Coolier - 新生・東方創想話

彼の岸辺に思いを馳せて

2010/06/25 23:57:58
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 博麗大結界の緩みによる、幻想郷中を包んだ花の異変もようやく収まる兆しを見せ始めたある日のこと。
 以前と比べれば確かに花の量は減っていたが、それでもまだまだそこかしこに四季の花々が狂い咲いていたころのことである。
 このころ幻想郷に住まう者たちは、人も妖怪も関係なくやれ花見だ宴会だと浮かれきっていた。春だというのに向日葵やらコスモスやら山茶花やらが一緒くたに咲いていて本当ならば不自然なことこの上ないくらいなのだが、みな桜と一緒にいろんな花が見られて儲けものだね、といった具合の浮かれっぷりであった。
 もちろん浮かれているのは妖精でも同じことである。このお祭り騒ぎを誰よりも楽しむのだと、花冠をかぶったり、大きな花束を作ったりとはしゃぎまわっていた。
 ただ一人、チルノを除いて。

「チ~ルノちゃん! あ~そ~ぼ!」

 チルノの家の前に大妖精の声が響いた。彼女もまたこの花の異変に浮かれている一人である。頭にかわいらしい花冠をかぶり、質素だったワンピースにはたくさんの花があしらわれ、まるで花で作られたドレスのようだった。

「チルノちゃん、遊ぼうよ」

 何度か声をかけてみてもチルノはなかなか現れない。一緒にやってきたほかの妖精たちは、退屈してしまってめいめい勝手に遊び始めていた。
 もしかしてもうどこかへ出かけちゃったのかな、大妖精があきらめようとしたときようやく家の扉が開いた。青いリボンに青い服、いつものチルノの格好である。ただ表情だけは何かに深く思い悩んでいるようで、いつものハツラツとしたチルノとは大違いだった。

「チルノちゃん、なんだか元気がないけどどうしたの? 誰かにいじめられたの?」
「ちがうよ大ちゃん、そんなんじゃないよ」
「そうなの? それならみんなと一緒に遊ぼうよ! こんなにお花がきれいなんだよ、楽しまなくっちゃもったいないよ!」

 そう言って大妖精が手を差し伸べた。他の妖精たちも遊んでいる手を止めて、チルノがやってくるのを待っている。
 チルノはその手をとろうとして、……やめた。

「うん……。せっかく誘いに来てくれたのに、ごめんね。あたいは今とってもせんちめんたるなんだ。だからまた今度ね」
「せ、せんちめんたるなんだ……。せんちめんたるだなんてチルノちゃんはすごいなあ! それじゃあ残念だけどしょうがないよね。でも、今度は絶対遊ぼうね!」
「うん、バイバイ」

 名残惜しそうに何度も振り返りながら去ってゆく大妖精を、チルノは手を振って見送った。
 チルノも本当ならば彼女達と一緒に遊びたいと思っていた。
 60年に一度の花の異変を楽しみたいと思っていた。
 だが今のチルノにはこの異常事態を楽しめるほど心に余裕がない。凍らせた花の上を転げまわってもちっとも楽しくないのだ。
 まるで重たい氷が心の上にのしかかっているみたい。
 そんなふうにチルノは感じていた。

「ぜんぜん楽しくない! それもこれも全部あいつのせいだ!」

 吐き捨てて、地面を思い切り蹴飛ばすチルノ。土ぼこりが少し舞った。
 ――――楽しくないのはあいつのせい。
 すべては楽園の最高裁判長、四季映姫・ヤマザナドゥと出会ったことが原因なのだ。
 閻魔いわく、自然には永遠は存在しないのだという。それは即ち死を意味する。たとえ妖精であろうとも、いつの日か死を迎えることもあるかもしれないのだ。
 ましてやそれが妖精としては強すぎる力を持ったチルノともなればなおのことである。
 死ねば当然閻魔の裁きを受けるだろう。その時向かう先は天界か、それとも地獄なのか。
 チルノはあの日、紫の桜の下で言われた言葉を思い出した。

「ふんだ、難しいこと言って馬鹿にしちゃってさ。死ぬのがどうこうとか言ってればあたいが怖がると思ってるんだよ。絶対!」

 思い出したらなんだか腹が立ってきた。でも、どうして腹が立つのか判らない。
 こんな気持ちは初めてだった。

「あーもう! あーもう!! こんな日はカエルでも凍らせなきゃやってらんないわよ!!!」

 プリプリしながらチルノは哀れなイケニエを求めて歩き出した。
 木の陰、小川のほとり、草むらの中。どこも花で溢れている。
 すると、いた。自分たちがいつも休憩に使う大きな石の上。
 カエルもこの花の異変に浮かれたか、身を隠すことも忘れて大輪の花々を眺めていた。

「ふふ、間抜けな顔しちゃってさ。いますぐカチンコチンにしてやるから覚悟することね!」

 悪い笑顔を見せながらチルノは哀れなカエルを掴み上げた。
 カエルのほうもようやく己の身の危険を感じたか、ジタバタとチルノの手から逃れようともがくが、もう遅い。
 カエルを両の手に包み込み、チルノは意識を集中する。
 急激に周りの熱を奪われたのに驚いて、カエルがもがくのを止めた。さらに冷却するとカエルの皮膚の表面に、びっしりと小さな小さな氷の粒が現れる。カエルの体がだんだん凍り付いているのだ。
 チルノはさらに冷却を続けようとする。もう一息で哀れなカエルは冷凍ガエルになってしまうだろう。
 その時、チルノはふと思った。
 もし解凍に失敗してしまったらこのカエルはどうなるだろうか、と。
 解凍は必ずしも成功するわけではなかった。失敗すれば当然カエルは死んでしまうだろう。
 冷却の手が止まった。
 では、もし死んでしまったならば――――

――――もし死んでしまったならば、この蛙はどうなってしまうのだろう?

 判らない。
 判らなかった。
 春の日差しを浴びて何とか動けるようになったカエルが、いざ自由への脱出とチルノの手からするりと抜け出した。
 ぴょんこぴょんこと逃げるカエルをチルノは追うでもなく、怒るでもなく、ただぼんやりと眺めている。
 視線をさっきまでカエルを包んでいた両手に移す。
 誰にでもなく、ポツリとつぶやいた。

「死んだら、どうなるんだろう……?」

 当然、その問いに答えるものなど誰もいない。
 強い風が吹が吹き付け、青く澄んだ大空が瞬く間に色鮮やかな花の色に染め上げられる。



 生きているものはいつか必ず死んでしまう。

 形のあるものはいつか必ず姿を変える。

 本当に変わらないものなんて存在しない。

 この世はそんなふうにできている。

 もし、それが本当だとしたら。

 妖精は。



 あたいは一体、どうなっちゃうんだろう――――



「おやおや? カエル、凍らせないんですか?」

 チルノがじっと考え込んでいると、どこか高いところから突然聞いた覚えのある声がした。

「誰!?」

 声の主を求めてチルノはあたりを見回す。
 その両の目が、木の上に悠然と立つ人物の姿を捉えた。

「こんにちはチルノさん。清く正しい射命丸です」

 とうっ、という掛け声と共に文は空へと舞い上がり、見事なきりもみ回転を披露しながら軽やかにチルノの目の前へと降り立った。スカートが、きわどい位置までめくれあがる。

「なぁんだブンブンか。あたいは今せんちめんたるなの。思い悩んでいるの! ブンブンにかまっている暇はないよ!」
「なんと! センチメンタルですか。妖精らしかぬ思いつめたその表情、いったい何があったというのでしょうか? ぜひ取材させて欲しいですね、これは特ダネの匂いがしますよ!」

 一人で盛り上がっている文を見ていると、チルノはなんだか気が抜けてゆく思いがした。
あたいは今、とっても難しいことを考えているのに……、そんな思いをこめて文をにらんでやった。もっともチルノの背丈は文の腰ほどしかないので見上げるような形になってしまい、余計に癪な思いをしたのだが。
 しかし文といえばチルノ視線などまったく意に介さず、あごに手を当てて記事の内容を考えている。

「センチメンタル、センチメンタル……。ふむ、記事の内容が浮かんできました。題して氷精のお悩み相談室というのはどうでしょう!? もっとも相談するのはチルノさんのほうですが」
「なにそれ! どうせ記事にするならもっとかっこいいのがいいよ!」
「いえいえチルノさん。チルノさんの雄姿ならいつでも見られますが、センチメンタルな表情をしたチルノさんにはなかなかお目にかかることができません! さあ、私に何があったのか洗いざらい話してください。きっと素敵な記事にしてあげますよ!?」

 文の激しい勢いに押されてチルノはたじろいでしまった。
 どうしよう、思っていることを話してしまおうか。
 知りたいことを聞いてしまおうか。

「ねえ、ブンブン。ブンブンは――――」

――――ブンブンは死んだらどうなるの?

「なんでもない! 秘密だよ!」
「ああっ! いけませんチルノさん、それは知る権利への侵害です! と言うより言いかけてやめるのはずるいですよ!」
「そんなの知るもんか! けけっ、じゃあねー!」

 文の一瞬の隙をついて、チルノはピュ―っと逃げ出した。

「チルノさん! 待ってください!」

 ずっと後ろのほうから文の声が聞こえたが、聞こえないふりをして脇目も振らずチルノは飛んだ。
 別に隠すようなことでもなかったのかもしれないが、文に胸の内をさらけ出すのはなんとなく気が引けたのだ。相手はブン屋なのである。自分の思い悩んでいることがあっという間に面白おかしく脚色されて、幻想郷全土に広がることなど想像に難くない。そんなことになった日には、うかつに外も出歩けないではないか。
 丘を越え、川を越え、ようやくチルノは後ろを振り返る。
 文は追ってこないようだった。

「天狗でも追いつけないなんて、やっぱりあたいったら最強ね!」

 腕を組んで誇らしげに胸を張る。
 一面の花畑の中、チルノは一人、ぽつんと立っている。
 高揚した気分が一気に冷めてしまった。

「……やっぱり、ぜんぜん楽しくない」

 心の上の氷は小さくなることを知らない。
 このままでは、きっと自分は押し潰されてしまうだろう。

「誰かに話したほうがいいのかな……? でも誰ならいいんだろう」

 知っている人たちの顔を次々に思い浮かべてみるが、こういう時に頼りになりそうな人物はなかなか出てこない。

「うーん……」

 考え込んでいるうちに、ふと、一人の顔が浮かんできた。彼女の名前は上白沢慧音。人間の里の寺子屋で、子供達にいろいろなことをを教えている人物だ。
 人に物を教えるのが仕事なら、きっとたくさんのことを知っているのだろう。
 彼女なら、もしかしたらこの思いを理解して、正しい答えに導いてくれるかもしれない。

「よおし、行ってみよう!」

 チルノは勢いよく駆け出した。
 心にのしかかる氷が少しだけ小さくなった気がした。


/


 時刻は午後2時をまわる頃だろうか。里の人々は午後のお茶を楽しんだり、碁を打ったりと、それぞれ思い思いの生活を楽しんでいた。
 約束されたかのような平和。いつもと変わり映えのしない毎日。ただ一つ違うのは、いつもより花の量が多いくらいのものである。

「せんせー、さよーならー!」

 今日の授業が終わったのだろう、元気な声と共に子供達が寺子屋から飛び出してきた。
 意気揚々と出てくる者、何か叱られたかしょんぼりした顔をしている者、これから何して遊ぼうかと話し合っている者。それぞれの表情は千差万別ではあったが、誰もが同じような今日を楽しみ、同じような明日が来ることを信じて疑わない。
 彼らは生きることを謳歌しているのだろう。
 チルノはそんな彼らを茂みの中からこっそりと見送っていた。

「ふんだ、みんな悩みなんてなさそうな顔しちゃってさ! あたいは今こんなに悩んでるっていうのに……」

 子供達が聞いたら怒りそうなことをチルノはぶつぶつとつぶやいている。
 彼らもいずれは死んでしまうのだろうか、そんなことを考えてチルノはかぶりを振った。また、気分が沈んでしまうところだった。

「おおい、そこの妖精。今日の授業は終わりだぞ。それとも私に何か用かな?」

 突然声をかけられてチルノは大いに飛び上がった。完璧に隠れていたつもりだったのだ。
 あわてて逃げようとして思いとどまる。今日は慧音に用があって来たのだから。

「あ、あたいはチルノ! 今日はけーねに用があってきたよ!」
「おや? 私の名前を知っているの?」
「うん! 人間の子供がけーねせんせーって呼んでるのを聞いたことがあるよ。せんせーっていうのはいろんなこと教えてくれるんでしょ? あたい知ってるよ!」

 以前からこの妖精が時折寺子屋の中を覗いていたのを慧音は知っていたが、名前を聞いたのは初めてだった。
 妖精は学問の場などに興味はないと思っていた。だから慧音はチルノに対して『ずいぶんと変わった奴』という印象を持っていたのだ。
 それが今日、自ら名乗り出てくるとは。

「妖精はこういうところにあまり興味を示さないものだと思っていたのだけれど……。チルノ、お前は学問に興味があるの?」
「ガクモン……? よく判んない。そんなことより、あたい、教えてほしいことがあるんだ!」

 チルノの言葉を聞いて慧音はうっすらと笑みを浮かべた。
 学問という言葉は知らないのかもしれないが、チルノの態度からは旺盛な好奇心、いや、知識欲と言ってもいいかもしれない。教え子達の中でもなかなか見られないものを慧音は感じていたのだ。

「聞きたいこととは何かしら? 私に答えられる事?」
「えっと、えっとね。けーねに聞きたいのは……。あたいや、蛙や、人間や……、他にもいっぱい。ね、みんな、死んだらどうなるの?」

 指をモジモジさせながらチルノが上目遣いに尋ねる。

「死んだら、とは、また変わったことを……」

 慧音は目を丸くして驚いた。
 妖精とはいわば大自然の権化である。例えば人間なら致命傷となるようなダメージを肉体が負ったとしても、まるで倒れた樹木から新たな芽が生えるように、ある程度の時間さえ経てば元通りになってしまうのだ。
 そう、妖精には本来死という概念がない。それが幻想郷に生きる者の常識だった。

「死なんて妖精には最も縁遠いものだろうに」
「ううん、あたいは聞いたよ。自然だって永遠じゃないって、いつか死んでしまうかもしれないって」

 チルノはまっすぐな目で慧音を見つめた。
 誰に言われたかは分からないが、死ぬはずのない妖精が死について考えるなどその胸中は如何ばかりか。これは腰をすえて相手をしてあげるのがスジだろうと慧音は思った。

「ここでする話ではなさそうね。さあ、お上がんなさい。特別授業をしてあげよう」
「本当!? ありがとう!」

 慧音に促され、チルノは寺子屋の中に入った。
 寺子屋の中には子供達の使う長机がいくつかと、正面に教卓と黒板が置かれていた。壁には習字が貼られ、ところどころ朱色の墨で添削されている。畳の上に塵一つ落ちていないのは子供達がきちんと掃除をしているからなのだろう。

「この床は草のにおいがするね。神社と一緒だ」
「畳は珍しい? まあ、そこで少し待っておいで、すぐに準備をするから」

 そう言い残し、慧音は他の部屋へと姿を消した。
 チルノは部屋の隅に積まれた座布団を一枚とって、最前列の長机の前に座った。
 いつか見た光景を思い出す。
 あの時子供達は背筋を伸ばして正座をして、机に向かって何か書いていると思ったら、急に我先にと手を挙げたのだ。
 あれにはいったい何の意味があったのだろう。首をひねって考えてみたが、チルノにはまるで見当が付かなかい。だからチルノも子供達の真似をして勢いよく手を挙げてみた。やっぱり意味は分からなかったが、なぜだか少しだけわくわくした。

「お、やる気満々だな。これは私も張り切らないとな」

 慧音が資料を片手に入ってくる。そして黒板を背にして立った。

「さてチルノ、体験入学おめでとう。もう知ってるみたいだけど、私の名前は上白沢慧音というんだ。短い間だけど、今日は宜しく」
「うん! あたいはチルノだよ! よろしくね!」

 二人は簡単な挨拶を交わす。
 チルノと慧音、二人だけの授業が始まった。

「チルノ、生ある者が死を迎えた時、それらはいったいまず何処へ行くか知っているかい?」
「うーん、天界とか地獄とかいう所?」

 慧音の問いかけに、チルノは自信なさげに答えた。
 映姫の言葉が胸の中に蘇る。いったいどんな所なのだろう。

「天界に行くか地獄に行くか決まるのはもう少し後だな。普通はね、まず初めに三途の川というとても大きな川を渡らなくちゃいけないんだ」
「三途の川?」
「そう、そして三途の川を渡るには船に乗らなくちゃいけない。だから死んだ者は船頭をしている死神たちに渡し賃を払って、向こう岸に渡してもらうんだ。このとき払うお金は六文とも持っているだけ全部だとも言われている」
「船に乗るんだ……」
「ただ、船に乗れたからといって必ずしも向こう岸にたどり着けるかどうかは分からないそうだよ。三途の川というのは死んだ者の罪の重さによって川幅が変わるんだそうだ。善人なら川幅は狭く、悪人なら広く、どうしようもない悪人の場合は向こう岸に渡ることなく途中で消滅してしまうとも聞いたことがあるよ」

 慧音の話は続く。それを聞きながら、チルノは船に揺られる自分の姿を想像した。
 見えるものは、一面の川霧。晴れているのか曇っているのかも区別が付かない。風もなければ温かくも寒くもない。ただ、船が作る波の音だけが静かに聞こえてくるだけだ。
 退屈そうにしていると大鎌を持った死神が歌を歌ってくれた。
 それは初めて聞く、どこか悲しげな旋律で――――

「どうしたチルノ? どこか具合でも悪いの?」

 想像の世界に入り込んでいたチルノは慧音の声ではっと我に返った。ずいぶんと難しい顔をしていたようで、慧音は心配そうな表情でチルノの顔を覗き込んでいる。
 途中から話半分に聞いてしまったことが急に恥ずかしくなって、チルノは慌てて慧音に続きを促した。

「えっ!? あっ、ごめんねけーね。あたいは大丈夫! それで、向こう岸についたらどうなるの?」
「うん、向こう岸に着いたらね、いよいよ閻魔様の裁きが行われるんだ。閻魔様は浄玻璃の鏡というどんな罪でも暴き出す不思議な鏡を持っていてね、これを使って死んだ者の罪を本格的に調べ上げて、その者が天国に行くか地獄へ行くか、もしくは生まれ変わるかどうかを決めるんだよ」
「……そうなんだ。ねえ、けーね。天界と地獄ってどんなところ?」
「そうだね、それじゃあ天界のほうから話をしようか。天界は生前良いことをした者達が向かう所なんだ。天国や浄土なんて呼んだりもするね。たくさんの花が咲いていて、とても暖かいところなんだそうだ」
「今の幻想郷みたいに?」
「今の……? ああ、この花は、この不自然な花は……、なるほど、そういうことなのか……。確かにチルノの言うとおりかもしれないね。冥界との境も曖昧なままだというし、一体このままではどうなってしまうのか……。おっと、すまない。話を戻すね。さらに天界には金銀財宝のちりばめられたお屋敷や、とても声のきれいな鳥も住んでいるんだ。天国に行くと決められた者達は、食べる物にも着る物にも困ることはなく、すべての悲しみや苦しみから解き放たれて、ただ幸せだけがあるんだそうだよ」

 そう言って慧音は用意した資料を広げた。
 どこまでも果てが無いかのような色鮮やかな景色。人々はみな幸せそうで、悩める表情を浮かべた者など一人もいない。煌びやかな館に住み、美しい服を着て、豪華な食事を取る。人々の想像する理想の楽園、天界の姿がそこにあった。

「それじゃあけーね、地獄ってどんなところ?」
「そうだなあ、地獄というのは天界とは正反対で、生前悪いことをした者達が向かうところだよ。悪いことをした者達は、ここで鬼からの責め苦を受けることで生前の罪を償うんだ」
「……ねえ、責め苦ってどんなことをするの? 怖いの?」
「え? あー、どこまで話していいものか……」

 亡者達の受ける凄惨極まりない責苦の内容を思い浮かべて慧音は言いよどんだ。説明をするのは簡単だが、下手を打てばチルノを怖がらせ傷つけてしまうのではと考えたのだ。
 だが当のチルノは妖精とは思えないほどの真剣な顔をしている。
映姫とチルノとのいきさつを知らない慧音は、なぜチルノがここまで死についてこだわるのかまるで理解できなかった。

「教えて、けーね」

 チルノの目はまっすぐに慧音を見つめている。
 知ろう、学ぼうという意欲は褒められる事こそあれ非難されるいわれは無いはずだ。ならば私は教職者としてその思いに応えるべきではないのか。考えて、慧音は決心した。

「分かった。チルノ、お前に地獄の責め苦というものを教えてあげよう。……ただ、怖くなったらいつでも言うんだよ」
「……うん!」

 はっきりとしたチルノの返事を聞いて、慧音も大きく頷く。
 おそらく使うことは無いだろうと思っていた地獄についての資料を慧音はそっと広げた。いわゆる、地獄絵である。

 それはとても薄暗い世界だった。
 林立する岩山。草木も生えぬ不毛の地。空には地獄の鳥たちが、亡者達を取って喰らわんと目を光らせている。
 恐ろしい形相をした鬼達が、地獄行きを宣告された亡者達を引きずるようにして歩いてゆく。逃げようとする者はもちろんのこと、荒れた大地に足をとられた者であっても鬼達は激しく叱責する。この時わずかでも抵抗のそぶりを見せようものなら鬼達は容赦なく手にした金棒を振り下ろすだろう。そうすれば亡者達はまるで割れたザクロのように弾け飛び、大地を赤く潤すことになるのだ。
 しかし、それで亡者達が楽になれるわけではない。その程度では罪を償ったことにはならない。
 ただ荒涼とした岩山に一陣の風が吹いた時、驚くことに亡者達の傷があれよという間に消えていった。まるで神仏の奇跡のようではあるが、この風は決して亡者達への癒しの風ではない。何度でも責め苦を受け続けなくてはならないという贖罪の風なのである。
 苦しみは輪のように、何度も何度も廻りくる。亡者達の受ける責め苦はいつか己の犯した罪そのものなのだ。
 例えば無益な殺生。例えば窃盗。例えば淫らな振る舞い。例えば飲酒による悪事。それら倫理に外れた行いをしておきながらも亡者達は獄卒たる鬼達の足元にすがり付き、泣いて許しを請うのである。
 だが鬼達がそんなことで亡者達を許すはずもない。鬼達は等活、黒縄(こくじょう)、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、無間(むげん)地獄といったそれぞれの罪に見合った地獄へと泣き叫ぶ亡者達を連れてゆくのだ。

「チルノ、ここまでは平気かい? どうする、まだ続ける?」
「あ、あたいは大丈夫。大丈夫だよ」
「そうか。じゃあ、ここでは例として等活地獄、これは主に無益な殺生をした者が堕ちるとされる地獄なんだが、この場所での責め苦について話そうか」

 生きとし生ける者が死を迎えるとき、その胸の内はいかばかりだろうか。ましてや、他者によって戯れにその命を奪われるとなればどうだろう。
 それは絶望だろうか。もしかしたら憎しみかもしれない。耐え難い恐怖と苦痛の中、ただ死の訪れを待つだけなのだから。
 因果応報という言葉がある。己の行いは、よいことも悪いこともいずれそのまま返ってくるというのだ。
 では、もし戯れに他者を殺めたのなら――――

 それが、等活地獄である。

 黒々とした雲から燃え盛る炎の雨が降り注ぐ。
 だが、この等活地獄に炎の雨を防げる場所など存在しない。もちろん降り注ぐ雨を避けるなどという芸当ができるはずもなく、亡者達は火だるまになりながら逃げ惑うことになる。
 逃げ惑う先に、ある者は沼を見つける。水だ、これ幸いと飛び込むが、その喜びもつかの間であった。なぜなら沼は糞尿と溶けた銅でできていたからだ。降り注ぐ炎と灼熱の沼が亡者達を焦がし責め立てる。まるで、これがお前達の犯した罪だと言わんばかりに。
 またある者は、逃げ惑う先に火の気のない森を見つける。火の気がないのは当然のこと、なぜなら森は刃でできていたからだ。幹が、枝が、葉の一枚に至るまでのすべてが研ぎ澄まされた刃である。亡者達は幹にもたれかかることもままならず、雨に焼かれ、木々に切り刻まれることとなる。まるで、これがお前達の犯した罪だと言わんばかりに。
 そして鬼がやってくる。中には牛や馬の頭をした鬼もいた。
 彼らによって、亡者達はとある場所に集められた。そこはさながら調理場のようである。まな板を思わせる巨大な台座。傍らには同じく巨大な鍋が火にかけられて、ぐらぐらと湯気を上げていた。
 一人の亡者が鬼の手によって台座の上へと上げられ、申し訳程度につけていた衣服を剥ぎ取られた。怯えて固まる亡者に対し、鬼は顔色一つ変えることなくその体に手をかけて、そのまま亡者の皮を強引に引き剥がした。
 まさに丸裸にされて、亡者は痛い、痛いと泣き叫びのた打ち回る。
 だが、その声もすぐに止んだ。鬼が手にした巨大な肉切包丁を亡者の体へと振り下ろしたのだ。血しぶきと内臓の臭いを辺りに撒き散らしながら、鬼は何度も何度も肉切包丁を振り下ろす。そうしてぶつ切りにされた亡者は、巨大な鍋の中でコトコトとじっくり煮られることになるのだ。
 そこに血の臭いを嗅ぎつけたか、地獄に住む鳥や獣が集まってきた。すると鬼は彼らに向けて、茹で上がったばかりの亡者を投げてよこしたのだ。鳥や獣達は待ってましたと言わんばかりの勢いで亡者の体をむさぼり食らう。骨すら残ることはなかった。
 きれいに食べ尽くされたのを見て、鬼はもうそこにいない亡者に向けて生きよ、と告げた。するとどこからか贖罪の風が吹いて、亡者の体はみるみるうちに再生されていく。
 蘇った亡者に、お楽しみはこれからだぞ、と鬼が笑いかけた。

 そして、亡者は再び台座の上へ――――

「――――台座の上へ上げられる。これを永遠とも思える間繰り返すそうだ。だが安心しなさい、チルノ。まっとうに生きてさえいれてば、地獄に落とされることなんてないから」

 そう言って慧音は話を締めくくった。だが。

「けーね、あたいは地獄に落ちるの?」

 チルノは震える声で慧音に尋ねた。顔色が酷く悪い。ただでさえ小さいチルノの体がさらに小さく慧音には見えた。やはり怖がらせてしまったのか。うかつだった。

「大丈夫、大丈夫だよ。だってお前は悪いことなんてしてないだろう? だから大丈夫だ。怖がらせて済まなかったね。許しておくれ」

 慧音は優しくチルノをなだめようとするが、チルノはまるで安心していないようだった。それどころか泣きそうな顔をして震えていた。
 チルノは叫ぶようにして、言った。

「だって閻魔が言ってたよ、あたいは罪深い妖精だって! 罪って言うのは悪いことなんでしょ!? あたい、地獄になんて行きたくないよ!!」

 その言葉に慧音は愕然とした。
 彼岸の景色を連想させるこの花の異変。そして魂は花に拠るともいう。もしこれらの花が何かしら死者の魂とかかわりがあるのならば、状況を調べに閻魔が直々にやって来ても不思議ではない。恐らくチルノはそのときに閻魔と出会ったのだろう。チルノの真剣なまなざしから、彼女が嘘をついているとはとても慧音には思えなかった。

「そう、だからお前はこんなにも死にこだわっていたのね」

 青い顔をしたままうつむくチルノを慧音は優しく抱きしめる。チルノは一瞬びくりと身を固めたが、すぐに安心したようで、ゆっくりと体の力を解いていった。

「チルノ。きっと閻魔様はね、お前を怖がらせるためにそんなことを言ったんじゃないと思うの。お前がまっすぐに生きてゆけるようにそう言ったんじゃないかしら」
「……本当?」
「ええ、そう。きっとそう。だからね、チルノ。あまり難しく考え込んじゃちゃいけないよ」

 慧音の優しい言葉を受けてもなお、チルノの表情は暗いままだった。映姫との出会いはそれほどまでにチルノの心の奥深くへと入り込んでいたのだ。
 寺子屋の中に西日が差し込んで、二人を茜色に照らした。どこか遠くではカラスの鳴き声もする。どうやら思いのほか時間が経っているようだった。

「あたい、もう帰るね。今日はいろんなこと教えてくれて、ありがと」

 チルノはそっと慧音の体から離れ、少しだけ笑った。無理に表情を作っているのが丸分かりで、人間でいうなら十にも満たない少女の姿をしたチルノのそれは、痛々しいと呼ぶより他になかった。

「チルノ、早く元気を出すのよ……」
「うん、バイバイ」

 見送りに出た慧音に手を振ってチルノは家路につく。
 真っ赤な夕日はまるで血の色のよう。チルノは嫌な気持ちになって、下をむいて歩くことにした。
 心へとのしかかる氷に押し潰されてしまいそうな気がした。



/



 ふと気がつけば、チルノは見知らぬ場所にいた。
 あたりはずいぶんと薄暗くて何があるのかさえよく分からなかった。

「どこだろう、ここ……」

 つぶやいてみても返事はない。そもそも人の気配がしないのだ。
 今は昼なのだろうか、それとも夜なのだろうか。上を見上げても、太陽もなければ月もない。それ以前に今見ているものは空なのか、もしくは何かの天井なのか。ただ暗闇だけがそこにあるような気さえしてきた。

「誰か、誰かいないのー!?」

 さまよい歩くうちだんだんと不安になってきて、チルノは思わず大声を張り上げた。だが、声は暗闇に吸い込まれるばかりでこだますら返ってこない。
 この訳の分からない場所の中にあって、チルノの心細さは増すばかりであった。

「――――静粛に」

 暗闇の中、どこからともなく有無を言わせぬ凛とした声が響く。
 聞き覚えのある声だ。そう思った瞬間、世界に光が戻った。
 誰かが、いる。

「静粛に、チルノ。ここは神聖な裁きの場ですよ」

 目の前に突然現れた豪奢な装飾の施された机。その上にはなにやら難しそうなことの書かれた書類が並べられていた。その中にはチルノの姿が書かれた物もある。こんなものはさっきまでなかったはずなのに。
 机をはさんでチルノと向かい合うように座る人物。
 それはチルノにとって決して忘れることのできない存在であった。

「アンタ、何でここに……」

 罪色をした制服、アンシンメトリーの髪、手には悔悟の棒を持っている。どこか少女らしさを感じさせる顔立ちではあるものの、灼熱の火焔光背が彼女が只人でないことを雄弁に語っていた。
 あまりの神々しさにチルノは自然と膝を折ってしまいそうになる。それでもどうにか踏みとどまって、チルノは彼女に向き合った。
 彼女こそが楽園の最高裁判長、四季映姫・ヤマザナドゥである。

「この場に私がいることに何の不思議がありましょう。チルノ、なぜ貴方がここにいるのかよく考えなさい。貴方の今いる場所がどこなのか、すぐに理解できるはずです」

 言われてチルノは辺りを見回した。
 天井の高い色鮮やかな室内。机のそばには不思議な輝きを持つ鏡が置かれている。そしていつの間に現れたのだろうか、牛と馬の顔をした鬼が逃げられないようにとチルノの両脇を固めていた。
 こんな場面をどこかで聞いたとチルノは記憶している。そうだ。あれは確か、慧音の授業ではなかったか。

「まさか、まさかあたいは……」
「そうですチルノ。貴方は死んだのです」

 映姫はきっぱりと言い放つ。

「うそだ! だってあたいは妖精だよ? 死んだりするわけないじゃん!!」
「私の言ったことを忘れたのですか? 自然とて永遠ではないのです。貴方がここにいることが何よりの証拠ではないですか。そして私はこうも言いました。貴方が死ねば、その時はきっと私達が裁く、と」
「うそだ、うそだよ……」
「嘘ではありません。さあ、チルノ。これより貴方の裁判を始めます。これによって天界へ行くか地獄に落ちるのかが決まります。心するのですよ」

 裁判。
 チルノの脳裏に慧音の言葉が蘇る。天界に行けるのなら別に恐れることはないのかもしれない。だが、もしも地獄行きを宣告されたりしたらどうだろう。あの恐ろしい責め苦を味わうことになるのだろうか。
 そんなのは嫌だ。
 恐怖のあまり、チルノはいやいやをするように首を振った。

「ここにあるのは罪を暴く浄玻璃の鏡。さて、貴方の罪はいかほどでしょう?」

 映姫が浄玻璃の鏡に目を向けると、眩い光と共に、酷くいびつなチルノの姿が映し出された。
 妖精はいわば自然の権化である。その中にあってチルノの存在は自然の大きな歪みだった。
 チルノの持つ冷気を操る力は自然の中にあってあまりにも不自然。瞬時に物を凍らせるほどの力は自然界には存在しないのだ。

「ふむ、やはり貴方は妖精にはあるまじき強大な力を持っているようですね。道から外れた大きな力、これは重い罪となります」
「嫌だ、あたい地獄になんて行きたくないよ!」
「静粛に。では他の者の意見も聞いてみましょうか。牛頭鬼、貴方はどう思いますか?」

 牛頭鬼と呼ばれた牛の顔をした鬼が荒々しい声で答えた。

「そうですねえ、四季様。俺ァやっぱり地獄行きがいいと思いますぜ。針山で串刺しにした後、地獄の業火で火あぶりにするんですよ。チルノの串焼きで一杯、なんつってね。四季様もどうです?」
「串焼きで一杯ですか。悪くありませんね。馬頭鬼、貴方はどうです?」

 馬頭鬼と呼ばれた馬の顔をした鬼が淡々とした声で答えた。

「串焼きうんぬんは置いておくとして、私も牛頭鬼と同意見です。四季様も仰っていましたがやはりチルノの力は妖精として道を外れた力。地獄行きが妥当かと」
「なるほど、二人の意見はよく分かりました。他に何かある者はいますか?」

 映姫はそう言って周りを見回した。チルノが気づかないうちに、裁判の場はいつの間にか恐ろしい姿の鬼達で溢れていたのだ。
 鬼達が一斉にチルノを見る。数え切れないほどの眼光にチルノはすくんでしまった。

「どうやら皆言いたいことがあるようですね。いいでしょう、お言いなさい」

 静かに映姫が告げる。
 その言葉を合図に、鬼達は口々に叫び始めた。

「冷たいチルノ。嫌われ者のチルノ。お前は地獄行きだ」

「そうだ! 地獄行きだ!」

「いびつなチルノ。お目の存在理由はなんだ!?」

「地獄行きだ!」

「カエルよりも弱いチルノ。思い上がったチルノ」

「地獄行きだ!地獄行きだ!」

「かわいそうなチルノ。お前は馬鹿にされていることに気づいていない」

「チルノを地獄へ落とせ!」

「チルノ、お前はお呼びでないぞ」

「そうだ、チルノを地獄へ! チルノを地獄へ!」

「虫みたいなチルノ。お前は向日葵にすらしてやらない」

「地獄行きだ! チルノを地獄へ落とせ!」

 襲いかかる地獄行きのシュプレヒレコール。
 どうしてだろうか。どんなに耳をふさいでも、鬼達の声はチルノにははっきりと聞こえた。

「静粛に! 皆、そこまでです。皆の意見はよく分かりました」

 白熱した場が映姫の一喝によって一瞬にして静まりかえる。
 いよいよ判決が下されるのか。鬼達が、そしてチルノが、固唾を飲んで映姫の言葉を待った。

「これより判決を言い渡します。妖精チルノ、貴方の持つ強大な力は非常に重い罪といわざるを得ず、また鬼達の言葉にあるように、貴方は冷たく虫みたいでお呼びでないのも事実である。よって酌量の余地はないものとみなし、チルノ、貴方には地獄行きを宣告します」

 無慈悲なまでの映姫の言葉。恐れていた結末をついに迎えてしまったのだ。
 地獄行き。
 地獄行き。
 地獄へ落ちれば地獄の業火で焼かれるのだろう。無数の刃で切り刻まれるのだろう。それからバラバラにされたり食べられたり、もしかしたらもっと怖いことをされるのかもしれない。そんなことを想像して、チルノはおなかの辺りがきゅっと縮こまるような感覚を憶えた。

「嫌だ……、嫌だよっ……!」

 今にも泣きそうな顔をして、スカートを強く握り締め、チルノは小さな声で叫んだ。
 やがて声は大きく、はっきりしたものへと変化していった。

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ絶対に嫌だ! あたい絶対地獄になんて行きたくない! 地獄になんて行きたくないよ!!」

 叫び、暴れるチルノ。だが牛頭馬頭の鬼が持つ屈強な肉体によってあっけなく取り押さえられてしまった。
 床に這いつくばりながらチルノは映姫をにらみつける。チルノを見下ろす映姫の目はまるで氷のように冷たくて、心の上へと重くのしかかるようだった。

「貴方がどんなに泣き叫ぼうとも判決が覆ることはありません。地獄へ落ちなさい、チルノ」

 映姫が言い放つのと同時にチルノは奇妙な浮遊感を感じた。床に大きな穴が開いている。
 どこまでもどこまでも、奈落の底めがけてチルノは真っ逆さまに落ちて行く。きっと行き着く先は地獄なんだろう。
 そんなのは嫌だ。
 だって地獄は怖いところだから。





「嫌だっ……!! 嫌だああぁぁぁぁぁぁ!!!!!」





 自分の声に驚いてチルノはがばりと跳ね起きた。
 時刻はおそらく真夜中。どうやらベッドの上にいるようだ。

「あれ……、夢……?」

 胸がものすごい速さで鳴っている。息も荒い。
 今夜は月が出ていないようで窓から差し込む光がなく、家の中は真っ暗だった。おまけに虫の声も聞こえない。今、チルノの世界を支配しているのは胸の鼓動と息遣い、そして暗闇だけである。
 あんなに怖い夢を見たのはきっと昼間に慧音の授業を受けたせいなのだろう。絶対にそうだ。本当に夢でよかった。
 夢で――――

「本当に夢、だったのかな……?」

 夢なのは間違いない。手にはしっかりとタオルケットを握っているし、暗闇に慣れてきたチルノの両目にはかすかに部屋の様子が見て取れた。
 だが、この暗闇は夢の中の景色を髣髴とさせた。
 奈落の底、地獄をめがけて落ちて行く。いったいどこまでが夢でどこからが現実なのか。
 チルノが暗闇を凝視すれば、闇はやがて凝り固まって見るも恐ろしい鬼の姿へと変生する。そして毛むくじゃらのごつごつした腕を伸ばし、チルノを捕まえようとするのだ。
 怖くなってチルノはタオルケットを頭までかぶった。鬼は、きっとすぐそこにいる。

『地獄行きだ!地獄行きだ!』

 頭の中で鬼たちの声がこだまする。

『さあてチルノ、どこにいる? 隠れても無駄だ。必ずお前を地獄へつれて行くぞ』

 きっと鬼達は自分を見つけるために部屋の中を歩き回っているのだろう。
 チルノはがたがたと震えながら視線だけを動かす。タオルケット越しに鬼達の姿がこちらを向いたような気がして、少しでも見つかりにくくなるようにチルノは必死に体を縮めた。

『チルノは地獄行きだ! チルノを地獄へ落とせ!』

 なかなかチルノが見つからず、痺れを切らしたような鬼達の声。
 目をきつく瞑り、どんなに耳をふさいでも鬼達の声はよく響いた。
 怖い。
 怖い。

「ふぇぇ……」

 鬼達による地獄行きの合唱はどんどん大きくなっていく。
 目のふちに溜まった大粒の涙は、今まさに溢れ出ようとしていた。
 怖い!
 怖い!!

「……ふぇぇぇん」

 ついに涙がこぼれ落ちた。一度こぼれてしまえばもう止められない。なにせ後から後からとめどなく流れてくるのだ。
 最強の自分が泣くなんて恥ずかしい。そんなふうにも一瞬思ったものの、恐怖と言う感情から逃れることなどできなかった。
 頬に伝う涙の温度を感じながらチルノは怖い怖いと泣き続けた。

「あたい、いい子にするからっ……! 地獄になんて行きたくないよ!!」

 うっかり叫んでしまい、チルノははっとして口元を押さえた。
 声が大きい。もしも鬼達に聞かれてしまったらきっと地獄に連れて行かれてしまう。
 地獄は怖いところだ。炎で焼かれたり刃で切り刻まれたりするという。きっととても熱いのだろう。きっととても痛いのだろう。何年も何十年も何百年も、永遠と思える間ただそれだけを繰り替えすのだ。考えるだけで気が変になってしまいそう。

「嫌だよ……。死ぬのは怖いよ……!」

 タオルケットの中、チルノは声を殺して泣き続けた。
 決して鬼に見つからないように。
 怖い想像を洗い流すように。



/



 幻想郷は今日も変わらず花に埋め尽くされていた。
 まるで彼岸を思わせる景色。これらの花のほとんどは、外の世界よりやってきた自分が死んだことに気づいていない霊であるという。
 そんな人間の霊たる花を一輪手の中でもてあそびながら、チルノは一人川のほとりに座っていた。
 大輪の花に混じってチルノの姿が水面に映し出されている。泣きはらしたせいで目が真っ赤だ。そよ風が水面を揺らすとチルノの姿はぐにゃぐにゃとゆがみ、やがて掻き消えていった。
 結局、昨日チルノは泣き疲れていつの間にか眠ってしまっていた。目覚めたとき、心細さのあまり誰かに会いたいと急いで家を飛び出したのだが、今日はまだ誰とも会っていない。
 そんな日もあるだろう、普段のチルノならそう考えたに違いない。だが、昨日あんなことのあったチルノには何か恐ろしい異変が起こったのではと思えてしかたなかったのである。

「まさか、みんな死んじゃったんじゃあ……?」

 チルノは慌てて否定した。そんなことあるはずがない。今日誰とも会えてないのは、きっとたまたまなんだ。
 けれどもチルノの心は重い。まるで大きな氷が心の上にのしかかっているようだった。
 これからどうしようかとチルノは考える。
 その時、一陣の風が舞った。

「おやおや? しょんぼりしているチルノさんを発見しました。いったい何があったのでしょうか。早速突撃取材を試みたいと思います」

 声を聞いてチルノが振り返る。
 巻き上げられた花が降り注ぐ中、一人の少女が立っていた。

「こんにちはチルノさん。清く正しい射命丸です」
「ブンブン……!」

 チルノは手にした花を放り投げて、文をめがけて駆け出した。文の下腹部あたりに顔を押し付けて、しがみつくようにして抱きつく。弾丸のようなチルノのタックルに文が小さくうめき声を上げたのも聞こえない。それほど文を放してはいけないような気がしたのだ。

「うぐぐ……。ど、どうしたんですかチルノさん」

 下腹部に広がる鈍痛をこらえながら、文は笑顔で尋ねる。

「朝から誰もいなくって、みんな、みんな死んじゃったのかと思った」
「はい?」

 チルノの言っている意味が分からずに、文は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。だが自分に抱きついたまま離れようとしないチルノを見るかぎり、何かあったのは間違いない。もしやこれは特ダネか。

「チルノさん、おなかに顔をくっつけたままじゃお話もできませんよ。そうだ、チルノさんにいいものをあげましょう。はい、どうぞ」

 文はスカートのポケットから紙に包まれた何か丸いものを取り出した。紙にはディフォルメされた赤ら顔の鼻高天狗の顔が印刷されている。

「何? これ」
「天狗印の飴ちゃんです。お山の外では滅多に出回らない希少品ですよ。何があったかよく分かりませんが、悲しいことや辛いことがあったのなら甘いものを食べるのが一番です」
「いいの?」
「もちろんですとも」

 チルノは包み紙を開いて飴玉を口に放り込んだ。甘酸っぱいイチゴの味がした。

「おいしい……」
「でしょう? 私も取材に出る時は必ず二つ三つは持って歩くんですよ」

 ああよかった、と文は思った。今にも泣き出しそうな顔をしていたチルノがもう笑っている。これならいろいろ話も聞けるかもしれない。

「ねえ、チルノさん。昨日も言っていましたが、もしかしてずっとセンチメンタルだったんですか? それならぜひ私が相談に乗ってあげます。私はこう見えてけっこう長く生きてますからね、気の利いたことの一つも言えるかもしれませんし」
「そんなこと言って、本当は馬鹿にしたりするんでしょ」
「しませんったら」

 文の言葉にチルノは少しだけ迷った。この胸の内を文に打ち明けてしまうのは少し恥ずかしい。それでも今は誰かにこの胸の内を聞いてもらいたいという思いが勝っていた。そうすれば胸にのしかかる氷も溶けてなくなるような気がしたのだ。

「えっとね、ブンブン、笑っちゃ嫌だよ?」

 そう前置きしてチルノは語り始めた。
 満開の紫色の桜の下、閻魔たる四季映姫・ヤマザナドゥと出会い、このままでは死ぬこともあるかもしれないと告げられたこと。
 彼女の言葉を受け、友達の誘いを断ってまで死について思い悩んだこと。
 上白沢慧音の寺子屋を訪ね、死について学ぼうと思ったこと。そこで三途の川や天界のこと、そして恐ろしい地獄の話を聞いたこと。
 ゆうべ、自分が死んでしまう夢を見たこと。とても怖い夢で、死んでしまうのが酷く恐ろしく思えたこと。

「それで、今日は朝から誰とも会わなかったから、もしかしてみんな死んじゃったのかと思っちゃって……」
「なるほどなるほど。だからチルノさんはあんなにもしょんぼりした顔をしていたんですね」

 チルノの告白を時に相槌を打ち、時にメモを取りながら聞いていた文はしみじみと頷いた。

「それにしても閻魔の奴はほとほとろくなことを言いませんね! わかりました。今度あいつに会ったら文句を言っておきましょう」
「でも、怖かったっていうのはちょっとだけだよ。あたい、ゆうべだって泣いたりしなかったからね!」
「本当ですか? 私だったら怖くてきっと泣いてしまうかもしれません。やっぱりチルノさんはすごいですね」
「当然だよ! あたいったら最強だもんね!!」

 チルノはえへんと胸を張った。文にはチルノが嘘をついているのが丸分かりだったが、あえて言わないでおいた。せっかく直った機嫌をわざわざ損ねることもないだろうと思ったからだ。

「ねえ、教えて。ブンブンは死んだらどうなるの?」
「私ですか? そりゃあ私は日々清く正しく生きていますからね、極楽往生に決まってますよ」

 そっかあ、とつぶやくチルノの声は少しだけ羨ましそうだった。

「チルノさんは死んだらどうなるんですか?」
「ん、と……。よく判んない」
「判らないんですか」
「うん。地獄に行くのは怖いけど、死んだ後にどうなるかなんて判んない」
「そうですか。でも、案外それでいいのかもしれませんね。感傷的なチルノさんも絵になりますが、やっぱり妖精は妖精らしく、難しいことなんて考えずに元気にはしゃぎまわっているのが一番ですね」
「あれ? もしかしてあたい馬鹿にされてる?」
「とんでもない。むしろ褒めてるんですよ」

 チルノは首をかしげている。それを見て、文はくすくすと笑った。
 気のせいか、周りの花の量が少しだけ減っているような気がした。もしかしたら彼らが自分の死に気付いたのかもしれない。

「……あたい、なんだか元気出てきた! 今ならすごいことができそうな気がするよ!」
「すごいことですか? 私、わくわくしてきました!」
「何をしようかな……。よし、今日は大ガマ退治に再挑戦だ!」
「大ガマ退治! ついにリベンジをするのですね!?」
「ブンブン、あたいのかっこいいところ、いっぱい記事にしてよね!」
「もちろんですとも。任せて置いてください!」



 死んだら自分はどうなってしまうのか、チルノはついに答えを見つけることができなかった。
 だがそれでいいのだろう。死を恐れるあまり生を疎かにしたのでは、きっと生きながら死んでいるのと大差ないのだ。
 いずれ死んでしまうことになったとしても、生きているうちは生きていよう。それに、もしかしたら答えが見つかる日もいつかやって来るかもしれない。
 もしその日が来たとしたら、その時自分は一体何を思うだろう。


 そんな事を考えて、チルノは歩き始めた。
こんにちは、チルノは賢者の卵じゃないだろうかと思っている権兵衛です。
花映塚のチルノストーリーにおける、IFのエピソードを妄想してみました。

つたない文章ではありますが楽しんでいただけたら幸いです。



※誤字修正しました。ご指摘ありがとうございます。
権兵衛
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コメント



0.1280簡易評価
6.90名前が無い程度の能力削除
中々良かったです。
ただチルノに言う前にこっちにもグロ注意的な何かを…
7.70名前が無い程度の能力削除
> 台座の上へ上げらる
誤字でしょうか。

チルノの悩みっぷりが上手く表現されていて良いと思いますよ。
15.90名前が無い程度の能力削除
もう少しチルノが立ち直る様子を見てみたかった気がします。
悩んでいるチルノも幼子のようで可愛いですが、チルノにはいつまでも元気に遊んでいて欲しいものです。
16.90コチドリ削除
物語の前半が結構重たい雰囲気で進んでいたので、
最後がちょこっとあっさりしていたかな、と思いました。
それでもやっぱり良いお話だなぁ。

チルノが賢者の卵というのはとっても同意です。
物凄く時間をかけて賢者に至り、さらに同じ位時間をかけて偉大な愚者に回帰する、
みたいな感じでしょうか。
26.100名前が無い程度の能力削除
すごく良かったです
チルノとあややかわいいなぁ・・・
32.100名前が無い程度の能力削除
これはとてもいいチルノ。そして慧音が素敵だ…
地獄の描写はチルノと同じく固唾を飲んでしまいました。