Coolier - 新生・東方創想話

うみょんげ! 第9話「黄昏と月の迷路」

2011/04/15 18:28:27
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<注意事項>
 妖夢×鈴仙長編です。不定期連載、全13話予定、総容量未定。
 うどんげっしょー準拠ぐらいのゆるい気持ちでお楽しみください。

<各話リンク>
 第1話「半人半霊、半熟者」(作品集116)
 第2話「あの月のこちらがわ」(作品集121)
 第3話「今夜月の見える庭で」(作品集124)
 第4話「儚い月の残照」(作品集128)
 第5話「君に降る雨」(作品集130)
 第6話「月からきたもの」(作品集132)
 第7話「月下白刃」(作品集133)
 第8話「永遠エスケープ」(作品集137)
 第9話「黄昏と月の迷路」(ここ)
 第10話「穢れ」(作品集149)
 第11話「さよなら」(作品集155)
 最終話「半熟剣士と地上の兎」(作品集158)












 依姫の姿が屋敷から消えると、急に家の中ががらんとしたような気がした。
 もちろん、兎たちは――依姫が連れていった二匹を除けば今も屋敷にいるから、騒がしいことは騒がしい。依姫不在の間、自主訓練を言い渡されてはいたものの、庭を見やれば皆思い思いにお喋りに興じたり桃を囓ったりしている。依姫が見れば頭を抱えそうな光景だが、豊姫にしてみれば、それは微笑ましい綿月邸の一幕でしかなかった。
 ただそんな日常的な光景に、どこか空隙を感じるのは、即ち自分が意識せずとも、依姫がそこにいることを当たり前だと思っていた証拠なのだろう、と豊姫は思う。
 往々にしてそういうものだ。そこにあることが当然であるものは、目の届く距離にあるうちは、そこに在り続けることを誰も疑いはしない。命が当然のように明日も続いていくと誰もが無邪気に信じているように。
 もちろん、依姫はただ出掛けているだけだ。出掛けた先が少々遠く――地上であるというだけで、離ればなれにされたわけでも、まして死に別れたわけでもない。それでも、見慣れた姿が家の中に無い、呼びかけても返事がない、一緒に桃を食べる相手が居ないという事実に、豊姫は要するに、退屈していたのだった。

「桃はやっぱり、大勢で食べた方がいいわよねえ」

 はぐ、と桃を囓りながら、豊姫はぼやく。依姫と一緒だとすぐに「食べ過ぎです」と小言を言われるのは鬱陶しいけれども、その小言も無ければ無いで寂しいものだ。
 自分がこうなのだから、寂しがりの兎にしてみれば、やはりその喪失は埋めがたいものだったのかもしれない、と豊姫は思う。――地上へ姿を消した、玉兎兵の一匹、サキムニ。かつて地上に逃げた兎、レイセンを連れ戻すという書き置きを残し、蓬莱の薬を盗んで、彼女は居なくなった。
 依姫はサキムニを連れ戻し、盗まれた蓬莱の薬を回収するため、サキムニと親しい玉兎兵のキュウとシャッカを連れて、地上に向かった。月の使者が揃って月を留守にするわけにもいかないので、豊姫は屋敷でお留守番である。
 正直に言えば、豊姫も地上に行きたかった。と言っても、依姫と違ってサキムニを連れ戻すことに豊姫はそれほど熱心なわけではない。地上に行きたかったのは、別の理由だ。

「依姫だけ八意様に会えるかもしれないなんて、ずるいわ、全く」

 頬を膨らませて不満を口にしても、聞いてくれる者が居なければただの独り言である。豊姫はふくれっ面のまま、食べかけの桃を丸ごと口に突っ込んで咀嚼し飲みこむ。
 ――地上。綿月姉妹たち月の使者は、月で最も地上に近い者。その仕事は、地上に送られた罪人の監視である。今、地上にいる月の罪人はふたり。八意永琳とカグヤ姫だ。
 もっとも、豊姫にも依姫にも永琳を捕まえる気は無い。先日の侵略者騒ぎでも――結果的に酒を盗まれたとはいえ、永琳の力添えで地上の侵略者を撃退し、被害を最小限に食い止めることができたと言える。そもそも永琳には大恩のある身であるし、永琳の考えは常に自分たちの及ばぬような遠く深くへと広がっているのだから、その邪魔をする権利など自分たちには無い。
 その永琳のいる地上へ、依姫がひとりで向かっている。ひょっとすれば、かつてのレイセンは以前流れていた噂のように、本当に永琳の元に転がり込んでいるかもしれない。レイセンがまだ地上で生きているとすれば、月の民の力添えがあったと考えるのはおかしな話ではないはずだ。実際に地上に月の民がいるのだから。
 そして、そのレイセンを連れ戻しに行ったサキムニを依姫が追っているならば、その過程で依姫が永琳と接触できる可能性は充分にあった。それが、豊姫には羨ましいのだ。

「……やっぱりこっそり地上に行こうかしら」

 先日の騒ぎで、地上から忍び込もうとした妖怪を捕らえるために豊姫は一度地上に降り立った。そのときにこっそり会いに行けば良かった、と今でも思う。今更言ったところで詮無いことではあるのだけれども。
 そんなことをつらつらと考えながら桃を囓っていると、不意に部屋の扉が音をたてた。豊姫が振り返ると、扉の隙間から兎が一匹、こちらの様子を伺っている。それは、豊姫と同様に留守番を言い渡された玉兎兵の一匹だった。豊姫は相好を崩し、手招きする。

「どうしたの? おいでなさい、レイセン」
「は、はひっ」

 びくりと背筋を伸ばして、それからその兎――今のレイセンはおそるおそる扉を開けて、緊張した面持ちで部屋に入ってきた。豊姫が向かいのソファーを示すと、レイセンは困ったように豊姫の顔とソファーを見比べて、身を縮こまらせながらそこに腰を下ろす。

「桃、食べる?」
「あ……は、はい」

 豊姫が差し出した桃を、レイセンはおそるおそる受け取って口にする。そんな微笑ましい姿に、豊姫はふっと表情を緩めた。
 今のレイセンは、先日の侵略者騒ぎのどさくさで、餅つき担当から玉兎兵に配置転換になった新入りである。そして今現在、月にいる玉兎では唯一の――地上での八意永琳に接触した兎でもある。彼女を玉兎兵として身内に引き入れたのは、そのこともあってのことだ。一度地上へ逃げ出した兎ということで、かつてここにいて、地上に逃げ出したレイセンの名を与えた。そうして、昔のレイセンのいた部屋――サキムニ、キュウ、シャッカの暮らす部屋で、彼女たちに世話を任せていた。
 依姫がレイセンだけを残していったのは、サキムニが昔のレイセンを追って地上に行った関係上、名前が同じで紛らわしいというのもあるし、レイセンはまだサキムニたちと関係を持って日が浅いというのもある。一度地上に行っているのだから案内役としてどうか、と豊姫は訊ねたのだが、結局依姫は首を縦に振らなかった。依姫なりの考えがあってのことだろうし、おおよそ見当はつく。依姫らしい考え方だ、と豊姫としては苦笑するしかない。

「あ、あの……豊姫様」

 そんなことを考えていた豊姫は、不意にレイセンに呼ばれて顔を上げた。「なに?」と首を傾げてみせると、レイセンは桃を見下ろしながら、気まずそうに口を開く。

「……キュウから聞いたんですけど、サキムニがいなくなったのって、私と同じ名前の子を、探しに行ったんですよね」
「そうみたいね」
「その、サキムニが探している子が戻ってきたら……私、ここに居ていいんでしょうか」

 レイセンの問いに、豊姫は目を丸くし、それからふっと笑みを漏らす。
 そうして立ち上がると、豊姫はレイセンの後ろに回って、その背中をそっと抱いた。

「大丈夫よ。貴方はもうこの家の兎なんだから、心配しなくても平気」
「……でも、サキムニは」

 依姫の言葉に、レイセンは俯き、それから豊姫を振り返る。

「あのっ、サキムニは……怒られますよね。依姫様、絶対怒ってますよね……」

 しゅん、と肩を落とすレイセンに、豊姫は目を細めて、その頭をくしゃりと撫でた。う、と声をあげたレイセンに、豊姫は優しく笑いかける。
 ちゃんとこの子が、サキムニやキュウたちに馴染めているのか心配していたけれど、杞憂だったようだ。馴染めていなければ、こうもサキムニの心配などするはずもない。

「心配しなくても、大丈夫」
「で、でも、依姫様厳しいし……」

 普段の依姫の訓練の厳しさを思いだしてか、ぷるぷると震えるレイセンに、豊姫は苦笑してわしわしと頭を撫でた。――確かに厳しくしているかもしれないけれど、それだって結局は、依姫なりの愛情表現なのだ。どこまで伝わっているのかは解らないけれど。



 ――ふと、豊姫は思い出す。かつてのレイセン、あの無口で引っ込み思案で臆病で、だけど才能だけは人一倍にあったあの兎が逃げ出したときのことを。
 あのとき、この部屋を依姫は、ひたすらうろうろと歩き回っていた。

『依姫ったら、少しは落ち着いたら?』
『落ち着いていられますか! ああもう、どうしてこんなときにっ――』

 頭を掻きむしって、依姫は呻くように叫ぶ。――レイセンが姿を消してから三日、綿月邸どころか月の都のあちこちを探し回っても見つからず、月の羽衣が無くなっていたことから、いよいよ地上へ逃げ出したのだという見方がほぼ確実になっていたときだ。

『兵隊であることから逃げ出すならまだいいんです。――どうして地上なんかにっ』
『まだ地上と決まったわけではないでしょう』

 そうは言ってみるものの、豊姫もレイセンが地上に逃げたのはほぼ間違いないと思っていた。そして目の前の妹は、それが故にこうしてひたすらうろうろと部屋の中を歩き回っているのだ。

『地上に逃げるということがどういうことか、あの子は絶対に解っていない。穢れに満ちた地上で、月生まれの玉兎がどれだけ生きられるというのか。野蛮で危険な妖怪だっていくらでもいる。地上の人間に捕まって鍋にされてしまうかもしれない――ああもうっ』

 ソファーに腰を下ろして、顔を覆って依姫は大きく息を吐き出す。
 依姫がこれほど取り乱したのを見たのは、八意永琳が月を出奔したとき以来かもしれない。

『そんなに心配なら、地上まで探しに行ったら?』
『行けるならとっくに行っています! この不穏な時期に、私たちが月を留守にするわけにはいかないことぐらい、お姉様だって解って――』

 非難するように叫んで、依姫ははっと口元を押さえ、『……すみません』と俯いた。
 あとはただ、依姫の口からは深い溜息が漏れるばかりだ。

『依姫』
『……私は結局、あの子にどう接したらいいのか解らなかった。だからサキムニたち任せにして、結果的にあの子を怯えさせるばかりで……私の責任です』

 地上の軍勢が攻めてくる、という不穏な噂がこのところ月に満ちていた。地上の民に月人が負けることなどあり得ないとはいえ、万一月の都が地上人に見つかれば、地上人の穢れを持ち込まれるのを避けるために戦闘となるのは避けられない。それを恐れて逃げ出す玉兎兵はレイセンの他にもいたが、他は皆月の都に留まっていて、依姫の手配で大したお咎めもなく餅つきの兎に回された。
 結局、依姫は兎たちに甘いのである。豊姫から見ればもう、ダダ甘と言っていい。厳しく訓練をさせているのだって、結局のところは何かあったときに兎たちが無事でいられるようにするためで、訓練中に兎が怪我でもしようものなら血相を変えて自ら手当てに走るのが、綿月依姫という少女なのだった。
 そんな依姫であるから、地上にレイセンが逃げ出したとあれば、一も二もなく地上に降りてレイセンを連れ戻したいに決まっているのだ。けれど、外敵から月の都を守るのが綿月姉妹の使命である以上、それを蔑ろにすることはできない。結果として依姫は、月の都とレイセンのどちらかを切り捨てなければならないのだ。
 そして、そこで月の都を見捨てられるほど、考え無しになれないのが依姫だった。

『レイセン……私は貴方を助けに行けない……ごめんなさい、ごめんなさい……っ』

 俯いて、肩を震わせて、絞り出すように、届かない謝罪の言葉を依姫は呟く。
 豊姫はただ、妹が落ち着くまでその肩を抱きしめてあげることしかできなかった。



「いいことを教えてあげるわ、レイセン」
「はい?」

 追憶から意識を戻して、豊姫はその名前を受け継いだ玉兎に笑いかけた。

「昔逃げ出したレイセンが、まだ生きて地上にいるなら――そのことを知って誰よりも喜んだのは、依姫なのよ」
「――依姫様が?」
「ええ、そう。……実は、キュウとシャッカを連れていくのだって、随分渋ったんだから。地上は危ない、穢れに満ちているから、って言って。――依姫はいつだって、貴方たちのことをちょっと過保護なぐらいに心配しているのよ」

 豊姫の言葉に、レイセンはきょとんと目をしばたたかせる。まあ、訓練のときの厳しい依姫としか普段接していなければ、なかなか納得できない言葉かもしれない、と豊姫は苦笑する。

「だから、安心なさい。貴方が地上から戻ってきたときだって、依姫は厳しいふりをして優しかったでしょう? だから貴方もここに居ようと思ってくれたんじゃなくて?」
「……は、はい」

 こくりと頷いたレイセンに、豊姫は笑ってその頭を撫でる。
 それから、「あ」と頬を軽く引きつらせて、レイセンの前に右手を翳した。

「私がこんなこと言ったのは、依姫には内緒ね? 怒られちゃうわ」
「はっ、はい!」

 背筋を伸ばして何度も頷くレイセンに、豊姫は苦笑して、新しい桃にかじりつく。
 ――さて、依姫不在の間に、何事も無ければいいのだけれど。
 サキムニの失踪はサキムニ本人の意志だろうから、まさかこのタイミングを狙って何かが起こるとも考えにくいが、用心しておくに越したことはない。
 そうは考えるが、結局豊姫にできることと言えば――。

「はい、桃もっとお食べなさいな」

 結局、こうやって桃でも食べながら留守番をしているしかないのだった。












うみょんげ!

第9話「黄昏と月の迷路」













      1


 真夜中の漆黒とも宵闇の薄暮ともつかない、得体の知れない暗闇の中を、上下左右も定かで無い浮遊感の中、通り抜けたのはどれだけの時間のことだったか。

「うわっ」

 どすん、と気付けば妖夢は地面に尻餅をついていた。視界は既に暗闇では無く、広がっているのは見覚えのある景色だった。打ち付けたお尻をさすりながら振り返れば、遠くに人里が見えている。太陽の畑の方から、人里へ向かう野道の途中だった。
 ――永遠亭へご案内ではなかったのか。いや、少なくとも、冥界やマヨヒガよりは永遠亭に近いだろうが。頭上を見上げるが、既に自分が落ちてきたはずのスキマはどこにも無かった。
 息を吐いて埃を払い、妖夢は立ち上がる。スキマに飲み込まれたときは焦ったが、結果的に八雲邸を出ることはできた。何も言わずに置いてくる形になってしまった鈴仙たちのことは気がかりだったが、既にスキマが閉じてしまった以上、戻る術は無い。何しろ八雲邸がどこにあるのかは、あの家の住人以外誰も知らないのである。
 上空を見やると、いつの間にか陽がだいぶ傾いでいた。八雲邸に居たときには、もっと陽が高かったはずだが――と妖夢は目を細める。スキマを通り抜けた時間はほんの何十秒かだったように思えたが、あるいはもっと時間がかかっていたのかもしれない。八雲紫の操る境界のことは、妖夢にはほとんど何も解らないのだから考えても詮無いことだった。
 ともかく、だ。なるべくなら暗くなる前に、永遠亭に向かわなければ。そうして、八意永琳に確かめるのだ。サキムニの言っていたことの真偽を。――鈴仙の身体のことを。

「……れい、せん」

 歩き出そうとして、しかし不意にその顔が脳裏をよぎり、妖夢は唇を噛む。
 ――鈴仙がもし本当に、この地上では生きていけないのだとしたら。
 解っている。それならば、鈴仙は月へ帰らなければいけない。問題は鈴仙の命に関わることなのだ。妖夢の気持ちなんて、その問題に介在する余地は無い。そんなことは解っているのだ。
 だけど同時に、鈴仙にここにいてほしいと思っている自分がいる。
 自分のそばに、いつでも会える場所にいてほしいと思っている、自分がいる。
 そんなことを考えてしまう自分に、妖夢は唇を噛む。――結局、自分がサキムニの言葉を疑っているのは、鈴仙の身体が心配だということよりも、自分が鈴仙のそばにいたいという、それだけのわがままでしかないのではないか? サキムニの言葉が間違いであってほしいと、そうであれば今まで通りに鈴仙と一緒にいられるという――それだけの。

「私は――」

 瞼に浮かぶ、鈴仙の顔。それが近くにあってくれることが、いつの間にか当たり前だと思うようになっていた。鈴仙はずっとこの幻想郷にいてくれると、人里に、永遠亭に行けばいつでも会えるのだと、そう、勝手に。
 もし、サキムニの言葉が本当で。鈴仙が月に帰ってしまうとすれば。――自分はそれを、素直に見送れるのか?

「……今は、そんなこと考えてる場合じゃ、ない」

 首を振って、妖夢は思考を振り払った。そして、迷いの竹林の方角へ足を向ける。
 ともかく、今は永遠亭へ向かうことだ。そうして、八意永琳にサキムニの言葉の真偽を確かめること。そしてもし、本当に鈴仙の身体に異常があるなら――そのときは。
 八意永琳は、鈴仙を月に帰そうとするのか? しないのか?
 永琳は、鈴仙を死なせてでも月に帰さないと言うほどに冷酷なのか?
 もしそうだとしたら――自分は、

「……ん?」

 思考は、不意に視界の片隅をよぎった影に中断させられた。太陽の畑の方角から、人里の方向へ歩いてくる影が三つある。
 ――その影のふたつに、特徴的な長い耳があった。

「鈴、仙?」

 妖夢は足を止め、目を凝らす。歩いてくる影は、鈴仙やサキムニと同じ長い兎の耳と、同じブレザーを身にまとっていた。ふたりはまだ八雲邸にいるのではなかったのか?
 ――いや、違う。鈴仙とサキムニではない。
 遠く小さかった影は、不意に足を早めてこちらに近付いてくる。輪郭がはっきりしてくるにつれて、兎の耳を持つふたつの影が、鈴仙とサキムニでないことははっきりした。服装は同じだが、片方は薄く青みがかった銀髪、もう片方は黒髪でどちらも髪は短い。別の兎だ。
 そして、その二匹の後ろを歩く長身の影。

「……!」

 その人物の姿を認めて、妖夢は息をのんだ。――それは妖夢にも見覚えのある人影だった。だが、おかしい。彼女が幻想郷にいるはずがない。なぜなら、彼女は、
 はっきりと、三つの影がその表情まで伺える距離まで近付いた。二匹の兎は何か訝しげな顔でこちらを見つめ、そして長身の女性は、厳しい表情でこちらを見つめる。妖夢はとっさに、楼観剣の束に手をかけた。
 なぜ彼女がここにいる? ――いや、その理由は明らかだ。追ってきたのだ。サキムニを。彼女の部下である月の兎を。

「――この近くの者ですか。少し尋ねたいのですが」

 その女性――綿月依姫は、兎二匹を後ろに下がらせると、妖夢へ向かって一歩前へ歩み出る。妖夢はわずかに拍子抜けして、楼観剣から手を離した。――そうだ、自分と幽々子が月の都に潜入していたときには、依姫やその姉の綿月豊姫には見つからないように隠れていた。兎相手には全く幽々子は隠れていなかったので忘れていたが――向こうはこちらを知らないのだ。妖夢が、綿月邸から古酒を盗んだ犯人の一味であることも。
 依姫は妖夢を見下ろすように眼前に立つと、ひとつ咳払いして口を開く。

「この子たちと同じような格好をした、兎の少女を見なかったでしょうか。サキムニという名前で、桃色の髪を肩の上でカールさせている子なのですが」

 どうする、この状況はどう対処すべきか。妖夢は必死に考える。依姫はサキムニを追ってきている。目的は彼女を月へ連れ戻すことだろう。それならサキムニを彼女に見つけてもらえれば――いや、鈴仙がサキムニと一緒にいる。鈴仙が脱走兵であるなら、依姫に見つかるのはまずいのではないか。だいたい、今鈴仙とサキムニは八雲邸にいるのだ。知っていると答えたところで案内する術は無い――。
 逡巡は数秒。妖夢は首を横に振っていた。

「……そうですか。では、レイセンという兎に心当たりはありませんか」

 レイセン。その響きは、自分の呼ぶ「鈴仙」とは何か違う響きのように聞こえた。サキムニが呼ぶのも同じだ。月の都にいた「レイセン」と、今地上にいる「鈴仙」。それは同一なのか、それとも――。

「い、いえ……知りません」

 妖夢は額に冷や汗が浮かぶのを自覚しながら、そう答えた。こちらの考えを見透かすかのように、依姫は妖夢を見つめる。目をそらせば嘘が見抜かれる気がして、妖夢はただ精一杯に不思議そうな顔を作って首を傾げてみせた。相当にぎこちなかった気がするが、もうどうしようもない。

「……解りました。それではもうひとつ――永遠亭、というのはどこですか?」

 思わず唾を飲んだ。――永遠亭を知っている? だとすれば依姫はただサキムニを追ってきただけではないのか? 八意永琳と蓬莱山輝夜を追って? いや、そもそも鈴仙のことは――。

「――あーっ!」

 そこで、唐突に依姫の背後で、銀髪の方の兎が大声をあげた。妖夢を指さして。

「キュウ?」

 依姫が振り返る。キュウ、と呼ばれた兎の少女は、「思い出した!」と叫んで、隣の黒髪の兎と顔を見合わせる。

「あんた――あのときのオバケの仲間じゃん!」

 妖夢は息を飲んだ。――幽々子が兎たちと話をしている間、妖夢は近くに隠れていたのだが、見られていたのか。あるいは、幽々子と一緒に隠れているところを――、
 目の前にいる依姫の気配が変わった。瞬間、妖夢の背筋を冷たいものが走り、
 ――次の瞬間、妖夢の首筋に、それが突きつけられていた。
 いつの間にか抜き放たれていた、依姫の長剣。その刃が。

「……どういうことか聞かせてもらいましょうか」

 こちらを見下ろす依姫の瞳は、冷たく敵意に満ちて、妖夢は震えも忘れて唾を飲む。――絶体絶命の窮地に一瞬で立たされると、もはやどうにもならなかった。
 首筋から数センチの距離で微動だにしない刃を見下ろして、妖夢はただ蛇に睨まれた蛙のように凍り付くことしかできない。喉がひりつき、こちらを見つめる依姫の視線は射殺すかのように剣呑で、


 ――刹那、依姫の背後に現れる影。
 同時に、短い悲鳴。依姫が振り返る。
 そこにあるのは、黒髪の兎を捕らえた、九尾の影。


「シャッカ!」

 キュウが叫んだ。シャッカと呼ばれた黒髪の兎は、怯えた顔で腕を掴む影を見上げた。その影は、普段は温厚な笑みを浮かべる顔に、獰猛な妖怪の笑みを浮かべて、依姫を見つめる。

「貴様――」

 依姫が叫んで、妖夢の首筋から刃を離した。それを確かめて、八雲藍は掴んでいたシャッカの腕を乱暴に放す。よろめいたシャッカを、キュウが慌てて抱き止めた。

「余所者は物騒でいけないな。ここは幻想郷。力で脅して情報を得ようなんて無粋の極み。そうではないかい? 月の使者、綿月依姫」
「――お前は、八雲紫の手下の」

 キュウとシャッカに身振りで離れるよう指示し、依姫は藍に向き直る。藍は「おっと、これは失礼」と慇懃に一礼して、不敵な笑みで依姫を見据える。

「私は賢者の式神、八雲藍。――先日はそちらの姉君に、主ともども大変お世話になりました。その御礼と言っては何ですが――」

 藍が顔を上げると、その背後にゆらりと複数の影が生まれた。
 依姫の顔色が変わる。揺れる影を従えて、八雲藍は獰猛な笑みとともに、その手を広げた。

「主の命により、貴方をけちょんけちょんにして差し上げましょう」

 ――それが、開戦の合図だった。







      2


 しばらく待っても、妖夢が戻ってくる気配は無かった。
 迷っていればそのうちここに戻ってくる、と藍は言っていた。それなのに戻ってこないということは――妖夢はやはり、ここを出ていってしまったのか。

「……レイセン」

 サキムニの声に、鈴仙は顔を上げる。こちらを見張る橙の視線を横目に感じながら、鈴仙はサキムニに耳を寄せた。

「やっぱり、今のうちじゃない?」
「……うん」

 解っている。この八雲邸を抜け出すなら、今はおそらく絶好の機会だ。藍は不在で、紫は眠っているはず。見張りは橙だけ。その目をごまかすだけなら、鈴仙の目で波長を操ればどうとでもなる。
 月に帰る。それならば、少なくとも一度鈴仙は永遠亭に戻って、自分の月の羽衣を回収してこなければならなかった。月から地上へ逃げてきたときに使い、それ以来ずっと押入にしまい込んだままの、月の羽衣を。
 ――それを捨てずに今までとっておいたのも、あるいはやはり、自分は月に帰るべきなのだと、心のどこかで思っていたからなのだろうか。
 そんなことを考えながら――けれど鈴仙は躊躇っていた。躊躇の原因が何にあるのか、自分でもはっきりと解らないまま。

「レイセン」
「うん、解ってる――解ってるよ」

 橙に聞こえないように、小声で答える。橙はじーっと、藍の言いつけを守ってこちらを睨んでいた。こちらを睨んでくれているのは、幻覚を見せやすいからかえって結構なことなのだが。

「……あの子のこと?」

 サキムニの言葉に、鈴仙の方がぴくりと震えた。

「どこに行ったのか知らないけど……居ないんだから仕方ないじゃない。あの狐さんの方が先に戻ってきちゃったら意味ないよ。ねえ、レイセン」
「解ってるってば――」

 首を振る鈴仙に、サキムニが目を細める。

「……私には何も言わずにいなくなったのに、あの子のことは気にするんだ」

 息を飲んだ。サキムニの方を振り返った。サキムニは顔を伏せて「……ごめん」と呟いた。
 鈴仙は――唇を噛んで俯くしかない。自分がかつて、サキムニたちに何も言わずに月を逃げ出した以上、返す言葉などあるはずも無かった。

「……お水、取ってくる」

 サキムニが立ち上がる。橙が警戒の視線を向けるが、「喉乾いたから、お水もらえないかな」とサキムニが言うと、警戒を解こうとはしないながらも、橙の方から薬缶から湯呑みに水を注いでくれた。「はい」とぶっきらぼうに橙が差し出す湯呑みを、サキムニが笑って受け取る。
 そんな姿を見ながら、鈴仙は膝を抱えて目を閉じた。――最低だ。何度目かの自己嫌悪。
 月に帰るということ。それは本来、自分があるべき場所へ戻るということのはずだ。サキムニは許してくれると言った。それならば躊躇わず帰ればいいのだ。自分がこの地上で生きていけないのであれば、なおのこと。
 それを逃げだと思うのも、自分の傲慢なのか?
 ――何が正しくて、何が間違いなのだろう?

「よう、む」

 傍らで水を飲んで息を吐くサキムニに聞こえないように、口の中だけでその名前を呟く。
 目を閉じると、妖夢のはにかんだ顔が瞼に浮かぶ。
 その顔は、てゐの底意地の悪い顔に変わり、永琳の怒り顔に、輝夜の脳天気な笑顔に変わっていく。――そして、サキムニの、キュウの、シャッカの顔に。依姫と、豊姫の顔に。
 誰を信じればいいのか。何を信じればいいのか。
 自分は――。

「レイセン!」

 唐突に、耳元で声をあげてサキムニが立ち上がった。
 驚いて鈴仙が顔を上げると――ぐい、とその腕を掴まれ、そのまま立ち上がらせられた。目の前に、サキムニの怒ったような顔。思わず目をそらそうとすると、サキムニの手が鈴仙の頬を押さえて、それを許さなかった。

「――ほら、帰るよ。依姫様に、怒られるから」

 そして、ふっと表情を緩めて、サキムニはそう言った。まるで、月にいた頃のように。あの頃と何も変わらない呆れ混じりの口調で。
 その響きに、不意に鈴仙は泣き出しそうになって――。

「みゃっ!」

 橙が、耳と尻尾を逆立てて警戒態勢を取った。フーッ、とこちらを睨む橙に、サキムニが向き直る。――待って、と鈴仙はそれを制した。
 ――覚悟を決める、しかないのか。
 ここを逃げて、永遠亭に戻って、この地上を逃げ出して、また月に戻る。
 それしか、ないのだろうか。己に問うても、答えは出ない。
 サキムニは既に、今のうちにここを脱出するつもりだ。鈴仙を引きずってでも。――サキムニの、自分を月へ連れ帰りたいという想い以上のものを、たぶん自分は持っていない。
 それなら――たぶん自分は、サキムニの想いを拒む資格なんて無いのだ。

「藍様の言いつけだもん、逃がしなんかしないよ!」

 こちらを睨みつけて言う橙に、鈴仙は向き直る。
 波長を操る兎の目の力にも、個人差はある。サキムニよりも、自分の方が力は強い。――橙一匹、幻覚に落とすぐらいなら、すぐだ。
 鈴仙は目を見開いた。赤い瞳で、橙の目を見つめた。

「っ!?」

 橙が虚を突かれたように一瞬身を竦ませ、その瞳がみるみる赤く染まっていく。またたびでも嗅いだかのように、くらくらと橙はよろめいた。――効いた。鈴仙はサキムニの方を振り返り、頷きあう。

「ま、待てぇー!」

 横を走り抜けようとしたところで、橙がよろめきながらもこちらに飛びかかろうとした。だがその両手は見当はずれな方向をさまよい、テーブルにぶつかって――その上にあった、先ほど橙が水を注いだ薬缶が傾ぐ。

「ふぎゃっ!?」

 薬缶の水が、頭から橙に浴びせかけられた。橙は悲鳴を上げると、急に力を失ったようにその場にへたりこんだ。水をかぶって式がはがれたのだが、そんなことは今の鈴仙たちにはとりあえず関係の無いことだった。

「ほら、行くよ、レイセンっ」
「う……うんっ」

 サキムニに手を引かれ、鈴仙は走り出す。
 ふにゃああああ、と橙の悲鳴を背中に聞きながら、二匹の兎は八雲邸を飛び出した。
 ――陽光は、既に傾き始めていた。






      3


 翼を生やした蛇が、その身に纏った真紅の炎を散らして、黄昏ゆく空に舞い上がる。

「騰蛇、焼き尽くせ!」

 八雲藍の一声とともに、蛇はその口から火球を立て続けに放った。迫り来る炎の塊を、依姫は飛びしさって避ける。土の上に立て続けに火柱があがり、その熱と炎に視界が遮られた。
 藍の姿を、依姫は一瞬見失う。

「朱雀、玄武、挟み討て!」

 再び藍の声。刹那、依姫の眼前、炎の壁を突き破るようにこちらへ飛来する炎の翼。その一薙ぎに、依姫はすんでのところで身をかがめたが――次の瞬間、背後の土が音を立てて盛り上がる。そして、ゴウ、と唸りを上げて風を切る殺気。
 咄嗟に土の上を転がった直後、依姫のいた場所を叩きつけたのは、依姫の身長ほどもありそうな、鱗に覆われた尾だった。顔を上げて、依姫は理解する。そこにいたのは、巨大な尾を振るう大岩のような漆黒の亀だ。

「騰蛇、朱雀!」

 炎の蛇と火の鳥が、立ち上がった依姫の頭上を旋回する。朱雀の翼が散らす火の粉が、依姫の周囲に舞い落ちて、瞬く間に燃え上がった。炎はまるで依姫を取り囲む壁、檻のように広がっていく。熱と赤光に再び視界を奪われ、依姫は顔をしかめた。
 ――落ち着け。己に言い聞かせ、依姫は目を閉じる。視覚に頼りすぎるな。揺らめく炎の向こうから迫る気配に、神経を研ぎ澄ませろ。
 拳を握る。神の力は未だ封じられている。だが、この手の刃は折れてはいないのだ。月の使者として、地上の民に二度の不覚は許されない。
 肌を焦がさんと唸りをあげて燃えさかる、炎の壁の向こう。――否、上!
 依姫は大刀を振りかぶって地を蹴り上げ、舞い上がる。上空に、こちらへその大口を開き、今にも火球を吐き出さんとする騰蛇。その口から放たれた炎へ、依姫は刃を一閃する。
 火球は切り裂かれ、中空で燃え尽きて白煙に変わった。その勢いのままに、依姫は騰蛇の口へ向けて斬りかかる。騰蛇の牙が、依姫の刃を受け止めた。がっちりと刃をくわえ込んで放さない騰蛇の口。だが――それで構わない。
 依姫の上昇が止まる。地上の重力が依姫の身体を地面へ引き寄せる。騰蛇に銜えられた刃を離さないまま、依姫は大地へ向かって加速する。騰蛇を空中で引きずるように。

「薙ぎ払え、玄武!」

 藍の命じる声。依姫の眼下、土の中から再び黒い亀が姿を現す。蛇のようなその尾が、落下する依姫へ向かって、暴力的な風切り音とともに振るわれる。

「――ふッ!」

 依姫は、その尾の軌道へ向かって、手にした刃を強引に振るった。――その口に刃をくわえ込んだままの騰蛇ごと。
 交錯。――そして、炎が爆ぜて奇声が轟く。
 玄武の尾が捉えたのは、依姫ではなく、刃ごと振り回された騰蛇の身体だった。騰蛇は火神、玄武は水神。水剋火、騰蛇はその口から刃を放し、呻きをあげて吹き飛んでいく。自由になった大刀を手に、依姫はそのまま玄武の甲羅に着地した。騰蛇をはじき飛ばした尾がうねり、再び依姫を狙うが、それよりも早く依姫はさらに甲羅を蹴って跳ぶ。
 襲い来るこれらの式神も所詮は手駒。将を討たねばいたずらにこちらが消耗するばかりだ。迷う余地は無い。一撃で決める。
 刃を構え、依姫はまっすぐに藍を狙う。藍は剣呑な笑みを浮かべたまま、迫り来る依姫を悠然と待ち構える。――本能が、依姫に警告を与えた。向こうにはまだ手駒がある!
 刹那、真横に現れる獰猛な気配。唸りを上げて振るわれるのは、凶暴な鋼の爪。
 咄嗟に刃を持ち上げてそれを受け止め、依姫は弾かれるようにそのまま大地を転がった。受け身をとって即座に立ち上がるが、詰め寄りかけた彼我の距離は再び開く。
 笑みを浮かべた藍の傍らで唸りをあげているのは、鋭い牙と爪を誇示する白い虎。そしてその足下にとぐろを巻いた金色の蛇。――将の守護も万全か。背後に玄武、上空に朱雀の気配を感じながら、依姫は歯がみする。

「おや――吸血鬼や博麗の巫女を圧倒した月の民の力とは、この程度か?」

 あざけるように言って、藍は傍らで唸る白虎の毛並みを撫でる。

「それとも所詮は、その力とやらも借り物に過ぎない、と」

 ――惑わされるな。安い挑発に乗るな、綿月依姫。己に言い聞かせて、依姫は刃を下げる。

「無益な戦いに興じるほど、こちらは暇では無いのです。――私たちが探しているのは、サキムニという月の兎。あるいは、レイセンという兎。心当たりがあるのでしたら、教えていただけませんか?」
「――貴方は自分の立場が解っていないようだ」
「理解していますよ。そちらに話す気が無いことぐらいは。――しかし、無益な戦いを避けた方がお互いのためではありませんか? こちらは貴方の主に興味など無いのです」

 藍が笑みを深くする。それはもはや、敵意を取り繕う気も無い、獣の笑み。
 その瞳に烈火を宿しながら、しかしあくまで声音を変えず、藍は叫んだ。

「そちらに益が無くとも、こちらには理由があるということ。白虎、玄武、朱雀! 引き裂き砕き、焼き払え!」

 傍らで唸る白虎と、背後で尾を振っていた玄武が、同時に依姫へ襲いかかる。
 振り抜かれた玄武の尾を避け、白虎の爪を刃で受け流す。朱雀が巻き起こした炎の渦を切り裂いて、依姫は藍との間合いを詰めにかかる。今、藍の守護は金色の蛇のみ。

「勾陳、その牙を我が身に宿せよ!」

 藍が、右腕を掲げた。その右腕に、金色の蛇――勾陳が絡みつく。そして、藍は地を蹴った。依姫へ向かって、突っ込んでくる。
 ならば、迎え撃つのみ!

 ――刹那の交錯に、火花が散る。

 ザッ、と再び距離を置いて、依姫と藍は向き直った。依姫の刃と交錯したのは、勾陳を宿した藍の右腕。その指は岩のように硬く依姫の刃を受け止め――曇りなき刀身に、僅かの刃こぼれを生じさせていた。
 依姫の頬に、一筋の赤い線が走り、そこから鮮血が伝った。左手の甲で血を拭い、依姫は刃を握り直す。――対峙する藍もまた、纏う法衣の肩が裂け、血が滲んでいた。
 玄武の一撃を受けて撃墜された騰蛇が、その身に再び炎を宿して舞い上がる。騰蛇、朱雀、玄武、白虎、勾陳。五体の式神を従え、再び藍は依姫を苛烈に睨み付ける。
 一対六――いや、あるいはもっと、か。
 だが、それでも、月の使者に敗北は許されない。それは月が地上に膝を屈するのと同義。
 微かな昂ぶりを覚え――依姫の口元には、自然と笑みが浮かんでいた。
 ――そして再び、藍はその右手を揮う。依姫は刃を振りかざし、大地を蹴る。
 黄昏の空に、幾度目かの閃光が走る――。


      ◇


 その交錯を目の前にして、妖夢はただ呆然と立ちすくむしか無かった。
 何もかもが違いすぎた。妖夢の知る戦いとは、あまりにも根本的に。
 八雲藍の操る式神が、唸りをあげて大地を穿つ。その全ての一撃が必殺。それを受け流し、かわし、時に正面から斬り捨て、降り注ぐ炎と空気を切り裂く一閃をかいくぐって、綿月依姫は五体の式神を駆使する将と、また幾度目かの交錯を為す。
 これが、妖怪の賢者・八雲紫の式、九尾の妖狐、八雲藍の本気。
 そしてそれと互角に渡り合う、月の使者、綿月依姫の力。
 藍の放つ一撃たりとて、自分が凌ぎきれるイメージを妖夢は持てなかった。だがそれを、依姫は僅かのダメージで切り抜け続けている。そして、妖夢には視認できないほどの僅かの間隙を縫って、神速の一撃を藍の元に振るう。藍もそれを予期しているかのように、依姫の放つ斬撃を受け止め、かわし、そしてまた交錯は続く。
 何もかも、格が違いすぎた。あの戦いの中では、自分など木っ端に等しい。
 所詮、自分が今までの異変で繰り広げていたものは弾幕ごっこ。自分の振るう太刀も、ただのごっこ遊びでしかなかったのだと、妖夢は悟ってしまった。
 ――いったい自分は、何と戦おうとしていたのだ?
 ごっこ遊びの剣術しか知らぬ自分が――誰から、何を守れると――。

 ざっ、と近くの草を踏む足音がした。
 妖夢は振り返る。――その背中に突きつけられたのは、二丁の銃剣だった。

「貴方も、依姫様の敵?」

 黒髪と眼鏡の兎――シャッカが、鋭く妖夢にそう問いかける。

「あのオバケのお姉ちゃんは優しかったけど――依姫様の敵なら、仕方ないね」

 蒼い髪の兎――キュウは、苦笑いするようにそう言って、妖夢を見据えた。
 妖夢は咄嗟に、楼観剣に手をかける。キュウとシャッカが僅かに身を固くする。
 ――月の兎。おそらく彼女たちは、鈴仙とサキムニの、月での仲間。
 戦うのか? 今ここで、鈴仙のかつての友達と――何のために? 誰のために?
 自分は――いったい、何と戦えばいい?

 背後では、依姫と藍の果てなき交錯が続いている。
 二匹の兎と向き合って、妖夢は手をかけた楼観剣を――抜き放てないまま。
 じりじりと、傾きゆく陽光が、長い影を伸ばしていく。

 ――鈴仙。
 口の中だけで呟いた、友達の名前に――答えてくれる、声は無い。






      4


 森の中に、深い霧が立ちこめている。
 息の詰まりそうな濃い霧の中で、鈴仙とサキムニはもがくように足を進めていた。

「あっ――」

 鈴仙の背後で、サキムニが何かにつまずいた。繋いでいた手が離れる。慌てて振り返れば、霧の中でサキムニはぺたりと膝をついていた。

「サキ、大丈夫?」
「う、うん――ごめん」

 鈴仙が手をさしのべると、その手を掴んでサキムニはゆっくりと立ち上がる。
 息を吐き出して、鈴仙はぐるりと周囲を見回した。

「この霧……何か、おかしい」
「え?」

 鈴仙の呟きに、サキムニがきょとんと目を見開く。

「おかしいよ。水場が近くにある感じも無いし、天気だって霧の出るようなものじゃ――」

 そうだ。今、自分たちの周囲を包み込んでいる霧は、明らかに自然のものではない。
 八雲邸の周囲に広がる森に満ちる、奇妙な白い霧。その霧の中を、ふたりは先ほどから彷徨っていた。深い森は無限のように続き、どこまでも白い霧がまとわりついてくる。
 はじめはただの霧だと思っていた。だが、行けども行けども同じ景色が続くうちに、鈴仙は気付いていた。この感覚は、永遠亭を囲む竹林を迷っているときと同じだと。

「レイセン?」
「……たぶん、これ、私たちの眼と同じようなものだと思う」

 サキムニの言葉に、鈴仙は答える。
 おそらく、周囲に満ちる霧の粒子が乱反射して、鈴仙たちの持つ狂気の眼に近い性質を生み出しているのだ。今、自分たちが彷徨っている深い森は、ただの幻覚なのだろう。藍の言っていたことを思い出す。森で迷っているならそのうち戻ってくる――それはつまり、この森は霧によって封鎖されているのだ。

「だとしたら――」

 鈴仙はぐるりと周囲を見やる。霧はあたり一面に立ちこめて、どこまでも続いているように見える。――いや、それも幻覚か?

「この霧を生み出してる誰かが、たぶん近くにいるはずなんだけど……」

 何者かがこの霧を生み出しているなら、おそらくはその者は近くにいるはずだ。鈴仙が波長を操って竹林を封鎖するときも、この能力の有効範囲は文字通り「目の届く」範囲である。
 どんな能力にも限度、有効範囲はある。この霧が誰かの能力なら、そう遠くない場所に主はいるはずなのだ。鈴仙は周囲を見回す。――だが、それらしき気配は無い。いや、この霧がそう見せているだけなのか?

「……レイセン」

 と、サキムニが鈴仙の手を放した。振り向くと、顔を俯けて、サキムニはぼそりと呟く。

「戻ろう」
「え?」
「このままじゃ、どこまで行っても抜け出せないから。……いったん、戻ろう?」

 サキムニはそう言って、鈴仙に手を伸ばす。思わずその手を取ろうとして、けれど鈴仙は躊躇した。――サキムニが、いつも自分を引きずっていったサキムニが、こんなにあっさり、逃走を諦めようとするだろうか?

「サキ?」
「レイセン」

 サキムニが顔を上げた。その赤い瞳が、鈴仙の瞳を見つめた。
 ――違う。サキムニじゃない。
 鈴仙は悟った。存在の波長が違う。ここにいるのはサキムニではない。サキムニに姿を似せただけの、別の何かだ。

「誰!」

 鈴仙の誰何に、サキムニの顔が歪む。それはひどく悲しげな表情で、鈴仙は僅かにうろたえる。――気のせいか? 目の前に居るのは本物のサキムニなのか?

「どうしたの、レイセン――」

 サキムニが、あるいはサキムニのような何かが、こちらへ手を伸ばす。
 鈴仙は一度目を閉じた。目の前にあるサキムニの表情を、それで一度リセットしたかった。
 サキムニの冷たい手が、頬に触れた。鈴仙は目を開けた。
 ――目の前にあったのは、頬まで裂けたような口を開けて笑う異形の顔。

「ぅ、ああああぁぁぁぁぁぁっ!!」

 鈴仙は叫んだ。伸ばされた手を払って、右手を異形の眼前に、銃の形で突きつけた。
 無我夢中で放った光弾が、ゼロ距離でサキムニのような異形の顔に弾けた。
 うめき声もあげず、サキムニの姿をした異形は、そのままのけぞって仰向けに倒れていく。
 顔の上半分を吹き飛ばされたそれは、地面に倒れた瞬間、砂山が崩れるように、細かな塵となって大地に山を為した。

「あっ、はぁっ、は――」

 荒く肩で息をして、鈴仙は足下に生じた塵の山を見やる。それは黄色い砂の塊だった。

「砂……? まさか、あの霧も……」

 ――見回せば、いつの間にか自分の周囲を覆っていた霧が晴れている。
 そしてそこには、本物のサキムニの姿は無い。

「サキ――」

 いつからだ? いつからサキムニは偽物と入れ替わっていた?
 この砂の塊が、霧を生み出していた妖怪の正体なら――サキムニは。

「サキ!」

 悲鳴のように名前を叫んで、鈴仙は森の奥へと走り出す。
 ――その背後で、砂の山が生物のようにうごめき、大地に沈んでいったことに、鈴仙が気付くことは無かった。


      ◇


「あっ――」

 木の根に足を取られて、サキムニはバランスを崩した。捻った足が痛みを伝え、顔をしかめる。レイセンと繋いでいた手が離れ、地面に膝をついた。痛みをぐっとこらえ、顔を上げる。こちらを心配そうに振り向いたレイセンの顔があった。

「サキ、大丈夫?」

 レイセンがこちらに手をさしのべる。――昔は、逆だったのにな。そんなことを思いながら、サキムニはレイセンの手を掴んだ。少し冷たい、レイセンの手。
 足をかばいながら立ち上がり、サキムニは周囲を見回す。さっきから、まとわりつくような白い霧が視界をふさいでいた。深い森の中には陽光も届かず、今がまだ夕暮れなのか、既に夜になっているのかも定かでないほど薄暗い。どれだけの時間、この森の中を彷徨っているのかもよく解らなかった。
 ただ深いだけの森ではない、という気はする。この霧もそうだ。しかし、その正体は掴めないまま、レイセンとふたり、ただあてもなく彷徨うばかり。
 ――あの場に留まっているべきだったのだろうか。そんな考えが頭をよぎる。
 しかし、月の羽衣が一人用で、レイセンの羽衣がその場に無い以上、ふたりで月に戻るには、どうしてもレイセンの羽衣を回収する必要があった。そしてそれは、今レイセンが暮らしている屋敷にあるという。八雲邸に居るだけでは、事態は何も進展しなかった。
 地上の妖怪にどんな事情や目的があるのかは、サキムニには解らない。が、少なくともあの屋敷にいた狐の妖怪は、こちらを匿っているというよりは、軟禁しているような雰囲気だった。脱出してきたのは、間違いでは無いはずだ。

「サキ、行こう」

 歩き始めるレイセン。その手を握り直して、その横顔にサキムニは目を細める。

「レイセン」
「なに?」
「……ううん、なんでも」

 顔を伏せ、サキムニは首を横に振る。言いしれぬ不安を、かみ殺すように。
 自分はいったい、何を怖れているのだろう。レイセンは月に帰ることを選んでくれた。魂魄妖夢という少女もどこかへ行ってしまった。月の羽衣さえ回収できれば、レイセンと一緒に月に戻れる。自分はそのためにここに来たのに――どうして、心が晴れないんだろう。
 それは――それは。
 霧の中を進む。白く視界が覆われ、すぐ目の前のレイセンの姿さえ霞んでいく。
 見失わないように、サキムニは目を細め、レイセンの手を強く握りしめようとして、
 ――その手が、不意に、レイセンの方から解かれた。

「レイ、セン?」

 目の前を歩いていたレイセンの足が止まる。振り向かないまま、レイセンは口を開く。

「……ごめん、サキ。私、やっぱり、帰れないよ」
「え――」

 思考が止まった。全身が硬直した。
 どうして。どうして今更、そんなことを、急に。

「なんで、レイセン、だって、このままじゃ、」

 混乱したまま、サキムニは問いかける。レイセンはゆっくり首を振った。

「ううん――私、帰りたくない。月になんか、帰りたくないの」
「なん――で」
「だって」

 レイセンは振り返った。目の前を覆っていた霧が、不意に風に流れた。
 ――そこにあったのは、ひどく残酷な微笑みを浮かべた、レイセンの顔。


「私、サキより、妖夢のことが好きだから」


 足下が、音を立てて崩れたような気がした。
 それだけは。――それだけは、絶対に聞きたくなかった言葉だったのだと、突きつけられた瞬間に、サキムニは理解した。理解してしまった。
 今のレイセンにとって、自分よりも大切なものがあるという事実。
 サキムニというかつての友人は、今の大切なものに比べれば、取るに足らない過去の残映、色あせた写真の中の思い出に過ぎないのだという――現実。
 いや、それが自然なのだ。自分とレイセンは離れすぎていた。あれから自分たちの間に隔たった時間はそれほどまでに長かったのだ。自分さえ、月でレイセンのことを忘れて笑う日々を過ごしだすほどには。

「レイセン、待って、そんな――こと」

 よろめきながら、サキムニはレイセンに手を伸ばす。
 すぐ目の前にいるはずのレイセンの姿が、けれどひどく、今は遠い。

「待ってよ、レイセン、だって、死んじゃうんだよ? このまま地上にいたら、」
「そんなの、知らない」
「知らな……って」
「サキが来なかったら、私、そんなこと知らなかった。勝手に来て、勝手にそんなこと言って、私、そんなこと知りたくなかった。……妖夢と一緒に居られれば良かったのに」

 止めて。
 そんなことを言わないで。
 私はただ、私は――ただ、レイセンを、貴方を助けたくて、

「月になんか帰りたくない。……地上で、妖夢と一緒にいる方がいい。私、そっちの方が幸せだもん。……妖夢と離ればなれになんか、なりたくない」

 言わないで。その名前を呼ばないで。
 そんな、はにかんだ顔で、幸せそうに、彼女の名前を呼ばないで――。

「れい、せん」

 届かない。伸ばした手がレイセンに届かない。
 霧の中、レイセンはひどく冷たい目でこちらを見下ろしている。
 ――その瞳に、心の中を射貫かれた気がして、サキムニは立ちすくむ。

「私、は」

 嫉妬だ。……そうだ。あの言いしれぬ不安の正体はそれなのだ。
 自分はずっと、最初から嫉妬していたのだ。レイセンが自分を連れて、あの少女の元に転がり込んだとき。レイセンが自分の知らない時間を見せたときから、ずっと、あの魂魄妖夢という少女に――嫉妬していた。
 自分の知らないレイセンを知る彼女に。自分の求めていたレイセンを手に入れていた彼女に。
 だから、妖夢が居なくなったとき、自分はほっとしたのだ。
 もう、邪魔者はいないと。レイセンとふたりで月に帰れると。あの少女が手に入れていたレイセンとの時間は、全てこれから自分のものになるのだと。
 ――見透かされていたのだ。全て。
 今、自分を見下ろすレイセンの、蔑んだような眼差しは。
 自分の抱えた醜い嫉妬心を、貫く銃弾。

「ねえ、サキ。……せっかくだから、本当のこと、言っちゃうね」
「ほん、とうの、こと?」

 背筋が凍るような、冷たい瞳が、サキムニを射止めて放さない。
 逃げ出したかった。今すぐにこの場所から。けれど身体は竦んで動けない。
 これから放たれる弾丸が、致命的なものであることを解っていながら。
 サキムニはただ棒立ちで、それを心臓に受けるしかないのだ。処刑される罪人のように。


「私、月に居た頃からずっと――サキのことが、嫌いだったんだよ」


 ――放たれた銃弾は、正確無比に、サキムニを砕いた。


      ◇


 また、白い霧が鈴仙の足元を包み込んでいた。
 サキムニの姿は見つからない。霧に足をとられながら、鈴仙はもがくように森の中をさまよう。果てのない森。闇に沈んでいく視界。出口は見えない。
 ――サキ。
 サキの存在の波長を、狂気の瞳で探す。波長で名前を呼びかける。けれど、返事はない。どうして、と思いながら、しかし自分のことを考えて、鈴仙は不意に自嘲する。
 どうして。それはサキムニの言葉だ。
 ずっと、無視してきたのは自分だ。サキムニからの、帰ってこいという伝言。連絡を取ったときの、キュウからの波長での通信。結局、自分は全て無視してきた。
 帰りたいと思ったことは何度もあった。あの伝言があったときだって帰ろうと思った。――本当にそうか? 本当に自分は帰りたいと思っていたか?
 あのとき帰れなかったのは、永琳たちの事情だ。いや、それも言い訳だ。それを引け目にして、その後もずるずると永遠亭に留まり続けていた。――それはただ、怖かっただけだ。
 自分がかつて捨ててきた過去と向き合うこと。
 自分の犯した罪と、向き合うこと。
 ――いつか、閻魔から受けた説教が頭をよぎる。
 因果応報か。サキムニを巻き込んで、永琳を裏切って、今月へまた逃げだそうとしている。それが罪なら、自分がこのまま地上に居れば死ぬというのは、その罰か。
 本当に、自分は許されるのか?
 許されてしまって、いいのか?

「サキ……お師匠様……」

 永琳の顔が瞼に浮かぶ。永琳は本当に、自分の身体のことを知っていて黙っていたのか? 黙っていたのだとしたら、やはりそれは自分が月に帰らないようにするためとしか思えない。自分が月に帰ってしまえば、永琳と輝夜、月に追われるふたりは居所を月に知られてしまうから。――永琳にとって最優先すべきことは輝夜を守ることで、鈴仙のことは二の次、三の次だ。そんなことは解っている。解っているのだ。
 だけど――。

「何を、信じればいいの……?」

 自分の身体を蝕んでいるという穢れ。サキムニの言葉。何も言わなかった永琳。言わなかった? 言えなかった? 言う必要が無かった? ――解らない。
 ――いや、最初から永琳を信じていれば、こんなことにはならなかったのか?
 足の怪我を抱えて、発熱していたサキムニを、素直に永遠亭に運んでいれば――。
 解らない。何が正解だったのか、何が間違いだったのか。
 ただ――確かなのは。
 結局のところ、何もかも、自分の招いた事態でしかないということだ。
 自分が月から逃げ出さなければ、何事も起こらなかったのだ。きっと。
 そして今も、自分は逃げ続けている。
 自分が何から逃げているのかも解らないままに。
『鈴仙は、優しいよ』
 ――不意に脳裏をよぎったのは、つい何日か前でしかない、妖夢の言葉。
 お月見の夜、自分をまっすぐに見つめて、彼女はそう言ってくれた。
『鈴仙は明るくて、優しくて、思いやりがあって、しっかりしてて――』
 違う。違う。違う。
 そんなのは所詮、そう見えるように振る舞っていただけだ。
 見栄と虚飾でできた、ただの張りぼて。一枚剥がせば、裏側にあるのは。
 ただひたすらに卑怯な、卑小な、自分の姿でしかないのに。

「妖、夢……っ」

 鈴仙はその場に膝をついて、顔を覆って呻いた。
 あのお月見の夜のように、妖夢にすがりついて泣きたかった。
 だけど今、抱きしめてくれた彼女の腕はどこにもなかった。
 ――妖夢、妖夢、妖夢。
 どこへ行ってしまったのだろう。サキも、妖夢も、みんなどこかへ消えてしまって、
 ひとりきりで残されてしまえば――もう、鈴仙は、どこにも行けないのに、

 ――れいせん。

 声が、聞こえた気がして、鈴仙は顔を上げた。
 それが、妖夢の声だったのか、サキムニの声だったのか、鈴仙には解らなかった。ただ――確かに、自分を呼ぶ声が聞こえた。確かに。

 ――レイセン。

 鈴仙はふらふらと、そちらへ足を向ける。
 霧の満ちる森の奥深く。闇に沈みゆく木々の合間に。
 導かれるように、鈴仙は、それを見つける。

「……お、師匠、様?」

 そこにあったのは、見慣れた背の高い後ろ姿。
 八意永琳が、こちらに背を向けて佇んでいる。
 その手には、弓につがえられた矢を構えて。
 ――その鏃の向けられる先。
 へたりこんだサキムニへ、今にもその張りつめた弦から矢を解き放とうとしていた。

「サキ……!」

 何故。どうして。鈴仙の思考は混乱する。
 どうして、永琳が今ここにいる?
 どうして、永琳がサキムニに矢を向けている?
 ――自分たちを探しにきた?
 そうして、邪魔者のサキムニを、殺そうと、


 永琳が、サキムニを、殺そうと、している。


「サキぃぃぃぃぃぃぃっ!」

 鈴仙は夢中で叫んだ。思考は全て吹き飛んで、ただ弾かれたように鈴仙は、その右手を銃の形に構えていた。
 永琳が、ぐるりとこちらを振り向いた。
 その視線に、底知れぬ殺気を感じて、
 ――鈴仙は、その指先から、光弾を放っていた。


      ◇


 ――サキぃぃぃぃぃぃぃっ!
 誰かが、遠くでそう叫んだ。
 それが誰の声なのか、一瞬サキムニには理解できなかった。
 ただ、その声に、目の前のレイセンがぐるりと振り返って、
 次の瞬間――乾いた音が響いて、レイセンの身体が、ぐらりとよろめいた。

「レイ……セン……?」

 ゆっくりと、崩れ落ちるように、レイセンが仰向けに倒れていく。
 一瞬、力なくこちらを振り向いたレイセンの瞳は白く濁って、――その額にはぽっかりと、深淵のような空洞が穿たれていた。

 どさり、とレイセンの身体が地面に倒れ伏す。
 呆然と、サキムニはそれを見下ろして、――顔を上げた。
 ――そこに、レイセンがいた。

 サキムニは理解できない。目の前で何が起こったのかが。
 倒れたのはレイセン。現れたのもレイセン。
 額に穴を穿たれれば、どんな生き物も、死ぬ。

 レイセンが、レイセンを、――撃ち殺した?

「サキ……」

 現れたレイセンが、泣き出しそうな顔で、笑った。

 ――サキムニは、何もわからないまま、絶叫した。


      ◇


 目の前で、額と身体に光弾を受けて、永琳の身体が崩れ落ちていく。
 肩で息をしながら、鈴仙はそれを呆然と見つめていた。
 ――お師匠様を、撃った。
 自分の右手を見下ろす。その手も小さく震えていた。何か、取り返しのつかない一歩を踏み出してしまった気がして、鈴仙は身を震わせる。
 崩れ落ちた永琳の身体は、地面に倒れ伏して動かなくなる。鈴仙はよろめきながら、その身体へと歩み寄ろうとする。

「ひ……」

 小さな声。顔を上げる。そこに、へたりこんだサキムニがいる。
 ――ああ、サキは、無事だ。

「サキ……」

 鈴仙は、サキムニの名前を呼んだ。安堵を込めて。
 けれど、それへの答えは。

「い、や……嫌ぁぁぁぁぁぁっ!」

 絶叫とともに、弾かれたように背を向け、逃げ出すサキムニの姿だった。

「ま、待って、サキ――っ!?」

 慌ててその後を追おうとして、――しかし不意に、その足首を何かに掴まれて、鈴仙は前のめりに倒れた。地面に顔を打ちつけて、悲鳴をあげて鈴仙は振り向き、

 額にぽっかりと空洞をあけた永琳が、
 頬まで口の裂けた笑みを浮かべて、鈴仙の足を掴んでいた。

「――――――ッ!!」

 声にならない悲鳴をあげて、鈴仙はその顔を蹴りとばした。蹴られた永琳の顔は、ざらりとした感触とともに、黄色の砂になって崩れていく。
 やがて鈴仙の足首を掴んでいた手も、砂になって崩れ落ちた。
 ――また、砂の幻影?
 じゃあ――さっきのサキムニは、あれは……偽物? 本物?
 地面に山となった砂を見下ろし、鈴仙は目眩をこらえるように目元を押さえる。
 何が現実なのか。何が幻影なのか。この森は――。
 鈴仙の足元で、砂の山が蠢いた。
 黄色の砂が、地面に吸い込まれるように沈んでいく。
 ――はっと、鈴仙はその砂の山を、狂気の瞳で見つめた。
 途端、砂の動きが止まる。そして、地面から何かが、ふらふらと顔を出した。
 ――それは、一匹の土竜だった。

「……まさか」

 鈴仙は、その土竜を砂の中から捕まえる。
 もがく土竜は、しかし鈴仙の狂気の瞳にあてられて、力なくうなだれる。
 足元の霧が晴れていく。――あの幻影を生み出していたのは、この土竜なのか。この森で自分たちを迷わせていたのも――。

「この――あっちいけえええっ!」

 鈴仙は、思い切り振りかぶって、土竜をそのまま投げ飛ばした。土竜は近くの樹に激突して、そのまま地面に崩れ落ちて目を回す。
 鈴仙は立ち上がった。周囲に広がるのは、もう得体の知れない闇や霧の満ちる迷いの森ではなく、ただ薄暗いだけの静かな森に過ぎなかった。

「サキ……!」

 けれど、サキムニの姿は消えたまま。鈴仙は、サキムニが逃げ出していった方向へ走り出す。
 ――サキムニの姿の幻影と、永琳の姿の幻影。
 それを、自分が撃ったという事実の意味を考える余裕は、まだ今の鈴仙には存在しなかった。






      5


 太陽が、ゆっくりと山の端に沈んでいく。
 蒼天が橙色に染め上げられ、やがて紫から藍へと沈み、墨汁を垂らしたような漆黒の夜が空を覆い尽くしていく。昼と夜のあわいは過ぎ去り、後に残るのはただ静かなる月と星の光。
 博麗神社の鳥居に腰を下ろし、八雲紫はその移ろいに目を細めていた。
 黄昏時。境界の時間。――幾度、その時間を彼女と過ごしただろう。
 世界に満ちる境界を求めて。この世の裏側にある幻想を、不思議を求めて。
 手を繋ぎ、彼女と走り回った、甘く切ない――過去の残照。
 全てはもう、遠い遠い記憶の底に埋もれた欠片でしかないのだとしても。
 今の自分はもう――彼女と同じ時間を過ごしていた存在ではないのだとしても。

「――――」

 紫は虚空に、失ったものの名前を呟く。
 その名前を、自分はまだ忘れてはいない。彼女の笑顔を。繋いだ手の温もりを。
 そして、いつか交わした、大切な約束を。
 忘れるな、八雲紫。それを果たすために、自分が今、ここにいるのだということを。

「――紫? あんた、なにやってんの」

 聞き慣れた声が足下から響いて、紫は視線を降ろす。
 こちらを怪訝そうに見上げているのは、この神社の巫女、博麗霊夢だった。

「あら、見て解らないかしら? お月見よ」
「お月見?」

 紫の答えに、霊夢はますます不思議そうな顔をして眉を寄せる。

「十五夜なら、この前終わったばっかりじゃない」

 霊夢の言葉に、紫は口元に扇子を広げて笑うと、ひらりとその眼前に降り立った。

「そうね。でも見てご覧なさい。綺麗な満月よ」
「は? だから満月はついこの前――」

 紫は扇子を閉じて、空を指す。霊夢はその先を見上げて、ぽかん、と口を開けた。
 満天の星をちりばめた、幻想郷の夜空。そこに、白い月がぽっかりと浮かんでいる。
 その形は、完全なる真円。紛れもない満月が、そこにあった。

「え、ちょ――どういうことよ? なんで十五夜から何日かしか経ってないのに――」

 慌てた様子で振り返った霊夢に、紫はまた扇子を広げて笑みを返した。
 霊夢の表情が険しくなる。異変の首謀者と敵対するときの、その表情だ。

「あんた、今度は何をやらかしたのよ」
「大したことではありませんわ。いつぞや、月の民の仕掛けた術の真似事よ」
「月の民?」
「満月を隠された異変があったでしょう? あれと同じこと」
「永遠亭の? なんでまたそんな昔のこと――」

 数年前、八意永琳と蓬莱山輝夜が、月の使者から身を隠すために本物の満月を隠した。
 それを取り戻すため、紫は霊夢を引き連れ、夜を止めて永遠亭に乗り込んだ。
 後に言う永夜異変。紫が仕掛けたのは、そのとき永琳が仕掛けた術と似たようなものだ。

「――今は神無月の十六、申の下刻」

 空を見上げて呟いた紫に、霊夢は再び「は?」と目をしばたたかせる。

「何言ってんのよ、今は葉月の――」
「今は、神無月の十六ですわ。この空は、ね」

 そう、今頭上に広がる幻想郷の空は、葉月の空では無い。紫の作り出した、神無月の空。
 そして、月と星が時と暦を表すならば、今この時、幻想郷は神無月の十六なのだ。
 故に今、幻想郷の神霊たちはここに居ない。今頃は出雲で困惑している頃だろう。ごめんなさいね、と紫は神霊たちに心の中だけで舌を出す。
 そして、神無月の間、幻想郷に悪しき神が入らないために張る結界を、藍に命じて張らせている。それがある以上、出雲へ出かけた神霊は幻想郷へ戻れない。
 ――故に、神々は呼び出されようとも、応ずることはできないのだ。
 まあ、たとえそれがあったとしても、月人の相手は、藍には荷が重いかもしれないが。
 藍が勝とうと負けようと、所詮は些事だ。必要なのは、月の使者、綿月依姫をこの幻想郷に足止めしておくこと。それだけなのだから。

「……何を企んでるんだか知らないけど、異変を起こすなら退治するわよ」

 剣呑な表情でお札を取り出した霊夢に、紫は苦笑を返す。

「異変ではないわよ。――私はただ、忘れ物を取りに行くだけ」
「忘れ物?」
「遠い昔に置いてきてしまった忘れ物を、ね」

 目を細め、紫は天を仰ぐ。燦々と青白い光を放つ月は、紫の作り出した偽物の月。
 しかしその裏側には、確かに本物の月がある。
 ――自分の大切なものは、そこにある。

「というわけで、霊夢」

 紫は――猫のような笑みを浮かべて、霊夢へと手をさしのべた。

「私と一緒に、月へ行かない?」






      6


 ――鈴仙とサキムニに、マヨヒガの森を突破された。
 依姫との交錯を続けながら、藍はその事実を、従える十二神将から知らされていた。八雲邸の周囲に広がる森には、十二神将が一、土神・天空が控え、入り込むものを惑わしている。しかし、当の天空そのものが、どうやらあの二匹にやられたらしい。
 少々、兎二匹の力を見くびっていたか。藍は小さく息を吐く。橙だけでは心許ないとは思っていたが、天空の霧を突破されるのは想定外だった。――霧で惑わすだけで十分なところを、砂の幻影で余計なちょっかいをかけて返り討ちにされたか。天空の性格ならありそうなことだ。
 さて、と藍は依姫へ向き直る。主の命は、この月の使者をけちょんけちょんにしてやることだ。しかし同時に、あの兎二匹を確保しておくことも主の命である。――優先すべきはいずれか。藍は思考する。
 主は綿月依姫を倒し、永遠亭へ連れて行け、と言った。八意永琳は月の民だ。月の民同士、手を組まれたら厄介なはずである。それを敢えて引き合わせろというからには、――八意永琳と綿月依姫の間には、おそらく手を組めない理由がある。
 なるほど、その鍵が鈴仙とサキムニか、と藍は納得する。あの二匹の処遇を巡って、永琳と依姫が対立せざるを得ないとしたら――主の狙いは、月の民同士の潰し合いか。
『紫様。ということは、あの月の兎は人質――いや、兎質ですか?』
『あら嫌だ。藍ったら、私がそんな小悪党みたいな真似をするとでも?』
 主の言葉を思い出す。――鈴仙にせよサキムニにせよ、こちらの手の内にある段階では、月の民同士が結託する可能性がある。だとすれば、はじめから主はあの二匹をいずれ逃がすつもりだったのだ。あの二匹が自由の身でなければ、処遇を巡る対立は生じない。

「となれば――」

 藍は腹を決める。結論はひとつだ。――綿月依姫を倒す。それが己の使命。

「騰蛇、朱雀、白虎、玄武、勾陳、いけるな?」

 従える十二神将たちは無言に頷く。それぞれ依姫との交錯で傷ついている。これ以上長くは保つまい。山の端に陽が沈む。夜に至る前に、終わらせる。
 依姫が刃を握り直す。藍は十二神将たちに、最後の指示を飛ばす。

「六合、青龍、貴人、天后、大陰、太常」

 前線に出すことなく控えさせていた、残る六体の吉将たちを、藍は呼び出す。
 天空を除く十一の神将は、依姫を取り囲むように、それぞれの方角へ散っていく。天空の方角は、藍自身が代わりに立った。取り囲む神将たちを見回し、依姫が藍を見据える。

「我ら、八雲紫が式、十二神将」

 依姫が刃を立て、身を僅かに沈み込ませる。
 藍は、その両手を――柏手のように、胸の前で打ち鳴らした。

「――祭!!」

 その一声が、総攻撃の合図。
 依姫が、藍へ向かって一直線に地を蹴る。
 同時、依姫を取り囲む十二神将が、依姫へ躍りかかる――。
 閃光。轟音。白煙。――そして、静寂。


      ◇


 ――その交錯より、僅かに時間を遡る。

「で、結局あんた、なんなのさ? 依姫様はお化けなんているわけないって言ってたけど、あんた、あのお化けのお姉ちゃんと一緒にいたよね? なんでここにいるのさ? ていうか、地上の住人なら月の都に何しに来てたわけ?」

 沈黙にしびれを切らしたように、キュウがまくしたてるように口を開いた。
 キュウ、と隣のシャッカがそれを諫めるように視線を向ける。キュウは悪びれず、こちらに銃剣の先を向けたまま「何か言いなよ、置物じゃないんだからさ」と続ける。
 妖夢は目を伏せ、息を吐き出す。楼観剣にかけていた手を放す。
 ――少なくとも、自分が戦うべき相手は、彼女たちではないはずだ。
 背後ではまだ、藍と依姫の交錯が続いている。こちらの会話は聞こえないだろう。

「そっちこそ、どうしてこの幻想郷に来ているんですか」

 妖夢にそう問い返されて、キュウとシャッカは虚を突かれたように目を見開いた。

「あのさ、それはさっき依姫様も言ってたじゃん。こっちは仲間を探してるの。この地上に来てるはずなんだよ。ホントに見てない? サキと――レイセン」

 レイセン、とキュウは言った。やはりそれは、鈴仙のことのはずだ。
 だけどその響きは、どこか異国の言葉のように聞こえる。

「探して、どうするの?」
「どうするって、そりゃ――」

 口を尖らせて、苛立たしげにキュウは答えた。

「連れて帰るよ。サキも――帰れるなら、レイセンも。そのために来たんだもん」

 サキムニと同じことを、キュウは言った。連れて帰る、と。
 妖夢は眉を寄せる。彼女たちはサキムニを追って来た。ということは、サキムニがここに来たことは彼女の独断か。しかし、鈴仙を連れ帰ろうとしているのが一緒なら、なぜサキムニはわざわざ独断で地上にやってきたのだ?

「知ってるの?」

 声をあげたのはシャッカだ。眼鏡の奥で眉を寄せて、シャッカは妖夢を睨み付ける。

「貴方、知ってるんでしょ? サキと、……レイセンのこと」
「シャッカ」

 キュウが訝しげにシャッカを振り向き、それから「どうなのさ?」とこちらを向き直る。
 知りたいのはこっちの方だ、と妖夢は唇を噛んだ。
 鈴仙の身体のこと。穢れのこと。鈴仙の過去。月の都という場所。
 解らないのは、知らないからだ。何も、自分は知らないのだ。
 目の前に居るのは、月からやってきた、鈴仙の仲間。
 ――それなら、今自分がすべきことは、こうして彼女たちと敵対することではない。
 鈴仙のために、どうするのが正しいのか。それを知るために、情報を得ることではないか?

「……知ってる。鈴仙も、サキムニのことも」

 妖夢の呟きに、キュウとシャッカが息を飲んで顔を見合わせる。

「だから――」

 教えて欲しい。妖夢の知らない、鈴仙に関わる全てのことを。
 そう、妖夢が口を開こうとした、その瞬間。


 轟音とともに、妖夢の背後に白煙が噴き上がった。


「依姫様!!」

 キュウとシャッカが、顔色を変えて悲鳴を上げた。
 振り向いた妖夢の視界を覆うのは、広がりゆく夜の闇にたなびく白煙。
 ――そして、その白煙を上空から悠然と見下ろした八雲藍と。
 白煙の中、崩れ落ちそうな身体を、地面に突き立てた長刀で支える、綿月依姫の姿。
 それが、戦いの決着を意味していることは、妖夢にも理解できた。

「――まだ倒れないか。それが月の民の矜持というところか?」

 ゆっくりと大地に舞い降りた藍は、長刀で身を支える依姫に、そう冷たく声をかける。
 藍自身も、法衣のあちこちが裂け、破れ、足下に鮮血が滴っていた。それでも今、藍は二本の足で立ち、依姫は刀に身体を預けている。それがすなわち、勝者と敗者の差だ。

「倒れていれば、そこで終わりだったものを」

 藍の元に、炎の翼を広げた蛇が舞い降りる。その蛇を右腕に巻き付け、藍は目を細めた。

「私の勝ちだ、綿月依姫」

 藍の右腕に絡みついた蛇が、その口を広げた。
 吐き出されるのは、灼熱の火球。
 その火球は、崩れ落ちそうな身体を支えることしかできない依姫へ、無慈悲に迫り――、


      ◇


『依姫』

 ――それは、遠い過去の追憶。
 あの人が月を捨て、地上へ去る前の、今ははるか彼方に色あせた記憶の残映。

『はい、八意様』

 あの人は、その深く澄んだ瞳で依姫を見つめ、そしてその手を握った。

『貴方は強くあらねばならない。月の都を、月の民を守るため。誰よりも強く』
『はい』

 それは幾度となく、あの人から聞かされた言葉。

『その力は、振るわれないことを理想とする力。貴方が戦わずとも、月の都が安寧を保ち続けることが正しきあり方。それでも貴方は、その理想が破られるときのために強くあらねばならない。力を持たねばならない』
『――はい』
『行き場のない力を持つことは、弱い心を惑わせます。貴方は己の力の意味を正しく理解し、正しく振るいなさい』

 握りしめられた手から伝わるあの人の思いに、依姫はただ頷く。

『はい、八意様。この綿月依姫の力は、月の都を守るために』

 その依姫の返事に、しかしあの人は小さく苦笑して、首を振った。

『それでは五十点よ、依姫』

 目を見開いた依姫に、あの人は微笑んで、口元に人差し指を当てる。

『では、正しい答えは宿題にしておきましょう』
『――は、はい』
『大丈夫よ、依姫。貴方にはすぐに解るはず。貴方が持つ力の正しい意味を。貴方なら、ね』

 そう言って、あの人は――八意永琳は、依姫の頭をくしゃりと撫でた。
 それが、綿月依姫が八意永琳と交わした、最後の会話。

 ――自分の、力の、正しい意味。
 残された最後の力を削り取ろうと、迫り来る火球の気配を感じながら。
 依姫はただ、追憶の中の師の言葉を反芻して、

「依姫様ああああああああああああっ!!」

 声。足音。目の前に割り込む、小さな影。
 依姫は目を見開いた。長い兎の耳が、依姫と火球の間に飛び込んでいた。
 ――閃光。


      ◇


 兎が、依姫を庇うように、火球の前へと飛び込むのを、藍も見ていた。
 火球の前に仁王立ちしたその髪の短い兎は、受け止めようとするかのように両手を広げる。
 ――轟、と唸りをあげて、火球がその兎を包み込もうとしたとき。

「キュウ!!」

 綿月依姫が、その目を見開いて――大地に突き立てていた、長刀を抜き放った。
 一閃。――爆散。吹き上がる白煙。

「……より、ひめ、さ、ま」

 その中で、キュウと呼ばれた兎が、ぐらりと崩れ落ちる。
 膝からくずおれたその身体を、依姫が抱き留めた。
 兎の身体は、半身が火球の直撃を受けて、服や髪は焦げ、皮膚は赤く腫れ上がっていた。

「キュウぅぅっ!」

 悲鳴を上げて、黒髪の兎が駆け寄ってくる。その兎に、キュウの身体を預けて、綿月依姫は顔を上げると、こちらへ向き直った。
 ――その眼光に射貫かれて、藍は小さくたたらを踏む。
 何だ、これは。――この気配は何だ。
 これは、今にも崩れ落ちようとしていた、敗者の放つ気配ではない。
 依姫は、二本の足でしっかりと大地を踏みしめ、長刀を眼前に掲げている。
 烈火のごとく苛烈な眼光で、八雲藍を見据えて。

「っ、玄武、白虎、挟み討て!」

 知らず、焦りの滲んだ声で藍は叫んだ。その声に応じて、玄武の尾と白虎の爪が、同時に依姫に襲いかかる。しかし依姫は、その場を微動だにすることなく、
 白刃が、閃く。
 玄武の尾が、その身体から切り離されて、闇に沈んだ空に舞った。
 白虎の毛並みが、切り裂かれて赤に染まり――その尾と爪は、どちらも依姫に届くことなく、大地に伏して動かなくなった。

 違う。――目の前にいるのは、今まで自分が戦っていた綿月依姫ではない。
 もっと恐ろしい、得体の知れない何かだと、藍は悟った。
 そして、同時に、必然的に知る。
 ――自分が既に、絶対的に敗北していることを。

『どうせ地上の者は月の民にかなわないもの。力では』
 主のいつかの言葉の意味が甦る。
 ああ、本当に、主の言葉の真偽の境界は、自分などには計り知れないのだ。
 だとすれば、――八雲藍。己の今為すべきことは、何だ。

「――撤退ッ」

 唇を噛んで、藍は残った十二神将にそれを命じる。必要なのは体勢を立て直すことだ。ここで自分がやられてしまえば次はない。だが、逃げ切れさえすれば、次なる主の命を待ってまた動くことができる。――既に勝利が消え失せた以上、撤退以外に道はない。
 残った十二神将が散開する。藍もそれと同時、目くらましの火球を一発、依姫の足元へ放つと、踵を返してその場を離脱し――


 腹部に、鈍い衝撃。
 ぬるりとした熱が、身体の中心に伝わる。
 視線を降ろせば、背後から腹部に突き立てられた長剣の切っ先が。
 藍の身体を貫いて、赤く染まっていた。


「ゆか、り、さ――」

 暗転。







      7


 森を抜けた先にあったのは、また暗闇と、深い霧だった。

「ここ、は……」

 闇の中に立ちこめる白い霧の中、サキムニはふらふらと視線を巡らせる。足の痛みがまた蘇り、顔をしかめて、それから――はっと、背後を振り返った。
 そこには、誰も居ない。背後にも、隣にも。
 自分の両手は何も掴むことなく、ただやり場を失って握りしめられている。
 ――そこにあるはずだった、レイセンの姿は、どこにもない。

「レイ、セン――」

 名前を呼んでも、答えてくれる声はなかった。
 レイセンはどこ? どこへいったの?
 茫漠とした思考に甦るのは、ほんの少し前に、レイセンから告げられた言葉。
『私、月に居た頃からずっと――サキのことが、嫌いだったんだよ』

「嫌――」

 耳に残るその声を拒絶するように、サキムニは耳をふさいでその場に膝をつく。
 けれど、記憶にはどうしようもなく、その声が焼き付いていた。
 ――嫌いだったんだよ。
 そんなはずない、とサキムニは口の中で呟く。
 レイセンが、自分のことを嫌っているはずなんか、ない。
 だって、レイセンは、レイセンは――。

 ――本当に、そうか?
 どうして、自分にそんなことが言い切れる?

「嫌、嫌、いやぁ――っ」

 ぶるぶると首を振って、サキムニは身体を抱え込むようにうずくまった。
 レイセンが、自分を嫌っている。――そんな可能性、考えたこともなかった。
 自分はずっと、レイセンのために、あれこれ世話を焼いてきたのだ。彼女が月にいた頃からずっと、レイセンのことを思って、レイセンのために尽くしてきた。
 それで、レイセンが少しずつ、笑うようになっていった。
 そのことが嬉しかった。幸せだった。誇らしかった。
 ――だから、だから、自分がレイセンに嫌われているはずがないと。
 自分はこんなにも、レイセンのことを考えて、レイセンのために力を尽くしたのだから。
 レイセンだって――自分のことを好きでいてくれているはずだと。
 何の疑いもなく、そう信じていた。

 それなら、何故レイセンは月を逃げ出した?
 自分たちを捨てて――この地上へ逃げ出した?

「レイセン……レイ、セン」

 自分は嫌われていたのか。鬱陶しがられていたのか。
 レイセンのためを思って自分がしてきたことは、全て無意味だったのか?
 あの子は、自分がレイセンのためにしてきたことなど、必要としていなかったのか?
 ――全ては、ただ自分の、みっともない自己満足に過ぎなかったのか?

 そうだ。――そうなのだ。

「私、は――」

 馬鹿なサキムニ。馬鹿な兎。献身的な自分に酔っているだけの愚か者。
 だってそうだろう。自分はどうして今、月を離れて地上にいる?
 ――地上の穢れに蝕まれているレイセンを、月へ連れ戻すためにここにいる。
 レイセンがそれを望んだのか? レイセンが帰りたいと、そう言ったのか?
 ――違う。自分が勝手に、ここに来た。
 レイセンは、そんなことは望んでいなかったのだろう?
 何も知らず、地上で平穏に暮らしていくことを望んでいたのだろう?
 月のことなど忘れて。友達面をした鬱陶しい同族のことなど忘れて。
 サキムニ。お前はただ、それをぶち壊しに来ただけだ。
 レイセンが地上で手に入れた幸福を、踏みにじりに来ただけだ。
 ただ――自分がレイセンを思っているという、くだらない自己満足のためだけに――。

 乾いた音。サキムニは顔を上げる。
 ――目の前で、レイセンの身体が崩れ落ちていく。
 その背後には、こちらを見つめるレイセンの姿がある。

 いや、それもまた記憶の光景だ。
 ――自分を嫌いだと言ったレイセンを、レイセンが撃った。
 夢か? 幻覚か? 何が現実だ? あのレイセンの言葉は――。
 解らない。解らないから、サキムニはただ逃げるしかなかった。
 自分がずっと目をそらし続けていた可能性から。あるいは、真実から。

 顔を上げると、そこに、自分自身の顔があった。
 それは凪いだ水面だった。夜の水面に、月の光が差し込んで、覗き込むサキムニの顔を映し出していた。――背後に、おぼろな月を揺らして。
 水面に映り込んだ自分の顔は、くしゃくしゃに歪んで、ひどく醜く、サキムニには見えた。

 ねえ。自分は本当に、レイセンのことが好きだったの?
 自分が好きだったのは、「レイセンを思っている自分」でしかなかったのではないの?
 だとしたら、自分は――レイセンは――、


「……ようやく見つけたぞ」


 ざ、と草を踏む足音。そして、水面に映っていた月が隠れる。影が、落ちる。
 サキムニは振り返った。そこに、自分を見下ろすように立つ姿があった。
 ぽっかりと空に浮かぶ満月。その月光に照らされた、銀色の髪。

「蓬莱の薬を、渡してもらおうか」

 藤原妹紅は、静かな声でそう言って――うずくまったサキムニへ、手を伸ばした。






      8


 その一部始終を、妖夢は半ば呆然と見つめていた。
 戦いの決着を告げるはずだった、藍の最後の一撃。その火球の軌道へ、飛び込むように割り込んだのは、その直前まで妖夢と向き合っていた、キュウだった。
 依姫が刃を抜き、火球が切り裂かれて爆散する。崩れ落ちるキュウを抱き留めて、――その次の瞬間、依姫の気配が変わった。そこにあったのは、圧倒的な、完全なる――怒りだった。
 藍の仕向けた式神が、見切れぬ斬撃に倒れ伏し、藍は血相を変えて撤退を計った。
 ――その藍へ、依姫はまるで槍でも投げるかのように、長刀を投げつけた。
 切っ先は、背中から藍の腹部を貫いて、――藍はそのまま、崩れ落ちた。

「藍、さ……」

 長刀に身体を貫かれて、その場に膝をつき、力なくうなだれた藍の身体。
 そこへ、依姫がひどくゆっくりと歩み寄る。
 背中から突き刺さった長刀に、依姫は無造作に手をかけ、乱暴に抜き放った。傷口から鮮血が吹き出し、藍はその口から血泡を吐いて、前のめりに倒れ込む。
 依姫はその身体を冷たく見下ろし――そして、長刀を振り上げた。

「や――」

 妖夢の目に、次の瞬間に訪れるであろう光景が浮かび上がる。
 振り下ろされる長刀の切っ先が、無防備な藍の身体を切り裂く瞬間を――。

「――止めろぉぉぉぉぉぉッ!!」

 考えるよりも先に、身体が動いていた。
 それは、キュウが火球の軌道に飛び込んでいったのと同じように。
 妖夢は、楼観剣を抜き放って――振り下ろされる長刀の軌跡に、飛び込んだ。
 硬い金属音。――両手に、衝撃。
 振り下ろされようとした依姫の刃は、妖夢の頭上で、楼観剣が受け止めていた。

「――っ」

 依姫が目を見開く。憤怒に暗く濁っていたその瞳に、光が戻る。
 数歩、依姫はそこから下がった。妖夢は、痺れる手で楼観剣を必死に握りしめて、綿月依姫を睨み据えた。――両足の震えは、気付いていても止められなかった。
 その震えの正体は、ただ圧倒的な恐怖だ。
 今、この場で交わされていた戦い。それは、自分などに手の届く領域ではなかった。
 目の前にいる綿月依姫は、あまりにも――あまりにも強大で。
 今の自分など、狼を前にした野ウサギでしかないことを、妖夢は感覚で理解していた。
 本能が、止めろ、逃げろ、立ち向かうなと告げ続けている。
 強すぎる。目の前の綿月依姫はあまりにも強すぎる。
 足の震えが、手の震えが止まらない。冷や汗が額から鼻に伝う。切っ先が揺れる。
 ひっ、と喉が吃音を響かせ、からからに渇いた喉に妖夢は唾を飲み込み、

 ――永遠に思われたその対峙は、おそらく一秒にも満たなかった。
 依姫が刃を下ろす。そして、妖夢になどそれ以上何の注意も払うことなく踵を返し――シャッカが泣きそうな顔で抱き上げた、キュウの元へと駆け寄っていく。
 それを見送って、妖夢はへなへなとその場に膝をついた。
 手が滑って、楼観剣が地面に落ちる。足が動かない。下着が湿って、気持ち悪い。
 がちがちと歯が鳴る。落としてしまった楼観剣を、手が震えて拾えない。
 自分が飛び込むのがもう少し遅ければ、依姫の刃は藍を貫いていた。
 そして、依姫があと少し力を入れていれば――自分は、楼観剣ごと、斬り裂かれていた。
 あるいは、依姫が自分をあのまま敵と見なして刃を振るっていれば――。
 それは即ち、死が一歩手前のところまで迫っていたということ。
 今自分が、まだこうして生きていることが、半ば信じられない。
 ――そして、妖夢はただ本能で理解していた。
 自分は、戦うまでもなく、綿月依姫にも、八雲藍にも敗れていた。
 今の自分は――八雲藍と同じ、地に這いつくばった、無残な敗者だった。

「ぐ……ぁ、く」

 うめき声に、はっと妖夢は振り返る。
 腹部を貫かれて、うつぶせた藍が、微かに顔をしかめて呻いていた。

「藍、さん――」

 大妖怪である藍にとっては、おそらくこれは致命傷ではない。だが、妖怪とて相応のダメージを受ければ動けなくもなるし、意識だって失う。それは即ち無防備になるということで、それこそが藍にとっては致命的だった。
 ――とにかく、自分が藍をどうにかしないといけないのだ。
 依姫は敵だった。今、藍を助けられるのは自分しかいないのだ。
 だが、どうやって? 藍の身体を背負って、どこかへ逃げるのか? 依姫から? どこへ?

「あ……」

 藍の九尾が血に濡れて、力なく垂れ下がっている。
 その傍らに膝をついて、妖夢はどうすることもできず、ただその身体に手を伸ばし、

 ――その首元へ、突きつけられる切っ先。

 刀身が、白皙の満月と、妖夢の顔を映し出して煌めいた。
 その背後に、刀を握った影――綿月依姫の姿も、映し出して。
 妖夢は、息を飲んで振り返る。そこに、依姫が立っていた。
 その片腕に、キュウの身体を抱きかかえて。

「――医者を」

 低く、唸るような声で、依姫は言った。

「この子を助けられる医者を、呼びなさい。早く! 今すぐにっ!」

 悲鳴のような叫びだった。妖夢に突きつけられた切っ先が震えていた。
 依姫の腕に抱かれたキュウは、目を閉じたまま動かない。
 足元にすがりついたシャッカは、泣きそうな顔でキュウを見上げている。
 ――医者。人里の、いや、――永遠亭。八意永琳ならば。

「永遠、亭、なら――」
「――永遠亭?」

 妖夢の呟きに、依姫が眉を寄せた。

「そこなら……たぶん」
「案内しなさい! そこへ! 永遠亭へ!」

 依姫が叫んだ。妖夢はその顔を見上げて、それから、背後で呻く藍を見やった。
 藍を一緒に永遠亭へ連れて行けるか? それならば――。

「……私のこと、は、いい」

 微かな声が聞こえて、妖夢は目を見開いた。八雲藍が、うつぶせたまま目を開けていた。
 その目は、妖夢を見上げている。

「そいつらを、永遠亭、に――」

 連れて行け、と言ったのか。
 それとも、連れて行くな、と言ったのか。
 言葉の終わりは、妖夢には聞き取れなかった。
 藍の瞼が再び落ちる。妖夢はまた依姫を見上げる。首元の刃が震えている。
 ごくり、と妖夢は唾を飲んだ。また両手が震えていた。
 血がにじみそうなほど強く唇を噛んで、――妖夢は震える唇を、開いた。

「……藍さんに、これ以上、手を、出さないなら」

 依姫の顔が歪む。そして依姫は、苛立たしげに首を振った。

「そんなことはどうでもいい! 早く――キュウを助けられる医者を……っ!」

 とうとう長刀を投げ捨てて、依姫は妖夢の胸ぐらを掴んで引きずり上げた。
 苛烈な、けれど泣き出しそうな依姫の顔に睨まれて、妖夢はただ首を縦に振る。
 依姫の手が離れる。尻餅をつきそうになる自分の足を叩いて、妖夢は立った。
 長刀を拾い、鞘に仕舞って、依姫はキュウの身体を抱き直す。
 妖夢も、半ば無意識のうちに、足元に転がっていた楼観剣を拾い上げた。
 ――持ち上げた瞬間、ぴしり、と固い音が響いて。
 妖夢の目の前で、楼観剣は半ばから砕けて――ふたつに、折れた。






      9


 森を抜けた先にあったのは、ひどく見慣れた竹林だった。

「ここ、は……」

 鈴仙は、目の前に広がった光景に戸惑って足を止める。いつの間にか当たりを包み込む夜の闇。その中で、さわさわと風に揺れる笹の葉。鬱蒼とした竹の合間から、ぼんやりと月の光が差し込んでいる。
 暗く、入り込む者を惑わすその竹林は、永遠亭の周囲に広がる迷いの竹林だった。

「なんで、ここに――」

 八雲邸はそんな、永遠亭の近所にあったのか? いや、それとも――。
 考えたところで、振り返っても既に抜けてきたはずの森はどこにもない。
 いったい今まで、自分はどこにいたのだろう?

「サキ――」

 はっと鈴仙は思い出す。周囲を見回す。――けれど、サキムニの姿は見当たらない。
 どうしてか、自分を見て逃げ出したサキムニ。それを追いかけて、森を抜けて、たどり着いたのは本来の目的地だった、永遠亭のほど近く。
 ――そうだ、自分は永遠亭に戻って、月の羽衣を回収するはずだったのだ。
 サキムニと、一緒に月に帰るために。

 それでいいのか?
 また、自分を受け入れてくれた者たちの元から逃げるのか?
 永琳から。輝夜から。てゐから。――妖夢から。

「……妖夢」

 鈴仙はその場に立ちすくむ。何度となく頭の中を回り続ける問いかけ。答えは出ない。
 自分を引きずっていくサキムニも、今はそばにいない。
 ひとり、永遠亭の近くに取り残されて、鈴仙はそこから動けなかった。
 永遠亭に向かうということは、永琳たちと向き合うということ。
 今までの恩を、月に逃げ帰るという形で投げ捨てる自分と、向き合うということ。
 ――あるいは、永琳たちが隠してきたものと、向き合うということ。
 何が真実で、何が正解なのか。
 立ち止まっていても答えは出ない。そんなことは解っている。
 けれど――そこに向かうための足が、動いてくれない。
 鈴仙はぎゅっと目をつむる。瞼に浮かぶいくつもの顔。永琳、輝夜、てゐ、サキムニ、キュウ、シャッカ、依姫、豊姫――妖夢。

 誰か。
 誰か、答えを教えてください。
 何が正しくて、何が間違いなのかを。
 自分がこれから――どこへ向かうべきなのかを。
 誰か、

 さく、と草を踏む音がして、鈴仙は顔を上げた。
 闇に沈む竹林の奥から、さく、さくと静かな足音が響く。
 それは、こちらへゆっくりと歩み寄ってくる影。
 ――その姿を認めて、鈴仙の脳裏によぎったのは、つい先ほどの、目の前の光景。
 サキムニに向けてつがえられた矢。
 自分の放った光弾を受けて、崩れ落ちたその姿。
 ――自分の足を掴んで笑った、砂の幻影の――主の、姿。


「まったく、随分と遅かったわね。どこで寄り道をしていたの?」

 普段と変わらない、呆れたような声で、彼女は言った。
 闇の中から姿を現して、背の高いその影は、口元にふっと笑みを浮かべた。
 それは柔和な、患者に向けられる慈愛の微笑みのようで。
 けれども、どこか酷薄な笑みに、鈴仙には見えた。

「――おかえりなさい、ウドンゲ」

 竹林に、まばゆい満月の光が差し込んで、白く視界を照らした。
 八意永琳は、立ちすくんだ鈴仙を見据えて、そう微笑んで言った。
 その手に、弓矢という名の凶器を携えて、――笑っていた。




第10話へつづく
~次回予告~

※この予告の内容は変更される可能性が多々あります。


 満月の下、捨ててきた過去と、現在が交錯する。

「レイセンを、返してもらいます。――八意様」

 その狭間で、私はどこへ行けばいいんだろう。

「月には、戻らないわ。私も、輝夜も、――そして、鈴仙も」

 私の犯してきた罪。全てが私への罰なのだとしたら。

「ねえ、思い出せる? 永遠を手にしてからの全てを――」

 私は、許されるべきではないのかもしれない。

「……私は、鈴仙に生きていてほしいよ」

 許されていい、はずがないのに――。


うみょんげ! 第10話「満月はもう来ない(仮)」


 どうしてみんな、そんなに――私を――。


***


 二ヶ月半ぶりですか(笑)。月一連載(笑)。

 ……はい、大変遅くなりまして申し訳ありませんでした。
 一応全13話予定なのでそろそろ終盤ですが、相変わらず予定は未定です。
 月一ペースを守れる可能性はかなり低いですが、なんとか完走できるようがんばります。
浅木原忍
asagihara@u01.gate01.com
http://r-f21.jugem.jp/
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コメント



0.2100簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
書き終えたと知り今か今かと待ってました
読み終えたばかりですがいつも次が気になってたまりません
5.100名前が無い程度の能力削除
うわぁぁぁぁxっぁぁぁぁ!
うみょんげきた!
やっときた!
続きが気になる…楽しみにしてまってます!!
6.100名前が無い程度の能力削除
期間が空いても褪せない面白さでした。
キャラが交錯しながら盛り上がっていく感じが良いですね。
7.100名前が無い程度の能力削除
先行き気になりすぎる 楽しみにしております
10.100名前が無い程度の能力削除
なんかいろいろ怖い展開になってきたあああ!楽しみすぎる!!
11.100名前が無い程度の能力削除
b
12.100名前が無い程度の能力削除
どうしても鈴仙が月に帰るイメージが湧かない...
でも予想を裏切ってくれる展開であることを楽しみにしてます。
14.90名前が無い程度の能力削除
すごいところで切れたあああ!
16.100名前が無い程度の能力削除
依姫さま乱神モード出た!
先が気になりすぎです!><
19.無評価名前が無い程度の能力削除
バトル展開になると途端につまらないですね
ご都合主義で勝った負けたじゃ説得力も生まれないですよ
ヤバくなったら兎が身を挺してってのも幽花の時の天丼になってるし
20.100名前が無い程度の能力削除
続き楽しみにしてました。そしてまたこの続きが楽しみになりすぎます…

今回また色々状況が動きましたが、今回出番のなかった幽々子&てゐを含めた
それぞれの状況がこれからどう結びつき、そしてどういう真実とどういう結末が
待っているのやら。
色々大変なようですが、今後も楽しみにさせて頂きます。頑張ってくださいませ。
25.100名前が無い程度の能力削除
あと4話か。
振り回されっぱなしなうどみょんの逆襲に期待。
30.100名前が無い程度の能力削除
ま、まさかここで少女秘封録が絡んでくるとは…!

ちゅっちゅな展開とシリアスな展開を書き分ける貴方様の力にはいつも驚愕させられます
32.無評価名前が無い程度の能力削除
依姫の叫びも藍の傷も全部紫の命令によって起きたことで。
その命令をしたご本人はお見通しニヤニヤで月旅行ですか。
すばらしい、儚月の賢者様のひどさを見事にさいげんしておられる。
おかげで最悪の気分を思い出せましたありがとう。
33.50名前が無い程度の能力削除
紫の藍に対する「生きようが死のうがどーでもいー」といわんばかりの
使い捨ての道具扱いっぷりは儚月抄の完全再現でよかった。
キャラを儚月抄っぽく書くのがうまいですよねこの作品。
「この作品のキャラのこういうとこがムカつくんだよな」ってのがどのキャラからも
まんべんなく感じられる。こういう作品こそ原作再現と呼ばれるべきなのだと思います。
35.30名前が無い程度の能力削除
うみょんげと全然関係ない話で盛り上がってて萎える
38.80名前が無い程度の能力削除
個人的にはよっちゃんがプッチンしたときは烈火のような一時の感情に任せた怒りよりも
敵の身を案じるような甘さや慈悲や情を一切消しさった虚空のような冷徹さになるイメージだったかなー。
斬ったら穢れちゃうしね緊急事態でもなければ敵でも極力斬らずに済ませたいだろうし。
40.70名前が無い程度の能力削除
うみょんげ!は創想話で今一番続きを待ち望んでる作品と言えるのですが
前回と今回は、紫の余計な真似が全て悪いほうにしか行ってない印象
依姫の力がそのままなら前回も今回の藍も両者全く血を流さずに戦い収めることも可能だろうに
下手に力を奪ったり突っかかったりするせいで双方無闇な被害が広がってる上に
月の民が一番したくない殺生沙汰を無理矢理させられている感が強いのが可哀想でなんかモヤモヤ
42.30名前が無い程度の能力削除
紫はなにがやりたいんでしょうかね?
これほどの悲しみ、苦しみを生んでおいてつまらん理由だったら
本気でブチキレますよ?
45.50名前が無い程度の能力削除
心待ちにしていた続編が来て嬉しい限りです。
・・・と言いたいところなのですが。

まず第一に藍と依姫の戦闘の場面。
キュウ負傷からの依姫覚醒、という展開はベタですがアリだと思います。
しかしながらあの急展開はいかがなものでしょうか?
あれだけ長く戦闘シーンを描写しておいて、ようやく藍が勝ったかと思えば
一瞬で勝敗反転。置いてきぼり感が否めませんでした。

次に、紫の藍に対する態度。
作中での紫の藍に対する扱いはそれらしいと思います。
しかし藍が血まみれにされたとなれば話も違ってくるのでは?
もしそれでも紫が平然としているのであれば
少々残酷に過ぎるのではないでしょうか。

元々僕は軽い気持ちでうどみょん見たさにこの作品を読み始めました。


元々僕は軽い気持ちでうどみょん見たさにこの作品を読み始めました。
実際引き込まれてここまで読んでしまった訳ですが、
回を重ねるごとにうどみょん要素は減り、代わりに月と鈴仙の繋がりに関する描写が増え、話はひたすらに重くなり、いつの間にやら胃もたれを起こしそうな程に重い作品になってしまったように感じます。

初期の、喫茶店で向かいあって座っていた二人の初々しさは、
じれったくてもどかしいけど微笑ましい二人の距離感は、
軽妙でありながら薄っぺらくならないあの背景描写は、
どこに行ってしまったのでしょうか。

そろそろ読者としては物語の本質に疑いを持たざるを得ないです。
ここまで広げた話をどううどみょんでまとめるのでしょうか。
残り三話に期待してこの点数で。
47.70名前が無い程度の能力削除
連載形式を取っている途中までしか読めないために迷走しているようにみえるだけで、
ちゃんと完結したときにはしっかりまとまった話になっているんでしょう。
とはいえ、今回の話だけを見た評価だとこれくらいの点になってしまいます。
今回がとことんまで突き落とされる回だったからというのもあるでしょうけど。
妖夢、サキムニ(月)、永琳の3方向から板挟みにあって苦悩する鈴仙というのがメインだと思われますが、
やはり依姫がスペルカードを使わずに命のやりとりをし始めたのはちょっと唐突な感じがしました。
56.無評価名前が無い程度の能力削除
見返してみて、やはりここの伏線が後々になって
色々枷になって自分自身で首絞めちゃってる状態だなーってかんじがしますね
例えば依姫の神封印しても藍様が簡単にあしらわれるぐらい歴然たる力の差があって全員無傷で終わるなら
第一次を体験したがったレミリアと同じように藍にも月人の強さを体験させてみた、相手は殺生嫌うから藍の命の心配もなかった
そんな逃げ道のできようもある
でもこっちの依姫はあまりに余裕が無い上に
藍が下手に善戦しちゃって酷い手傷負ってるからそういう言い訳も出来ない上に紫の逃げ道なくしちゃってる
藍の怪我も、キュウの怪我も、本来しなくていい怪我を全部紫のお膳立てのせいでしてる状態になっちゃってる。
紫が以後何かで挽回するにしてもあまりに行為のハードル上げすぎてる。

原作どおり月人がガチ強くて苦戦一切無くて人格者なら→キュウ無傷、藍無傷、紫が藍送っても安心安全作戦通り状態に自然になるのに
下手に戦闘で藍に華持たせようとか神封印してハンデ与えるとかしたせいで挽回の余地を潰しちゃってる。
57.無評価名前が無い程度の能力削除
3巻買ったけどこっちと内容変わってますね
ただそのせいで整合性が微妙になって気になった点が。

神降し使えないのが単なる風聞上の問題に変わったなら藍程度に苦戦するほど付き合うことがそもそも無いし
自分から縛りプレイしている以上、全部の窮地が茶番になっちゃってます。
さらにキュウの怪我もわざわざ地上の医者を探すより神降し使って癒せば良いだけかと
日本の神には死者復活の神も火傷治癒の神もいるんだから。
キュウを癒さないって事はどう誤魔化しても結果的に自分の風聞>>キュウの命って言ってるようなもんです。