Coolier - 新生・東方創想話

『虎』丸星脱走事件(後編)

2011/03/09 13:47:55
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     ☆     





 私とムラサが朝食の食器を洗う中、一人食卓についたぬえは、先刻ナズから渡された四角い物体をこねくりまわしては、ためつすがめつ眺めていた。ぴーえいちえす、電話という道具の一種だとナズーリンは言った。最近流れ込んできた外界の道具で、香霖堂にて売られていたのを買ってきたらしい。遠く離れた相手と会話が出来るということで、姐さんとナズが試しに使っているところを見ていても、面白い道具には違いなかった。
 全部で三台、ナズは持っていた。そこで、星の捜索活動は三手に分かれて行うことになった。ナズが一台持って探しに行く。ムラサとぬえがもう一台を持って別行動。命蓮寺の仕事のある姐さんと私が、残りの一台を持って待機することになった。どこから入ってきた情報でも、すぐさまナズに伝えられる、完璧な体勢での協力プレイだ。
 ナズは朝食を終えるなりすぐに出発した。ぬえはムラサの皿洗い待ち。手持ち無沙汰を全身で表現するその姿に、思わず漏れそうになる笑いを噛み殺しながら、ムラサに言った。
「ムラサ。もう残りは私に任せて、早く探しに行ってきな?」
「ん? あとちょっとじゃないの。これくらいすぐに……」
「いいから。急いで準備しないと、ぬえが退屈で死んじゃいそうよ」
「あー、それもそうか。じゃあ、お言葉に甘えて」
 そう言ってムラサが手を洗い始めると、やっとか、とでも言いたげな表情でぬえは立ち上がった。もてあそんでいた電話を、スカートのポケットにしっかりとしまいこむ。それを見て私も、割烹着越しの自分の電話を、なんとなしに肘でつついてみた。幻想の郷には似合わない、固くて無骨な物体だった。それでも、その先にナズがいるのだと考えてみれば、この世で一番素晴らしい物にも思えた。
 今朝の目覚めはここ数日で最高だった。星が元に戻れるという安心感も、もちろん大きな要因ではある。でも、それと同じくらい、ナズが戻ってきたことが大きかった。ナズの置手紙を見た時、私の心には雲よりも大きな落胆が生まれたものだ。長い間共に暮らしてきたというのに、この上ない非常事態において、相談すらされないままなのか、と辛く思った。姐さんのように自分のことを責めたりはしなかったけれど、ナズとの接し方で間違っていることはなかったか、散々考えた。答えは全く出なかった。
 昨晩ナズが帰ってきてからは、新しい発見の連続だった。ぬえの涙。正直な所、自分の中の"ぬえ像"とあまりに食い違って、かなり驚いた。もちろん悪い奴でないのはわかっていたのだけれど、それでもやはり、というか。でも、そんなぬえの真っ直ぐな言葉は、私にとっても嬉しかった。私の言いたいことを全て代弁してくれるかのようで。私が素直に言えないことを全て代わりに伝えてくれるかのようで。
 そして、ナズの涙だ。安堵した。信頼されていないわけではないのだと。少し素直になり切れなくて、抵抗があって、誤解が生まれてしまっただけなのだと、そうわかったから。全てはぬえの素直さが明らかにしてくれた。一番すごいのはぬえだと思った。
 紆余曲折を経たけれど、ナズもきちんと私達に心を開いてくれた。今度は私達の番。信じてくれた家族に、寄せてくれた期待の分だけ成果を返さなくては。そう思い、ちょうど台所を出ようとしていたムラサに声をかけた。
「ムラサ!」
「どーした一輪?」
「私があんたの分の仕事まで請け負ってあげるんだから、あんたは必ず星を見つけ出してきなさいよ? そうじゃないと承知しないからね」
「はいはいわかってますって。言われなくても……!」
 満面の笑みでこちらに向かって親指を立てた後、待ちくたびれた様子で唇を尖らしていたぬえを引き連れ、ムラサは出て行った。チラッと見えたその後姿は、これ以上なく頼もしく見えた。

 皿洗いを終え、エプロンを外し、代わりに頭巾を被る。頭巾が無いほうが魅力的だ、とムラサなどには良く言われるけれども、これを被っていないと寺での仕事に身が入らないのだ。ムラサがキャプテン帽を脱がないのと、理由は同じだと信じている。恐らく彼女も、あの帽子を脱いだ途端、いつものどこかピシッとした態度が崩れてしまうのだろう。ムラサのそんなところも見てみたい、と少し思った。
 ともあれ、いつも通りの身だしなみを整え、仕事の始まり、と気合を入れたときだった。玄関戸が叩かれる音。少し強めに鳴った理由は、訪問者の虫の居所が悪いのか、はたまた単に乱暴者なのか。ちょっと警戒しながら、玄関口へと向かった。
 顔を見て、前者だ、と悟った。訪問者は、人里の守護者であり、ワーハクタクの上白沢慧音。乱暴者どころか、強者に厳しく弱者に優しく、礼節知ったる折り目正しい妖怪として通っている者だ。ただ、その顔はとても険しかった。口を開く前から、友好的な話し合いではないだろうと思った。
「聖白蓮殿はいるか?」
「はい、おりますが……。失礼ですが、何の御用でしょう?」
 問いかけに対して彼女は右手を持ち上げる。その際カサカサという音がして、そこで初めて彼女が手にしている物を認識した。文々。新聞だった。目の前に突きつけられた記事は、昨日ぬえが受けた取材に関するもの。だが、そこまでわかっても彼女の意図がつかめなかった。
 自分も読んだその記事の内容を思い出してみる。ぬえは記者にマイクを向けられ、晩御飯のおかずはなにかと聞かれただけだ。まさか、すき焼き食べたさにここまでやって来ないだろうし、そうすると別の理由があることになる。思い当たるのは一つしかなかった。ぬえが回答時に漏らした、星の失踪という事実。ぬえとしては悪意もなかったに違いないが、それまで明るみに出なかった事実が新聞に載り、少し厄介なことになったのもまた真実だ。昨日再び命蓮寺を訪ねてきた毘沙門天の使い然り、取材と称して事件の詳細を調査しに来た天狗然り。
 またその類の厄介種か、と諦観を帯びた予感は、無情にも的中するものであり。
「この記事にある、寅丸星殿の件だ。人里にも関わる重要なことなので、通して欲しい」
 厳しい顔をした人里の守護者にこう言われては、断るわけにもいかない。彼女を通し、姐さんを呼びに行く私の心中は、とても穏やかとは言えないものだった。



     †     



 昨晩の冷え込みが嘘のように、暖かい日だった。三寒四温という言葉の意味を肌で感じつつ、森の奥に積もった雪は今頃どうなっているのだろうか、とナズーリンは疑問に思った。雪が完全に溶けてしまえば、地面に足跡が残りづらく、探すのが少し厄介になるかもしれない。寒さを感じさせない日差しに感謝するべきか否か、非常に迷うところだった。
「遅れずついてきているか、ナズーリン? ここらで迷うと大事だから、気をつけてくれよ?」
「ああ、わかってるさ」
 先を進んでいた九尾の狐が、振り返って声をかける。ナズーリンは今、冬眠から目覚めたという八雲邸の当主に会いに行くところである。
 二日ほど前のことだった。血眼になって星を探し、飛び回っていたナズーリンは、この狐の妖怪――これから会う当主、紫の式であり、藍という名を持つと聞いていた――に出くわした。それまでは親交も深くなかった二人だが、酒の場などで顔は見知っており、同じ獣の妖怪の身として、互いに興味を持っていた。それに加え、その時のナズーリンは恐らく、追い詰められたような表情をしていたのだろう。初め声をかけてきたのは藍の方だった。
「命蓮寺の……、確かナズーリンと言ったか? どうしたんだ、そんなに疲れ切った顔をして」
「え? ああ、えーと、八雲の……」
「八雲藍だ。藍と呼んでくれ」
「わかった、藍。改めてよろしく、ナズーリンだ」
「ああ、よろしくナズーリン。それで? 見たところ探し物の最中、というところかな」
 ナズーリンの手にしたロッドを物珍しそうに眺めながら、藍は尋ねた。ナズーリンは少し逡巡する。自分の主人に振りかかった災いをぺらぺらと話すのは気分が悪かったし、なによりその災いは誰もが理解できるようなものではなく、実際そのために幾人かの質問をはぐらかしてきた後だった。しかし結局は、藍にならば話すべきか、と心を決めた。やはり、彼女自身が半獣であることが大きかった。自分達が味わっている苦しみの良き理解者となってくれるに違いない、と思っていた。
 果たしてその通りだった。今回の異変の顛末をナズーリンが話す間、藍はずっと頷きながら静かに聞いており、話し終わるのを見届けて、同情的な視線を向けつつ口を開いた。
「そうか、それは大変だな。自分を本能が支配する感覚。あれほど恐ろしいものはないというのに、わかってくれる人は少ないのだ。大丈夫。私も経験はあるはずだ。少なくとも、理解することくらいはできるよ」
「ああ、藍に話して良かったよ。一方的に話しただけなのに、少し気持ちが軽くなった」
「そう言ってくれるなら良かった。ただ、すまないな。なにぶん私が同じようなことを経験したのは子供の頃だけだから、対処法はもちろん、具体的な感覚もあまり覚えていなくてね」
「いや、いいんだ。わかってくれる人がいるだけでも心強いんだからさ」
 本当は、少し期待していた。八雲藍といえば、主人の紫に勝るとも劣らない賢者として名が通っている。そんな妖怪ならば、主人の様態に関して何か意見が聞けるのではないかと思っていた。しかし、期待のはずれたナズーリンが落胆するより早く、藍は続けた。
「でも、紫様なら君の役に立てるかもしれないな。なんて言ったって……」
 続く言葉を発したときの、藍の誇らしげな表情は、ナズーリンの記憶に焼きついている。曰く、紫様は境界を操る能力をお持ちだからね、と。一瞬なんのことやらわからなかったナズーリンも、次の瞬間には理解した。つまるところ、問題なのは境界なのだ。寅丸星という妖怪の、理性と本能の境界、あるいは、人と虎の境界、とでも言うべきもの。虎の本能側が、理性の方にせり出しているのが現状であり、そこの線引きを改めてきちんとさせてもらうことで、問題は解決するかもしれない。ナズーリンの表情は少し明るくなった。
「ああ、期待させた後ですまないが、紫様は今冬眠中なんだ。もう少し、本当にもう少しだけ、待ってくれればお目覚めになると思う」
「そ、そうか。それなら仕方がない。じゃあそれまでの間、私は私なりに、問題の解決に向かうこととするかな」
「わかった。冬眠が終わったらすぐ君に連絡するよ。幸運を祈る」
「ああ、色々とありがとう。また会おう」
 肩透かしを食ったような落胆が無いといえば嘘だが、それでも事態は好転したと思えるような。そんな気分だった。

「よし、着いたぞ。こっちだ。この部屋で待っていてくれ」
「わかった」
 ナズーリンが通されたのは、六畳くらいの大きさの、机と座布団くらいしかない応接間だった。だが、花瓶や掛け軸が上手い具合に配置されており、決して殺風景という感じではない。今年の抱負なのか、"常在戦場 八雲藍"と書かれた横に、"他力本願 八雲紫"と弱々しい文字が並んでいるのが気にかかった。正月くらいは、といって冬眠中に叩き起こされる紫の姿が目に浮かぶようだった。
 一通り部屋に視線を巡らせた頃、襖が開く。藍に連れられ、一人の女性が姿を現した。八雲家当主の紫であろう女性は、妙齢の婦人にも、老成した妖怪にも見える、不思議な容貌をしていて、一言で感想を述べるとすれば、ひとえに美しかった。女性は姿勢を正して座ると、口を開く。
「あなたが、ナズーリンですか。藍から話は聞いていますよ」
「ああ、どうも。えーと、八雲紫、殿?」
「殿だなんておやめなさいな。紫、とだけ呼んでもらえれば結構。……あ、藍? お茶お願いね」
「はっ。ただいま」
 藍が退出していくのを見届けて、紫は再びナズーリンに向き直る。その時紫の顔に浮かんでいた柔らかな微笑みに、ナズーリンは思わずみとれてしまった。
「とりあえず、足を崩さない? 私、正座って苦手なんだけど、藍が見てるとうるさくて……」
 重ねた年齢を感じさせない茶目っ気は、聖に似通ったところを感じさせる。それならば聖と同じで、話せば話すほど親しみやすく、気さくに感じられる相手なのではないかと思った。
 実際、その通りだった。初対面であるはずの紫との話は、驚くほど盛り上がった。最初こそ妖怪の賢者を呼び捨てすることに抵抗を覚えていたナズーリンも、話すうちにそれが自然であると感じるようになった。それだけ相手を惹き込むような話術を、紫は身につけていた。
「そういえば、紫、さ。鼠って嫌いかい?」
 会話の途中で、ナズーリンが問う。鼠の妖怪が投げかけるものとしては少々珍妙な質問に、紫は可笑しくてたまらないという顔をしていた。真意を尋ねる紫に、ナズーリンは答える。バスケットの中の、相棒鼠のこと。ナズーリンにとっては唯一無二の親友であるが、外に出れば嫌われ者であり、特に女性には嫌がられることも間々あると承知していた。
「いいえ。あんなに可愛い動物はないと思うわ」
 だが、紫は平然とした顔で言ってのける。その言葉は、決して嘘めいてはいない。だが、そっくりそのまま真実であるようにも思えなかった。自分の本心を隠すことにおいて、良い意味でも悪い意味でも、紫は非常に優れているのであろう。紫が胡散臭いという噂をよく聞くのは、これが原因に違いない、とナズーリンは確信した。
 その時、藍がお茶を持って戻ってきた。襖の開く音で我に返り、すっかり話し込んでしまったことにナズーリンは気が付いた。
「ああ、失礼。そろそろ本題に入りたいと思うんだが」
「そうね。藍も戻ってきたことだし、ちょうど良い頃合だと思うわ」
「紫様? 私は……」
「あなたもそこにいて頂戴。間違いなく、あなたにも関係することだから」
 紫が居住まいを正す。同時に、室内の空気が張り詰めたような気がした。
「あなたの主人の身に起こったことは、藍から聞いているわ。念のために聞いておくけれども、永遠亭には行ったのよね?」
「ああ。一応治療法らしきものは聞いた、けれど……」
「それなら話は早いわ。初めに質問。ちゃんと医者にかかって解決法も聞いて、あなたはそれ以上何を私に求めているのかしら?」
「紫は境界を操る妖怪だって聞いた。ご主人の異変はまさに、理性と本能の境界に関するものなんだ。だから、紫の能力で境界を弄って、ご主人を元に戻すことが出来ないかと思って……」
「まあ、そういうことでしょうね。悪いけれど、それは絶対に無理。断言できるわ」
 あまりにきっぱりと切り捨てられ、落胆するよりも先に、驚きを禁じえなかった。
「ど、どうして? なんでそう言い切れるんだ?」
「理性と本能の境界を弄るだなんて簡単に言うけれど、それは危険すぎること。ただでさえ二つが混じりあって境界のぼやけた存在なのに、私がそこに線引きをしようなんて、おこがましいにもほどがあるわ。そうすることによるリスクを考えれば、大きすぎる責任の前に、私も裸足で逃げ出したくなるってことよ」
 残念だと思う気持ちは拭い切れなかったが、紫の言葉に抗って執着する意味はないと思った。そもそも、永遠亭での診断結果によれば、環境を変えて、自然治癒に任せれば良いということである。あまりにも頼りない方法だったため、もう少し当てになるやり方を期待して紫を訪ねたが、紫が駄目だというのなら仕方がない。ぼんやりとしながらも、ここにはもう用事が無いと判断し、礼を言って腰を上げかけたところを、紫が制した。
「ちょっと待ちなさい。私はきちんと"初めに"と言ったわよね。それとも、断ることが前提の頼みを目の前で言わせるためだけに、私があなたを呼んだとでも思ってる?」
「いや、言われてみればそれもそうだが……。一体どういうことだ?」
「私もね。一度同じ問題に直面して、解決したことがあるから。そうよね、藍?」
 突然話を振られた藍は、顔を上げ目を丸くしていた。驚きを隠せない声色で言う。
「確かに私も幼少の頃、本能を制御しきれず飲み込まれることが、大概の場合あなた自身の油揚げを用いた悪戯によって、あったように思います。しかし、今回の場合はそれとはまた違うのではないでしょうか? 姿まで獣と化し、何日も元に戻らなかったようなことは断じて、」
「あら、藍ったら、忘れちゃったの? なら思い出させてあげるわ。ほら、あの時はイヌワシで、トイレを経由して、後ろから……」
 みなまで言うことは適わなかった。目にも止まらぬ速度で飛び出した藍が、いつの間にか紫の口を塞ぎ、それ以上語らせまいとしていた。忘れていた全てを思い出したらしい藍の顔は、何故か真っ赤に染まっていた。
「もう結構です! 十分、私は思い出しましたから。それ以上言わなくて結構です」
「あなたが十分でもナズには十分じゃないわよ。ね、私の話の続き、聞きたいわよね?」
「ああ、是非、聞かせてくれ。それがご主人のためになるような気がする」
「しかし、紫様、あの話は……!」
「藍」
 紫に強くいさめられると、藍はそれ以上逆らう気をなくした様子で、元の居場所にしぶしぶ収まった。
 改めて正面を向いてみると、紫が妙に楽しそうな表情をしているのが気にかかる。ナズーリン自身も、藍の反応を見ていて、紫の話に対する興味は膨れ上がったというのが本音だった。そんなナズーリンの気持ちを知ってか知らずか、紫は嬉しそうに話し出した。
「あれは確か、私が藍と出会って間もない頃だったかしら……


 あの頃の藍といえば、まだ幼い妖獣で、背丈も今よりずっと小さくて、本当に可愛かったのよ。そして、さっき藍自身が言ったように、油揚げが何よりも大好きだった。悪戯だなんて表現されたけど、そんな甘いものじゃないわ。誰だってね、油揚げを目の前でチラつかせただけで飛び掛ってくる小さな動物を前にしたら、何というか、庇護欲? 人間にも妖怪にも宿っているそんな本能をくすぐられて、からかってみたくもなるわよ。藍、そんな目をしないの。
 まあそんな感じで、当時の藍は、自分の中の本能を抑える術を知らなかった。逆に、今ではすっかりその方法を身につけちゃって、可愛げの欠片も残ってないのが難点なのよね~。ええ、そうよ。妖獣は自分の意思で、本能を押さえつけることが出来る。極めれば、どんな状況に置かれたとしても、本能に自分を支配されることはなくなるわ。方法、そうね……。それじゃあ、この件が解決したら、時々でいいからこっちにいらっしゃいな。うちの藍で良ければ、稽古をつけさせるから。そして私はあなた達の、本能に支配された可愛い姿を拝……いえ、なんでもないわ。藍、そんな目をしないの。
 話を戻すわね。そうやって時々本能に飲み込まれる藍だったけれど、実生活において、藍の本能がくすぐられるような体験は稀だったし、我を失ったときでもすぐにいつもの自分に戻れるし、そのまま放っておいても大丈夫かと思っていたの。でも、その油断がいけなかったのかしら。ある時厄介な事件が起きたわ。
 その日、私と藍は、結界管理の仕事を終えて、家に帰る途中に立ち寄った森を散歩していた。元が狐だからか妙にはしゃいでいた藍は、森に入るなりどこかに走って行ってしまったけれど、特に心配もしていなかった。まだ幼かったとはいえ、私が特訓を積んだことで強くなった当時の藍なら、例え妖怪に遭遇しても落ち着いて対処できると信じていたから。時期は今と同じく晩冬の頃で、所々雪が溶け残っていたのを覚えているわ。
 森の奥から鋭い鳴き声が聞こえてきたのは確か、雪の上に見つけた猪の足跡を追っている時だったかしら。同時に、嫌な予感がしたの。誰か泣き声すら聞こえた気がした。急いで鳴き声のした方へ向かった私が目にしたのは、餌を奪い合う二匹の鷲と、その間で今にも引き裂かれそうになっている一匹の狐。思わずハッとしたけれど、流石にそんなことはなかった。藍は、鷲と私の間に腰を抜かして座り込んでいたわ。
 ホッとするのも束の間、今度は藍の様子がおかしいことに気が付いたの。ぶるぶると、後ろから見てもわかるくらい身を震わせている様子が、単に恐怖のためと考えるには酷すぎるように感じた。その内に餌の取り合いの決着がつき、負けたほうの鷲が藍に鋭い視線を向けたけれど、藍は無防備な体勢のままで動かない。疑惑は確信に変わって、ひとまず鷲を追い払った私は、藍の元に駆け寄ったわ。でも、時既に遅し、藍は一匹の狐と化して、丸まったまま震えていた。私はどうして良いかわからずに、ひとまず藍を抱いて、急いで家に帰ったものよ。


「お茶のおかわりをお持ちしました」
 いつの間にか退出していた藍が、音もなく戻ってきてお茶を注ぐ。流石は訓練された式と感心するのも束の間、
「ナズ、いい加減話を聞くのも疲れただろう。どうだ、続きは明日ということで……」
「藍」
 再び主に一喝された九尾の狐は、すごすごと自分の座布団に腰をおろした。


 それからしばらくの間は、文献に藍の症状を見つけ出すので忙しかったわ。とてつもない労力を注いだ上で、私が見出した情報はたった二つ、症状の具体的な説明と、"自然治癒"というあまりに頼りない四文字だけ。ええ、あなたも気付いているでしょうね。あの時の私は、今のあなたと、まさに同じ状態だった。放っておけば治ると言われたって、気が気でない自分の感情はどうしようもないものだから。
 そこで、ここからがあなたに最も伝えたかったことなのだけど、その前に一つ、覚えておいて。私が当時頼った医学書や、あなたが頼った永遠亭における『医学』というのは、とても素晴らしいものだわ。でもね、『医学』は決して完全無欠ではあり得ない。万病の薬となるように思える『医学』でさえ、患者の側にいる『家族』の直感や感覚には適わないこともある。得てして病気の治療とはそういうものなのよ。
 私がそんなことに気付くきっかけとなったのは、さっきも言ったとおり、藍のトイレの問題だったわ。どの程度まで理性が削がれていたのかは知らないけれど、ともかくあの時の藍は、そこら中に粗相をするもので、そういった点で言えば、良く躾けられた犬以下だったのかも知れないわね。藍、睨まないの。
 そこで、私は考えた。あまり畳を汚されても困るから、藍に厠の場所を教えて躾けてあげようと思ったの。最初こそ場所を覚えなかったり、目を離した隙に落っこちたりして大変だったけれど、慣れるに従って行儀良く振舞えるようになっていった。藍が狐に変わってしまってから、優に一週間は過ぎていたと思うわ。その間人型を取り戻す兆しも見せなくて、さっきも言った通り不安だった私には、それでもこの一件で、少しの希望が見えた。
 それからは色々と試したわ。後ろ足だけで歩く練習をさせてみたり、箸を持たせてみたり、言葉を話させてみたり……。厠と同じように"人間らしい"行為をさせてみれば、藍もきっと"人間らしさ"を取り戻すに違いないと思ってね。その勘は見事に的中して、藍がもとの姿に戻るまで、それから二日とかからなかった。それまでの一週間がなんだったのかわからなくなるくらい、あっけない終わり方だったわ。
 さて、これが覚えている限りの私の経験で、私が出来る最高のアドバイス。少しはあなたの気分を楽にするのに役立てば良いのだけれど。一つ、今まで言ったことに付け加えるとすれば、あなたのご主人と接する際、あなたがいつも通りの姿勢を崩してはならないということ。あなたの抱く負の感情は、虎になった彼女の不安との相乗効果で、間違いなく事態を悪化させる。いいこと、重く受け止めすぎないのが成功の鍵よ。


 八雲邸の門をくぐりつつ、ナズーリンは先ほどの紫の言葉を思い返していた。役立てば良い、などと紫は自信なさ気だったが、実際のところ役に立つどころの騒ぎではなかった。経験者として的を射た紫の言葉は、"きっと"だとか"その内に"といった言葉に潜んだ不安の種を、逐一つぶしてくれた。重く受け止めすぎるな、という忠告がナズーリンの気持ちを軽くした。
 成果はそれだけではない。落ち着き払った態度が板についた藍の、珍しく取り乱す姿が見られた。思い返してみて、ナズーリンは口の端に笑みが浮かぶのを抑え切れなかった。
「そうそう、一つ言い忘れていたわ。動物の姿をしている間は、こちらが何を言っても聞き分けなく暴れることもあると思うの。相手が小狐だった私の場合でも、そんな時には手がつけられなくなった。ましてやあなたの相手は虎、力で押さえつけようとしてもまず無理でしょうね」
 藍が一番恥ずかしそうな顔をしていたのは、自身の未熟さの件でもトイレの件でもなく、紫がこう言った時だった。紫も紫で一番嬉しそうな表情をしていた。自然、ナズーリンの興味もそそられる。
「そんな時に、とっておきの方法があるわ。藍の場合はそれで必ず落ち着いたし、それどころか人型に戻った今でも……。あら、これはいらない情報だったかしら? ともかく、私が編み出したとっておきの秘訣っていうのは、」
 その時、電話の呼び出し音が鳴ってナズーリンは現実に引き戻された。慣れない操作にもたつきつつも、数コールの内に電話に出る。
「あー、こちらナズーリン。そちらは命蓮寺か? どうぞ」
「え? え? えーと、はい、こちら命蓮寺より一輪……じゃなくて! 大変なことになったのよ!」
 落ち着きを欠いた一輪の声がナズーリンの焦燥感を煽るが、努めて冷静に尋ねた。
「どうした? 一体何があったのか、初めから教えてくれ。……どうぞ?」
「さっきここを訪ねて来た人里の守護者が教えてくれたんだけど、星が虎の姿のまま人里に現れたんですって!」
「えっ……?」
 思わず絶句する。人里の方に視線を向けてみるも、途中の森に阻まれて何も見えなかった。
「昨日の新聞記事を読んで警戒を強めていたおかげで、住民に負傷者はいなかったようだけど、人里と森の境界にある防護柵が壊されたらしいわ。それだけ星が暴れまわったってことよ」
「そんな、ご主人は無事なのか?」
「ええ、ひとまずは森の方へ引き返していったんですって。でもね、よく聞いてナズ。人里の守護者は、私達が四日もの間虎の存在を隠していたことに、ひどく怒っていて、こう伝えてきた。もしも虎が再び人里に現れるようなことがあれば……」

――人里を守るために、発砲も辞さない覚悟である。
 今度こそ意識が遠のきそうになった。立ちくらみのようによろめいた体を無理やり元に戻し、開いた左手で頬をぺちぺちと叩いて気合を入れ直す。自分がしっかりしなくては、と念仏のように唱え続けた。
「ナズ、大丈夫?」
「ああ、なんでもない。教えてくれてありがとう、助かったよ。私はとりあえず……人里に行って、ご主人に危害を加えることだけは控えて貰えないか交渉してみる」
「ええ、それがいいと思うわ。こっちからも、姐さんが守護者と一緒に人里へ向かったから、向こうで落ち合えると思う。……ナズ、約束してくれる?」
「なにをだい?」
「絶対に、星を無傷のまま、連れ戻してくること。私だって寺から応援してるんだからね」
「ああ、わかってるさ。任せておいてくれ」
 電話の切れる無機質な音が、ナズーリンの弱気な心を吹き飛ばした。電話をバスケットの中にしまいなおしたナズーリンは、人里へと急ぐべく、地面を力強く蹴って飛び立った。

 人里の様子は様変わりしていた。もっとも、最初に感じた変化は虎の被害のせいではなく、恐らくは人里の守護者の能力によるものだった。その土地が有していた人里という歴史が消滅した、とでも言えるかもしれない。ナズーリンの頭に人里の記憶が残っていなければ、立ち並んだ住居をみつけることもできなかったであろう。
 慣れるに従って眼下に見えてきた人里は、竜巻が直撃したかのような惨状だった。破れた防護柵の木片がそこら中に散らばり、地面を覆いつくしている。人的被害が無かったということで、虎は里の浅いところで引き返したのだろうが、森との境界付近に立つ建物のいくつかは被害を受けた様子でたたずんでいた。柵がなくなった辺りに、数人の男達が猟銃を持って集まり、作戦会議よろしく話し合っている。まだ遠すぎて話の内容までは聞き取れないが、いざ虎が現れたときの対処法を考えているのは明らかだった。
 ナズーリンは地面に降り立ち、徒歩で先を急いだ。人里に入るときに、あまり目立って銃を向けられることは避けたかった。心の中では、どういう風に話を切り出すべきか、あらゆる場合をシミュレートするのに余念がなかった。なまじ人里側の気持ちもわかるために、どう対処すべきかが見え辛かった。
 虎の存在が隠されていたことに対する怒り。人里にとって、野放しの虎などは一大事となりかねない火種であるから、当然の感情だろう。そして、野放しの状態が四日も続いてしまった責任は、主に自分自身にあるように、ナズーリンは感じていた。自分が初めからきっぱりと心を決め、命蓮寺の皆に頼って主人を探していれば、どっちつかずの宙ぶらりんな状態があれほど長く続くはずはなかったと、真偽のほどはともかく、そう考えていた。
 しかしそうは言っても、今は迷っている場合ではない。取り返しのつかないことにならない内に、話をつけておかなければ。そう思いつつ、防護柵があった場所から人里に侵入し、そのままの勢いで男達の前に躍り出る。
「君達。その猟銃は、虎を撃つための物か?」
「ん、ああ、そうだが……。誰だい、君は」
 中でもリーダーらしい男に話しかけながら、周囲に視線を巡らしてみるが、聖らしき姿は見当たらない。恐らくまだ到着していないのだろう、と判断した。
「私は、山の上の……」
「思い出したぞ! こいつ、例の命蓮寺の鼠妖怪じゃねえか!」
 自己紹介を遮るように、後ろにいた若い男が声を張り上げた。瞬時にして男達の視線に敵意が加わる。張り詰めた空気の中で、リーダー格の男が静かに口を開いた。
「今あいつが言ったことは本当かな?」
「ああ、それは間違いない、だけど、」
「では、色々言いたいこともあるだろうが、ひとまずこちらの質問に答えてもらう」
 ナズーリンの言葉を遮ったリーダーは、先ほど声を荒げた男が何か言おうとするのを制しつつ、続けた。
「聞きたいのは、君達が虎の逃亡を隠していたのは何故か、そして、生じた損害に対してどう償ってくれるのか、だ」
 責められることを予想はしていたが、いざ、男達にぎらぎらと睨みつけられてみて、ナズーリンの足はすくんでいた。下手なことを言って心証を悪くしてしまうと、交渉に応じてくれなくなる可能性もある。厄介なことになりそうだと思い、大きく息を吸い込んでから口を開いた。
「確かに、結果的に事実を隠すことになってしまったが、それは必死に虎を探していたからであって、決して悪気は」
「お前さんに悪気があったかどうかなんてこの際関係ねえし、弁明に興味もねえ。事実としていくつかの建造物が破壊された、その落とし前をどうつけてくれるんだ、って聞いてんだよ」
「ああ、それはもちろんすまないと思っている。だが、私一人で償えるようなことでもなくて、」
「ふざけんな! そっちの都合は聞いてねえよ。謝罪ですむような問題でもねえし、何が何でも今ここで償ってもらわねえと……」
 埒が明かなかった。リーダーの男と話したいのに、若い男が途中で遮ってしまう。初めての目撃情報が、最悪の形ではあるが、寄せられた所だ。こんな所で足止めを食っている場合ではないというのに。焦るナズーリンが、声高に反論しようとした時だった。
 肩に誰かの手が乗せられる。重さと温かさを感じ、驚いて振り向いてみると、ナズーリンより少しだけ背の高い聖の姿があった。急いでやってきたらしく息を切らしてはいたが、見上げた顔の表情は毅然としていて、頼りがいを感じさせた。ナズーリンを一歩下がらせた聖は、自分が代わりに前へ進み出る。
「私が説明しましょう。ああ失礼、自己紹介が先ですね。命蓮寺で僧侶をやっております、聖白蓮と申します。まず、前者の理由についてですが、これは、私の認識の甘さが原因でした。うちの星が虎になってしまったといっても、すぐにみつけて元に戻すことが出来、人様に迷惑をかけることは無かろうと思っていたのです。そのため、無用な騒ぎを起こさぬよう、みつかるまでの間は事実を隠しておこうと……。自身の軽薄な判断、重ね重ねお詫び申し上げます」
 そう言って深々と頭を下げる聖に、男達はざわめき立った。声の大きな若い男でさえ、聖の礼儀正しい様子に返す言葉を見失った様子だった。だが、ナズーリンの心中も穏やかではない。聖が全ての責任を一人で背負って立とうとしているのは明らかだった。それでも、後ろに立つナズーリンだけに見えるよう作られた聖のウインクが、反駁する気持ちを全て奪っていった。
「聖殿、顔を上げてくれ。あなたの謝罪の意は十分わかった。だが、こちらも実際に家屋などの損害を受けていて、人里の総意として、それだけで済ますことは出来ないのだ」
「ええ、承知しております。損害はこの辺り一帯の家屋と、壊された柵ですかね。それらは、私の魔法で修理させてもらおうと思います」
「そうか。それが出来るのなら、助かるよ」
「そして、その上で、一つ頼みがあるのです。あなた達が迎撃の用意をしている虎、あれは私達の家族です。だから……」
 こちらが本題である。ナズーリンは固唾を飲んでやり取りを見守っていた。そこへまたしても、気を取り直した若い男が口を割り込ませてくる。
「だから、発砲は控えてくれ、と? 冗談じゃない。さっきは物の被害だけで済んだから魔法なんかで修理がきくが、今度どうなるという保障はねえんだぞ。俺達はお前らの家族より先に、人里の心配をしなきゃなんねえんだ」
「それも心得ております。ですから、これから虎が捕獲されるまでの間、人里は私が魔法で守ろうと思います。決して被害の出ないよう尽力しますので」
「けっ、そんな言葉なんて信用なるもんかよ。例え人里の守護に尽力して貰ったところで、"万が一"が起こって守りが破れるようじゃあ困るんだ。そういう意味じゃ、俺達自身の腕っぷしを信じたほうがよっぽど気が楽だ」
 そうやすやすとはいかないか、とナズーリンは唇を噛む。男の話を前で聞いていたリーダーが、あくまでも静かな様子で言った。
「と、いうことですが。慧音先生はどう思われますかね」
 同時に、ナズーリンもその視線の先に気が付いた。考えてみれば当たり前のことである。聖は人里の守護者と共に命蓮寺を出たと、一輪に教わったのだから、人里にも共にやってくるのだろう。人里の守護者、こと上白沢慧音は、ナズーリンの斜め後ろに立って、厳しい目つきをしていた。ふと振り向いた聖が、彼女と視線を合わせる。無言の間に二人の頭をどんな思考が流れたのか、それはわからない。しかし、真摯な瞳に込められた聖の決意の程は、確かに伝わったようだった。
「わかった。その言葉、信じてみようと思う」
「しかし、慧音先生!」
「もちろん、私が彼女の後ろに立って、人里に危害が加わることは絶対に無いようにするから安心してくれ」
 ほっと、それぞれの意味でため息をつく男達とナズーリン。しかし、気迫のこもった口調で吐き捨てられた続く言葉が、そんな安堵の空気を吹き飛ばした。
「ただし、だ。聖白蓮、貴様の守りが破られて私が動く羽目になった場合、全てが終わった後で、私は貴様に容赦しないから覚悟しておけ!」
 その時の慧音の表情は、まさに鬼。今回の件に対して恐らく一番冷静で、一番怒りを秘めた彼女の心境を見せ付けられたように、ナズーリンは震え上がる。聖一人が、毅然とした態度を崩さなかった。「はい」とだけ答え、突然ふっと表情を緩めると、ナズーリンに話しかけた。
「さて、交渉成立です。私はこれから約束通り、修復と守護の仕事につくので、星を探すのはナズーリンに任せました」
「ああ、聖……ありがとう。私じゃ、上手く話をまとめることは出来なかった」
「お安い御用です。それとナズ、くれぐれも、気をつけてくださいね」
「ん? あ、ああ。聖も気をつけて」
 ナズーリンは再び地面を蹴り、一刻も早く主人を救うべく飛び立った。この時はまだ、聖の言葉の真意に気が付かなかった。

 ナズーリンの危惧とは裏腹に、雪はまだ薄ら残っていた。そこら中に兎の足跡が残る中、際立って大きな足跡が残っていないかと視線を巡らせた。先ほど人里に現れたのだから、まだ近くに潜んでいるはずだ。そう思い、必死になって探したが、大きな刻印はイノシシのものばかりだった。ロッドの反応も相変わらずない。妖怪と動物の間をさまよう星の、存在の不確定さがロッドの目を欺いているに違いなかった。
 成果が出ずに時間が経つにつれ、焦りがうまれてくる。せっかく初めての目撃情報が入ったというのに、再び逃げられてしまうかもしれない。それだけでなく、何があっても星を人里のほうに逃がすわけにはいかないのだ。聖の説得によって猟銃は取り下げられたが、だからと言って絶対安全とも言い切れない。そう考えて、何かに急かされるように歩き回っていた時だった。
 バスケットの中で、再び電話が鳴る。今度は、もたつくこともなく返答した。
「はい、こちらナズーリン」
「やっほー、ぬえだよ。ナズ、元気?」
「バカなこと言ってないで、電話こっちに貸しなさい!」
 なにやら姦しかった。少し緊張がほぐれて、笑いながら「元気だ」と伝えると、満足したのか電話を手渡す気配がした。
「えーっと、ムラサよ。ぬえから替わったわ。ナズ、聞こえてる?」
「ああ、大丈夫だ。どうした?」
「私達、ついさっき星を見かけたのよ。でも、逃げられちゃって……」
「本当か? 今どこにいる?」
「ええと、森の中は森の中なんだけど……。え、なに、丘? 本当だ。小さな丘のある開けた場所の近くよ」
「そうか、わかった」
 昨晩ナズーリンが星を見かけた場所だった。どうやら星は、あの辺りを根拠地として活動しているらしい。そしてまた、その場所は人里からも近く、当然ナズーリンの今の居場所からも目と鼻の先であった。
「私も今その近くにいるから、頑張って探してみるよ。ご主人がどっちに行ったかはわかる?」
「人里の方から現れて、引き返して人里のほうに去って行ったわ。ナズ、聞いてると思うけど気をつけてね。星が人里に下りることだけは絶対……」
「ああ、わかってる。ムラサ、ぬえもありがとう」
 電話を切って、ナズーリンは考える。ここ数日で詳しくなった森の地図を頭に思い浮かべ、自分が足跡を探した道程を潰していく。今まで足跡の一つたりとも見つからなかったのだから、丘での目撃情報を合わせ、星の移動経路は大体想像がついた。人里から丘まで、木が密集している場所を迂回した上での最短ルート。その推理に希望をかけ、ナズーリンは歩を進めた。
 果たして、思い浮かべたルートと交わるところに、虎の足跡が残っていた。ところが、往路と復路、二種類が雪に刻まれている。これがナズーリンを焦らせる。なんとか、主人が森から抜け出る前に捕まえて、被害を最小限に留めたい。そんな考えにとらわれ、無心に先を急いだ。
 それだけに、唐突に木々が開け、目の前に虎の姿が現れたとき、ナズーリンには星と対面する心構えがまだ出来ていなかった。昨晩は暗い中で、しかも全身を見たのは遠目に一度きりであり、それほどの迫力も感じなかった。だが、今は昼日中。日の光が目の前の虎を照らし、そよとも動かない周囲の木々が、唯一動きのある虎を際立たせていた。前足の下には、一羽の兎がいた。鮮烈な毛皮の紅さが印象的だった。
 ナズーリンは腰を抜かして尻餅をつく。体がどうしようもなく震えていた。幼き日の藍の気持ちがようやくわかったように感じていた。このままだと藍の二の舞だ、と自分を叱咤してみても、聖に言われた"気をつけろ"の言葉をぐるぐると頭に巡らせてみても、金縛りにあったように動けなかった。事実、本能が身体を縛り付けているかのようだった。
 ネコ科の動物は鼠の天敵なのだ。今さらそう気付いても、もう遅い。為す術もなく動向を見守っている間に、虎は兎を食べ終え、ナズーリンの方に鋭い視線を向けてきた。途端、恐怖が彼女を襲う。いつもの自分を失うとて、脱兎のごとく逃げ出すことが出来ればまだ良かったものを、現実は蛇に睨まれた蛙だった。
 ふと脇を見ると、原型を留めないほどボロボロになった、薄鼠色のハンカチが落ちていた。兎を捕らえようと暴れた際に前脚から取れたものらしい。それをみつけて、ナズーリンは少し我を取り戻した。
「……ご主人!」
 固まった唇を何とか動かして呼びかける。しかし、結果として掠れた声しか出せず、虎の反応もなかった。その間にも虎は一歩一歩踏みしめて近づいてくる。時折枯れ木を踏むパキリという音が耳の奥に残り、視界に映る虎の顔が刻々と拡大されてゆく。荒い息遣いが感じられるようになる。やがて、虎の前足がナズーリンの足に乗せられた。そのまま膝、太もも、腹と踏みつけにしつつ、お構いなしに進んでくる。虎に押し倒されながら、温もりを足の裏から感じたが、昨晩のような"温かさ"は決してそこに存在しなかった。
「ご主人、正気を取り戻してくれよ!」
 だが、虎の動きは止まらない。顔に鼻息を感じるに及んで、ナズーリンは全てを諦めた。ゆっくりと目を閉じる。まさに喉笛に噛みつかれそうな今、心に浮かぶのは、力を貸してくれた皆の顔と、いつも共に過ごしていた主人の顔だった。
――一度は諦めそうになって、怒られて、助けてもらってまたやる気が出たのに、ご主人、結局救うことが出来なかった。皆に、ごめんなさい、と言いたかったな。

「…………?」
 だが、何かがおかしかった。いつまで経ってもとどめの一撃がやってこない。おまけに顔の上に冷たい雫が降ってくる。雨だろうか? 我慢の限界に達し、ナズーリンは恐々と薄目を開けた。
「ご主人!」
 そして、思わず、叫ぶ。獰猛な虎。そう思っていたはずの動物の目から、透明な涙が零れ落ちていた。ナズーリンに襲い掛かろうという殺気は既に感じられなかった。星が理性を取り戻したのとも、また違う。ナズーリンに乗りかかりながら、星は葛藤し、戸惑っているように見えた。
 再びナズーリンの鼻に、雫が落ちる。冷たいはずのその一滴が、確かな"温かさ"でもって、凍てついた心を溶かした。恐れ、震えていた身体が、心が静まっていき、迷いが消え去る。全身に力が戻ったように感じた。
 鼠である以前に妖怪であり、毘沙門天代理の手下であるという矜持を胸に、ナズーリンは虎を押しのけて立ち上がった。先ほどまで身がすくんでいたのが嘘のように、体は軽かった。この段になって、虎のほうも我に返ったかのように鋭い視線を向け直してきたが、欠片の恐怖も感じないままに対峙する。目の前の虎を、絶対に元の姿に戻してやる、という強い決意が、ナズーリンの瞳に込められていた。



     †     



「ああ、いいお湯だ……」
 待ちに待った、熱々のお風呂。ナズーリン自身は、昨晩も何日かぶりでそれを味わったのだが、昨日と今日とはやはり勝手が違う。なにしろ、今日は隣に星がいるのだ。嬉しくないわけがなかった。
「ご主人と一緒にお風呂に入るのも、結構久しぶりだね」
「ガウ?」
 ナズーリンの方は、時折思い出したように星をお風呂に誘うのだが、星はその度に恥ずかしがって断っていた。同姓なのだからそんな必要はないと言っても、聞き入れる様子もない。自分よりもアピールに富んだ体を持つ主人のことだから、恥じるのもしょうがないか。そう考えるにつけ、ナズーリンは自分の体の貧弱さが恨めしく思われるものであった。
 だが、今はグラマラスな星の体も見ることが出来ない。未だに虎の姿から戻っていないのである。せめて言葉だけでも取り戻してくれれば、今以上に楽しかったものを、と残念に思っていた。実際、今日の午後だけではあるが、星に"人間らしい"振る舞いをさせようと、ナズーリンは尽力したのだ。もう少し効果が現れていたとしてもおかしくはないはずだった。
「おかえり、ナズ! 星、は、無事……」
 命蓮寺に帰り着くなり、出迎えに来てくれた一輪は固まってしまった。ナズーリンだって無理がないとは思う。虎が二足歩行で帰ってきたのだから。だが、星は言われるまでも無くすっくと立ったので、そのことに関しては深く言及しないと、ナズーリンは心に決めていた。一輪にも紫の言葉を伝えると、半分は納得したようだった。もう半分は見ざる言わざる聞かざるを決め込んでいた。
 それから夕食の時間まで、色々と試した。トイレの場所を教えてみたり、宝塔やスペルカードを持たせて弾幕勝負をふっかけてみたり。ややあって帰ってきたムラサとぬえも応援してくれたが、結局虎は虎のままで、目に見える変化は現れなかった。
 傑作だったのは夕食の時間か。ひとまず人間らしくということで、星は椅子に座らされた。足が地面に付かない代わりに、座高が妙に高かった。ふらふらとしていたが、まあ何とかなるだろうとそのまま食べ始める。奇妙なもので、虎と人間の中間のような生き物の扱いにも、命蓮寺の全員がすぐに慣れてしまったようだった。事実、危なっかしくこそあれ、星はあらゆることをこなした。箸使いの上手さといえば、手があらゆる物を吸引する青狸並みだったし、味噌汁も飲んだ。何か言いたいことがある時は、
「ガウ」
「ん? ああ、醤油ね」
 ナズーリンが同時通訳を買って出た。もはや以心伝心を疑うべくもあらず、といった様子である。誰か代わりに突っ込んでくれよ、と余裕をなくした一輪の表情が面白かった。ムラサとぬえはそれも含めて状況を楽しんでいる様子で、聖が全てを受け入れるように微笑んでいるのも印象的だった。ともあれ、ここ数日で一番楽しい食卓だったのは間違いがない。
 回想に耽っているうちに、いつの間にか長い時間が経ってのぼせてくる。まだ体を洗っていないことに気付いて、隣の星に声をかけた。
「ご主人。また私が洗ってあげるよ。おいで」
 だが、星はピクリとも動かない。のぼせたのかとも思うが、どこか違う。この上なくくつろいでいる様子の星。野生の動物が絶対に見せない腹を露にし、四肢を伸ばしきって浴槽に収まっている。浴槽が人間用なのが問題だった。虎の大きな体躯にそれは小さすぎて、星は浴槽に"収まり過ぎ"て、
「だ、誰か、助けてくれ! ご主人が浴槽にはまって出られなくなった!」

 ごしごしと、虎の体を擦る。本日二度目の作業。命蓮寺に帰ってきてすぐにシャワーを浴びたときには、星の体はドロドロに汚れていた――地面を転がりでもしないと汚れないはずの背中まで、いっそ感動するほど砂だらけなのを、ナズーリンは不思議に思った――が、流石に二度目となると見た目は綺麗である。それでも、毛の一本一本まで綺麗にしつくしてやるつもりで、ナズーリンは手を動かした。
 思い返してみれば、星には散々振り回されたものである。良いものから悪いものまで、この五日間で様々な気分を味わったし、ちょっとした奇跡と紫に教わった『秘訣』がなければ、森での窮地を乗り切ることも出来なかったかもしれない。だが、全てが終わった今、ナズーリンの心は幸福感で満たされていた。
「ガルルルル……」
 その点では星も同じのようで、ナズーリンの手の下で、とろんとした目をしながら、気持ちよさそうな声を上げた。それを聞いてより一層力を込めながら、ナズーリンはつぶやいた。
「ご主人。私、藍に聞いたんだ。自分の本能を押さえ込むことって、訓練次第で出来るようになるみたいだよ」
 爪の間から尻尾の先まで、入念に撫で擦りながら続ける。星は、不思議そうな顔をして聞いていた。
「だからさ、ご主人の体が戻ったら。一緒に習いに行こうよ。私だって毘沙門天様の下にある者なんだ。ご主人と同じ義務を背負っている、って……」
 涙腺まで安心し切ってしまったのか、突然涙が出そうになった。慌ててぐしぐしと目を拭う。自分が曖昧な気持ちでいては、ご主人も安心できないのだ、自分が嬉しい顔をしていれば、ご主人も嬉しいのだ。そう言い聞かせて、自分の中の良くわからない感情を押さえつけた。
「ごめん、なんでもない……ってうわ! ご主人、くすぐったい!」
 だが、全てお見通しだと言わんばかりに、星はナズーリンの体を舐めた。虎というよりは、猫が飼い主に甘えるような舐め方だった。ナズーリンも急いで湯を汲み応戦する。ネコ科の動物に舐められているにも関わらず、不思議と恐怖は浮かんで来ないのであった。星の体についた泡を激しく流してやりながら、ナズーリンは真実心から楽しんでいた。
 長い虎の毛が排水溝に詰まって、一輪にこっぴどく叱られることとなるのは、もう少し後の話。



     †     



 ガリガリと、奇妙な音がして目が覚めた。窓の外は真っ暗で、寝入ってそれほど経っていないはずなのに、昼過ぎまで寝ていたかのように頭が重い。ぼーっとしながらも、異音の発生源が自分の爪であることに気づくまで、さほど長くはかからなかった。
 人に飼われている猫が良くやるように、柱で爪を研いでいた。猫の何倍もある巨体でそんなことをしたものだから、柱は既にボロボロで、屋根が落ちてこないかと本気で心配するほどだ。どうしてこう酷いことをしてしまうのか、自分で自分がわからないままに、惰性でガリガリし続けていた。
 背中が妙に温かい。最初こそ布団がかかっているのだろうと思ったが、どうも柔らかさの質が違う。それに、仮に布団だったとしても、私はナズと一緒に寝ていたはずだから、ナズの布団を奪ってしまったことになる。とりあえず一旦状況を確認して、
「…………!」
 振り返った途端に驚愕した。背中に覆いかぶさっていたのはナズだったのだ。判別しがたいが、もしかすると眠ったままなのかもしれない。それでも、離すまいとして必死にしがみついていた。その姿を見て、頭が急速に醒めていった。何かに憑かれたように動かしていた前足を、静かに地に降ろす。良く見ると、綺麗に洗濯された例のハンカチが巻かれていた。結び目がゆるくなっていたハンカチを口で締めなおす頃には、爪研ぎなど何が楽しかったのか、本当にわからなくなっていた。
 思えば、昼に森で起きたことも、これと同じことだった。あの時、自分の中の自分が暴れていた。私はナズを襲いたくないと思うのに、もう一人の方が抵抗して主導権を奪われそうだった。そこへ、ナズが助け舟を出してくれた。前から向かうのが危険すぎたためだろうが、私の後ろを取って、背中の方から抱きついてくれた。その瞬間、もう一人の方が暴れるのをやめ、消えていったのだ。帰り道、ナズは説明してくれた。妖怪の賢者の所で、"本能"の方を落ち着かせる秘策を聞いてきたのだと。なるほどな、と私は思った。大好きな存在を近くに感じていながら、我を失ったままではいられまい。背中から温もりが伝わる感触は、癖になりそうなほど気持ち良かった。
 ため息一つ吐いて、布団へと戻る。今回の件で優しいナズにどれだけ辛い思いをさせたか、それを考えるだけで自己嫌悪の波が襲ってくる。ナズの瞳に光る涙だって何度目にしたことやら。それはきっと忘れてはいけないことなのだろう。でも、気にしてばかりでもいけない。一番良いのは……ネコ科の貧弱な眼のせいで、なにも見なかったというふりをすることだろうか?
 せっかくナズが明るく振舞い、共に頑張ろうと言ってくれたのだから、その言葉に従えばいい。今までぬかっていた分、これからの修行は大変になりそうだ。そんなことを考えつつ、背中から降ろしたナズに布団をかけてやった。自分は隣に丸くなる。なんとなく体に負担がかかっているような、妙な感じがした。当たり前だ。私は元々体が固いのだから。丸くなるのをやめて、真っ直ぐうつぶせになった状態で眠ることにした。明日になったら、私が大好きな、向日葵のように明るいナズの笑顔が見られそうだと予感しつつ。
 布団の中、帰ってきた自分の居場所は、ただただ温かかった。


 
二編に分けて投稿するのが初めてで、ちゃんと後編が完成するか不安もあったのですが、前編で受けた声援のおかげなのか、どうにかここまでこぎつけられたようで、なによりです。
星ちゃんのグラマラスボディのように、起伏に富んだ話にしようと努めました。
意図した通りの、面白い話になっていれば幸いです。

最後まで読んで下さった方々、本当にありがとうございました。


 追記
地震ヤバイっすね……。煽りを食って新幹線が大幅に遅れた影響で、気付けば丑三つ時です。
ともあれ普段通りコメ返しをしようかと思います。

>奇声を発する程度の能力様
あなたのコメントを受けて初めて冷静に考えてみましたが、確かにアレかもしれない!
いや間違いない、アレですわ。アレだアレw

さて、終わり方に関して、
>5様
この終わり方で納得して、頂けませんかね?
これ以上の続きを書いても、自分には蛇足となるようにしか思えないのです……。

しかし、
>11様
"オチの弱さ"は確かに、少し自覚があり、グサッとくるものがありました。
オチは読後感を左右する重要な要素だけに、ちょっとないがしろにしすぎたかなあと申し訳なく思っています。
ただ、『それだけ』と言って下さったので、あと30点を読者様からもぎ取るオチが書けるように、精進したいと思います。

最後。
>鈍狐様
人里の話、そういえば投げっぱなしでした。話の本筋を追うのに必死で忘れていたというのが本音。失礼しました。
楽しかったと言ってもらえて嬉しかったです。

こんなところでしょうか。感想や点数を下さった皆様に感謝です。
半妖
head_east@maia.eonet.ne.jp
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コメント



0.560簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
虎が二足歩行って冷静に考えると凄いアレだよねw
5.100名前が無い程度の能力削除
これで最後……だと? いやいや、せめて星が人型を取り戻すくらいまで!
エピローグプリーズ!
7.80鈍狐削除
少々人里の下りのアフターケアも欲しかったところです。結構激しい対応でしたから、引っ掛かって。
お話はまとまってて楽しかったです。最後にはっきりと戻ったと言わないのがニクいですね。
10.70名前が無い程度の能力削除
オチが弱いですね
それだけが残念