Coolier - 新生・東方創想話

うつほ【空】(中略)中がからであること・からっぽ(中略)

2011/10/02 02:13:03
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「なにか臭わないかな」
 開口一番、男はそう言った。
「君、君、ここはすごく臭わないかな」
 君とは誰のことなのか。
 霊烏路空は不機嫌に細めた視線だけを、男に返した。
 灼熱地獄は今日も問題らしい問題はなく、轟々と順調な重低音を上げて稼働している。見ているだけで焼け焦げてしまいそうなほどの火柱がせり立つその最中には、男と空以外の人影はひとつも見当たらない。
 ならば男が、君と指すのは空のことなのだろう。
 しかし、空はそんな馴れ馴れしい男の言葉にも、冷めた声で答えた。
「別に」
 緩慢な動きで、空は振り返る。
「臭くも、芳しくもないけれど」
「可笑しいな、こんなにすごく臭うのに」
 さも心外そうに顔をしかめて、男は続ける。
「さっき、あのさとり妖怪から聞いた。ここには彼女のペットが山ほど居るそうだ」
「その通りだけど、それが?」
「だから臭うんだよ」
 男の目に、侮蔑の光が灯る。
「獣臭くて堪らない」
 ぴくりと、空の眉間に剣呑な皺が寄る。
「耳が四つある気色の悪いあの娘といい、張りぼてのような黒い翼のある君といい、まるで獣だ。君たちの臭いが鼻をつんざいて、仕方がないんだよ。ああ嫌だ嫌だ」
 まくし立てるように、男は一気にそれだけを言い切った。
「本当に臭い」
「それは、馬鹿にしていると受け取ってもいいのかしら」
「ご自由に。私はただ感じたことを述べただけだよ」
 男は、枷によって繋がれた両手をひらひらと柳のように振った。
 おどけてみせたらしい。
「忌避なき意見を率直に、ね」
「なら、私も言う」
 空は視線を、男から歩く道へと逸らした。一歩一歩、親の敵でも踏み潰すかのようにゆっくりと歩く。
 その大きな翼で飛んで行かないのは、上司で飼い主でもある古明地さとりから、男の「連行」を命じられているからである。手枷と足枷を着けられ、ご丁寧にも重りである鉄球まで着けられている男を連れて飛ぶのは、さすがの空でも骨が折れる。
「あんたは臭い」
「臭くも芳しくもないと言ったのは、誰だったかな、君だったかな」
「気が変わった」
 空は、男には振り向かない。
 振り向きたくもないといった顔で、歩き続ける。
「けぶり臭いわ。それも、この灼熱地獄よりも淀んでいて、吐きそうになる」
「排気ガスのことかな。まあ仕方ないさ、君は文明の利器というそれはそれは高尚なものを、一度も味わったこともないのだからね。ひどく獣臭くて、これだけ時代錯誤な場所にいて、蛮族よろしく暮らしているのだから仕方がない。哀れにも思えてくるほどに、遅れた生活を送り続けているのだから仕方がない。ああ駄目だ」
 男は大袈裟に首を振り、眉を八の字へと傾ける。
「吐きそうだよ。そんなところに放り込まれた自分の境遇を、鑑みると」
「吐けばいいわ」
「私のような文明の申し子でも、さすがに吐瀉物は臭うよ」
「あなたの服で拭くから」
「ひどい待遇だ、なるほど蛮族だ」
「だって」
 これ見よがしに、空は男へとゆっくり振り返った。黒く大きな翼が、神話に伝えられる悪意を思い起こさせる。
 空の顔には、感情らしきものは微塵も浮かんではいない。
 しかしその目には、侮蔑の光がありありと浮かんでいる。先ほど、男が浮かべていた光とよく似ていることに、果たして空本人は気付いたのだろうか。
「あんたは罪人でしょう」
 びくりと、男がはっきりと身震いする。
 それまでどこか気の緩みが出ていた顔が、緊張したかのように硬く引き締まる。
「あんたが生きていられるのは、あと数日。その数日間で、あんたの身体を灼熱地獄にじっくりと慣らせて、用済みになったら死体にして燃やしてやる。外の世界から生きたままやって来る罪人なんて、そうお目にかかれることはないもの。じっくり慣らして、燃やしてやるわ」
 一息にそれだけを言い切り、空は踵を返す。颯爽と歩き始めた彼女の後ろを、男は一言も発さずに、重りを引きずりながらよたよたと付いて行った。
 しばらく、灼熱地獄の炎が燃える音だけが、轟々と二人を包む。
「それと、ひとつ教えてあげる」
 歩みを止めずに、空はぽそりと呟いた。
「この灼熱地獄、今は使われていないの。死者の裁きは勿論、暖房にだって使われない。だから、この辺り一帯のことを、外の奴らも私たちも、こう呼んでいるわ」
 わざとらしく、空は大きく息をつく。
「旧地獄って」
 その言葉の意味するところに考えが辿り着いていたのか、男は一言も口を挟まず、じっと黙っていた。
 空は言葉を止めない。
「つまり、あんたが死んでもなんにもならない。あんたが死んで、私の手で消し炭にもならないほどになってしまっても、この灼熱地獄は使われない。この意味、分かるかしら?」
 空の歩みが止まる。つられて立ち止まった男へと、空は再び振り返っていた。
 冷たい視線が、容赦なく男を貫く。
「あんたの死は無駄なのよ。あんたが死んでも、誰も得しないし損もしない。おまけに、灼熱地獄は燃えカスも残らないほどにあんたを焼き尽くす。あんたが居たという証拠も、文字通り跡形も無くなってしまう。外の世界の人間は、食料になることもあるらしいけど、あんたはそれにすらなれない。誰にも、そして何処にも影響なんて与えずに、あんたは居なくなってしまうのよ」
 鈍く照り輝く制御棒が、男に差し向けられる。
 灼熱地獄の最中で起こったその光景は、閻魔の裁判のように淡々としていた。
「精々、無駄に死ね。罪人」
 言いたかったことを、言い切ったからなのだろう。
 男から目を離した空の顔には、溜飲が下がったという内心がこれ見よがしに滲み出ていた。そのまま、男のことなど忘れてしまったかのように、すたすたと歩き始める。
「無駄か」
 男は、歩き出そうとはしなかった。
「無駄に死ぬのか」
 くつくつと、化鳥の鳴き声のようなものが空の耳朶を打つ。
「やっぱり」
 やがて、込み上げてくるものに堪え切れなくなったかのように、男は大きく笑い始めた。轟々と燃え立つ、灼熱地獄の重低音など覆い潰してしまうような、笑い声だった。
「無駄か」
 声は収まらない。
 男は、高々と大きな笑い声を上げながら、ゆったりと歩き始める。身体を何度もひくつかせ、足枷で自由の効かない足でよろよろと歩いて行く。
 灼熱地獄の最中に、男と空のほかに人影らしいものはひとつも見当たらない。
 笑い声に、息苦しそうな掠りが混じる。悲壮感さえ漂わせながら、それでも男は笑い続けている。
 なにがそんなに可笑しいのか。
 空は、もう振り返ろうとはしなかった。

 ◆◆◆

 さとりに、男を所定の場所へと移したことを報告して、空は地霊殿から飛び去った。
 目的地である灼熱地獄に身体ごと向き、一気に加速する。
 普段と変わらず、湿り気のような憂いを帯びたさとりの顔は、報告の際にも変わることはなかった。三つの瞳でこちらをじっと見据えながら、時折、思い出したように手短に問い返し、最後に淡々と用件を伝える。閻魔にも話は通してあると言ったさとりの様子は、物静かなものだった。
 そんな古明地さとりだからこそ、空は彼女のことを主人として気に入っている。
 多くを言わずとも察してくれるおかげで、あまり煩わしい思いをしなくて済むからだ。
 有り体に言うなら、尊敬などの言葉を使ったほうが正しいのだろうが、それではどこか仰々し過ぎる気がしている。気に入っている、くらいの気軽な言葉のほうが肩肘を張る必要もないからだった。
 だから、気に入っている。
 男を処分するまでの数日間、傍でその様子を観察するというあまり気の進まない仕事も、さとりからの頼みと思えば、やってやろうという気にはなった。
 さとりの命令だからだ。
 他意などない。
 灼熱地獄の火柱を何度か難なく突き抜けている内に、やがて開けた場所が見えてくる。久しく誰も使っていなかった掘っ建て小屋のすぐ傍に、件の男は居た。手頃な岩に腰掛けて、呆けたように灼熱地獄を眺めている。逃げ出しそうな様子は、微塵もなかった。
 翼をはためかせて、やや大仰に降り立つ。
 男は既に空の姿を見咎めていたのか、驚いた様子は見られなかった。枷の外された手を、軽く掲げている。挨拶のつもりらしかった。
「お早いお着きだ」
 空は、答えなかった。
「ここは暇だね。旧地獄とやらの景色も、見慣れてしまえば代わり映えのしない、つまらないものだ。おかげで、これまでを振り返るのには丁度良い。自分の中で自分を掘り起こして、その掘り起こした自分からごりごりとこそぎ取っていき、そうして削り節みたいになった自分をくちゃくちゃと咀嚼する。そんな気分だよ。おかげで、胸焼けが止まらない」
 男は、胸のあたりを撫でている。
 木の洞を思わせる、虚ろな仕草だった。
「なるほど、だから地獄か」
 男の身体は中肉中背と言うよりは、むしろ病的なほどに痩せている。あまり丈夫な身体ではないのだろう。もしかしたら、胸焼けという言葉も虚言などではなく、本心からなのかも知れない。
 もっとも、嘘にしろ本心にしろ、空にはどうでもよかったのだが。
「ここは確かに、地獄のようだ」
 まるで、解き明かした数式を披露するかのように嘯きながら、男は空を見た。
 それでも、空は一言も返さなかった。
 男の観察は、さとりからの仕事として請け負った。しかし、それ以上を行うつもりは、空にはない。元より、気の進まない仕事であるのだから尚更である。
 出来る限り関わらないようにしようと、空は決めていた。
 男は、しばらくは空へと目を向けていたが、やがて諦めたように視線を落とす。
 黙したまま、睨むような視線を投げかけてくる空に、居心地でも悪くなったのだろう。思案するように顎へと手を添えて、口元を撫でる。
 轟々と、灼熱地獄の稼働音だけが聞こえる。
「そうだな」
 一筋の光明でも、見えたかのような口振りだった。
 再び、男は空へと向き直る。
「君、君とばかり呼んでいては、今後に差し支えが出るだろう」
 かすかに、男の顔に笑みらしきものが浮かんだ。
「名前、教えてくれないかな」
 座りながら見上げてくるその笑みは、媚びるような卑屈さを漂わせ、それでいてどこか垢抜けてもいないあどけなさを感じさせる。
 空にとって、あまり好きではない類の笑みだった。
「霊烏路」
「れいうじ」
「そう、霊烏路」
 聞き返されたのが、無性に癇に障った。
「幽霊の霊に、カラスの烏、そして道路の路。それで、霊烏路よ」
「名前かな」
「いいえ、苗字」
「なるほど、ありがとう」
 変わった苗字だ。
 そう顔にありありと滲ませながら、それでも言葉には出さず、男はそれだけを言った。
 益々、癇に障った。
「よろしく、霊烏路さん。では、私は」
「必要ないわ」
 空は、男の言葉を遮る。
「あんたは罪人。それで充分でしょう」
 二の句を告げる間も与えず、それだけを言った。
 言葉の通りだ。
 男の名前など、聞かなくても差し支えはない。数日後には、灼熱地獄の塵芥となる身なのだ。知っていたとしても、なんの利益にもならない。
 加えて、空は獣臭いと言われたことを、密かに根に持っていた。
 再び、轟々とした音だけが鳴り響く。
「そうだな」
 こちらを見上げたまま、男が絞り出すように言った。
「私は罪人だ」
 視線を、空から灼熱地獄へと移す。
 無数の火柱は、ほぼ均等な高さを保ちながら揺らめいている。見慣れてしまえば、それは穏やかな湖面のようにも見えた。押し寄せもせず、引き退きもしない。一定の領分を保ったまま、ただ轟々と唸るだけだった。
「それで、充分だ」
 虚脱したように男が呟く。
 灼熱地獄の間の抜けた駆動音とよく似た、乾いた呟きだった。
 そこがまた、癇に障った。

 ◆◆◆

 空は密かに、男がなにか問題でも起こしてくれないかと願っていた。
 何の変哲もない人間が一人で起こす問題など、高が知れている。精々、脱走を試みるくらいが関の山だろう。それくらいならば一人で取り納められる自信が、空にはあった。
 だからこそ空は、男が何か行動を起こさないかと期待していた。
 監視などという生温い仕事と比べれば、そちらのほうが気が晴れるのではないかと感じていたからだ。それだけではなく、問題が起きたことをさとりに伝えれば、男を処分する日程が早まるかも知れない。場合によっては、空の一存で男を処分するのも出来ないことではない。
 もしそうなれば、こんな煩わしい仕事からも早々に解放される。
 空は、あの掘っ建て小屋へと様子を見に行くたびに、男の姿が消えていることを期待していた。
「こんにちは、霊烏路さん」
 しかし、そんな願いも虚しく、男はいつも力なく座っていた。
 猫背気味に岩へと腰掛けたその姿からは、逃げ出そうという企みなど微塵も感じられなかった。最初にここへ連れて来た時から、なんの変化も見られなかった。
 こういうのを模範囚と呼ぶらしい。
 昨日、報告を終えた際にさとりから聞かされた言葉だ。空の不満な内心など見透かしていたのだろうが、それでも彼女は普段と変わりない様相で、淡々と報告を聞いていた。
 男がここに来て、三日が経っている。
 事態は順調過ぎるほどに進んでいたが、そのことが逆に空を苛立たせていた。
「挨拶は、大事ですよ」
 絞り出したかのような声が空の耳に届く。言葉の内容とは裏腹に、咎めるような気概は一切なかった。
 無視して傍の岩に腰掛けると、男はその目を落胆したかのように細めながら、灼熱地獄へと向き直った。そんな、なにもかもを未練たらたらと何処かに遺してきたかのような仕草が、空の思考を逆撫でした。
 空は、男のことが好きになれなかった。
 最初に会った時の、毒舌を吐き出してきた時のほうがまだ接しやすかった。無力さに甘んじ、諦めという泉に肩まで浸っているかのような今の態度は、ひどく鼻についた。それでいて、時折垣間見せる卑屈さにも似た期待感が、また気に入らなかった。
 少し前の、まだ八咫烏の力を持ってなかった自分と、どこか似ている。
 そして、明らかに違っている。
 あまり認めたくはないことだが、そのことが関係しているのかも知れない。空はそんなことまで考えはじめていた。
 それほどまでに男を監視する時間は無意味に長く、なにより退屈だった。
「今日も、灼熱地獄は平和ですよ」
 男は視線を変えず、投げかけるようにそれだけを言う。その言葉に違わず、灼熱地獄は今日も均一の高さを保ちながら、轟々と大人しく燃えていた。もとより、常日頃から灼熱地獄を見回っている空にとって、そんなことは言われるまでもなかった。
 だから空は何も言わず、眉間の縦皺を、より一層深くしただけだった。
 それに対して、男は逡巡するかのように空へと視線をちらちら投げかける。そのまま束の間が経ってから、何事も無かったかのように溜め息で装いながら、俯いた。
 男は、積極的になにかを語ろうとする性格ではなかった。
 空が監視していることを若干気にしながら、それでいて口元をもごもごとさせて押し黙っている。時折、ようやく思い付いたかのように言葉を発することもあったが、それも二言、三言程度の取るに足らないものだった。
 そんな煮え切らない態度もまた、空を苛立たせた。
 言いたいことがありながら何も言わず、相手が気付くのを待ち望んでいるかのようにも思えてくる。これ見よがしに口を開け、やかましく囀るだけの雛鳥じゃあるまいし。
 気に入らない。
 嫌でも目に付く男の、悉くがひどく気に入らない
 いっそ、ここで処分してやろうか。
 剣呑な靄の漂ってきた空の思考に感応するかのように、折り畳まれている黒翼の端が、ちりちりと火の色に染まりはじめた。
 不穏な提案は今までに何度も思い浮かべていたが、そのたびに何とか踏み止まってきた。予定より男を早めに処分できるのは、それこそ男が脱走するなどの不測の事態に陥った時だけである。
 特に問題も起きていない現状では、空の一存で手を下すことはできない。そんなことをしてしまえば、閻魔との取り決めを一方的に破棄したことになり、主である古明地さとりの立場は益々悪くなってしまう。ただでさえ、旧地獄に坐す地霊殿と、そこで人目を忍んで暮らすさとり妖怪は、多くの者から忌み嫌われている。閻魔との約束を反故したとなれば、必要以上の非難や難癖をつけられることは、空にも容易に想像がついた。
 だからこそ、空はこれまで何度も耐えてきた。倦怠感にも似た苛立ちをふつふつと抱え込みながら、それでもどっかりと腰を据えてきた。
 だが残念なことに、空は元々、我慢強い性格ではない。
 仮に「石の上にも三年」という言葉を試みたならば、長く見積もっても三日ほどでその石を溶解してしまうだろう。それほどまでに落ち着きが無いのが、霊烏路空だった。
 奇しくも、空が男を観察しはじめて今日で三日目である。
 抑えが効かなくなってきたかのように、翼の端をかすかに染めている火の色がじわじわと強くなり、空の黒い瞳に鮮やかに映える。
 なおも灼熱地獄を見据えている男に向けて、空は身構えるように居住まいを直した。
 我慢は、良くない。
 御し切れなくなりかけている自分自身へと言い訳しながら、空はうっすらとほくそ笑んだ。鈍く照り輝く制御棒の切っ先を、やや仰々しい素振りで男の背中に向ける。
 今際の顔でも見てやるか。
 唐突に、空の脳裏に残酷な提案が思い浮かんだ。呼びかけ、振り返った瞬間の、消し炭にされる直前の男の顔。それは果たして、恐怖や絶望に覆われたものなのだろうか。それとも、そんな束の間すら感じる暇もなく、事情の飲み込めていない呆けたものだろうか。或いは、空が咄嗟に思いつかないような、予想外の反応を見せてくれるかも知れない。ねっとりと、彼女にはあまり似つかわしくないであろう絡みつくような笑みが、空の顔に広がる。
 普段なら試みるはずもないこの提案も、忌々しい責務から解放される高揚感に胸を高鳴らせている空にとっては、ひどく甘美なものに思えた。加えて、空はただの地獄鴉とは言え、やはり一端の妖怪である。人間の恐怖心は、ただそれだけで心躍らされるものがあった。
 男に向けた制御棒には、既に充分なエネルギーが蓄えられている。
 一片の罪悪感も浮かばせないまま、空は男に今生の別れとなるはずの言葉をかけた。
「ねえ」
「あの」
 歓喜に歪んでいたその顔が、見事に鼻白んだ。
 男に言葉を被せられたことで、空は瞬く間に気勢を削がれてしまった。思わず、わずかばかり仰け反ってしまった背筋を、よたよたと悶えるように直す。はち切れんばかりにエネルギーを蓄えていた制御棒も、冷水でも浴びせられたかのように力を失くしていった。
「その、あの時のこと、ですが」
 石の上に腰掛けたまま、男は身体ごと振り返った。
 どうやら、つい先ほどまでその身に命の危険が迫っていたことには気付いていないらしい。遠慮がちに目を伏せながら、次に紡ぐ言葉を捜しているかのように下唇を噛んでいる。その背がひどく猫背気味なことが、男から滲み出る卑屈さをより一層引き立てていた。
 自分は、おもねるということがとことん嫌いらしいと、空はなるたけ冷静にそれだけを思った。
「霊烏路さんと会った、あの時のことです」
「……あんたをここに連れてきた時のこと?」
「ええ、そうです」
 もごもごと言いよどみながら、それでも男は口を止めなかった。
「あの時は、すみませんでした」
「……え?」
「すみませんでした」
 言うが早いか、男はいきなり立ち上がって頭を下げた。
 座っていた際の猫背が嘘だったかのように背筋をぴんと伸ばした、綺麗な直角のお辞儀だった。
「獣臭いと言って、すみませんでした」
 やや早口にそれだけを言った後も、男は頭を下げていた。予想だにしなかった謝罪の言葉に、すっかり二の句も失ってしまった空にも、気付いていないようである。しばし、二人の間から言葉が消え、轟々とした灼熱地獄の吐息しか聞こえなくなる。
 なんなんだ、こいつは。
 黒い瞳を可愛らしく真ん丸に開けていた空だったが、やがてその心が落ち着きを取り戻すとともに、やり場のないもどかしさが湧き出てきた。どういう表情を浮かべていいか分からず、憎々しげに歪めてみせた口の端にも、どうにも覇気が篭もらない。
 あまりにも唐突だった。
 考えてみれば、この三日間の男の大人しさは、初日の暴言に対する後ろめたさによるものだったのかも知れない。謝罪の言葉を言うに言えず、後々までずるずると引きずってしまう悪癖は、空にはあまり実感のないものではあったが、それでも一応の理解はできた。実際、獣臭いという男の言葉は空の自尊心をひどく傷付け、密かに根に持っていた。それをこうして謝罪したのならば、その意図を理解して水に流すなり何なりするのが、至極真っ当な行動なのだろう。
「あー、そう」
 しかし空は、そんな考えにはどうにも至らなかった。
 正しくは、思い至ってはいたが実行に移しづらい、といったところだった。
「獣臭いって言ったこと、覚えていたんだ。そーなんだ、へ〜」
 それだけしか言えず、避けるように男から視線を逸らす。
 泳いでしまった目線の先では、どこまでも平坦なままの灼熱地獄だけが見えた。堪らず、後ろ髪をわしゃわしゃと撫でる。あまり梳いてはいない黒髪は、元来の癖っけも相まって炎のように波打っていた。
 男はなおも頭を下げている。
 つられて空も押し黙り、口の中に粘ついた唾の味が広がる。
 今や、先ほどまで空の脳裏に渦巻いていた剣呑な思考は、すっかり失せてしまっていた。払拭し難い居心地の悪さが、彼女の内心をぱっくりと呑み込んでいた。それは、空自身が嫌というほどに自覚できてしまうくらい、彼女らしからぬ思考だった。
 思わず、舌打ちする。
 空にとっては白旗も同然だった。
「分かったわよ」
 苦虫を噛み潰し、さらには何度も咀嚼してしまったかのような声だった。
「それくらい、大目に見てやる」
 おずおずと男が面を上げる。慮るようなその顔は、やはり空の癇には障ったのだが、それでも真正面から睨むことくらいはできた。仏頂面でこれでもかと眉間に皺を寄せながら、大袈裟に鼻息をつく。
 ちょっと鼻水が飛び出そうになったのは内緒である。
「けれども、次はない。もし、また言ったなら」
 岩の上にあぐらを掻き、ついでに腕も組む。
 これ見よがしに制御棒を見せつけると、男が若干たじろいだ。それが少しだけ空の自尊心を満たしたが、同時にそれもまた、どこか空しいものに思えてしまった。
「即効で、消し炭にしてやる」
 なるべく太く、沈むような声で言い放つ。
 仏頂面は微塵も崩さず、今度こそ視線が泳いでしまわぬよう両目を据えて、男を睨み続ける。
 正直、険しい顔はただそれだけで疲れたのだが、胸の奥から沸いてくる煙のような燻りが、空にそれを強要させていた。半ば無理矢理に唇を引き結んでいるので、下顎にじわじわとした重みを感じる。堪らず、開けてしまいそうになる口を辛抱強く閉ざしながら、空は男の反応を待った。
 自分はなんで、こんなにも不機嫌なのだろう。
 胸中で悶々と燻るものが、怒りの雛形のようなものだということを空は理解していた。煙のようにもやもやと沸き立ち、それによって自分がこうして不機嫌な顔をしていることも分かっている。
 だが、その原因が分からなかった。
 確かに、男の態度は色々と気に食わない。唐突に暴言を吐いたかと思えば、三日後には唐突に謝罪の言葉を吐いてくる。その、ころころと変わる様にも打算や浅ましさが感じられて、空の堪忍袋を強かに刺激してきた。おもねり、媚びへつらうような数々の挙動も、気に入らなかった。
 しかし、ここまで不機嫌になる必要も無いはずである。
 居心地の悪さもない交ぜとなった今の状況は、空にはとことん似つかわしくないものだった。何故、少々の辛抱をしてまで仏頂面を維持しなければならないのか。自分は、怒る時にはそれこそ火山噴火か、はたまた超新星爆発のように大きく弾けるものではなかったのか。
 喜びたい時に喜び、勇みたい時に勇む。
 それが、自他共に認める霊烏路空のはずだ。
 だと言うのに、今は不発弾のようにぶすぶすと燻っているだけである。思わぬところで男に声をかけられ、タイミングを逸しただけで、ここまで押し込められている。いささか窮屈な気さえしてくる。
 そのことが、またさらに空の心を逆撫でしていた。
「分かりました」
 男の言葉はそれだけだった。
 なにが分かったのだ。
 どれだけを理解したと言うのか。
 叫びそうになるのを、空は寸でのところで飲み下した。粘ついた唾の苦味だけが広がる。
「……霊烏路さん」
 男の口元がわずかに緩み、弧を形作る。
 まるで周囲に遠慮しているかのように、さり気なく、男は笑った。
「ありがとうございます」
 男の口から出たのは、その表情と同じくらいにさり気ない、感謝の言葉だった。
 そう言って、男は満足げに何度か小刻みに頷いてから、身体ごと灼熱地獄へと振り返った。猫背で曲がっている背を空に向け、もう何かを言うこともなかった。
 再び、言い様のない時間だけが流れる。轟々とした稼動音だけが耳に届く。
 なんなんだ、こいつは。
 ようやく、それだけを頭ではなく心で叫びながら、空は制御棒に額を当てた。もたれ掛かった、と言った方が正しいかも知れない。こつん、と硬いもの同士が触れ合う音が聞こえたが、今の空にはなんの慰みにもならなかった。
 むかむかと胸の奥を占めるのは、悔しさにも似た苛立ちである。
 男の訳の分からない言動に、すっかり振り回されてしまったかのような思いを、抱いていた。主を含め、アクの強い面々には何人も会っているが、そいつらとはまた違ったベクトルを持つ男に、空は眩暈さえ感じていた。
 瞑っていた目を開け、前を睨む。
 こいつは、これからどんな行動を取るのか。
 こいつは、次になんと言ってくるのか。
 好奇心ではなく警戒心によって、空は目まぐるしく思索しはじめていた。黒い瞳は、灼熱地獄を見つめる男の背に注がれており、少しも逸れることはない。
 その自分の瞳が、困惑で大きく揺れていることに。
 空は少しも気付かなかった。

 ◆◆◆

 その日その時以来、男は一気に饒舌になった。
 事ある毎に何度も空へと話しかけてきては、やがて一頻り満足げに頷いて押し黙り、また少し経って喋りはじめる。そんなことの繰り返しが、一日に何度も続いた。
 話の内容は、灼熱地獄の様子だったり掘っ立て小屋の具合だったりもしたが、一番多かったのは空に関することだった。
 旧地獄での仕事とはどんなものなのか、ここで働きはじめて長いのか、地獄鴉とはどんな種族なのか等々、問い掛けは多岐に渡った。
 そうやって男が聞いてくることに対し、空が渋々淡々と答える。そんなことが何度も続いた。
 時折、若干の鬱陶しさも感じたが、それでも最初のように押し黙られているよりは幾分か楽だったので、空は男を黙らせるような真似はしなかった。無論、男に対する苛立ちなどが変わることはなかったのだが。
 しかし何度か言葉を交わすうちに、奇妙なことに気付いた。
 男は、自分のことを一切語らなかった。
 今日の朝食は好物が出ていて嬉しかった、などの簡単なことであれば話してきたが、そこから掘り下げて話すような素振りは微塵も見せなかった。
 家族のこと、友人のこと、仕事のこと。
 空に問い質し、興味深そうに相槌を打ちながら耳を傾けていることを、男はひとつも語らなかった。
 別に、男のことが気になる訳ではない。
 ここに来て既に六日が経っており、明くる日の正午には消し炭となる予定の男に、興味など抱くはずもなかった。
 しかし奇妙に感じたのは事実だ。
 死期が手に取るほどに近付いているというのに、自らの半生を語ろうともしないのは珍しい。仕事柄、そして知人関係もあって、空は人間の死に様を看取ることに慣れている。
 死に直面し、そして覚悟した人間は、誰彼問わず自らを語り出すのが常だった。たぶん、死ぬという未曾有の出来事に対して、自分自身が変化、或いは消失してしまうのを恐れてのことなのだろう。そういった恐れは空も、何とはなしにではあるが理解できた。
 誰にだって、自分は大事である。
 だからこそ、男が自分を語りださないことが分からなかった。
 正直、薄気味悪ささえ感じた。
 男の処分が取り消しになったのではないかとも考えたが、第一そうであれば男の耳に届くよりも早く、監視者である空に連絡がつくはずである。事実、そのような通達はさとりからも聞いてはいない。ならばと男が逃走でも企てているのかと勘繰ったが、相変わらず逃げ出すような気配すら見せずにいる。こんな様子で、内心では良からぬことを企てているというのなら、諸手を挙げてやっても良いくらいだった。
 死への恐怖を器用に丸め込めるのは、人間のみならず妖怪でも少ない。
 しかし男からは、そんな器用さすら試みていないかのような、浮遊感に似たものだけがあった。
 所在無く、蒲公英の綿毛の如く、風に浚われて漂い続ける。どこまでも諦めて、すべてを風に任せてしまっているかのようなものだけが、男から滲み出ていた。
 堪らず、嫌悪感が鼻に出て、皺が寄る。
 投げ掛けられる問いに逐一返す空だったが、男を見つめる視線は冷たい。
 もしかしたら、男が自分を語り出そうとしないのも、結局は自分に自信が無いからかも知れない。大地にしっかりと根付けられるような自信もなく、だからこそ不安な浮遊感しか残らない。文字通り、臆病風に吹かれて踏み止まれず、自分を語れず、死が目前まで迫っているのに変わることはない。死んだ後「ああ話せば良かった」と後悔したのでは遅いのだと、頭では分かっている。その言葉を心に刻み込みながら、けれども喉元まで出掛かったところで、おもねるようにひたりと止めてしまう。場を乱さず、波紋すら波立たせず、諦めという泉にどっぷりと肩まで浸かって……
「どうかしましたか」
「別に、なんでもない」
 どうやら、埋没し掛けた思考が顔に出てしまったらしい。
 訝しげな男の言葉に、空は無愛想な答えだけを返す。
 思ったよりも男の内心を推し量るのは容易かったが、空にとっては決して好ましいものだとは言えなかった。想像の域に過ぎなかったが、概ねこんなところだろう。最初の頃の、煮え切らない愚図愚図した態度を見ていたので、確信はあった。
 やはり、気に入らない。
 自信を抱けず、不安ばかりに胸中を支配されても、ただ気持ち悪いだけだと言うのに。
 わずかばかり俯くと、鈍く光る制御棒が目に入った。
 思えば、こうして八咫烏の力を得るまでは、本当の意味での自信など持てなかった。まさしく神の気紛れによって、空の身体には核融合を操るという規格外な能力が宿った。今では、そんな神々の力にも決して劣ってはいないと自負している。分不相応とも揶揄されるこの力によって、空は確固たる自信を得ていた。
 勿論、それまでの生活に不満など無かった。
 その証拠に、今でも地霊殿の一員として旧地獄の管理を行っている。さとりやお燐との関係も、あの異変の後でも概ね上手くいっている。
 しかし、あの頃に戻りたいかと言われると、絶対に首を横に振るだろう。
 時折、漠然とした無力感を感じていた昔には、もう戻りたくはなかった。与えられたものとは言え、今の空にとって大きな自信でもあるこの力を、今さら手放す気にはなれなかった。
 でなければ、自信など瞬く間に消え失せて、不安だけが残ってしまう。
 先ほど想像した男の内心と、ほぼ同じものに移り変わってしまう。
 それだけは絶対に嫌だった。
「……あんたに、ひとつ質問」
 だから、空は問いかけていた。
 自分でも驚くほど自然に、有り体に言うなら無意識のうちに、男へと声をかけていた。
「なんですか」
「私の力のこと、話したよね」
「八咫烏様の力でしたっけ」
「神様から貰ったことも、話した?」
「うろ覚えですが、確かに聞きました」
 男には、既に空の知る範囲での幻想郷については話してある。
 妖怪の山に、外の世界の神様が遷り住んだことも、話していた。
「それが、どうかしましたか」
「……あんたなら、どうする?」
「なにをです」
「もし、神様が力を与えてくれると言ったら」
 男の目が、かすかに揺れた。
「それも生半可な力じゃなく、膨大なエネルギーを操れるほどの力だったら。それまで、周りの顔色や反応を気にしながら小さなグループでの一番を狙って頑張っていたのに、それらすべてがどうでも良くなるほどの力だったら。今、こうして監視している私や、閉じ込めている旧地獄も難なく打ち破って、自由に悠々と脱出できるほどの力だったら。あんたが言っていた、文明の利器蠢く外の世界へと、苦も無く帰れるような力だったら。間違いなく、今の今まで自信を持てなかった自分が、溢れ出るほどの自信を抱けるような力だったら」
 まるで、舌が勝手に動いているかのような滑らかさで、空は語り続けた。
 自分が思い描き、喋りたいと感じた事柄と、まったく遜色のない言葉が躍り出てくる。捲くし立てるほどに激しくはなく、子守唄ほどに静かでもない調子で、空は続けた。
「そんな力を、ふらりと外から現れた神様が、与えてくれると言ったなら」
 ひとつ、鼻息大きく呼吸を溜めた。
「あんたなら、どうする?」
「外の人に与えろと言います。僕なんかより、ずっと世の中に役立たせるであろう人に与えろと、言います」
 返ってきたのは硬い声だった。
 即答した男の顔には、沈むような苛立ちが浮き出ていた。
「確か、その神様は外の世界から来たって言っていましたよね。外の世界で信仰心を得ることが難しくなったから、この幻想郷で妖怪の信仰を得ることにしたと。馬鹿馬鹿しい、初詣の神社を見たことがないのですがその神様は。あれだけの人が正月の糞寒い時期にわざわざ神社へ行っているのに、それでも足りないと言うんですか。日本の神様は人間っぽいとも聞きましたが、それじゃあただの業突く張りじゃないですか。親しみどころじゃないですね、意地汚い」
 淡々と、書面を述べているかのような声色に、じわじわと棘が滲み出てくる。
 喋っている内に、感情の抑えが効かなくなっているのだろう。男のそんな様子を見るのは初めてだったので、空はかすかな驚きを覚えた。
「大体、霊烏路さんのような力を与えられるのなら、なんでそれを外に居る時に使わないんですか。なんで誰かに与えないんですか。それで信仰が弱まっただなんて、よくもまあいけしゃあしゃあと言えたもんです。努力不足、職務怠慢じゃないですか。それ以前に、外の世界で人間の信仰心が少なくなったっていうのが気に食いません。毎日、神社にお参りする人とか居るじゃないですか。暑くて日差しが強いのに、わざわざ神社の前では帽子を脱いでお辞儀する人とか。寒いのに羽織っているものを脱いでお辞儀する人とか。何様なんですか、神様だから居なくなっても許してねとでも言うんですか。一年中神無月だなんて、それこそ人を馬鹿にしてるじゃないですか。さっき言ったような、丁寧にお参りしている人に対して、なんとも思わないんですか。あの人たちは神様に向かってお参りしているのに、そこにはもう神様居ませんよだなんて、詐欺ですか! 騙しているじゃないですか!」
 男は激昂していた。
 誰でもなく、ただの地面の一点を睨み付けながら、声を荒げていた。
「上っ面だけで良い顔しておいて、それで良いんですか! 神社はあるけど神様は居ない、それでも良いんですか! そうやって騙して、お賽銭とかお払い料とか、高い金を払わせ続けるんですか! と言うか、神社の神主だって騙されているじゃないですか! お参りする人は、神様この願いを聞いて下さいお願いしますってお金を払って! 神社の神主は、この人達の願いが届きますようにって神様に祈って! でも神様はそこにいない! それだけの人を騙して! どれだけ騙す気ですか! そうやって、神様が居ない神社にお参りさせておいて! どれだけの時間、人を騙すつもりで――!」
 そこまでを怒鳴るように吐き出していた男の口が、不意に止まった。
 空の食い入るような視線に、ようやく気が付いたようである。
「……えっと、すみません」
 やがて、小さくなったようにも見える男は、搾り出すようにそれだけを言った。
「すみません。途中で話が脱線してしまった上に、怒鳴るような真似までして。本当に、申し訳ありません」
「まあ別にいいわ。一応、答えは聞けたし」
「神社には、よく行ったんです。旅行が好きで、その先々で神社に行くこともあって」
 聞いてもいないのに、男は自分のことを話しはじめていた。
 突然のことで多少面食らったが、空は黙って耳を傾けることにした。
「そうしたら、色々な人とも出会ったんです。勿論、僕のような観光客が多かったんですが、中には地元の人達も居まして。その人達から神社の話を聞きました。ここの神社はお払い料が結構安いだとか、あそこの神主さんは呑んべぇだとか、わしは毎日このお宮さんにお参りしとるんだとか。そんな風に、神社に対して町内の集会所のような親しみを抱いている人達を、僕はこの目で何度も見てきました」
 懐かしそうに目を細め、男は続ける。
「そんな人達が居るのに信仰心が足りないって言われるのが、信じられないというか、悔しいというか、納得のいかないところがありまして。確かに、昔と比べれば神社にお参りする人は少なくなっているんでしょうけど……なんと言えばいいんでしょう。神社に神様が居ないだなんて。神社はあるのに、居るはずの神様がどこにもいない。表では装っていても、裏ではまったく別のことが起こっているなんて」
 鼻腔を息の抜ける音がする。
 注意深く観察して、ようやくそうだと気付くほどにさり気なく、男は笑っていた。
「寂しいですね。神社に集まる人達が、気付いてしまった時の哀しさや、気付かずに過ごしている虚しさを、想像すると」
 枯れた雑草を思わせる、薄い笑みだった。
「とても辛くて、寂しい」
 そう言って、男は面を上げた。弱々しい視線が、空の赤い視線とぶつかり合う。
 ようやく真正面から向き合った。
 なんとはなしに、空はそう思った。
「霊烏路さん」
「なに?」
「話をしても構いませんか?」
 居住まいを直し、岩へと深く腰掛けながら、男は言った。
「かなり、長い話です」
「内容は?」
「僕……俺のことです」
 脚を組み、頬杖をつく。
「聞いてやるわ」
 思った以上に優しい声が、出てしまった。
「暇潰しに」
「ありがとうございます」
 いちいち馬鹿丁寧に、男は頭を下げた。
 どうやら、本音の底から慮るというのが好きな人間のようである。空は鼻だけで苦笑し、そうやって反応している自分にわずかばかりの戸惑いを抱いた。
「……俺は、どうしようもない人間です」
 間を置いて紡がれはじめた男の声は、硬く沈んでいた。
「最初にここに来た時、霊烏路さんには罪人と呼ばれました。この幻想郷に迷い込んで、閻魔様のところへ連れて行かれた時にも、罪人と呼ばれました。それも、かなり性質の悪い罪人だと、言われました」
 また、懐かしそうに男は目を細めている。
 先ほどと違うのは、その声が郷愁で和らいでいるのではなく、懊悩で暗くなっていることだった。
「俺は人を殺しました」
 決して人など殺せないような軟弱な視線が、空へと向けられる。
「その罪を自覚していないと、閻魔様から言われました」
 男の顔には、達観と悔恨とをない交ぜにした、曖昧な表情が浮かんでいる。空にとって、あまり好きではない類の感情が、これでもかと湛えられている。
 しかし不思議と、苛立ちは感じなかった。
 灼熱地獄の稼動音だけが、轟々と男の語りを彩る。

 ◆◆◆

 いきなりですが、霊烏路さん。
 親友と呼べる人、いや妖怪かな。そんな妖怪さんが居ますよね。
 ……良い奴ですか、素晴らしい限りです。
 お燐さんという親友が霊烏路さんにも居るように、俺にも親友が居ました。
 そいつとは数年前に知り合いました。
 性格や趣味はかなり違っていたのですが、所々で妙に馬が合うところもありましてね。そいつから誘われて飲みに行ったり、そいつの部屋でだらだらとテレビを見たりしていました。
 ……テレビとは何か、ですか?
 ここでは説明しづらいですね。霊烏路さんの言っていた、人間の住む里でなら、もしかしたら分かる人も居るかもしれません。興味があったら誰かに尋ねてみてください。
 すみません、説明できなくて。
 俺には、あまり時間がありませんので。
 話を戻します。
 大体、一ヶ月ほど前でしょうか。そいつに誘われて、飯を食べに行ったんです。
 会って、普通に挨拶をして。
 それから、いつもと同じ定食を注文して。
 会計が終わって、店を出た時でしたね。そいつが煙草を吸いながら、無言で俺を手招きしたんです。
 なんだろう。
 そう思って俺は近付きました。
 ――まだ分からないのか。
 開口一番、そいつは言いました。
 予想だにしなかった言葉に、戸惑いました。戸惑いながら、取り繕うような笑みを浮かべて、そいつに歩み寄ろうとしました。
 煙草の火が、目の前にありました。
 思わず仰け反って足を止めると、そいつは声に出さずに笑いました。
 今でも、その時のそいつの顔はよく覚えています。
 自分の心が、さあっと冷たくなって、ずっしりと重みを感じたことも、よく覚えています。世界のすべて、俺が感じていたものすべてが、全部ぼやけて遠退いてしまったかのような感覚でした。
 ――この数年間、俺がどれだけ我慢したのか分かっているのか。
 そいつは、俺をこれでもかと睨み付けていました。
 忌避すべきもの、そうですね、例えるならば汚物でしょうか。そいつは、まるで汚物でも見るかのような冷めた目で、俺を睨んできました。
 ――俺は、最初に会った時からお前が嫌いだった。
 そこからは罵詈雑言の嵐です。
 そいつは時折、怒声さえも撒き散らしながら、俺を罵りました。どれほど俺のことが嫌いだったのか、俺という人間がどれだけ人として最低の屑なのかを、何度も何度も声高に述べてきました。
 俺は何も言えませんでした。
 黙っていることしか、できませんでした。
 俺は常日頃から、他人の顔を気にして生きていました。自分でも病的だと思うくらい、誰かに嫌われること、変だと勘繰られることを恐れてきました。小さい頃、今では顔も思い出せない誰かに「君は変だね」と言われてから、まるで誰かに監視されているかのような感覚に襲われてきました。誰かと会話している時も「この人、本当は俺のことを嫌っているのではないか、俺のことを変だと思っているのではないか」という考えが、頭から離れませんでした。振り払いたくても、振り払えなかった。
 だから何事にも、極力波風を立たせないようにと心掛けました。
 人との接触は最低限、社交的な面でなら問題ない程度を念頭に、ずっと生きてきました。相手を不快にさせないように、妙だと訝しがられないように、いつも注意していました。
 ただ、親友ならば。
 親友と思えるような、そいつとなら。
 さっきも言ったとおり、俺は誰かと接するのが苦手です。親友と呼べるような間柄は、片手で数えられるくらいしか居ません。だからこそとは言いませんが、やはり少ない分、掛け替えの無いものだと思っていました。
 そんな片手の指の大切な一人から、お前は嫌いだと言われました。
 黙っていることしか、できなかった。
 ――死ね。お前なんか、さっさと死んでしまえ。
 吐き捨てるような言葉でした。
 ――殺されないだけ、マシと思え。
 心の底から、俺のことが嫌いだったのでしょう。むしろ憎かったのかも知れない。
 最後に俺の足元へと煙草を投げ捨てて、そいつは去っていきました。
 本当は、他にも色々と言われたんですけどね。正直、思い出したくないんです。そいつの顔や、口調や、煙草の銘柄まで思い出してしまいますので。
 俺は、よたよたと帰りました。
 その日から、しばらく外にも出ませんでした。
 元々、人間関係の狭い身です。特に誰かと連絡を取ることもなく、部屋で横になり続けました。時折、電話などもあったのですか、出ることはありませんでした。出ようとすらしなかった、と言ったほうが正しいでしょう。
 横になりながら鬱ぎ込み、なにより怯えていました。
 ――殺されないだけ、マシと思え。
 あの言葉に苛まれました。
 不意に、そいつがドアを開けて、俺を殺しに来るのではないか。
 殺されないだけマシ、その言葉だけで、俺を殺そうとする動機は充分なのではないか。
 そんな突拍子もない妄想に囚われました。
 施錠して、誰が来ても応対することなどなく、ドアチャイムを鳴らされたら声を押し殺して。そいつがやって来ることに怯えて、部屋に閉じこもっていました。
 ……何故、部屋を出なかったのか、ですか。
 悲しいことに、そいつとは住んでいる場所が近かったんです。
 外で偶然、ばったりと出会ってしまうことにも、俺は怯えていました。
 独りで居ると、碌なことを考えません。
 幾つも幾つも思考はループして、結局はそいつの言葉を真に受けてしまいました。
 俺は本当に、どうしようもない人間なのではないか。最早、矯正など不可能なほどの屑なのではないか。生きている価値など少しも無く、それこそ居なくなってしまったほうが良いような、そんな類の人間なのではないか。
 死のう。
 そう思いました。
 殺すという言葉に苛まれているのに、自ら命を絶とうという結論に行き着いたんです。
 ……仰るとおりです。
 呆れるほどの、浅はかさですね。
 ですが、あの時の俺は本気で考えていました。
 真っ先に包丁を探しました。首を括る、水に浸るなども考えましたが、窒息での息苦しさを思うと、とても実行できそうにはありませんでした。どこまでも臆病な、卑しい身です。楽な死など、たぶん、あるはずもないのに。
 既に持っていた包丁は、あまり上等な代物ではありませんでした。
 どうせなら綺麗にすっぱりと、逝きたい。
 よたよたと外に出ました。
 幸か不幸か、よく切れるのが売り文句の大振りな包丁は、すぐに見つかりました。会計をしてくれた店員の女性に、小さく「ありがとうございます」と言いました。久方ぶりに誰かに声をかけたので、とても掠れて聞き取りにくいものでしたが、それでも女性は明るく返してくれました。どうかこの人には、どうでもいい俺の死など伝わりませんようにと、心の底から願ったのを覚えています。
 店を出て、すぐに包みを解きました。
 ただ、身体を刺すとなると、かなりの出血が考えられます。後々で処理する人達に、迷惑は掛けたくありませんでした。それに、店先で自殺などしてしまっては、その店にとっては死活問題ともなるでしょう。やっぱり、他人に迷惑は掛けたくないと考えました。
 だから、死ぬ場所を探しました。
 どうせなら、散らばった血飛沫も染み込んでしまうような、土の上が良かった。
 あてもなく歩きました。
 不思議と疲れを感じることはありませんでした。
 どれくらい歩いたでしょうか。
 そこで、そいつに出会ったんです。
 道の先から歩いてくる人影に、もしやと思いました。見間違いだろうと願い、服の中に包丁を隠しながら歩きました。間違いないと、諦めにも似た確信を抱いたのは、そいつと擦れ違う何歩か手前でした。
 そいつの顔は、見ませんでした。見たくもありませんでした。
 俯くように視線を下にして歩きました。
 けれども、擦れ違うその直前で、俺の中に渇望にも似た思考が沸き上がったんです。
 もしかしたら、あの時の言葉は冗談なのではないか。
 俺を驚かすつもりが、予想以上に凹んでしまい、そいつも冗談だと言うに言えない状況なのではないか。
 そんなはず、あるはずもないのに。
 擦れ違う際に、ちらりと横目で、そいつの顔を見ました。
 今でも思っています。
 垣間見て、良かったと。
 そいつは見下すように、あの時に向けたものと同じ汚物でも見るかのような冷たさで、俺を睨み付けていました。殺意にも似た憎しみが、本当にこの世にあるのだと、痛いほど理解しました。
 いや、語弊がありましたね。
 殺意です。
 あれは確かに、底冷えするような殺意でした。
 ――殺されないだけ、マシと思え。
 そいつの言葉を思い出しました。言葉だけではなく、そいつの声、そいつの顔、煙草の煙の匂いに至るまで、俺をどん底に叩き落したあの時のすべてを、思い出しました。そいつは何も言わず、能面のような無表情さで、それでもしっかりと俺を睨んでいました。
 死ね。
 お前なんか、さっさと死んでしまえ。
 殺されないだけ、マシと思え。
 なんなら、殺してやろうか。
 遠慮するな、殺してやるよ。
 殺してやる。
 殺される。
 殺される!
 気が付けば。
 推理小説なんかでよく見る、月並みなその言葉は嘘なんだと知りました。記憶が飛ぶなどの言い訳は、少なくとも俺には、起こりませんでした。
 見られないよう、そいつが通り過ぎてから動きました。聞き取られないよう、叫び声も上げずに忍び寄りました。握り締めた包丁を、身体ごとそいつの背中にぶつけました。そのまま一緒くたに倒れながら、それでも包丁を手放すことはしませんでした。
 鶏肉より柔らかく、でもしぶとく筋張っていると言ったところでしょうか。
 人間を刺す、感触というのは。
 うつ伏せに倒れてうめき声を上げはじめたそいつを、俺はひたすら刺しました。たぶん背骨だと思うのですが、何度か硬いものに当たる感触もありました。けれども、そんな事実を気にしている暇などありませんでした。余裕など、ありませんでした。
 殺される。
 殺さなければ、殺される。
 腕に鈍痛が走り、息苦しさを感じながら、それでも俺は刺し続けました。
 刺しては抜いてまた刺して。
 何度か繰り返している内に、うめき声を上げていたそいつもようやく静かになりました。血飛沫の勢いも、徐々に衰えていきました。
 俺は、うつ伏せのそいつを、仰向けにさせました。
 顔には苦しそうな表情が張り付いていました。所謂、デスマスクというやつですね。
 手近の大きめな石で、潰しました。
 俺を見下した目、俺を罵った口、俺を軽蔑し切った顔、俺を殺そうとした表情すべてを、念入りに叩き潰しました。息絶えさせたその時よりも力が必要だったのには驚きました。人間の表情を潰すのは、人間の命を絶つことより難しいのだと、醒めた頭で考えていました。
 そいつの顔は、ぐちゃぐちゃになりました。
 ひどく、すっきりしました。
 正直に言えば、その時のことを思い出せば、今でもすっきりとします。
 だから、どうしようもない人間なんです。
 俺は。
 すべてを終えて、そいつの無様な亡骸も、大降りの包丁も、血肉のこびり付いた石もそのままにして、俺は歩きはじめました。胸のつっかえが取れたかのような、清々しい気持ちでした。罪の意識など、欠片もありませんでした。
 殺さなければ殺される。
 そんな生存競争に、勝った。
 おくびも無く死ねと言ってきた輩を、無様に返り討ちにしてやった。
 ざまあみろ。
 徹夜明けでレポートを終えたかのような、或いは仕事帰りに一杯やるかのような。
 凱旋するような気持ちが、俺を満たしていました。
 そのまま、景気よくその凱旋門を潜るかのように、どこへともなく駆け出しました。
 力の限りに、走りました。
 走って、また走って、さらに走り続けて。
 幻想郷に辿り着いたのは、それから間もなくのことでした。

 ◆◆◆

「後になって、後悔の念も起こりました」
 男の語りは終始静かだった。
 それは今も変わりない。
「そいつにも家族が居ます。母親が居て、父親が居て、兄弟も居たと聞きました。俺はその人達から、掛け替えのない一人を奪ったんです。遠い遠い彼岸に、追い遣ったんです。そして更には、俺の家族にも迷惑を掛けることとなった。父親、母親、兄弟、これからみんな、殺人犯の身内として過ごすことになってしまう。当人には何の咎も無いはずなのに、俺がそいつを殺したことで、今話した全員に不幸が降りかかる」
 その声色と同じく、男の表情は静謐なものだった。
「だけど、そいつを殺したことに関してだけは、やはり後悔していないんです。悔いることなどなく、憚る必要など感じない。あの時に殺さなければ、俺はそいつに殺されていた。もしかしたら違う未来も、なんて都合の良いものがあるはずの無いことを、俺はそいつと擦れ違った時に知った。そいつは、違う未来をと期待した俺の希望を、その視線だけで見事に打ち砕いてくれたのですから」
 ぱたりと言葉が止まる。
 男が口元にだけ浮かべたのは、やはりさり気のない笑みだった。
「殺めた罪を自覚し認めなさい、それが貴方に積める善行です……何故、そいつを殺したことが罪だと、認めねばならないのでしょう。何故、殺される前に殺したら、罪となるのでしょう」
 誰かに問い掛けるような口調だった。
 空に向けられたものではなかったと思う。
「だから俺はどうしようもない人間なんです。閻魔様の言葉の意味さえ、汲み取れない」
 男は、視線を空のそれと重ねた。
「あの時は、本当に申し訳ありませんでした」
「え?」
「獣臭いと言った、あの時のことです。気が立って、心にも無いことを言いました。他にも、色々と酷いことを言っていましたね」
「もう謝ったじゃない」
「それでも……申し訳ありませんでした」
 力なく、男は頭を下げた。
 空にはなんと答えていいのか分からなかった。
「昔から気が立つと、口汚く喋ってしまうところがあるんです。さっきの、神様について話した時のように。思わず言ってしまい、後から後悔することも何度かありました。要らぬ問題を招いてしまうこともありました」
 今にも涙しそうなほどに、男の瞳は揺らいでいた。
「人付き合いが苦手な癖に、興奮すると後先考えず話し出す。ひどくコミュニケーション能力に欠けた人間です。その上、人を殺めてしまったのに、それに対して罪悪感さえもあまり沸かない……確かに、俺は罪人として死んだほうが、誰にも何物にも影響せず居なくなったほうが、良いのかも知れませんね」
 揺らぐ瞳から、流れ出るものはなかった。
「霊烏路さんの言ったように、無駄に死ぬ。俺には一番良いのかも知れない」
 そこで言葉を止めて、男は笑った。
 今までのようにさり気のないものではなく、誰が見ても分かるほどにはっきりと、歯を見せて笑った。
「でも、その前に君と寝たいな」
「は?」
「死ぬ前に一度だけ、寝てみたい」
「……うにゅ?」
 言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。
「霊烏路さん。君と寝たい」
 一字一句きっぱりと、静かながらもはっきりと聞き取れるほどに小気味よく、男は言った。その顔は段々と笑みを薄め、いつの間にか真剣なものとなっている。
 空から視線を逸らすことは一度もなかった。
 真摯な光を湛えながら注がれている。
 空は今度こそ、なにを言えばいいのか分からなかった。狼狽で、黒い瞳を可愛らしくまん丸に広げている事実にも気付けないほどに、混乱していた。頭の引き出しを総動員させて思索もしたが、それでもこの状況にふさわしい答えは浮かびそうになかった。
 はう、と溜め息にもならない吐息が、勝手に漏れる。
 反射的に口を手で覆ったが、何故そうしたのかは自分でも分からなかった。
 灼熱地獄の轟々と鳴く低音が、やたらとやかましく聞こえる。すっかり大きくなってしまった自分の心音は、それ以上にやかましいものだった。
「……冗談ですよ」
 どれくらい、互いに黙っていただろう。
 たぶん十秒ほどであったが、空にはそれ以上の時間にも感じられた。
「すみません、不躾なことを言って」
「あ……うん」
「慣れない冗談は、言うものではありませんね。本当にすみません」
 また男は、さり気ない笑みを浮かべて頭を下げた。
 先ほどまでの迫り来るような強い視線は、跡形もなかった。
「ですが、ひとつだけ」
「ん」
「お願いがあります」
 男は俯き、空から視線を逸らした。
 呟くような口調もそのままに、淡々と字面を語るような平坦さで、その「お願い」を言った。ともすれば、轟々とした稼動音に掻き消されてしまいそうなほどに弱々しかったが、それでも空の耳にはしっかりと届いていた。
 分からない。
 空はまず、それだけを思った。
 お願い。
 それを願う意味が分からなかった。
 冗談。
 あの時の視線は鬼気迫るものがあり、とても冗談には思えなかった。
 寝たい。
 なんで。
 私、なんかと……
「考えとくわ」
 ない交ぜとなりはじめた思考を振り払うように、空は口を開いた。
 若干、声が上擦ってしまったのが不快だった。
「その願い、考えとく」
「分かりました」
 男は顔を上げた。
「お願いします」
 そしてまた、くたりと頭を下げた。
 猫背気味の背はぴんと伸ばされており、形の綺麗なお辞儀である。しかし、覇気のような漲るものは少しも感じられなかった。哀れにも思えてしまうくらい、痩せた背中だった。
 空は目を閉じた。
 男の姿も、なにもかもが瞼に隠れる。
 轟々とした音だけが耳朶を打つ。
 願いの内容を思い出し、自ずと漏れそうになった溜め息を飲み込んでから、目を開けた。

 ◆◆◆

 姿見に映る自分の裸体を、じっと見つめていた。
 ふたつの膨らみのちょうど真ん中には、こちらを見つめ返す大きな赤い球体が備わっている。お燐にも、他の地獄鴉にもないこの球体こそが、空が八咫烏の力を得た証だった。放射状に血管のような模様が浮かび、赤い球体の禍々しさをさらに引き立てている。
 その上に両手を被せる。
 鏡に映る裸体が、力を得る前の自分と重なった。
 女性にしては高過ぎる長身、仕事に慣れていない頃に負った火傷の数々、あまり櫛で梳いておらず癖の強い黒髪。お世辞にも、魅力的とは言えないなと、空は思った。鏡の中の自分に向けて、苦い笑みを浮かべる。
 やはり、無力はいけない。
 それだけで、罪だ。
 服を着て外套を羽織り、黒い翼を大きく羽ばたかせる。その動きに合わせて、裏地に瞬く宇宙がはためく。最後に、波打つ黒髪を引っ掴み、適当なところで緑色のリボンをくくった。
 これでいい。
 赤い瞳は、隠す必要などない。
 自室を後にし、さとりに簡単な報告を済ませて、空は飛び立った。飛びながら、左足にくるくると分解の足、右足にずっしりと融合の足、右手を振るい制御棒でもある第三の足を展開させる。その間も、飛行する速度は微塵も緩めない。吹き上がる灼熱地獄の炎の柱を、わざといつもより多目に突き破っていき、目的地を目指す。
 男の監視をはじめて、今日で七日が経った。
 時刻は正午に近付いている。報告の際、さとりから許可は得ていた。
 程なくして、目的の場所が見えてくる。
 いつものように、男は掘っ立て小屋から出ていた。逃げ出す気配などまるで見せず、岩の上に腰掛けて灼熱地獄を見つめている。空からは反対側を向いており、やって来た彼女に気付いた様子はない。猫背気味の痩せ細った背中は、最初に見た頃よりも小さく見えた。
 大きく、わざとらしく羽音を立てて、降り立つ。
 ようやく気付いた男は、弾かれたようにこちらへと振り返った。その顔は、はじめこそ慄いたように歪んでいたが、さり気ない笑みへと変わるのにそれほどの時間は要さなかった。
 立ち上がり、空へと数歩ばかり歩いてくる。遠慮がちに掲げた手を、ひらひらと振る。
 躊躇いは、たぶん無かった。
 制御棒のエネルギーは既に充分な量となっている。鈍い光を湛えているそれを、空は男へと真っ直ぐ差し向けた。閻魔の裁判のようだと、醒めた頭で思った。そして、最初に会った時にも同じことがあったのを思い出して、心の中だけで失笑した。
 男が立ち止まる。穏やかな顔のままで、空を見つめている。
 その表情が、炎の奔流に飲み込まれた。

 出来るだけギリギリのところで、生かしてほしい。
 なるべく、死を間近で感じられるところで時間がほしい。
 長く苦しむように、でも五感は失くさないくらいで、殺してほしい。
 男の願いは、そんな奇妙なものだった。

「……生きてる?」
 仰向けに倒れた男に歩み寄り、空は問い掛けた。
 肉の焦げる、独特の臭気が鼻をつく。所々が炭化し、煙を漂わせる男の姿は、どう処置しても助からないことを意味していた。
「なん、とか」
 それでも男は生きていた。
 目は見えているらしく、空の顔を見上げてぎこちなく微笑んでみせた。白い歯が、黒く焼け焦げた顔も相まって、やたらと眩しく見えた。
 男は、苦しげに息を荒げている。
 無理もない。空の力加減が正しかったならば、男は五感もそのままに全身を炙られていることになる。灼熱地獄よろしく、徐々に蝕み、死へと至らしめる炎熱が纏わり付いているのだ。慈悲などなく、むしろ悪趣味な享楽目当てで扱われるような、力である。時折、漏れる苦悶の息にも、濁声のような濁りがあった。
「馬鹿、でした」
 泣き出しそうな顔で、男は力なく言った。
 もしかしたら、痛みに耐え切れず本当に泣いているのかも知れない。加減の難しい涙腺は、焼き切ってしまった可能性があった。空の胸に、得体の知れない痛みがちくりと刺さる。
「俺より、長く苦しんでいる人は、沢山いるのに。病気と闘っている人とか、事故のリハビリをしている人とか。そんな人がいるのに、こんな死を選ぶなんて」
 途切れ途切れに、言葉が吐き出される。
 口内からは肉の焦げた匂いが、より一層強く漂っていた。
「馬鹿でした、浅はかでした」
 蝕まれる苦痛に、耐え切れないのだろうか。男の全身はふるふると震えており、苦悶の混じった悲鳴が上がる。
 それでも男は微笑んだ。
 焼け焦げ、耳や髪は炭化して煙すら上がっているのに、空を懸命に見上げて笑っていた。
「名前」
「ん」
「教えて、くれないかな」
 声の濁りが、激しくなった。
 声帯にも炎熱が及んでいるらしい。
「苗字じゃなく、下の。霊烏路さんの、名前」
 躊躇いはなかった。
「空」
「うつほ?」
「そらと書いて、空。それが私の名前」
「空、さん」
「変な名前?」
「いいえ」
 立て付けの悪くなった襖のように緩慢な動きで、男の首が横に振られる。
「素敵な名前です。どこまでも青くて、清々しく透き通った空を、イメージできます。空さんが、力強く空へと飛び立って行く姿に、とてもよく似合っています」
「ん、そう」
「空さん」
 掠れた声で、男は言った。
 涙声に聞こえたのは、恐らく空の気のせいだろう。気のせいだと思いたかった。
「笑って」
「え?」
「笑って、下さい」
 こんな時に言われるような言葉ではない。
 空は聞き間違いだと思い、男の瞳をじっと覗き込んだ。
 しかし、重ねた眼差しは真剣なものだった。寝たいと言い、冗談だと否定したあの時と同じ、肉薄してくるような視線だった。男は、震える身体を辛くも押さえ込みながら、空をじっと見上げていた。
 請われるように空は笑った。
 先ほど男が浮かべた、瀕死の人間が必死に向けた笑みよりも、ぎこちないものだった。
「……ああ、駄目だ」
 男の言葉に、空は息を呑む。
 しかし当人は、同じようにぎこちなく笑っていた。
「死ぬのなんて怖くない、そう思っていた。価値のない自分など、いなくなって当然だと、思っていた」
 壊れたゼンマイ仕掛けのように男の手が動く。
 なにかを掴もうとしているのか、その手は天に向けられていた。
 握ろうとはしなかった。
「でも、やっぱり、駄目だった」
 声だけでなく、瞳にもうっすらと膜のような濁りがあった。
 男は既に、目が見えていなかった。
「もっと、美味しいものを食べたかった。もっと、色んな所へ行きたかった。この場所の、灼熱地獄以外を、見てみたかった。もっと、沢山の人と話してみたかった。罵倒されても挫けず、誰かと話すのを続けたかった。もっと、多くの人と親友になりたかった。もっと、友達を作りたかった。誰かと、恋人になりたかった。仲睦まじく、なりたかった。空さんの、笑顔が見たかった」
 虚ろな目で男は空を見る。
 その視線は、空の顔から大きく外れていた。
「名前みたいな、あの青い空のように正直で大きな、そんな空さんの笑顔。もっと、見たかった」
 ごほりと咳き込み、男の身体が九の字に曲がる。
 蝕む炎熱が、いよいよ覆い尽くそうとしているのだろう。
 何度か繰り返され、ようやく収まった時、男の顔には表情らしきものが浮かんでいなかった。呼吸音も、濁りのある苦しげなものから、か細い隙間風のようなものへと変わっている。既に、男の身体からは煙すらも上がらなくなっていた。
 間もなく、逝く。
「うつほさん」
 それでも男は、はっきりと言葉を紡いだ。
 顔には、あのさり気ない微笑みが浮かんでいた。
「ありがとう、それと」
 言葉が途切れた。
 空は耳を傾け続けた。傾け続けながら、男の顔を覗き込む。焼けて潤いを失った唇は、呟くように開いたところで止まっている。白く濁った瞳から流れるものはなく、微細な動きさえもない。張り付いた笑みは刻まれたように硬かったが、やはり笑っていると気付くのに時間が掛かるほど、さり気ないものだった。
 男の身体は、もう動かない。
 空はその事実を確認しながら、それでも耳を傾け続けた。
 灼熱地獄の、轟々とした駆動音だけが聞こえる。

 ◆◆◆

 掘っ立て小屋の、すぐ傍の岩に空は腰掛けていた。
 この七日間、ここで生活をしていた罪人は、もうどこにもいない。その罪人が座っていた岩に、空は胡坐を掻いている。彼女の他には、生きている者どころか、死んでいる者すらいなかった。たった一人で、空は灼熱地獄を見つめていた。
 その火柱が、大きく昇っている。
 大蛇が鎌首をもたげるかのように、或いは太陽に見られる紅炎のように、巨大なうねりとなって昇っている。灼熱地獄という名に相応しいであろうその様は、なにかに歓喜しているようにも見えた。
 ともすれば、瞬く間に灰燼にされてしまいそうな火柱に、しかし空は動じない。
 淡々と、観察するような澄ました顔で、見つめるだけだった。
「これで良い」
 ぽそりと呟く。
「焼けたのなら、大きく燃えてくれたのなら」
 黒い瞳が、猛り狂う火柱に彩られ、赤く瞬いている。
 なにも持ってはいない左手が、かたく握り締められていた。
「それなら、良い」
 空はなおもそこに居た。
 なにも言わず、身動ぎすらせずに、灼熱地獄を見続けている。握り締めた左手は、いつの間にか解かれていた。
 どれくらいそうしていただろう。
 切欠など特になく、空は動きはじめた。
 岩の上に立ち上がって、踵を返す。具合を確かめるように、その翼を一度だけ大きく羽ばたかせる。
 睨むように、灼熱地獄を顧みた。
 開きかけた口を、思い直したように硬く閉じる。
 遺された言葉はなかった。
 一陣の風が巻き起こった時には、空の姿はどこにもない。遠く、沸き立つ火柱のひとつが突き破られ、またすぐに元へと戻る。その光景を最後に、この場所に誰かが居たという証は、跡形もなく消え失せてしまった。
 灼熱地獄が轟々と、いつもより激しく鳴いている。
 その喜びの嘶きを聞く者は、誰も居なかった。

 タイトルは色々な辞書より抜粋。
『無駄』『ミゼラブル』など考えたのですが、結局このタイトルに落ち着きました。

 ご読了、誠にありがとうございました。
爪影
garaku2002@yahoo.co.jp
http://tumekage.blog.shinobi.jp/
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コメント



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3.60名前が無い程度の能力削除
読んだけど投げっぱなしで終わった感が強くて物足りなかった。
結局この罪人の死を通じて何がしたかったかいまいちわからんかったし。
6.100リペヤー削除
国語の教科書をよんでいるような気分になりました
男は空に何を伝えたかったのでしょう……死んでしまった今ではもう分からないことですが
良い話をありがとうございました。
13.100とーなす削除
最初、この男には嫌悪感しか沸きませんでした。
しかし、段々と男の哀れむべき生き様が浮き彫りになるごとに、空と同様、この男をどういう目で見れば良いのか戸惑うようになりました。
この男は嫌いです。しかし、それで切って捨てられないのは、周りの目を気にしすぎるこの男が、どこか自分に似ていたからでしょうね。
そういう意味で、嫌悪感を抱きながらも、最後まで物語に没頭してしまいました。
男は果たして、真の意味で「罪人」だったのか。ううむ。
18.100dai削除
最初と最後で男の印象が180度変わりました。 私も男の感性に通じるものが多々あったので、共感できました。