Coolier - 新生・東方創想話

『虎』丸星脱走事件(前編)

2011/03/01 21:19:44
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「ああ、ムラサいい所に! ご主人を捕まえてくれ!」
 そんな声が命蓮寺の廊下に響き渡ったのは、ムラサの腹も鳴り出す朝食前のことだった。折りしも洗濯物の使命を請け負っていたムラサの両手は、衣類の入ったカゴでふさがれていた。しかし、そうはいっても相手は所詮、また宝塔を失くしたか何かで逃げ惑う星である。このまま道をふさいでいれば諦めることだろう。そう思い、油断したのが最大の過ちだった。
「ガルルルル!」
「……は?」
 予想に反し、襖を突き破って飛び出してきたのは、普通の、一般的な意味で言われる、"虎"というものだった。避ける隙も与えぬままに突っ込んできた虎の一撃を受け、ムラサは吹き飛ぶ。大量のタオルとブラジャーとスカートが吹き飛ぶ中で、確かに走馬灯を見たように感じた。
 気が付けばムラサは洗濯物の山に囲まれ、聖の法衣に顔をうずめて突っ伏していた。猛獣の突進を受けた衝撃がまだ頭をゆさぶっており、視界は布地で完全に覆われている。どこか懐かしい聖の匂いに包まれ、ほろ酔い気分で再び意識を手放す、
「ムラサ、大丈夫?」
 そんなことは、優しくも厳しい命蓮寺の先輩、雲居一輪が許してくれなかった。寺での生活は忙しいのだ。こんな朝っぱらから廊下のまんなかで、聖成分を補給している場合ではないのである。
 仕方なしによいしょと立ち上がったムラサが顔を上げてみると、一輪は美味そうな匂いをさせる味噌汁を手に持ち、廊下をのぞき込んでいた。ただ、その視線だけは、謎の虎が走り去っていったほうに向けられていて。
「あれ、一体なんだったの?」
 心底不思議そうに聞いてくる。惜しむらくはムラサにも全く見当がつかないことか。肩をすくめて答えを示すと、納得いかないような表情をそのままに、一輪は居間へと去っていた。味噌汁の匂いも一緒に遠ざかった。
 さて、と切なさを演出しながら、ムラサは辺りを見回す。先ほどの事態がなんであれ、現状の面倒くささだけは折り紙つきである。今は朝食前。しかも、味噌汁の用意が既に済んでいるということは、あと少しで居間に集まるよう呼び声がかかるはずで、それまでに、辺りに散乱した洗濯物をカゴに入れなおし、外に運んでおかなければならない。
 そんなの朝飯前さ、と快諾できそうにない重労働の予感に、ムラサは深くため息をつくのであった。

 ムラサが洗濯物の処理を終えるのと、朝食の準備が完了するの、そしてナズーリンが急ぎ足で帰ってくるのが同時だった。ナズーリンは慌てたように何事か話そうとするものの、聖に制される。そのまま不条理なほどの説得力によって丸め込まれたナズーリンは、渋々といった表情で朝食の席についた。
「では。いただきます」
 命蓮寺における食事は三食全て、聖が音頭をとって始められる。人間の食事として犠牲になった生物の命や、それらを食卓に並べるための助けとなった全ての人々に感謝する言葉は、宗教の壁を超えて重要なこと。聖は常にそう説いていた。
 いつも通りの聖の号令を聞き終わると、全員が我先にと自分の料理に手をのばす。
「みんな、聞いてくれ」
 ところが、ナズーリン一人だけは料理に手をつけようともせず、代わりに口を開いた。ある者は茶碗を手に持ち、ある者は納豆をかき混ぜつつ。思い思いの体勢をとりながらも、ナズーリンに注目が集まる。特に、先の出来事について、なんらかの説明を期待するムラサと一輪の視線は熱かった。
「今日の朝起きてみたら、ご主人が虎になっていたんだ」
 それだけに、訳のわからない発言は甚大な威力を伴う。聖が不思議そうな表情を浮かべて茶碗を置く。一輪がムラサに視線を投げかけ、ムラサは再び肩をすくめる。一人、意に介さないぬえが味噌汁をすすり、その音が大きく響き渡った。
 全員の疑問を代弁するかのように、聖が問いかけた。
「どういうことです。星は、普段から寅だったのではないですか」
「そうじゃないんだ。いつものご主人は寅の妖怪だが、今日は完全に、理性を持たない虎になっていた。ほら、ムラサもさっき見ただろう?」
 急に話を振られたムラサは、むせそうになるのをなんとか堪える。全員の視線が、今度はそちらに集中した。どう答えてよいものか迷い、いっそ誤魔化してやろうかと思ったムラサだったが、必死そうなナズーリンの表情がそれを許さなかった。そのため、どうしても弁明めいた言い方になるのを感じつつも、先ほどの記憶を思い返して答える。
「いや、確かに"虎"は見たけどさ……。あれ、本当に星なの? 私にはただの虎にしか見えなかったけど」
「そうね。私も見て、ムラサと同じ感想を抱いたわ。あの虎が星だって、ナズはどうしてそう思うの?」
 一輪がムラサの言葉に被せて問いかける。その傍らで、我関せずとばかりに、ぬえは納豆ご飯をかきこんだ。しかし、ぬえ以外の者は会話の行方を見守っており、特に聖などは自分の食事すら忘れて聞き入っているようだった。再び皆の視線を浴びつつ、ナズーリンは答えた。
「私がご主人にプレゼントしたハンカチを、あの虎が右手に、いや右の前脚に巻いていたんだ。いつものご主人がしているように、だ」
「ん? なんで星はハンカチなんか手に巻いて寝てたのさ」
 ぬえの横槍。今の今まで食事に夢中になっていて、唐突に口を開いたと思えば会話を混ぜっ返す。呆れるムラサをよそ目に、当のぬえは興味津々といった表情でナズーリンをみつめていた。一方でナズーリンは、急に頬を染めて返答まで弱々しくなる。
「あぁ、それは、だな……。私の匂いがないと落ち着いて眠れない、なんてご主人が言い出すから……って、そうじゃない!」
 頭を振って気を取り直し、続けた。
「ともかく、ご主人が虎になって、外に逃げていってしまったから、急いで探さないと大変なんだ!」
 余計な茶々が入って一時失速したものの、こう言い切った時のナズーリンには再び焦燥感が見て取れた。
 いかなる緊急事態にも冷静に行動する彼女がここまで取り乱すのは、誰にとっても初めて見る姿であり、軽々しく口を開けない雰囲気になる。そんな中、聖が静かに口を開いた。
「ナズーリン。一度落ち着きなさい。そして、今朝から起きたことをもう一度詳しく話してください。あなたの今までの話では、正直に言って半信半疑がいい所ですよ」
「聖! ご主人のハンカチをつけて外に逃げていった虎がいて、その代わりにご主人が行方不明なんだ。これ以上の証拠なんか……」
「ですが、今日は毘沙門天様への定期報告の日のはずです。星がここにいないのはそれで説明がつきますし、そう考えると虎の件も、誰かの悪戯かなにかと考えるほうが自然ではないですか?」
 悪戯という単語に反応して、ムラサは思わずぬえの顔色をうかがった。食卓をはさんで一輪も同じことをしていた。それに気づいたぬえは、自分じゃないとばかりにぶんぶんと頭を振る。違うらしい。こんな場面で嘘をつくやつではない、という程度の信頼は得ていたようで、ぬえは疑惑の視線から解放された。
「しかし……。そうだ、昨日の焼肉パーティ。あの時ご主人に何か異変はなかったのか? ご主人は今朝、布団の中で虎になっていたんだ。だとしたら、昨日の夜にきっと何か!」
「どうでしょう。私は接客のほうで忙しかったので見ていませんが……。一輪はどうでしたか?」
「いえ、私も接客を兼ねて歓談をしていたので、あまり……。えーと、ぬえ、は何も見てないか……。ムラサは何か見た?」
「うーん、ちょっと待って……」
 ムラサは、一輪に話を振られる前から、昨晩のことを思い出そうと尽力していた。自分の中にあるパーティの記憶を探る……。

 僧の身でありながら、遠慮なく肉を食べる聖を珍しく思ったのだろうか。あるいは口実は何でも良かったのかもしれないが、昨日は命蓮寺にて、大勢の客を招いた焼肉パーティが開催されていた。パーティということは、酒が振舞われる。鬼が集まる。他人に飲ませたがる。そういうわけで、昨晩のムラサはかなり酔っ払っていた。舟幽霊でありながら情けないとも思うのだが、ムラサは滅法酒に弱い。楽しげなノリに任せて豪快に酒を浴びた挙句、パーティ後半の記憶がないという有様だった。星となにか言葉を交わしたような記憶もあるのだが、あまりにもはっきりとせず、役に立ちそうになかった。

「ごめん、正直あんまり覚えてない……」
「そうか……」
 ムラサの言葉がとどめとなって、ナズーリンは一気にしゅんとしてしまった。そんなナズーリンを気づかうように、聖が優しい声色で声をかける。
「星が虎になってしまったというのが本当か、それはわかりませんが、もしそれが本当だとしても、きっとその内帰ってきますよ。ここ、命蓮寺が星の大切な家であることは間違いないのですから」
「そう、かもしれないな……」
 明るい聖の言葉によって、ナズーリンの表情も少しは柔らかくなった。先ほどから見え隠れする焦りの色は消えてはおらず、今すぐにでも星を探しに行きたいという気持ちは残ったままのようだが、少し立ち止まって現状を確認する余裕はなんとか出てきたようだった。
 ナズーリンがひとまず納得したのを確認して、聖はやっと食事を再開する。ぬえが再び口を挟んできたのは、そうして生まれた一瞬の静寂の間だった。
「あのさー、もしも星が本当に虎になったんだとして、それって何か問題あるの? もともと半分は虎だったんでしょ? だったらこんな日があってもいいんじゃない?」
 場の雰囲気にそぐわない、間延びした声で言ってのける。かなりの暴論ではあったが、今の状況に頭が追いついていないムラサにとって、ともすれば納得しそうな説得力がこもっていた。

――なるほど外見が変化したと仮定してみよう。では中身は? もしかして、思うほど変わっていないのではないだろうか。星は星のままで、久しぶりの虎の姿を楽しんでいる、ということではないのか? 周りが焦ってどうにかしようとしなくても、時が経つか、星の気まぐれが終われば解決する問題なのではないか? いや、そもそも問題の存在自体が仮定に過ぎないのだ。こんなことを考えるまでもなく、星は毘沙門天の元に報告をしに行っているだけ、昼頃にはいつもの呑気な姿が見られるのではないだろうか?

 ムラサの心はゆれていた。思い返せば、暴論はやはり暴論に過ぎないはずだった。もしかすると、これが悪魔の囁きというものだったのかもしれない。だが、そんな簡単なことにムラサが気付く前に、ナズーリンは口を開いていた。静かな表情に、どこか悲しそうな色をたたえているのが印象的だった。
「わかった。ぬえはもういいよ。聖の言うことももっともだと思うんだが、私にはやっぱり、あの虎がご主人だとしか思えないから、これから探しに行こうと思う。誰か手伝ってくれる人はいるかい?」
 今度ばかりは誰も口を開かなかった。
 ムラサにはわかっていた。聖と一輪はいまだに半信半疑のままで、どうしていいか迷っている。加えて二人にはこれから寺の番――掃除をしたり、参拝客をもてなしたり――があるため、星を探しに出ることはできないだろう。ぬえは言うまでもなく動かない。だから、この場で手伝いを申し出ることが出来るのはムラサしかいない。
 そんなことはわかっていたのだ。でも、その時ぬえに肩を叩かれて。
「ほら見て。"とらじん"」
 顔面だけ虎に変身したぬえの姿に思わず吹き出して、完全に時を逃してしまった。気がついてみれば、ナズーリンは食器を手にして席を立っていた。
「ごちそうさま。じゃあ、一人で探してくることにするよ」
 地面に垂れたナズーリンの尻尾が、やけに寂しさを強調しているような気がした。下半身が人間のままなので100m走が苦手なとらじんの話を聞き流しつつ、ナズーリンの後姿を見送るムラサであった。



      †      



 走る、走る。
 気がつけば、鬱蒼と生い茂る木々の間をひたすらに走っていた。季節柄枯れ木が多いが、それらが次々に後ろへ飛び去っていく光景はやはり清々しい。こうやって全力をつくして駆けるのも、ずいぶんと久しぶりのような気がした。
 ふと、疑問に思う。
 はて、私は一体どうして、こんな所で全力疾走しているんだろう? そしてなぜ、四足ついて体を前に進めているというのか? これではまるで、本物の虎ではないか。毘沙門天の代理として鳴らしたカリスマ妖怪である寅丸星の姿はどこにも……。
 ハッとして足を止めた。
 勢いを殺しきるまでにかなり長い間地面をすべり、両手足の肉球が傷つくのも意に介さない。完全に止まってから、己の姿を確認する。そんな必要もないことに、確認が終わってから気がついた。森の中を颯爽と疾走する、四つ足で肉球で巨大な動物。そんなもの、虎以外になにがあろう。
 果たして自分は虎であった。何一つわからない状況の中で、ただそれだけが確かな事実。
 ひとまず、考えてみようと試みる。自分はどうして人間を捨て、こんな姿に成り下がってしまったのか。昨日の記憶からたどって、結論に至ろうと思った。しかし、それは到底無理な相談だとすぐにわかった。全くもって、記憶がはっきりしないのだ。昨日の出来事どころか、朝のことですらおぼつかない。これが噂の虎頭というものか、と納得する。なるほどこんな頭では、人間のような行動をおこすことは出来まい。本能に従い、獲物を捕らえ、体の維持のために喰う。それだけがたった一つの生きる目的。……いやいや、それではさかさまだ。虎は生きるために喰うのであって、喰うために生きて、喰っているわけでは――
 頭が痛くなってきたのでやめる。しかし、少し頭を使ったことに毘沙門天様が報いてくださったのか、代わりに今朝の記憶がよみがえった。

 今朝、私は布団で丸くなっていた。決して比喩の類ではない。ネコ科の動物は体がしなやかで、眠るときには実際に丸くなって眠るのだ。ということは、私は今日目覚めたときから虎であったのだろう。確かに、そんな気がする。それでいて、では昨晩はどうだったのか、と聞かれると答えられる自信がない。
 話を戻そう。丸くなっていた、などとわかるのは目が覚めた後のことであって、そうである以上私を起こしに来てくれた人がいるはずである。私は一人では起きられないのだから。果たして、記憶はその通りを告げた。ナズが起こしに来てくれて、少々乱暴に布団を剥ぐ。温かい重みがなくなった瞬間、寒すぎて体をさらに丸めたのを覚えている。そして、ナズの驚き。何を驚いているのかを考える暇などなかった。何故かというと、私はその瞬間、その、瞬間……?
 ああ、危なかった。危うく記憶が途切れるところだ。
 私はその瞬間、走りたいという衝動に襲われたのだった。生命の危機から逃げるわけでもなく、ただ純粋に、走ることを楽しみたいと。そして、人間用に作られた六畳間でそんな衝動を発散させたのだから、今から思い返せば大変なことだ。襖は大破しただろうし、ムラサを突き飛ばした記憶がある。もしかしたら、宝塔まで蹴っ飛ばしてきてしまったかもしれない。自分のしでかしたことの大きさに、今さらながらに罪悪感が募るのを抑えられなかった。襖を修繕する雲山が、そして怪我をしたかもしれないムラサが、目の前にいれば、謝りたい気分だった。
 そんなことを考えて、ふと疑問に思う。もし目の前にムラサ達がいたとして、私は今、人間の言葉で謝ることができるのだろうか?人と虎とは声帯が云々などという難しい話は、虎頭にはわからない。ただ、試してみるだけだ。それでうまく話すことが出来ればよし、たとえ出来なくとも、それはそれでなんとかなるだろう。
 ところが、いざ試さん! と意気込んでから、どんな言葉を口にして良いものか非常に迷った。何でもいいから話せ、と言われると、返って何も言えなくなるものである。かといって、こんな誰もいない森の中で、自分の過ちを謝罪するのも妙な気がする。
 その時、右脚に巻かれた薄鼠色のハンカチに気がついた。あの娘に貰ったハンカチだ、とすぐに思い出せた。人から虎に変化した時に、よく外れずにいてくれたものだ、と感心した。気がつけば、自分でも意識しないままに、彼女の名前を口にしていた。

「ナズ……」

 人の言葉を話せるのか、という驚きと少しの喜びが湧いたが、そんなものは、圧倒的な羞恥心の前であまりに無力だった。地面を転げまわりたいくらいの恥ずかしさが私を襲う。というよりも、本当のところ、かなり転げまわった。黄色と黒に茶色が混ざったが、さして気にならなかった。
 それにしても、鬱蒼と茂る大自然の中、一人で立ちすくんで大好きな彼女の名前を呼び、あまつさえ勝手に恥ずかしがって地を転がる羽目に陥るとは、一体誰が想像し得ただろうか。寅丸星、一生の不覚であった。
 顔の熱が――もっとも、自分が感じているだけで、傍から見れば色の変化すらないに違いないが――幾分ひいて、少しの冷静さを取り戻すと、半日か一日顔を見ていないだけのナズが、やたらと懐かしく感じられてきた。後から人間の頭で考えてみれば、あれはきっと精神的な隔たりのなせる業であったのだろう。自分が命蓮寺を飛び出したことで、ナズに迷惑や心配をかけているに違いないと考えれば考えるほど、かえってナズが恋しくなり、いつも自分を助けてくれる彼女にまた会いたいと、切に願ってしまうのだった。しかし、自身の姿がそれを許さない。いかに元が寅であるからとて、獣と称される四つ足の動物の姿でナズの前に出ることは、自分に自尊心が欠片でも残る限り、無理な相談というものである。自分はもう、一生こんな虎の姿のままで、ナズに再び会うことも適わないのではないか。そう考えるにつけ、あさましい虎の身であるにも関わらず、人間のように涙があふれそうになって困るのだった。
 何度目の涙をこらえた時だっただろうか。それは、我慢の足りない雫が目から零れ落ちそうになり、必死になってそれを止めようとした瞬間に、意識が向かない自身の口が暴走した結果だった。咆哮。自身が虎であることを周囲に知らしめるような、力強い一鳴き。一瞬、誰がその音を発したのかわからなかった。音の源泉が自分であると気づく頃には、自分が既に人間の言葉を失っていることにも気づいていた。同時に、意識は徐々に薄れつつあった。こうやって私は理性を失っていくのか。そう理解した。また、本能が趣くままの虎になってしまうのだと、わかりすぎるのが辛かった。
 もうわかったから、なるならさっさとなってくれ。その願いは案外早くに叶えられた。足跡を残しながら通り過ぎる一羽の兎を認識した次の瞬間には、私は既に、虎だった。



      †      



 命蓮寺全員分の洗濯物を終えてみれば、ほとんど昼前だった。今日はやることも少なくて暇だとばかり思っていたが、意外と一日中働く羽目になるかもしれない。ムラサはそう気付き始めていた。それでもとりあえず一仕事終えた満足感を噛みしめて、腰を伸ばす。ポキポキと小気味良い音を聞きつつ、干し終えた洗濯物を眺めた。
 午前中一杯を費やしただけあって、目の前に整列した布の量は圧倒的だった。人数分のタオルあり、先ほど顔をうずめていた聖の法衣あり……。よくよく思い返してみると、洗濯作業中にブラジャー以外の下着を目にした記憶がムラサにはなかったが、気のせいだと思うことにした。
 さて、と空っぽのカゴを手にした後、寺のほうをチラッと振り返り、ムラサは中に入るのをためらった。
 ナズーリンが星を探しに行ってしまった後、朝食の席はやたらと静かで、気まずい雰囲気が続いていた。どうしようもなかったとはいえ、ナズーリンを一人で行かせてしまったことに罪悪感を感じているらしい聖と一輪。それはムラサも同じで、加えて自分は手伝うこともできたのにという負い目が感じられ、話を振ることなど出来なかった。こういうときこそ気楽に振舞ってくれたらいいものを、最悪のタイミングで空気を読んだぬえは静かだった。結局最後まで重たい雰囲気をひきずったまま、めいめいが自分の仕事を始めてしまった。ずっと外にいたのでムラサは見ていないが、聖も一輪も、いつも通りに寺を運営することは出来なかったに違いない。
 少し迷ったが、かといってこのまま庭にいるわけにもいかないと考えたムラサは、意を決して戸を開け、寺へとあがる。直後に、人影に遭遇した。暇そうな顔をしたぬえだった。
「珍しいじゃん。今日は遊びに行かなかったんだ?」
「そりゃね。皆が働いてるのに、私だけ遊びにいけやしないもん」
「どの口が言うんだか……。で、今は何の仕事中?」
「散歩」
「さいで」
 ぬえは居候である。それも、特に頼み込んできたわけでも、命蓮寺側が認めたわけでもなく、いつの間にか居着いていたのだからたちが悪い。そんな自由の身を満喫するかのごとく、この時間、ぬえは外へ遊びに行っているのが常のこと。今日に限って寺に留まっている理由がムラサにはわからなかった。
 少し考えてみる。出会ったばかりのころは全くの正体不明だったぬえも、長く共に暮らしてその性格がわかるにつれ、何を考えているかくらいは大抵理解できるようになっていた。今となっては、ぬえの行動原理を読み解き、正体不明の笠をはがすことが、ムラサの毎日の楽しみといっても良いほどである。しかし、そんな"ぬえのプロ"、キャプテン・ムラサにとっても今日のぬえの行動は不可解だった。遊び以外のことに興味を持たないぬえにとって、寺に留まるほどつまらないこともないはずである。聞くほどのことではないとも思ったが、ムラサの心には何かがひっかかっていた。
「ぬえ。えーと、そんな所で散歩してて楽しい?」
「ん? 命蓮寺周回コースの楽しさを知りたい?」
「あー楽しいんだ。じゃあ教えて欲しいな」
「そうねー、それは……」
 言いながらぬえはムラサに近づいてきた。遠慮なくずんずんと近づいてきて、ほとんど互いの顔がくっつきそうになったところで、我に返ったムラサは一歩後ずさる。しかし、言うまでもなくぬえの前進のほうが速く、追いつかれたムラサは肩をポンと叩かれて、
「ガルルルル!」
 完全に不意を打たれた。手に持っていたカゴが、突然虎に変化したのだ。朝のトラウマがよみがえる。虎だけに――などと言っている場合ではなく、今回は洗濯物のクッションがないまま、ムラサは頭を直接床に打ち付けた。意識が飛ぶかと思うほどの衝撃が走り、ぬえの笑い声を聞いた。
「あはは、大成功! これだから楽しいんだよねー!」
 前言撤回。ムラサはそう叫びたかった。もしかすると、自分勝手にわかったつもりでいるぬえのことなど、一つもわかっていないのかもしれないと疑った。でも、例えそうだとしても。嬉しそうに去っていくぬえの後姿を見ながら思った。今は良くわからないぬえの本心も、いつかわかる時が来たらいいな、と。悪戯はよく仕掛けられるが、ぬえのことを嫌いにはなれないムラサだった。

 昼食が出来る頃の命蓮寺に現れたのは星ではなく、毘沙門天の使いだという、ナズーリンとはまた違った容貌の鼠の妖怪だった。曰く、定期報告の日にも関わらず毘沙門天代理がいつまでも現れないので、何か不都合でも起きたのかと聞くために遣わされたらしい。
 間違いなく命蓮寺にとっては凶報だった。事実、聖などは雷に打たれたような顔をしていた。ナズーリンの言葉の正しさが証明されたことに驚きを感じ、その言葉を疑ってしまったことに自責の念を抱いているようだった。ひとまず面倒事を避けるために、星は軽い熱で倒れたことにしておいた。聡明そうな鼠の妖怪は疑惑の視線を向けてきたが、なんとか説き伏せて帰ってもらった。
 昼食を食べ始めてからも、会話は弾まなかった。
 ムラサ自身も、朝の自分の言動を後悔するばかりだった。してしまったことに対する後悔よりも、しなかったことに対する後悔のほうが大きいものだと言われるが、その正しさをまさに痛感していた。少し待って時期が来たら、ちゃんとナズに謝ればすむこととわかっていながらも、そうかと割り切れることではなかった。恐らくは、聖や一輪も同じことを思っているだろうと感じていた。ぬえの気持ちだけがよくわからずに気持ち悪かった。
 途中で目が合った一輪に、ムラサは目配せされる。一輪は、暗い様子を隠しきれずふさぎ込んでいる聖が気になるようだった。一輪の視線が、今日の聖はずっとあんな感じだ、と語りかけていた。
 焼き魚をほぐし、口に運ぶ。いつもは雑談の傍らで無意識に済ましている行為も、改めて無言で実行してみると妙な気分になるものだ。何となくいたたまれなくなったムラサは、傍らのぬえの方に視線をやる。朝と同じく黙ったままのぬえ。しかし、よくよく観察してみて、ムラサは気付いた。彼女は単に空気を読んで黙り込んでいるわけではないと。
 その証拠に、ご飯を口に運び、魚に箸を伸ばし、お茶を飲み、そういった行為の合間合間に、口を開きかけてまた閉じる動作が挟まっていた。呑気を絵に描いたようないつもの表情とは違い、今は少し必死そうにも見える。ぬえはぬえなりに、場の雰囲気を変えようと尽力しているのだと、そう気付いて、ムラサはなんだかほっとした気分だった。
 結果として、その努力は実らなかった。これという会話のないまま、昼食の時間が終わる。再びめいめいの仕事に戻る時間だった。いつもより二人少なく、一人多い食卓から、皆が解散していく。その一瞬に、ムラサはなんとかぬえを捕まえた。
「封獣ぬえ女史。午後のご予定は?」
「んー、散歩も大体終わったし、何しようかな……」
 迷うぬえに、ムラサは珍しい提案を投げかけてみた。
「もし予定がないなら、さ。皿洗いの仕事、手伝ってくれない?」
「いいよ。私に任せなさい!」
 快諾。今のぬえならば、皿を全て正体不明に変えたりといった悪戯はしないだろう、とムラサは思っていた。自信はあまりなかったが。

 ぬえとの楽しい雑談、もとい皿洗いを終えた後、残りの仕事が予想外に早く終わってしまい、洗濯物を取り込む時間まで思わぬ暇があった。それなら散歩にでも行くか、と考えたムラサは、気がつくと命蓮寺の廊下を歩き回っていた。ぬえ式の『散歩』がうつったのに違いない。さり気ないところでぬえに影響を受けている自分に気付き、ムラサは呆れを通り越して感嘆のため息が出そうな気分だった。
 しかしよくよく考えてみると、ムラサもぬえと同じで、少なくともナズーリンが帰ってくるまでは、空き時間を楽しむ気分になれなかった。その意味で、命蓮寺の中で動き回り、一輪の掃除を手伝ったり、ぬえとすれ違って挨拶したり、聖の顔色をのぞき見したりするのは最も効率的な時間つぶしだった。
 聖の仕事は主として、参拝客に挨拶したり、希望する人に自説を説いたりすることである。外部の人間と接しているとき、聖の顔には外向きの作り笑顔半分、心からの笑顔半分といった表情が浮かんでいる。しかし、客が帰り、ふっと気を抜いた瞬間、そこに暗い影が走るのをムラサは何度も目にした。
 箒を動かす傍ら、ムラサが一輪から聞き出したところによると、昼食を過ぎてから聖の素の表情は暗さを増したようだ。幾度となく自分を責めているらしい聖の姿は、まるでナズーリンが永遠に戻ってこないと考えているかのようで、見るに耐えないものがあった。
 だからこそ、夕暮れ時にナズーリンが帰ってきた時、聖の懸念が一つ取り除かれたことを感じ、ムラサは安堵した。
 ちょうどその時、聖は客と対面しての歓談の最中で、ムラサは襖の隙間からその表情をのぞき見していた。ナズーリンの帰宅を知るや――特に帰宅の挨拶があったわけではないのだが、慣れてくると玄関戸の開け方で誰が帰ってきたかはわかるものだ――聖はパッと明るい表情を浮かべ、客に不審がられていた。その後の聖の笑顔は、ぎこちなさが消えて幾分自然に見えた。
 帰ってきたナズーリンは、誰の前に姿を現すこともないまま、自分の部屋に引っ込んでしまった。その様子を考えるに、まだ星がみつかっていないのは明らかだった。ともあれ、ナズーリンが寺にいさえすれば、毘沙門天の使いが来て真相が明らかになったことを告げ、彼女を疑った朝の態度を謝ることも、明日からの星捜索計画を立てることもできるのだ。誰しもがほっとした気分を隠しきれていなかった。
 夕食の当番に当たっていた一輪は、終日張り詰めていた緊張の糸が緩んだのか、思わず鼻歌まで漏れ出すような浮かれぶりだったが、星の失踪という事実は変わらない今、流石に不謹慎だと思ったらしく、咳払いをしてその後は料理に集中していた。そんな一輪の周囲を、いつになく落ち着かない様子のぬえが歩き回っていた。ムラサも、おいしそうな匂いが漂ってくる食卓に着き、夕食の準備が出来るのを待ち遠しく思っていた。
 本当は全員がすぐにでもナズーリンと話したいと思っていた。しかし、当のナズーリンは自室に閉じこもったまま出てこない。ナズーリンの気持ちを考えればそれも当然であり、夕食まではそっとしておこうというのが全員の暗黙の了解だった。
 やがて、聖が食堂へやってくる。図ったかのように、その時一輪が夕食の完成を告げた。四人までは時を待つまでもなく集まったが、今日の主賓であるはずのナズーリンがまだ部屋から出てこなかった。「私、呼んできます」と一輪。ぬえは、自分の役割を取られたとでも言いたげに、憮然としていた。
 そして、一輪に連れられて現れたナズーリンに全員で謝った後、明日からの作戦会議を兼ねた夕食の開始。そのはずだった。
 ところが、狐につままれたような顔で戻ってきた一輪は、手に手紙を一通持っているだけ。ナズーリンの姿はどこにもなくて。聖に手紙を差し出しながら、不思議そうにつぶやく。
「部屋にナズーリンはいなくて、代わりにこれが。お手紙です、道綱さんから」
 頭が雲山並みに固いともっぱらの噂、雲居一輪の発言である。不意をつかれたムラサとぬえは、仲良くお茶を吹き出した。道綱さんの正体を気にする二人の視線を受けながら、聖が手紙を開く。そして、読み始めるなり顔色を変えた。
「大変。ナズーリンが……!」
 ムラサもぬえも、とうに我慢の限界だった。聖が読み終わって机に置いた手紙をひったくり、額をくっつけ合いながら文字を追う。そこにあったのは、感情のこもった文面であり、無機質な文字の並びであった。

    聖、そして命蓮寺の皆へ
 本当は、こういうことは顔を合わせて言うのがいいのだろうが、そうもいかないと判断したため手紙という形で伝えることにする。
 せめて手書きで記したかったのだが、あまり時間をかけていられないのでワープロで打つ。だけど、伝えたい思いは本物だから、そこは間違えないで欲しい。
 今日の昼に、毘沙門天の使いがそちらに行ったことは聞いている。それで、ご主人が本当に虎になってしまったことが明らかになったかと思う。
 だが、私は疑われたことに恨み言を言うわけではない。冷静になって考えてみれば確かに、突然あんなことを言われて信じろというほうがどうにかしている。
 今日一日、私一人でご主人を探さなければならなかったことに文句もない。聖も、他の皆も、それぞれ自分の仕事や都合があるのだし、朝は無理を言ってすまなかったとも思っている。
 私が言いたいのはそんなことではなく、なんというか、今の私は気持ちの整理がついていないということなんだ。
 ご主人がいなくなった不安もあるし、急いで探さないと、という焦りもある。今、泣きたい気分なのか、不運な巡り会わせを嘆きたい気分なのかもわからない。
 ただ一つ、言えるのは、今皆と顔を合わしても、みっともない姿をさらすだけにしかならない、ということだ。
 正直に言って、この手紙を書くために寺に帰ることすら怖かった。だから、なるべく気付かれないように自分の部屋にこもった。誰にも会わなかったのは幸運だったと思っている。
 そんな状態だから、私はしばらくご主人を探して、命蓮寺を空けようと思う。
 ご主人をみつけて、気持ちの整理がついたら、すぐに戻って来るつもりだ。だから、心配する必要はない。いつも通りの生活をして待っていて欲しい。
 全ては私のわがままだ。迷惑をかけるかもしれない。だから、出かける前から謝っておく。自分勝手なことをして、ごめんなさい。
 さて、そろそろ夕食へのお呼びがかかってしまいそうなので、もう行くことにする。もしこんな私を許してくれるなら、幸せなことだ。
 私は、皆のことが大好きだから。

「この手紙、もしかしてナズが……?」
 遅まきながら気付いた一輪がこぼした以外は、しばらく誰も口を聞かなかった。しかし、誰しもが同じことを思っていたに違いない。
 ナズーリンは本当に自分勝手だ、と。それは手紙に書いてあったような意味ではなく、もっと独りよがりな勝手さで。ナズーリンは、『大好きな皆』に相談すればよかったのだ。みっともない姿をさらしても良い、気持ちの整理がつかないままにでも、話してさえくれればよかった。一度は疑ってすれ違ってしまったものの、誤解は既に解けている。顔を合わせれば、それだけで事態は好転するはずだったのだ。
 ところが、ナズーリンは一人で、一人きりで、出て行ってしまった。誰に頼ることもなしに、自分で問題を解決しようとして。聡明な彼女は、いつでもそうしてきたのかもしれなかった。常に頼られる側として生きていた彼女は、上手な頼り方を知らない。それは命蓮寺の全員にとって、とても辛いことであっただろう。自分達は、彼女に頼られることすらできないのか? たった一度、朝に機会を逃してしまっただけで、彼女の苦しみを分かち合うには、もう遅すぎるとでも言うのか?
 手紙の一番下、ちょっと見ただけでは気づかないような場所に、小さく"ミチツナ"と書いてあった。ナズーリンが何かを意図してこう書いたのか、あるいは元から印字されていたのかはわからない。それを見て、ぬえがぽつりとつぶやく。
「道綱さんって……。意外と天然ね、一輪」
 一輪が少し頬を染めたが、そんな冗談はあまりにも笑えなかった。



      †      



 思わずため息のこぼれそうな、満天の星空。魔法の森の奥深く、一部だけ禿げわたって開けた丘の上で、ナズーリンは寝転んでそれを見上げていた。今にも支えを失って落ちてきそうなほど多くの星が瞬く景色は大の好みで、しばしば命蓮寺の屋根に上って見惚れることもあるほどだ。最近は空を見上げることもなかったなあ、と考えたとき、ふいに命蓮寺を懐かしむ感慨が浮かんできそうになり、慌てて余計な思考を打ち払った。
 ナズーリンが寺を飛び出してから、既に丸三日が過ぎていた。それはたったの三日などと切り捨てられるようなものではなく、彼女にとって果てしなく長い三日間だった。命蓮寺を後にした日は遥か遠くに感じられ、星を探し続けた心身は疲れきっている。長く続いた睡眠不足が祟っていることもその一因だった。なにも、不慣れな野宿になかなか寝付けなかったわけではない。むしろ、ダウザーとして鳴らしていた時期のあるナズーリンにとっては野宿など、赤子の手をひねるほど容易なことだった。
 では、何ゆえの睡眠不足か。
 夜、眠ろうとすると、虎になった星の姿がまぶたの裏に浮かんできて、早く助けてくれとナズーリンを急かすのである。あるいは、眠りにつく瞬間の浅い夢なのかもしれない。ともかくそういった風に、寝ようとした刹那に目が冴えて、再び眠くなるのを待つ、ということを毎夜繰り返しているのだった。
 自分の中のどんな感情が眠りを妨げるのか、幾度となく考えた。しかし、答えは出なかった。それは、正解がわからないというよりもむしろ、正解となりうる候補が多すぎて一つに定まらない、ということだった。あるいはその全てが正解なのかもしれない。直接的には焦りや不安。心配をかけているという申し訳なさもあるし、いつまで膠着状態が続くのかというやり場のない憤りもある。これら全てが混じりあってまさに"気持ちの整理がついていない"というのが今のナズーリンの気分だった。
 自分をすっぽりと包み込む雄大な光景を眺めつつ、ナズーリンの思考は後にしてきた命蓮寺へと還りゆく。
 星が失踪したことを信じてもらえず、感じていた失望はとうに消えている。動物が人間製の腕輪や首輪をつけていたからといって、それが人間の化身だと信じ込む者がいるだろうか。星が虎になったというのは、極端な言い方をすれば、それくらいの馬鹿馬鹿しい主張なのだ。
 そもそも、ナズーリンが星の変化を確信した根拠は、あの薄鼠色のハンカチなどではない。一言で言うならば、"匂い"とでも言うべきものだった。朝、いつも通りなかなか起き出して来ない星を起こすために、布団をめくったナズーリンは驚愕した。布団の中に虎がいたのだからその驚きも当然だが、それだけではなかった。虎は間違いなく自分の主人なのだと確信している自分に、ナズーリンは一番驚いたのである。ナズーリンは鼻が利く方ではないから、実際に星の匂いを嗅ぎ分けていたということではない。直感とでも言うのか、長い間親しく付き合った者同士としての、深い絆が知らせてくれた、としか説明のしようがない現象だった。
 そうして虎の正体を知ったからこそ、その虎が外へ駆け出していったのを見て、他の者が何も感じない中、ナズーリンだけがこれまでにないほど取り乱したのである。もっとも、三日経って改めて考えてみると、自分だけが異常なほど慌てていたのにはもう一つ理由があるのかもしれない、とナズーリンは気付いていた。
 妖獣。ナズーリンと星の共通点であり、他の命蓮寺の住人とは違う点でもある。これがなかなか厄介なものなのだ。人の形を取った妖怪として理性を持ちながら、内部には獣として抑えがたいほどの本能を抱えている。これが、なにかのきっかけでふっと暴走することがあった。ナズーリンの場合で言えば、チーズを目の前に見せられた時。そんな時はいつも我を忘れ、前後不覚のまま飛びついてしまうのである。たちが悪いのは、理性の部分と本能の部分が完全に切り離されず、中途半端に混ざり合っていること。そのため、理性の管轄外における行動であっても記憶には残り、後から思い出していたたまれない気持ちになることが間々あった。
 理性が消え、本能に体を支配される感覚は、怖い。自分がなにをするか、なにをしてしまうかわからないのである。ご主人も今そんな状況にあるに違いない、とナズーリンは推測していた。しかし同時に、その感覚は命蓮寺の他の誰にも理解されないであろうこと、それを痛すぎるほどわかっていた。理性を失うことの恐怖は、どれほど口で説明したとしても、一度体験したことのある人にしかわかるまい。だからこその、一人で星を探すという決意だった。星を『救出する』という意味がわからないだろうに、命蓮寺の皆の手をわずらわせるわけにはいかない、という思いがそこにはあった。
 勢いをつけて起き上がる。今日一日の捜索に何の成果もなかったことを考え、気分が鬱々としてきて顔をしかめた。
 ここ数日、ナズーリンはずっと同じような気分で夜を迎えていた。驚くほど収穫のない日が続いたからである。幻想郷に、野生の虎はいない。それだけに、獰猛な動物をみつければ半自動的にそれが自分の主人であり、何も難しいことはないと、少なくとも、いつか蓬莱の玉の枝を探したときの数倍は簡単だと、高をくくっていた。ところが不思議なことに、全くみつからないのだ。いまだ虎の目撃談はひとつも聞かず、ロッドの反応すら一度もないままだった。ひょっとすると主人はとっくに人間の姿に戻って、命蓮寺に帰ったのではないか、と疑うこともした。しかし、そうだとすれば命蓮寺から誰かしらの迎えが来るはずである。いない虎を探すナズーリンをほったらかしにすることはあり得ない。
 結論の出ない思考を巡らせつつ必死に探した挙句、一番虎に近付いたのが、山の神社の風祝が虎皮のコートを着ていた程度のことである。やりきれない気持ちを感じているのも当然だった。

 冬の夜は、冷たく、寂しい。静寂の中で少し身じろぎしたナズーリンに合わせて、尻に敷かれた文々。新聞がカサカサと大きな音を立てた。
 今でこそ押しつぶされる形になっているが、この新聞は今のナズーリンにとって、珍しくも非常に役に立つ情報源である。仮に射命丸文が妖怪の山やらで虎をみかけることがあれば、彼女は必ず"猛虎襲来"などと言ってそれを記事にするだろう。ここ数日、ナズーリンはそれを期待して新聞を読んでいる。今のところ、虎の目撃情報は入っていない。
 しかし、役に立つ情報ばかりがこの新聞の利点ではない。所詮は狭い幻想郷のこと、記事になるような事件などそうそう起こらず、住民へのインタビューを基にしたでっち上げ記事が、しばしば紙面を埋める。その中に命蓮寺の記事をみつけて、一時的にでも帰宅したかのような雰囲気を味わうのが、彼女の最近の日課となっていた。
 今朝の新聞にも記事は載っていた。突入!隣の晩御飯という不定期企画で、買出しに来た者をつかまえ、夕食の計画を取材するという、意外にも強引さのない良心的なものである。その名が示す通り、企画の開始当初は夕食時の家々に突入し、食事風景を撮影していたのだが、行く先々で余りにも強烈な反撃を受けたことに懲りたのか、いつの間にやら角のとれた丸い企画となっていた。今回取材を受けたのはぬえ。天真爛漫を地で行くぬえがお使いに出ている時点でナズーリンは少し驚いたのだが、載っていたぬえと文の会話にさらに驚くことになった。

「さて、今日のターゲットは命蓮寺からお越しの封獣ぬえ氏です! 突然ですが、今宵のあなたの晩御飯はなんでしょう?」
「じゃじゃーん! この通り、お肉たっぷり、豪華なすき焼きです!」
「おぉー、これはこれは、ものすごい奮発ぶりですね! さてはぬえ氏、なにか良いことでもあったのですか?」
「んー、今日の献立は聖が決めたんだけどね、こんなこと言ってたよ?」
「ほう、興味深い。聖女史はなんと?」
「ほら、今ナズーリンが星を探して外出しちゃってるでしょ? で、いつ帰ってくるかわからないから、いつ帰ってきてもいいように、食べた人が元気になれるような料理を作って待っておこう、って!」

 文はこの会話で星の失踪を初めて知ったらしい。その証拠に、この下に紙面を半分も割いて事件に関する考察が載っていた。しかし、ナズーリンは全くもってその記事に興味を持てず、視線はぬえの言葉に釘付けだった。
 聖の、そして恐らくは皆の思いやりが伝わってくるような、暖かい気持ち。幻想郷の新聞を読んでこんな気持ちになることなど、後にも先にも今だけだろうと思いつつ、ナズーリンはそれを味わっていた。
 丘の頂上に座ったまま、尻の下の記事を思い出す。冷え切った戸外に一人でいながらも、心は皆と繋がっている、とでもいうような。使い古された表現ではあったが、それが間違いなく一番しっくり来る、ぬくぬくとした心持に彼女は浸かっていた。もはや懐かしく思える熱々のお風呂のように、浸かりきって何も考えず、脱力してくつろいでいた。

 それゆえだろう。ナズーリンは、後ろから近づいてくる妖怪の足音に気が付かなかった。
 首筋にコンニャクを落とされたような感覚に、情けない悲鳴が漏れ出た。脊髄反射的に立ち上がり、ばっと後ろを振り向く。ナズーリンの瞳に映ったのは、驚いたような顔をしてたたずんでいる傘の付喪神、多々良小傘だった。よく見知った相手を確認し、ナズーリンはやっとこさ落ち着きを取り戻す。そこへ、小傘が目を丸くしたまま、つぶやいた。
「お……」
「お? なんだって?」
「驚いた……!」
「は」
 いつの間にやらナズーリンは小傘と手を取り合い、妙な踊りを踊っていた。ぐるぐる回る。目が回って思考は働かなくなり、視界一杯に嬉しそうな小傘の笑顔だけが驚くべき倍率で……
「ちょ、ちょっと待った。ギブギブ!」
「あ、ごめん」
 喜びのハグを経てキスまでされそうになるのを、ナズーリンは直前で食い止めた。体を離しても、小傘はなお嬉しそうな表情を緩めなかった。どうやら小傘は、ナズーリンを驚かすのに成功して舞い上がっているらしい。全身で喜びを表現する小傘に、ナズーリンは呆れつつも憧れた。自分もあれほど素直になれたらどれほど良いことか、と思っていた。
 しばらくして頭が冴えて、考えも再び回るようになる。気になることが一つあり、嬉しそうにニコニコ微笑んでいる小傘に向き直った。
「あの、小傘? ちょっと聞いてもいいかい?」
「なになに? わちきの驚かし研究ノートは絶対厳守の企業秘密だけど、ナズになら特別に、」
「いや、要らない要らない。そういうことじゃなくて、ただ、さっき私の首に触れたものは何なのか、と思ってさ」
「ああ、そのことね。それなら、これよ」
 そう言って小傘は、紫色の唐傘を差し出した。いつ見ても奇抜なデザインだ、とまじまじ眺めた後、ナズーリンは嫌な予感に襲われる。恐る恐る手を出し、飛び出た舌を触ってみると、ぬっとりと気持ち悪く濡れていた。ちなみに雨は降っていない。がっくりと肩を落とす。首筋が気持ち悪くて仕方がなかったが、小傘の手前、今すぐに拭き取る訳にもいかない。仕方無しに、少し地面をみつめて今の気持を存分にアピールし、再び顔を上げてみると、小傘は一転して眉をひそめ、険しい顔を作っていた。
「どうかした?」
「やっぱり、わちきより傘の方が驚かすの上手? なんか複雑な気分……」
 言われてナズーリンは思い出す。しばらく前、小傘と出会って何度も驚かせ方の教授を乞われたとき、あまりのしつこさに嫌気がさし、適当なことを言ってあしらってしまったこと。『傘の方に任せた方がいいんじゃないのかい?』と言った時の、衝撃を受けたような小傘の表情は、はっきりと彼女の目に焼きついていた。今さらながらに罪悪感と気まずさを感じたナズーリンは、慌てて言い繕った。
「あぁ、その、なんだ? 小傘も十分驚かすのが上手というかなんというか……。それより小傘、どこかで私の主人を見かけなかったかな?」
「ん? ナズの主人って、あの虎さんだっけ?」
 何故だかはわからないが、小傘は星のことを"虎さん"と呼ぶ。恐らくは親しみを込めようとしているのだろう、とナズーリンは推測していた。ともあれ小傘は正しい人物を連想していたので頷いてやると、小傘はまた嬉しそうな笑みを浮かべて答えた。
「虎さん、さっき丘のふもとで見たよ!」
「そうか、それならしょうがないな。いや、いいんだ。答えてくれてありがとう。……今、なんて?」
「丘のふもとで見たってば! ナズ、その耳は飾り?」
 今度はきちんと聞き取った。即座に配役が変わり、キスを迫られるような格好で詰問を受けるのは小傘だった。
「本当か!? ご主人はどっちの方角にいたんだ? それはどれくらい前の話だ? 人の形をしていたか? 虎か?」
「ちょちょっとナズズ、そそんなにににゆらされたたら答えられれれ」
 慌てて小傘から離れる。気付けば手を小傘の首元にやっており、まさに絞め殺そうとするかのような格好だった。焦ってもしょうがないぞ、と自分に言い聞かせつつ、しかし焦燥の色を隠せないまま、ナズーリンは小傘の返答を待った。
「えーっと、わちきが登ってきた所だから、あっちかな。あのふもとの辺りに、ついさっき虎さんいたよ。挨拶もしないで通り過ぎちゃったけど、そういえばいつもよりもっと虎っぽくて格好良かったような……」
「そ、そうか。ありがとう!」
 ナズーリンの心境を汲み取ったのか、呼吸を整える間もなく答えてくれた小傘に感謝の言葉を投げかけ、丘を降りようと大急ぎで準備を整える。相棒の鼠が入った小さなバスケットとロッドを手にして走り去る途中、後ろから小傘に声をかけられた。
「なんだかよくわからないけど……。うん、こっちこそ、驚いてくれてありがとね!」
 ナズーリンには、元気よく手を振って挨拶している小傘の姿が容易に想像できた。しかし、振り返って挨拶を返す余裕はなく、申し訳ないと思いつつも、そのまま丘を走り降りた。



      †      



「ムラサ、取り皿と卵と、運んでくれる?」
「ああ、うん」
 一輪がすき焼きの仕込を終えるのを待ちきれず台所に足を運んだところ、思わぬ手伝いを仰せつかってしまった。しかし、脳がすき焼きモードに入った今、他に有益なことが出来ようはずもなく、これはこれで私にちょうどいい仕事に違いない。
 皿を受け取る際に、料理中の一輪をちらりと一瞥する。入道柄の割烹着姿が板に付いた一輪には、なぜか二日に一回程度のヘビーローテーションで料理番がまわってくる。でも、それも当然といえば当然で、一輪は命蓮寺の中では飛びぬけて料理が上手いのだ。誰だって自分が食べる料理は美味しいほうがいい。そこで、いつもなにかと理由をこじつけて一輪が食事を作ることになる、というわけだ。一輪自身も料理は好きな方で、自分に役が回ってくるのを楽しみにしているから、そういう意味では平和だとも言える。
 今日は、何事もなければ星が料理当番のはずだった。でも、虎に化けてしまった彼女はまだ帰ってこないので、いつも通り一輪が代わりをすることになった。もっとも、例え星が命蓮寺に健在していたとしても、色々と危なっかしいという理由で料理は任せられないことが多いのだけれど。
 聖が"今夜はすき焼き"宣言をした時には驚いた。ナズが寺を出て行ってから早三日、聖は徐々にいつもの調子を取り戻しつつあったものの、はしゃぎながらすき焼きの良さを語るのは少し行きすぎではないかと思ったから。実際、聖のあれは空元気ではないか、と今では思っている。星の失踪初日は暗い表情を隠せないほど参っていた聖が、上辺だけでも取り繕う余裕を取り戻したのは良いことかもしれない。でも、不満もある。いつも頼られてばかりで頼るのが極端に下手なのは、なにも命蓮寺にナズ一人ではない。
 一輪も同じようなことを感じていたらしく、今朝、境内の掃除をしていた私に相談を持ちかけてきた。聖もナズも一人で色々と背負い込みすぎている、と言っていた。私は全く気付かなかったのだけれど、聖がこの三日間、星の変化の原因を求めて奔走していることも教えてもらった。参拝客が途切れ気味になる時間帯を迎えるたび、一輪に一切を任せて外出しているらしい。聞いた感じだと、博麗神社やら永遠亭やら、およそ体の異変解決に役立ちそうな場所は全て尋ねて回っているようだ。
 知らない間にそこまで、と舌を巻くと同時に、その間何の手伝いもしていない自分が申し訳なくなった。ここ数日、自分がやったことと言えばなんだ? ぬえと一緒に境内を散歩することが星のためになるのなら、今頃命蓮寺はそこら中で鼠が闊歩していてもおかしくないだろうに。
 寺の仕事が忙しくて、とは聖やナズにではなく、自分に対する言い訳だ。実際、聖には「星を探しに行くのなら寺の仕事は気にしなくても良い」と言われていたし、何か行動を起こそうと何度も決意しかけた。けれど、その度に悲しそうなナズの後ろ姿が浮かんできて邪魔をするのだ。結局ナズを疑ったことを謝れずに四日が過ぎてしまっている。今さらナズに会ってなにを話せばいいのか、その答えがどうしてもみつからなかったのだ。
 せめてもの償いとして、というのもおかしな話だけれど、原因究明の仕事は私や一輪にも分担させて自分はゆっくり休んでくれるよう、夕食の場を借りて聖に頼み込むことを約束した。聖が精神的に疲れきっているのは間違いなかろうし、少しは負担を軽くするのが火急の問題に思えたから。

 人数分の皿と卵を食卓に置いて顔を上げると、早くもぬえが席につこうとしていた。待ちに待ったすき焼きということで、その顔は嬉しそうに輝いていた。
 ここ数日でぬえに対する見方も大きく変わった。ナズが出て行ってから今まで、ぬえは結局一度たりとも遊びに行こうとしなかった。そんな姿を見て、ぬえの性格に関して漠然と感じていたことが、もはや確信へと変わっていた。正体不明のぬえ。けれども、意識してその行動原理を探ってみれば、かなりの割合で彼女自身の"優しさ"にたどり着く。そんな簡単なことが広く認知されていないのは、ただ、彼女がそれを表に出せずにいるだけのこと。生まれもっての不器用さが祟っていた。それでも、家族として生活を共にしてみれば、その優しさは間違いなく伝わってきた。
 この間無言の食卓でぬえが見せた必死そうな表情を、この四日で私は幾度も目にした。主に聖がその原因だった。聖が食事の場で考え込み黙り込んでしまったときや、接客の合間に思わずため息を漏らしたとき。そんなときぬえは何か言葉をかけようとして、それでもしっくりくる表現が見つからなくて、もどかしい表情を浮かべながらその場を去ってしまうのだ。
 そんなぬえの様子を見て、私も何度声をかけようと思ったかわからない。しかし、私自身言葉が出なかった。私とぬえは同じことを悩んでいたに違いないのに。現状何の役にも立っていない自分のふがいなさ。それをひしひしと感じつつ、空いてしまった時間を無為に過ごすことのやりきれなさ。
 ふと、目の前のぬえと目があう。自分で買ってきた食材が調理される音を聞きつつ、ぬえはただ無心に笑っていた。今だけはすき焼きのことしか考えていないようだった。この単純さだけは、良くも悪くも真似できない。だが、努力はしてみようと思った。せっかくのすき焼き、楽しまなければ大損だ……!
 やがて聖が現れ、夜の楽しみはグツグツと幕を開けた。

「ぬえ、そっちまだ入れたばっかだって!」
「ん? 糸コンニャクなんて生でもいけるでしょ」
 思った以上に賑やかだった。最近暗い雰囲気が続いているのを吹き飛ばすように、各々が夕食を楽しもうと意識しているようだった。私はといえば、待つということも出来ない奔放なぬえが生煮えの食材を口にしないよう、箸でもっての攻防戦を繰り広げている。箸渡しの格好にならないよう注意していると、これがなかなかままならない。ぬえはそんなこと気にも止めていないようだけど。
 ちなみに、刺身用でないコンニャクの生は想像以上に不味い。あの生臭さを黙殺して口に運ぼうものなら、翌日は胸焼け確定だ。案の定、箸を口に運んだぬえは眉をひそめ、取り皿に残ったものをこっそりと鍋に戻した。私はしっかりと見ていたぞぬえ君。
 少し大人しくなったぬえを尻目に、私も久々のすき焼きを楽しむことにした。肉をひとかけらと、白菜。卵に絡めて食べれば、まろやかになった甘さとしょっぱさが絶妙の加減で味覚を刺激する。さすがは一輪の料理だ。目を上げてみると、言いだしっぺの聖は一番夕食を楽しんでいた。隣で一輪も自分の作った味に舌鼓を打っている。一輪を見て、先ほど交わした約束をふと思い出したけれど、まだ後でも良いだろうと思い直す。なにも、こんなに楽しい雰囲気をぶち壊して暗い話をする必要はない。
 食卓を一周させた視線を再度鍋の方に向けてみると、ぬえがまたしても無謀な挑戦をするところだった。
「ちょっと、それはダメ! まだ赤いじゃないの」
「えぇー。肉なくなっちゃったのに……」
 不服そうな顔をして、ぬえは箸を戻す。空っぽの取り皿を持って、口が寂しいと視線でアピールしてきた。
「ほら、野菜でも取って食べてなさい。もう少しで肉も出来るから」
 渋々といった表情で野菜を取っていくぬえ。肉が食べられずに落胆している姿が可笑しくて、私はぼんやりとぬえをみつめていた。その内に、妙な感覚が心の奥底からわき上がって来る。既視感があるのだ。こんなシチュエーションに、ごく最近、出くわしたことはなかっただろうか? 誰かが何かを食べようとして、私がそれを必死に止める……。
 何気なく鍋に目をやって、まだ一部赤いままの肉がグツグツと煮えている様子が視界に入った瞬間、その記憶はよみがえってきた。

 四日前の焼肉パーティの時のことだった。私は宴の喧騒を遠巻きに眺めながら一人で酒を煽っている。いや、一人ではなく、傍らに星がいた。星を一人で放っておくと想定外のことが起きる、ということで各人が交代で見張り役についていたのだ。
 ぐいっと空けた杯をテーブルに置いたとき、私は異変に気付いた。目の隅に映った星の食べるペースが、明らかに尋常でなかったのだ。ぱっと振り向いてみると、案の定と言うか。
「ちょっと星! その辺全然焼けてないわよ!」
 まだ真っ赤なままで、血も滴っているような生肉を、星は猛烈な勢いで口にしていた。いや、むしろ"食い散らかしていた"の方が適切かもしれない。この時の星はそんな迫力すらをも湛えていた。とりあえず星を肉から引き離し、安全を確保する。なぜかその際強い抵抗を受けたような気がした。
 この時は酒が思考を邪魔していたこともあり、"いつもの星のうっかり"程度で流してしまって、今まですっかり忘れていたのだが。

「よく考えたら、あれって虎そのものじゃない!」
「ん、ムラサどうかした?」
 思い出してハッとした。あの時の星の、タレすら用いずに肉をむさぼる強烈な勢い、正気を疑うような強い目線。今から思い返してみれば、一つ一つが虎になる前の兆候のように思えて仕方がなかった。
 気が付くと、大声を出した私に皆が訝しげな視線を向けていた。慌てて説明を加える。それに対し、返ってくるのは三者三様の反応。聖はなぜか嬉しそうな表情を浮かべていた。一輪は驚いたような顔を見せる。そして、ぬえは……
「ムラサ! なんで今までそんな大事なこと思い出さなかったのよ!」
 露にした苛立ちをぶつけてきた。たまった鬱憤のはけ口にされているような気がして、腹が立って言い返した。
「なによ。ぬえだって最初は星のこと真剣に考えてなかったじゃない!」
「それは、ちゃんとわかってなかっただけだもん! 私だってずっと」
「二人とも、やめなさい」
 食卓の向こう側から、聖が割り込んできた。静かな声とは裏腹に、今までに見たことのないような、厳しい顔をしていた。その表情に気圧されて、思わず黙り込む。ぬえも同じだった。
「過ぎてしまったことをいくら言い合っても仕方ありません。それよりも今は、」
 音を立てないように茶碗を置くと、聖は椅子を引いて立ち上がった。
「ムラサが思い出した通りなら、焼肉パーティでのその出来事は、間違いなく星の変化と深い関係があります。変化の原因になった、ということも考えられるでしょう。何か新しいことがわかったらすぐに知らせるように、八意先生に言われています。すぐに行って意見を聞いてこようと思うので、皆さんはこのまますき焼きを……」
「聖」
 短く呼んで聖の言葉を遮る。一輪との約束とは少し違うものの、こうすることで当初の目的は叶えられるような気がしていた。
「ここは私が行きます。くやしいですが、ぬえの言う通り、今まで思い出さなかった責任もありますし、私自身これ以上動かないままでいるのは耐え切れないんです」
「でも、せっかくのすき焼きを……」
「それは聖も同じです。特に聖は最近働きすぎなんだから、少しはゆっくり休んでください。すき焼きは冬の風物詩、なんでしょう?」
「それは……」
 朝の聖の受け売りで答えると、聖は逡巡している様子だった。だが、私の決意の固さを見て取ったか、しばらくたって観念したようにため息をつくと、どこからか持ってきた一枚の紙を渡してくれた。星の体の件で二度目の来院、という旨のことが書かれていて、見せれば永遠亭の兎が医者のもとまで連れて行ってくれるということだった。
 受け取って早速出かけようとした私に、ぬえが声をかけてくる。
「ムラサばっかりずるいよ。私も一緒に……」
 でも、首を横に振り、諭してやった。
「ぬえ。あんたの気持ちは、私が十分わかってるから大丈夫よ。心配しないでここですき焼き食べてな。絶対に星を治す方法聞いてくるから」
「…………」
 ぬえは渋い顔をしながらも言い返しはせず、大人しく椅子に戻ってくれた。厄介なことにならずほっとすると同時に、先ほどぬえに向かって声を荒げてしまったことを後悔した。うすうす感じていたが、私とぬえとは似たもの同士なのだ。それゆえに衝突することもある。だがきっとその原因は些細なことで、言い争う必要すらないに違いない。後でちゃんとぬえに謝ろう、と固く決意した。
 そしたら今は、と気を引き締めて右手の紙に目をやる。一旦こちらのことは忘れて、大事な使いに集中しなければ。
 これから向かう永遠亭で朗報が聞けることを、心の底から望む気分だった。



      †      



「危ないところでした……」
 聞き間違うはずもない星のつぶやきは、藪の中から聞こえてきた。
 小傘から目撃情報を聞いたナズーリンは、すぐさまロッドを手に虎の気配を探し、今回ばかりはみつけることに成功したのである。深い森の闇の中に半分溶け込んだ虎の姿を認識したときには、ナズーリンは感動のあまり泣き出しそうになった。なんとか涙をこらえたナズーリンが虎に声をかけ、それに振り返った虎が慌てたように藪の中に隠れて、今に至る。
「ご主人、だよね」
 ナズーリンはこれ以外にかける言葉を知らなかった。感極まった胸の内に、場にそぐわない笑いがこみ上げそうになって、それを抑えるのに必死だったのだ。頭隠して尻隠さずとはよく言ったものであるが――ナズーリンは極めて冷静を装って考える。今、実際にそんな状態を目の当たりにしているのだから、ナズーリンの苦労も推して知るべし、である。
 藪の中に頭から突っ込んだ虎、改め毘沙門天使い、寅丸星の体を完全に隠すためには、冬の枯れ木では力不足だった。今、雪の積もった雑木の間からは、黄色い虎の尻と尻尾がのぞいており、おまけに尻尾はナズーリンを誘うようにパタパタとゆれていた。それがまた笑いを誘いそうになり、ナズーリンは目を逸らしながら言った。
「ねえ、ご主人だろ? 答えてくれないのかい?」
「…………」
 それに対して、星はあくまでも沈黙で返す。ともすれば楽しそうにも見える様子でゆれていた尻尾も、ハタと止まってしまった。それが、あたかも主人の苦悩を表しているかのように思えて。ナズーリンは喉まで出かかっていた言葉を飲み込んでしまった。沈黙が降りる。それを先に破ったのは星のほうだった。
「……ナズ。探しに来てくれたのですね」
「当たり前だろう? あなたは私の主人なんだから」
「それだけ、ですか?」
 星がやっと口を開いたことに――むろん藪の中なので見えやしないが――ほっと安堵し、ナズーリンの口も軽くなった。そこへ、絶好のタイミングを見計らって飛んだ質問である。ナズーリンは、気付けば深く考えもしないうちに答えていた。
「いや……。私はご主人が大好きだから。それが、一番の理由さ」
 サラッと口から漏れた告白めいた科白に、次の瞬間ナズーリンは赤面する。周囲に二人以外誰もいなかったことが幸いし、誰にも見られてはいないと思った。ところが、そうやってほっと一安心したところで、バスケットの中の相棒鼠と目が合う。思いなしか興味深そうな表情をした相棒は、ナズーリンの方をじっとみつめていた。こいつには敵わないな、とナズーリンは苦笑し、相棒の頭をそっと撫ぜる。チューと一鳴きする様子が、今見聞きしたことを口外しない、と誓っているように思えた。
「あ、あの、ナズ?」
「……おっと、ごめんよご主人」
 おずおずとした声に、我に返る。気付けば主人のことを放ったらかしにしていた。ナズーリンは慌てて虎の尻へと振り返り、
「私も、ナズのこと、大好きです」
「ぶっ!?」
 思わぬ意趣返しを食らって吹き出した。声だけでも星が恥ずかしがっているのがわかるために、その破壊力は甚大だった。ナズーリンの頭は今にも沸騰しそうなくらい熱くなり、思考が麻痺しかかっていた。これではいけない、と頭を振り、平静な態度を取り戻そうと努める。小さな小さな賢将のこと、そうするだけでいつもの冷静な判断が出来るようになるのである。
 顔の赤みが幾分ましになった頃、星に尻を向けられたままの現状の奇妙さに気付き、ナズーリンは言った。
「ご主人。私たちが両思いなのは十分わかったし、嬉しくない、わけでもないんだけどさ。それよりも、いい加減藪から出て姿を見せてくれないか?」
「それはできません」
「どうして?」
「今の私が、醜い姿をしているからです。この姿で人前に出ることは、私の自尊心が許さないのです」
 星はきっぱりと言い切り、尻尾もその言葉に同調するようにぶんぶんとゆれていた。しかし、ナズーリンは納得がいかない。
「そんな、私とご主人の仲じゃないか。何も、虎の姿になってしまっただけでそんなに恥ずかしがらずとも……」
「違いますよ、ナズ。私は外見だけの話をしているのではありません」
「外見じゃ、ない?」
「はい。私は、自分が許せないのです。信頼されて毘沙門天様の弟子となり、信仰の対象にと聖に寺を任せられている身でありながら、虎の本能なんて卑俗なものに凌駕されて我を見失った自分が。ここ数日、私はそんなことばかりを考えてすごしてきました。でも、いくら悔やんでも過ぎてしまったことはどうにもならない。いまさら命蓮寺の皆や毘沙門天様にあわせる顔など、ありませんよ」
 寂しそうな星の声は、しかし静かな決意に満ちていて、これが本気で発した言葉であることを表していた。それにも関わらず、否、それだからこそ、ナズーリンは強く反駁する。
「ご主人、そんなに思いつめないでくれよ。誰も今回のことがご主人のせいだなんて考えていない。半獣の妖怪には仕方がないことだろう? だから……!」
「ええ、確かに、普通ならば仕方がないことなのかもしれません。それでも、私はそれを乗り越える必要があった。考えてみれば、毘沙門天代理の肩書きを背負った時から、その義務は与えられていたのです。ところが、私は修行して義務を果たすでもなく、毎日怠惰にすごしてきました。その結果がこれだとすれば、私は正当な報いを受けたというだけのことです」
「そうだとしたって、ご主人が虎の姿のままじゃ何にもならないじゃないか! また人間に戻って、今まで看過していた分の義務を果たす。それが今のご主人様に与えられた使命じゃないのか!?」
「そう、かもしれません、ね。でもね、ナズ。もう、遅いのです。遅すぎたのですよ……」
 星の口調が唐突に変わり、一転して弱々しい調子を帯びる。その変化にハッとしたナズーリンは、全ての神経を尖らせて続く言葉を聞いた。
「日に日に、短くなるんです。私が理性を保っていられる時間。最初はまとまった思考が出来るくらい、といっても虎頭だから大したことは考えられないんですが、ともかくそれくらいの間だけでも、私は私でいられた。ところが最近では、もって数分というところで、その頻度も多くはありません。もう、自分が虎になってから何日目かすらわからないんです。私の勘では三日目だと思うんですが、当たっていますかね?」
「…………」
 ナズーリンは答えなかった。星が寺を飛び出して行った日が一日目で、それから丸三日探し続けていたのだから、今日は四日目だった。伝えたくなかったが、沈黙は言葉よりも雄弁に、真実を伝えてしまったらしい。星は悲しそうに続けた。
「まあ、そういうわけなんです。それでね、ナズ。一つ、謝らなければいけないことを思い出しました」
「……なんだい、ご主人?」
「あなたに貰ったハンカチ、今でも私の右脚に巻いてあるんですが、走っている間にボロボロになってしまって」
「ははっ、なんだそんなことか。それなら心配ないよ。ご主人のことだからどうせすぐ失くすだろうと思って、予備はたくさんある」
 明るく言ったつもりの言葉も、乾いた笑いに縁取られて、場にそぐわない冗談としか聞こえなかった。急に、ここ数日の疲労がどっとこみ上げてきて、ナズーリンを襲った。あるいは、それは無力感というものだったのかもしれない。ともあれナズーリンは、その場で立っているのが辛いと感じ始めていた。
「ご主人」
「なんでしょう?」
「そっちに行って、座っても良いかな?」
「……こちらを見ないでいてくれるなら、どうぞ」
「そうか、ありがとう」
 藪から突き出した虎の尻に背中を預けてナズーリンが座ると、己の体が隠れきっていないことに星は気付いたらしく、尻尾がピクリと動いた。だが、それ以上の動きはなく、二人の姿勢はピタリと定まった。互いの温もりの感じられる、絶妙な姿勢だった。
「……ありがとう」
「ナズ? そんなにお礼を言わなくても」
「いや、ハンカチのことだよ。ずっと失くさないでいてくれたんだね」
「そうですね。このハンカチには、何度も助けられました」
「眠れない夜に?」
「それもありますが……。それよりも、私が本能の塊になっているとき、このハンカチに染み込んだナズの匂いがふっと鼻を刺激して、理性の戻ったことが何度かあったのです。先ほど、ナズに声をかけられたときにも、匂いのおかげで我に帰ったように思います。あの時正気を取り戻していなかったら、と思うと……」
 ナズーリンの背中の後ろの温もりが、ぶるぶると体を震わせた。心の芯まで冷えたとでも言うような様子だった。自分にまで寒さが伝わってきそうになり、ナズーリンは努めて明るい調子で話題を変えた。
「確か、最初はご主人から私にプレゼントをくれて、それにお返ししたのがそのハンカチ、だったよね」
「ええ、そうでしたね。でも、いつもお世話になっているからと思ってプレゼントしたのに、お返しされては意味がないのではないでしょうか?」
「そういうものではないと思うよ、プレゼントはね。それに、いつもお世話に、なんてとんでもない。私の方こそいつもご主人に、えーっと……?」
「……私には、ナズに叱られている記憶しかないのですが」
「奇遇だね。私も、叱っている記憶しかない」
「下手なお世辞を言うものじゃない、ということですかね」
「まあ、そんなところか。しかし、ご主人に諌められる日がくるとは、夢にも思っていなかったよ」
 どちらからともなく、笑いがこぼれる。先ほどの乾いた笑いよりは幾分ましなものだったが、それでも平常二人が語り合っている時とは全く違う笑いであり、二人の間に流れる雰囲気も何かがおかしかった。どこかぎこちない。その証拠に、星が少し身じろぎしただけで、温もりがどこかへ消え去ってしまうような気がして、ナズーリンは思わず叫んだ。
「ご主人!」
「大丈夫ですよ。黙っていなくなったりはしませんから」
 主人は座る姿勢を変えただけ。そう自分に言い聞かせ、ナズーリンはほっと息をつく。しかし次の瞬間には、聞きたくもない続きが耳に入ってきた。
「ただ、もう少しで私が虎に戻ってしまうのも、確かなようです」
「そんな……」
 言い返したいが、言い返せない。ナズーリンも、今聞いた星の直感が正しいだろうとはわかっていた。言葉に詰まる彼女を、星が励ます。
「悲しむよりは、今まで話が出来たことを喜ぶべきです。ナズが後ろにいてくれたから、ここまでもったのだと思いますよ?」
「そんなこと、言われたってさ……」
「一つだけ、頼まれてくれますか?」
「…………」
 頼みを聞かなければ星はいなくならないとでも言うように、ナズーリンは了承の言葉を口にしなかった。しかし、それを無言の肯定と受け取ったか、あるいは時間が足りないことを意識したのか、星はそのまま続けた。
「命蓮寺の他の皆と、毘沙門天様に、最後の言葉を。今まで散々迷惑をかけました。最後まで私は至らないままで、迷惑や心配をかけることになって、申し訳ありませんでした。そう伝えてください」
「最後だなんて!」
「いいえ、最後です。ナズ、よく聞いてください。今日この場で別れたら、もう二度と私のことを探しに来てはいけません。再び会った時には私は完全に虎となっていて、あなたに襲い掛かるかもしれないですから。それと、別れてから私と十分な距離をとったら、あの丘の上を眺めてください。最後に一度だけ、私の醜い姿を見せましょう。そうすれば、私と再び巡り会いたいなどという気持ちも消え、楽になることでしょうから」
 ナズーリンに二の句を継がせないまま、星は全てを言い切った。その言葉を呑みこんで、ナズーリンはなんとか否定の言葉を紡ぎだそうとした。しかし、その時。

「それにしても、ナズ、この辺はまだまだ雪が積もっていますね。厳しい冬だと、そう思いませんか?」

 また少し違う調子で、星は言った。ナズーリンは、その変化にゾッとするものを感じて身を震わせる。星は構わず淡々と続けた。
「冬は動物の皆さん、冬眠してしまって森の中は寂しいのです。誰も、誰も周りにいない」
 ナズーリンは、芯まで冷え切ってしまったように、震えが止まらなかった。その理由もわからないままに、言葉も出そうになかった。
「唯一、兎がたくさんいますね。ナズは見ましたか、あの足跡を? 雪に残ったあの跡を見るたびに興奮して跡をつけるのです。そして、白い雪の中に何匹か、真っ白なあれらが跳ね回っているのを見るなり自分を抑えられなくなって……」
 星の意図するところがやっとわかり始める。同時に、自分が何に怯えているのか、ナズーリンは理解した。それは、星とナズーリンの両者が内部に抱える、抑えきれない本能の奔流だった。
「ナズは、知っていますか? 兎はとても美味しいのです。白い毛皮が私の手で赤く染まるのを見ていると、口の中によだれが溜まって仕方なくなります。早く食べたいと、私の中で私が急かすのです。私は、その声に従って、何匹も何匹も食べました。でも、私の飢えは治まりません。食べれば食べるほど、むしろその声は大きくなって、」
 耳を塞ぎたかったが、ナズーリンの大きな耳はそれを許さなかった。代わりに、ばっと立ち上がってバスケットとロッドを手にすると、飛び退いて藪から離れた。間一髪、その瞬間に藪から虎が飛び出し、ナズーリンの目の前を走り過ぎて行く。去っていったのは、ナズーリンの下りてきた丘のほうだった。足音が過ぎ去り周囲に静寂が戻っても、入れ替わりに自己主張しだした自分の鼓動がうるさくて、ナズーリンはその場に呆然と立ちすくんでいた。
 その内に、上空の風が雲を吹き飛ばし、木々の間から月の光が漏れ入ってくる。少し明るくなった視界に我に返ったナズーリンは、木の密度が薄い場所を探し当て、そこから辛うじて見える丘の上を眺めた。そこには、全身に月の光を浴びて、一匹の虎が悠然と構えていた。星は醜いなどと表現していたが、美しささえも感じる光景だとナズーリンは思った。
 ふいに、虎が大きく口を開けて一声咆える。静かな夜の空気を切り裂いて響きわたる咆哮は、強力な捕食動物としての圧倒的な脅威。その立ち位置たる小高い丘は、さながら食物連鎖のピラミッドのようで。それでも、とナズーリンは思った。単純にそうとだけ捉えるためには、虎の叫びはあまりに悲痛だった。虎の姿を取っていながら、未だに捨てきれない人間の心が後ろ髪を引くような、そんな悲しい声だった。
 ナズーリンもまた、悲しかった。しかし、自分には何もすることが出来ないという無力感に襲われて、ただ、森の中に立ちつくしていた。

 また風が吹き、月は覆い隠された。



      †      



「うわっ……。ちょっとぬえ、ちゃんと前見て歩いてよ!」
「あー、ごめんね」
 さながら檻の中の虎のように歩き回りつつ、考え事をしていた所だった。一輪とぶつかりかけて怒られる。一輪は湯飲みを手にしていたから、ぶつかれば割と大事になっていただろう。危ないところだ。
 でも、考え込んでしまうのも仕方がないと、私は思う。なにしろ、ここ数日だけで懸案事項がいくつも増えてしまったのだから。星の失踪を皮切りに、ナズも寺を離れてしまい、聖はずっと元気がなかった。なんとか元気付けようとしたけれど、私がいくら頑張ってみたところで、空気を読まない冗談みたいに受け取られそうで無理だった。
 思い返せば、一輪が一番普通に振舞っていたかもしれない。いつも通り、いつも通りに日常を過ごして、それでも裏では聖を思いやったり、解決法を考えたり。正直なところ、そんな一輪は尊敬に値するくらい素敵に見えた。この私が尊敬すると言うのだから、よっぽどのことだと汲んでほしい。
 そう、自覚はある。巷で私は天真爛漫だとか、自由奔放だとか言われているに違いないし、実際にそうだとも思っている。でも、今回のことは例外なのだ。冗談とか悪戯とかでは済まされない、完全なイレギュラー。
 自分に出来ることを考えてもみた。私だってムラサと同じで、何もしないでいるのは嫌だったから。でも、そもそも私は物事を真剣に考えることすら初めてだった。そんな私が何か貢献できることをみつけられるはずもなく、結局この三日でしたことといえば、すき焼きのお使いを頼まれたくらい?
 そんなだから、ムラサの言葉に対して過剰に反応してしまった。何も出来ないことにイライラしていて、もっと早く思い出して"何か"が出来たはずのムラサに腹が立って、思わず突っかかってしまった。そしたら、『ぬえだって最初は真剣じゃなかった』? そうじゃない。本当に、私はわかっていなかっただけなんだ。そう言い返したかった。
 人が動物に変化するのくらい、当たり前だと思っていた。私自身がそういうことを容易にこなすせいで、感覚が麻痺していた、とでもいうか。だけど、星は結局一日帰ってこなくて、ずっと不確定な不安だったものが確信に変わってしまい、怖かった。自分の不用意な発言がナズを傷つけたかもしれないと考えると恐ろしくて、けれどナズを探しに行くのも気が引けて、謝ることすら出来ずに今までずっともやもやしているのだ。
 でも、こんなのは言い訳に過ぎない。それは自分が一番わかってる。私たちに相談もなしに寺を飛び出したナズは、確かに自分勝手だ。だけど、ナズを最初は突き放したくせして、後になって慌てて心配し、それがナズと星に対する償いになると考えている私は? 私こそ、一番の自分勝手ではないのか。
 一人で考えていても答えは出ない。こんな時こそ恋しくなるのが、私の心を見透かして、自分でも気づいていないようなことを指摘してくれる、ムラサの存在だ。いつだったか、どうしてそんなことが出来るのかと聞いたとき、ムラサはすっ呆けてこう答えた。

「そりゃなんたって、私はキャプテンだからね」

 答えになってない、と怒る気力も湧かなかった。あまりにムラサらしい答えだったから。
 こんな風にいつでもつかみどころがなく、それなのに私のことを一番わかってくれるムラサ。永遠亭から帰ってきたら、さっき八つ当たりしてしまったことをまず謝ろう。そして、ムラサの成果を聞く。約束したから、絶対にいい報告をしてくれるに違いない。
 そう考えつつ、早くムラサが帰ってこないかと玄関まで歩き始めたときだった。見計らったように、玄関の扉が開く音がした。
「ムラサ!」
 思わず叫んで駆け出す。しかし、頭の隅に何かひっかかることがあった。考えながら走ったけれども、違和感の正体に気付くより早く玄関に到着していた。
「え……」
 そして、思わず絶句する。命蓮寺に帰宅したのは、ムラサではなくナズだった。同時に気付く。扉の音。ムラサではなくナズが開けた音が聞こえたから、違和感があったのだと。
 扉をわずかにくぐったところで、ナズはうつむいて佇んでいた。尻尾はくったりと土間に垂れ、表情は正面からも見えなかった。
「ナズ! えーと、おかえり?」
「……ああ、ぬえか。ただいま。心配かけてすまなかったな」
 顔をあげたナズがあまりに悄然とした様子だったから、思わず息を呑む。聞きたいことは山ほどある中で、ともかく一番大事なことを尋ねた。
「そんなことより、星は? 星はみつからなかったの?」
「いや、みつかったことはみつかったんだが……」
 ナズが一旦言葉を切ったとき、後ろに聖と一輪がやってきた気配がした。疲れ切ったナズの姿に二人とも驚いたようだった。誰も言葉を遮らないのを見て取ったか、ナズは再び顔を伏せ気味にして続ける。
「虎の姿で、森を歩いているのをみつけた。それで、話しかけて、私だって気付いてもらうことはできたんだけどさ……」
 全員が固唾を飲んで続きを待つ。誰もナズーリンの言葉を遮らない中で、バスケットの中の鼠がなにやら動いている音が、やけに大きく響いた。
「ご主人、さ。だんだん理性を失ってきているらしい。森をさまよって、兎を食べて、ほとんど野生の虎みたいな生活をしているって聞いた」
 聖が小さく息を呑む。いきなり心臓を鷲掴みされたような感覚が走った。後ろの気配がざわめくのと同時に、私の心もざわつき始めていた。
「もう、ご主人は人の姿に戻れそうにないんだ。これからずっと、理性のないまま、虎の姿で暮らすことになりそうなんだ。だから……」
 鼓動はいつもよりも激しいのに、体の方は金縛りにあったように動かせなかった。それだけ、ナズの言葉に衝撃を受けていた。何か言い返したいのに、言葉がなかなか出てこない。ひどくもどかしかった。
「だから、ごめん。ご主人を連れ戻すこと、出来なかった」
 唐突に、頭を垂れて謝罪するナズの姿に違和感を覚えた。違う。私が求めているのはそんなことじゃない。そう、強く思った。怒りにも近い感情だった。
 だけど、なぜ? ナズに対して怒る権利なんて、私にはないはずだろう?
「ごめん、疲れてるから、とりあえず部屋に戻るよ」
「ナズ、だけどあんたそれで」
「すまない、一輪。それはまた後で……」
 そう思うのに、自分の中の強い感情は、次第に一つの形を取ってあふれ出しつつあった。抗うことは、出来そうになかった。

「ちょっと」

 私の脇をすり抜けて自分の部屋に戻りかけたナズを呼び止める。顔を上げたナズは今にも泣きそうな表情に見えた。でも、むしろ私は、その目に涙が光っていないことをおかしく思ったのだ。不自然。そんなはずが、ない。
「悪いがぬえ、後にしてもらってもいいかな?」
「……そうやって、また逃げる気なの? また同じことを繰り返さないといけないの?」
「一体なにを、」
「手紙のことよ。顔を合わせるのがみっともないなんて、おかしいじゃない」
 何も考えてはいなかった。ただ、いざ口を開いてみれば、言葉はすらすらと出てきた。なんだ、こんなに簡単なことならば、もっと早く言っておけばよかったと、そう思う。だけどもしかして、そうやって安堵したのがいけなかった?

 最初は、ぽたり、と。私の足に、ぽたりと落ちて、冷たい感覚が伝わった。
 わけがわからなかった。私じゃない。その資格があるのは私じゃなく、ナズだって思っていたのに。

――私は、正体不明がウリの妖怪のはずだろう? それなのに、どうして、私はこんなにも素直に、
――涙なんか、流しているんだろう?

 ナズが、驚いたようにこちらをみつめていた。そのマヌケ面に腹が立って、思わず殴りかかりそうになるのを抑える。代わりにナズの襟元につかみかかって、ありったけの声を張り上げた。
「元に戻れそうにないとか、連れ戻せなかったとか、なに自分一人で判断して諦めてんのよ! そんなのあんたがそう思ったってだけじゃない!」
 私の勢いに圧倒されたように、ナズは呆けていた。咄嗟のことにひるんで動けないようだった。
 後ろから一輪がかけてきた弱々しい制止の声になど声を貸さない。周りのことが見えていないと、自分でも思った。でも、自分を止めることは、絶対に出来なくて。
「私だってさ、星のことが好きなんだよ? もちろんナズも、聖も一輪もムラサも好き。なのにあんたは私たちに相談もしないで一人で抜け駆けして、挙句の果てに自分じゃ星を助けられないって何よ!」
 苦しかった。一番の自分勝手が、声を荒げて二番目を責めるものか? 自分が一番酷いやつなのではないかとも思った。でも、言わずにはいられなかった。ムラサに頼らずともわかる、それが私の本音だったからだ。
「初め、何も考えずにナズの言葉を否定したことなら謝るわよ。だけど、私だって、みんなだって、この数日ずっと星のことを心配してたのよ! だから……!」
 キッと目の前のナズを睨みつける。私の手でつま先立ちさせられたナズは、その体勢のまま目を大きく見開いて聞いていた。そんなナズが急に小さく見えて、なんとなく悲しい気分になりながら、ありったけの力を込めて言葉をぶつけた。
「だから、見苦しくてもなんでもいいから私たちに頼りなさいよ! 諦めるのはそれからでもいいじゃない!」
 言い切ったら、かえってすっきりした気分になった。涙はもう滝のようにあふれていて、今一番見苦しいのは私だろうな、と思った。
 ナズの表情が次第に崩れる。趣味が悪いと思いつつも、その結果に満足して、ナズを下ろした。そして、自分でも不器用だと思うやり方で、ナズの頭を撫でてやった。大きな耳が邪魔で、ひどく撫でにくかった。
 しばらく誰も喋らなかった。時折私とナズが鼻をすする以外に何の音もしなかった。
 滾った心が醒めるにつれ、次第に気まずくなってくる。自分のことを棚にあげた卑怯な物言いと、初めて前面に出した自分の感情とがその原因だった。そして、そんな時。必ず、私の救世主が助けに来てくれるのだ。

「ただいま戻りました……ってうぇ、ナズ! ぬえも! 一体何があったの?」
 急いで帰ってきたらしく肩で息をするムラサは、こちらを見るなり奇妙な声をあげ、目を丸くして驚く。突然の表情の変化が可笑しくて、泣きながら、心の中ではそっと笑い声をあげた。
「それは後で説明します。ムラサ、永遠亭ではなんと言われたのですか?」
「良い診断結果が出た?」
「ああ、それがさ……。ナズ!」
 少しだけ迷うような素振りを見せたムラサは、やがて歩み寄ってきてナズの肩を叩く。叩かれた方はびくりとして後ろを振り返っていた。ムラサにはナズの泣き顔が見えたに違いないけれど、それでも確かに笑って、嬉しそうに言った。
「星のこと、大丈夫そうよ。元に戻ることは難しくないってさ」
「え……?」
 これにはナズも含めて全員が驚いた。直前のナズの言葉と噛み合わなかったから。もちろんムラサの報告が正しければ良いと望んでいたけれど、ナズから星の凄惨な現状を聞いたばかりだったので、本当のところ、半信半疑だった。
 よろよろと体の向きを変えてムラサの肩をつかんだナズは、少しだけ希望の戻った声で問いただす。
「本当、なのか……? 永遠亭で、そう聞いたのか?」
「ええ、もちろん。あそこの医者の腕は確かだって聞くからね。間違いないよ」
「しかし、とても信じられない。だってご主人は、徐々に理性を失いつつあるところなんだ。誰が見たって本格的に虎になりかけているとしか……」
「それも永琳先生に聞いた。いい、よく聞いてナズ」
 ムラサは幼い子供を諭すように続ける。
「今の星は、一時的に虎となってしまっている。そのきっかけは、パーティの時に生肉を口にしたこと。これに関しては目を離していた私にも責任があるから謝らないといけないんだけど、とにかく……」
 少し頭をかいてナズをみつめなおすムラサの視線は、今まで見たことがないくらいまっすぐだった。
「さっきも言った通り、星の変化は、"一時的"なものなの。ずっと抑えてきた本能が露になって、星の中では今、理性と本能の葛藤が起きている。どちらが優勢となるかは、周囲の環境によって容易に変わるそうよ。例えば、森の中で自由に暴れまわっている間は本能が勝つ、みたいにね」
「じゃ、じゃあ、例えばご主人を、無理やりにでもなんでも、森から連れ戻すことが出来たら……」
 話の全容が見えるにしたがって、背後の聖と一輪が安堵するのがわかった。私の頭でも大体は理解できたので、ほっと一安心する。
 ナズの問いかけに対して、ムラサは少し表情を緩めて答えた。
「そうよ。虎となった今の星をこの寺に、つまりは最も理性が働く環境に戻すことが出来れば、星はきっと我を取り戻す。その内に内面の葛藤が終われば、姿も元に戻ってくるだろう、ということだったわ。ナズにならわかるよね? 色んな意味で星に一番近い所にいる、あなたになら」
「…………」
 ムラサはナズの目をじっとみつめていた。思わぬ朗報に気が抜けたのか、言葉を返さなかったナズがどんな表情をしているかはわからない。それでも、ムラサの優しい表情を見ている限り、悪い顔はしていないのだろう。
 聖がポンと手を叩き、その音に夢が醒めるまでずっと、ぼんやりとそんなことを考えていた。
「さあ、そういうことならば、そんな所で突っ立っている必要はないでしょう。早く上がりなさい、ムラサ。ナズーリンはきちんと靴を片付けてから来なさい」
「あ、二人ともすき焼き食べる? まだかなり残してあるわよ」
「おー、気が利くじゃん。ほらナズ、ぬえ。早く行こう」
 止まっていた時が動き出し、いつもの日常が返ってきたように感じた。ナズは帰ってきて、星はまだいないけれど、確かに帰ってこられることがわかったから。間違いなく、いつも通りだった。
 全員が居間へと向かおうとしたところで、一人反応が遅れて立ち尽くしていたナズが、後ろから声をかけてくる。
「ムラサ……。ぬえも、もちろん聖も一輪も、ありがとう。それと、今まで皆のことを信頼していなかったこと、本当にごめん」
「ん。こっちこそ、最初ナズを疑ってごめん」
「それはいいんだ、仕方ないことだったんだから。それと……。明日から、もう一度ご主人を探そうと思うんだが、手伝ってくれるかい?」
「本当にナズは、もう。何を今さら、って感じよ!」
 後ろは振り向かなかった。振り向いたところで、ナズは私と同じく不細工な顔をしているだろうから。

 私が顔を洗っている間に、全員が居間に集まって団欒のすき焼きパーティが始まっていた。
 食べ損ねた三日分の晩御飯を取り戻すかのように、ナズは猛烈な勢いで肉を掻きこんでいた。でも、一番驚いたのはそこではなく、ムラサがそれをしのぐ勢いで食べていたこと。太るよ、とそっと伝えたら机の下で蹴りをいれられた。
 その内に、一つ気になっていたことを思い出して、棚の上に置き去りになっていたそれを居間まで持ってきた。ナズからの手紙。本来名前を書くべき位置にミチツナと書かれていたのがどうにも心に引っかかって、ずっと疑問だったのだ。ナズにその手紙を見せて尋ねると、信号機のようにサッと青くなったナズは、急ぎ足で自室に向かい、すぐさま戻ってきた。

「ごめん、"NAZU"って打ったつもりだったんだけどさ……。今見たらカナ入力になってた」

 一瞬の静寂。私は耐え切れなくなってプッと吹き出した。それが起爆剤となって笑いの渦が巻き起こる。
 なんだって良いんだ。団欒の名にふさわしい楽しげな雰囲気が食卓を包んでくれるならば、過程の如何は問わぬとこの時決めた。だから、数日分溜め込んだものを吐き出すように、大口開けて笑い飛ばしてやった。
 恥ずかしそうにはしていたけれど、命蓮寺の空気が和やかになったのを一番喜んでいるのもまた、ナズのようだった。
 それからしばらくの間、ナズのあだ名は"道綱"になった。


 
後編に、続きます。

追記
概ね高評価を頂けたようで、安心して後編を書いています。
全速力で、のろのろと書いております。
作品集が変わる辺りで出せたら、というのが理想。少々お待ちください。

再追記、というかなんというか。
後編完成しました。こちらからどうぞ。
半妖
head_east@maia.eonet.ne.jp
http://
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コメント



0.520簡易評価
2.100名前が無い程度の能力削除
後編を楽しみに待たせてもらいます。
3.100奇声を発する程度の能力削除
ああ、道綱ってそういう事かwww
4.無評価鈍狐削除
みちつなってなんだ、と思ったらそういうことですかw
話は面白かったので後半、期待して待ってます。点数は後半でつけますのでフリーレスで。
5.100名前が無い程度の能力削除
後半が楽しみです。
10.80名前が無い程度の能力削除
なるほど、カナ打ちかw
ミチツナホスニミ可愛い
13.100名前がない程度の能力削除
三月記と違い、戻れるようなので安心しました。
後編に期待しています。