Coolier - 新生・東方創想話

阿求の憂鬱

2010/08/02 01:57:03
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 稗田阿求は座敷でその報告を黙って聞いていた。切実な問題であるのだが、解決法が一向に思いつかないのだった。いや、一つの方法は思いついているのだが、それを認めたくないだけだった。
「今度は夏目山房なの? 立川文庫も羽田文庫もやられちゃったし……。口惜しいわ」
「どうなさいます」
「どうもこうもないわ。手の施しようがないのだもの……。それで、里の人間にはどのように知れているの?」
「はい、盗人が入ったと報道するようにと記者に言っています」
「ふうん、どこまで我々の思惑通りに動いてくれるか楽しみね」
「……。これで報告は以上です」
 報告に来た男は終わるとすたすたと部屋を出て行った。阿求はしばらく虚空を眺めていたが、それから立ち上がって自分の書庫に移った。書庫の臭気はなぜこんなにも重く感じるのか阿求には疑問であった。重苦しく、息が詰まりそうだ。いつもそう感じながら棚の間を歩くのだった。或る棚の前で立ち止まって図書の集まりを眺めた。
「こんなこと、誰も知らない方がいい」そう呟いて、しばらくそこに佇んでいた。



 里に行ってみると瓦版が出ており、見出しを見ると『夏目山房に盗賊入る』となっていた。阿求は眉をひそめた。あの状況はどう考えたって盗賊にはなり得ないと心中では思っていたが、そんなことを知る由もない群集がわらわらと集(たか)っていたので口を噤んだ。帰ろうときびすを返すと、じっと阿求を見つめる人型の何かがそこに立っていた。痩せ気味で背の低い男性の風貌だった。阿求は直感的に虫唾が走った。
「何故ここにいる?」
 口調が自然ときつくなる。しかし相手は黙ったまま見つめ続けていた。
「自分の棲み処に帰れ。ここにお前の好物は置いていない」
「わたしはお前に忠告しに来た。忠告する。知らないことは不幸だ。知ることこそ幸福なのだ」
「お前に何が解る。虫風情に大きい顔をしてもらいたくはない」
「いずれわたしはこの里の人間共に事実を告げ知らせる。先の凄惨な戦のことも、この里の血みどろの歴史も」
「知らない方が幸福なこともある」
「ない! 知ることこそ全てだ! 知らなければならないんだ!」
 阿求は口を閉じて相手を睨み付けた。それを見た相手はふらりと雑踏の中に消えていき、後に取り残された阿求は睨み付けたまま立ち尽くしていた。その傍を瓦版を見た帰りの親子が通り過ぎていく。母親の方が「怖いね、盗賊だって」と何気なく子供に言って帰っていくのが聞こえた。地団駄踏んだ。果てしなく強く。
「知らない方が――」
「ご立腹ね」
 突然後ろから声が聞こえた。今日はよく後ろを取られるなぁと我に返りながら振り向くと、そこに八雲紫が立っていた。
「丁度あなたのところに行こうと思っていたところなの。ご一緒してもよろしいかしら?」
 阿求は返事をしたくなかったので黙って頷いた。
 里を歩いていると人々の会話が自然と耳に入ってくる。大抵は頭に止まらずにそのまま流れていくのだが、「夏目山房」とか「強盗」といった言葉だけはしっかり聞き取れてしまうのだった。阿求はそれが嫌でたまらず、しかし意識すればするほどよく聞き取れてしまうという葛藤に苛まれていた。すぐ隣で何かを喋っている紫の言葉は不思議と耳に入らない。紫が何を言っているのか聞こうと意識を向けると嫌悪の対象となる言葉も多少聞き流せるということに気付き、紫の口の動きに意識を集中させた。
「ここまで話したことは理解しているわね?」
 ここから話すことしか理解できないと切り返すことは面倒臭かったので、取り敢えず頷くことにした。
「あら、ちゃんと聞いていたのね。上の空かと思っていたわ。まぁどちらにせよ、今わたしが言っていたようにあなたは動く。それは間違いないことだわ」
「なぜそう言い切れるの?」
「ふふ、やっぱり聞いてなかったのね」
 阿求は狐につままれたような気持ちになった。実際に何を言っていたのか判らないが、紫は何故か満足げな顔をしている。だからこれ以上詮索しないことにした。
「ところであなたうちに何の用があって来るの?」
「お茶でも戴きながら四方山話でもと思って」
「はぁ!?」
 一体どういう風の吹き回しだろうかと思った。いや寧ろ吹き回しなんてどころではない。嵐に違いなかった。明日は針か剣が降ってくるのではないか、そう思った。
「あなた今物凄く失礼なこと考えているわね」
「いや、ごくごく当然のことを――いやいや、そんなことより理由を知りたいわ。そもそも、あなたがうちに四方山話をしにくる理由が見当たらない」
「理由がないから四方山話ではなくて。おあしのことなら相談、人が亡くなれば訃報、と理由があればそれなりの名前が付きますわ」
「いや、そういうことじゃなくって」
「そういうことですわ、ふふふ」
 不気味な笑いに阿求は急に肩が重くなったように感じた。
 阿求の家に着いた二人は座敷に移った。
「で、その四方山話って何?」
「あなた、今救いを求めているわね?」
「……突然ね。質問を質問で返さないでくれる?」
「そして、あなたは孤独に思想活動を続けているわね?」
「だから……何よ……」
「しかもあなたは今回の事件により重要な何かを失おうとしている」
「……」
「漠然とした不安があなたを取り巻いて、それに呑み込まれてしまいそう」
「何よ……」
 阿求は俯いた。手はいつの間にか握りこぶしを作っていた。そして突然頭を上げて叫んだ。
「何が悪いって言うの!?」
「あなたは何も悪くないわ」
「じゃあ犯人が――」
「でも、犯人もきっと悪くないわ。さ、最初から話してくれるかしら?」
 阿求の頭の中では様々なこと――主に不安、憎悪、焦り、怒り、悲しみなどが渦巻いており、事件の概要が上手く口をついて出てこなかった。しかし十分もすると、次第に落ち着いてきて、頭の中がすっきりしてきた。
「事の始まりは先週のこと、わたしのところに報告がきた。羽田文庫の土蔵が紙魚に荒らされたってね。最初は意味が解らなかったけど、現場を見て納得したわ。蔵書が、一冊残らずなくなっていた。辺りに散乱していた紙の切れ端を見てみると、確かに紙魚の食べた跡が見える。でもどんなに発育がいい大きい紙魚でも、蔵一つ分の紙を丸々食べ切れるわけがないじゃない」
「なるほど。しかもそれが一週間のうちに三件も起きたというわけね」
「そう。で、その三箇所の蔵書をそれぞれ調べてみると、ある共通点が出てくるの。それっていうのが『隠蔽された歴史』なわけ。最初は隠蔽工作を手掛ける勢力が紙魚妖怪か何かを雇ってやらせたんだと思ったの。でも違った。まるっきり反対の勢力だったことに今日気付かされた。それも相手側からのアプローチで」
「つまり、真実の歴史を開示しようとする勢力の仕業ということかしら」
「そう。そして既に歴史の大半は盗まれてしまった。しかも解決策は未だなし……」
「それで肝を冷やしているわけね、ふふ」
「笑い事じゃない……」
 紫は目を細くしてしばくら阿求を見つめた。
「それで、隠蔽された歴史が公開されては困るのかしら?」
 阿求は胸が熱くなるのを感じた。
「困る……わ」
「どのように?」
「……」
「言いなさい」
「……言いたくない」
「言葉になさい」
「……」
「言葉は意志の明示よ。投企した言葉は使命が終われば自分へと戻ってくるわ、安心なさい」
「……解らないのよ」
「誰が、何故解らないのかしら?」
 その言葉に阿求はたがが外れたように紫に言葉を叩きつけた。
「大衆は愚劣で何も理解できないのよ!」
 紫はそれを聞くと莞爾として笑った。
「ふふ、よく言えたわね」
 言い終えた阿求は息も荒く、額には汗が滴り、瞳孔が開いたまま一点を見つめ続けていた。それを見て紫は座敷を後にした。



 誰がそうさせたのかは判らないが、阿求はただ何となく寺子屋に来た。中に入ると里の子供たちが熱心に机に向かっていた。各々筆や算盤を手にして自習をしている。どうやら先生は不在のようだ。生徒の一人に訊くと、先生は次の間にいるらしい。襖を開けるとそこには上白沢慧音が頭を掻きながら、書面とにらめっこしていた。
「珍しいお客さんですね。そんなところに突っ立っていないで座ったら如何?」
「いや、ちょっと……ね」
「あら、そういうお話ですか? ちょっと待って下さいね」
 そう言って慧音は立ち上がると、同道するように手で促した。奥に行くともう一つ小さな部屋があった。
「それで、今日はどういった?」
「それが……」
 阿求は非常に申し訳ないといった顔をして、ささやくような声で言った。
「わたしも何でここに来たかはよく解らないの。ただ、ここに来れば何か掴めるような気がして……」
「そうですか。まぁ折角ですからゆっくりしていらっしゃい。今お茶を持ってきますから」
 そう言って慧音は部屋を出て行った。慧音と言えば幻想郷の歴史を知り尽くしている、正確に言うと未来には過去となる歴史すらも知っているかもしれないということで有名である、と阿求は何となく頭に思い浮かべた。不図、或ることに気が付いた。それは、自分の知っている歴史と慧音の知っている歴史は別であるということだった。いつかどこかの偉い人が、慧音の歴史はゲシヒテであり、自分の知る歴史はヒストリーであるということを言っていたのを思い出した。しかし、結局何のことかさっぱりだった。
 慧音がお茶を持ってきて、湯飲みを阿求の前に置いた。
「どう、何か掴めそう?」
「ううん……。じゃ思い付きで申し訳ないけど、歴史ってどう教えてる?」
「それはまた漠然とした質問ですね。心の内にあることをもっとはっきり仰っては如何ですか?」
「紫と同じようなこと言うのね……。つまりね、子供たちに因果関係の入り組んだ歴史を教えるときにどうしているのかっていうことなんだけど……」
「なるほど、確かにそれは難しい問題ですね。しかし簡単な問題でもあります」
「どうして?」
「人間は物事を抽象的に考えることができるので、そこを利用するんです。大塩平八郎の乱で説明してみましょう。わたしは子供たちにこのように教えています。江戸の終わり頃に天保の大飢饉があり、百姓一揆が頻繁に起こった。そうして大塩平八郎という元大阪町奉行所の役人が、裕福な商人を襲ってお米やお金を貧しい人に分け与えようとした。一日で鎮められてしまったが、幕府には衝撃を与えた、とこのようになります。説明を終えた後、これを大塩平八郎の乱であると伝えますと、この一連の流れが大塩平八郎の乱であると子供たちは憶えてくれるのです。この説明の中には、大塩が奉行所に対して民衆の救済を提言したとも、大坂町奉行の跡部良弼が疲弊した状況を省みずに、豪商の北風家から購入した米を新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ廻送していたとも言っていないわけです。しかし子供たちは憶えただけで、解った気になるのです。説明以上を追究してくる子供は極々稀です。このように事態を抽象化すれば、解ったことになるのです」
「うーん、なるほど。確かにわたしも同じ状況に立たされたらそう教えるかも……」
「必要以上に入り組んだことを理解するには、ある程度年を取らなければいけません。でも皆さんそのある程度の年には働かれていて、改めて勉強することもなく子供の頃のままなんです。わたしは定期的に歴史の勉強会を開いてはいるのですが、余り人は集まりません。しかも参加者の殆どは秘密結社さんの構成員さんたちなんですよ……。他の皆さんお忙しいようで……」
「わたしはそのままにしておいた方が幸せだと思うよ。結局中途半端に知ることによって出てくる弊害ってあると思うの」
「勿論わたしも歴史に於いて気を付けなければいけない点は、抜かりなきよう心掛けています」
「それに、民衆は所詮観客なんだから」
「オホムタカラということですか。しかしそれこそ弊害が危惧されませんか?」
「観客は弊害って感じないさ。弊害と感じるのは知り得た場合と、未来の或る時から振り返ってみた場合だけ」
「その弊害に直面している民草に教えることは不幸を招くと?」
「そう」
「それは一つの立場としてはありかもしれません。しかしわたしは全てには賛成できません。ある程度はあっても仕方ないとは思いますが……」
「解ってはいるつもり……。本当はもう一つ上に何かもっと合理的なものがあるとは思っているんだけど――」
 そこまで言って突然廊下がけたたましい音を立てた。慧音が立ち上がって廊下側の襖を開けようとすると先に襖が開いた。そこには先ほど阿求に報告に来た男が息も荒らげに立っていた。
「阿求様!」
「どうしたの?」
「紙魚が現われました」
「どこ!?」
「それが……阿求様のお屋敷の書庫です」
 阿求が屋敷に戻ってみると扉が打ち破られていた。急いで書庫に向かうと施錠も破壊されており、書庫へと繋がる通路がその姿を現している。通路を降りてゆくと細かな紙の屑が散り散りになっていた。どうやら紙魚は撤退した後のようだ。
「阿求様……」
「もぬけの殻か……。大丈夫よ、まだ第一書庫がやられただけだから。喰われてはならない禁書は含まれていない。やつらにやられると拙いのは第三書庫だ。他の書庫はやつらの興味からは外れるから狙われることはないだろう」
「これから如何様に」
「燃やすしかないか……」
「燃やす……というのは……」
「焚書」
「正気ですか?」
「わたしだってやりたくはない」
「……」
「本の歴史は焼くか焼かれるかの歴史」
「…………」
「安心しなさい、唯焼くだけじゃないから。それに、焼いた後にちゃんとまた書き直すさ」
 書庫を出た阿求は、博麗神社に向かった。



「では、今日の勉強会は先の戦について話し合おうと思います。まずこれが摘要なので回して下さい」
 慧音は持参した摘要を書いた紙を隣の人に渡した。寺子屋に於いて開かれる彼女の勉強会は一般の人間向けに開かれている。しかし参加者は限りなく少ない。それは人間が働くだけ働いて御飯を食べないと死んでしまうからだ。
「今日は新しい方がお見えですね。お名前は?」
「名乗るほどの者じゃありませんよ」
「ただ、あなたからは人間ではない臭いを感じますので、僅かながら不安を感じているのですが」
「勉強会を壊すようなことは致しません」
「そうですか、ならよろしいのですが。摘要は回りましたね。では、会を始めていきます」
 勉強会は滞りなく進んだ。先の戦のことについて真実を知っている人間はいない。それは遠い昔にあった出来事で、知っている者は妖怪しかいないからだ。記録は残っているが秘密文書として未だに民衆には公開されていないし、戦の時代と現代を同列に考えられる人間はいない。それは寿命の問題でもあるのだが、人間が歴史を子孫に残していこうとしなかったことも原因である。
「このような背景を踏まえて、意見のある方はいらっしゃいますか」
 すると新顔が手を挙げた。
「わたしはしっかり民衆に公開するべきだと思います。それは知らないことによって選択の幅が狭められるからです。知らないということは機会損失にも繋がりますし、最悪の場合支配者に支配され、奴隷のような存在として生きることを強いられることがあります。これは自由にのびのびと生きることを妨げる行為そのものです。従って、民衆にも平等に情報は流すべきです」
 整然とした態度で新顔は座った。慧音が続けた。
「そうですね。まったくその通りなのですが、一つ困ったことがあります。それは民衆が知りたいと思っていないということです。勿論平等な情報の共有は重要です。しかし、当の本人たちが知ろうとしない。それはこの会を見ていてもお解りだと思います。大衆は敷かれた閾(しきみ)の上を滑り歩く方が楽なのです。それは遠くから眺めてみると一見自由ではない。しかし当の本人たちはその閾の上では自由な気分なのです。そこを踏まえるとどうでしょう?」
「それでも大衆向けの遊説に努め、一人でも多くの人々に事実を教えることがよいのではないでしょうか。機運というのはそうして盛り上がるものです」
「なるほど。ところであなたは民衆に事実を説いたことはありますか?」
「わたしはこれから事実を蓄えに或るところに参ります。そこで全てを知り、民衆を立ち上がらせるのです」
「そうですか。ご健闘を祈ります」
 別の人からの意見が出て、話の流れはそちらに向いた。無事勉強会も終わり、片付けを済ませると、慧音のもとに新顔がやってきた。
「今日はありがとうございました。大変参考になりました」
「それはなによりです。ところで、稗田のお屋敷にはもう近寄らない方がよろしいかと思いますよ。あなたの命はもう保障されていないのですから」
「それでもわたしは行かねばいけないのです。民衆を立ち上がらせる為にも」
 新顔は一礼して慧音のもとを去った。



 阿求は書庫にいた。一人でせっせと油を床に撒いており、時々柱にも塗りつけていた。勿論、手にろうそくなど持っていよう筈もなかったから、真の闇の中で全て手探りでの作業だった。しかし長年徘徊してきた書庫だけに、何も見えなくても手に取るように物の配置がわかった。それと、部屋の全ての角に当たる部分にはありがたそうな御札が貼り付けてあるのを再度確認した。
「ああ、穢らわしい臭い……。どうして本は燃やされる運命なんだろう」
 準備が整ったらしく、手を止めてまじまじと図書を眺めた。しばらく見つめていて大きな溜息を一つ吐いたとき、書庫の入り口から阿求を呼ぶ声が聞こえた。
「阿求様ぁ、紫様がお見えです!」
 阿求は眉を顰めた。
 階段を上って書庫の入り口まで来ると、毅然とした態度で紫が立って待っていた。
「また四方山話?」
「いえ、血腥い臭いがしたから立ち寄っただけよ」
「誰も血なんか流しちゃいないわ」
「それよりあなた、なかなか過激なことをするわね」
「仕方のないことよ、虫は退治しなきゃいけない」
「あら、ではわたしがあなたを虫として退治してもいいということになりますわ」
「そのときが来たら受け入れるわ」
「ふふ、そういう流れに抗わない態度は好きよ」
 外はすっかり日が落ち、門戸の燈籠に日が灯された。月は隠れて、深い闇が里を襲う。それは表を歩く人の数も減り、妖気が里を包むことと同義だった。
「来たわ」
 紫が視線を送ったその先には、よく肥えた背の低い男性の風貌をした何かが立っていた。阿求は再び虫唾が走った。
「お前は……あの時と同じ虫なのか?」
「ふふ、情報を蓄えすぎちゃったのね」
 相手は黙ってその場に屹立していた。阿求は睨み付けて堂々たる面持ちで口を開いた。
「最後にお前に忠告する。今すぐここから立ち退き、二度と里の書庫を荒らさないと誓えば命までは奪おうとは思わない。さぁ選べ。わたしの書庫に足を踏み入れるのか、それとも立ち退くのか」
 しばらくの静寂の後、その男の姿は一瞬にして数千匹の紙魚に姿を変え、目にも留まらぬ速さで書庫の扉へ向かった。その勢いで書庫の扉は打ち破られ、紙魚は一匹残らず中へ入っていった。
「哀れね。正義とは時代にそぐわないといつもこう」
 紫の声も空しく、阿求は袂からマッチを取り出した。そして書庫の奥から足下に延びている一本の縄を拾い上げた。マッチを擦る乾いた音が部屋に響く。そして静かに縄に火を点した。
「ごめんなさい」
 油を染み込ませてある縄を火が走るように伝っていった。二人は黙ってそれを見つめていた。暗闇の向こうに、朱色の光が揺らめいている。烈しく燃えるその様は阿求の胸を熱くさせた。歯を食いしばる彼女を見て、紫は沈黙を破った。
「今、中で結界が張られたわ。無事に事が運んだようね」
「……」
「人間と妖怪の戦いは力だけじゃなかった。現在は保たれている均衡も、それは簡単に崩れ去る。しかしそれがどんな原因で何が起ころうとも、結果は一つに集束する。今回はこういう結果だった、それだけのこと。勿論、この結果に満足しないんだったら、更に視点を上げて事に当たらなければいけないわね。わたしから見れば、あなたは哀れな二次元人そのものよ」
「うるさい、そんなこと解っている……」
 阿求は呟くように言った。
「解っているから……」
 そう繰り返して頬を涙が流れた。



 阿求は寺子屋を訪れた。中に入ると里の子供たちが熱心に机に向かっていた。各々筆や算盤を手にして自習をしている。どうやら先生は不在のようだ。生徒の一人に訊くと、先生は次の間にいるらしい。襖を開けるとそこには慧音が頭を掻きながら、書面とにらめっこしていた。
「相談が……」
 その言葉に気が付くと顔を上げ、座るように促した。
「わたしに授業を一つ持たせてはくれないだろうか。いや、手伝うだけでいい。里の子供たちに触れられる時間を作ってほしいんだ」
 慧音は愕然として目を点にした。
「どういう風の吹き回しですか?」
「民衆という僅かな可能性に賭けてみようかと思って……」
「観客を養成するのはもう嫌だ。そう言いたいのですか?」
「まぁ……そう」
「承知しました。ではこれから二人でできる限りのことをしてみましょう」
 阿求の翳りが差していた顔に、ぱっと光が当たった。
「あ、ありがとう」
わたしは専ら焼け死んだ紙魚派です
未羽
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