Coolier - 新生・東方創想話

うみょんげ! 第3話「今夜月の見える庭で」

2010/08/27 17:54:04
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<注意事項>
 妖夢×鈴仙長編です。月一連載予定、話数未定、総容量未定。
 うどんげっしょー準拠ぐらいのゆるい気持ちでお楽しみください。

<各話リンク>
 第1話「半人半霊、半熟者」(作品集116)
 第2話「あの月のこちらがわ」(作品集121)
 第3話「今夜月の見える庭で」(ここ)
 第4話「儚い月の残照」(作品集128)
 第5話「君に降る雨」(作品集130)
 第6話「月からきたもの」(作品集132)
 第7話「月下白刃」(作品集133)
 第8話「永遠エスケープ」(作品集137)
 第9話「黄昏と月の迷路」(作品集143)
 第10話「穢れ」(作品集149)
 第11話「さよなら」(作品集155)
 最終話「半熟剣士と地上の兎」(作品集158)













「見よ、妖夢」

 それはまだ、祖父が姿を消す前の記憶。
 夜、眠ろうとした私を、祖父は自室に呼び出した。

「御爺様、それは――」
「まさしく、楼観剣。この魂魄の家の者のみが扱える剣だ」

 闇夜、蝋燭の火にぼんやりと浮かび上がるのは、静謐な美しさをたたえた刀身と、それを手にした祖父の厳しく引き締められた表情だった。
 祖父が楼観剣を、腰の鞘から抜いたのを見たのは、これが初めてだった。

「どうだ、妖夢。美しいと思うか」

 祖父の問いかけに、私はこくりと頷く。
 焦げる鑞の匂い。揺れる燭台の炎。それに照らされる白刃の煌めきは、どんな宝石よりもまばゆい輝きとして、妖夢の目に焼き付く。
 刹那、祖父が手首を返した。闇の中、刃の姿が消えた。
 ――次の瞬間、祖父の手にした刃の切っ先は、私の鼻先に突きつけられていた。
 それを理解し、私は正座したままぴくりとも動けなかった。身体が石となってしまったように言うことを訊かず、ただ眼前に突きつけられた切っ先の放つ、ひどく澄んだ煌めきだけが視界を埋める。

「我ら魂魄の者は、半人にして半霊」

 闇の中、切っ先の向こうから、低く祖父の声が響く。

「人にして人にあらず、霊にして霊にあらず。彼岸と此岸、幽冥と現世の境界に、我ら魂魄の者はある。私も、お前もだ、妖夢」
「――はい」

 それは何度も祖父から聞かされた言葉だ。私は唾を飲んで、ただ頷く。

「妖夢。お前はまだ幼い。だが、いずれお前は、この私に代わり、白玉楼の庭師として、幽々子様をお支えしなければならぬ」
「……はい」

 それもまた、何度も聞かされた言葉だ。しかしまだ、私はあまりその実感は無かった。目の前の祖父には厳しく稽古をつけられてはいたが、何しろ幼い私より祖父の方が遙かに元気である。半人半霊の者は歳を取るのも遅い。祖父がいなくなること、自分がひとりで幽々子様に仕えることなど、私には想像もできなかった。
 祖父は再び手首を返し、楼観剣を鞘に仕舞った。そして居住まいを正し、私へ向き直る。

「お前は幼く、それ故に未熟だ。お前はこの先、何度も迷うだろう。迷い、悩み、苦しみもがくだろう」
「はい」
「――そのときは、この刃を手にするがいい」

 そう言って祖父は、鞘に収まった刀を差し出す。
 ただしそれは、楼観剣では無かった。短刀である。
 その見慣れた鞘と束に、私は思わず祖父の顔を見上げた。

「御爺様、この剣は」
「そう、お前が今まで稽古で使っていた剣だ」

 私の剣の師は、この祖父である。差し出された剣は、かつて祖父が、私に稽古のためのなまくら刀として手渡したものだった。それから数年、私は毎日、祖父の元でその刃を振ってきた。

「この剣は、実はただのなまくらではない。楼観剣と同じく、我ら魂魄の者しか扱えぬ剣。名を、白楼剣と言う」
「白楼剣――」

 耳慣れぬ響きに戸惑いながら、私は差し出された剣を手に取った。腕に馴染むその重み。刀身を抜き放つと、楼観剣の美しさにはとうてい及ばぬ、鈍い光しか放たない刀身が目の前にあった。

「太い枝の一本も払えぬこの剣が、そのように大層なものなのかと、そう思うか?」

 私の疑念を、祖父は正確に言い当てた。私が恐縮して身を縮こまらせると、「無理はない」と祖父は小さく苦笑した。

「確かにその剣はなまくらだ。切れ味は台所の包丁にも劣る。だが――その剣には、それにしか断てぬものがある」
「断てぬ、もの」
「迷いだ」

 静かに、しかし力強く、祖父はそう言った。

「白楼剣は、その刃によって迷いを断つ」
「迷い、を」
「そうだ。迷いがあるときは、その刃を手にするがいい」

 闇の中、祖父の声だけがやけに凛と響いている。

「いいか、妖夢。真実は、斬って知るものだ」











うみょんげ!

第3話「今夜月の見える庭で」












      1


 懐かしい夢を見た。
 祖父がいなくなる前、白楼剣を祖父から受け継いだときの記憶。そのときの祖父の教え――「真実は斬って知れ」は、祖父の残した教えの中でも強く、自分の心に刻み込まれている。
 ただ、そんな郷愁の入り交じった感慨も、意識の覚醒とともに、夢の残滓と一緒に現との境界に溶けて沈んでいく。

「……んぅ」

 暗い部屋の中、むくりと身体を起こして、妖夢は目を擦った。なんだか妙に身体の節々が痛い。というか、今は何時だろう? 自分はいつ眠ったっけ――。
 きょろきょろと視線を巡らし、そのうちに自分が、寝間着に着替えてすらいないことに気付く。はっとして見下ろせば、眼下には文机。そして、書きかけの原稿と――その紙の上に大きく残された、涎の跡。

「あっ――」

 思わず叫んだが、時すでに遅しである。涎の染みは広範に及び、書きかけの原稿の一部を滲ませていた。

「あああああ……」

 これはダメだ。滲んだ部分は完全に判読不能である。書き直すしかない。くしゃくしゃと紙を丸めようとして、何を書いていたのかを思い出すためにもう一度紙を広げた。


 花は誰が為に咲くのか。ただ己が為に咲くのだ。なればこの、狂気にも似た薄紅の嵐は、ただ散る為に咲くのか。枯れる為。滅ぶ為。土に還る、その為に咲くのか。
 なれば人の生もまた、死す為に在るのか。
 妖忌の視界を、薄紅は幕を引くかのように通り過ぎていく。ふらりと妖忌は、眼前に足を踏み出した。桜、桜、薄紅の花。
 いや、これは蝶だ。蝶の群だ。無数の蝶が、薄紅の光を放って舞い踊っているのだ。幻だ、と妖忌は思う。このような、蛍のように輝く薄紅の蝶など、見たことも聞いたこともない。なればこれは夢か。しかしあまりにも、目の前を通り過ぎる薄紅は凛としてそこに在る。
 桜か、蝶か。夢か、現か。幻か、否か。踏み出す足が、何かを踏みしめて固い音を立てる。
 蝶が、桜が、音もなく消える。
 薄紅の光が、ふっと跡形もなく消え失せる。
 妖忌は息を飲む。呼吸が止まる。縛られたように足が竦んだ。身がこわばった。
 桜の木の下。爛漫とその命を狂気の如くに咲き誇る花の、その下に、少女は―――………。



 そこから先は滲んで読めなくなっていた。ため息を吐き出して、妖夢は再び紙を丸めた。やはり、もう一度書き直した方がいい。ここは大事な場面だ。祖父と――生前の幽々子の出会いの場面。
 祖父は、主が亡霊になる前からその従者であり、主が亡くなり亡霊となってからも、およそ千年に渡って仕え続けてきた、という。ただ、その頃の話は祖父も幽々子もしたがらない。幽々子は単に覚えていないだけのようだが、祖父はあえて語ることを避けていたように思う。
 だからこれは、あくまで妖夢の想像だ。
 主が人間だった頃というのは、あまりにも遠い昔のことのようで、妖夢はこれを書こうと思うまでほとんそ想像すらしたこともなかった。だが、主は確かに人間だったはずなのだ。そして祖父はその人間だった主と出会っている。
 ――祖父の青年だった頃が想像し辛いように、主の人間だった頃というのもまた、うまく想像できない。どんな少女だったのだろう。どんな家で、どんな家族と育ち、どんな風に笑う少女だったのだろう?
 そして祖父は、その少女と出会って――どう、思ったのだろう。
 書きながら、そんなことについて思いを巡らせているうちに寝入ってしまったのだ。首を振って、妖夢は丸めた紙を傍らに置くと立ち上がった。ちゃんと着替えて、もう一度寝直そう。明日も早い。

 ――ああ、でもその前に、お手洗い、お手洗い。

 障子を開けて、闇に沈んだ縁側をぺたぺたと歩く。夏もそろそろ終わりだ。しんと静まり返る夜の風は涼やかで、微かな秋の気配を乗せている。
 庭を見やれば、夜は我らの時間、とばかりにふわふわと飛び回る幽霊たちの姿。自分の傍らに浮いている、ひんやりとした半霊に軽く手を添えて、――それから妖夢は、ふと書斎の方から灯りが漏れているのに気付いた。

「……幽々子様? まだ起きていらっしゃったのですか?」

 ふすまをそっと開けてのぞき込むと、文机の前で古びた和綴じの本を広げる幽々子の姿があった。静かにその本を読みふけっていた幽々子は、ふっと思い出したように妖夢の方を振り返る。

「あら、妖夢こそこんな時間にどうしたの~?」
「いえ、私はお手洗いに――」

 答えたところで、急に幽々子が「ぷっ」と吹き出した。妖夢が目をしばたたかせる前で、幽々子は扇子で口元を隠しながら、しかし堪えきれない、という様子でお腹を抱えて笑っている。

「幽々子様?」
「妖夢、顔」
「顔?」

 ぺた、と頬に触れてみる。何か変なものでもついているのだろうか――と首を傾げていると、幽々子がどこからか手鏡を取り出した。それをのぞき込んで、妖夢は「うあ」と思わずうめくような声をあげる。
 枕にしてしまっていた書きかけの原稿の文字が、右の頬にはっきりと写りこんで、変な模様になっていた。

「顔、洗ってらっしゃい」
「……そうします。幽々子様も、あまり遅くなりすぎないうちにお休みになってくださいね」

 亡霊の幽々子の場合、睡眠不足が身体に障るということも無いだろうけれど。「そうね~」と頷く幽々子に、ぺこりと頭を下げて、妖夢は踵を返し、

 ふっと灯りが消えた。
 はたと立ちすくんだ妖夢の背後に、ゆらり、と気配が揺れた。
 冷たい手が、すっとうなじから首筋に触れた。
 撫でるような、しかし絡みつくような冷たい手――。


「う~ら~め~し~や~」
「ひゃあああああああっ!?」


 ぺたんと尻餅をついたところで、再び灯りがともった。幽々子が意地の悪い笑みを浮かべて、こちらを見下ろしている。妖夢はスカートの裾をぎゅっと押さえて、ばくんばくんと破裂しそうな鼓動に、ぱくぱくと金魚のように口を動かした。

「隙が多すぎるわよ~。まだまだ未熟、ね~」
「ゆ、幽々子様――」

 驚かさないでください、と抗弁しようとした言葉は、口の中だけで空回った。未熟と言われれば全くその通りである。でも――怖いものは苦手なのだ。

「し、失礼します」
「はいはい。……背後には気をつけないとだめよ~?」

 主の声を背にしつつ、書斎を辞去して手洗いに向かう。
 ――うう、幽々子様のばか。
 それまで気にもならなかった廊下の暗闇に何かがいるような気がして、早くお手洗いに行きたいのについ振り返ってしまう。もちろん何もいないのだけれど、闇の中に何かが身を潜めていたら、あの廊下の陰から何かが覗いていたら――ああもう考えるな自分。首を振って余計な思考を振り払い、妖夢はお手洗いに駆け込んで。

「……寝る前に、下着替えないと……」

 泣きたくなった。







      2


 夏と秋の境界のような、中途半端な陽射しが人里に降り注いでいた。
 二週間ほど前までの、焼け付くような熱気は既にない。あれだけ姦しく季節を謳歌していた蝉の声も小さくなり、どこか気怠げな熱を孕んだ風が吹いている。

「……そろそろ、麦わら帽子って季節でも無いよね」

 先日買った帽子のつばを弄りながら、妖夢はそうひとりごちだ。
 片手にはいつもの買い物袋。今日も食料やら何やらの買い出しである。
 麦わら帽子の作る日陰でメモを見ながら、買っていないものを確かめた。夏バテ知らずの主の健啖は、これから食欲の秋と言い出してますます旺盛になる季節である。自然と、買い出しの量も多くなるわけで、その重さにひとつため息。
 その拍子に、傍らの店先の窓に映った自分の姿を目にして、妖夢は麦わらを目深に被り直した。どうにも何か、この麦わらを被っている自分の姿は、面映ゆいというか。
 鈴仙は「似合ってるよ」とは言ってくれたけれど。
 やっぱり子供っぽいんじゃないか、とか、色々思うところはあるわけで。
 いや、鈴仙が選んでくれたこの麦わらに不満があるわけではなくて、そもそも気に入らなかったなら買っていないし、被っても来ないのだけれども。
 ――鈴仙は、これを被っている自分を見たら、どんな顔をして、なんて言うだろう?
 そんなことが気になってしまうという――ただそれだけの話だ。
 しかし、

「……今日は、鈴仙来てないのかな」

 茶店の店内を覗きこんで、ハンチング帽を被った髪の長い影を探すけれど、見当たらない。
 霧雨書店で本を見ているのかも、と思って覗きにいってみたけれど、そちらにもあの眼鏡を掛けた横顔は見当たらなかった。
 今日は、人里で会う約束をしていない。そもそも妖夢自身、庭師の仕事は基本的に年中無休だし、鈴仙も立場的にはそれに近いらしいから、揃ってお休みの日、なんてものは存在しないわけで。そうそう気軽に約束できるわけもない。
 だから会えるとすれば、妖夢のおつかいの日と、鈴仙が人里に薬を売りに来る日。そのタイミングが合えば、という、いささか心もとない可能性しかない。
 初めに偶然が二度続いたから、なんとなく今日も会える気がしていたけれど。
 やっぱり、世の中そう上手くはいかないのかもしれない。
 霧雨書店の中をざっと見て回って、妖夢はひとつ息を吐く。居ないものは仕方ないのだけれど、それをひどく残念がっている自分がいることに気付いて、妖夢はまた誰に見られているわけでもないのに麦わら帽子を被り直した。
 ――今は、幽々子様に頼まれたおつかいで来ているのであって、鈴仙と遊びに来ているわけではないのだ。鈴仙に会えなかったからといって、残念がることは何もない。
 そう、白玉楼の従者として考えようと思っても。
 一歩前を歩く彼女の姿が今はないことを、物足りなく思っているのは事実でしかない。

「何やってるんだろ、私」

 霧雨書店を出たところで、脳天気な青空を見上げて妖夢はぼんやり呟いた。
 それから、ふるふると首を振る。おつかいはまだ残っている。残りのものを買って、早く帰ろう。本来、それが自分のやるべきことなのだ。遊びに来ているわけではないのだ。

「ああもう、ちゃんとしろ、私」

 余計なことに気を散らしているから未熟者なのである。ぺちぺち、と空いた手で頬を叩いて、妖夢は顔を上げて歩き出そうとして、
 もふもふの何かに激突した。

「ん?」

 ぼふん、と視界を塞いだのは、キツネ色のとてももふもふした毛皮だった。
 もふもふに顔を埋める恰好になって、妖夢は思わず呻く。気持ちいい、けど息苦しい。
 と、ぶるん、とそのもふもふが震え、それからくるりと目の前で回転した。その拍子に、麦わら帽子がもふもふに弾かれるようにして舞う。地面に落ちたそれを、妖夢は慌てて拾った。
 埃を払って被り直すと、もふもふの反対側から姿を現したのは、見覚えのある法衣姿。

「――なんだ、子供がじゃれついてきたのかと思ったら、君か」

 聞き覚えのある声に、妖夢は顔をあげて、「あ」と声をあげる。
 そこにいたのは、妖夢も見知った顔だった。

「藍さん」

 主の友人、八雲紫の使役する九尾の狐――八雲藍である。


     ◇


「豆腐屋なら私もこれから行くところだよ」

 藍はそう言って、妖夢と連れだって歩き出す。その長身を半ば見上げるようにしながら、そういえば彼女もよく人里には顔を出しているのだっけ、と妖夢は思い出す。

「油揚げですか?」
「紫様が豆腐料理が食べたいと仰られた」

 それは方便では、と思ったが口には出さないでおいた。この九尾の狐の大好物が油揚げなのは妖夢も把握している。白玉楼に顔を出したとき、幽々子がいつも用意させているからだ。
 とはいえ、藍と妖夢は別に親しいわけではない。あくまで主同士が友人というだけで、今日のように見かければ言葉を交わす程度の間柄である。藍の主である八雲紫のことも、幽々子の古くからの友人で、この幻想郷全体を見守っている賢者である、ということぐらいしか把握していなかったりする。
 というか、会えばからかわれるので、紫のことは少し苦手なのだ。

「君もおつかいか?」
「あ、はい」
「その量を幽々子様と君で? 相変わらず健啖だな」

 妖夢の手にした買い物袋を見やって、藍は目を細める。

「主に食べるのは幽々子様ですけど……」
「それは知っている。遊びに来られるとお茶菓子の減りが早くて困るよ」
「す、すみません」
「冗談だ」

 苦笑する藍に、何と答えていいか解らず、妖夢は首元を竦めた。
 視線を下げると、藍の背中でふさふさと揺れる尻尾が目に入る。
 さきほど、ぼふっと身体ごと埋まった感触を思い出す。柔らかくて気持ちよかった。
 見るたび、触り心地が良さそうだなぁと思ってはいたのだけれども――。

「どうした?」
「あ、いえ」

 だからといって触ってみるのは礼を失する。子供じゃないんだから、と妖夢は自戒。
 ……頼めば触らせてくれるだろうか? とちょっと思ってしまったが、口には出せなかった。

「そういえば、その帽子」

 と、不意に藍がこちらを見下ろして声をあげる。
 これですか、と妖夢は麦わら帽子のつばに触れて目を細めた。

「……変ですか?」
「いや、君が帽子を被っているのは初めて見たから、少し意外だっただけなんだが」

 言われてみれば、今まで帽子は持っていなかったし、そうかもしれない。

「随分大事そうにしていたじゃないか」
「そう、ですか?」
「私にはそう見えたが。誰かからの贈り物かな? 幽々子様か」

 どこか試すような藍の笑みに、少し居心地の悪さを覚えて、妖夢は小さく唸る。
 贈り物。――というわけでは、ないけれども。買ったのは自分のお金でだし。
 けれども、大事にしていると言われれば――それは確かにその通りで。

「それとも、友達かな」

 どきりとした。息を飲んだ妖夢に、「ああ、そういうことか」と藍は笑みを深くする。

「友のくれたものなら、大事にしないといけないな。友の気持ちそのものなんだから」
「……とも、だち」

 思わず、そう呟き返した妖夢に、「違うのか?」と藍は首を傾げた。
 何と答えればいいのだろう。いや――そもそも。

「友達……なんでしょうか」
「そんなことは、私に聞かれても困る」

 全くだ。頭上の麦わら帽子に手をやる妖夢に、藍は小さく肩を竦めてみせる。
 友達。――鈴仙・優曇華院・イナバという彼女のこと。
 彼女は、自分の友達なのだろうか。そもそも、友達というのは――。

「……藍さん」
「うん?」
「友達、というのは――どこからが、友達なんでしょうか」

 問いかけてみて、自分でも何を訊ねたいのかよく解らないと妖夢は思った。
 そもそも、「ともだち」という四文字自体が、何かひどく耳慣れない言葉だった。
 もちろん意味は解る。どういう対象を指すのかも何となく解る。けれど――。

「それは、三途の川幅を求めるよりも難しい問題だな」

 腕組みして、藍はそう答えた。

「何しろ、数式とは違って、その問いには完全な解答が存在しない」
「――――」
「ひとつ言えるのは、君にとっての《友達》の基準は、君自身にしか知り得ないということだ」

 豆腐屋の看板が見える。藍は腕組みをしたまま、妖夢の方をくるりと振り向いた。もふもふの尻尾がまた視界を横切るように揺れる。

「心の問題に、正解はない。周囲の全員が友人同士だと思っていても、当人たちはそうでもない、ということだって有り得る」
「……幽々子様と紫様も?」
「紫様の考えは、紫様にしか解らないからな」

 どこか諦観のようにそう苦笑して、「しかし」と藍は優しく目を細めた。

「たとえば、ひとつの分かりやすい考え方として」

 そう前置きして、藍はゆっくりと言葉を続ける。

「ある誰かが自分の友なのか否か、君が疑問に思っているのなら。それが是であってほしいと君が思うなら、その誰かは友だ。少なくとも、君にとっては。もちろん、相手がどう思っているかまでは保証できないが」

 お、八雲の姉ちゃん、油揚げあるよ、と豆腐屋の主人の声がかかる。
 くるりとまた尻尾を揺らして、藍は嬉々として油揚げを主人に注文しだした。
 そのもふもふの尻尾を見つめながら、妖夢は藍の言葉を頭の中で反芻する。
 ――友達なのか否か。是であってほしいなら、自分にとっては友達だ。
 考える。魂魄妖夢にとって、鈴仙・優曇華院・イナバは、友達であってほしいか、否か。
 答えは、拍子抜けするほどあっさりと、妖夢の中にすとんと落ちてくる。

「そっちのお客さんは?」
「あ、木綿豆腐三丁」
「あいよー」

 豆腐屋の主人に応えながら、妖夢は噛み締めるようにもう一度、心の中で繰り返す。
 鈴仙は――自分の、友達であってほしいと、そう思うのだ。
 じゃあ、鈴仙は? 鈴仙の方は――自分を、そう思ってくれているだろうか?

「気を付けて持ち帰りなよ」

 代金を支払って豆腐を受け取り、それから妖夢は周囲をぐるりと見渡す。
 思い思いに人々が行き交う、人里の雑踏。その中に、鈴仙の姿は見当たらない。

「それじゃあ、私はここで」

 藍がそう言って、「はい、それでは」と妖夢はぺこりと頭を下げる。
 その姿に、藍は目を細めて、それからにっと口の端を吊り上げて見せた。

「私が言うのもなんだが、あまり深く考えることでもない」

 油揚げの袋を大事そうに抱えて、藍は言葉をゆっくりと続けた。

「自然に、そうありたいと思っていればいい。君が幽々子様に誓う忠義のように、な」







      3


 白玉楼へ続く、長い長い石段。その周囲を彩るように、彼岸花が咲いている。
 枝も葉もないその花が咲き誇っている姿は、冥界への秋の訪れを告げていた。
 二百由旬の庭を突っ切る石段は、両足で上っていたらいつまで経っても白玉楼に辿り着けない。なのでいつものように、買い物袋を抱えて、彼岸花を見下ろして妖夢は飛んでいた。
 冥界に最も多く咲き誇るのは春の桜で、その次が秋の彼岸花だ。石段が彼岸花に覆われるように紅く染まるのも、桜の花びらに埋もれるのと同じぐらい見慣れた光景である。
 そんないつもの光景を見下ろしながら、やがて妖夢は長い階段の最上段まで辿り着く。白玉楼の前庭。すぐそこに、見慣れた屋敷の姿がある。そして――。

「……ん? 何の匂いだろ……?」

 何かきな臭い、焚き火のような匂いが、庭の一角から風に乗って流れてくる。
 玄関に向かい、料理担当の幽霊に買い物袋を引き渡すと、妖夢はそのまま踵を返した。焚き火の匂いは相変わらず、風に漂って鼻腔をくすぐる。焚き火で温まったり、焼き芋をするにはまだ季節は早い。しかし、だとしたら――まさか、火事?
 まさかとは思うが、思わず駆け足になって妖夢は匂いの元へ向かった。実際に火事だったときの対処法などさっぱり考えてなどいなかったのだけれど。
 ――で、結論から言えば。

「幽々子様?」
「あら、妖夢、おかえり~」

 火事ではなく、やっぱりただの焚き火だった。
 庭の一角に、幽々子が枝やら葉っぱやらをかき集めて、小さな焚き火を熾している。ゴミでも燃やしているのだろうか。それともちょっと早めの焼き芋か。

「ただいま戻りました。……あの、これは?」
「焚き火よ~」
「いえ、それは見れば解るのですが」
「美味しそうなものを見つけたから、どう食べようか考えてたの」

 幽々子はいつものほわほわとした笑みで、そんなことを言う。

「美味しそうなもの?」
「どう料理するにしても、火は必要でしょ~?」
「はあ」
「お鍋にしようかとも思ったけど、いっそ、ワイルドに丸焼きもいいかなと思って」

 お鍋? 丸焼き? 豚か鶏でも手に入れたのだろうか? この冥界で?
 訝しんで妖夢は視線を巡らし、そして――幽々子の向こう、庭の隅にぶら下げられたそれに気付いて、あんぐりと口を開けた。

「よ、妖夢、たすけてー! 食べられちゃうー!」

 両手両足を縛られて、ぶら下げられた恰好で、情けない悲鳴をあげたのは。
 今まさにこれから丸焼きにされようとしている、一匹の哀れな兎。
 鈴仙・優曇華院・イナバだった。

「れっ、鈴仙!?」

 慌てて妖夢は鈴仙の元に駆け寄る。ぶら下げられてしくしくと泣いていた鈴仙は、「ああ、妖夢ぅ……」と安堵の声とともに妖夢の方を振り向いた。

「ど、どうしたの? なんでこんなことに」
「美味しそうな兎さんが迷いこんでたから、捕まえたのよ~」

 全く邪気のない声で、幽々子がそう言う。びくり、と縛られたまま鈴仙が身を竦めた。

「妖夢はどっちがいいかしら~? 兎鍋? 丸焼き?」
「ちょ、ちょっと待ってください、幽々子様!」

 なんで最初から鈴仙を食べる方向で話が進んでいるのだ。声をあげた妖夢に、「あら、妖夢、兎肉は嫌いだったかしら~?」と幽々子は首を傾げた。

「そういう問題ではなく! れ、鈴仙は食べないでくださいっ」
「あら、どうして? 美味しそうなのに~」

 笑顔のままそんなことを言う幽々子に、がたがたと鈴仙が身を震わせる。捕まって食べられる寸前では、そりゃ泣きたくもなるだろう。

「どうしてって、それはその――」

 ひどく根本的なことを問われた気がして、妖夢は一瞬口ごもった。
 幽々子は目を細めて、いつもの扇子を広げると、それで口元を隠しつつ妖夢を見つめる。

「妖夢~。私は今日のごはんは兎料理がいいわ~」
「え、ちょ、幽々子様」
「せっかくそこに美味しそうな兎さんがいるんだもの、妖夢は私に美味しい兎料理、食べさせてくれるわよね~? 妖夢は、私の従者なんだから~」

 ぐ、と妖夢は言葉に詰まる。
 幽々子の命令は、妖夢にとっては絶対である。
 自分は幽々子様の従者で、常に主のことを第一に考えて行動するものなのだ、と。
 それは、庭師の地位を祖父から受け継ぐよりずっと前から、意識に刷り込まれてきたこと。
 その幽々子が、今自分に望んでいる。兎料理が食べたい、と。
 ここにいる兎は一匹。鈴仙・優曇華院・イナバ。
 鈴仙を振り返った。鈴仙は「よ、妖夢?」と不安げな表情でこちらを見つめた。
 ――ま、まさか、本気で私のこと食べないよね?
 鈴仙の赤い瞳が、そう訴えかけてくる。幻覚が見えそうになって、慌てて目を逸らす。
 妖夢は幽々子を見やった。幽々子はあくまで泰然と、そこに佇んでいる。

「鈴仙」
「よ、妖夢……」

 二択だ。主に従うか。抗うか。――そして自分は、西行寺幽々子の従者だ。
 だとすれば、今、ここで自分がとるべき行動は――。

「ごめん、鈴仙」
「え、えええええええええええっ!?」

 鈴仙がその目を見開いて悲鳴をあげた。妖夢は黙して、楼観剣に手を掛けた。
 刃を抜き放つ。白刃が陽光を煌めかせ、鈴仙は蒼白な顔で妖夢を見上げた。

「ちょ、ちょっと待って妖夢、いやそれはいくらなんでも酷――」

 鈴仙の言葉を振り払うように――妖夢は、横薙ぎにその長刀を一閃して。

 どさり。
 鈴仙の四肢を縛っていた縄が断ち切られ、鈴仙の身体が地面に落ちる。
 背中をしたたかに打ちつけて、鈴仙は情けない声で呻き。
 楼観剣を鞘に仕舞って、妖夢は振り返ると、主に深く頭を下げた。

「申し訳ありません、幽々子様。――兎肉なら、もう一度人里に行って買って参りますので、彼女のことは、見逃していただけませんか」

 頭を下げた妖夢には、その言葉に幽々子がどんな表情をしているのかは解らない。
 ただ――心臓は、痛いほどの緊張を妖夢に伝えていた。
 幽々子様の言うことに、逆らった。これほど明確に。
 ひょっとしたら、生まれて初めてかもしれないほどに、はっきりと今、自分は拒否したのだ。
 そのことに、幽々子がどんな言葉を返してくるのか、まったく想像がつかず。
 妖夢はただ、ぎゅっと奥歯を噛み締めたまま頭を下げ続けて。

「あらあら妖夢、その兎さんは、妖夢の何なのかしら~?」

 不意に、――どこか愉しげな主の声が、頭上から響いた。
 妖夢は顔を上げる。主はいつも通り、不敵な笑みを浮かべて妖夢を見つめていた。
 その視線に射すくめられて――けれど妖夢は、一度唾を飲んで、主に向き直る。
 答えなければいけない。主の言葉を拒絶したなら、その理由を。
 ひとつ息を吐いて、妖夢はゆっくりと、確かめるように口を開いた。
 さきほど、藍に言われた言葉を思い出しながら――自分の意志を、口にする。

「――鈴仙は、私の友達です」

 その言葉に、背後で鈴仙が息を飲む気配がして。
 そして幽々子は、扇子で口元を隠したまま――その目元を、柔和に垂れ下げた。

「それなら、仕方ないわね~。兎料理は、また今度にしましょう」

 あっさりと言い放って、幽々子は傍らの桶から焚き火に水を掛ける。
 ぶすぶすと白い煙を吐き出して消えた焚き火を見下ろし、幽々子は縁側に腰を下ろした。

「ごめんなさいね、妖夢のお友達さん。ゆっくりしていってね~」

 全く悪びれる様子もない幽々子の姿に、妖夢は小さく息をついて、それからぺたんと座り込んでいた鈴仙の元に駆け寄った。

「れ、鈴仙、大丈夫?」

 声をかけると、鈴仙はひどくぼんやりとした動作で、妖夢の顔を見上げて。
 ――刹那、ひどく寂しげな、泣き出しそうな顔をして。

「ほ、本気で食べられるかと思った……」

 がくがくと震えながら、すがりつくように妖夢の腕を掴んだ。

「ごめん、本当にごめんなさい」

 なだめるようにその背中をさすりながら、妖夢はひどく不思議な感覚を噛み締めていた。
 何か――何かがこの瞬間から、くるりと反転したような、そんな違和感。
 ただ、その正体が何なのか、妖夢にはよく解らないままで。
 そんなふたりの様子を、縁側に腰を下ろした幽々子は、ただ静かに見守っていた。








      4


「本っ当に、ごめんなさいっ、幽々子様が――」
「だ、大丈夫だよ、怪我とかしてないし、ほら」

 ところ変わって、白玉楼の一室。畳の上で土下座する妖夢に、鈴仙は少し気まずそうに首を振った。顔を上げると、鈴仙の指先が目の前にあって、「ごめんは一回まで」と目を細める鈴仙の顔がある。あの眼鏡は携帯していたらしく、今は狂気の瞳もレンズの向こう側だ。

「それに、妖夢は助けてくれたわけだし」
「あ、い、いや、それはその」

 言われて、今度は妖夢の方が慌てて首を振る。
 ――鈴仙は、私の友達です。
 主に向かって、そう言い切ってしまった自分の言葉を思い出して、妖夢は顔を赤くして俯いた。幽々子の前でそう言っただけならまだいい。しかし、その場は鈴仙の目の前でもあったわけで。

「ああいう扱いも慣れてるから、妖夢は気にしなくていいよ、うん」
「な、慣れてるって……」
「あはは……はあ」

 笑ってみせる鈴仙は、しかし疲れたようにひとつため息をついた。まさか永遠亭の面々に食べられそうになってるわけでもないだろうに。

「助けてくれて、ありがとね」
「う、ううん――」

 鈴仙は笑って言う。妖夢は、なんと答えていいのかわからない。
 ――友達です、と言い切った、あの自分の言葉。
 鈴仙は、それをどう思っているのだろう?
 藍の言葉を思い出して、妖夢はぎゅっと自分の手を握りしめる。
 鈴仙は――自分のことを、友達だと思ってくれているのだろうか?

「とっ、ところで鈴仙」

 思考を一度振り払って、妖夢は顔を上げた。虚を突かれたように、鈴仙は目をしばたたく。

「今日は、どうしてここに?」

 そう、肝心なことをすっかり聞くのを忘れていた。永遠亭から冥界は遠いし、幽霊ばかりのこのあたりに、どうして鈴仙がやってきているのだろう。少なくとも、妖夢はともかく幽々子には永遠亭のお世話になる理由はないはずだし――。

「あ、うん。冥界にしかない薬草を取ってきて、って師匠に頼まれて……」
「薬草?」

 このあたりにそんなものが生えていただろうか、と妖夢は首を傾げる。が、よく考えてみたらこのあたりの植物のどれが薬草でどれが毒草かなんて、そもそも自分はほとんど知らないということに思い至った。

「それで探してたんだけど、見つからなくて。うろうろしてるうちにここの庭に迷い込んじゃって――」
「……幽々子様に捕獲されちゃった、と」

 ぷるぷる。食べられそうになったのを思い出したのか、鈴仙が死んだ魚のような目で震えだす。「ご、ごめん」と妖夢が肩を揺さぶると、はっと生気を取り戻した鈴仙は、ポケットからごそごそと何かを取り出した。

「こんな草、見たことないかな」

 差し出されたのは、和綴じの薄い本だった。薬草辞典の類らしい。開かれたページには、その薬草のスケッチが描かれている。――丈は一尺弱、葉は固く鋭い。樹木や建造物の陰に群生。摘もうと茂みに手を突っ込むと固い葉で怪我をする恐れが云々。
 妖夢は首を捻った。確かに見た記憶がある草だ。自分の行動半径で見た記憶があるということは、この白玉楼の庭のどこか、か。

「解る?」
「んーと、自信は無いけど……たぶん、庭のどこかには生えてるんじゃないかなあ」
「庭……って、どこからどこまで?」
「えと……だいたいこのへん一帯、見渡す限り」
「広すぎるよ!」

 鈴仙のツッコミはもっともである。白玉楼の誇る二百由旬の庭は、探し物には広すぎる。不案内な鈴仙があてもなく彷徨ったところで、遭難するだけだ。

「いや、私が見た覚えあるから、私の見回りルートにたぶん生えてる、はず」
「見回りルート?」
「一応、それが私の仕事だから」
「あ、そっか、庭師だっけ、妖夢」

 妖夢は曖昧に頷く。実際のところ、この広大無辺な庭はひとりで管理しきれるものではないので、妖夢が把握している範囲はそんなに広くはない。庭の大半は半ば放置されているも同然だ。様子がおかしければ見に行く程度で、ほとんど足を踏み入れたこともない場所は多い。

「じゃあ、そのルート教えてくれないかな。探してみるね」
「あ、それなら私が案内するから」
「いいの?」
「うん。……お詫びってことで」

 妖夢の言葉に、鈴仙は「妖夢は悪くないのに」と小さく苦笑する。
 ――本当はただ、鈴仙と一緒に歩きたかっただけだったのだけど。


     ◇


 白玉楼の庭に、もっとも多く立ち並ぶのは桜の樹だ。
 春には庭一帯が薄紅に染まり、それを上空から見下ろすとさながら桜の海のようになる。
 もっとも、夏も終わる今では、桜の樹もただ青々とした葉を茂らせるだけの静かな樹だ。

「なんだか、うちの竹林みたいだね。うっかりすると迷いそう」

 道なき道を踏みしめながら、木々の梢が陽射しを遮る頭上を見上げて鈴仙が呟く。

「まあ、広いから……でも、生身でここに来る者なんて、あんまり居ないし」
「一応あの世だもんね、ここ」

 ふよふよと、視界を幽霊が横切っていく。ひんやりとした空気がふたりの間を流れた。

「あの幽霊は、放っておいていいの?」
「うん、別に彷徨ってきた感じの幽霊じゃないし」

 そういうものなんだ、と鈴仙は飛んでいく幽霊を見送る。
 それから、妖夢の顔を見やって、ひとつ首を傾げた。

「鈴仙?」

 妖夢が目をしばたたかせると、不意に鈴仙の手が妖夢の頬に伸びた。
 どくん、と心臓がひとつ音をたてて跳ねる。鈴仙の柔らかい指が頬に触れる。
 れ、れいせん、と呼びかけようとした声は口の中で空回り、
 ――むに、と頬を引っぱられた。

「い、いはいいひゃい」
「あ、ごめん。……妖夢は、人間だよね」

 妖夢の頬から手を離して、鈴仙は確かめるように呟いた。妖夢は鈴仙の引っぱった頬をさすりながら、ため息を噛み殺して頷く。

「半分だけ、だけどね。ハーフだから」

 半霊は、ふわふわと妖夢の頭上を漂っている。鈴仙は唇に指を当てて首を傾げる。

「前から不思議だったんだけどさ」
「うん?」
「――人間と幽霊で、子供って作れるものなの?」

 また、幽霊がふわふわと頭上を飛んでいく。鈴仙が何を言いたいのか解らず、妖夢はきょとんと目を見開いて、

「妖夢って人間と幽霊のハーフでしょ? それってつまり、お父さんとお母さんのどっちかが人間で、どっちかが幽霊ってこと……だよね?」

 ――お父さんと、お母さん?
 小さく息を飲んで、妖夢は自分の半霊を見上げた。
 父親と、母親。……自分の?

「妖夢?」
「あ、ううん――私、両親はいないから……よく解らないや」

 苦笑して妖夢が首を振ると、鈴仙ははっと目を見開いて、それから気まずそうに顔を伏せた。

「ご……ごめん」
「いや、全然、気にしないで。……そっか、私にもお父さんとお母さん、いたのかな……」

 思い出そうとしてみるけれど、物心ついたときにはもう、自分のそばにいたのは祖父だった。
 ずっと祖父の背中を見て育ち、――両親の存在なんて、ほとんど意識したこともなかった。
 祖父は若々しく父のようだったし、思えば母親の役目は主がしていてくれたような気がする。
 そんな幼い頃のことは、さすがにもうおぼろげな記憶でしかないのだけれども。
 父親と母親。自分にもいたのだろうか。……どんな人たちだったのだろう?
 そして、――どうしていなくなってしまったのだろう?
 妖夢が思考に沈んでいると、不意に鈴仙がゆっくりと妖夢の前に歩み出た。風が、鈴仙の長い髪をふわりと揺らす。さく、さく、と草を踏みしめる音。
 なんだかその背中が、急に遠くなったような気がして、妖夢は鈴仙の名前を呼んだ。

「れいせん」

 はっ、としたように、鈴仙が振り返った。
 その顔が、ひどく寂しげに見えて――妖夢は小さく息を飲んだ。
 どうして? どうして、鈴仙がそんな顔をするのだろう。
 解らないまま、妖夢は鈴仙に手を伸ばそうとし――けれど、鈴仙はまた視線を逸らす。
 沈黙。ざざ、と風が梢を揺らす音だけが、その場に響いている。
『もちろん、相手がどう思っているかまでは保証できないが』
 藍の言葉が甦る。そう、相手がどう思っているのかは、自分には解らないのだ。
 鈴仙の背中が何を思っているのか、今の妖夢には解らない。
 解らないから――どんな言葉を続けるべきなのか、思いつかないままで。

「あ――あった」

 と、鈴仙が不意に声をあげて、ぱたぱたと駆け出す。妖夢も慌ててその後を追った。
 一際大きな桜の樹の陰。そこに小さな茂みを形作っている草を、鈴仙は和綴じの本と見比べて小さく頷いた。追いついた妖夢も、それが鈴仙の探していた薬草であると気付く。実物を見ると、日常的に目にしていた草だと解った。名もなき野草だとばかり思っていたものも、薬草としての効能があると言われると、何だか少し違って見えた。

「うん、間違いない。これだよ」

 鈴仙はかがみ込んで、その草の根元に手を伸ばす。
 しかし次の瞬間、「痛っ」と小さく叫んで手を引っ込めた。
 妖夢が見やれば、鈴仙の白い指先にぷくりと、紅い玉が浮かんでいる。――本に書かれていたことを思い出した。摘もうと茂みに手を突っ込むと固い葉で怪我をする恐れが云々。

「大丈夫?」
「う、うん、かすり傷」

 血の浮いた指先をくわえて、鈴仙はばつが悪そうに苦笑した。
 妖夢は薬草の方を向き直り、白楼剣を抜いた。茂みの根元へ、刃を走らせる。茎が根元のあたりで断ち切られ、薬草はぱたりと倒れた。葉に気を付けて持ち上げ、鈴仙に差し出す。

「これで、いいんだよね?」
「あ、ありがと……」

 切った分をまとめて、鈴仙の手にしていた籠に放り込む。これだけあれば充分だよ、と鈴仙が頷いたので、妖夢は白楼剣を鞘に仕舞った。

「指、大丈夫?」
「へいき、平気」

 笑って頷く鈴仙の表情はいつも通りで、妖夢はほっと息をつくけれど。
 ――さっき、名前を呼んだときに見せた、ひどく寂しげな表情が、不意にその笑顔に重なる。
 あの表情は何だったのだろう。鈴仙はあのとき、いったい何を思っていたのだろう?
 前にもそんなことがあった。何気ない会話の中に紛れ込む、刹那の間隙。その一瞬だけ、鈴仙の顔に浮かぶ憂いの色。見間違いかと、最初は思っていたけれど。
 白楼剣の柄に触れる。――真実は斬って知れ、と師は言った。
 だけどさすがに、鈴仙を斬るわけにはいかない。

「うん、任務完了。ありがとうね、妖夢。いろいろと」

 籠を叩いてひとつ伸びをし、鈴仙はそう言って明るく笑った。
 いつもそうだ。鈴仙はいつだって、自分の前ではそんな風に笑っているから。
 たまに、一瞬だけ見せる憂いの表情が、気になって仕方ないのだ。
 ――その憂いは、魂魄妖夢に向けられたものなのではないか? と。

「妖夢?」
「あ、ううん。ちゃんと見つかって良かった」

 疑問ばかりが膨らむのを、妖夢は小さく首を振って振り払った。
 眼鏡の奥、目を細める鈴仙の視線。妖夢はそれと、鈴仙の手にした薬草籠を見やる。
 鈴仙のおつかいはこれで終わりだろう。鈴仙は永遠亭に帰ってしまう。
 そのことを、名残惜しいと思ってしまう自分がいることは明らかで。
 ――それが、自分だけの一方的な気持ちだったらどうしよう、と不安になる。
 ああ、そうだ。……自分は不安なのだ。
 自分は、あの場で鈴仙のことを「友達」だと言ってしまったけれど。
 鈴仙の口からはまだ、自分のことを「友達」だと言ってくれていないから。
 だから――解らないから、不安なままなのだ。

「それじゃ、私はうちに戻るね」
「あ、うん――ひとりで、帰れる?」

 首を横に振ってほしくて、妖夢は思わずそう訊ねる。
 鈴仙は苦笑して、「……石段のところまで案内してほしいかな」と小さく首を竦めた。
 もちろん、と頷きながら、もう少しだけでも鈴仙といられる喜びを、妖夢は噛み締めていた。
 小さな不安は、胸の奥で燻るままだったけれど。


     ◇


 白玉楼の庭は広いといっても、薬草を見つけた場所から石段まではさほどの距離も無い。
 その短い距離が、もう少し長ければいいのに、と肩を並べて歩きながら妖夢は思う。
 だけど同時に、いつまでもは苦しい、と思っている自分がいることも解っている。
 なんとなく会話のない帰り道。ちらりと見つめる、鈴仙の横顔。
 ――訊ねてしまいたい、と思う。
 鈴仙は、自分のことを「友達」だと思っているのかどうか。
 だけどそれを、どんな言葉で訊ねればいいのかも、訊ねていいことなのかも解らない。

「あ、あのさ、鈴仙」

 名前を呼ぶと、鈴仙が振り返る。妖夢は小さく口ごもって、ぎゅっと拳を握りしめた。
 迷っていても仕方ないのだ。ちゃんと口にしなければいけないことは、きっとある。
 白楼剣の柄に軽く触れて、妖夢は口を開いた。

「幽々子様には、ちゃんと伝えておくから。鈴仙が来たら、食べようとしたりしないで、私に伝えてくだいって」
「う、うん」
「その――、鈴仙は、私の友達だから、って」

 ――そう言えば、鈴仙は、何と答えてくれるだろう?
 顔が赤くなっているのを自覚して、妖夢は軽く目を伏せる。鈴仙の顔が、直視できない。
 ただ、ただ――刹那、微かに動いた鈴仙の口元が、

「とも、だ――」

 はっと息を飲んで、鈴仙は口元を覆った。
 妖夢は目を見開く。目の前の鈴仙の顔は、いつもの穏やかな笑顔でも、苦笑いでもなく。
 はっきりと。今度こそあまりにもはっきりと――泣き出しそうな、顔をしていた。

「れい、せん?」

 鈴仙の身体が震えた。覆った口元から、呻き声のようなものが漏れた。

「――――」

 何かを鈴仙が呟く。その言葉は、妖夢には聞き取れなかった。
 ただ確かなのは、妖夢の好きな鈴仙の、優しく穏やかな顔はそこには無いということ。
 そこにいるのは、何かに怯えて震えている、ひどく悲しげで寂しげな少女。

「鈴仙――」

 妖夢は思わず、鈴仙に手を伸ばした。
 どうして、どうしてそんな顔をするの?
 自分はやっぱり――鈴仙にとっては、友達ではなかったのだろうか?
 友達という言葉は、は迷惑だったのか?
 それとも、それとも――。

「ッ、――」

 だけど、伸ばした手さえも振り払うように、鈴仙は背を向けた。
 その背中に、声をかけられない。鈴仙がどうしてそんなに震えているのか、妖夢には解らないから。いったい何が鈴仙を怯えさせているのかが解らないから――何も、できない。

「……ごめん、妖夢」

 鈴仙が微かにそう呟いたのを、妖夢が認識したときには、もう。
 弾かれたように鈴仙は走りだしていて、伸ばした手はその影すら掴めなかった。
 あっという間に遠ざかっていく鈴仙の背中を、妖夢は茫然と見送って。
 追いかける、という発想は浮かばなかった。虚空を掴んだ手を動かせなかった。


 何も解らなかった。
 ただ確かなのは、自分の言葉が鈴仙を傷つけてしまったのだ、ということで。
 ――鈴仙のことを、友達だと思うのは、そんなにいけないことだったのだろうか。
 それなら自分の気持ちは――いったい、どこにやればいいのだろう。


 夏の終わりの陽射しが、ひどく気怠く梢の間から差し込む中で。
 妖夢はただ、鈴仙の消えた方角を見つめたまま、ずっと茫然と立ちすくんでいた。







      5


 剣は、心を映す鏡そのものだと祖父は言った。
 心の乱れ、迷いは剣に現れる。太刀筋は鈍り、斬れるものも斬れなくなる。
 凪いだ水面のごとき、張り詰めた静寂の境地。迷いなき明鏡止水の心。剣を振るうことは、己の惑いと向き合い、それを断ち切ることだ。祖父はそう、楼観剣を振るいながら口にした。
 今の自分を祖父が見れば、呆れてものも言えないのだろう、と妖夢は思う。
 白玉楼の庭。そこで、妖夢はただ闇雲に剣を振るっていた。
 惑いを断ち切ろうとすればするほど、それは霧のように身に絡みついてくる。
 迷いを断つための刃が乱れているのが解るから、また惑いが増えていく。
 それでも剣を振るう以外に、このもやもやを振り払う手段が思いつかない悪循環。
 底無し沼でもがいているような気分で、妖夢は剣を振るい続ける。
 ――脳裏に浮かぶのは、泣き出しそうな鈴仙の顔。
 どうして、あんな顔をさせてしまったんだろう。
 自分の言葉の何が、鈴仙をあんなに、怯えさせてしまったのだろう。
 考えても解らない。解らないから剣を振るう。――剣を振るっても、答えは出ない。
 祖父はこんなとき、どうやって迷いを断ちきったのだろう?
 そもそも祖父は、こんなことで迷うような心の弱さは持っていなかったか。
 ――未熟だ。自分は、あまりにも未熟だ。

「はぁっ、はぁ――」

 息が上がったところで、ようやく手を止めて、妖夢は呑気な初秋の空を見上げた。
 ゆったりと雲が流れていく冥界の空は、少し滲んだような青をしている。

「妖夢~」

 と、縁側から主の声。額の汗を拭って、剣を鞘に仕舞い、「はい、幽々子様」と振り返る。
 幽々子はいつものように扇子で口元を隠しながら、目を細めて微笑んでいた。

「少し出掛けてくるから、お留守番をお願いね~」
「あ、はい、解りました。……どちらまで?」
「それは、ないしょ」

 はあ、と妖夢は首を傾げる。主がひとりで出掛けるとすれば、おそらくは八雲紫のところだろうが、まあ敢えて詮索するようなことでもない。

「午後には戻るわ~。あ、それと」

 扇子を閉じ、その先端を妖夢に向けて、幽々子は笑った。蝶がひらひらと、その周囲を舞う。

「そろそろ、お月見の支度しておきましょ~」
「お月見、ですか。……ああ、十五夜がそろそろですね」

 そういえば、もうそんな時期か。
 十五夜のお月見ともなると、夏も終わったんだなぁ、という気がしてくる。

「お餅とかお団子とか~。あ、後で騒霊楽団に話をつけておいてね~」
「解りました、準備しておきます」
「そうそう」

 と、幽々子は不意に楽しげな笑みを浮かべた。

「お友達も、呼んでもいいわよ」
「――――」

 不意打ちだった。言葉を詰まらせて、妖夢は一度顔を伏せる。
 ――逃げるように駆けだしていった鈴仙の背中が、また脳裏を過ぎって。

「いえ……お気遣いには及びません」
「あら、そう? まあ、とりあえずお留守番よろしくね~」

 そう言い残して、主はふわふわと飛び去っていく。それを見送って、妖夢は小さく
息をつく。
 お月見。宴会。いつもなら、なんてことのない日常の出来事として過ぎていくはずの時間。
 ――いつもならば、そこに鈴仙がいたらきっと楽しいだろう、と。
 そう思うけれど、それはやっぱり、自分の一方的な思いこみでしかないのだろうか。

「鈴仙――」

 名前を呼んでも、彼女の横顔はここには無いし、答えは出ることはない。


     ◇


 そんなわけで、翌日。
 妖怪の山の麓にある霧の湖、その近くに佇む廃洋館に、妖夢は足を運んでいた。
 騒霊楽団、プリズムリバー三姉妹の暮らす家。白玉楼での宴会では、彼女たちのライブを一緒に行うのが恒例だ。その交渉も、妖夢のこなす雑用のひとつである。
 まあ今の時期、騒霊楽団は定期コンサートも終えて暇な時期のはずだから、出張ライブ自体に問題は無いはずである。
 廃洋館の扉をノックする。返事はない。まあそれ自体はいつものことだが――。

「……留守かな?」

 いつもなら、騒霊楽団の練習の音が洋館の中から聞こえてくるのだが、今日は静かだ。どこか別の場所で三人揃ってライブでもしているのかもしれない。
 ノブに手を掛けてみると、あっさりと扉は開いた。

「すみませーん」

 一応、中に声をかけてみる。返事が無ければ出直そう。そう思って妖夢は耳を澄ます、と。

「はーい、今行きます!」

 慌てたような声とともに、二階の方でドアが軋む音。ほどなく、階段を下りてくる影がひとつ。黒い服を纏ったその姿は、騒霊楽団のリーダー、ルナサ・プリズムリバーだった。

「ああ、白玉楼の。こんにちは」
「こんにちは。ええと、宴会のライブをお願いしたくて」
「えーと……ああ、十五夜のお月見?」
「そうです。大丈夫ですか?」

 毎年のことだから話が早くていい。ルナサは「うん、大丈夫」と頷いた。

「三人揃って、でいいんだよね」
「ええ、例年通りでお願いします」
「了解。ふたりが戻ったら伝えておくね」
「あ、妹さんがたは出掛けてるんですか」

 道理で静かだったはずだ。ルナサひとりなら演奏もバイオリンだけだから、騒霊楽団の普段の騒がしさはあろうはずもない。

「うん、まあ――」

 と、何故かルナサは少し気まずそうに苦笑いする。
 妖夢が首を傾げると、不意に二階の床が軋む音がした。――あれ、誰かいるのか?
 階段の方を見上げると、二階からこちらを見下ろす少女と目が合った。
 翠緑の髪をサイドポニーにした、妖精の少女だった。妖夢が首を傾げると、少女はぱっと慌てたように身を隠してしまう。長い羽根の影が、階段に落ちてぱたぱた揺れていた。

「……何か、妖精が入り込んでるみたいですけど」

 騒霊楽団の音に誘われて悪戯にでも来たのだろうか。妖夢が階段の上を指して言うと、なぜかルナサは「ああ、いや」と気恥ずかしそうに首を振る。

「私のお客さんだから、気にしないで」
「はあ」

 ルナサの操る音は鬱の音だ。心を落ち着かせる音で歳経た妖怪などには好評だが、騒がしいのを好む妖精などにはあまり好かれてはいなかったと思うのだが。

「じゃあ、十五日の夜、陽が沈んでからってことでいいかな?」
「あ、はい、それでお願いします」
「了解。曲目はこっちで決めて大丈夫?」
「お任せします」
「はい、じゃあそういうことで」
「お願いします。……では」

 なんだかそわそわした様子のルナサは、早めに話を切り上げたがっているようだった。訝しく思いつつも、それ以上話すこともないので、妖夢も頭を下げて踵を返す。
 扉を閉める瞬間、その向こうから「ルナサさん……」「大ちゃん」となんだか甘ったるい声が聞こえてきた気がしたが、妖夢にはどういうことなのかはよく解らないままだった。







      6


 白玉楼の十五夜のお月見は、冥界の幽霊たちにとっては一大イベントである、らしい。
 妖夢にとっては、知人を萃めてのいつもの宴会程度でしかないが、幽霊たちの間でも人気のある騒霊楽団が来ることもあって、毎年多くの幽霊が白玉楼周辺に集まってくる。
 その幽霊たち全員に酒やお団子を振る舞うなら忙しくもなるが、幽霊たちは基本的に飲み食いをしないから気楽なものだ。せいぜい多めに酒を用意しておくぐらいのものである。

「ああ、妖夢~。今日はお団子、少し多めに用意しておいてね~」

 十五日の朝。いつもの調子で準備をしていた妖夢に、幽々子がそう声をかけてきた。

「多めに、ですか?」
「いつもより、ちょっと来客が多いはずだから~」
「はあ」

 いつもの顔ぶれといえば、八雲紫とその式、それから宴会好きの鬼が寄ってくるとか、せいぜいそのぐらいのはずだが。博麗の巫女は結界を壊すので呼ばないことにしているし。

「どなたがいらっしゃるのです?」

 まさか紅魔館の吸血鬼たちでもあるまい。かといって主と他に接点のありそうなところというと――地獄の閻魔? まさか、それも考えにくい。
 首を傾げた妖夢に、幽々子はただ「今は、ないしょ」と微笑むばかりだった。


     ◇


 宴会の主会場は、縁側に囲まれた中庭だ。
 時刻は夕暮れ、間もなく月が見える頃合い。中秋の名月は雨が降ることも多いが、今日は幸いにしてよく晴れている。雲も少なく、綺麗な月が見えるだろう。
 松の木の根方に来客用の茣蓙を敷き、料理番の幽霊がお供えのお団子を運んでくる。宴会料理と酒の準備を急ピッチで進めていると、庭の方から騒霊楽団のリハーサルの音が聞こえてきた。いつもより、こころなしか浮かれた音のように聞こえる。

「ようむ~、準備はどう?」
「陽が沈む頃には、宴会を始められるかと」
「うおーい、宴会と聞いてお邪魔してるよ」

 幽々子の声に妖夢が振り返ると、全く別方向から第三者の声が割り込んだ。咄嗟に楼観剣に手を掛けて振り向くが、そこにあった影に妖夢は肩を竦めて力を抜く。
 伊吹萃香が、いつの間にか縁側に腰を下ろして伊吹瓢を傾けていた。またこの鬼は、霧になって勝手に入り込んできたらしい。

「できれば、玄関から入っていただけませんか」
「そいつは私より紫の奴に言いなよ」

 赤ら顔で、悪びれず笑う萃香。飄々と笑うその顔に、妖夢は息を吐き出す――と。

「あら、私の現れるところが玄関ですわ」

 にゅるり、と背後から現れた手が、妖夢のうなじを撫でた。
 ぞわわっ、と背筋に悪寒が走り抜けて、妖夢は身を竦ませる。

「ゆ、紫様」
「はあい♪」

 空間にぱくりと開いたスキマから身を乗り出して、八雲紫は果てしなく胡散臭い笑みを浮かべた。いつものことだが、こんな風に人を驚かすのは止めてほしい。もちろんそう言ったところで、八雲紫が妖夢の言うことなど聞くはずがないのだが。

「紫、いらっしゃい~」
「お招き感謝しますわ。でも幽々子、貴方があの連中に声をかけるなんて、どういうつもりなのかしら? まあ、だいたい想像はついているけれど」
「あらあら、妖怪の大賢者様はお気に召さなかったかしら~?」
「貴方はそこまで過保護だったかしら」
「それこそ何のことかしらね~」
「全く皆、身内に甘いわね」
「紫、貴方には言われたくないわね~」
「何のことかしら?」

 相変わらず、当人たちにしか解らない会話を交わす主と紫である。
 幽々子と紫の会話に自分が介入する余地は無い。妖夢は一礼だけして、料理を運びに台所の方へぱたぱたと駆け戻る。と、その途中で玄関の方から「ごめんください」の声。

「ああ、藍さん」
「やあ、少し早かったかな」

 八雲藍と、手を繋いだ黒猫の式神。橙だ。

「紫様はもういらしてます。今お酒とお料理を準備しておりますので、中庭でお待ちを」
「ああ、お邪魔させてもらうよ。行くぞ、橙」
「はーい」

 橙の手を引いて、藍は中庭の方へ廊下を歩いていく。そのもふもふの尻尾を見送っていると、幽霊がまた新しい料理の皿を運んできた。それを受け取り、妖夢も中庭の方へ向かおうとして、

「ごめんくださいな」

 また新たな声が玄関から響いて、妖夢は足を止めた。――八雲家と騒霊楽団は既に来ている。他に誰か来る予定があっただろうか。そう考えて、朝に幽々子が「来客が多いはず」と言っていたのを思い出した。いったい、誰が来たのだろう?
 そんなことを考えながら、妖夢は料理の皿を持ったまま玄関に踵を返し、
 ――そこにあった影に、料理の皿を取り落としそうになった。

「今晩は」
「珍しいご招待だったから、総出で来てみたわー」

 八意永琳と、蓬莱山輝夜である。そしてその後ろには、兎たちを引き連れた因幡てゐと、

「鈴仙、何してるのさ?」
「あ、う、うん……」

 おそるおそる、という様子でこちらに顔を出す――鈴仙の姿。
 眼鏡を掛けた鈴仙の視線が、こちらを向いた。思わず、妖夢は視線を逸らした。
 ――まさか、こんなところで顔を合わせるなんて、不意打ちに過ぎる。
 あのとき、泣き出しそうな顔で駆けだしていった鈴仙の背中。
 それから、何も言葉を交わせないままで――どうすればいいのかも解らなくて、
 心の準備なんて、全く出来ていなかった。

「え、ええと……幽々子様のご招待、ですか?」
「あら? 本人がわざわざうちに来て伝えてくれたのに、従者さんは聞いてないのかしら?」

 輝夜がそう不思議そうに首を傾げる。いや聞いてない、全く聞いてない――。
 というか、幽々子が直接永遠亭に出向いて招いた? どういうこと?

「しょ、少々お待ちを、幽々子様に確認を――」
「その必要は無いわよ~。ようこそ、白玉楼へ」
「ゆっ、幽々子様」

 いつの間にか、幽々子が玄関まで姿を現していた。永遠亭の面々にいつもの微笑を向けて、それから幽々子は妖夢の方を振り返る。

「妖夢、四人分のお皿とか、追加しておいてね~」
「あ、はいっ」

 頷きつつ、妖夢は横目で、靴を脱ぐ鈴仙の姿を見やった。
 その横顔が何を思っているのか、妖夢には解らないままで。
 言葉を交わすこともできないまま、結局妖夢は料理を縁側に運んでいくしかなかった。


     ◇


 陽がとっぷりと暮れ、夜空にそこだけを切り抜いたような、白い月が浮かんでいる。
 騒霊楽団の奏でる軽快なメロディに誘われて、白玉楼上空には大勢の幽霊が集まっていた。幽霊の纏う冷気のせいか、吹いてくる風もいつもよりいくぶん冷たい。
 そんな中、宴はいつものように、割合静かに進んでいる。
 萃香はどこからかやってきた射命丸文と飲み比べの最中。橙は料理を口いっぱいに頬張っては、藍にはしたないと怒られている。てゐは兎たちとお団子を食べ散らかし、幽々子と紫は特に言葉を交わすでもなく、月を見ながら静かに杯を傾けている。

「たまには、余所での例月祭も悪くないわねー」
「そうね」

 ほわ、と杯を手に息を吐く輝夜と、その傍らで微笑む永琳。――そして。
 鈴仙は、どの輪にも加わりかねたように、縁側の隅でちびちびと杯を傾けている。
 そんな様子を見ながら、妖夢は空き皿の片付けや料理の補充に追われていた。
 ――どうして幽々子様は、鈴仙たちを呼んだのだろう。
 主に直接尋ねたところで、いつものようにはぐらかされるに決まっている。
 今までほとんど交友関係など無いに等しかった永遠亭の面々を、わざわざ直接出向いて招いた。そこには妖夢には知り得ない、深謀遠慮が働いているのだろう。幽々子の考えていることは幽々子にしか解らない。それは今までで散々解りきっていることではあるのだが。
 どうにも、タイミングがいいのか、悪いのか。
 あれから顔を合わせる機会が無いままだった鈴仙が、今ここにいる。
 ただ、その横顔になんと言葉をかけたらいいのか、その答えが出ないままで。

「よーむ~、お団子が無くなっちゃったわ~」
「はいはい、ただいまお持ちしますから」

 忙しさは、むしろ鈴仙に言葉をかけられないことへの都合のいい言い訳になっていた。
 ――もちろん、それはただの逃げの一手なのだ、ということは解っている。
 解っているけれど、今はそうすることしか思いつかず、妖夢は空になった皿を持ち上げて、

「あ、妖夢……私も手伝おうか?」

 鈴仙が、そう声をあげて、妖夢は足を止めた。止めたけれど、振り返ることができない。
 声をかけてくれた。鈴仙が名前を呼んでくれた。それが嬉しい。
 だけど、振り返ってしまうと、脳裏にあの顔が浮かんで、何も言えなくなりそうで。

「いや、気にしないで、鈴仙」

 それだけ答えて、振り返らないまま妖夢は縁側を駆けていく。
 台所まで戻って、流し台に空き皿を戻しながら、水を張った桶に映る自分の顔に、ため息を漏らす。――逃げてどうするんだ、という自問。答えは出ない。
 もう一度ため息を吐いたところで、料理番の幽霊に肩を叩かれた。差し出された新しいお団子を受け取る。そうだ、これを持って戻らないと。
 腰の白楼剣に目をやる。自分の迷いは、自分を斬らなければ断ちきれないのだろうか?
 ともかく、主がお腹を空かせて待っているのだ。従者として、今は宴会の給仕という仕事に専念すべきだ。首を振って、妖夢は小走りに縁側へと駆け戻った。

「はい、お待ちしましたよ幽々子様」
「ご苦労様」

 団子の皿を受け取って、そして幽々子は妖夢の顔を見上げて、不意に笑みを深くした。

「あとは、自由にしていいわよ~」
「え?」

 視線で片付けるものを探していた妖夢は、思いがけない言葉に動きを止める。
 まだ宴は半ばだ。ここで自分が仕事を止めたら、誰が片付けるのか――。

「でも――」
「まだ宴会は続くもの~。片づけは終わってからでいいから、楽しんでらっしゃい~」

 幽々子はそう笑って、妖夢の背中を軽く押した。思わず、数歩妖夢はよろめいて。
 顔を上げた。目が合った。――眼鏡の奥の、赤い瞳と。
 鈴仙が、目を細めてこちらを見つめていて。
 妖夢は、また咄嗟に視線を逸らしてしまう。
 ――こうしていても、何も解決しないのに、というのは解っていても。
 鈴仙の赤い瞳を見てしまうと、口の中で言葉はこんがらがって、形を為してくれない。
 謝るにも、何を謝ればいいのか解らなくて。
 鈴仙が何に傷ついてしまったのかが解らないから、その痛みに触れられないのだ――。

「……ぁ」

 鈴仙も、何かを口にしようとして、けれど口ごもる。
 すぐ近くに互いにいるのに、どうしてこんなに遠くに感じるのだろう。
 ぎゅっと拳を握りしめて、何度か唾を飲んで、鈴仙に何か、何か言葉をかけたくて、
 ――騒霊楽団の脳天気な音色が、何とかなるよ、と背中を押しているような気がした。
 もちろんそれは、ただの都合のいい錯覚なのだろうけど。
 妖夢は、もう一度意を決して、鈴仙の方へ顔を上げて、口を開こうとして、


「う~ら~め~し~や~」
「あひゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」


 ぺとり、と首筋に何か冷たいものが触れて、妖夢は悲鳴をあげて飛び上がった。
 咄嗟に手を伸ばして、近くにあったものにしがみつく。柔らかい感触。
 首筋に残る冷たい水の感触に、涙目になって妖夢は振り返る。
 ――因幡てゐが、こんにゃくを手に意地の悪い笑みを浮かべていた。

「なっ、なななっ」

 声を震わせて、妖夢が何か叫ぼうとすると、てゐはさっさとその場を逃げ出してしまう。
 庭の方へ消えていく悪戯兎の背中を見送って、妖夢は盛大にひとつため息をつき、

「……よ、妖夢」

 困り切った声に顔を上げた。
 鈴仙が、照れたような困ったような、苦笑いのような顔で、こちらを見つめていた。
 ――そこでようやく、自分が鈴仙にしがみついていたことに気付く。

「あっ、ご、ごめ――」

 慌てて鈴仙の腕から手を離して、妖夢は身を縮こまらせる。
 何をやっているのだ自分。ああもう、こんなみっともないところ、鈴仙の前で――。

「……ぷっ、あは、妖夢ってば、あははっ」
「鈴仙?」

 不意に、堪えきれないという様子で、鈴仙が噴き出して、そのまま笑い出す。
 妖夢は目をしばたたかせて、けれどそのうち、つられるように笑みがこぼれた。

「ははっ……あはは、はははっ」

 ただそれは、鈴仙の笑顔が久しぶりに見られた、それが嬉しかったからかもしれない。
 別に何が可笑しいわけでもないのに、どうしてか妖夢も鈴仙も、笑うのを止められず。
 陽気な騒霊楽団の旋律の中で、ふたりは肩を震わせて、宴の片隅で笑い転げていた。







      7

 そうして、さらに夜が更ける頃。
 萃香が大の字になって鼾をかき、藍は眠った橙を膝に乗せてその髪を撫で、輝夜は永琳に身を寄せて言葉もなく目を閉じ、てゐは幽霊たち相手に何やら商売を仕掛け、ひとり残った料理を幽々子がつまむ様を、紫がどこか呆れたように見つめる、そんな時間。
 騒霊楽団の演奏も、メルランやリリカの明るい旋律はひと息ついて、ルナサのソロのバイオリンの音色が静かに響いている。
 そんな中で、妖夢と鈴仙は、特に言葉を交わすでもなく、静かに杯を傾けていた。
 縁側に並んで腰を下ろし、月を見上げながら、小さな杯をちびちびと舐めるように。
 ときおり、互いの様子を伺うように視線をやりあって。
 言葉はなくても、そこにあるのは先ほどまでの気まずさとか、居心地の悪さではなく、どこかほっとする静かさだった。
 ルナサの鬱の音が、心を落ち着けてくれているのかもしれない。
 そんなことを思いながら、妖夢は冴え冴えと夜空に浮かんだ月を見上げる。
 ――月、かぁ。
 そういえばいつぞや、月を巻き込んだ騒ぎがあった。あのときは博麗の巫女や紅魔館の吸血鬼が、ロケットで月に向かった。妖夢は件の騒ぎの当事者ではなく、ただ幽々子に従って脇から多少のちょっかいを出しただけだったので、結局あの騒ぎが何だったのかはよく解らない。まあ幻想郷で起こる騒ぎなんて、大抵は何の意味も無いのだけれど。
 幽々子に連れられて行った月では、兎の姿を良く見た。月に兎が住んでいるというのは本当だったんだなぁ、とぼんやり思ったのを覚えている。
 いや、今隣にいる鈴仙が、そもそも月の兎なのだということは知っていたけれど。
 実際に月という場所を踏んで、見て確かめたのとでは違う、という話だ。
 ――それから、ふと思う。
 月の都の美しい光景。鈴仙はかつて、あそこに住んでいたのだろうか。
 けれど今、鈴仙はこの地上の、永遠亭に暮らしている。
 どうして鈴仙は、月の兎であるのに、この地上にいるのだろう?

「――ねえ、鈴仙」
「なに?」

 月を見上げたまま、妖夢はふっと、呟くように口にしていた。

「鈴仙は、あの月に住んでたんだよね」
「――――」

 何気ないその言葉に、けれど傍らの鈴仙が、短く息を飲んだ。
 鈴仙? と妖夢が振り返ったとき、そこにはもう鈴仙の横顔はなく。
 腰を下ろしていた縁側から立ち上がって、鈴仙は数歩、妖夢の前に歩み出た。
 妖夢に背を向けたまま、鈴仙は月を見上げる。妖夢はその背中を、ぼんやり見つめて。

「……あのね、妖夢」

 ぽつりと、こぼすように鈴仙は口を開いた。

「私は――」

 けれど、言葉はすぐに、つっかえたように途切れて、鈴仙は顔を伏せる。
 その肩が、微かに震えていることに、妖夢は気付く。

「……私のこと、……だって思っても、いいことなんか、ないよ?」

 言葉の一部が、もごもごと言いよどむように不明瞭で、妖夢は一瞬首を傾げて。

「妖夢が、そう言ってくれるのは、嬉しいんだ。……本当だよ?」

 鈴仙が言いよどんだ言葉が、「友達」という単語だということに、妖夢は気付く。
 ――ああ、そうだ、あのときも鈴仙は、その単語を口にしようとして。

「だけど、ね」

 背中を向けたまま、小さく肩を震わせて、鈴仙はまた月を見上げる。
 彼女がどんな顔をしているのか、今この場所からは、妖夢には見えない――。

「私、きっと妖夢が思ってるより、ずっと身勝手で、卑怯で、薄情だから」

 鈴仙は、振り向いた。
 その顔は、まるでいつものように笑っていたけれど。
 ――今にも泣き出しそうに歪んだ、ひどく寂しい笑顔だった。

「だから――私のことなんか、そんなに気にしないで」

 鈴仙は笑ったまま言う。笑ったまま、泣き出しそうな声で、言う。

「私と一緒にいたって――そのうち、傷つくだけだから」


 嘘だ。
 その言葉は、どうしようもなく嘘だと、妖夢は思った。
 拒絶の言葉。妖夢の口にした「友達」という単語への、それは拒絶の言葉だった。
 だけど、――だけど、鈴仙が本当に、言葉通りに思っているのなら。
 自分と「友達」でなんていないほうがいいと、そう思っているのなら。
 ――あの夏の日、茶店で出会ったあのとき。
 あのとき、どうして鈴仙は、席を立とうとした妖夢を引き留めたのだ。
 なんでもない言葉を交わして笑い合う、あのささやかで楽しい時間を求めたのだ。
 あれがなければ、今こうして、鈴仙を想うことなんて無かった。
 こんな風に、鈴仙の泣き出しそうな笑みに、胸を痛めることなんて無かった――。


 ――そうだ。
 鈴仙が、泣きそうな顔をしていると、自分の胸までひどく痛むんだ。
 鈴仙に泣いて欲しくない。悲しそうな顔をして欲しくない。寂しそうにして欲しくない。
 そんな顔をされると、どうしていいか解らなくなって、自分まで辛いから。
 いつも、鈴仙には笑っていてほしいのだ。
 あの明るくて、少し意地悪で、でも優しい笑顔を、浮かべていてほしいのだ。
 だから――。


「……そんなの、もう遅いよ、鈴仙」

 妖夢は立ち上がった。立てば、鈴仙とはほとんど背の高さは変わらない。
 眼鏡の向こうの、赤い瞳が、戸惑ったように妖夢を見つめた。
 妖夢は、そっとその顔に手を伸ばして――いつか自分が壊してしまったその眼鏡に触れた。
 あのとき、眼鏡のない鈴仙の目を見つめてしまって、狂気にやられてしまったけれど。
 ――今なら、その瞳だって、真正面から見つめられる気がしたから。

「よう、む?」

 妖夢の手が、鈴仙の顔から、そっと眼鏡を外した。
 狂気の瞳が、正面から妖夢を見つめて――不意に、ぐらりと視界が揺らいだ。
 けれど妖夢は、ぐっと奥歯を噛み締めて、もう一度鈴仙の顔に手を伸ばした。
 慌てて目を逸らそうとした鈴仙の頬に、手が触れた。柔らかいその肌の感触。鈴仙の温もり。
 ――ほら、鈴仙はこんなにあったかいんだ。

「鈴仙は、優しいよ」
「……違う、よ」

 鈴仙の頬に触れて、その狂気の眼を覗きこんで、だけど妖夢は笑って言った。
 視界は揺らいでいたけれど、目の前にある鈴仙の顔だけは、はっきりと見えていた。
 ――今にも泣き出しそうな、鈴仙の顔。

「鈴仙は明るくて、優しくて、思いやりがあって、しっかりしてて、」
「違うよ、違う――」
「それが、私の知ってる鈴仙だよ」

 だだをこねるように首を振る鈴仙の、頬に一筋、雫が伝った。
 いつの間にか、鈴仙の赤い瞳から、静かに透明な雫が、溢れるように流れ落ちていた。
 だから妖夢は、指先でそっと、その雫を拭う。

「違うの、妖夢、私は」
「――うん、違うのかもしれない。私はまだ、鈴仙のこと、全然知らないから」

 はっ、と鈴仙がその目を見開いて、小さく息を飲んだ。
 妖夢は笑った。たぶん、笑えたと思う。
 鈴仙に、目の前にいる大好きな友達に、笑顔を向けられたと、そう思う。

「だから、私はもっと鈴仙のことが知りたいよ」
「妖夢、」
「鈴仙が、何に悲しんで、何を辛く思って、そんな顔をするのかも。……どうしてそんな風に、自分のことを悪く言うのかも、私は解らないから、だから知りたい」

 違う、と言葉だけで否定するのは簡単だ。
 だけど、たぶんそれだけでは、何も変わらないのだ。
 妖夢の知っている優しい鈴仙。鈴仙自身が口にする、身勝手で卑怯だという鈴仙。
 鈴仙の狂気の瞳と、半人半霊の自分の目には、きっと見えているものが違うから。
 でも、その違いを知ろうとすることは、できるはずだと思うのだ。

「私は、鈴仙のことが、知りたいんだ」

 くしゃり、と鈴仙の顔が歪んだ。ぼろぼろと、溢れる雫がその量を増した。
 しゃくりあげるように肩を震わせて、鈴仙はくずおれるようにその場に膝をついた。
 妖夢も膝をついて、泣きじゃくる鈴仙を、そっと抱きしめた。

「……知ったら、私のこと、嫌いになるよ?」
「ならない」
「なるよ」
「ならないよ」
「……嫌いに、なってよ」
「嫌だ」
「ダメだよ……辛くなるの、妖夢だけだよ」
「嘘だ」
「うそじゃないよ」
「嘘だよ。……だって今、鈴仙は泣いてるじゃないか」
「――――」
「鈴仙が、本当に身勝手で卑怯でも、私は鈴仙の友達でいたいよ」
「……ようむ」

 鈴仙の瞳を覗きこむ。赤い瞳。そこに映る自分の目も、たぶん赤いのだけれど。
 これは狂気じゃない。魂魄妖夢の、素直な気持ちだと、自分でそう信じられるから。

「……私、今まで自分の大事なものは、幽々子様だけだと思ってた」

 そうだ、ずっと何の疑いもなく、そう思っていた。
 自分は白玉楼の、西行寺家の従者で。幽々子様をお守りすることが自分の使命で。
 それ以外に何も要らないのだと思っていた。
 それ以外のものを求めることなど、考えたこともなかった。

「でも、今は違うんだ」

 これが正しいのかどうかは解らない。
 自分は、魂魄家の剣士としては、間違った道に足を踏み入れたのかもしれない。
 だけど、今の自分のこの気持ちを、間違いだとは思いたくなかった。

「幽々子様と同じぐらいに――鈴仙のことを気にして、鈴仙のことを考えてる」

 その笑顔に、その言葉に、その仕草にいつも振り回されているけれど。
 そんな時間が、どうしようもなく楽しくて、幸せだったから。

「鈴仙の笑ってる顔を、守りたいって――そう、思うんだ」

 だから。
 だからどうか、笑ってください。
 自分の前で、笑顔を見せていてください。

「ねえ、鈴仙。……私は、鈴仙のこと、友達だと思っていて、いいよね」

 貴方がどんなに、自分自身を嫌いだと思っていても。
 その痛みを、この手に分けてください。
 それで、貴方が笑ってくれるなら――。

「友達、だよね。……私と、鈴仙は」

 答えはなかった。
 答えの代わりに、ただ鈴仙は、妖夢の胸元にすがりついて、声を殺して泣いた。
 その震える身体を、長い髪を、妖夢はそっと撫でて、赤くなった目を細めた。
 視界はまだぐらぐらするけれど、今ここにある鈴仙の温もりは幻覚じゃないから。
 月を見上げた。夜空に冴え冴えと、蒼白い光を放つ月を。
 たぶん今の自分は、あの月のこちらがわのことしか、まだ知らないのだ。
 その向こうがわへ手を伸ばすのが、正しいのかは解らないけれど。
 光の無い月の裏側だって、同じ月の半分だから。

「鈴仙」

 名前を呼んだ。新しくできた、大切な存在の名前を呼んだ。
 鈴仙は、震えて掠れた小さな声で、ようむ、と呼び返してくれた。
 だから妖夢は、今はそれだけで満足だった。


     ◇


 そうして、やがて八雲家がその場を辞し、萃香もいつの間にか姿を消して。
 演奏を終えた騒霊楽団に、幽々子が何事か話しかけている、その傍らで。

「妖夢、これどこにやればいいの?」
「えーっと、それは向こうで――あっとっと」

 妖夢と鈴仙は、宴会の後始末に追われていた。
 こうなるのが解っていたから、宴会の最中からこまめに片付けていたのに。結局、山と積まれた空き皿と杯との始末にてんやわんやである。というか、料理は少し作りすぎたぐらいだったはずなのに、気がつけば幽々子が全部食べてしまったらしい。さすがというか何というか。

「ていうか、本当に良かったの? わざわざこんな――」
「いいの。……迷惑かけちゃったし、ね」

 ちなみに、永遠亭の他の面々は先に帰ってしまっていた。鈴仙だけが居残りを申し出て、後片付けを手伝ってくれているのである。

「迷惑なんて、そんな」
「いやまあ、うん。……みっともなくてごめんね、色々」

 苦笑して、それから鈴仙は、眼鏡を外したままの目を細めて、妖夢を見つめた。

「妖夢、本当に大丈夫? 私の目――」
「う、うん。……ちょっとくらくらするけど、何とか平気」

 鈴仙の目を見つめ返して、妖夢は笑った。
 あのあと、泣きやんだ鈴仙に連れられて、永琳の診察を受けさせられた。
 けれど、以前ほど鈴仙の目の影響を強く受けていない、と永琳は言ったのだ。
 もちろん、後でまた永遠亭に来るように、と釘を刺されはしたけれど。
 鈴仙の目の影響が前より小さくなっている――その意味はよく解らない。
 けれど、それで眼鏡が無くても鈴仙と向き合えるようになるなら、いいかなと妖夢は思った。
 眼鏡も似合っているけれど――鈴仙の赤い瞳は、綺麗だと思うから。
 いや、さすがにそれは何だか気恥ずかしくて口には出せないのだけど。

「……ね、妖夢」

 空き皿の山を運びながら、静まりかえった白玉楼の縁側を歩く。
 隣を歩く鈴仙が、その途中で不意に口を開いた。

「うん?」
「今度――もしまた、お師匠様がお休みくれたら、遊びに来ても、いい?」

 振り向いた妖夢に、鈴仙はなんだか気恥ずかしそうにもじもじとして、そう言った。

「遊びにって……ここに?」
「う、うん」

 少し照れくさそうにそう頷いて、鈴仙はこちらを振り向いた。

「わ、私もちゃんと言うから。……またあんな目に遭わないように、ちゃんと」
「言うって――」

 目をしばたたかせた妖夢に、鈴仙は顔を真っ赤にして、意を決したように、口にする。

「私は、……妖夢の、友達ですから、って」

 その言葉に、妖夢は目をまん丸に見開いて。
 ――そして、自然と、満面の笑みが、その顔にこぼれた。

「うんっ」

 見つめ合って、笑い合って、言葉を交わし合って。
 そんなくすぐったさを分かち合う、一組の友達同士を、月が静かに見下ろしていた。





第4話へつづく
~次回予告~

※この予告の内容は変更される可能性が多々あります。


 妖夢が、私のことを友達だと言ってくれた。

「ほら――こんなところにいないで、戻るわよ」

 そのことを嬉しく思うけれど、だけど。

「ほっとけないのよ、貴方みたいなのを」

 思い出してしまうのは、今はひどく遠くなってしまった記憶。

「――ほら、レイセン」

 かつて私がいた場所。月の都、綿月邸。

 そこにも、いたのだ。――私を、友達だと言ってくれた彼女が。



 うみょんげ! 第4話「満月はもう遠く(仮)」



 ――それは、私が捨ててきたもの。



***

 というわけで、結局月一連載になるみたいです。気長にお付き合いください。
 しかしまー、なんでお互いに友達だと確かめ合うまでで文庫本換算で218ページもかかってるんですかねこの2人は! 全く!

 あ、阿部真央さんの「私は貴方がいいのです」がこのシリーズのテーマ曲かもしれません。
 お気に入りのうどみょん絵師さんが推してて聴いてみてドストライク。

 さて、4話の内容ぜんぜん考えてないぞ(ry
浅木原忍
asagihara@u01.gate01.com
http://r-f21.jugem.jp/
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コメント



0.2270簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
妖夢の文体がいかにも妖夢らしいと思いました。
あと、藍さまがかっこよくて可愛かったです。

ふぅ、やっとお互いに友達だと認めましたか。
でも鈴仙と妖夢にはこれぐらいゆっくりでちょうどいいと感じました。
2.100名前が無い程度の能力削除
一体いつまでこの胸のトキメキをかかえていかなければならないのか・・最高です
サラっと大ちゃんなにやってんのw
6.100名前が無い程度の能力削除
かけらでもいい 君の気持ち知るまで、ですか。
今回の話にぴったりですね
7.100名前が無い程度の能力削除
ルナ大に胸キュンしてしまった
8.100名前が無い程度の能力削除
るなxだい!と同じ時系列ですすんでるのか。ようやく友達までこぎつけた二人がどうなっていくのか。楽しみにさせてもらいます。
12.100名前が無い程度の能力削除
予告が秀逸だと思う
13.100名前が無い程度の能力削除
やったぜ妖夢!
やはり妖夢には真っ向勝負がよく似合う。
14.100名前が無い程度の能力削除
うおー!!今回も素敵でした!

阿部真央さんの歌僕も好きです^^曲聴きながらうどみょん描いていたら妄想膨らみますよね(ぉ
15.100名前を忘れた程度の能力削除
メインの二人はこれからどうなる・・・!

でも、ルナ大のほうが印象深い点について。
まー大ちゃんはルナ姉の嫁だから仕方ないけど。
16.100名前が無い程度の能力削除
るな×だい!のあのシーンの続きを待っていて損は無かったということか・・・!
19.100名前が無い程度の能力削除
更新のたびに1話から読み返してます。
丁寧に書かれていて、凄く面白い!
妖夢真っ直ぐで格好いいなぁ!
4話も楽しみにしてます!
22.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです
26.90名前が無い程度の能力削除
一応誤字指摘なぞ「書こうと思うまでほとんそ想像すら」の「ほとんそ」って「ほとんど」だよね多分。それ以外は見つからなかったっす。

うん。やっぱ良いなぁ……私は貴方がいいのです、聴いたことないので聴いてみようと思います!
27.100名前が無い程度の能力削除
素敵ですねぇ。
いつもしみじみとさせていただいてます。
33.100名前が無い程度の能力削除
大きな一歩ですね。
早くくっ付いて幸せになって欲しい(今でも十分2828できる)けど、もっと続いて欲しいジレンマががが
というか友情話としても十分すぎる出来でもうたまらない。

二次創作において同じキャラでも作品で色々な性格や態度がありますが、氏のキャラは「それらしさ」が違和感無く生きている印象です。
次回も楽しみに待ってます、というか今一番楽しみにしているシリーズモノかもしれません。
47.100名前が無い程度の能力削除
キュンキュンしてきましたね、続きを読む!
49.100名前が無い程度の能力削除
うどみょん連載に見事に引きずり込まれているんだが、氏のルナ大はどこに行けば見れるんだ?!
ところで藍さまマジ男前。
そして妖夢は騎士属性があるから、鈴仙と分かり合う時のセリフが本当に映えるなあ。
ちょっともらい泣きしてしまいました。