Coolier - 新生・東方創想話

愉快な藍ちゃんとおっかない紫様の陰謀に立ち向かう我らが橙の話(下)

2010/08/13 23:15:22
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 そうして吾輩は、阿求とやらの屋敷を目指し、とことこと歩いていた。天上の日はいよいよ威力を増していき、吾輩の真上から容赦なく後頭を焼く。自慢の二股の尻尾も今はだらしなく左右に揺れ、それに釣られたか川沿いの柳もついでに揺れる。さわさわ、さわさわ。そんな呆れるくらい暢気な夏の午後。吾輩はひたすらに歩を進める。
 湖の港から川を遡り順当に進んでいくと、多くの人々や店が集う町の中心部に辿り着く。町には多くの人妖が集まり、せこせこと歩く人々の群は見ていて滑稽だが、大抵の物は揃う便利な場所でもある。阿求の屋敷はこの区画にあるらしい。そして、それを目指して歩みを進めて居たのだが、吾輩はその前に、町外れの公園に小さな神社を見つけた。
 丁度良い。喉が渇いていた所だ。吾輩はさっそく神の恵みを頂こうと手水舎を覗くが、しかし水は全て干上がっていた。おのれ夏め。神罰が下ればよい。吾輩は激しく憤慨しながらも、ならば少しの間の休憩だけでも貰おうと拝殿の方を見やる。吾輩はそこに奇妙を発見したのだ。
 神社は両脇を民家に囲まれており、その姿から威厳など微塵も感じない。むしろ、両サイドの圧迫から息苦しそうで、見ていて哀れですらある。横で一人静かに揺れるブランコと同等の存在感しか保っていない神社だが、それでも拝殿の前に置かれた賽銭箱だけは立派なものだった。大方拝殿の長さの半分程のスペースを閉めるだろう巨大な箱が、参拝者の訪れを今か今かと待ち構えている。成程、これを見てしまえば、大抵の者は素通りなど出来ないだろう。神に導かれるままに財布の口を開くに決まっている。しかし、そんな寂れた神社の唯一の尊厳の前に、怪しげに揺れる不可解なケツがあった。
 ……ああ、ケツである。見事にケツである。荘厳にして勇壮なる鬼子母神(きしもじん)が如き慈愛に満ちたケツ。しかして、「奉献」の文字を両断して、神々の視界を遮る不遜極まる不敬なケツ。ケツは何やらごそごそと怪しげな動作を繰り返し、時折額に滲む汗を拭いながらも熱心に作業を続けている。吾輩はケツの正体は知っている。霊夢である。いつも見る巫女装束ではなく、平々凡々な私服である。黒のショートパンツに白に花柄のキャミソール、その上から薄いピンクのパーカーを羽織っており、中々動きやすそうなスタイルである。
 そうして我輩、ここに至って奴(きゃつ)の陰謀に気付いた。即ち、奴は犯罪を犯そうとしているのである。まさか自分の所に賽銭が入らぬからといって、余所様の賽銭箱を漁るとは。博麗の名も堕ちたものである。ついに霊夢は、生活苦のあまり犯罪にまで手を染めてしまったのか。清廉であるはずの巫女を窃盗犯にまで追い込んだ現代社会の闇とは一体……。
 憐れである。その時我輩は、行き場の無い無情感に襲われたのであった。
「賽銭ドロボー……」
「そんな訳無いでしょーが。気付いてたんだからね。さっきからそこに立ってたの」
 と、霊夢はせっかくの吾輩の慈悲を途中で打ち切ると、こちらに振りかえり何食わぬ顔で言った。最近の泥棒は態度がでかい。
「お賽銭箱、漁ってたじゃん」
「お手入れしてたの。この神社、いつもは無人だからね。たまには綺麗にしとかないと神様がそっぽ向いちゃう」
「どうせ誰も来ないでしょ」
「失礼な。ほら、鳥居の上。小石がいっぱい乗っているでしょ。人が来ている証拠」
 何が嬉しいのか、少々自慢げに吾輩の背後を指さす霊夢。見ると、霊夢が指さす石の鳥居の上には、下から放り投げたのだろう大小様々な小石が乗っていた。何でも、投げた石が鳥居に上手く乗れば願いが叶うそうだ。田舎の神社ではよく見かける光景である。
「でも、霊夢はいいの? 神罰当たらない?」
「……まあ、私もやってたし。町で一番の腕だったし」
 成程。巫女様のお墨付きなら問題無いのだろう。
 それからも霊夢は、はたきをを持って拝殿の掃除を始めた。自分の所の神社で箒持ってぼけっとしているのは見たことがあるが、余所の神社も手入れしている霊夢は初めて見る。そんなに一生懸命にしなくてもいいだろう。しかし、話しかけてもろくな返事は無かった。はたきを持った霊夢の額には、やはり汗が滲んでいた。
「……ちぇっ」
 何か詰まらない気分になった。どうやら今日は調子が悪いらしい。吾輩は近くの岩に腰かけ、頬杖付きながら霊夢の姿を見ていた。暑い夏である。しかし、その間、霊夢は一言も愚痴を言わなかった。
 とうとう手持無沙汰になった吾輩は、辺りを探索してみる事にした。とは言っても狭い神社だ。ブランコぐらいしかないが、……などと思っていると隅の方に極めて消極的な石碑があるのに気付いた。石碑にミミズが這ったような文字で何かが書かれてある。
「……御祭神、紅霧姫命(アカノキリノヒメノミコト)様、か」
 ほうほう。これは大層な名前だ。どうやらこの御方がこの神社の祭神様のようだ。紅魔湖の霧を司っているらしい。因みに紅霧異変は最近の事である。その遥か昔から異変を感知していたかのような名前だが、しかしここに、分かりやすく且つありそうな名前という筆者の苦労が伺い知れる。
 この神様は霧だけでなく航海の神様でもあるらしく、漁業を営む漁師たちからは深く信仰されているそうだ。その信仰度合は、漁民からは親しみを持って「こーむ様」と呼ばれてる点でも分かる。名前が変わっている。さらに、豊漁祭で博麗神社から御輿が降りるときは、町中をぐるりと回ってこの神社を中心に盛大な宴を催すらしい。霊夢の言うとおり、中々愛着を持たれている様だった。
 そうして、そんな文化探究にも飽きて、また霊夢の方を見やるが、まだ霊夢は神社の清掃を続けていた。黙々と、こちらにを見向きもしない。いよいよ退屈になった我輩は、阿求の元に向かうべく、その所在について霊夢に聞いてみた。
「え? 稗田の家? もっと町中の方よ。大通りの酒屋の近く、十字路の向こうに大きなお屋敷があるでしょ。あれが稗田家のお屋敷。目立つから行けばすぐ分かるよ」
 吾輩は脳内の地図にて早速検索をかける。十字路の向こうに、お化け屋敷と呼ばれるお屋敷がある事を思い出した。これで一先ず行き先は分かった。
「ありがと霊夢。それじゃあ行ってみ……」
「あ。霊夢ねーちゃんだ」
「霊夢ねーちゃん。ゲーム教えて!」
 不意に発せられた元気な声に、不覚にも吾輩は一瞬だけ思考が停止する。何かと思えば、霊夢に向かって寺子屋帰りと思われる四,五人のキッズ達が集まって来た。
「わわ。ちょっと引っ張んないでってば」
「ねぇねぇ、霊夢姉ちゃん。髪編んで!」
「霊夢ー。ゲーム教えてくれよー」
「はいはい、今掃除してるから少し待ちなさい……って誰だ! 今私のこと呼び捨てにしたでしょ!」
「わーい、霊夢が怒ったー」
「こら待て。お前か。ちょっと待ちなさいってば」
 境内に中をキッズ達と霊夢が駆けていく。霊夢は子供に人気らしい。子供は楽しそうにはしゃぐ。その何人かは、吾輩の前を通り過ぎていくが、しかし誰も吾輩を気に留める者は居なかった。
「こら、待てってば! ……あれ? そういや橙は?」
 周囲を見回す霊夢の声に、しかし誰の返事も無い。我輩はまさに猫のように、音もなくその場から姿を眩ましたのだった。





 稗田の家は、霊夢に言われたとおりの場所にあった。確かに巨大な屋敷である。木造平屋で横に長く、風貌は古さというより厳めしい印象を与える。屋敷を囲む塀も高い。ついでに言えば長い。我輩、壁を伝ってぐるりと回ってみたが、入り口がどこだか分からなんだ。そもそもこれが個人の邸宅であるということすら、近くを通る人間に聞かなければ理解に至れなかったのである。塀の向こうには背の高い竹が覗き、ある種、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。しかし、やはり人は居るようで、時折、何かしら話す声が聞こえてきた。
 吾輩は考えてみる。吾輩は言わば猫の王様。そして猫とは人知れず忍び込んでくるものだ。犬如きの様に無暗やたらと吠えたりはしない。もっとスマートに事を成す至高の芸術家である。決心した吾輩は、さっと塀の上によじ登る。気づく者は誰も居ない。ソリッド・スネークばりの潜入術を駆使して屋敷の中に侵入する。
 邸内は流石に広く、二、三、人を見かけたが、吾輩に気付く者はいない。当然だ。猫の足はあれでも無きが如し。どこを歩いても不器用な音のした試しが無い。吾輩は、自由奔放、傍若無人といった体で、屋敷の中を探索を始めたのだった。
 聞くところによると、阿求というお嬢さんは、自室にいることが多いようだ。ほぼ毎日部屋に籠って書を記しているらしい。何でもこの阿求という者、屋敷に人を招いては「幻想郷縁起」なるものに書き記しているとのこと。果たしてどういう意味があるかは知れんが、それでも相当な年月に渡り続けているそうだ。無論、阿求は人間である。人間には寿命の壁が存在する。故に、転生の術だか何だかを使い、今の代まで同じ人物が稗田の当主を引き継いでいるという事になっている。怪しいものだ。事実かどうかも分からん。転生は人の腹から生まれ、さらに記憶も無くすというから、真実であると言い切れる者は誰もいない。何とも不毛な話である。そもそも縁起にて記すならば転生の必要も無かろうに。見るも聞くも全部書いてしまえば済む話である。
 そこで我輩推理するに、恐らくこれは、代々の人間に縁起の編纂を強要する為の、云わば名目の様なものでは無かろうか。何代先も同じような職を継げる人間が出るとは考えにくい。そこで、周りの人間が一計働かせ、事実無根のお伽噺を広めていったのではなかろうか。さすがに自分が決めた事ではないかと迫られると、ノーとは言い難い。
 ……おお、何と哀れな人間であろうか。生まれた瞬間に自由を奪われるとは。この我輩に通じるものがあるのではあるまいか。我輩、他人の気がしなかったのである。
 無駄に長い廊下を慎重に歩み進める。庇(ひさし)のある縁側の廊下から見える庭は広く、よく整備された日本庭園といった風だ。庭には小山があり、池があり、緩急に富んだ詫び寂びの世界がある。ついでい覗くと池の中は鯉が泳いでいた。……ああ、いかん。涎がでる。このまま任務を放棄して、愉快な鯉の踊り食いといこうか。などと内なる己の声と葛藤していると、少し先の障子の裏で、人の話す声がした。我輩はそっと耳を当ててみる。
「――ああ。お待ち下さい阿求様。何処へ行こうというのです」
「えーい、黙れ黙れ。私は町に出るんだ。こう毎日々々部屋に閉じこもって居たのでは、気が狂ってしまうわ」
「しかし……」
「しかしも案山子もあるかっ。出ると言ったら出る。皆にもそう伝えておけ」
 ……ふむ。喧嘩である。何やら言い争いが聞こえるな。中年の女の声と、まだあどけなさが残る若い娘の声と。察するに怒鳴っている方が噂のお嬢さんといったところか。いやはや勇ましいお嬢さんもあったものである。メタルギアをも素手で倒しそうな勢いである。
 しかし、何だ。面白い。いい加減に我輩の興味をそそる展開となっている。こうでなくては潜入捜査は詰まらんと言うもの。我輩は己が欲の赴くままに、より一層聞き耳を立てる。
「婆様は大層ご立腹です。阿求様はもう少しご自分の立場というものを……」
「知らん知らん。ババアの機嫌などを気にして家を出られるものか。そんなに書きたければ奴が書けばいいんだ。とにかく私は町に出るぞ」
「何故今日になって町に出ようなどと言うのです。先日までは編纂に精を出していたではありませんか」
「今までは我慢してきたんだっ。いいか。私は何かに縛られた生などまっぴら御免だ。やりたい事をやって、やりたいように生きる。自由に生きると決めたんだ」
 ……ほう。やはり我輩の見込んだ通りの人物であった。分かる、分かるぞ、その気持ち。我輩はまだ見ぬ阿求殿の決意に、共感の念に絶えないのである。壁の向こうは更に続ける。
「なあ、これは必要な事なのか? 本当に、自分の一生を棒に振ってまですべき事なのか? 私には私が転生する以前の事は分からん。無いも同じだ。過去の私がどうだったかは知らんが、今の私はこの私だけだ。なのにお前たちは、私の一生を縁起の編纂に強いる。転生の為に私の寿命は削り取られていると言うのに、さらにその限られた時間でさえ、私に自由を与えてくれない。私には“この時”しか無いんだぞ?」
 そうして阿求は畳みかけるように言う。素晴らしい。いいぞ、もっとやれ。我輩は心の中で盛大な喝采を送る。
「何の意味があると言うんだ、こんなもの。確かに過去は戦争の時代だった。敵である妖怪の情報は、生き延びる為に必要だったかも知れん。だが今はどうだ? 相手の事が知りたければ直接聞けばいい。そういう時代になったんだ。もう既に価値を失っている」
「それでも……」
「最早、時代遅れの過去の遺物だ。私はそんな物の為に、自分の一生を捨てるつもりは無い。続けたければお前たちだけでやればいい」
 阿求は、これで終いだと言わんばかりに、その女に言い切った。小気味の良い展開だ。そうだ、自由を犠牲にしてまで続ける必用はない。我輩はこの阿求の勇気ある行動に、国民栄誉賞でも送ってやりたい気持ちであった。
「……でも、本気でそう思っているんですか。阿求様」
 不意に女が問う。阿求と話していた、恐らく使用人だろう女は、苦しげにそう呟いた。その女の問いに、しかし今まで攻勢だった阿求は、何も答えなかった。
「確かにもう必要無いのかもしれません。誰も求めていないのかも知れません。でも、貴女がそれを言ってはいけません。口にしてはなりません。だって、貴女にまでそんな事を言われたら、私たちは一体どこに行けばいいと言うのですか」
 しかし、阿求は依然として答えない。何故だ。いくらでも言い返せそうなのに。その事態に我輩は、正体不明の焦りを全身で感じていた。何故かは分からない。阿求の答えを切に願う。だが、やはり阿求は沈黙を保ち続けた。
「私たちの一族は、代々あなた様に仕えてきました。あなたの思い描く理想に共感し、共に追いかけていこうと思ったから、是非そうしたのです。それは今の私も変わりません。ですが、貴女にそれを否定されては、私たちはもう存在出来なくなってしまいます」
「……頼む。言うな」
「いいえ、そうはいきません。阿求様、私たちは、お互いに切ってしまうには、あまりに歴史を重ね過ぎました。もう私たちには、恐らく貴方にも、ここにしか居場所は無いのです。辛い事とは存じます。ですが私は、貴女にここで終えて欲しくはありません」
 女の声は震えていた。阿求の声も震えていた。吾輩の体も震えていた。もう何が何だか分からなくなっていた。
「本当に申し訳ありません、阿求様。あなたにばかり重荷を背負わせてしまって。ですが、ならばこそ私ども一同は、貴女の為に何でもする所存でございます。もし私に死ねと仰せならば、直ぐ様小刀でも持ってこの喉を裂いて見せましょう。私たちはその為に、その為だけに存在しているのですから……」
 女が言い終わり、急に周囲から音が無くなった。阿求は何も言わない。我輩も、思考を停止していた。ごくりと唾を飲む。痛いような静寂が包む。暫くすると、庭の鹿脅しが傾き、コツンッという音が辺りに響いていった。阿求はようやく答えを返した。
「……ちっ。あーあ、悪かった。冗談だ。ただの遊びだ。からかって済まんかった。本気で出ていこうなどとは思っておらんわ」
「……阿求様」
「心配したか? ならば安心せい。自分の成すべき事。私はちゃんと分かっておるわ。だから、そんな悲しいことは言わんでくれ。私はお前に死んで欲しいなど、そんなことを思ったことは一度もないぞ?」
 阿求は努めて明るい風を装っていた。無理をしている。見ずとも分かる。声が震えている。それでも、張り詰めていた緊張の糸は、ゆっくりと解れていった。
「……はい。分かっております。阿求様はお優しい。お優しすぎる。今度、婆様に外出の相談してみます。一人では駄目でも、私が共をすると言えば、もしかして考えて下さるかもしれません」
「……そうだな。今度は二人で茶菓子でも食べに行こう。話に聞いたことがあるんだ。評判の団子屋が近くに出来たらしい。きっと美味いはずだ。そうだろう?」
「ええ。阿求様となら、きっと美味しいで御座いましょう」
 我輩は既に障子から耳を離していた。もうここには居られない。ゆっくりと踵(きびす)を返し、塀の方に向かって歩く。池の鯉は、ただこちらを見ていた。
「……人には、各々に役割がある。私には私の。お前にはお前の。せめて、それだけ幸せだと思おう――」
 そうして吾輩は、結局屋敷を出る事にした。





 暗闇が寄せる畦道を、我輩はどこへともなくブラブラと歩いていた。ヒグラシが鳴く。遠くに見える民家の窓には、ぽつぽつと灯りが点り始めた。何だか、ひどく虚しい気持ちがした。
 誰も居ないところに行きたかった。人の声が聞こえない所に行きたかった。でも、どうやっても声は無くならず、ずっと内側から聞こえていた。気持ちが落ち着かない。今度は、ムシャクシャした気分になった。
 道端の小石を蹴った。しかしその石は、吾輩の足をすり抜けて飛ばされることを拒んだ。空を切ったその足は、ぴんと伸びたまま少し痛かった。
 本当、面白くない。
「……ちぇっ。何だよ、みんなして」
 思い返すと、今日はろくな事がない。全部が全部、不愉快な方向へ進んでいるように思った。ルーミアも、霊夢も、阿求も。直接何かを言った訳でもないのに、みんなして吾輩を責めているように感じられた。見えない何かに追われているような気がする。吾輩は、一体何を目指して家を飛び出したのだろう。そんなことも、よく分からなくなっていた。
 ――みんな藍さまが悪いんだ。
 一人ごちる。だがその声も、吾輩の耳にはやはり虚しく聞こえていた。どうしようもない苛立ちを隠せない。立ち止まって空を見上げると、すでに日は落ちて、星々が空一面に散りばめられていた。こんなに綺麗な空なのに、その眩しさは自分とはかけ離れて見えて、吾輩は空に向かって溜息を吐いた。
 もういい。もう面倒くさいや。吾輩はどうでも良くなってまた歩き出した。次の間、自分の後ろに誰かが立っている事に気付いて、すぐに立ち止まった。
「お前、八雲の所の猫だな」
 不快を煽るその声に振り返り、吾輩は相手を見定めるべく注視する。八雲の名を知ってなお我輩を呼び止める身の程知らずは誰だ。しかし、そこに居たのは、見るからにレベルの低そうな二人組の妖怪だった。人の形を保っていない。犬だか熊だか、畜生にそのまま人型を取らせたような、そんな奴らだった。
「……何さ。あんたら。あたしとやろうっての?」
「威勢だけは良いみたいだな。だがその通り。八雲の手の者を倒したとなれば俺たちの名が上がる。ちょいと遊んで貰うぜ?」
 どうやらこの二人組は、本気で身の程を知らんらしい。吾輩はとりあえず構えだけとって、相手の出方を窺ってみる。
「いいよ。かかって来なよ。ちょうどムシャクシャしてたんだ。暇つぶしに遊んであげる」
「……ハッ、本当に良い度胸だ。後で泣きを見ても知らねえぞ?」
 そうして、二匹の内の片方が視線で合図を送り、もう片方が吾輩に向かって一歩進み出てきた。奴はぶんぶんと腕を回して勢いを付けると、思い切り腕を振り上げてこちらに突進してくる。奇妙な雄叫びを上げて巨体が動いた。
 ……なんとまあ、間抜けな奴である。これでは猪と同じだ。相手の心を読むサトリの妖怪でなくても、手に取るように動きが読める。吾輩は一連の動作を、実に冷めた目で見ていた。
 奴の巨体が目前に迫った。些かの恐怖も無い。吾輩は、奴の愚鈍なる拳が届くか否かの段になって、体の向きをほんの少しだけ反らしただけで、これを躱(かわ)して見せた。すると、目標を失った奴の拳は、無様に空を切り、バランスを崩した巨体が前のめりになって倒れていった。
「ぐはっ、テメエよくも……」
「何言ってんの。自爆でしょ。しっかりしてよね〜」
 あまりに見事な倒れっぷりに、我輩、若干の感動を覚えつつも、しかし、背を向けて伏せた哀れな一匹に、止めの蹴りは忘れなかった。横腹に入った我輩の御み足は、奴の肋骨を砕き、臓腑に深い衝撃を与えた。戦意を根こそぎ奪い去られた奴は、一度痙攣したかと思うと、電池切れの玩具ようにぴたりと動かなくなった。
「弱っいの。あたしとやるには千年早かったんじゃない?」
 なんと他愛もない。ただの雑魚である。時間の無駄であったか。吾輩は残った片方を見る。すると、この吾輩に怯えているのか、奴の体は小刻みに震えていた。関係ない。さて、残飯処理だ。
「アンタはもう少し楽しませてくれると嬉しいなあ。こんなんじゃ憂さ晴らしにもならないよ」
 吾輩は嗜虐的な笑みを浮かべながら、残った一匹に近付く。気分が高揚しているのが分かった。一歩近付く度に、奴が後ろに一歩下がる。愉快だ。とても愉快だった。
「さあ、どうしてやろうか」
「……へっ、間抜けな奴だ。まだ罠にかかったことに気が付かねえのか?」
「――え?」
 瞬間、後頭部に鈍い痛みを感じた。視界が揺らぎ、吾輩の体はゆっくりと倒れていく。 
「な、に……?」
 分からない。自分の状況が理解できない。何がどうなった? 何も分からないが、とにかく頭がくらくらして痛かった。
 視界がようやく晴れてきた。顔を上げて見れば、同じ顔が三匹いるのが分かった。一匹増えている。まさか、初めの奴は隙を作るための囮か。同じ顔はさらに増えていく。ついに吾輩は、五匹の妖怪によって完全に囲まれていた。
「くそうっ、卑怯だぞ!」
「バーカ。八雲絡みを相手に、まともにぶつかる気はねーよ。だが、もうこれで勝負は決まったな」
「どうする? あいつ、痛め付けてやれとしか言って無かったけど」
「何言ってやがる。構うもんか。やっちまぞ」
「あったり前だ。俺は肋骨やられてんぜ?」
 同じ顔が口々に言う。どうやら吾輩の処理を巡っての論戦らしい。風向きは悪い。ぼうっとしながらそれを聞いていると、突然吾輩の上を影が覆った。先程吾輩が倒した筈の者が、横腹を抑えながら吾輩を見降ろしている。すると――瞬間、腹部を強烈な痛みが襲った。痛い。吐きそうだった。しかし痛みが引く前に代わる代わる足が入る。どこをどう蹴られたのかさえ、もう理解出来なくなっていた。
「へへ、もういだろう」
 誰ともなしにそう言うと、今まで静観していた一匹が、へらへら笑いながら近付いてくる。酷く濁った嫌な眼をしている。吾輩はそいつの目を知っていた。あれは、人を殺すことに何の躊躇いも覚えない者の目だ。
 奴は懐から細長い棒を取り出す。長さは一尺ほど。それを吾輩に見せつけるようにそれ抜き放つと、中からは鈍く銀色に光る物体が出てきた。暗い視界の中でそれだけが妖しく煌めく。奴は、ドスを逆手に持ったまま笑っていた。
「嫌だ。そんなの、止めてよっ」
「悪いな。恨むんなら自分の無力を恨め。……あばよクソ猫」
 ニヤリと口が裂けた。そうして奴は、吾輩が逃げる隙を与えないまま、その刀を思い切り降り下ろしたのだ。
 ――……まさか。こんな所で死ぬとは思わなかった。奴の動きが馬鹿にスローモーションに見える。ゆっくり確実に吾輩は死に向かっている。……アレ、痛いんだろうなぁ。血とか出るんだろうなぁ。嫌だなぁ。
 不意に目の前を金色の尾が横切った気がした。藍さまの尻尾が急に懐かしい。こんなになっちゃったけど、最後にごめんなさいって言いたかったな。それだけ思うと、吾輩は強く目を閉じてしまい、後には何も考えれなくなってしまった。
 ――ごめんなさい。もう、駄目みたい。
 そうして、がきいんという金属音と共に、吾輩の生涯は幕を閉じ……、金属音?
「……嘘。……何で?」
 金色の尾が視界を覆っていた。幻想ではない。確かに吾輩の前で九つの尾が揺れている。目の前の光景が理解できない。ただ、いつかの懐かしい思い出が蘇って来るのが分かった。
「お、お前は!」
「――口を開くな。議論する積りは無い。それとも、自分の声に未練は無いのか?」
 しかし、その藍さまは吾輩の知っている藍さまでは無かった。全身の毛が逆立つような感覚。
 ――化け物。
 絶対的な捕食者。圧倒的に未知なる存在。吾輩はただ恐ろしかった。ただただ恐ろしい。藍さまの尻尾に、吾輩は恐怖していた。
「失せろ。それがお前たちに残された唯一の道だ」
 藍さまは何もせず、ただ睨んでいた。それで十分。終に勝負は決していた。
 空気が薄い。肺が押しつぶされそうで息苦しい。周りを包む大気が怯えている。草むらの虫たちは声を失った。風は止み、森も死んだように息を潜めている。自然は本能で理解しているのだ。今、この場面において、自分たちを支配しているのは誰なのか。誰の掌に乗っているのか。吾輩も、妖怪共も、誰も彼も天秤の行方を見守っていた。
 不意に、その妖気が少しだけ緩んだ。
「うわあああああ、逃げろ! 逃げるぞ!」
「ちくしょう、冗談じゃねえ! 狐が出るなんて聞いてねえぞ!」
「あいつ、ハメやがった! 話が違うじゃねえか!」
 そうして、一斉に解放された恐怖の念は、折角徒党を組んだ妖怪共を一瞬で総崩れにした。妖怪共は散り散りに逃げる。
「逃げろ。逃げるぞ、クソったれ!」
「あ、兄貴ぃ。待ってくれよぅ」
 最早まとまりなど有りはしない。奴らは、てんでバラバラに逃げ、ある者は森の中に、ある者は町の方へ。ついに妖怪共は、吾輩と藍様を残して一人も居なくなった。
「藍さま……」
 吾輩は、藍さまをまじまじと見つめた。藍さまがこんなに凄かったなんて、全然知らなかった。だって、ただの一睨みで妖怪共を追っ払ったのだ。吾輩の心は、ヒーローを見つけた子供のように高揚していた。
「橙……」
 藍さまは吾輩の名を呼んだ。優しい瞳をしている。そうして藍さまは吾輩に――、
「――甘ったれるなよ、橙」
 まるで地の底から響く様な、重い叱責を与えてくれた。
「何て様だ。貴様、それでも私の式か」
「え……?」
「私はこんな弱い式を持った覚えは無いぞ。それとも人違いだったのか?」
 妖怪共を退けた藍さまの一睨みは、今度は吾輩に向けられていた。体は金縛りにあった様に動かない。声も出ない。また息が苦しくなった。
「八雲の名は時に余計な者も引き付ける。だからお前はまだ“橙”のままなんだ」
「……」
 ぽたり。生温いものが頬を伝った。身体の痛みからか、恐怖からか。それは自分の意思とは関係無しに流れてきた。
「ふん。私の式に泣き虫はいらん。そこから先はお前が考えろ」
 そうして藍様は、傷だらけの吾輩を残して去っていく。最後にくれたのは慈しみではなく軽蔑の瞳だった。黄金の尻尾が吾輩を嘲笑している。有頂天から地底の底まで、一気に叩き落されたような気分だった。
「ひっく……うえっ……うわあああん!!」
 そうして声に出して泣いた。泣いて、泣いて、また泣いた。
「痛い、痛いよおおお!!」
 傷が痛む。どこもかしこも皆痛い。痛くて痛くて泣いてしまう。死を感じた恐怖が、今になって蘇ってきた。本当に死ぬかと思った。怖くて怖くて、……でも情けなかった。どうしようもなく馬鹿だったんだ。
 吾輩は、――『私』は弱い。
 分かっていた。分かりきっていた筈だった。八雲の傘を借りて、強くなった積りでいた。でも私は、幼い妖怪猫の時の頃から、何も変わっちゃいなかった。
 私は何時からか努力を放棄した。もう頑張る必要なんか無いと思っていた。十分強いんだと思い込んでいた。でも違った。それを今日思い知った。
 ルーミアが日に日に賢くなっていくのを見て、焦っていた。霊夢の地道な頑張りが皆に認められているのを見て、羨ましかった。阿求の一家を背負う覚悟を見て、敵わないと思った。全て無い物ねだりだ。私が「いらない」と放棄してきた大切なもの。私はようやくその事に気付いた。
「えっぐ、……この、ぢぐじょう!」
 だからこの涙は要らない。こんなの格好悪いだけだ。幼くて情けなくてそして弱くて。こんなものはもう要らない。
 ――足が痛んだ。骨が無事なのかどうかも分からない。気を失いそうな激痛に耐え、私は無理矢理立ち上がった。泣きたくなるほど痛い。でも、このままじゃ終われない。
 もう一度、空を見上げた。綺麗な空だった。私は、その空に向かって言うんだ。
「……おのれクソ狐め。偉そうに言いやがって。見てろよ。八雲の名、絶対に貰ってやるからな!」
 さあ声高に。今は精一杯の強がりを吐こう。せめて、せめて少しでも近づけます様に。

「――私こそ、バリバリ最強ナンバーワンだぁああああああ!!!」

 どこかで鳴いていたフクロウが声に驚き飛び立った。そうして夜は騒々く更けていった。





「ふん、馬鹿が。聞こえているぞ」
 だがそれでいい。泣いて終わるより大分マシだ。八雲の式は、捻くれているくらいが丁度いい。
 深い森の中を狐はゆっくりと歩く。こちらは静かな静かな夜である。フクロウがどこかで鳴いている。木々の合間より覗く空には、綺麗な天の川が流れていた。雲は無い。明日もきっと晴れるだろう。
「紫様。お話があります。どうせ見ておられるのでしょう?」
 突然立ち止まり、藍がそう言うと、まるで予定調和のように、目前の空間に亀裂が走り、中から見知った人物が現れた。八雲紫は楽しげに言う。
「はーい。呼ばれて飛び出てこんばんわー」
 宙に浮かぶ亀裂の中から現れた紫は、上半身だけを出したまま、そのままふよふよと、亀裂ごと藍の顔に近付いた。それを見て顔をしかめる藍とは対照的に、紫は至極ご機嫌の様だった。
「紫様。せめて一言欲しかったですね。もう少しで死んでましたよ、あれ」
「むふふー。何のことかしらー? ゆかりん、分かんないわぁー」
 藍の問いに、紫はわざとらしく答える。その笑顔からは悪かったという気は欠片も感じられない。藍の方も別段気に留めるでもなく、そのまま会話を継続した。
「今回の件、橙には良い薬になったでしょう。お手数をお掛けしました」
「そう。それは頑張ったかいがあったわ。何のことだか分かんないけど」
「なら、そういうことにしておきましょう」
 そうして二人は森の中を行く。藍は跳ねるように軽やかに足を運び、上半身だけの紫も、それを追ってふわふわと亀裂ごと移動する。森の奥、少し開けた場所で藍は立ち止まった。
「紫様。どこまで本気だったんですか? 紫様はあそこで橙が死ぬのを望んでおられたのですか」
 藍は、今までより僅かにトーンを抑えた口調で紫に問うた。まっすぐ見つめる藍を、紫は不敵な笑みを持って返した。
「さあ。何の事だかさっぱりだけど。でも、もし仮にそうだとしたら貴女はどうするの?」
「……私は紫様の式です。主がそう願うのであれば、私はそれに従います」
「そう。良い心がけね。でも安心なさい。私はあの子を嫌ってはいないわ。あの子の耳。触ると気持ちいいのよ」
 紫はその感触を思い出しているのか、まるで夢心地のように言った。それは少しだけ、本当の女神様に見えた。
「……それは、良かったです。本当に良かった」
「ふふふ。藍も橙には随分甘いのね。そんなにあの子のことが可愛いのかしら」
「いえ、私は別に、橙を甘やかす気などありませんよ。切るとなれば直ぐに切ります。今回だって、尻尾の一本や二本は持っていってもらって良かったのです。どうせ直ぐに生えてくるんですから」
 藍は先程までとは打って変って、まるで何て事もない様に言う。それはどこから見ても不自然だったし、紫の目にもそう映った。
「あらあら、怖い怖い。でも貴女。……それにしては随分慌てて来たようね?」
 紫は藍の姿をまじまじと眺めてみる。九本の尻尾が揺れている。いつも見る藍の姿だ。ただ、この場においては少々不似合の格好だった。
 紫の見つめる視線の先。そこには――、
 エプロン姿に三角頭巾を被り、片手には何故かおたまを持ったままの藍の姿があった。
「これは、ただのファッションです」
「……さいですか」
「ええ。そうですとも」
 そうして二人はまた歩き出した。藍の顔がやや紅く見えないでも無い。それでも、どこかの木の上でフクロウが鳴き、草むらの虫たちと共に夜は更ける。
 ――今日は、橙に精のつく物を食べさせてやろう。生魚も偶にはいいだろう。
 だが藍には、どうしても言わなければならない事があった。
「ところで、本日は紫様のおかずは有りませんので。そのつもりで」
「え? 嘘。藍ちゃん、そんな……」
「有りませんので」
 藍は済ました顔で、ずんずんと森の奥へと進んでいく。突然の事に紫は大いに困惑していた。
「いやいや、ちょっと待ってよ。うん、悪かった。確かに何の相談もしなかったのは反省している。だから、ねぇ待ってってば!」
「待ちません聞きません知りません」
 紫の悲痛な叫びは、しかしこの森の中では間抜けに響き、藍は浮かれ気分で走り出す。金色の尻尾はゆらゆらと揺れて、藍は、そういえば三人揃っての夕食は久しぶりだと思いだす。
「そんなの酷過ぎるわ。ねえ、藍ちゃんってば!」
「ええい、藍ちゃん言うな!」
「お願い。待ってぇーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」
 ……そうして、紫の声に驚いたフクロウは、やれやれと再び木の上から飛び立っていくのだった。





 ――ところで、聞いた話によると、どうやらその事件から暫くの間、何故かエプロンを着けたままオタマを持った藍の姿が、幻想郷の至る所で見られたという――

読了有り難うございます。

思ったより長くなっちゃいました。
はるかぜ
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コメント



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10.100名前が無い程度の能力削除
中学生年頃の、色々考え始めて葛藤していた時期を思い出しました
ところで、刃物をお玉でパリィしたのか藍様…