Coolier - 新生・東方創想話

ポケットのなかの博麗英雄譚

2011/07/22 00:54:40
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『博麗英雄譚に新たな1ページ!』

 号外の文々。新聞の見だしにはそう書かれていた。文字がやたらとおおきいせいで嫌でも目についてしまう。そう、嫌でも――。
「……気にくわないわ」
 うそぶく記事を流し読みしながら私はつぶやいた。
『霊夢氏は我らのヒーロー!』という言葉が目に入る。縁側に座りながら、投げだした両足をぷらぷらと揺らした。
「なにがヒーローよ」
 もう一度たらした文句は、吹き抜けた風にはこばれていく。春だというのに夜風はひんやりとしていて、だけどお酒で火照ったほおにはその冷たさが心地いい。
 自分のことが書かれた記事をぜんぶ読みきるまえに、私はもっていた新聞を横に投げた。本当は今すぐにでも燃やしてやりたい気分だった。
 ――間遠でにぎやかな声がしている。
 ため息を吐き、うしろに手をついて月を見あげる――のだが、空には厚ぼったい雲がすき間なく敷きつめられており、月どころか星ひとつ見えない。それでもあの裏側では天人たちが平然と星や月を眺めているのだと思うと、むしょうに腹立たしかった。八つあたりもしたくなった。
 ごろんとそのまま仰向けになる。すると視界のすみにさっきの新聞が映った。顔をしかめ、また視野に入ってしまわぬように目を閉じる。鍵をかける代わりに、まぶたの上に自分の腕をのせる。
 なにも見えない。その途端、かすかに聞えていた声々がもっと遠くに離れていってしまった。一抹の寂しさがこみあげる。
 ひとりぼっちの世界にこもった私は、こりずに静々とぼやいた。
「……まったく気にくわないわ」

 人里付近に妖怪が出没するようになったのは最近のことだ。熊のような体つきをしており、三メートルをこえる巨躯で力も強かった。
 何人かけが人がでて、畑もあらされてしまうということで慧音が私のところへ退治の依頼をしにきたのだ。
 そして今朝、その妖怪を退治したのだった。

 ……とまあ、文々。新聞に書かれていることを要約するとこういうことである。事件解決までのいきさつが記事の三分の一。
 あとの三分の二は私をたたえる言葉ばかりであった。
『人里の平和を守った』『幻想郷の安全は彼女によって保たれているといって過言ではない』『現在の博麗の巫女は百年に一度の逸材!』
 褒めちぎりとはこれのことである。過去に解決した異変さえももちだし、賞賛の材料としている。
『八雲紫氏をかげで操っているという噂も』などという、根も葉もない風聞すらも書かれていた。さすがのこれには読む人みなあきれていたが。
 正直いうと、私はそんなことを書かれるのは別段どうでもよかった。天狗の新聞だ、ケレン味たっぷりに調理されることはもうあきらめている。
 しかし、それでも解せないことがあった。
 記事のなかで自分のことが十八回にわたり『ヒーロー』と呼ばれる――これはどうしても認められなかった。

「あれれ? そこにいるのは霊夢さんではありませんかぁ!」
 とつぜん声が聞こえた。トラ特有の、陽気で調子っぱずれな声である。面倒なことが起こる予感がした。
 私はまぶたの上の腕をおろし、横を見た。千鳥足でこちらに近づいてくる早苗がいた。
「……なに?」
「そんな怖い顔しないでください! 今日は霊夢さんのための宴会なんですよ!? パーっといきましょうよぉ!」
「私のため、ねぇ……」
『霊夢の偉業を賛美する式典』というのが、今宵の催しものの名前である。
 場所は博麗神社。内容は――まあ予想したとおり、不定期でおこなわれる宴会とまったく同じだ。つどって酒を飲み、飯をくい、踊りたいやつは踊ったり。つまりやりたい放題。
 ゆいいつの違いは、参加者全員が私の顔を見るたびに「おめでとう」と儀礼的にいうことだけ。
 そう、こいつらはもとより私を賛美するつもりなどないのだ。なにか理由をつけて宴会を開きたかっただけである。幻想郷にここまで薄情者がおおいとは知らなかった。

 下手くそにタップを踏んでいるような足どりで、着々とこちらにむかってくる早苗。私は寝ころがりながら口を開いた。
「――早苗、これは私のための式典なのよね?」
「もちろんです」
「なら敬意として、賽銭ぐらい入れてくれてもいいんじゃない?」
「どっこいんしょ」
 爺くさいかけ声といっしょに早苗が私の隣にどすんと座った。この現人神、話聞いてねえぞ。
 勢いをつけて起きあがり、自分も縁側に腰かける。予想していたとおり、彼女はひどく酒くさかった。
「あれ? さっき賽銭なんちゃらっていいませんでした?」
「……なんでもないわ」
「そうですか」
 にこにこ顔でいう。彼女の吐息をかぐと頭がくらくらしてきた。これだけで酔ってしまいそうだ。
 そこだけ地震が起こっているみたいに、早苗の体は前後左右にふらふらと揺れている。
「いやー、それにしても霊夢さんはすごいですね!」
「なにが?」
「なにが、じゃないですよ! 妖怪を倒して、人里の平和を守ったんですよぉ? すごいじゃないですかぁ!」
「すごくないわよ。これも巫女の仕事」
「そうなんですか!? 霊夢さんは巫女のきゃぎゃみですぅ」
 きゃぎゃみってなんだろ、と一瞬訝ったが、すぐに『鑑』のことだと合点した。
「月がきれいですねぇ」といってけらけらと笑う。なにがおかしいのだろうと思っていたら、「あっ、流れ星!」とうれしそうに叫んだ。空を見あげる。あいかわらずの曇天だった。アルコールの怖さをあらためて思い知った。
 それから早苗は、鼓膜に貼りつくような粘り気のある声でいろいろと語りだした。いや、正確にはぐちり始めた。
 私は適当に相づちを打ち、話をかわす。ときおり、「聞いていますかぁ?」と不機嫌面でこちらの顔をのぞいてくるから、目もあわさずに「聞いてるわよ」といってやるのだった。
 すると相好をくずしてぐちを再開する。それを何回もくり返す。まったく、嫌になる仕事だ。この分の給料はどこからでるのだろう……。

「――私はですね、幻想郷にくるまえはですねぇ、よくテレビで特撮ヒーローを見てたんですよ」
 早苗がだし抜けに話を変えた。
 彼女はいいながら右の拳を自分のまえに突きだす。へろへろと山なりに。
 たしかテレビとは『番組』というやつを観るための外の機械だったな、と考えながら私は久しぶりに返事以外の言葉を口にした。
「その特撮ヒーローっていうのは、なに?」
「ええと……特撮ヒーローっていうのは……」
 右腕を縮めながら充血した目をおよがせる。「んーと」を二秒間隔で三回ほどいったとき、
「ヒーローに変身した主人公が悪者を倒すんです!」
 といった。本当はもっと訊きたいこともあったが、今の彼女にまともな回答が期待できないのでひとつだけにしておいた。
「そのヒーローにはさ――」
「とってもかっこいいんですよぉ! 毎週毎週楽しみにしてました」
 話をさえぎられてしまった。用意していた質問を口のなかで転がし、飲みこんだ。別にいいや、と思った。
 今度は左の拳をまえに突きだす。さっきよりスピードが速い。それを引っこめながら右の拳をくりだす。
 そこで、どうやら早苗はパンチをしているつもりなんだと気づいた。空虚に放つ、弱々しいパンチ。なにも倒せそうにない。
「いつか私もヒーローになりたいなぁ、て思ってたんです」片足をふわっと浮かせる。これはキックのつもりなのだろうか。
「そんなにかっこいいの?」
「すっごいですよ! だから学校では男の子のグループに入って、よくヒーローごっこをやってました」
 照れくさそうに笑う早苗。だけどどこか誇らしげにも見えた。――ちょっと、彼女の気持ちが理解できる。

「でも霊夢さんはヒーローになれたんですから、やっぱりすごいですよ!」
 ぐっと息がつまる。彼女が発した台詞がおもしとなり、たゆたいながら心の奥底に沈殿した。
 その瞬間、体がずしんと重くなる。床にめりこんで、そのままどこまでも落っこちてしまいそうな気がした。
「どうしたんですか? 気分でも悪いんですか?」
「いや、なんでもないわ――それよりさ」
「なんでしょう?」
 さっき飲みこんだはずの質問をまた口のなかで転がす。いおうかいうまいか逡巡したが、結局いってみることにした。正面をむいたまま、真っ暗な外を見つめたまま。
「その特撮ヒーローにはさ、欠点ってあるの?」
 どうでしたっけ、という声とともに低いうなり声が聞こえる。
 それでも、彼女が答えるのに時間はかからなかった。
「……たぶん、なかったと思いますよぉ」
「そう」
 ひと言だけ返し、顔を下にむける。また、体が重くなったような感じがした。英雄に裏切られた気もした。
「霊夢さん……」
「大丈夫よ」
 慰めるような声色だったから、つとめて明るく返事をする。早苗のほうを見た。
「きれいですぅ……」
 うっとりした顔でこちらを見ていた。とろんとしていて、目の焦点があっていない。服のなかに氷でも入れられたように、背筋がぞくっとした。
 そうだった。こいつは酩酊状態だった。思いだすと同時に私は身構える。
「好きです!」
「えいっ」
 唇をチューの形にして突っこんできた早苗の頭にチョップをくらわせた。
「いだっ」と間抜けな声をもらして床につっぷす。つづけて、ごんと痛々しい音がした。明日にはおでこにたんこぶでもできているだろう。
 雑草みたいな彼女の緑髪をしばらく眺める。寝息が聞こえ始めた。よし、ラウンドツーはなさそうだ。
 顔をまえにむける。夜風がほおを裂くようにとおり抜けた。
 なんとなしに私も空虚にパンチをしてみる。拳は丸っこくてちいさく、スピードも速くはない。人のことをいえない、弱小パンチだった。
 ――私はヒーローなんかじゃない。
 すぐにでも早苗を起こして、そういってやりたかった。耳元でいくどもいってやりたかった。
 そうして気がすむまでいったあとは、もうひとつ教えてあげたかった。
 ――でも、ヒーローはたしかにいるんだ。

 ポケットに手を突っこみもぞもぞと詮索する。そして手をぐいっと引っぱりだして、それを自分の目の高さまでもってきた。
 指さきには銅の鈴を赤いひもに結んだだけの装飾品が巻きついている。手のひらでおさまるサイズで、里の雑貨店で百円ぐらいで買えそうな安っぽいやつ。――だけど、なによりも大事なもの。
 ちりん、と一回鳴らす。もう一回鳴らす。おまけにもう一回。
 この鈴の音には人を強くする力があるらしい。くれた人がいっていた。今でも半信半疑だけど。
 だけど、もしかしたら……。
 なにかに祈るように、また鈴を鳴らした。その音は、反響しながらも夜の闇へとけて消えていった。








 ◆ ◆ ◆

 昨日の夜空をおおっていた雲はいなくなり、青空がどこまでも広がっていた。
 そんな気持ちのいい朝、私は自分のいる庭を見まわしながら思った。いっそ、ここら一帯に火を放ってしまおうか。
 そうすれば嫌悪感も炎につつまれて浄化するに違いない。
 すべてが終わったあとにそこらの木陰のもとでお茶を飲む。せいせいしててたいそう気持ちがよいだろう。
 ほう、これはなかなかの妙案じゃないか。よし、そうしよう。そうしてしまおう……。

「ポイ捨てすんなよ!」
 もっていたほうきを下にたたきつける。ほうきは二、三回ちいさく弾んでから地面に横たわった。
 ふたたび庭を見まわす。自分はゴミ捨て場に迷いこんでしまったのだろうか?
 酒のビン。新聞紙。段ボール。肴の入れもの。なぞの袋――たくさんのものが落ちている。
 宴会の翌日は決まってこうだ。博麗神社が荒廃現象を起こす。出席者を何回注意しても変わらない。
 つぎ、魔理沙に宴会の開催の話をもちかけられたらぜったい断ろう。それでもしつこくくいさがってきたら――武力行使だ。泣いて今までのことを詫びるまでえげつないことをしてやる。ほう、これはなかなかの妙案じゃないか。よし、そうしよう。そうしてしまおう……。
 魔理沙の全身をくすぐる想像をしながらくっくっくっと笑む。そうやってふつふつと湧きあがる怒りをいさめた。
 しかし冷静さをとりもどすにつれて、なんだか虚しくなってきた。自分はなにを考えているのだろう。
 私は下に転がっているほうきを拾いあげた。動かなきゃ掃除は終わらない。妄想もここまで。
 一発自分の頭をなぐっておいた。できるだけ強めに。じーんと広がる痛みを気つけに、私はほうきで地面を引っかきながらゴミ集めを始めたのだった。

「どうも。今日も庭掃除に精がでますね」
 ゴミの小山が三つぐらいできたとき、背後から着地の風とともにのんきな挨拶が聞こえた。清くも正しくもないブン屋の。ほうきを動かす手をとめずにいう。
「そうなのよ。誰かの書いた卑俗新聞がそこらへんに落ちているものでね」
「えっ、誰かの書いた真正がとり得みたいな新聞を捨てるような輩がいるんですか?」
「そうみたいよ。これじゃあ虚偽の塊のような新聞を書いた人が報われないわ」
「まったくですよ。それに捨てるというのは誰かの書いた清純な新聞への冒とくです」
「ええ、冒とくね」
「はい、冒とくです」
 ふふふ、とかわいた笑い声をあげる私たち。うしろにいるから表情はうかがえないが、だいたい想像はつく。目が笑っていない笑顔。間違いない。
 手をとめ、首をぐるっとまわす。こきこきと小気味いい音がした。ずっと下をむいていたせいで凝っていたようだ。目いっぱい伸びをしてから、
「それで、なにか用?」
 といった。くるりと体ごと振り返る。「そうでした」と文がぽんと手を打っている。
「じつはですね、霊夢さんにお願いごとがありまして」
「面倒だから拒否するわ」
「内容ぐらい聞いてくれてもいいじゃないですか」
「嫌よ。私はね、人にお願いするのは好きだけど人からお願いされるのは嫌いなの」
「なぜでしょう。一瞬にして『怠慢』という言葉が浮かびました」
「あら、鳥頭の割りにはむずかしい言葉知ってるじゃない」
 文が怒りをとおりこして、あきれたような顔をする。
 が、私のうしろに目をやると、すぐにうれしそうな表情になった。
「こっちです」と大声をだしながら腕をぶんぶんと振る。私もそちらに顔をむけた。
「探しましたよ! 勝手にさきにいかないでください!」
 椛が庭におりたところだった。ほおを焼けたおもちみたいに膨らませながらぷりぷり怒っている。もふもふの尻尾はちぎれてしまいそうなほど振られていた。
「あなたが遅いだけです」といいながら笑顔の文が彼女に近づく。
「こっちは哨戒の仕事があるんですから、早く用事をすませてください」と目をつりあげた椛が彼女にいった。
 そんなふたりをよそに、私はまったく言葉がでなくなっていた。肺に穴があいてしまったように苦しくなり、呼吸の回数が増えていく。
「落とさないように飛ぶの、大変だったんですよ。この子よく暴れるから」
 わななく足で私はうしろに三歩さがった。もっともっと離れたかったけど足に力が入らない。
「そんなに怒らないでくださ――あれ、霊夢さんどうしたんですか?」
 文がこちらに気づいたようだ。つづいて椛もこちらをむく。ふたりともきょとんとしている。
 私はほうきによっかかるようにしながら立って、声を無理やり絞りだした。
「い、犬……」
「犬? ああ、この子ですか」
 椛が自分の胸に視線を落とす。彼女はまっ白な子犬をかかえていた。
 その犬はこちらを見ている。いや、にらんでいる。噛みつくタイミングを見計らっているに違いない。あのちいさな黒眼で私のすきを狙っているんだ。
「犬がどうかしたんですか?」
 文がそういった。私はつばをごくりと飲みこむ。
「私……」声が情けないほどに震えていた。「どうしたんですか?」といって椛がこちらに歩きだそうとしたので、「こないで!」とがむしゃらに叫んだ。
 ふたりが当惑したような表情をした。「だ、大丈夫ですか?」と文が問う。
 私は目をつむった。心臓をなでつけるように胸に手をあてる。「じつは――」とひりひりと痛む喉で言葉をなんとかつむいだ。

「犬が……嫌いなの」
 重いまぶたをゆっくりと開ける。呆気にとられた顔がふたり分、目に飛びこんだ。
 しばし沈黙のとき。あらい呼吸を整えるが、視線は犬からぜったいに離さなかった。いつこちらに飛びかかってくるかわからないからだ。
「――犬、ですか?」
「ええ、犬よ」
 ぽつりといった文の言葉に相づちを打つ。彼女は眉を八の字にして頭をかいた。どんな表情をしていいのかさえもわからない様子である。
 彼女が隣を見やる。椛も隣を見る。ふたりは視線をからませて無言の打ちあわせを始めたようだった。数秒たってから文がいう。
「嫌われてますよ、椛」
「私は狼です」
 ぴしゃりといわれた。打ちあわせをしていたわけではないらしい。
 いつもなら混ぜっ返されて腹を立てるところだが、その小ボケのおかげで動揺をすこし緩和できた。微笑む程度の余裕はできた。
「妖怪も嫌いなんですか?」
 椛がこちらをむいていった。私は首を横に振って、
「妖怪は怖くないわ」
 といった。彼女たちの表情がいささかゆがむ。理解に苦しんでいるようだ。
 無理もない。自分でもおかしいことは知っている。
「ほかの動物は?」と文。
「平気。でも犬だけはダメ」
「子犬でも?」といったのは椛。私はちいさくうなずいた。
 そのとき、犬がワンと吠えた。まるでこれから噛みついてやるという意思表示をするように。昔々に聞いた鳴き声とかさなる。
 反射的にうしろにさがった。私の鼓動がふたたびおおきく波打つ。
「そ、そろそろ引きとってもらっていいかしら」
 椛がすこし残念そうにいった。
「そうします。本当はこの子の飼い主さんが見つかるまで預かっていてほしかったんですけどね」
 捨てられてたんです――と最後にいう。彼女は哀れむような目で犬を見ていた。
 しかし、椛には申しわけないが私は子犬を憐憫する気にはなれなかった。なんせあいつは私を終始にらんでいるのだ。敵対心をそこまで剥きだしにしているのだから同情の余地などない。
「ついでに、なぜ嫌いになったのでしょう?」
 すると文が、好奇心を目に宿しながら手帳とペンをもって訊いてきた。どうやら記事のネタにしようと考えているらしい。
 ぐらりと怒りが湧き立つ。きっと彼女をにらんで、怒鳴ってやろうかと息を吸いこんだとき、
「なにいってるんですか!」
 と椛が私の言葉を代弁してくれた。相手のひざ裏にけりも入れてくれた。もう三発ぐらいけってほしかったのだが、その一発だけだった。無念。
「痛い!」
「痛い、じゃありません。人の気持ちをもっとしっかり考えてください」
 そういうと彼女は私に微笑みかけてきた。
「安心してください。もしこの天狗が霊夢さんのことを新聞に書こうとしたら、私が全力でとめるので」
 天狗社会のやさしさに触れ、あやうく感涙を流すところだった。犬は嫌いなままだが、狼は好きになった。
「じゃあ、私たちはこのぐらいで。……ほらいきますよ!」
「椛にけられたー」
「うるさいです! あ、それと」
 彼女がこちらをむいた。「昨晩、博麗神社付近に大型犬を見た、といっていた人がいたので注意してくださいね」
 では――と話を結んで椛がこちらに一礼をする。私もすかさず返した。そしてうなだれている文を連れて飛び立ったのだった。
 ふたりのうしろ姿(正確には椛のうしろ姿だけ)を見送り、空の彼方へ消えていったとき、心の内側に立てておいた警戒心というつっかえ棒をはずした。肺でよどみたまった空気がため息となり口からもれる。
 掃除はまだ終わっていなかったが、今はとにかく座りたかった。心身ともに休めたかった。
 ほうきを地面に転がし、台所にむかう。慣れた手つきでお茶とおせんべいを用意すると縁側に移動し腰をおろした。
 熱いお茶をすすると、全身がふやけるように力が抜けていった。もうひと口すすってから急須をお盆において、ごろんと仰向けになる。
 すすけた天井裏を惚けながら眺めた。
 
 犬にはトラウマがあった。自分がちいさいころに植えつけられたものだ。
 じゃあなにをされたのか、と訊かれるとひと言で説明できてしまう。にらまれてバウバウと吠えられただけ。笑われるのが嫌だから、他人には話さないことにしている。
 でも、本当に怖かったのだ。犬の図体は当時の私よりおおきくて、顔もとても凶暴そうだった。鳴き声は私の心臓を貫いてしまいそうなほど鋭いものだった。
 もう死ぬのではないか、と危惧したのも覚えている。震えあがった全身の感覚がいまだに体に残っている。
 月日は流れて、私の体はすっかりおおきくなった。
 手前味噌を並べるつもりはないが、たくさんの妖怪を退治してきたし異変も解決してきた。
 依頼を遂行するときに恐れおののくことなんかない。自分でも不思議だが妖怪相手には抵抗をまったく感じないのだ。
 ――妖怪相手には。
 どうしてもダメだった。なぜか犬は怖いままだった。
 犬と会うと昔の映像が脳内で再生されてしまい、あまつさえ現実にかさねてしまう。死ぬのではないかという思いはもうないが、そのときの恐怖心も、よみがえる。
 そして、きっと私はヒーローにはなれないな、といつも思うのだった。

 木々がざわざわと騒いだ。自分を揶揄しているみたいだ。
 ――意気地ないな、かっこ悪いよ、笑われるよ、もう子供じゃないんでしょ?
 うるさい。私だっていつの日かは……
「なにしてんだ?」
「うるさい!」
 反射的にそう怒鳴りつけた。怒鳴ってから、やけにはっきり聞こえる揶揄だなと思ったら、
「な、なんだよ」
 魔理沙だった。驚き入った表情で私の顔をのぞきこんでいる。
 恥ずかしいミスをしてしまった。「あら、ごめんなさい」といって上体を起こす。
 魔理沙は訝しげな目でこちらを見つめている。眉間に深々としわを刻みこんでいるものだから、ついつい「なによ」と唇をとがらしてしまった。
「変なやつ」
「あんたにはいわれたくないわ」
「私だってさすがにいきなり相手を怒鳴ったりしないぜ」
 自分の立場が悪いことに気がついた。このまま言及されるのも嫌だから話を変えることにする。
「それで、今日の用事はなにかしら?」
「用事があっておまえのところにきたことがあったか?」
 にっと笑みながらそういった。
「ないわね」と口の右端をつりあげて応えると、「だろ?」と彼女は得意げな顔をした。
 別に誇るようなことでもない気がしたが、魔理沙にとってそのことは栄誉あることなのかもしれない。不思議な思考回路だ。
「――素晴らしい脳味噌をおもちなのね」なので私は彼女の頭のなかをたたえることにした。
 彼女がお尻を縁側にむける。勢いをつけて跳ね、私の隣に腰をかけた。
「ん? なんかいったか?」
「……なんでもないわ」
 どうやらここに座るときは必ず相手の話が聞こえなくなるようだ。博麗神社七不思議にひとつ追加。残り六つはまだないけど。
「湯のみはもってこないわよ」
 そう告げて、わざとらしく音を立ててお茶をすする。ああ、うまい。きっと魔理沙は指をくわえてこちらを見ていることだろう。
 ちらっと横目でうかがう。
「構わないぜ」
 とんがり帽子を脱ぐと、内側から湯のみをとりだした。帽子はそのまま自分の横におき、その湯のみにお茶をこぽこぽと注ぐ。
 そうくるとは思わなかった。
 なぜそこに湯のみがあるのか、ほかにはなにが入っているのか――とうてい理解できそうにないのでよけいな詮索は省くことにする。
「――それより、さっきはなんでぼうっとしてたんだ?」
 おせんべいをもちながら訊ねてきた。「考えごとか?」ぱりっと小気味いい音を立てておせんべいをかじる。
 微妙なところである。おもに追想をしていたので違うことには違うかもしれないが、頭の片隅で昨日の新聞をおぼろげに考えていたのも事実だ。
「まあね……」と曖昧な声色でいうと、彼女は質問をかさねてきた。
「もしかして、昨日の新聞のことか?」
 これまた正解とはいいきれぬ問いだった。それにも曖昧な返事をする。
 だが魔理沙は独り合点したらしく、にやついた顔をした。
「いやー、さすがだよ。おまえのおかげで幻想郷に平和が訪れたんだ。おみそれいたした」
 囃し立てるようにいう。面倒くさいやつだ。
「別にすごいことじゃないわ。それにこれも巫女の仕事よ」
 昨晩と同じような形式的な返事をしておいた。「家にあるお札ぜんぶ使っちゃったし」そうつけ加えておいた。
「謙遜するなよ。素直にすごいと思っているんだ」
「あら不思議。皆目そんなふうには聞こえなかったわ」
「ならおまえの耳がおかしいんだな」
「たぶんあなたの口がおかしいと思うのだけど」
 魔理沙がうしろに手をついて上体をのけ反らす。そして、ははっと力なく笑って細めた目で宙を見た。なんだからしくない。
「いきなり静かになったわね」
 ははっとまた笑う。
「――なんていうかさ」とつづけて自分の頭をがりがりとかいた。手を離すと、ブロンドの髪が寝ぐせみたいにぴょこんと跳ねてしまっていた。
「どうしたの?」
「なんていうか……さすがだな、と思ってさ」
 ほっぺたをかきながらいう。目が少々およいでいるところを見ると、彼女は照れているらしい。
「妖怪をぱぱっと倒しちゃうんだもんな」
 もしかしたらさっきのにやついた顔はたんなる照れ隠しで、言葉は本物だったのかもしれない。
 聞いていて、私もすこし照れてしまった。魔理沙の横顔を見つめながらいう。
「ありがとう。あなたにいわれると、一段とうれしいわ」
 一瞬目を見開いて、赤いほおのままやにさがる。
 顔をまえにむけると、庭には日差しがさんさんと降り注いでいた。落ちている小石さえも輝いていて、まるで宝石のようだ。
 手を組みかえてから湯のみを口元に近づける――
「やっぱりおまえには憧れるよ。なんせヒーローだもんな」

 手がとまった。視界に映っていた宝石がただの石ころへともどっていく。さながら魔法がとけるように。
 いや違う。魔法がとけたんじゃない。隠れていた『現実』がひょっこりと目下にあらわれただけだ。
「私もそんなふうになりたいな」
 もうなにもいわないでほしい。魔理沙の言葉が昨晩に早苗がいった言葉の上につみかさなる。
 ――でも霊夢さんはヒーローになれたんですから、やっぱりすごいですよ!
 違うんだ。私は違うんだ。
「私はヒーローなんかじゃないんだ」
 横をむく。魔理沙がびっくりしながらこちらを見ていた。
「ど、どうしたんだよ、急に」
 彼女から視線をはずし、湯のみの底にたまったお茶を飲み干す。舌と喉を突きさすような苦さだった。
「ねえ、魔理沙はさ……」
 相手を見ずに訊ねる。「ヒーローの定義ってなんだと思う?」
「えっ」という頓狂な声がした。正しい反応だ。問いかけがとうとつすぎる。
 しかしそのあとに、「そうだなぁ……」というつぶやきが聞こえた。どうやら律儀にも考えてくれているみたいだ。尻目に、あごに手をあてている魔理沙が見える。
「……悪を懲らしめて」
 とつとつと語りだした。
「……弱きを助けて」
 ええと、としばらく間を空けてから同じように自信のなさそうな声でいった。「それでいて……怖いもの知らずの完全無欠、かな」
「なるほどね」
 やっぱり、といった感じである。きっと一般論もおおむね彼女がいったとおりだと思う。
 だから私はみんなからヒーローと呼ばれてしまうのだろう。
 本当のヒーローはもっとかっこいいというのに。
「で? この質問はいったいなんだ?」
 片眉をつりあげた魔理沙が問いかけてきた。なんだか困り果てた子どものような顔だ。
 私はもっていた湯のみを横におき、真正面から相手の目を見つめた。
「あなたの考えにはほぼ賛成できるわ」
 いったんそこで言葉を区切り、息を吸ってからつづける。
「でも、ヒーローに弱点があってもいいんじゃない?」
 彼女はきょとんとした。視線は私の瞳をとらえつづけている。
 ちょっとまわりくどいな、と気づいて順を追って説明することにした。
「――昨日、文々。新聞に私のことがとりあげられてたでしょ? 妖怪退治の」
「……そうだな」
「思うのだけど、あれって私の仕事よね。博麗の巫女として、妖怪を退治したまで」
「ああ」
「きっと私が巫女じゃなかったら、あんなことはまずしないわ」
「だからなんだよ」
 歯がゆそうにいう。どうやら知らず知らずのうちに説明がふたたびまわりくどくなってしまったらしい。
 間を空けず本題を切りだした。
「つまり、私がやったのはたんなる仕事。ヒーローと呼べるような大それたものじゃないわ」
「……そうか? なかなか立派なことだと思うぞ。悪を懲らしめ弱きを助ける。さっき私がいったヒーローの定義にもあてはまるじゃないか。おまえもその定義に賛成してただろ?」
「ほぼ、っていったでしょ」
 望ましいタイミングで話が動いてくれた。
 釈然としない顔つきの相手を見ながら、私はすこし笑む。
「たしかに、悪者をやっつけて誰かを守る――というのは大事な要素だわ。でもね、それだけじゃ足りない。英雄になるには絶対不可欠な三つ目があると思うの」
「それが……ええと……」
 魔理沙が頭に手をあてる。記憶をたどっているようだ。
 そして、溌剌といった。
「弱点があることか!」
「うーん、半分はずれね」
 なに、としまりのない声でもらす。もしかしたら、彼女はなぞなぞ気分でこの会話を楽しんでいるのかもしれない。
「弱点があることがヒーローの定義だとすれば、生きている人みんながヒーローになっちゃうでしょ」
「それも、そうだな」
「きっと三つ目っていうのはね――」
 とくんとくんと心臓がおおきく波打っている。どうやらいつの間にか興奮していたらしい。
 私はあのときのことを頭に浮かべながらいった。
「自分が怖れているものに挑む勇気をもっていることだと思うの」
 存分に震えている背中、だけど私を守るために犬に挑んだあの背中――それが鮮明な映像になって浮かんでいる。
 魔理沙はしばらく呆気にとられたあと、むずかしい顔をした。さっきの台詞を自分なりにかみ砕いているらしい。
 私は言葉をつづけた。
「別にヒーローが怖いもの知らずの完全無欠じゃなくていいじゃない。なんだかそれじゃあ無味乾燥なおもしろみのない人間になっちゃって、お人形さんみたいでしょ? 誰にでもあるような――または子どもでも笑っちゃうような――欠点があって、だけど誰かを守るためにそれに挑む、っていうのがかっこいいのよ」
「そう……かなぁ」
 口元をゆがめながら彼女はいった。相づちの言葉は間延びしており、たぶんそれは自問自答の言葉でもあるのだろう。
「だから私はヒーローなんかじゃないわ。さっきもいったとおり昨日のはたんなる仕事。苦手でもない妖怪に挑んで勝っただけなんだから、ヒーローの定義にははまらないわ」
 相手はもう一度相づちを打つが、表情はあいかわらずの渋面である。
 まあ、いきなりは理解してもらえるとは思っていない。そもそもこの話をしたのは、ただ自分の考えを知ってほしかったからだ。
 幻想郷の異変を解決するたびに新聞に書かれるヒーローという言葉。それが自分とは異なった存在、という考えをひとりにでも知ってほしかったのだ。
 このまま気持ちをためこんでいたら、私が圧力に潰されてしまうような気がしたから――

 なんにせよ、誰かに話したおかげで心がすっきりした。
 私は空にある雲をつかむような気持ちでうーんと伸びをした。体全体がすがすがしい。まるで雲になった気分だ。
「――さあ、もうしかめっ面をするのはやめましょう」
 そういって魔理沙の背中をたたく。
 我に返ったような顔つきでこちらをむく。今気づいたのだが彼女の髪の毛はまだ跳ねていた。
 くすくすと笑うと、視線のさきでわかったらしく急いで手ぐしを入れた。
「笑うなよぉ」
 恥ずかしそうにいった。

 ――大丈夫だろう。いつの日か、彼女は理解してくれるだろう。
 疑念をもつことなくそう思えた。
 ――だけど懸念がひとつだけ、まだあった。
 私は本当のヒーローになれるのだろうか……?

 幻想郷がたそがれるまで、私たちはいつものように他愛もないことを語りあったのだった。








 ◆ ◆ ◆

 たしか、ここらであったな。
 辺りをくるりと見まわす。記憶が間違ってなかったら、ここらでいいはずだ。
 懐かしい――と思うよりは、不安な気持ちになる場所だ。
 ここは博麗神社と人里のあいだにある雑木林である。夕飯の材料を人里まで買いにいく途中であった。
 魔理沙が帰ったあと、昨日の宴会で食材をほとんど使ってしまったことを思いだしたのだ。
 一年中枯れ木が大半をしめており、ここには退廃的な空気がただよっている。それに誘発されて、歩くだけでらんらんとした気持ちさえも滅入ってしまう。
 そしてこれは今日気づいたのだが、西から照りつける朱色の太陽光があれば、明るい気持ちの下降のしかたもひとしおである。

 ――そう、あのときも今みたいな夕暮れだった。
 ちょっと開けた場所にでて、足をとめた。とても広いが、無骨な切株がそこら一帯に散布している。どうやら昔と変わらないようだ。
 私が子どものころ、ここにはよく遊びにきていた。今思うとここのなにが楽しかったのか皆目わからないが、まあ、大人が子どもの心を理解するというのも難儀なことである。
 とにかく、がむしゃらに遊んでいた。もちろん友人たる者はまだいなかったからひとり遊びだ。
 そこら中ににょっきりと頭を生やした切株を妖怪と仮定して、棒なんかでたたいていた。
 または切株からおちたら負け、というルールを自分に課してそれらを伝って移動したり。あとは地面に丸を書いてけんけんぱをしたり、石を木に投げつけてたくさん音を立てようとしたり――
 意外と思いだせるものである。それほど遊んだ記憶が自分のなかでは印象深かったのだろう。
 ――当然のごとく、このさきの道についても覚えている。
 トラウマができたところ、つまり犬に出会ったところだ。
 ――だけど出会ったのは犬だけじゃない。
 ヒーローだ。私のなかのヒーローがあらわれたのだ。
 怯えきった私を助けるため、犬と闘って追い払ってくれた。たしか拾った棒で相手の頭をたたいたのだ。
 きっと聞いた人は、それぐらいかよと拍子抜けするかもしれない。嘲笑うやつもいるかもしれない。
 しかしそれでも構わない。そんなことで私のなかの英雄像がかすんだりはしないのだ。
 かっこよかったから。自分も私に負けないぐらいに震えて怯えていたくせに、助けようと躍起になって頑張ったその姿がたまらなくかっこよかったから。
 そしてその人からはお守りももらった。
 ポケットに手を入れる。そこから鈴をとりだして、手のひらにおいた。
 ところどころにできた錆が目につく。酸化してしまって鈴全体の色も鈍くなってしまっている。くくりつけてある赤いひもも褪色している。
 この鈴の音には人を強くする力があるらしい。ヒーローがいっていた。今でも半信半疑だけど。
 だけど、もしかしたら……。

 少女の悲鳴が聞こえた。喉から絞りだした、逼迫したものだった。
 ――妖怪だ。
 私は鈴のひもを右手首にとおして引っさげ、声にするほうに駆けだした。奇遇にも、その方向は昔犬に出会った道へつづくものだった。
 短い距離なら飛ぶよりも走ったほうが速い。だが地面には枝がたくさんおちており何度か足をとられてしまう。何か所かひりひりと痛むところがあるので、きっと引っかき傷でもつくってしまったのだろう。
 呼吸が乱れる。久しぶりの駆け足だった。体はもう疲れてきてしまったが、頭はびっくりするほど冷静だった。
 また、考えていることも今の状況にそぐわないことだった。
 ――このさきを突き進めば、あの場所だ。あの場所なんだ。
 呼吸がさらに乱れる。体の疲れのせいじゃない。心が過去と現在をかさねているせいだ。

 少女が視界に映った。まだ七つにも満たないような少女。一方を見つめたまま地面に座りこんでいる。
 その姿と過去の自分の姿をかさねてしまう。嫌になった。
 安心しろ。あのときとは違う。だって今は――
 少女のまえに立ちはだかり、彼女の視線のさきをねめつけた。
 だって今は――
 
 心臓がとまったような気がした。というより、体の器官の活動すべてがとまった気がした。
 無重力に投げだされた気分だ。足元の地面が消えてしまったみたいで、上下左右の感覚が消え去った。
 鳴き声が聞こえた。ひどく濁った声だ。その声はなんといった?
 バウバウ――たしかにそういった。つまり……
 体の器官が活動を再開し始めた。目に映っている生き物が、認識できた。
 ――犬だった。
 毛の色は鈍い茶色であるが、薄汚れていてところどころが黒く染まっている。まるで時間のたった返り血のようだ。
 おおきさは私の腰ぐらいまで。でも、もし立ったとしたら同じぐらいか、もしくは私以上。
 目は斜めにつりあがり、黄色っぽくなった歯を見せながら体に沈みこむような低い声でうなっている。
 椛が忠告していた。昨晩、博麗神社周辺で犬を見た者がいると。すっかり、忘れていた。
 過去と現在がかさなった。
 その途端、体が動かなくなった。手はもうあがらないし、足は一歩踏みだすこともさがることもできない。だというのに、小刻みに体が震えている。真冬の寒さに凍えるとき以上だ。
 ダメだ。なにもできない。あいつには――かなわない。
「お姉ちゃん、助けて!」
 背後から声が飛んだ。首が動いた。うしろを見る。
 少女が私の服をにぎりしめていた。涙目でこちらの顔を仰ぎ見ている。今にも泣きだしてしまいそうだ。
「ねえ、お姉ちゃん!」
 そうだ。やらなきゃ。私がやらなくては。
 わななく手をふところに突っこむ。とにかくあいつを追い払うことが最優先だ。手段はもう選ばない。
 お札を使おう。これならいける――
 と思った矢先、お札がない。服全体をまさぐるが、ない。
 そうだった。お札は昨日の妖怪退治でぜんぶ使ってしまっていた。なんという、初歩的なミス。
 とつぜん犬が吠えた。低く沈んだ声。それに心臓が押し潰されるかと思った。
 うしろからすすり泣く声がする。少女はとうとう泣きだしてしまったようだ。
 だけど少女の頭をなでてやることもできない。体が、動かないのだ。
 情けない話だ。結局私はヒーローになんかなれないのだ。憧れは、最後まで憧れで終わってしまうのだ。
 なんて、滑稽だろう。
 私たちを値踏みするような目つきの犬を、力なく見つめ返すことしかできないのだから。


 風が吹いた。木々がざわめいた
 寂々とした音に混じって、澄んだ音も一瞬聞こえた。
 気のせいだろうか?
 もう一度風が吹いた。今度はさっきよりも強い。
 ――ちりん。
 澄んだ音。どこから?
 顔をおずおずと下にむける。
 ――ちりん。
 右手首にさがった鈴が鳴っていた。しばらくそれを眺める。
 腕が動いた。鈴が鳴る。何度も鳴らす。その音は耳から入り体に沁みこむようだった。
 ヒーローはいった。この音には人を強くする力があると。
 犬のほうをむく。昔々に見たヒーローの背中が目のまえに見えた。
 笑っちゃうほどに震えている。怯えている。
 なのになぜ、あのときヒーローは逃げなかったのだろう。わざわざ怖いものに立ちむかったのだろう。
 答えはきっと簡単なんだ。
 うしろにいる人を守りたかったため。

 ――私は一回、もう守ってもらったのだから、つぎに守るのは自分の番でしょ?

 さあ、ヒーローに変身だ――
 そう自分にいい聞かせる。何度も何度も。頭のなかがそのフレーズでいっぱいになるまで。
 横に落ちていた木の枝を拾う。まだ体全体は震えているけど、無視できる。鈴の音を聞くたびに、心が奮い立つ。
 ぎゅっと枝を両手でにぎりしめた。さきっぽを犬の顔の高さにあわせる。
 鋭い眼光に臆することなく、にらみ返してやった。
 いきましょう、我がヒーロー。かっこいい姿を、うしろの少女に見せてあげましょう。
 目をつむって深呼吸をひとつ。いらないものを絞りだすように息を吐いてから、目を開ける。
 準備万端だ。
 私は強く強く、地面をけった。
 さあ、ヒーローに変身だ――

 過去のヒーローと現在の自分がかさなった。

 ごつんと鈍い音がした。つづけてキャンキャンと甲高い声も。
 棒は相手の頭にぶつかったらしく、犬はこちらにお尻をむけて一目散に逃げていった。
 ――勝ったらしい。
 犬のうしろ姿が見えなくなるまで眺めていた。なんだか今まで怖れていたのが馬鹿らしく思えた。
「すごいね!」
 我に返って、かえりみる。顔を上気させた少女がいた。目が太陽よろしくらんらんと輝いていた。
「かっこよかった! ヒーローみたいだった!」
 ヒーロー――その言葉に、もう違和感は感じなかった。するんと耳をとおる。
 女の子に微笑みかける。相手も笑う。
 それと同時に、私はひざから地面にくずれおちた。
「お姉さん、大丈夫?」
 心配そうな声。とりあえずピースサインを見せつけた。
「つかれたー」
 そうもらし、私は彼女へ全身でよっかかった。
 たぶん、今の私は最高にかっこ悪いと思う。








 ◆ ◆ ◆

「ヒーローになれたわ」
 縁側に座りながらそういった。横を見る。今日も持参した湯のみをもった魔理沙が訝しげにこちらを見ていた。
「いきなりなんだよ」
「そのまんまの意味よ」
 いい返してお茶をすする。ああ、うまい。
 醤油せんべいを一枚つまみあげ、かじりついた。
「変なやつ」
 横から聞こえたけど、知らんぷりした。もう一口かじりつく。
「おまえ、昨日からおかしいぞ」
「あなたにいわれたくないわ」
「いくら私でも、いきなりヒーローになったなんていわなぜ」
 それもそうだな。やっぱり、昨日の夕方のことも順を追って説明しなくちゃいけないのだろうか。
「じゃあ、私は変人でいいわ」
 魔理沙がいっそう顔をしかめた。
 いや、やっぱりこれは誰にも伝えないでおこう。語り継がれない博麗英雄譚、なかなか響きがかっこいいし。気に入った。

「――またまた突飛なことを訊くけど、魔理沙にはヒーローはいるかしら?」
「ほんと、昨日から不思議なことばっかいうな」
 ほとほとあきれるぜ――と肩をすくめる。おもしろみのない人間である。
「いいじゃない。私の戯言だと思ってつき合ってちょうだいよ」
 そういうと魔理沙は仰々しくため息を吐いて、それから腕を組んだ。
 考えてくれているらしい。やっぱり律儀なやつだ。
「ヒーローか……、お前の定義を適用してみてもいないな」
「あら、残念」
「でも、それに準ずるやつはいるぜ」
「誰?」
「おまえ」
 おまえって誰だのことだろ、と思っていたら魔理沙は私のことを指さしていた。
 ――これは私ということでいいのか?
「私?」念のため訊ねてみる。
「そう。まあ、ヒーローというより、憧れっていう感じだけどな」
 魔理沙は照れ笑いを浮かべながら応えた。
「すぐに異変も解決しちまうし、みんなから信頼されてるし。やっぱり憧れるよ」
 ――なんだか拍子抜けしてしまった。こんなこともあるのか、と思った。
 私たちは不思議な関係だったようだ。
「あら、奇遇ね――」
 私はポケットに手を突っこんだ。ヒーローになれたんだから、もうネタばれをしていいだろう。
 鈴をだして、思いっきり笑顔をつくった。

「あなたも私にとっての憧れよ?」
 ちりんと鈴を鳴らす。魔理沙がきょとんとした顔でそれを見ていた。
 しかしそれも束の間、彼女のほおがみるみるうちに朱に染まっていった。
「おまえ! いつまでそれもってるんだよ!」
「いつまでもいいでしょ? あなたがくれたんだから」
「やだ! 恥ずかしいから返せ!」
 ずいっとまえのめりになって鈴を奪おうとするが、ひょいとそれをかわす。
 躍起になってそれを追いかけつづけた。
「別に恥ずかしがることなんてないじゃない」
「恥ずかしいわ! いろんなことおまえにいったじゃないか」
「この鈴には人を強くする力がある、だっけ?」
 やめろ、と叫んで彼女が手で顔を隠す。
 これはおもしろい。
「あと、十回鳴らしたらいつでもどこでも私が助けにくる、だっけか」
 動かなくなってしまった彼女。耳が真っ赤である。
 その真っ赤な耳に口元をよせて、いった。
「でも、本当にこの鈴のおかげで私はヒーローになれたわ」
 指のすき間から上目づかいでこちらをにらむ。
「ありがとう、あなたのおかげよ」
 優しく彼女の頭をなでてあげた。
 魔理沙は私に憧れ、私は魔理沙に憧れていた。
 やっぱり、不思議な関係である。
 湯気を立てる相手。そして私の手を振り払い、隣においてあったとんがり帽子をひっつかんだ。
「どうしたの?」
「もう帰る!」
 まるで子どもである。顔が半分埋まるまで帽子を深々とかぶり、そそくさと歩きだしてしまった。
 呆気にとられてその背中をしばらく眺めるが、途中でぷっと吹きだした。
 ――どうやら我がヒーローは極度の恥ずかしがり屋らしい。

「そんなに帽子を深くかぶったら、足元が見えなくて危ない――」
 とつぜん響いた音に言葉をさえぎられてしまう。「あーあ」とつぶやき、苦笑した。
 まったく、手間のかかるやつだ……
 重い腰をもちあげると、やわらかな日差しを全身で受けとめた。ちいさなため息さえも春風にさらわれてしまう。

 派手にすっころんだ魔理沙を助けるため、私はゆっくりと歩きだしたのだった。
ついでに、私は深夜にトイレにいくのが苦手です。
大丈夫、幽霊がでてきてもきっと幽々子様みたいな幽霊だから、と自分にいつもいい聞かせています。

ここまでおつき合いしていただき、ありがとうございました。
シンフー
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コメント



0.1360簡易評価
1.70名前が無い程度の能力削除
二人とも可愛いですねぇ。

幽々子様みたいな幽霊なら是非私の家に来て欲しいものです。
3.100名前が無い程度の能力削除
素敵
8.100名前が無い程度の能力削除
いいなぁこういうの。
最初は霊夢のお母さんとかかと思ったけど魔理沙だったかー
9.100名前が無い程度の能力削除
過去に戻ったのかと
レイマリ
10.90奇声を発する程度の能力削除
二人とも可愛いかったです
12.100名前が無い程度の能力削除
私のヒーロー
13.100名前が無い程度の能力削除
恐怖に立ち向かう勇気。ヒーローの条件とは、それだけで十分だ。
小さい魔理沙と霊夢のやりとりが想像できていいなぁ。
16.100名前が無い程度の能力削除
こういう話は好きだな。霊夢が魔理沙の憧れってのはともかく、魔理沙が霊夢のヒーローってオチはイイ!!思わず顔がニヤリとしてしまった。
20.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしい。好みど真ん中の作品だ
ヒーローとはこうでなくては
22.100名前が無い程度の能力削除
ヒーローじゃねえヒロインだってボケる展開だと思ってたすまんかった
24.100名前が無い程度の能力削除
話も良かったし、タイトルも好き。
犬を追い払って、膝から崩れ落ちた霊夢が、最高に格好良かった。
魔理沙には黒歴史でも、霊夢にとっては。素晴らしい。
25.無評価名前が無い程度の能力削除
最高でした。
いいものですね、ヒーローって。
26.10025削除
点数入れ忘れ
27.無評価シンフー削除
最近コメント返しをしておらず、自分は何様なのだろうと思ったので、遅れながらやらせてもらおうと思います。

>>1
逆に考えるんだ。幽々子様が家に来るのではなく、こちらが白玉楼に押しかけようと考えるんだ。

>>3
お褒めの言葉、ありがとうございます。照れますね。

>>8
実は最初は霊夢ママの予定だったんですよ。

>>9
過去に戻るという発想は、目から鱗でした。今度なにかに使わせてほしいですね。

>>奇声を発する程度の能力様
どちらも可愛さを目指してみたので、そう言われると嬉しいです。

>>12
なかなかに深い一文……。

>>13
勇気はヒーローの必須条件! やっぱりそこは譲れません。

>>16
ニヤリいただきました! それを狙って書いちゃったりしてます。

>>20
おお、気が合いますね。ヒーロー像が誰かとかさなると嬉しいものです。

>>22
あ、ほんとだ、ヒロインだ。性別考えるの忘れてました。

>>24
タイトル褒められると嬉しいですね。
私も勇気を振り絞ったあとのヒーローは大好きです。
28.無評価シンフー削除
>>25
失礼いたしました!
大きくなってから、私もヒーローのよさに気づきました。やっぱりかっこいいぜ!
30.100名前が無い程度の能力削除
映画化希望
34.無評価シンフー削除
>>30
監督はジョン・ウーがいいですね。冗談です。
45.100名前が無い程度の能力削除
むちゃくちゃ面白かった!まさかヒーローが魔理沙だとは思わなかった・・・
46.無評価シンフー削除
>>45
むちゃくちゃ面白いなんて言われるとむちゃくちゃうれしいですね。
ヒーローの正体が先読みされなくてよかった。
47.100名前が無い程度の能力削除
霊夢も魔理沙もかわいすぎる。ニヤニヤが治まらない。
48.無評価シンフー削除
>>47
ニヤニヤがずっと続いてくれますように!
50.100非現実世界に棲む者削除
ああこれこそがレイマリだ。
互いに相手に対して特別な感情を抱いていて、それだからこそ二人はいつまでも笑い合える。
素晴らしいレイマリをありがとうございました。
私もレイマリを書くぞー!