんだのは何だかひん曲がった笑みだけ。ぎこちない表情のままへどもとした口調で、こぼすように答える。

「そん、急にそんなこと言われても、何というかその……ごめんなさい、なんだか上手く言えなくて……」
「いいの。」

 逃げてはならない。私が好かれているわけがない。幽々子から愛されてなんかなくたっていい。でも、言いたい。

「信じてくれないのは当たり前。妖怪に誘われて、しかも貴方を喰おうとしてた妖怪にこんなこと言われて、いきなり信じろなんて虫が良すぎる。
 今日は幽々子に言いたかったの。ちゃんと謝って、私の気持ちを伝えたかった。これから準備する。貴方をあの西行妖から救い出す術式を。大丈夫。絶対にできるわ。あの桜が満開になる前に、必ず封印の術は完成させてみせる。だから、私のことなんて気にしないで、幽々子は自分のことだけを考えて。準備が整ったら、また来るから。」

 重ねた幽々子の手は、明らかに震えていた。その震えを落ち着かせたくて、震えるこの手でぎゅっと握り締める。この子を覆う死臭も、取り巻く死霊も、近づくものを取り殺す呪力も何もかも切り裂いて。

「わかりました……では、また後日……その、その時、お返事をするということで宜しいでしょうか」

 やっと聞こえるか聞こえないかという声で、幽々子はこれだけを搾り出した。頷く。どんな答えをもらおうと構わない。ただこの子には幸せに生きて欲しかった。それができるのならば、後はどうなったっていい。

「約束する。必ず貴方を西行妖から救い出す。だから、待ってて。」




 *




「メリー、ほらメリー起きて。時間だよ!」

 起きているのか目覚めているのかわからない頭に響いたのはその声だった。鉛のようなまぶたをこじ開ける。目の前にいた蓮子はにこにこ顔だ。

「ん、おはよう蓮子……」
「おはようじゃないって。ほら、もうすぐ2時半だよ。起きて。」

 周囲を見回すとそこは真っ暗闇。蓮子の持つ懐中電灯に照らされてかろうじて見えたのは、古ぼけた鳥居と雑草に荒されるがままになった石畳だ。……ああ、また寝ちゃったのか、私……

「ごめん、寝ちゃったのね私」

 こめかみを掌で揉みしだきながら、そう呻く。宿にチェックインしてから夜更けを待つまで、こんなふうにうつらうつらしたのは何度目だろう。しかもその度に同じ夢を見た気がする。終いには夜中の博麗神社で鳥居にもたれながら……自分のやる気のなさに呆れてしまう。蓮子は気にする様子もなく、私の手を取りそっと持ち上げながら

「別にいいんだよ。長旅で疲れてたのかもね。すっごく気持ちよさそうな寝顔だったから。」

 と満面の笑みで笑いかけてくる。あのローカル線に乗っている時からずっと、この子は見てるこっちが不安になるくらい上機嫌だった。夕食の時もビール片手にのべつ幕なし喋くりながら、子供っぽい笑いを絶やさない。風呂から出てきた時もそうだったので、湯あたりしたのかと勘違いしたぐらいだ。
 今も立ち上がった私の周りを衛星みたいにくるくる踊りながら、あれこれ問いかけてくる。気分は沈むばかりだった。そんな蓮子に軽口を交えながら愛嬌一杯に返す自分への憎悪は、もう永遠に已むことはないんだろう。

「正確には2時15分38秒。」蓮子は空を見上げながら、得々と解説する。「2時半まではあと14分強ね。場所は本殿でいいのかしら?」
「ええ、正確には本殿裏ね。そこが特に不安定。」
「はいよ。座標上は敷地内の一番端だね。」

 口調そのまま、蓮子は弾むような足取りで裏手へと分け入っていく。その手に引かれながら、私も動かない足を懸命に前へと進めていく。こんな段になって、今さら怖気づいている自分に腹が立った。蓮子を巻き込んでおいて、ここまで連れて来ておいて、この足は向こうの世界へ行くことを拒むかのように重い。
 まだだるさのあった体にぬらりと炎が灯る。繋いでいた手をしっかりと握り直し、ずんずん進もうとする蓮子の前に出てその手を引っ張った。伝わる感触には一瞬驚愕があったが、すぐさま動揺は消えた。残っていたのは限りない信頼だけ。耐え切れず血が滲むほど唇をかむ。
 本殿裏は、やはり人を寄せ付けぬ空気に満ちていた。人ならざるものの臭い、失われた太古の闇、そんなものが充満していて、真夏とは思えぬひんやりとした風が首筋をするりと抜けていく。その全てが、精神の根源的な部分に語りかけてくる――来てはならぬ、と。
 もう一度、口元を締め直す。投げられる囁きに耳を塞ぐ。勇気を持て。夢の私のように強くあれ。愛する人の為に、すべてを捧げよ――そうだ、あれはやはり夢からの呼びかけだったのだ。この瞬間のため。どうしようもない臆病者を鼓舞するための、夢からの暗示だったのだ。ならば覚悟を決めるだけ。この先に、私たちの未来がある。

「1分切ったよ! メリー」

 待ちきれないといった感じで、蓮子が声を震わせる。この子も感じ取っているんだ。この尋常ならざる気配に。繋いだ手から高ぶりが伝わってくる。間違いない。この子は喜んでいる。これでよかったんだ。

「2時29分30秒!」

 ふいに、一抹の恐怖が腹の底から染み出してくる。それは罪悪感か。はたまた最後の良心か。どっちだろうと知ったことか。逃げるな。勇気を、あの時幽々子に想いを告げたのと同じ強さを、どうか現の私にも!

「50秒過ぎたよ!」

 寒風が頬を撫でる。吹き上がる冷気は、今が7月だという常識すら破壊する。恐れるな。こんな土壇場で感じる後悔なんてしょせん気の迷いだ。意気地なしの最後っ屁でしかない。俯くな。何も間違ってなんかない。

「5、4、3……」

 頭を引き裂く金属音。立っていられないほどの耳鳴り。臓を裏返されるような嘔吐感。眩暈。――間違ってなかった。道は、拓く。

「2時半だよメリー!!」

轟々と鳴り響いていた森も、割れんばかりに揺れていた地面も、全てが融けて一つになっていく。五感が捻じ曲がる。見開いたままの視界の先にあったのは、真夜中の虚空を切り裂く、本物の闇。

「メリー、これが……?」
「見えるのね……蓮子も見えるのね。」

繋いだ手だけがはっきりとした熱を保っていた。蓮子にも見えているんだ……行ける。

「そう、あれよ」声が震える。「あれが、結界の切れ目。こちらとあちらの境。でも、こんなはっきりとした断絶は、私も初めて見るわ。」

 その手をしっかり繋いだまま、一歩前に踏み出す。心なしか引く手が重く感じた。

「蓮子、行きましょう。」

 すがるように口から漏れた。後ろを振り向けない。早く答えを、お願い。

「うん」迷いない声で、蓮子は即答する。「行こう。メリー、手離さないでね。」
「任せて。必ず、必ず連れて行くわ。」

 嗤みが一杯に広がる。そう、確かにその瞬間、私は勝利を確信したのだ。



 5分も経たないうちに、私はすっかり焦っていた。

 闇夜を墨でさらに上から塗りつぶしたような空間の中を、蓮子とともに進む。足音も黒に呑まれ、響くことはない。茫洋たる宇宙に取り残されてしまったような疎外感、それが一歩一歩進むごとに大きくなっていく。ついさっき全身をたぎっていた決意はどこへ消えてしまったのだろう。蓮子の手を引きながら、私は隠しようもないうろたえに身を捩っていた。
 だってそうだろう。この漆黒の道の出口はいったい何処なんだ? 境界をくぐれば、すぐ向こう側の世界に辿り着くはずなのに。少なくとも今まではそうだった。なのになぜいつまで経ってもここから抜け出せない?
 怯えが、再び脳裏にもたげてくる。いま確実なものは、掌にある蓮子の感触だけしかない。なぜか引っ張っているこちらが前進を助けられている気分になった。
 すぐ後ろを歩く蓮子はすっかり興奮に中てられていた。初めて体験する異世界に、子供みたいな感じで矢継ぎ早に質問を繰り出してくる。「いつもこんなに暗いの?」とか「どれくらい歩くものなの?」とか「何か見える?」とか。
 そんなこと訊かれたってわかりやしない。私だってこんなことは初めてなんだ。
 だがそうは口が裂けても言えない。そう言ってしまった瞬間、この手の温もりが消え、私だけが闇に取り残されてしまう気がした。馬鹿げた考えなのはわかってる。でも、自信は朽ちていくばかり。そもそも本当に蓮子は後ろにいるのだろうか。今確かなのは繋いだ手のぬくもりと、投げられる言葉だけじゃないか。とうに気の触れている私の脳髄が、幻覚や幻聴に囚われているのに過ぎないのではないか? 闇に潜む妖が、蓮子に化けて私を玩んでいるに過ぎないのではないか? ……ああ、ダメだ。見たい。見なければ、確認しなければ。蓮子はいるのか、ちゃんと……
 ――馬鹿なことを考えるな。蓮子は消えたりしない。蓮子はエウリュディケじゃない。勇気を、あの決意を思い出せ。下らない恐怖なんかに喰い殺されたりされるんじゃない。夢のお告げを信じろ。このまま行けば、私達が望む世界に辿り着けるんだ。だから、信じろマエリベリー・ハーン。このまま、このままで……
 あらん限りの勇気を振り絞ったはずだった。宿願を掴もうと懸命に足を進めていたはずだった。私達の未来めがけ振り上げた視線の先に見つけたものは、闇ではなかった。

 体が、竦む。

 己の全存在を賭けて搾り出したはずの浅はかな決心は、その瞬間無惨に瓦解した。

「メリー、あれ……」

 震えている。肩でも膝でもない。もっと奥の方から、臓の底から戦慄が噴き上がってくる。それはいまだ味わったことのない真の畏怖。
 立っていたのは、一人の少女。闇の中だというのに、そのシルエットは蝋燭の灯火のようにぼぅと浮き上がる。わずかに俯いていた能面が、すっとこちらに向き直る。頬に差すわずかばかりの朱は、皮の下で燃えるどろりとした憤怒に照らし出された故か。深淵から差し込む鈍い光をまとった瞳が、静かにこちらへと据えられる。
 紫のドレス、赤のリボンで結わえられた金色の癖っ毛、長手袋、腰に差した扇子――そしてあの貌。誰よりも尊大で、どうしようもなく繊細で、そして可憐な少女の面差し。
 知らないわけがない。それは姿見に写っていた、夢の私そのもの。

「なん、で……?」
「……何故だ」

 低く、凍てつく声で、"八雲紫"は口を開く。失望感にまみれたその口調に、瞬間私は死を覚悟した。

「言ったはずだ。散々警告したはずだ……わかっていたはずだ。なぜだ、なぜお前は同じ事を繰り返す?」

 そしてようやく理解する。紫の声にあったのは憤激ではなかった。底知れぬ悲嘆だけだった。それこそが、あの夢にずっと棚引いていた響きだった。

 私は、いったいどうしてしまったんだろうか。

 今、心はこれ以上ないほどに澄み切っていた。恐怖に叩き潰され指一つ動かすこともかなわないのにもかかわらずだ。真っ先に浮かんだのは、ああ終わりなんだなという他人事みたいな感想。そして安堵の気持ち。これでようやくあの苦しみから解放されるのだという。
 すぅっと、あらゆる感情が、熱が溶けていく。闇は白く、紫以外の全てが五感から消える。涙さえ出ない。私は今穏やかな笑みを浮かべているんだろう。あれほどまでこの身を引き裂き続けていた逆向きの二つの力さえ、姿一つなく消滅していた。思わず笑いさえ漏れそうになるくらい、あっさりと……ああそうか、そうなんだ。ずっと私を苦しめていた"私"は、粉々になって死んだのだ。残っているのは細波一つない静寂と、真っ白な心だけ。落ちていく。どこまでも、無音の世界へ。ああ、私死ぬんだ……良かった。


――ふざけるな。それじゃ蓮子はどうなる?


「違います」

 心の中の反問とその声が聞こえたのは、まったく同時だった。目の前に立っていたのは、掌にしかなかったはずの蓮子。

「メリーじゃありません。私が、私が来たいと言ったんです。ここまで来たのは、私の意志です。この子は悪くないんです。」

 そして一度離れ離れになった手を、蓮子が掴む。震えが共鳴する。

「お願いします。ここを越えたいって言ったのは私なんです。ここを越えようとしたのは、私がメリーに無茶させたからなんです。」

 目の前に立つ夢の私は、明らかにたじろいでいた。蓮子の言葉に心臓を射抜かれたかのように、顔面からは見る見るうちに血の気が失せていく。痙攣した口元には、なんと言い返せばいいか思いつかない、そんな惑いが見えた。窒息せんばかりだった威圧感が薄れていく。蓮子の手の感触が、しっかりと伝わってくる。
 そうだ。まだ諦めるな。諦めるのは、くたばるのは、やらなきゃいけないことをやった後だ。

「メリー!」
「蓮子こっち!」

 ほぼ同時に私たちは叫んだ。結界の緩みをはっきりと捉える。あそこが出口だ。じゃなかったら死ぬしかない。手を繋いで、並んで、私と蓮子は駆けた。

「待てっ!」

 紫の声。我に返ったのか。追いかけっこじゃ勝てない。あいつがとんでもなく強いってことはなんとなく知ってる。だとしても、まだ死ぬわけにはいかない。絶対に、蓮子を死なせはしない!

「蓮子跳べ!」
「メリー!」

 怯んでる暇なんてない。蓮子を助けるんだ――そう思った時には、既に紫の手が私の手首を掴んでいた。ありえない力で捻り上げられる。宙へ振り上げられ、頭から血が抜けたみたいに視界が霞む。

「メリーを離せぇっ!」

 すぐ近くで蓮子の声が聞こえる。なにやってんのよ早く逃げなさい! 私なんかどうでもいいから、あんただけは――そう言いたかった。なのに声が出ない。

「やめろ! お前は違う。お前はこんなことに巻き込みたくないっ。お前は"あの子"みたいに――」
「離すかっ、メリーを返せっ、メリーから、手を離せぇっ!」

 紫に掴まれた手首を蓮子が上から掴む。その感触しかわからない。もう何も見えない。意識が、遠ざかる。

「なぜだっ! なぜお前はあんなことを、なぜお前だけは"私たち"と違う!?」
「違いなんかしない、メリーと一緒にいたいんだ。メリーと離れ離れになるなんて、絶対に嫌だ!!」

 何かが吹っ飛ぶ音。手首から蓮子の温もりが消える。もうなにもわからない。祈ることしかできない。感覚が、消えていく。

「メリィっ!!」最後に届いたのは、遠くからの声だった。「絶対助けに行くから! だから諦めんじゃないわよっ!!」




――ごめん、なさい……









『大丈夫、一本の蜘蛛の糸さえあれば 極楽の境界を見つけられる』
              ――東方妖々夢:十六夜咲夜









 ずいぶんと、長い夢を見ていた気がする。

 とても楽しくて、切なくて、哀しい夢だったと思う。眼を醒ますと満開の桜が迎えてくれた。柔らかな春風に乗って、命の薫りが体を包む。遠くから響く水のせせらぎ、鳥の歌。まるで桃源郷に迷い込んだかのようで。
 起こそうとした体はひどく気だるくて、なかなか言うことをきいてくれない。疲れて果て、そのまま寝てしまったのか、私は。
 でも、もう大丈夫。だって、術式は無事完成したのだから。初めて、本当の意味で魂を込めて何かを創り上げることができたんだから。幽々子をあの桜の呪いから救い出す術式。真に完璧なる結界。間違いない。これが答えなんだ。私がずっと求めていたものだったんだ。だから、早く幽々子のところに行って、あの子にお返しをしないと。
 そわそわと、今度こそ体を起こそうとした時、ふと気付く。さっきから身を横たえていたのこの場所が、幽々子の庵からほど近いところにあった荒野だということに。いやもうそこは寒々しかったあの荒野ではない。あらゆる生が謳歌し、春の陽光が燦燦と降り注いでいる。色とりどりの花と、東風に乗って運ばれる桜吹雪。押さえつけられていたものが爆発したかのような、極楽の園に様変わりしていた。
 すっと、手を握られる。弱々しい、ふつと消えてしまいそうな感触。膝枕をしていた藍だった。私が眼を醒ましたことに明らかな動揺を見せたこの式は、そのまま掛ける言葉を失ったように唇をかんだ。
 ――なんだろうか、この違和感は。胸のざわつきは。最高の答えを導き出したはずだ。本当の力を得たはずなんだ。心から自分を尊敬してくれた者のため、心から自分が尊敬できる者のため、私は強く在れることを知ったのだ。幽々子にようやく償いができるのだ。いったいどうして躊躇うことがあるのだろうか?
 何かに引っ張られるように顔を上げる。振り上げた視線の先に見つけたものは、朽ちかけた庵ではなかった。

 体が、竦む。

 胸いっぱいに広がっていたはずの幼稚な幸福は、その瞬間無惨に瓦解した。

 そこにあったのはこれ以上ないほど絢爛豪華に咲き誇る満開の桜――西行妖の成れの果てと、そしてその周りで踊り狂う西行寺家の術者ども。連中は西行妖の根元に何がしかを埋めながら、いかめしい呪文を喚きたてている。あれは……いったい何をしているんだ? あれじゃまるで――

「……自害、だったそうです」

 藍は何を言ってるんだ? そんなわけないじゃないか。初めて誰かのために"創った"あの解呪の式を、少しでも早く幽々子に見せてあげたくて、あの庵に駆けていって、そしてそこにいた幽々子に――

「ぅ、嘘だっ!!」

 脳髄が呻いた。おかしい、ちゃんと思い出せない。あの時私を迎えてくれた幽々子の顔が、幽々子の笑顔――

「嘘よ、嘘嘘、そんなの嘘に決まってる。ねぇ藍、嘘よね? そんなの嘘よね? 嘘でしょう? 嘘なんでしょう? 嘘嘘……嘘よ、嘘だと言ってよっ!!」

 思い出せない。幽々子が喜んでくれた姿を。さっきから出てくるのは、真っ赤に染まった庵の――

「嘘よっ、なんで、なんで死んじゃうのよぉ……なんでっ、なんで……幽々子……」

 いったいどれだけの間、私は喚き続けていたのだろうか。藍の胸の中で子供みたいに泣きじゃくりながら、延々と、壊れたようにあの子の名前を呼び続けていた気がする。そうすれば帰ってきてくれるんじゃないかと思って。また微笑みかけてくれるんじゃないかと、儚げに佇む姿が見られるんじゃないかと、何もかも見透かしたような眼で私をからかってくれるんじゃないかと願って。
 狂おしい、無益な時間だけが過ぎていった。ずっと私を抱き寄せながら、口を閉ざしていた藍がぼそりと告げた。

「紫様は、最善を尽くしたと……思います」

 それは言っている最中も、その言葉を口にしたことを絶えず後悔しているような言い方だった。藍の胸元をぐっと掴む。わかっている。この子はただ、私を慰めたかっただけだ。せめてなにか言葉を掛けねばと思っただけ。でも、そうだとしても藍の言葉は受け入れられなかった。いったいどこか最善だったのか。幽々子に恩を返すこともできず、約束も守れなかった役立たずの野良妖怪が、独り善がりで踊り狂っていただけなのに。
 全身の力が抜けていく。真っ白になった精神が、押し潰されて沈んでいく感覚。もういい、どうでもいい。何もかも終わりだ。無意味な妖怪が、ここで一匹惨めに朽ち果てるだけ、お似合いの最期だろう。もういい。もう、考えたくない……


――ふざけるな。それじゃ幽々子はどうなる?


 そう言ったのは果たして現の私だったのか。ぐっと、腹の底が燃え上がる。心臓を誰かに掴まれる。
 思い出せ、あの時"夢の私"は何をした? そうだ、なにもできなかった。いや、そんなもんじゃない。"夢の私"は自分の愚かさに絶望して、なにもかも諦めて、あろうことか蓮子の存在を一瞬忘れた。何よりも優先すべき、誰よりも大切だったあの子を守ろうとしなかった。あれだけ好き勝手なことをしておいて、偉そうなことを言っておいて、一番大事なところでなにも出来なかった。最低だ。なのにお前まで逃げるのか? お前も"夢の私"と同じだってのか? 自分がクズっぷりに絶望するだなんて、そんなの当たり前だろうが。そんなのどうだっていいだろう。今は考えなきゃいけないことがあるだろうが。クズだろうと何だろうとしなきゃいけないことがあるだろうが。なあ、それでいいのか!?

 心が、息を吹き返す。四肢に力が流れていく。

 思い出せ、私は誰だ? 八雲紫、ありとあらゆる境界を操る妖怪じゃないか。考えろ。まだ終わりじゃない。終わりになんかさせない。させてたまるか。

「……藍、頼みたいことがあるの」
「ゆか、り、様……」

 声に生気が宿る。きっと今私はものすごい形相をしているのだろう。一瞬たじろいだ藍の表情は、しかし次の瞬間には力がみなぎっていた。

「もう一度、あの術式を書き換えるわ。手伝ってほしい。材料は同じよ。全部逆にするだけだから。」
「紫様、まさか……」

 そうだ。封呪の術は西行妖の死と幽々子の生、その二つを峻別する式だ。だったらなにもかもひっくり返せばいい。生と死の境界を限りなく緩めるのだ。そうすれば、行けるじゃないか。"あそこ"へ。
 涙で頬を濡らしたまま、きっとこれまでで一番揺るぎのない表情で、私は言った。


「すぐ行くわ。幽々子」




―後編へ続く―

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