Coolier - 新生・東方創想話

地の底に咲く煌月(きらづき)

2010/04/24 03:39:52
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 <1>

 物見遊山に耽ったおかげで、久方ぶりの里帰りはすっかり夜が更けた頃になった。
だがそんな不義理も許すかのように、真円を描いた月が懐かしい故郷の輪郭をおぼろに
照らし出している。
 月光を染み入るように浴びながら、己(おれ)はのんびりと夜道を歩く。
 幻想郷を旅歩いて、もう何十年が経ったのだったか。
 まして生まれ育った土を踏むのは、そろそろ三桁の時を経るのではないか。
 人が一人、否、二人は生まれて死ぬだけの時を、赴くままに過ごしてきたわけだ。
 とはいえ快楽(けらく)はほどほど、もっぱら刀を究むが、我が人生だった。
 それは己の望みに敵うものであったし、だからこそ痛苦も当然と刻み込んできた。
 望みを叶えるための苦しみであったのだから、ただ苦しむだけの百年を過ごした者から
見れば、己は放蕩者なのかもしれない。
 いつになく慈愛を含んだ月の光が、そんな感傷を抱かせた。
 是非を問われたなら、躊躇わず胸を張ることのできる日々だ。誰の後ろ指を気にするこ
ともない。だから誰かの不幸との比較など、それこそ詮無きことだ。
 気でも迷ったのだろうか。だが、それを月の所為にはできない。
 こうして道を照らしてくれるだけで、己は頭が上がらないのだ。
 不覚の濡れ衣まで着せたのでは、男の最後の面目まで、泥にまみれることになる。
 だからせめて、騒ぐ心を清めようと、故郷の神前に祈りを捧げることにした。
 ちょうど近くに、博麗神社があったはずだ。
 そうして神社を目指して歩いていたら、道中で己は奇妙なものを見つけた。
「……なんだ、これは」
 辺りは夜の闇に包まれていたが、月が幻想郷に輪郭を思い出させている。
 おかげで己も、昼間は今立っている場所がどんな景色だったのか、闇に浮かぶ影とどう
にか示し合わせることができる。
 だが、異常が一箇所だけある。目の前の地面に、満月でも照らしきれないほどの深い闇
が口を開けているのだ。
 そこには何もない。あったはずのものさえ、一切がない。
 どこまで掘り抜いてあるのか見渡せないほどの巨大な穴だけが、そこにあった。
 身を乗り出して覗き込んでも、底どころか淵さえ定かでない。
 夜の暗さなど問題にならないほど、広大な空間が消失して闇に同化していた。
 まさしく地の底まで続いていそうな大穴だ。貝塚や墓穴というには馬鹿げた尺だし、よ
もや巫女が自ら神域に穴を開けるとも考えがたい。
 では一体、誰が何の目的でこんなものをこしらえたのか。
 そもそも穴は、一体どこへと通じているのか。
 そういった好奇の心はあったのだが、己の頭に浮かんだのは、もっぱら別のことだった。
「ああ……今夜は、いい月だ」
 視線は、再び天へ。物言わず微笑む母のように、満月が静かに佇んでいる。
 己の頭にあったのは、足元の暗闇がどこへ通じていようとも、それが深ければ深いほど
に、果てから見上げた月はさぞ美しいだろうという期待だった。
 だから、まずは其処を目指してみようと、底を目指してみようと、己は吸い込まれるよ
うに穴へと身を投げた。
 不思議と恐怖はなかった。さながら冒険に駆け出す童子のように、心も身体も軽い。
 冷たい風が肌を撫で、己は闇の中をどこまでも墜ちていった。

 <2>

 ――己はその後、地獄に落ちた。
 冗談のような話だが、こうして足で地を踏んでいるのだから本当だ。
 己は今、平らな場所を歩いている。つまり、落ちる時間は終わったということだ。
 あれほど長い墜落を味わったことはない。おそらくは今後もないだろう。
 己が飛び込んだ穴は、文字通り地の底まで通じていた。延々と続く落下の途中で、釣瓶
落としや土蜘蛛などといった珍しい妖怪たちに出会った。
 出会ったというよりは落ちながら擦れ違ったのだが、釣瓶落としも土蜘蛛も――キスメ
にヤマメというのだが――律儀に一緒に墜落しながら自己紹介をしてくれた。
 二人の話で、大穴が幻想郷で旧都と呼ばれる場所に繋がっていることがわかった。
 正確にはまず灼熱地獄(今は旧地獄というらしい)を管理する地霊殿なる建物があり、
そこから切り離された地獄の住人たちが住まう場所を、旧都と呼ぶのだそうだ。
 ヤマメたちはいきなり落ちてきた己にたいそう興味を持ち、敵意が無いことを示すとと
ても親切にしてくれた。おかげで己は地底の住人の取り成しを受け、第一の関門として知
られる旧都と洞窟を繋ぐ橋を、穏便に渡ることができた。
 番人がわりの橋姫、水橋パルスィは、ヤマメの紹介の手前もあったのだろう、なにかと
絡んではきたが己を無事に向こう岸まで案内してくれた。  
 難しい性質のようだが、防人というのはあれくらいのほうが頼もしい。
 お勤めご苦労と去り行く背中に呼びかけて、己はいよいよ旧都へと踏み込んだ。
 ……これが、穴に飛び込んでから今までの顛末(てんまつ)だ。
 そして悠々と異郷の地を歩いているのだが、
 ……果たしてここは、本当に地獄なのか?
 そう疑ってしまうのも無理がないほどに、旧都は落ち着いた空気に包まれ安穏だった。
 職人の腕と心が伺える整った外面の家屋が軒を連ねて、町を大きな一つの景色のように
彩っている。まるで肩を寄せ合う人と人のように、建物たちが互いに調和していた。
 道を行くのは大概が妖気を放つ者――つまりは幽霊や妖怪だが、彼らの気配にも表情に
も、危ういものはない。むしろ自然に腹の底から出た笑みで、明るく伸び伸びと言葉を交
わしている。
 己の期待に反して、地底までは月の光も届いていなかったが、旧都には確かな明るさが
あった。それは、誰かが照らすのではない、各々が自ら光となって輝く明るさだ。
 今見ているのが地獄と呼ばれる場所の景色なら、己が今まで地獄だと思ってきたものは
なんだというのだ。
 ややもすれば名前との落差に混乱してしまうほど、旧都の景色は心躍る幻想だった。
 この不思議な町のことをもっと知りたいと、気づけば胸が騒いでいた。
 そして、長い旅暮らしの経験が活きて、己は渇望を満たす術を思いついた。
 否、思い出した。
 己は大通りを見渡して、嗅覚を尖らせる。
 程なく、目当ての香りを探り当てた。足は、待ちきれないとばかりに動き出す。
 己は、暖簾をぶら下げた開けた大きな家屋の軒を潜った。
 遠目に見てもわかる、大型の盛り場だ。
 ここなら酒を目当てに多くの人々が集まり、それだけ話も集まるだろう。
 足を踏み入れると、油と獣肉、調味料の混ざり合った濃密な匂いが、鼻腔をくすぐる。
「もし、もう開いているかな?」
 奥で準備をしている主人と思しき人物に声をかけ、その背につい目が行く。
 人型の背中に、くたびれてはいるがかつて大空を駆けたであろう姿を思わせる漆黒の翼
があった。鳥妖の中でもとりわけ逞しく大きなその翼は、鴉天狗と呼ばれる妖怪の証だ。
 しかし鴉天狗は河童とともに妖怪の山をねぐらとしており、主にそこで生活している。
 故に幻想郷でも山以外の場所でお目にかかるのは珍しい。そんな鴉天狗を、よもや地の
底で見ることになろうとは思わなかった。
「へいらっしゃい! おやお客さん、懐かしい匂いをさせてるねぇ」
「懐かしい? なんのことかな」
 契機のいい挨拶とともに振り返ったのは、やはり鴉天狗の男だ。
 立派な髭を湛え、遠目に見ると強面の中年だが、声を聞けばその印象が誤りだとすぐに
わかる。外面だけでは伺えない、人懐っこい響きがそこにはあるのだ。
「見ない顔だね。お客さん、あんたさては地上から来なすったね? 実はね、あたしも元
々あっちに居たんでさ」
 店主は懐かしむように天井を、その先にあるであろう幻想郷を見上げる。
「だが、仕事でどでかいヘマをやらかしちまいまして。大天狗様には大目玉、天狗仲間の
中にもどうにも居づらくなって……この旧都に逃げてきたんでさ」
 語る言葉の節々に滲む色、顔や翼に刻まれた傷から、男がこれまで経てきた時間の端を
垣間見ることができた。
 だが、きっと彼はかつての不覚を糧として。今を生きているのだ。
 一目会ったばかりの己だが、目の前の男からはなんら危ういものを感じない。
 むしろ初対面だというのに、こちらの身構えを解かせるほどの親近感があった。
「なるほど、そういう仔細か。いかにも、地上から穴を下ってここへ来た。己は、魂魄妖
忌(こんぱくようき)だ。よろしく」
「あたしは鴉天狗から逃げちまったんで、ここじゃ梟(ふくろう)と名乗ってます。ご本
鳥(ほんにん)にゃ申し訳ねえが、今じゃ皆がそう呼ぶんで、後の祭りというわけで」
「では己もそれに倣おう。梟殿、まずは一杯もらおうか」
 この男からなら、旧都の確かな感触やぬくもりを教えてもらえそうな気がした。
 梟は己の言葉に目を丸くすると、慌てて大袈裟な素振りで両手を振る。
「いやいや! 一見さんに殿呼ばわりされちゃそれこそ鳥肌ですぜ。梟か、でもなきゃ酒
場の親父と以後は呼んでくださいよ」
 言葉が、また一つ、梟を知らせる。昔はいざ知らず、今は剣呑な見た目に似合わず素朴
な性格を成熟させているのだ。旧都に生まれた初めての縁がこの柔和な男であったことに、
己は感謝する。
 いや、感謝では足りない。乾杯もしよう。
「では、梟。自慢の酒と、この旧都の話を肴にもらいたい」
「へい、毎度っ!」

 <3>

 旧都の歴史が育んだ酒は、この地の性質を汲んだのか、まろやかで喉に優しく染みた。
 雫を転がすように味わいながら、己は梟の演説に耳を傾ける。
「この旧都ってのはね、言ってみりゃ嫌われ者どもの楽園なんですよ」
 慣れた手つきで仕込みを続けながら、梟は視線はこちらから離さずに語りだす。
「最初に、自分たちを騙すようになった人間に愛想を尽かした鬼神さまたちがこの旧地獄
に流れてきたんです。んで、あの方々は建てたり直したりが大好きですから、人気もなく
荒れ放題の地獄に自分らの家を建てて住んだ。それが旧都のはじまりです」
「なるほど、鬼は家を建てるのが得意だからな。連中の作る家は、自然と長持ちするし、
居心地もいい。ああ、だから旧都の景色は落ち着くのだな」
「そういうこと! それでそのうち、同じようなはぐれ者、嫌われ者が噂を聞いてここへ
逃げ込んでくるようになりましてね、鬼神さまたちは、そいつらを受け入れて家を与えた。
あたしもその一人ね。そんな奴らがだんだん積み重なって、こんなでっかい町を作っちま
ったってわけで」
 誇るように、梟が両手を広げて店を、町を己に示してみせる。
 胸を張らせるだけの、己を頷かせるだけの輝きが、確かに旧都にはある。
 はぐれ者たちの最果て――そんなありふれた言葉では、旧都の薄皮一枚すらも表すこと
はできないだろう。
 頼るものを失くし、背を向けて落ちてきたはずの彼らが、胸を張って、手を取り合って
生きている。
 彼らは悲観していない。世をいじけてもいない。
 すべてを受け入れた上で、地の底で天をまっすぐ見上げているのだ。
 旧都という町が住む者をそうして変えていくとしたら、なんと素晴らしい場所だろう。
「旧都にそんな曰くがあったとは……今の話だけでも、己はここが好きになったよ。名と
噂は聞いていたが、いやいや、来て見なければ解からんものだな」
 まさに汗顔の至り。今夜こうして地の底に身を投げなければ、己もまた旧都の薄皮一枚
すら知れずに入滅したかもしれないのだ。
「ええ。百聞は一杯に如かずってね! はいおかわり!!」
 注文に先んじて徳利の出る気遣いが嬉しかった。受け取って、己はもう一度幸運に乾杯
する。旧都という町、梟という男と出会えた喜びに。
 そして、乾杯の中でもう一人感謝しなければならない相手がいる。
 それは、鬼だ。彼らがここに家を作らなければ、今こうして己と梟が語らうことさえ夢
幻だったのだから。
 ――ああ、鬼というやつらには、昔から世話になりっぱなしだ。
「ここは鬼の作った都か。ということは、それだけ鬼が居るということだな? 地上では
姿を見かけなくなって久しい。会ってみたいものだ」
「それならご心配なく、今に嫌というほど飲みに現れますぜ。ご贔屓にしてもらってるん
で。しかも旧都には、いるんですよ、そんな連中を束ねる、とびっきりの鬼がね。いっひ
っひ!!」
 梟が初めて見せた野性味を含む感情から、言葉が異性を語るものだと知れた。
 ――とびっきりの、女の、鬼。
 字面だけでも十分に魅力を放つ言葉ではあったが、それはあらぬ方角から己の胸をくす
ぐった。
 ……胸元に下げた飾りに、ふと手が触れる。
 梟の話を、もっと突っ込んで聞きたい心地になる。
「とびきりと来たか。これは是非、心行くまで聞かせてもらわねばな」
「へへへ、お任せを。このネタならたっぷり舌が滑りますぜ」
 乗り気の梟が、聞くまでもなく喋りだしそうだ。
 己は徳利を傾け、また拝聴の礼を取る。
 その時、大通りのほうからたくさんの足音が梟の店へと近づいてくるのがわかった。
 いよいよ常連たちが繰り出す頃合になったのだろう。
 内心喝采しながら、己は新たな言葉たちの来訪を待ち侘びた。
「……んっ?」
 だが、聞こえたのは喧騒ではなく唸り声だった。
 騒ぎの声は、まだいくらか後方にある。
 いち早く来た誰かが、己の背中で困った声を上げたのだ。
 一体何事かと振り向いた先で、己は太陽を見たかのような眩しい錯覚に襲われた。
「やあっ! 私は星熊勇儀(ほしくまゆうぎ)。あんた、見かけない顔だね?」
 振り向きざまに、その人物は人懐っこい笑顔と元気な声を己に浴びせた。
 星熊勇儀と名乗ったのは、一目見て鬼とわかる長身の女性だった。
 全身を鎧のように満たす強靭な霊気が、勇儀が無双の鬼神であることを理解させる。
 そして、屈強の印象さえある体躯に、それでも隠し切れないほどの女性的な魅力が溢れ
ていた。流れる髪も、彫像のように整ってしかも躍動する身体の線も、先ほど己の耳に届
いた明朗な声も、すべてが鮮やかで好ましかった。
「お初にお目にかかる。己は魂魄妖忌。地上から来た」
「妖忌か、ありがとう。ちょっと待っとくれ。親父、みんなにつまみといつものやつ!
 私はこいつにだっ!!」
「合点でさぁ、姐さんッ!!」
 勇儀は大きな杯を持参していて、それを梟に放り投げる。梟のほうも当然の態度で杯を
受け止めると、そこへたっぷりと酒を満たす。どうやら、これが彼らの作法らしい。
「よしよし、お待たせ。ところで妖忌だったね。あんた、面白いのを連れてるね?」
「うん? ……ああ、己は幻想郷でも少しばかり特殊な生まれでな。半人半霊なのさ。こ
れが、幽霊の己というわけだ」
 勇儀の好奇の眼差しは、己の肩に注がれている。そこには霊力のない者には見えづらい
が、人魂のようなものが寄り添っている。魂魄妖忌は半人半霊――人間の肉体と、幽霊の
肉体の双方を持つ。人の身のほうが何かと都合が良いため、見知らぬ土地を訪ねる際には
こうして幽霊の部分を見えづらくするのが処世術というわけだ。
 だが、勇儀のような力の強い妖怪には、そんな小手先は見破られてしまう。
「へえ、初めて会ったよ。二つの身体、二振りの刀……面白いねぇ」
 半霊に夢中かに見えて、勇儀は油断なく己の帯刀に目をつけている。
 もっとも、己の刀はいささか以上の長物で、特に注視せずとも露骨に目立つのだが。
「妖忌、もう一つ聞くんだが、上には私のようなやつらはまだいるかい?
 つまりは、鬼って呼ばれる連中がさ」
 勇儀も梟と同じく己を偽れない性質らしく、言葉には明け透けな期待と不安が入り混じ
って見えた。それは、勇儀に限らず鬼という種族そのものが嘘偽りを嫌う血の表れだろう。
 それゆえ知恵をつけた人間に欺かれ、鬼たちは幻想郷を去ったのだ。
 哀しい確執は今も、埋まってはいない。
「残念ながら、とんと見かけなくなった。だから、この町の由来を聞き、こうしてたくさ
んの鬼たちが見られて、嬉しいよ」
「そうか。孤軍奮闘してる意地っ張りでもいたらと思ったんだけどね。でもその口ぶり、
妖忌は鬼に会ったことがあるのかい? ――だからかな」
 勇儀の言葉に、己は違和を覚える。
「……だから、とは?」
「いやね、気のせいか、あんたからなんだか懐かしい気配がしたから、ついつい声をかけ
ちまったのさ。見かけない顔だって思ったのに。おかしいだろ?」
 勇儀は鼻先が触れるほど近くまで顔を寄せ、吟味するように己の輪郭を眺める。
 しかし男なら誰でも見入ってしまうような美貌に、険しい眉根が寄った。
「……だがこうして顔を見ても、記憶に思い当たる節がない」
 それはお互い様だった。面食いのつもりはないが、勇儀のような印象の強い異性に一度
出会っていれば、さすがに忘れはしない。
 つまるところ、己たちはこうして出会うまで、間違いなく赤の他人同士だった。
 では一体、なにが勇儀を己に引き寄せたというのか。
 あるはずのない過去を、懐かしめるはずもないのに。
 面食らう己をよそに、勇儀は大してその矛盾にこだわっていない様子だ。
 渋面はすぐに消え失せ、かわりにどこか凶暴さを孕んだ目が、己を射止める。
「記憶はないが――あんた、興味はそそる顔だ」
「褒め言葉と受け取っていいのかな?」
「ああ。私の根っこがあんたを認めてるらしいや。その腰と背にぶら下げたやつと、あん
たの眼がね、私を素通りさせたがらないのさ」
 己と、二振りの刀を見る勇儀の生き生きとした視線の正体は、すぐに察せられた。
 それは己がよく知り、また己自身も幾度も浮かべた感情の図だったからだ。
「なぁ、妖忌。その立派な段平を握る腕に、確かな自信はあるかい?
 あるなら、そいつを私に見せちゃあくれないかね」
 さすがは裏表のない鬼というべきか、発せられたのは露骨な挑発だった。
 腕っ節の程を見せてみろと、勇儀は己に公然と喧嘩を売ってきているのだ。
 まるで血に飢えた獣のように、相手の力と、なにより己の力の純粋量を身体で確認した
がっている。それを違わぬと断じられるのは、己もまた勇儀と同じ欲望を抱き、同じ方法
で満たしてきたからだ。
 しかし、この穏やかな旧都でいきなり騒ぎを起こすのは本意ではない。
 勇儀や梟と肩を並べ、静かな時間と空気を楽しみたい。
 そう考える自分の向こう側に、まるで勇儀に呼応するかのように、凶暴な衝動へと身を
委ねたがる自分がいる。
 何故なら、そう――これは挑戦であると同時に、己にとっては確認なのだ。
 新たに得たいと思いながら、己はどこかで確かめたがっている。取り戻したがっている。
 一目で底知れない強さを感じさせるこの鬼神ならば、必ず与えてくれると思えた。
 もうはるかな昔に骨の髄を痺れさせた、あの鮮烈な感覚を――
「どうだい? 今夜は久しぶりのどでかい宴だ、そこに一興、添えちゃあくれないか?」
 己の揺らぎを見透かすかのように、勇儀は畳み掛けてくる。
 答えを遅らせるだけ、袋小路に追い込まれると悟りながら、それでも身体は勿体つける
かのように口を閉ざす。
 それは、心がもう肯いているから。
 この安らぎの時を放り出してでも、己は、星熊勇儀という強大な存在に、己の身の程を
問いかけてみたいのだ。
 ああ、旧都よ。
 地上で月がそうしたように、己の身勝手をおおらかに受け止めてくれるだろうか。
 願わくば、一度限りでいい、再会の慈悲を与えてくれ。
 己はその希望を頼りに、荒ぶる海へと飛んでいけるから。
「……相手は鬼だ。嘘をつけばその場で頭を握り潰される。その上、自信がないと答えれ
ば男が廃る」
 凍っていた口が開く。紡ぐのは、自分を納得させるための口実か。
 否。もう肯いている。心と身体のずれが果て、刻んでいるのは偽りなき、己(おのれ)。
 この言葉をこそ、己は言いたかった。
「――されば、この自信が誠か嘘か、それをお前で試してみたいと答えよう。
 喧嘩を買うぞ、星熊勇儀!」
「さすがは魂魄妖忌! よくぞ男子に生まれけりだ! 心行くまで試すがいいッ!!」
 啖呵と啖呵が火花を散らす。
 それが炎に変わって、成り行きを見守っていた旧都の住人たちがいっせいに歓声を上げ
た。穏やかに過ごすことに懸命なように、彼らは激する感情を表現することにもまた、骨
身を惜しまなかった。
 興奮の津波が、己の肌を打つかのようだ。
 それは人々から放たれたものか、それとも己の内から無限に湧き出す熱なのか。
「さとり! ちょいと出てきて、私の杯を預かっとくれ!!」
 大歓声にも負けない声の矢で、勇儀は広場に向けて呼びかける。
 それは見事意中の主を射止めたのだろう、やがて人ごみの中から、小柄な少女が歩み出
て勇儀に近づいた。さとりと呼ばれた少女もまた傍目に見ても美しい女性だったが、勇儀
とはまったく異質な雰囲気を放っている。
 そして、勇儀に角、己に半霊があるように、さとりにもまた他者と異なる部分がある。
 彼女の身体のどこからか管が伸び、その繋がる先、丁度心臓のあたりに、見開かれた眼
球がゆるく躍動していた。
 なまじ整った顔立ちだけに、胸に蠢く第三の目は、ことさら異質なものとして浮かび上
がり、さとりという像の全体を怪しげなものへと歪めていた。
 異形を見慣れない者には、その姿は下手な妖魅よりも不気味なものに映るだろう。
「あなたなら他にいくらも友がいるでしょうに、何故私を選ぶのですか? ……と、とっ」
 かなり嫌そうに、さとりは押しつけられた杯をよろめきながら受け止める。
 勇儀には玩具同然でも、小柄な彼女には大荷物になってしまうのだ。
 そんなさとりの頭をくしゃくしゃと撫でて、勇儀は得意げに言った。
「あんたはめったにいない友だからだ。いる時でなきゃ、渡せないだろう? そうだな、
ついでに立会人でも頼むかね」
「やれやれ……私は便利屋ではないのですよ……んっ?」
 さとりが肩をすくめた時、胸の第三の目が、確かに己のほうを見た。
 少し遅れて、二つの目もなにかに気づいたように己へ向けて見開かれる。
 それがまるで骨を透かして魂までも見渡しているかのようで、思わず背筋が強張る。
「……うん? どうかしたのかい、さとり? 嫌なら無理にとは言わないが」
 勇儀の問いかけで我に返って、さとりはしばらく考え込むような仕草を見せた。
 その間も、第三の目はずっと己を見ていた。
「……いえ、なんでもありません。他に適任もいませんし、立会人は請け負いましょう。
 しかし、どういう風の吹きまわしですか。これを零さずに戦うのがあなたの流儀では?」
 やがて第三の目が伏せられ、さとりは勇儀に向き直った。
 同時に己の違和感も失われる。
 今しがたの異様な感覚は、一体なんだったのだろうか。
「いかにも。しかし、たまには両手を使ってみたくなった……というのでは、理由が足り
ないかい?」
 首をかしげる勇儀に、さとりは第三の目を伏せたままで静かにかぶりを振る。
「あなたの流儀に踏み込むほど、私はあなたと親しくはありません。ただ、あなたがあな
たの眼力を信じるのならば――両手を使うことも有り得るのでしょう。まあ、ご武運を」
 突き放した言葉のようだったが、勇儀は逆にこれまでにないほどの喜色をあらわに表情
を緩ませた。
「勝利を祈ってくれる程度にゃ、親しいんだね。嬉しいよ、ありがとう、さとり」
「はいはい、どういたしまして」
 心なしか頬をほのかな朱に染めて、さとりは大事そうに杯を抱えながらふらふらと群集
の中央に歩いていく。
 そして、中身を零さないよう気遣いながら、立会人としての最初の務めを果たす。
「東方、半人半霊の剣士、魂魄妖忌! 西方、四天王、力の星熊勇儀!
 地霊殿の主、古明地さとりの名において、この勝負に立ち合います!
 一夜限りの力比べに技比べ、検分記録は多いに越したことはない!
 遠からん者は音に聞き、近くの者は寄って仔細を目に刻みなさい!」
 威厳ある号令も、さとりが地霊殿の主と知らされれば違和なく頷けた。
 さとりの声は力ある言霊となり、旧都を隅々まで駆け巡る。
 言葉を受け取り、噛み砕いた誰かが囁き、誰かがそれに応えた。
 小さなさざめきに過ぎなかった波は、瞬く間に熱を帯びた地響きへと膨れ上がる。

 ――立ち回りだ!
 ――立ち回りだ!
 ――"力の勇儀"と、正体不明の剣客が、大立ち回りだ!
 ――今すぐ広場に飛んでこい!
 ――寝ている馬鹿は叩き起こせ!
 ――こいつを見逃す手はないぞ!

 旧都の様子は一変した。東西南北、ひっきりなしに人影が動き回り、誰もが期待に目を
輝かせている。爆発的に増えた来客を八面六臂で捌きながら、梟が己に言った。
「みんなね、お祭り好きなんですよ」
 穏やかで互いを立てる、好ましい人々。
 そんな姿さえ、己が作り上げた旧都の一皮に過ぎなかったのだ。
 彼らはそうでありながら、今目の前でするように、衝動のままに楽しみ、大いに騒ぐ性
質をも持っていた。
 誰かが勝ちを賭けようと言い出して、俺もじゃあ私もと、瞬く間に賭場の様相すら浮か
んでくる。
 勇儀は浮き足立つ群集に向かって、両手を大きく上げて示しながら叫ぶ。
「結構結構! 各々好きなほうに、徳利一本分の小銭を預けな! それが見物料、私か妖
忌か、勝ったほうが総取りだ!」
「なるほど、座興の代金には相応しいな。己もそれでいい」
 勝っても負けても、徳利一本分なら後腐れがない。
 その分勝ちの上がりも少ないが、そもそもこれは群衆の得る対価ではないのだ。
 群集は、己と勇儀の戦いを眺め、存分に味わう。
 それこそが小銭の対価、座興の本分。
 己か勇儀か、勝ち残ったほうがささやかな証を得る。そのための、賭け銭。
 だから殊更に額を吊り上げる必要はない。
 そんな勇儀の声が聞こえたような気がして、思わず己はほころんだ。
「勇儀、始める前に、幾つか良いかな?」
「うん? 始まっちまったら止まらないから、今のうちに頼むよ」
「すぐ済むさ。確かめるが、こいつはつまり酒盛りの座興であろう? ならば、座興はそ
の分を弁えるべきだと思ってな」
「ふむ。その心は?」
 少しは興味をそそられたのか、戦いに猛る勇儀も身を乗り出してくる。
 それを逃さず、己は一気に畳み掛ける。
「お前の怪力乱神に、己の刀。どちらも存分に振るえば血を吸い骨を断つことも容易い。
 しかし、これは酒の肴だ。故に致命の一撃、酒より多く流れる血は興を殺ぐ。
 それを粋と技巧で補うのが、相応しいと存ずるが」
 一節一節を噛み締めるように聞き入って、すべてを飲み込んだ後、勇儀はさとりにそう
したように混じりっ気のない笑顔を見せた。
 それで、勇儀と心が通じた気がした。
「一抹の異義も憂いも無し! 今まさに、舞台は整ったッ!!」
 拳と拳を銅鑼(どら)のように激しく合わせて、勇儀は開戦の意思を表す。
 己もまた、己の内の獣を退ける理由はなくなった。
 名もなき二振りの刀は、今、無名の獣の牙となって抜き放たれる。
「好し。然らば我ら、今宵一夜限りの徒花(あだばな)と成らん」
「応ッ! いざ尋常に、勝負ッ!!」
 己の力だけを恃みに、それを心の底から望んで、己と勇儀は互いへ奔り出す。
 足は舞台を駆けている。両手に頼りの武器がある。目の前には、極上の好敵。
 描くのは華か泥沼か、まずは一筆、試してみるか――!!


 <4>

「うおおおおおりゃあっ!!」
 勇儀は右拳を固めると、そのまま己に狙いを定め、一直線に突進してくる。
 無策にして単純明快、だがしかし、触れれば一撃必殺。
 これ以上ないほどに鬼という種族を主張した、勇儀の初撃。
 敬意と興味で受け止めてみたい気もしたが、開幕被弾というのも芸がない。
 空気をえぐる重厚な拳の気配をぎりぎりまで近づけて、己は半身を右へと逸らす。
 拳が肩の横をすり抜け、勢いのまま勇儀の身体が通り過ぎていく。
「っ、と……!」
 勇儀はつんのめって踏みとどまり、巨躯に見合わぬ俊敏さで振り返った。
 だがその時には、己の抜刀が済んでいる。
「はっ!」
 向き直った胸に袈裟を描いて斬りつける。勇儀はすばやく腰を踏ん張って強引に上体を
後ろへ反らすことで、それをやり過ごした。
 しかし、幻想郷ではただ刃を押し当てることを"斬撃"とは言わない。
「おおうっ……!?」
 小さな閃光が弾けて、仰け反った姿勢の勇儀を打ち据えた。
 それは、一閃とともに己の刀身から発した、弾幕の手柄だ。
 己は師から、"斬撃とは切断の意思の発射である"と教わった。
 刀が肉を斬り、骨を断つのではない。"斬る"という絶対の意思が、それを成すのだと。
 意思を放つ。その言葉は、幻想郷に古くから存在する精神の発露、"弾幕"と重なるとこ
ろがあった。二つの相似に気づいた己は、剣の修練の中で"斬撃の意思を弾幕に凝らして
放つ"という試みを思い立った。
 果たして効果は覿面、斬撃と弾幕とはまるで水と魚のように密接に互いを影響した。
 剣士としての己が尖ってゆくほどに、弾幕もまた強く濃密に姿を変えていった。
 そうして積み重ねた力が今、鬼神を相手に一歩を先んじた。
 まさに剣士の面目が立った瞬間に、思わず唇が緩む。
「……やるねぇ。段平ばかりを警戒してちゃ、蜂の巣ってわけだ。おまけに速い。避けら
れたと思ったら、振り返る前に斬られてた」
「怪力乱神は鬼の旗印、その株を奪えるとは思っていない。こちらは積んで重ねた、技を
凝らすしかあるまい」
 腕力なら鬼が一番なのだ。その土俵で勝てる道理はない。
 だから鬼に挑むこととは、拳骨を握り締めて殴りかかることではない。
 拳骨をただ振り回して襲ってくる暴風を、いかにして遣り過ごし掻き消すか、その知恵
の閃きとの戦いなのだ。
 それを"三歩破軍"として、最初の交錯に篭めた。
 一歩目にて相手を崩し、二歩目でこちらが撃ち、三歩目で反撃に備える。
 目論見は見事通った。しかし相手は鬼神、二度目は防がれ、三度目は返されるだろう。
 先手を許せば、鬼は怒り、仕返しを誓う。
「やぁっぱ、私の目は正しかったねぇ。杯を守ってたら、さっきので詰んでたかもしれな
い。怖い怖い。足は速いし、牙も鋭い。この獣を狩るのは、骨が折れそうだ」
「……その顔は、自分が折る側だと言っているがな」
「ばれたか」
 勇儀が短く呟いた瞬間、まばゆい光が己の瞼を焼いた。
「む、ぅっ……!?」
 雄雄しく大地を踏みしめた勇儀の足の周囲から、槍のような弾幕が現れて己を串刺しに
しようと迫る。背後に飛んで回避する。だが弾幕は最初から標的などなかったかのように、
己のいたあたりを適当に引っ掻いて通り過ぎていった。
 弾幕は、空を切った。その意味に、一歩遅れて気づく。
「はったりか……!!」
 悪戯心もまた精神の発露。無邪気な鬼にはむしろ相応しいといえる。
 今度は己が、鬼の本質を読み損ねた。真に警戒すべきは弾幕ではなく、己の頭上。
 弾幕とともに空へ舞い、はるか天空から落雷のごとく降り注ぐ、勇儀の拳だったのだ。
「ぶぁい(倍)返しだぁぁぁぁぁっ!!」
 荒れ狂う風と一体になって声を震わせながら、勇儀の鉄拳が唸る。
 弾幕を飛んで避けたのが災いした。空中ではこの一撃から逃れる術はない。
 背筋を冷たいものが走る。だが怖気を振り切って、己は二刀を重ねて突き出した。
「うおおおっ……!!」
 轟音とともに、鬼神の怒りを存分に乗せた拳が、己の刀身に突き刺さった。
 まさに稲妻を浴びたかのように、刀から衝撃が全身へ染み渡る。
 刀は剣士の肉体の一部。そこに響いた痛みは、肉を打ち骨を揺らされたに等しい。
 頭の中から爪先まで、痛みと痺れが弾ける。
 だが、突き出した刀は退かない。勇儀も勢いを微塵も殺さず、杭で地面を打ち抜くかの
ように、そのまま己ごと大通りの真ん中へ落下する。
「ぐぅ、あぁぁっ……!!」
 踏ん張った両足が硬い土に沈み、骨がみしみしと軋むのがわかった。
 爆発的な痛苦に息が詰まる。
 だが、それでも己はただ一つの念を、拳を受ける刀に送り続ける。
 "折れない"と、ただひたすらの一念を。
 手足の痺れが隠しきれなくなってきた時、不意に刀から重みが和らいで、勇儀が地を蹴
って間合いを取った。その顔には、明らかな驚嘆があった。
「……驚いたね。頑丈なのは刀もかい。二振りともへし折るつもりでやったんだが」
「そうだな。二つは一つ。己が"折れぬ"と決めたから、刀もそれを徹(とお)したのだ」
 剣士は刀を己(おのれ)の一部とし、痛みを分かつ。
 それは剣士であるが故に負う苦しみだ。だが、刀は剣士を苛むばかりではない。
 己の一部であるが故に、剣士は刀に意思を注ぎ、刀はそれを体現する。
 ただの鋼が、不断の意志によって折れない刀に変わる。
 それこそが、衆生と剣士を分かつ境だ。
 二刀は己の意思のかたちとなり、鬼の一撃にも見事"折れ"なかった。
 己が陥没した地面から飛び上がると、勇儀はますますの闘志を含んだ目で睨む。
「つくづく面白い。もっともっと、あんたを引き出したくなってきたよ、妖忌」
「お互い様だな。己も噛み締めているぞ。ああ、これでこそ鬼だ」
 まずは一幕。互いに垣間見た力量を心から称え、己と勇儀は頷きを交わした。
 固唾を呑んで見守っていた群衆もそれで緊張を解き放ち、溜めに溜め込んだ感情を思い
思いの叫びに変えて吐き出した。
 地底の町が、人々の胸の高鳴りで揺れる。
 一人一人が綺羅星のように、天の光も届かないこの旧都を、明るく彩っている。
 つくづくこういう場所なのだ。脛に傷持つ者たちが集い、肩を寄せ合って疲れた心を癒
す。そうして蘇ったなら、彼らはこの暗い地底を各々の生き様で照らし出す。
 願わくば、宴の中で、己はこの旧都の輝きと一つに融けたい。
「くっくっく、盛り上がってきたねぇ。だが、ここから一段二段と突き上げるのが私たち
の務めさ。さあ、気張っていくよ!!」
 雄叫びとともに、勇儀から噴き出す霊気が一段激しく鋭いものになる。
 いよいよ鬼神の本領発揮というところか。この分では予想の通り、これまでの攻めでは
二度目で応じ、三度目で跳ね返されるだろう。
 奇しくも、"三歩破軍"を今度は勇儀から打たれるというわけだ。
 それもまた、面白い。
「せぇいッ!!」
 威圧に身体が竦む前に、己は右の一刀を振り抜く。
 だが、勇儀は斬撃に自ら飛び込むと、臆することなく長刀の刃を素手で強引に鷲掴みに
した。
「なにっ……!?」
 たった数度の衝突で、勇儀の目は既に己の太刀筋を捉えていたのだ。
 驚愕に強張った腹へ、大砲のような拳が突き刺さる。踏ん張った腹筋をみちみちと軋ま
せながら、己は鞠のように孤を描いて吹き飛ばされた。
「ぐッ、ふぅっ……!!」
 打撃の衝撃は凄まじく、己は受身の姿勢さえ作れないまま、居並ぶ群集の頭上へと墜落
する。
「「おおっとぉ!」」
 だが、見物人の中から屈強な二人の鬼が飛び出して、己の身体を受け止めてくれた。
 己は怪我を免れたばかりか、見物客に怪我をさせる醜態からも救われた。
「かたじけない……!!」
「なんの、まだまだ行けるぜ! 俺はあんたに賭けてんだ、がんばってくれ!!」
「俺は勇儀にだが、あんたに負けてほしいわけじゃない。摺り合った結果が見たいんだ。
 あんたも、まだ消し炭には程遠いんだろ?」
 それぞれの言葉で鼓舞して、二人の鬼は己を支える肩に力を篭める。
 このまま舞台へ投げ返してくれようというのだ。
 生焼けの炭で終わるのでは、彼らの心意気に申し訳が立たない。
「ああ。――燃え足りないな、こんなものでは」
「だったら、」「もっぺん行ってきなっ!」
 三つの顎が頷くとともに、己の身体は暴風に乗せられ、戦いの場へと舞い戻る。
 勇儀は悠然と腕組みをして、己の帰還を待っていた。
 そこに、二人の鬼のくれた勢いごと、一太刀を叩きつける。
 己の刀の威力は、即ち意思とその強さ。
 ならば、懸けられるものは、まだ溢れるほどに残っている。
 勇儀というまたとない強敵に"負けたくない"という一念は、今まさに無量劫の如し。
 その想いを、刀に乗せて放つ。
「おぉぉぉっ!!」
 大上段の一撃を、勇儀はまたも正面から掌で受けた。
 だが、ここから先は繰り返さない。
 受け止めた勇儀の抵抗ごと、我を通す……!!
 己を支えてくれたあの二人の鬼にも負けない力を、意思を、両肩から刀へと。
 観客を萎えさせかねない無様を晒すところだった己の、
 ここばかりは違えられない斬り返しを、突きつける。
「っ……!!」
 そして、太刀は奔った。
 振り切られた刃が流れ、土を掻く。
 そして、己を阻むように伸ばされた勇儀の掌に、ごく僅かだが紅い線が刻まれた。
 勇儀はそれをねぶるように舌で洗う。
「……いい返しだ。まだまだ、楽しめそうだね」
「この町で、この人々に囲まれて戦っていなかったなら、結果は違っていただろうな。
 己は本当に、旧都に心から惹かれてしまった。いいところだな、ここは。
 嫌われ者の集う町などとは、もう思えん」
「その看板を否定はしない。実際、そういう性質を含めて今の旧都が生きている。だが、
似たもの同士は鼻を突き合わせることも多いが、互いに上手くもやれるのさ。
 成らず者の集いには、成らず者どもの秩序が成るのよ」
「ああ――」
 勇儀の言葉は、己にとってまさに天啓だった。
 彼らは嫌われ者でないわけではない。否、確かに嫌われ者として地の底へ来た。
 だが、彼らはそれで終わらなかった。嫌われ者、指差され者でしか生み出すことのでき
ない新しい秩序と光を、この旧都に見事作り上げたのだ。
「ならば蔑みの看板が誇りの楯にも成るな。ここの者たちはもう成らず者ではない」
「はははは! 切れるのは刀だけではないようだ!! あんたはもう気づいている! 他人
の言葉を鵜呑みにしたのでは見えない、もう一つの旧都の姿に!!
 そして私も、そんなあんたにますます興味が湧いてくるのさ!」
 好奇心を礫(つぶて)の弾幕に変えて、勇儀はますます楽しそうに猛る。
 降り注ぐ光を切り伏せながら、その笑顔から目が離せない。
 こうして見ると、戦いを楽しむ勇儀の姿はどこか似ているのだ。
 かつて己が出会った、一人の女に。
 ――ああ、旧都に鷲掴みにされた心の端に、満月が蘇る。
「すっかりここが気に入ったよ。旧都で呑む酒は格別に美味い。
 後は肴に月があれば言外だったが……地の底にては詮無きことだな。
 それに、旧都には月にも勝る明るさがある」
「月を肴にするとは風情のある話だな。好きかね、月が」
「好きだな。というのも、月を見ると、己はある女を思い出すのさ」
 戦いの最中に、己はつい見えもしない月を空に追ってしまった。
 勇儀はその隙をつけたはずだが、ぽかんと口を開けて、己以上に呆けた顔でこちらを見
ている。己が目を瞬かせると、勇儀は困ったように頬を掻いた。
「……なんとまあ。途端に色っぽい話だね。すまないが、そういうのには疎いかと思った」
「気にするな、お前に限らず、よく言われる」
 実際、他人から見ると己は、色恋に関しては木石の如くに思われているらしい。
 だからたまにこうして女絡みの話をすると、周りの者は決まって今の勇儀のように目を
丸くしていたのだ。
 最初は苦笑もしたものだが、重ねて慣れた。これも経験というものだろうか。
「とはいえ……それは奇遇だね。私も月で、友を思い出すのさ」 
 親しみと追憶を篭めて、勇儀は己と同じようにはるか地上に今も佇んでいるであろう月
の姿を見上げた。
 勇儀がこんな顔で語る友とは、どんな人物なのか。
 その興味が、戦いに熱する己の心を、強く惹きつけた。
 だから、己は問いかけていた。
「そいつは、どんな友だ?」
「そいつは、どんな女さ?」
 勇儀も重ねて、己に問いかけてきた。
 ただ問うだけではない。同時に振り抜いた蹴りが、真横から己の肩へ食らいつく。
 長刀の腹で堅実に受け、己ははたと気づく。
 己と勇儀は今、座興を演じる花形だ。誰でもない己たち二人が、舞台を放り投げて我欲
に耽っては、泡銭(あぶくぜに)が泡に消える。それは、不義理というものだ。
 だから、言葉を交わすなら――戦いの中でしか有り得ない。 
 声なき教えの礼とばかりに、己も地を蹴り、刀でなく振りかぶった右の脚(きゃく)を
勇儀の胸元へ突き刺す。
 それを涼風のように受け流して、勇儀が即座に反撃に動く。
 そう、この激しい流れを、滞らせてはいけないのだ。
 だから、流れに乗せて、始めよう。
「……己にとって、女は試練のようなものだ」
「ほぉぉ? それじゃ私も試練になるのかい?」
「そうなるな。どういう因果か、己は見初めた女を幸せにはできん。だというのに、女と
出会い別れることで、己は一段強くなれる。不思議なものだ」
 初めは、舞い散る妖しい桜の木の下で。
 己は伸ばした手に、心底抱き留めたかったものを掴めなかった。
 あれほど涙を流した時はなかった。無力を悔いた時はなかった。
 きっとあの日に己の中でなにかの機巧(からくり)が生まれて、以後の自分を突き動か
し鍛えてきた。
「一人の女を苛む不幸を、己は取り除いてやれなかった。たった一人をすら守りきれない
浅はかな技量が情けなかった。だから、己は力を求めた。不幸を押しのけられるだけの、
確かな力を……!!」
 試練の日々が、今こうして勇儀に怯まず打ち込む勇気を育んでくれた。
 鬼の腕が踏ん張って耐えるほどの斬撃を、振るえるだけの腕をくれた。
「なるほど、その始まりが、あんたにとっての女を試練に変えているというわけだ。しか
し、それだと月と話が繋がらないが?」
「だろうな。始まりの女と月の女は別人さ。己の縁の中でも、一風変わったやつだ。
 お前が思うよりも己とて色や恋は知っているが……そいつとは純粋に腕を競うばかりの
間柄だった。競うというよりは、己がいつも挑む側だったか――、っ!?」
 言葉尻とともに、己の胸倉を勇儀の腕が荒縄の如くに締め上げる。
 勇儀は刀を受けながら、俊敏に己の懐へ入り込んでいたのだ。
 そのまま背負い投げの体(てい)で、己は硬い地面へ叩きつけられる。
「うごっ……!!」
 背骨がいっせいに張り詰め、激痛に目が眩む。そこに弾幕を伴なった勇儀の踏み付けが
迫って、息つく間もなく己は身体を捻って転がる。
 必殺の足は避けられても、寝転がった姿勢で弾幕すべてを逃れることはできない。
 背中や肩を焼かれながら、自らさらに身体を回転させて勢いを乗せ、己はようやく立ち
上がる。
 ……半ば分かっていたことだが、様子見を終えた勇儀は徐々に己を圧倒しつつある。
 強い。あまりにも強い。ただ天衣無縫に振るわれるだけの力で、押し潰される。
 否、泣き言は言うまい。己はとっくに知っているはずだ。
 鬼との戦いが、こういう極めつけの不条理(しれん)であることを。
 余裕だろうか、勇儀は踏み付けから即座の追撃を行わず、体勢を立て直す己にこれまで
に見せたことのない色を孕んだ視線を投げかける。
 そして、唇が揺れた。
「……あのさ。もしかしてそいつは、鬼かい?」
「……ああ。どうしてわかった?」
 出し惜しみをするつもりはなかったが、真実をずばり言い当てられて、己は少なからず
驚かされた。確かに、件の女は勇儀と同じく、女の鬼なのだ。
 己の動揺が面白いのか、勇儀はくっくっと喉を鳴らして続ける。
「あんたは地上から来て、そのくせ地上じゃめったに見ないはずの鬼を懐かしんでいる風
だったからね。なら、上で会った奴がいるんだろうと踏んだのさ」
「なるほどな。然り、もう百年以上は昔のことだが、己は女の鬼と戦ったことがある」
 同じ鬼でも、そいつは勇儀とは性格も容姿も似ても似つかなかった。
 腕っ節の強さだけは変わらず圧倒的で――そして、月を背にするのが似合う女だった。
 だから、月が見守る下で何度も戦った。
「百年以上かけて練り上げた見事な剣術も、その時分にはなかったろうに。それで鬼に喧
嘩を売るなんざ、随分と蛮勇を奮ったものだね――!!」
 あいつよりもはるかに太く逞しい勇儀の鉄拳が、裂帛の霊気を纏って降り注ぐ。
 そうだ。あの頃、失ったばかりの己は、こんな桁外れの暴威に抗う術を持たなかった。
 心構えも身構えも、半分はあいつがくれたようなものだ。
 だから今、こうして勇儀の力を受け止め、勝つことを諦めずにいられる。
「まさに無謀の蛮勇さ。にべもなく叩き潰されたよ。技も知恵もなく、ただ力のみで、己
は大海を知らされた」
「だが、あんたにとって女は試練。試練は思い知らされてからが本番だろう?」
「然りだ。あいつは当時の弱い己にとって、ちょうど今の勇儀のように極上の壁だった。
 高く、分厚く、おまけに自分から殴りつけてくる壁だ。だが、その極めつけの障壁が、
己の心を折らずに、かえって奮い立たせた」
 かけがえのないものを失い、自分自身に絶望していた己は、強大無比の鬼という試練を
ぶつけられた時、どういうわけかどん底で逆に開き直ってしまった。
 これ以上己をどこへ突き落とすつもりだ。
 ここが奈落だ。ならば貴様の腕を命綱にして、高みへ這い上がってやる。
 そんな反骨から来る怒りの心が、気づけば身体の奥底で渦を巻いていた。
 指を動かすのさえ億劫であった失意の時間が、灰となって散ってしまうほどに。
 思えばそれは、ちょうどこの旧都で生まれ変わった嫌われ者たちの心境に近いのかもし
れない。
「己は、何度でも食い下がった。足りない知恵を凝らし、なにかしら剣を高めては、試し
打つかのように挑んだ。気のいいあいつは、文句も言わずに胸を貸してくれたよ。いや、
笑って楽しんでさえいたかな」
 心は、あの汗と手応えにまみれた果てしなき日々へ。
 胸の内に、澄んだ暗闇を彩る満月が、鮮やかに浮かび上がる。
 あいつが笑っている。だらしないな、さあ立て続きをしようと己を急かす。
「打ち合いはいつも夜中にまで及んだ。そして己は打ち倒され、天を仰いだ。そこにはい
つも、月と一緒にあいつが己を見下ろしていたよ。とろけるような、いい笑顔で」
「……なるほどね。合点がいったよ。それで、月を見ると憎くも憎めぬ顔を、一緒に思い
出しちまうわけだ。なかなかどうして、胸に浪漫を燃やす男じゃないか」
「どのくらい長いこと腕と額をつき合わせたか、今では思い出せん。だが、己を今の己ま
で高める礎になったのは、間違いなくあの日々だった。
 あいつが己を研ぎ澄ましてくれた。それが身に染みた時、応えなければと思った」
 己は両足で大地を爆ぜさせるように蹴り、身体ごと勇儀に向かって跳ぶ。
 勇儀は、鬼の眼光で油断も隙もなく己の動きを捉えている。
 突進にずばり合わせて、返しの手刀が己の喉元へ唸りを上げる。
 だが、反撃は予測していた。
 否、返してくれると信頼していた。
 だからこちらも、二段重ねの一手を、絶対の自信で用意できた。
 剛刀よろしく迫る勇儀の突きに、左手の小刀を合わせ、真芯に重なっていた軸を僅かに
下げる。そのまま紙一重で擦れ違うように、己は勇儀の拳を刀身で受け流す。
「ん何ぃっ……!?」
 勇儀がしゃくりあげるような悲鳴を上げる。
 薄氷を伝うように、勇儀の一撃は己の刀の上で"滑った"。
 振り切る拳骨でなかったものの、攻撃の勢いをそのまま流されて勇儀が体勢を崩す。
 そこを逃さず、本命の右の長刀で一閃した。
「く……のぉぉっ!」
 "斬る"というよりは"打つ"意思で、己は勇儀に斬撃した。
 生半の腕なら骨にまで達したであろう。だがそこはさすがの星熊勇儀、よろめきながら
も体の内から発破のように霊気を発して、威力を相殺したのだ。
 それでも初めて勇儀は大きく揺らぎ、獣のように四肢で土を擦りながら後退した。
 そうだ。お前と戦いで己はこれほど変わったと、強くなれたのだと、感謝を伝えたくて。
「だから己は、壁を乗り越えることで、証を立てた。己は万感の思いであいつに戦いを挑
み――角を、欠いた」
「……っ!!」
 勇儀が、大きく目を見開く。鬼として、聞き逃せない言葉だったのだろう。
 それはあいつにも同じことだったようで、角が欠けたと知った時の暴れっぷりは、今も
記憶に鮮やかだった。笑い、怒り、初めて己を素直に褒めて、負け惜しみまで言った。
 その日を残しておきたくて、己は欠いた角の先を細工して首飾りにした。
 あいつの角は今も、己の胸元で縁起を担いでいる。
「そりゃあ、そいつもあんたを見直しただろうね。角は鬼にとっちゃ看板がわりだ。欠け
た角で歩いたんじゃ、面目が立たない」
「同じことを、あいつも言っていたよ。最初で最後というやつだが、あの時ばかりはあい
つも素直に己を認めてくれた」
「然り、然りだ。認めざるを得ない。その鬼も、そんな話を聞かされた私も、
 ……いよいよあんたを、畏れて倒さざるを得ない」
 身体を起こした勇儀は、言葉の通りにはっきりと警戒を顔に表していた。
 これまでは泰然自若に構え、常にどこか余裕や余力を崩さなかった勇儀が、今は紛れも
なく己に対して身構えを取っている。
 鬼の角を欠いたという言葉が、勇儀についにそれをさせた。
 無論座興の分を逸することはないだろうが、幕へと至る盛り上げが、数段飛びに激しい
ものになるのは間違いない。
「……望むところだ。だが、その前にお前の友の話を、聞いておきたいな」
「そうだね。でないと公平じゃない。大一番になる前に、話しておこう」
 静かな熱を湛えながら、勇儀はそれとは異なる感情を声に乗せて語りだした。
「あいつは……親友だった。友達で、飲み仲間で、時には喧嘩の相手。
 気がつきゃいつも一緒にいて、なんでも腹を割って話した。笑わせるのも怒らせるのも、
私たちはお互いが一番得意だった。
 あいつの代わりになる奴はいなかった。そういう意味で、親友と呼べる奴だった」
 勇儀の語る鬼が、どこか己の知る鬼と重なる気がして、己は懐かしい顔を思い浮かべる。
 だが、言葉の節々から勇儀と友との強固な絆を感じ取れるにも拘らず、勇儀が語るのは
すべて寂しさを含んだ過去の形だった。
「……何故、その友を月に想う? 今はもう、傍にはいないのか?」
 まるで比翼を思わせる二人の鬼が、離れ離れに片割れを想わなければならない理由など、
そうあるものではない。その数少ない不条理の一つは死別だろうが、己は口にするのを躊
躇(ためら)った。
 勇儀を気遣ったというより、ただ己自身がその鬼に死んでいてほしくなかったのだ。
「ああ。もう長いこと会っていない。あいつは、鬼で童子(がき)のくせにえらく頭の回
るやつだったんだ。だから、鬼たちが人間に愛想を尽かせて幻想郷を離れる時、まだ遣り
直せる、どっちにも歩み寄れるものが残ってるって、最後まで一人で言い続けていた」  
かつて人間と鬼の間に起こった確執と別れ。勇儀と友の鬼は、まさにその当事者だった
のだ。そして皮肉にも、衝突は鬼同士――つまりは、勇儀と友にまで及んだ。
 その鬼はきっと、誰より人間が好きだったのだろう。そんな人間と向き合う鬼が好きだ
ったのだろう。だから最後まで、二つを繋ぐ絆を守ろうとした。
「大半の鬼は取り合わなかったし、なにより嘘と騙しが大嫌いだ。私も含めて、誰もがあ
いつに耳を貸すことなく、この旧都へと身を隠した。だが、あいつは来なかった。
 逃げるのも、諦めるのも、負けるのも鬼のすることじゃない。そう言って、あいつは私
ら鬼にも愛想を尽かせた。そうして霧になって、どこぞへ消えちまったのさ。
 ……そういう石頭なところ、あんたに似ているかもね」
「光栄と言っておこう。いかにも鬼、という娘に譬(たと)えられたのだからな」
「だが、月にあいつを思い出すのは、寂しいからじゃない。あんたと一緒で、友と月とは
二つで一つの思い出なんだ。
 私が月にあいつを思い返すのはね、――あの月を、砕いたことがあるからさ」
「月を……砕いた?」
 それはいささか以上に荒唐無稽な言葉だった。
 鬼の怪力乱神をもってすれば、確かに月さえ砕けるのかもしれないが――
 だとしても、辻褄が合わない。
 なにしろ己は、こうして旧都に来る前に、確かに幻想郷で月を見ているのだ。
 さりとて勇儀ほどの人物、それも鬼が口から出任せを吐くとは思えず、言葉に詰まる。
「ははは、まあそれが普通の反応だろう。今でも空に月があるってのは知ってるし、なき
ゃあ私も思い出せない。お月様がまた生まれてきたのか、それとも私が夢でも見たのか。
 実際のところは今でもわからないんだが、それでもこの眼が覚えてるんだ」
 珍しく言葉に浮かされる調子で、勇儀は語り続ける。
 己も、気がつけば旧都の人々も、勇儀の中の夢現の夜へと惹きこまれていた。
「あの時は、私もあいつもたいそう酔ってた。空にはあつらえたみたいなまん丸お月さん
が上ってたよ。それであいつが言ったのさ、いいもの見せようか、って」
 戦いの情熱の朱とは違うぬくもりが、勇儀の肌を染め上げる。
 まるで当時の楽しい酔いを、身体が思い出しているかのように見えた。
「あいつは変わった術の持ち主でね。力を萃めて、自分の身体を膨らませられるんだ。
 そうだなぁ、ここからこの旧都の天蓋に届くくらいにはなれる」
「なに……? その、力は」
 ――その時、己の中でなにかが繋がった。
 幻想郷には特異な才能を持つ者が多くいるが、それらの能力は個性の代弁とでも言うべ
きもので、一つとして同じものを複数の人物が備えることはない。
 己は自らを山の如くに変える鬼を知っている。その姿で、何度も叩き潰された。
 あんな奇想天外の能力が、いかに幻想郷とて二つと在ろうはずがない。
 だとするならば、この符合が伝える真実は一つしかない。
 勇儀の語る鬼と、己の知る鬼とは――
「あいつはその力で、めいっぱいに自分を伸ばして立ち上がった。そして、自慢の拳骨で
お月様を思いっきりぶん殴ったんだ。私が酔ってたからか、それともやっぱり夢だったか
らか、あんなにでかいお月様を、山みたいなあいつが殴ったってのに、音らしい音が思い
出せないんだけどね」
 言いながら、勇儀はかつての夜をなぞるかのように、自分の拳で天を衝いた。
 ああ、確かにあいつならやりかねない。否、実際に嬉々として挑んだはずだ。
 ならば、結果も己にはありありと描ける。
「だが、確かに私の前で、夜が割れたんだ。見たこともない煌いた景色が、頭の上に生ま
れていた。空に瑠璃が割れ散るみたいに、幾つもきらきらお月様の欠片が舞い踊っていた
んだ――」
 勇儀の言葉は、この場にあるすべての心に語りかけるようであり、そして自分自身に確
かめ聞かせるようでもあった。
 そしてもう一人、この己もまた、勇儀を通して"確かめて"いた。
 今、己の目には見たことがないはずの幻想が生き生きと浮かんでいる。
「その景色が、忘れられない。私の中の、たった一つの時、たった一つの夜だ。そいつを
刻んだ馬鹿の顔も、月を見る度思い出しちまう。妖忌、あんたと同じさ」
「……そうだな。勇儀、己たちは、きっと似ている。魂のかたちのようなものが」
「ありがとう。そんなあんただから、久しぶりにあいつの話ができた。実のところ、月砕
きの噂はどこからか他所に漏れていてね。もう随分昔から、人間や天狗があることないこ
と書き綴って、旧都のように真実は有耶無耶になっちまった。だから、私もそれ以上思い
出を濁したくなくて、自然とこの話はしなくなっていたんだ」
 苦笑いして、勇儀は固めていた拳を開き、自らの胸に添える。
「だが、どんなに数が増え霞んでしまっても、私の真実は今もここにある。
 ……なあ、妖忌。あんたは、信じてくれるかい? 月を砕いた鬼の伝説を」
 おいそれと分かち合えない大切な気持ちを、勇儀は己に開こうとしてくれている。
 ――ありがとう、勇儀。だが、確かめるまでもないさ。
 お前と同じか、それ以上に、己は――
「信じる。だから、一つだけ聞かせてくれないか、勇儀」
「なんでも、答えるとも」
 己が今から口にする問いも、先ほどの勇儀と同じく、彼女にとっては愚問だろう。
 だが、それでも敢えて問おう。どこか似通った己たちが、魂の底の底で通じ合い、
最高の白黒をつけるために。
 心を震わせるために、はっきりと言葉で確かめ合おう。
「今でも……いや、昔からずっと、その友が、好きか?」
 勇儀の僅かな揺らめきすら見逃すまいと、己は二つの瞳と真正面で向き合い、問いかけ
た。勇儀は言葉を紡ぐのに少しだけ間を置いたが、それは逡巡の表れではなかった。
 そして、勇儀は己の目に目を合わせて、深く頷いた。
「ああ。気持ちは今も昔も変わらない。だからこそ月じゃなく景色の変わった地面を、少
しは寂しいと思うんだろうね。私はあいつが、大好きなんだ」
「――充分だ。己にも見えたよ、月を砕く拳が」
 時が、否、もっと小さな刹那が、あたたかく膨らんで満ちる。
 この最高の気分で、己たちは踏み出せる。
 今宵旧都に輝く、二つ限りの星になり、この宴の大団円へと、まっすぐに。
 

 <4.9999999...>

 妖忌と勇儀が織り成す静と動の攻防は、旧都の意識を完全に飲み込んでいた。
 誰もが二人に目を奪われ、言葉を忘れて一挙手一投足を見守る。
 それは、舞台に踊る者ばかりでなく、座興を見入る者たちもまた宴の一部に融けて、
ともにひとつの時を育んでいるかのようだ。
 そんな熱意の群れの中で、一人だけ己を浮かび上がらせるのは、さとりだった。
「いるわね、お燐。ちょっと、地上にお使いを頼まれてくれないかしら?」
 熱狂に水を差さないよう、さとりは小さく呟いたが、人ごみの中でそれを耳ざとく聞き
つけて、小さな影が群衆の頭上に舞った。
 人々の頭を踏み台に、二股の尻尾を生やした黒猫が、さとりを目掛けて軽快に跳んでく
る。猫はくるくると見せつけるように回ってさとりの前に着地し、次の瞬間、人の姿へと
変じた。
「あいよ、ニャンニャリと。黒猫ヤマメの宅急便で行ってきますよっ!」
「最近土蜘蛛となにか遊んでいると思ったらそれなの……じゃあ、お願いするわ。あなた
も知っている、神社に行ってきてほしいの。それでね――」
「……なぁるほど。わっかりました、必ず間に合わせますよぅ! んじゃっ!!」
 さとりが何事か耳打ちすると、お燐はにんまりと頷くや否や、地上へ繋がる洞窟に向け
て飛び去った。もとが猫だけに、その動作は極めて俊敏だ。
 彼女なら、きっと時を違えることはない。
 瞬く間に小さくなる背を見送ってから、さとりは大広場へ向き直る。
 そして、心を通じ合わせた妖忌と勇儀を、さとりは第三の目を通して眺めた。
 二つの魂はまさに、有頂天に上り詰めて、一つのことを渇望していた。
「宅急便でちょうどいいわね……決着は、長くはかからないでしょうから」
 

 <5>

 地底を吹き抜ける風が、戦いに火照った肌を快く癒す。
 心には一抹の迷いもなく、だから身体はこのまま空を飛ぶことさえできそうだ。
 しかし、如意の五体で成すべきは、たった一つだけ。
 勇儀もまた、それは同じだろう。
「さあ、心を一つにしたところで――思い出話は打ち切るかね。真打が二人も雁首揃えて、
客の酔いを醒ましちゃいけない」
「違いない。自ら舞台に踊り出たのだ、余興も酔いも、醒ますは無粋」
 心は交わし尽くした。あとは、残った力を懸けて競うだけでいい。
「ならばそろそろ千秋楽、伊達男に別嬪女で、盛り上げ尽くして幕を落とすが主役の務め
さ。行くよ、妖忌! 二度(ふたたび)鬼を、破ってみせな!!」
 ああ、そのとおりだ。
 そして高みの果てに咲く華は、ただ一撃(いちりん)であればいい。
 つまり次の一手が、互いの語る最後の意志。
 王手と王手、真正面から額をぶつけ殴り合うのみ――!!
「はぁぁぁぁぁっ!!」
 勇儀は体内に残った霊気を解き放ち、紫電すら走るその拳で、強かに旧都の地面を殴り
つけた。地鳴りが都全体を揺らして、勇儀はその勢いで旧都の天蓋近くまで飛び上がる。
 そのまま滞空して、はるかな高みから己を悠然と見下ろし、勇儀は告げる。
「この地底の空にあんたの好きな月はないが、かわりの天を見せてあげよう。
 かつて空を見上げ、つかめぬ星(ゆめ)にそれでも手を伸ばし掴もうとした男よ、
 我は今宵、お前の試練となろう!
 見事切り伏せてみせるがいい、四天王星熊勇儀の、これが奥の手よっ!!」
 両手を天に広げて、勇儀は己に渦巻くすべてを光り輝く無数の弾幕へと凝らせた。
 世界が白色に包まれたかのような錯覚。
 幾千、否、万にも届くかという弾の群れが現れて、旧都の空を埋め尽くす。
 こんな広大な弾幕は、ついぞ目にしたことがない。
「月がお前の心象ならば、私は私の心象を月と成し、弾と成して喰らわせよう!
 弾幕たちよ……弾けて混ざれッ!!」
「なにっ……!?」
 号令を受けて、一つ一つが勇儀の意思のかたちである弾幕たちが、一点を目掛けて集ま
っていく。互いに衝突して、より強い光を放ちながら、万は千へ、千は百へ圧縮される。
 落雷の連続のような凄まじい音を立てて、軍勢を成していた弾幕は数を減らしていき、
その度に大きく膨れ上がる。
 そして――ついには、無比の巨大な唯一へと至った。
 直視するのが困難なほどの無尽蔵の光を放つ、巨大な一個の弾。
 勇儀の頭上に現れた煌々と輝く光球を、己はまるで満月のようだと思った。
「これぞ星熊勇儀が心の錦、大江山! さあ、受けられるか妖忌ぃッ……!!」
 山を越え、星とさえ呼べそうな弾丸を、勇儀は渾身の力で眼下の己に放り投げた。
 それはあまりにも大きく、広く、眩しく強い。
 空がそのまま落ちてくるような景色の中で、しかし己の心には波一つの揺らぎもない。
 それどころか、勇儀のこの一撃が、己の最後の一手までも定めてくれた。
 光に焼かれる視界の中に……月が視える。
 己が見上げた月、勇儀が想った月、そして、あいつが砕いた月。
 あいつの手は月を砕き、今、勇儀の手は月を生み出した。
 ならば、己のこの手はなにを成す? 魂魄妖忌のこの手は?
 
 ――わかっているはずだ。斬って確かめ進むが、我が人生。
 ――鬼が月を投げ、拳で砕くなら、己は刀で月を斬るまで。

 "確かめてみろ"と、月が宙(そら)ごと落ちてくる。
 ならば、確かめさせてもらおう。
 あの日から今日までの、己の歩みを。
 この刀が、月に届くのか否かを。
「ふぅっ――!!」
 己は迫り来る弾幕に身構え、二振りの刀を鞘へと戻す。
 そして即座に、両手で背の長刀を握り締め、居合いの体勢を作る。
 五体は番えた弓。そして鞘の中で威力を練り高める刃は、破天の矢。
 意識は上へ、ただ上へ、行き着く果てまで、指先を伸ばすかのように。 
 そう、この一刀は、天の尽きる場所まで駆けて、月を斬り裂く己の意思の形だ。
「いざ、勝負ッ!!」
 全身の筋肉という筋肉が呻き声を上げるまで溜め込んだ力を、両手から刀へと伝達する。
 一切の澱みなくそれを汲み、快い音とともに、刃が鞘から滑り出す。
 風を割って放たれたのは、無限に上昇する切断の意思。
 文字通りの剣閃、旧都の大地から空へと伸びる一筋の閃光となって、勇儀の弾へと突き
刺さる。空を覆った巨大な壁に、食らいつく。
 勇儀と己の最後の意思が、火花を散らす。
 それは二つの力の拮抗を物語る。
 弾は斬撃を押し切れず、斬撃もまた弾の骨を断つには至らない。
 互角の状況も面白い、引き分けもまた華――そんな弱気(だきょう)を除かせた瞬間に、
死神が現れて首を刈るだろう。
 ここが極点。今、なにかを出し惜しめば、それは瞬時に腐り果てて価値を失う。
 だから、すべてを前に、上に、解き放つ。
 ――勝つために!!
「――"届け"ぇぇぇぇぇぇぇッ!!」
 己の声を、意思を受けて、弾幕が躍動する。
 弾幕とは、心のかたち。強ければ強いほど雄弁に、弾幕は意思を自らの姿で語る。
 閃光は鋭く尖って勢いを増し、強烈な摩擦を続けていた光球の肌に、ついに切っ先を食
い込ませる。
 ――均衡は、そこで崩れた。
 光が光を食い破っていく。光球のど真ん中を貫いて、己の斬撃が勇儀の弾を怒涛の勢い
で掘り進む。
 星が割れていくかのようなその様を、旧都のすべての瞳が見上げている。
 そして、地底の空に現れた朧月が、轟音の中で真っ二つに切り裂かれた。
 さらに、止まることを忘れたかのような閃光は、両断された弾の先に立つ勇儀までをも
切り捨てようと牙を剥いた。
「ひゃっ……!!」
 自分の勝利を微塵も疑っていなかったであろう勇儀は、斬撃を危うく胴から受け止めそ
うになる。だが、寸前で勇儀はそれを押し留め、真後ろへ背を反らした。
 真空の刃は、勇儀の鼻先を触れることなく通り過ぎる。
 だが、完全には避け切れなかった。そう、鬼には人の頭にはないものが一つだけ生えて
いる。それがなければ鬼ではない、まさに怪力乱神の象徴たる、角がある。
「あ――」
 乾いた音を響かせて、斬撃は勇儀の角の僅かな先端を切り落とした。
 その衝撃と、最後の弾幕に全身全霊を篭めていたせいで、勇儀は姿勢を建て直せないま
ま、旧都の地面へと墜落する。
「いかん……!!」
 いかに鬼でも、疲労したところをあの高さから叩きつけられては無事には済むまい。
 その時、落ちてくる勇儀を受け止めようと己が走り出すのに先んじて、旧都の入り口の
方角から軽やかな風とともに、誰かが飛び出した。
 そいつは羽でも生えているかのように身軽に空を踊ると、荷車のようなものの中に、勇
儀の身体を見事に受け止めてみせた。
「いててて……助かったよ、ありがとさん」
「にっひっひ、ニャイスキャッチ! もっどりましたさとり様ぁ!! お望み通り、確かに
お届けしましたよっ!!」
 猫の変化だろうか、獣の耳と尾を持ったその少女は、得意げに鼻を鳴らして、さとりに
向けて手を振っている。さとりのほうも、安堵したように頷いて応えた。
 そして、さとりの三つの目が、少女の現れた大橋のほうへと動く。
「ご苦労様、お燐。そしてようこそ――伊吹萃香さん」
「な、」「にぃっ――!?」
 己と勇儀が、同時に叫んで橋のほうへ向き直る。
 それに合わせて、手を打ち鳴らす心地よい音が旧都に響き渡った。
「いや見事、見事! 足を運んだ甲斐はあったな。いい酒の肴だったよ、両人!!」
 疲れではないものが、刀を握る指を緩めてしまう。
 見間違えようのない顔、聞き違えようのない声。
 かれこれ百年以上は会っていないというのに、一度で符合する。
 伊吹萃香。己が初めて出会い、数え切れない戦いの中でいつしか惹かれた鬼の娘が、そ
こに立っていた。
「よぅ。老けたな、小僧!」
「……貴様が変わらないだけだ。久しぶりだな、萃香」
「ああっ! じゃあやっぱり、妖忌が戦った鬼ってのは、萃香のことだったんだね!!」
 お燐の荷車に尻を突っ込んだまま、勇儀は両手を組んでしきりに頷く。
 その姿を見て、萃香はげらげらと大声で笑った。
「かっかっかっ! いかにもそうよ。そしてしてやられたね、勇儀! これであんたも、
私を笑えなくなったってわけだ!! 角が治るまで、私の気持ちを味わうがいいよ!!」
「こんの野郎……しばらくぶりで最初に言う言葉がそれかい」
 呵呵大笑する萃香の右の角は、己の刀によって欠けていたはずだ。
 だが百年の時は、その軌跡を既に跡形もなく修復していた。
 己の視線に気づいて、萃香は百年前と変わらず平べったい胸を張って自分の角を己に指
差して見せる。
「ほれ、貴様に斬り落とされた角も、今ではもう立派に戻っておるぞ」
「ふん……百年も経てば無理もない話ではあるが、筍のように生え変わられても、こいつ
に有難味が失せるな」
 己は胸に手を入れて、首から提げた角の細工を取り出す。
 それを見て、萃香は半ば呆れたような声を上げた。
「なんだ、まだ持ってたのか、それ」
「貴様にとっては些細な過去でも、己にしてみれば試練の証、願の一つもかけたくなる」
「ったく……男子のくせに女々しい奴だなァ」
 こういう明け透けな物言いも、まるで変わっていない。
 遠慮の欠片もなく、その性質が相手からも不思議と身構えを解いてしまう。
 だから萃香は誰とでも仲良くなり、気がつけば腹と腹とを割って酒を飲んでいる。
 女というよりは、友という名の距離が、やはりこいつには据わりがいい。
 そういう気の置けないところを、己は愛して止まないのだ。
「ああ、それが萃香の角か。してみると、私が最初に嗅ぎ取った懐かしい感じは、どうや
らそいつが正体だったようだね。これですべてが腑に落ちた」
 勇儀はようやくお燐の車から抜け出すと、己の胸元へ寄ってきて首飾りをしげしげと眺
め、鼻を鳴らした。
「なるほどな。だとすれば、己と勇儀は出会うべくして出会ったのかもしれないな」
 そう、今にして思えば、最初から己たちは萃香という糸で繋がっていた。
 勇儀が己の前で足を止め、話しかけてきたことも、すべては必然の上の出来事。
 ひょっとしたら、己がこの旧都に来たのは、勇儀という新しい友を得る機に導かれた結
果なのかもしれない。
 その舞台に旧都という素晴らしい町が選ばれたことは、重ねて幸運だったといえる。
 当の勇儀はといえば、自慢の長身を馴れ馴れしく萃香の身体に絡ませて、悪戯っ子のよ
うな笑顔で旧交を温めていた。
「しかし、なるほどねぇ。萃香の"これ"だったのか。ちんまいなりして、なかなか男を見
る目はあるもんだ」
 小指を立ててにやつく勇儀に、萃香は絶句し、次いで大爆発した。
「はぁぁ!? 違うわこんな小僧っ子! しかも昔ならいざ知らずもう皺枯れてるじゃん
か!! 戯言は酔いが回ってからにしろってのッ!!」
「……子供扱いか老人扱いか、どちらかにしてほしいものだな」
「黙れ小僧!」
 萃香は興奮で真っ赤になった顔で、己の抗議を撥ねつける。
 そのまま肩を怒らせて梟の店先まで行くと、誰かが置き残したままだった徳利を掴んで、
そのまま一気に嚥下する。
 無類の人懐っこさを誇る一方で、一度こうなったらしばらくは誰の言葉も受けつけない
のが、伊吹萃香だ。
 多少は扱い方も心得ている。しばらくは言いたいように言わせてやることにする。
 己のほうにも、まだやることが残っているのだ。
 己は、萃香の癇癪を愉快愉快と眺めて笑う勇儀の傍らまで行って、その肩を叩く。
「いい戦いだったな。今日のところは、己が勝たせてもらった」
「いやいや。文句なしにあんたの勝ちさ。さあ、宴を舞いきったんだ、勝者の証、受け取
ってくれ」
 勇儀が目配せをすると、大杯に両手を塞がれたさとりが、傍らのお燐に耳打ちをする。
 するとお燐は、さとりの足元からたっぷりと膨らんだ布袋を拾って、己に手渡した。 
 旧都の人々が、己と勇儀にそれぞれ賭けた見物料だ。
 一人一人の額は徳利一本分だが、握り締めた袋は随分な重みを返してくる。
 それだけたくさんの人々が、己と勇儀を見守ってくれていたことの証だ。
「確かに受け取った。それで、こいつを早速使わせてもらおうと思うが」
「へえ? 何かあてでもあるのかい?」
「最初から、一つだけさ」
 勇儀に短く応えて、己は掴んだ袋を勢いをつけて梟に投げつけた。
「うわっとと! だ、旦那っ?」
 昔取った杵柄か、風を切って飛び込んできた布袋を、梟は危なげなく受け止める。
 ……己はもう、旧都に来てから充分すぎるほど多くのものを貰っている。
 居心地のいい憩いの場所。その魅力を全身で教えてくれるたくさんの人々。
 全霊を賭して雌雄を決するに足る好敵手。
 そして、心(しん)の底を分かち合う、莫逆の友までも。
 既にして望外、それでも敢えて望むとすれば、彼らと分け合うひとときだけだ。
 宴には、食と酒の酸いも甘いも弁えた、極上の板前が欠かせない。
 だから皆から貰った志は、そいつを召し上げる代金に使わせてもらおう。
「梟、これから皆と朝まで酒盛りだ。そいつで、存分に腕をふるってくれ」
 己の笑顔に、梟は一瞬固まっていたが、即座に職人の顔を取り戻して頷いた。
「合点でさぁ! さあさあみんな寄った寄った! 今夜は旦那の奢りだ、心行くまで呑ん
で食っていってくれよッ!!」
 歓声とともに、人波がいっせいに梟の店へと流れ出す。
 己と擦れ違いながら、肩や背中を叩いたり、健闘を讃えてくれる者たちが何人もいた。
 殺到する客の間を千鳥足でふらふら逃れながら、萃香が呟くのが聞こえた。
「ふん、宵越しの銭の使い方も、少しは覚えたってわけだ。ああ、小癪小癪……」
 悪態とともに瓢箪を傾ける旧友に、己は振り返らず肩を竦めて応えた。
 そこに、大衆に背中といわず腰といわず押されて、半ば流されるように勇儀がこちらへ
歩いてくる。己と目が合うと、勇儀は照れ臭そうに頬を掻いて笑った。
「……まったく、最後まで天晴れな。萃香が参るだけの男だよ。あんたなら、あいつに見
合う。お似合いだ」
「生憎そこまで混み入れるほどには相性が良くないらしい。言っただろう? あれとは、
抱擁より拳骨の縁がいい。鬼に嘘は吐かないさ。それより勇儀、頼みがある」
「んっ?」
 寄せられた勇儀の視界に、己は萃香の角で作った首飾りを入れてやる。
 さらに、戦いの後で拾っておいた勇儀の角の欠片も。
「お前は旧都に詳しいのだろう? 痛飲したら、どこか腕のいい細工屋を教えてくれ。
 友の証を、もう一つ加えて地上に帰りたいからな」
萃香はまた女々しいと笑うだろうが、己は今夜と勇儀とを形にして残しておきたい。
 それだけの輝きが、確かにあったと断言できる。
 だから、角を拾った時にはもう決めていた。
 こいつで新たな、時の標(しるべ)を作ろうと。
 勇儀は己の言葉を噛み砕けなかったのか、何度か瞬きをした。
 そして、なにごとかの感情を腹の中に生まれさせ、結構な時間をかけてほう、と吐き出
す。後に生まれた微笑みは、これまでのものよりひときわ人情味があり、可愛らしかった。
「はっはっはっはっは! すまない、下種の勘繰りだった! 許しておくれ!!
 そして五分の杯を何度でも交わそう!! 今夜は地上に帰しゃしないよ、我が友よ!!」
「ああ。今夜はとことんまで酔えそうだ。先に潰れるなよ、勇儀」
 勇儀は腕を己の首に巻きつけて、高らかに笑いながら残ったほうの手で己の背を太鼓よ
ろしく何度も叩く。首にかけられた腕を掴み返して、己は勇儀とともに梟の店へ向かう。
 既にいい気分の奴らが鼻歌を歌い、素面を捨てかけた者は拍手や口笛で己と勇儀を迎え
てくれる。見ればさとりとお燐も、一人はややぎこちないながら、宴の輪に混じって杯を
傾けていた。
 さとりが勇儀に気づいて大杯を返し、梟が気を利かせて己にも杯をくれる。
 そこへ萃香がやってきて、無限に酒の湧く瓢箪から、二つの杯へ透き通った美酒をなみ
なみと注いでくれた。
「どうせ地底の酒はこれから吐くほど呑むんだろ? 最初の一杯は、私が祝ってやる。
 ――お疲れさん。格好良かったぞ、二人とも」
「ありがとう、友よ」
「なにやらくすぐったいね。それじゃ、三人揃ったところで、宴の堰を切るとしようか!」
 勇儀の号令で、二つの杯と瓢箪が互いにぶつかって鳴らし合う。
 待ちに待った一杯を流し込もうとして、己はふと杯を満たした酒に月を幻視した。
 地の底から見上げることは叶わなかったが、最後の最後で己は旧都の土に胡坐を掻きな
がら、月と再会することができた。
 闇に身を投げた甲斐は、今ここで実を結んだのだ。
 唇の端が吊り上がるのを、己は堪えようとも思わなかった。
「……ああ、これで月見を果たせた」
 魂まで冴え渡った心地で、己は一息に杯を干す。
 二人の友の顔と、幻の月を肴に飲み干す酒は、五臓六腑に花を咲かせる滋味がした――。
 

<了>
侍 侍 武士道

I LOVE SAMURAI SHOWDOWN。

おつかれさまでした。
白主星
sirasuboshiあっとまーくkkh.biglobe.ne.jp
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コメント



0.780簡易評価
3.100名前が無い程度の能力削除
朝からいい剣客小説を読ませて頂きました。
所々のパロディ台詞にもクスリとさせられました。
6.100名前が無い程度の能力削除
熱さと粋が溢れるいい話でした。
14.100名前が無い程度の能力削除
旧都を訪れてみたいと思うほどの梟をはじめとする旧都の人々の魅力。
妖忌と勇儀の戦いもお互いとても格好よく楽しませてもらいました。
15.100ずわいがに削除
なんじゃこりゃ、大変素晴らしい!怒りも嘆きも悔恨も無い、ただただ楽しかった!
非常にすっきりさっぱり、じーんと来る話でした。バトルとはまたちょっと違う、粋な闘いを楽しませてもらいました。ありがとうございます。