Coolier - 新生・東方創想話

七人の紅い咎人 -wrath-

2010/06/23 23:23:24
最終更新
サイズ
81.27KB
ページ数
1
閲覧数
1770
評価数
8/37
POINT
2100
Rate
11.18

分類タグ


 私が生まれた時、その周囲は苔の生えた岩肌に囲まれており、私の裸体はその峻烈な寒さに震えた。
 はたと気付けば、私の目の前には一人の老人が立っていた。髪も髭も、雲のように白く長く広がり、着ている着物もまた真っ白であった。そう、後から思えば『仙人』と形容するのが一番当てはまる。
 老人は私の顔をまじまじと見つめると、やがてゆっくりとした足取りで私へと歩み寄ってくる。私はまっすぐに老人の目を見つめ返し、ただそこに待ち受けた。
 彼はその枯れ枝のような細い腕を震わせながら、私の肩へと嗄れた手を持っていった。そして、その両手で私の両肩をぐっと掴むと、瞳には涙を湛えながら、髭に埋もれた口を開いた。

「そうだ、お前の名前は美鈴。美鈴、お前は扉を守るんだ……扉を守るんだよ……」

 涙を流しながら私に言い聞かせるように語りかける老人の言葉は、私の耳に激流のように流れ込んできた。その言葉が頭の中で何度も共鳴して、私はそこで生まれた。




    ◇    ◇    ◇




 僕はお姉ちゃんが大好きだ。

 といっても、お姉ちゃんは僕の本当のお姉ちゃんじゃない。お姉ちゃんっていうのは、僕の家の隣に住んでいるリンお姉ちゃんの事だ。
 僕は一人っ子で兄弟もいないし、お父さんとお母さんは揃って都に仕事に出掛けている事が多い。だから、昔っからお姉ちゃんが僕の家に来て、僕の面倒を見てくれているんだ。
 一緒に御飯を作ったり、一緒にお風呂に入ったり。それにお姉ちゃんに山へ遊びに連れて行ってもらう事が、僕はとても好きだった。

 今もお父さんとお母さんは出かけちゃっているから、お姉ちゃんが僕の家にやって来ている。お姉ちゃんはちょうど今、夕飯の支度をしてくれているんだ。

「ヤン、支度が出来たなら手伝って」

 家の中からお姉ちゃんの声が聞こえてきた。僕は家の前で、大事な牛の世話をしている。僕は子供だけれども、お父さんから牛の世話の仕方については教えてもらっているから大丈夫。これが僕の大切な仕事なんだ。
 僕は牛に餌をやり終えると、駆け足で家の中に戻っていった。うちは貧乏だから家もボロボロ。だけど家の戸締りは、ちゃんと出来るようになってるから安心して。

「ただいま!お腹すいたなぁ」

 僕は大声で言いながら台所に走ると、お姉ちゃんから夕飯の盛られたお皿を受け取る。ちなみに、お姉ちゃんは僕よりも9つも上だから、背は僕よりもずっと高い。
 お姉ちゃんの家のおばさんが言うには、同い年の女の子の中でも、とびきり背が高い方なんだって。

 だからね、お姉ちゃんは喧嘩も強いんだよ! あ、喧嘩って言っちゃ、お姉ちゃんにまた怒られちゃうや。
 お姉ちゃんがやっているのは、喧嘩じゃなくて拳法っていうらしい。お姉ちゃんは才能を見込まれて都に数年間、拳法を習いに行っていたんだ。その間は僕も寂しかったけど、帰ってきたお姉ちゃんはすごく強くなって、僕はお姉ちゃんをもっと好きになった。
 ガキ大将のシュエンの奴が僕を苛めてきても、ゲンコツ一発で退治してくれるし、きっとうちに泥棒が入ってきたって退治してくれるはずさ。だから僕は、お姉ちゃんが家にいると安心出来る。

「ねぇ、ヤン。今夜もちゃんと戸締りをして寝るのよ。最近は凶作で、ここら辺でも山賊なんかが横行しているらしいの。山向こうの村でも一家が襲われて、女の子が一人殺されちゃったんですって……」

 顔を合わせて食事をしていると、お姉ちゃんは不安そうな声で、僕に教えてくれた。でも、もう知ってるよ。だって昨日からずっと、お姉ちゃんはこの話ばっかりなんだもの。

「へへ、悪い奴がやってきても大丈夫だよ。だって、悪い奴なんか、お姉ちゃんが拳法でやっつけてくれるんでしょ?」

 僕はふかした芋を齧りながら、お姉ちゃんに言った。きっとお姉ちゃんなら、山賊なんてイチコロに違いない。

「ええ、そうね。盗賊がヤンの所にきたら、そんな奴は私がやっつけちゃうわ」

 お姉ちゃんはニッコリと笑って力こぶを作るような仕草をして、僕にそう言ってくれた。やっぱりお姉ちゃんは頼りになるなあ。
 だけれど、僕だって男だ。女のお姉ちゃんにばっかり頼ってもいられない。……僕は最近、そう思うようになっていたんだ。

「でもさあ、お姉ちゃん。僕も拳法を習って悪者を退治出来るようになりたいなあ。ねぇ、僕にも拳法を教えてよ!」

 僕はそう言って、正拳を目の前に突き出した。この拳で悪い奴を倒したら、お姉ちゃんもきっと僕の事を見直すよ。だって、お姉ちゃんは僕をいつまでも子供扱いするんだもの。

「え? うーん、私かあ。……私に習うよりもファンに直接習った方が良いと思うわ」

 お姉ちゃんの言葉に、僕はちょっと不機嫌になる。
 ファンさんは都に住む拳法道場の師範で、お姉ちゃんを都に連れていった人だ。お姉ちゃんの拳法の師匠なんだけど、お姉ちゃんの家のおじさんが言うには、リンお姉ちゃんはファンさんの事が好きなんだって。後一年もすれば、お姉ちゃんは都に行って、ファンさんと結婚しちゃうかもしれないんだって言ってた。
 僕は、お姉ちゃんを都に連れ行ってしまうかもしれないファンさんが、嫌いだ。

「え、僕はお姉ちゃんに教わりたいよ」
「私だってまだ修行中の身よ。来月にもファンが村に寄るらしいから、言っといてあげようか?」
「……いいよ、僕はお姉ちゃんに師匠になってもらいたいんだ」

 僕はムッとしたまま、夕飯を食べ終わった皿を下げた。食器を洗うのは僕の仕事だからね。
 お姉ちゃんは、何故かクスリと笑うと、僕に向かってこう言った。

「分かったわ、じゃあ私がヤンの師匠になってあげる」




    ◇    ◇    ◇




 お姉ちゃんの髪は黒い。いや、村の人も都の人も、皆みんな黒いんだけど。でも。お姉ちゃんの髪は特別に黒いんだ。
 まるで墨で綺麗に塗ったみたいな色、腰まで伸びた髪の毛は、まるで生きてるみたいによく動く。三つ編みにした横髪は、動きに合わせて元気に跳ね上がる。
 お姉ちゃんの手足は長いなあ。僕も同じ年齢になったら、あれくらい長くなるのかなあ? その頃には、お姉ちゃんは、もっと長くなるのかなあ?

 僕はお姉ちゃんの拳法の練習を見ながら、そんな事を考えていた。
 まるでそこに悪者がいるみたいに、お姉ちゃんは拳や蹴りを、何もない空に向けて繰り出している。

 少しの間そうしていると、お姉ちゃんが汗を垂らしながら僕の方に近づいてきた。

「なんだヤン、いたの? 何をしているのよ」
「だって僕の家の前でやってるんだもの。そりゃ気になるよ」

 お姉ちゃんは何故か自分の家じゃなく、いつも僕の家の前で、朝の拳法の練習をしている。
 それはお姉ちゃんの家のおじさんが、お姉ちゃんが拳法をする事が嫌いだからなんだって。そんな噂を友達から聞いたよ。

 まあ、それはそうと。僕がお姉ちゃんの練習風景を見ていたのには訳がある。だってお姉ちゃんったら、いつまで経っても、僕に拳法を教えてくれないんだもの。だから、僕の方から教えてもらいに来たんだ。

「お姉ちゃん、いつになったら僕に拳法を教えてくれるの? もう、あれから一週間は経っちゃうよ」

 僕の言葉にお姉ちゃんは「あっ」と小さな声を漏らした。そして口に手を当てると、ブルブルと首を横に振った。お下げも一緒に横に震えた。

「あ、いや。忘れてたわけじゃないのよ? ヤンの心の準備が出来るまで待っていたのよ」
「もうとっくに出来てるよ。一週間前から出来ているよ」
「ごめん、ごめん。それじゃあ、まずは基本の基本からね」

 お姉ちゃんはそういうと、何時もみたいに拳を身体に引きつけて構えを取った。これは僕も知っている、正拳突きの構えだ。

「ハッ!」

 大きな気合の言葉と共に、お姉ちゃんの腕が真っ直ぐに伸びる。ビュッと音を立てて繰り出される拳は、何時見てもカッコいいと思う。

「この正拳突きが、拳法の基本よ。さぁ、ヤンもまずは、これを練習しなさい」
「うん、分かった」

 僕はお姉ちゃんに構えを教えてもらいながら、正拳突きに挑戦する事になった。
 お姉ちゃんに手取り足取り、構えを教えてもらった僕は、とりあえず初めての正拳突きをする。

「さぁ、気合と共に空を突くのよ」
「……えいっ!」

 僕は喉から声を出せるだけ出して、右手を前に突き出した。でも僕の拳は、お姉ちゃんみたいにカッコいい音は出してくれなかった。ただ、真っ直ぐに伸びただけで、早さも強さも無いのは自分でも分かっちゃった。

「ふふ、まだまだね。でも、私も最初はそうだったわ。それを毎日続けていくと、やがて私みたいな拳も打てるようになるわよ」
「うーん、まだまだ時間がかかりそうだなぁ……。すぐに強くなりたいのに……」

 僕はちょっと落ち込んだ。こんな調子じゃあ、いつまでもお姉ちゃんに追いつけない。
 だって僕が上達したと思ったら、お姉ちゃんはそれよりもどんどん先に強くなっていっちゃうに違いないからね。

「あら、ヤン。何をそんなに急いで強くなる必要があるの? まさか拳法家を目指そうっていうんじゃないでしょ?」

 お姉ちゃんはしゃがみ込んで、僕と同じ目線になってそう言った。その明るい笑顔は、僕が好きな一番のお姉ちゃんの顔だ。

「だってさ、悪いヤツがやってきたら、僕もお姉ちゃんと一緒に戦おうと思ってたのに。これじゃあ間に合わないよ」

 僕の真剣な悩みに、お姉ちゃんは失礼にも笑い出した。僕はちょっとムッとした。

「あっはっは、ヤンも悪者を倒してくれるの? ありがとう、でもね悪者が来ても戦おうとしちゃあダメよ。ちゃんと家の中に隠れていること」
「でも、鍵を掛けてても悪いヤツは構わずに入ってくるよ。そしたら戦わなきゃ」

 僕はなんとしてもお姉ちゃんの役に立ちたかった。一緒に悪いヤツと戦いたかったんだ。
 お姉ちゃんは僕の言葉を聞いて分かってくれたのか、右手を僕の肩にポンと置いて「うん」と頷いた。

「そういえば、ヤンに渡しておきたいものがあったわ。ちょっと待ってて」

 お姉ちゃんはそういうと、駆け足で自分の家の方に走っていった。
 僕の家からお姉ちゃんの家までは、畑三つ分くらいだ。お姉ちゃんなら、あっと言う間に行って帰ってこれる。
 僕の村は家と畑以外になんにも無い平地だから、ここからお姉ちゃんの動きも全部見られる。
 お姉ちゃんは自分の家に入っていくと、ちょっとして直ぐにまた出てきた。そして長い足をスゴイ速さで動かして、あっという間に僕の所に帰ってきた。

「はい、ヤン。これをあげるわ」
「なにこれ?」

 お姉ちゃんの右手から、僕は何かを受け取った。僕の掌に乗せられたそれは、金ピカの小さな鈴だった。僕の手の中でそれは、チリンと綺麗な音を奏でる。

「わぁ、綺麗だなあ。でも、これは何なの?」
「それは私の宝物! 死んじゃったお祖母ちゃんが、私にって都から買ってきてくれたものなの。それをお守り代わりに持っているといいわ。悪者が来ても扉を破られないようにって、おまじないして、扉の錠へつけておいてね」
「ふーん、綺麗な鈴だなあ。ありがとう、お姉ちゃん! ……でもさぁ、扉の外につけてたら悪者にこの鈴を取られちゃうよ」
「それでいいのよ」

 僕は結局、お姉ちゃんがなんでこの鈴をくれたのか、良く分からなかった。でも、お姉ちゃんからもらった初めての贈り物だし、見た目も音も綺麗だから、本当に嬉しかった。

 僕は早速、家の扉に駆け寄ると鈴を錠前にくくりつけた。試しに扉を開け閉めしてみると、その度に「チリン、チリン」と綺麗な音が響いた。

「えへへ、綺麗な音ね。この音を聞いたら、私が駆けつけて悪者をやっつけてあげるわ」
「なんだ、結局お姉ちゃんが倒しちゃうの? じゃあやっぱり、僕も練習して早く強くならなきゃなあ」

 僕は金ピカの小さな鈴を宝石のように大事に思いながら、惜しみつつ扉にそれを残した。お姉ちゃんからの大切な贈り物を扉につけたままにしたのは、僕にはそれが、本当に扉を守ってくれるおまじないに見えたからなんだ。




    ◇    ◇    ◇




 牛の世話を終えた僕は、お姉ちゃんと山に遊びに来ていた。遊ぶといっても、一緒に鳥の鳴き声を聞いたり、山菜を採ったりするだけ。でも、それが僕にとっては最高に楽しいんだ。

 今日はとてもいい天気で、ちょっと暑かったから、僕らは山の中を流れる小川に足を入れて二人で涼しんでいた。すると、お姉ちゃんが僕に向かってこう言ったんだ。

「ヤンは大人になったら、何になりたいの?」

 お姉ちゃんの質問に、僕はなんて答えたらいいか分からなかった。僕はそんな事を考えもしていなかった。
 でも改めて考えれば、お父さんの手伝いをして畑を耕したり牛を育てたりしていくのが、大人になった僕の姿なのかな、と思う。

「分からないけど……。多分、お父さんと同じ事をしているんじゃないかなあ」
「ふふ、それはヤンが『こうなるかも』って予想する姿でしょ? そうじゃなくって、ヤンが『なりたい』姿ってないの?」

 お姉ちゃんは首を少し傾けて、両足をゆっくり揺らした。水飛沫が小さく跳ねる。
 でも、そんな事を言われても、やっぱり僕には分からない。自分がなりたい姿って? 僕はこのままお姉ちゃんと一緒に遊んで、それで平和に暮らせればいいや。

「まぁ、ヤンには分からないっか。……私はね、自分がなりたい姿があるの」

 お姉ちゃんは足を動かすのを止めて、青い空を見上げた。僕はそのお姉ちゃんの横顔を見て、何かお腹がぎゅっと締め付けられるような気持ちになった。なんだろう、これは。

「私ね、大人になったら都に行きたいの。そしてファンの道場を手伝いながら、どんどん拳を磨いていきたい」

 そのお姉ちゃんの言葉を聞いた僕は、ますますお腹がぎゅっと痛くなった。少し気持ち悪くなってきた気もする。
 ちょっと待って欲しい。僕はお姉ちゃんの言葉を聞きたくなくなっていた。

「お父さんは私に村に残って、そのうちこの村の人と結婚して欲しいみたいだけど……。でも私は、もっと広い世界で挑戦をしたい。そして心の底から信頼出来る人と、共に歩んで行きたいと思ってるの」
「……そうなんだ。……お姉ちゃんが大人になるのって、半年後だよね」

 そうだ、この村では16歳になったら大人って認められて、結婚も自由に出来るんだって聞いたよ。だから、お姉ちゃんは半年後に大人になるんだ。

「うん、そうなの。だから、私が大人になったら……お父さんに反対されてても私……」

 お姉ちゃんの話を聞いていたら、僕のお腹はどんどんと痛くなってきた。でも、その痛みがすっと消えたかと思うと、僕は無意識のうちに思いっきり足を水面に叩きつけて、大声を上げていたんだ。

「やだ! やだ!! お姉ちゃんと離れるなんて嫌だぁ!」

 僕は気付けば、お姉ちゃんに向かって声を張り上げていたんだ。知らない間に、僕は涙も流していたよ。顔も熱くて、きっとお姉ちゃんから見たら、僕の顔は真っ赤っかに染まっていたに違いない。

「ヤン、大丈夫。都に行ったとしても、年に何度かは村に帰ってくるわ。……お父さんが許してくれるかは、分からないけど」

 僕は「そういう事じゃない」って叫びたかった。でも、何が違うのかを説明は出来なかった。だから、ただ大声を張り上げて、お姉ちゃんを困らせるしかなかった。

「ヤン、私も貴方と離れて暮らすことになったら悲しい。でも、きっと辛いときや悲しい時には、この村の風景と共に貴方を思い出すわ。そうすれば、私の心はいつでも故郷に帰ってこれる」

 お姉ちゃんは僕をそっと抱きしめた。僕の涙はお姉ちゃんの服に吸い込まれていって、僕の叫びも柔らかいお姉ちゃんの身体に受け止められてしまった。

「さぁ、帰りましょう。今日の晩御飯はこの山菜を使って、美味いのを作ってあげるわ」

 お姉ちゃんは僕の背中を軽く叩くと、採った山菜がたくさん入った籠を担いで歩き出した。僕はその後姿を見て、まだジリジリと熱い顔と目玉を、川の中に突っ込んだ。

「ぷはぁ!」

 川の中から引き上げた僕の顔は、綺麗さっぱりに洗われた。こうすると、僕の心の中まで綺麗に洗濯されたみたいだ。

 僕は、決心した。そうだよ、お姉ちゃんが頼りにしてくれるような、そんな男に僕がなればいいだけじゃないか。
 やっぱり拳法をもっと頑張って、お姉ちゃんに頼りにされるような大人にならなくちゃいけないんだ。

 でも、僕が大人になるまで、お姉ちゃんは待っていてくれるかなあ。




    ◇    ◇    ◇




 僕は今、こっそりとお姉ちゃんの後を尾けている。バレないように、木の陰に隠れながらこっそりと、こっそりと。

 それは昨日の事だった。僕が何時ものように家の前で正拳突きをしていると、一頭の馬が村の中を駆けてきたんだ。
 その馬は僕の前で止まった。そして、馬の乗り手が僕に話しかけてきた。

「やぁ、久しぶりだなヤン君。君も拳法の練習を始めたのかい?」

 そう、この人がファンさんだ。度々こうして僕の村にやって来ては、リンお姉ちゃんに会いに来るのだ。僕は正拳突きを続けながら、ファンさんの顔を見ずに答える。

「お久しぶりです、ファンさん。リンお姉ちゃんに教わったんです」
「そうか、筋がいい。……邪魔したな。頑張ってくれ! それじゃあ失礼する」

 ファンさんは一刻も早く、お姉ちゃんと会いたいのだろう。慌てるように馬に鞭を入れて、颯爽と隣の家に向かっていった。
 僕は練習を止めると、ひっそりとお姉ちゃんの家まで近寄っていった。ファンさんは馬を家の前において、お姉ちゃんの家に入っていったみたいだ。僕はこっそりと中の様子を伺った。

「お父さん、お久しぶりです。お元気そうで何よりです」

 ファンさんが挨拶をしたみたいだけど、おじさんの返事はなくって、家の中は数秒の沈黙に包まれた。間をおいてから、それを取り繕うようにおばさんの声が応えた。

「あんた、ファンさんが折角挨拶しにきたんだ。返事くらいしなさいよ」

 だけど、そこにいるらしいおじさんは、ファンさんに返事をしなかった。僕はおじさんの気持ちが良く分かる。僕だって半分は無視したんだ。おじさんが完全に無視したっておかしくはない。

 結局は、おじさんは折れなかった。ファンさんは挨拶だけして、自分の家に帰る事にしたみたい。
 そう、ファンさんはこの村の出身なのだ。ここから三軒ほど離れた家には、ファンさんのお母さんが一人で暮らしているらしい。だから今日は、そこに泊まるのだろう。

 だが、問題は次の日だった。僕は早朝から朝ごはんを自分で作って食べ、外に出た。扉を開けるとチリン、チリンと、お姉ちゃんの鈴が僕を送り出してくれる。
 さぁ、今日は朝の練習はお休みだ。お姉ちゃんが都に行ってしまわないように、僕がおじさんの代わりに監視するのだ。

 その為にお姉ちゃんの家を遠巻きに観察していた僕は、午前中は何事も無くて安心した。だけど油断は禁物だ。

 案の定、午後になると馬の蹄が遠くから聞こえてきて、ファンさんが颯爽とお姉ちゃんの家にやってきた。
 そして、家の中に入って暫くすると、お姉ちゃんを連れてファンさんが出てきた。

「大変だ! おじさんは何をしているんだ」

 僕は驚いて二人の後を尾行する事にした。でもファンさんは、お姉ちゃんを馬に乗せると自分もそれに跨って、さっさと森の方へと向かってしまった。
 僕は馬を持っていない。それに馬自体乗れない。僕は必死になって二人の後を追った。
 馬には到底追いつけないけど、なんとか見失わないように僕は全力で駆けた。だけど、そのうち馬は僕の視界から消えてしまって、僕はただ蹄の跡を頼りに全力で走るしかなかった。

 暫く走って、もう足も動かなくなってきた時。森の入口で、木に馬が繋ぎとめられているのが僕の目に入った。

「やった、追いついた!」

 僕は息を切らしながら、慎重に馬の前を通って森へと入ったんだ。馬も息が荒く疲れているようだったから、ここに着いてから、まだそんなに時間は経っていないと僕は思ったよ。
 だから、慎重に二人の足跡を見極めながら、二人の後を追って森の中を歩いていったんだ。

 この森の先には、見晴らしの良い崖しかない。そこには村の人達が作った、お墓が並んでいるはずだ。
 なんでそんな所に行くのかは分からないけれど、とにかくお姉ちゃんが今から都に行くわけではないと分かって、僕は胸をなでおろした。

「あ、いた」

 僕は思わず声に出してしまった。慌てて口を自分の手で塞いだけど、運良く二人には気づかれなかったみたい。

 お姉ちゃんとファンさんは、二人並んで森の中を進んでいる。やっぱり、お墓のある崖に向かってるみたいだ。
 何かを話しているみたいだけれど、ちょっと遠すぎて聞こえないな。

 それにしてもファンさんは大きい。歳はお姉ちゃんと同じくらいだというのに、拳法の道場を一人でやっていて弟子も沢山いるそうだ。
 身体にしたって鍛えているんだろう。腕は僕の身体くらい太いんじゃないかと思う。顔もカッコいいと、僕だって思う。
 でも、お姉ちゃんがなんでファンさんを好きなのかは分からない。いや、本当に好きだって決まったわけじゃない。この間だって『信頼出来る人』ってだけで、お姉ちゃんはファンさんの名前を出してはいないじゃないか。
 そうだ、きっとおじさんの杞憂に違いないさ。

 やがて二人は、例の崖に辿り着いた。崖は行き止まりだから、僕もゆっくりと近づいて、二人の会話が聞き取れるところまできた。
 お姉ちゃんはファンさんの腕を抱いて、静かに崖の向こうに広がる絶景を見ていた。……僕だって、お姉ちゃんと一緒に、ここから景色を見た事くらいあるよ。僕はおんぶされていたけど。

「綺麗だな。いつみても」
「貴方も良くここに来ていたの?」

 ファンさんは普段、ムッとした表情をしていて怖い感じがする人なのに、お姉ちゃんと二人きりの時はすごく優しい顔になる。お姉ちゃんもそうだ、僕と一緒にいる時は子供っぽくて明るい笑顔なのに、ファンさんといる時はなんだか、とても落ち着いている。……でも僕は、明るい笑顔のお姉ちゃんの方がいい。

「お父さん、やっぱり駄目ね。ファンの事を認めてくれないのかしら」
「認めてもらえるまで、待つさ」

「……私は、待てないわ。ファン」
「リン……待っては、くれないか。死んだ親父にも言われたんだ。婚姻する時は相手の親にきちんと納得させろ、ってな」

「ファン……」
「……リン」

 僕の見ている前で、二人は顔を見合わせ、そしてやがて、口づけをした。

 僕はその日の事は、よく覚えていないんだ。確か、必死で口を自分の手で押しつぶしながら森を走っていった。そして馬の脇を通ると、首を上下左右ムチャクチャに振りながら自分の家まで走った。
 そして、その日にお姉ちゃんが夕飯を作りに来てくれたんだけど、僕は扉の錠を開けなかったのも覚えている。しばらく扉を叩く音に合わせてチリン、チリンと鈴が鳴っていたけど、その時の僕には、その音がたまらなく五月蝿かったんだ。




    ◇    ◇    ◇




「おはよう、ヤン。今日も頑張ってるわね」

 お姉ちゃんが正拳突きの練習をしている僕に向かって、今朝も話しかけてきた。きっとお姉ちゃんは、いつもみたく明るい笑顔で僕に話しかけてきたんだろうな。でも、僕はその笑顔を見るのが嫌だったから、お姉ちゃんの声のする方を見なかった。そして返事もしないで、正拳突きを繰り返していた。

「ねえ、ヤン。この前から返事をしてくれないけど……。私、ヤンに嫌われちゃったのかしら?」

 明るい調子で言う、お姉ちゃんの声が、今の僕には本当に嫌だった。あんなにお姉ちゃんと話すのが好きだったのに。あんなにお姉ちゃんの笑顔を見るのが好きだったのに。今はそれが、たまらなく辛くて、たまらなく腹が立ってしまう。

「ヤン、明後日は貴方の誕生日でしょう? 私もお母さんと一緒に、ご馳走を作ってあげるわ。それまでに仲直りしましょう?」

 お姉ちゃんは変わらずに、明るい声で話しかけてくる。だけども僕だって負けじと、一向に正拳突きだけをする。

――ビュッ

 返事をするように、僕の拳が空を切って鋭い音を響かせた。お姉ちゃんは「またね、お夕飯作りにくるわ」といって立ち去っていく。

 僕はその後しばらく練習を続けた後に、少し疲れを感じたので切り上げて家へと戻った。
 家の扉を開くと錠に括りつけた小さな鈴がチリン、チリンと綺麗な音を響かせる。家の中に入って扉を閉めるとまたチリン、チリン。

 僕はこの鈴の音が、とても好きだった。家に出入りする度に「いってらっしゃい」と「おかえり」を言ってくれているみたいで。そして、それがお姉ちゃんの声みたいで。
 でも今の僕にとっては、この鈴の音が、聞いただけで腹の立つ不快な音になっていた。だって、この鈴の音はお姉ちゃんの声のようなんだもの。
 そう、扉を開け閉めする度に僕に話しかけてくる鈴が、たまらなく嫌になった。

「あぁぁぁぁぁ!」

 僕は振り返って扉を勢い良く開けると、外に飛び出してぐるりと振り返る。そして開きっぱなしの扉の錠に垂れ下がり、チリンと鳴っている鈴を右手で掴んだ。

「うわああ!」

 僕は軽く右手を上げた後、思いっきりその手を振り下げた。そして鈴と錠を繋いでいた紐を引きちぎる。
 ずきり、僕の胸に何かの破片が刺さったような痛みが走った。だけれども、それを振り切るように僕は、手の中にある小さな鈴を地面へと叩きつけた。
 チリン。悲しそうに金ピカの鈴は、地面の上で鳴った。それがますます、僕の心に怒りを生んだ。

「あぁぁ!」

 僕は言葉を忘れたかのように、ただ叫んだ。そして小さな金ピカの鈴を踏みつけた。二度、三度、踏みつけた。
 ずーっと大事にされてきて新品同然だった鈴は、少し歪んで泥まみれになった。

「わああ!」

 僕は最後に叫ぶと家の中に飛び込んだ。扉の錠をかろうじて閉じると、床の上に転がって、溺れたように手足を振り回してもがいた。

 どうしてだろう。あんなに好きだった鈴を、お姉ちゃんの大事な鈴を、扉を守ってくれると信じていた鈴を、僕は自らの手で汚してしまった。

 僕は、また泣いていた。もう、どうしたらいいか分からないんだ。教えて欲しいよ、どうしたらいいのか分からないんだ。

 おなかがすいた。ふと顔を上げると、台所が目に入る。小さなボロボロの家の中でも、お姉ちゃんがいつも使っている台所は綺麗なままだ。僕はその台所すらも嫌いになった。僕は何もかも嫌いになってしまった。




    ◇    ◇    ◇




「ヤン、ご飯を作りに……」

 その日の夕方の事だった。お姉ちゃんが僕の家の玄関前から言った台詞で、僕は昼寝から目が覚めた。そして、お姉ちゃんの台詞が途切れた理由も、僕は知っている。

 チリン。鈴の音が扉の向こうから聞こえてきたよ。そうだ、お姉ちゃんは夕飯を作りに僕の家にやってきて、そして扉の前に捨てられた鈴を発見したに違いないさ。

 僕はこれで、お姉ちゃんに嫌われた。でも、僕の方が先にお姉ちゃんを嫌いになっちゃったんだから、今更嫌われたって痛くも痒くもないさ。
 でも何故だろう。僕はお姉ちゃんに嫌われたと思うと、鼻の奥が熱くなってくるんだ。そして目もじんわりと熱くなってくるんだ。

 扉の向こうから、音がしなくなった。お姉ちゃんは怒るのかな、悲しむのかな。いや、両方だろうな。もう、僕には口もきかなくなって、ファンさんと一緒に都に行っちゃうんだろうな。

 そう考えると、もうダメだ。僕の目からは涙がポロリポロリと落ち始めた。なんでお姉ちゃんを無視したんだろう? なんで鈴に酷いことをしたんだろう?

 チリン。もう一回だけ鈴の音が扉の向こうから聞こえてきた。それっきり、音沙汰がなくなってしまったので、僕はついにお姉ちゃんが帰ってしまったのだと思った。

「お姉ちゃん……」

 僕は服の袖で涙を拭うと、扉に向かって歩いた。錠を外すと、ゆっくり扉を開く。

 チリン。鈴の音が僕に語りかけてくる。だけども僕が踏んづけたせいで形は歪み、前よりも綺麗な音ではなくなってしまった。

「お姉ちゃん……うう」

 僕はまた涙が溢れてきた。外に出て扉を見ると、錠前に鈴が括りつけられている。だけども金ピカだったその鈴は、薄汚れて形も歪になってしまった。

「ダメじゃない、ちゃんと鈴は扉につけておかないと」

 僕はびっくりして、声の方向に首を向けた。開け放った扉の裏側には、食材の入った籠を抱えたお姉ちゃんが立っていた。

「あ、ああ、あ」

 僕は言葉にならなくて、ただ声を漏らした。お姉ちゃんは籠をそっと地面に置くと、ゆっくりと僕に近づいてきた。

「ごめんね、ヤン。私がヤンに嫌われちゃうような、酷い事をしちゃったのね? どうか許して……。仲直りしましょう?」

 お姉ちゃんは地面に膝を着いて、僕をぎゅっと抱きしめてくれた。ああ、やっぱり僕はお姉ちゃんが好きなんだ。抱きしめられると、さっきまで悩んでいた事なんて些細な事に感じてしまうんだから。

「でもね、この鈴は大切にして欲しいの。これは私のお祖母ちゃんがくれた大切なものだし、それにヤンの家を守ってくれる大事なお守りなんでしょ?」

 お姉ちゃんは叱るという感じではなく、僕にお願いするように優しい声でいった。ああ、もうダメだ。やっぱり僕は涙を止める事ができない。

「うう、うわあああ! ごめんなざい、ごめん、ごめんなざい……!」

 僕は無茶苦茶に、叫ぶように謝った。今までお姉ちゃんを無視して酷い態度をとったり、鈴を踏んづけてしまったこと。もう、この数日間の全てを謝りたかった。
 お姉ちゃんは何も悪くないのに、僕はお姉ちゃんに酷い事をした。それでもお姉ちゃんは、僕を責めたりしなかった。
 それが僕の心に、何か毒を癒すような、力強い支えをくれた。

「ほらほら、あんまり泣いてると村の皆が心配するわよ。お腹も空いたでしょ? 家に入って支度をしましょう」

 お姉ちゃんは「よいしょ」と僕を抱きかかえると、家の中に入っていった。僕はしばらくの間、泣き止む事はなかったけれど、その日を最後にお姉ちゃんと喧嘩をする事はなくなった。

 チリン。閉じた扉の向こうで、小さい鈴が綺麗な音を奏でてくれた。僕はこの鈴の音が大好きだった。




    ◇    ◇    ◇




 今日は僕の誕生日! お姉ちゃんの家で、僕の誕生日を祝ってくれるんだって! 楽しみだなぁ。

 今、僕はお姉ちゃんと一緒に、隣の村まで続く道を歩いている。なんと隣の村に住んでいるお姉ちゃんの親戚が、鶏を一羽ご馳走してくれるらしい。だから、それを受け取りに行くんだ。
 僕は期待で自然と早足になりながら、山の中を通る細い道を進んで行く。

「楽しみだなぁ。おばさんの作る料理って、すごく美味しいよね」
「あら、私が作ってあげてる料理だって、お母さんに負けないくらい美味しいでしょ?」
「うん、そうだね。でもお姉ちゃんの料理の師匠は、おばさんでしょ? だからおばさんの方が、料理も上手いと思うよ」
「そんなこと言ってたら、もうヤンのご飯作ってあげないわよ~?」

 お姉ちゃんは僕のほっぺを摘まんで、グイグイと引っ張った。僕はほっぺが赤くなってヒリヒリしたけど、お姉ちゃんとこうして、また話すことが出来るようになって本当に良かったと思う。

 僕とお姉ちゃんは、隣村へとやってきた。こっちの村は僕らの村よりも、少しだけ活気がある。商人たちがよく通る道が、この村の近くにあるからなんだって。

 お姉ちゃんは親戚の家に行くと、美味しそうな鶏を一羽籠に入れてもらってきた。僕もちゃんとお礼を言って、その鶏を受け取った。親戚の人たちも笑顔で僕に「誕生日おめでとう」と言ってくれた。

 真っ赤に燃えた太陽が、山の縁に隠れ始めた頃。僕らは自分たちの村へと帰ってきた。お姉ちゃんと一緒だったから、あっと言う間のお使いだった。

 その時、村中に響き渡るような蹄の音が聞こえてきた。そう、この音はファンさんの馬が出す蹄の音だ。
 思った時にはファンさんが馬に乗って、こちらへと向かってくるのが見えた。僕らを見つけると、ファンさんは慌てて馬を止め、すごく怖い顔で僕らに言った。

「リン、ヤン君。悪いが急用が出来たので、今から行ってくる」
「どうしたっていうの? そんなに慌てて」

 リンお姉ちゃんは心配そうに、ファンさんへと詰め寄った。僕はファンさんの迫力に何も言えず、お姉ちゃんの後ろから様子を伺っていた。

「例の野盗が、隣の村に向かっているという情報が入った。今から行って防衛の準備をする」
「え!? さっき、私たちが行ってきたばかりなのに……」
「ヤン君。誕生日を祝えなくて、すまなかったな。失礼する」

 ファンさんはそういって頭を軽く下げると、馬に鞭を入れて走り去っていった。

「怖いわね……伯父さんたち、無事だといいけど……。ヤンも今日はしっかりと戸締りをするのよ」
「うん、分かってる。ちゃんと鈴もつけてるし、大丈夫さ」
「まあ、その前にヤンのお祝いをしなきゃね。私はこの鶏を家に持っていくから、ヤンは着替えてからうちに来なさい」

 お姉ちゃんに言われて気付いた。僕の服はなんだか泥がついて汚れてしまっている。このままじゃ、せっかく祝ってもらうのにもったいない。
 僕はお姉ちゃんの言うとおりに、ひとまず自分の家に戻ることにした。

 チリン。今日も僕が家に帰ると鈴の音が「おかえり」と言ってくれた。でもごめんね、今日はすぐにまた出て行かなくちゃ。

 僕は服を脱ぐと、急いで綺麗な服に着替えた。綺麗な、といっても元がボロボロでお姉ちゃんに縫ってもらいながら何とか着ている服だから、結局は上等ではないんだけどね。でも僕の持っている服の中では、一番まともな奴だよ。

 僕は着替え終わって、いざお姉ちゃんの家に行く前に、ちょっと床に寝っ転がって休むことにした。だって午前中から歩きっぱなしだったから、僕は少し疲れてしまったんだ。

「ふぅ~……」

 僕は仰向けになって天井を見上げると、大きなため息をついた。僕の家の天井は梁だけは立派だな、と思う。あれが折れちゃったら、天井が落ちてきて僕は死んじゃう。

 そんな事を考えながらしばらくボーッとしていると、僕の瞼は静かに閉じていった。そして僕は気が付けば、沈むように眠ってしまっていた。僕はせっかくの誕生日祝いを、なんと寝過ごしてしまったのだ。あーあ、でも眠っている僕には、寝過ごした事なんか分からないや。




    ◇    ◇    ◇




 ドンドンドンドン、ドンドンドンドン

 僕は扉を叩く物凄い音に目を覚まし、勢い良く身体を起こした。窓から覗く外はすっかりと夜になっている。いけない、寝過ごしちゃった!

「ヤン! ヤン! いるの!?」

 お姉ちゃんの大声が、扉を通して僕の耳に入る。大変だ。お姉ちゃんの家に僕が来ないから、お姉ちゃんが僕を呼びに来てくれたのかな。でも、それにしてはお姉ちゃんの声は、とっても急ぎすぎているように聞こえる。

「いるよ!」

 僕は慌てて扉に駆け寄ると、扉についた鉄の錠を静かに外した。
 すると、それと同時に物凄い勢いで扉が開かれて、お姉ちゃんが僕の家に転がり込んできた。

「うわ! どうしたの!?」
「ヤン、鍵閉めなさい!」

 お姉ちゃんは膝に手を置いて息を整えながら僕にそう叫んだ。余りの迫力に僕は、理由を聞くこともせずに、とりあえずは鍵を閉める。
 チリン。扉の外側からは綺麗な鈴の音が聞こえた。

 お姉ちゃんは荒い息のままに僕の両肩を掴んで、髪を振り乱しながら僕に叫んだ。

「ヤン、貴方何をしていたの!?」
「あ、ご、ごめん。疲れてて、つい眠っちゃってたんだ」
「そう、いや今となってはそんな事はどうでもいいわ。いや、むしろ幸運だったわね……」
「お姉ちゃん、一体何があったの?」

 僕はお姉ちゃんの様子が尋常じゃない事に、逆に何か冷静な気持ちになっていた。あのお姉ちゃんが取り乱しているんだ、こういう時は僕がしっかりしないと。そうしないと、お姉ちゃんに頼られる男にはなれない。

「……落ち着いて聞いて。この村に山賊がやってきたの。ヤンは、このまま家の中に隠れていなさい」
「さ、山賊……? ファンさんは隣の村に向かってるって言ってたのに……」

 僕は分かっていたよ。だからお姉ちゃんに「おじさんと、おばさんはどうしたの?」なんて事は聞かなかったんだ。
 お姉ちゃんが急いで僕の家にやってきた理由。それは子供の僕でも分かってしまう。

「きっと、すぐに、この家にもやってくるわ……。錠をしてあるとはいえ、どこかに隠れた方が良いわね」

 お姉ちゃんは薄暗い闇の中で、僕の家を見渡した。だけど残念、僕の家には何もないから、隠れる場所もどこにもない。

「仕方ないわ、ヤン。貴方はあそこに登っておきなさい」

 お姉ちゃんはそういうと天井の梁を指差した。確かに、この暗闇の中だったら、あんなところに人がいるとは思われないだろう。でも

「あんな高い所に、どうやって登れば良いの?」
「私が肩車してあげるわ。早く!」

 お姉ちゃんはしゃがみ込むと、自分の肩を僕に向けた。お姉ちゃんの肩を踏んづけるなんて、僕は嫌だったけれど、今は言うとおりにするしかなかった。
 ゆっくりとお姉ちゃんが立ち上がる。その肩に乗っかっている僕は、なんとか梁に手が届きそう。

 ドン、ドンドン

 その時、扉を叩く音がした。チリン、チリンと鈴が揺れて鳴いている。嗚呼、ついに来てしまったんだ。

「おい、鍵が掛かってる。中に人がいるぜ」

 低い男の声が扉の向こうから聞こえてきた。大人がやって来たんだ、手に武器を持って、物を奪う為に大人が。

 ドン、ドンドン

 今度は扉を蹴り始めた。「おい、ここを開けやがれ!」男の怒号は扉の向こうから、僕たちに開門を要求してきた。

「早く、乗るのよ」

 お姉ちゃんは外に聞こえないように、小声で僕を急かした。でも、そんな事を言われても腕の力だけで梁の上に登るなんて……

 出来た。僕はいつの間にか腕の力も結構ついていたようで、なんとか梁の上によじ登ることができた。

「お姉ちゃんも、早く」

 僕は静かな声で、下にいるお姉ちゃんへと腕を伸ばした。ここの他には隠れられる場所なんてもう、ないんだから。
 でもお姉ちゃんは、僕の手をギュッと握ると、首を横に振った。

「バカね。玄関に鍵が掛かっているんだから、中に誰かいる事はバレてるのよ。中に誰も見当たらなかったら、誰か見つけるまで探されちゃうわ。そしたら、そこもきっと見つかっちゃう」

 僕は、お姉ちゃんが言わんとしている事を、すぐに理解してしまった。嘘でしょう、お姉ちゃん。まさか、お姉ちゃんは。

「絶対に、声を出したり動いたら駄目。何が起こっても、そこに隠れていなさい。大丈夫、悪者は私がやっつけちゃうんだから」

 ねえ、駄目だよ。

 確かに一ヶ月前は僕もそう言ったさ。悪者がきたらお姉ちゃんが倒してね、って。

 でもこの一ヶ月で僕はちょっと、お姉ちゃんやファンさんに近づいたんだ。大人になったんだ。だから分かるよ。
 お姉ちゃんがいくら拳法が強くたって、大人の男を相手に素手で戦うなんて無理だって事。

 お姉ちゃんがそれを分かって、でも子供の僕に向かって、倒せるって言ってくれた事の優しさも、もう僕は分かってるんだよ。

「絶対に、見つかっちゃダメよ」

 僕は、そのお姉ちゃんの念押しに気圧された。何か命の底から沸き上がってくるような強い何かを、お姉ちゃんはその言葉に込めていたに違いないんだ。
 僕は自然と、お姉ちゃんへ向けて伸ばしていた腕を、すっと引っ込めてしまう。

 こうなったら、頼みの綱は、あの鈴しかない。

 そうだ、あの扉さえ開かれなければ、男たちがここに入ってくることはない。
 そうしたらお姉ちゃんも僕も、二人とも無事にやり過ごせるんだ。

 鈴よ、扉を守ってくれ。お願いだ。踏んづけた事も謝るよ、とても反省している。
 いつも僕にいってらっしゃい、おかえりなさい。と言ってくれた鈴よ。お姉ちゃんの鈴。扉を開かせないでくれ。

 チリン。

 鈴が鳴った。
 勢い良く扉が開かれ、そこから離れた鈴は、僕の家の床に落ちて、悲しげに鳴ったのだ。

「よっしゃ、開いたぜ!」
「おおう? なんだ、姉ちゃんが一人か」

 入ってきたのは男が二人だった。僕の服よりも、もっと汚い格好をして、片手には錆びついた鉈のようなものを持っている。
 きっとこの男たちの仲間が今、僕の村の各家々を回って金品や食べ物を奪っているんだろう。僕はそう考えると頭に血が上って、男たちを許せなくなった。
 でも僕が怒りに任せて梁の上から飛び出さなかったのは、やっぱりお姉ちゃんの言葉に身体を縛られていたからだと思う。

「あんたたち! この家には奪うものなんて、ないよ! さっさと出ていきな!」

 お姉ちゃんは鋭く叫ぶと、男たちに向かって拳を突き出す構えをみせた。僕は、そんなお姉ちゃんがとてもカッコよく、儚く見えた。

「なんだ、この家には姉ちゃんしかいねえのかぁ?」
「ああ、兄弟。他にはなーんもねえ極貧だぜ、この家は」

 二人の男は僕の家の中を見渡すと、呆れたように言った。僕はお父さんとお母さんの家を馬鹿にされて、頭に血が上った。だけれども、梁から飛び出して男たちに殴りかからなかったのは、きっとお姉ちゃんの言葉のおかげだった。

「分かったでしょ、お生憎さま。さぁ、とっとと出て行って!」

 お姉ちゃんは、とても怒っていた。それは、きっとおじさんとおばさんについての事なんだろうなと思う。僕は隣にあるお姉ちゃんの家で、僕が寝ている間に何が起こったのかを子供ながらに想像して、とても頭に血が上った。だけど、それを押し殺して、僕は梁の上からお姉ちゃんと男たちを黙って見下ろしていた。
 それはきっと、お姉ちゃんの言葉のせいだと思う。

「はっ、もらえるもんなら、ちゃんとあるじゃねえか」
「なあ、べっぴんの姉ちゃん」

 男たちは黄色くて並びの悪い歯を見せて笑いながら、お姉ちゃんに手を伸ばした。僕はそれを見て、とても頭に血が上った。だけども、僕よりもきっと頭に血が上っていたのは、お姉ちゃんだったのかもしれない。

「見くびるなっ!」

 お姉ちゃんは気合の咆哮と共に、右の正拳を解き放った。踏み込み充分の拳は、右に立っていた男に一切の反応を許さず、その顎を打ち抜いた。

「がっ!」
「何、兄弟!?」

 殴られた男は後ろによろけて転倒した。もう一人は、お姉ちゃんを鋭い目で睨みつける。

「はぁ!」

 それを無視して、お姉ちゃんはもう一人の男に向けて、正拳を放った。僕が見る中でも一番に調子の良い時の、最高の正拳突きだ。

 だけど、その拳は男の掌の中に収められた。受け止められた拳を握り締められると、お姉ちゃんは歯を食いしばって男に蹴りを放った。

「放せぇ!」
「いい加減に、しろっ!」

 蹴りが男に届く前に、お姉ちゃんの顔面に男の平手打ちが入った。殴られたお姉ちゃんは、数歩、後ろによろめいて、しかし握られた右手を引っ張られて男の前に戻された。

「あ……く……」
「女だてらに拳法など使うとは、根性はあるようだが…」

 男は右手で握りこぶしを作ると、それをお姉ちゃんのお腹に向けて振り抜いた。お姉ちゃんは掴まれた右手を振りほどこうと必死で、その拳をまともに受けてしまった。

「あぐ……うげぇ」

 ようやく右手を離されたお姉ちゃんは、お腹を抑えながらフラフラと後ろに下がっていった。そこには、いつもお姉ちゃんが料理をしている台所があり、お姉ちゃんはそこに背中をぶつけて、よろめくのをやめた。

「この糞アマ、やってくれたな!」

 お姉ちゃんに殴られた方の男が、顎をさすりながらお姉ちゃんに突進していった。今のお姉ちゃんはとても戦える状態じゃない。男に両腕を掴まれて背中を後ろに折り曲げられて、お姉ちゃんは台所の上に組み敷かれてしまった。

「姉ちゃん、いつもどの包丁を使ってる? いつもみたいに刻んでやろうか、今度は姉ちゃんの身体をよ」
「……」

 お姉ちゃんは無言のまま、目で射殺すように自分を組み敷く男たちを睨んだ。きっと、すぐ視線をずらせば梁の上にいる僕と目が合うのだろうけど、お姉ちゃんは決して僕に視線を送ろうとはしなかった。

「ん? これか?」

 男は台所に置いてあった包丁を右手で掴むと、お姉ちゃんのお腹にそれを当てて、服のボタンを切り取っていった。お姉ちゃんはやがて上半身を露にされる。真っ白な肌には、包丁によって幾つかの赤い線が引かれていった。
 いつも日焼けしているお姉ちゃんでも、服の下はあんなにも白い肌だったのだ。――僕は何故か、こんな時に、そんな事を考えていたんだ。

「くたばれ」

 お姉ちゃんは唾を吐いた。そして、それは組み敷く男の顔面に命中した。男は完全に頭に血が上ったみたいだった。

「らぁっ!」

 男は怒号と共に、右手に持った包丁を横に振った。

――ガツ

 それは、お姉ちゃんの左耳の少し上。ちょうどそこに食い込んだ。
 深々と食い込んでいる。
 おかしい。
 あんなに深く包丁が刺さったら、人間は死んじゃうじゃないか。

「ああっ、兄弟……! やっちまったのかよ……」
「この糞アマがぁ……! なめた真似しやがって……死ねっ!」

 男はお姉ちゃんの顔に唾を吐きかけ返した。それはお姉ちゃんの綺麗な顔を、べっちゃりと汚染した。これは、まるで家宝の名画に糞尿を掛けられた気分だ。
 包丁を頭に食い込ませたまま、お姉ちゃんの身体はだらんと台所に横たえられた。その目はとろんとして、口は少し開いたまま。その顔はまっすぐに天井を見上げて、僕はお姉ちゃんと目が合った。

「ファ……ン」

 お姉ちゃんの口から、吐息のような小さな呟きが漏れた。僕は梁の上で、確かにそれを聞いた。

「まだ、何か言うかっ」

 激昂したままの男は、お姉ちゃんの呟きを聞いて怒り狂い、手に持った鉈を振り上げた。そして、それをお姉ちゃんのお臍の辺りに向かって振り下ろす。
 お姉ちゃんはその靭やかに鍛えられた身体に、錆びついた鉈を突き立てられて、台所に磔にされてしまった。

「ああ、もう完全に使い物にならなくなっちまったじゃねえか。えらい上玉だったのによ」
「死体でも売れんのか? 世の中には頭のおかしなヤツがいるもんだな」

 男たちは呆れたような口調で喋りながら、僕の家から去っていった。僕は途中から、頭に血が上るのを忘れていた。
 彼らが去っていった後、僕に残されたのは、お姉ちゃんだった肉塊と、お姉ちゃんがくれた小さな鈴だけ。僕には他に、何も残されてはいなかった。

 僕は梁の上から飛び降りると、お姉ちゃんの身体を見る。突き立てられた鉈があまりにも痛そうだったので、僕はそれを引きぬいてあげようとした。
 だけどあまりにも深々と突き立てられたそれは、僕の力では引きぬくことが出来ない。僕は、お姉ちゃんだったものを見るのが嫌になった。
 僕は踵を返して、玄関へと歩いていく。そして、僕の視界に一つの小さな鈴が目に入った。
 玄関を守れなかった、小さな小さな鈴。それは床に落とされて、何も出来ずに転がっていた。

 チリン。拾い上げた鈴は、恨みがましく僕に鳴いた。




    ◇    ◇    ◇




 男は死霊の村を歩いていた。馬を走らせる気力も、もはや失せていたからである。

 彼の故郷であるこの村は昨晩に山賊に襲われ、住民のほとんどを殺された。彼はその頃、誤った情報に踊らされ、平和な村で一晩を過ごしていた。

 朝になって報せを聞き、慌てて参上したものの、彼に出来る事は既に無かった。家々を回っても目に映るのは、あまりにも凄惨な略奪の跡。彼らは金品、食物を強奪した上に、まるで楽しむように住民たちを虐殺していた。

 だが失意の彼にも、まだ希望は残されていた。たった一つの、ただし大きな希望である。ちなみに言えば、その希望とは彼の肉親ではない。――母親は既に殺されている事を確認していた。

 それは彼の愛する女性。その安否によって、まだ彼は救われるかもしれないのだ。
 その女、リンの家に来た彼は、中から沸き上がってくる血の匂いに鼻を押さえ、目を見開いた。

「リン!」

 彼が叫んで飛び込んだ先には、二つの死体があった。それはいずれ、彼の義父母となるはずだった人達だ。だが、肝心のリンの姿はない。

――上手く、逃げ延びたか?

 生存の可能性に望みを掛ける事が出来たと共に、彼はまた一つの不安を抱える。今、猛威を奮っている件の山賊は、他国との人身売買にも手を染めているらしい。この村に若い女は、リン以外にいなかったはずだ。

「……そうだ、ヤン君の所は……?」

 彼はリンと仲が良かった、小さな男の子の事を思い出す。リンならばきっと、彼を助けようとするに違いない。

 ファンはリンの家から飛び出ると、そこから見えるはずの隣家へと目をやり、そこに広がる光景に驚いた。




    ◇    ◇    ◇




「ヤン君、これは……どういう事だい」

 俺は焼け跡に佇む少年へと声を掛ける。生き残った者がいる事は素直に喜ぶべきことだ。だが、まずはこの状況について俺は納得をしたかった。
 あの山賊どもは家に火をつける事は通常しなかったはずだ。だが、このヤンの家だけは跡形もなく炎上し、今は微かに残り火を見せているのみ。

 ヤン少年は俺の方へと振り返ると、煤だらけの顔で嗄れた声を出した。その目は以前までに俺が見ていた無垢な少年のものではない。――まるで、獣である。

「僕が、燃やしたんですよ。自分で火をつけて」

 この子、喉が潰れている。それだけの大声を一晩中、出し続けていたのか?
 とにもかくにも、俺の心は彼女の安否について知りたくて、その口を早く動かさせた。

「事情は後で聞こう。とにかく無事でよかった。ところで、リンはどこにいるか知らないか?」

 もしかしたらリンは、このヤンと一緒に山賊をやり過ごした後、近隣の村へ助けを呼びに行ったのかもしれない。
 そう考えればリンの無事にも希望が湧いてきた。

「あそこ」

 ヤン少年が言いながら指差した先は、焼け焦げた家の跡地だった。いや、その中でもある一点を彼は指差している。

 よく目を凝らす。そこはかつて台所だった場所らしく、焼け崩れてしかし僅かに原型を残した盛り上がりがあった。その盛り上がりには、墓標のように金属の棒が一本突き刺さっており、更にその下には黒い海の中に埋れた僅かな白があった。

「ああ、まさか、ああ……」

 俺は膝から崩れ落ちた。何故だ、何故リンが死ななければならない。何故?
 涙こそ流さなかったが、俺は心を砕かれたように脱力した。俺は全てを失った。

「ヤン……何故、自分の家を焼いたのだ? リンは、その時にはもう……」
「うん、お姉ちゃんをあんな姿のままにしておくの、僕は嫌だったんだ」

 そういった少年は、俺が思っていたよりも、いくらか大きく成長しているように見えた。
 このヤンという少年、これ程までに男の臭いを感じさせる奴だったか?

 俺は記憶を辿る。確かこのヤンという少年、一年前に両親を亡くしてからリンが世話していると、そう彼女から聞いた。
 そして今や彼は、俺の故郷の最後の生き残りとなってしまった。――ならば、俺が取るべき道は一つである。

「ヤン。お前、力が欲しいと思わなかったか? 自分の無力さに苦しまなかったか?」
「思ったよ。でも、それはファンさんも一緒でしょ」
「ああ、俺も無力だった。だが、ヤン。黙っていても力は得ることが出来ない。……俺について来い。お前を一人前にしてやる」
「分かった。僕も強くなりたい、だからついていくよ。お姉ちゃんの為に」

 少年は俺についてきた。それから彼が俺を「ファンさん」と呼ぶことは無くなった。なぜなら、彼と俺とは師弟関係になったからだ。

 彼と俺が握手した時、どこからか涼しい鈴の音が響いた。それは、この荒涼とした俺の心情を表しているようで、俺は涙を堪えるように天を見上げた。
 皮肉のように美しい青空には、リンの爽やかな笑顔が幻視される。涙はついに溢れる、これは致し方ない事であった。




    ◇    ◇    ◇




 その道場はこの地方でも評判が良かった。あっという間に門下生も増えて、まだ若い師範の元には百余名の弟子がいた。
 そんなファンの道場に、ヤンが新しく弟子としてやってきた。兄弟子たちは新しい弟子を歓迎した。

 ヤンは道場で決められた修業を行う他に、一人で黙々と正拳突きの練習をしていた。それを最初は微笑ましく思っていた兄弟子たちも、やがて自分たちと決して打ち解けようとはしないヤンを、そしてそんな態度の象徴とも言える、その正拳突きの練習を疎ましく思い始めていた。

 そこで兄弟子の中でも根性の悪いのが一人、ヤンと同い年かつ彼よりも一月ほど早く入門した少年を、上手いことけしかける。

「あいつが後生大事に持ってる鈴、あれを盗んできてやれ」

 少年はヤンが風呂に入っている間に、彼の部屋から鈴を盗み出した。ヤンは次の日にそれに気付くと、尋常ではない程に怒り狂っていた。
 ヤンはすぐさまに下手人を探し始める。そして根拠のない、しかし確かな嗅覚で少年に詰め寄ると、彼から鈴を奪い返した。そして、騒然とする門下生を無視して、彼を道場へと引きずり出した。

「勝負しろ、僕がお前を殺してやる」

 少年は唆されただけであったが、後輩であるヤンにそうまで言われては、自分も腹の虫が収まらなくなっていた。彼は兄弟子たちを見届人として道場に呼び出すと、ヤンと決闘をする事にしたのだ。

「ふっ!」

 ヤンは正拳の一つで、その少年の顎を打ち砕いた。彼は前歯をへし折られ、涙を流しながらもんどり打った。
 その騒ぎに気付いたファンは、私闘を行った両者を謹慎処分とした。ヤンは一言も口答えせずに、厳しい処分を受け入れた。

「やれやれ、あいつも入ったばかりの奴に負けるなんて情けないなあ」
「我らが門下生とは思えぬ体たらくだ。あんなヤツは最初から同門として相応しくない」
「見たか? ヤンのひょろっちい正拳を。あんなのも避けられないとは……。奴には才能がなかったんだ」

 兄弟子たちは、そのように好き勝手言って、ヤンと敗北した少年を貶していた。
 少年は耐え切れずに、心を打ち砕かれ、道場を去っていった。

 ヤンは謹慎を解かれてからも、変わらずに正拳突きの練習をひたすらに行った。その突きの速度は、確かに最初は未熟であったものの、一日一日、確かに早く強くなっていく。

 一ヶ月後、辞めていった少年の兄がヤンに決闘を申し込んだ。彼は道場では、弟の次に低級に位置づけられていた。
 弟とヤンの闘いを見ていた兄は、ヤン程度の正拳は自分ならば避けられると断じていた。だからこそ、弟の仇と自分の名誉の為にヤンへと挑むのだ。

「よし、では試合形式で行うと良い」

 今度はファンの許可も取って、正式な試合として決闘が行われた。
 道場には再び弟子たちが全員集まって、その中央でヤンと仇討ちの少年が相対した。

「始め!」

 ビュッ

 ファンの試合開始の合図と同時。風を切って突き出された拳は、少年の顔面を捉えた。彼は一撃の元に意識を彼方へと飛ばされる。
 少年は鼻血をまき散らしながら全身を痙攣させ、翌日には弟と同じように、ファンの道場を辞めていった。

「あいつの正拳、あんなに早かったっけ?」
「まあ練習は無駄じゃなかったって事だな。まだ、俺には見切れるが」
「……ああ」

 兄弟子たちは、少しずつ異変に気付き始めていた。ヤンの正拳は日に日に早くなっていく。それは確実な進化であった。
 彼らの中にもヤンの練習を見ては、自分にはあの正拳は見きれないと慄く者が現れ、それは日に日に増えていった。

 そして、それを証明するようにヤンは一月に一人ずつ。下から順番に兄弟子たちに試合を申し込んで、それを完膚なきまでに一撃必殺で打ち倒した。

 一月に一回、一月に一回。彼は少しずつ兄弟子たちに、自分の力を見せつけ始めた。
 一月に一回、一月に一回。そして、彼は50人程の兄弟子たちを打ち倒した。

 だが、彼の正拳は止まらない。一年経っても、二年経っても、まるで予め決められていたかのように、正拳突きは成長していく。

 一月に一回、一月に一回。倒された門下生たちは、心の中に持っていた自負心を殺されて武の道を諦める。
 一月に一回、一月に一回。年端もいかぬ少年に倒された心の痛みは、彼らをファンの元から去らせていった。

 一月に一回、一月に一回。一月に一回、一月に一回。一月に一回、一月に一回。一月に一回、一月に一回。
 一月に一回、一月に一回。一月に一回、一月に一回。一月に一回、一月に一回。一月に一回、一月に一回。

 さぁ、やがてヤンが都に来てから10年の月日が経った。高弟たちを全て倒したヤンの前に残ったのは、ついにはファンただ一人となった。

「ヤン。つまりは最後に残った私を倒し、そして、この道場の看板を奪おうというのか?」

 ファンは道場に一人残ってヤンに問うた。ヤンは道着を着てファンに対峙すると、真っ直ぐな瞳で彼に答える。

「僕は証明したいんだ。僕が頼れる男になったかどうか、そしてあの時に貴方を選んだ事が間違いであったという事を。証明したいだけなんだ」

 言ったヤンの道着の帯から、チリンと鈴の音が響いた。ヤンは帯に、小さな薄汚れた鈴を括りつけている。
 それに気づいたファンは慄然とした。――まさか、此の男。

「ヤン、お前…! まさか、まだリンの事を…!」

 だだっ広い道場に、ただ二人の男の声が木霊する。一方の男は過去を追い求め、もう一方は未来を守ろうとしている。
 ただし、武の勝敗に善悪も合理も関係はない。ただ強いものが勝利し、正義となるのだ。

「そう、僕はずっと考えていた。お姉ちゃんは最後にアンタの名前を呼んで死んだ……。それは果たして正しかったのか? 僕があの時に今の強さを持っていれば、救えたんじゃないのか? つまり、やっぱり、アンタよりも僕の方が、お姉ちゃんに相応しい男だったんじゃないかってね」

 ヤンは正拳突きの構えを取る。ファンの流派も基本となる正拳突きは重視する教えであるが、それをここまでの「武器」へと昇華させた事は、ヤンの人並み外れた才覚の賜物である。

 ファンからすれば、相手はたかが10代の餓鬼。しかも、こちらは今こそが肉体的にも精神的にも武を追求するものとしての全盛期である。その様な自負心は、ファンの心中にも多少はあった。
 だがそれ以上に、この10年でのヤンの異常なる成長を、養父として師匠として見てきた事実。それがファンの身体に緊張をもたらしていた。
 だからこそ、ファンは叫んだ。

「その悲しみを糧に得た力を……! 過去に囚われて無益に使うんじゃないッ! 未来の為にその力を使え、救えなかった人の為にも!」

 ファンは一気にまくし立てると、ヤンへ向けて駆けた。そして一瞬にして間合いを詰めると、ヤンの正中線へ目掛けて拳を放った。

 ビッ

 最早、風を切る音さえも置き去りにして、ヤンの拳はファンの顎の手前で止まった。

 ファンが、あと一歩でも踏み込めば。ファンの拳はヤンの急所へと命中していただろう。だがファンが、後一寸でも動けば、ヤンの拳が顎を砕いていただろう。
 この結果は、あと何度繰り返したとしても同じ事だ。それが分からないほどファンも武に疎いつもりはない。己の人生を、武の追求と道場の発展に捧げた男なのだから。

 ファンは両手を力なく下げると、試合の終わりを表すように、ヤンへと一礼をした。ヤンもそれに応えて深々と一礼を返す。

「ヤン、お前……。一体、何をするつもりなんだ? お前は、このままでは人間では無くなる気がする……」
「あまり心配しないで下さいよ、師匠。僕はただ、お姉ちゃんとまた会いたいだけなんだ。やっぱり貴方に相応しいのは僕だったって、教えてあげたいだけなんだ」

 ヤンは帯についた鈴を指で弾いてチリンと鳴らすと、踵を返して道場から出て行った。
 ファンに力量差を示しつつも打ち倒さなかったのは、自分を拾い育ててくれた事への義理立てなのか。それともファンの心をむしろ打ち砕く為のとどめだったのか。
 その心は分からない。

 この地方で一番の評判であった道場は、この10年で急激に衰退して、意外にも早くその歴史に幕を閉じた。




    ◇    ◇    ◇




 その天然洞窟には、天然ではないものが沢山置いてあった。まず本棚、それに収められた大量の資料。そして実験に使う為の道具と薬品。
 そこは、さながら研究室のようであった。

 その洞窟の主は、数十年をかけてその研究室を完成させた。そして今、ようやく研究の成果を生み出そうとしているのだ。

 洞窟の真ん中には、研磨されて石版のようになった床面。そして、そこに獣の血で描かれた西洋の魔法陣。

「ユニコーンの角、龍の牙、狼の肝臓、ユニコーンの心臓、龍の精嚢、狼の目玉」

 男はぶつぶつと一人言をいいながら、それらの品物を魔法陣の端に描かれた円の中へと設置していく。
 彼は伸ばしに伸ばされた髪と髭の為に、全身を白髪によって覆いつくされているように見える。それはあたかも、古来より霊峰に住むと云われる仙人のようにである。

「そして、媒介だ」

 男はニタァと笑うと、懐から一つの鈴を取り出した。先程置いていった品物に比べると、随分と簡単に手に入りそうな品物である。
 だが男は、それが一番大事であるかのように。その枯れた枝のような腕に付いた、乾いた灌木のような掌の上に優しく乗せた。

「さて、さて、さて、何十年かかった? いや、そんな事はどうでもいいか」

 男は嬉しそうに一人呟きながら、その鈴を魔法陣の中央に置いた。
 彼が行おうとしているのは生物の製造である。それは重篤な禁忌である事は言うまでもない。

「では、始めようじゃないか」

 男は壺に入った血の様に赤い液体を魔法陣へと垂らした。そして何事か理解できない言葉を呟く。それが鍵である。突如として魔法陣の中を、血管を通るように、液体が流れ始めた。
 魔法陣からは峻烈な光が発生し、いよいよその機能を開始させたようだ。魔法陣から発せられる紅い光は、男の全身と洞窟の中を真っ赤に染め上げる。

「魂の契約に、生物を繋ぎ止める為の媒介、完璧だ。後は私が第二世界から、彼女を呼び出すだけ……」

 男は見た目にそぐわぬ若い声で、はっきりと言った。いや、もしかしたら、その風貌よりも男は若年なのかもしれない。

 全ての魔術的な手続きは完了している。
 後は男の脳内で、今から呼び出そうとする生命体の想起を行えば良い。そうすれば彼の長年の夢は叶うのだ。

「ああ、ああ、あああ」

 しかし男は項垂れた。やがて魔法陣は時間切れだと言わんばかりに光を失って、洞窟には元通りの静けさが戻ってきた。

 そう、彼は思い出せなかったのだ。自分が全ての人生をかけて、この世界に呼び戻そうとした人、その姿を。
 余りに強く追い求めたが故、長い年月の中でその姿は偶像化されて真実、この世に存在していたその人の姿を彼は忘れてしまったのだ。

「いや、違う。何かが引っかかっているんだ」

 彼は自分の頭をかち割って、中身を調べ直したい衝動に駆られた。

 暫く頭を捻った結果、彼は思い出した。そうだ、あれが鍵になっているんだ。
 自分の思い出の中で、彼女の姿が強烈にその網膜に焼き付けられた瞬間。でも、その時の思い出は、ある感情と共に封印されている。

「取り戻しにいこう。お姉ちゃんの姿と、僕の憤怒を」

 彼は魔法陣と材料をそのままに洞窟から飛び出した。




    ◇    ◇    ◇




 そこには大きな建物があった。崖の下に造られた円状の建物は、一族郎党が共同生活を行っているアパートメントのようなものだ。
 その一族は、そこで裕福な暮らしをしている。出自こそ分からないが、彼らの一族は遠方の地で一財産を築いて、その後この地方へと移住してきたらしいのだ。

 全部で合わせて40名程の一族は、今日も平和に幸せな暮らしを謳歌していた。

 その暮らしに終わりが来るとは、夢にも思っていない。その日の午後、日が傾き始めた頃に現れた来訪者の手によって、それが壊されるなど。

「アアッー」

 また子供たちがふざけているのか。そのように母親たちは思っただろう。それほどに、何か素っ頓狂な叫び声であったからだ。

「何変な声出して、やめなさい」

 子供を叱りつけようと玄関口から外へ出た母親の目には、首の折れ曲がった我が子の屍体が映った。そして、その頭を鷲掴にした白髪の男。その鬼の形相が母親が見た最後の光景でもあった。男の手は一切の容赦をなく、その場にいた者たちを皆殺しにし始めた。

「なんだ、お前は!? なんの恨みがあるんだ!?」

 家族を殺されて激昂しながらも、男の異常なる体術に己の死を覚悟した族長は、錯乱気味に絶叫した。
 白髪の男は全身を血に濡らしながら、目を血走らせ顔面を紅潮させ、怒りに身体を震わせながら、その問いに応えた。

「恨みなら、ある。貴様らの築いた財は、私の家族や他の村の者から奪った財。お前らの先代に殺された者の恨み、僕が晴らす」

 男は女も子供も何も構わずに殺しまくった。それはただ平和に暮らしていた彼らにしてみれば、全くの身に覚えのない話である。

「親父たちが何かしたって言うのか……。でも、そんなの、俺たちが知るかよ! 俺たちは無関係、関係無いじゃないか!」
「関係ない!」

 男はその一言と共に、正拳を族長の顔面に食らわせた。その威力は彼の脳漿を頭蓋の外へ吹き飛ばすのに充分であった。
 男は砕けた骨が突き刺さった己の拳をものともせずに、どこか恍惚とすらした表情で叫び声を上げる。

「関係ない! そう、僕たちも関係なかった! そして、殺されたのだ! みんな、みんな。お姉ちゃんも!」

 その時、雷が落ちたような衝撃が、男の脳を襲った。そう、男は激昂の叫びと共に、あの光景を取り戻したのである。

 あれは最早、何時の事であったか。最愛の姉を賊に殺された日。男の脳裏にはあの時の、口を半開き虚ろな目で自分を見つめる姉の姿が写っていた。
 その頭には何やら刃物が突き刺さっている。そして腹部には太い鉈。

 あの時の光景が何故、憤怒の感情と共に封印されていたのか。それは、その記憶が、男には許容出来ないほどの悲劇であったからだ。それを彼は自ら思い出してしまった。既に正気を失っていると言われても仕方のない男であるが、此処に至ってその錯乱は極まった。

「おお、うう、うおあああー!」

 男は発狂しながら生き残った人間たちを殴り殺して廻った。結局の所、その一族郎党は皆殺しの憂き目にあい、その日に滅亡することとなる。
 その下手人は全てを殺すと一族には興味を失い、頭を抱えながら野を駆け山を駆け、やがてあの洞窟に戻ってきた。

 洞窟の中には置いていった魔法陣や薬品がそのままにある。今すぐにでも、彼は召喚の儀式を再開する事が出来るのだ。
 男はまるで、そこに彼女がいるかのように、前方へと手を伸ばして、歩みを進めながら呟いた。

「ああ、そうだ。お姉ちゃん……今、また会おうじゃないか」

 男はあの時、梁の上で、煉獄のように煮えたぎる怒りを無理やりに押し込めて生き残った。だから、その時、あの光景も、怒りという感情も、全て封印されてしまった。
 それをまた、あの燃え上がるような怒りを思い出して形にする事で、封印されていた光景も解放されたのである。

 かくして、彼は魔法陣に再び血のように赤い液体を垂らした。そして今度こそは、あの最愛の人の姿をしっかりと思い起こすのであった。
 黒くて艶やかな長い髪、靭やかに伸びる白い手足、そして明るい笑顔。僕の大好きな明るい笑顔。

「はは、完璧だ……」

 男の呟きに答えるように、魔法陣の中に黒い影が生まれた。それはやがて人間の形に近づいていって、女の豊かな曲線が分かるまでになっていった。
 魔法陣の光が薄くなる頃、それは小さな鈴の上へと俯せに倒れ込んだ。白い裸体を前にして、男は呆然と立ち尽くす。

 その裸体の背中には、男の失った全てが見えた。だが、一つだけ不満な点があるのだ。
 あの艶やかな黒い髪の毛が、何故か今ここに現れた肉体では赤い。――それは男の憤怒を現すかのような、鮮やかな赤であった。




    ◇    ◇    ◇



 女の身体が、ゆっくりと起こされる。その目は虚ろで意識がないように見えたが、やがて焦点を合わせて自分の顔をじっと見つめてきた。

 ヤンは驚いた。鈴という“骨格”に自分の記憶という“仮想の人格”を被せて作った妖怪。それがこれ程まで、あの人に似るとは思わなかった。それこそ、燃える様な赤毛以外には瓜二つなのだ。
 彼の胸中には懐かしさと、愛しさと、それから抱え切れない程の悲しみが去来した。

 ヤンは生まれたての妖怪へと、静かに歩み寄っていた。彼女は未だに全裸の身体をぴくりとも動かさずに、ただ自分を見つめている。
 そこで彼は、ようやく気付いた。そう、この妖怪は未だに、自分がこの世に生を受けた意味を知らぬ。だから動けずに、ただ立ち尽くしているのだ。

 そう、自分が彼女に意味を教えてやらねばならない。

 掴んだその両肩はほんのりと温もりがあり、しかしこの高山にある洞窟の寒さに彼女の身体は震えていた。
 なんともまあ、人間の様な妖怪であった。そして、そんな妖怪にヤンはゆっくりと言い聞かせる。

 そう、あの時に鈴は扉を守ってはくれなかった。守りきれなかった。姿形はお姉ちゃんに似ているけども、この妖怪の大元は小さな鈴なのである。
 そう、小さくも美しい音色を奏でる鈴なのである。

「そうだ、お前の名前は美鈴。美鈴、お前は扉を守るんだ……扉を守るんだよ……」

 美鈴、その様に名付けられた妖怪はその言葉を聞くと一つ小さく、しかしはっきりと頷いた。

「お父様……私はどの扉を、守れば良いのですか?」

 ヤンは更に驚いた。声までもが、あの人に瓜二つではないか。

 彼女は拙い言葉を紡いで、生みの親に向かって質問した。扉を守れと言われても、この洞窟には扉なんてない。一体自分はどの扉を守れば良いのか、どの扉を守る為に生まれてきたのか。

 だが、ヤンは答えに窮する。何故ならば、彼が守って欲しい扉とは、もう永遠に失われてしまった扉であるからだ。あの何十年か前の、禍々しい夜に。

「美鈴、そうだ。君は美鈴、扉を守るもの」

 お姉ちゃんでは、ない。

――そこで、ヤンはふと正気に戻ったのである。彼はこの瞬間までに自分が行ってきた行為の、その全ての無意味さを悟るに至った。

 あの失われた愛する女は、戻ってはこないのだ。姿が瓜二つであっても、それは全く別の存在。美鈴はリンではないのだ。
 そんな当たり前の事に気付くことが、ヤンには出来なかったのだ。

 ヤンはここに至り、美鈴をどうするかについて頭を悩ませた。生まれたてのこの妖怪は、自分の命令ならばなんでも聞くだろう。だが、このまま放置していれば、やがて人を喰いに山を降りて、人を殺したのちに屠られる運命になるだろう。

 ああ、そうだ。あれは誰の言葉だったか。
――僕の過去の扉が既に失われてしまっているのなら、これから失われんとする誰かの扉を守る事に力を注げば良いのだ。

「美鈴、お前は扉を守るもの。これから鈴に身を委ねて、この大陸を旅するが良い。そして扉を守らんとする者がいた時、その時は、お前がその扉を守るのだ」

 ヤンは美鈴に服を手渡した。何時までも寒そうにしているままは可哀想であるし、リンの姿をしたものを全裸のままにしておくのは偲びない。
 彼は予め用意していた動きやすく、目立ちにくい。それでいて若い娘に合った服を彼女に着せてやった。

 当の美鈴は、まだ自分が言われた事を理解せずに、不思議そうにヤンを見つめていた。

「お父様はこれからどうするのですか? 私と共に旅をしてはくれないのですか?」

 しかしヤンは首を横に振った。
 本心ではようやく、あのお姉ちゃんに頼りにされているという至福の気持ちはあったが、やはり彼女はリンではない。その現実がヤンに思いとどまらせた。

「良いか。お前は私の憤怒が産んだ怪物。その力は人間を遙か凌駕し、その拳は私の全てを受け継ぎ、更に発展をさせていくだろう。だが、お前の心の中心には、私のような邪心はない。そこには美しく強い太陽のような輝きがあるはずだ。美鈴、お前はきっと人々を救える」

 ヤンは美鈴の足元から小さな鈴を拾い上げると、それを彼女の前にかざした。

「さようなら、美鈴。また扉を守らんとする時まで」

 そういうとヤンは最後の妖術を使った。美鈴は鈴の中にその魂を閉じ込められて、その身体が霞のように消えていった。

「お、お父様……」
「安心しろ、この鈴はお前そのもの。やがて本分に従ってお前を扉へと誘うだろう」

 ヤンは洞窟の入口まで歩みを進めると、外に向かって鈴を放り投げた。

 チリン、チリン。綺麗な音を僅かに聞かせながら、鈴は崖の下へと消えていった。地面に落ちたか小川にでも落ちたか、とにかくはここ数十年で初めて、ヤンの手元から鈴が離れた瞬間であった。

「……疲れたな」

 ヤンはため息をついた。
 彼の人生は、今日この瞬間に虚無となった。

 生きていく意味も失い、全ての礎も手放した。そして生まれた希望も早々に巣立たせた。彼の元に残ったのは膨大な魔道書と魔術の道具だけあった。

――それからそれほど経たずして、彼は手持ちの蔵書や道具の全てを魔道に興味のある商人に売りつけると、それで得た金を使うこともなく枯れて死んだ。




    ◇    ◇    ◇




 男は川岸で小さな鈴を拾った。どうも年季が入った鈴らしくて薄汚れてはいたが、試しに指で摘まんで軽く振ってみればとても綺麗な音色を奏でる。
 これは娘へ持ち帰ってやったら喜ぶだろうと思い、彼は鈴を懐へとしまった。

 我が家に帰ってきた男は数カ月ぶりの家族との再会を喜んだ。出稼ぎから帰った一家の主に、妻と三人の子供は涙を流して喜んだ。
 特に一番末の娘などはなかなかに泣き止まずに、両親を困らせてしまうほどであった。
 そこで男は思い出す。そういえば休憩の為に立ち寄った、あの川岸で拾った小さな鈴の事を。

「ほれ、我が娘や。君に、この小さな鈴をあげよう。指で摘まんで振ってごらん。綺麗な音色がするだろう?」

 父親に言われた通り、泣きべそをかきながら鈴を振った女の子は、その音色を聞いた途端。嘘のように泣き止んだ。

「ありがとう、お父さん! これは大事にするわ」

 娘はそういうと自分の家の玄関へと向かって走った。
 そして、何故か、手に持った鈴を玄関の扉にある取っ手へと括りつけたのである。

「おい、何してんだよ。そんな所に括りつけたら鈴が可哀想だろ」

 妹の行動に兄は文句を言った。彼も一度聞いたその音色にとても酔いしれたものだから、鈴を玄関につけてしまった妹の行為に抗議したのだ。
 でも妹は珍しく、兄へと反論をする。

「こうして玄関につけていたら、毎日家を出る度に綺麗な音がするでしょ? それに、この鈴も玄関に行きたいって言ってるみたいなの」

 女の子らしい空想的な発言に、皆は思わず笑顔になった。「鈴が玄関に行きたがっている?」それは馬鹿げた発想だ。だが、家を出る時に鈴がチリンと鳴るというのは確かに風流じゃないか。そのように思って、一家は鈴をそのままにする事とした。

 さて問題は次の日である。朝一番に朝日を拝もうと玄関を出た父親は驚いた。そこに一人の女が佇んでいるのだから。
 我が家の玄関先に一人の女が立っている。それも、我が家の玄関に背を向けて、まるで扉の番をしているように……。
 女の長く赤い髪は山間から差し込む朝日に照らされ、まるで黄金のように輝いている。父親の目には、女が神々しく映った。

「ちょっと、君。うちの前で何をしているのかね」

 父親は女に向かって厳しい口調で問う。女は振り返ると、父に向かって深々と一礼をした。

「私は美鈴、この鈴に潜む妖怪です。鈴を扉につけてくださって、ありがとうございます。これからは、貴方の家の扉をお守りします」

 彼は首を捻ると、女に猜疑の目を向けた。こう言った手合いは見たことがないわけではない。大概は狂人の戯言である。
 だが目の前に佇む女からは、そのような狂気は感じられずに、むしろ熱く燃えるような使命感を感じられる。

「うむ、確かに最近は物騒だから門番がいたって困りはしないが……。いきなり、そう言われても困るよ」
「ごもっともです。それでは私は普段、屋根の上にでも隠れていましょう。邪心を抱いた訪問者があった場合にのみ、皆様の前に姿を現します」

 そういって美鈴は一足飛びに家の屋根へと跳んだ。なるほど、確かに人間とは思えない脚力であった。

「そうか、それでは勝手にしてくれ」

 父親は取り敢えず朝日に向かって朝の一礼をすると、家の中に戻っていった。

「まあ、そういうわけで今、我が家の屋根の上には妖怪がいるんだ」

 朝食の場で家族に報告した父の言葉に、一同はそれぞれに違った反応をした。
 母親などは冗談かと思って吹き出したし、兄たちはそんな不審者を家の上に置くのが許せないといった反応である。
 末の娘だけは真剣に悲しそうな顔をして「その妖怪も家の中に入れてあげよう」と提案した。

「おいおい、そんな得体の知れない奴を家に入れるなんて、俺は反対だぜ」

 兄の言葉に、娘は皿へと視線を落とし、がっくりと項垂れた。兄に対しては強く反対する事も出来ないのが、この内気な妹の常であるのだ。
 それを見かねた父は「自称妖怪も気まぐれでうちに来たのだろう」という話をした。きっと、すぐに飽きて帰るだろう、と。

「それに、今夜は雨が降るという。雨さえ降れば、彼女も飽きて、自分の家に帰るだろうさ」
「お父さん、その妖怪に家なんてないわ。きっとこの家が、妖怪にとって自分のおうちなのよ」

 娘はそう言って最後まで悲しそうに、納得のいかない表情で朝食を終えた。

 朝食を食べ終えると、男たちは野良仕事をしに家を出た。そして振り返ると、我が家の屋根に乗る一匹の妖怪を見た。
 美鈴は家の男たちの出掛けるのに気づいて、屋根に沿って寝かせていた身体を起こし、声を掛ける。

「今からお仕事ですか。気をつけていってらっしゃい」

 男たちは、その言葉に驚いた。まさか平然と人の家の屋根の上に寝っ転がって、まして、その家の住人に挨拶をしてくるなんて。とても頭の正常な人間とは思えない行動だ。
 彼らは早足に仕事場へと向かって歩いていった。兄弟はしばし無言であったが、やがて弟が均衡を破るように話しかける。

「でも兄さん、あの妖怪。結構美人だったね」
「馬鹿野郎。アイツが本当に妖怪だったら、そんな調子でお前、懐柔されちまうぞ」

 兄は惚けた弟へ気つけをするように頭を叩いた。弟はチェッと舌打ちして兄と共に仕事へ向かった。

 一方で美鈴は再び屋根の上で寝っ転がると、空を漂う白い雲を眺め始めた。
 門を狙うものが現れない限りは、美鈴はとにかく暇である。彼女は一日中、雲の形が変わる様を眺めているしかなかった。

「お姉ちゃん」

 突然、そう呼ばれた美鈴は、ひどく驚いて起き上がった。そのせいでバランスを崩した彼女は、転げまわって屋根から落ちてしまう。

「あいたた~、あら? 貴方は……?」

 美鈴は服についた土を払いながら立ち上がり、目の前に佇む幼い娘に気が付いた。どうやら、この娘が下から自分に話しかけたらしい。

「私はこの家に住んでるの。お姉ちゃんが、お父さんの言っていた妖怪さん?」

 娘は真っ黒な瞳で、真っ直ぐに美鈴を見上げて、舌っ足らずな喋りで話す。美鈴はその姿に、何か酷く懐かしいものを感じた。
 とりあえず美鈴は膝を折って少女に顔を近づけると、彼女の質問に答えてあげた。

「そうよ、私は美鈴。貴方の家の玄関を守る者」
「やっぱりそうなんだ。ねぇ、折角だから美鈴お姉ちゃんも家の中に入らない? 外に一人でいたら寂しいでしょ?」

 この娘は心の底から自分の心配をしているのだと、美鈴も感じ取る事が出来た。なんとも無垢な慈愛の精神ではないか。

「ありがとう。でも見知らぬ人が家に入っちゃ、皆も怖がったり居づらかったりするでしょ? だから私は屋根の上でも大丈夫」
「ええ? でも今晩は雨が降るってお父さんが言ってたわ。美鈴お姉ちゃんも雨に濡れるのは嫌でしょう?」

 美鈴はそれを聞くと、とっさに天を見上げた。雲の動きや風の湿り気を肌で感じ取る。なるほど確かに一雨来そうな兆候がある。

「大丈夫よ、貴方は安心して……。あ、それと!  私の事は美鈴って呼んでね」
「うん、分かったわ」

 美鈴は「お姉ちゃん」と呼ばれると、何か心の中で鋭い棘が一本突き刺さったような、そんな痛みを覚えるのだ。だから彼女は、名前だけで呼ばれる事を望んだ。

 その夜は確かに土砂降りの雨であった。父親は、どうせあの女も慌ててどこかに雨宿りに行ったに違いないと思っていた。
 だから次の日、雨上がりの朝日を拝みに玄関を出て、そこに美鈴の姿があった事に驚いた。

「全身びしょ濡れではないか。一体何をしていたのだ?」
「玄関の見張りです。時にご主人、昨晩に幾人かの男がこの扉をこじ開けようとしておりました。私の方で退治しておきましたが、処遇はどう致しましょう」

 美鈴に言われて父親は気付いた。玄関先、美鈴の足元に、汚らしい格好の賊どもが荒縄でふん縛られて転がっている事に。
 父親は「おぉ……」と感嘆の声を漏らし、美鈴の肩を労うようにポンと叩いた。

「なんと美鈴。お前は真に、我が家を守る者だったのか」
「はい、そのようにお伝えしたはずです。鈴の掲げられた場所を守る、それが私の存在意義なのです」

 その日より、美鈴はこの家の新しい家族として迎えられた。

 娘は大層、美鈴に懐いた。そしてまた美鈴も、娘と遊ぶことに楽しさを感じている。
 母親も最初は抵抗を感じていたが、やがて美鈴の妖怪とは思えぬ礼儀正しさと誠実さに心を許すようになり、今では料理を美鈴に教えたりと友達気分であった。

 息子二人も最初は警戒心を持っていた。弟の方はともかく、兄はかなり美鈴の事を嫌っていたものだ。
 長兄は美鈴を迎え入れた父親にも若干の軽蔑を感じて、一人自分だけは美鈴に騙されぬと心を固く閉ざしていた。

 だが美鈴は何も問題を起こさず、その家で平和に過ごしていた。

 玄関先から離れる事だけは美鈴はしようとしなかったが、玄関から目と鼻の先ほどの近さにある、彼らの畑を耕す事などは積極的に手伝ったし、猪が暴れて畑を荒らそうとした時にはいち早く駆けつけて、猪を正面から捕らえて放り投げるといった大活躍もあった。

 そのようにして半年ほど、その一家で家族の一員として過ごした美鈴に、ついには長兄も心を許さざるを得なかった。

「美鈴さん、今度の収穫祭の後に一家揃って都に遊びにいかないか? 親父もすでに行くって決めている事なんだ」

 ある日、長兄が美鈴に旅行へいく事を誘った。一家揃っての旅行には、もはや美鈴はついて行くのが当たり前といった風潮になっていた。
 だがしかし、美鈴はそれを断った。

「私は、この家の扉から離れるわけには行きません。気にせず都を楽しんで来てください。その間に、この家は私が責任を持って守りましょう」

 美鈴の話に、家族は仕方ないと思いながらも、非常に残念に思った。特に娘などは泣いてそれを悲しんだ。
 門を守る為の妖怪だから、仕方がないとは分かっていたが、共に旅行を楽しみたいと一家は心の底から思っていたのだ。

「じゃあね、お土産に期待してるわ」
「うん。行ってくるね、美鈴」

 娘と別れの挨拶を交わした美鈴は、一人っきりで家を守る事になった。

 家族が帰ってくるまでの一週間、それを寂しいと思う気持ちも、美鈴の中には遂に芽生えていた。

「私の存在意義は扉を守る事……。だけれど、こうした家族の中にいるのも悪くはない……」

 そう思って美鈴が家の番をしていると、気付けばあっという間に一週間が過ぎていた。

 美鈴は家族の帰りを待ちわび、早朝から玄関先に構えていた。その日は小雨が降っていたが、美鈴は濡れる事も気にせずに玄関先に立つ。
 だがしかし、その日は遂に、家族が帰ってくる事はなかった。

「帰るのに時間が掛かっているのかしら?」

 美鈴はそう思いつつも、渋々と家の中に入って家族の帰りを待った。
 ところが、その日を境に家族は、美鈴の元に帰ってくる事はなかった。

「おい、お前は此の家の者か?」

 ある日、意気消沈している美鈴の元に、恰幅の良い政府の役人がやって来た。

「いいえ、私はこの家の門番です」

 美鈴はその男に向かって、胸を張ってそういった。家族が帰ってこなくても、美鈴はこの家の門番なのだ。

「こんなボロ家に門番とはいいご身分だな……。いや、なんでもない、お前にも知らせとかにゃならんな。――この家の持ち主だが、家族揃って山の中で死んでいるのが見つかった。原因はなんだか分からんが、野生動物に襲われたか山賊にでも襲われたか。どちらにせよ、この家と土地は我々が一時回収する事になったから、お前も新しい雇い主を探しな」

 役人がそういい終わった時には、美鈴の姿は影も形も無くなっていた。

「ありゃ、もう新しい雇い主を探しに行ったのか? 足の早い奴だ」

 役人はそう言いながら検地の為に家の扉を開いて、中に入っていった。

 チリン、チリン。玄関に括りつけられていた鈴が、地面に落ちて悲しく鳴った。

 そう。扉自体を守れても、それを守ろうとしていた人がいなくなれば、その扉は守る意味をなくすのだ。
 門番は鈴の中で悲しみの海に溺れた。自分は扉ではなく人を守るべきだったのだ。いや、守りたかったのだ、と。




    ◇    ◇    ◇




 男たちは刎頸の交わりであった。幼い頃から同じ村で育ち、同じように競いながら大人になった。

 そんな彼らは今、二人で共に窮地にいた。攻められて崩されかけた砦を前にして、二人は己の死を覚悟した。

「しかし兄弟。俺たち二人で、千にも上る軍勢を食い止めろとは、俺らはいつからそんなに信頼厚い兵になったのかね」
「いやはや兄弟、それは信頼された訳ではなく、捨て駒にされたという訳さ」

 彼らはこの砦の守りにつく兵士であった。そして今は、砦の仲間たちを逃がす為の殿を務めている。
 といっても彼らが任されたのは、砦に攻めてくる敵を出来るだけ長い時間、引きつけておくことだけ。彼らが勝ち戦を演じる事など、はなっから誰も望んではいないのだ。

「さてさて、門を閉じた後は二人で弓でも引いて、出来るだけ多くの毛唐を道連れにしてやりますか」
「まあ、出来るだけの事はやったさ。砦に人が大勢いるように見せかける為、一晩掛けて旗を立ててやったりさ」
「あいつらもびっくりする事だろうさ。砦を攻めてみたら、中には二人の兵卒しかいないんだから」
「ああ、驚いた奴らの顔を肴に、あの世で一杯やろうじゃないか」

 彼らは命が惜しいわけではなかった。だけれども、戦争になれば人はいつ死んでもおかしくない。そんな異常の中で、彼らの感覚は鈍く鈍くなっているのだ。

「おう、兄弟。そういえばこの間、砦に出入りしてた商人からこんな物をもらったぜ」
「なんだいそりゃ?」

 男が掌を開くと、そこには小さな鈴があった。それは掌の上で微動すると、チリンと綺麗な音を出した。

「へぇ、鈴なんかもらってどうするんだい? これから死ぬ俺らへの慰みかね?」
「それがな、兄弟。なんと、この鈴を門や扉につけとくだけで、鈴の魔人が現れて、その門を守ってくれるそうなんだ」

 男はそういうと鈴を宙へ放り投げ、それを掌の中に収めた。

「はぁ、そら大したもんだ。それじゃあ俺たちの砦も、魔人さんに守ってもらおうかしらね」
「ああ、そうしてもらおう。それは良いに違いないや」

 男たちは馬鹿笑いしながら、その小さな鈴を門の外側にある金具へと引っ掛けた。

「ふぅ。それじゃあ明日には、この世ともお別れだな」
「せいぜい、鈴の魔人が活躍してくれる事を祈るよ」

 そういうと二人は砦の中に入って、内側から門を施錠した。そして二人は、仲間が残していった僅かばかりの高級な食材と上等な酒を喰って呑んで、最後の夜を過ごした。
 そうやって彼らは、夢見心地のままに眠りについたのである。

 心地よい酔いの中で眠りこけていた二人の男は、目が覚めるとすっかりと日が昇っている事に驚いた。

「いけねえや兄弟。早く見張りにつかなきゃあ」
「見張りについたってどうしようもねえよ。だけど、こんな時間だっていうのに、まだ相手方は攻めてきてないのか?」

 二人は取り敢えず、弓矢を手に持って砦の塀へと駆け上った。そこからは砦の周りを一望する事ができ、攻めて来る敵に対してはここから矢を射って撃退するようになっている。

 まず、塀に上っていく梯子の途中で、二人は何かの異変に気付いた。そう、塀の外からは大勢の人間が戦い合う怒号や悲鳴が聞こえてくる。
 だがしかし、この砦で戦える人間というのは、今梯子を上っている二人しかいないはずである。

 次に塀へと辿り着いた二人は、外を覗き込んで確認する。ああ、確かに。既に夥しい敵の軍勢がこの砦に攻め入っているではないか。
 だがしかし、その軍勢は門へと向かう途中で真っ二つに割れ、こちらへと攻めあぐねている。その原因は何かと目を凝らせば、真っ二つに割れた軍勢の中で、一つの人影が敵軍を相手に戦っているのが見えた。

「おいおい、馬鹿な。あいつは誰なんだ?」
「兄弟、俺がまだ酔っ払ってるんじゃなければ。あいつは一人で、素手で、千人の軍勢を相手にしてるようだな」

 見れば人影は、髪の長い女のようだった。その女は剣や槍の穂先を丁寧に躱しながら、その拳で敵の軍勢を打ち破っている。
 敵もその人外の動きに畏れ慄いて後退し、ますます一人の女に押され始めていた。

 やがて、女を無視して砦の門に向かおうとする一団が、敵軍の両翼から突き進んできた。
 すると女は目の前の敵を捨ておいて、その一団へと猪突猛進に駆けていった。

「おいおい、なんだあの女。あの化物は、なんで俺たちに味方しているんだ?」
「いやはや、まさか。本当に鈴の魔人が出てきてくれた訳じゃないだろうな?」

 男たちは呆然と、その女の大暴れを見つめていた。だがやがて、自分たちも女を助けなければと思って弓に矢を番えた。彼らは弓については自信があったのだ。引き絞った弓を構えて、矢尻を敵兵へと向ける。そして、弦から手を離した。
 放った矢は軍勢の中に飛び込んでいって敵兵に刺さった。だが、たかが一本や二本の矢では大勢には全く影響がない。むしろ、矢なんかよりも一人の女の方が、相手にの軍勢に影響を与えている。
 だが、矢が飛んできた周辺にいた兵士たちには、大いに影響を与えてしまった。彼らは女ばかりに気をとられていたが、砦の上からも攻撃が来たという事に気付いた。

 そこにあったのは丁度、鉄砲を抱える部隊であった。彼らは銃口を砦の上にいる二人の男に合わせると、一斉に引き金を引いた。

 銃声が響く直前、門の前で戦っていた女は条件反射のように地面を蹴った。地鳴りが響くような強烈な足踏みによって、女を門前から銃口の前へと一瞬で移動した。

 女の両の拳は嵐のように荒れ狂うと、放たれた銃弾の全てを地へと叩き落とした。

「銃も効かない! 化物だ!」

 敵兵たちは遂には、たった一人の女に白旗を揚げて、戦意を失い始めていた。女の身体にも幾つかの傷があって、数本の刃が突き刺さっている。が、流れ出る血の量と比例するように、彼女の目には赤い闘志の火が灯っている。

「なあ、兄弟。あいつ、何故か怒っていないか?」
「兄弟、俺も何故かそう思った所だよ。あの妖怪は何故か怒っている、どっかから湧いてくる怒りを、あいつらにぶつけているんだなぁ」

 男たちは銃弾から命を守られた事に関してより、女が心のうちに秘めている燃えるような怒りを感じ取って、それに注意を向けていた。
 だからだろう、砦の正面の門がついに破られた事に気付かなかったのは。

 門は大勢の敵兵の手によって、無理矢理に開かれた。無論、誰一人として気付かなかったが、門に括りつけられていた小さな鈴も、その折に吹き飛んで地面に落ちた。

「ああ、兄弟。門が破られたな」
「でも、あの女のおかげで、結構時間は稼げたんじゃないか?」

 二人は少し満足げに、眼下へとなだれ込んできた敵の軍勢を眺める。

 砦の外では女が歯を食いしばって、申し訳なさそうに砦の上の二人へと視線を向けていた。

「また、また……守れなかったか……」

 女は恨みがましくそう言うと、幻であったかのようにその場で身体を霧散させた。

「あら、あいつ消えちゃったぜ」
「多分、鈴の中にでも戻ったんじゃないか?」

 二人の男は弓に矢を番えた。あの女のおかげで、自分たちはたった二人で千人の軍勢相手に五分の戦いをした英雄として、歴史に名が残るかもしれない。
 そう考えると二人には、嫌らしい笑みが浮かぶばかりであった。




    ◇    ◇    ◇




 その扉には鈴が括りつけられていた。
 扉の向こうでは、小さな女の子が一人で椅子に座っている。

 銃声が響く。男たちの怒声が響く。続いては足音が鳴り響いて、それは、この部屋に向かってくる。

「娘を返せぇ!」

 男は叫び声と共に、部屋へと駆けこんできた。その手には、焦げ付くような硝煙の臭いを漂わせた拳銃。
 自分の人生の全てを仕事に注ぎこんできた軟弱な男は、しかし今は大量の殺人を犯して、娘の無事を求める獣になっていた。

「来たか、まさか自分で単身乗り込んでくるとはな」

 髭面の男がニタリと笑いながら、懐からゆっくりと拳銃を取り出す。
 部屋にはこの男と、もう一人。その横に控える美女のみがいた。乱入者にとっては、思ったよりも人が少なくて幸運であった。

「返せぇ!」

 男は細い腕を真っ直ぐに髭面へと向けて、引き金を引いた。
 ここまで何人もの敵を撃ち殺してきたのだ。今更、何も躊躇はない。

――ガァン

 しかし、放たれた銃弾は一つの拳によって防がれた。

 男はあまりの事に呆然として、拳銃を床に取り落としてしまった。
 髭面の情婦か何かと思っていた、隣に控える美女が、まさか“拳”で弾丸を叩き落とすとは夢にも思っていなかったからだ。

「な、な」

 男はズレた銀縁の眼鏡を直すこともせず、後ろに数歩下がった。先程までの勢いをなくした男は、今まで通りの軟弱に戻ってしまったのだ。

「大人しく仲間を解放しときゃあ、姉は死なずに済んだのになぁ。ま、こうなっちゃあ妹の方も死ぬしかないがな」

 髭面は銃の撃鉄を降ろすと、ゆっくりと眼鏡の中心へ、銃身の狙いを定めた。

 この髭面たちは、政治的なテロリズムを行う集団である。そして彼らは、乱入してきた男の娘二人を誘拐し、投獄されている仲間を解放するように要求しているのである。
 刑務を司る者として最初は断固として断った男であったが、やがて誘拐された娘の内の一人の首が家に送り届けられると、気が狂ったように単身でアジトへと乗り込んできたのだ。

「人間、吹っ切れると何をするか分かったもんじゃないな。何人の仲間がお前に殺された事やら……。だが、本当に、この鈴があって良かった」

 髭面は傍らの扉のノブに付けられた小さな鈴を、指で弾いてチリンと鳴らした。それに呼応するかのように、表情を固くした美女がグッと拳に力を込めた。

――そう、美鈴は今、この扉を守っている。父と娘の間を残酷に引き裂いている、この鉄の扉を。

 美鈴にしても、今回の扉はもう随分と長い間、守り続けている。それは既に、一年は経とうとしていた。
 もしかしたら、この扉を守りきれば。彼女は「扉を守る」という存在意義から解放されるかも知れないのだ。
 それはおそらく、もう少しで達成されるに違いなかった。

 だが美鈴は、髭面の男から聞いている。どういった事情で娘が誘拐され、またどうして眼鏡の男がここに乗り込んで来たのかという理由を、嫌というほど聞いている。
 美鈴の胸中には、溶岩のように熱い感情が渦巻いて、まるで今にもその胸を突き破ってしまいそうだった。

 扉を守る事、それは、この誘拐犯たちを助け、そして娘と父の命を奪う事になってしまう。

「本当、鈴の妖精さんには役に立ってもらった。これで、お前さんも自由になるんだろう? どうだ、自由になっても俺たちと組んだままにならないか? お前がいれば、この国の腐ったゴミどもを一掃する事も可能だ……」

 髭面の言葉に、美鈴は真っ直ぐに前を見据えたまま、沈黙を貫いた。美鈴はこの一年間、髭面たちと幾度となく会話をしていたが、心を通わせた事は只の一度も無かった。

「へっ、つれねぇな。まあいいや、とりあえずは、こいつを粛清してからだな」

 髭面の指がトリガーに掛かる。その指に僅かな力が込められるまでの間、美鈴は葛藤し続けていた。

 この眼鏡の男が死んで、扉を守りきれば私はようやく「扉を守る事」から解放される。
 だが私の中に流れるこの赤く熱い血が、それをさせんと喚きたつのだ。

 いや、合理で考えよ。――この男とその娘の命など私には関係の無い話ではないか。
 この国の政治がどうなろうと関係がない。そう私は妖怪なのだから。

「そう、妖怪だからこそ」

 美鈴は呟き、髭面の指が引き金を引いた。

 銃身から放たれた亜音速の銃弾は、しかし美鈴の拳によってその場に叩きつけられた。

「なっ……何をしやがる!?」

 髭面は横手からの思わぬ妨害に、目を剥いて怒鳴った。美鈴は弾丸を殴った拳をさすると、一足飛びに部屋の端まで退避した。

「これで、おあいこだ! 後は一対一で、正々堂々と戦うがいい!」

 美鈴の叫びと同時に、男は眼鏡を振り落としながら、床に転がる銃へと飛び込んだ。そして銃を拾い上げると、素早い動作で銃口を髭面へと向ける。

「あっ!? チッ!」

 髭面も撃鉄を降ろして、二発目の発射の準備を済ませる。

――ガン、ガン

 やや、くぐもった二発の銃声が部屋を満たした。一拍を置いて片方の男が床に倒れた。
 その手からは拳銃がこぼれ、やがて床には赤い染みが広がっていく。

 美鈴は満足げな笑顔を、その顔に残しながら霞のように消えてゆく。

「また、また……守れなかった……」

 今回のその言葉には、明るい笑顔が添えられていた。そして、彼女はまた鈴へと還っていくのであった。




    ◇    ◇    ◇




 その鈴は旅をしている。

 何かの魔力があるのか、鈴は道端で朽ち果てる事がなく、常に人の手を渡っていく。
 そしてその持ち主は、何かしらの扉を守るものと決まっていた。それが、その鈴の意思であるかのように。

 ある時は民家の玄関、ある時は商家の金庫、ある時は砦の門、ある時は化粧箱の鍵、ある時は地下室の蓋、ある時は倉庫の扉。
 鈴は数え切れない程の守るべき場所に括りつけられ、そして力及ばずして鈴の中にまた戻っていく。

 彼女は扉を守れた時に自由になる。彼女はその存在意義によって自らを縛られている者であった。

 何百年もの繰り返しのうちに、彼女はやがて転機を迎える。

 今回の持ち主は、人間ではなさそうだ。
怒りは、しばしば道徳と勇気との武器なり。


――アリストテレス「断片集」より
yunta
[email protected]
http://
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.1330簡易評価
3.無評価名前が無い程度の能力削除
誤字報告です。
>あの光景がを取り戻したのである
7.90名前が無い程度の能力削除
ヤン君の描写が丁寧で上手い。
幼く非力な少年から力強く逞しい青年になっても一途に一人を想い続けるその姿には感情移入せざるを得ない。
9.100削除
こちらも面白いです
10.無評価yunta削除
>>3.さん
取り急ぎ、誤字を直しました。報告ありがとうございます
12.100山の賢者削除
おお、なんかいいぞ。
紅魔館の面子の過去にしてもなかなか異色でしょうこれ。
13.100名前が無い程度の能力削除
こんな話を書かれたら紅魔三面を気楽にクリアできなくなっちゃうじゃないですかっ!
凄まじい話でした。
からくりサーカスやうしおととらを初めて読んだときのような心の震えを感じました。
連作の中ではこれが一番好きです。
14.100名前が無い程度の能力削除
おお、普通に面白かった。
19.無評価yunta削除
皆様、ご意見ご感想ありがとうございます。一部抜粋してお返事をさせて頂きます。

>>7.さん

 おお、なるほど。私としてもそのように捉えて頂けたのは意外でした。
 少年の感情が妄執的であるか、一途な純真であるかは人によって感じ方が違うのかもしれないですね。
 こういったご意見を頂けると書いた身としても非常にありがたいです。

>>12.豚さん

 あまり二次創作に造詣が深くないので、既存の作品とストーリーが被ってるのではないかと不安でしたが、そう言って頂けると一安心です。

>>13.さん

 じゃあ、次は毛玉の過去を書いてみようかしら。

 冗談はさておき、私も藤田和日郎先生の漫画は好きなので嬉しいですね。ああいった熱さと壮大さに憧れますねぇ。
23.100名前が無い程度の能力削除
思わず引き込まれてしまいました。
もっと評価が高くても良いと思える作品でした。
26.100名前が無い程度の能力削除
今更ながら読ませていただき、自分もからくりサーカスを連想しました
大切な女性の死、復活に執念を燃やす男、しかし生まれたのは彼女ではなかった
与えられた使命を果たそうとする女性などなど似た感じも多かったですし
賊の子孫を殴り殺すシーンではそれまでの過程からか
鳴海がデーモンと言われたコマを連想していました
何だか似てるとしか言ってないようですが
非常に激しく悲しい話で面白かったです
28.80即奏削除
面白かったです。