Coolier - 新生・東方創想話

紅茶の記憶 後編

2010/11/23 21:58:00
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ここは研究所だった。
 私の部屋は真っ白な壁に囲まれて、空調の音以外は何も聞こえない、簡素な世界だった。そこが私の世界の全てであり、窓から見える外の世界は、私の憧れでもあり、同時に私を死に至らしめる残酷な世界だった。
 私にできる事といえば、この一メートル四方の窓から見える世界の変化を、まるで絵本の世界に入り込むように見つめる事だった。
 晴れた日の青空、雨の日のどす黒い雲、夏に青々と茂る庭の杉の木、春になり淡いピンク色の花びらを散らす桜。
 そのどれもが私にとって新鮮だった。
 けれど私は知っている。厚さ三十センチのガラスを超える事は私には決して出来ない。それに、越えようとも思わなかった。
 確かに私は、この狭く白い部屋に飽きてはいたが、この部屋は私にとっての母胎であり、決して裏切ることの無い、純粋な世界そのものだった。
 雨の日に傘を差し、面倒くさいと憂いのある表情を浮かべるサラリーマンや、冬の雪に震えながら庭のブランコに座る子どもたち、夏の暑さにうんざりといった様子で歩く老人。男も女も、子どもも大人も、ここでは皆、自分の影を無くしたかのような悲しみを背負っていた。
 そんな姿を見ていると、私には外の世界で生きる事がどうしても羨ましいとは思えなかった。自由とは、不自由を実感することで得られる幻想だと思った。
 私に不自由を与えてくれる、鳴りやむことの無い空調音、さまざまな機械たち、ベッドの周りの防菌カーテン。それらが私の全てで、私が生きられる全てだった。
 大人たちはみんな優しかった。
 私はそんな優しい人々から、色々な事を教えてもらった。
 夢、希望、現実、常識、悪、善、人間、動物、世界、自然、機械、映画、本、文化、歴史、神話、病気、健康、地上、空、命。
 こうした知識は、私に生きる気力を与えてくれた。私は客観的に見ても、ませた子どもではあっただろうけど、素直だったと思う。私自身も背伸びをすることもなくのびのびと生きてきた。
 けれど、それらの知識は一時的に私をこの世界につなぎとめはしてくれたけれど、決してその効果は長くはなかった。私の性格が飽き性だっただけかもしれないが、それは、私の命が長くはない事と大いに関係があったと思う。
 例えこの人生に生きる価値を見いだせても、それを生かせる機会が私には無い。
 いつしか私はそう考える様になった。
 これはあながち間違っていないように思えた。
 自分から逃げているだとか、可能性は無限だとか、諦めるのはよくないとか、そうした事を言う人もいた。けれど、私はそうした言葉に適当に相槌を打ちつつ、空を眺める事にしていた。
 私にとっての『生』は、人間が鳥の様に羽根を広げて空を飛びたいと思うのと同じ程度の認識だった。
 
 お母さんは研究で忙しいのか、あまり私に会えないようだった。その代わり、お世話係の美鈴、と名乗る女の人が私の看護をしてくれた。
 美鈴はとても優しく聡明な女性で(防護服から見える大きな目が印象的だった)、心の底から私を愛してくれていた。私に会いに来る(それはごく少数の人間なのだが)は、どこかに凶暴な虎を隠しているような、息の詰まる空気を持っていた。これはきっと、お母さんの研究に対する権力に目が眩んでいたからだと私は思っていた。そんな中で、美鈴だけはお母さんの信頼も厚く、またそうした権力やお金にあまり興味がないような振舞いが感じられた。
「レミリア、身体の調子はいかが?」
 彼女は私の事を呼び捨てで呼んでいた。まるで何年も前から知っている、親友のように呼ぶ。
「問題はないわ。それよりも、前に頼んでおいた紅茶とやらはまだ?」
「紅茶は苦いし、レミリアの身体にはあまりよくないから、飲ませない。そう前に教えたでしょう?」
「美鈴は飲んでいる。美鈴が飲めて、私に飲めないはずがない。それに、たかがお茶でしょう?」
「もう、我儘なんだから。分かった、何とかしてみるけれど、いつになるかは分からないわよ」
「ありがとう、美鈴。大好き」
 私がにっこりと笑うと、美鈴も幸せそうに笑った。私はそんな美鈴の笑顔が大好きだった。大好きだったから、美鈴の笑顔の為に、私は笑った。そうすれば皆、笑顔になってくれるから。
 こうして私は狭く深い部屋で不自由を感じることなく何年も過ごした。しかし、その陰で、自分でもはっきりと分かるほど、私の身体は衰え始めていた。
 咳が止まらない夜や、熱が出て意識がぼうっとしている時、私は死を明確に見る事が出来た。見るだけで、こちらからは決して近づけない。私自身も近づこうとは思わなかったが、逃げることもしなかった。ただただ、死神の行方を、まるで他人事のように観察しているだけだ。
 そんな日は、お母さんがいつも側にいた。お母さんは、私に死んでほしくないようだった。本気で私を生かそうとしていた。私にとって、その気持ちは凄く嬉しかったし、笑っているお母さんを見るのも、美鈴の笑顔と同じくらい私の中で大切なものだった。
「レミィ」
 お母さんは愛おしそうに私の名前を呼んだ。そしてごわごわとした防護服で、私を優しく抱きしめてくれた。私は記憶のある時から、自分以外の人間の皮膚に振れたことが無かったが、それでも何となく、その手から温かい体温が伝わってきていた。
 お母さんの夢は私と一緒に生きる事だった。それは小さい子をもつ親としては当たり前の感情だと思う。私は生き続けることを諦めていたが、お母さんは頑なに私の寿命を延ばそうとしていた。そんな姿を見ると、私は心で興味がないと思っていても、それを隠すようにしていた。
 お母さんがきっと悲しむだろうから。
 たぶん、私が生きている理由も、そこにある気がした。

 そんな私に、ある変化が訪れた。
 美鈴が女の子を連れて、私の部屋にきた。
「レミリアの話し相手に、私が勝手に連れて来たの」
「驚いた。紅茶の代わりに、人間か」
 美鈴はにこりと笑うと、仲良くね、と言って部屋から出て行った。
 しばらくの無言。
 目の前の女の子は、ショートヘアの、白い髪をしていた。その目は、驚くほど澄んでいて、美しい顔立ちをしている。極細の鉛筆で線を描いたような身体のラインとは裏腹に、ちらりと見えている鎖骨は太く健康的だった。たぶん、こちらが彼女の本当の体型なのだろうと思った。
 最大の特徴は、彼女が防護服やそれらしい装備を一切していなかったことだった。
 その女の子は、むっつりとした表情のまま、私に近づいて
「お前、暗いな」
 と言った。突然の事に、私は目を丸くし、次にこそばゆい感情が全身を覆った。
「あなたって、変わり者ね。絵本に出てくる、天使さんみたい」
 私がそう言うと、彼女は恥ずかしそうに顔を赤らめ、馬鹿、と呟いた。
 それから何回か、彼女と話すことができた。
 彼女は私と同じくらいの年で、女の子とは思えないほど、さばさばとした話し方をしていた。
 名前は、咲夜という。

「私の両親は、お前を生かすために殺されたんだ」
 簡単な自己紹介の後、咲夜はまるで今日が自分の誕生日だと言うように、淡々と語った。
「そうなんだ」
 私は特別に驚きもしなかった。新聞で毎日、人が死んでいる事を伝えているこの世の中、他人の死を自分の事として受け入れる事が出来る感受性豊かな人間がどれほどいるだろう。まして、私の世界はこの部屋だけだ。この部屋の中以外に、私は興味がない。
「お前は知らないかもしれないけれど、お前を生かすために何千人もの人が殺された。お前の周りの人間は、私から見れば狂っている。けれど、残念ながら、お前が生きているだけで、喜ぶ人がいる」
 彼女は屈託なくにこりと笑った。私の好きな笑顔によく似ていた。
「私は狂っているように見える?」
「お前は純真無垢だよ。たぶん、世界でも一番。何も知らない、何も欲さない、何も考えない。私は多分、世界で一番汚れている。何でも知りたい、何でも欲しい、そのためにたくさん考える。それに、お前と私は磁石のN極とS極みたいだ」
「N極とS極? それって裏表ってこと?」
「そう、つまり、似ている。正反対だけど、同じ。切っても切っても切れない。なあ、友達って知ってるか? 知らないだろう? 友達になってやるよ。私たちは、たぶんDNAレベルで決められた運命によって結ばれていると思う。きっと人間がまだ二足歩行を始めた時代から、決められていた運命だ」
 咲夜は得意顔でふふんと鼻を鳴らした。

 咲夜との会話は楽しかった。私たちは生まれも育ちも本当の意味で真逆だった。咲夜の住んでいるところは、私の生まれた町から最も遠い場所にあった。
「私は一年前まで、両親と暮らしていた。けれど、家族の仲は冷え切っていて、母親も父親も、私の事なんか興味がなかった。それで私は、近所の友人たちといつも遊んで、なるたけ家には帰らないようにしていた。だから、近所のおばさんやおじさんが私の父親と母親の代わりだった」
「本当に、私とは正反対ね。健康な身体をもち、外の世界を駆けずり回り、けれど両親からの愛は貰わなかった」
「そうだね、それに友人の数も多い。貧乏で不自由の多い生活だったけれど、とても充実していた」
「ジュウジツ」
 私は自分の人生を頭の中で反芻してみた。私の人生は充実したものだったかどうかを。しかし、それを結論付ける暇もなく、咲夜は一方的に話し始めた。
「そんなときに私の町に戦争が起きた。仕掛けられた戦争だった。近所のおじさんやおばさん、両親もみんな殺された。私を含め、何人かの同世代の子どもたちが収容所へ連れて行かれた。色々な検査をされ、偶然にも私が残った。他はやっぱり殺された。ひどい話だ。生き残った私は、来月手術をする。何の手術かは見当がつく。お前を生かすための手術だ。どうやら私はお前と体質がよく似ているらしく、生き残る事ができそうだ。お前の母親に誘われたよ。もしも生き残ったら、レミィと一緒に住まないかってね」
「後半は、とても素敵な話ね」
「ええ、後半はとても素敵。そうすれば、私はお前の母親をいつでも殺せるからね」
「でも多分、あなたにお母さんは殺せない」
「知っている。記憶をいじられる。一週間前に私と同じ部屋の奴が、手術を受けて、帰ってきた。そいつは、自分の過去の全てを、きれいさっぱり忘れて、代わりに自分がどこかの国の王族だと本気で言っていた。きっと私の記憶も消されて、別の記憶を上書きされるんだろう」
「その子はどうなったの?」
「死んだよ。高熱が出て、三日と持たなかった。その間もずっと、父上、母上と呻いていた。私は恐ろしくて夜も眠れなかった。死ぬことよりも、記憶をいじり回され、自我が殺されていく瞬間を見てしまったから。私は人が死にゆく様をたくさん見て来てもう馴れてしまったけれど、あれには未だに馴れない。大人たちは平然としていたけれど、いやはや馴れって言うのは怖いもんだ」
 咲夜は私と違って、いつも外の世界の事を気にしていた。そして彼女は何でも知っていた。私の事も、もしかしたら私以上に知っているのかもしれない。咲夜には私には無い、魂の輝きみたいなものがあった。力強く、他人を暗闇から引き上げ、正しい方向に導くような、そんなオーラを漂わせている。まるでジャンヌダルクのように。
 しかし、咲夜のそんなオーラを、私は見事に打ち消していた。私がいるだけで、咲夜から無限にあふれ出る生の波を、私は何にも還元せずに、打ち消していた。
 やはり二人揃って、ある意味で一人前の人間なんだと思う。
「ねえ、咲夜。紅茶って飲んだことある?」
「紅茶? そんなもの、もう飲み飽きているよ。ちなみに私はバイトで、給仕の仕事をしていたから、私の煎れた紅茶は美味しいよ」
「紅茶ってどんな味がするの? 今度、美鈴に飲ませてもらうんだ」
「レミィは紅茶を飲んだ事がないのか。ううん、そうだな……」
 咲夜はしばらく考えるようにじっとした。
「命の味がする」
「命の味?」
「私は、バイトが終わった後に、一杯だけまかないで紅茶を飲んでいたんだ。紅茶を飲むってことは、つまり仕事が完了した証で、私が今日を生き抜いた証でもあるのさ。今は紅茶なんて飲ませてもらえないから、私にとって今日を生きているのかどうか、怪しいくらいだ」
「咲夜にとって、紅茶は世界の線引きだったわけね。まるで白線で広いグラウンドを二分割するように」
「或いは、そうかもしれない」
 そのまま咲夜はぼんやりと窓の外を見ていた。咲夜にとって、この病室は狭すぎたし、不釣り合いに見えた。いつか咲夜の圧倒的な力の前に、この部屋は壊れるんじゃないかと私は思ったが、残念ながら子どもの咲夜では物理的に不可能であることも知っている。
「どうして、咲夜は空ばかりを見上げるの?」
「ああ……どうしてかな。私の代わりに死んでいった、たくさんの人たちの事を考えるからかな」
「だとしたら、その人たちが埋まっている、大地を見ればいいじゃない」
「何となく、空を見ちゃうんだよ。もしかしたら、ただ目をそむけているだけかもしれないけれど、私には死んだ人たちが空に上るんじゃないかって思ってる」
「意外と信仰深いのね」
「この程度で、信仰が深いとは言わないよ」
 咲夜はにこりと笑う。陽の下の元、明るい光に照らされた咲夜の顔は晴れやかで、血色がよく、色白の肌がきめ細かい光を反射している。
「咲夜、本当に天使みたい」
「またか。まあ確かに、私はお前にとって、天使かもしれない」
「どういうこと?」
「私は、お前を迎えに来たんだ。天国へね」
「あら。そう」
「……驚かないんだな」
「だって、こんなに可愛い天使さんに、命を取られるなら、別にいいかなって」
「ふん。そりゃあ、どうも。なんなら、天使の輪もおまけでつけてやるよ」
 咲夜は軽く微笑んで私の方を見下した。
 それに対して、私はにっこりと笑ってあげた。咲夜の想いに応えたつもりだった。
「気持ち悪い笑顔だ」
「なんで、そんな事をいうのかな?」
「赤ちゃんみたいな笑顔をして喋るから、かな」
「なにそれ。私の知能がまるで幼児並みって言いたいの?」
「そうともいう」
 けらけらと笑う。私は少しだけむっとして頬を膨らました。けれど、咲夜は私のその仕草も指を指して笑っていた。
 そのうち、美鈴が入ってきて、時間だと言った。咲夜はひょいとベッドから降りて、立ち上がる。その時、
「あっ……」
 咲夜の上半身が揺れた。
 こけそうになって、美鈴に支えてもらう。
 咲夜は参ったね、と言って再び背筋を伸ばす。そのまま、気恥ずかしそうにゆっくりとした足取りで部屋を出て行った。
 驚いたのと同時に、ああ、咲夜も私と同じなんだ、と感じた。咲夜はもう、私と一緒で、紅茶も飲めない体になってしまったのだと思った。

 久しぶりの夢には、咲夜が出ていた。
 夢の中の咲夜は身体をこちらに向けて、はっきりとした口調で言った。
「お前を、いつか殺してやるよ」
 そこで目が覚める。現実と全く区別が付かない、夢だった。
 咲夜は本気だ。私を殺すという思いは強い。美鈴は、それに気付いているのだろうか。少なくとも、お母さんは気付いていないはずだ。もし気付いているなら、私と咲夜を会わせはしなかっただろう。
「私は殺される価値があるの?」
 その日は雨が降っていた。空は暗い灰色の雲に覆われて、心なしか、身体が重い。
 唐突に咲夜に尋ねてみたが、あんな夢を見て、こんな曇り空の日は、こうした話題がお似合いな気がした。
「おおいに。お前を殺せば、お前の母親は今のばかげたプロジェクトを中止するとともに、深い悲しみに明け暮れる。そして死ねばいい」
 よどみなく。すらすらと答えた。
「私が死ぬのはいいけれど、お母さんが悲しむのは嫌」
「そりゃあ、つまり死にたくないってことだ」
「それも違う」
「はあ?」
 咲夜が素っ頓狂な声をあげて、難しい顔をした。まるで迷路の行き止まりに気が付いた時のように。
「ムツカシイな。本当に。素手で紅茶を飲もうとしているみたいに」
「それは難しいね」
 そのまま二人して黙りこくった。けれど、その沈黙も何となくこそばゆい感じがして、決して悪い物ではなかった。
「……お前の、お母さん。パチュリーって言ったっけ?」
「ええ、そうよ」
「本当にあの人が、あの戦争を起こしたのかな」
「知らない」
「パチュリーさんはさ、私の気持ちを知ってか知らずか、すごく優しくしてくれるんだよね」
「お母さんは、私以外に興味がないから」
「だから、他人の気持ちを考えずに誰にでも優しく接する?」
「そうかも」
「そりゃないよ。私は本当に参っているんだ。嘘じゃないよ。ストレスだ」
「けど咲夜はまんざらでもないのであった」
「うるさい」
 ぴしゃりと叱りつけるように咲夜は言った。
「けど、本当、何なんだろう。もしパチュリーがピエロなら、私は見事に笑わされている気がする」
 お母さんは、私に最大限の愛情を注いでくれる。それはつまり、私の周りにあるものにも、それは注がれる。
 美鈴もそうだ。それは、咲夜にも惜しみなく注がれる。
「母親の愛情?」
 私がそう言うと、咲夜は困ったように笑った。そういえば、笑わない咲夜を私は見た事がない、と思った。
「私には無縁の物だと思っていたけど、まさかこんな地獄のような場所で頂けるとはね。変なの」
「決心が、にぶりそう?」
「それはない。私はいつまでも、お前たち親子の命を狙っている」
 あざとすぎると思った。本当にそう思うなら、その気持ちはひっそりと隠し持っておくべきだ。むやみに他人に教える必要はない。
「咲夜、不安なんでしょ?」
「なに?」
「私たちの事を、好きになり始めてる」
 咲夜は微笑を浮かべたまま、固まった。
 やっぱり、と私は思った。咲夜は変わり始めていたのだ。
 危険を乗り越え、恐怖におびえ、親しい者の死を見て来た咲夜は、いったん心を閉ざした。けれど、皮肉なことに、ここにいれば命は助かるし、この過去さえも無かったことにして新しい人生を送れる。
 彼女もまた、何千人という犠牲を払って、新しい生を貰う。その本質は、私と変わらない。
 だからこそ、咲夜は、私とお母さんを殺すことで、私たちの行為を否定しなければいけないのだ。
「……今日は、気分が悪いから、戻る」
「ええ」
 再び扉を向くと、美鈴が車いすをついて入ってきた。
 咲夜は緩慢な動作でそれに座ると、無言で部屋を後にした。
 一人になった私は考える。
 美鈴がなぜ、咲夜を私に引き合わせたのか。
 思うに、咲夜の不安に付け込んで、咲夜の私たちへの敵対心を、薄めるためだったのかではないか。
 では、私はどうだろうか。
 咲夜と会って、私は変化しただろうか。
 四角い窓の外、どんよりとした曇り空。雨が降っている。大粒の雨。ふああと欠伸が出た。生きている証。呼吸している証拠。
 咲夜ともっと話がしたい。
 ふとそう思った。
 私の中で、それは特別な感情に入る。お母さん以外の人と、しかも自分と同じ年の子と話したいなんて思いもしなかった。
 日に日に移ろう窓の外の世界と同じように、この白い部屋も、少しずつ変化しているのだと感じた。乾いた空気や、通気口から流れ出る機械音すらも。
 咲夜、私は、あなたに会いたい。
 会って、何をしようか?


 それからしばらくして、咲夜に会う機会が与えられた。私は決して、咲夜に会いたいとは言わなかった。たぶん、美鈴が会わせてくれたのだろう。
 手術前に、咲夜は私の部屋に訪れた。車いす姿の咲夜はいつにもまして弱弱しく、人形のように冷たい目をしている。けれど、声だけは昔の明るさを保ったままだ。
「よう、明日だ」
「明日ね。また元気な姿を見られる事を祈っているわ」
「勝手にしろ。私は元気な身体を手に入れたら、まず……」
 少し考えて、咲夜はにやりと笑う。
「まず?」
「……まあ、お楽しみにってことで」
「そこはぐらかす所じゃないわよね」
「そうだな、また私の話相手になってくれよ」
「ええ、私も出来る限りの努力をしてみるわ」
「助かる」
 咲夜がうっすらと目を細める。私は自然と、胸が震えた。
「咲夜、私はあなたが好き。大好きなの。私は今まで、お母さんの為に生きていたと思っていたけれど、あなたに会ってから、私はあなたともっと話したいと思いはじめるようになった。それはあなたの事を大切にしているのと同時に、私が自分の意思で、生きたいと思った証。お母さんの為に生きる事は当たり前で、それは人生の義務。けれど、私の人生において、咲夜と話をすることは全く趣味的な事で、生きるために必要ではない。そして、私は心の底から、その趣味的な出来事を楽しみ、求めている。まるで咲夜が紅茶を一杯欲しがるように」
「そうだな。人間は生きる上で必要の無い事柄を楽しむ。自我とは、自分が何を楽しめるかを見つけることだ。レミィは、見つけたんだね。自分のしたい事を」
「そう。だから、私からの勝手なお願い。必ず生きて、帰ってきて」
「私は、お前を殺そうとしているのに?」
「私は、咲夜の全てを受け入れるわ」
「……」
 途中で涙が出そうになるのを、ぐっとこらえた。咲夜はぼうっと天井を見上げ、まるでお祈りをしているかのように目を閉じた。
「最初にここに来た時」
 静かに、少しずつ話し始める。
「私は安堵した。もう、仲間が殺されることもなく、自分の命が脅かされる心配もない。遭難した船から豪華客船に乗り換え、航海士と船長にこの身を委ねていればいいだけの、遭難者、それが私だった。私は疲れていて、復讐とかはどうでもよかったんだ。けれど、心のどこかでは、私はそんな矛盾した私自身を許す事が出来なかった。だから、私は毎夜毎夜、苦しんだ。のたうちまわり、叫び、怯えた。そんなときに、美鈴さんが私に会わせたい人がいると言った。その人に会えば、私は安心感を得られるからと。それがレミィ、あなただった。
 レミィに初めて会ったあの日、私の中にははっきりとした憎悪があった。形に見える敵。それがあなた。けれどあなたと話すうちに、私は罪の意識が薄れていった。たぶん、レミィと私の境遇が一緒だから。罪を背負う人間は、一人より二人の方がいい。でもそれはいけない事。忘れてしまう事は、私たちの為に死んでしまった人たちにとても失礼だから」
「だから私を殺すのね」
「そして私も死ぬ」
「それでもいいわ」
「後悔しない?」
「後悔するほど、私は人間が出来ていない」
 私の言葉に、咲夜がにっこりと笑う。
 それ以上の言葉はいらなかった。
 それが生まれたままの咲夜と話した、最後になった。

 手術は無事に終わり、咲夜は帰ってきた。とても強い身体を手に入れて。記憶を消す手術は、さらに一ヶ月後だという。その間、咲夜はずっと私の隣の部屋から出られないらしい。なんでも、細胞が定着するまで無理をさせてはいけないらしい。らしいらしいと言うのは、その全ての情報が美鈴からの情報だからだ。
「もう前の咲夜とは話せないの?」
「ええ、残念ながら」
「そう」
 しかし私は、自分の中で何かが変わり始めている事に気が付いた。
「ねえ、レミリア。咲夜に会いたいんでしょう?」
「うん。そう」
「そうよね。あなた達、あんなに楽しそうに笑っていたからね。でも珍しい。レミリアが他人にそんなに興味を持つなんて」
「ねえ、美鈴。あなたは私の為に大勢の人たちが犠牲になっている事をどう思う?」
 美鈴は表情一つ変えずに、少し間を取った後に話し始める。
「それは咲夜が教えてくれたのですか? まあいいでしょう。お答えしますと、私はそれで全くいいと思っています。なぜならレミリアとパチュリー様がご一緒に末永く幸せに生きる事が、私の唯一の望みだからです。そのためならば、何をも黙認します。それに、私が直接手をかける事はありません。だからでしょうね、紙面の上で、この村を焼き払いますと書かれていても、何の抵抗もなくサインをします。ビジネスの話になると、人間は契約書の向こう側にいる人間の事が分からなくなるのかもしれませんね」
 美鈴はそう言って、私の方を向いた。その目には迷いがない。
 私は黙って首を縦に振る。
 たぶん美鈴は、私が質問した事などずっと昔にクリアしていたのだろう。そうでなければ、ここまで私のお世話は出来ないはずだから。
 人間は残酷な生き物だ、と思った。感覚に訴える事がなければ、人間は理性を捨てられる。でもそれは自明の理なはずだった。
 受精したての卵子を見て、人間だと思う人間は何人いるだろうか。
 人間から取り出した人間の一部は、いつの間にか人間として見られていない。
 世界が滅びる核爆弾のスイッチも、好きな子の家のインターホンを鳴らすのとあまり変わらない。そんな気がする。
 私が死ねば、何千人という人が救われた。
 だから、何?
 私は、死にたくない。
 私は、生きたくない。
 私は、私自身に絶望している。
 私は、数少ない他人を喜ばすことを希望にしている。
 どれが、本当の私? いや、全部本当の私?
 と、ここで気が付いた。
 私は咲夜に猛烈に会いたかった。理由はない。欲望に近い。
 会って、謝りたいと思った。
 なぜ。謝る? 
私は一言死にたいと言えば、咲夜は手術も受けず、戦争にも巻き込まれず、人間らしい生活を送れたのだろう。
 それが私という存在により、殺された。
 私が直接殺したわけではない。
 しかし、私は私の存在に疑問を抱かなければならなくなった。
 自分の大切な人の命まで奪って、私は生きるべきなのか。
 本気で大切な人を守るためならば、私は今すぐ死ぬべきなのではないか。
 どちらも間違っているし、正しい気もした。
「どうして、美鈴は咲夜と私を引き合わせたの?」
「レミリア様にも、同年代のお友達がいると楽しいかと思いましたので」
「どうして咲夜なの?」
「と、いいますのは?」
「だって、咲夜以外の人たちは皆殺されたのに、どうして遺伝子が近いだけの理由で咲夜は殺されずに、生き続ける選択肢を与えられたの? 私が手術をして生き延びたとして、咲夜の役割は他の人たちだってかまわない。それこそ、サイコロで決めても良いぐらい。けれど、咲夜は明らかに選ばれて、私や美鈴と同じくらい、お母さんに愛されている。
まるで私に微笑むように……」
 私はそう言いながら、ある一つの考えが浮かんだ。それは今まで考えたことも無かったけれど、考えるだけで、おぞましい感情に包まれる。
 まさか。でも。いや。
「レミリア様」
 美鈴の声。私ははっと気が付く。美鈴は複雑そうな顔でこちらを見つめている。
「大丈夫ですか? 悪い夢でも見られたのですか?」
「いいえ、大丈夫」
「そうですか。質問の答えは……そうですね、残酷なようですけれど、それはお金の為です。咲夜の身体にはとてつもない額のお金がかかっていますので、そうそう殺したり、死なれたら困りますし、これから先も経過観察するためです。一般的な回答としては、そんな所だと」
「……そう。ありがとう」
 私はそれ以上追及しなかった。一般的に、ということは、美鈴には美鈴なりの考え方があるのだろう。
 美鈴はすっくと立ち上がり、私の部屋のシーツを換え始めた。私はそれを見つめつつ、一瞬頭をよぎった恐ろしいアイデアを深く考えてみた。
 怖い。
 でも、知りたい。知るためには、お母さんに聞くしかない。
 それはきっと、虎が住む穴に入るのと同じだ。その先は確実に闇が待っている。

「ねえ、お母さん。私は、大勢の人たちの命を奪ってまで、生きる価値があるのかな」
 それは何気ない日だった。天気は晴れ。空には雲ひとつない。
 純粋な疑問。確認。
 笑っていたお母さんは驚いたように目を見開き、うろたえたように、息が荒くなった。
「どうして、そんな事を言うの? 私は、あなたとただ一緒に暮らしたい、それは私にとってもあなたにとってもかけがいの無い事でしょう?」
 一瞬の沈黙。電撃が走ったように、身体が硬直する。
「お母さん、何で咲夜の記憶をわざわざ消すの? なぜ、今までいろんな人たちを犠牲にしているのに、咲夜だけは生かそうとしているの?」
 私は拳の震えを布団で隠して、お母さんに詰め寄る。お母さんの表情は、石像のように固いままだ。
「私はずっと考えていたの。どうして咲夜は特別なのか。お母さんが私に愛情を注ぐのと同じくらい、咲夜に愛情を注いでいる。美鈴と私にだけしか見せない笑顔も、甘い言葉も、母としての優しさも、惜しみなく全て。私が全てを忘れて生きて行くのに、咲夜は必要ではないのに、どうしてだろう、どうしてだろうってずっと考えていた。そして、私は一つの結論を見出したわ。それは、咲夜は私のバックアップだったってこと。咲夜は、もしも、私が死んでしまった時の、私の代わりだったの。そう考えれば、お母さんがあんなに愛情を注ぐのも無理ないわ。ええ、きっとそうよ」
 止まらない。言葉が、感情が、身体の震えが、止まらない。気が付くと、私は半分泣きながら叫んでいた。自分の言葉を受け入れられない自分がいた。そして、それに対して黙って聞いているだけのお母さんに失望した自分がいた。そうした私は、悲しみと怒りの回路をぐるぐると回って、私の感情をかき乱し、錯乱させ、深く傷をつける。
 心のどこかで、お母さんは批判してくれると思っていた。
 それも、もはや過去の話……
「ねえ、お母さん。私はいらないの? 私じゃあ、お母さんの役には立たないの? 次の私を見つけたら、お母さんは私を見捨てるの? ねえ、お母さん」
 と、頬に衝撃。
 そして私を抱く、腕。胸。
 顔の横に、お母さんの顔があった。
「ごめんね、レミィ。あなたを不安にさせて……」
 この時、私は全てを理解した。
 ああ、お母さんは心のどこかで私の事を諦めていたのだ、と。
 私はお母さんに逃げてばかりで、自分の意思を表に出すことを諦めていただけだったのだ。
 けれど、今は違う。
 咲夜が私の意思を引き出してくれた。
 人形のような私に魂を吹き込んでくれた。
 だから今なら、自分の感情がはっきりと自覚できた。
 私たちは、二人で一つ。
 私は咲夜で、咲夜は私。それはつまり、私たちはお互いに代わりになれた。
 咲夜は私の中の、生そのものであり、私は咲夜の死そのもの。
 咲夜の前では私は眩しいほどの生を実感する。
 私の前では、咲夜は底が見えない暗闇のような死を実感する。
 私たちはお互いに触れ合うことで、初めて生き物になれた。生きていない生物などいないし、死なない生物なんていない。不死の生き物だって、死という概念をその内に孕んでいるからこそ、存在できる代物だ。
 お母さんはもしかしたら、生のエネルギーを吸い取るだけの私に辟易したのかもしれない。そして、気力溢れる咲夜の事が、とても好きになったのかもしれない。
 そんな事はない、お母さんは私を生かしてくれる、と言いたかったが、私はそれを真っ向から見つめて打ち崩す事が出来なかった。
 私の目にはどうしても、私のせいでお母さんが苦しんでいるようにしか見えなかったから。

 その日から、お母さんの態度が変わった。
 まるで貯め込んでいた貯金を少しずつ使っていくように、私や美鈴に対して攻撃的になった。もちろん手をあげたり、具体的に何かをされたわけじゃないけれど、言葉の節々に、自らの疲労を隠さなくなった。
 お母さんは、私が言った言葉で心が少しだけ削られてしまったのだろう。
 急に世界がぐるぐる回り始める。血液は冷たくなり、胃が痙攣し、呼吸は不規則になった。
 ベッドの中でうずくまる。そして、頬を伝う涙。
 私は初めて、後悔した。あんな事をお母さんに言うべきではなかったと。
 例えお母さんが、大罪人であったとしても、私はお母さんの味方でなければならなかったのに。
 裏切り。不安。お母さんが、私の事を見捨てたらどうしよう。
 何かのアラームが鳴り、すぐに美鈴と看護師の人たちが駆け付けた。
 私は涙を見せまいと、必死に頬をぬぐう。けれど、あふれ出る涙は止められそうにもなかった。

 暗い闇の中。それは私のベッドにふと現れた。
 今まで読んだ本や童話に出てくる、死神、というイメージをごちゃまぜにした物。それを見るたびに私は喉が渇いた。身体から水分が無くなって、内側から干からびて行くようなそんな気分になる。
「レミィ、おいで、レミィ」
 死神は呼びかける。人間に限りなく近い音。
 私は渇きをいやせぬまま、そいつに近づく。昆虫が美しい花に吸い寄せられるように、ゆっくりと確実に。
「捕まえた」
 はっと目を覚ますと、夜だった。真夜中午前三時。不思議と意識ははっきりしていた。
 横を見ると、咲夜が立っていた。
 夢にまで見た、死神の姿そっくりだった。
「レミィ」
 甘い蜜の様な言葉に私は笑顔になる。
「久しぶり、咲夜。私は、あなたに会えてとてもうれしいわ」
「私もまさか、会えるとは思わなかったわ」
 長い夜になりそうだと思った。空には月はなく、星がちらちらと瞬いていた。

「咲夜、私、一年後に別の人になっちゃうんだって。お母さんがそう言ってた。私を生かすために、そうするらしいんだけど、私は、今の私はとても幸せで、出来れば、お母さんともっと一緒に居たかった。長生きなんていいから、咲夜と、美鈴と、お母さんと、そんな人たちと一緒に短い間だけでもいいから、笑って生きたかった。今のこの記憶が消えるのは、とても寂しいし、私は望んでなんかいない」
「へえ、そっか……」
 咲夜はぼんやりと外を見ながら思いを巡らせているようだった。
「私はね、レミィ。お前を殺したい」
「知っているわ。私は、咲夜を生かしたい」
「ふふ、相変わらず、私とは反対の事を言うのね」
「けれど、生と死は時計の長針と短針のように密接に関わり合っている。どちらか一方を切り離すなんて不可能よ」
「今の私たちはいびつな関係。どうすればいいかしら」
「どちらかが、もう一人を取り込めばいい」
「取り込む」
「そう。私がお前の代わりに生きて……」
 そこまで言って、咲夜はぼうっと空を見つめる。
「お前は、可哀そうな奴だと思う。こんなところに閉じ込められて、喜びも悲しみも感じず、ただただあるだけだ。そんな人生に疑問や絶望を持つこともなく、レミィの人生は終わる。それもすっぱりと切り離されて」
「でも、今なら分かるわ。咲夜、あなたが教えてくれた。私は、居るだけで、大好きな人たちを傷つけてしまう。私はそれに対して、胸の奥がどきどきして、涙が出そうになる。手は震えて、嗚咽が止まらず、何も考える事が出来なくなる」
「そりゃあ、悲しみだ。それが悲しみなんだよ、レミィ」
 悲しみ。私は初めて自覚した。
 じゃあ、その反対の嬉しさはなんだ。
「悲しみが無くなれば、嬉しさがくるの?」
「そうでもない。嬉しい悲しいという感情は、裏表がないんだ。悲しいと思った出来ごとの裏に、必ずしも嬉しい出来ごとがあるわけじゃない」
「じゃあ、私は嬉しくなりたい」
「簡単さ。レミィ。お前は、大好きなお母さんに会うと、嬉しいだろ」
「最近はそうでもない」
「なぜ」
「お母さんは、私の顔を見るたびに、どんどん元気が無くなるの。まるで、底なし沼にはまったかのように。きっと周りの人の軋轢があるんだと思う。それに、私の事が煩わしくなっているんじゃないかな」
「そうか。ついにパチュリーさんも、愛想を尽かしたか」
「でも私は悲しくないよ。元々私の命はずっと昔に無くなっているのを、お母さんが必死に伸ばしてくれたから。こうして咲夜とも話が出来たし」
 嘘だった。悲しかった。
 ただ、お母さんのあの表情は、私に死を自覚させるのに十分だったから。
「私はもう、生きている事で、嬉しさを感じない。だからせめて、皆の幸せの為に、私は死にたい。誰かを守るとか、一生ついて行くとか、大切な人と助け合って生きていく、とかは私には出来ないから。せめて一瞬だけでも、私は幸せを感じたい」
 前向きな死、という表現。
「エゴ、だな」
「知ってる」
「だけど、私にとっては悪くない。私も、人間だから。それにレミィのエゴは、みんなを幸せにするエゴだ」
 私が咲夜に殺されれば、咲夜は罪滅ぼしができて、お母さんの悲しみは、咲夜に向けられ、美鈴は心のどこかで、諦めて暮らすだろう。
 これが、私にとっての最善の未来だった。
 みんなの幸せに、私は必要ない。
「へへ、私がそうさせるように、色々と仕込んだからな」
 咲夜が、あの天使のような笑顔で言った。
 でも私は知っている。
 人を愛し愛される事が大好きな咲夜は、私という愛情の捌け口を、お母さんと私という愛情の源を失うと、行き場を失ってしまう。
 美鈴が私と咲夜を引き合わせたのも、咲夜に愛情の捌け口を与え、愛情を流し込むため、そして咲夜の罪の意識を薄れさせるためだった。
 この研究所は、普通の人間にとって残酷な場所だ。白い壁で人の理を遮断し、様々な欲望を抱え込む。咲夜にとっては、矛盾する二つの感情がせめぎ合う、地獄のような日々だっただろう。そうなれば、咲夜の心はいつか疲労して、自ら命を落としてしまうかもしれない。
 咲夜は私を否定しなければいけない。私は咲夜が好きだから、その気持ちに応えたい。
 それでも、と思う。この部屋で私と話した、あの時間は咲夜にとって、生きる希望であってほしいなと思う。
「ごめんね、咲夜」
「レミィが謝る事じゃない」
 口でそう言うのは、簡単だ。
「私がいなくても、咲夜は生きていけるよね」
「当り前だ」
 そう、信じたい。
咲夜は、人を殺した事がない。自分の手で、大好きな人間を殺すことは容易ではない。そこには一種の、異常ともいえる何かが必要だ。
 咲夜が、私たちを完全に愛してしまう前に。
 咲夜が生きてきた人生を否定しないように。
 それが私の出した解答。
 それが咲夜の決めた覚悟。
「咲夜。次の人生では、私たち仲良く暮らせると良いね」
「だといいな」
「それで、あなたの煎れた、紅茶でもいただくわ」
「そうなるように、私がレミィの息を引き取ってやる。大好きなレミィの幸せのために」
 咲夜は強い。復讐のためではなく、私の為に、自分自身の為に咲夜は私を殺してくれると固く誓った。
 その言葉に、嘘はない。


「記憶が無くなっても、私はレミィの側に居る。ずっとずっと一緒だ!」
 咲夜は目にいっぱいの涙を湛えて、そう言った。
 それは、嘘だった。なぜなら、私も咲夜も、もう知っていたから。この時間、この一瞬の記憶は、全て無かった事にされる。
「ありがとう、咲夜」
 それでも私たちは、お互いを慰め合った。
「咲夜、お願いがあるの。もしも、記憶を取り戻すことがあるのなら、その時は……」
 そんなもしもなんてない。
 その意味するところは、今の願い。私のたった一つの願望。
「また私を殺してよ」
 私の中の大切な物を守るためには、私自身が殺されなければならない。
 大好きなお母さんが、私の事でこれ以上苦しまない様に。
 大好きな咲夜が、自分自身の矛盾で殺されないように。
 咲夜が防菌用のカーテンをくぐる。その瞬間アラームが鳴った。しかし咲夜はそれに眉一つ動かさず、ゆっくりと私の首を絞めた。
 ぐっと力が加わると、肺が苦しくなり、目の裏側が痛くなった。声が裏返り、苦しい。
 世界が急速に加速する。
 ああ、もう何も、考えられない。

















 目が覚めると、そこはいつもの紅魔館の、私の部屋だった。カーテンからこぼれる光がオレンジ色に輝く所を見ると、朝方か夕方のどちらかだろう。
 結局、パチェは私の記憶を復活させた。
私は、皺だらけの手を見つめる。この身体をつくるために、何人の犠牲があっただろうか。私は、本来ならば存在してはならないのだ。
 しかし、そんな事は、もうどうでもよかった。
 頭の方を触ると、何事も無かったかのように皮膚がある。一体どうやって手術をしたのかは分からないが、傷跡が残っていない、完璧な手術だ。
 さて。どうしようか。
 話したい事はいろいろあるが、優先順位が分からない。咲夜は未だに監禁されているだろうからすぐには会えない。こう言う時に、最初に会いに来る人物と言えば私の中では決まっている。
「失礼します。レミリア様。体調はいかがですか?」
 きびきびとした動きで、美鈴は部屋に入ってきた。いつもの緑を基調とした民族衣装ではなく、清潔感の漂う白いズボンとシャツで現れた。
「体調も良いし、記憶も戻った」
「感想は、いかがです?」
「煮え切らないところもあるが、すっきりした」
「それは……よかったです」
 美鈴はワゴンに食事を乗せてきていた。その表情は穏やかで、憑き物がとれたような顔をしていた。
「あの夜、咲夜を私の部屋によこしたのは、美鈴ね。美鈴は、私と咲夜がこうなることを知っていた?」
 私が確認するように尋ねる。
「ええ、もちろん。その可能性は考えておりました。ただ……」
 美鈴は優しく微笑む。
「私はあの施設にいた間、ずっと心を病んでおりました。命がいとも簡単に捨てられていた狂った世界で、私は自分自身の正義と戦っていました。そんな中、レミリア様は私にとって、救いでもあったのです。鋼鉄の鎧をかぶり、いつも素の自分を出さない事をしてきた私が、重い鎧を外せる唯一の場所、それが、あの白い部屋でした。
最初に咲夜に会ったときに、咲夜の瞳には輝きがなく、言葉も話す事が出来なかった。そんな咲夜が、レミリア様を見た時に、急に人が変わったのです。このことから、私は咲夜がストレスによって二つの人格に分断されたのではないかと思ったのです。一つは外界からの情報を遮断する、守りの咲夜。もう一人は、積極的に人とのコミュニケーションを図ろうとする、情熱の咲夜。情熱の咲夜は、私が思った以上に、レミリア様の心を開いてくれました。
嬉しかった。ただただ、嬉しかった。レミリア様の成長と、咲夜の元気な姿が嬉しかった。子どもが欲しかった私にとって、お二人とも、私の本当の娘のように感じておりました。だからこそ、私はあの夜にお二人を会わせました。けれど結局、私はお二人を失うことに耐えられなかった。咲夜がお嬢様の首を絞めて、殺そうとしたのを見ると、私は止めてしまいました」
 美鈴は微笑んだまま動かない。
 私は、知らない間に、色々な人たちの人生を踏みつぶし、色々な人たちの人生を支えていた。
「美鈴、私は、どうすればいいかしら」
「レミリア様、それは私がアドバイスをしなくとも、もう分かっているのでしょう? 迷っているならば、私が思い切り背中を押してあげます。だから、安心してください」
 にこやかに腕まくりをして、美鈴は言った。私は少し呆気にとられたあと、くすりと笑う。
「ふふ、それはとても頼もしいわね」
 窓の外では雀の泣き声がチチチと鳴っている。さあっと風が吹いて、木の葉が擦れる音がする。どうやら、今日は清々しい晴天のようだった。
 新たな始まりにふさわしい、さっぱりとした一日になりそうだ。

 午後に永遠亭に赴いて、様々な検査をした。何が何だか分からないうちに、私は身体の隅々まで調べられた。それこそ、頭のてっぺんから、お尻の穴まで。
「今日はこれでお終いよ」
 もう日が暮れようとする頃に、私はようやく解放された。結果が出なければ分からないが、身体のほうは問題はない、と永琳は言っていた。
「ただし、老化は進行しているわ。普段の生活にも、そろそろ差し支えが出てくるかもしれない」
「もう十分でているよ。こうも急だと、まるでこの身体が自分じゃないみたいに思えてくる。ま、本当に自分のものじゃないんだけれどね」
 永琳は少し意外そうな顔をした後、固い表情を崩した。
「そんな冗談を言えるぐらいには、立ち直ったのね」
「色々思い出して驚きはしたが、全てが分かったことで、むしろ落ち着いていられるよ。それに、過去の出来事はもう遠く昔の話で、あまり気にならない」
「そうですね、それがいいかもしれません。鈍感であることは、長生きの秘訣ですから」
「お前も私も、大罪人」
「ふふふ、そうですね」
 永琳が笑うと、私もつられて笑う。私たちは、自分の罪に対して、とても鈍感だった。それはこれから先も生きて行くうえで、最も大切なことだった。
 リン、と呼び鈴が鳴った。どうやらパチェが迎えに来たらしい。私は永琳に礼を言って永遠亭を後にする。パチェの飛行魔法に助けられながら久しぶりの空を楽しんだ。
「……」
「……」
 無言で、ただ淡々と空を飛ぶ。山間に消えて行く夕日を背に受け、私は色々なことを考えていた。そしてちらりとパチェの様子を見て、話しかけるタイミングをうかがっている。しかし、いったい何の話をすればいいのか、見当がつかない。そんな私の気持ちが伝播したように、パチェも、それに周りの世界もしんとしていた。
 そして、紅魔館の門までたどりついた。陽はとっくに沈んで、辺りは薄ぼんやりとして視界が悪い。
「パチェ、迎えに来てくれてありがとう」
 私は何分も前から言おうと思った言葉を口にした。
 パチェは立ち止まる。まるでルーレットが回り始める様に、そこから言葉があふれ出た。
「当り前の事よ」
「そうよね」
「……もう、何もかも思いだした?」
「ええ」
「そう。特に記憶の混乱と言うのもなさそうね」
「昔の私は、もういないわ。今いるのは、この幻想郷で生きてきた私、高貴なるレミリア・スカーレット」
 その瞬間、パチェがほっとした顔をした。
 私はそれを見逃しはしなかった。
「パチェの娘だった、レミィちゃんがいなくて良かったかしら?」
「な……!」
「冗談よ。けれど、次にそんな顔をしてみなさい。私はあなたを軽蔑するわ」
 パチェは驚いたように、ぐっと目を見開いた。そして恐る恐る言葉を発した。
「レミィ……私はあなたが生きていればそれでいい。あなたの喜ぶ顔が見れれば、それでいい。あなたに裏切られても、殺されても、それでも私は、何も望まない。ただただ、あなたがいればそれで……」
 エゴだ。そして何千人もの犠牲を無かった事にして、パチェは今まで生きてきた。
 馬鹿だと思った。
 けれど、パチェは強くなんてない。
 自分の犯した罪の重さに耐えきれず、聡明な彼女は、私を別人に仕立て上げることでそれを見つめる事をやめた。直視すれば、彼女は生きていけなかっただろうから。
「パチェ、正直に言って」
 パチェが泣き顔をあげる。
「あんたは、私を恐れていたんだろう?」
「そんなことっ……」
「私に嫌われるのが怖くて、私が死ぬのが怖くて、私を見ると、自分の犯した罪に恐怖し、神様からの天罰を恐れたんだ」
「レミィ……」
「それに私を失うことを恐れて、咲夜というバックアップを求めた。これは、本当に、掛け値なしに私は傷ついたわ」
 それは私に死を決意させた。けれど。
「今考えれば、とても滑稽よね。本末転倒もいい所だわ。だって、パチェはこれから、私も咲夜もどっちも失うんだもの。強く求めたものは、その思いが強くなればなるほど遠くにいってしまうのね」
 一番つらいのは、パチェなのかもしれない。
「パチェ。あなたの気持ちは分かる。愛する者を失いたくない、それは誰でも持っている感情よ。けれど、それは乗り越えなければならないこと。私たちは逃げてはいけない。ねえ、お母さん?」
 自然と口から流れ出た言葉。
 パチェはひざから崩れ落ちて、泣いた。叫んだ。私の胸に顔をうずめ、声の限りをあげて、ただひたすら
「ごめんなさい……本当に、ごめん……」
 と叫び続けた。
「……これは慰めでも何でもないんだけど、パチェ。私は、あなたに感謝しているわ。あなたが、私を生かしてくれたおかげで、私は素晴らしい人生を手に入れた。あなたのやり方は間違っていたかもしれないけれど、私はあなたの味方だから」
 私はそう言って、パチェをぎゅっと抱きしめた。意外なほどのパチェの小さな背中に、私は少し驚いた。私はこんなに小さな背中に守られていたのか。
 世界は私たち親子を許さないだろう。だからこそ、私たちは繋がっていないといけなかった。たとえそれが幻想だとしても、私たちにも夢を見る権利はあるのだから。
 遠くの方でカラスが鳴いている。誰もいない空を自由に飛びまわる。
 私たちは、空を飛べないカラスのようだと思った。
「……もう、大丈夫。ありがとうレミィ」
 目元をごしごしと拭きながら、パチェはそっと私から離れた。目元は真っ赤に腫れていたが、瞳には光が戻っていた。
「いつの間にか、大きく成長していたのね。レミィ」
「パチェから見れば、まだまだ子どもかしら」
「ふふ、そりゃあね。それにしても、長い時間だったわ。あなたが生まれた時から今まで、私の心が休まる時は本当に少なかった。時には重荷だったし、もうこんな人生はこりごり」
「それでも、私たちは生きている」
「……私はいつか、それ相応の報いを受けるでしょうね。あのプロジェクトに参加した人間の末路は、それは悲惨な物だった。私もきっと、例外ではない。その証拠に、私よりもレミィが先に歳をとるなんて、本当に意味がない。私の長年の研究が全て無駄。だけど、レミィ。私は、それでも良かったわ。あの紅魔館で過ごした時間は、私にとって、何物にも代えがたい大切な空間だったから」
「幸せなことじゃない。幻想だったとしても、パチェは一瞬だけでも夢をかなえたんだから」
 夢の代償は、大きかった。だけど、犠牲を払ってでも手に入れたかったパチェの夢は、かなえられた。
 もうそれだけで、パチェは満足だろう。
「だからもう、これからは私の好きにさせてちょうだい」
 自然に笑顔になる。パチェは涙をぬぐいながら
「こっちへ来てからは、あなた、勝手に生きてきたじゃない」
 パチェはそう言ってゆっくりと門を開けた。私はパチェの横にならび、ゆっくりと紅魔館に戻っていった。

 朝が来ない日など、無い。今日もまた生ぬるい空気を保った夜が明けようとしている。最近、私は朝に起きる様になっていた。まるで私の中の人間が目覚めたかのように。
 朝の世界は、私が思っているよりも清々しく感じられた。
 私は、過去を知って何をしたかったのだろうか。
 何となく分かってはいたはずだった。それは驚くほどに重く、私の心を沈める。
 けれど私はまだ生きていた。あの頃とは比べ物にならないほどの生きる経験をしてきた。今の私にしかできない事。今の私の願望。
 もし私が許されるのなら。
 私が生きてもいいというのなら。
 私は、みんなの笑顔を見たい。
 過去の私と今の私の間には、明らかな分断が見られた。そして、今の私は、崖のこちら側に立って、過去の自分をじっと見つめている。どうでもよくなっていた、と言う方が正確だ。
 結局のところ、過去は過ぎてしまった物であり、常に物事は変化し続けるということだった。
 咲夜の野望は、皮肉にも私の自然消滅という形で幕を閉じる事になる。それは見る人が見れば、勝ち逃げともとれる。
 咲夜は、今も私を殺したいと思っているだろうか。
 そればかりが気になる。
 あの白い部屋、無機質な空気の中で過ごした、濃密な二人の関係は、こうして全てを忘れてしまっても私たちを繋ぎとめた。まるで蜘蛛の糸のようだ。
 これは運命だろうか。それとも必然だろうか。その判断は私には出来かねる。
 けれどそれも無い。今あるのは、幻想郷で生きた私たちの関係。
 それに私も長くない。それは知っている。
 だからこそ、私は何をするべきか。

 私のベッドの周りに、紅魔館のメンバーが集まってきた。皆、それぞれ何かを抱えて生きてきた連中だ。
「みんなに集まってもらったのは、明日からの紅魔館についての方針だ」
 私がそう言うと、部屋全体に緊張感が漂った。
 私はふっと笑った。自然とこぼれ出た笑みだった。
「私が死ぬまで、みんな仲良く暮らす。命令よ」
「はあ?」
 最初に声をあげたのは、咲夜だった。
「お嬢様、私は、てっきり、その……」
「昔のことは、もういい。それよりも、楽しく生きよう」
「しかし」
「くどいぞ。それに、私が死んだあとは、この館を咲夜のものにする。だから、そう、今度私の退院祝いに、パーティーを取り行う。ついでに、そこで咲夜が正式にここの主になる事を発表する」
「……」
「咲夜、実はもう、そんなにパチェや私の事を恨んでなど、いないのだろう?」
 私がそうであるように。
 私たちはあの狭い白い部屋で、語らいあった。その記憶は今も鮮明に覚えているし、これからも忘れないだろう。
 けれど、自分に刻まれた記憶を思い返し、何を感じるかは、その時の自分自身だ。
 私たちは、確かに人間だった。
 咲夜も私も、あの出来ごとから、時間が経ち過ぎた。私はもう、子どもじゃないし、燃えるような憎悪を抱いていた咲夜の魂は、別の物へと変化している。
 時間は、何人たりとも止められない。
 それは咲夜自身が、十二分に実感している事だろうから。
「いいのですか。私が主になると、パチュリー様を追いだすかもしれませんよ」
「あら、それで私への復讐にするつもり? 咲夜も随分と、甘い事を言うようになったわね」
「……私はまだ、パチュリー様を許したわけではないですよ。ただ、お嬢様がパチュリー様たちとの生活を望むのならば、私はそれに従うまでです。お嬢様がいるあいだだけは」
「それでいい」
 咲夜はまっすぐに私を見つめたまま、動かない。
 まるで声が聞こえてくるようだった。
 レミィ、それがあなたの決断なのね?
 咲夜は常に問いかける。私の正反対に立って、私を監視し続けている。
 私はそれに対して、とても素直な気持ちでいられた。
 ええ、これでいいのよ。今なら、そう言える。
「みんな、咲夜をしっかりとサポートするように」
 私がそう言うと、パチェと美鈴がはっきりと言った。
「はい」
「ええ」
 私が居なくなっても、この二人なら咲夜を支えていける。昔、あの建物で一瞬だけ存在した、充実した時間が、今この時また訪れているようだった。
「じゃあ、私は紅茶の準備を」
 咲夜はそう言って、すぐに紅茶を用意した。
「相変わらず早いわね」
 パチェが呆れたように、微笑んだ。
「さすがです、咲夜さん」
 美鈴はにこりと笑う。
「お嬢様、どうぞ」
 私の前に差し出された、温かな紅茶。その温度がすぐに冷めてしまうように、この館もいずれ朽ちてしまうだろう。それが、私たちの背負った運命なのだ。それでも私たちは精一杯生きて行く。生きてほしい。
 この差し出された紅茶が温かいうちに、出来る限りの事をしないといけないのだから。

 
 その日の夜、私は窓の外をじっと見ていた。と、目の前に大きな影が現れる。それもこちらに気付いたように、窓に近寄る。
 それは正真正銘本物の吸血鬼、フランドールスカーレット。
「あら、私がこの紅魔館を出て行く事を知っていた?」
 フランはにこりと笑う。
「当り前でしょ。私はフランのお姉ちゃんなんだから」
「でもそれは偽りの記憶でしょう? もうそんなものに縛られる必要なんてないのに」
「フランには分からないでしょうね。人間にはどんな物事にも、慣性の法則が成り立っているのよ。記憶だって、そんなに簡単に忘れられない物なの」
「そう。人間って、とっても不便ね。だから、私は人間が大好きなんだけど」
 空をくるくると回り、フランは楽しそうに空中を舞う。それは蝶々が舞うようにとても美しく、思わず見とれてしまう。
「フラン、これからどうするの?」
「パチェとの契約も切れた。私は地底にでも行くよ。こんな朽ちて行くだけの館には、もう用事はない」
 その通りだった。この館に居る人間たちは私のように朽ちて行く。それが運命。けれど、それはとても普通の事だ。
「あなたは、本当の意味で紅魔館の守護者だったのね」
「ふふん、すごいでしょ? お姉さま、私はとても楽しかった。だから、それなりに感謝もしている。だから生まれ変わった時には、また私の所に来てね」
 フランはそう言って、私の頬にキスをした。
「私も、フランに会える時を楽しみにしているわ」
 私がそう言うと、フランは微笑み、夜に溶ける様に消えた。
 人間が大好きな吸血鬼。私たちの幻想をずっと見守ってくれた、心優しき吸血鬼。私は空に上がる満月に、吸血鬼のこれからの人生を祈った。

 私がもうすぐ死ぬ、という事実はそれとなく幻想郷に広まった。もちろん、だからといって何かが変わるわけでもなかった。変わった事と言えば、私の最後を見届けようと、色々な妖怪や人間が見舞に来たことだ。茶化しにくる者、どことなくしんみりする者、普段と変わりなく接する者。その反応は様々だ。
 だが最近よく言われるようになる事があった。
「なんか、幸せそうだな」
 私はその言葉ににこりと笑って返事をする。
「私は、愛されているからね」

 そして、ついに、私の命が尽きようとしていた。
 冬。
 その日は一日晴天だった。前日に雪が降っていたせいか、生き物の声がしない、しんと静まり返った、そんな日。
 今夜かな、と私は思った。
 不思議な感覚だった。根拠も理由もない。けれど本当にそう思った。
 ベッドに寝ている日々。もう身体は自由には動かない。
 それも今日までだ。
 明日からは、魂一つ。身軽な身になれる。
 恐怖はない。平常心で、自分の死を迎える事が出来た。
 と、そこに咲夜が立っていた。
 いつの間に、と思った。それともぼうっとして気が付かなかっただけなのだろうか。よくみると、その手にはナイフが握られている。
「紅茶をお持ちいたしました」
「私は、もう紅茶も飲めないのだけれど」
「最後の紅茶ですから、どうぞ」
 やはり咲夜は知っていた。私が今日、死ぬことを。
 無言のまま、咲夜は紅茶の準備をする。すると
「あの時、あのまま死ねばよかったのに、結局私が始末をつけるなんて……」
 彼女は何のためらいも無くそう言った。
 その瞳は吸い込まれそうなほどの黒を呈しており、明るい部屋に反射された光が大きな星のようにその中心にあった。
 たぶん、この世界で数少ない純粋と呼ばれる物が、そこにはあった。
 ああ、何て美しいのだろうか。
 私は、本当に幸せ者かもしれない。
 そんな事を言うと、咲夜には怒られるのかもしれないけれど、私はそう感じずには居られなかった。
 こんなにも、大切に私の事を想ってくれている友人たちがいたことを、私は感謝した。

「お嬢様」
「ああ、咲夜。もうすっかり、私の身体は老いぼれてしまったわ」
「お嬢様……いえ、レミィ。約束通り、あなたの命を頂戴しに来ましたよ」
 そう言って、咲夜は銀のナイフを取り出した。それは鋭く、そして美しく光っていた。まるであの世に行く時の、一瞬の煌めきのようだった。
「咲夜、ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
 咲夜は冷たく笑っていた。けれど、私には咲夜が長生きできない事が何となく分かっていた。それは私の身体のように、朽ちて行く、という意味ではなく、精神的なものだろう。
 なぜなら、咲夜は私の心に根を張り、花を咲かすことで、私から生きる気力を無くしていったのだ。咲夜の役割は、私に死を与えること。
 ならば、咲夜の結末は見えている。
 土がかれた花壇に、花は咲かない。
 よりどころを失った人間は、たちまち風化して、雨風に流されてしまう。それは運命でも何でもなく、この世の理だ。

 咲夜のおかげで、私の時計が動き出した。
 だからその時計を止めるのも、咲夜に止めてもらおう。
「レミリア、私もあなたと共に、私自身の時間を止める事に致します」
 本物だった。
 彼女は命をかけて、私を殺しに来た。
 一時の感情に身を任せることも無く、日々平凡な出来ごとの中に優しい毒を盛っていた。
 それはまるで、水銀のように私の身体に蓄積し、私を死に至らしめた。
「お願いします」
「いえいえこちらこそ」
 彼女は笑っていた。
「そんな命のかけ方もあるのね。まるで、恋人の事を思いすぎて、恋人を殺してしまう、どこかのつまらない悲劇のよう。ねえ咲夜、そしたら、私がヒロインかな?」
「けれど、それももうじき終わります」
「……優しいのね」
「優しさは、毒です。猛毒です」
「真実よりも、残酷な毒」
「真実は劇薬だと誰かが言っていましたね。そうならば、優しさは猛毒です。まるで麻薬のように、人や妖怪に儚い夢を見せ、身体の奥から崩壊させてしまう」
 沈黙。
「私は……」
 咲夜は突然私にのしかかって、ナイフを胸につきつけた。
「お嬢様っ、今まで、本当に、今まで……」
 彼女が本気で愛し、憎み、苦しんだ、その感情が溢れでる。
 一体、この瞬間を彼女はどれほど待ちわびていたのだろうか。或いは、来なければいいと願っていたのだろうか。どちらも、咲夜の本当の気持ちだろう。
「咲夜、涙を拭いて」
 私は、究極の幸せを掴んでいたのかもしれない。
「レミィ、お前なんか、早く死んでしまえぇ……」
 大粒の涙が頬を濡らし、顔がゆがむほどに、それでも心が静まらない。
「お前さえ、いなければ……ぐう……こんな悲しみも無く、生きてこれたのに。こんな幸せなんか要らなかった……」
 過去は過ぎていく。それは砂上の城のように、脆く儚い記憶。それでも。それでも咲夜を形作る血となって、それらはこの星をめぐる。
「咲夜、ほら、咲夜」
 私は願う。残される者たちの幸せを。
「……レミィ! 私は、色々あったけど、幸せでしたっ!」
 咲夜の人生は始まったばかりだった。
 咲夜。
「私も、咲夜に会えてよかった」
 私はあなたに、何ができたのでしょうか。
 もしも、今からあなたに何かできる事があるのなら、私は何をするべきでしょうか。
 教えてちょうだい、ねえ、咲夜。
 だから、何か、返事をちょうだいよ、咲夜。
「……」
 返事をして、咲夜。
「うああああああ……」
 ねえ、そんなに叫んでいないで、返事をちょうだい、咲夜。
 薄れゆく意識の中で私が最後に見たのは、人の姿をした獣だった。

 真っ白い棺桶の中は、二人分の呼吸で満ちている。
 私の大切な、咲夜。
 優しい友人は、とうの昔から私の背中に張り付いて、最期の瞬間まで私を見守ってくれた。
 だから言おう。何十年と共にしてきた、優しく、私だけの大切な友人に、大切な言葉を。
「……今まで、ありがとう」
 言葉は人を選ぶ。
 その言葉は、この私にとって世界のどんな言葉よりも大切な言葉になった。
 咲夜の中に、この言葉が刻まれるといいな、と思った。
 そして、それ以上の言葉があるとすれば、只一つ。
 レミリア・スカーレット。私の名前。
 当然でしょう?
 たぶん咲夜は、転生するその時までその名前を忘れはしないだろうから。



 気がつくと、私は三途の川に居た。
 どこかで見たことのある水先案内人が、何かを話していたが、私には上手く聞きとる事が出来なかった。まるでノイズが混じったラジオのようにぶつ切りでしか耳に入ってこない。ただ、その話の内容は私の事に関する事らしい、というのは理解できた。
 私は私に関する事を忘れていたが、ここが三途の川で、私は死んで、あとは地獄なり転生を待つなりすることは知っていた。
「……成長しすぎたのさ……」
 案内人は残念そうに言った。私は何となく、その態度が彼女の傲慢に思えた。
 私は知らず知らずのうちに身体の中から熱くなった。理由は分からないが私は怒っていた。何に怒っていたのかさっぱり分からず、ただひたすら船の上で暴れた。
「……」
 船の船頭は私が怒っている理由が分かったかのように、二言三言何かを喋った。すると私は自然と熱が自分の中から消えていくのを感じた。どうやら、今の私には何かを考える事が出来ないのかもしれない、と思った。感情のままに行動する、と言った方が分かりやすいだろう。
 他人が私よりも、私の事を知っているとは、不思議ではあったが。
「……あんたは正しい」
 船頭は続けざまにそう言った。
 胸にずんと響いた。
 その言葉に私は泣きそうになった。けれど涙は流れなかった。なぜか。それはきっと、私の身体から涙腺が消えてしまったから。
 その時思った。
 どうやら私は、幸せな人生を送れたらしい、と。
 雲をつかむような、漠然とした感覚。
 それでも、確かにこの手にあるように感じられた。
 紅く身体が燃えていた。
 船はゆっくりと向こう岸に近づいて行く。それにつれて、暗い井戸に放り込まれたかのように、視界や聴覚や、思考が鈍くなってきていた。
 もう、何も考えられない……

 私は船頭に挨拶をした。霧がかかったような視界に、青色の服と紅い髪が印象的な船頭だった。
 また、会いましょう。
 そして、さようなら。
 船頭は少し笑って、船を出した。そんな気がした。
 背中の方から、ぎいっと船が軋む音がする。
 ゆらりと船が遠ざかる。
 視界の先、遠くぼんやりと紅く紅く染まった屋敷が見えた。その屋敷は、深い霧に包まれたまま、今もずっと誰かの帰りを待っている気がした。
ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。この作品に最後まで付き合ってくれただけでも、私は嬉しいです。

もうこのサイトに投稿を始めて一年が経ちました。これからも書いていきたいと思いますので、その時はまたよろしくお願いします。

思いの丈はサイトの方に書いていますので、興味がある方は是非どうぞ。
suke
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コメント



0.630簡易評価
2.80名前が無い程度の能力削除
少し無茶な設定であると思います、が、作品自体はかなりの好印象でした。
レミリアと咲夜など、紅魔館のキャラクターは関係が曖昧なところがあるので、こういう設定ももしかしたらあるのかな?と思わされるお話でした。
4.100名前が無い程度の能力削除
力の入った長編を堪能させていただきました。
6.100名前が無い程度の能力削除
力作でした。
ぶらりと読んで本当に良かったです。
9.60名前が無い程度の能力削除
なんというか、自分の書きたかったことに東方をこじりつけたような、そんな印象を受けました

しかし、文章力はものすごいものがあると思います。今から他のあなたの作品を読みに行こうと思います。
これからも頑張ってください!
15.70名前が無い程度の能力削除
文章力もあるし壮大なんだけど展開の遅さがマイナス。
他のそそわ作品と比べて二倍ほど遅い印象。
かなりの水増し感が感じられてだれてしまった。
普通にオリジナルで文庫本なら面白く読めたかなと。
もっとシャープに絞るといいかも。
WEBでこの文の詰まりぐあいはどうも組しがたい。
18.100名前が無い程度の能力削除
前編と後編で物語の性質が大きく変わる事{前編=謎解きサスペンス(解答含む)、後編=回想・エピローグ}にも起因すると思うけど、後編は読んでいてとても穏やかな気持ちになれた
あくまで読んでいて勝手に感じた事だけども、前編は「レミリアが成長し始めたのは何故?紅魔館の住人の隠し持つ真実とは?」の謎解きサスペンスとしか読めず、そうしてみるとあのテンポの悪さや謎解きの唐突さは評価を低くせざるを得なかった

しかし物語の謎が明かされた後編では、それを設定として踏まえて読む事が出来るせいか違和感もほぼ無かった
記憶を取り戻し再び生まれ変わったといえるレミリアと、もう隠し事のなくなった紅魔館の住人達の最後となるやり取りは静かに感動した
この物語に本当に必要な要素はレミリア・パチュリー・咲夜の3人だけなんだろうけど、脇役と思えないほど美鈴もいい味を出していたし、部外者であり唯一完全に人外であるフランも清々しく良いキャラクターだった
余すところなく心情を描かれたレミリア、レミリアが想像・対話することで多くの心境を表された咲夜・パチュリーに対して、脇役二人は描かれなかった部分を想像する楽しみもあるね
エピローグとして読めた後編だけなら文句なしの満点

読んで暫く経ってから感想を書いているけど、余韻が冷めないのはラストの引きが上手かったからだろうか……いずれ朽ちていくだけの場所である筈なのに、その館の事を考えると胸がいっぱいになる
ともあれこんな気持ちになれるssを書いてくれた作者に感謝したい