Coolier - 新生・東方創想話

楽園を愛した数式 ~前~

2011/07/07 22:41:41
最終更新
サイズ
78.96KB
ページ数
1
閲覧数
1327
評価数
3/14
POINT
830
Rate
11.40

分類タグ

 本能、衝動――
 命を繋ぐために形作られた生命の呪縛。
 種の遺伝子に組み込まれたその行動を、誰が非難できようか。
 
「藍様……」
「橙、さあ、優しく」

 春の日差しの中で、金色と漆黒が混ざり合い、温もりを感じ合う。
 まだ慣れない橙が後ろから手を伸ばす度、藍はぶるりと身を震わせる。痛みすら感じるのか、口を真一文字に結ぶことすらあった。
 けれど藍は心配そうに見つめる橙の頭をそっと撫でる。

「大丈夫だから」

 痛くないわけがない、と、橙でもわかる。
 藍の式として、いや、家族同然で暮らしてきたのだ。
 自分のために我慢してくれているのが藍に触れる指先からも伝わってくる。
 だから、橙は覚悟を決めた。

「いきます、藍様……」

 まるで逃げるように大きく逃げる尻尾、その根元を右手で優しく撫で、

「せいっ!」

 ぶちぶちぶちっ

「みゃぁぁ~~っ!!」

 尻尾にあてがった竹櫛をおもいっきり引き抜いた瞬間、神社を揺らすほどの叫び声と、派手に抜けた金色の毛が宙を舞った。
 その金色の塊は心地よい春の風に運ばれて、すぐ隣に座ってお茶を楽しんでいた霊夢の頭の上にぱさり、と。
 直後、霊夢の肩がわなわなと震え始めて……

「ええ~いっ! さっきから妙な声だすわ、キャーキャーワーワー騒ぐわ! 人の神社で何してんのよっ! あんたたちはっ!!」

 若干頬を赤く染める霊夢から放たれた悲鳴が、心地よい縁側に響き渡る。
 廊下で立ち上がり、霊気すら立ち上り始めさせた霊夢の前にして、藍は廊下に寝そべったまま、橙に尻尾を預け、

「……毛繕いだが?」

 その一言の後に、お払い棒での打撃音が続いたという。




 ◇ ◇ ◇




「……藍様、やっぱり人間は怖い生き物ですね」
「そうだね。特にヒト科巫女目のおめでたい色合いのやつには気をつけなくてはいけないよ。そのときの気分で妖怪退治をする悪~いヤツだからね」
「あのね、内緒話とか陰口なら本人の聞こえないところでやってくれないかしら? 落ち着いてお茶も飲めやしない」

 心地よい春の日差しが差し込む博麗神社の縁側。
 その定位置に座布団を引いて正座しながらお茶を啜る影ひとつと、そのすぐ隣で腰掛ける妖獣が一組いた。頭を撫でて涙目になる藍と、それを心配そうに見つめながらも、藍の体を盾にして脅えた視線をちらちら霊夢に向ける小さな化け猫の影がひとつ。
 もちろん、橙である。
 そんな二人をたしなめる一番頭、言わば霊夢の愚痴相手である紫はその場におらず、愚痴の変わりにため息が零れてしまう。

「霊夢! ら、藍様のたんこぶをどうしてくれるのっ! ほら、こんなにぷくって! 霊夢の胸よりもぷくって!」
「せいやっ!」

 指先から放たれた小さな陰陽弾が橙のおでこを直撃する。
 傍若無人なる紅の巫女の行動に、か弱い妖獣たちは怯えるばかりだ。

「……ああ、可愛そうな橙。私たちはこれからどうなってしまうのか。まさか家畜同様の扱いをされてしまうというのだろうか」

 藍はよよよっと袖を顔に当てながら泣き崩れ、赤くなった橙の額を優しく撫でてやる。その間も大袈裟な身振り手振りを繰り返し、まるで悲劇の舞台役者にでもなったかのような立ち振る舞い。
 それを見た霊夢は顔に満面の笑みを浮かべつつ、こめかみあたりをヒクつかせ始める。

「うふふふふっ……、どつくわよ?」
「はは、冗談だよ。それに、きっちりどついてくれたじゃないか」
「たちの悪い冗談は別腹なのよ」

 湯飲みとお払い棒を持ち替えたあたりで、これはまずいと判断したのか。先に藍が折れた。何事もなかったかのように衣服を正すと、なんだかすっきりした顔で橙の頭を撫で始める。
 憩いのひと時を妨害された霊夢としては、藍と橙だけ満ち足りた顔をされても気に食わないことこの上ないわけであるが。

「で? なんでここにいるわけ?」

 そもそも紫がいないのに二人が霊夢の近くにいるのが、霊夢には理解できない。縁側でお茶を楽しんでいたら、平然とその視界を遮って入ってきたのだから。

「紫様が珍しく仕事に力を入れてくれたおかげさまでね。楽をできるのは確かなんだが、情けない話だけれど手が空いてしまって。それで橙と一緒に散歩をしていたら、紫様が立ち寄りやすい場所についつい足が動いて」
「で?」
「気持ちよさそうな、日当たりのいい廊下があったから。日向ぼっこのついでに橙と尻尾の手入れでもしようかと」
 
 本当になんとなく来ただけ。
 そんな解説を聞いて、霊夢は気のない返事を返す。
 しかしその根底に、霊夢の特質。人間の巫女の癖に妖怪に好かれやすい体質が関係しているのは、言うまでもない。
 それを本人も大まかに理解してしまっているのだろう。
 すっと、お茶を二つ。霊夢は半ば諦めた様子で藍と橙に茶を差し出した。

「話をするときは多少唇を潤した方が話しやすいでしょう?」
「気を使わせてしまったね。では遠慮なくいただくとしようかな」

 そして妖怪が来ても追い払わずに、お茶を飲みつつ世間話に花を咲かせる。人間に危害を加えかねない場所にいたり、異変解決の邪魔になる位置にいない限り異形を傷つけることがない。それが博麗霊夢の本質だ、と言うとなんだか立派に聞こえてしまうかもしれないが。
 簡単に言えば、霊夢も暇なのだ。
 暇だから、なんとなく話し相手や話題を求めてしまうわけで。

「で、アレは持って帰ってくれるんでしょうね?」
「ん? アレとは?」

 今、その話題は十分満ち足りていた。
 溢れかえるほどに。
 いや、正確に言えば……

「あんたのその尻尾の抜け毛……なんかものすごいことになってるんだけど」

 正確に言えば、こんもり、山盛り。
 野良猫がひざの上に乗ってきて、触っていたらいつの間にか手に毛が。などというかわいげがあるものではない。
 想像してもらいたい。
 気分よくお茶を飲んで、なんとなく振り返ったときに。
 目線の高さに、プレッシャーを与えてくるほど毛が溢れかえっていたら。
 廊下の片隅に、橙と同じくらいの座高まで盛り上がった金色の毛が存在を自己主張し続けているとしたら。

「おかげですっきりしたよ。時間が立てば抜けていくんだけど、そうなると尻尾に長い毛と短い毛のぶち模様ができてしまうだろう? そんな不恰好は九尾としての、八雲としての恥だからね」
「あのね。そんな清々しい顔で言われても誤魔化されませんからね。ちゃんと処分するように」
「処分するなんて勿体無い。私の毛をお守りの中に入れるだけで、低級な妖怪は寄ってこなくなる。そんなお手軽商品が出来上がるというのに」
「……ホントに?」
「ああ、本当だとも」

 少し細くなったように見える尻尾を自慢気にくねらせ、藍は軽く鼻を鳴らす。

「しかし長時間装着していると、副作用として人間が妖狐になる素晴らしい憑き物効果も――」
「夢想封印」
「あ、ああぁぁぁぁっ! 私のかわいい尻尾の毛たちが」

 霊夢が視線だけ向けて放った神聖なる気に当てられて、一山ごと塵へと帰っていく藍の金毛たち。
 藍は複雑な表情でそれを見守っていたが、なくなったものはしょうがないと橙へと向き直る。するとそんな藍を少しでも励ましたいのか、橙が体ごと預けて甘えた声を出す。

「凄いですね、尻尾ですら妖気が溢れるなんて、さすが藍様!」
「ははは、褒めても何もでないよ」
「私も早く、藍様みたいな立派な妖獣になりたいです!」
「そうだね。橙ならすぐになれるよ」

 いきなりべたべたし始めた二人の妖怪獣を横目で眺めながら、また一つため息。
 「まいったわね」とつぶやく唇に乗せられた感情ははっきりとはわからない。それでも、橙と藍のやり取りを見て感じ取るものがあるとすれば……
 神社の巫女になる前に失った縁。
 家族の暖かさに他ならず。

「いつか私も、八雲と名乗れますよね?」

 霊夢は少しだけ嫉妬心を覚えながらもその光景を眺め続ける。
 きっと、橙に甘い藍のことだ。絶対なれるよと声をかけてやるのだろう。
 そんな感情を胸に抱きながら。
 けれど――

「ん、八雲か……」

 霊夢は見逃さなかった。
 藍の奇妙な変化を。

「ああ、橙はいい子だからね。立派な式になれるよ」

 顔が橙に向けられているから、表情は読み取れない。
 声のトーンも特に変わったことはない。
 きっと、藍はいつもの暖かい笑顔で橙に語りかけているのだろう。
 何も心配ない。
 大丈夫だよ。

「えへへへ~~」

 だからこそ、橙は幸せそうに藍に抱きつく。
 何の疑いを持たず、普段と同じように甘え続ける。

「……藍?」

 けれど、瞬きをするほどのわずかな時間。
 八雲と名乗りたいと口にしたとき、橙を撫でていた藍の手が、止まった。
 見間違いかと思うほど短い時間の変化ではあったが、霊夢の直感は見間違いではないことを告げている。
 
「ん? 霊夢、どうかしたかな?」
「……さあ、なんだったかしらね。聞きたいこと、忘れたかも」

 けれど、霊夢はそれ以上何も尋ねることなく。
 いつもと変わらず、正座したままお茶と言葉を喉の奥へと流し込んだ。

 何の変わりもない。
 平穏な日々を続けるために。




 ◇ ◇ ◇





 たぶん、これは夢なんだろうと橙は思った。


 何故かと言われれば、頭がそう認識してしまっているから。
 夢に違いないと信じきってしまっているから。
 自分自身が結論づけてしまっているのだから、そう答えるしかない。

 真っ暗で何もわからない不思議な場所。
 上も下も左も右も、どこが入口でどこが出口なのかも見当がつかない。目に見えない先には何かあるのかもしれないが、闇色の絵の具を零したように塗り潰された空間はいくら目を凝らしても変化が見えなかった。
 それでも足を進めようと思ったのは、やはり夢だと理解しているから。
 恐怖心が麻痺しているからだろう。
 足音も響かない場所で感じ取れるのは自分の体がそこにあるということと、

 奥に、誰かがいるということ。
 
 腕で顔を擦り、橙が近づいているのも気付かず、泣き続ける少女。
 誰かに置き去りにでもされたのだろうか。
 足を進めていくたびにはっきりしていく少女の輪郭に、橙は驚きの声をあげそうになる。
 少女が、橙のように獣耳を生やしていたからだ。顔を上げないので顔を見ることはできないし、体を覆い隠す白い布で体格もおぼろげだ。
 それでも、少女が橙と同じような種族であることは理解できた。
 だからこそ、声をかけることができたのかもしれない。
 
「どうしたの?」

 呼びかけると、泣くのをやめて顔を上げる。
 不安げな顔を、橙に見せてくれる。
 それでもすぐ顔を歪めそうになって、

「大丈夫だよ、お姉ちゃんに話してみて」

 座り込んでいるせいで、身長はよくわからない。それでも弱々しく、今にも闇に消えてしまいそうな面持ちの少女を年上とは思えなかったのだろう。
 橙は、そっとその白い肌に手を伸ばして、愛らしい頬を撫でる。
 すると少しだけ安心したのか、ぐすぐすっと涙に耐えながら、少女が語り始める。

「痛いの……」
「怪我をしたの?」

 ぶんぶん、とすぐに少女は首を横に振る。

「胸が、痛いの」
「じゃあ、病気?」

 今度は、少し考えてから、自信なさそうに顔を揺らした。

「違う、と思う。いつもは痛くない」
「じゃあどんなとき痛くなるの?」

 橙が顔を覗き込んで尋ねると、少女は耳をぺたんっと倒し、胸の前でぎゅっと手を握り締める。

「まっかっかになったら痛くなる」
「真っ赤?」
「うん、まっかっかになったら、凄く痛くなるの。私が嫌だって言っても、お仕事だから我慢しなさいって言うの……」

 ぶるぶると震えながら顔を青くし、奥歯も鳴らし始める。
 そんな少女を少しでも元気付けようと、橙は優しくその体を抱きしめた。

「大丈夫、怖くなったらお姉ちゃんが助けてあげるから」
「え?」
「だから、大丈夫だよ」
「……うん」

 そう簡単に不安を拭えそうもないが、わずかでも少女の体から力が抜けたことを橙は喜んだ。

「あ、そうだ。私の名前は橙、あなたのお名前は?」
「私の名前は――」








「――ふにゃーっ!」

 ぴくり、と名前を呼ばれた橙の手足が震える。
 それでも一度だけでは効果が薄いようで、再び暖かい日差しの中で丸くなり。

「ふーっ! なーごっ!」
「ふ、ふぁいっ! ら、藍様っ! 何か御用ですか!」

 がばっと畳の上で体を起こすと、橙を見上げるいくつもの目があった。
 マヨヒガで共に暮らす妖猫、化け猫予備軍の猫たちである。
 ただ、そのほとんどが呆れたような、どこか脱力したような顔をしている。

「にゃぁぁぉ……」
「あれ、みんなどうしたの? って、あっ! 今日って集会やる日っ? 嘘っ、なら早く準備しないとっ」

 四つん這いになってあたふたと手を動かしている間に、銃数匹の群れの中から白猫が前に出て、短く鳴いた。
 と、それだけで橙の動きがぴたりっと止まる。 
 そしてくりくりっとした愛らしい瞳を驚きに見開いた。

「へ? って、終わった? なんでっ!?」

 猫の群れのリーダーはあくまでも橙である。
 若干、好き勝手する猫たちに振り回されるところもあるが、きっちりした会合の場だけは立場を明確にするよう心がけていた。
 なのに、長が居ないまま終わるなど言語道断。
 冷静になればなるほど、橙の心の中からふつふつと怒りが湧き起こり、猫たちが少し身を引いた。そのときだった。
 黒い猫がマヨヒガの中に入ってきて、

「俺がやった。だって定時連絡くらいしか話ないっていってたから」
「ああ~、クロ介!」
「介を付けるな! クロだっ! クロっ!」

 にゃーん、なんて言わない。
 堂々と橙の間の前に現れた猫は、確かに言った。
 人間ならばこの光景をどう感じるだろうか。
 どこをどう見ても猫の姿をした生き物が、はっきりとした人語を発音しているこの状況を。

「あのねぇ! 私は確かにあなたを二番目にしてあげたけど、話をするのは私なんだからね!」
「いいじゃないか少しくらい。いずれは橙様より強くなるかも知れない俺様だぜ」
「やっと変化が始まったお子様となんて比べないでくれない? 人の姿にすらなれないあんたなんか私の足下にも及ばないのよ!」

 また始まった。
 怒声が交差する中、ごろんっと横になったり、腹這いになって言い合いの観戦を始めたり、大きな欠伸をしてみたり。
 周囲の猫の呆れきった態度を見ただけで、このやりとりがどれだけ不毛か理解できる、
 それとその頻度も。

「だいたい橙様は甘いんだよ! 俺たち妖怪猫が本当の妖怪になるためには人間とか知識の豊富な妖怪の肉を食べるのが手っ取り早いのに、人里にいるのは取っちゃ駄目だ、とか! 他の種族と喧嘩するなとか! 俺が今日の集会でそのことを聞いたら、3人も賛成してくれたさ」
「何が3人も~、なのっ。あっ! その話題出したかったから早めに始めたのね!」
「橙様は時間になっても幸せそうに涎を流してました」
「ぐ、むぐぐぐぐっ!」
「どんな夢を見ていたか知らないけど、どうせ川魚か。肉だろうね」
「この~、言うことかいて私を変な食いしん坊みたいにっ! そんな夢じゃありませんっ、もっとこう素敵な……」

 昼寝していたときに見た夢の内容、それを思い出そうと首を捻る。
 が、夢というモノは目が覚めれば霧のように消えてしまう。
 覚えていられるはずがない。

「……んー、よく考えたら素敵でもない、かな?」
「なんだよ、はっきりしない。やっぱり橙様は頼りないなぁ」
「違う! 覚えてるよ、説明しにくいだけで!」

 だが、今日だけはその夢の内容が鮮明に思い浮かんでくるのだ。
 瞼を閉じれば不思議な空間が、鮮明に浮かんでくるようで、
 
 そこで橙は慌てて首を左右に振る。
 今はそんな夢の話にこだわっている場合ではないのだ。
 群れの長である自分の立場がないがしろにされたという大事な場面なのだから。

「とにかく! 今後は私の命令以外で集会を始めたりしないこと! わかったっ!」
「はいはい、わかったよ」
「うん、じゃあ今日は解散! くれぐれも危ないことには手を出さないようにね! 力の強い妖怪とかにも気をつけないとダメだからね!」

 橙の声を聞き、待ってましたと言わんばかりに駆け出す猫たち。
 肩を落としながらその姿を目で追う姿は、子供に懐かれない親のようで……

「はぁ、寝坊なんて最悪……またみんな呆れちゃったかなぁ」
「ま、まぁ、気を落とすなよ。俺が付き合ってやるから」

 さっきのケンカ相手が思わず慰めたくなるような、そんな弱々しい姿だったという。




 ◇ ◇ ◇




「藍様が忙しいときは、幻想郷の見回りをするのが私の仕事なんだよ。変なことがあったら知らせてってね!」
「……ただ遊んでるだけにしか見えなかったけどね」
「う、うるさいなぁ。もうすぐ人里なんだからクロは猫っぽくしててよ」
「はいは~い」
「返事は鳴き声!」
「……なぁ~ご」

 猫たちの長としての立ち振る舞いはイマイチうまくいっていないが、藍の式であることだけには誇りを持っている。
 だからこそ、平時でも幻想郷で異変が起きていないか目を光らせているのだ。
 いろいろなところで暮らす妖怪猫たちの情報網を駆使したり、その場に赴いたり普段から心がけている。
 決して、親しい妖精や妖怪たちと遊びまわっているだけではない。
 そう、すべては藍のため、偽りの日常を――

「あ、美味しそうな雀っ! あっちには野ウサギ!」
「……へぇ~、仕事ねぇ~」
「な、何見てるのよ。こうやってほら、調査中に現地で栄養補給をすることも大事ってこと」
「にゃぁ~~♪」
「くぅ、生意気っ!」

 非生産的なやり取りの中、一人と一匹は人里へと向かっていた。
 晴天の下、膝下くらいに生え揃った草の道を進み、まばらに生えた木々を眺めて。命が少しずつ溢れ始めた当たり前の匂いを確かめながら。
 警戒し、あたりに潜む獣の匂い。
 やっと咲いた野原の花の匂い。
 見知った妖精や妖怪の匂い。
 野草や山菜を取りに来た人間たちの匂い。
 里に近づくに連れて、いろんな匂いが混ざり合い、命の多さに驚かされ――

「ん?」

 後、数分もあれば人里に入る。
 人間たちの住処が視界の中で大きくなり始めた頃、橙とクロは同時に足を止めた。
 いくつもの命の匂いの中に、覚えのないの匂いが生まれたからだ。
 獣とも違う、人間とも違う。
 不思議な妖力の残り香。
 そしてその匂いは、まっすぐに人里のほうへ伸びていて。

「クロ、知ってる?」

 視線の先に目標を見つけた橙は思わず訪ねていた。
 橙の記憶のどこを探しても、該当する情報が見つからなかったから。

「にぃ」

 短く鳴き声を発し、首を横に振る。
 そんなクロの警戒した態度から見ても、接触したことのない妖怪、もしくは妖精であることに間違いない。まだ妖獣としては幼いとはいえ、遊びながら幻想郷の中を歩き回っている橙の感覚に触れない者。
 そんな者がいるとすれば――

『見慣れない妖怪は注意すること。外から流れ着いた無法者かもしれないからね』

 藍の言葉を思い出し、橙は一足飛びで妖怪に飛びかかれる位置で身を屈めその様子を見守る。
 が、クロと目を合わせた直後。
 何を思ったかそれを解除し、棒立ち状態で大きな耳を困ったように掻いた。
 それは何故か。
 
「あ、ちょっ、怪しいものじゃないですって、ほんとですってばーっ! いたっ、いたたっ」

 警戒すべき妖怪が、すでに里の自警団によって保護されていたからである。
 しかも、半泣きで。
 白い着物だけを見れば人間と変わりないのだが、頭から生えた大きな耳が獣人か妖獣の部類であるとしっかり自己主張している。そんな幼い赤髪の妖怪が二人の若い男に睨まれながら、怪しくないと訴え、じたばたと手足を動かしている。

 つまり、だ。

 一人の男に羽交い絞めされている幼い妖怪。
 しかも着物の形状からして女の物。
 頭ひとつ以上小さい子供が、人間の男に後ろから抱き疲れている状態なわけで。
 ほんのちょっとだけ、
 いや、かなりの犯罪臭。
 
「にゃー」
「……わかってる」 

 もちろん妖怪側の立場を取る者とすれば、目の前の困っている妖怪を助けに割って入るのが一番なのだろう。
 しかし、人間の世界での常識にはあまり干渉するべきではない。と、藍から教わっている橙は、下手に動かず。

「こんにちは、その子何かしたの?」

 あくまでも平静を装って声を掛けた。すると、男たち二人は声に反応し、橙の方を見て。
 助かったと言わんばかりに胸を撫で下ろした。
 そして、人間たちと同じように妖怪も橙の姿を見つけて、瞳を潤ませながら訴えてくる。手足でも何かを表現したいようだが、羽交い絞めされているため格好悪く小刻みに動くばかりだ。

「あー、聞いてよ! 私、何も悪いことしてないのに!」
「うそを吐くんじゃない」
「嘘じゃないよ! 落ちてた野菜を食べただけじゃない!」
「落ちてたんじゃない! 商品として置いてあったんだ!」
「ほら、やっぱり置いてあっただけ!」
「だから、商品だって言ってるだろう!」

 両方の意見を聞くまでもなかった。
 つまり、この見知らぬ妖怪は、人間の持つ常識を学習しないまま人里に入り、あまりの空腹に耐え切れず売り物の野菜に手を出して、当然のごとく捕まっただけ。
 飲食店でもないのに手を出した、野性味溢れた食い逃げ犯なのだ。この妖怪は。
 こんな特殊な事件の対処など即座にできるはずがない。
 と、何も知らない一般人なら諦めてしまいがちだが、幻想郷に存在する妖怪を呼び込む結界を作成したのは八雲紫なのだ。この程度のことを想定していないはずがない。

「えっと、藍様に話しておくからいつもどおりお願い」
「ああ、わかった。じゃあこいつはお前さんに預けるよ」
「ほへ?」

 人里との取決 第60条
『妖怪が生み出した損害について、初犯に限り八雲家が負担する』
 その約束事に従い、妖怪は呆気なく開放され、橙の前へと押し出される。
 
「え、えっと?」

 状況がつかめず、見知らぬ少女は目をぱちくりさせるばかり。橙とは少し形の違う大きな耳を頭の上で揺らして、少しでも情報を集めようとしているようだが。それよりも優先するべき事項をやっと思い出したのか。

「とりあえず、ありがとうって言えばいいのかな?」

 橙に恐る恐る頭を下げた。
 その動作の拍子に着物が揺れ、その足元からフサフサの尻尾が現れる。見覚えのあるそれに橙が目を奪われていると、少女も同じ視線を辿り。
 なるほど、と。手を胸の前で合わせた。

「あはは、怖がらなくていいよ。確かに私は狐の妖獣、『妖狐』ってやつだけど。尻尾も一本だし、特殊な力もあるわけじゃない。分類で言えば一番下だから」

 妖狐は妖獣中でも最高峰の実力を誇る。
 そんな妖怪の中の一般常識により橙が怖がっていると錯覚したのだろう。橙より少しだけ背の高い少女は、尻尾を静かに服の中へと仕舞い込み、くるりと回っておどけて見せた。
 その気さくな感じに、思わず橙も笑顔になり。

「もしかして、この場所は初めて?」
「初めてって言われたら、そうかもしれないんだけど。なんだか懐かしい気もするし」

 んー、と。唸り声を上げて腕を組む少女であったが、彼女の中ですでに答えは見つかっているようで、

「でも、あなたみたいな猫又と、人間が親しげに話をしてるってことは……、やっぱり何か違う気がするよ」
「そうだよ。ここは幻想郷って言ってね。妖怪たちの楽園なんだよ」

 自分が作ったわけではないのに、橙はえっへんっと腰に手を当てて胸を張る。
 当事者の関係者の、そのまた関係者という微妙な位置にいるのは説明せずに。

「そっか、じゃあ。私がこの姿のまま自然と人間の里に入れたものそのおかげってことか……、ふーん、自然に、ねぇ」
「どうかした?」
「あ、ううん、なんでもない! 昨日のことを思い出してた」
「昨日?」

 いつまでも人里のまん前で話し込むのもどうかと考え、橙が近くの茂みへと誘う中。ふと少女はそんなことを口走った。
 
「昨日からここに迷い込んだの?」
「うん、そうなるんだけど。そのときもお腹が減ってて、意識がボーっとする中で歩いていたんだ。そしたらさ、人間の子供が甘い匂いがする食べ物を一つくれたの。団子っていうやつ。油断してたってこともあるんだけど、びっくりしてね。思わずそれを奪い取って逃げちゃったってわけ。まさか人の里に入ってるとも思わなかったし」
「うわ、それはちょっと……」
「あはは、ちょっと情けないよね。妖獣としてはさ。だから、あなたが言ったみたいに妖怪が人の中を自由に動けるっていうのなら、改めてお礼がいいたいんだけど」

 橙と一緒に茂みに身を隠し、人里のほうを見てため息一つ。
 耳をぺたんっと倒し、どんよりとした空気を背中に背負いながら、指で「の」の字を書き始める。

「なんて言うか、えーっと、さっきのでちょっとだけ……、うん、ちょっとだけ人間が怖くなったって言うかね? いや、うん、臆病ってわけじゃないんだけど、ほら、あんまり人間が一杯居るところには入りたくないっていうか」

「うわ、へたれだこいつ」

「うぇっ!? なんか言った?」
「ん、ううんっ! 何にも! 気のせいじゃないかなっ!」

 橙は忘れかけていた黒猫の存在を思い出し、その口を力いっぱい塞いだ。
 あははは、と乾いた笑い声を喉から響かせて。

「その黒猫さんから聞こえたような……」
「ち、違うよぅ? こ、この子はまだ妖猫になったばかりだからまだ人の言葉は離せないの、うん!」
「そうか~、こんなに可愛い猫さんと話せたら素敵かなと思ったんだけど」

 妖狐は残念そうに眉根を下げると、そっと手を伸ばし橙が押さえつけるクロに手を触れさせる。
 そして、何か口をもごもごさせてから、あはは、と笑った。

「話は戻るけど、さ。やっぱりね。それでも……人間とは種族の違いがるけど、お礼は言いたいっていうか……その、なんて言えばいいか」

 そんな橙の焦りと、黒猫が呼吸を封じられてもがく中。
 妖狐の少女の口調もどんどん途切れ途切れになっていく。
 もじもじと、胸の前で指を遊ばせる仕草を見せながら、橙の視線を気にしているのは、ある一つの願いがあるからだろう。

「うん、わかった。その人間の子供を人里の入り口まで連れてきてあげる」
「ほ、ホントにっ! いいのっ!?」
「ふふん、橙お姉さんに任せなさい!」

 どんっと、胸を叩き羨望の視線をその身に受けた。
 いつも藍の下で働くばかりで、妖猫たちからもあまり頼りにされたことのない橙にとって、少女の素直な感情を一心に背負うのは実に心地よい感覚で、

「……ぶはっ! 幼児体系の癖……っ!? ――――っ!!」

 ついつい目標物から手を離してしまったことを思い出し、即座に封殺。

「えっと、また何か声が聞こえたような?」
「そう、私には何も聞こえなかったよ?」
「本当に?」
「うんっ!」

 そして、黒猫を背中に隠したまま足早に人里へと入っていったのだった。




「……希望をありがとうね、子猫ちゃん」

 妖艶な微笑が、その姿を見送る中で。





 ◇ ◇ ◇





 はっきり言えば、馬鹿げた行動に違いない。


 いくら広さに限りがあると言っても、人里の中からたった一人の子供を捜す。
 しかも、特徴も何も知らない状態で。
 人間と妖怪の立場が近くなったとはいえ、ここは人間の住処なのだ。その労働量は山の一区画から、一枚の葉っぱを探し出す作業に等しい。

『お人好しだねぇ』

 橙以外にはにゃーとしか聞こえないクロの嫌味。
 それを何度も背中に受けては睨み返し、ときには爪で引っ掻き合う。
 そんな無駄な作業を続けながら目的の場所へと歩みを進めた。
 確率論でも常識でも、人里で子供を捜す際に足を運ぶ場所はたった一つ。何か手掛かりの欠片でもないかと、玄関の戸を叩いてみれば。

「おや? 橙じゃないか。今日は猫も一緒なんだね」

 橙と足下の黒猫に視線を動かす慧音が姿を見せた。
 ここまで来ればおわかりだろう。
 橙が足を運んだのはもちろん、人里の中の寺子屋だ。人よりも優れた聴覚を持つ橙の耳には、慧音がいなくなったことで騒ぎ始めた子供達の声がはっきりと入り込んでくる。

「もうすぐ終わるから、用があるならそれからでもいいかい?」
「あの、慧音じゃなくて。人間の子供に用があるんだけど」
「ふむ、では玄関の中で待っていて欲しい」

 一人と一匹を建物の中に招き入れた慧音は、小さく会釈して教室に戻っていく。それからしばらくして、教室の入り口から白い手が伸びて上下に動き始めた。
 どうやら、慧音が手招きしているようだ。
 おそらくは、入り口付近に陣取って、子供が帰らないように説得しているのだろう。橙だって、遊びたい盛りの妖獣だ。子供たちの気持ちはよくわかる。
 それでも、妖狐からの頼まれ事の解決が今の橙の仕事だ。少しでもこの世界が好きになってくれるように。

 大好きな藍や、紫が作り上げた楽園を。
 大好きになってもらえるように、橙は精一杯努力してみたかったのだ。
 たぶん、それが……
 幻想郷のために努力することが、『八雲』の名前に近付くことになる。
 そう信じて。

「こーんにちはっ!」

 子供達にわかりやすいように、はっきりと大きな声で挨拶しながら飛び込んで。駄目もとで『赤い毛色の妖狐に団子をあげた子供はいないか、と尋ねてみれば。
 お互いの顔色を伺いながら。ざわざわと長机に座る子供たちが騒ぎ始め。

「ねえ、あのことじゃない?」
「あー! 朝の話!」

 何故か、一点に視線が集中する。 
 真っ黒い髪の毛の、大人しそうな少女の方へと。
 すると俯き加減で、恥ずかしそうにしながら、少女が手を上げる。
 
「は、はい、たぶん。私だと思います」
「にゃっ!?」

 森の一枚の葉。
 砂漠の一粒の砂。
 警戒されて口を閉ざされれば、見つからない可能性もあるというのに。
 それを、たった一回目で引き当てたのだ。
 足下のクロが思わず素っ頓狂な鳴き声を零すのも無理はない。
  
 きっと、彼はこの偶然を忘れることはできないだろう。

 そして、それ以上に――
 
「ふふーん、どうよ?」
「にぃぃぃ……」
 
 これ以上ないくらい、やりきった顔の橙の表情も忘れることはできないのだろう。
 もちろん、嫌な思い出の一つとして。
 ただ、その橙の顔を眺めてしまったせいで、彼は致命的なミスを犯した。

 彼は忘れていたのである。

 退屈な空間に長時間押し込められた、好奇心旺盛な獣。
 子供、という残酷な生き物たちへ。
 


 無防備な背中を晒しているということを。
 

 





 ◇ ◇ ◇





「にゃぁっ……にゃぁっ……にゃぁっ……にゃぁ……」 
(子供怖い……人間怖い……子供怖い……人間怖い……)

 肩まで伸びた黒髪が綺麗な、人間の少女。
 そんな少女に満足そうに抱かれた黒猫から、弱々しい鳴き声が響く。

「……クロ、あなたの犠牲は忘れない。あなたという礎は幻想郷の明日となって生き続ける。だから安心してお眠りなさい」
「……にゃーっ!」
(この、猫でなしっ!)

 あの後、慧音の『解散』ということばで拘束を解かれた子供達が何をしたか。
 この、クロの怯え方を見ればわかるだろう。
 もう、次から次へと手が伸びてきて、彼の全身を撫でる撫でる。
 手前から来た手を避けようとすれば、背中やおしりあたりに手が伸びてきて、それに意識を奪われると一気に身体を裏返されてお腹を撫でられたり、と。
 橙が止める間もなく、子供の撫で撫で大会は続き。

「にゃぁぁ~~」
(もうお婿にいけない………)

 ほくほくとした顔で家路につく子供たちとは対照的に、四肢を床に投げ出してぐったりとつぶれる黒猫の姿がそこにあった。
 人間の子供を下手に傷つけるな、と、橙から事前に釘を刺されていなければ迷わず爪を出したところだろう。

「クロ、よく頑張った。今度、アユを買ってあげるからね」
「にぃ」
「2匹?」
「にぃっ!」
「わかった、3匹ね」

 橙とクロの間でどんなやりとりがあるのか。
 それを理解できない少女は、クロの毛並みを堪能しながら橙の後をゆっくりと付いていく。その度にカランコロンっと少女の履き物が涼しげに鳴った。

「今日、お雪ちゃんと遊ぶ約束してるの。猫さんの用事はすぐ終わる?」
「うん、終わるよ。狐の妖怪が昨日のお礼をしたいそうだから」
「そっか、狐のお姉さんが」

 橙は猫さん。
 あの妖狐はお姉さん。
 ほとんど身長も変わらなかったはずなのに、少女は出会った妖怪のことをお姉さんと呼び続ける。

「確か、『朱』と『李』って漢字を合わせて、『あかり』ってお名前だって」、
「名前も教えて貰ったの?」
「うん、私の手から団子をもってっちゃった後に、『あかり』だっておっきな声で言ってたから」

 恩だけを受けるのが嫌だったのか。
 名前を告げたのが、そのときの彼女の精一杯だったのかもしれない。
 ただ、そこまで子供の話を聞いて、やっと橙は思い出した。
 あの妖狐から名前すら教えて貰っていないことに。

「私もちゃんと助けてあげたんだけどなぁ、名前くらい……」
「猫さん?」
「ああ、なんでもない。こっちの話だから」

 朱李の態度に少しだけ腹立たしさを覚えるものの、聞かなかったのは橙自身なのだから仕方ない。目の前の角を曲がれば、約束の場所。待ち合わせの場所にでるのだから、暗い顔をしていてはいけない。この人間の子供に出会わせるのが橙の今の仕事なのだから。
 普段では味わえないであろう、達成感に胸躍らせ。
 くるり、と直角に曲がり道を折れたところで。

「……あれ?」

 確かに、妖狐はいた。
 人里と外の世界との中間当たり。
 その境界線の上で静かに佇む女性を見つけた。
 それでも人間と、橙の口から出たのは疑問の声で、

「……お姉さんと違う、色違い?」
「藍様?」

 その二人の声で気が付いたのだろうか。
 藍は、自慢の九尾を振り、その場で身体の向きを変えると。いつもの笑顔を橙に向ける。

「おや? 橙じゃないか。今日は人間の子供と遊んでいるのかい?」
 
 通路の両側に立ち並ぶ家に沿って視線を動かしても、通行人以外の人影は藍しかない。橙が見た赤い妖狐の姿はどこにも存在しなかった。

「どうしたのかな? まるで狐につままれたような顔になって?」
「えっと、本当に化かされたのかも……」

 一瞬、藍がからかっているのかもしれないと思ってしまうほどだった。
 そう疑ってしまうほど藍の登場が絶妙で、それでいて奇妙過ぎたから。

「藍様はなんでこんなところに?」

 なぜなら夕方まではまだ一刻半程度余裕があり、その時間は決まって結界の見回りをすることになっていたからだ。
 今朝だってそう告げられたはず。
 真面目で仕事熱心な印象が強い藍が途中で抜けて人里までやってくるなど、橙の常識ではありえない。だからだろうか。

「今は紫様とお仕事の時間ですよね?」

 自然と疑問の声をぶつけていた。
 すると、藍は苦笑いしながら橙と人間の少女に向かって近寄ってきて、頭を下げた。何事かと橙が驚くより早く。

「実は、妖狐がこの世界に入ってきたという情報があってね。一目見てみたかったんだ」

 常に強くある藍から発せられたとは思えないほど掠れ、消え入りそうな小さな声だった。それだけ伝えて頭を上げたとき、微笑みの中にある頬は若干赤味を帯びており、

「紫様には内緒に、ね?」

 右手の人差し指を唇に乗せる姿は、まるで悪戯が見つかった少女がおどけているようにも見えた。
 藍の意外な一面に、目をパチパチさせていた橙は、状況を理解し、はいっと元気良く手を上げて答える。ただし、そうなると余計にわからないことが出てきてしまうわけで、

「えーっと、たぶん藍様が会いたがっている妖狐は近くにいると思うんですけど」
「うん、あかりっていう狐のお姉さん。そのお姉さんに団子をあげたの」

 橙は人里の近くで赤い髪の妖狐に出会ったこと。
 そして、その狐が人間にお礼を言いたがっていたことを藍に説明し、この場所で落ち合うはずだったと告げた。
 すると、藍は。

「なるほどね、そういうことか」

 片目を閉じてふぅっとため息を吐いた。
 橙と人間の子供が首を傾げていると、ばつが悪そうにこほんっと咳払い一つ。

「やっぱり、いきなり私が現れたせいだね」
「どういうことですか?」
「んー、そうだね。橙は猫の妖獣だからわからないかもしれないけど、狐が変化する妖狐にはいくつかの階層みたいなものがあるんだよ。その中で能力が低い妖狐は同属に対する警戒心が強いことが多くてね。だからその『赤李』という妖狐も、私を見つけて逃げ出してしまったのかもしれない」
「あ、そういえば! 自分は野狐で、力が弱いとか言ってました!」
「ああ、それならば納得だ。まったく、スペルカードすら持っていない新参者がうろつくにはなかなか危ない場所だというのに……」

 仲間を心配してか、それとも、出会うことができなかった悔しさか。
 藍はどこか表情を暗くして、瞳を閉じる。
 橙がどう声を掛けていいか迷い、藍を見つめ続け、

「あれ?」

 ふと、不自然さに気付いた。
 いうも身だしなみに拘る藍の手元が、茶色く汚れていたからだ。

「藍様? どうしたんですか、それ」
「ああ、この袖のことかい? 仕事中に汚してしまっただけだよ」
「あ、そうだったんですか! てっきり、土遊びでもしてたのかなって」
「あはは、それも楽しそうだね。ふふ、気を使ってくれてありがとう、橙。また別の妖狐が現れたら私に教えてね」
「はい、お任せください」

 いつもの凛々しい姿に戻った藍が、橙の頭を撫でて、二人と一匹に背を向ける。
 その直後、紫に呼び出されたのだろうか。
 ぼふん、と小さな破裂音を残してその姿が何もない空間で掻き消えた。
 「おおっ」っと人間の少女が素直に驚きを見せる中、その驚きでやっと腕から開放されたクロは、慌てて橙の足の影に隠れる。

「ごめんね、付き合わせちゃって」
「ううん、おもしろかったからいい。じゃあ、ばいばい猫さん」
「うん、ばいばい」

 もう一度妖狐に合わせることはできなかったが、少女は満ち足りた顔でぶんぶん手を振る。その小さな体が曲がり角で見えなくなるまで、ずっと。きっとそれだけ楽しかったのだろう。
 
「これは、これで、いいよね! うん!」

 妖狐との約束を守ることはできなかったが、人間と妖怪との掛け橋になる活動の手伝いはできたと、橙は高らかに拳を突き上げて。
 
「にゃぁーっ!」
「……あはは、ごめんってば」

 その掲げた右手を下ろしで、不機嫌な黒猫を撫でた。





 ◇ ◇ ◇





 それから二日経った、ある朝のこと。

「ああ、あの妖狐かい? どうやら命を落としたようだよ」

 橙は、口をあんぐりとあけたまま、手に持った茶碗を落としそうになる。

「どうかしたかい? 橙?」
「え、えと、あの……」

 マヨヒガから出て、藍と紫が住む屋敷で朝食を食べていたときだった。
 何気なく、あの赤い髪の妖狐のことを思い出し、横に座る藍に尋ねたら、あまりに呆気なくその結果が知らされた。
 藍はそれだけ言うと箸を器用に使って煮豆を摘み上げ、口に放り込む。
 そんな普段と変わらない正座した姿、変わらない表情で。

 多少気にかけていた庭の雑草が枯れた。

 その程度の声音で、藍が言葉を紡いだのだ。
 確かに、自分たちとは関係のない存在。
 八雲家と交友を持つ存在でもないのは確かだけれど。

 それでも、おかしい。
 不自然すぎる。

「冗談? ですか?」
「いや、事実だよ。可哀想だとは思うけど」

 あまりにも簡素化した答えが、余計に橙の中の違和感を増大させる。
 あの日、藍が人里に来た時。

『仕事の時間なのに、人里にやってきたあの時』

 そのときの藍の様子は、古い友人に会ったときのように、輝いてさえ見えた。
 いつも以上に魅力的で、表情豊かで。
 いつもの藍とは思えないほどだったというのに。

「でもおかしいですよ! やっぱり、そんなのってっ!」
「橙、あまり藍を困らせるものではないわ」
 
 大声を出してしまう橙の、顔の前で短い隙間が開き、橙と藍を遮るように扇子が現れた。そんなことができるのはただ一人、食卓を挟んで二人の妖獣の前に座る紫の仕業である。その証拠に、床と水平になるように上げられた紫の右腕の先が、隙間の中に消えていた。

「同じ種族であっても、特別な手心はあまり加えてはいけない。その者がこの幻想郷を管理する上で重要な立場にあるのならいざ知らず。どこの馬の骨とわからない者に、温情を与え続けるのは論外でしかありません」
「でも……」
「そんなことより、箸を進めなさい。せっかくのご馳走がさめるでしょう?」

 そんなこと、で割り切られることに納得がいかない橙であったが、確かに藍の作ってくれた料理が冷めるのは勿体無い。いあやいや、食欲に負けている場合か、と橙が意を決して反論しようとするが。

 くきゅるぅ

「……いただきます」
「はい、おあがりなさい♪」

 敵は、橙自身にあり。
 空腹を非難するお腹の虫に反旗を翻されては、観念するしかない。

「ごちそうさまでした」

 そのうち、藍が食事を終えて、主である紫と藍自身の食器を片付けていく。手間をかけさせてはいけないと箸の速度を上げる橙であったが、それを見越して邪悪な微笑を浮かべる大妖怪が一人。
 かちゃりかちゃり、と。藍が食器を洗う音が台所から聞こえてくる中で、橙は余計に焦り、口一杯に食べ物を頬張る。、
 それを見計らって、紫が動いた。

「あらあら、橙? 酷いと思わない。あなたがまだ食べているのに机の上を片付けてしまうなんて」
「んー、んんっ!」

 否定しようとするが、口一杯に入れた川魚の焼き物がそれを邪魔する。仕方なく、首を横に振る。

「そう? だってほら、こんなにもうるさく食器が当たる音が響いているんだもの、早く持ってきなさいって言ってるのかと思うわよね?」

 そんなことはない、と二度目の首振り。
 確かにいつもより大きく音が響いている気がするが、気にするほどのことはないはずで。

「それとも、別のことで苛立っているのかしらね」

 かちゃり、と。
 紫がその言葉を発した直後、台所から聞こえていた音が止まる。
 それと同時に、橙の手の動きも止まった。

 橙は気づいたのだろう。

 藍が何故、いつもより荒い手使いをするに至ったか。
 それが、どんな感情から来るものか。

「ごめん、なさい……」

 それでも、八雲という立場がそれを許してくれない。
 感情を表面に出すことを決して許してはくれない。
 平然と、他の妖怪が死んだように接しなかればならない。
 最悪の結果が生み出される前に、手を差し伸べることができたはずなのに。
 見守ることしかできない立場に、藍がいた。

「ごめんなさい……藍様……」

 それを理解してしまった橙は、もう、箸を口に持っていくことなどできなくて。
 残酷な言葉をぶつけた自分を許して欲しい、と。
 顔を両手で擦りながら、ひたすら藍に謝ることしかできなかった。

 目を覆い、暗闇しかなくなった世界の外で、

「紫様……」
「あらあら、そんな怖い顔しなくていいじゃない。ほら、選手交代といきましょう?」

 すーっと部屋の襖が動いた後、二つあった存在が一つとなり。

「大丈夫、私は、大丈夫だから……」

 暖かい重みが、橙を覆う。
 触れているだけで温もりが広がり、橙の心を幸福で満たしていく。

「橙は、橙のままでいていいから……」

 橙の涙が止まるまで、藍はじっとその場から離れず。
 言葉を投げかける。




 彼女の願いを、唇に乗せて――





 ◇ ◇ ◇




 
 気持ちを入れ替えてがんばろう。


 橙がそう自分に言い聞かせて、マヨヒガに戻ったとき。

「だから、それじゃあ他のやつらに舐められるんだ!」

 クロの声が中から響いてきた。
 人間には猫の威嚇にしか聞こえない音だが、短い声の中に怒りだけを詰め込んでいた。

「俺たちの大事な縄張りが踏みにじられて、一緒に守ってた弟分や妹分が怪我をさせられたんだぞ! それでも黙って縄張りを諦めろっていうのか!」
「そうだよ! そのとおりだよ!」

 閉めきられた入り口を開け放ち、橙は大またで部屋の中へと歩みを進めた。
 すると、驚いた猫たちが我先にと橙の通り道をつくり、頭を下げる。妖猫が並ぶ道を畳が軋むほどの強さで歩き、数十の猫を従えるべき場所へ。
 本来橙がいるべき場所に堂々と座るクロの首根っこを摘み上げた。

「確かに縄張りを守るのは大切だよ! それでも、私たちの中で弾幕勝負ができるのは私だけ。それ以外の子が戦ったら、全部命懸けの戦いになるって! だからやめてっていってるじゃない! すぐに逃げて私に報告しなさいって! いままでちゃんと守ってきたことなのに何で破るの!」
「……」
「それに、勝手にみんな集めて、今日は集会の日でもなんでもないはずだよ! どうしてこんなに身勝手な行動を取るの!」

 クロは何も語らない。
 持ち上げられたときは驚きで目を見開いていたが、橙の怒声が響き始めた頃には労目を閉じ、耳を倒してしまう。
 その態度は、猫のまとめ役である橙に対して忠義の欠片もなく。
 自分は間違っていないと、そう頑なに訴え続けているようだった。

「もう、なんでこんなことに」
 
 橙はだんまりを決め込むクロを手に持ちながら、周囲の猫たちに話を聞いていく。途中から話に加わったため見えないところが多すぎたからだ。
 そうやって情報を集めた結果が、こうだ。
 昨晩、クロたちが縄張り内の餌場でネズミや小鳥を狙っていたときのこと、いきなりはぐれ妖怪が現れて、縄張りを賭けて勝負だと一方的に挑んできた。
 しかしクロはまだ完全に変化が終わっていない妖猫。つまり人間の言葉を話せること以外では他の妖猫と大差ない。
 当然、スペルカードの発動もできはしない。だからその場での最善の行動は逃げの一手を取ること。

 けれど、その夜。
 クロは判断を狂わせた。
 
 仲間たちに逃げろと告げて、自分ひとり応戦すると言い出したのだ。
 その結果、妖怪の怒りをかって窮地に陥り、クロではなく、クロを救おうとして戻ってきた仲間が大怪我を負った。
 
「……クロはどうして欲しいの?」

 きっと、クロはそれが許せないのだろう。
 橙から、猫の2番手を命じられ自分ならなんでもできると、一時的に周りが見えない状態になり、最悪の結果を生むこととなった。
 それがどれほど彼の心を傷つけたか、それを想像できない橙ではない。しかし、自分勝手な行動が、仲間を危険に晒したことについてはおざなりに済ませるわけにはいかない。

「こうやってみんなを集めて、慰めて欲しいの?」

 橙が紡いだ言葉に、クロがびくりと体を振るわせる。
 直後、低い唸り声を上げて橙を睨んだ。

「自分は間違ってなかったって、そう言って欲しいの? っ!?」

 二度目の冷たい言葉を発したときだった。
 クロが身を捻り、橙の腕を引っかいたのは。
 そうやって橙の手から開放されたクロは空中で実を捻って着地すると、感情を隠そうともせずに呻き声を上げ続ける。
 爪を畳に深々と突き刺しながら。

「橙様にはわからない、わかるはずがない。皆をまとめる二番手に俺を選んでくれたとき、どれほど嬉しかったか」

 喉の奥から声を搾り出す。
 そのクロの瞳はうっすらと濡れているように見えた。

「でも、俺の力は他のやつらとほとんど変わらない。人の言葉だけを話せるだけの中途半端な変化しか始まっていない。それがどれだけ悔しかったか。力のない自分がどれだけ情けなかったか! 橙様にはわかるもんか!」

 もう少しで妖獣の仲間入りができる。
 時間か何かのきっかけさえあれば、強くなれる。
 
「俺に力があればあんなことにはならなかった。縄張りも守れて、あいつらも傷つかずに済んだ!」
「クロ、待って! クロっ!」

 とうとう、その場の空気に耐えられなくなったのか。
 クロは大きく体を屈めると、猫たちの頭の上を飛び越えてマヨヒガから飛び出した。
 それでも橙の身体能力であれば、それに追いつくことはできた。
 できた、はずなのに。

 踏み出そうとした脚は動かず、ただ、何もない空間に伸ばされた右腕だけが。
 黒猫の残像を追っていた。


 それから、数時間後。

 
 やりきれない想いを抱えたまま、橙は縄張りを奪った妖怪に勝負を挑み。
 自分でも驚くほど簡単に勝利を収めた。
 相手のスペルカードを使いきらせ、その上で数発だけ弾を撃っただけ。
 たったそれだけで、縄張りを取り戻すことができた。
 しかし、橙の心の中には喜びなどどこにもなくて、


 きっと、

 きっと、この程度の強さなら。

 妖獣に成り立ての者でも、勝利を収めることができたはず。


 
 その事実だけが、橙の心を締め付けていた。



 

 ◇ ◇ ◇
 




 橙が目を開けると、見覚えのある闇が広がっていた。
 方向の感覚はなく、ただ自分がその闇の中にあるだけだというのに、一度来たことがあると確信できる世界。
 
 だからこそ、次に何が現れるかも予想できたのだろう。

「また、会ったね」

 橙は闇の中にぼうっと浮かび始めた輪郭に声を掛ける。
 けれど、そのあまりの沈んだ声音に苦笑してしまった。
 夢の中にまで朝のことを引っ張り込んでしまうとは、思っていなかったのだろう。しかしそれほどこの夢は現実味を帯びていて、

「泣かないで、お姉ちゃん」

 闇の中で座り込んだ少女が、顔を上げた。
 すべてを見通してしまうような澄んだ瞳が、橙を見上げている。
 
「お姉ちゃんの心はまだわからないけど、あなたが悲しむとあの子も悲しむから」

 闇の中に映える金色の、まるで力を解放したときの藍のような瞳が。

「悲しくなると、また、痛くなるから。笑ってあげて」

 この前出会ったときは泣いてばかりだった少女が、しきりに橙のことを気にする。
 これではどちらが助けられているかわからない。

『私が助けてあげる』

 橙がそう約束したばかりだというのに。
 だから困ったように笑って、心配そうに見上げる少女に問い掛けてみた。
 この世界のことよりも、何故こんなに不思議な出会いが繰り返されるのか、それに興味が湧いたから。

「あなたが、私を呼んだの?」
「ううん、たぶん。お姉ちゃんが私を呼んだの」
「私が?」
「そうだよ、だって私は……」





 ◇ ◇ ◇





「……あれ?」

 目を覚ますと、冷たい感触がいきなり背中に生まれた。
 その後にごつごつした堅さ、そして地面に触れた手の平が生み出すカサカサという音。

「寝て、たんだよね?」

 そこでやっと、自分が大きな木に寄りかかって眠っていたことに気が付いた。
 けれど、長時間寝ていたはずなら身体を預けていた場所に温もりが移っていてもいいはずなのに、それがほとんどない。ということは、あまり長い間座っていたわけではないのかもしれない。
 そもそも、いつ気を失ったのかもわからないのだから判断しようもない。
 とりあえずマヨヒガを出た後の行動を思い出してみれば、霧の湖で気を紛らわせた後で昨日の妖狐のことが頭の中に出てきて、なんとなく人里の方へ歩いていた。
 そこにいけば何かが見つかる気がして、風景を楽しみながらてくてくと。
 そして人里から一番近いところにある林に入ったところから、記憶が飛び始める。思い出そうとすると、

「……変なの」

 先ほど見た夢の記憶の方が鮮明に浮かび上がってくる。
 やっぱり、夢なのに消えない。
 ぶんぶんっと頭を振って腰を浮かし、服に付いた土や木の葉を払う。さあ、気を取り直して出発だと、少しだけ早足で林の中を進む。
 そうやって、茂みを掻き分けながら、また夢のことを考えてみた。
 もしかしたらあれは、この世界のどこかにある場所で、隙間のような能力で吸い寄せられているから頭がしっかり覚えているとか、そういう――

「橙っ!?」
「ひゃぅっ!?」

 と、そのときだった。
 目の前の大きな茂みを通過した途端、視界が開けて、目の前に藍が座り込んでいたのだ。両膝を付き、手を合わせ、深く頭を下げるという、仏壇にお参りでもするような姿勢で。

「……まさか、また紫様が?」
「え、えと、いえ、お散歩してただけなんですけど」

 素直にそう答えると、藍は尻尾の一本をぴくりとだけ動かして、すっと立ち上がる。

「そうか、ゴメンね疑ってしまって。まさか橙が最初にここを見つけるとは思わなくてね」
「最初に?」
「ああ、さっきまでずっと結界を張っていたんだよ。私や紫様以外が立ち入れないように」

 何故そんなことをする必要があるのだろう。
 橙は素直な疑問を抱きながら、周囲を見渡す。
 少しだけ広い空間があるだけの、林の中の日溜まり。差し込む日差しの気持ち良いというだけではないのだろう、と、ちょうど中央に視線を落とす。
 藍の足下の、少しだけ盛り上がった土の山。
 さっきまで藍が拝んでいた場所へと。

「えっと、藍様もしかして……これって……」
「うん、橙は良い子だね。ちゃんと考えて理解してくれた。そうだよ、ここはあの朱李という妖狐のお墓ということになる」
「だから、お参りに?」
「ああ、魂が肉体から間然に離れ、輪廻の輪の中に入るまでの短い間だけど、守ってあげようかと思ったんだ。それくらいなら八雲としても許容範囲内だって、紫様の許可も得たしね」
「そう、ですか。やっぱり藍様はお優しいですね! 感動しました!」

 橙が目を輝かせて飛びつくと、藍は困った顔をしながらもそれを受け止めてそのまま脇に手を入れて高く掲げた。
 橙は嬉しそうに、その高い高いを満喫するが、やはり墓の前だからだろうか。藍は少しだけ浮かない顔で、橙を見上げていた。
 そうやっていつものスキンシップを終えてから、優しく地面の上に橙を下ろし、視線を茂みの奥へと送った。

「……さて、そろそろ出て来てくれないかな? あまり橙との楽しい時間を覗き見されるのは好きじゃないのでね」
「え?」
「にゃっ!?」

 二つの驚きの声が重なった。
 一つは、もちろん橙のもので、
 もう一つは、というと……

「うへぇ、気配を完璧に消してると思ったんだけど、あたいに気付くなんてとんでもないお人だねぇ……、くわばらくわばら」

 カラカラ、と軽い車輪の音を響かせて、林の中から現れるのは橙とは違う猫の妖怪。耳付近から伸ばした三つ編みお下げがチャームポイントで、死体運びが仕事兼趣味の変わった特性を持つ者と言えばもちろん

「もちろんだとも、お前を警戒して結界を作っていたんだからね」
「あっはっは、嫌だねぇお姉さん。知らない中じゃないんだから、気軽にお燐って呼んでくれると嬉しいんだけど」
「異変の根底を作り出した相手とはあまり親しくしないようにしろ、というのが親の遺言でね」
「じゃあその両親に地獄で挨拶しておくとするよ、昨日の敵は今日の友っていう言葉も紹介することにして」

 軽い言葉を交わしている中でも、ちらちらとお燐の瞳が動く。
 それはもちろん、藍の近くにある土の膨らみの部分だ。
 死体好きなお燐にとって、異世界から来た見慣れぬ妖怪の死体など、家宝に等しい価値がある。
 だから藍が結界を解いた瞬間にその嗅覚で寄ってきたのだろう。

「後でコッソリいただこうと思ってたんだけど、見つかったんならしょうがない。ねえねえ、モノは頼みなんだけどさ」

 すっと、お燐が袖の中からあるものの端を見せる。するとそれが一瞬だけキラリと輝き、藍の笑みを誘った。
 今の光を生み出したのがスペルカードだと気付いたのだろう。

「なるほど、それでそちらの要求は?」
「話が早いと助かるよ、ってことで、あたいが欲しいのはもちろんその死体――」
「まって! この死体は藍様の大切なモノなの!」

 このままではまずい、と踏んだ橙が慌てて二人の間に割って入ろうとするが、その行動を読んでいたお燐に台車で防がれてしまう。

「おやおや、半分同族さん。これは狐のお姉さんとあたいの問題さ。横から割ってはいるのはいささか無粋ってもんだよ、さあさあ、お姉さん覚悟を決めて貰おうか」
「ああ、わかった」
「藍様!? そんなっ!」
「はっはっは、いやぁ、お姉さん話がわかるよ。じゃあ勝負方法はそっちで決めておくれ」

 橙が驚愕し、燐が胸の前でぱんっと手を合わせる中。
 何故か藍は不思議そうに首を傾げて。

「……私は、わかった、と言ったんだが?」
「ああ、だから勝負方法を」
「何故勝負する必要がある?」
「…………へ?」

 橙と燐が、お互いの立場を忘れて顔を見合わせる中。
 藍は二人の行動がわからないと言わんばかりに眉を潜め。

「死体が欲しいと言われたから、わかったと応じたんだが?」

 その一言で、場の空気がかたまり、

「うぇぇぇぇっ!?」

 まったく正反対の意味が込められた悲鳴が、林を覆い尽くしたのだった。

 そして、
 
「ふー、ふー、お姉さん? まだかい? まだのかい?」

 燐は地面に四つん這いになり息を荒くする。
 今にも土を掘り返しそうな勢いで、地面を凝視しているが。

「待て」

 藍が片手でそれを止めたので、ぷーっと唇を尖らせる。
 
「さっき言っただろう? 私と橙がこの場から去るまで掘り返すな、と」
「うー、でもねぇ」
「後一言二言会話をする時間をくれればいい」

 不満そうに見上げる顔が語るのは、早くしての一言だけ。
 けれど、橙はまださきほどの衝撃から立ち直れずにいた。
 藍に深く関わることであるというのに、狼狽して藍の服の端を掴み続ける。
 なぜ、どうして、その瞳は不安と疑問をぶつけ続けていた。

「藍様、やっぱりやめましょう……こんなの」

 その不満が声となって現れても、藍は慌てず、橙の頭をゆっくりと愛おしそうに撫でた。

「橙、死亡してすぐ、肉体と魂の名残が地上に残っている状態で燐のような火車に死体を運ばれれば、その魂は怨霊へと変化し、新たな命として生まれる可能性を奪われてしまう。それはわかるかい?」
「はい、だから藍様は結界を張ったんですよね?」
「うん、そうだよ。でもね、死体だけ、完全に抜け殻になった器だけを運ばせるのであれば、この妖狐にも未来が残る。どんな生を過ごしていたにせよ、転生したときはこの幻想郷の中で生まれ変わることができるのだから、肉体くらいはあの火車に運ばせてやるとしようじゃないか」
「でも……」

 一度幻想になったモノは、幻想の中でしか生きられないのだから。
 と、橙にしか伝わらない声で伝えると、まだ納得のいっていない橙の背を叩いて、その場から足を動かした。
 休みを頂いたから、久しぶりに人里見学でもしようか。なんて言葉を交わし、まだどこか土の中の妖狐を気にする。
 それでも、最後は藍の指示に従い。

「では、後は頼んだよ」

 妖獣の二人は、その場から姿を消した。
 直後、地面につけていたお燐の両手が消える。
 実際に消えたわけではない。
 その動きが速すぎて、手が消えたように見えたのだ。

「~~♪」

 鼻歌鳴らし、土煙が上がるほど激しく土を掻き。
 とうとう、お燐はその手を柔らかな肉に触れさせる。
 死後硬直の解けた、好みの柔らかさの死体――
 藍の結界のせいだろうか、目立った腐敗もなく。完全な形で土の中から姿を見せた肉塊という宝石に目を輝かせ。
 手を組み、体をくねらせていた時だった。

「あっ!」

 突然、茂みから何かが飛び出して、死体に覆い被さったのだ。
 慌てて燐が追い払ったせいで、死体に損傷は、な――

「あ、ああああああっ!」

 尻尾にわずかな切り傷を見つけたお燐は、少々落胆しながらも、珍しい死体を台車に乗せ、その場を後にしたのだった。



「ん?」



 奇妙な気配を背に受けながら。




 ◇ ◇ ◇




 ふはぁぁぅ……

 魔法の森と、人里のその中間辺りの小道。
 そこを少しだけ南へと進めば、爽やかな風が通り過ぎる野原が広がっている。
 季節によっては青い可愛らしい花を咲いているのだが、木々の緑が段々と濃くなるこの季節にはその名残も見られない。
 けれど、

 ふぁぁぁぁ……

 綺麗に生えそろった葉がふかふかのベッドとなり、野原に横になっているだけで別な幸福を与えてくれる。
 そんな幸せな日差しと、風に抱かれていると、
 ここ何日かで起こった嫌なことなんて綺麗さっぱり消えてしまいそうで、

「ねぇねぇ、橙、聞いておくれよ! 酷いんだよあの寺子屋の先生! あたいを疑ってるんだよ!」
「……」

 そんなとき、颯爽と記憶整理の妨害をしてくる存在が目の前に現れるわけで。
 しかも、橙が寝転び、空を見上げる横でばんばんっと地面を叩くものだから、爪で引っかかれた短い草が顔に当たって不快だったりもする。

「こんな悔しい思いをしたのは久しぶりだよ! やっぱりこういうときは、この想いを仲間で共有するべきかと思って、運んできたわけ! 死体と一緒に!」

 不快ついでに、あまりにも良い迷惑であった。
 加えて言わせて貰えば、

「……えっ? 仲間?」
「そうだよ! あたいと橙、猫妖怪的な仲間じゃないか。つれないねぇ」

 眠い眼を擦り、ぼやけた視線で声がした方を見上げれば、太陽を背にしてニコニコと笑うお燐の顔が合った。
 隣でしゃがみ込んで小刻みに左右へと体を揺らしながら、膝の上に頬杖をついている。
 
「ほら、この猫耳と尻尾が仲間の証拠ってことで」
「でも私死体とか興味ないし、ちょっと匂うから少し話して欲しいなって思うんだけど」
「そっか、でも、おいおい橙も好きになるかもしれないよ?」
「ない」

 とりあえず、きっぱり言い切って起き上がる。
 その際がお燐の耳に掠りそうになるが、あっさりと回避し、くるりと背を向けて逃げようとする橙の目の前に先回り。

「おやおや、これはいけない。急がば回れっていうだろう? のんびりするときはのんびりしないと」
「むー、どいてよ!」
「はて? どうして橙は私にそんな敵意剥き出しなんだろう。あたいなんか変なこと……」

 おでこに指を当てて、とんとんっと自分の過去の行いを思い出し、
 何かに思い当たったのか、ぽんっと手を叩いた。

「ああ、この前の妖狐の死体の件だね」
「そうだよ! 絶対仲良くなんてしないんだからね!」
「うん、さすがあたいの記憶力」
「聞いてるっ!?」
「ああ、ばっちりばっちり」

 わかっているのかいないのか。
 お燐は橙の視界から退くと、そのまま台車まで移動しパタパタと手を振った。

「それが気になってるんだったら、橙と仲良くなるのはもう少し時間がかかりそうだ。今日はお暇することにしようかねぇ、っとそうだった」

 橙がいぶかしげにお燐の動きを観察する中で、それでもお燐は無防備に背中を見せつつ顔を半分だけ後ろへ向ける。

「橙は、これからどこかいくのかい?」
「あなたには関係ないでしょ!」
「あっはっは、行き先くらい教えてくれてもいいじゃないか。あ、それとも特に決まってないとか?」
「……散歩!」
「ふむ、それは忙しそうだ。邪魔しちゃぁ悪いから、あたいから一つだけアドバイスだ」

 お燐の声音は、どこかふざけた調子で続いていた。
 それが橙の記憶の端に触れ不快感を与えていたのだが、

「猫の妖怪が人間を襲ったって噂になってる。あたいみたいに石ころを投げられたくなければ、人里には近づかない方がいいよ」

 その衣服の裾に開いた小さな穴。
 それを見せ付けながら立ち去るときに発した声は、真剣そのもので。

「……え?」
 
 その場に取り残された橙は、ただ呆然と立ち尽くす。
 いつもと同じ風景の中で、

 いつもよりも早く行き過ぎていく、白雲を見上げながら。







 橙は、そっとおでこを撫でる。
 もうそこには何もなく、綺麗な肌しか存在しない。
 出来物もなく、シミもなく。

「人食いの、妖獣、か」

 人里で受けた、投石の傷もすでに消え去っていた。

 いつものように挨拶をして、
 いつものように手を伸ばして
 いつものように微笑みかけて

 その結果が、額の傷だった。
 けれど妖獣の再生能力はそんな小さな傷などわずかな時間で消し去ってしまう。

「私、みんなになんて伝えたんだっけ、人里では気をつけてって伝えられたんだっけ」

 猫の集会が今夜開かれていたというのに、その記憶がない。
 いや、開いた事実は覚えているが、その話の内容が虚ろだった。
 それ以上に気になることがあって、確かめたいことがあって。
 だから今夜の集会に期待し、恐怖した。

「なんで、来てくれなかったんだろう……」

 橙は畳の上で腹ばいになって指を動かし、二つの文字を表現した。
 その文字が記すのは、この前大喧嘩してしまった黒猫の名前。
 妖猫たちをまとめる立場にある橙とは別に、それを補佐する立場を与えた。
 他の妖猫よりも、一番自分に近い存在である。

「クロ……」

 頭の中に嫌な想像が浮かぶ。
 人里の一部の人間から受けた罵声を思い出すたび、親しい黒猫の姿が現れては消える。
 胸が締め付けられるほど痛んで、自然と瞳が潤み。
 それが滴となって畳に落ちる前に、服の袖で拭った。
 何をする気も起きず、ただ悲しみだけが溢れる夜。
 こんな日は八雲のお屋敷に行って、藍の布団に潜り込むのが常であったが、藍は今朝今夜は仕事で遅くなると言っていた。
 こう告げられるときは大体帰りが朝方になるので、唯一の逃げ道もない。

「はぁ……」

 一体何度目か、本人ですら数えるのを諦めるくらいのため息を重ねたときだった。
 橙の耳が、ぴくりと動いたのは。

「橙様」
「っ!?」

 ぶわり、と毛穴という毛穴が全て開いたかと錯覚するほどの震えの後。
 橙は身を翻して周囲を見渡す。
 確かに聞こえた。
 おそらく目の前の障子の向こう、その先の月明かりの下から。
 姿は見えないが、この声を間違えるはずがない。

「……クロ、戻ってきてくれたの?」
「……」

 震える声を隠そうともせず、橙は尋ねた。
 淡い期待を胸に抱いて、優しく問い掛けたが、その答えは無言。
 謝罪も何もなく、その代わりに返ってきたのは、

「ちょっと、付き合って欲しいんだ」

 たったそれだけの短い言葉。
 それでも橙は嬉しかった。
 言葉はなくとも、クロが自分のところに戻ってきてくれた。
 それが嬉しくて、言葉のままに従い外へ出る。

「えっ?」

 するとちょうど半分欠けた月明かりの下に、見慣れない妖獣が一人立っていた。
 昼間のこともあって、身構える橙であったが。

「こっち」

 声を聞いて、理解した。
 やっぱりクロなんだ、と。
 驚きよりも先に、おめでとうと言いたくて足を進めたら。
 クロの声で言葉を発したその影が、屋根を飛び越えて屋敷の反対側へ飛んでいってしまう。

「待って!」

 橙もそれを追い掛けて飛び、見失わないように必死に追い掛ける。
 その速度が、妖獣に成り立てとは思えないほど早く、自由自在に月夜を舞っていたから、応えて一気に加速。
 ちょうど大きな一本杉の枝を蹴って宙に舞い上がったところで、二つの妖獣の影は重なり。

「クロ、よかったね。妖獣になれたんだね……」
「うん」

 同時に着地したところで、橙はクロに抱きついた。
 人里を襲ったのかもしれないなんて疑問は、そのとき頭の中から吹き飛んでいて、その肌に触れられることに喜びを感じる。
 けれど、それをすぐ引き離されて。

「少し、静かに歩くよ」
「クロ?」
「……ごめん、橙様、俺を恨んでくれても良いから……」

 迷い。
 戸惑い。
 中性的な印象を受ける、幼い顔には喜びがない。
 妖獣に成れたことに対する純粋な感情がどこにも見あたらない。
 先に進もうとするクロの表情は周囲の闇色に溶け込み、なんだか――

「……なんで、なの?」

 今にも、泣き出しそうなそうな顔をしていた。






 橙は、声をあげなかった。
 自分の意志で耐えたのではない。
 眼前で現象を頭の中で整理できず、行動を起こすことができなかっただけ。

 クロに誘導されるまま辿り着いた茂みの中で、しゃがみ、じっと息を潜めことしかできない。
 そんな中でも世界は無慈悲に動き続けた。

「――っ!」

 悲鳴が、悲鳴をかき消し。
 誰かが動く度、闇の中で飛沫が上がる。
 次々と、そう動くことを決められたカラクリのように。
 妖怪たちが怯え、逃げ惑うことを起点とするように、
 闇を纏った森の中で、鮮血の花が咲き乱れる。
 そのうち、動くモノがなくなり。
 平然と佇むのは、たった二つの影だけとなる。
 ただ、その二つの影が、橙の思考を混沌の中に引きずり込んだ。

「偶然、だった。変化できたのが嬉しくて、森の中を走ってたら……」

 それでも、気を失わずにいられたのは、横にクロがいたから。
 罪悪感に染まりきった顔で橙を見つめる、後輩の姿があったから、保てた。

「……橙様も、あんなことをするのか?」

 十体を上回る妖怪、そのすべてが身体のどこかに深い傷を負い地面でうめき声を上げる。人間であれば瀕死の重傷と言っても、過言ではない。
 妖怪たちが、安心して暮らせる楽園の世界で、
 横たわる妖怪たちは怨嗟の声を上げ続ける。

「……俺も、あんなことの手伝いをしないといけないのか?」

 傷ついた妖怪たちの恐怖と、クロの戸惑い。
 それを一身に受ける存在は、紛れもなく。

「そんな、はず、ない……」

 橙が慕う、八雲藍とその主、八雲紫だった。
 妖怪を傷つけ、地べたに這いつくばらせているのは、

「だって。藍様は……、紫様は……」
 
 楽園を創りたい。
 その紫の意思の元で、藍は動いているはずだった。
 そして橙もそれに憧れた。
 成長したら二人のために働く決意もしていた。
 それなのに、これではまるで、

「……はは、何が楽園だ、地獄じゃねえかよっ!」
「っ!?」

 妖怪たちのなかで一番傷が浅い一人が叫んだ。
 二人の足元で転がされている妖怪のその一言で、橙は思わず叫びそうになる。
 なざなら、橙も、思ってしまったからだ。
 この状況が、楽園であるはずがない。
 例えるならば、地獄だと。
 クロと二人で身を潜めながら、そう思ってしまったから。






「あら、失礼ですわね。ここは忘れ去られた者達の楽園ですわ。思い違いも甚だしい」

 血塗られた世界の中で、紫が右手で扇子を広げる。すると、藍が無言で男の妖怪に近づき、仁王立ちになった。
 いつも胸の前で組まれた両腕はだらりとげられ、その先端はどす黒い液体で染まる。
 その両腕が何を生み出すか。
 十分その体で味わった妖怪は、小さな悲鳴を上げて身を強張らせた。
 しかし、その両腕が血飛沫を作り出すことはなく。

「そう怯えなくても結構です。これ以上何かするつもりはありません。あなたが抵抗する素振りを見せれば、話は別でしょうけれど。私はここでの規律を尊重していただきたいだけなのですから」

 紫の言葉が終わると同時に、藍が紙片を妖怪に渡す。
 それはこの世界で誰もが知っている、スペルカードの原型。

「わかるでしょう? それは貴方が一度破り捨てた紙ですもの。この世界での争いごとであれば、まず、そちらでの交渉をしていただけませんと。満月の夜の暴走は大目に見ますが、それ以外で他の種族を脅かす能力の使用は控えてくださいな」
「……他の種族の命を奪わぬまま死ね、というのか」
「そこまでは言っておりません。必要最低限の捕食については、人里の外であれば認めるところではありますわ。けれど、あなたや、あなたのお友達の中には、少々手癖が悪いものがいるようで。それに何度言葉で注意してもおわかりいただけないのですもの、式の藍共々胸を痛めておりました」

 くすくす、と。
 扇子で口を隠しながら笑うその姿は、まるでおしとやかなお嬢様のよう。
 けれど、妖怪はその笑みを受けて体を震わせる。

「もし再度、あなたが私のお願いを違えた場合、いかがいたしましょう? 一度目は言葉だけ、二度目は力の行使、仏の顔も三度までという言葉もありますし」
「紫様、いっそのこと一思いに……」
「待て! 待ってくれ! 守る、次は必ず守る!」
「駄目よ、藍。こんなに素直に頷いてくださる方にこれ以上乱暴を働いては。約束についても宣言していただけましたから、こちらも誠意を持って対応するのが筋というものでしょう?」

 長い金髪をふわりとなびかせ、身を翻した紫。それに藍が続いて、男はやっと命を削る圧力から開放された。そうやって二人が数歩離れたとき、

「もし、もしも」
「ああ、それと」

 言い掛けた男の声を無理やり止め、閉じたままの日傘をスキマから取り出しだ。月明かりの下では本来必要のない日傘の先端を、とんとんっと地面の上で遊ばせながら。

「約束を守れなかったときどうなるか、なんてつまらない問いかけをするようでしたら。端から守るつもりがないものとして、相応の態度を取らせていただきます。そして、もし、今この場にいる誰かが、実際に約束を違えた場合」
「っ!?」

 そこまで言った後、傘の半ばまでを深く地面に突き刺す。

「この場にいるお仲間全員に、責任を取っていただく事としましょう。ああ、これは提案ではなく、こちらが取る行動を説明しているだけですので、交渉の余地などございません。ご理解いただけましたか?
 では、良い夜を……」

 突き刺した傘を再び隙間に取り込み回収すると、無言で震える妖怪たちの間を悠々と通り過ぎていく。
 けれど、誰も顔を上げることなく。
 二人の影が消えるまで、地面をじっと見つめ続けるだけ。

しかし、その中にあって。
じっと藍と紫の姿を凝視するものはいた。
 
「……橙、出ておいで」

 さきほどの現場から少し離れたあたり。
 月の光が木々の隙間から零れる場所で立ち止まった藍は、瞳を伏せたまま振り返る。すると、葉が揺れる音と同時に、慣れ親しんだ気配が生まれた。
 見られていたのは、わかっていた。
 だから、橙の顔を見ないように目を閉じたのだ。 

「うそつき……」

 それでも、たった四文字の言葉が、深く、深く、藍の胸を貫いた。
 何か声をあげようとした唇を真一文字に結び、伸ばしかけた手を胸の前へと戻す。
 いつかこんな日がくるだろうと、頭の中で何度も思い浮かべていたというのに、いざ橙の正面に立ってみれば。

「藍様のうそつき、大嫌いっ!」

 言葉を受け止めるだけで、藍の思考が揺らいだ。
 ゆっくりと瞳を開け見据えた先には、ぼろぼろと涙を流す橙がいる。少し歩を進めるだけで、抱きしめられる位置に橙がいる。
 それなのに、何一つまとまらない。
 行動を思い浮かべても、それに対応した最悪の結末が瞬時に藍の頭に思い浮かび。慌てて別の手段を探っても、また別の結末が藍自身を苦しめる。
 しかし、藍は理解していなかった。

「何で、何も答えてくれないんですか! やっぱり私は、藍様にとって単なる式でしかないってことですか!」
「橙、私は……」

 無言で佇む事が、橙の不安を掻き立てることに。
 自分の言葉を否定して欲しいと願う橙の意思、それを踏み躙っていることに気づけない。
 聡明で、橙の見本であり続ける藍の姿はこの場のどこにもなく。
 橙の目をまっすぐに受け止めるだけしかできない。
 けれど、藍は橙をみつめることしかできず。

「橙、藍は怯えているのよ。小さくてか弱い幼子のように」

 二人の視界が交差する空間で、鮮やかな扇子がその線を遮った。

「あなたに嫌われてしまうことを、ね?」

 扇子に二人の視線を集めてから、ぱちんっとわざとらしく音を立てて閉じる。
 橙はそこで初めて、横に移動していた紫へと顔を向けた。

「あなたたちが、見ていることは私も、藍も、すぐに気づいた。だからあの場ですぐに行動を止める事もできた」
「じゃあ、なんでですか! なんであんなひどいことを続けたんですか!」
「酷いと思う?」
「はいっ!」
「どうして?」
「だって、みんなにあんな怪我をさせて、脅してたじゃないですか!」
「俺も、そう見えた。あそこまでやる必要はないと思う」

 橙の後ろに控えていたクロも疑惑の視線を藍たちへと向けている。
 だが、紫は平然と涼しい顔でその疑惑を受け止め、

「あの者達の行動次第で、複数の種族がこの世界から消えるとしても?」
「え?」

 紫はわずかに揺れる橙の目の色を確認しながら、目を細める。

「スペルカードルールが何のために作られたか。藍に教わったわね?」
「はい、妖怪たちが絶対に殺してはいけない博麗の巫女と交渉する際の手段であり、妖怪たちが平和的な闘いをするための道具だと」

 ルールを決めて、条件を提示しあい。
 勝利したものが望んだものを手に入れる。
 そこから命のやり取りという部分を薄めたのが、巫女と紫が作ったルール。ときには鮮やかさを競う場合もあり、単純な制圧力だけではすべての戦いに勝利できない。
 
「そうよ、妖怪たちが本気で殺し合いをしないための道具、だってほら」

 そこで紫は指を縦に走らせる。
 そびえ立つ一本の杉に向かって。
 すると、その杉のちょうど中央にスキマが生まれ、メキメキという耳障りな音を立てながら巨木が左右に分かれていく。

「直接的な力のない私でも、このあたり一帯をスキマで破壊し、飲み込むのは容易い。藍やその他、力の有り余った妖怪たちなら違う方法で森を吹き飛ばせる。ですから、力のある妖怪たちは率先してスペルカードを作成、所有するようになりました」
「……自然を壊さないように、ですか?」
「自然ではありません」

 そこで紫は説明を切り上げ、月明かりを受けながら優雅に半回転。
 橙に背を向けたところで、だんまりを続ける藍の肩を叩いた。

「……橙、紫様は、妖怪が全力で力を振るえば、この世界が壊れてしまう。それを案じておられるのだ」
「幻想郷が……壊れる?」
「ああ、そうだよ。この世界はとても安定していて、毎日、変わらないくらいのんびりとした時間が流れている。平和で穏やかに見えるけれど、違うんだ。表と裏の両面から導かねばすぐに壊れてしまう。日の当たる場所、先頭に立って引っ張るものが博麗の巫女であるのなら」

 そして藍は、まだどす黒く汚れたままの自らの袖を、手を、悲しげに見つめて。

「誰かが、闇を背負わなければならないんだよ」

 やっと落ち着きを取り戻した藍は、いつもの柔らかな口調に戻り橙へと伝える。
 あの妖怪たちが、スペルカードを用いずに何度も暴れまわったことに。
 自分たちの棲家を作るために問答無用で他の種族を殺戮し、スペルカードバトルで平和的な解決を望んだ者たちを一掃した。

「そんなことを、あの人たちが……」
「一度目は私が出て、代表者と交渉させてもらったよ。その際、口頭でこちらの意見を呑むという返答があった。だからスペルカードの元となる札を渡したんだが、それからも行動に変化は見られなかった」
 
 幻想郷の管理者である八雲の者からの言葉だけの警告、それが余計に相手を増長させてしまったのかもしれないと、藍は俯く。
 気を大きくした妖怪たちはついには人里にまで手を出すなどという話を語り始め、渡したはずのスペルカードも破り捨てた、と。
 事実、人里近辺の妖怪と衝突があったのも目撃されているのだから。

「だからお灸を据えた。見せしめの意味も含めて、ね」

 この世界を守るための仕方ないこと、と藍は言う。
 橙の大好きな藍が、言葉を選びながら告げてくる。
 それでも、橙は別な言葉を求めた。
 『八雲』という名に憧れ、目標とした。その事実が目の前で崩れ去るのを信じたくなかった。

「じゃあ、藍様は! あの人たちがもう一度悪いことをしたらどうするんですか!」
「橙……」
「本当に、あの人たちの命を奪うって言うんですか!」

 藍は一度、救いを求めるように紫の方へ半身を向ける。
 だがそこにあったのは氷にも似た冷たい視線だけ。
 だから藍は、希望を求める橙の両肩を手で掴んで、

「……いままでずっと、そうしてきた」
「っ!!」
「少ない犠牲を選び、摘み取る。そうしなければいけなかったんだ」

 一を救うために、十が歪むなら。
 迷わず一を排除する。
 それが、幻想郷を支える八雲の仕事。
 結界を支える紫と、その式による。もう一つの顔。
 その事実を、橙に突き付けた。

「だから、見せたんだ。そろそろ橙にも話しておかなければいけなかったからね」

 潤む瞳に残っていた橙の希望、それを裏切って。
 
「だから橙、八雲になりたいと言うのなら――」
「いやですっ!」

 橙が拒絶したのは、当然の結果だ。
 妖怪が、目的を持って妖怪を殺す。
 一般の人妖なら知らなくていい、成らなくてもいい存在。その役割を果たすことに憧れを、希望を抱くはずがない。

「嫌、私、そんなのになりたくないです……」

 両肩を抱く藍の腕に手を当てて、橙は弱々しく首を左右に振った。
 ぽたり、ぽたり、と地面に水滴を零しながら。
 そして興奮した様子で、顔を上げ。
 必死に心で押さえていた言葉を口にしてしまう。

「私は、藍様みたいになりたくありませんっ!」

 そして、はっと目を見開く。
 発した直後に、橙はカタカタと震え始めた。
 自分が今何を言ったのか、その行為がどれほど目の前の主を傷つけかねないか。
 橙は短い悲鳴を上げて、藍に謝ろうと声を出そうとした。

 直後――

 藍がその顔を胸に押し付けて、何も言わせなくする。

「うん、それでいい。それでいいんだよ」

 橙が暴れても強く頭を押し付けて、何も言わせない。
 顔を見せないように後頭部を左手で押さえ、体を引き寄せた。
 
「橙が思うまま、橙が信じる生き方をしなさい……お願いだから……」
 
 予想もしなかった藍の言葉に、橙は戸惑いながらも次第にその甘い感情を受け入れ始める。
 求めるように藍の体に腕を回したかと思うと、すー、すー、っと小さな息を繰り返し始めた。
 その音は段々と穏やかになり、その度に橙の体から力が抜け、最後には腕の中で寝入ってしまう。
 
「ふふ、疲れたんでしょうね、今日はその子なりに考えることがありすぎたのかしら」
「明日にはいつもの橙に戻ってくれればいいのですが」
「その問題はあなたにとって大きいのかもしれないけれど、さて、この場はどう取りまとめましょうか?」

 橙が静かになった後、二人はその目をもう一人の妖獣へと動かす。

「部外者が八雲の事情を知ってしまったのですから……取るべき手段はそう多くありません」

 大事そうに胸に抱えていた橙を紫へ手渡すと、藍はクロへとゆっくり歩み寄り。

「悪いけど、これも決まりなんだ……」

 幾度も、幾度も、妖怪の血を啜ったその右手を伸ばした。
 




 ◇ ◇ ◇





「改めまして、お招きいただきありがとうございます」

 亡霊の姫君は、親友である紫に仰々しい態度で頭を下げ腰を下ろした。隣に座る紫と同じように両足を庭へと下ろし、着物の裾を軽く直す。

「こちら、お口に合うかわかりませんけれど、お饅頭ですわ」
「あら、悪いわね」
「いえいえ、お気になさらず」

 親しき仲にも礼儀あり。
 廊下の妖夢がすっと差し出した饅頭を紫に勧める仕草だけ見ても、まるで舞の一小節を眺めているかのようだった。

「素敵なお茶請けをいただきまして、感謝いたします。きっと、このお饅頭は私の口に合うに違いありません」
「本当に? 紫に喜んで貰えたら私も嬉しいわ」

 暖かな日差しと、小鳥のさえずりの中で楽しむ親友との一時。
 それを想って歌でも読もうというのか、紫はすっと扇子を広げて幽々子に向けた。

「だって、そのお饅頭、藍に買ってこさせたものと瓜二つなのですもの」
「あらあら、偶然というものは恐ろしいものね」
「スキマでこっそり覗いたら、その数が目に見えて減っているように見えたのですが?」
「あらあら、妖夢、人の台所を漁るなどとあさましい」
「え、ええっ!? わ、私ですか?」

 急に話を振られた妖夢は、正座しながらおろおろと視線を動かす。
 その行動で、犯人は明らかとなった。
 
「幽々子、何故台所にあると?」
「ああ、このちょうど良い甘さがお茶の渋みを引き立てて素晴らしい」
「堂々と食べないでほしいのだけれど、人の家のお茶請けを」
「次から考えるとしましょう」

 鼻歌を奏でながら、紫の指示で妖夢が準備したお茶を啜る。
 とりあえず、謝るつもりはないらしい。

「……はぁ、まったく、あなたという人は、遠慮がないというか。つかみ所がないというか」
「魅力的な女性は秘密で着飾るのです」
「それでは、今日の時間を作るためにあなたの仕事を藍に手伝わせたのも秘密にしておいたほうがいいのかしらね? 閻魔様に」
「……今度、冥界の銘酒をごちそうしますわ」
「素直でよろしい」

 適当に持ってきたからだろうか、饅頭には二つの種類があった。
 白い生地に包まれているのは変わらないが、その中央に食紅が薄く乗っているものと、白いままのもの。
 幽々子が二個目のお饅頭に手を伸ばすとき、迷っていたので。

「白はこし餡、朱がついているのはつぶ餡」
「あら、それは素敵ね。それでは次はこちらをいただきましょう」
「それと妖夢を使わせてもらってもいい?」
「ええ、つまらないモノですけれど」
「妖夢が捨てられた子犬みたいな目で見てるから、もう少し優しく命じてあげなさい」

 妖夢に人数分のお茶を持ってくるように指示を出した紫は、やっと幽々子から視線を外して、広々とした庭を眺める。
 その口元が軽く上がるのは、季節で変わり行く風景によるものではない。
 土を跳ね上げて飛ぶ二つの影が、紫の笑みを誘っていた。
 饅頭に気を取られていた幽々子も、そちらの方へと頭を上げる。
 直後、ほがらかだった表情を隠すように扇子を顔の近くへと持ってくる。

「ねえ、紫? 私を呼んだのはこのこと?」
「ええ、もちろん」

 紫はそれに答えて満足そうに微笑む。
 あの幽々子を少しでも驚かすことができたという優越感からか、足が自然と前後に揺れた。
 普段、庭で動くものがあるとすれば、野鳥か、虫たちか。そうでなければ、藍と橙に限られる。だから今回も藍が橙に弾幕指導しているのだろう。
 その程度の気分で顔を上げた幽々子の瞳の先には、三つの影がある。
 すらりとした藍が、何もせずに佇み。
 それ以外の二つが所狭しと庭を駆け回っている。
 ありえるはずのない三人目の存在、興味津々というようにそれを追って瞳を動かす幽々子の態度は年相応のお嬢様のようで、そんな明るい表情のまま嬉しそうに紫の手を握り締めた。

「つまり、今日は猫鍋ということねっ!」
「食べない!」
「え、ええっ!? 二人に増えたのに!」
「何故増えたことが食事に直結するの!」
「そんな、紫は私にこんな生殺しを、よよよ……」
「ふざけてるでしょう?」
「あら、半分真剣よ~、味に興味があるのは事実なんだもの~」
「まったくもう」

 幽々子がいる場ではどうしてもペースが狂わされてしまう。
 それが悩みでありながら、救いであったりもするのだから。
 
「それで、あの子には話したの?」
「橙と一緒にその場に居合わせたのだから、仕方ありません。それでも、生まれたての妖獣を処分するのも偲びないと、どうしても藍が言うものだから」

 お茶で喉を潤し、一拍ほど間を置いてから諦めたように息を吐いた。
 あの夜、もう一体の妖獣を処分すると判断していれば、藍と橙の絆に決定的な傷が入る。それでも必要であれば取らざるをえなかった、が。

「見習の式として、藍に任せることしたの」

 橙と向かい合い飛び跳ねているもう一体の妖獣こそ、昨晩見逃されたクロだった。実践訓練に取り組むその表情は真剣そのものではあるが、どこか活き活きとして、満ち足りた顔をしているように見える。
 橙も同様で、新しい仲間との訓練を楽しんでいるようだ。
 不安視していた橙と藍のやり取りも自然で、曇りがない。
 幽々子は手の中に饅頭を遊ばせながら、そんな二体の弾幕を眺め。

「ふ~ん、ペットを飼うのが紫の趣味?」
「ペット、ねぇ。
 確かに妖獣は肉体に依存しているせいで、他の妖怪よりも成長を見て取れるのが楽しみとなる。けれど、必要以上に囲うのは遠慮したいわね、だから化け猫の部類は橙だけでよかったのだけれど」
「つまり、藍が困ってたから、見捨てられなかった?」
「あっさり結論付けないでくれる? ちょっと自分が情けなくなるじゃない。でも、興味があったか、なかったかと問われれば面白い妖獣だと解釈しているの」


 そして紫は『疑わしき物を罰する行為が一番楽なのだけれど』と続けて言葉を止めた。 
 目の前の訓練が終盤に差し掛かったと判断したからだ。
 クロの動きが目に見えて悪くなり、勝ちを意識した橙の弾幕が雑になっていく。これではクロの体力作りにはなっても、橙の鍛練にはならない、むしろマイナスとなるだろう。背を向けているから藍の表情はわからないが、尻尾の一本が小さく円を書くように動いているところを見ると、いつやめさせようかタイミングを計っているようだ。

「おもしろい? それは宴より興味深い?」
「ええ、あの子の存在がね」

 愛らしい橙とは違い幼さの残る中性的な顔と、黒を主体としたワンピース以外は、ほとんど外見の特徴は同じだ。
 
「外見だけなら、お酒の肴にもなりそうにないわ~」
「そうね、外見だけで判断するなら、ね?」
 
 紫の含み笑いで何かを感じ取ったのか。幽々子は手に持っていた饅頭を口の中に放り込み、咀嚼しながら考えを巡らせる。
 けれど、ほとんど同じなのだから仕方ない。
 二本の黒い尻尾、短めで揃っている髪、その中から生えた大きな耳と、決して大きくはない控えめな胸、そして、まだ女性らしいふくらみが存在しない腰周り。
 汗だくで疲労困憊であることを除けば、大まかな点での違いを見つけることなど難しく。
 それでいて、限られた情報しか持たないのだから。

「……蓋を取らなかったら茶碗蒸を美味しく食べられない」
「素直にわからないって言いなさいな」
「だって、紫が意地悪なんだもの」

 唇を尖らせて、ぷいっと少女らしく顔を背ける。
 大人びた魅力と子供っぽさを併せ持つ幽々子らしい態度に、くすくすと紫は微笑を作り、

「では、種明かしと参りましょう」

 幽々子とお揃いの閉じた扇子をクロの方へ向けた後。
 ぽつり、と一言。

「あの子、元は雄なのよね」

 その瞬間、幽々子がすっと廊下から腰を浮かしたと思ったら。
 一直線にクロの元へ。

「っ!? 二人とも、やめ! やめっ!」

 藍が慌てて弾幕を停止させる中、我関せずと言った素振りでいきなりクロに肉薄。

「う、うわっ!? 何だ! 何なんだあんたっ!」

 驚くクロの両頬に手を触れさせて、額と額が触れ合うほどの距離でじっとその顔を見つめた後。
 何の言葉も発しないまま、再び紫の元へと戻っていく。
 そして、難しい顔で座りなおすと。

「境界をいじって私を騙してる?」
「してない」
「そもそも雄というのが嘘?」
「嘘はつかない主義ですの」

 どの口が言うのだろう。
 と、一瞬幽々子の顔が曇るが、紫の余裕は崩れない。
 そこで、幽々子は素直に事実を受け入れてみることにした。

「……本当に、男の子?」
「ええ、橙の話を鵜呑みにするのなら間違いなく雄の妖猫だったようね。妖獣へと変化した際に性別が入れ替わったようだけれど」
「そういえば、竹やぶの兎さんも、女の子しかいなかったような……」
「ある個体へと向けられる憧れが強すぎると、そうなってしまうのかもしれませんわね。もしくは幻想郷がそうさせるのか、実に興味深い結果じゃない?」
「妖怪になったときに……」

 そんなことをつぶやきながら。
 何故か幽々子が、紫から離れ始める。
 ずり、ずり、っと腰を廊下の上で滑らせて、横目で紫の顔を眺め、

「……何の真似かしら?」
「いえいえ、他意はないのよ?」
「私が元男性、とでも言いたいのかしら?」
「そんなっ! 紫から女性らしさを奪ったら、単なる痛い人じゃなぁぁぁ、ふはひぃぃっぃっ! ひはひっ! ひはひわぁぁ~~っ!」
「え~? きこえないわ~? どうしたのかしら~?」


 正直者は馬鹿を見る。

 スキマで即座に間を詰め寄られ、両側から頬を引っ張られる幽々子の心情を一言で表現するのにこれほど適したものはない。
 両手をばたつかせ、ぱんぱんっと紫の手を叩く幽々子であったが、中々その手が離れることはなく。
 やっと痛みから開放が消えたころには、色白の肌の上で桜色に染まりきった丸が二つ、大きく自己主張していた。

「もう、美味しいものを食べること以外で頬が落ちるかと思ったじゃないの~、私が言いたかったのはそんなことじゃないのにぃ」
「あら、ごめんなさい。ではどういうこと?」

 すると、幽々子は頬を両手でさすりながら、再び紫から離れるように横移動し、

「ほら、さっき、幻想郷がそうさせるのかもしれないって言ったじゃない? 男の子を変えちゃうのが」
「ええ。それがどうしたの?」
「幻想郷の大元を生み出したのは紫なわけよね? それで幻想郷は忘れ去られた者たちの楽園ということになる」
「私一人の所業ではないけれど、大体そうなるかしらね」
「ということは」

 そこで、頬から手を離し、微笑みながらぱんっと胸の前で手を叩いた。

「可愛い女の子に囲まれて過ごすことが紫にとって楽園っん~~~~っ!?」
「この口ね! 悪いのはこの口なのね!」
「ひはひ~~~っ! ひょーう、たふへへ~~~~っ!」

 そうやっていつもどおりじゃれ合う二人の女性を前にして、大きな尻尾がだらりと下がり、

「……お二人とも、何をなさっているのですか。橙とクロが見ているというのに」

 幽々子の行動のおかげで鍛練を切り上げることに成功した藍が、脱力しながらつぶやいた。その後ろでは、二人の黒猫が声を出して笑い、こらっ! と藍に注意される。それでも、二人から笑顔は消えず、威厳ある主の姿を見失った藍の頭痛は酷くなるばかり。

「あの、皆さん。お茶が入ったのですが」

 そこへ、救世主とも言える存在がゆっくりと姿を見せた。
 声を聞いた紫は、幽々子から手を離して藍たちに側へ来るよう手招きする。
 それに合わせて、妖夢が紫、幽々子、と順番に茶を配っていき、

「あらあら、妖夢、駄目じゃない」

 最後、汗だくのクロが離れた位置に腰掛けたところで、妖夢を優しく叱った。

「お茶がひとつ足りないわ」
「え?」

 そう指摘され、慌てて妖夢は配り終えた湯飲みを数え始めた。
 紫、幽々子、藍、橙、クロ、そして、最後にお盆の上に残った、妖夢用の湯飲みをじっと見つめる。
 どうみてもぴったり。
 なんど数えても間違えているようには見えない。
 しかし幽々子の言葉は絶対であり、どこかに必ず真実が隠れている。それを知る妖夢はその言葉の裏すら嗅ぎ取ろうと、眉を潜めて熟考を続けた。
 が、結局最後には頭の上に疑問符が浮かあがってしまった。
 ぷるぷると震える半霊が、彼女の困惑を如実に表現しているようだった。

「あの、幽々子様それはどういう……」
「心の目で見ろということよ」
「心の目ですか?」
「そう、魂の目とでもいうのかしら?」
「わ、わかりました! 未熟者ながら、心眼で!」

 妖夢は呼気を落ち着け、瞳を閉じた。
 そうやって、心を安らかにして気を高めれば、きっと。

 きっと……

「大変です! 幽々子様! 真っ暗です!」
「……見ておきなさい、これが正しい主人と従者なのよ」
「二人に適当なことを教えないでください! 紫様!」

 その紫の言葉を聞いて、やっと我に返った妖夢は、顔を真っ赤にして幽々子の後ろに隠れてしまった。

「幽~々~子~様ぁっ! 酷いです!」
「もう、駄目ねぇ。妖夢は、修行不足だわ」
「そんなの修行じゃ鍛えられないです!」

 ムキになる妖夢の頭を幽々子が撫で、そしてまた紅くなった顔を見て、みんなが笑う。
 暖かい日差しの中で繰り返される、そんな時間。

 それこそがきっと、この世界が楽園である証明で……


 幻想である証明で……





「……本当に足りないのだけれど」
「幽々子様?」
「なんでもないわ」




 亡霊の姫君が告げた言葉の真意は、幸福の時間に呑み込まれて、消えた。
 
 
 楽園が有限であったなら……

 次 → まだです。
pys
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.530簡易評価
7.100名前が無い程度の能力削除
後編(中編?)に期待
8.100名前が無い程度の能力削除
気になるおわりかた
伏線いくつくらいあるのだろう
13.100名前が無い程度の能力削除
ずっと続きを待っております…が、もうないのでしょうか……