その日も、店内に吹き荒ぶ烈風で目が覚めた。
香霖堂内を縦横無尽に目まぐるしく吹き交う風。次第にそれらは折り畳まれるように収縮していき、終いには新聞紙の形となる。
毎度々々の事だが、配達の度に店内に埃の雪が舞うのはどうにかならないのか。まぁこれは掃除を滅多にしない僕にも責任がありそうなので今は良いとしよう。それよりも今日の新聞は、と。
僕は新聞を手に取り、紙面を視線でざっと舐め取る。その一面に大きく踊るのは『体長十尺の人面魚が捕獲!』の文字。
フムン。この場合人面魚は捕獲者なのか、被獲者なのか。十尺ほどの人面魚ともなれば、そこらの妖精くらいなら悠々捕らえる事が出来るだろう。
珍しく興味を引かれる記事に出会った僕は、詳細を知ろうと新聞を大きく広げる。が、しかしそこで中の文字達は風になり、自由気ままに飛んで行ってしまった。
しまった、まだ印刷が乾いてなかったか。これでは人面魚の詳細を知る事が出来ない。やれやれだ。
仕方が無いので、僕は新聞紙になってしまった新聞を丁寧に折り畳み、古紙の束の上に重ねておく。
そろそろ古紙も貯まってきた。いいかげん処理の方法を考えなければ。
そうだな、大きな鳥でも折って外に置いておくか。出来が良ければどこかに飛んで行ってくれるかもしれない。天狗への話題提供になる事も考えれば、一石二鳥と言えるだろう。
読めそうで読めない、少し読めた新聞のおかげで目も冴えてしまった事なので、気分転換に一旦外の空気を吸おうかと思い、僕は店外へと出る。
今日も幻想郷は良い天気だ。
その証拠に空を見上げると、西と東から昇った二つの大きな太陽が地表を燦々と照らしている。
大方、どちらか一つは話に聞いた地獄鴉辺りの仕業だろう。自らの力を見せびらかしでもしたいのだろうか。
それにしても二つも太陽が昇っていたら、向日葵辺りはさぞかし難儀しているだろう。
何でも、外の世界に咲いている向日葵は太陽に向かって伸びるのは若いうちのみで、大輪の花を咲かせた後は太陽に興味を持つのを止めてしまうらしい。
しかし幻想郷に咲いている向日葵は外のものとは異なり、いつまでも動く太陽を睨み続ける。僕の予想では育てている者が者だけに、そんないつまでも反骨心を失わない向日葵が育つのではないかと密かに睨んでいる。
それでも、二つも見詰めるべき相手が居ればいくら反骨心に満ちた向日葵といえど、どっちの太陽を眼で追って良いか判らず、終いには骨が折れるのではないか。それとも年中太陽を見詰めている向日葵には、真偽を見抜く眼力が備わっていたりするのだろうか。
まぁ、どちらの太陽が本物であろうと僕にはあまり関係のない話ではある。外に出て日の光の下で元気にはしゃぎ回るなんて真似、僕には到底する気がないからだ。僕の興味を引く事物は、どちらかと言えば日の光も届かぬ鬱蒼とした場所にあるだろうし。
二倍の太陽で光は十二分に浴びた事だし、僕は鬱蒼とした店内へと戻るとする。
店内に戻ると、僕は窓際に置いてある水槽へと近づく。水槽の中では、僕が飼っている『右腕』が水に揺られて漂っている。血も通っていないような白い腕が揺れるその様子は、どこか艶めかしい。
これはこの間散歩に出かけた際に木の根元で見付けたもので、最初は根っこと見間違わんばかりにカラカラに干涸らびてた。
捨てる神あれば拾う神あり。八百万も席があれば一つくらい僕が座っても良いだろう。そんな訳で僕は神になる為にその腕を持ち帰り、取り敢えず手頃な容器として水槽に入れておいた。
すると、何やら小刻みに動いて自分が生きている事を主張し始めたので、ならばと僕が飼う次第になった訳だ。
それからはまぁ、水を湛えた容器に入れてやる事で一応の腕としての姿を徐々に取り戻し、今に至る。
僕が近付いた事を指先辺りで感じたのか右手が寄ってきたので、ならばと餌を放り入れてやる。今日の餌は先程積み上げた古紙を一枚、小さく細切れにして与えた。そうすると右腕は器用に紙片を摘み上げ、その掌へと握り込む。暫く後、その手を広げると最早そこに切れ端の姿はない。
この辺りの消化がどうなっているのかは僕にも判らない。一度彼(彼女?)と握手でもしてみれば判るかもしれないが、生憎それをしてみる気にはなれない。
さて、ペットに餌もあげた事だし店を開ける準備をするか。と言っても特別な事は何もなく、ただ表に掛かっている文字を『閉』から『開』へと変えるだけなのだが。
僕は手早く開店準備をすると、番台へと座り込み客が訪れるのを待ち続ける。さて、今日はどのような客が、どのような品を求め、どのように来店するだろうか。
因みに今までの僕の経験で一番衝撃を受けた来店は、やはり丸焦げになった死体が店先へと飛び込んできた事だろうか。
死体が来店した事はもちろん驚きではあった。しかしそれ以上に驚いたのは、そのどう贔屓目に見ても死んでいる身体が暫くすると起き上がり、まるで時間が未来から過去へと巻き戻るかのように、生きた人としての姿を取り戻していった事だ。ややあって死体は死体としての姿を完璧に捨て去ると、何も告げずに外へと飛んで行ってしまった。
あの光景を見るに、どうやらこの幻想郷では時間ですら不可逆ではないようだ。その内僕が過去に行く事も出来るかもしれない。そういう意味で、あの来店が僕の店主人生の中で最も衝撃を受けたものだった。
客を待つ事数刻。店の中には静寂という音が満ちている。それに重なって聞こえるのは、水槽の中に居る右手が奏でる僅かなさざ波の音だけ。僕の意識はそれに伴い徐々に船を漕ぎ始めた……
気が付くと僕は、川の上で船を漕ぐ船頭となっていた。川とは言ったものの、四方どこを向いても岸が見えない。もしやこれは噂に聞く海というものだろうか。
取り敢えず僕は、どこへ行くとも判らずただ船を漕ぐ事にした。大方これは、店で船を漕いでいる僕が見ている夢だろう。だとしたら夢の中で位いつもとは違う事、差し当たっては運動をしておこうと言う訳だ。
無心で櫂をこぎ続ける事暫し。そろそろ腕が疲れてきて、こんな事なら右腕を連れてきて手伝わせれば楽だったか、などと考え始めた頃、何処からとも知らず現れた女性が僕へと話しかけてきた。
「あぁ、兄さんは偶さかこっちに飛び込んで来たみたいだねぇ。居るんだよねー時々。浮っついた突飛な思想を重ねるうちに魂だけ飛ばしちゃう奴が。
ま、とにかくその船の行き先を決めるのはあたいの役目。確かにあんたに任せてサボるのも吝かじゃないんだが、生憎と適度に真面目に仕事をこなさにゃ飯も食えぬこの世の中だ、変わって貰おうかい」
突然現れた彼女は、突然そう捲し立てると有無を言わさず僕から櫂を引ったくる。
「で、お兄さんはどうするね。このままあたいと一緒に向こう岸まで洒落込むかい?」
フムン。確かに自分で船を漕ぐのは飽き飽きしたので、彼女が漕いでくれるというのならば是非もない。この船がどこに行き着くのかも興味がある。
しかしただじっと座して待っているのでは、いつも行っている事と大差がないではないか。折角の夢、それでは面白くない。
そんな訳で僕は彼女の誘いを丁重に辞退し、夢から覚めるのであった。
目覚めてみれば僕は船を漕ぎ始めた時と同じように、番台へと座っていた。窓からは西日がその橙の影を落としており、ずいぶんな時間が経っている事を僕に知らせる。尤も、西日は朝も差していた訳だが。
何やら妙な違和感を覚えたので自分の身体をよく見てみると、僕の右腕が綺麗に無くなっていた。
僕の右腕と言っても僕が飼っている右腕の事ではない。僕が本来生まれついて持っていた右腕の方だ。
どうやら死んだように眠る僕をみて、商品と勘違いして持っていたようだ。その証拠に僕の目の前にある机の上には、金子が堆い塔を形成している。これが僕の右腕のお代という訳だ。
それにしてもこれだけの量の金子。これはここ一ヶ月の香霖堂の売り上げに、一を足して千を掛けた位のものだ。何故一を足したのかというと、そうでもしないと例え那由他ほど大きな数を掛けた所で、結局は零に収束してしまうからだ。
しかし僕に思わぬ価値が付いたのは良いのだが、これでは少々不便だ。右腕がなければ本の頁を捲るのでさえ億劫になる。
さて、どうしたものか……
その時、思い悩む僕の目線と、水槽の右腕の目線が交差した。少なくとも僕にはそう思えた。
なるほど、これで両者の足りない部分は一致。恐らく互いの思惑も一致しているだろう。
どちらが身体の所有権を得るのかに少し不安はあるが、まぁ元の体積の大きさから言って恐らく僕が勝つだろう。
万が一負けたとしても、右腕は僕に拾われたという恩があるはず。それほど僕という存在を無下にはしないだろう。全くの希望的観測だが。
僕は右腕に近付くと水槽に左腕を突っ込み、右腕を持ち上げる。水の温度は思いの外冷たく、心地良かった。もしかしたらこの右腕は冷血動物の腕だったのかもしれない。これからは温血に慣れて貰えないと困るが。
右腕のすべすべとした断面を、同じくすべすべとした僕の右腕跡地へと近づける。
そう言えばどうして僕の右腕から血は流れていないのだろう。余りに見事に斬られた為、断面が血を流すのを忘れているのだろうか。だとしたらこの事実に気が付いたのは少し危険かもしれない。
僕は断面が血を吹き出すのを思い出さないうちに、急いで断面同士をくっつける。
すると何故か、細く嫋やかな指で皮膚を撫でられるような感触が僕の脳髄へと走ってくる。指が生えているのは腕の逆側だというのに奇妙な感覚だ。
しかし、その奇妙な感覚も数瞬すると収まり、誰とも知らぬ右腕は名実共に僕の右腕へと収まった。
今はまだ元の腕が細かった為に接合部に妙な凹凸があるが、これは時間が解決してくれるのではないかと思う。
新しい右腕の具合を試す為に、掌を握ってみたり開いてみたりを繰り返してみる。うん、これは問題なし。
それではと道具を持ってみようとしたのだが、どうやら僕の意志が上手く右腕に伝わらず、今の状態では箸より重いものは持てなさそうだ。この辺りは馴染むまでの問題だろう。まぁ、本の頁を捲るには問題がないから良いとする。
さて、右腕と遊んでいるうちにとっぷりと日が暮れてしまった。空が暗い所を見るに、あの鴉ももう寝床に帰ったのだろう。
僕もそろそろ寝床に付くとしよう。あぁ、今日も色々と事はあったが、別段取り立てて特筆する事もない、いつもとさほど変わらぬ一日だった。きっと、明日からもそうなんだろう。そんな何でもない日々に、僕はそれなりに満足はしているのだから充分と言うものだ。
その言葉の通り、それからも僕の日常はさしたる彩りを見せなかった。
時々玄関も開けずに来店する客が居たり、店の品物が勝手にどこかに行く事はあったのだが、これはまぁいつも通りの事。
時々右腕が僕の意図せぬ動きをしているような気もするが、これもまぁ、気にする事ではないのだろう。身体が意図に反して動くなんて、反射行動というものを省みればいくらでも説明が付く。
右腕の凹凸が少しずつ僕の領域へと近づいているように思えるのも、気のせいというものだろう。前にも言ったが、時間が解決してくれるさ。きっと。
自分の生活が不安になりました。
世にも奇妙な物語感。
腕くっつけるとかDIOかw
明日は来るんですね。
あと誤字で
>しかし幻想郷に咲いている太陽は外のものとは異なり、…
太陽ではなく向日葵じゃないのですか?
傍から見たら明らかに狂気の世界なのに、本人にとってはこれが正常だというのが恐ろしい
やっぱり奇妙な話です。そして素晴らしく面白い
面白かったです
ともすれば不安定になりそうな描写ながらもスラスラと読めて、
言葉にし難い感覚が今も残っていてゾクゾクしてますw
その凸凹感が、だんだんそーなのかーで納得しちゃうようなこの感じ! きめぇ!!!
奇妙奇天烈な世界ですが、これが日常であるとわかるのは何故なんでしょうね。
川端康成の
ま、よんでくれりゃわかる