Coolier - 新生・東方創想話

サシイレ

2010/06/06 19:06:17
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春から夏へと移りゆく空の下、私こと十六夜咲夜は敷地内の見回りをしていた。
見回りといっても行くところは一つしかない。紅美鈴のいる門前だ。
私はこの日課を文字通り毎日欠かさずおこなっている。たとえ雨が降ろうが、
風が吹こうが、雪が積もろうが私はお昼過ぎになると門へと足を運んでいた。

見て回るところが一つなのと同じで、その目的も一つしかない。
私は美鈴の顔が、彼女の柔らかな笑みを見てみたいのだ。




しかし私の目的が達成されたことは一度たりともない。


どういうわけか美鈴は仕事中に眠ってしまう癖があるらしく、私が会いに行っても
多くの場合は舟をこいていることが多い。そんな時、私はナイフを数本取り出し
それを彼女に遠慮なく投擲する。といっても狙うのは手足だけで顔などは狙わない。
ナイフが刺さると彼女はギャヒンというなんとも間の抜けた悲鳴とともに目を覚ます。
そして私に居眠りのことを涙ながらに謝るのだ。もちろん笑ってくれない。

起きていたとしても美鈴は私の顔を見るなり、緊張して引きつった顔を見せるだけで
お嬢様達や他の妖精メイド達、たまに一緒に遊んでいる氷精に見せるような笑顔を
私に向けてくれない。仮に笑ったとしても、それは愛想笑いか苦笑みたいなもので
満足のできるものではない。そんな時も私はついついナイフを使ってしまう。
そしてその後、ひどい自己嫌悪に陥ってしまう。

こうして見ると私の日課はひどく意味のない無駄なもののように思う。
それでもこの日課を止める気はない。
いつかきっと美鈴が私にも、その柔らかな笑みをくれると信じているのだ。
今日こそはその日に違いないと胸を期待でふくまらせながら。




しかしながら、私が門に着くと美鈴は気持ち良さそうにお昼寝をしていた。
期待でふくらんでいた胸が萎んでいく。今日はその日ではないみたいだ。
数瞬で美鈴の寝顔を網膜に焼き付けてから、懐から清潔なナイフを取り出した。
一度は優しく揺り起こしてみたいが、あいにく私にそんな勇気はない。
かといって声をかけるだけでは美鈴は起きてはくれない。眠りが深いらしい。
だから私は急所を避けて美鈴にナイフを投げる。間の抜けた悲鳴が上がった。
私はごめんねと胸の中で呟きながら、声を大きくして美鈴を諌めた。




※※※※※



「ねぇ咲夜。美鈴とはどうなったの?」
カップに紅茶を注いでいると不意に声をかけられた。
場所は紅魔館の地下にある図書館。私は給仕に来ていた。
「特に何もありませんわ、パチュリー様」
私は平坦な声で応えたが、内心では動揺と焦りが渦巻いてしまう。
以前から美鈴のことを相談させてもらっているが、やはり気恥ずかしい。

「何か策があったりはしないの?」
「今のところはないですね」
「早く手を打つんじゃなかったの?」
「うっ……それは……」
「うかうかしていると横から盗られるわよ、それでいいのかしら」

美鈴はその明るくて優しい性格のためわりと人気がある。
先日も彼女を慕う妖精メイド達が、立ち話をしている姿を偶然に目撃している。
このままだと本当に近いうち、泥棒猫に美鈴をかすめ盗られてしまうだろう。
妖精メイド達はあまり頭が良くない。そのため時に大胆なことをしてくれる。
私は今この瞬間にも美鈴に、悪い虫がついていないか不安でしょうがなかったりする。

「……ですが、その……本人を目にすると頭が真っ白になってしまい……」
「真っ白になってどうなるのかしら?」
「ついついナイフを投げてしまうんです。えっと、恥ずかしくて……」
「……プレゼントにしては少し過激ね。せめて普通の差し入れにしておきなさい」
「差し入れですか……あの子の好きな物って何でしょうか?」

食堂で妖精メイド達と仲良く食事をとっている姿なら日頃からよく見かけるが、
何が好物なのか私は知らない。今度、勇気を出してこっそり覗いてみよう。
美鈴は何が好きなんだろう、私が作れるものならいいな。

「さぁ? あの子、何でも美味しそうに食べるから、そのあたり曖昧ね」
パチュリー様なら百年単位での付き合いなのだから、何かご存知だと思ったが、
案外そうでもないらしい。やはり二人の関係が主従に近いものだからだろうか。
しかし、このままだと部下の妖精メイド達に訊かないといけなくなる。
それだけは避けたい。私にだって体面というか、意地というものがあるのだ。

「とりあえず、何でもいいから作ってみれば? 喜ばれると思うわ」
「……もしそれが嫌いな物だったら、美鈴に嫌われたりしないでしょうか?」
「さすがにそれで嫌いになったりはしないでしょう。少なくともあの子は」
「そうですよね……分かりました。次からは何か作ってみます」
「少なくともナイフでの出血サービスよりは喜ばれるはずよ」
「はい、お菓子作りの本を借りていってもいいでしょうか?」
「いいけど、あまったら私にも分けてくれない?味を採点してあげる」

パチュリー様の冗談混じりの言葉を受けてから、私は図書館をあとにした。
今日はまだ何も用意できていないが、仕事中の美鈴に会いに行くのだ。
もしかしたら、差し入れをする前に優しい笑顔がもらえるかもしれない。



美鈴は起きていた。
紅くて長い髪を風になびかせながら立つ後ろ姿。それを見て私はうっとりとする。
美鈴は女性としては背が高く武道を修めているだけに、その姿勢には威風が伴っている。
一見すればかなり威圧感があるが、その性格はとても穏やかですごく親しみやすく、
少しばかり臆病なところもある。そんな相反するものを美鈴は持っているのだ。

私は深呼吸して心と身体の両方をクールダウンさせる。心の準備みたいなものだ。

「今日はちゃんと起きているのね」
「は、はい。そういつも寝ているわけにはいきませんから……」
「何か変わったことはある? なんでもいいの、私に教えてくれない?」
「えっ……えっと、特にこれといって……ないです」

美鈴がよそよそしい返答をよこしてきた。見ためそのままに怯えている。
緊張と恐怖のせいでその声は露骨に震えていて、いつもの明朗さはどこにもない。
そして美鈴は私を視界に入れているが、その焦点は私の遥か後方で結ばれている。
もちろんその口元には歪な半月が描かれていて、血色も少しずつ悪くなっていく。

これくらいならまだ耐えられる。これくらいは覚悟してきた。
その証拠に私の心は平常運転している。だってこんなのは、毎日のことだから。

私は美鈴の好きな食べ物も好きな色も好きな本も好きな人がいるのかも全然知らない。
それでも美鈴が私のことを恐がっていること だけ はずっと前から知っている。



※※※※※



いつの日からか、美鈴は私のことを怖がるようになっていた。
多分、原因は私の方にあるのだと思う。だって思い当たる節はいくらでもあるのだ。
それでも出会ってすぐの頃、私が紅魔館でメイドをするようになってすぐ頃には、
美鈴は私にもその柔らかな笑顔を会う度に向けていてくれた。

しかしながら、当時の私が感じたものは嬉しさではなく、新鮮さだった。
当時の私は笑顔というものを見慣れていなかった。そして価値も知らなかった。
そもそも、私に笑顔を向けてくれた最初の人は美鈴なのだ。人じゃないけど。

私は他の人間から幼い頃より、何故かドブネズミのように扱われ疎まれてきた。
仲間がいるだけドブネズミの方が文化的で社会的な生活を送っていたかもしれない。
とにかく私は孤独だったのだ。そんな私に美鈴は当たり前のように笑いかけてくれた。
だけど今まで日の当たらない真っ暗で汚いドブの中で生活していた私にとって、
彼女の笑顔は新鮮だったけれども、それ以上にまぶしすぎた。私はそれを厭うになった。


今では、当時の自分をモノの価値も分からない、愚か者だったと後悔している。


しかしながら後悔先に立たずとはよく言ったもので、私は美鈴をぞんざいに扱った。
いや、ぞんざいなんてものではない。私は美鈴がくれるもの全てを仇で返した。
「ありがとう」なんて言葉は一度たりとも口にしたことがなかった。その代わりに
心地よさを痛みで、優しさを悪意で、慈愛を恐怖で、愛情を憎しみで応えたのだ。
美鈴はいつも私を気にかけてくれた。私はその度に彼女を二重に傷つけていた。
それでも美鈴は、咲夜さんと私の名前を連呼してまとわりついてきてくれていた。

そんな狂った関係が数年間ほど続いた。
その数年間、暖かな光に照らされた私は、ドブネズミからメイド長に昇進していた。
その頃には美鈴からの優しさにも、笑顔にも慣れて不快感も完全になくなっていた。
だけど、前よりは多少改善したが、私は依然として美鈴をぞんざいに扱っていた。
別に美鈴が嫌いなわけではなかった。ただ美鈴のことがムズかゆかったのである。
日の光に慣れたら今度はその暖かさが、なんだかくすぐったくなったのだ。
この頃から私は美鈴を意識しはじめていたのだと思う。

しかしながらこの安寧の時はすぐに終わってしまった。
美鈴が私に笑いかけてくれなくなった。とうとう私は愛想を尽かされたのだ。
私が気づかなかっただけで、本当のところ小さな前兆はいくつもあったと思う。
深刻な病の多くがそうであるように、私が自覚した時にはすでに手遅れだった。

私が自覚症状を持ったのは、ある日に美鈴と廊下ですれ違った時だ。
いつもなら明るい声で挨拶をした後に、まとわりついてくるはずの美鈴が
その日は機械的な声で挨拶をしてきただけで、そのまま行ってしまったのだ。
私は珍しいこともあるものだと、多くの重病患者の犯す勘違いをしていた。
その時に気がついていれば、助かったかもしれないのに気がつけないのだ。
そして、次の日もそのまた次の日も美鈴は、会った時に機械的な挨拶をするだけで、
私にそれ以上の接触してこなくなった。もちろんそこに笑顔なんてなかった。
それから一月が経つ頃にはその挨拶すらなくなった。美鈴と会わなくなったのだ。

暖かな光を慕いはじめたら、また光の当たらないところに落ちてしまった。
孤独には慣れ親しんでいるはずの私が、ついには孤独にまで見捨てられた。
私が孤独を裏切ったからだ。だから心は孤独に切り裂かれ、私は悲しみを知った。

そしてある日、私はどういうつもりなのだと感情のままに美鈴を問い詰めた。
美鈴が気のせいですよと、シラを切ろうとしたので私はナイフで彼女を切った。
赤い液体が飛び、シャツと美鈴の顔を汚した。私は初めて美鈴をナイフで傷つけた。
驚嘆と恐怖に彩られた彼女の顔は今でも鮮明に、そして強烈に記憶している。
私はすぐに謝った。美鈴も許してはくれた。だけどもう歪んでしまった。

その結果できあがったものが今の彼女との歪な関係なのだ。
私が慕い美鈴が厭う。なんていう皮肉だろう。なんという自業自得だろう。
かつてとは真反対。もう修復できないかもしれない、まさに不可逆性というやつだ。
それでも私は美鈴を諦められずに慕い続けた。そしてそのまま今に至る。



※※※※※



「どんな些細なことでもいいの。例えば、今朝は何を食べたとかでもね」
「今朝、ですか。私の部下達が作ってくれたものを食べました……」
「なら、それはどういったものなのかしら教えてくれる?」
「えっと、その、お肉と野菜が入っていました……あとお芋も少し」
「それではあまり参考にはならないわね」
「すっ、すみません。次からは気をつけます、だから……痛いのは嫌です」
「……こんなことでナイフは使わないわ。私を何だと思っているの?」
「……紅魔館のメイド長です」
「それだけ……かしら?」
「……はい。それ以上に……なにかあるのでしょうか……?」

どうやら今日も美鈴は笑ってはくれないみたいだ。
私はどうすれば他人を笑わせられるのかも、どうやって笑うのかもよく分からない。
こんな私に美鈴はよく笑いかけてくれたと思う。それも、もう過去のことだけど。

「まぁ、いいわ。詳しいことは貴方の部下達に直接訊いてみるから」
「……それはやめて下さい。私が彼女達に訊いてメイド長に報告します」

私は思わず奥歯を噛み締める。鈍い音が口内に響く。音漏れ注意だ。
あの日から美鈴は私のことを名前ではなく、役職名で呼ぶようになった。
気がつけばナイフを取り出しそうとしている自分がいた。それをぐっと押さえ込む。

私のことは名前で呼んで欲しい……なんて言えるわけがない。
だから自分をごまかすためにも、ありきたりな言葉で返しておく。

「あらなんでかしら? なにか特別な理由でもあるの?」
「いえ、その……メイド長のお手をわずらわせたくないだけです」

部下達ヲ危険ナ目ニ合ワセタクナイ 私の耳にはこう聞こえた。
美鈴が私を恐れる一番の理由がこれだ。彼女らしいといえば彼女らしい。
美鈴は私が何かのひょうしに、彼女の部下を傷つけないか心配しているのだ。
ちなみに私は今まで彼女の部下達に手を出したことなんて一度たりともない。
単に私が美鈴に信用されていないのだ。

「そう、気が利くのね。お願いしようかしら」
「……はい、任せてください」
「じゃあ、そろそろ戻るわ」
「……ご足労様でした」

いつかはまた名前で呼んでくれないかな、美鈴。

館内に戻るまでの短い道中、私は何度も振り返り美鈴を見た。名残惜しいのだ。





メイド業務を終えた私は自室でお借りした料理本を読んでいた。
明日のお昼に美鈴へ持っていく差し入れの品定めだ。
パチュリー様からお借りした本には古今東西の料理のレシピが書かれていたが、
その多くは同僚への差し入れには向いてはおらず、お嬢様達のお食事に出した方が、
相応しいくらいの豪華絢爛さを誇っている。お出しすればきっと喜ばれるだろう。

結局、美鈴の好みが分からなかったのも問題だ。
パチュリー様は、例え嫌いな物を出されても美鈴は喜んでくれると言った。
私もそう思う。だけど、どうせ出すなら美鈴の好きな食べ物を出したい。
そうすればいつかは私のことを、再び咲夜さんと呼んでくれるかもしれないし、
私に笑いかけてくれるかもしれない。それはとても幸せなことだと思う。

美鈴、甘い物は好きなのかな。

ぱらぱらと本を無造作にめくっていても自然とお菓子のページで指が止まる。
美鈴の好きな物を考えているはずなのに、私の目はお菓子ばかりを捕らえる。

自慢ではないが私は甘党だ。ドブネズミだった頃の反動なのかもしれない。
砂糖だけでも結構な時間舐め続ける自信だってある。絶対にそんなことはしないけど。

初めてのおやつはクッキーだったはずだ。ここに来たばかりの時に美鈴がくれた。
あの時、私は毒が入っていると疑って何枚かのうち一枚を近くの妖精メイドに
無理に食べさせて毒見をした。当然ながら毒なんて入ってなくて一枚損をした。

それだけではない。それ以後に美鈴が、私におやつをくれることはなくなった。
最初で最後。この言葉を実践した数なら、間違いなく私がこの世で一番だろう。
やはり私は愚か者なのだと痛感させてくれる大切な思い出の一つだ。

クッキーか……最有力の候補にしておこう。まだ他に候補ないけど。

とりあえず明日の差し入れは甘い物というのが私の中で決定した。
それから私は料理本に収録されているお菓子類のレシピばかりに目を通した。
おそらく魔法が施されているのだろう。本は見た目からは信じられないくらいの
量のレシピを掲載している。さすがはパチュリー様の蔵書だけはある。
私はあわよくばお菓子類だけは制覇してやろうと思ったがすぐさま諦めた。
おそらく一生かかっても無理だろうし。そんなことに一生をかけたくない。

ケーキも捨てがたいかもしれない。

クッキーの次に私が目をつけたのは、様々なかたちをしたケーキ達だ。
あるものはイチゴをのせて、またあるものは全身をチョコレートで覆っている。

私はこのケーキと呼ばれるお菓子を作ったことがあっても食べたことはない。
私が食べることのできるお菓子は基本的にお嬢様達にお出ししたものの残りだ。
お嬢様達はお菓子類の中でも特にケーキをお好みになられているため、
今までお残しになられたことはない。だから私の口に入ったことがないのだ。
どれだけ多めに作ってもその全てを平らげてしまう。それほど美味しいのだろう。

主人たちを差し置くかたちになるかもしれないが、ケーキを差し入れるのも、
いいかもしれない。……なんだか上手いこと言った気がする。
ただ問題点もある。それは自分で食べたことがないため確証に欠けてしまうし、
また作るとした場合かなりの調理時間と材料とが必要となることだ。

やっぱり無難にクッキーにしようか。美鈴が一度だけ、私にくれたものだし。

私は作るものが決定したので、すぐに部屋を出て館内の大厨房へと向かう。
材料の確認と下ごしらえのためだ。いや、気分さえ乗れば一気に作ってしまおう。
おそらく手の込んだものは作れないだろうが、簡素なものなら十分に作れるだけの
材料はあるだろう。それに多分その方が差し入れとしては適切なのだろうし。
厨房へと向かう私の足どりは軽い。

意外なことに厨房には明かりが点いていた。
誰かが夜食でも作っているのかもしれない。だけど入ってみると中には誰もいない。
明かりの消し忘れかとも思ったが、調理を途中で丸投げしたであろう形跡があった。
まな板の側には不細工に切られた野菜が、フライパンの上にはお肉が生焼けの状態で、
放置されていた。見てみると流しには、血や切りクズがついたままの包丁まである。

少なくとも料理慣れした者が立っていたわけではなさそうだ。
おそらくは、不慣れなことをして手のどこかを切ってしまい、慌てて治療しに
行ったのだろう。不慣れさからも犯人は妖精メイドのうちの誰かに違いない。
そんなことはどうでもいい。とにかく私はクッキーの材料を確認するだけだ。

クッキーを作るだけの材料はちゃんとあった。ただあまり余裕はない。
そこで私は誰かに使われてしまう前に下ごしらえをすることにする。
下ごしらえといっても後は焼くだけの段階までもっていくつもりだ。

他には誰もいない深夜の厨房で私は一人黙々と作業を続けた。
美鈴が美味しいと言ってくれるために念入りに執拗に生地をこねる。

下ごしらえはすぐ終わった。あとは昼くらいに焼くだけで差し入れの完成だ。
生地を棚に寝かした私は厨房を出ようと出口まで向かう。眠くてしょうがない。
だけど眠気と戦う私の視界にさきほどの放棄された食材達が入ってきた。

誰がここに立っていたのだろう。その人がここに帰ってくる気配はない。
後片付けくらいすればいいのにと思うのと、私の身体は自然に動き出した。
潔癖症ではないが気になるものは気になる。もののついでに私が片付けておこう。



その晩、私は初めて楽しい夢を見た。そこには笑顔の美鈴がいた。



完成したクッキーを紙袋に入れて、その口を可愛いリボンを使って閉じる。
その二つは今朝方にパチュリー様からいただいた物だ。本当にありがたい。
その見た目は差し入れというよりはプレゼントみたいになってしまったが、
別段に問題はないと思う。初めての美鈴への贈り物、胸の躍る甘い言葉だ。

クッキーは考えた末に、かなり甘さを抑えることにした。
美鈴の喉が渇いてはいけないからだ。一緒に紅茶も持っていけばいいと気づいたのは、
焼いている途中になってからで、やり直しはきかなくなっていた。本当に残念だ。
それでもクッキー自体は自分で言うのもなんだが、ちゃんと美味しく作れている。
ついつい美鈴の喜ぶ姿が目に浮かんでしまう。私は一度も見た事ないけど。

あとは美鈴に会って渡すだけ。お昼寝していないといいな。

美鈴は昨日と同じで起きていてくれた。
私は懐にクッキーがあることをその重さで確かめる。よし、ちゃんとある。
情けないことにドキドキしてきた。不安と期待の混じった感情が胸を占めてくる。

「お仕事ご苦労様」
「……メイド長もお疲れ様です。今日も特に異常はありません」

美鈴は私が訊いてもないことを顔を合わせるなり報告してきた。
そんなにも私との会話は苦痛なのだろうか。自然と申し訳ない気持ちになる。
だけど、本当にそうであったとしても私は美鈴と断絶したくない。
それが自分勝手であることも自覚している。それでも嫌なのだ。

「そう。平和でなによりだわ」
「……今日はどういったご用件なのでしょうか」
「大した用ではないわ。これを貴方に届けにきただけよ」
「これはいったい……何なのでしょうか?」
「ただの差し入れよ」
「あの、その、誰から……私の部下達からでしょうか?」

美鈴は、私から受け取った差し入れをまじまじと見ながらそう呟いた。
この反応だって予想の範疇だ。それでいて私の心は無傷ではすまされない。
刺さるというよりは焼けつくような痛みが、私の胸のあたりを襲ってくる。

こんなことで動揺してはいけない。あくまで平常心でいないといけない。
自分にそう言い聞かせながら、私は絞るようにして声を出した。

「……私からよ、残念だけど貴方の部下達からではないわ」
「えっ、メイド長から……ですか?」

怯えで彩られていた美鈴の瞳が、驚きに塗り替え始めているのが見て分かった。
これ以上ないくらいに美鈴は驚いている。怯え以外の表情を間近で見るのは久々だ。
そしてこの時、私は卑しいことに笑顔の他にもお礼の言葉まで期待しはじめていた。
未だにかつての傲慢さが抜け切っていないのだ。

「えっと、そのなんで……ですか?」

私の淡い期待はいつものように裏切られた、しかも最悪の結果で。
美鈴は私からの普通の贈り物を不審に思っているのだ。
……ナイフなら素直に受け取ってくれるというのに。

「……いつも、いつも貴方が頑張っているから」
「そっ、そうでしたか、そうとは知らずに……失礼しました」
「……気に入ってくれると嬉しいわ」

それだけ言って私は尻尾を巻いて屋敷の中に逃げ込んだ。
今日は振り返る余裕すらなかった。私にだけ冷たい雨が降ってきたのだ。
お礼の言葉の代わりに美鈴から貰えたのは、謝罪の言葉だった。




「いきなり上手くはいかないわ。まだ初日なのだし」
「そういうものなんでしょうか?」
「咲夜だっていきなり差し入れなんて貰うと驚くでしょ?」
「……はい」
「美鈴だって同じよ、いきなりだから戸惑ったんだわ」

パチュリー様は私を励ましてくれているが、美鈴のあの反応はどう贔屓目に見ても、
私の差し入れに何か仕掛けがあると疑っているものだ。かつて私がしたみたいに。
それだというのに後悔よりも悲しみの方が、先にきた私はなんて自分勝手なのだろう。
今ではそれが情けなくてしょうがない。本当にごめんね、美鈴。

「諦めてはだめよ、咲夜。継続は力なりよ」
「ですが、きっと美鈴は私の差し入れなんか食べてくれませんよ……」
「変に一回でやめるとそれこそ怪しまれるわ。とにかく差し入れを続けなさい」
「……わかりました。できる限りはやってみます」

その後もパチュリー様は私の愚痴や弱音を聞き続けてくれた。
おかげで少しはすっきりしたものの、やはり焼かれた胸は癒されなかった。



仕事を終え自室に戻った私は昨晩と同じ様に料理本とにらめっこをはじめた。
見れば見るほど甘そうなお菓子が写真みたいな物付きで掲載されている。
それらを見ているだけでも私のお腹は減ってしまう。

二日間も同じ物を贈っても大丈夫なのかな。

美鈴は私からの差し入れに、何か仕掛けがないか疑っているのだと思う。
美鈴に同じ物を連続で贈ったら、さらに警戒されてしまうのではないだろうか。
さすがに考え過ぎだとは思うが、念には念を入れておく。後悔はもうしたくない。
それに疑いなんて関系なく、同じ物ばかりだと美鈴が飽きてしまうかもしれない。
やはり明日の差し入れは、クッキーではなく何か違う物を作るべきだ。

コン、コン

料理本をめくる私の耳に聞き慣れない渇いた音が入ってきた。
何の音なのだろうか、家鳴りにしては音が大きすぎる。

コン、コン

また聞こえてきた。どうやら部屋の扉をノックされているみたいだ。
初めてのことなので戸惑ってしまった。こんな時間に誰なんだろう。

「どうぞ」

扉を開けてみると赤くて長い髪が目に入ってきた。心臓が止まりそうになる。

「夜分遅くにすみません。パチュリー様からの伝言です」
「ご苦労様、パチュリー様はなんと?」
「はい、お貸した本の241ページ目にあるマフィンがオススメとのことです」
「……わかったわ。明日のお茶受けの参考にさせてもらうわ」
「あと、本の貸し出し期間は一週間で、連続してお借りになる場合でも、
 期間内に一度は返却するようにと仰っていました」
「妙なとこで律義というか、原則を遵守されるお方ですね……」
「伝言は以上です。では、失礼しました。お休みなさい、咲夜さん」
「はい、お休みなさい」

小悪魔を見送った後、私は再び料理本へと向き合う。
件のページをのぞいて見たところ、そこには美味しそうなマフィンの写真が
たくさん掲載されており、その下にはレシピも紹介されている。
これならパチュリー様はもちろんのこと、美鈴も喜んでくれそうだ。
うん、明日の分はこれにしよう。

トン、トン

マフィンの材料を確認している私の耳にまたもや渇いた音が聞こえてきた。
今回は前回に比べると音は小さいものの、私は集中していた分だけいら立ってしまう。
おそらく犯人は、伝言のし忘れを思い出して慌てて引き返してきた小悪魔だろう。
あの子は優秀なのだけど、少しそそっかしいところがある。

「今度は何のようかしら?」

何気なく扉を開けると紅くて長い髪が目に入ってきた。時を止めてしまいそうになる。

「……こんな夜分遅くに申し訳ございません」
「いいわ、気にしないで。私に何か用かしら?」
「あの、その、お昼の時のお礼をしに……すみません」
「……そう、それだけかしら?」
「いえ、えっと、その、クッキー……美味しかったです」
「……それはよかった。作ったかいがあったわ」
「私からは、それだけです……失礼しました」
「お休みなさい、美鈴」
「今日はありがとうございました、咲夜さん」

私は美鈴の背が見えなくなるまで、ずっとその場に立ち尽くした。

美鈴を見送った後、また私だけに雨が降ってきた。でも今度のは温かい。
美鈴から私に会いに来てくれた。美鈴が私にありがとうと言ってくれた。
いくらそれが形式的なものとはいえ、やはり嬉しいものは嬉しい。
だけど嬉しいはずなのに、私の目からは温かい雫が流れて出してきて止まらない。

だって、やっと一歩分だけ前に戻れたのだ、これ以上先に進まないですんだのだ。
こんなに嬉しいことはそうそうない。だって私にとって、これが初めての成功なのだ。
自分でまいた種とはいえ、ずっと失敗してきた。その度に胸が焼きつき前進してきた。
でも今回は成功した。胸が温かいモノで満たされる、目から溢れてしまうくらいに。
私はなんとかそれを言葉に換えようとする。だけどなかなか上手くいかない。
温かな雨に濡れながら必死になって口を動かし、なんとかその言葉をかたち作る。

「ありがとう、美鈴」

紡ぎ出てきたものは、昔からずっと言えなかった美鈴への感謝の想いだった。
咲夜さんには、本当の意味での中二病が凄そうなイメージがあります。

※今回は単発モノで過去作とは関係ありません。続編は多分あるかな……?

読者の皆様に感謝です。
砥石
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コメント



0.2980簡易評価
5.90名前が無い程度の能力削除
非常にサイケデリック
9.100名前が無い程度の能力削除
前向きエンドで良かった
10.90コチドリ削除
このお話は作者様が今まで紡がれてきた物語の前日譚的なものと解釈してよろしいのでしょうか?
だとするなら、ある意味人格が破綻していた咲夜さんを今の状態にまで持ってきた
美鈴や紅魔館の面々を褒めてあげたいなぁ。

あと、作中で語られている伏線らしきものを考慮すると、続編を期待しても良いのでしょうか?
うーん、あるといいなぁ……
14.100名前が無い程度の能力削除
なんか最後の咲夜さんが泣いてる所で、こっちまでホロリと来ましたよ。
続編期待してまする。
18.100名前が無い程度の能力削除
なんかこう言うもどかしいの好きだわ
続編あるなら楽しみにしてます
24.100名前が無い程度の能力削除
こういう切り口も良いものですね、美鈴の心境が気になるところ。
続きも是非読んでみたいです。
33.100名前が無い程度の能力削除
底の底まで落ちきった後の、這い上がる姿が堪らない。
落ちようがないんだもの。
途中で落ちたら、また、登ることができる。どう転んでも前向きにしかならない、必死な恋物語が大好きです。
37.100名前が無い程度の能力削除
ああーきゅんとした・・・。うまくいってほしいですね。
43.100名前が無い程度の能力削除
これは続きを期待せざるを得ない
47.100名前が無い程度の能力削除
そういう理由だったのか。
55.100名前が無い程度の能力削除
めちゃくちゃ面白かった。
この二人の関係性良いね。
64.80名前が無い程度の能力削除
じわっとくる感じがよかったです。
続きが気になる……。
72.100名前が無い程度の能力削除
不器用メイド長、最後の救いに涙