Coolier - 新生・東方創想話

墓守り権平

2011/02/27 20:47:36
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「これ、怨霊。待ちなさい」

 居間に漂っていたのを、鷲掴みにする。

「最後に言い残すことはありますか?」

 怨霊は口を聞けない。だが、その生前に最後思ったことを、私は読み取ることが出来る。
 これも仙人としての力のひとつだ。

「お前はこの世から消滅する。しかし、その遺言は私が聞き届けてあげましょう」

 手に力を込める。すると、怨霊の想念が私の頭の中へと流れこんでくる。

『人を愛せなければ、人からも愛されぬ』

 ふむ。どうやら痴情のもつれでもあったのか。または孤独な生だったのか。
 などと思案していると、怨霊は新鮮な鰻さながら手の中から抜け出し、逃げるように飛んでいってしまった。

「ああ……逃がした。まぁ、仕方がないか」

 私はさっきの怨霊が遺した言葉に少しだけ興味を引かれつつも、また地底の動向を探る為に間欠泉へと向かった。




「墓守り権平」





 ざっく、ざっく。

 老婆の顔を、土が覆っていく。
 円匙の動きは一定で、それを握る男の顔は無表情であった。それはあたかも不出来な木彫仏像のように、味気なく生気がない。
 大柄な身体を包む着物は泥と汗に塗れ、男の風体をより貧相に見せていた。それが雨に濡れてこうべを垂れているものだから、さながら怪談にでも出てくる“しだれ柳”のようである。

 やがて彼は埋葬を終えると、首に掛けた手ぬぐいで汗を拭き、円匙を地面に突き立てた。
 一切の感慨もない。男にとって、埋葬は感情を込めるものではなく、ただの作業であるかの様にみえる。

「おーい、権平」

 霧雨の中を男が駆け抜けてきた。村で唯一、権平と同い年の又佐だ。
 又佐はすこしばかり裕福な家の者である。だから笠も被らずに佇む権平に、新品の笠を分け与えてやる余裕があった。

「……ありがてぇ」

 既に全身を余すところなく濡らした彼が、今さら笠を被ったところでしょうもない。
 だが感謝の言葉と共に受け取った笠を、彼はしっかりと被った。

「おまえさんに風邪をひかれちゃ、死体を埋める奴がいなくなっちまう。しっかりしとくれよ」
「……そいで、何用だ?」
「あぁ、湖のほとりで首をくくった仏さんが見つかった。悪いが、すぐに運んでくれ」
「……分かった。……おめぇは帰れ」

 権平は又佐と目も合わせず、ぶっきらぼうに、吐き捨てるように話す。
 そんな彼に苦笑いしつつ、又佐はその場を離れた。
 権平という男は、いつもこうなのだ。だから又佐もそれほど気にはしていない。いつもの事だ。

「……せめて、天気の良い日に首を吊ってくれ。……飢饉でもねぇのに、命が勿体ねぇ」

 とにかく雨の多い時期である。雨の日に死ぬのも仕方がないか、と胸中では思いつつ、やはり愚痴は零したくなる。
 彼は突き立てていた円匙を引っつかむと、一旦家に帰った。
 そして軒先に置いていた桶と荷車を持って、一町ほど離れた湖へと向かう。これらは仏様を運ぶ商売道具だ。

「……しかし、降るな」

 ここ数日降り続いた雨は、辺りの地面をしごく泥濘にしていた。
 彼は文句のような言葉を口にしながらも、やはり無表情で道を往く。

 権平は、墓守りである。
 墓守りと言っても、ただ墓石を見張るのが仕事ではない。
 彼の場合には、死体を運び、地面に埋め、墓石を作ってやる。それまでが仕事だ。
 彼は十年ほどの月日、延々これを生業としていた。

「……また。……えらいところで死んでくれたもんだなや」

 湖の周りは、林に覆われている。
 大きな荷車はその中へは入り込めない。権平は荷車を道端に置き、林の中へと足を踏み入れた。そして死体のあるという水際まで、ずんずんと進んでいった。
 やがてそこに見えるのは、湖にせり出したような形の大木。その一番太い枝。そこに着物の帯を巻きつけて、首をくくった女が浮いている。
 頸を締められた顔面は、人形のように真っ白く変色していた。だが生前、その顔立ちは悪くなかったことを墓守りへと報せる。

「べっぴんさんが、勿体無い事するもんだ」

 権平はとりあえず、木から死体を降ろしてやろうと、その身体に近づいた。

「あ……?」

 おかしい、目の前の木。

 大木がずるり、と動いた木がする。
 まさかこの木、妖怪変化か? と権平が身構えた瞬間、彼は足元をすくわれた。

 ああ、地すべりだ。それも、とびっきり悲惨なやつだ。
 その様に事態を把握した時、彼の身体は湖に向けて投げ出された後だった。
 一緒になって落ちていく仏様と、目が合った。死との邂逅を印象づける、死体との道連れ投身。
 湖面に叩きつけられれば、間違い無く死ぬ。

「……なんだ、おめぇ」

 大木と死体が着水する音。それを耳にしながら、権平は目の前にいる女へと尋ねた。
 割合、巨漢である自分の腕を掴み、その細い右腕一本で支えている女。
 助けてくれたというのは分かるが、理屈が理解できない。
 どうやって支えている? 何故、支えている?

「さぁ、引っ張り上げるよ。せーのっ」

 元気の良い声だ。嫌いではない。
 その様に思いつつ、権平は女に引き上げられる。地すべりで崩れていった地面は、湖のほとりに切り立った崖を作っていた。
 掴まれていた手首が、じんじんと痺れる。余程の怪力で掴まれていた証左だ。

「おめぇ……バケモンだな」

 己を救ってくれた女に目を向ければ、それは明解だ。

 死体を飾るような真っ白な着物に、腰まで伸びた癖のある真っ赤な髪。釣り目が印象的な整った顔立ち。ここまで見れば、まぁ毛唐か何かなのかと思える。
 だが決定的なのは、頭のてっぺんから生える毛に覆われた耳と、腰骨の辺りからはみ出す二本の黒いしっぽだ。人間には、そんな部位はない。
 そして化物であれば、自分を腕一本で引き上げる怪力にも頷ける。

「そうさ、あたいは火車の火焔猫燐! よろしく」

 思いの外、簡単に認めるものだ。
 バケモンと呼ばれても全く気にしてはいない様子で、しかも女は明るい声で自己紹介を始めた。
 その様子には、権平も気後れしてしまう。自分の想像しているバケモンとは、随分と違った性格をしているではないか。――恐ろしさなど微塵もない。

「カエンビョーリン。……長ったらしい名前だなや」
「あはは、よく言われるよ。だから、お燐って呼んでいいよ」

 権平は困惑する。
 何故、化物が自分を助けたのか。そして何故、こうして自分へと気さくに話しかけてきているのか。
 化物と普通に話をして良いのか? という疑問は、お燐とやらの饒舌にかき消される。

「……なんで、助けたんだ? おらのこと」
「ん? 死体の臭いに釣られてきたら、偶然にもお兄さんが落ちそうになってたからさ。ついでに助けてやったんだ」
「……だから、それで何でバケモンが、おらを助けてけだんだ?」
「まぁ、それには色々と事情があるのよ。命が助かったんだから、そんな細かいことは気にしない、気にしない! それに、そこら辺の事は……」

 お燐は唇に指を押し当てて「ひみつ」と茶化した。
 それを尻目に権平は彼女への警戒心を保ちつつ、湖の方へと目をやった。
 そこには湖の底へとゆっくり沈んでいく大木と、水面に浮かぶ死体の真っ白な背中がある。
 自分が運ぶはずだった死体も、ああなってはお手上げだ。

 権平は静かにため息をつくと、お燐へと目線を戻した。

「……おめぇ、猫のバケモンだべ」
「ん、そうだよ。よく分かったね……って、流石にこの姿だと分かっちゃうか!」
「……雨、苦手でないのか?」

 彼女の獣の耳がぺったりとお辞儀をしているのを、権平の瞳はしっかりと捉えていたのだ。その肩が僅かに震えていたのも、見逃してはいなかった。
 図星の彼女は、少し恥ずかしそうに、頬を掻きながら照れ笑いをする。

「ははは、大当たり。いや~、お兄さんは鋭いね! 特にあたいなんか熱い所に住んでいるから、雨っていうのは苦手で……」
「……助けてもらった礼だ。良かったら……家さ上がってけ」

 そう言うと権平は自らが被っていた笠を脱ぎ、お燐の頭の上に置いてやった。
 そして無言でさっさと林から出て、荷車の把手を掴み、チラリとお燐の方を振り返る。
 呆けたように棒立ちにあったお燐は、頭の上の笠に手をやり、権平と目を合わせた。

「……こねぇのが?」
「……え? あ、ああ。せっかくだし、お邪魔しようかな」

 返事を聞くと同時に、権平は荷車を引き始めた。そして早足で家へと帰っていく。

「ちょ、待ってよ!」

 置いて行かれたお燐は、慌ててそれを追いかけ始めた。
 何しろ言葉数の少ない男のようだ。ふと気づけば行動に移っている。
 だがそんな態度を気にもせず、むしろどこか嬉しそうな笑顔で、妖怪は男の後についていった。

 ぎぃこ、ぎぃこ

 大人の体躯がすっぽりと入るような特大の木桶。そして、それを載せる為の立派な荷車。権平の手で引かれるそれらが、甲高い鳴き声を上げている。
 巨大な荷車は、動かすのにも大変な膂力が必要とみえる。だが彼は表情を変えずに、ただ黙々とそれを引いていた。

「ねぇ、お兄さんはさ」

 からからと、下駄の音を楽しげに鳴らしながら、お燐が尋ねる。

「何で死体を見つめていたの?」
「…………」

 少しの沈黙を挟んだ後、権平はゆっくりと話し始めた。
 会話というよりは、必要最低限の説明。そういった口調。

「……おらは墓守りだ。仏さんを運んで、墓さ埋めんのが仕事なんだ」
「……へぇ! そうなんだぁ。じゃあ、あたいと同じじゃないか」

 その言葉に、荷車の鳴き声が止まった。
 権平は首を傾げると、怪訝そうな顔で後ろにいる妖怪を睨めつけた。

「おめぇは、屍肉を漁る妖怪じゃねぇのが? おらと一緒にすんでね」
「え? ああ、それは誤解! あたいは火車。死体を運ぶのがお仕事なのさ。死体を食べたりはしないよ」
「……そうか、んだら、おらと同じだな」

 再び荷車が動き出した。
 しばらく道を行くと、やがて二人は目的地に着いた。そこに建っているのは、年季の入った掘っ立て小屋だ。廃材を組み合わせたような家は、壁や屋根のあちらこちらに隙間が見え、地震でもきたら倒壊しそうなくらい心もとない。

 権平は荷車を玄関に停めると、扉を力任せに押した。立て付けの悪いらしいそれは、悲痛な悲鳴を上げつつ口を開いた。
 扉の向こうから、まるで封印されていたような黴臭い埃と空気が一斉、こちらへと吹き上がってくる。
 それには思わず、お燐も顔をしかめた。

「……ここが、おらの家だ」
「……風情があるわね」

 人里からは随分と離れ、墓地とは少しだけ離れている。そんな場所にあるのが権平の住まいだ。あたりには他に人氣がない。
 人ひとり住むのがやっとであろう狭い屋内には、まるで物がなかった。一所にまとめられた荷物が、部屋の角に僅かあるだけだ。だがそのおかげか、お燐が中にお邪魔しても、ある程度の身動きはとれそうだった。

「……さ、へぇれ」

 小屋の床は地べたになっている。権平はそこへ木材を集め、火を灯した。それが囲炉裏の代わりである。そして梁に掛けてあるボロのような手ぬぐいを取り、濡れた身体を拭きはじめた。

「それじゃ、お邪魔するよ」

 お燐はひらりと屋内に入ると、着物の裾を手で絞って、地面に水たまりを作った。

「……良がったら、拭け」

 権平は綺麗な手ぬぐいをお燐へと手渡す。おそらくは客人用と、普段は使わずにとっておいたものだろう。
 彼女は危険がないか探るように、くんくんと臭いを嗅ぎ、ひとつ頷いてからそれで髪の毛を拭き始めた。

「……お兄さん、一人で暮らしてるのかい?」
「ああ、もうずーっとだ。親父とお袋が死んでから、ずぅっと一人で墓守りさしてんだ」

 お燐はひと通り身体を拭くと、囲炉裏のところへ近寄った。
 火にあたると、彼女の身体を濡らす水滴が熱気でとばされる。
 すると、たちまち彼女の耳は柔らかさを取り戻し、ぴょこんと立ち上がるほど元気になった。

 権平も火を挟んだ向こう側にかがみこんで、冷えた身体を暖め始める。
 火を大きくしすぎないよう、そして絶やさないように、樹の枝をくべていく。

「……あったけぇか?」

 火を見つめながら、彼は尋ねた。

「ああ、地獄の火よりはヌルイけどね。でも雨で冷えた身体を暖めるのには、十分過ぎるよ」

 それを聞いて、今まで無表情だった権平の顔に僅か、驚きの色が混じった。

「地獄……。おめ、地獄さ住んでんのか?」
「そうだよぉ。地面の下には灼熱地獄があってね、そこで燃やす死体を集めに、あたいはこうして地上へ来ているのさ!」
「……死体さ、燃やすのか?」
「言ったじゃないか。死体を運ぶのがあたいの仕事さ、って。活きの良い死体を集めて地底に戻り、灼熱地獄で燃やす……。それが、あたいのおつとめ!」

 小気味の良いお燐の喋り口とは対照的に、権平は低く声を唸らせた。
 まるで期待を裏切られた、落胆の言葉であるように。

「……違うでねぇが」

 権平の顔は、無表情なままである。
 お燐は両手の平を火に向けながら「何が?」と問うた。

「おめぇ、おらの仕事が自分の仕事と同じだと言うたでねぇが。……それが違う、って言ってんだ」
「……なんでさ? お兄さんもあたいも、死体を運ぶのがお仕事なんだろ? 一緒じゃないか」

 手近にあった小枝を火にくべながら、権平は首を横に振った。

「おらは、死体を運んで土に埋めんだ。そしたら、そこに墓さ建てる。死んだ人の家族や友達、そこに来て拝む……。これが、おらの仕事だ」
「勿体無いねぇ。せっかくの死体をただ埋めるだなんて。あたいが良さそうな死体を見繕って、地獄に持ち帰ってやろうかい?」
「……やめろ。おらの墓さ手ぇだしたら、命の恩人のおめぇでも許さねぇど」
「だってさ、土に死体を埋めていたって、一銭にもならないんだろ?」
「地獄で燃やしたら、一銭にでもなんのが?」

 多少、不機嫌になった権平へ向け、お燐はクスクスと笑った。
 そんなことも知らないのかい。と彼の無知を哂うように。

「良い死体を燃やすとねぇ。純金ができるんだ。他にも色々と貴重な資源が溶け出す。それで地獄は潤うのさ」
「……戯けたこと抜かすでねぇ。……人間には、墓が必要なんだ。……遺された人には、拝む場所が必要なんだ」
「ふーん。良く分からないけど。だから墓守りしてるのかい? 大切なお墓を守る為に、さ」
「……別にしたくてしてるワケでねぇ。親の跡さ継いだというか、おらしかやる人がいねぇというか……。まぁ、おらがいねぇど、とにかく困んだ」

 権平は蓋のないヒビ入り陶器に水を汲むと、それを囲炉裏に近づけ湯を沸かした。そして恐らくは客人用のものであろう“比較的”まともな湯のみへとそれを注ぐ。
 受け取ったお燐は、舌先で湯を舐めてみる。猫舌には調度良いぬるま湯だ。

「……妖怪は親兄弟が死んでも、墓すら作らねぇのが?」
「……あたいは、友達や主人が死んだら、喜んで死体を運んでやるね。そして灼熱地獄で、すっかりと溶かしてあげると思うよ」
「……どうも……。おめぇらとは根っこから考え方が違うみてぇだな」
「そりゃそうさ。あたいは妖怪だよ? そして、お兄さんは人間。……それも、良い死体になりそうな人間だ」

 小屋の中の空気が、一気に熱を奪われた。
 目の前の火は燃え盛っているのに、夜のような冷たさが人間の身体を雁字搦めにする。

「何をぬかす、だ……」

 権平は一瞬で怯懦に陥る。
 火を挟んだ向こう側。そこにいる少女が実は妖怪であると、彼は改めて認識する。
 というよりも、何故ここまで普通に話をしていたのか。――彼を自分を責めた。
 暗い小屋の中で、妖怪と二人っきり。誰がどう見ても、危機的状況ではないか。

「お兄さん、死んだらつよぉい死体になりそうだねぇ……」

 突如として姿を現した、獣の殺気に満ち溢れた瞳。それを前にして、彼は腰を抜かしてしまう。
 お燐のぷっくらとした唇を、先のとんがった舌が舐めた。湿った唇は、灯を照り返して妖しく光る。

「お、おめぇ。まさか、あそこに居たのは……。偶然でねぇな!?」
「……ふふ。気付かれちゃったか。勘も鋭いみたいだねぇ。ますます、気に入ったよ」

 そういうとお燐は立ち上がり、右手に揃えた鋭い爪を“獲物”へと見せつけた。
 小屋は狭い。その爪を振るえば、避ける場所もなく、権平は喉を切り裂かれるだろう。

「あたいはねぇ、お兄さんに目をつけていたのさ。良い死体になりそうだから、ってね。死体になり次第、運ばせてもらうつもりだったんだ……」

 いつの間にか声色も、不安を煽るような低く震えた、妖怪らしい声になっていた。

「こ、この場で死体さ、するつもりが……!? 舐めんでねぇど、おらは羆を素手で倒した事あるんだ……。おめぇみたいな小娘に、やすやすと殺されはしねぇど!」

 権平はとっさに背後へ手を回し、そこにあった円匙の柄を握った。
 そう簡単に“獲物”に成り下がるつもりはない。長年の墓守り稼業で鍛えた肉体には、少なからず自信がある。
 無論、そんな自分の身体を腕一本で吊り上げるような怪力相手に、どこまで通用するのかは疑問である。だが彼は、無抵抗に殺されるのだけは御免であった。

「か……かかってこい……!」

 気を吐いて睨みつける権平に対し、
 お燐は唇の隙間から真っ白な牙をちらりと見せ、そして笑う。

「ぷっ、あっはっはっは! 冗談よ、冗談! あたいは自分の手で死体を作るなんて、そんな野暮な事はしない主義なんだ。あくまでも、見つけた死体じゃなきゃ運ぶ価値がない、ってね!」

 一瞬にしてお燐は殺気を脱ぎ去り、元の明るい口調に戻った。
 こうなってしまえば、目の前にいるのはただの少女にしか見えない。妖怪であるのか、本当に疑わしいくらいだ。
 権平は一気に毒気を抜かれた。さっきまで身構えていた自分が馬鹿らしくなる。まるで子供の悪戯にひっかかった大人の気分だ。

「……な、んだ。驚かせるでねぇ……」
「まぁ、お兄さんの死体が魅力的だっていうのは本当だけどね。素手で羆を倒したなんて聞いたら、ますます興味が湧いてきたよ!」

 円匙を地面に落とし一息ついた権平は、何か気が抜けたように口が軽くなった。
 それは、お燐の明るい語り口にも影響されてかもしれない。
 権平は初対面の、しかも妖怪に対して、普段は口にしないような事を喋り始めた。

「……おらは身寄りがねぇ。おらの墓なんて作っても、そこさ参る奴もいねぇ。おめぇは……命を救ってくれた恩人だ。だから、おらが死んだら、その死体さ運んでけでもいい。……むしろ助かる」

 身寄りのない自分の死体を処理してくれるとは、逆にお願いしたいくらいじゃないか。――そういう内容の話である。
 だがそれは口にしてみると、違和感のある言葉だ。
 そう、お燐の言動には矛盾がある。それに権平は気が付いた。

「……お燐、おめぇ。おらの死体が欲しかったなら、なんで湖さ落ちてったのを助けてけだんだ? 放っておいたら、おらは死体になってたでねぇが。おめぇは、それを持ち帰れば良かったでねぇか」

 それを聞いたお燐は、一瞬、目を見開いた。まるで、自分の行動の矛盾に、今、気付いたかのように。

「……あ、それはね。――水死体ってさ、ぶよぶよになっちゃって商品価値が下がるのさ。燃やしたって砒素にもなりゃしない。……だから綺麗に死ねるように、助けてあげたってワケ」

 “良い死体にする為”に命を助けられた。
 その何とも言えぬむず痒さに顔をしかめながらも、命を助けてもらったという事実に、権平は改めて頭を下げる。

「もっと良いお礼をしたいもんだが……。あいにくと、この有り様だ。おらには他にあげられるものがねぇんだ」
「いいよ、いいよ。本人から『死体を運んでもいい』なんて許可をもらえれば、まるで罪悪感もなしに燃やせるしね」
「あんだ、多少の罪悪感は感じてんのか? 人間を燃やすことに……」
「ううん。全然!」

 そこでお燐は再びクスクスと笑う。
 猫じゃらしで顔を撫でられるような、そんな会話のいなされ方をされた権平は、不機嫌そうに唇をとんがらせた。
 だがお燐は、そんな彼の表情を見て、ますます楽しそうに笑うのだ。

 しばし、ぱちぱちと木のはぜる音が小屋の中を支配した。

「……雨、あがった」
「あら、本当ね」

 彼の指摘通り、シトシトと振り続けていた雨はいつの間にか上がったようだ。雲間から覗く太陽の光が、屋根と壁の割れ目を通り、小屋の中に差し込んでいる。
 ちょうど囲炉裏の火は消えかけて、お燐の纏う着物もすっかりと乾いた様子である。

「……そろそろ、地獄さ帰った方がいいんでねぇか?」
「まだ死体を見つけていないもの、帰れないさ。……あ、そうだ! さっき湖に沈んだ死体! あれをもらっていこうかなぁ」
「駄目だ。あれも、おらが後で回収すっから。おめぇは手を出すな」
「湖に落ちちゃったのに? しかもあそこ、地すべりで崖みたいになって、とてもじゃないけど回収なんて出来ないわよ? お兄さん、あれを運ぼうとすれば、仲良く土左衛門になること間違いなしね」
「……それでも、運ばねばなんねぇべ。あのおなごの家族や恋人が、悲しむ場所さ作らねば。だから、あの死体を運ぶのは止めてけれ」
「そんな事いわれたらなぁ。ここら辺では死体が運べなくなるじゃない……。まぁ、どちらにせよ湖の死体は見逃してあげるよ」
「すまん。おめぇも、仕事だろうに」

 お燐は首を横に振り、権平に笑いかけた。

「ううん。水嫌いだから、あたい」

 お燐は勢い良く扉を開けて、雨上がりの空のもとへと飛び出した。
 そしてまるで無邪気な子供のように、どこかへと元気に駆けていく。
 その後ろ姿を見送った権平は、妖怪との会話が思いの外、悪い気分ではなかった事に自分でも驚くのだった。

「あぁ、バケモンと楽しくお話しをするとは。おらも、ヤキがまわったもんだなや」

 彼女がいなくなった小屋の中は、もう何年もそうであったにも関わらず、とても寂しいものに感じられた。権平はそのような感情を否定するように、首を横に振ってみる。
 そして彼はもう一度、囲炉裏へと火を着けた。この小屋は、一人でいるには寒すぎる。




    ◇    ◇    ◇




 墓守りという名の通りに、権平は朝の見張りを終えた。
 田舎の集落にある墓だ。高価な埋葬品を狙った墓荒しが居るわけでもない。
 だが野武士なんかが住み着いたり、たまに妖怪のようなものが屍肉を漁りにくる事がある。
 だから彼は毎朝と毎晩、こうして墓を見回っているのだ。

 特に最近は、ここらで屍肉を漁る野犬が出るという噂。
 しかも熊のように大きな体躯の化物との尾ひれもついているので、権平は武器代わりに円匙を持って用心していた。

「…………足あと、なし」

 小高い丘の斜面に作られた墓からは、辺りを一望できる。そこから見下ろせば、村から墓までの道に誰もいない事が分かるのだ。しかも雨で泥濘んだ道。足あとがなければ誰も通った者はいないという道理だ。
 野盗も噂の野犬も見当たらないと確認した権平は、朝の見回りを終えた。

 雨は昨晩に上がったものの、まだ地面に固さは戻っていない。彼は足あとを残しながら家に帰って来た。
 そして気付く。
 家の中へと続く小さな足あとと、玄関先に横たえられた仏様に。

「……なに?」

 まだ崩れきってはいない彼女へと合唱をしてから、その脇を通って玄関をくぐった。
 下手人は目の前にいる。

「おい、お燐」

 勝手に囲炉裏へ火をつけ、暖をとっている火車へと話しかける。
 彼女は濡れた着物を乾かしつつ、何事もないように「おはよう」と権平に挨拶した。

「……運んだのか」
「知らない。あたいが来たら置いてあったよ、そこに」
「……仏さんが歩いて来るわけねぇだろ。おめぇが、運んでくれたんだべ」
「分かんない」
「……なんで着物さ濡れてんだ」
「にわか雨降ったの、知らない?」

 権平はふっと息を漏らすと、踵を返してこう言った。

「……これから墓さ作ってくる。……ちゃんと火の始末しろよ」
「はーい」

 お燐の生返事を背中で受けつつ、権平は荷造りを始めた。
 大きな桶の中へ仏様を座らせ、それを丸ごと荷車へ載せる。
 彼の丸太のような腕とそこから産まれる剛力でなければ、とても出来ない働きであろう。

「……いってくる」

 小屋の中へと声を掛け、彼は荷車を引きながら駆け足気味に墓へと向かう。

 親の代から受け継がれてきた墓には、多くの仏が眠っている。だが土地にはまだまだ余裕があった。
 そこで権平は仏様が若いおなごという事もあり、天に昇るのが楽なようにと、特に見晴らしのよい小高い場所を選んでやった。

 そしてせっせと土を掻いて穴を掘り、そこへ桶を丸ごと入れてやる。
 最後に姿勢が悪くないか確認するよう、仏の身体を一瞥した。

「ん、なにか持ってんな……。何だべ」

 ふと、気付いた。死体の右手が何かを握り締めているのだ。ちらりと見える布地は、赤。
 後から遺族がやってきた時、形見になるかもしれない。権平は失礼を承知で仏の指骨を折って、その何かを引っ張り出した。
 それは、薬でも入れるような小さな巾着袋。真っ赤な染物の真ん中には、金の刺繍で模様が形作られている。

「……巾着だなや。……家紋付き。いいところのお嬢さんだったんだべか」

 だが死者が答えるわけもない。権平は無言のままの彼女へ合掌すると、桶の蓋を閉じた。
 昨日死んでいるのが発見されたので、今日の朝にはどこの仏だか判明している事だろう。
 報せを受けた家族が、墓へとやってくるに違いない。墓守りはそれを待つ。

 しばらく流れゆく雲を見て時間を潰していると、人里の方から老婆が歩いて来るのが見えた。
 一人でのろのろと歩く様子から、権平は察しがついた。――仏の母親に違いないと。

「おーい。こっちだ」

 大声で呼びかけると、老婆はゆっくりと顔をあげ、こちらへと軽く頭を下げた。
 それからしばらくして、老婆は娘の前にたどり着く。

「おおお、おおォ……」

 泣き崩れる老婆の後ろで、権平は赤い巾着と痩せこけた背中を見比べていた。
 金刺繍で刻まれた家紋は、恐らくこのあたりで一番の名家である「斎奇家」のものであろう。
 だが目の前で膝をつく老婆は、どう見ても百姓の格好である。一人でここまで来たことからも、名家の者とは思えない。

「……娘を、ありがとうございました」

 頭を下げる老婆に、権平は無言で巾着を差し出した。
 しかし、それを目にした老婆はひどく驚いたような顔になり、続いて固く目を瞑った。

「いえ、それは墓守りさんがお持ちになってください。売っても捨てても良いですから……」
「……分かった」

 受け取りを拒否した老婆は、目を腫らした痛々しい姿のままで、ゆっくりと里の方へ帰っていく。
 権平は桶の蓋を閉じ、その上から土を掛けた。そして急造の墓石を置いて、休憩に入る。

「……斎奇。……あそこのボンボンは、同じくらいの歳だったなや……」

 岩くれを置いただけの墓石を一瞥し、次に権平は人里のある方角を見つめた。行って帰って二刻ほどの距離。昼飯には間に合いそうだ。
 そして、それから一刻ほど後。権平は斎奇家の門前にやってきていた。

 武によって隆盛の最中にある斎奇家は、佳良な力を象徴するようにその屋敷も豪壮なものであった。
 正門の横幅だけでも、権平の掘っ立て小屋より大きいくらいだ。

「……来ちまった。……まぁ、ただの届けもんだ。すぐに帰るべ」

 そういえばお燐はまだ家にいるだろうか。届けものの礼にお金を貰えたら、秋刀魚でも買って帰り、奴にご馳走しようか。――その様に考えながら権平は、門の前で掃除をしていた丁稚に赤い巾着を見せてみた。

「……坊主。これ、届けにきた」

 丁稚はそれを見て、あの老婆と同じようにひどく驚き、そして門の中に消えていった。
 権平は何やら不穏なものを感じながらも、門の前で巾着を片手に立ち尽くす。

 そして、あっという間に屋敷の奥へと通された。

「……すみま、せん。汚い格好で、屋敷に入り込んで」

 元々の口下手に慣れない敬語が合わさり、まるで片言のようになってしまう。権平は頭を地面に擦り付け、努めて失礼のないように話す。

「いやいや、いいんだよ。えーと、墓守りの権平君だったかな」

 権平よりも幾分か歳の若い、斎奇家の跡取りである正一郎。彼は庭に跪く権平を見下ろし、まるで罪人を裁く代官のような態度でいた。
 それは当然である。彼と権平の間には、それほど身分の差があるのだ。

「それで……。君はどこでコレを手に入れたと言ったかね?」

 手の中にある巾着を弄びながら、正一郎が尋問するように問う。
 権平は何も包み隠さず、ありのままの事を話した。

「はぁ。今朝方、湖で首をくくってた仏さんを埋めたんですが。その仏さんが握ってたもんで……」
「……なるほど。……あの売女めがっ!」

 正一郎は悪態をつくと、忌々しさの張り付いた表情で、巾着を勢い良く投げ付けた。
 それは権平の顔にあたって、中庭を覆う白砂の上へと落ちる。

「……お知り合い、なんです、か。あの、仏さんと……」
「あぁ? そんなもんじゃないわ! 言っておくが、権平。この事を他言にすれば、己の首はいつまでも繋がっているものでないと思えよ」

 威圧するように腰から下げた刀に手を添え、正一郎は権平のつむじに向けて吐き捨てた。

「……承知しま、した。ただ、訳くらいは知りてぇもんで……」
「……いいだろう。お前なんか話す相手もいないだろうから、教えてやる。――これは吾が家に代々伝わる、由緒ただしき品。当主が受け継いでいく家宝なのよ」

 その家宝を投げ捨てるなよ。と思いつつ、権平は巾着を拾いあげ、丁寧に正一郎へと返した。
 それをひったくるようにして受け取ると、彼は腰の刀に手を置きながら苦々しい表情で続ける。

「……あの女、少し気を許したくらいで勘違いしやがって。家宝を受け取ったきり、俺と婚姻すると言ってきかん。そして結局、死ぬまで返さないとは……。とんだ盗人、屑よ」
「……正一郎、様。なら、なぜ、あなたさまは、あのおなごさ、大事な家宝を渡したんですか……」
「ふん。“ままごと”さ。百姓の自分が、本当に武家の俺と結婚できると勘違いして、思い込んだらしい」
「あのおなご、愛していた訳では、ねぇということ、ですか」
「墓守りなんかしてるだけあって、お前は本当に馬鹿だな。なんで俺が百姓と結ばれなきゃならんのだ。俺は今度、藩主の姪と契りを結ぶ。それで我が斎奇家は、ますます安泰という事よ。奴はそれまでの玩具に過ぎぬ。それを思い上がりよって……」

 権平は無表情のまま立ち上がると、ぺこりと頭を下げた。

「……ん? どうした。もういいのか?」
「ええ、あのおなごが、なんで首くくらんねば、ならんかったのか。それが気になってたもんだから」
「うん? まぁ、まぁ、不出来な玩具には“お似合い”の最期ではないか。自害など……無様な」

 正一郎の表情が、首を吊った女への侮蔑の色に染まる。
 対照的に、権平は見事なまでの無表情であった。

「正一郎、様。おらは、謝ります」
「……は?」
「謝りました、ので。殴り、ます」

 大柄な巨体が宙を舞った。
 少し離れた所で様子を伺っていた家来が、慌てて駆け寄る。だが、その距離はいささか遠すぎた。

 権平は怒った。
 面識もない、名前も知らない、死体になってからのみの対面であった。だが、彼女の命が侮辱されたのは分かった。だから彼は怒ったのだ。
 墓前で泣き崩れていた老婆の心を、目の前にいる男が踏みにじったと、頭ではない部分が理解したのだ。
 権平には、道理は分からぬ。難しい言葉も知らぬ。煩雑な話には滅法弱い。だが彼は人一倍に、人が人を傷つける事に繊細なのであった。

「うわ……」

 正一郎の右手が腰の物に伸びる寸前、その手を権平の右足が跳ね上げる。
 着地と同時に、権平の身体は正一郎へと肉薄した。

 怒りは入道雲のように、もくもくと湧き上がり、その怒りが全身の筋肉を肥大させたかのように作用する。
 権平は自身の力が、普段の幾倍にも強くなった気がした。いや、それを認識する冷静さは、今の彼にはない。

「痛ってぇ!?」
「謝れ!」

 刀を抜く機会を失った正一郎には、為す術がなかった。
 幼少より刀を用いた戦い方は叩き込まれてきたものの、素手による喧嘩。ましてや、目の前にいるような剛力の持ち主に対する戦い方は知らなかったし、存在しないのだ。

 喧嘩にすらならぬ。
 正一郎は、僅かばかし吊り上げられた。その胸元を怪腕に掴まれ、持ち上げられて。
 彼の顔は熟れた赤茄子のように真っ赤になった。

「あの、おなごの墓の前さ行って、謝ってごい!」
「が、ぐぐぐ」
「謝って、こい! 謝れ、拝め!」

 正一郎の首が締まったのは一瞬だけで済んだ。なぜなら権平は駆けつけた家来たちによって、あっという間に引き剥がされたからだ。拳によって顔面を強打された権平は、その手を緩めざるを得なかった。
 ましてや、権平がその怒りを向けたのは正一郎に対してのみであり、その家来に振るう拳はない。彼は無抵抗のままに殴られた。
 中庭に放り出されると、あっという間に蹴鞠のようにされてしまう。無抵抗な者に対する暴力は、嵐のような激しさで、しばらく止む事はなかった。

「こ、こいつ! 斬れ! この場で斬ってしまえ!」

 怒り狂った正一郎の声に、家来たちが反応して刀に手を掛けた。
 顔面にいくらかの殴打を受けた権平は、両の瞼が腫れ上がって、もはや周りが見えないほどになってしまっている。
 このままでは、首を撥ねられる。さすがの彼も、死への恐怖で背筋が凍った。

「そこまで! 庭を血で汚す気か!」

 だが、それを止める者の声。
 一瞬にして庭は静まり返った。

 そこから権平の耳に入ってきた会話によると、争いを止めたのは現当主であったそうだ。
 家宝をなくすような息子には、今回の騒動は良い薬になっただろう、とのこと。よって権平は完膚なきまでに殴られた事で、十分に罰を受けたという事もあり無罪放免。という事らしい。
 当主の大岡裁きによって、権平は命を拾った。正一郎ほど目上の者に暴力を振るって命が助かるのは、全くの幸運と言って良かった。

 権平がはっきりとした意識を取り戻したのは、斎奇家の門前に返された頃である。
 殴られすぎて意識がもやもやとしている。全身にくまなく痛みがあるせいで、どこを怪我しているのか分からない。全くひどい有り様である。

「…………がえっが」

 彼は「帰るか」と呟いた。唇が切れているせいか言葉も満足に紡げていないのだ。
 体力も気力も尽き果てた彼は、逃げるようにして帰路につく。
 延々と道を歩いていると、やがて日も傾いて空が赤らんできた。今日という一日は、一体なんだったのだろう、権平は血の味しかしない口中でぼやく。
 ようやく瞼の腫れがほんの少しだけ引いて、辺りが良く見えるように戻った。その視界にちょうど、傾きかけの掘っ立て小屋が入る。

「だだいま……」
「ぷっ。無様だねぇ」

 お燐がいると知っていての挨拶ではなかった。故に権平は返事があった事に驚く。
 彼女は囲炉裏で小屋の中を暖め、まるで権平が帰るのを待っていたかのように、嬉しそうに笑っていた。

「……まだ、いたのが……」
「あいにくと、怪我人が帰ってくると知っていたからね。色々と準備しておいたよ。……今、死なれたら傷物扱いだからねぇ。早く怪我は治してもらわないと、さ」

 言うとお燐は、どこから集めたのか薬草などを床に並べ始めた。
 だが、権平は薬草などよりも、お燐が自分の怪我を知っていたという事の方に驚きを隠せなかった。
 つまり彼女は、あの屋敷での騒動を見ていたという事か?

「……見てだのか?」
「うん。帰ってくるのが遅いからさぁ。死体は新鮮な内に欲しいから、道端でぽっくり死なれたりしても困るじゃない? そう思って、お墓に様子を見に行ったのさ。そしたらあんたが里の方に歩いていくじゃない。だから、こっそりと付いていって、そのままね」
「……無様だったべ、おら」
「そうだったねぇ! あのまま斬り殺されたら、どうしようかと思ったよ。本当。まさか屋敷の中で死なれたりしたら、流石のあたいも死体を持ち出すのが難しそうだったし……」
「……悪がっだなや」
「って、そんな事より……。さぁ、そこに座って! まずは傷を治さなきゃね?」

 お燐は権平を床に座らせると、着物をはだけさせた。そして問答無用で治療を始める。
 良い死体になる為に施される治療というのは、食べる為に肥えさせられる家畜の気持ちと同じだ。と権平は思う。

「いつも……こうなんだ」
「何がだい?」
「……昔から、こうなんだ。……融通もきかねぇし、見境もねぇし。……だから、皆から嫌われてんだ」
「……あぁ、嫌われ者なんだ。だから、こんな変な所に一人住んでるんだね」

 慰めも、庇いも、全くない言葉。そんなお燐の言い方は、権平にとってはむしろありがたかった。
 彼にとってお燐との会話は、苦ではない。

「……秋刀魚」
「ん?」
「……おめぇ、猫だから秋刀魚好きだべ。……そう思って、駄賃で秋刀魚を買おうと思ったんだ。あのままボンボンに頭を下げったら、もしかしたら駄賃くらいけたかもしんねぇ。……それが、おらの暴れたせいで、ビタ一文ももらえんかっだ。そのせいで、手ぶらで帰ったんだ」
「なんだい、そりゃ勿体無かったねぇ。でもあたいは、あそこで黙っている腑抜けよりは、ひと暴れするくらいの男の方が好きだけどね!」
「……人間の世界では、それが通らねんだ」
「損な性格でも、さ」

 背中に刻まれた大きな痣に、磨り潰された薬草が塗り込まれる。
 その肌を焼くような痛みに耐えながら、権平は滔々と語り始めた。誰にも話したことのないような、自分と家族の話。――他人に昔話をするなど、生まれて初めての事だ。

「……親父が腰痛めて、お袋が病気で倒れて。おらは、小さいころから墓守りの仕事さしてきた。……餓鬼の頃、桶しょって道歩いてっと、歳の近けぇのが寄ってたかって馬鹿にすんだ。ウスノロ、オシってよ」
「……あんた、無口だからねぇ。こうして喋れば、ちゃんと喋れるのに。勿体無いよ、あんた」
「話すのが苦手なんだ。……話してっと、さっきの屋敷でみたぐ、頭に血が昇ったり……とにかく駄目なんだ。だから、うんと不思議なんだ」
「何が?」

 上半身の治療を終えると、お燐は顔に薬を塗り始めた。膨れ上がった顔はいつもの倍ほどにもなっている。その痛々しさには妖怪のお燐も、思わず息を呑んだ。
 顔への塗布が終わると、権平は言葉を再開させる。

「……不思議なんだ。おめぇと話せている事が。人間同士よりも、妖怪のおめぇとの方が、よっぽど話せてっぺ」
「ふふん。あたいは口上手だからね! 地底でも友達が多いんだ。……あんたと違ってね」
「……羨ましい限りだ。おらも、おめぇみたいな友達が欲しかったなや……。そったら、もっど、ましな人生だったかも知れないべ……」
「そんなにヒドイかねぇ。あんたの人生。まぁ、今は間違いなくヒドイ状態だけどね。あははは!」

 お燐はそう言って、彼の顔を指さしケラケラ笑ったが、怪我をしている本人にとっては笑い事ではない。権平はたちまち機嫌を損ねた。

「……やっぱ、おめぇのような、口悪いおなごさ、おら嫌いだな」
「あら、やだ。本気にしたのかい? 冗談だって!」

 治療を終えた頃には、外はすっかりと暗くなってしまった。
 それより何より、権平は飯を食べていない。昼飯すらも食べていないものだから、流石に腹が「飯を、飯を」と喚いている。
 治療中もぐぅぐぅと鳴り止まないものだから、お燐も「お腹空いてるのかい?」と何度も心配したものだ。
 だが身体の怪我が重すぎて、どうにも食欲が湧かない。身体が受け付けないというのが現状である。

「ねぇ、食べるもの食べないと、治るものも治らないよ?」
「……ごもっともだ。食べる気しねぇけんど……食べるか」

 お燐の説得もあり、彼はようやく飯を食べる気力を取り戻した。

「おめぇも、食ってくか?」
「いいのかい? あんた、人に奢るほど裕福には見えないけど」
「……なんだかんだと、世話になってっから。まぁ、言うほどの馳走なんかねぇんだども」
「あたいは味にうるさくないからね。食べられれば、それでいいさ」

 お燐の返事を受け、権平は飯の準備にとりかかった。
 荷物の山の中に隠してある米びつを取り出し、古びた釜で飯を炊き、大事にとってある山菜を添える。そこにぬるま湯を掛けて、茶漬けのようにする。
 これで夕飯は完成である。

「猫まんま、ではないけども。口に合うか、分かんねぇど。あ、玉ねぎはおめぇの方には入れてねぇから」
「へぇ。案外と美味しそうじゃないかい。じゃ、頂きます!」

 二人は囲炉裏の周りに座り込み、夕飯を食べ始めた。
 傷の痛みで飯を食べるのも一苦労の権平とは対照的に、お燐はあっという間に一杯のご飯を平らげる。
 そして満足そうにお腹へと手をあてた。

「ふぃー。やっぱ美味いね。ごちそうさま!」
「……食うの早ええな。腹減ってたのか?」
「あたいは早食いなだけさ」

 権平が食べ終わるまでの間、お燐はただ囲炉裏の火を見つめていた。
 その顔に照り返される丹色は、彼女の灼熱のような髪の色と合わさって美しい。
 権平もしばし、それに見とれていた。

「あんたさぁ」
「……な、んだ?」

 話しかけられ、思わず口ごもる。
 それに構わず、お燐は続けた。

「人間の世界で蔑まされてるんなら、地底へ来なよ」
「……なんで?」

 当然のように、権平は反問する。

「地底はさ、地上で嫌われた妖怪が集まっているところなんだ。そこならきっと、あんたも馴染むんじゃないか、って思ってさ」
「……馬鹿いうでねぇ。おらはバケモンになった覚えはねぇし、墓守りの仕事もあんだ」
「大丈夫。バケモンでなくったって、地底には来れるし。仕事だって、あたいと二人で死体運びすりゃいいのさ。あんたは地底に墓を作って、あたいは灼熱地獄でくべてやる。これでいいでしょ?」
「地底に墓作ったって、意味ねぇべ。拝む人がいねぇんだから。妖怪が墓参りすんなら、まだ分かるけど」
「あ、それもそうね。妖怪は墓参りなんてしないもん。……うーん、地底には来ないのかぁ。……あ、だけどさ! 死体を持ち帰る約束は、ちゃんと守っておくれよ? 運ばれる時になって急に『嫌だ墓に入れてくれ』なんて言いださないでね」
「……死体が、墓に入れてくれ~、って喋るわけないべ」
「あ、それもそうね。あはは!」

 やがて権平も飯を食べ終わり、食器を床に置いた。
 しばし小屋の中は、木の焼ける音と外からの風が通る音だけになる。
 炎の揺らめきで変わる小屋の中の照明は、お燐が傍らに近寄ってきていることを、権平に気付かせなかった。

「おわ、おめぇ」

 気付いた権平は、思わず身を引く。
 目の前に、お燐の白い身体が迫っていた。そして、上目遣いの赤い瞳が薄暗い中で、いやに光っている。

「あんたさぁ。景気よくポックリ逝かないかねぇ……」
「……気長に待ってけれ。あと20年は生きるつもりだ」
「今のあんたが最高の状態なのにねぇ。年取って筋肉が萎んだら、死体としての価値も下がってしまうんだから」
「……怪我でも駄目、寿命でも駄目。なにで死ねば、おめぇは満足なんだ?」
「脳卒中。が一番ね!」
「……なんだ、そら」
「それで出来立てをすぐ、灼熱地獄で燃やしてあげるのさ。あぁ、この太い腕が炭にもならずに焼失する所を想像してるだけで、涎が出てくるよ……。ふふ」

 ニヤリと笑ったお燐が、その鋭い爪で権平の腕を撫でた。
 固い皮膚に尖った爪がひっかかり、カリ、と香ばしい音を小屋の中に響かせる。
 肩と肩が触れ合い、耳を覆う毛が鼻先をさすっていく。
 お燐の身体の柔らかさに、権平は驚いてしまった。

「……なにすんだ、おめぇ!」

 瞬間、権平はお燐の身体を突き飛ばした。
 まるで無防備だった彼女の華奢な体躯は、風に舞う木の葉のように吹き飛んで、小屋の薄い壁にぶつかった。

「あ……すまね……」

 咄嗟とはいえ乱暴をしたことに謝る権平。
 だが起き上がったお燐は、特に痛がりも怒りも悲しみせずに、クスクスと笑っていた。
 そして唇に人差し指をあて、猫なで声を漏らす。

「嫌いだったかい? あんまりベタベタされるのは……」

 お燐に対して、権平が今まで思っていた姿。
 それは、底抜けに明るい少女。または死体愛好家の愉快な妖怪。
 だが彼女が今その顔に浮かべているのは、それらの印象を全て吹き飛ばす、妖艶な笑み。
 権平は先日のものとはまた違う、強烈な寒さを背筋に感じざるを得なかった。

 このままでは、くわれる。
 本能で悟った権平は、喉から声を振り絞り、拒絶した。

「別に……。ただ、おらは……猫が、嫌いなだけだ」
「……そっ」

 お燐はゆっくりと目を細めた。その赤い瞳は、薄暗い中で寶石のように光ってみせる。
 権平は吸い込まれるように、彼女の瞳を見つめた。だが、視線は合わない。お燐は彼のまなざしからひらりと身を躱し、夜の闇の中に消えていった。
 開け放たれた扉からは、生暖かい風が吹きこんでくる。

「あいつ……。黒猫、だったべな……」

 小屋の中にひとり残され、尻餅をついたままの男は、全身を冷や汗が濡らすのに気付く。握りこんでいた手を開けば、雫がぽたりと落ちた。
 囲炉裏の火はまだ消えていない。だが権平の身を覆う寒さは、先ほどまでとは比べ物にならないのであった。




    ◇    ◇    ◇




「それで、お屋敷に夜な夜な化猫が出るそうなんだ。息子なんか呪いだ呪いだって騒いで、すっかり弱ってるらしい」
「……そうか。災難だなや」
「なぁ、権平や。お前さん、何か知ってるんじゃないか?」
「……なんで、おらに訊くんだべか?」
「有名だぜ。お前が斎奇家に殴りこみにいって、返り討ちになったって」
「……おらは殴り込みなんかさ行っでねぇし。……仏さ運ぶけんども、バケモンを遣わすことなんて出来ねぇど」
「……そうか。確かにそうだよな。それじゃ、またな」

 又佐が帰っていくのを見送りもせず、権平は墓に生えた雑草をむしり続ける。
 その様子に、墓石の陰で座り込んでいたお燐は呆れた。

「やれやれ、唯一の友達にもそんな態度だから、人間に嫌われるんだよ」
「……又佐は友達ではねぇ。ただ同じ年に生まれただけだ……」
「はぁ、これだ」

 お燐は立ち上がるとぴょんと跳ね上がり、手近な墓石の上に腰を降ろした。
 それには権平も素早く反応する。

「こら。墓石の上さ乗んな」
「あ、ああ。すまないねぇ。猫のクセが抜けなくてさ。このくらいの高さにある物には、ついつい乗っかりたくなっちゃうんだよねぇ」

 慌てて地面に降り立った彼女は、自分の頭を軽く小突く。
 権平は叱りはしたものの、取り立てて責める訳でもなく、そのまま雑草取りを続けた。

「……そのくらいに、しどけよ」
「ん? 何の話さ?」
「……怪我でもしたら、つまらん」
「……ねぇ、なんで草むしりなんかしてるのさ? こんないい天気なんだから、散歩にでも行こうよ」

 確かに久々の快晴である。外で遊ぶには絶好の日和だろう。だがそれはすなわち、外で仕事をするのにも絶好の日和ということ。
 そして権平は遊びを知らぬ。だからこうして仕事をしているのだ。

「……おらは、墓守りだ。草っこさ抜くのも、おらがせにゃならん」
「つまんないの。権平は、それで生きていて楽しいのかい?」
「……生きていて楽しい、か。考えた事もながったなや。楽しいとか、楽しくないとか、考えていねぇんだ」
「もう、しょうがないなぁ。あたいが手伝ってやるから、早く終わらせて遊びにいこう」

 そう言うとお燐は権平の傍らにしゃがみ込み、地面から生えている雑草をむしり始めた。
 権平はそんな彼女の横顔をちらりと見て、昨晩の姿を思い出す。
 あの妖艶な笑み、妖しく危険な仕草。そんな姿はまるで嘘だったかのように消え失せ、今の彼女は以前と同じく“明るい少女”に戻っていた。

「……おめぇ、家族はいんのが?」
「なんだい、唐突に」
「……おらばかり色々と教えて、おらはお燐の事さ分かんねぇ。不公平でないが」
「ぷっ。権平らしくもないね、他人の事を気にするなんて」
「……おめに、おらの何が分かんだ」
「分かるよ。そこらの人間なんかよりは、よっぽどね」

 権平は額から垂れた汗を拭い「そうかも知んね」と呟いた。

「あー、もう!」

 突然、お燐が苛立たしげに声を上げた。
 どうやら、彼女の腰まである長い髪の毛が、雑草むしりにはしごく邪魔だったらしい。

「ちょっと、権平」

 お燐は黙々と作業を続ける男を立たせると、一本の黒い紐状の織物を取り出した。

「髪の毛が邪魔なんだ。結んでくれないかい?」
「……なんだ、これ」
「リボンっていうの。南蛮渡来のお洒落な品物だよ」
「……分かっだ。後ろさ向け」

 権平はそれを受け取ると、お燐の髪の毛をひとつに束ね始めた。
 初めて触るリボンとやらだったが、使い方は何となく分かるものだ。

「教えてあげようか? あたいの家族」
「……ああ」

 後ろ向きのままで、お燐は始めた。
 権平も髪を結いながら、耳を傾ける。

「あたいは地底で御主人様に飼われているんだ」
「……なんと、飼い猫だったんだべか」
「うん、そうだよ。それで御主人様と、その妹。あとは妹分のおくうが、あたいの家族かな」
「おくう、ってのも。……火車、なのがや」
「違うよ。おくうは地獄鴉。最近になってね、人の形に成れるようになったんだ。それまでは、そこら辺を飛んでる烏とあまり変わらない姿だったのさ」
「……妖怪変化か。……ってぇことは、お燐も元々は獣の姿だったのが?」
「あ、いや。なんていうか……獣の姿は疲れるからねぇ。あたいはいつも、この姿なのさ」
「……そうか。――よっと。これで、いいのが?」

 話が終わると同時に、お燐の髪も整ったようだ。
 長かった髪はしっかりと結い上げられ、動きまわっても邪魔にならないようにされた。

「……うん。ばっちりだね。なんだい権平、女の髪の扱いが随分と上手いじゃないか?」
「……別に。草鞋編むのと同じだべ」

 そういって権平は再び草むしりを始めようと、視線を地面に戻した。――そして勢い良く顔を上げ、再びお燐の顔を凝視する。

「な、なんだい? あたいの顔に何かついてる……?」
「……おめぇ。……耳が、4つある」

 そう。今まで長い髪の毛で隠れていたのだが、実はお燐には頭頂部から生える獣の耳の他に、人間と同じような耳が備わっていたのだ。
 髪の毛を結い上げた事であらわになったそれは、権平をひどく驚かせた。

「あ、ああ。知らなかったのかい? この姿の時、音は人間の耳から聞こえるようになってるんだ。こっちは飾りさ」

 そう言ってお燐は、毛に覆われた耳をピクピクと動かしてみせる。

「……そうが。いや、悪がったな。変に驚いで」
「あっはは。確かにこの姿は妖怪でも珍しいんだ。あたいが人間への変化を頑張りすぎたせいで、耳まで人間に……」
「人間への変化を、頑張っだ?」
「あ……。いや」

 権平の鋭さが、またもお燐の矛盾に気付いてしまった。
 お燐は獣の姿になるのが大変だと言っていた。だが今は人間変化の方が大変だと言っている。
 どちらか、彼女は何か、嘘をついているのだ。
 少し、気まずい空気が流れる。

「そ、そうだ! 権平、知ってるかい? 猫の肉球って、触ると気持ちいいんだよ」

 お燐は咄嗟に権平の手をとると、自分の手と合わせてみせた。

「……それは知ってっけど。おめ、手はまんま人間でねぇか。肉球なんてないべ」
「あ、あはは。そうだよねぇ」

 二人の間に、再び沈黙が訪れた。
 あからさまな話題の変え方。そして、あんな下手なやり方をするほどに、お燐は焦っていた。
 つまり権平についた嘘がバレる事で、彼女には何らかの不利益があるということ。
 権平はごくりと喉を鳴らし、お燐の顔を見つめた。それから逃れるように、彼女は目を逸らす。
 沈黙は、互いの意地の張り合いのようになった。

 それを打ち破るのは、お燐でも権平でもなく、第三者の声だった。

「おーい、権平。そういや、お前に貸した笠、そろそろ返……」

 墓の陰から、ひょっこりと現れた又佐の顔。
 その瞳がお燐の姿を捉え、やがて恐怖にひきつるのに時間はかからなかった。

「う、うわあぁぁぁ!」

 妖怪変化の姿を見た青年は、悲鳴をあげながら墓地から逃げ出す。
 無論“それ”と権平が一緒にいたのを――恐らくは談笑していたことも――しかと見届けただろう。

「あっ……!」
「……参ったなや、こりゃ……」

 脱兎の如く逃げ出した彼の背中は、あっという間に村の方へ消えていった。
 それを為す術も無く見ていた二人は、やがて事の重大さに気付く。
 権平は妖怪と話している所を見られてしまったのだ。もしも又佐がそれを人間たちに言いふらしたとしたら、斎奇家に夜な夜な現れる化猫も、権平の仕業と思われるに違いない。
 下手をすれば権平までもが化物だと思われるかもしれない。

「ご、ごめん。あたいのせいで……。人間が近づくのに、気が付けなかったなんて……」
「……いい。気にすんな」
「で、でも。たった一人、権平に話し掛けてくれる人だったじゃないか、あの男は。そんな人に避けられるようになったら、あたい……」
「……言ったべ。又佐は友達ではねぇ。……墓守りとの連絡役っちゅうことで、嫌々ここに来てたんだ、あいつも」
「そんな。あの、でも」
「……それに。もとから、おらは人間に嫌われてんだ。これ以上、嫌われることもねぇべ」

 この話は終いだ。とでも言うように、権平は草むしりを再開した。

「権べ……い」

 お燐は唇を噛み、その背中を見つめ、やがてふらりと姿を消してしまう。
 彼女もこれ以上は、耐えられなかった。草のない地面をいつまでも掻く彼の姿は、もう見ていられなかったのだ。




    ◇    ◇    ◇




 権平は8つの時に両親を亡くした。以来、独りで生きてきた。
 黙々と死体を運び、埋葬する。その対価として、僅かばかりの食べ物などを里の人間からもらう。そうして一人で過ごしてきた。
 だがこの頃の掘っ立て小屋の壁には、夕飯時になると人影が二つ、囲炉裏の火に照らし出されていることが多かった。

「いやぁ、美味しいねぇ。ご馳走様!」
「……そだら、良かった」

 お燐はここ最近、権平のところに入り浸りになっていた。そして彼もそれをとやかく言わず、飯を食べさせているのだ。

「悪いね。貴重なご飯を、あたいの為に使わせて」
「……いんだ。おめぇのおかげで命さ救われたし、傷もすっかり治ったし。それに独りで食うより……美味いもんだ」

 権平の言葉に、お燐は驚いたように彼の顔を見つめ、そして嬉しそうに肩を揺らした。

「へぇ! ……変わったねぇ。会った頃の権平は、そんな事いわなかったよ」
「……おらは、変わってねぇ。ただ、おめぇが分かってくれただけだべ。……おらも好きで嫌われてる訳でねぇんだ」

 やがて権平は飯を食べ終わり、食器を片付ける。することのない二人は、しばし火にあたって暖をとる。
 お燐の耳としっぽがゆらゆらと揺れて、気持よさそうにしている。それを見る権平は、相変わらずの無表情の中にも、何か落ち着いたものを内包していた。

「それにしてもさぁ」

 お燐はいたずらっぽく、上目遣いで問うた。
 いつだって、話を切り出すのはお燐からだ。そうでもしなければ、権平は口を聞くことなどないのだから。

「権平はいい年こいて、お嫁さんもいないのかい? もらうアテくらい、ないのかい?」

 そんな失礼な言葉にも、権平はただ無表情で、しかし僅かに憮然を感じさせる声色で返す。

「……おらは、こんな性根だし……。墓守りのとこに来る嫁なんていねぇ……」
「えー? だって、権平のお母さんは、お父さんのところにお嫁に来たんだろ?」
「……お袋みたいな物好きな人、そうそういねぇんだ。それにだ、親父は、おらと違って皆に嫌われていた訳ではねぇしな……」

 権平は静かに唇を閉じ、ぼうっと焔が踊るのを眺め始める。
 その向こう側にある猫の顔が柔らかく微笑むのに、彼は気付かなかった。

「じゃあさ、あたいがお嫁さんになってやろうか?」
「……誰のだ」
「権平の」

 彼は炎の向こう側を覗き込んだ。
 そこにあるのは、陽気で口達者な少女でも、妖気を振りまく妖怪でも、一晩だけ見せた妖艶な女でも、いずれの顔でもない。
 権平は、初めて火焔猫燐の顔立ちを見た気分になる。

「……バケモンを嫁にもらって、どうすんだ」
「昼は一緒にお墓を見張って、ご飯を食べさせてもらって、夜はまたお墓を見張りにいくんだよ。それで仏さんがあったら、あたいも運ぶのを手伝ってやるんだ」
「……今と、変わんねぇべ。それでは」
「そうだねぇ。いいじゃない。今のままで」
「……おらは、ごめんだ」

 首を横に振り否定すると、湯のみに注いだ温い白湯をお燐に渡す。
 その表情には、静かな笑みが浮かんでいる。

 お燐は構うものかと喋り続けた。

「墓守りの仕事がなければねぇ、権平も地底に来れるのに。“地獄”と言っても、実際にゃ気ままで楽しい暮らしが送れる場所なんだよ」
「……生きた人間、地獄へは行けねぇべ」

 権平は唇を曲げ、笑った。
 お燐は喋り続ける。

「さとり様はねぇ、とても優しい御方なんだ。こいし様は何を考えているか良く分からないけど、そこは権平と似てるかもねぇ。おくうは忘れっぽいけど、明るくていい奴さ」
「……そうだな。お燐には、おらの考えてる事は分からねぇべ」

 権平は肩を揺らし、笑った。
 お燐は喋り続ける。

「おくうの他にも色んな獣がいるよ。その中でもあたいは特別に力が強いし、さとり様の古くからの飼い猫だからねぇ。あたいの旦那になっておけば、地獄でも良い扱いを受けられるはずさ」
「……妖怪に、だべ」

 権平は瞼を閉じ、笑った。
 お燐は喋り続ける。

「そう! 権平は地霊殿の賓客だ。きっと、みんな歓迎してくれるはずさ! さとり様もおくうも、こいし様だってきっと。それで、死体になるまで、あたいと一緒に……」
「……黙れ」

 お燐は黙った。

 小屋の屋根を支える梁が、みしり、と音を立てる。
 はたと気づけば炎の向こうには、自分を睨む男の顔。憤怒に駆られた男の顔。
 お燐は、初めて権平の顔立ちを見た気分になる。

「あ、え……」
「……こんな馬鹿げた事はねぇ……」

 乾いた音が響く。権平の手によって地面に叩きつけられた椀が、粉々になって散った音。
 破片は囲炉裏を飛び越え、お燐の足元にも届いた。

「寄ってくる生き物は化猫だけ、しかも自分が死体になるのを待ってるだけだ。……ははは、嫌われ者のおらには、お似合いだってが……?」
「え、その……あたい……」
「出てけ……」
「ち、違……」
「出てけ!!」

 権平の右腕が、燃え盛る焚き火をなぎ倒した。木くずが辺りに散らばり、お燐は思わず腕で顔を覆う。
 小屋の中には暗闇が訪れ、そして、無言が支配する。
 今までのものとは、まるで違う無言。それはお燐の身体を、自然と戸口へと向かわせた。

「……あたい、そんなつもりじゃ……」

 消え入るような声で呟き、そして彼女は去っていった。
 いつものような元気の良い姿ではなく。その後ろ姿は、亡霊のように儚く、静かだった。

「……あ」

 小屋の中には、いつかのように生暖かい風が吹きこんでくる。
 だが、あの時とは違う。権平はそれを分かり、地面へと腰を降ろした。
 そして、勢い良く右腕を地面へと振り下ろす。たちまち拳の皮膚が破れ、鮮血が滲む。だが、それに構わずもう一発、振り下ろした。

「……おらは、なんでこうなんだ……。いつも、いつも……!」

 右腕を僅かに抉る火傷の痛みよりも、右手を激しく削った裂傷の痛みよりも、今は胸のまんなかにこみ上げるものが、なによりも彼の瞳に涙を湛えさせる。
 彼は思い出していた。
 湖に落ちそうになった自分を救う手。炎に照らされる明るい笑顔。こっそりと死体を運んでくれた彼女。それを隠そうとする小さな背中。傷の手当をしてくれた柔らかい手。

――そうだ。彼女は全部、嘘だった。

 自分が彼女を、口汚く罵ることなんて、許されている訳がなかった。

「ああ……。そうだった……」

 権平は勢い良く立ち上がると、戸口から飛び出す。
 そして慌てて周りを見まわした。辺りを包む闇の中には、あの赤い瞳が見当たらない。彼女はもう、どこにもいなくなってしまった。
 この日以来、お燐が彼の家に来ることはなかった。




    ◇    ◇    ◇




「何が目的なのか? 金かね?」

 斎奇の当主は静かに語りかけた。その周りを守る侍たちは、いつでも刀を抜けるようにしている。
 それはまるで、鬼夜叉とでも対峙しているかのような緊張の面持ち。
 対する墓守りは褌一丁で水浴びをしながら、彼らには一瞥もくれないでいる。

「き、貴様! お前のような者が斎奇様の問いかけを無視して良いと思っておるのか!?」

 忠信深い部下は、当然のように激昂する。だが当主はそれを窘めた。

「待て。……権平殿。息子に頭を下げさせろというなら従わせよう。この土地から離れ、裕福に暮らせるくらいの金が欲しいなら用意しよう。――だからどうか、化猫を遣わすのを止めて欲しい」

 権平は身体を洗い終えると、ようやく彼らの方へ振り向いた。
 そして、大きくため息をつく。

「……おめぇさまも、分からねぇ人だなや。その妖怪とおらは、何の関係もねっつの。おらに言われたって、どうしようもねぇだ」
「嘘をつけ! お前が妖怪変化と付き合いのあることは、村中の人間が知っているんだぞ!」

 今にも斬りかかりそうな部下を抑え、当主はじっと権平の瞳を見た。
 彼は目線を合わせようとせず、手ぬぐいで身体を擦り乾かしている。

「……噂だべ、そんなもん。……斎奇様も、信じておるんですか。そんな戯言さ」
「いや……。それは……」
「まぁ、その化猫のことは知らねぇけども。……もう現れねぇんでないすか? しばらくして、また現れたら来てくだせぇ。……もう、見回りさ行きますんで」

 さっさと着物に袖を通し、彼らの脇を通り抜ける。
 その背中には、化物を見るかのような畏怖と侮蔑の視線が突き刺さる。

 やがてその姿が見えなくなると、斎奇の一門はわっと沸いた。
 無論、墓守りを許すまじという声でだ。

「さ、斎奇様……! あやつは絶対、あの化猫と関わり合いですよ!」
「そうです! 今すぐにでも拷問にかけるべきです!」
「……だが、例えそうだとしても。彼にはもう、その気はないのだろう。先程の言葉には、そういう意味が込められていた……。我々も無用な手出しは控えるように」

 あくまでも穏便に済まそうとする主の言葉に、なおも家来たちは食い下がる。

「しかし……。このままでは面体というものが……」
「二度も言わせるな。我らの面体の為に、村を妖かしの恐怖に晒せというか」

 一言。斎奇の当主には、これで人を従わす力がある。

「……はっ。承知しました」

 彼らは大人しく引き上げ、以後、権平に関わることもなかった。
 そして事実、屋敷に妖かしの類が出ることもなくなり、斎奇家は元通りに平穏な日々を取り戻した。
 同じように、掘っ立て小屋に客人が訪れることも決してなかった。




    ◇    ◇    ◇





 お燐がいなくなってから、既に半月ほどが経つ。権平はいつも通り、一人の生活に戻っていた。
 今日も息を切らしながら、死体を運ぶ為に荷車を引いている。それは、まるで変わらない日常だ。

「……これは、ひでぇ」

 改めて屍体を視て、思わず吐き気を催す。
 首から上を噛みちぎられ、喰い殺された死体。旅の者か知らぬが、この街道に死体が放置されているのもおかしな話だ。以前ならばすぐ、死体を片付けるように権平の元へ話がくるはずだったのに。
 こうして彼が発見するまで仏様が放置されていたということは、つまりそういう事なのだ。

「……くぁ。これは……」

 思っていたよりも傷みが激しい。屍体の発する腐臭が彼の鼻腔をつついた。
 だが構わずに桶の中へと片付けてやる。落ちた肉片は、円匙で掬って桶へと入れてやる。地面に残る血は、そのうち雨が流してくれよう。

「……はぁ、……はぁ」

 墓地を登る足取りは覚束ない。桶をしょった身体は息を吐く度、大きく上下する。
 行き倒れた死体を片付けても、権平の得にはならない。これは正真正銘、無償の奉仕である。それでも彼は、必死になって埋葬を進めた。
 土を掻き出し、桶を埋め、土を掛ける。墓石代わりに石塊を置いてやり、その辺りに生えていた花を備えてやった。

「災難だったな、おめぇも。……噂の野犬にでも、やられたんだべか……?」

 凄惨な最期を遂げた彼へ向け、丁寧に合掌をする。――土の中に入れば、死の痛みも忘れて安らかに眠るのだろう――権平はそのような死生観を持っていた。
 だからきっと、志半ばで獣に喰い殺されてしまった彼も、自分の埋葬によって報われるのだ。そう思うからこそ、彼は墓守りを続ける。

「それじゃ、極楽にいけるようにな……」

 権平はもう一度、長く手を合わせ、墓を後にした。
 家に帰ってくると、荷車を玄関に止め、次に使う桶をあらかじめ荷台に載せておく。これでいつ、死体を運ぶことになっても大丈夫だ。
 村から支給されていた桶も、残り少なくなってきた。これが無くなれば、自分は仕事を続けることが出来ない。――いざとなれば、仏はそのまま土に埋めるしかない。

「……ただいま」

 返事があることを期待していた訳ではない。
 だが彼はこの半月、欠かさずに挨拶をしている。家から出かける時、ご飯を食べる時、寝る時、起きる時、家に帰って来た時。挨拶をしている。
 そして必ず返事がない事を確認すると、納得したように頷き、囲炉裏へと火を灯すのだ。

「……人間は、独りでは……生きて、いかれねぇんだ」

 権平の口から漏れた言葉は、小屋の中で静かに消えていった。




    ◇    ◇    ◇




 地獄の蓋、地霊殿。その一室にお燐はいた。
 獣たちの中でも特別に格の高い彼女は、地霊殿の主であるさとりからも寵愛され、個室を与えられている。
 洋風の調度品が並ぶ室内、大きな化粧台の前に座った彼女は、先程から響くノックの音を無視していた。

「おりんー、入るわよ?」

 返事がないのを返事と思ったのか、おくうが扉を開いて入ってきた。
 それでもお燐は顔をあげようとせず、ずっと腕の中に顔を埋めている。

「どうしたの? 具合でも悪いの?」
「……おくう」

 心配そうに肩に手をやる友人は、察して帰ることはないだろう。お燐は観念して顔をあげた。

「うわ、どうしたの? 目が真っ赤だけど……悪いものでも食べた?」
「……心配しないで、さとり様にも言わなくていいから」
「えぇ、だけど……」

 それでも食い下がろうとする彼女に、お燐は懐から取り出したものを差し出す。

「おくう、これ欲しがってたでしょ。あげる」
「え! いいの! ありがとう!」

 漆塗りの櫛を受け取ったおくうは、先ほどまでの心配はどこへやら、喜びのあまり小躍りしながら部屋から出て行ってしまう。
 それを見てため息をつくと、お燐は再び顔を伏した。

「お燐、入るわよ」

 ノックをせずに扉を開ける。それが許される立場にあるのは、地霊殿でただ一人だけだ。
 さとりの声を聞いたお燐は、ぐっと嗚咽を飲み込むと、顔を上げた。
 そして、こちらへと近づいてくる主人に向け、明るい笑顔を向ける。そして口からも、とびきりに元気の良い台詞を吐いた。

「あっ、さとり様! 火焔猫燐、実は帰って来ていました! えへへ」
「お燐、あなた……」

 ここで普通ならば「どうしたの?」というように心配の意味を込めた質問をするのが、飼い主や家族の立場であろう。
 だが心を読めるさとりには、そのような言葉は必要なかった。彼女たちの間に、相談は必要ないのだ。
 さとりという妖怪は、相手の顔を見るだけで、その胸のうちを全て分かってしまうのだから。

「さ、さとり様……! 違うんです、違うんです!」

 それを理解しているお燐は、必死に否定した。
 だが、口にする言葉と本心の齟齬は、目の前の相手が一番良く分かってしまう。

「……なるほど。おかしいと思ったわ。急に櫛を欲しがったり、リボンを欲しがったり……。人間の男を悦ばせる方法を聞かれた時は、どうしようかと思ったけど……」
「違うんです……。あたいは、あたいは……さとり様を裏切るつもりなんて……」

 ついに涙を落としたお燐を、さとりは抱きしめた。
 自分はお燐の胸のうちを知っていても、お燐は自分の胸のうちを知らないのだ。だから、言葉にして伝えなければならない。――さとりは、静かに語り始めた。

「お燐、私は怒ってなんかいませんよ」
「うぅ、あたい……。あたいは、さとり様を裏切るつもりじゃ……」
「お燐、いいんです。運命の相手というのは、出会った順番で決まる訳ではないのです。時として、運命とは逆らった出会いが訪れることも、あるんです。……だから、行きなさい」
「あたい、さとり様と別れたくないです。おくうやこいし様とだって、別れたくない」
「私も、お燐と別れるのは寂しいですよ。ただ、残酷な事を言いましょう。人間は生きて後30年です。……30年くらいの辛抱なら、喜んでしましょう。それでお燐が幸せになれるのなら……」
「さとり様……」

 主人の胸から顔を離すと、お燐の涙は止まっていた。
 彼女は、地上で生きていく事を決めたのだ。

「色々と面倒な事は、私が引き受けておきましょう。上にも話はつけておきます」
「さとり様、その……あたいは……」
「大丈夫。全て分かっていますよ」

 お燐の頭を撫でて、さとりは慰めた。
 数十年に渡り、自分の愛玩動物の長として頑張ってきた彼女なのだ。
 彼女自身の幸せの為に、自分の心が痛むのは苦ではない。

「それじゃ、行ってきます」
「……ありのままを、伝えなさい。貴方達は私と違い、言葉にしなければすれ違う生き物なのですから」
「はいっ!」

 元気よく返事をすると、お燐は地霊殿を去っていった。
 涙で濡れる表情とは対照的に、明るい希望へと向かうように、その足取りは軽い。

 お燐は思った。流石はさとり様だと。
 言葉にしなければ、自分はすれ違う生き物だったのだ。
 それを教えてくれた主に、心から感謝する。

 だから、話したくて、伝えたくて、お燐は地上へと急いだ。




    ◇    ◇    ◇




 やはり雨の多い季節なのだ。
 地上は霧雨で濡れていた。道も泥濘に覆われ、駆けるお燐の足も泥を跳ね上げ、纏っている白い着物を汚す。
 だが、今はそんな事を気にしている場合ではない。いち早く、彼に本当の事を伝えなければならない。その思いが彼女を焦らせていた。

「あっ!」

 道端に停まっていたのは、彼の使っていた荷車だ。荷台の上には大きな桶がひとつ。――仕事の途中だろうか。
 だが、肝心の持ち主は姿が見えない。そこには無人の荷車が雨に打たれて佇んでいるだけだ。

「……え?」

 お燐は静かに荷車へと近づいた。そして、使い込まれた把手にそっと手を置く。やんわりとした暖かさが掌の中に伝わってきた。
 雨が降ると獣の鼻は効かなくなる。それが今は、幸いしているような、ありがたいような、どちらとも言えなかった。
 お燐は荷車を離れ、その跡を追っていく。ゆっくりと、静かに、地面だけを見下ろして歩いていった。

 彼女は思い出していた。
 雨に濡れる自分を心配する彼の声。ぬるま湯を差し出した彼の指。玉ねぎを入れないでくれた彼の気遣い。秋刀魚を買ってこようと思った彼の気持ち。そして、猫が嫌いだと言った、彼。

――そうだ。権平はひどい嘘つきだ。

 お互い様だけどね。と笑う。無理矢理に笑う。

 しばらくすると、お燐は前方に何かの横たわるのを見る。地面に倒れる二つの影。一方は巨大な獣、妖怪化寸前の山犬か何か。そして。

「権平……」

 お燐は身体の汚れるのを気にもせず、血の跡で濡れた地面へと膝をついた。
 そして、空を見つめる彼の瞳を、逆さまに覗き込んだ。

「……! 生きてる……?」
「あぁ……」

 喉笛に噛み付かれたのか、彼の首筋からは止めどなく血が流れ出ている。口を開いた先から、ごぽごぽと、何か湯の煮立つような音が漏れていた。
 お燐は咄嗟にその傷跡を両手で抑える。まるで逆さまに首を締めるような態勢。だが、その表情には殺意とはまるで逆のものがあった。

「何で……。羆も素手で倒したって、言ったじゃないの」

 濡れた髪が垂れ下がり、権平の顔をくすぐった。それに反応することもなく、彼はどこか上の空であるように、誰に言う訳でもなく呟く。

「……家に帰ったら……軒下で野良猫が、待っているんじゃねぇかって……考えて……」

 油断したんだ。と、掠れる声で答える。
 その瞳は、お燐ではなく、どこか遠くを見ているようで、まるで焦点が合っていない。
 それは彼が既にこの世界の住人ではなく、もうここには帰ってこれない人である事の象徴のよう。――お燐は、優しく微笑んだ。

「……あたいの事、知りたいって言ってくれたよね。……だから、教えてあげる」

 それと同時、彼もまた、話を始めた。

「……あれは……おらが、小ぃさい時の事だったべなぁ……。こんな雨の日……おったんだ。軒下におったんだ、猫が一匹」
「あたいが小さい時。まだ妖怪変化を覚えたての頃。死体を探してくる仕事を与えられて、初めて地上に出た時の話さ」
「……かぁわいい、黒猫だったなや。……怯えてんのか、寒いのか、震えてよぉ。おらは迷わず、家に入れてやったっけなぁ」
「まだ弱かった頃の話さ。あたいは調子に乗って遠くまで行き過ぎ、気づけばすっかりと迷子になってしまったんだ。おまけに野犬に追われて、足に怪我……無様なもんさ」
「不思議に思ったんだ……。猫なのに尻尾が二本もあっから……。病気かと思って心配したなやぁ……」
「お腹も空いたし、疲れたし、雨が降ってきて、あたいはすっかり弱ってしまった。それで目に留まったボロ小屋の軒下で休んでいたんだ」
「……しばらく飯、食べさせったら、すっかり元気になってよ。おらに良ぉく懐いて、なんてめんこいんだって、思ったもんだ……」
「そこの家の子供が、お人好しでねぇ。あたいの事を妖怪だって知ってか知らずか、家の中に招き入れると身体を拭いて、火にあてて暖めてくれた。それどころかご飯も食べさせてくれてねぇ。ご飯に山菜、それにお湯を掛けただけの猫まんまだったけど……。美味しかったよ、あれは」
「しばらく……黒猫はおらの所におったんだけども、ある日を堺に……ふらぁっといなくなっちまったんだ。……悲しかったなぁ……。親父とお袋が死んだ後で、一人で寂しかったおらにとって、あの猫は……家族みたいなもんだったから……」
「本当に居心地が良かったし、あたいはその子供の事がすごく好きになった。……この人に飼われたい、なんて思ったくらいだよ。……でも、あたいには本当の飼い主がいる。地底にはあたいの帰りを待っている家族がいる。……だから、ある日……あたいは帰ったんだ。地底にね」
「おらには、ついに……嫁も子供も出来なかったけども……。あの猫がいてくれたら……おらにとっては、あいつが家族だった……。今は、そう思うだ」
「もしも、って思ってた。さとり様に育ててもらうより先に、あの子供に会っていたら……。もしかして、あたいにとっては……そっちの方が良かったのかも、って……。でも、そんな事は思うことも出来なかった。さとり様に対する裏切りだから……」
「もしも、あの黒猫が今も元気でやってけだら……。おらはそれで満足だべな……」
「あたいは、あの子と一緒にいたかった。そして恩を返したかった。だから頑張って人間変化も覚えたし、仕事もこなして自由に地上に出れる立場に、なったんだ」
「……元気で、おしゃべりで、優しくて……。おらとは、おらなんかとは……まるで、違うと思った。おらなんかと一緒におるのは……違うと思った……」
「あたいは、あたいはね。怖かった。きっとあの子は、あたいの事を妖怪だなんて知らずに、普通の猫だと思って可愛がってくれたんだろうって。……今更、火車として目の前に出たって……あの時みたいにはならないと……怖かったんだよ」

 権平の瞳がちらりと動いた。そして、その焦点が赤い瞳とぶつかる。
 血で濡れたお燐の両手が、権平の顔に添えられた。冷たくなった身体を暖めるように、それが肌をさする。

「お燐、おめぇ……。やっぱだ。おめぇ……優しいんだなや。そんで、不器用だ……口ばかり達者で、まったく不器用なんだべ……」
「あたいは馬鹿だねぇ。妖怪である事に怯えずに、最初から全て打ち明けていれば……」
「おらも、おらも気付くのが遅すぎたんだ……。こんなだから嫌われんだべなぁ……。笑っちまうべ……」

 彼の声は虫の羽音のように微かで、雨音にすら掻き消されてしまいそうになっている。
 お燐は最後の一句も聞き逃しはしまいと、彼の口元へ顔を寄せた。

「最初から……。あの時の姿で、こりゃあ、良かったべ……」
「馬鹿。そうしたら権平は今頃、土左衛門でお墓の下でしょ」
「はは、そうだったなぁ……」

 雨音が、心臓の音まで掻き消してしまった。
 死んだ。お燐の手の中で、その瞳は光を失い、雨粒を貯めるただの窪みになってしまった。口は半開きのまま、言葉を発することのない空洞に成り下がってしまった。
 彼女は頭を抱きしめ、唇を近づける。そして、彼の額を舐めてみた。ざりざりとした猫の舌先が、雨に濡れた皮膚の上を滑る。随分と塩辛い雨だと、お燐は顔をしかめた。

「……約束通り。あたいが運んであげるよ」

 お燐は久しぶりに死体を運ぶ。
 しかも猫車に載せる死体と魂の重さは、今まで運んできた物の中でも最高級だ。火車ならば、このような死体を運ぶのは至上の喜びである。
 だが、彼女の表情にいつもの明るさはなかった。それを押していく彼女の足取りも、今までで一番重いものとなるのだ。




    ◇    ◇    ◇




 地底。霊烏路空は友達の姿を見つけた。
 長い間見なかったが、きちんと仕事をしてきたんだと分かり「流石はお燐だ」と自分の事のように胸を張る。

「やぁ、久しぶり!」
「……ああ。数時間ぶりね」
「これまた、良い死体を運んできたわねぇ。早速、火を炊こうか?」
「……いや、いい」
「これほどの死体。焼けばすっごい量の金が溶け出しそうねぇ。しかも、生半可な火力じゃ焼けそうにない……。こりゃあ、頑張って炊くぞー!」
「……だから、いいって」

 お燐は灼熱地獄の入り口を通り過ぎ、地霊殿の方へと去っていった。

「あれ? ちょっと、おりんー。こっちだって、こっち」
「…………放っておいてよ」

 邪険にされてもめげないのは、邪険にされている事に気付かぬ者だ。
 おくうは呑気にお燐の後を追いかけ、やがて地霊殿の脇にある空き地へやってきた。

「……お燐。どうしたのよ?」
「……うるさいわね。どっか行ってなさいよ」
「……お燐? 何してんのぉ?」

 おくうが目を丸くした原因は、お燐の奇行にある。
 彼女は猫車を止めると、何故か地面を素手で掘り始めたのだ。

「犬じゃあるまいし。お燐は猫だよ?」
「知ってるわよ」

 それ以後はおくうが何を話しても、お燐はただ土をほじくり返すだけだった。
 しばらく面白そうだと観察していたおくうも、やがて飽きを感じ、また小腹が空いたこともあって地霊殿の中へと帰っていく。それでもお燐は、土を掘るのを止めようとはしなかった。

 お燐の爪の間には土が詰まり、地面の中に潜む石は彼女の鋭い爪を欠けさせる。血でまみれた手を振るい、しかし彼女は休むことなく穴を掘り続けた。

――からん。

 ふと、物音。
 振り向けばいつの間にか、自分の猫車に円匙が立てかけられているではないか。

「……さとり様」

 お燐は軽く頭を下げると、その円匙を手にとった。
 そして、お燐は愕然とする。
 猫車の中にあった死体が消えていた。円匙が来た代わりに、死体が消えてしまった。

「……!?」

 お燐は円匙を投げ出すと、泥だらけのままで地霊殿に駆け込んだ。
 自分の他に死体を集めるのは、同じ火車くらいしかいない。だが、いくら土ほじりに集中していたからといって、己に気付かれぬ内に死体を持ち去るような手練はいないはずだ。
 自分とは違う目的で死体を持ち去る者。そして自分に気配を感じさせない者。その心当たりが彼女にはあった。

「こいし様!」
「あら、お燐。そんな格好で家にあがっちゃ、お姉ちゃんに怒られるわよ?」

 玄関ホールに死体を飾っているのは、さとりの妹であるこいし。
 死体集めを趣味とする彼女が、あの見事な死体に目をつけないはずはなかった。
 お燐の運んできた遺体は、今丁度、タペストリーのような調子で磔にされかけている。

「こいし様……。その亡骸、お返しください」
「何よ、ちゃんと代わりに円匙をあげたじゃないの。土いじりを頑張ってたから」
「……なら、あれはお返しします。だから、その人を返してください!」
「いやぁよ。だってコーディネートも決めちゃったし。いまさら返すだなんて」

 こいしはあくまでも愉快に笑って、お燐の願いを却下した。彼女にとって、これは遊び。それはあたかも、お燐が拾ってきた綺麗な石ころを、ちょっともらっちゃった程度のこと。あくまでも児戯なのだ。
 だが温度差は歴然。お燐は、例え飼い主の妹であろうとも容赦はしないと、全身の毛を逆立てて敵意を提示した。
 それには、こいしも眉をひそめる。

「……あら? お燐、何のつもりよ」
「こいし様。あたいが飛び掛かる前に、どうか返してください」
「……そんな事いわれたら、ますます返すのが嫌になっちゃうわね。ふっふん」

 不穏な空気が、地霊殿の全体までに広がった。それは全館の獣たちを残らず怯えさせるのに十分であった。
 獣の長であるお燐と、飼い主のこいしが戦う。地霊殿において、まるで有り得ない事態が起きようとしている。
 このままでは、どちらも無事では済まない。
 館を獣たちのざわめきが走っていく。

「こいし! ……返してあげなさい」

 だが、それを止めるのが主たる者の役目。
 どこからか現れたさとりの一声によって、戦いの炎は静かに消えていった。
 お燐は剥き出しにした爪を慌てて隠し、恥じ入るようにさとりへと頭を下げた。

「ちぇ~。お姉ちゃんったら! 妹より自分のペットを取るのね!」
「やめなさい、こいし。どう見ても非は貴方にあるのよ」

 エントランスに降り立ったさとりは、妹を軽く叱ってみた。
 そして、その足は自分へと頭をさげる火車の前で止まる。

「……さとり様。その……」
「好きになさい。火車である貴方の……取るべき行動なのか。その正しさは私には分かりませんが」
「あ、お燐。円匙返してね」
「……こいし。少しのあいだ、貸してあげなさい」
「えぇ!? まぁ、シャベルなんて使わないから、別にいいけど~」

 お燐は改めて二人に頭を下げ、磔にされかけていた死体を担いだ。廊下で心配そうに様子を伺っていたおくうへは、明るい笑顔で応じた。
 あまり時間はない。人間の死体は、時間がたてば腐る。お燐はあっという間に空き地へと戻ってきた。
 彼を猫車に載せてやると、彼女は円匙を握りしめ、また土との格闘を始めた。

「……はっ、……はっ……!」

 掛け声と共に土を掻く度、額からは大粒の汗が飛び散る。
 お燐が額に汗をするのは、体力的な問題ではない。
 彼女の敵は土ではなく、己の心なのだ。

――自分は、何をしているんだろう。

 いつもは灼熱の釜へ放り投げるだけで完了する仕事が、こうも大変で面倒になるとは。
 しかもこちらは、一文の得にもならない。少しでも地獄の経済を良くして、閻魔に恩を売らないといけないのに。それが地霊殿の一員としての役割なのに。いや、地霊殿の一員として以前に、妖怪としてどうなんだろう?
 火車としての自己同一性が、揺らぐ。そのたびに、腕に力が入らなくなる。
 瞳に滲む涙はセンチメンタリズムではなく、自分の身を刻む痛みによるものなのかも知れない。

「……お燐。立派なお墓が出来ましたね」

 こんもりと盛られた土。その下には人間の死体が埋まっている。
 以前のお燐ならば、まるで金をドブに捨てるような、とんでもなく“勿体無い”行為だと思うに違いがなかった。
 だが、今の彼女がそうは思っていない事は、さとりでなくても分かる。彼女の表情に、後悔などは微塵もなかった。

「へぇ。これがお墓かぁ! 初めて見ましたよ、私! お燐、すごい」
「ねぇ、お燐。墓石は作ってあげないの? なんなら私が地上に行って盗ってきてあげようか?」

 こいしの申し出に、お燐は首を横に振る。
 彼は言っていた。――「墓石っていうのは、仏さんを拝む人が、その場所を見失わない為の看板なんだ」と。
 なら必要はない。彼を拝む人は、決してこの場所を忘れはしないのだ。自分が忘れるわけはないのだ。

「墓石はいいです。重たくって、可哀想だから……」

 お燐は、近くを漂う怨霊を、ぎゅっと抱きしめた。




    ◇    ◇    ◇




 旧地獄に住む火焔猫燐は幸せである。
 最高の飼い主に、気の良い友達。そんな暖かな家族に囲まれているからだ。
 彼女には全く不自由も不幸もなく、不満も悲しみもなかった。毎日の様に死体を運び、じゃんじゃんと火にくべる。彼女は火車として立派に仕事を果たしていた。

 地霊殿の脇には、小さな墓がある。
 その墓前に花が絶える事はないという。

<了>

読了ありがとうございました。

不器用な人妖の話です。
調べたんですけど、猫って特別に魚が好きな訳じゃないんですね。

あと権平の口調はいろいろな所の方言を混ぜてます。
――――――――――――――――――――――――――――――
コメ返し
4.コチドリさん
そう言っていただけると励みになります! ありがとうございます。
7.名前が無い程度の能力さん
確かに性急に過ぎたという印象で、反省点です。次に繋げたいと思います!
11.名前が無い程度の能力さん
読了ありがとうございました! またよろしくお願いします。
14.名前が無い程度の能力さん
描写の量などについては試行錯誤していきたいです。ご意見を参考にしたいと思います!
15.名前が無い程度の能力さん
そこの対比は上手くできたか不安だったので、気づいてもらって嬉しいです。
16.名前が無い程度の能力さん
死を選ぶのですか…。漢だ…。
yunta
[email protected]
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コメント



0.1040簡易評価
3.100コチドリ削除
俺はこの物語が好きだ。

執筆お疲れ様でした。
5.100名前が無い程度の能力削除
猫らしい不器用さがよく出ていて、権平との会話がしっくりと来ました
文量はこれ位が読み易いけれど、欲を言えばもうワンクッション、地霊殿自室でのお燐の心情の変化が分かる描写があるといいなと思いました。
9.100名前が無い程度の能力削除
おお、なんだか染み入るような話でした
12.90名前が無い程度の能力削除
長さの割に読後は疲れた感じせず。

ただ描写が中途半端だった気もします。
妄想に任せる部分がもっとガッツリ任せちゃうか逆に詳細を知りたいか、です。
14.90名前が無い程度の能力削除
多弁で自分を表さないお燐と寡黙で自分を表さない権兵
上手くは言えませんがとてもいいと思いました
15.100名前が無い程度の能力削除
お燐の多弁だけど遠ましわしな口調が、しっくり来て良かったです。
俺も運んでくれないかな……
17.100名前が無い程度の能力削除
お燐が死体を取り戻そうとする所が権兵へのお燐の気持ちが出ていてよかったとおもいます。 
21.100名前が無い程度の能力削除
悲しいけど暖かい。
良い話をありがとう御座いました。
22.90名前が無い程度の能力削除
作中で描写された以上に、二人の間に流れた時間は彩りあるものだったんでしょうね。
権兵衛の内心の吐露はしみじみと伝わってきたけれど、他の方も言うように、お燐の方の心情描写が少し物足りなかった気がしますね。
しかし、総じて見れば、良き哉という他ありません。
24.100名前が無い程度の能力削除
好きな物語でした
25.100愚迂多良童子削除
ぐおお、なんと一途な想いか。
彼は怨霊にはならないだろうなあ。
32.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしい
このような作品を読めて幸せです