Coolier - 新生・東方創想話

芳香

2010/06/22 21:45:15
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 さて、天狗社会の常識とは何か、それについて少し考えてみたい。
 例えば、そう、物の貸し借りについて。

 食事の後や、よ、用を足した後、川原で手を洗い水気を拭き取ろうと思ったとき、そのハンカチ等を忘れてしまったとしよう、あたふたと慌てて、その辺の葉っぱで拭こうかなんて妥協案が頭の中に浮かんだとき、親切な後輩が余分に持ってきた一枚を貸してくれたとする。まさしく天の助け、後輩の優しさに心を打たれた私は当然それを感謝の心を込めて洗い、翌日に礼と共に返す。先輩なのに恥ずかしいところを見せてすまないと言い、木の実でも添えるかもしれない。

 これが『常識』ではないだろうか?
 
 試しに、白狼天狗の仲間たちに無作為で尋ねたところ、9割9部の確率で『常識』という回答が得られた。
 だから、たぶん私は間違っていない。
 天狗という種族の中で孤立した知識を持ってはいないはずだ。

 だから――

『昨日借りた服を返すわ。洗いたかったら洗って。 文より』

 だからこんな書置きだけ残して、返してくるのは大幅に間違っているんじゃないかと思う。
 そう思いたい……





●『芳香』






 絶体絶命、死地、青天の霹靂、万事休す。
 文から返却された白狼天狗の制服を正座しながら凝視する中で、私は苦境に追い詰められていた。
 
『たかが服が洗濯されてなかったから何? 大袈裟にもほどがある』

 あの意地悪な文ならそう吐き捨てるに違いない。
 たたんではあるものの無造作に部屋の入り口に置かれた衣服からして、そう告げていた。
 多少常識から外れてはいるし、腹の底から沸々と湧きあがるものがあるのは確かだ。それでも鴉天狗という半端者の集まりの一員、『射命丸 文』にまともな行動を期待した自分が馬鹿だった、と諦めれば済む話だ。白狼天狗の9割9部が常識だと宣言することをこなせない恥ずかしい種族なのだから。
 
「どうしよう……」

 しかし、現在。私の格好はその恥ずかしい種族に劣らないほど羞恥の塊だった。
 何せ朝起きたときからずっと下着状態なのだから。困ったことに、胸にいたってはまだサラシすら巻いていない。
 断っておくが、服を着ているよりも下着姿の方が好き、などという趣味はない。昨日は暑かったから薄着のまま眠って、汗をかいたからそれすら脱いで。さあ、正装だと意気込んだところで気づいた。

 これしか服がないのである。

 もちろん、一着しか服を持っていないなんてありえない。予備を含めれば白狼天狗専用の衣服は4着購入している。体を動かしたり弾幕勝負をすることが多い最近は汗や泥汚れが酷く、一日に2着利用することも多い。
 それを洗濯しながら毎日回すことで、出来るだけ綺麗な衣服で哨戒任務ができるように心掛けていた。昨日だって2着洗濯して、干して、今日には3着分の余裕があったはずだった。
 だが、誤算が誤算を呼んでしまう。
 まずは、射命丸文に強奪されたこと。あの馬鹿天狗、私が駄目だというのに、昨日無理やり家に押し掛けてきて。

『服が駄目になったから借りるわ♪』
 
 意味がわからない。
 あいつの存在意義がわからない。まるで私の嫌がらせをするために生まれてきたんじゃないだろうか、そ、それに、昨日は耳まで噛んでくるし、か、かか、家族とか――

 こ、こほんっ! 
 
 と、とにかくだ。と・に・か・くっ!
 それで予備の一着を失い、残り2着。
 でも物干しに乾した残りが無事ならば、ここまで悩むこともなかった。
 無事、ならば……

「はぁ……」

 その場面を思い出しただけで、ため息が漏れた。
 白狼天狗が住む洞窟の近くにある風通しのいい広場、私はいつもそこに洗濯物を干している。夜間の担当と交代して夕方前に乾いた衣服を回収するのが日課で、その日も洗濯物を持ち帰る予定だった。
 そこで泥だらけになった洗濯物とゴツゴツした何かの破片と、肩を落としたにとりの姿を目撃しなければ……
 
「な、何してるの……」
「自動弾幕発生装置を作ろうとしたんだけど……」

 失敗したらしい。
 その声の弱さからも明白だ。
 どうやら土を吸い込んで泥の弾幕を放つ機械らしく、それに巻き込まれて洗濯物が犠牲になり、汚れるどころか穴すら空いていた。ごめん、と泥だらけの姿で謝られたら、私も何も言うことはできなくなってしまい。仕方なく使えなくなった服を片付けていたら、その作業をしている間に着ていた服が機械の破片に引っ掛かって……
 びりびりっと。
 腰の当たりまで綺麗にスカートが破れ、これで全滅。
 どんな皮肉か、文に奪われた服だけが無事に残ったというわけである。
 それで仕方なく、破れた衣服を気にしながらも返却をお願いしに行って……明日の朝に届けるという約束を取り付けて。

 戻された結果が『未洗濯の衣服』だ。

 しかもなんで鍵を閉めたはずの部屋に服が置かれているのか。部屋の鍵も綺麗に外されていて、見事過ぎる手際に殺意すらおぼえた。
 もし置きに来た現場を見つけたら、怒鳴り声の一つや二つくらい上げてやったというのに。そしたら相手がどんな顔をするか、どんな態度を示すか、手に取るように思い浮かぶ。

「さすが白狼天狗、小さいことには良く拘る」

 とか、言うんだ、きっと。
 考えただけで頭に血が上る。
 鴉天狗は白狼天狗の大事なところを、特徴を、長所を理解していない。それで大きな問題を無視するんだ。
 それを……たかがそんなこと、で済まそうとするんだあいつらは……
 白狼天狗は、私たちは匂いに敏感なんだ。
 鼻が良いんだよ、たまに自分たちでもびっくりするくらいに。
 わかりやすい例として、良くある浮気現場で多種族と特徴を比較すれば違いは明白だ。

 私が先輩から聞いた例え話ではあるのだが――



場面1:夫帰宅、首筋に赤い痕

鴉夫『ただいま~』
鴉妻『おかえりなさ、あなたっ! 何よ首のところのっ!』
鴉夫『か、蚊だよ……』
鴉妻『へぇ、もう蚊が出るんですか、春なのに?』
鴉夫『身の丈5尺くらいの、突然変異の蚊に吸われただけだよ!』

 そういう言い合いが繰り広げられるが、見た目が変わらなければ普段どおりの夜が始まるはずだ。
 しかし、白狼天狗の場合はそんなものじゃない。
 そんな生易しいものじゃないらしい。


 
場面2:夫帰宅、外見に変化なし

狼夫「ただいま~」
狼妻「おかえりな……正座」
狼夫「えっ!?」
狼妻「いいから、正座」
狼夫「……な、なんだよ。正座すればいいのかい?」
狼妻「……匂いが二つ多い」
狼夫「え……?」
狼妻「二つ多いよ? 何してたの?」
狼夫「きょ、今日は集団で哨戒任務だって言ったじゃないか。若者の指導をしたから付いただけだよ」
狼妻「二つとも、女の匂い……男と女2人の哨戒ってありえないよね?」
狼夫「……えー、いや、その」
狼妻「何してたの?」
狼夫「ば、馬鹿だなぁ、何もするわけないじゃないか!」
狼妻「確かに、一つは軽くしか匂わないから何もしていないんでしょうけど、もう一つはあなたの腰の辺りからも匂うわね? それに、いつもより汗臭いわよね? 哨戒任務になのに帰りも遅い。いったいどこの誰の体の秘密を探っていたのやら?」
狼夫「ば、ばっか! お前! お、俺はおまえ一筋って決めてるのに、そんなことするはずがな――」

 がぶり

狼夫「ぎゃああああああああああ!」




 白狼天狗恐るべし……
 ちょっとした匂いだけで家庭崩壊が可能という素敵すぎる種族。自らの家庭を持ったことのない私からすれば未知の領域ではあるが、井戸端会議で奥さんが言っていたのだから間違いないだろう。
 それに、夫婦でなくても白狼天狗の嗅覚は正確に察知してしまう。
 仲間が目の前で挨拶をした瞬間に――

「あら、昨日はお楽しみでしたね♪」
「え、あ、しまっ!?」

 家族でもない別の天狗の匂い。その付着の仕方によって、昨日何をしたかを大体察してしまうわけだ。全身の大半からその別の天狗の匂いが発生していれば、まず間違いなく疑われることになるだろう。
 私はそういう経験もないので、他人がばれたところしか見たことがないが。私でも匂いの判別できるのだから、意外と簡単。
 
 さて、それを踏まえて本題に戻ろう。

 そんな前提条件を付け加えた状態で、もう一度視線を、文が返却した服に戻してみよう。
 これは洗われていない。
 確かに汚れや埃は綺麗に払われているが、重大な問題はそこではない。
 私は、正座をした状態で上半身を前に傾け、おそるおそる、鼻を服に近づける。
 そして軽く、すんすんっ、と空気と吸い込んでみれば……

「ふふふ、あはははは……あはははははははっ……」

 残ってる。
 しっかりと、確実に、完璧に、文の匂いが染み付いてしまっている。
 それを確認したらもう、乾いた笑いしか出てこない。つまりこの服、文の匂いが、びっしり付着している服を着るということは、全身からその匂いを発することを意味する。
 その状態で一歩でも外へ出て、白狼天狗の誰かとすれ違った瞬間。

「……えっ! しゅ、種族を超えた恋愛なんて意外と大胆なんですね! 椛先輩!」
「椛、やっと春が来たのね、頑張って恋を実らせるのよ!」

 とか頬を赤らめて言われたら、もう、生きていけない。大天狗になる夢すら諦めて、一生家から出ないかもしれない。

「なんてことしてくれるのよぉ……」

 しかし、もう、私にはこれを着るしか選択肢がない。
 後輩に服を借りに行くにも、今、この衣服以外で部屋に残っているのは、下着とサラシ程度。そんな半裸状態でうろついているのを見られらそれこそ……

「椛、3ヶ月ほど休暇を取れ……悪いことは言わないから」

 大天狗様から痛い通知を受けたり、同僚から可哀想な目で見られること間違いなし。どうやっても、選択の幅が広がらない。
 もう、泣いていい? ほんとに泣いちゃっていい? 本当に、どうしよう、どうやったらこの匂いが……
 いっそのこと燻製にして煙臭くしてしまおうか、なんておかしな考えをするようにまでなってしまい。

「……ん? 上書き? 匂いの……」

 私は今起きたばかりの布団をじっと見つめ、気が付いた。
 そうだ、簡単な理屈だ。
 打ち消してやればいいのである、自分の匂いで文を蹂躙し……い、いや、言い方悪いな。文の匂いを私色に染め……ああ、もう違う、違うっ!

 自分と違う香りを放つ、畳の上の衣服。
 そこに、ぼすんっと頭を埋めて私は思考を落ち着かせようとした。けれど、その行動事態がすでに、その香りに狂わされたものに私は気がつかない。
 嗅覚の鋭すぎる白狼天狗だからこそ起こりえる錯覚。まるで誰かが、あ、あの、憎たらしい射命丸文が側にいる映像を頭の中で再現し、その吐息や温もりすら擬似的に作り出す。香りの強さから距離を、広がりから位置を。つまり、こうやって至近距離で全身を覆われている状況だと……

 まるで、文に抱きしめられ――

「ていりゃぁぁあああっ!」

 飲み込まれそうになる意識をなんとか踏みとどまらせ、服を抱えて立ち上がる。
 目標は、まだぬくもりの残る布団。裂帛の咆哮を部屋に響かせ、両腕でしっかりと衣服を掴み、背を反り返らせてぶん投げた。
 距離よし、角度よし。
 空中で布地を大きく、翼のように袖を広げた服は、綺麗な弧を描いて宙を舞う。そして一畳分ほど進んでから、白い布団の上にばさり、と落ちた。

 危なかった、もう少し遅かったら精神を侵されていた。

 さすが鴉天狗の文、こんなところにまで巧妙に私を攻撃するとは、なんと恐ろしい。私は反り返らせていた体を元に戻し、布団の上に存在感を示す服に威嚇の姿勢を取る。破けてしまうんじゃないかと不安になるほど激しく脈打つ胸を押さえ、頭を低くする。

 今だ、今しかない。

 腰を軽く上げた四つん這いの姿勢から、全身のばねを利用して服の死角(?)を狙い。着地と同時に掛け布団を握り締め、目一杯の力で押さえつけた。

「これなら、どうだ!」

 これならこの凶暴な匂いの攻撃も私には届かない。さらに、私の匂いがついた布団で挟み込むことで、相手の存在を打ち消す。
 そして巻物のように布団を丸めることで逃げ道すら遮断した。
 絶対防御と絶対攻撃の二重奏。
 これが、これが犬走椛の全力だっ!
 こいつめ、こいつめっ! 思い知ったか、えい、えいやぁ、とりゃぁ――ぁっ、


 ――こほんっ、こ、断っておくが、私は至って普通の白狼天狗である。


 だからちょっと匂いで暴走してしまっただけで、普段はこんなことしない。丸めた布団に馬乗りになって、体を弾ませたり、上下させたりなんて、こ、ここ、子供じゃあるまいし。馬鹿馬鹿しい。馬鹿……馬鹿……ああ、もう、私の馬鹿ぁ。
 不意に、部屋の中の姿見を見たときの自分の姿で我に返り、自己嫌悪に苛まれてしまった。それでも鏡の中の私は何故か頬を染めていて、自分の所有物であるはずの心というものが何だかわからなくなる。手で触ると顔全体も熱くなっているし。

 一体、私にとってあの鴉天狗が何だというのか。
 単なる憎たらしい相手でしかなかったはずなのに……

 はぁ、とため息をつき、布団から降りて、ぐるぐる巻きにした布団を元に戻す。しかし、いつまでも憂鬱な気分ではいられない。ぱんっと頬を叩いて気合を入れて掛け布団を半分だけめくれば、そこから出てきたのは多少しわしわになった私の正装。
 畳の上で膝を付き前へと屈むと、私は頼りなくなった服へと再度接触を試みる。少しでも匂いが落ちていますように、と心の中で願い。鼻先が触れるか触れないかの瀬戸際まで顔を寄せて、おもいっきり深呼吸。
 その結果。

 ぶんぶんっと、尻尾が激しく左右に揺れるのがわかった。

 取れてる。
 物凄く、匂いが消されてる。
 私は思わず喜びの声を上げそうになるが、なんとかそれを押さえて尻尾と耳の動きだけで感情を表現した。
 結果布団の一部に文の匂いが残ってしまったが、問題ない。白狼天狗は自分の仲間の縄張り、住居には基本的に立ち入らない。有事でない限りは先輩であっても必ず入っていいかと確認を取るし、拒否されればすぐに引き下がる。つまり自然に匂いが消えるのを待っても、何ら問題がないということだ。
 順調に匂いが消えたおかげで、もう白狼天狗の威厳を失うことがない。心の底から感涙に咽びそうになったが。

「あ、でも、ちょっと残ってるか」

 その気分を台無しにする匂い、服の袖の先と襟首に残り香を見つけてしまう。袖ならケンカしたと言えば誤魔化しは聞くけれど、もう一方は説明しにくい。

「ちょっと、首しめられちゃって♪」

 ありえない。軽く言える話題でもない。下手な照れ隠しが種族間闘争に発展しかねない。こうなれば、手で擦るか。それとも別な部分で、匂いが残っても不自然じゃない場所と言えば……
 やはり、手か。
 それとも、口まわりか。 
 袖に匂いがついているので手にはついていても問題はなく、袖で口周りに触れる癖のある私としては、顔のどこかについていても不自然ではないだろう。変に思われても平然とした態度で説明してやればいい。
 顔の汗を袖で拭ったときについた、とでも。
 
 さて、そうと決まれば、後は実行あるのみ!

 布団のすぐ横で足を崩し気分を落ち着かせてから、襟口の内側に手の甲を擦ったり、指先で布地を挟んだり。動かすたびに少しずつ匂いが消えていくが、まだ足りない。あともう少しだというのに。
 しかたない、やっぱり口でやるか。
 私は襟の部分を丸めて口元に持っていき、はむっ、と甘噛みした。そのまま、ふーっと息を吹き込んでやれば、きっと上書きできるはず。
 まあ、問題があるとすれば……
 下着一枚しか身に付けず、上半身をあらわにしたこの姿が、泣きたくなるほど情けないこと。
 だ、だがっ、これでトドメだ。
 大きく息を吸い込んで、吐き出そうとした、その瞬間。

 がちゃっ

 何故か金属音がした。
 ドアの方から。
 一瞬慌ててしまうが、鍵は閉めなおしたから問題ないはず。とりあえず今は取り込み中だと告げてやればいいかと、そう結論が出たところで。

「椛~、ごめん、お礼を渡すの忘れてたから持ってきた~」

 呆気なく開いた。
 入り口の扉が、驚くほど簡単に開いた。
 
「んむぅっ!」

 なんで、どうしてっ!
 あまりに気が動転したせいだろうか。駄目、と声に出そうとするが、口に衣服を咥えた状態なのを忘れていた。呻き声では静止させることができず、慌てて服を離そうとするけれど。
 願い虚しく、扉の影から姿を見せた人影は止める間もなく部屋の中に入ってきた。

「射命丸家特製、燻製肉の詰め合わせ。何の肉かはお楽しみ――って、あや?」

 そして、目が合う。
 左手に風呂敷を持ち、右手に針金を持った、いやらしい鴉天狗と目が合った直後。
 空気が、凍り。
 時間が、止まる。
  
 何が起きたか理解できているのに、あまりの衝撃で思考が停止し。驚愕だけが全身を駆け巡る。尻尾と耳は毛先まで逆立ち、四肢は関節を固定された人形のように固まってしまう。身動きが取れず、視線だけが交差し合う中。この状況を理解するべく、復帰した思考回路が事象の欠片を集め始めた。
 目の前にいるのは、きょとんとした顔の文。とにかく気に食わないから、『最低』。
 その左手に持っているのは、風呂敷で包まれた燻製肉らしいもの、『最良』。
 反対側の右手に握られているのは、無断で鍵を開けるための針金、『問題外』。
 友好意見1、敵対意見2.

 よし、噛み付く♪

 人の断りもなく勝手に部屋に入る無礼者の末路を決定付けると、四肢の呪縛が解かれた。どうやら噛み付くという命令が、功を奏したようだ。
 四肢が緩むと同時に、強張っていた口元からも力が抜けて、噛んでいた服がぱさり、と太ももに落ちる。釣られて視線が下に落ち――
 服、自分の格好、乱れた布団の順番に視線が動き。
 再び、すべてが固まる。
 じわり、じわりと汗が毛穴から噴出し始め、一度は安定した体温が灼熱地獄の如く熱くたぎる。

「ねえ、椛? それ、私が返した服よね?」
「ば、馬鹿言わないでよ。これは別に洗濯してあった服で……」
「にとりから、事情を聞いたんだけど?」
「わ、わふっ!?」
「昨日椛が私の家にやってきた後で、にとりも尋ねてきてね。洗濯を止められたのよ。明日すぐ使うからそのまま返してあげてって。まあ、その日のうちに洗濯しなかった落ち度はこちらにあるとしても、まさか、椛がねぇ」
「あぅぅ、そ、それは……」

 落ち着け、椛。
 まだ慌てる時間じゃない。
 そ、そうだ。まず、文から見た私がどう瞳に映ったか、冷静に判断するんだ。
 文から返してもらった服で、いろいろ楽しんでいたと誤解されるのだけは不味い。そんなものを記事にされたら社会的に抹殺されたと同然。
 そ、そうだ、私は着替えていただけ! そう、それでいこう!
 
「き、着替えようとしてたら、襟元に糸が出ていたから! それを牙で噛み切ろうとしただけよ!」
「あんなに深く咥えていたのに?」
「そ、そうよ、悪い?」
「手を伸ばせば刀に届くのに、わざわざ牙で?」
「たまにはそういう気分になるのよ!」
「それに、サラシも巻かずにいきなり服を?」
「そういう冒険をしたくなるときもあるの!」
「ほうほう、それで冒険ついでに服で楽しんでいたと」
「そうよ、冒険……え、ちがっ!? 今のは流れに乗せられただけであって!」

 なんとか、誤魔化そうと私は文の目をじっと見て返答を繰り返すものの。
 にやけ始めた文の表情に焦り、余裕が消えてしまう。
 どうしよう、という感情だけが先に立ち、周囲が見えなくなっていく。

「そう、じゃあ私の勘違いかなぁ」

 だから、その文の言葉に完全に注意を奪われた私は、あやの残念そうな顔しか視界に入っていなかった。なんとか追求を免れたと、
 見逃したまま、安堵の笑みを作ったとき――

 ぱしゃり、という機械音。

「……え?」
「はい、笑顔いただき♪ これは良い写真ね、最高かも。」
「ぁ……」
「恥じらいの中から不意に見せる、安らぎの表情、生まれたままの姿に近い状態で見せるソレはまさに、母性の象徴」
「…………」
「なのに、背徳的な快楽に身を任せた罪悪感も合わさって、なんとも魅惑的な写真に仕上がったわね」

 え、何? 写真って、え? どうゆう、まさかこの姿を撮られ……
 やっと私の思考が現状に追いつき始めた頃。
 文がニヤニヤしながら、座り込む私の顎に手を触れてきて。

「明日の朝刊が楽しみですね、匂いフェチの、も・み・じ・さん?」
「――――――――――――っ!!」

 言葉にならない叫び声を上げながら、心のどこかに残る冷静な私の一部が愕然とする。
 遠吠え以外でこんなに大きな声が出せるんだと、そう素直に驚きながら困惑する感情に飲み込まれていく。

「きょ、今日のだけは絶対駄目っ! カメラを寄越しなさぁぁいっ!」
「おやおや、白狼天狗ではなく、赤面天狗になっちゃって」
「知るかそんなのっ!」
「あや、あやややややっ!? 意外と速っ!?」

 もう、なりふり構ってなどいられない。
 私は服を手に掴むと、不用意に接近していた文に投げつける。拘束するためではない、視界を隠し行動を制限するためだ。前方を服で覆われた文は、私の姿を探しながら後方へと下がろうとするが、そんな間に合わせの後退など。

「逃がすか!」 
「うわ、ちょ、椛っ!?」
「今日こそは……今日こそはそのカメラを渡してもらうからねっ!」
 
 全力の突撃の前では無力。
 私は文を押し倒すと、押さえつけたまま右腕目指して手を伸ばす。文も必死で抵抗してくるが、こうなってしまえば自力に勝る白狼天狗に分がある。不恰好ではあるが、こうやって全身を押し付ければ風も思うように使えないだろう。
 そしてここで、さらに文を追い詰める動きが。

「椛先輩、どうしました! 何か異常が!」
「大丈夫ですか!」

 私のさっきの叫び声を聞き、有事と判断した二人の白狼天狗が部屋に飛び込んでくる。しかもそれなりに友好のある後輩だ。これぞまさに天の助け。

「えっと、椛……離した方が……」

 敗北者となった文が、弱々しくつぶやくが気にすることはない。
 私は文を押さえつけたまま、二人に命令を下す。

「二人とも、この鴉天狗の手足を押さえて!」

 二人が押さえているうちにカメラを奪う。これでなんとかあの写真だけは世の中に出回らないはずだ。
 それなのに、二人の後輩は入り口付近から動かない。
 どうしたのかと、そちらに視線を向けたら。
 ぽふんっ! ぽふんっ! と目を合わせた順番に赤面し、頭の上から蒸気が上がる勢いだ。

「せ、せせせ、先輩? ふ、布団が乱れて匂いが……ふ、服も……え、ぇぇぇ……? それに手を押さえるとかそんな……」
「ば、馬鹿っ! も、申し訳ありません、先輩! じゃ、邪魔者は退散させていたでゃきますですのですっ! ほら、早くっ!」
「ご、ごゆっくり!」
「え、ちょと、ちょっと待って二人ともっ、何を誤解して!」

 ばたんっと。
 入ってきたときの倍以上の速度で、逃げるように退散する二人。何かを誤解してしまっているようで、語尾が乱れてしまっていたが、何をそう慌てるというのか。まったく。
 確かに布団は乱れていて、そこから微かに服から移った匂いがある。服はさっき文に投げつけたせいで畳の上に広がっていて、まるで脱ぎ捨てた風に見えた。それで私はというと文に覆い被さるようにしていただけ。まったく、何を勘違いして……

「……するよね、絶対」
「だから離れろと言ったのに、いいの放って置いて?」
「あ、そうだ、誤解を解かないとっ! もう、文のせいだからちゃんと協力してよ! ほんとにもう、なんで朝からこんな災難ばかり」
「そう、協力したいのはヤマヤマなのよ。でもね、カメラを取られたらその誤解を打ち消す新聞も作れないからねぇ」
「うぅ……」

 写真を奪うか、それとも、誤解をとくか。
 そんなもの優先順位がどちらかわかっている癖に、意地悪な文はわざとらしく問い掛けてくる。

「困ったなぁ~、困ったなぁ~」
「わかった、開放する……」
「利口な判断ね、賢い子は嫌いじゃない」
「うるさい、早く新聞を作りなさいってば!」
「おやおや、鴉天狗使いの荒いこと。それじゃ作業に掛かろうかな」

 私が文の上から飛び退くと、服装を正しながらくるりと背を向け、自らの背中越しに笑みを向けてくる。
 また何か、私をからかうようなことを言うつもりかと身構えたら。
 
「あ、そうそう、私としては逆を選んでいただいても一向に構いませんでしたよ?」
「もぉぉ~~っ! 早く行けってば!」

 また、心にも無い事を言って、私を狂わせようとする。
 そんな憎らしい文は、爽快な笑みと、私の大好物の燻製肉だけを残し去っていった。




 
 
 
 喉もと過ぎれば熱さを忘れる。
 
 人間の中にはそんな諺があるそうで、熱いお茶でも喉を過ぎてしまえばどれぐらい熱かったかを忘れてしまう。つまりいくら大変な事件でも過ぎてしまえば、印象が薄くなってしまうということ。
 あの嵐の様相を見せた朝も、あっという間に過ぎ去ってしまった。
 日数で言えばちょうど十日間。たったそれだけしか経過していないのに、妖怪の山は新しい話題で持ち切りだった。事件当日から三日間ほどはさすがに話題に上がったものの、それから目に見えて話題から消えていき、今では別の恋の話で盛り上がっている。情報は鮮度が命、そんな事実を再認識させてくれた。

「今日も平和か。良い事だ」

 妖怪の山の麓。
 周囲の木々よりも大きな杉の木の上に立ち、見張りを続けるけれど。私の担当する区域では特に乱暴な侵入者はなく、気持ち良い風だけが私の髪を撫でる。新緑の香りが新しい季節を告げ、山全体が喜びに震えているようだった。
 しかし、これだけ静かだといろいろ考えてしまうもの。もちろんあの朝のことだって浮かんでしまうけれど。恥ずかしながら、騒ぎ立てたことしか記憶にない。印象が深すぎて、細かな部分が吹き飛んでしまい。大まかな部分しか覚えていないのかも。
 んー、はっきり覚えてることと言えば、そうだね。




 燻製肉が美味しかった事と。






 あの服のほのかな香りが、意外と心地よかったことかな……
 
 
 
 
おまけ

「ところで文、鴉天狗の間でもちゃんとあらって返すの? ハンカチとか」
「何をふざけたことを質問するのやら、当然よ。そこらの野良犬じゃあるまいし」
「む、何か悪意を感じる返答……」
「そんなことないわよ、自意識過剰なんじゃない? あ、でも不思議とね、私の後輩なんかは『洗わなくていい』って言うのよ」
「先輩の手を煩わせたくないという心意気では?」
「そ、そんな! 洗うなんて勿体無い……じゃ、なくて、そのまま! 絶対そのままで返してください。……な~んて言うのが心意気だと思う?」
「……うわぁ」
「まるで、この前の椛みたい……」

 がぶっ

「いたぁぁぁっ!?」





<あとがき>


前作ではご指摘、ご感想等ありがとうございました。
別ルートとは行きませんが、少しだけ後日談的なお話を。
前作の『覆水』を読んでいなくても楽しめるように書いたつもりなのですが……

楽しんでいただければ光栄です。
藍々丸
簡易評価

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コメント



0.1240簡易評価
6.90名前が無い程度の能力削除
仲良いなお前ら
7.100名前が無い程度の能力削除
あやもみごちそうさまでした

わっふるわっふる
12.100名前が無い程度の能力削除
覆水のやるせなさから一転、完全コメディ色の本作も面白かったです。
やっぱり良いなぁあやもみ

椛の嗅覚で文の臭い嗅いでみてぇよーうわぁあー
17.100名前が無い程度の能力削除
種族の特性について考えるのもおもしろいですね
20.90コチドリ削除
覆水を濾過して盆に戻してくれた作者様に感謝です。

答えはまだ出せないかもしれないけれど、二人ともがんばれ。
21.80名前が無い程度の能力削除
面白かったのですが、ちょっと前半部分がテンポ悪いように感じられました
前作のテンポが素晴らしかっただけになおさら

しかし椛のテンションが高いw 発情期だから仕方ないんでしょうけど

誤字報告
9割9部→9割9分
うろついているのを見られら→見られたら
22.70名前が無い程度の能力削除
単体で見れば面白いんだと思うのですが、『覆水』の後日談だと思うと、
しっくりこないから不思議です。
24.80名前が無い程度の能力削除
覆水の続きにしては物足りない気分でした。
百合成分が不足の今作は作者なりのじらしなのですね
次回で爆発する考えだとさとりましたよ。
さあ早く次回を投稿ヨロ
覆水の続きとしてはこの点数ですが、これ単体だと90点です。
29.90名前が無い程度の能力削除
対等というか気さくというか。この関係、いいですね。
文のにおい、がどんなものであったのか、椛がそれをどう感じたのか。
そこらへんがもう少し詳細でもよかったかなと思います。決してヘンタイな意味でなく。そして多少のヘンタイ嗜好もおりまぜて。
しかしこの椛かわいいな。
36.100名前が無い程度の能力削除
椛さん、、話題に上らなくなったのは、”そういう事実”が浸透しただけであって、話題が無かった事にはならないんですよ・・・?  ニコ

きっと何かしらそれに触れる話題が出た折、掘り返されるに違いない いや掘り返されるべき

                      掘り返されるべき・・・