Coolier - 新生・東方創想話

月の満ちた夜に――

2011/01/09 10:47:59
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 その館は太陽が沈み切り、月が夜を支配すると動き出す。
 館の装いは古く、建築されてから随分と時間が経っているように見える。月も出ぬ朔の日であれば、闇に溶け込んだその姿を見ることはできないだろう。
 だが月の出る夜は違う――
 そこには煌々と月光が照らす深紅の屋敷が見えるのだ。
 人はこの屋敷を紅魔館と呼ぶ。
 空では鏡の様に青白い光を月が放っているにも関わらず、まるで燃えるかのように赤々とした妖気を漂わせて鎮座しているその姿は、まさに紅の悪魔が住む館と言っていい。
 館の内部もそれに漏れず、床には血の海の様に赤い絨毯が敷き詰められ、部屋の調度品も厳めしい外見に負けぬ力と相まって、全てが俗世とは縁遠い気品を漂わせている。
 その気品も、この館の中では神々しいという表現よりも、禍々しいという言葉の方がしっくりくるだろう。
 そんな館の室内には一人の少女が収まっていた。
 美しい金髪を左側にリボンで纏め、その下の貌はこの世の物ではない。その美しさ。―――恐らく、この屋敷の中の全てを持っても、なお恍惚とさせた。
 遥かな高みから見下ろした月すらも己の姿を恥らうだろう美しい顔立ちに、退屈そうな、どこか寂しそうな表情を浮かべている。

 つまらないな、と少女は思っていた。
 495年。自分の生きた年数を数えてみた所で何の解決にもならないが、それでもその長く、退屈な人生を振り返る。
 生まれてから今日までの間に何か鮮明に記憶に残る様な面白い出来事があったろうか?
 胸が締め付けられるような悲しい思い出があったろうか?
 いや無い。何一つ。

 少女の記憶にただあるのは、何の変哲もない石造りの地下室だけだった。窓も無く、家具も無く、扉すらないその部屋は、この館の部屋とは思えないほどに――館以上に世界から隔離されていた。
 その世界は、歩いても歩いても、どこまでも行く事が出来て、一度後ろを振り返れば、今いた場所からは一歩も進んでいないという実に広大で、閉塞的で、果ての無い世界だった。
 彼女にとって世界とは、そこにある閉鎖された虚無だけだった。それ以上の事は何一つ知らなかった。知ろうとすらしなかった。知ると言う事を知らなかったのだから。
 全てはただ彼女の“姉”がそうだと言ったからだ。
 しかしある日突然、彼女は広大な虚無から放り出された。牢獄の様な世界から晴れて自由になったのだ。
 だが彼女は戸惑った。いきなり自由だと言われても何がどう自由なのかが判らなかったからである。
 少女は〝姉〟に「これから自分はどうすればいいのか?」と尋ねたら、「この屋敷の中では自由にしていい」と〝姉〟は言った。
 故に彼女は夜になると、月が一番よく見えるこの部屋に来ては、毎日窓から見える月をずっと眺めるのだった。

 ――いっそあの月が友達になってくれればいいのに…
 今までの退屈な人生を再び追憶の彼方に追いやり、次に少女はそう考えていた。
 一緒に月を眺めてくれる友人が一人でも居ればどんなに楽しい事だろう。
 共に遊んでくれる仲間がいてくれればどれほど心強いのだろう。
 ああ…友達が欲しい。

 少女が心の底からそう願った時、不意に窓に映っていた月の光が漆黒に消えた。それに気づいた瞳にも動揺が宿る。
 窓の前には夜空のそれよりもなお強い暗黒が現れていた。暗黒はガラス越しの天空を塗りつくし、光すらも通さずにそこに佇んでいる。
「あなたはだぁれ?」
 と闇の中から声がした。不吉な暗黒にはおよそ不似合いな、子供の様な明るい声だ。
 一体なんだろう…?
 改めて少女はその目の前の何かをじっと凝視した。
 眼前から離れないそれは、いまも窓の全面を真っ黒く覆っている。その黒さゆえに、窓に部屋の鏡映しが見えるほどだ。だがその中に不思議と転写された少女の姿はない。映っているのは無人の部屋だけだ。
 闇には別段、敵意や害意などは無いようで、ただふわふわとその場に浮遊しているだけだった。その姿は黒い雲にも見えなくもない。
「あなたはだぁれ?」
 もう一度闇から声が聞こえた。窓越しでは少女に声が届いていないと思ったのか、さっきよりも一段声の調子が大きい。
「わたしはフランドール・スカーレット。ねぇ、わたしと一緒に遊んでくれる?」
 少女は闇に返すように名乗り、その後に続くように口からは先程の願いが迸っていた。
「うんいいよ。一緒に遊ぼう、フランちゃん」
 嬉しそうに答えた闇雲が目の前の窓を開けた。同時に爽やかな風と春の匂いが部屋へ舞い込んで少女の金髪を弄ぶ。
 真っ暗な中から誘うように色白の細い手が伸びていた。先程の声と同様、子供の様な細い手だ。本当に子供の物かもしれない。
「うん。一緒に遊ぼう」
 少女は何の迷いも無く闇から伸びる手をしっかりと掴むと、彼女の背中――まるで宝玉の実った木の枝を思わせる奇怪な翼がリン、と澄んだ鈴のような音を鳴らして羽ばたき、少女は窓の縁から宙に浮かぶ闇の中へと吸い込まれた。
 意外な事に中は暗闇にも関わらず、辺りの様子はハッキリと見渡す事が出来た。先程まで頭上に浮かんでいた月も、その下に月光を浮かべている湖もつぶさに見てとれる。
 闇の中心には、差しのべた手の持ち主だろう女の子が居た。
 女の子の齢は少女の外見と同様に13、14歳程度だろうか。暗がりの中でもなお目立つ紅瞳と輝くほどの金髪がこの漆黒の中に色をつけている。
「あなたの名前はなんていうの?」
 と少女は闇の持ち主に尋ねた。
 闇の主は晴れやかな笑顔で答えた。その顔は誰が見ても、思わず軽い挨拶を返したくなるような、天使を思わせる笑みだった。
「私はルーミア。よろしくねフランちゃん」
 答えた件の女の子―ルーミアは再び右手を出した。
 今度は何だとろうと考え、その意味が握手だと分かった少女は、その右手を握った。
 一人ぼっちだった少女に、初めて友達が出来た瞬間であった。
 彼女を優しく包みこんだ闇は開け放たれた窓を離れ、優美な夜空の海へと滑り出す。
 闇の羽衣は実に優雅に屋敷の外へと飛び出した。


 この日の紅魔館は早朝の時から剣呑な空気に包まれていた。
 夜になって動き出すこの屋敷が、朝になっても活動をやめないという、その一点の事実のみでもそれを窺い知ることができる。
 理由は言うまでも無い。この屋敷に住む、ある人物が昨日の夜から見当たらないのだ。
 だがその人物も性格的にやや世間知らずな所があり、今までにこそ無かったものの、この様にフラフラとどこかへ出かけて行ってしまう事があっても不思議ではなかったろう。
 しかし今この時間に限ってそんな事は言っていられなかった。
 居なくなった住人――フランドール・スカーレットは夜を生きる吸血鬼なのだ。その命は伝説の通り、陽光を浴びると共に瞬く間に灰となり消えてしまう。
 故に吸血鬼は夜の世界の住人であり、人間に昼の世界を明け渡したのだから。
 それが太陽が昇り始めても帰ってこないと言う事は、この紅魔館において未だかつてない一大事であった。
 紅魔館に仕える使用人たちを束ねるメイド長の十六夜咲夜も、この剣呑な雰囲気の中で生きている一人だ。
 美しく整えられた白銀色の髪は清潔な純白のカチューシャに留められ、吸い込まれるような深青の眼は美しい瑠璃を思わせる。
 何よりもその鋭いナイフを思わせる硬質な美貌が、すべての人々を羨望の眼差しで引き付けさせる。
 年頃の娘の中でも、特に美しいと言いっていい筈のその面には、いつもの彼女らしくない焦りと不安の表情があった。
 彼女は今、椅子に腰かけた一人の幼い少女に向かって頭を垂れていた。
「申し訳ありません、レミリアお嬢様。メイド全員で屋敷中を隈なく探しましたが、やはりフランお嬢様のお姿はどこにもありませんでした」
「そう…なら残りは屋敷の外しか考えられないわね……」
 対する幼い顔も苦い。自身の妹が居なくなったのだからそれも当然だった。
 そう。腰かけている少女、レミリア・スカーレットこそ、この紅魔館の現当主であり、消えた少女の姉でもある。吸血鬼だった。
 青く長い髪を後ろで纏め、背の大きく開いた真紅のナイトドレス姿なのは、その背中に生えた悪魔の如き翼を服から出すためだろう。
 幼いながらも一流の彫刻家が生涯を掛けて彫った名作の如き貌は、正しくこの世ならぬ美しさを湛え、同時に口から伸びる二本の牙が種族としての恐ろしさを際立たせている。
 だが、その宝玉を思わす深紅の瞳には、いつもの尊大で鋭い妖気は失われ、変わりに妹に対する不安と心配で埋め尽くされていた。
 今の彼女を見る人間が居るとしたら、とても古の世に恐れられた吸血鬼の一族とは思うまい。どこかいい所の令嬢と見られるのがオチだろう。
 それほどまでに彼女の姿は似合わず――いや、幼い見た目通りの小さく、か弱い存在に見えた。
「お嬢様。私が責任を持ってフランお嬢様を見つけて来ます。もうしばしのお待ちを」
 下がっていた咲夜の顔がさっと上がる。その目には成し遂げようとする強い意志があった。
「……そうね、お願いするわ。わたしもあの忌々しい太陽さえなければ、今すぐにでもフランを探しに行くのだけれど……」
 口惜しそうに頷き、ふとレミリアの表情が苦痛のそれに変わった。まるでひどい頭痛に苦しむように両の手で頭を抱えている。そんな姿は今まで咲夜は見た事が無かった。
 いくら日の当らない室内とはいえ、彼女もまた、太陽が出ている時間を身体に無理をして活動しているのだ。辛くないわけがなかった。
 咲夜がハッと息を呑む。
「お嬢様はもうお眠りなってください! これ以上動いてはお身体に障ります! 咲夜が必ずや、フランお嬢様を連れて帰ります故、 どうかそれまでお休み下さいませ!」
 レミリアが苦しそうに頷いた。
「そうするわ――咲夜。もしフランに血を吸われた者が現れたら、全て滅ぼしなさい。いい、全てよ」
「はい。必ず」
 言い終わるとレミリアは、病弱な子供さながらに椅子から力なく立ち上がり、部屋の奥にあった豪華な装飾が施されている棺桶へと向かった。
 本来ならば死者の眠るべき匣へと自身を滑り込ませる。身体のサイズよりも二回りほど大きいそれは、レミリアの体躯を悠々と収めてみせた。
 ギギッ、と黒檀が軋む音がして内側から木棺の蓋が閉まる。これで彼女の身体は完全な眠りに入り、日が落ちるまでは決して目を覚まさないだろう。
 咲夜はその様子を終始見届けると、眠りについた主人にさっと一礼してレミリアの私室を後にした。
 しかし、吸血鬼であるにも関わらず、血を吸われた者を滅ぼせとは、一体どういうことなのだろうか…


 朝になっても眠らない紅魔館から南へ数キロ。
 そこには鬱蒼とした樹海の様な森がある。全てが樹齢を二百年は越すだろう巨大な老木たちが、何本も連なっては地表へ射すはずの光を完全に閉ざし、まるで闇そのものを生み出して育んでいるかのような暗さを漂わせている。
 更に巨木たちの幹や梢の合間にも、濃緑色の苔や植物の蔦がびっしりと生え、僅かな木漏れ日も見逃さない。
 そんな木の根元に浮かんでいる黒い球もまた、この森が生み出したかの如き暗黒の色をしていた。
 大きさは丁度、人間が二人並んだくらいだろうか、楕円型の大きな黒丸だ。ふわふわと宙にしばらく浮かんでいた球は、やがて思い出したように重力に従ってふっと下に降り、地上に降り立つと、文字通りにそれは大気の中へと霧散して消えた。
 中に孕んでいた二人の少女を残して。
 二人の内、一人は地面に降り立つと、弱弱しくすぐその場にしゃがみ込み、もう一人に縋るようにしがみついた。
「フランちゃん……大丈夫?」
 しがみつかれた少女が言う。あの夜に少女を紅魔館から連れ去った娘、ルーミアだ。
 先ほど消えた闇は彼女が作り出した物だった。
 彼女の外見からは想像しがたいが、この可憐な見た目の少女は人を襲い、その血肉を食らう恐ろしい人食いの妖怪なのである。
 本来ならばその闇を統べる力を巧みに使って周囲の景色に擬態し、じっと人里近くや森の入口などで待ち構えて、そこを通る不運な村人や獣を襲う。
 可憐な顔も見た目も、餌となる人間や動物を騙す為のカモフラージュにすぎない。
 対抗する手立ては博麗の巫女が持つ神通力か、同じ妖怪の持つ魔力や妖力による力押ししかない。
 俗に言う『神隠し』と呼ばれ、人が忽然と消える超常現象も、この妖怪少女が被害の一角であった。
 しかし、そんな恐ろしい妖怪のどこからそれが現れているのか、彼女の声音には紛れもない優しさと不安がこもっていた。
「うん…大丈夫、ちょっと疲れちゃっただけだから……」
 心配する声を遮るように言った背中からは、他には類を見ない異形の羽が生えている。
 昨夜にその手を取ったフランドールであった。
 だがその顔色は精気の満ちた夜の時とは違い、いまや蒼白に近い色になってる。
 ルーミアの闇と日蔭の多い森で日光からは守られていたとはいえ、彼女もまた、姉と同様に日の出る時間帯を活動する事に強い疲労と脱力感を感じていた。
 それでも無理をして今まで平静を装ったのは、大切な友人に要らぬ心配をかけさせぬ為であろう。
 少女の健気な嘘をたやすく見破ったルーミアは首を振った。
「ううん、大丈夫じゃないよ…… フランちゃんの顔色、すっごく悪いもん… わたしが無理させすぎちゃったからだよね。ごめんねフランちゃん…」
「そんな事ないよ。ルーちゃんと一緒に遊べて私楽しかったもん。今はちょっと疲れちゃっただけ。ホントだよ?」
 フランドールはそう言って笑みを浮かべた。誰が見ても力の無い、精いっぱいの無理をしている笑みを。
 ルーミアの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。フランドールに対する罪悪感と後ろめたさだろう。
 だが対照的に、自分をここまで思ってくれるルーミアに、フランドールは内心では嬉しさを隠せなかった。

 自分にこんな友達ができるなんて。
 こんなにも自分を思ってくれる人がいるなんて。
 もうわたしは今までの一人ぼっちのわたしじゃない! わたしには大切な友達がいるんだ!
 光の下でなければ、今が昼でさえなければ、今すぐにでも空に浮かび上がって幻想郷中に響くほど声高にそう叫びたかった。

 それほどまでにフランドールの胸中は一人では無い安心感に天にも昇れる気持だった。
「泣かないでルーちゃん。ちょっと休めば、また元気になれるから」
「ホント?」
「ホントだよ。だからもう泣かないで」
 ルーミアが服の袖口で涙を拭いた。腫れた眼はともかく、表情は晴れやかな笑顔に戻った。
「そうだ。じゃあわたしの家に行こう! 何にもないけど、フランちゃんの具合がよくなるまで休むくらいはできるから」
「嬉しいな。ルーちゃんのおうちに行けるなんて」
 とても嬉しそうにフランドールが笑う。いや事実嬉しくて仕方がないのだろう。
 苦しげな表情は再びつかの間の笑顔で隠された。
「フランちゃんどう? 動ける?」
「大丈夫。歩くくらいはできるから」
 そう答えてフランドールがゆっくりと立ち上がる。立ちあがったものの、フラフラと貧血のようによろめいた彼女を咄嗟にルーミアが抱きとめた。
「ありがと」
「無理しないでね、ダメそうだったらすぐに言って」
 親友の心配の声にフランドールは頷き、二人はしっかりと手をつないで真っ暗な森の中を歩いて行った。
 その姿はお互いがお互いに寄り添うようだった。


 懐中時計の針は午前9時を過ぎた。
 もうフランドールが居なくなってから半日以上は経つ事になる。
 苛立たしげに懐中時計を懐に戻した娘もまた鬱蒼とした森の中にいた。
 不純なものなどはすべて削り取ったかのような硬質の美貌を持つ紅魔館のメイド――十六夜咲夜。
 フランドール捜索の為の準備を整え、いざ出発したのが一時間ほど前。そこからフランドールの放つ魔力の残滓を追ってこの森に入り現在に至る。
 すでに太陽は天空の高みを目指して昇り始めている。一刻も早くフランドールを見つけ出さなければ命が危うい。
 しかし吸血鬼に仕えるメイドとはいえ、咲夜はどう見ても普通の人間だ。吸血鬼の眷属でもなければ、妖魔の力を受け継ぐ半妖の類でも無い。もしこの場で妖怪や獣にでもあったらどうするつもりなのだろうか。
「美鈴、そっちはどう?」
 咲夜は空を見上げて言った。が、彼女の視線の先には空の色は無く、天を覆うばかりの深緑しかない。
 だが、咲夜の呼びかけに応ずるかのように上空から緑色の中国服の女が降り立ち、成果のほどをその浮かない顔で表していた。
「ダメです咲夜さん。森の上からざっと見ても、妹様は見つかりませんでした…」
 この美鈴と呼ばれた彼女も紅魔館に仕える妖怪の一人だ。
 本名は紅美鈴という――彼女は咲夜の様に主人の生活を世話するメイドとは違い、むしろ逆とも言える屋敷を暴漢の手から守る門番の役割を担っている。
 性格こそ温厚かつ人格者な事でその名が有名だが、実力行使ともなれば、八極拳を基にした拳法を使いこなし、並の妖怪では歯が立たない程の無類の力を発揮する。
 彼女もまたフランドールが居なくなったのを知り、咲夜と一緒に探しに来たのである。
「まあ…当たり前よね。この日差しじゃあ、上から見える場所にはいる訳ないか…」
「魔力の残りを追ってるとは言え、こんなに手当たり次第で妹様が見つかるんですか?」
 流石に小一時間も上と下から探しまわってもダメだったことから、少々美鈴の視線にも疑問が浮かぶ。
「手当たり次第だろうと虱潰しだろうと見つけるのよ――丁度よく話を聞かせてくれそうな奴もいる事だしね」
 咲夜が見やると、森の奥の茂みから、ガサッと音を立てて何かが飛び出した。
 蜥蜴を思わせる四肢を持った1.5メートルほどの見た目のソレは、幻想郷に生きる低級妖怪の一種、リザードマンだ。
 しかもそれは一匹だけでは無かった。奥から新しい奴が一匹、その後ろからさらに一匹、やや遅れてもう一匹と次第に数を増やしてゆく。
 全てが出尽くすまでに、その数は裕に20を超えていた。
 一歩前に出た蜥蜴男のリーダーらしき奴が喋った。どうやら低級の怪物とはいえ人語を解せるようだ。だがその口調は人間と違ってどこか歪でたどたどしい。
「久シぶりニ人間の臭いがするト思ったラ、美味ソうな人間の雌ガ二匹もいやがル…」
 開いた口からは黄ばんだ乱杭歯と先の割れた長い舌がチロチロと見え隠れしている。
 合わせてリーダー以外の蜥蜴男達もそれぞれ舌舐めずりするとともに、欲望に染まりきった、おぞましい視線で彼女達の身体をたっぷりと睨めつけている。どの目にも明らかに食欲以外の邪な感情がギラギラと燃えあがっていた。
 たっぷりと視線とそれに乗った欲望とを受けた美鈴は思いっきり眉を顰めて、嫌悪を露わにし、逆に咲夜はナイフの如き無表情を貫いている。
「下衆ね。いいわ、アナタ達みたいな汚らしい存在にも使い道はある。殺す前に一つ聞いてあげるわ」
 憮然と咲夜が挑発ともとれる発言を放つ。この娘には異形の怪物に対する怖れというものがないのか…
「オメェ何言ってンだ。殺すのハ俺たちの方ダろうガ」
 その挑発まがいの言葉に逆上した異形達がそろって自慢の牙と爪を剥き出しにした。そのどれもが剣の切れ味にも勝り、女の柔肌など一瞬のうちに細かく切り裂くだろう。
 やがて怒りと欲望に任せて群れの一匹が咲夜に飛びかかろうと前かがみになった瞬間、ヒュン! と言う風切り音がしてそいつは前進することなく前につんのめって倒れた。
 それが果たしてこの場の目にどう映ったか。
 倒れた蜥蜴男の眉間には新たに銀色に光る何かが一本生えている。
 それは咲夜の放った銀のナイフだった。
 異形たちは一斉に目を見張った。
「勘違いしないで。狩るのは私で、狩られるのはアナタ達よ」
 情けなど欠片も感じさせない鉄の声を発すると、どこから取り出したのか、手に持つ純銀のナイフをリザードマンに向かって投げ放ってゆく。
 ナイフはシャープなデザインの如何にも彼女らしい造形だが、その程度であればこの幻想郷のどこでも手に入る。到底妖魔を狩る為の道具にはなりえない。
 それが一度でも彼女の手にかかると、悉くが獲物の急所を正確無比に狙い穿つ魔剣となるのだ。
 彼女は手に一本ずつなどと言う悠長な投げ方はしていない。どこからともなく現れた何本かのナイフを手に番え、まるで河川に石でも投ずるかの如く無造作に、大雑把に投げ込んでいく。
 狙い通りになど――ましてや素早く動き続ける妖怪に向かってなど、到底当たるとも思えぬ、まさに放り込むという表現が適切な投げ方だ。
 それでいて、刃の行く先は一本とて狂いがない。それどころか彼女のナイフは彼らの急所を一つと言わずに幾つも貫いていくではないか。
 鎧のように鱗が固く、刃物が効きづらいリザードマンを相手に柔らかい急所突きは当然の戦法なのだが、それでも遠距離から正確に急所めがけてナイフを繰り出し、次々と敵を撃ち滅ぼす咲夜の腕前は超人的というよりも魔的と言えた。
 その絶筆の腕前に、瞬く間にリザードマンの数はあっという間に半数以下となった。
「まだやるのかしら?」
 咲夜が蜥蜴男たちへと一歩前進する。その目には確実な殺意と怒りが籠っていた。
 圧倒的な威圧感と力の前に脅え、後ずさるか、或いはたたらを踏むかと思われたリザードマン達の顔がしかし突然、にやりと嗤った。
 瞬間――気配を殺していつの間にか咲夜の背後を取っていた生き残りの一匹が、すでに振りかぶった爪を彼女の後頭部めがけて振りおろそうとしてた。
 鋭い三つの軌道が彼女の肉を引き裂こう刹那――横合いから緑色の旋風が駆け抜け、軌道は彼女に届く事無く虚空の彼方へと消え去った。
 吹き飛ばしたのは、美鈴の気を用いた強烈な蹴りの一撃だ。
 身体に蓄えた闘気の勢いをそのまま殺さずに、不意打ちの一匹に合わせて襲いかかってきていた他のリザードマンにも呵責なく必殺の拳と蹴りを喰らわせる。
 殴られた蜥蜴男の頭は一つの例外も無く、拳大にめり込み、飛んできた勢い以上の速度で森の中へと吹き飛んでいく。
 この娘の細い手足のどこが、これ程の威力を可能にしているのか。
 いや――彼女は特別な事など何一つしていない。ただ足を深く踏みしめては拳と蹴りとを相手に振っているだけだ。
 だが相手の頭蓋を易々と粉砕する威力は、この世の物とは思えない。
 まさに人外の技と力でしか有り得なかった。
「危なかったですよ、咲夜さん」
 荒い息一つあげずに美鈴が言った。直後にまた一人、蜥蜴男を立ち木へと蹴りで吹き飛ばす。
「そう。ありがとう」
 素っ気なく返すと、今しがた蹴り飛ばされ木に激突した一匹に容赦なくナイフが刺さり、まだ微かにあった息の根は完全に途絶えた。
「でも殺すならちゃんと殺りなさい。トドメも刺さないなんて、優しすぎよ?」
 詰めの甘い生徒を嗜める教師の様にそう言うと、咲夜は既に残り二匹だけとなったリザードマンの内の一匹に近づき、その首筋を握り締めた。
 人よりも遥かに強靭な筈の足は恐怖のあまりか、地に根を張ったように動かない。
 ぐぇ、という呻き。
「一つ質問するわ。 フランドールという女の子を見なかったかしら? 金髪で背中に奇妙な形の翼を生やした女の子よ」
 哀れな襲撃者は弱弱しく首を振った。先程までの欲望は彼方に消え、ただ助かりたいという生存本能が思考を支配している。
「し…知ラねェ…」
「あらそう。じゃあもういいいわ」
 最初の犠牲者と同じ様に眉間にナイフが刺さり、掴まれた首はぐったりとして動かなくなった。
「アナタは?」
 と掴んだ首を投げ捨てて、残ったもう一人のリザードマンにも同様に問う。
「ヤめてクれ! 殺サないデくレ!」
「殺されたくなかったら、さっさと答えなさい」
「オ…覚えてナい…離してくれたら思い出すかモ…」
 ここに来て哀れな取引などして何の意味があるのか。リザードマンはただ目の前の恐ろしい存在から逃げ出す事だけを考えていた。
「そう――なら今すぐにでも思い出せるようにしてあげる」
 軽い口調で答え最後の一匹に歩いて近づいた咲夜は、手に新たなナイフを取り出し、目の前の眉間へとナイフの刃をめり込ませていくではないか。
 堅い鱗に少しずつ、だが確実に蜥蜴男の顔にナイフがズブズブと入り込んでゆく。無表情で淡々と行われるそれは、凄惨とも不気味とも取れた。
 途端にリザードマンの顔に恐怖が走る。
「ヤッ、ヤメロ! 死にタクない! 殺サないデくれ!」
「どう? 少しは思い出したかしら?」
「お…思い出したァ! 確かルーミアっツう妖怪のメスガキがそんな奴を森ニ連れて行くのを見たゼ!」
「ルーミアね。憶えたわ、ありがとう。アナタももう死んでいいわ」
 どのような不思議か、言いきった瞬間に咲夜の体は忽然とリザードマンの目の前から消え、美鈴のすぐ横にコマ落としの様に出現した。
 一瞬遅れてリザードマンの首からおびただしいまでの鮮血が迸り、一面の草むらを血で汚す。
 まさに絶句の早業。
 だがナイフで切りつける音も動作も知覚させずに動く事などただの人間が出来るものなのか。
「ルーミアって、森の近くでよく見かける女の子の事ですよね… そんな事する妖怪じゃ無かったと思うんですけど…」
 咲夜の謎を気にも留めず、美鈴がぽつりと言った。確認というよりも、信じられないという意味合いの強い口調であった。
「さあね。それはこれから分かる事よ」
 言うや否や咲夜は振り返りもせずにさっさと森の奥へと入って行った。美鈴も慌てて後についてゆく。
 恐るべき力を持つ二つの後ろ姿を、ただ森に蔓延る植物と闇だけがじっと見ていた。
 
 
 二人で歩いて20分ほど経っただろうか。
 目の前には一件の小屋が姿を現した。元々はこの辺りに住んでいた木こりが詰所兼仮眠室として建てて使っていたのだろう。木造で武骨な建物ながらも、しっかりとした作りだ。
 ここがルーミアの住処なのだろうか。だとしたら、ここにいた人間はもう生きてはいまい。
 ルーミアが躊躇なく入口のドアを開ける。家の中も外と似たようなもので、大きめのベッドが一つに暖炉とワンセットのテーブルのみという簡素な造りだった。
「いいよ、入ってきても」
「お、お邪魔します…」
 促されて遅れておずおずとフランが入る。屋敷から一度も出た事が無い彼女が、他人の家に入るのもこれが初めてだ。やはりどこか不安で、落ち着かないのだろう。
 数度入り口でためらった後、勇気を出して、えい! と掛け声をあげて玄関を通って家の中に入った。
 吸血鬼と言うよりも、可愛らしい童女の仕草だ。
「ちょっと待っててね」
 と言うと、ルーミアが元々数の少ない窓に、備え付けの分厚いカーテンを引きはじめた。フランドールへの陽光を少しでも防ぐためだ。
 家の窓が完全に覆われ、ようやく落ち着いた所で二人は服の上着と靴を脱ぐと、一つしかないベッドの中に潜った。
「フラんちゃん大丈夫? 寒くない?」
「うん。ルーちゃんと一緒だから、とってもあったかいよ」
「えへへ…じゃあこれでもっとあったかくなるね」
 言うやルーミアがフランドールの背に両手を回して抱きついた。
 いきなりの事だったからか、フランドールは目を見開き驚いた。今まで垂れていた羽も吃驚したようにピンと上を向く。
「ひゃあ! ルーちゃん、これじゃあ動けないよぉ…」
 困った顔をしつつも彼女もまんざらではない様だ。
 そのまましばらく二人で布団の中でじゃれていたが、やがて疲れが意識を引き離したのか、ルーミアは静かに寝息を立て始めた。だが逆にフランドールはその後も眠らずにルーミアを見つめている。時折、彼女の金髪を手で梳いて遊んだりしている。
 彼女の脳裏では、今日一日で味わった色々な事が蘇っていた。
 初めて体験した日中の散歩はとても甘美なものだった。全てが見た事もないものに包まれていた。日光に脆弱な彼女の体は、ルーミアの作りだす柔らかくて優しい闇が守ってくれた。
 初めて見る森の中の美しい植物、心がときめくほどに可愛らしい森の小動物、感じる事も無かった、太陽が暖める柔らかで清々しい風の感触、それらが運んでくる芳しい花の匂い、何もかもがフランドールの楽しみだった。
 いつも遠くから見ているだけだった屋敷の裏にある大きな湖にも、彼女が見た事の無い昼の顔がある事も分かった。
 様々な魚の姿や水中に棲む生き物の群れ。
 耳を澄ませば聞こえる小さなカエル達の合唱。
 昼の光が淡く映った湖面は夜では絶対に味わえないほど透明に澄んでいて美しかった。
 なんと言う素晴らしい世界だろう。世界はこんなにも素晴らしい生命と活気にあふれているなんて。
 全ては隣ですやすやと寝ている彼女が教えてくれたのだ。
 どれほど感謝してもしきれない。

 ――わたしに何かお礼が出来れば良いんだけど…

 そう思った時、ふとフランドールは自身の内に異様な喉の渇きがあるのを感じた。
 痺れに似た渇きは時間が経つに連れてどんどん大きくなっていき、やがてはフランドールの中の一つの感情へと形をとった。
 すなわち、『血が吸いたい』と。
 闇越しとはいえ太陽の下に晒されていた影響か、疲弊する彼女の体は彼女自身に強く吸血を求めたのだ。
 暗がりに慣れた紅の双眸がすぐ隣で寝息を立てている少女をじっと見やる。
 吸血鬼としての欲望に目覚めた深紅の瞳は、ルーミアの首筋に走る濃厚な血液の流れを血管の一本一本までハッキリと読みとっていた。

 ――吸いたい… 吸いたい…

 頭にはその言葉が呪詛の様に渦巻いていた。
 やがて本能に従うようにフランドールはベッドから身体を起こすと、寝ているルーミアの首筋にゆっくりと近づいていった。彼女の呼吸は興奮によって荒く、かなり小刻みになっている。
 じりじりと牙が娘の細い首に近づいてゆく。その間にも彼女の犬歯はみるみる内に伸びて鋭くなり、先端は血に飢えた様に赤く染まりながら、獲物の体内に侵入を果たすのをじっと待ちわびていた。
 ついに彼女の牙が目前の細い首に辿りつき、勢いよく頸動脈を突き破ろうとしたその刹那。
「フラン…ちゃん…?」
 突如ルーミアの瞳が開いたのだ。
 それが吸血鬼の荒い吐息を感じたからか、はたまた狂気の気配を感じ取ったからかは分からない。
 だが彼女は目覚めてしまった。彼女にとって最も見てはいけない時間に――
「えっ……ああっ!……」
 まさか起きるとは思っていなかったのだろう。唖然として一瞬をルーミアと見つめ合ったフランドールはハッと我に返り、咄嗟に顔を手で隠して後ろを向いた。
「お願い…ルーちゃん……私の顔…見ないで…」
 向けたその背中と翼は震えていた。
 自分のしようとした行為の恐ろしさに。
 一瞬でも友をその牙に掛けようとする浅ましさに。
 あれほど欲しいと願った友達の血を吸いたいなどと思ってしまった卑しさに。
 何よりも血を欲している自分の顔など、目の前の親友には何があっても見て欲しくなかったからだ。
 だが彼女の背後からは次の瞬間、フランドールの度肝を抜く言葉が飛び出した。
「いいよ。フランちゃん。血、吸っても」
 衣擦れの音が少しすると、そこには自らシャツのボタンを緩めて無防備に首筋をさらけ出しているルーミアの姿があるではないか!
 顔には吸血に対する恐怖や不安どころか、優しい笑みすら浮かんでいる。
 ルーミアは再びゆっくりと言葉を紡いだ。
「吸血鬼だもんね、お腹がすいたらから血が欲しいんでしょ。だからいいよ。わたしの血でよければ吸って。それでフランちゃんが元気になるなら」
 なんという事か…目の前の少女は昨日知り合ったばかりの友人の為に、自らの血を捧げようと言うのだ。
 背を向けたままのフランドールがそれをどう思ったのか、数秒の後に震える声でこう言った。
「ルーちゃん…お願いだから、吸ってる時のわたしの顔、絶対見ないでね…」
「わかった。フランちゃんが吸ってるあいだ、わたし、目瞑ってるね」
 そう返してルーミアは静かに目を閉じた。祈るようにそっと佇むその姿は、キスを待つ恋人の様にも見える。
 向き直ったフランドールはひっしとルーミアに抱きついた。それに応えるようにルーミアの腕も彼女の背に回る。
 フランドールはこの時ハッキリと、この健気な少女の鼓動と肌の温もりを感じとった。やさしい包み込むような暖かさ。それは今までの彼女の人生で感じた事の無い、優しい暖かさだった。
 あまりの嬉しさか、愛おしさか、それとも申し訳なさか、紅の瞳に涙を浮かべたフランドールはルーミアの耳元で何かを囁き、無二の親友の首筋に一回だけそっと口づけしたあと、その小さな牙を突き立てた。


 血を吸われるなどたやすい事だった。初めての友を元気づける為なら。
 ルーミアにとってもフランドールは初めての友達だった。それまでの人間や他の妖怪など、餌にするか、それを奪い合うだけの敵でしかなかった。
 自分を見て真っ先に逃げる者は迷わず喰らって来た。それが命乞いをする女でも、幼い子供でも、一切の遠慮なく。
 だからあの館で彼女を見た時、本来ならば彼女を襲い、全てを喰らおうと思っていた。
 だが目の前の彼女は違った。
 この自分に友達になろうと言ってくれたのだ。
 助けてくれとも、死ねとも言わずに。
 一緒に遊んで。
 それだけだ。
 人食い妖怪の手を、血にまみれたこの手を、一瞬の躊躇いすらも無く取ってくれたのだ。
 他にどんなにうれしい事があるだろう。
 後の彼女の話で彼女が吸血鬼だと知ったが、そんな事はもうどうでもよかった。
 こうしてお互いに掛けがえのない友達になれたのだから。
 だからこそ、日の光に弱った彼女を見ているだけでも辛かった。胸が締め付けられた。自分のせいなんだと痛感した。
 その彼女を元気づける為に血を吸われるなど苦にもならない。むしろ喜んで分け与える覚悟だった。
 抱き合って、吸う前に耳元でただ一言、「大好きだよ」と言ってくれただけで、もう心は揺らがなかった。
 牙が首に入った時こそ多少の痛みがあったものの、血を一口吸われるごとに彼女が元気になると思えばそれだけで嬉しかった。数秒の後、全てが終わる頃には会ったばかりの元気な彼女がそこにいた。
 安心したせいか、ふっと体から力が抜けて今度はルーミアがその場に崩れた。
 森の時とは逆に、今度はフランドールが倒れないように抱きとめてくれたのだ。しっかりと、優しく。
 少し見つめ合って、ルーミアはまだ自分の血が少し残っている彼女の唇に、ふっと自分のそれを重ねた。
 彼女はそれを甘んじて受けとめた。
 甘く、幼く、初々しく、それでいて美しい口づけを。
 離した口の中には、彼女特有の甘さと血の味がした。
 しばらくしてから、「恥ずかしいね」とお互いに照れくさく笑った。
 こうして人食い妖怪の少女と、幼い吸血鬼は真の親友となったのだ。
 今度こそ二人は一つのベッドで安らかな眠りについた。
 二人で手をつないでぴったりと寄り添いながら。
 夜、再び魔の支配する時が訪れるまで。


 夜を生きる紅魔館とて、すべての住人が眠りにつくわけではない。
 咲夜をはじめとした屋敷の管理を賄うメイド達は交代制で昼夜を働き、美鈴の様に館を守る者もまた同じく、屋敷の内外を巡回して吸血鬼の唯一の弱点である眠りの時に平穏を保っている。
 その中でも一部屋、普通のメイドでは立ち入るどころか、そこに通じる廊下すらも踏めない部屋がある。
 入る事が許されているのはそれら統轄するメイド長――すなわち十六夜咲夜を含めた僅かな使用人のみだ。
 しかし目の前にいるのは明らかにメイドのそれとは違っていた。
 そのネグリジェの様な格好は、どう見てもメイドの出で立ちには見えないし、警護の人間の様相でも無い。
「レミィ…あなた、咲夜にフランが誰かの血を吸ってたら、そのものを殺すように言ったそうね」
 目を瞑り棺桶の横に手を当てて話しかけるように女がそう言ったのは、太陽が空に駆け上り、燦々とその力を天下に見せつけている時分であった。
 腰にまで届く紫色の長髪を三日月を模した髪留めで整え、ぴんと地面と垂直な姿勢からは、服を押し上げるほどの豊かな女の膨らみと、すぐ下のほっそりとしたくびれが緩やかな衣服に流線形のラインを作っている。
 美しく若々しい見た目ながらも落ち着いた雰囲気が、どこか女性的というよりも母性的な魅力を漂わせる女であった。
 部屋は見事な装飾がなされているが、その中は暗く、外は晴天だと言うのに一片の光も届いてはいない。いや、そもそも光を取り入れる為の窓が存在していないのだ。部屋の中は複数の蝋燭の揺らめきがぼんやりとその場を照らしているだけに過ぎない。
 その中で一点――まるで豪勢の限りを尽くした部屋の雰囲気に合わぬ大きな黒檀の棺があった。
 ここはレミリアの私室だ。
 どの様な方法を用いているのか、女は棺桶の中で息も立てずに眠っているはずのレミリアと会話しているらしかった。
 部屋に響いた言葉から数秒の沈黙のあと、聞き入る為に今まで一本の線のごとく閉じていた女の紫色の目に炎が飛び込む。
「そうね……あの時みたいにうまくいくとは思ってないわ。 でも今と昔は違う。 私もいるし、咲夜も居る。他の力を持った強力な妖怪達もいる。もし仮にそうなったとしても、きっと何とかできるわ」
 添えた手が慈しむ手つきで棺の上を沿う。
 レミリアがまたも何かを話し始めたのか、女の紫の瞼は再び水平に戻った。
 彼女は眠れる棺の中で何を語っているのだろうか。
 知る術も、聞き耳を立てるべき話し声とてなく、ただ蝋燭の燃える僅かな音だけがたゆたう。
 じきに何度か頷き、力なく開いた今度の女の目にはひそやかな影があった。
「……そんな事無いわ。現に私達だって……」
 俯いた女が呻き、もう一つの手でそっと自分の服――その下の首筋を撫ぜた。
 愛おしそうに、とても大切そうに。
 大事な何かがそこにあるかのように。
「いいえ。たとえどんな者にも心安らげる大事な人がいてもいいはずよ。それが吸血鬼であっても、妖怪であっても。孤独の方がいいなんて事は絶対にないわ」
 棺を握り締め、レミリアの思念を読み取る為に再三両目は瞼の奥に消えた。
 果たしてこの二人はどんな関係にあるのか。
 女がかっと目を開く。毅然とした口調に先程の影は無く、含まれた力が周囲の空気をざわっと動かした。
「確かにそうよ。でもそれがどうしたと言うの。 私とレミィはここにいる。今でも友達よ。今までもこれからも変わらないわ。それを実の妹であるフランが出来ないとでも?
私はフランを信じるわ。もしフランが血を吸ったとしても、必ず呪われた宿命から乗り越えてみせるって。その為なら私は、フランとその誰かの為に協力を惜しまないわ」


 吸血鬼との邂逅はここでも行われようとしていた。
 日が落ちかけた森の中に佇んだ、ルーミア達の眠っている小屋の目の前に二つの影が見える。
 言うまでもなく咲夜と美鈴の二人だ。
 妖魔達が好んで住みつくこの森も彼女らの前ではまるで脅威にならないらしい。
 咲夜の懐中に忍んでいる時針は午後五時を指していた。
「ようやく見つけたわ美鈴。あそこよ」
「あそこに妹様が…」
 と言われ美鈴も神妙に小屋の入口を見つめている。
「間違いないわ。フランお嬢様の魔力はあそこから出てる。随分小さいけど間違いないわ」
 咲夜がそっと森小屋のドアを開ける。目的の人物は確かにそこにいた。
 入口の気配を察してか、一つしかないベッドから気だるそうに身を起したのは、間違いなく両名の主たるフランドール・スカーレットだ。
 眩い金髪は横のリボンを解いて背後に垂れ、上半身は薄いシャツ一枚の格好であっても口から出る牙が、彼女が吸血鬼だと証明している。
 上半身から剥がれた毛布には、赤黒い血液の染みが点々とついていた。
「咲夜?……なんでここに…?」
 焦点が定まらずにぼんやりとした視線を従者に向けている。
 この時、咲夜達は知り得ぬ事だが、フランドールの顔色は紙の色だった昼間から回復し、いくらか血色のいい顔に戻っている。
 咲夜が毅然と言った。
「フランお嬢様。お迎えに上がりました。レミリアお嬢様も心配していますわ。さあ早くお屋敷に帰りましょう」
 だが、咲夜の言に段々と本来の理性を取り戻したフランドールは断固として従わなかった。
「いや!」
「な、何故です!?」
 驚きの声を張り上げ、咲夜と美鈴が入口から一歩踏み込んだ。
 その時だった。
「……うん…?フランちゃん…どうしたの?」
 三人のどれでも無い声が聞こえ、フランドールのすぐ横のベッドが盛り上がった。
 毛布から這い出てきたのは、フランドールと同じくらいの少女だ。首筋には何かを隠すようにフランドールの赤いリボンが巻かれている。
 咲夜がそれを認めるや、憤怒の形相で少女を睨めつけ、
「あなたね、お嬢様を屋敷から連れ去ったのは」
「咲夜やめてッ! ルーちゃんはわたしの友達なの!」
 鋭くナイフを構えた彼女にフランドールが手を広げて立ちふさがった。
 彼女はなお変わらずに、
「フランお嬢様、私はレミリアお嬢様からフランお嬢様に血を吸われた者はすべて滅するようにと命じられています」
 と言って視線は再びフランドールからルーミアへと移った。
「その首筋にあるリボン、取ってもらえる? 取って首筋を見せてくれればいいから、そこに何も無ければ私は何もしないわ」
「いやです」
 ルーミアはハッキリと首を振って拒んだ。
 場の緊張がわっと膨らむ。咲夜の身体から発せられる強烈な殺気のせいだ。
「なぜ? それとも取れない理由があるのかしら?」
「………」
 目を逸らし、手で首筋を隠したルーミアは押し黙ったまま答えない。
 それは肯定を意味する沈黙だ。
 まるで答えられない事を最初から分かっていたように、咲夜の持つ武器は既にナイフから別の物に変っていた。
 それは一本の長い針だった。
 しかもナイフのようなの純銀製ではなく、その色合いや年輪の模様から木製だと分かる。
 それは吸血鬼を滅ぼす為の武器――白木(ホワイトアッシュ)で作られた針だ。
 古来の伝承の通り、いかなる吸血鬼も心の臓に突き刺さった白木を引き抜く事は出来ず、またその傷が癒える事も有り得ない。
 吸血鬼を滅ぼすにこそふさわしい、咲夜の必殺の手裏剣であった。
「やめて咲夜! ルーちゃんが私を攫ったんじゃないの! 私が自分で外に出たの! だからルーちゃんは悪くないの!」
 場に張りつめた空気を破り、従者の凶行を止めようとフランドールがしがみ付く。
 だがあまりにも力に差がありすぎた。吸血鬼とはいえ日の出ている今は彼女には通常の十分の一の力も無い。今のフランドールは見た通りの只の幼女だ。
「…それでも、血を吸われた者を生かしておくわけにはいきません」
 己に張り付いた幼い主を引き剥がし、咲夜の手から一筋の閃光が風を切り裂いて飛翔した。
「ルーちゃん!」
 と叫んだのもつかの間。
 ルーミアの心臓めがけて鮮やかに飛んでいき、目標を貫くかと思われたそれは、横合いから出たもう一つの線によってにわかに宙を静止していた。
 その場で呆然とした少女が居た、目を見張った少女も居た。
 ただ、咲夜と針を止めた人物だけが違った。
 針の行く手を阻んだのは、今まで沈黙を保っていた美鈴の腕だった。
 手に針を持ち、ルーミアの前に庇うように立っている。
「もうやめましょう、咲夜さん」
 咲夜は素早く手にナイフを番え、
「退きなさい美鈴。いくらあなたでも許さないわよ」
 だが美鈴は一歩も引かない。
「この子は妹様のお友達です。それを紅魔館に仕える私たちが、無闇に危害を加えてはまずいですよ。それに、いくらお嬢様の命令とはいえ、妹様を悲しませるなんて、わたしにはできません」
「それは…」
 口ごもる彼女を余所に、美鈴がフランドールにこう聞いた。
「妹様。この子は妹様のお友達なんですよね?」
「そうだよ! 私の初めての友達になってくれたの!」
 美鈴はフランドールにちらと微笑み、
「分かりました――咲夜さん。妹様もこう言ってますし、ひとまず落ち着いてください」
 毅然とした顔で咲夜へ向き直って言った。
 すべての目が咲夜に集まる。
 何も無い一瞬の空白――だが4人には永遠の長さだったろう。
 やがて沈黙に耐えられなくなったように重々しく咲夜が告げた。
「……私は紅魔館に仕えるメイド。主人の命令は絶対です」
「咲夜―――」
 遮ろうとした声を咲夜は逆に言葉を続ける事によって遮る。
「――ですが、フランドールお嬢様もまた、私が仕えるべき紅魔館の主の一人。その御友人ともなれば、使用人の私たちが、粗相をいたすわけにも参りませんわ」
 予想だにしない言葉に二人の少女達は再度目を見張った。
「レミリアお嬢様に直接ご判断を仰ぎましょう。もしかしたら何か他に方法があるかもしれません。それが見つかるまで、この件は保留という事にいたしますわ」
 聞くや否や、風を巻いて走り出したフランドールとルーミアが抱き合う。
 二人の顔には途方も無い安堵の表情と笑みが浮かんでいた。
 ふと美鈴が近づき、右腕に掴み取っていた木針を咲夜へと差し出す。
 その後頭をさげて、こう言った。
「ありがとうござます。咲夜さん。わたしの我儘を聞いてもらって。お嬢様への責任は私が取ります」
「――やめてよ美鈴、私だって別に、フランお嬢様を悲しませたかったわけじゃないわ」
 憮然として針をひったくった咲夜はさっさと踵を返して小屋の出口を後にした。
 小屋から数歩行って彼女は大きく溜息をついたが、すぐ後に今までの堅い表情が嘘のようにそっと微笑んだ。
 小さく、だが柔らかいそれは彼女が今日一日で見せる彼女に相応しい顔だった。


 足元を濃い霧が流れている。
 物音は無い。まるで狭霧の声まで聞こえてくるような静けさだ。
 背の高い立木は陰影の濃い壁となってレミリアの身を囲っていた。
 どこからか霧を運んでいる微風が吹いてる。だがその風音もない。
 いくらか歩を進めるたびに霧は彼女の身体に纏わりつき、たわんでは身体に押し戻される。
 草を踏みしめているはずなのに、地面は何の音も発しはしなかった。一体どういうことなのだろうか。
 忽然と目の前を鉄門がレミリアを迎えた。それが紅魔館の物であることは言うまでもない。
 だが本来ここに居るはずの門番も庭師もメイドもここには存在してはいない。
 剣戟の調べが聞こえた。
 すさまじい奇声と悲鳴もある。
 弾幕が美しいガラスを吹き飛ばす破壊音。
 ホールに激しく動く人影がいくつか。
 どうやら誰かが中で争っているらしい。
 だが、果たしてレミリアは招かれた客なのか、
 門をくぐって、紅魔館が庭師の手塩にかけた美しい庭園と噴水の広場を抜け、入口の扉に足を踏み入れた途端、今までよりもなお濃い霧がレミリアを包みこんだのだ。
 初めて足元で音を鳴らしたのは、踏み砕けて砂粒になった屋敷の壁の一部だ。
 館のあちこちに走った亀裂やぽっかり空いた洞をレミリアは見たかどうか。
 彼女は紅魔館のホールに立っていた。
 壊れた窓から恥ずかしげに姿を見せた月の向こうに三人。
 フランドール――レミリア――そして見た事もない金髪の少女。
 もう一人のレミリアはフランドールと戦っている。少女は何かに苦しむような表情でその場に蹲っていた。
 フランドールは瞬時に床を蹴り、避ける暇も与えぬ速度で、手に持っていた剣を前へと突き出した。
 必殺の突きは白い閃光となって、もう一人のレミリアへと吸い込まれる。
 突然、手と手をはたき合わせたような音がした。
 フランドールの顔に驚愕の表情が生まれた。心臓を貫くはずだった刃は、切っ先半ばでもう一人のレミリアの両手に挟まれて止まっているのだ。
 掴んだ切っ先を捻りあげ、妹から武器を奪ったもう一人のレミリアはそれを迷わずに妹の心臓へと放つ。
 結果、刃はフランドールを庇った誰かの心臓を見事に貫いた。
 刺された相手は一体誰だろうか、レミリアには表情すら見てとれる筈の距離だが、霞が掛かって顔の輪郭すらもよくわからない。
 もう一人のレミリアは剣を離し、呆然としていた。絶望の表情をしたフランドールが崩れ落ちた少女に近寄り、誰かと数回会話を交わすと、身体を貫いた剣を引き抜いて自身の心臓を突き刺した。
 吸血鬼と言えど、心臓を刺されれば死に至る。フランドールはその場に崩れ落ち、じき動かなくなった。
 だが見ていた方のレミリアの表情は最初のままだ。凄惨な場面を目の当たりにしても眉ひとつ動かさない。
 それも当然、これは全て彼女が見ている夢の出来事だ。この舞台そのものが無意識の糸が織り上げた幻であり、空虚な夢物語でしかない。夢から醒めれば一片の霞も残らず、意識の彼方からも忘れられる。淡い空虚なものでしかない。
 いつの間にか少女とフランドールは、霧の中へと溶けて消えていた。否、逆だ――レミリアがホールから消えたのだ。
 夢は一瞬のうちに情景と時代を移り変えた。
 景色は紅魔館から中世の小さな街になり、外は既に暗く、煌々と月が出ている。
 周りの家々は眠りに静まり返り、街で唯一の酒場でも、ぼんやりとした明かりの下で、ひっそりと何人かの職人が安酒を啜っているだけだ。やはり物音ひとつしない。
「予知夢じみた悲劇の次は、追憶の夢か…」
 口からこぼれ出た独白は街の中央に淡く広がる。
 やがて闇夜に黒い影が飛んできているのが見えた。蝙蝠に似た翼をはためかせ、嬉しそうな表情で一軒の家へと向かって行くのは、間違いなくレミリア・スカーレットだったが、その顔つきは今よりもさらに幼く、表情も今の様な妖気は微塵もなくて、少女然としている。
 夢の舞台はレミリアの幼い時の記憶の世界へと移っていた。その証拠に舞台も幻想郷では無く『外』の世界になっている。
 彼女はこの日、屋敷をそっと抜け出して、親友の所に遊びに向かっているのだった。
 下町にある木造の一軒家、そこに友達は住んでる。
 紅の月が映り込む窓を彼女が軽くノックすると、
「こんばんわレミィ。待ってたわ」
 記憶の通りに笑いかけ、友人は幼いレミリアを招き入れる為に窓を開けた。
 いつものように挨拶を交し、寝ている家族を起さぬように、幼いレミリアは努めて忍びながら部屋の中へと入った。
 レミリアも追って同じように家へと入る。ただし夢の住人ではない彼女は堂々と家の玄関を通って。
 家の中を抜けて目的の部屋まで辿りつくと、二人はベッドに並んで座り、一冊の本を手に取っていた。
「ねえ、パチェ。今夜は本はどんなお話なの?」
「今日はねぇ、お姫さまと王子さまの恋のお話よ」
 そう言った少女は手に取った一冊のロマンス小説を読み出した。
 彼女の親はしがない小説家で、部屋には自分たちで書いた色々な種類の本が並べてあった。
 彼女自身も本と物語がとても好きな女の子で、夜な夜な色々な話を聞かせてもらったのを覚えている。
 巷で流行っているサスペンス物語から、夫人の間で大人気の淡い恋愛小説まで幅広く聞かせてくれた。おかげで屋敷なんかに居るよりもずっと楽しく充実していた。
 一通り小説を読み終わって、意を決したように幼いレミリアは、スカートのポケットから何かを取り出す。
 それは三日月の形をした髪留めだった。本物の月の照り返しによって今は黄金に輝いている。それを彼女に差しだした。
「パチェ、これいつも遊んでくれるお礼。もらってくれる?」
 食い入るように掌のそれを見つめて、
「きれい… ありがとうレミィ! わたしの宝物にするわね」
 髪を柔らかくかき揚げ、彼女はそれをウェーブのかかった紫色の前髪に差しこんだ。
 月の中に太陽の様な笑みが浮かぶ。
 ふと、レミリアが気まずそうにこう尋ねた。
「ねぇパチェ…パチェは人間なのに、こんな夜遅くまで起きていていいの? あたしと遊んでくれる為に無理してない?」
 彼女は引き続きにっこり笑って、
「大丈夫よ。いつも朝とお昼に寝てるから夜はあんまりねむくないの。レミィも来てくれるし、夜は楽しみ」
 安心したように幼いレミリアも表情を崩した。
「そっか…よかった。ねぇ、ところでパチェは学校とかいかないの? 私知ってるのよ。人間には学校って言うのがあって、私たちくらいの子供がいっぱい集まって、いろんな勉強とか本を読むんだって、パチェは学校いかないの?」
 今度は彼女の視線は悲しそうに影を泳いだ。
「わたしは……行けないの。わたし、すごく身体が弱くって、ぜんぜん外にも出られないし……それに学校ってすごくお金がかかるの。わたしの家は貧乏だから、お父さんとお母さんにそんな無理させられないわ―――でも今はすごく幸せなの。家にはわたしの大好きな本がいっぱいあって、お父さんとお母さんがいて、なによりも隣にいつもレミィが居てくれる。それだけでわたしはいまとっても幸せ」
 彼女は力なく微笑んだ。本人はそんなつもりはないのだろうが、無理している笑みだと見ただけでも分かる。
 幼いレミリアの目の色がさっと音を立てて変わった。
 かつての自分が彼女の手首をベッドへ押さえつけてそっと押し倒す。
 逆に彼女の顔は、一体どうしたのかと不思議の色に染まってる。
 血を吸う前の可愛らしい八重歯は、小さいながらも、すでに吸血鬼の牙と豹変していた。
「どうしたの? ……レミィ?」
「パチェ…わたし、パチェを学校には行かせられないけど、自分でちゃんと歩けるように、元気な身体にはしてあげられる。だからちょっとだけ痛いの我慢しててね――」
 小さく、力の入った言葉で告げてからレミリアは彼女の服のボタンを外した。彼女は抵抗しなかった。
 服の上がそっとがはだけて、ボタンとボタンの間から気恥ずかしげに白い首筋が姿をのぞかせてた。
 そこに向かって、レミリアは一度だけ優しく、口付けする。
 そしてかつてのレミリアは記憶の通りに首筋に向かって牙を突き立てた。

 次の瞬間、レミリアは目を覚ました。
 狭い棺桶の褥から目を開くと、真っ先に黒い天井が飛び込んできた。流れる木目のそれは天井では無く、黒檀で出来た棺の蓋だと知れる。
 朝方の頭痛はすっかり消えていた。眠っている間に棺桶の中の土が身体の疲れと共に落としてくれたようだ。
 吸血鬼の眠る棺桶には、生まれ故郷の土が封じられている――それは生物の疲れを母なる大地が吸い取って、新たなエネルギーを体内へ充填してくれる事を本能的に知っているからだ。
 記憶を辿る――昼にパチュリーが部屋に来てからどれほど時間が経ったのだろう。
 さっきの夢、あれは決してただの悪夢の類や記憶の片隅の再現ではない。レミリアの能力―『運命を操る程度の能力』が見せた、未来に起りうる運命の予想図だ。
 だとすれば、やはりレミリアとフランドールは戦い、そしてあの金の髪の娘は死ぬ定めにあるだろうか。
 そして次の過去の夢の意味は何を暗示するのか。
 レミリアが内側から掛けた鍵を外して棺桶の蓋を押し開ける。
 入った時と同じギギッ、という木の軋む音。
 天蓋を外して起き上がると、眠りから覚ますように伸びを一つ。
 寝起きの仕草は人も妖怪もさほど変わらないらしい。
 部屋の明るさは昼間と同じだ。ゆらりと灯火が佇むだけ。
 元来、光など彼女には不必要な物なのだ。一応としてそこにあるのはとどのつまり、パチュリーや咲夜や他のメイド達の都合にすぎない。
 壁の時計の針は既に午後の7時すぎを示している。
 レミリアは運命の断片から、自分が予想していた事が起こっているのではないかと考えていた。
 つまり、フランドールがあの少女の血を無闇に吸ってしまったのではないかと言う事を。
 フランドールは幼い時から自身の力の制御が出来ずに、屋敷での厳重なコントロールケアを常に怠らずに受けていた。食料もきちんと加工してから与えられていた程だ。
 それ故に、彼女には吸血鬼としての基本的知識や日光をはじめとした種としての弱点に対する対策が何一つ出来ていないまま育ってしまった。
 だからこそ、今までこの屋敷内を徘徊させて、少しでも外に慣らしていたのだ。
 それが、突然いなくなって帰ってこない。
 万が一にも日光に直接当たって灰にならない保証があるか。
 水溜まりに浸かって溺死しない事があるだろうか。
 フランドールの安全ももちろん心配なのだが、それにも増して不安なのは、首を噛まれた誰かが怪物として里人を襲ったりしないかと言う事だ。
 吸血鬼の吸血は栄養補給以上に自分の眷属や奴隷を増やすことに意味がある。
 一口に増やすと言っても、無闇やたらと増殖させるわけでは無く、愛した者を眷属として迎え入れ、全てを支配したいという、歪んだ恋愛と求愛の感情から根ざしているので、普通なら吸血された人間など、滅多に現れるものではない。
 だが、日光や流水に晒され、弱った吸血鬼は休息以上に本能として血を欲しがる。
 その時に運悪く襲われてしまった犠牲者が、意図せず怪物に変貌する事は稀にあるのだ。
 奴隷は主人よりも当然ながら圧倒的に脆弱で非力だが、人間に比べれば十分に規格外の化け物。僅かな人数でも吸血鬼になれば、それは一気に広がって、あっという間に死者の王国が出来上がる。
 吸血鬼は既に世に廃れて久しい一族。唯一の生き残りであるレミリアも、自分の代を最後にして、いずれ来るその滅びを受け入れるべきだと考えていたからだ。
 故にフランドールが何かのはずみで誰かの血を吸い、新たに吸血鬼が増える事だけはレミリアにとってはどうしても防ぎたかったのだ。
 たとえそれが、友情や愛情の果てに行ったものであっても。
「あれがこれから起る運命…死にゆく定め…これも吸血鬼の逃れられない運命なのかしら…」
 ぽつりと呟いた黒い翼と背中は棺の中に夢を置いて自分の部屋を出た。


 紅魔館の地下には大きな図書館がある。
 広大な地下から天を貫き、腹の中にこの世の知識すべてを蓄えた本棚が連立する様は圧巻と言って他ならない。
 腹の中の本も古今東西の文字が居並び、一度でも口を開けば記された禁断の知識で読む者の心を染めるだろう。全てが人の世にあってはならぬ類の魔道書ばかりだ。
 だがこの館の持ち主であるレミリアは滅多にここを訪れない。
 なぜなら屋敷の中でこの空間だけは、彼女のものであってそうでないからだ。
「小悪魔。ちょっと来て頂戴」
 本の海に漂う一脚ずつしかないテーブルと椅子に座って、ぽつりと言ったのは先程、レミリアの部屋にいたあの紫色の女だ。
 物静かで、思わず独白と勘違いするほど落ち着いた声すら響くのは、静寂に包まれた図書館だからこそだろう。
 音すら出たかどうかという呼び声に反応したのか、二人の――これまた若い娘がやってきた。
 おそらくは双子の姉妹なのだろう。瓜二つの顔に同じデザインの白いシャツと黒いスカートを穿いている。その違いは何かと問われれば、長短の違う赤い髪としか人には答えられない。
 どちらの娘も小悪魔、と呼ばれただけあって、背と側頭部に小さな蝙蝠のような黒い翼が備わっていた。
「「お呼びですか? パチュリー様」」
 鏡合わせの容姿に続いて声音までもが似通った調子だった。この様子だと些細な仕草や行動のパターンまでそっくりだと誰でも想像に難くない。
 パチュリー・ノーレッジ。二人を呼び付けた女は紅魔館の地下図書館に住みつく、幻想郷では有名な魔女であった。
 これまで生きた年数はすでに数百に届き、木火土金水を基礎にした陰陽五行に加えて、独自に作りあげた日と月の二行を足した、『七曜の魔女』という二つ名は幻想郷内に遍く流布している。
 同時にその周りで渦巻く奇怪な噂も。
 なにも魔法使いや魔女は幻想郷で彼女一人では無い。むしろ妖怪とほぼ同数、或いは妖怪以上に潜在的な数がいると言われている種族だ。
 それらは大体が森の中や、人気のない山の中腹辺りに住居を構え、新たな魔法や呪文の研究や実験を行っているのだ。
 だが彼女だけは、この紅魔館の図書館の中にどっしりと居座り、吸血鬼のスカーレット姉妹と共に寝食を共にして生活している。
 何故人間はおろか、妖怪すらもまともに近寄れない紅魔館の中で殺されずに平然と生きていられるのか。
 彼女だけが。
 以前その謎を調べるべく、一人の命知らずの若い魔法使いが勇んで紅魔館へと向かったが、その若者は入ったきり出てくる事は無かった。
 やがて噂が噂を呼び、魔法使いの間では、彼女の存在すらも怪しむ声が現れ始めていた。
 実は紅魔館のレミリア・スカーレットこそが、パチュリー・ノーレッジのもう一つの姿なのではないかという声もあったほどだ。
 だが、彼女の存在と実力は実際にあった者こそ良くわかっている。彼女と一戦交えて無事に生き残った者は、実力者として名をあげられる猛者以外はほとんどいない。
 同じ魔法使い、または魔女が彼女の名前を挙げる時は必ず口には尊敬と畏怖、そして憧れの感情が現れる。それはすべて彼女の魔女としての実力と、恐ろしい吸血鬼と共に住むという彼女の奇怪さを見事に表していた。
「幾つか本を探して欲しいの――吸血鬼に関する本をね」
「「かしこまりました」」
 二人の娘がさっと後ろを向いた。
 この娘たちは彼女の使役する使い魔であり、図書館での有能な助手兼司書でもあった。
 果たして二人は同じ場所へと向かうのかと思いきや、髪の長い方は右に折れて本の山積みされてる一角へ、短いもう一方は左の方にある吹き抜けにまで届きそうな勢いの本棚の塔へそそくさと消えていった。
「また再び、私のような存在が生まれようとしている…」
 二人の助手を後ろ姿を見届けると、パチュリーは神妙な顔をした。
 手元の邪魔な本を片手で隅へと追い払い、引き出しから羽ペンとインク壷に羊皮紙を取り出す。
 壺に羽の先端を漬け、羊皮紙に何かを書き出した。
 サラサラと紙に文字を刻んでいく。
 速筆ながらも丁寧な字で書かれた紙にはこう記されていた。
 〝吸血鬼に洗礼を受けた者を元の状態に戻す方法〟と。


「それでね美鈴。 その時にね、ルーちゃんにいっぱい外の事を教えてもらったの。 すっごい楽しかったんだよ。 わたしの知らない事いっぱい教えてもらったんだ」
 逢魔が時の森の中に、小鳥の様な少女の声が反響する。森の木々たちも、その美しい声音に聞き入っているかのように、しんとした静寂を保っていた。
「フランちゃん……そんなにくっついたら、まっすぐに歩けないよぉ…」
 もうひとつ、今の声とは別の声が森に響く。困ったような、照れている様な声の主は、声を上げた少女の身体にぴったりとくっついて歩いている、いや正確にはくっつかれていると言うのが正しい。先に声を上げた少女に右腕を絡みつくように身体を寄せられていた。身体のバランスがうまく取れないのか、少し歩き方が不安定だ。
 それを心配するが如く、更に一つ声が飛ぶ。
「フランお嬢様、ルーミアさんが困ってますわ。もうすこし離れてさしあげてはいかがですか?」
 柔らかさを内包しながらも凛とした力のある声は、歩いている少女二人のやや後ろから聞こえた。そこを見やると、美しい銀髪を持ったメイドが優しく微笑んでいる。傍から見れば、その関係はさながら髪の色の違う親子の様にも見える。
「そうですよ。咲夜さんの言うとおりです。ほら、ルーミアちゃんが困ってるじゃないですか」
 ぴったりくっついた二人の横の、中国服を着た女がそう言った。
 太陽が沈みきったのを見計らって、ルーミアの小屋から出た4人は、紅魔館を目指していた。既に太陽は水平線の彼方にオレンジ色の残光を残し、紫色の夕闇と混ざり合い始めている。吸血鬼の天敵である太陽が空から消え去り、フランドールは、彼女が本来持っている天真爛漫な活力を完全に取り戻していた。
 三人の声を聞き、フランドールは更に反発するように、ルーミアの身体を強く自分に引き寄せる。
「そんな事ないよね? ルーちゃん」
「う、うん……」
 と言いつつも、ルーミアの声は若干息苦しそうだ。
「ほらほら、フランお嬢様もそんな事をいって、これ以上ルーミアさんを困らせないで上げて下さいな」
 そう言い、咲夜はさして力も入れた様子もなく、するりと二人の身体を引っぺがす。
「一緒に歩くなら、これくらいがちょうどいいんです」
 改めて引き剥がしたふたりの手を取ると、今度はしっかりと握らせた。
「これでいいですわ」
 うんうんと、納得の頷き。
「もう咲夜ったら、いじわるしないでよぉ」
 と言ってフランドールはまた懲りずにルーミアに身体を寄せた。
「ああ、うぅん……くすぐったいよ、フランちゃん」
 またぴったりと抱きつかれたルーミアの表情はますます困った様子になった。彼女としては嬉しい半面、照れくさいのと、歩きにくいので、困っているのだろう。
「だってルーちゃんのからだ、すごくあったかいんだもん。こうやってくっついてると安心するの」
 子犬のように抱きつくフランドールにさしもの咲夜も、引っぺがすのを諦めた。
「妹様は甘えん坊さんですねぇ」
 と美鈴がからかう。あの小屋の中とは違い、本来の彼女の明るい性格が現れていた。
 気がつくと、不気味な森の木々も途切れ、森の終わりが見えてきた。
 魔法の森を抜ける。あとは紅魔館まで真っ直ぐの一本道だ。
 先に繋がるのは、月下の元で赤々と映る館。
 そしてそこには、4人が予想だにしなかった人物が待ち構えていた。


「待ってたわ。フラン」
 紅魔館の門前で飄然と佇み、静かに言ったレミリアの前には4人の人影が揃っている。
 太陽はとうの昔に上空で融解し、再び青みがかった月が遍く地表を照らしていた。
 夜――人間は脅えながら眠りにつき、すでに時の支配権を魔に譲り渡して久しい時間が訪れた。
 四つの影の内、小さい二つの内の一つが前に出た。フランドールだ。
 不安げに翼から垂れた7色の宝玉が揺れている。仕草とは裏腹にその光だけは優雅そのものであった。
「ごめんなさいお姉さま…わたし…」
「その子――――やっぱりあなたに血を吸われているわね」
 姉の射抜くような視線にフランドールはびくりと身体をこわばらせた。
 吸血鬼としての能力か、はたまたあらゆる運命の先を見据え、それを操るというレミリア自身の力か、遠目からもう一つの小さい影―――ルーミアを一目見ただけで彼女が血の印をもっている事を既に見抜いていた。
「やっぱりやってしまったのねフラン…あなたは分かっていない。吸血鬼が血を吸うと言う事がどういうことなのか。
 私たち吸血鬼はもう時に忘れ去られた存在。いまやこの幻想の地に住みつく仮初の客。それが今さら牙を剥いて、力を振りかざすなんて許されない事なのよ」
「お姉さま……ルーちゃんをどうするつもりなの……?」
「一度生まれた眷属は生かしてはおけない。その娘が幻想郷にどんな影響を及ぼすか判らないわ。それが強大な力を持ったあなたの眷属で、人食いの妖怪なら尚更よ」
「やめて! わたしの友達を殺さないで!」
 妹の悲痛な叫びにも姉は不動だった。
 今すぐにでもあのレミリアが見た夢の惨劇が繰り返されるかもしれないそこに毅然と割って入る一つの影があった――咲夜だ。二つの目はしっかりと主を見据えている。
「お嬢様。どうか気をお静め下さい」
「咲夜――あなたには悪い事をしたわね。フランにとって大切な人を殺せなんて、酷な事言ってしまって」
「いえ……私の方こそ、お嬢様のお言いつけに逆らいました。故にこの場は、私への懲罰のみでお許しくださいませ」
 咲夜は小さな主に頭を垂れた。
 だがレミリアはかぶりを振る。
「咲夜、貴女はフランの為を思って私の命令に背いたんでしょう。フランを慕ってる貴女には辛い仕事だったわね。大丈夫、私がやるわ。これも運命通り……」
「いいえ。咲夜さんへの命令を止めせたのは私です、ですから罰は私が受けます」
 続いて美鈴をも一歩前に出る。やはり心慕う主同士が戦う所など、どんなことをしてでも、従者二人としては見たくないのだ。
 やがて主は二人の従者たちを見て、力ない渇いた笑みを浮かべた。
「二人とも、こんな我儘なあたし達姉妹に尽くしてくれてありがとう。感謝の言葉もないわ…でも、これだけは私達吸血鬼の問題。どうか今だけは黙って見ていて欲しいの、お願いよ」
「お嬢様……」
 失意の表情で前に出ていた二人がルーミアを連れて下がり、再び小さい影が残った。
 姉は慰めの言葉の代わりに続けて妹に告げた。
「あの子は恐らく自ら血を分けてあなたを陽の光から助けたのでしょう? なら、今度はフランが自分の気持ちに応える番よ。本当に大切な人を守る気があるなら、私を倒してでもそれを守りきってみなさい」
 レミリアは手に何枚かのカードを持って構えた。
 それが決して札遊びでは無い事は彼女の放った戦意とカードから滲む力が表している。
 鬼気に触れ、悲痛な面持ちのままフランドールも同じく、スカートのポケットから幾枚カードを取り出す。
 どちらとも言わずに距離を詰める。
 それはどのような形であれ、この姉妹が相まみえる事を意味していた。


 八百万の神と幾千の妖魔が犇めくこの幻想郷にも、立派な決闘の方法とルールがある。
 それがスペルカードルールだ。
 ルールは簡単。お互いに任意の力を込めたカードを決められた数だけ用意し、すべて破った者が勝利するという単純かつ明快な決闘方法である。
 このルールの最大の特徴とも言うべきが、どんな力を持った存在だろうとこのルールを適用できるという点だ。
 故に一介の妖精だろうと、非力な人間だろうと、スペルカードさえ用意すれば、たとえ相手が天地を操る全能の神だろうと、運命を捻じ曲げる恐ろしい悪魔だろうと対等に勝負を仕掛け、戦う事が出来るのだ。
 そんな人外同士の戦いが今、この目の前で繰り広げられようとしていた。
「スペルカードは全部で三枚。すべて破られた方が負けよ」
 言うやレミリアの掌から数条の閃光が閃いた。
 それぞれがフランドールの頭と言わずに心臓や腹をも突き破るべく、音を追い抜く。
 だが悉くが身体を貫く数十センチほど手前で、迸る一筋の鋭い銀光によって断たれる事となった。
「させない…! ルーちゃんを殺すなんて絶対にさせない!!」
 白銀によって二つに割れた閃きの残滓が地面にひれ伏す。既に飛んだ時の輝きは失われ、元の正体を晒していた。
 光の正体は長さ直径15センチ以上はある尖った杭だ。いや、正確には杭を模した弾丸とでも言うべきか、
 スペルカードの魔力によって生まれ、狙った通り穴を穿つべく発射された杭の弾丸はそのすべてが人妖構わず必殺の威力にして余りある。
 だがそれを切った銀色の光線が小さなフランドールの手に握られた一振りの長剣だと誰の目が認められただろうか。
 鏡のような煌めきを持った剣は次々と空間に道を走らせ、亜音速から来るレミリアの弾幕をすべて切り払っていた。
「やるわね、フラン」
 レミリアの顔に先程の笑みは無い。妹の強さは彼女が一番よく知ってる。最初の光が切り払われた時点で笑みを浮かべる余裕は見事に消滅していた。
 閃光をすべて防がれた瞬間、レミリアの手から一枚のカードが炎に溶けるようにして空へと消えた。
 カードに封じられていた魔力がすべて解き放たれ、カードとしての形を維持できなくなったのだ。
 手札の開示。消滅と同時に新しい一枚が掲げられる。
 カードに封じられた魔力の具現化によって次に幻から現へとまろび出たのは、赤く塗られた長槍であった。
 大の大人でさえ怯む妖力と気迫は見ただけでも瞬時に魔槍の類と知れる、レミリアのスペル――『スピア・ザ・グングニル』
 軽々と自身の倍はある魔槍を手に持ち、翼を翻して接近するレミリアを下からの一文字が捉えた。
 すかさず槍からも迎撃の突きが繰り出される。
 赤閃と銀光――果たして勝つのはどちらか。
 剣戟の響きでもって己の力を見せつけるべく競り合うかに見えた銀と赤は、しかし一瞬のうちにすべてを豹変させていた。
 どうした事か、銀光はにわかに身を転じて、放った剣の持ち主へと戻ったのだ。
 謎の転身に気づいた宝玉の枝が大きく羽ばたき、胴体が切り裂かれる寸前でフランドールが後方へと逃げのびた。
「あぅ!……」という呻きの声。
 それでも避けきれなかった胸の部分は服を浅く切り裂かれ、傷口からは薄く鮮血が滲み出し、フランドールの顔が苦痛に歪んだ。
 走り出た銀光の元――すなわちフランドールの剣はなんとレミリアの手へと渡っていた。
 全力で槍と剣がぶつかる寸前、レミリアは下から振り上げられる剣の先を槍で弾き落とし、見事妹から自慢の得物を簒奪してみせたのだ。
 それも目にも留まらぬ一瞬、時をも越えた刹那の出来事だと言う。
 まさにそれは彼女たちが人外の魔力を持ち、中世に夜の世界を支配して見せた王者の一族だったことを世界にありありと見せつけていた。
「今度は今の様にはうまくは行かないわよ」
 右手に槍、左手に剣を携えたレミリアは再び真っ直ぐに妹へ突き進む。
 させじとフランドールも姉と同じく魔力の弾丸を吐き出したが、それも攻守の手を変えた焼き回しが如く、白刃の元に切り伏せられる。
 勢い殺さぬ姉の突進は遂に妹の1メートル手前にまで及んだ。
 交錯する4つの紅瞳に美しい弧が映りこむ。
 何かが刃物に切られる音がした。
 どさり、と何かが地面に叩きつけられたが、弧の線上にあったフランドールの首はまだ胴体に付いている。
 では果たして斬られたのは何か?
 レミリアが切断したのはフランドールの首ではなく、龍を思わせほど巨大な樹木の胴体だ。それはまるでフランドールを守るように二人の間の地面から亀裂を生んで次々に伸び、太い身体を他の幹や枝と依り合わせて分厚いカーテンを形成していく。
『クランベリートラップ』―――樹木はフランドールが持つスペルカードの仕業であった。
 魔力と大地のパワーを使って急速に育てられた木々は時には盾となり、時には枝を鞭のように撓らせ打擲する攻防一体の強力なスペルだ。
 フランドールの自在で動き、すべてが必殺の相手にレミリアは勢いを譲らず、剣と槍とを巧みに使い分けて魔性の植物を雑草でも刈るかのようにして次々と薙ぎ払う。
 レミリアとフランドール―――二人の吸血鬼の姉妹はそのどちらもが一歩も譲らない。互いの実力は完全に互角と言えた。
 やがて切った先から無尽蔵に襲ってくる枝の多さに苛立ったのか、剣が大振りになった隙を逃さず、丸太ほどもある枝の一本がレミリアからそれを絡め取って奪い返した。
「私の剣は返してもらうわね。お姉さま」
 奪った一本が鋭くうねり、剣を持ち主へ納めるべく僅かに合間を作って、
「ええ。最初からそのつもりだったわ」
 瞬間レミリアの右手が魔槍を妹へと向けた。
 彼女は最初からこれを待っていた。妹が自身の武器を取り戻そうと隙を晒す一瞬を。
 だからこそ、わざと必要なまでに剣を使って戦って見せていたのだ。
 姉の思惑に勘づき、フランドールがレミリアを止めるべく枝を差し向けるが、もう遅い。
 右手から十分な推進力を加えられ、真紅の流星となった長槍がフランドールへと吸い込まれていった。


 空に掛かっている月がこんなにもハッキリと紅く見えるのは少女にとって生まれて初めての出来事だった。
 今まで月など見ても少女は別段、何とも思ってこなかったが、今日の月は全てたちがった。いつも見ていたものと同じものとは、とても思えないほど美しく、優しい光を振らせている。
 少女の体中が燃えるように熱くなっていた。
 心臓はさっきから早鐘を打ち続け、息も自然と荒くなり、それでいてどうしようもな位に喉が渇く。喉の奥がちりちりと渇いて干乾びそうなほどだった。
 リボンの下に隠された二つの跡から、じわりじわりと身体中に熱が馴染んでゆくのが分かる。それも身を焦がすような灼熱のそれでは無く、芳しい美酒が身体の中を甘く火照らせているような心地いい熱で、いつまでもこの快楽と優越に浸っていたいと心に思わせる芳しい熱だ。
 何よりも、熱と合わせて全身に漲るこの活力。
 能力で軽く作りだした闇にも力が隅々まで行き渡り、いつでもこの世の全てを覆い尽くせる気がした。
 ふと自分の頬が弛み、意識せずに笑みが浮かんでいる事にルーミアは数秒間気がつかなかった。自分では分からないだろうが、それは陶酔しきった笑みだ。
 何という清々しさ。何とも心地良い身の軽さと満ち溢れるエネルギー。これは何なんだろうか。
 だがそれを意識したと同時、全身に戦慄と恐怖が走った――一度でもこの快楽に飲み込まれたら二度と帰ってこれない!
 両手をギュッと抑え、自分をその場で抱き留める形でルーミアは自身を塗りつぶそうとする圧倒的な力と謎の快楽を相手に、人知れず戦いを始めた。
 余計な事など何も考えない目を瞑ってじっとしても、風の運ぶ血の匂いと音とが、親友の戦いの様子を嫌でもルーミアに事細かに教える。
 遠くで聞える槍と剣が奏でる調べも、声も、耳元で起っているようにハッキリと聞こえた。
 風に乗った僅かなフランの血潮の残り香を嗅いだだけで、更にこれまで体験した事の無い強力な悦楽が鼻腔と脳髄を刺激し、あまりの事にその場にしゃがみ込んだ。身体が絶頂を迎えたと言い換えてもいい。
「大丈夫? すごく顔色が悪いけど…?」
 と言って肩を掴んだのはどこの誰なのか分からない。頭がぼんやりとしていて簡単な思考さえ今のルーミアにはおぼつかなかった。
「大丈夫です…なんでもありません…」
「そうは言うけど…ホントに顔が真っ青じゃない…美鈴!」
 なんとか返事を呟く事が出来た口も、何故か前の歯がぶつかってカタカタと震えていた。
 どうやら肩をつかんでいる人物は、微かに憶えていた声からして十六夜咲夜らしかった。
「どうしました咲夜さん……? ど、どうしたのその顔ッ!?」
 もう一人、紅美鈴もやってきて心配そうにその顔を、ルーミアの顔を覗き込んだ。
 大丈夫だ、と言おうと思い、目を開けたルーミアは思わず美鈴のその顔を見つめた。瞳は美鈴の美しい顔以上に、顔を透過して不思議と見える血管の方に思わず我を忘れて見惚れ、釘づけになった。
 ―――なんて美味しそうな血……
 気がついた時にはルーミアの両手は美鈴の肩にかかっていた。
「へ…!?」
 呆然としている美鈴を尻目に、強引にその肩を引き寄せ、勢いよく口をその喉元まで運びかけて、
 ダメっ!!―――心の中のひどく冷静な部分がそう告げていた。吸血の欲望にすんでの所で抵抗したルーミアが美鈴から数歩後ずさる。彼女の身体は数歩の後退で二人の顔が見えなくなるまでに距離を取っていた。
 棒立ちになって驚愕の様子を見守っていた咲夜も呆けていた意識に息を取りもどした。
「あなた! いま何を――」
 同時に背後から声が聞こえた。
 ―――私の剣は返してもらうわね。お姉さま。
 それは丁度、男の腕ほどの太さの木の枝がフランドールの剣を取り返した時だった。
 だめっ! あの人はそれを待ってたの!
 振りかえって叫ぶ前にレミリアの声が聞こえた。
 ―――ええ。最初からそのつもりだったわよ。
 既にレミリアは当初の思惑通りに槍を構えている。あと投げるまで数秒もない。
 フランちゃんが危ない!
 動かした腕に闇が巻きつき、瞬時にその全貌は一対の大翼と化す。
 地を踏みして跳躍すると、小さな身体は易々と中空まで上昇して見せた。
「フランちゃん…今行くよ」
 伝説の魔鳥よろしく漆黒の翼を大きく羽ばたかせ、ルーミアは親友に向かって大空を駆けた。


 夜空を駆ける流星があった。
 それは竜の如く真紅の長い尾を備え、定めた狙いへと真っ直ぐに飛来している。
 止められないと知ったフランドールが太い幹同士を絡ませて盾を形作った。
 盾は赤槍の前に立ちふさがり、いくらか勢いを殺げこそしたものの、依然としてその前進を阻んではいない。数十センチの厚みの盾に綺麗な新円を穿って、愚直に前進している。
 取り返した剣を再び構え、二度目の交差を果たそうとした時、
 目の前に漆黒の帳が下りて星を包み込んだ。
 レミリアが見た運命の結果では、フランドールを庇った金髪の娘は心臓を貫かれて絶命するだったが、それは正夢になる事も無く、纏わりつく闇だけを突き刺して後方の森が作る宇宙へと消えた。
 煌々と輝く月光を全身に浴びて降り立った黒い影に、フランドールが緊張も忘れて素っ頓狂な声をあげた。
「ルーちゃん…?」
 だが親友のその変化した容姿にフランドールは我が目を疑った。
 レミリアもルーミアを見た。
 グングニルを反らしたのは見紛う事なきルーミアだ。
 しかし、彼女は果たして本当にただの妖怪少女のルーミアであったろうか?
 見よ! 彼女の呼吸は荒く、精気の無い顔の色は蝋と同じではないか。
 朱に近かった本来の双眸はぎらついた血光に染まり、口からは小さくも尖鋭な種族の証たる二本の牙がこぼれて、己の存在を主張している。
 明らかに彼女の風体は吸血鬼の様相を呈していた。
「フランちゃんは殺させない!」
 両腕の羽を動かし黒い稲妻となってレミリアへ迸る。
 槍を失ったレミリアの右手が瞬時に変化し、めりめリと音を立てて伸びては鋭い鉤爪が現れた。
 月下に妖しく煌めくそれは、鋼鉄にも勝る鈍い輝きを放つ。
 横薙ぎに振るわれたレミリアの妖爪が火花を散らせて虚空で止まった。翼から一気に強靭な黒刃へと変化した闇の手刀の仕業であった。
 互いの右手は拮抗する力に軋み、わななきを上げ、やがては赤く発熱し始めた。
 不意にレミリアの口が開いた。
「退きなさい。今のあなたの気持ちも、血を吸われた者が持つ偽りの感情よ」
「いやです。 フランちゃんは私の友達です。それは血を吸われていても関係ありません」
「――それすらも、フランの血が作りだした無残な幻だとしたらどうする?」
「それでも――私とフランちゃんは絶対に友達です。何があっても、どんなに変わってそれだけは変わりません!」
 闇に巻かれた手刀に亀裂が走った。
 吸血鬼の力に闇が耐えられなくなったのだ。
 だがルーミアは動じない。
 ただ自分を試す瞳だけを睨みつけていた。
「差し迫る吸血の欲望からは逃れられない。今は理性が押さえつけても、いずれは飲み込まれて大事な人を自らの爪と牙で襲う事になる。誰もこの性には勝てないわ」
「その時はどうか、ひと思いに殺して下さい。友達を襲うくらいなら、死んだ方がマシです」
 そう答えてから数秒。
「……私の見た運命は変わったのね」
 誰にも聞こえないほどに小さくレミリアが呟いて、
 死闘の決着はあっけなくついた。
 ルーミアの右手の亀裂は拮抗に耐えきれずに完全に破壊された。鋼の闇が崩れるや、レミリアの黒い鉤爪が彼女のわき腹を鋭く抉ったのである。
 血風を巻いてその場に崩れる半吸血鬼のもとへ、親友が風を巻いて走り寄った。
「ルーちゃん!!」
「大丈夫…大したことないから…」
 苦しげな息遣いでルーミアは上半身を起して苦笑した。
 すっとレミリアが近寄った。
 今まさに殺される筈だった者と殺す筈だった者。
 二つの視線がまた合った。
 だが片方は疑問のある目の色だった。
「なんで、殺さないんですか?」
 苦痛に顔を曲げながらもルーミアは訊いた。
 わき腹を抉った傷は重症であれど致命傷では無い。妖怪ならば半月もせずに回復するし、ましてや半吸血鬼となっている今のルーミアなら再生に数日も要さないだろう。
「気が変わったわ。私の妹を勝手に連れ出した事は、それで勘弁してあげる。この後にどうなるかは、私の見た運命にはない。あなた達が自分で決める事よ」
 それだけ言って、レミリアは屋敷へと歩き出した。
「お姉さま!」
 立ち上がったフランドールの耳元でにわかに呻きが上がった。
「うぐッ――――ぐぇぇ……ハァグァ……」
 ルーミアが苦しそうに首筋を抑ると、とても少女の物とは思えぬ呻きの声をあげ、苦痛にのたうちまわり始めたのだ。ルーミアの身体をさっきの熱とは違い、今度は全身から精気という精気がとめどなく流れ出し、猛烈な寒気と脱力感が彼女に襲いかかってくる。
 吸血の際に混入した吸血鬼の体液は一旦は肉体の強化を促し、それが全身に行き渡ると、今度は元の身体を分解して吸血鬼の肉体へと再構成する為に、猛烈な勢いで体内の熱とエネルギーを使い潰してゆく為だ。
「フラン。この子を助けたいなら、急いで図書館まで連れて行きなさい。パチェがこの子を助ける為の準備を進めているはずだわ」
 頷いた少女はルーミアを両手に抱え、屋敷の方へと一目散に飛んだ。
 今度こそ、絶対にわたしが友達を守るんだ。
 心に固く誓いながら。


 フランドールはぐったりとしたルーミアをパチュリーのもとへと運んだ。
 既にかなりの準備をしていたパチュリーが、任せろとばかりにルーミアの身体を数種類の魔法で徹底検査し、どうするべきかを調べ上げた数値と共に割り出そうとしていた。
 同時に二人の小悪魔に的確に指示を出し、必要な物や道具を用意させる。
「これは大分深刻ね…体質なのか、侵食がかなり早いわ」
「パチェ! ルーちゃんは!? ルーちゃんは治るの!?」
 心配そうに見つめるフランドールに、
「落ち着いてフラン。どれぐらいで吸血鬼になるかは、吸血した回数と吸った量と体質で変わってくるのよ。咬んだだけで吸血鬼になる者もいれば、何度やっても血を失うだけで済む者もいるわ、この子の場合はどうやら適合体質の様なの」
「適合体質?」
 聞き慣れない言葉にフランドールは首をかしげた。
「簡単に言うと、この子の身体は眷属じゃなくて、本物の吸血鬼になりたがってるの。でもその為の必要な因子と体内エネルギーが足りないから、こうして苦しんでるというわけ――気がついたわね」
 閉じていたルーミアの目が開いた。虚ろな目に相変わらずの蒼白の顔色だった。
 弱弱しく開いた目に、
「おはよう。気分はいかが?」
 とパチュリーは尋ねた。
 表情は予めどんな気分か知っているような顔つきでもあった。
 いきなり初対面の顔にのぞきこまれてルーミアは少し戸惑っていた。
「あなたは…?」
「ああ、自己紹介まだだったわね――私はパチュリー・ノーレッジ。ここに住んでる魔法使いよ。悪いけど、少しあなたの身体を調べさせてもらったわ」
 一気に娘の目つきが深刻な物に変わった。ひどく透明な視線が魔女に注がれる。
「わたしの身体はどうなってるんですか?」
「あなたの身体はいま、吸血鬼と妖怪のちょうど中間くらいでとどまっている所よ。ハッキリ言って、今が一番辛い状態ね――血を吸っても満たされない。だけど、喉が渇いて血を吸わずにはいられない―――」
「わかるんですか?」
 自分の状態を言い当てられた事に驚いたのか、ルーミアは目を見張った。見張ったと言っても、精気の無い顔の変化は、ほんの気持ちほど目が大きくなったくらいだったが。
「経験があるのよ――私も一回なりかけたの。吸血鬼にね」
 今度は場の誰もが目を見張った。
 ただ淡々と告げるパチュリー本人だけを除いて。
 彼女は話を続ける前に、もちろん、と前置きをし、
「いまは違うわ。それでも、半吸血鬼からどうにか元に戻るまでには、結構な苦労があったの。いまでも吸血鬼化を抑制するためにかなりの魔力で抑えてるのよ、ほら」
 そう言って無造作にネグリジェの襟を手で下へずらすと、それはあった。
 吸血鬼特有の牙で作られただろう小さな二つの点の様な傷跡――そこを小さな魔法陣がぐるりと囲っている。それが吸血鬼化を防ぐ保護呪印らしかった。
「でも、これも所詮はその場しのぎよ。今でもこれを維持するのに常にかなりの魔力と体力を使ってるから、おかげで身体はボロボロ、喘息にまでなる始末だしね。―――でも後悔はしてないわ、私にとって初めてできた大切な人が私の為にしてくれた物だもの。後悔なんてするわけがない」
「それと同じ方法で私の身体は治りますか?」
「無理ね。維持させる以前に、呪いを作るだけでも相当の魔力と体力を消費するもの。今これと同じ封印を作ったら、間違いなく、あなたは死ぬわ。
 あなたの体質だと、そもそもこの呪印は定着できない。変化したがっている身体を無理に抑えたら、それこそ本当に命取りよ。私の時は吸血鬼になれるほど元々身体も強くなかったし、それほど適合してた訳でもないの。だから上手くいっただけ。奇跡の様なものよ」
「じゃあどうすればいいの!? このままじゃルーちゃんが!」
 食ってかかるフランドールに落ち着けとばかりに、パチュリーが宥める。
「このままだと、っていう話よ。治らないけど、助かる手はあるわ」
 少女達は緊張に息を呑む。
 二人を代表してフランドールが訊いた。
「…どんな方法なの?」
「単純な話よ――吸血鬼になりなさい。中途半端な眷属ではなく、完全なね」
 パチュリーはにベもなく言った。
 答えの代わりに〝この人は一体何を言ってるの?〟と言わんばかりの顔が向けられる。
「そうすれば話は簡単よ。食料の血液は、私がレミィとフランの為に培養した人工血液でも事は足りる。その気になれば、いつものように人間を殺して生き血だけを搾り取って飲み干せばいい訳だしね」
「ちょっと待って。 だって吸血鬼は増やさないって…」
「そうよ、欲望に駆られて見境なく人を襲っては、生き血を啜る中途半端な吸血鬼は、幻想郷にとって危険極まりない存在だわ。
 でも貴族――完全な吸血鬼になれば、衝動は今までよりもずっと少なくて済む。
 そもそも、ホントは吸血鬼って人の血なんか吸わなくったって生きていけるのよ。日光の下で無理に動いたり、大怪我をしたりしない限りは栄養なんて、パンとワインだけでも数十年は生きていける。その血液だって、随分な昔から、自分達だけでも人工的に作りだす事も出来たのによ?
 それでも吸血鬼が人を襲うのは、人間が食事を楽しむために、じっくり食材を選んで、腕によりをかけて料理するのと同じ、趣味と悦楽程度の意味なの」
「…………」
「だからこそ、吸血鬼が吸うのは、自分が見惚れた者の血液だけ。吸血鬼の吸血は支配と求愛の表現なのよ」
「それで、どうすればいいんですか?」
「吸血鬼になるには、吸われるのとは逆に吸血鬼の体液を身体の中に取り入れればいい。つまり吸血鬼の生き血をね」
 言われている事の意味を理解したフランドールが目を輝かせる。
「じゃあ私の血を使えば!」
「勿論よ――でもフランだけじゃ足りないの。フランの中に流れてる血を使えるだけ全部使っても、やっぱり足りないわ」
「そんな…じゃあどうすれば…」
 愕然としたフランドールに、
「この屋敷にはもう一人吸血鬼がいるのではない?」
「そうか!お姉さまだ!」
「そういうことよ」
 二人は頷く。一人でダメなら数を増やす。子供でも分かる簡単な図式だった。
 レミリアから血液を貰う。そう言うことだ。
「フランちゃん…」
 心配そうにルーミアが見つめる。彼女からすれば、不安なことだろう。
 だが、その気持ちに負けないくらいフランドールの気持ちも強かった。
「待ってて。必ずルーちゃんはわたしが助けてみせるから」
 絶対に助ける。何があっても。
 レミリアと対峙した時、そう心に固く誓ったのだ。
 フランドールは振り返らずに図書館を出ると、まっすぐ姉のいる私室へと向かった。


 ルーミアの寝ているすぐ隣では、彼女を助ける為にのパチュリーが、せっせと何かの作業をしている。その横顔は真剣そのものでとても力強い。
 時折、顔のそっくりな髪の長い女と短い女がやって来て、手に持ってきた植物やら、ガラス管に入った何かをその場に置く。そして次の指示を貰っては、またどこかへ消えた。
 相変わらず身体は雪を被っているかのように冷たく寒い。内から小さな何かに少しずつ食い破られてるような妙な気分だった。
 腕から通してもらってる人工血液のおかげで、血を吸いたい欲望と、喉の渇きは心の奥へと引っ込んでいてくれたが気分は晴れない。
 これから自分はどうなるんだろう――そればかりが気になった。
 本物の吸血鬼とはどういうものなのか。本当にあの吸血鬼姉妹のように立派な吸血鬼になれるのだろうか。
 未知の体験を控えて、ルーミアの胸の内は恐怖と不安に駆られていた。
 もし身体が耐えられなかったらどうなるのか?
 すぐに死んでしまうのか――それとも永遠に死ねない身体になってしまうのか。自分が自分で無くなるのか。それすらも何も分からない。分からない事が余計に恐ろしかった。
 フランちゃん…… 
 親友との大事な印に縋るように、ルーミアの左手が首筋をそっと撫でた。これだけは何があっても無くなってしまわない様に。死んでしまうとしても最後まで自分のままでいられる様に。
 様々な結果が頭の中をかすめる。どれも起ったら最後、陰惨たる結果を残すものばかりだ。
 だが横眼で時折見え隠れするパチュリーの首筋がその不安を和らげた。二つの傷跡が、この人も同じ思いをしたのだという事実が、恐怖に折れそうな心を寸前で救っていた。
 意を決して尋ねた――この人ならきっと答えてくれる気がして。
「パチュリーさん。聞いてもいいですか?」
「なに?」
 無表情のままこちらを少しだけ向くと、そっけない答えがきた。作業の手は動かしたままだ。
 真っ直ぐで、ひどく透明なまなざしが魔女を見つめる。
「どうして――パチュリーさんは吸血鬼になったんですか?」
 一瞬だけ、パチュリーの作業の手が止まった――どう説明するべきか、少し考えるように。
 再び手が作業に戻って、口が開いた。
「私のせいよ」
 首をかしげる。事態が飲み込めない。
「パチュリーさんの?」
「そう。私は生まれつき身体が弱くってね。自分の力じゃ満足に自分の部屋も出られなかったの。だから毎晩毎晩、起きてる間はずっと月を眺めててたわ。いつかあの月がここにやってきて友達になってくれるんじゃないかって思ったくらいにね。
 そうしたら、ある夜、前の家の屋根にちっちゃな女の子が腰かけてたのよ。まるで月みたいに綺麗な子でね――でもすごく退屈で寂しそうな顔をしてた。まるで一人ぼっちで泣いてるみたいで、思わずその子に声をかけたの」
 思いだした――初めてフランドールに会った時の事を。その顔を。
「わたしが初めてフランちゃんと会った時、きっとその人と同じ顔をしてました。一人ぼっちで、つまらなそうで、寂しそうな顔」
 パチュリーは分かっていたかのように、小さく笑った。懐かしむように。
「やっぱりね、そういう所そっくりだわ。それで私は思わず言ったのよ。『そんな所で何してるの? 良ければこっちに来て一緒に本でも読まない?』ってね、そしたらその子は気まずそうに『あなたは人間でしょ?私は吸血鬼よ? それでもいいの?』っていうのよ。」
 氷解した。吸血鬼――つまりは。
「その人が――」
 言いきる前に遮る声に止められた。
「最後まで人の話は聞くものよ?―――もちろん最初はちょっと戸惑ったけど、本物の吸血鬼が目の前にいて、私と友達になろうとしてた。もちろん好奇心もあったけど、何よりも、その子が寂しい顔をしてたのが、私には何故か耐えられなかったからよ。そして、いつしか私とその子は毎晩遊ぶようになったという訳」
「…それからどうなったんですか?」
「その子は私が弱い身体なのを知って、元気にするために私を吸血鬼にしようとしたの。でも、弱かった体と体質のせいで完全にそうはならなかった。中途半端に力に目覚めた私は、街の人間を手当たり次第に牙にかけていった――」
 ルーミアに衝撃が走った。この人が、という思いよりも、自分もそうなるかもしてないという思いに。
 首筋を強く抑える。しっかりと自分を保つために。
「すぐにその子がやってきて私を止めてくれたけど、その時にはもう街の人間はほとんど吸血鬼になるか、死んでたわ。私の親も……そのあとすぐに街を追われて、その子と一緒に住み始めたの。
 皮肉な事に人の血を吸った時から、私は魔力を身に付けた。その子と二人で少しずつそれを高めて、今の魔法の基礎を作ったあと、ようやく半吸血鬼をやめる事が出来たというわけ」
「その女の子が――レミリアさんなんですか?」
 パチュリーはあっさりと頷てみせた。
「そうよ。私たちという悲劇があったからこそ、レミィはあなた達の事を認めなかったのよ――わたしたちと同じになってほしくないから」
 ふと気になる――なぜあの時殺さなかったのか?
「なら…どうしてわたしは殺されなかったんでしょう?」
 まるで興味がないと言わんばかりにパチュリーは首を振る。
「さぁね。本当の真相は本人にしかわからないわ――案外、簡単な理由かもよ? さぁ今はもう眠りなさい。起きる頃には全ては終わってるわ」
 こくっと頷いて、目を閉じる。不安あったものの恐怖はもう無かった。
 意識は再び眠りに落ち始めた。撫でた首筋の手は決して離さぬままで。


 フランドールが図書館から飛び出す少し前、レミリアは自室のテーブルでワインを嗜んでいた。
 優雅にソファに腰掛け、くつろいでいる姿勢ですら、その美しさは一枚の絵画の様だった。
 その横に少し離れて咲夜が立っている。すっと立つ姿も気品と瀟洒な様子がにじみ出ている。
 片手に持ったグラスが口へと傾き、血の様なワインが喉を通って嚥下される。
 グラスの傾斜が一気に上がり、中の液体を一滴の越さず飲み干した後、レミリアは小さい溜息をついた。
「これでよかったと思う?」
「分かりません。でも、お嬢様がいいと思ったのであれば、それでよろしいのではないでしょうか?」
「私の見た運命は変わった…これから先はどうなるのかわからない。もしかしたら、もっとこれから酷い事が起こるんじゃないかしら?」
「その時は、私たちで止めればいいんですよ」
「――――」
 レミリアが何かを言おうとした時、ドカン!と言ううととともに、ノックもせずに誰かがいきなり部屋の扉が開けた。
 同時に勢いよくフランドールが息荒く中へ走ってくる。
「お姉さま!」
 先程までの少女の顔はさっと消え、代わりに姉としての威厳と吸血鬼としての気品を湛えた顔が現れた。
「フラン。入ってくるなら、ノックするのが礼儀よ――それで何の用?」
「お姉さま。お願いがあるの―――お姉さまの血を私に頂戴」
 妹の突拍子もない発言に顔をしかめる。
「どういうこと?ちゃんと説明して」
「ルーちゃんを助ける為には、わたしの血だけじゃ足りないの。お姉さまの血も必要なの」
「血を分け与える――つまり、あの子を本物の吸血鬼にるってことなのね?」


 無言でフランドールが首を縦に振る。
 間髪いれずにレミリアは厳しい口調で告げた。
「言ったはずよ、私は吸血鬼を増やすつもりはないって。好きにしろと入ったけど、それに私が協力する事は決して無いわ」
「お願いお姉さま! ルーちゃんは私の初めての友達なの。お願い助けて!」
 妹をしっかりと見つめて、レミリアが立ち上がった。
「なら答えは一つよ―――幻想郷で何かしたいなら、自分の思い通りにしたいのなら、戦いなさい。そして自分の欲しいものは自分の手で奪って、自分の手で守るのよ。それが幻想郷で生きる為のルール。吸血鬼かどうかなんて関係ない。ここで生きる者のルール。その為の力よ」
「お姉さま」
「まださっきの決着は着いてない。フランが私に勝ったら、自分自身に誓ってあの子に血を分け与えましょう。ただし私が勝ったら、今度こそあの子を殺すわ」
「わかった…でも約束して。私が勝ったら必ずルーちゃんを助けるって」
「ええ。約束するわ、さて――残ったスペルカードは私とフランで丁度、最後の一枚ずつ。早速始めましょう――ついて来なさい」
 レミリアは手にしたグラスをサイドテーブルに置いて席を立った。フランドールがその後に続く。
 長い廊下を歩く二人にもはや会話は無い。その結果はこれから行われる戦いによって決まるのだから。
 果たして二人はホールに到着した。レミリアの夢の中で戦ったエントランスホールへと。
 向き合って少し距離を取る。
 再びレミリアの細い手が鋼の手甲へと変化した。
 今度はフランも同じく掌を武器へと変化させる。しかしこっちの手甲は百合の如き白銀色だった。
 一定の距離を保ったまま二人は動かない。
 瀟洒な気配も優美な明かりも、今は二人のこの場を覆う妖気によって脅え、身を震わせたように止まって何の音も発しない。ホールは完全に氷結していた。
 お互いの手の内は完全に知られている。何度も戦った姉妹の仲だ。手を知らぬ道理もない。
 力の特性、戦い方の癖、どう動くかすらも全て知り尽くしている。
 残りのカードはお互いに一枚。この一枚に何を出すのかが、二人の最後の勝負の鍵だった。
 フランドールが走った。カードは鉤爪になってない左手で構えている。
 レミリアの首を狙って爪が白い光を引いた時、レミリアはフランドールの真上へと跳んだ。
 頭と胸へと手突が繰り出される。右手の鉤爪はどう見ても二本同時に存在しているようにしか見えなかった。
 疾走した状態で同時に繰り出される攻撃を誰がかわせるものか、狙い違わずにフランドールは頭と心臓を抉られ、そのままの勢いで小さな身体は派手に後ろに飛び散った。
 ――――〝3枚目はフォーオブアカインド〟か。
 レミリアは心の中で舌打ちして、自分の後ろへと流れた妹に向き直った。
 フランドールは先程と同じくらいの距離で飄然と佇んでいる。抉られた傷もなく、飛び出した時の鬼気を張ったままだ。左手のカードが明滅し、封じていた力を解き放った事を示している。
 ただ先程と違う点があるとすれば、フランドールに対する表現だろう。正確に表せば、フランドール〝達〟はになる。
 そう。今この場にフランドールは四人いた。
 スペルカードの魔力と吸血鬼の再生力がなせる業か、四散したフランドールの破片は瞬時に再生し、新たに三人のフランドールを生み出したのだ。
 これがフランドールの最後のスペル『フォーオブアカインド』だった。
 四人のフランドールは瞬時に二人一組を作ると、連携してレミリアへと襲いかかった。
 一組が先行して前へ――もう一組が弾幕で後ろから狙いを定める。
 レミリアの左手から閃いた数条の光が、猛スピードで後衛の放った弾幕とぶつかり、弾けた。
 白木の針は放った途端に全て後衛のフランドールに潰されていく。これでは前衛の接近を止められない。
 弾幕をすりぬけて放った一本も二手に分かれてかわし、前衛のフランドールがレミリアの眼前に迫った。
 背面にもう一人が降り立つ。
 前後から白爪を突きだされる寸前、レミリアは宙に身を翻し、左手に持った最後のスペルカードを発動させた。
 途端にホールの床や壁から大小様々な魔法陣が展開され、鈍色の輝きを持った鎖が幾重にも飛びだす。
 鎖は前衛の二人に蛇のごとく巻き付き、容赦なく絡め取った。
 着地しざまに身動きできなくなった二人の心臓を鋼の指が貫く。
 ぽっかりと胸に洞を作り、ばたりと地面に伏して魔力へと還元させて消える二人のフランドール達に、後衛のフランドールは動揺した。
 消えた二人に使っていた戒めが今度は後の二人に向かって行く。
 弾幕でそれらを撃ち落とすべく、二人は左右に広がった。
 だが鎖に気を逸らした一人は、狙い澄ましたレミリアの針の閃きによって胸を撃ち殺されて魔力へと還った。
 残りのフランドールは一人。これが破られれば、フランドールの負けとルーミアの死が確定する。
 最後の生き残りも血祭りにあげるべく、鎖は全ての長い首をフランドールへと差し向けた。
 上下左右から鎖が迫る。
 一度でも絡めば、死ぬまで身体を締め付け、肉と骨ごと引きちぎっても巻きついて離れない。
 フランドールめがけて一本が腕に掴みかかった時、突然、鎖は根元からバラバラに砕けてその場にへたれた。
 続いて飛んできた第二第三の鎖も同じく、腕や足に巻き付いたと同時に、根元からバラバラに砕けた。
 鎖には感情は無い。だが、まるで脅えた様に魔法陣に引っ込んで出てこなくなった様子は、まさに恐怖の慄きそのものであった。
 お互いにもう新たに出せるスペルは無い。
「フラン―――これで決着をつけるわ」
 両手を鉤爪へと変化させレミリアが走りだす。
 妹もまた、右手を突きだして応じた。
 黒白の右手が交差する。
 数歩進んでレミリアが振り返った。腹部を爪で貫かれていた。
 だが彼女の黒爪によって袈裟に引き裂かれた傷はしっかりとスペルカードの芯を砕き、フランドールのスペルは全滅した。
 バタリとその場でフランドールは倒れた。死んではいない。おそらくは魔力と全神経を集中させていた為に気絶したのだろう。
 開かれた生身の左手には、小さなガラス玉くらいの大きさの『目』が握られていた。彼女の能力によって手の内へと引き寄せられた、レミリアの『目』だ。
 フランドールの生まれながらの能力は、彼女が触れたモノの存在の核である『目』を呼び出し、それを砕く事によって、任意の物体を完全に破壊する能力を持つ。
 鎖が次々に崩壊したのもそのせいだ。
 この無敵とも思える能力にはたった一つだけ条件がある――それは『目』を呼び出す前に、壊したいものに直接で触れることだった。
 交差した瞬間には既に左手に『目』はあった。後は握りつぶすだけでよかった。なのにフランドールはそれをしなかった。
 気を失った妹を優しく抱き起こして、レミリアは図書館へと向かった。
「この試合は私の勝ち―――でも、今の勝負はあなたの勝ちよ。約束通り、あの子は助けましょう」


 図書館の入り口にパチュリーは立っていた。
 あまりの落ち着きぶりは、二人の決着がどうなろうと、一切が彼女には関係ないようでもあり、初めから結果が全て見えているかのようだった。
 やがて黒いドレスを纏った影が長い廊下の向こうから現れた。
 影はそのまま真っ直ぐに進んで、彼女の目の前まで来て止まった。
 ドレスを纏ったそれは両手に女の子を抱えていた。
 手に抱いた少女を見やって、
「あなたがここに来たということは、この子はあなたに勝ったのね。レミィ」
 とパチュリーは訊いた。
 影の持ち主のレミリアはかぶりを振った。
「いいえ。スペルカードルールで言えば、あの試合は間違いなく私の勝ちだったわ。でも、フランとの勝負には負けたの。この子は私がスペルを砕く一瞬前に私の『目』を持っていたんだもの」
「なるほど――やっぱり素直じゃないのね。レミィ。相変わらず」
 レミリアは疲れた様に溜息をつく。顔は憑き物が落ちた様にすっきりとしていた。
「絶対にもう吸血鬼は増やさないって、もう私たちと同じ様な事が起こらないようにって、ここに来るときに決めた誓いは見事に崩れたわ。もう終わりね、何もかも」
「もう終わってもいいんじゃない? 種族としての吸血鬼は、レミィの言う通り、とっくの昔にもう終わったんだから。これからは、吸血鬼のレミリア・スカーレットじゃなくて、幻想郷の住人のレミリア・スカーレットとして生きていけばいい――幻想郷は全てを受け入れるのだから」
「そんなのは欺瞞と詭弁よ――でも、それも悪くないわね。さあ、早くあの娘を栄えある吸血鬼一族の末席へと迎え入れましょう。あの娘が手遅れになる前に」
 皮肉っぽく言って、レミリアは黒い翼を翻させて図書館へと入って行く。その堂々たる様はまさに夜の王者たる吸血鬼の仕草だ。
 肩をすくめたパチュリーもそれに続き、
「レミィ」
 と呼んだ。
「なに?」
 振りむいた親友にパチュリーは一言。
「ありがとう―――――――」
 とだけ言った。


 それから数日後、パチュリーはいつも過ごしている紅魔館地下の大図書館では無く、紅魔館のテラスで夜の紅茶と読書を嗜んでいた。
 テーブルに置かれた素朴なランプがテーブルの上を蛍火の様に灯してある。月明かりと相まって本を読む為の光源には事欠かさない。
 テラスと館内をつなぐ廊下から、紅茶の香りを巻いてティーポットを運ぶのは咲夜だ。
「パチュリー様、紅茶のおかわりをお持ちいたしました」
「ありがとう――今夜はフランが見えないけど、どこに行ったのかしら?」
 パチュリーは紅茶と共に小皿に用意された林檎のジャムをスプーンで掬って一口舐め、再び紅茶に口をつけた。
「フランお嬢様なら、またあの子が来るのを待っていますよ。あんなに嬉しそうなフランお嬢様のお顔、私初めて見ました」
 咲夜の顔も明るい。あの日の彼女こそ、かなり厳しい表情だったが、元々は年相応に様々な表情を見せる明るい性格の娘なのだ。
 美鈴と共にまるで実の妹の様に慕っていたフランドールに初めて友達が出来た。世話係のメイドとしても、紅魔館の一員としても、これほど嬉しい事は無いのだろう。
「そうでしょうね。でもきっと、レミィはすこぶる機嫌が悪い事だわ。大事な妹を小娘に寝取られた、なんて言いださなければいいけど」
「それがレミリアお嬢様にその事をお話したら、怒るどころか笑っていらっしゃいましたよ」
「笑ってた?」
 と不思議そうな顔でパチュリーが尋ねた。
「ええ。なんでも、昔お友達になった方の事を思い出したとか」
「ふーん…レミィはなんていってたの?」
 最もな質問に「そうそう」と咲夜も相槌を打つ。
「私も気になって〝どんな方なんです?〟ってお尋ねしたんです。
 そしたら、〝私に初めて本気で怒ってくれて、泣いてくれて、友達になってくれた人〟なんだそうですよ。素敵な方だったんですねって言ったら、〝そうね〟って言った後にふふっ、て笑ってました」
「そう」
 パチュリーはそれだけ言って本と目を閉じた。彼女にはレミリアの浮かべた笑顔がどんなものか分かっていた。
「その顔はきっと今のフランと同じ顔だったんでしょうね」
 ぽつりと呟いて紅茶を口に運ぶ。その閉じた瞼の裏には何が映っているのか。
 瞳を開いたパチュリーがさっと席を立つ。
 今度は咲夜が尋ねる番だった。
「パチュリー様、どちらに?」
「私もその親友の所に行ってくるわ。初めてあった時と同じで、きっとあの子も一人で退屈にしてるだろうから」
 咲夜の脇を抜けてテラスを出る。
 その横顔にも、穏やかな微笑が浮かんでいた。
 きっとそれはレミリアやフランドールのそれと同じく、見る者が見たら思わず微笑み返すだろう。
 それはそんな微笑だった。

 いつかと同じく、フランドールの居る部屋は柔らかくて蒼い月の光で満ちていた。
 窓のガラス越しに入ってくる光は室内でもなお美しい。
 少女はそこから夜空を眺めて待っていた――安らかな闇が再びここへと訪れるのを。
 ふと、淡い月光は部屋から消えた。その後に外側から窓が開いて、初めて出逢った時と寸分違わぬ顔と手が伸びて少女を導く。
 少女は自ら差し出された手を取り、再び夜空へと躍り出た。
 悪戯に窓を覆っていた闇は晴れ、月下に完全な吸血鬼となったルーミアの姿が現れる。
 夜空には月と少女が二人。
 空に浮かんだ満月だけが、柔らかく彼女たちを包み込んでいる。
 もし彼女たちの表情を見る事が出来たなら、その顔はきっと晴れやかに優しく、微笑んでいたに違いない。
久しぶりにこちらに投稿させて頂きます。
今回初の長編を書かせて頂きました。
いつもの短編と勝手が少し違うので苦労しましたが、皆さまが楽しんでいただけたら幸いです。
ではまたどこかで、次回のお話も、かくのごとくなりますことを。
コバルトブルー
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コメント



0.730簡易評価
10.80コチドリ削除
〝D〟に対するリスペクトがひしひしと伝わってくる作品ですね。

上から目線で難癖をつけるとするならば、作者様が描き出したいと思われる作品の雰囲気に
文章の表現力が若干追いついていない箇所があるんじゃないかな。
それとルーミアについても、フランちゃんと同じくらいある種の『乾き』を描写していれば
より鮮烈なガールミーツガールを表現出来ていたかも。
もう一つ付け加えるとスペルカードルールは蛇足な気がしますね。ごっこ遊びとガチバトルの境界があやふやだ。
『試合に勝って勝負に負けた』を書きたかったのかも知れませんが、最初から命の取り合いを鮮明に打ち出した方が
定められた運命の変化に説得力を持たせることが出来たんじゃないかな。

色々無礼な物言いで申し訳ない。
でも、貴方の試行錯誤や努力が滲み出ているこの物語、俺は好きだぜ。
12.無評価コバルトブルー削除
>コチドリさん
はいその通りです。吸血鬼ものなら、Dをと思って書きました。
自分の表現力がまだまだ足りないのは十分に分かっていたのですが、どうしてもと言う思いの方が強かったのです。
この様に親切に感想と大変参考になるアドバイスを戴き、本当にありがとうございます。
13.100幻想削除
脱字がありました。
>あっさりと頷てみせた→頷いての、い、が無かったです。
ストーリーがよくできていて長文にも関わらずスイスイ読んでいけました。
引き込まれましたね。
すごい。
15.無評価コバルトブルー削除
>幻想さん
誤字を教えていたいてありがとうございます。
早速修正しました。
感想をいただけて光栄です。
16.100カスケ削除
長めの話なのに、苦無く読み切れました。
素直に面白かったです。
次回作や続きにも期待致します。
17.無評価コバルトブルー削除
>カスケさん
感想ありがとうございます。
ご期待に応えられる様にこれからも努力していきます。
20.90名前が無い程度の能力削除
最初ちょっと説明が多いかと思ったけど、気づいたら気にならなくなってた。
面白かったです。
何より、フランドールとルーミアというややレアな組み合わせが俺得。
21.無評価コバルトブルー削除
>20さん
確かにちょっと説明文が多かったかもしれません。もう少し読みやすいように気をつけます。
ルーミアとフランは個人的に好きな組み合わせなので、もっと流行ってほしいです。
23.100名前が無い程度の能力削除
長さが苦痛にならなかったです
面白くて楽しめました
次回作期待してます
24.無評価コバルトブルー削除
>23さん
ご感想ありがとうございます。
長さが苦痛にならなかったのであれば幸いです。
ご期待に添えられるように頑張ります。
28.80名前が無い程度の能力削除
面白い話だったのですが、全編通してどこかちぐはぐな印象と言いますか、なんというか……