Coolier - 新生・東方創想話

知識の魔女と真紅の悪魔

2011/08/29 02:55:37
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 紅魔館の地下、陽光差さぬ大図書館。幻想郷において最も多くの知が結集されている場所はどこかという問いの答えに、まず挙げられる場所のひとつである。
 立ち並ぶ書架はさながら迷宮の如しであり、日々増え続ける蔵書の総数はもはや図書館の主にも計測不能。一体どれほどの本がここに集まっているのか窺い知ることもできない。図書館に立ち込める地下室特有の黴臭さと、周囲を支配する静謐は、さながら長年に渡って忘れられた地下ダンジョンのような雰囲気をかもし出しており、心得のないものが迷い込んだが最後、どこもかしこも似たような風景に惑わされ、二度と生きて出ることはかなうまい。探してみれば人骨の一つや二つすぐに出てくると言われれば、そのまま信じてしまったとしても無理からぬ話である。
 また、別の見方もできる。
 書架の群れは森に林立する木々であり、増えてゆく本は成長する枝葉である。蜜の代わりに収められた知で人を招き寄せる、知識の森というわけだ。なるほど、そう見れば長年使われた様子の赤毛の絨毯も、地表を覆う苔に見えぬこともない。森の中でけぶる朝靄のように立ち込める妖気は、館の主である悪魔の影響か、はたまた図書館そのものが何らかの魔性を帯びているのか。まるで生命持つかのごとく絶えず成長し続けるこの知識の森を、いっそ魔的と呼んだところで語弊はあるまい。
 そうして、そんな場所に好んで巣食うような輩もまた尋常な存在であるわけもなく。
 そう、この図書館が森であるならば。
 古来より様々な伝承にて語られている通り、森の中には魔女が棲むと、そう相場は決まっているのであった。

 大図書館の一角、書架の合間にぽっかりと設けられた読書スペース。ゆったりと揺れるロッキングチェアに深く腰掛けて、パチュリー・ノーレッジはいつものように読書を楽しんでいた。同じ姿勢のまま身じろぎもせず本を読んでいる少女は、まるで時を止めてでもいるかのようで、時折思い出したかのようにページをめくり、手前の円卓に載せられた紅茶のカップを手に取る以外は、ほとんど息すらしていないようにも見える。
 耳が痛くなるほどの静寂の中、パチュリーの繰るページの音だけがあたりに響く。
 と、
 ふと、本を読む手を止め、何かに気付いたかのようにパチュリーは顔を上げた。来客があったのだ。
「また読書? パチェ」
「レミィ」
 声をかけてきた人物は、無論のことパチュリーのよく知る人物である。
 レミリア・スカーレット。吸血鬼にしてこの紅魔館の主。そしてパチュリーの無二の親友である。
 レミリアはパチュリーの対面に座ると、傍らに控えたメイド――十六夜咲夜に手振りで何かの合図をした。咲夜がひとつ礼をすると、瞬時にレミリアの前に湯気の立つ紅茶のカップが出現する。レミリアは紅茶を一口飲むと、口を開いた。
「よく飽きないわね、パチェ。毎日毎日読書なんて」
「別に、同じ本を読んでいるわけではないから」
「それはそうだろうけど。読書自体には飽きないの?」
「考えたこともないわね」
 ふうん、とレミリアは肩をすくめる。
「私はダメね。たまには読書もいいかもしれないけれど、性に合わないわ」
「こんな立派な図書館があるのに?」
「それとこれとは話が別よ」
「宝の持ち腐れね。もったいない」
「今はあなたが有効に活用しているじゃないの」
「……活用しているのは、私だけじゃないけれどね」
「? ――ああ」
 パチュリーの言葉に混じった僅かながらの苛立ちを感じ取って、レミリアは小さな笑みを浮かべた。
「あの白黒魔法使いのことか。うちの門番はザルだからねえ」
「わかってるなら、何とかしてほしいものだけれど?」
「門番を? 魔理沙を?」
「両方」
「そりゃあ無理だ」
「まあ、期待はしていなかったけど」
 パチュリーは本にしおりを挟むと円卓の上に置き、紅茶を一口飲んだ。そんなパチュリーを見てレミリアが意地悪そうに笑う。
「そんなに困ってるなら図書カードでも作れば?」
「ここの蔵書全部にラベルを貼り付けるの? 小悪魔が死ぬわね」
「ああ、死ぬね。咲夜ならどうだ」
「私でも死ねますね」
 それまで口を開かなかった咲夜が微笑みながらそう言った。
 パチュリーはふう、とため息をつき、
「まあ、魔理沙は放っておけばいいわ。小悪魔あたりはまた怒るだろうけど。……どうしたの咲夜?」
 かすかに不思議そうな顔をした咲夜に気づき、そう声をかける。
「ああ、いえ。大したことではないのですけれど」
「言ってみなさいな」
 では、と咲夜は前置きして、
「どうしてお嬢様もパチュリー様も魔理沙を放っておくのでしょう?」
 レミリアとパチュリーは顔を見合わせ、
「まあ、借りてるだけだし」
「借りてるだけだしね」
「いえ、そもそも貸出禁止ですよね、ここの本。それに、こうもたびたび続くとその何というか――」
「体面か」
「それです」
 仮にも紅魔館はレミリアの治める城、言うなれば領地である。そこにこうも何度も侵入されて中のものを奪われては、領主の面子が立たないのではないのか――。咲夜はそう言っているのだ。
 レミリアはふむ、と腕を組み、
「まあ、咲夜の言うことももっともだ。でもこの図書館はパチェに上げたものだからね。私の領地と呼ぶには少し語弊があるかな」
「そうなのですか?」
 思っても見なかった言葉に咲夜は驚いた。てっきりこの図書館はレミリアがパチュリーに貸与しているものだと思っていたのだ。
「大分昔のことよ。……ああ、思い出すわね、パチェ。あれはいつのことだったかしら? 百年前? それとも二百年?」
「私はまだ百年と少ししか生きてないんだけれど?」
「――ああ、そうだった。あなたは私よりずっと年下だったかしら」
 くすくすとレミリアは笑う。
 そんな二人を見て、咲夜はふと好奇心が頭をもたげるのを感じた。レミリアとパチュリーは仲がいい。そういえばレミリアを愛称で呼ぶのを許されているのはパチュリーだけで、パチュリーを愛称で呼ぶのもまたレミリアだけだ。このプライドが高いレミリアがそこまでの親愛を寄せる相手は他にいない。そう、それはあの博麗の巫女でさえも例外ではない。
 二人の過去に何があったのだろう?
「――聞いてみる?」
 レミリアの声で、咲夜は現実に引き戻された。
「は?」
「私たちの昔話。長い割に短い話。その割には大して面白くもない話。だけれども、夜の無聊を慰めるにはちょうどいい。――特に、こんな静かな夜にはね」
「ちょっとレミィ――」
「別にいいでしょう、パチェ?」
 パチュリーは何か言いたそうにレミリアを見ていたが、やがて諦めたかのように首を振った。
「……はあ、まあいいわ。咲夜が聞きたい、と言うならだけど」
 ふふっ、とレミリアは笑う。
「だそうよ。どうする咲夜?」
「お嬢様もお人が悪いですね。そう言われて断れるわけがないじゃありませんか。聞かせていただきますよ」
 咲夜の言葉にレミリアは満足そうに頷く。
「……まあ、たまにはいいかもしれないけれどね」
 パチュリーは呟くと、遠くを見るかのように視線を上げた。


/


 一人の少女の話をしよう。

 今ではないいつかの時代、ここではない国のどこかの森で、ひっそりと暮らす名無しの少女の物語だ。
 少女は独りだった。親も兄弟も、眷族と呼べるような存在はなかった。ただあったのは、誰が残したともわからぬ洋館と、人が一生をかけても読みきれないほどの蔵書だけだった。
 物心つくまでの数年をいかにして生き延びたのかは覚えていない。恐らくは飢えと渇きに苛まれた地獄のような日々であったろう。
 幸い、少女には才があった。生まれつき少女に備わっていた魔道の才――これなくして、少女が日々を生き延びることは不可能であったに違いない。
 森に出かけ、日々の糧を得て細々と食いつなぐ日々。それを終わらせたのは、館に残された蔵書であった。
 大昔の錬金術師が残したと思しき書物の数々は、魔道の知識を得るのにも十分なものであり、その中に記されていた魔法の秘術を少女は解き明かした。
 捨食・捨虫の魔法。
 読み書きの知識だけでも持っていたのは幸いであった。しかし、数え切れないほどの本があったとはいえ、教えるものもなく、魔道の奥義にまで至ったというのは驚嘆に値するという他はない。
 少女は奥義を実践し、飢餓と寿命から解放された。
 ――本に命を救われた。
 少女がそう思ったとしても、無理からぬことだった。
 本は少女の師であり、親であり、友であった。必然、少女は長い年月を書を読みながら過ごしていくこととなる。


 時が流れた。
 時と共に知識は増えた。さらにいくつかの魔法の奥義も手にした。
 けれど、わからないこともあった。
 友情、愛情、憎悪。物語の中に幾たびも出てくる様々な他者との関わり。その形。
 森の中の洋館に独り住む少女には無縁のその在り様。
 少女は考えた。
 何故自分はこんな場所に独りなのだろう。自分とは何なのだろう。自分という存在があるのならば、それを生んだ存在もあるはずだ。未だ見ぬ父と母。自分にもそんな存在がいたのだろうか。いたとするならば、何故今はいないのだろうか。
 少女は考えた。
 いつの日か、あの門を開けて父と母が帰ってくるかもしれない。その日までに、自分は立派な魔法使いになっておかなければならない。この館に残された本の数々はきっとそのために父と母が用意してくれたものなのだ。幼い結論に、少女は何の疑問も抱かなかった。
 書を読む時間が増えた。それと同時に玄関で待つ時間もまた増えた。
 されど、少女がいかに心待ちにしていようと、門が外から開かれることはなかった。


 時が流れた。
 戻らぬ父と母を待ち始めてから幾年が経つのか、少女自身も忘れてしまった頃のことだ。
 少女は玄関に持ち込んだ揺り椅子に腰掛け、すっかりと眠り込んでしまっていた。
 時は流れ落ちる飴のようにゆったりと進んでゆく。書を読み、魔術の力量を磨き、玄関で開かぬ扉が開くその時を待つ。そんな日々を送るようになって、もうどれだけが経つのだろう。
 しかし、この日は少し違っていた。
 少女は普段とは違う気配に目を覚ました。
 森の木々のざわめきとも違う。動物の発する気配とも違う。胡乱な頭で少女は考えを巡らし――
 門の外に、誰かがいる。
 そう思った瞬間、眠気は吹き飛んだ。
 少女は無我夢中で門に飛びついた。
 父と母が帰ってきたのだ。少女はそう思った。どんな顔をしているのだろう。どんな人なのだろう。話したいこと、聞きたいことはたくさんあった。
 立派な魔法使いになった自分を褒めてもらいたかった。このときのために料理の勉強もした。庭に花壇も整えた。花壇から摘んだハーブで沸かした風呂は少女のお気に入りだ、きっと両親も気に入ってくれるに違いない。そうして、目一杯のもてなしをした後は一晩中おしゃべりをして、一緒のベッドで朝まで眠るのだ。父とは、母とはどんな匂いがするものなのだろう? やはり本に書かれていたように温かくて心地の良いものなのだろうか。そして、ぐっすり眠った後は母の作ってくれた朝食の匂いで目を覚ますのだ。誰かが自分のために作ってくれた料理なんて初めてだ。ああ、でも自分はきちんと起きられるだろうか。いぎたなく眠り込んだりはしないだろうか。こんなことなら普段から早起きしておくのだった――。
 様々な思いが少女の胸を去来し、門の鍵を外そうとする指はひどくもつれた。
 ようやく鍵を外し、少女はまだ震えの止まらない手で扉に手をかける。
 最初に、何と声をかけよう。……ああ、そんなことは考えるまでもなかった。やっと帰ってきてくれたのだ。それならかける言葉は『おかえりなさい』これに決まっている。
 しかし、少女はその言葉を発することはできなかった。
 鍵の外された扉は蹴破られるかのように乱暴に開け放たれ、少女はその場に凍りついた。
 少女の館に入り込んできたのは、棒で武装した男たちであった。
 訳もわからぬまま長柄で突き倒され、そのまま少女は滅多打ちに殴られた。
 なんだ、こいつらは。
 雨あられと降ってくる打擲の嵐を受けながら、少女は思った。
 何故、こいつらは私を殴るのか。
 見上げる少女の視線と、ある種の狂気に塗り込められた男の視線が絡み合った。「魔女め」と男が言った。それは、少女が初めて耳にした己以外のものの言葉であった。
 ああ、こいつらは。
 少女は思った。
 こいつらは、私が魔法使いだから、魔女だからという理由で襲ってくるのか。
 ひぃ、と小さな悲鳴が口から漏れた。生まれて初めての恐怖が、少女を身体の芯から凍えさせた。這い蹲って逃げようとするが、散々に打ち据えられた身体はいうことをきかない。殴られた場所が熱い。炎を押し当てられたようだ。ずくん、ずくん、と脈動し、身体が何倍にも膨れ上がったようにも感じる。涙が流れた。血も流れた。しかし打擲は一向にやむ気配を見せない。痛みはもはや激烈で、少女は何度も意識を失いかけた。
 夢を見ていた。幸せな夢だったと、少女は思う。
 あの扉が開くときは、きっと素晴らしい何かが始まるのだと、そう思っていた。
 けれど。
 今は。
 がつり、と頭に強烈な一撃を受けて、少女の視界が真紅に染まった。
 そして。
 少女は、生まれて初めて他者に魔法を仕掛けた。
 見る間に生じた爆炎が、男たちを根こそぎに吹き飛ばし――事が全て終わったとき、その場に人間と呼べるものは何一つ残っていなかった。


 時が流れた。
 友情、愛情、憎悪。物語の中に幾たびも出てくる様々な他者との関わり。少女の周りにあるのは、憎悪の関係のみであった。あれからも時折、討伐隊と称して近隣の村から武装した男たちがやってきた。だがそれも最初の数年だけで、今はもうこの洋館を訪れるものは誰もいない。あれ以来襲ってきたものたちは例外なく炭屑にしていたから、それも当然といえたかもしれない。
 館には平穏が訪れていた。
 いつか、討伐隊の一人に自分の両親を知らないか戯れに問いかけてみたことがある。返ってきた答えは簡潔なものだった。母はやはり魔女であり、随分と前に火刑に処された。父は知らないが、魔女の夫など悪魔と相場は決まっている――。それだけわかれば十分であった。
 魔女の子は、やはり魔女。いかに足掻いても生まれは変えられない。であるならば、一人森の奥に住む魔女として、書と共にひっそりと暮らしていればいい。他者との関わりなど、所詮は物語の中だけの絵空事。己に手に入れられるようなものではない。
 そう、本さえあるのならば、いかなる孤独にも耐えられる。


 さらに時が流れ――ついに少女は館の蔵書を読みきった。
 少女が最初に本を開いてから、赤子が老婆になるほどの時間が過ぎていたが、捨虫の魔法を習得していた少女は、未だ若々しい肉体を保っていた。
 時間はいくらでもあった。長い無聊をこのまま一人で慰めるのはごめんであった。
 少女は少し考え、生まれて初めて森の外に出ることにした。
 行き先はすでに決めていた。風の噂で聞いたのだ。
 紅魔館という洋館があるという。吸血鬼が住むというその館には、驚くほど大きな図書館があるらしい。
 その図書館をいただこう。出来ることなら館ごと。
 もしも吸血鬼が邪魔するようならば、滅ぼしてしまえばよい。
 森の外に出ようとして、ふと少女は気がついた。
 外の世界には他者がいる。その他者と自分とを区別するもの、名前が必要だ。
 周囲を見回すと花壇に植えたハーブが目に入った。香油に使っていた、お気に入りのハーブ。紫色の花の色が自分の髪の色によく似ていた。
 この花の名をもらうのも悪くはない。
 少女は館に火を放った。少し迷ったが、どうせここにはもう戻らない。貴重な本が焼けるのは惜しいが、あれだけの量、持ち運べるものでもないだろう。
 少女は散歩でもするかのようにふらりと外に出て、それきり二度とこの地には戻らなかった。


 これは、二人の少女の話だ。
 ずっとずっと昔、まだ外の世界に幻想が存在していた頃。
 森を飛び出した一人の少女と、城に住む一匹の吸血鬼が初めて出会ったときのこと。
 名無しの魔女と孤独な悪魔が織り成す、一番最初の物語である。


/


 月が出ていた。血の如く紅い満月である。
 天の高みに傲然と輝く月はその赤さを以って星々の光すら圧倒し、見るものの心に苛烈なる畏怖を刻み付けずにはいられない。
 完全な円を描く紅の月。その在り様はまさしく夜の支配者と呼ぶに相応しきものであり、太陽が昼を支配する生者の王であるならば、紅の月は夜に君臨する魔王の風格を備えていた。
 そして。
 夜空に月があるように、地にもまた夜の闇を支配するものがある。
 紅魔館の高み。眼下に大地を、天に満月を望めるバルコニーで、吸血鬼レミリア・スカーレットは紅き月を眺めつつ、退屈をかみ殺していた。
 この地に館を構えてからどれだけの時が経ったか、レミリアは覚えていない。百年くらいは経っただろうか。それとも二百年、いや、それ以上かもしれない。
 しかし、これほどまでに退屈に苛まれたことはなかった。
 紅魔館に最後に人間が訪れたのは、一体いつのことだったろう?
 記憶を探ってはみるものの、その光景ももはや朧にかすみ、杳として思い出せない。
 昔は違った。レミリアはそう思う。
 紅魔館に棲む悪魔を退治するために人間たちは徒党を組み、武器を取り、炎を手にして攻め寄せてきたものだった。その有様は見るからに哀れを誘う態ではあったが、少なくとも退屈はまぎれたし、何よりも人間の発する恐怖は、妖怪である己のよい糧となってくれた。
 だが、今は。
 最近では討伐に来る人間など影すら見えない。どうにも人間たちは同族争いに現を抜かし、妖怪のことなどすっかりと忘れ去ってしまったらしい。
 妖怪とは幻想の存在だ。人間から忘れられれば力は弱まる。
 もはや、潮時なのだろうか。
 このまま行けばいずれ人間たちは、ありとあらゆる迷信を排除しにかかるだろう。薄皮を削ぐように力を失い続けるよりは、いっそのこと人間たちに見切りをつけるべきなのかもしれない。ちょうど風の噂に、東の果ての島国に妖怪の楽園ができたと聞いた。その楽園とやらに移住してみるか。
 ――ああ、だけど。
 レミリアは下唇を噛んだ。
 悔しくは、ないのか。
 自問する。
 このまま為すがままに流されて、人間を見返してやろうとは思わないのか。
 それでも貴族か。夜の王か。誇り高き吸血鬼か。
 いっそのこと、この身一つで人間の街まで出向いてやろうか。夜の王と謳われた吸血鬼の恐ろしさを、直接知らしめに行ってやろうか。
 荒れ狂う嵐の海のごとく心は高ぶるが、人の世から幻想が消えつつある今となってはそれもままならない。幻想を信じぬ多数の人間がうごめく場所へと攻め入ろうものならば、返り討ちにされるは明白だった。
 レミリアは天を仰いだ。視界に入るは冗談のように紅く巨大な円い月。
 苛立つ。
 ざわ、と毛が逆立つ。魔力が猛る。沸き立つ怒りがレミリアの身体を駆け巡り、右手に達して熱く燃えた。凝縮された魔力が実体化し、右手の中に一振りの紅い槍を形作る。真紅の稲妻を発するそれを、レミリアは力の限りに握り締めた。
 神槍『スピア・ザ・グングニル』。大神オーディンの持つ伝説の槍の名を冠した魔力の槍である。吸血鬼の持つ魔力を高密度に圧縮した破壊の槍は、全力で放てば万の大軍を一瞬にして消し飛ばす力を秘めている。
 しかし如何に超絶の槍なれど、これを放ったところでどうなるわけでもない。よしんば月に向けて投げたとて、届こうはずもないのだ。
 言うなれば月は異界である。破壊の力で届くような場所ではない。そのようなことはわかっていた。
 ――それでも。それでもなのだ。
 心の奥底から湧き上がるどうしようもない苛立ちを、レミリアは何かにぶつけたかった。
 風が吹く。森の青臭い匂いを含んだ生ぬるい風だ。周囲に纏わりつくそれすらも今は鬱陶しい。
 レミリアは槍を振りかぶった。
 天の月目掛けて、必殺の槍を放とうとしたその瞬間であった。
 凄まじい音と共に、紅魔館が大きく揺れた。
 何事か。
 レミリアは館を振り向いた。地震ではない。それはわかる。今の衝撃は爆発によるものだ。強烈な爆風を撒き散らす何かが、館の中で炸裂したのだろう。しかしおかしい。そのようなものを館に置いていただろうか。人間の襲撃? それにしては、それらしき軍勢の気配は感じなかった。少人数による強攻かとも考えたが、いかに文明の発展著しいとはいえ、個人レベルの装備でここまでの威力を発揮する技術など、人間たちは持っていないはずだった。
 では、何が――。
 コンマ秒にも満たない思考。疑問はすぐに氷解した。
 紛うことなき濃密なる魔力の波動が、さざなみの如く走り抜けたのだ。
 ――何と。
 レミリアは呆気に取られ、ついで、ハ、と渇いた笑いを漏らした。
 どうにも、長い倦怠の月日は己の感覚をも鈍らせたらしい。何も自分を襲いに来るのは人間に限った話ではない。妖怪が妖怪を襲う。昔から幾度となく経験したことではないか。
 しかしこの練り上げられた魔力。いずれ名のある妖怪に相違ない。一体如何なる用件で紅魔館を訪れたかは知らないが、わざわざ自分が不機嫌なときに喧嘩を売ってくるとは不運としかいいようがない。
 憂さを晴らさせてもらおう。飽きるほどに。
 レミリアは獰猛な笑みを浮かべた。もはや心身を苛む倦怠などは影も形もない。レミリアは身体を無数の蝙蝠に変化させると、矢のように駆けた。目指すは魔力の大元だ。紅魔館は己の城。内部の様子など手に取るようにわかる。その中にあってこの異質の魔力はひどく臭う。簡易な迷彩すら施していないところなど、まるで隠す気などさらさらないかのようだ。
 明らかに、誘っている。
 私を試すか。いいだろう、乗ってやる。
 幾枚もの扉を瞬く間に潜り抜け、疾風の如き速さでレミリアは目的地にたどり着いた。
 そうして、レミリアは、彼女に出会った。


/


 紅魔館、一階玄関ホール。数百人の男女がダンスを踊ることができるほどの広さのそこは、見る影もなく荒れ果てていた。年経た赤い絨毯は所々が破れ、大理石で作られた床や柱には縦横にひび割れが走っている。精緻な彫刻の施された彫像も二階へと続く階段も煤と埃にまみれ、さながら爆撃にでもあったような有様だ。
 その中に、一人たたずむ人影がある。
 ゆったりとしたローブを纏った痩身の少女である。あまり陽にあたらないのか、病的なまでに白い肌に濃い紫色の髪がくっきりと映えている。時折僅かに苦しそうに咳をする様子を見ると、本当に病魔に冒されているのかもしれない。
 瓦礫の中にたたずみながら、少女は動かない。その姿は誰かを待っているようにも見える。
 パラパラと天井から細かな欠片が降り注ぎ、少女は帽子についた埃を軽く払った。と、少女の顔が上がった。その視線が正面、中二階へと続く階段をじっと見据える。
「……出てきなさいな」
 少女はそう口にした。呟くようなささやきではあったが、それでもその声は無人のホールによく響いた。その言葉に答えるかのように、
「どちらのご来訪かと思えば」
 何処からともなく飛び来た無数の蝙蝠が少女の視線の先に集まり、見る間に人の形を成してゆく。
「こんなに若い魔女殿とは。いつ以来かしらね? この館に客が訪れるなんて」
 現れたのは水色の髪をした幼い少女だ。桃色のドレスを身に纏い、倣岸な笑みを浮かべている。無造作に階段に腰掛け、こちらを見据えてくるその瞳は血の如き真紅。背より生やした一対の蝙蝠の翼といい、幼い外見ながらもこの館に住まう妖の類であることに疑いはない。
「レミリア・スカーレット、とお見受けするわ」
「いかにも」
 レミリアは稚気を含んだ笑みを浮かべた。
「私は紅魔館の主、レミリア。お前の名は?」
 レミリアの問いに、少女は僅かに逡巡する様子を見せたが、それも一瞬のことである。
「……パチュリー。私の名前はパチュリーよ」
「ふむ、ではパチュリー。招かれざるお客様。用件を伺おうか? 私を退治しに来たとでもいうのかしら?」
「そのつもりはないわ」
「ほう、では?」
「この館を、貰い受けに来たのよ」
 パチュリーの返答に、レミリアは呆気に取られた表情をした。そのような答えは想定していなかったのだろう。一瞬遅れてそのこめかみに青筋が浮かんだが、レミリアは努めて平静を保つと続けて尋ねた。
「……笑えない冗談ね。紅魔館を奪う? 私の城を? よくもまあこの私を前にしてそんな口を叩けたものだわ。……ああ、なるほど」
 レミリアは得心行ったかのように頷く。
「地下の大図書館。それが目的か」
 レミリアの言葉に、パチュリーもまた肯定の沈黙を返す。
「確かに、あの図書館にはこの世のあらゆる知が集まっている。魔道を究めんとする魔女ならば、喉から手が出るほど欲しいだろう。だけど」
 レミリアはゆっくりと立ち上がった。シン、と気温が下がり、空気が鳴動する。重くのしかかってくる大気に、パチュリーは僅かに目を細める。
「そうまで嘗められて、黙っているわけにはいかないな」
 レミリアが笑うと同時、大気が圧を増した。轟、と空気が渦を巻き、嵐さながらの勢いで吹き付ける。パチュリーは片腕を上げて襲い来る烈風に耐えた。爆発的に解放されたレミリアの魔力の余波である。
「かかってきなさい、不遜な魔女」
 レミリアは言った。
「今宵は満月。月下の吸血鬼の恐ろしさ、とくと味わわせてやる」


 吸血鬼の能力の凄まじさは知識にあった。しかし、それでもなお勝機はある、とパチュリーは思う。そうでなければ、満月の夜をわざわざ選んで吸血鬼に勝負を仕掛けたりはしない。月の光は吸血鬼に力を与える。だがそれは魔女である自分も同じことなのだ。月光は己の内の魔力を活性化させ、さらなる力を与える。条件は五分といえた。
 無論、持っている地力には天と地ほどの開きがある。吸血鬼と魔女とでは比較にならないほどの力の差があるだろう。されど己にはその差を補って余りある知識がある。要は戦い方次第ということだ。
 パチュリーは牽制の弾幕をばら撒きながら、レミリアから努めて距離を取ろうとする。基本戦略は懐に入られないこと。吸血鬼の恐ろしさは強大な魔力もさることながら、その凶悪なまでに高い身体能力にある。二十人力ともいわれる吸血鬼の腕力は、己の貧弱な身体など薄紙のごとく引き裂くだろう。
 森を飛び出してからの短くはない年月、ひたすらに魔力を蓄えた。内包する魔力量はこちらが上のはず。まずは息つく間もないほどに撃ち続けて隙を狙う。
 されど。
 パチュリーはすぐに己の目論見が甘かったことを知った。
 止まらない。パチュリーの放つ弾幕の数々を、ものともせずにレミリアはこちらに突っ込んでくる。練り上げた魔力を込めた魔力弾は鉤爪の一振りで軒並み消滅し、周囲を薙ぎ払う光線は馬鹿げた身体能力で回避される。見る見るうちに彼我の距離は縮まり、パチュリーは微かに舌打ち一つ。魔力を練り上げ『オータムエッジ』を高速詠唱。鋼の刃を作り出し、猛進するレミリアへと一息に放つ。高速で飛翔する刃は一枚残らず魔力を帯びている。その数、実に十一枚。いかに頑強な吸血鬼とて、食らえば肉を裂き骨を抉る必死の呪法である。
 しかし、その全てを。
「――馬鹿な」
 レミリアは、涼しげな笑みさえ浮かべながらかわしきる。
 予想外の事態に、対応が一手遅れた。レミリアは薄笑いを浮かべながら魔力を噴出、瞬間的に加速してパチュリーとの距離を一気に詰める。速い。傲然と笑うレミリアの顔が、パチュリーの眼前、触れようとすればすぐ届く位置に出現し、パチュリーは思わず硬直する。
 オータムエッジをかわされたことを一つ目の隙とするならば、まさしくこれは二つ目の隙だった。硬直したパチュリーのその隙を、夜魔の王が見逃すはずもない。
 パチュリーの首筋の毛がそそけだった。腹に、ずん、と溜まった重い塊を恐怖と認識するよりも早く、パチュリーは限界速度で詠唱をつむぐ。呪法が完成するのと、レミリアの腕が振り下ろされるのとはほぼ同時。瞬時に構築された魔法盾が悪魔の鉤爪を受け止め、魔力の光を散らす。強固な魔力で編み込まれた魔法盾があまりの衝撃に大きくたわみ、そして、
 ――受け止めきれないっ!
 二十人力を誇る吸血鬼の一撃が、魔法盾をやすやすと切り裂いた。パチュリーは咄嗟に身をひねり、
 左腕に灼熱。そして体内に響く、ざん、と、身の毛もよだつ音。
「……っく!」
 腕を落とされた。歯噛みする暇もあればこそ。襲い来る激痛は痛覚神経にありったけの魔力を流し込んで無理やり遮断、切断された左腕からの出血は、体内の血流を水の呪法によって操り一時的に緩和する。追撃を迫るレミリアのその顔面に、パチュリーは加工していない生のままの魔力を叩きつける。衝撃。炸裂した魔力が巻き起こした小爆発の余波で右手の皮膚が消し飛び肉までも焼け焦げる。爆発をもろに受け、のけぞったレミリアはそのまま宙でくるりと一回転すると、中途から折れた柱の上にふわりと舞い降りた。
「なかなか」
 レミリアは笑った。顔面に火傷。しかしその傷も、吸血鬼の超恒常性維持能力によりたちまちのうちに復元していく。
「多少はやるようだけど。しかしこの程度? それではつまらんな」
「……言ってくれるわ」
 パチュリーは荒い息をつく。ダメージなど欠片もないように見えるレミリアに対し、こちらの損害は大きい。左腕を失い、右手も肉が炭化し骨が覗く有様だ。魔術により出血を抑えたとはいえ、傷が深い。早急に処置をせねば命に関わるだろう。
「降参する? 無論、負けを認めたからといってただでは済まさないけれど」
「冗談」
 出血により意識を失う前にパチュリーは一続きの呪文を詠唱。傷ついた両腕を元通り復元させる。
 パチュリーは再生した腕の調子を確かめるように、ぶん、と一振りさせるとレミリアを睨みつけた。
「続行か。いいだろう」
 レミリアは背の翼をばさりと一打ち、再び宙に舞い上がる。
「幻想の消えつつある世界の片隅で、妖怪同士が人知れず火花を散らす。老いゆく世界への鎮魂歌を奏でよう。それも出来るだけ派手に仰々しく。辛気臭いのは真っ平よ。そう――」
 レミリアは謳う。一語一語に千の感慨を込めて。


「――こんなにも月が紅いから」


/


 自分が一体いつの時代、どこの国で発生したのか、レミリア・スカーレットは覚えていない。妖怪とはそもそういうものだし、自分のルーツに興味はない。どうでもいいとレミリアは思う。ただ自分には領地と、屋敷と、フランドールという妹がいた。それだけで十分だった。
 レミリアは、五歳下の妹をことの外かわいがっていた。この世に二人きりの姉妹なのだから、と事あるごとに言い聞かせ、一人前の淑女となれるよう懸命に世話をした。フランドールもまた、偉大な姉を誇りに思い、尊敬し、その期待に応えられるよう努力を惜しまなかった。
 二人は仲睦まじい姉妹として、幸福な日々を送っていた。
 ずっとずっと、この退屈だがそれなりに楽しい日々が続くものと、そう信じていた。
 そう、あの時までは。
 あの出来事はよく覚えている。いや、忘れようにも忘れられないと言ったほうが正しいのかもしれない。確かあれは、何十年か昔のことだ。よく晴れた、三日月の夜であった。黒の天幕をかぶせたような漆黒の夜空に、笑う魔女の唇のような月がやけに黄色く光っていた。
 長い夜の無聊を慰めようと、愛する妹の元へ赴いたときのことだった。ドアをノックしようとして、レミリアは奇妙な違和感を感じた。
 部屋の中は静かなものだし、別段ドアに変わったところなどはない。しかし、虫の知らせとでもいうのだろうか、ひどく不吉な、ありていに言えば『嫌な予感』というものを感じ取ったのだ。
 心当たりは、ないでもなかった。
 フランドールには危ういところがあった。ありとあらゆるものを破壊する程度の能力。およそ個人のもてる力としては最大級の能力を持って生まれた妹に、レミリアは口をすっぱくして力の使い方を説いたものだった。
 何事か起きたのかもしれない。
 レミリアは妹の部屋のドアを開け、中へと踏み込んだ。
 そして見たあの光景は、今でも目に焼きついている。
 暴力的なまでの赤で染め上げられた部屋。無残に破壊された肉の塊。むせ返るほどの血臭。夜空を切り取った窓の向こうで、三日月がニタニタと笑っている。そして、月光を背にし、空の月と同じ形に唇をゆがめた愛する妹の顔。
 声をかけることなど、出来なかった。
 妹はこちらに気づくと、「あら」と不思議そうな声を出し、手にした何かを床に放り出した。レミリアは床を転がるそれに目を移し、それが館で雇っていたメイドの頭部であると悟った。
「こんばんは、お姉さま。何か御用かしら?」
「……この有様は?」
「あんまり退屈だったから」
 フランドールは血に染まった顔を、ちょこん、と小さくかしげた。
「遊んでもらっていたの。でもおかしいわ。この子、さっきから全然動かないの。声をかけても返事をしないし。眠っちゃったのかしら。ねえ、お姉さまからも言ってくださらない? 人と遊んでる最中に寝るなんて、なんて失礼なのかしら」
 いつもとまるで変わらぬ平静な、無邪気とさえ言っていいその声で、レミリアは理解した。
 心が、壊れたのだ。
 そう、妹は、フランドールは自分の能力で自分の心を破壊してしまった。
 幻想が消えつつあることの弊害であった。存在の力が弱まったため、強力すぎる自分の能力を今までのように制御することが出来なくなったのだ。
 いつかは来るかもしれない、と思っていた。そのような事態にならぬよう、気をつけてもいたはずだった。
 しかし現実は、あくまでも非情であった。
 レミリアは妹を地下室に厳重に幽閉した。けして彼女を外に出すわけには行かなかった。フランドールの理性のタガは外れていた。一度世に放てば文字通りありとあらゆるものを破壊しつくすだろう。
 時の流れだけが彼女を癒すと、そう信じた。
 でも本当は、ただ単に目を背けたかっただけなのかもしれない。
 一人になった。
 外の世界では人間同士が争いを始めたらしく、館を訪れるものもなくなった。
 時折レミリアは地下の妹の元へ顔を出した。いつ訪れようとも、妹は変わらず狂気と力を振りまいていた。倦まず弛まず、レミリアは普段と変わらぬ態度で妹と接し続けた。
 広大な領地と、館と、力を持ちながら、レミリアは孤独というものがどういうものなのかを理解した。
 幻想は死に瀕している。力は消えてゆく。
 共に歩むものもなく、レミリアは一人であった。


 この程度ではないだろう、とレミリアは思う。
 先ほどからあの魔女は通常弾幕しか使用してこない。眠っていても避けられる、あくびが出るほどに退屈な攻撃。仮にもこの自分に喧嘩を売ろうという魔女が、この程度で終わるはずがない。致死性を秘めた十一枚もの魔力の刃を瞬時に作り上げた術の構成の巧みさ。吸血鬼の攻撃速度を超えるほどの、瞬間的と言ってもいい詠唱の速さ。重傷を瞬時に癒す魔力の膨大さ。全てが掛け値なしの一級品だ。まさしく知の集大成。知識の魔女といって過言ではない。そんな化け物が、これだけで終わる道理がないのだ。必ず何か隠し玉を持っている。そのはずだ。
 見せてみろ、とレミリアは思う。
 単調な攻撃の連続など自分には通じないともうわかっているはずだ。その先を見せてみろ。
 レミリアは右腕に魔力を集中、手の内に三本の紅い槍を生じさせると一息にパチュリーへと投げつける。対するパチュリーは風に舞うかのように気流に乗って攻撃を回避。反撃とばかりに放たれた超圧縮された水弾を、レミリアは身体を霧へと変えてやり過ごす。先ほどからこの調子でこちらの誘いにもあの魔女は乗ってくる気配を見せない。まるで風に揺れる草を相手にしているかのような手ごたえのなさ。あくまでも、こちらに先手を打たせる腹か。
 レミリアはチッ、と舌打ちをした。かくなる上は罠とわかっていても踏み込むか。
 魔力を駆使してあれを一瞬で葬ることは容易い。しかし、そんな勝ち方をして何の楽しみがある。あいつは久しぶりにこの館を訪れた客人なのだ。一息に潰してしまっては何の面白みもないではないか。それに何が待ち受けていたとしても、それを正面から叩きのめすのが王者たるものの勝ち方ではないか。
 よかろう。乗ってやる。
 一呼吸。二呼吸。三つ目を吸うと同時に、体内の魔力を解放する。膨張した魔力が気流を生み、周囲のものを根こそぎ宙へと巻き上げる。天と地がレミリアの魔力に呼応し、激しく振動する。
「行くわ。知識の魔女」
「来なさい、吸血鬼」
 レミリアの言葉に、パチュリーもまた応える。
 その意気やよし。
 レミリアは膨れ上がった魔力の大部分を推進力に変換。猛然と宙を駆けた。背に生えた一対の翼が白い水蒸気の尾を引く。その速度はもはや肉眼で追いきれるものではない。数瞬の後にはあの貧弱な魔女の首を宙に飛ばすだろう。もはや通常の詠唱では追いつくことなど到底かなわない。
 しかし、このままでは終わらぬはずだ。レミリアはそう確信する。予感ではない。運命ともいうべき確実さで、必ずやあの魔女は何かを仕掛けてくる。
 どう応える。どうかわす。距離が狭まる。時間にしては刹那の出来事。獲物を捕らえる鷹のごとき眼差しで、レミリアはパチュリーの一挙手一投足を注視する。そして。
 レミリアの鉤爪がパチュリーに届くまでの僅かな間。時間にして数百分の一秒にも満たぬその一瞬に、魔女の口が小さく動くのをレミリアは確かに視認した。
 ――まさか。
 ありえない。速過ぎる。
 一体、どうやって。
 疑問と同時、凄まじい威力を持った何かが、レミリアの腹で爆裂した。
「ごっ」
 恐るべき一撃であった。鳩尾の辺りに突如として生じた巨大なる衝撃はレミリアの胸骨を砕き、内臓を容赦なく蹂躙し、背骨までをも粉砕した。肺腑が潰され行き場をなくした空気が肺胞を破壊し、血液が逆流。瞬間的に血圧が高まり身体中の毛細血管が破裂を起こす。両目、鼻、耳、あらゆる場所から血糸が流れ出し、鮮血混じりの吐瀉物を撒き散らしながらレミリアは悶絶した。
 何をされたかなど、考えることすらできなかった。胴が繋がっていることすら僥倖である。なす術なく地面に落ちたレミリアは、無様に地面を転げまわった。打たれた箇所から煙が上がっている。肉が焼かれているのだ。傷の治りも遅い。何がしか、退魔の業を喰らったに違いあるまい。げっ、と呻きを洩らして、またひとつ血の塊を吐き出す。まだ己は滅んでいない。ならばこの傷も吸血鬼の能力でいずれ癒える。しかし、それまでの数秒間はこの苦痛に耐えねばならない。
 無限とも思える数秒。
 そしてその隙を、あの魔女が見逃すなどあろうはずがない。
 猛烈な速度で迫る強烈な熱気。それを感じたときにはもう遅い。
 地に落ちた悪魔を焼き尽くさんと、アグニレイディアンスの大火炎が唸りを上げて襲い掛かる。


 燃え盛る炎に包まれて膝を折る吸血鬼を、パチュリーは荒い息をつきながら見据えていた。
 今頃になって冷や汗が吹き出る。忘れていた心臓の鼓動がひどく遠くから耳に届く。息が苦しい。ふらり、とよろめきかけ、パチュリーは己の足が震えていることに気づく。いや、足だけではない。震えているのは全身だ。胸の奥に異物感。まずい、と思ったのも束の間、胸の中身を締め上げられるような痛みに襲われ、パチュリーは激しく咳き込んだ。血の雫が飛び散り、苺のような赤い染みを点々と床に作る。
 ――いけない。
 パチュリーは胸の痛みを堪えつつ自らの魔力を制御。乱れていた気脈を整える。
 余りに無茶をしすぎた。だが、そうせざるを得なかった。
 身体施呪。圧縮言語。多重詠唱。三つの大魔法を駆使してなお紙一重。まさしく髪の毛一本の差であった。半ばほどはこの命はないものと諦めていた。今、こうして首と胴が繋がっていることが不思議に思える。命を拾ったことを思えば、喀血などいかほどのものだろう。
 危ないところだった。掛け値なしにそう思う。
 吸血鬼は地に伏したまま動かない。それも無理もないといえた。多重詠唱により土行と金行を組み合わせたオリジナルスペル『エメラルドメガリス』は、確実にレミリアの急所を打ち貫いた。地より喚び出した破魔の翠玉柱は、並の妖怪であれば百度は滅せる力を秘めている。それがあの速度とカウンターで直撃したのだ。無事で済むはずもない。追撃で放ったアグニレイディアンスの炎もただでは消えない。このままあの吸血鬼を灰へと変えてくれるだろう。
 ――倒した。息の根を止めた。
 パチュリーは、はぁ、と息をつくと心なしか身体の力を緩めた。我ながら無茶をしたものだと思う。伝説に謳われる吸血鬼の力、侮っていたわけではないが想像以上だったことは認めねばなるまい。
 しかし、これで目的は果たせる。悪名高き紅魔の大図書館。その蔵書はいかほどのものだろう。少なくともあの森の館以下ということはありえまい。未だ読んだことのない本もたくさんあるのだろう。長い無聊を慰めるのに、これ以上の環境はない。
 あの吸血鬼にはかわいそうなことをしたけれど。仕方ない。弱ければ狙われる。奪わなければ奪われる。自分も嫌というほど教えられたこの世の摂理だ。
 パチュリーは呼吸を整えると、一歩を踏み出した。まずは戦闘で荒れたホールを片付けねばならない。図書館の本を読み終えるまで、当分の間ここに住むことになるのだ。その後のことはまだ決めてはいないけれど、先のことは先のことだ。読書が終わりそうになってから考えればいい。
 とにかく、あちこち整備して、人払いの魔法をかけて、館の間取りも把握して――やることは山ほどある。しばらくは寝る暇もないだろう。その前に少しでも休息が欲しい。ベッドのある部屋はどこだろうか。
 パチュリーが思案に沈んだ、その瞬間であった。
 レミリアが動いた。
 完全に虚を突かれた。超人的な速度で飛び起きたレミリアはバネ仕掛けの人形のように跳躍し、炎に包まれたままの手でパチュリーの首を、がしり、と掴んだ。
「ぐっ」
 ――油断!
 パチュリーは目を見開いた。しくじった? 馬鹿な。あれほどの攻撃を受けて。
 パチュリーはもがいたが、燃えるレミリアの手はパチュリーの白い首筋を凄まじい力で締め上げる。声が出せない。じゅう、と肉が焼ける音。アグニレイディアンスの炎がパチュリー自身をも焼いている。
「……やってくれたわ」
 囁くレミリアの声はしゃがれていた。声帯が焼かれているのだ。しかし信じられぬことに、あれだけの炎に焼かれ今もまだ炎に包まれながらも、その顔は未だ原形をとどめている。焼かれる端から信じがたい速度で再生を繰り返しているのだ。
「まさか、ここまで出来るなんて思いもしなかった。正直、侮っていた。そこは素直に詫びよう。私を地に叩き落すほどの相手なぞ、数百年は見なかった」
「……っく」
 レミリアの指の力が強まる。呼吸が出来ない。このまま窒息させるつもりか。いや、吸血鬼の力ならば首を千切り飛ばすことなぞ造作もないだろう。
「お前が一体何者なのか、非常に興味がある。だけど、私もひどくやられてしまった。購ってもらおう。お前のその血で」
 レミリアは口を開けた。口腔内にずらりと並ぶ剣の列。一際長く伸びた二本の犬歯。パチュリーの顔から血の気が引いた。レミリアはまるで恋人にでも口づけするかのようにパチュリーの首筋に唇を寄せる。熱い吐息。レミリアは焦らすかのように、ちろり、とパチュリーの首を少し舐め、一息にその頚動脈に牙を突き立てた。
「ああっ……!」
 灼熱の痛みと身体に異物が挿入される感覚に、パチュリーは呻き声を洩らした。整えたばかりの気脈が再び乱れた。肺腑の奥底から熱い塊が込み上げ、パチュリーは喀血した。血飛沫の混じった咳をする度、ますます無慈悲に吸血鬼の牙が食い込んでくる。息が出来ない。手足が痙攣する。血と共に魔力もまた吸い取られているのだ。
 レミリアはあまり多量の吸血を行うことは出来ないと聞いてはいる。しかし頚動脈を傷つけられているのだ。吸い殺されることはないかもしれないが、放っておけば失血死は免れないだろう。かといってレミリアの牙が刺さったままでは治療が出来ようはずもない。
 待てば死ぬ。それは必定。ならばどうする?
 時をかけてはいられない。待つことは出来ない。逃れるなら今しかない。
 パチュリーは歯を食いしばった。喉元までせり上がってくる血の塊を嚥下し無理やり咳を抑え込む。
 ――失敗すれば、死。
 腹を決めた。
 パチュリーは、喉に食いついたまま離れぬレミリアの両肩に手をかけ、身体の間に足を割り込ませ、
 そして、
 気合と共に、思いっきり、レミリアの身体を突き放した。
 ブヂリ、と、この世のものとも思えぬ音がパチュリーの首から響き渡った。
 目も眩むような激痛と共に、赤い噴水が迸る。
「馬鹿な」
 呆然と呟くレミリアの声。急速に遠くなっていく意識を必死で現世に繋ぎ止め、パチュリーは出来るだけ焦らず冷静に己の状態を確認する。首の肉が抉れた。頚動脈も切断された。出血量は甚だしい。しかし気管は傷ついていない、舌も動く。ならば――間に合う!
 パチュリーは待機させていた身体施呪を発動。体内の血流を制御し首からの出血を最小限に留めると同時に気管及び舌下神経、心肺能力を強化、高速詠唱の準備を完了させる。さらに多重詠唱にて治療魔術を同時展開、首筋の傷の修復、造血、乱れた気脈の再調整を図る。使用する言語は高密度に圧縮された特製の圧縮言語。複数魔術の高速並列処理は並の魔法使い百人がかりで為しえる魔術を短時間で実行しえる。
 無論、何度も行えるような技ではない。強力な術技には相応の代償が伴う。先の三重詠唱とあわせて二度もの大魔法の使用はパチュリーの肉体に深刻なダメージを与えている。使えるのは後一回が限度だろう。
 我に返ったレミリアが襲い掛かってくるのを横目で捉え、パチュリーはさらにもう一つタスクを増やす。水行奥義『ベリーインレイク』。氾濫する河川の凄まじさにも似た超高圧の水流は吸血鬼の苦手とするもののひとつだ。身を翻すレミリアを尻目にパチュリーは気流を操りレミリアから大きく距離をとる。
 ――ここが正念場。
 吸血鬼に止めを刺さんと、パチュリーはさらに詠唱を開始する。


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 本こそが自分の全てであった。
 傍らに本があったからこそ、己は今ここにある。
 飢えないための方法も、身につけた力の数々も、全ては本が教えてくれた。
 今でも夢に見ることがある。遠い日の記憶だ。森の中でただひとりきり、過ごしていたときのこと。未だ見ぬ父と母の帰りを待ちながら、開かぬ扉のその前で本を読みながらまんじりともせずに夜を明かす。幾年も繰り返した、色あせた日々の記憶だ。
 セピアに染まった夢の中で、パチュリーはひたすらに本を読んでいた。
 何故自分がそうまでして本にこだわるのか、パチュリーはうまく言葉に出すことが出来ない。それは常に自分の身近にあって、もはや自分の一部ともいえたから。
 ただ、本を読んでいる間だけは、全てを忘れられた。活字の海に溺れている間だけは、現実の諸々を忘却することが出来た。ゆったりと蝸牛のごとく遅々と這う時の歩みも、書に没頭している間だけは矢のように過ぎ去った。森の誰知らぬ館の中で、ただ一人両親の帰宅を待つ身の上なども、すっかりと忘れ去ることが出来たのだ。
 魔道書に限らず小説や随筆、紀行に詩文。館にある本は、手当たり次第に読み漁った。中でも他者との関わりを主に描いた物語などは、パチュリーのお気に入りだった。活字の世界で生き生きと動く登場人物たちに、パチュリーは嫉妬にも似た憧れを抱いていた。
 しかし、それも所詮は水面に映る月。己の手の届くものではない。
 夢の終わりは、いつも同じようにやってくる。
 殴りつけられる扉。憎悪に顔を歪めた人間たち。振り下ろされる棒と鈍い痛み。そうして、最後には全てが炎に包まれる。
 叫びと共に目を覚まし、汗にまみれた額をぬぐいながらパチュリーは思う。
 何故、私はあんな目に遭わなければいけなかったのだろう。
 私は両親の帰りを待っていただけなのに。誰にも迷惑なんてかけるつもりはなかったのに。
 ただ静かに、両親と森の中で暮らしていければ、それでよかったのに。
 私が魔女だから、人間ではないから、それだけの理由で迫害されなければいけないというの?
 悲しみは怒りに、そして憎悪に変わる。
 力が要る。誰にも負けないような、誰からも馬鹿にされないような、そんな力が。
 弱ければ、狙われる。だったら、誰よりも強くなればいい。
 館にあった、魔道の奥義書。血のにじむ研究と研鑽のその果てに、ついに秘奥はこの手に掴んだ。
 他者などはいらない。
 私の傍らには、本さえあればいい。
 それを邪魔する奴らは、全部燃えてなくなってしまえばいい。
 孤独というものがどういうものなのかは知らない。自分がそうだといわれればそうなのかもしれない。でも、それならそれで構わないとパチュリーは思う。
 共に語るものなどなく、パチュリーは一人であった。


 甘く見ていた、どころの話ではなかった。
 ベリーインレイクの濁流をかわしきり、レミリアは我知らず呻き声を洩らした。
 目の前のあの魔女は、間違いなく最強だ。加減など出来る相手ではない。そう思い知らされた。熾烈極まりない奥義の数々。勝利のためには己の命すら顧みないその精神。超絶無比たる魔道の冴え。
「――ハ」
 レミリアは自嘲の笑みを浮かべる。
 何が。
 何が『一息に潰してしまっては何の面白みもない』だ。
 あれは魔物だ。あらゆる知識を貪ったその果てに、想像もつかぬ力を手に入れた恐るべき怪物だ。己の全てを以ってかからねば、こちらが食われる。久しく会わなかった、否、恐らくは初めて出会う己と同格以上の相手。
 パチュリーの詠唱が完了する。今は半身を血で染めた紫色の少女、その周囲に浮かぶ五つの水晶。色はそれぞれ赤、青、緑、黄、紫。その光景を一目見て、レミリアは数百年ぶりに背筋が凍る感触を味わった。
「……石か!」
「まさしく」
 レミリアの叫びにパチュリーはそっけなく答える。
「ああ、なるほど。合点がいったよ、魔法使い」
 レミリアは震える拳を握り締めた。
「私の速度を凌駕する詠唱速度。致命傷をも即座に完治させる馬鹿げた術式に異常な威力を秘めた攻撃魔法。さらにはそれらを同時に操る多重詠唱ときたものだ。なるほど、かの伝説の賢者の石でもなければ適わぬ芸当だ」
「……」
「となれば、その血の一滴一滴にまで満ち満ちた魔力の説明もつく。……お前、石に食われたな? その身体、もはやまともな方法で動いているわけではあるまい。魔力のみで生を永らえるリビングデッド。完全に死んではいないものの、それに近い状態にあるのだろう?」
 レミリアの指摘に、パチュリーは暫し沈黙したが、
「……わかるものなのね」
「私を誰だと思ってる。そこまではっきりと濃い死の影を、私が見落とすはずがないだろう」
「……あなたの言うとおり。石を一つ作り出すのに、肺を食い破られた。二つ目で心臓を侵され、三つ目で血液が変質した。四つ目で筋力を持っていかれて、五つ目で生命力そのものを削られた。これは呪いみたいなものでどんな魔法でも治癒させることは出来ない。素の身体能力は人間以下。魔力で身体能力を常にブーストさせていなければ、戦うことも出来ない。今の私は石の魔力だけで生きている――生かされている。もしも私がこの石を失えば、たちまちのうちに呼吸が止まり死に果てるでしょうね」
「聞かせなさい、知識の魔女。そんな身体でなお私に挑む理由は何? 書物を手に入れるため、本当にそれだけなのか?」
「それだけよ」
「本当に?」
「くどいわね、レミリア・スカーレット。私は書物と共にある。書物と共にあるものこそが私。私の側には本さえあればいい。それ以外には何もいらない。家族も、友人も、敵も味方も。何もかも。世界でさえも。その邪魔をするというのなら、容赦はしない。誰であろうと、何であろうと、全て燃えてなくなってしまえばいい……!」
 言葉と同時、パチュリーの身体から巨大な魔力が立ち上る。周囲に展開した賢者の石が、金切り声を上げて共鳴し、各々が詠唱を開始する。石から放たれた指向性魔力波が紅魔館の二階から上を完全に破壊し、さらには屋根までもを粉砕した。遮るものの無くなった黒々とした夜空に浮かぶ、禍々しいほどに紅い月。
「紅い月の元に滅びなさい吸血鬼。五行奥義『賢者の石』――そして」
 パチュリーは宣言する。
「――『サイレントセレナ』。六重詠唱」
 白光が、空間を支配した。


 それは光の狂乱だった。
 ホールを埋め尽くす恐るべき弾幕密度。糸一本、蟻一匹すら通さぬかのような偏執染みた魔力弾の洪水。賢者の石が金切り声を上げるたびに大量の弾が吐き出され、ホールを床といわず壁といわず天井といわず破壊しつくしていく。いかに悪魔の居城とはいえ、こうまで無茶をされては保つはずもなく、屋敷を構成する構造物は瓦礫に、瓦礫は破片に、破片は塵に、塵は埃へと瞬く間に姿を変えていく。さらにそれだけの破壊を巻き起こしてなお、時を追うごとに弾幕はさらに激しくなっていく。一秒ごとに、目に見える形ではっきりと。
 聞いたことがある。遥か東方に伝わる五行相生の理。木は燃えて火を生み、火の後に残った灰が土へと還り、土の中からは金属が生まれ、金属の表面には水滴が生じ、水は木を育てる。即ち、木生火、火生土、土生金、金生水、水生木。永劫続くこの世の摂理であり真理の一つ。それと同じように、パチュリーの操る賢者の石も、木火土金水、五つの属性がそれぞれを高めあっているのだ。
 レミリアは見る。パチュリーの周囲で陣形を組むかのように浮遊する賢者の石。その間に莫大な魔力の径が通っている。あの径それ自体が魔法陣の意味を成し、五行相生の効力を最大限に高めているのだろう。
 そして、天より降り注ぐ白光がレミリアの身体を容赦なく射抜く。サイレントセレナ。月光そのものを弾幕と化したその莫大な魔力。己と戦うに当たってわざわざ満月の夜を選んだのはこのためか。賢者の石といい、あの少女はその鉄面皮の内にどれだけの暴力性を隠しているのだろう?
 弾幕はいよいよ激しく、発狂したかのように雨あられと降り注ぐ。百万の軍勢から矢を射掛けられているようなものだ。被弾は避けられない。避けられようはずがない。このまま攻撃を受け続ければ、不死身と謳われる吸血鬼でも間違いなく消滅は免れ得ないだろう。
 無限とも思える弾幕に文字通りその身を削られ、レミリアは身体を震わせた。――恐怖? それもある。だがそれ以上に。
 楽しいと、そう思う。
 寸刻みに身体を砕かれ、再生した端から磨り潰され、血反吐など吐き尽くし、地獄のような痛みに地面を無様にのた打ち回りながらも、それでもなおレミリアは哄笑した。抑え切れぬ歓喜に。生まれて初めて出会った、己の全てをぶつけられる相手に。
「敬意を表する。知識の魔女」
 レミリアは嘯いた。
「レミリア・スカーレットの名において、全力を以って相手をしよう!」
 叫ぶと同時、レミリアを貫き続ける弾幕が爆風にかき消されるようにして四散した。魔力解放による全方位爆撃――『霊撃』の術式は一時的ではあるが効果範囲の全ての弾幕を消滅させる。
 推進力にしか使っていなかった魔力を全て攻撃に向ける。純化され、際限なく高められた魔力が血の如き紅い色を帯びてレミリアの右手へと集い、雷雲さながらの稲妻を散らす。大気が振動する。館中の壁という壁に亀裂が走り、膨れ上がる魔力の余波に耐え切れず崩壊し始める。美しかった紅魔館が、主の手で瓦礫の山へと変えられていく。
 しかしレミリアは頓着しない。そのような余裕などはない。吸血鬼の面に浮かぶのは闘争の愉悦、それのみだ。
「私の槍。この世に二つとない、超絶無双の神槍。見事受けきってみるがいい、知識の魔女!」
 立ち上がる。右足は既に無い。左足は足首から下が消失して赤黒く無惨な断面をさらしている。レミリアは練り上げた魔力を傷口から放出。魔力で編まれた疑似神経網を構築し、痛みを核に魔力を実体化、紅色の炎で編まれた仮初の両足を形作る。もはや再生に魔力は回せない。一時的に大地を踏みしめることが出来ればそれでいい。
 レミリアは槍を振りかぶる。槍を握り締めた右手が、加えられる力の余りの大きさに自壊を引き起こすがレミリアはそれすらも無視。背筋が、ギヂリ、と音を立てて収縮し、背の翼が高まる魔力の熱を放出するため大きく広がる。
 幻想の力。
 かつては思うがままに振るえたこの力。今となっては妖怪同士の抗争でしか振るうことの出来ないこの無比なる神槍。
 だからこそ感謝する。この世界で再び槍を使わせてくれた、その相手に。
 ――とくと見よ。これなるが我が自慢の神槍。吸血鬼レミリア・スカーレットが放つ最強の一投!
 噛み締めた牙がピシリ、と甲高い音を立ててひび割れたその瞬間、
「神槍『スピア・ザ・グングニル』!」
 満身の力と万感の思いを込め、レミリアは槍を投げ放った。


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 レミリアの手から放たれた槍の一投げは、絶技の一語を超越して余りあった。槍の発する莫大な魔力の影響で大気が沸騰し一直線の紅い帯を引く。槍の穂先が触れるものはことごとく消滅させられ、まさしく塵は塵に、灰は灰へと還っていく。それは賢者の石から放たれる魔力弾すらも例外ではない。槍が触れるものは瓦礫であれ、弾幕であれ、大気であれ、空間であれ――全てが等しく無へと変換される。さらにその速度は彼我の距離すら無視をした。紅色の電光を撒き散らしながら宙を飛ぶその速度は比喩するならば稲妻。瞬きをする間もなく、宙を飛ぶパチュリーの元へと到達する。この槍をもってすれば、月すらも穿てる。一時はレミリアをしてそう豪語させたほどの魔技。吸血鬼としての全ての能力を込めた、無二の業である。
 避けることなど適わない。受け止めることなど適わない。放たれたが最後、全ての存在を無へと帰す、最強の神槍。スピア・ザ・グングニル。
 しかし。
 されど。
 それでも、なお。
「……ありえぬッ!」
 レミリアは叫んだ。叫ばずにはいられなかった。眼前の光景が信じられない。最強を自負する己の奥義。何者をも貫く無敵の槍。
 それが。
「グングニルをも凌ぎ切るつもりか! 知識の魔女!」
 槍が、止まっていた。パチュリーの眼前で。


「…………ッ!」
 パチュリーは歯を食いしばっていた。
 レミリアが霊撃を放った瞬間、何かを仕掛けてくると思った。だからこそ備えが間に合った。一時的に圧倒したとはいえ相手は音に聞こえし伝説の吸血鬼レミリア・スカーレット。それがこのままで終わるはずが無い。そう確信していた。
 それでも。
 ――まさか、これほどのッ……!
 前面に展開した防御陣に阻まれ、確かにグングニルは停滞している。しかし、それでもこの魔力の槍はまだ死んではいない。否、死んでいないどころか、
 ――押しとどめるのが精一杯。しかし、それも長くはもたない……!?
 賢者の石は五つ全て防御魔法のサポートに回している。五行相生も健在だ。それでもなおこの槍を押しとどめるには出力が足りない。
 馬鹿な。と思う。相手は吸血鬼、伝説の存在。それもわかっている。だからといって、賢者の石を全力稼動させてまだ届かぬなど、そのような馬鹿な話があるものか。
 レミリアが叫んでいる。よっぽどグングニルを止められたことが衝撃だったらしい。
 パチュリーは唇の端に苦笑を浮かべる。
 どこまでも傲慢で、人を見下した腹の立つ奴。
 でも、強い。
 掛け値なしにそう思う。
 金属を研磨するような、ギャリリリリリ、という甲高い音が響き渡る。あくまでパチュリーめがけて進撃しようとするグングニルと、それを押しとどめようとする防御陣とが鎬を削る轟音だ。前方にかざすパチュリーの腕が痙攣している。削れ合う魔力の余波で、皮膚が破れる。毛細血管が破裂し、爪の間から血が噴き出す。賢者の石はとっくに超過駆動だ。押し返すことなど出来ない。消滅させるなど論外だ。ならば、進路を逸らす。それ以外にない。
「ぐうううううっ!」
 パチュリーは己の魔力をさらに高め、防御陣へと加える。猛烈な反動で両手の爪がはがれる。皮膚が消し飛ぶ。肉と骨がバラバラになりそうな衝撃。堪える。堪えなければならない。何を失おうとも、今ここで魔力を制御している腕を失うわけには行かない。そうなれば最後、あの槍は防御陣をやすやすと貫き、己の命を奪っていくだろう。噛み締めた唇が破れ、血の雫が伝い落ちる。気脈の乱れは今のところはない。賢者の石が力を貸してくれている。だが、出力が足りない。進路を変えさせることすら至難の業。これだけの力を以ってしても、あの吸血鬼にはまだ届かない。腹が立つ。何にだろう。それはわからない。あの吸血鬼に腹を立てているのかもしれないし、無力な自分に腹を立てているのかもしれない。ただ何かが無性に憎い。脳裏に様々な光景が浮かんでは消える。誰もいない森の洋館。大量の本で埋まった書庫。飢えの記憶。本を読む日々。顔も見たことの無い父母。襲い来る人間と、全てを圧する炎の渦。長い旅路。漂泊。漂泊。旅先で出会った人々。また漂泊。魔道の奥義。賢者の石。紅魔の館。吸血鬼。腕が飛んだ。首を抉られた。苛立ち。苛立ち。苛立ち。目が眩む。チカチカする。酸素が足りていない。何かを考えることが出来ない。それでも唇は呪文を紡ぎ続ける。まるで自分にはそれしか出来ないかのように。何のためにこうしているのか。もう楽になっていいのではないのか。そうまでして自分は本当に書物を求めているのだろうか。何かがあった気がする。その他に、何か。私が求めていたものは、本当に書物だったのだろうか。その先が、あったのではなかったろうか。無駄なことを考えている。今はそんなことを気にしている場合ではない。私は詠唱を続けなければならない。何のために。わからない。だけど、唱え続けなければならない。魔力が足りないのだ。だから唱える。純化する。己を高める。際限なく。もっと。もっと。私は詠唱を続ける装置だ。それにならなければならない。装置は何も考えない。だから私も何も考えない。魔力を高める。練り上げる。さらに高みへ。さらに――


 そして。
 それはやってきた。


 ビシリ、と響き渡った甲高い音で、パチュリーの意識は現世に引き戻された。世界に音と色が急速によみがえり、突如あふれかえった情報の洪水に、パチュリーはかすかな混乱を覚えた。そこへ、
 ビシリ、とまたひとつ。今度は無視しえぬほどにはっきりと、その音は鳴り響いた。
 ――石が!
 ひび割れている。魔力許容量の限界を遥かに越えた超過駆動に、賢者の石そのものが耐え切れなくなったのだ。
 まずい。そう思ったのも束の間。
 硝子を砕くような音と共に、四つの賢者の石が砕け散り、そして、
「――――!」
 回避も防御も不可能と見て取ったパチュリーが最後の石を自らの生命維持に回すのとほぼ同時、スピア・ザ・グングニルは防御陣を薄紙のごとく突き破り、紅い稲妻となってパチュリーの身体を貫いた。
「がッ、はッ……!」
 衝撃。激痛。全身を襲ったあまりの衝撃に呼吸が止まり、弾丸のように弾かれた身体は錐揉みに回転しながら紅魔館の頑丈な石壁に激突、その身の半ばまでもを壁に埋め込んだ。激突の衝撃で肺が潰れ、空気と共に鮮血を吐き散らしながらパチュリーは悶絶した。ズルズルと血の痕を残して床へとずり落ち、パチュリーはそのまま動きを止める。
 パチュリーの身体を貫通したグングニルはそれだけでは飽き足らず紅魔館の支柱をも粉砕して突き進み、壁を破壊して館外に飛び出すと紅色の流星となって宙を駆け、紅魔館を囲む天険の一角に着弾、恐るべき地響きと共に凄まじい大爆発を起こして山を一つ完全に消滅させた。
 だらだらと唇の端から血を流しつつ、パチュリーは襲い来る激痛を遮断しようと試みるがうまくいかない。魔力が乱れている。呼吸が出来ない。身体が動かない。それもそのはず。
 猛獣の如く襲い掛かったグングニルはパチュリーの右半身を完全に消滅させていた。半切れになった身体から臓物が滑り落ち、びちゃりと湿った音を立てて地面にぶちまけられる。パチュリーの生命の危機を感じ取った賢者の石が自立起動。空間中の魔力を集め、復元魔法を詠唱する。地面に零れ落ちた臓物が無理やりに体内に引き戻され、ビデオの逆再生のようにめきめきと音を立てて骨が伸び、内臓を覆い、筋肉が再構成されていく。
「ぎっ、がッ、ああああああああッ!」
 再生に伴う激痛に耐えかね、血涙を流しながら獣の如くパチュリーは吼えた。一つしかない賢者の石ではこのレベルの復元は手に余る。それでも石はあらかじめ組み込まれていたプログラム通りに復元作業を実行し、結果としてパチュリーに激甚極まりない苦痛を与え続ける。
 このままいけば再生が完了する前に発狂しかねない。激痛に脳内をかき回されながらもパチュリーは超人的な集中力で痛覚遮断の術式を完成させ、全身を貫く痛みを消去する。
 ――生き延びた。
 地獄の痛みから解放され、パチュリーはぐったりと弛緩した。
 人間であれば、いや、妖怪であってすら即死を免れえぬ一撃であった。パチュリーが生命を繋いでいられるのは、その肉体が純粋な生命力によらず魔力によって活動しているために他ならない。
 防御陣によって僅かではあるが軌道を逸らせたことも幸いした。もしも直撃を受け、魔力を血流に乗せて全身に運ぶ心臓が損傷していれば、魔道を操る脳髄が破壊されていれば、そもそも復元も何もなかったはずなのだ。
 魔力がある限りは生きていられる。石がある限り、時間さえかけて治療すれば元通り再生も可能なはず。
 だけど。
 パチュリーはかすむ瞳で、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくるレミリアを睨みつける。
 あいつが、このまま私を見逃すなんて、するわけがない。
 動けない。指先はぴくりとも動かず、呼吸も止まりつつある。戦闘などもってのほかだ。今、賢者の石を攻撃に回そうものなら、間違いなく命を落とす。
「……屈辱だ」
 レミリアはパチュリーの眼前で足を止め、そう吐き捨てた。
「グングニルを受けて、まだ生きているだと? 一体どうなっている。私の力はそこまで落ちたのか? それともお前がゴキブリ以上にしぶといだけか?」
 パチュリーは応えようとしたがまだ呼吸がうまくいかない。片肺がまだ潰れている。パチュリーは自力での呼吸を諦め、賢者の石に機能を代行させどうにか言葉をつむぐ。
「……人、を、ゴキブリ呼ばわりとは、ひどい、言い草ね」
「だが、さすがにこれでチェックメイトのようだ。その様ではもはや詠唱もままなるまい、頭か心臓、もしくは石を潰せばそれで終わる」
 その通りだ。さすがによく見ている。
「私をここまで追い詰めたものなど未だかつていなかった。言い残すことがあれば聞いてやらんでもないが」
「……勝ちを、確信したわけ? まあ、無理、も、ないけど。じゃあ、ひとつ、だけ」
 パチュリーは唇の端を捻じ曲げ、笑いの表情を作って見せた。


「私の血は、おいしかった?」


 ――何を。
 言いかけたレミリアの言葉をさえぎり、パチュリーは続ける。
「このときを、待っていた。堀を埋め、城門を突破し、本丸へと手をかける、この機会を待っていた。スピア・ザ・グングニル。恐ろしい技。恐ろしい魔力。死ぬほどの目にあったのは、多分初めて。でも、耐え切った。私はまだ生きてる。あれだけの魔力を放ったら、もうあなたは空っぽ。見ればわかる。アグニレイディアンスを受けてもすぐに復元していたあなたが、今は傷の再生も出来ていない。だったら、やれる。今なら仕留められる。
 ――ねえ、あなたは知っているんでしょう? 私の血が、それはそれは大きな魔力の塊だってこと。そんな格好の触媒に、吸血鬼と戦うにあたって、私が、この私が、何も仕掛けていないと思う?」
 レミリアの顔色が変わった。血を吐きつつも嘲るように笑うパチュリーに、レミリアは呆然としたように絶句し、
「――貴様!」
 怒号と共にレミリアは鉤爪を振り上げる。しかし、
「だめ、もう遅い。言ったわよね、全部燃えてなくなってしまえばいいって」
 パチュリーが身体をずらすと、壁に描かれた血文字のルーン。
「――マリオネット。あまり得意じゃあないけれど、魔力を使って動かない腕を動かすくらいなら私もできる。……さあ、身体の内から燃え尽きろ。――奥義『ロイヤルフレア』」
 乾坤一擲、パチュリー最後の切り札が発動する。


/


 これで、終わった。
 パチュリーはそう思った。
 己の血液に仕掛けた起爆型魔法陣は、簡単なコマンドを飛ばすだけで勝手に発動する。詠唱は必要なく、術式を維持する魔力は血液自体がたっぷりと含んでいる。難点といえばどうしても威力が低くなることだが、今回に限っては問題ない。何しろ相手は吸血鬼だ。
 絶魔ロイヤルフレアは地上に小型の太陽を生み出す術式である。大地より遠く離れた太陽の優しげな光ですら吸血鬼にとっては致命。いかに威力が低いとはいえ、殺傷力を持たない昼の日差しなど比べ物にならぬほどの熱量と光量である。それが逃げようのない体内で炸裂すればどうなるか。そのようなことは考えるまでもない。
 日光を浴びた吸血鬼は灰となって溶ける。レミリアに魔力が残っていれば防ぐこともできたかもしれないが、それも適わぬだろう。
 戦闘は出来ない。賢者の石は攻撃には使えない。
 だけど、魔力でボタンを押すことくらいは今のパチュリーでも出来るのだ。
 だからこそ、これで終わり。
 パチュリーはそう思った。


 死ぬ。
 レミリアはそう思った。
 背筋が凍った。紛れも無い恐怖であった。これを受ければ死ぬ。避けなければ死ぬ。あの魔女の首を落としても間に合わない。術式は発動する。恐らくは自動的に。避ける方法は無い。だから死ぬ。腹の内側から溶かされて、レミリア・スカーレットはここで消滅する。
 切り札は最後に取っておくべきものと誰かが言った。自分ではそのつもりだった。しかし、最後の最後まで切り札を取っておいたのは、あの魔女の方だった。死ぬことなど我慢がならなかった。このレミリア・スカーレットが、このようなところで斃れるなど我慢がならなかった。
 胸に抱いた誇り。大悪魔としての矜持。
 斃れないことこそが己の誇り。打ち勝つことこそが己の矜持。
 でも、死ぬ。
 ここで終わる。
 そんなのは御免だった。
 ならばどうすればいいか。
 わからない。
 どうすればこの攻撃から逃れられるか。
 わからない。わからない。
 思考は空白。
 考えることもできない。
 間近に迫った死の足音に思考がすくんでしまっている。
 けれど。
 考えることもできないのに。
 身体は、動いていた。


「うおおおおおおおおおおあああああああああああああ!」
 レミリアは絶叫した。
 ロイヤルフレアが今まさに発動せんとした瞬間、レミリアは己が右腕を振りかぶり、ギラリと光る鉤爪を躊躇することなく自らの腹部に突き立てた。
「!?」
 絶句するパチュリーの顔に鮮血が降りかかり、メリメリ、と肉を裂く音が響き渡る。
「がッあああああああああッ!」
 レミリアは狂ったように吼え、自らの腹の中に埋め込んだ手をぎゅう、と握り締めると、一息に己のはらわたをパチュリーの血液ごと引きずり出した。ぼどぼどと粘る血液が滴り落ち、噎せ返るほどの血臭が辺りに満ちる。レミリアはブヂリ、と腸を引き千切り、
「かあッ!」
 気合と共に、二十人分の大力を以って自らの胃の腑を遥か彼方へと投げ捨て、己の身体を蝙蝠の翼で包みこむようにして身を守った。
 夜の闇を切り裂いて、閃光がほとばしったのは、その直後であった。虚空に出現したもうひとつの太陽はレミリアのはらわたを瞬時に焼き尽くし、蒸発させ、四方八方に光と熱のエネルギーをばらまいた。半壊していた紅魔館はこの破壊の奔流についに耐え切れず、完全な瓦礫の山と化して崩れ落ちた。
 ロイヤルフレアの光球はしばらく宙に滞空していたが、しばしの時が経つと唐突に収縮して消滅した。
 後には、元の黒々とした闇が残された。
 レミリアは防御を解き、血走った瞳で宙を睨むと、やがて力尽きたのか、げえ、と大量の血の塊を吐き出すと、自ら作った血溜まりの上に、どう、と仰向けに倒れ込んだ。身を守っていた蝙蝠の翼が灰となって崩れ落ち、風に吹き散らされる。
 レミリアの、今は空洞となり盛んに血を噴き出す腹部を、信じられないものを見るかのように見つめていたパチュリーは、やがて、諦めたかのように体の力を抜いた。
 しばらくの間、どちらも無言であった。
 ぜッ、ぜッ、と荒い息を吐いていたレミリアが、不意に言った。
「……引き分けか」
「いいえ」
 パチュリーは静かに否定し、
「私の負けよ。レミリア・スカーレット」
 そう、自らの敗北を宣言した。


/


 天の月はいささかも翳ることなく、傲然と地上を見下ろしている。
 位置は天頂より僅かに傾いた程度。魔女と吸血鬼の邂逅から、それほどの刻も経ってはいない。
「お前は自分の負けだというが」
 血溜まりの中に倒れ込んだまま夜空を見上げながら、レミリアは口を開いた。
「勝った気がしない。グングニルを耐え切られ、ここまでひどい目に遭わされて何が勝利か」
「それはこっちも同じ。賢者の石を破られ、最後の策も通じなかった。もう私に出来ることは何もない。石一つだけでは再生にも時間がかかる。あなたが立ち上がるほうがきっと早いでしょう。だから、私の負け」
「ふん」
 レミリアは不満そうに鼻を鳴らした。
「譲られた勝利に何の価値がある。分けよ。この戦いは」
「強情」
「何とでも言え」
 どちらからともなく押し黙る。紅魔館が崩れたことで遮る壁がなくなり、自然の音が今ははっきりと耳に届く。風が草を掻き分けるそよそよという音。葉と葉が擦れる音。
 月光が今は廃墟の様相を呈した紅魔館を静かに照らし、生暖かい、それでも僅かに涼を孕んだ風が倒れた二人の傷ついた身体を優しく撫でた。
「いい夜だ」
「そうね」
「一つ聞いてもいい?」
「何?」
「さっきも尋ねたが、何だってそうまでして私の本を狙う。いろんな魔女を見てきたが、ここまで執着の深い奴は私は見たことがない。これだけの強さといい、一体お前は何者だ」
「聞いてどうするの」
「どうもしない。気になっただけ。話せないってなら無理には――いや、駄目だな。勝者に敗者の命を奪う権利があるなら、代わりに私はお前の人生を奪おう。話してもらおうか。洗いざらい全部」
「さっきは引き分けって言ってなかったかしら」
「それはそれ。これはこれ」
「本当にわがままね。……まあいいわ、再生までの時間つぶしにはなるでしょう」
 幸い会話が出来るほどには身体は回復している。無理をすれば空を飛ぶことも出来そうだったが、不思議と逃げる気にはならなかった。
 何故だろう、と考え、ふと思い至る。
 そういえば、誰かとまともに会話をするのは森を出てから、いや、生まれてから初めての経験なのだ。
 私は、誰かに話を聞いてもらいたいのだろうか。
 そんなことを思ったが、よくわからない。まあ、わからないならわからないでもいいか、と思う。
 さて、何から話そうか。いろんなことがあった。一晩ではとても語りきれないくらいに。二日、三日、一週間はかかるかもしれない。自分で言い出したことだ、最後まで付き合ってもらおう。途中で音を上げても許してなんてやるものか。
 ふと、パチュリーは楽しんでいる自分に気づき、かすかに驚いた。読書以外で何かを楽しいと感じるとは思わなかった。
 とりあえず、何から話せばいいかは決まった。
 さあ、一人の少女の話をしよう。
 今ではないいつかの時代、ここではない国のどこかの森で、ひっそりと暮らす名無しの少女の物語を。


/


 現在。紅魔館地下の大図書館。
 語り終えたパチュリーは、ふう、と一つ息をつくと、テーブルの上の紅茶を飲み干した。
「まあ、そんなわけで。レミィに話をしてる内に何か妙に意気投合しちゃってね。図書館をやるから友人になってくれって頼まれたのよ」
「いや、ちょっと待て。頼んできたのはそっちだろう。確かに図書館をやるとは言ったが身の上話の最後の日に一人じゃ寂しいからどうか友達になってくれってパチェのほうが泣きついてきたんじゃないか」
 レミリアの言葉にパチュリーは、は? と眉根を寄せ、
「泣きついてきたのはそっちじゃないの。まともに会話できる相手もいないし友達なんて作ったことないからどう頼んだらいいかわからないけど、って顔を真っ赤にして涙目で私のローブの裾のところ持って俯いてぷるぷる震えてた癖に何言ってるの」
「オイコラ私より年下の癖にもう耄碌したか誰が真っ赤になって涙目なんてそんな」
「耄碌って何だコラこっちの台詞よ何今からあのときの決着つけようって言うのいいわよ受けて立つわよ表出なさいよ」
「ハッあの時は私に負けて半切れ状態でガタガタ震えてた癖にもう忘れちゃったのかしら歳ってやーね」
「アンタが歳をいうか五百歳そっちこそ私の策にハマって顔面蒼白今にもチビりそうになってた分際で都合のいいところだけ忘れてるのねあの時アンタがどんな顔してたかもう一回思い出させて上げましょうか」
「おうパチェ、表出ろ」
「吠え面かくんじゃないわよ、レミィ」
「はいはい、お二人とももうその辺で」
 苦笑いを浮かべつつ咲夜が割って入り、レミリアとパチュリーは不承不承椅子に腰を下ろす。
「まあ、お二人の馴れ初めと、どうしてパチュリー様が図書館の持ち主になったのかというのはわかりましたけど」
 咲夜は二人のカップに新しい紅茶を注ぐ。
「なら、何故パチュリー様は魔理沙を放っておくんです? そこまで本に執着していたというのに」
 咲夜の疑問にレミリアとパチュリーは顔を見合わせ、
「……まあ、それはね」
「巷じゃいろいろ言われているな」
 頭を振ったパチュリーにレミリアがニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる。
「曰く、紅魔の大図書館の主パチュリー殿は、かの手癖の悪い魔法使いに心を盗まれてしまったのだ――」
「……言われても仕方がないかもしれないけど」
「では、実際のところは――」
 咲夜がそう問いかけたとき、紅魔館の地上階が激しく揺れた。破壊音、バタバタと人が駆けて行く音、妖精メイドたちの騒ぎ声。すっかりとおなじみになった数々の騒音に、咲夜は、はあ、とため息をついた。
「噂をすれば、ね」
「本当にあの門番はザルもいいとこだな」
「申し訳ありません、お嬢様」
「ん、行って来な」
 咲夜はレミリアとパチュリーに一礼すると二人の前から忽然と姿を消した。迎撃に向かったのだろう。
「咲夜も心労が絶えないね」
「……少し悪い気もしてくるわ」
 ぽつり、と呟いたパチュリーに、レミリアは、くす、と笑いかける。
「まだ気にしてるのか。あれは契約でも約束でも何でもない。前にもそう言っただろう?」
「そうだけど、ね。あなたに嘘はつきたくないのよ」
 パチュリーの言葉にレミリアは破顔する。
「かわいいことを言ってくれるね、パチェ。『図書館の本を読み終えるまではレミリアの友人でいてやる』そんな大昔の強がりをまだ守り続けているなんて。だからあなたは魔理沙が本を持っていっても本気で怒ろうとはしない。追いかけて取り返そうとはしない」
「……勝手に本を持っていかれるのが腹立つのは事実だけど」
 パチュリーはかすかに顔を赤くして、唇を尖らせた。
「そんなにここは居心地がいい? あれだけ追い求めた書物を自ら手放してもいいと思えるほどに」
「意地悪」
 パチュリーは怒ったように立ち上がると、レミリアに背を向けて図書館の奥へと歩き出す。
 レミリアは、ふふ、と楽しそうに笑い、パチュリーの後を追いかける。
 呼び止めるレミリアの声を背中に聞きながら、パチュリーは思う。
 居心地がいいなんて、当たり前だ。
 ここには自分が求めていたものがあった。
 かつて本の中にだけあった世界。水面に映る月、己の手の届くものではないと諦めていたものが、ここにはあるのだ。
 何故、居心地が悪いと思おうか。
 何故、自ら離れようと思おうか。
 それもこれも、皆、あの子がくれた。
 傲岸不遜な吸血鬼。わがまま極まりない夜の王。
 そして、もらったものはもうひとつ。
 あの子はもう忘れてしまったかもしれないけれど、今でも覚えている。
 遠い記憶。レミリアと初めて出会い、戦ったその後で、彼女はとても大切なものを私にくれたのだ。


「パチュリー……姓は何ていうの?」
「姓?」
「そう。名字。持ってないのか?」
「……ええ、一人で生きていくには、名前も必要なかったから。パチュリーっていうのも自分でつけたものだし」
「ふぅん。ああ、じゃあ私があなたに姓をつけてやろう」
「つけてあげるって、そんな簡単でいいの? 姓って」
「いいの。私は夜の王よ。王様は家臣に姓を与えることができるって聞いたことがあるし」
「私はあなたの友達になるとは言ったけど、家臣になるって言った覚えは無いんだけど」
「いいから。ぴったりなのがあるんだ。『ノーレッジ』。『知識』って意味。あなた以外にこの言葉が相応しいものはいないわ。吸血鬼レミリア・スカーレットをも心服させた知識の魔女。どう?」
「……ノーレッジ。パチュリー・ノーレッジ?」
「そう。……どう? 気に入った?」
「ひねりがない。そのまんま」
「何よ、文句があるの」
「……ううん」




「気に入った。とても素敵な名前」




 そう、それは二人の少女の物語。
 ずっとずっと昔、まだ世界に幻想が存在していた頃。
 森を飛び出した一人の少女と城に住む一匹の吸血鬼、知識の魔女パチュリー・ノーレッジと真紅の悪魔レミリア・スカーレットが織り成す、終わることの無い物語――






投稿二回目です。
初投稿作「孤独な悪魔と知識の魔女 その1」の本編完成版となってます。
以前は頭だけ上げて連載にしようと思ってたんですが、全部出来てからまとめて落としたほうがいいのかしらと考え、このたび完成版を上げてみることにしました。
前作とは一部被っていますが評価してくれていた方もいましたので残しています。この作品を読むに当たっては読んでいなくても問題ないです。
楽しんでいただければ幸い。
ついでにHNが以前投稿していた方と被っていたので軽く表記変えもしてます。

とりあえずアクション書きまくれたのですっげえ楽しかったです。
読んでいただきありがとうございました。

作家交流スレ用トリ:kang ◆HQOE8rQ11A
kang
http://www.pixiv.net/member.php?id=495765
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コメント



0.970簡易評価
2.80名前が無い程度の能力削除
アクションパート山盛りですね。
ちょっとバランスが悪い気もするけど、面白かった。
7.100コチドリ削除
この作品を70KBの道のりを走破したランナーに例えると、
フォームに最後まで乱れは認められずペースも上々、
ラストスパートも見事に決まり、ゴールを駆け抜けた後も仄かな余裕が垣間見える。

好タイム必至。観戦していて気持ちの良いレースでした。

戦闘シーンも良し。
なんつーか、パチュリーとレミリアのバトルを超えた語らいを感じる。
なによりランナーズハイに陥った作者様の恍惚が透けて見えて、こちらまで嬉しくなってきました。
気持ちよく書いてんだろうなぁ、って。

突っ込みどころがあるとすればここ。
パチュリさん、いくら図書館が地下にあるからってアンタ無茶し過ぎ。レミ様、お前さんもな。
火符の温度は華氏451度未満に抑えておくべきだぜ。

冗談はここまでにして結論。
二人の少女の友情物語、とっても素敵。とっても面白かったです。
8.100過剰削除
戦闘シーンの熱い事!
これは読んでて興奮する
後半のパチュリーが特にかっこよかった。最後の切り札かっこいい
読了感も非常に○
10.90名前が無い程度の能力削除
読了ー。読むのに時間がかかりましたが、時間をかけただけの甲斐がありました。
これでもか、とばかりに力いっぱい書かれた戦闘描写の熱いこと。二人ともが、命の限りに必死になっているのが伝わってきました。
ただ一つだけ戦闘パートに難癖つけるなら、戦闘描写が若干、パチュリーびいきに書かれているのがわかってしまったことでしょうか。まあ、元の強さがレミリアのほうが上だから、そうしないと互角にならなかったというのもあったのかも知れませんが、もうちょっと、レミリアにも頑張って欲しかったかなぁ、と思います。

……一言言いたいのは、そんなところじゃないのです。戦闘パートは圧巻だったのは間違いないのですから。
問題なのは、戦闘に入るまでの話です。
つまり、パチュリーの主観で地の文で語られる部分ですね。ここが重かったために、戦闘パートに入るまでが長く感じてしまいました。その分、戦闘に入ってからは一気に読めたんですけどね。
しかし、パチュリーが主人公であるならどうしようもなかったのかなぁ。まあ参考までに、ということで。
13.100名前が無い程度の能力削除
某吸血鬼漫画をわずかに思い出した
面白かったです
17.30名前が無い程度の能力削除
随所でビタミンごはん氏のエンゲージが思い浮かんだ
あちらの方が面白かったので