――星は泣いているんじゃないか。
そう云うと、彼女は「珍しく詩人じゃない」と云って、笑った。
「夢幻の霞に終焉を視る詩人は、無限を儚む。」
◆
「うん、今日は星も好く見えて、実に好い夜だね」
天に広がる暗黒の海は、透徹ささえ感じさせる漆黒の中に、太古の光を鏤めている。さながら、光の届かぬ深海に光を求める魚達が出す光の如く、時に赤く、時に青く、時に黄に、兎角様々な色の光芒を、頻りに放っていた。
静邃なる夜の淵には、三人の男女の影が、月の光に照らされて、その影を長く伸ばしている。男は障子を開け放ち、それと同時に流れ込む夜風を一身に受けながら、そう云った。その言葉の響きは、何処か郷愁や昔日を振り返っているかのような趣がある。それを目ざとく感じ取ったのか、男の隣に座っていた女性は「ははは」と軽快な笑い声を漏らした。
「何だ、らしくないじゃないか。書見に飽きたから詩人の真似事でも始めるのか?」
「そんな気概は毛頭ないが、まあ君も無粋な発言をするものだね」
「皮肉を云うのは一人で沢山だわ。魔理沙も霖之助さんも、無粋に変わりないわよ」
皮肉の応酬が始まる前に、彼らの後ろで床に臥している女が、呆れたような物言いで二人を制する。霖之助と魔理沙は、それを聞いて、互いに目を見合わせると「参ったな」などと云って同時に笑い出した。虫達の奏でる合唱の静けさの内には、暫く二人の笑い声が響き、全てを溶かす夜の中には微かな彩りが加えられた。
「此処は霊夢に免じて、仲直りと行こうか。全く、こういう時ばかりは、霊夢に敵う気がしないな」
「同感だぜ。まさか此処に来て怒られるなんて、夢にも思わなかったくらいだからな」
「あんたも懲りないわね。此処でどれだけ怒られた経験があるか忘れた訳でもないでしょうに」
「忘れたぜ。ああ、すっかり忘れた、此処で何があったんだ」
「全く、こんな時じゃなければ、一思いに取っちめてあげるのに」
「それは好くないな。こんな時なんだから、二人とも穏やかにしてくれ」
怖い怖い、と茶化して笑う魔理沙の言に、冷ややかに霊夢が云い放ち、霖之助が二人を宥める。そんな見慣れたような光景が、平然と交わされる事に、三人は毛ほどの違和も感じ得なかった。流れるべくして流れる時の流転を厭う素振りさえ見られぬ。畢竟三人は三人で在り、それ以外の何者でもなく、絶対不変の空と対比して見ると、非常に面白い。三人はことごとく平生と共にある。こんな席であるにも関わらず、揺らぐ素振りは未だ見られない。
「君らの変わり様の無さと云ったら、全く感心させられるばかりだよ」
「それが私達だけだと思ったら、大間違いだ。香霖も大概変わってないぜ」
「まあ、魔理沙の言分にも一理あるが、恐らくそれは、君ら在りきの話だと思うがね」
「それなら私もそうだわ。霖之助さんと魔理沙がそんなだから、きっと私もこうなのね」
「何だよ、一体何の事を云ってるのか、私にはさっぱり分からない」
「つまり、そういう事だよ」
「本当に、そういう事ね」
そうして、霖之助と霊夢は顔を見合わせて静かに笑った。蚊帳の外に取り残された魔理沙は、一人要領を得ない顔をして、微笑を浮かべる二人を訝しげに眺めている。その内に、何だよ何だよなどと稚児みたような事を云いながら、大袈裟に拗ねたような仕草をし始めた。霊夢と霖之助は、またそういう事だと云って笑う。
「思うに、魔理沙が居るから私達もこんな風になっているのね」
「ああ、きっとそうに違いないよ。そう思うと、魔理沙も立派じゃないか」
「おいおい、私が要領を得ない内にそんな事を云われても、全然嬉しくないな」
「それで好いのよ。少なくとも魔理沙は」
「全くだ」
常と変わらぬ魔理沙の所作には翳りがない。如何に陰鬱な雰囲気がそこに流れていようとも、彼女はそんな事を厭わず、自らの思うままに動いている。霖之助はその様を、太陽のようだと心の内で評する。雲に覆われ雨に降られれば、容易く隠れてしまうその姿も、一度自らを遮るものが無くなれば、後は輝き続けるばかりである。大地に立つ者が、何を嘆いていようが、彼女はそんな事には構わず、ただその身より出でる白く強烈な光を、眼下に広がる世界に注ぎ続ける。時には煩わしくさえ思われる性質であっても、今この場で、斯様に振る舞えるのは魔理沙くらいの者だろう、と霖之助は胸の内で一頻り考えると、やはり魔理沙の存在に感謝しない訳には行かなかった。
「ああ、香霖と霊夢に同時に絡まれたんじゃ分が悪いな。私は一旦茶を淹れて来るとするぜ」
「珍しいわね。あんたが此処に来た時は、大抵私が淹れて来るのに」
「こんな時だからな。まあ、そう気にするなよ。私だって何時までも子供の訳じゃないんだ」
「云い得て妙だね。その姿でそんな事を云われては」
「放っとけ、私だって成長ぐらいする」
そう云って魔理沙は立ち上がると、一寸二人を顧みた。冴え冴えしい月光は、魔理沙の表情を明らかに浮かび上がらせる。瑞々しい肌は、白い光に染め上げられて、一層その少女らしい赤味を帯びた肌を、明々と浮世に現した。背に流れる黄金の金糸は、微かに揺れながら、時折その輝きをちらりと見せる。昔日の姿と寸分の違いもないその姿を見て、霖之助は何処か物憂い表情を見せた。それに気付いたか、気付いていないのか、魔理沙は黙って台所の方へと姿を消す。
魔理沙が居なくなった空間には、沈黙の帳が舞い降りた。虫達の涼しげな鳴き声ばかりが、世を満たして行くかのような心持ちがする。霖之助は一寸その場に座り直すと、ふうと一息吐いた。二人の口から言葉は出て来ない。活き活きとした沈黙が領する内に、霖之助は夜空を見上げ、霊夢は布団の中で大人しくしている。台所の方からは、魔理沙が茶を淹れているらしい音がする。そうして彩りが一つ欠けた世界で、二人の思考は同様の場所に逢着を果たす。
「何だか懐かしいわね」
「そうだね。酷く懐かしい」
「一体何時以来かしら」
「さあ……少なくとも近来の事ではないだろう」
「そうね。だからかしら」
「何が」
「魔理沙の姿を見ると、何だか羨ましくて」
共通した懐古の情に心地よく浸かっていた霖之助は、霊夢のその言葉を聞いて、一寸動揺を露わにした。決して開かすまいとして決めていた感情が、不意に露見してしまった事実を隠す術は無かったが、幸いな事に霊夢には霖之助の様子に気付いた素振りは見られず、霖之助は内心安堵を感じた。
「こんな時だから、仕方がないさ」
「こんな時でも、悔しいわね。魔理沙が羨ましいだなんて」
「魔理沙は、そういう経験を何度も何度もしていたよ。霊夢が羨ましい、しかし、それが悔しいと」
「絶対に届かない事じゃないわよ。現に、今は……」
霊夢は言を切って、心持ち悄然たる様相を彷彿とさせる溜息を吐く。霖之助は何と声を掛けたら好いものか判らず、ただその場に黙然として座り続けていた。彼自身、霊夢の羨望の念を聞かされて、驚かない訳には行かなかったのである。二人は再び押し黙った。黙々として過ぎ行く時間を見詰めていると、限りある時間が虚しく経過して行くようで、霖之助は居たたまれない心持ちであったが、如何ともし難い空気が、二人の間には立ち込めている。ところへ、魔理沙が盆に三つの湯呑を載せて戻って来るなり、明るい声音で「淹れて来たぜ」と云った。
「ああ、有難う」
「悪いわね。客はあんたの方なのに」
「霊夢にそんな事を云われると、何だか背筋がぞっとするな」
「失礼ね。ああ、でも昔と比べれば、美味しいお茶が淹れられるようになった気がするわ」
「まさかお前からお褒めの言葉が頂けるとは思って無かったが、案外悪い気はしないな」
魔理沙がそう云うと、霊夢は何事か云おうと口を開き掛けたが、特に何も云わぬまま、口を噤んだ。ただ、その代りに柔らかい微笑がふと漏れる。二人の遣り取りを長年の間眺め続けて来た霖之助は、また云い合いが始まるなと推断していたが、案外にも穏やかな二人を見ると、自分の推測が甚だ場違いなように思われたのと同時に、この場に霞の如く立ち込める尋常の域に在らざる雰囲気に、今更ながらに気付かされた。
「しかし、本当に何時以来だろうね。こうして三人集まって話しているのは」
暫時続いた沈黙に終止符を打つべく、霖之助が先の話題を話頭に上げる。魔理沙は、はてと首を傾げたが、霊夢はその意を解したとみえて、黙って頷いて深く息を吐いた。
「最後に話したのはそんなに前の話だったか。何だか実感が湧かないが」
気難しい顔をして、魔理沙は過去を顧みる仕草を見せる。霖之助は彼女の仕草を目にして、聞こえるか聞こえぬか程度の声量でそうかと呟いた。千変万化は人が平等に生まれ持つ可能性の一つである。不変はその可能性の放棄であり永遠の証左に他ならない。それとて一つの才ではあるが、霖之助は常々それを在らざるべき欠陥と考えている。が、改めて魔理沙の一挙手一投足に目を凝らして見ると、自らの内に自ずから成ったその持論が、音を立てて瓦解してしまいそうになる。魔理沙には霖之助が思う所の、悲観の影さえ見られぬ。故に霖之助は、彼女の形容に太陽を用いたのかも知れなかった。
「まあ、君はそうだろうさ。まだ時間の流れに身体が慣れていないのだろう」
「私や霖之助さんからすれば、酷く懐かしいものね」
「ああ、気付けばこんなに時が過ぎていた。まるで小説を一冊読み終えたかのような感じだよ」
終わりなき小説は存在しない。起を始点とし、承に移れば転に至る。そうして終点の結がその先に待ち受けているのが、小説の構成である。読み終えれば興奮する者も居れば、虚しくなる者もある。霖之助と霊夢は後者に違いなかった。死生に是非など無く、生まれれば死に行くのがこの世の常である。世は諸行無常の響きの内に、無聊を託ちては物語を刻み、時の流れに沿っては終末への旅路を歩む。その流れに沿わぬは物の怪である。或いは妖と称される人外である。彼らは六道より離れ、生まれては死に行く雪の如く儚い命の灯火に、憐憫と羨望の送り火を託し、我を保つ。
「あははは、霖之助さんらしい例えだわ。……そうね、小説を読み終えたような、そんな感じだわ」
霊夢はそう云って瞑目すると、夏の香を孕んだ夜風を浴びながら、一寸切なげに睫毛を揺れ動かした。次第に消えつつある春の彩りは、夏に向けて生命の象徴たる青々とした葉を、早くも世に表して来る。颯と吹いた風は、先んじて吹いた夏の早とちりである。風鈴をまだ出していない。そんな事を考えると、霊夢は書見に耽った末に、その先すら予想しようとする愚かしさを感じた心持ちがした。結末を迎えた小説の先は、筆者にさえ判らぬ。
「書見なんて殊勝な趣味が霊夢にあったのか?」
「物の例えよ。この際私が書見をしていたかどうかなんて、どうでも好いじゃない」
可笑しそうにけらけらと笑う魔理沙に、呆れ気味な声音でそう云うと、霊夢はお返しとばかりに「今のあんたの顔、酷いわよ」などと云って、さも面白そうに笑った。
「おいおい、こんな可愛い顔を酷いとは、随分な言種だな」
「ははは、霊夢の云う通りだね。魔理沙のそんな顔を見るのも久しいな」
「香霖まで何を云い出すんだか。ほら、好く見てみろ、別に普通だぜ」
そう云いつつも、魔理沙も自分の浮かべている表情が強張っているのを自覚しているのか、暫く霖之助と霊夢の顔を代わる代わる見詰めていたが、その内に一寸俯いて、手の平で顔をごしごしと擦ると、「何ともないぜ」と虚勢と思えなくもない笑顔を浮かべた。霖之助と霊夢は、その様が図星を突かれて、あれよこれよと云う間に墓穴を掘って行く者の滑稽に思われたとみえて、声を揃えて笑い出した。
「ああ、もう、判ったよ。判ったからそろそろ虐めるのは止してくれ」
首を振って、参ったと云わんばかりに両手を挙げた魔理沙を見て、二人は再び笑う。「何、仕方ないさ」と霖之助が霊夢に同意を求めると、「そうね。むしろ嬉しいわ」などと云う。魔理沙は二人の猛攻に遂に観念したとみえて、「仕舞には泣くぞ」と云って、明後日の方向へ視線を背けた。
「あら、少し悪戯が過ぎたかしら。ごめんなさいね」
「全く、勘弁して欲しいもんだ。お前ら二人に絡まれたんじゃ、やっぱり敵わない」
漸く虐めから解放されたと魔理沙が安堵の溜息を吐くと、霖之助が「そう云えば」と話を切り出して、傍らに置いてあった袋を、自分の膝の上に載せた。魔理沙と霊夢は、不思議そうにその様子を見遣り、「どうしたの」と声を揃えて尋ねる。すると、霖之助が得意げに袋から一本の瓶を取り出して、二人に見せびらかす如く、一寸振って見せた。
「何だ、酒なんか持って来たのか」
「ああ、折角だから、とびきり上等な奴を持って来たんだ。神々愛飲、秘伝の神酒さ」
「何で霖之助さんがそんな物を持っているのよ」
「この間、一寸無理を云って貰ったんだ。案外話の判る神様で助かったよ」
そう云うと、霖之助は同じく袋に入っていたらしい猪口を三つ取り出すと、それぞれに酒を注ぐ。明るい月明かりに照らされて、神秘的な輝きを乱反射させる酒は、成程上等に思われる。
「それじゃ、乾杯と行こうか」
打ち合わされた猪口が、かつと小気味好い音を鳴らすと、草木も眠りに就いたかと思われるほどの静寂に包まれた宵に、三人の「乾杯」という声が静けさに溶けて行く。同時に酒を呷ると、三人は熱い呼気を吐き出して、猪口を畳の上に置いた。縁側に腰を掛ける霖之助は、それと同時に襖を更に開く。清涼なる澄んだ空気が、寝室の中に流れ込み、三者三様の髪の毛が、僅かに揺れた。
「さすが、神様愛飲の酒だな。美味い」
魔理沙は小さな猪口に注がれた酒を飲み干すと、満足げな溜息と共にそう云った。
「美味しいけど、一寸強過ぎるわね。喉が焼けそう」
「そうかい。それなら水で割った方が好いかも知れないね」
酒を少しばかり口に含んで嚥下した霊夢は、咽喉の辺りを手で押さえながら、眉を潜めて見せた。
「まあ、飲み過ぎて酔うのも厭だから、私はこの一杯だけで好いわ」
猪口を枕の傍らに置くと、苦笑を浮かべながら霊夢は云う。気怠そうに身を起した霊夢は、寝巻の上に打掛を羽織って、姿勢を正した。その慎ましやかな姿は、昔日の彼女とは一風変わって、楚々たる淑女の趣を凝らしている。霖之助はその時、魔理沙を太陽と評したのに対して、心の内で霊夢を月と評した。
太陽の光を受けて、漸くその存在を誇示するのが月である。ぎらりと輝く太陽とは趣を異にして、月は冴え冴えしく、何処か青味を帯びた寂寂たる光を大地に降ろす。幾星霜を超えて、今尚輝き続ける悠久の美を、惜しみなく天下に遍く人々に知らしめ、深淵を見詰めぬ万人は静々とした月を美しいと評する。が、霖之助は月を儚いと思う。夜空に君臨し続ける宵の象徴たる月を、有ろう事か儚いと評した事がある。太陽の輝きを以てして、漸く光を得る月は、太陽が消え果てた時、暗黒の内に溶けてしまう、儚さの象徴であると、今も信じて疑わない。故に霖之助は霊夢を月と評したのである。
やがて、三人の間には鬱々たる沈黙ではなく、何処か心地よく思われる静けさが遍満し始めた。暫時は誰も言葉を発さず、この日集まった理由を、各々が考えているようであった。魔理沙は猪口の中身が無くなっては、霖之助にお代わりの催促をする。霊夢はちびりと少しの酒を口に含んでは、眉間に皺を寄せる。霖之助は夜空を見上げながら、時折猪口に新たな酒を注ぐ。――ふと、三人は現今に翳る昔日の日々を、一様にして頭の片隅に思い浮かべた。
「なあ」
すると、何事か思い出したかの如く、魔理沙が声を発する。霖之助も霊夢も、彼女を見詰めたばかりで、言葉は用いなかった。それが、何等の不都合を与えた様子もなく、魔理沙は言葉の続きを紡ぐ。その時、遠く聳える山稜の上に浮かぶ月が、雲に覆い隠される。月光のみを頼りに催された三人の集会は、途端に闇の中へ呑み込まれる。星ばかりが、夜空で忙しく瞬いていた。
「何で私達だけ呼んだんだ」
自らの手さえ碌に見る事の出来ぬ暗い空間で、果てなく届きそうな静けさの内に、魔理沙の問い掛けが響く。誰彼の表情をも窺えぬ。また物音さえ聞こえて来なかった。
「さあね」
霊夢はただ一言発しただけである。その声音からは不機嫌とも上機嫌とも判断は付かぬ。無論魔理沙が要領を得る事はない。文句を云おうとして、口を開き掛けた時、流れ行く雲が、月の御前より過ぎ去った。暗闇を切り裂く白き光が、少しずつ寝室を包み込んで行き、やがて魔理沙の見詰める先に座った霊夢の顔が照らし出された刹那、魔理沙は閉口して穏やかな微笑を浮かべた。霖之助は全てを察しているかの如く、二人の様子を見比べて、静かに酒を口に含む。――ああ、確かにこの酒は強過ぎるかも知れない。そんな事を思うと、震える喉に手を当てた。
「さて、そろそろ時間ね。何だかふわふわした心持ち」
そう云って布団に寝転がる霊夢は、深く溜息を吐く。
「おい、まだ早くないか」
洟を啜ったのは魔理沙であった。
「もうそんな時間だったのかい」
平生と同様の声音で云ったのが霖之助である。
「あははは、霖之助さんも魔理沙も、酷い顔だわ」
霊夢は言葉に反して、自分の発した声の音が、案外にも震えていた事に驚いた。が、それを悟られぬように、尚更大きな声であははと笑う。魔理沙も霖之助も、それにつられてあははと笑った。盛大な笑い声が宵の淵に響き、三人の不器用な哄笑が、罅割れて今にも崩れそうな堰を築く。
「今の君に云われたくないよ。――安心してお休み」
「ああ、畜生、こんな時に嫌味なんて止してくれ。畜生、おい霊夢、まだ寝るんじゃないぞ」
枕元に詰め寄って、魔理沙は切れ切れの言葉を紡ぐ。霊夢は相変わらずあははと笑う。
「そんな事云ったって仕様がないじゃないの。ほら、こんな時ぐらいお祈りしてよ」
「れい……」
魔理沙の言葉を片手で制すると、霖之助は瞠目して向けられた視線に、黙って頷いた。魔理沙は歪んだ顔で、再び霊夢を見る。霊夢は皺くちゃの唇に笑みを象り、目尻に刻まれた皺に涙の川を作っていた。魔理沙は一層大きな音を立てて、洟を啜ると、姿勢を正す。すると、霖之助が静かに祈りの言葉を紡ぎ始める。
天より我等を見守り給う龍神様にお頼み申す。
此度一つの偉大なる御霊が龍神様の御許へ召さるる事に相成った。
どうか龍神様の深き御心に其の御霊を留め、安らかなる眠りへ導き給え。
汝は祈りを捧げよ、我等は汝の為に、彼岸に待つ船頭に捧ぐ船賃を託す。
汝は祈りを捧げよ、我等は汝の為に、冥途の長き旅路を無事往ける様に祈る。
汝は祈りを捧げよ、我等は汝の為に、此岸を逝く汝を永久に記憶する。
天より我等を見守り給う龍神様にお頼み申す。
此度一つの偉大なる御霊が龍神様の御許へ召さるる事に相成った。
親愛なる我等の友に其の御手を差し伸べ給え。
汝は眠れ、我等は唄う。
汝は眠れ、我等は哭く。
汝は眠れ、我等は往く。
去らば愛しき我等が友よ。
龍神様の御許へ召され、我等を見守り給え。
去らば愛しき我等が友よ。
龍神様の御許へ召され、安らかなる眠りに就き給え。……
「有難う、お休みなさい」
霖之助と魔理沙が祈りを終えると、霊夢はそう云った。まるでそのまま眠ってしまった如く、耳を澄ませば静かな寝息が聞こえて来そうなほど、安らかな表情をしている。魔理沙は遂に涙を堪え切れずに泣き崩れ、霖之助は霊夢の額に手を当てて「お休み」と云った。
――やがて、霊夢に寄り添って泣く魔理沙を置いて、霖之助は一人神社の境内に降り立った。夜空には月と星とが輝いている。霖之助はふと昔の出来事を思い出した。霊夢と二人、茶を飲んで過ごした夜、彼は何とも無しに「星は泣いているんじゃないか」と云った事がある。自らの失態に気付いたのは、霊夢が「珍しく詩人じゃない」と云って彼をからかうように笑った後であったが、霖之助は改めて思った。星は泣いているのだ。
星には形がない。無数の点が、ただ黒い夜空に鏤められて、無機質な黒地の布に宝石を飾る如く、夜空を煌びやかにさせるのである。形なき星に唯一出来るのはそれぐらいのもので、明確なる形を有する月や太陽とは、そもそも比較する意味さえない。そんな星が、自らの存在を誇示するのは、流星や星座くらいのものである。星座で曖昧に己を表現しては、時折一際目立つ一筋の尾を引かせながら己を流す。もしかしたら、星は故意に自らを隠しているのかもしれない。が、自らをすっかり隠してしまうのが恐ろしく思われるから、敢えて曖昧に己を表現するのかも知れない。星座はきっと星の表情で、時折見られる流れ星は、星が流した涙に違いないのだ。霖之助はそんな事を考えて、ふと「星は泣いているんじゃないか」と漏らしたのである。
「まるで、僕みたようじゃないか」
答える者はいない。霖之助は自分が詩人なのかどうか判らなかった。
その時、遥か彼方の空に、流れ星が一条の光を残して消え去った。
――了
そう云うと、彼女は「珍しく詩人じゃない」と云って、笑った。
「夢幻の霞に終焉を視る詩人は、無限を儚む。」
◆
「うん、今日は星も好く見えて、実に好い夜だね」
天に広がる暗黒の海は、透徹ささえ感じさせる漆黒の中に、太古の光を鏤めている。さながら、光の届かぬ深海に光を求める魚達が出す光の如く、時に赤く、時に青く、時に黄に、兎角様々な色の光芒を、頻りに放っていた。
静邃なる夜の淵には、三人の男女の影が、月の光に照らされて、その影を長く伸ばしている。男は障子を開け放ち、それと同時に流れ込む夜風を一身に受けながら、そう云った。その言葉の響きは、何処か郷愁や昔日を振り返っているかのような趣がある。それを目ざとく感じ取ったのか、男の隣に座っていた女性は「ははは」と軽快な笑い声を漏らした。
「何だ、らしくないじゃないか。書見に飽きたから詩人の真似事でも始めるのか?」
「そんな気概は毛頭ないが、まあ君も無粋な発言をするものだね」
「皮肉を云うのは一人で沢山だわ。魔理沙も霖之助さんも、無粋に変わりないわよ」
皮肉の応酬が始まる前に、彼らの後ろで床に臥している女が、呆れたような物言いで二人を制する。霖之助と魔理沙は、それを聞いて、互いに目を見合わせると「参ったな」などと云って同時に笑い出した。虫達の奏でる合唱の静けさの内には、暫く二人の笑い声が響き、全てを溶かす夜の中には微かな彩りが加えられた。
「此処は霊夢に免じて、仲直りと行こうか。全く、こういう時ばかりは、霊夢に敵う気がしないな」
「同感だぜ。まさか此処に来て怒られるなんて、夢にも思わなかったくらいだからな」
「あんたも懲りないわね。此処でどれだけ怒られた経験があるか忘れた訳でもないでしょうに」
「忘れたぜ。ああ、すっかり忘れた、此処で何があったんだ」
「全く、こんな時じゃなければ、一思いに取っちめてあげるのに」
「それは好くないな。こんな時なんだから、二人とも穏やかにしてくれ」
怖い怖い、と茶化して笑う魔理沙の言に、冷ややかに霊夢が云い放ち、霖之助が二人を宥める。そんな見慣れたような光景が、平然と交わされる事に、三人は毛ほどの違和も感じ得なかった。流れるべくして流れる時の流転を厭う素振りさえ見られぬ。畢竟三人は三人で在り、それ以外の何者でもなく、絶対不変の空と対比して見ると、非常に面白い。三人はことごとく平生と共にある。こんな席であるにも関わらず、揺らぐ素振りは未だ見られない。
「君らの変わり様の無さと云ったら、全く感心させられるばかりだよ」
「それが私達だけだと思ったら、大間違いだ。香霖も大概変わってないぜ」
「まあ、魔理沙の言分にも一理あるが、恐らくそれは、君ら在りきの話だと思うがね」
「それなら私もそうだわ。霖之助さんと魔理沙がそんなだから、きっと私もこうなのね」
「何だよ、一体何の事を云ってるのか、私にはさっぱり分からない」
「つまり、そういう事だよ」
「本当に、そういう事ね」
そうして、霖之助と霊夢は顔を見合わせて静かに笑った。蚊帳の外に取り残された魔理沙は、一人要領を得ない顔をして、微笑を浮かべる二人を訝しげに眺めている。その内に、何だよ何だよなどと稚児みたような事を云いながら、大袈裟に拗ねたような仕草をし始めた。霊夢と霖之助は、またそういう事だと云って笑う。
「思うに、魔理沙が居るから私達もこんな風になっているのね」
「ああ、きっとそうに違いないよ。そう思うと、魔理沙も立派じゃないか」
「おいおい、私が要領を得ない内にそんな事を云われても、全然嬉しくないな」
「それで好いのよ。少なくとも魔理沙は」
「全くだ」
常と変わらぬ魔理沙の所作には翳りがない。如何に陰鬱な雰囲気がそこに流れていようとも、彼女はそんな事を厭わず、自らの思うままに動いている。霖之助はその様を、太陽のようだと心の内で評する。雲に覆われ雨に降られれば、容易く隠れてしまうその姿も、一度自らを遮るものが無くなれば、後は輝き続けるばかりである。大地に立つ者が、何を嘆いていようが、彼女はそんな事には構わず、ただその身より出でる白く強烈な光を、眼下に広がる世界に注ぎ続ける。時には煩わしくさえ思われる性質であっても、今この場で、斯様に振る舞えるのは魔理沙くらいの者だろう、と霖之助は胸の内で一頻り考えると、やはり魔理沙の存在に感謝しない訳には行かなかった。
「ああ、香霖と霊夢に同時に絡まれたんじゃ分が悪いな。私は一旦茶を淹れて来るとするぜ」
「珍しいわね。あんたが此処に来た時は、大抵私が淹れて来るのに」
「こんな時だからな。まあ、そう気にするなよ。私だって何時までも子供の訳じゃないんだ」
「云い得て妙だね。その姿でそんな事を云われては」
「放っとけ、私だって成長ぐらいする」
そう云って魔理沙は立ち上がると、一寸二人を顧みた。冴え冴えしい月光は、魔理沙の表情を明らかに浮かび上がらせる。瑞々しい肌は、白い光に染め上げられて、一層その少女らしい赤味を帯びた肌を、明々と浮世に現した。背に流れる黄金の金糸は、微かに揺れながら、時折その輝きをちらりと見せる。昔日の姿と寸分の違いもないその姿を見て、霖之助は何処か物憂い表情を見せた。それに気付いたか、気付いていないのか、魔理沙は黙って台所の方へと姿を消す。
魔理沙が居なくなった空間には、沈黙の帳が舞い降りた。虫達の涼しげな鳴き声ばかりが、世を満たして行くかのような心持ちがする。霖之助は一寸その場に座り直すと、ふうと一息吐いた。二人の口から言葉は出て来ない。活き活きとした沈黙が領する内に、霖之助は夜空を見上げ、霊夢は布団の中で大人しくしている。台所の方からは、魔理沙が茶を淹れているらしい音がする。そうして彩りが一つ欠けた世界で、二人の思考は同様の場所に逢着を果たす。
「何だか懐かしいわね」
「そうだね。酷く懐かしい」
「一体何時以来かしら」
「さあ……少なくとも近来の事ではないだろう」
「そうね。だからかしら」
「何が」
「魔理沙の姿を見ると、何だか羨ましくて」
共通した懐古の情に心地よく浸かっていた霖之助は、霊夢のその言葉を聞いて、一寸動揺を露わにした。決して開かすまいとして決めていた感情が、不意に露見してしまった事実を隠す術は無かったが、幸いな事に霊夢には霖之助の様子に気付いた素振りは見られず、霖之助は内心安堵を感じた。
「こんな時だから、仕方がないさ」
「こんな時でも、悔しいわね。魔理沙が羨ましいだなんて」
「魔理沙は、そういう経験を何度も何度もしていたよ。霊夢が羨ましい、しかし、それが悔しいと」
「絶対に届かない事じゃないわよ。現に、今は……」
霊夢は言を切って、心持ち悄然たる様相を彷彿とさせる溜息を吐く。霖之助は何と声を掛けたら好いものか判らず、ただその場に黙然として座り続けていた。彼自身、霊夢の羨望の念を聞かされて、驚かない訳には行かなかったのである。二人は再び押し黙った。黙々として過ぎ行く時間を見詰めていると、限りある時間が虚しく経過して行くようで、霖之助は居たたまれない心持ちであったが、如何ともし難い空気が、二人の間には立ち込めている。ところへ、魔理沙が盆に三つの湯呑を載せて戻って来るなり、明るい声音で「淹れて来たぜ」と云った。
「ああ、有難う」
「悪いわね。客はあんたの方なのに」
「霊夢にそんな事を云われると、何だか背筋がぞっとするな」
「失礼ね。ああ、でも昔と比べれば、美味しいお茶が淹れられるようになった気がするわ」
「まさかお前からお褒めの言葉が頂けるとは思って無かったが、案外悪い気はしないな」
魔理沙がそう云うと、霊夢は何事か云おうと口を開き掛けたが、特に何も云わぬまま、口を噤んだ。ただ、その代りに柔らかい微笑がふと漏れる。二人の遣り取りを長年の間眺め続けて来た霖之助は、また云い合いが始まるなと推断していたが、案外にも穏やかな二人を見ると、自分の推測が甚だ場違いなように思われたのと同時に、この場に霞の如く立ち込める尋常の域に在らざる雰囲気に、今更ながらに気付かされた。
「しかし、本当に何時以来だろうね。こうして三人集まって話しているのは」
暫時続いた沈黙に終止符を打つべく、霖之助が先の話題を話頭に上げる。魔理沙は、はてと首を傾げたが、霊夢はその意を解したとみえて、黙って頷いて深く息を吐いた。
「最後に話したのはそんなに前の話だったか。何だか実感が湧かないが」
気難しい顔をして、魔理沙は過去を顧みる仕草を見せる。霖之助は彼女の仕草を目にして、聞こえるか聞こえぬか程度の声量でそうかと呟いた。千変万化は人が平等に生まれ持つ可能性の一つである。不変はその可能性の放棄であり永遠の証左に他ならない。それとて一つの才ではあるが、霖之助は常々それを在らざるべき欠陥と考えている。が、改めて魔理沙の一挙手一投足に目を凝らして見ると、自らの内に自ずから成ったその持論が、音を立てて瓦解してしまいそうになる。魔理沙には霖之助が思う所の、悲観の影さえ見られぬ。故に霖之助は、彼女の形容に太陽を用いたのかも知れなかった。
「まあ、君はそうだろうさ。まだ時間の流れに身体が慣れていないのだろう」
「私や霖之助さんからすれば、酷く懐かしいものね」
「ああ、気付けばこんなに時が過ぎていた。まるで小説を一冊読み終えたかのような感じだよ」
終わりなき小説は存在しない。起を始点とし、承に移れば転に至る。そうして終点の結がその先に待ち受けているのが、小説の構成である。読み終えれば興奮する者も居れば、虚しくなる者もある。霖之助と霊夢は後者に違いなかった。死生に是非など無く、生まれれば死に行くのがこの世の常である。世は諸行無常の響きの内に、無聊を託ちては物語を刻み、時の流れに沿っては終末への旅路を歩む。その流れに沿わぬは物の怪である。或いは妖と称される人外である。彼らは六道より離れ、生まれては死に行く雪の如く儚い命の灯火に、憐憫と羨望の送り火を託し、我を保つ。
「あははは、霖之助さんらしい例えだわ。……そうね、小説を読み終えたような、そんな感じだわ」
霊夢はそう云って瞑目すると、夏の香を孕んだ夜風を浴びながら、一寸切なげに睫毛を揺れ動かした。次第に消えつつある春の彩りは、夏に向けて生命の象徴たる青々とした葉を、早くも世に表して来る。颯と吹いた風は、先んじて吹いた夏の早とちりである。風鈴をまだ出していない。そんな事を考えると、霊夢は書見に耽った末に、その先すら予想しようとする愚かしさを感じた心持ちがした。結末を迎えた小説の先は、筆者にさえ判らぬ。
「書見なんて殊勝な趣味が霊夢にあったのか?」
「物の例えよ。この際私が書見をしていたかどうかなんて、どうでも好いじゃない」
可笑しそうにけらけらと笑う魔理沙に、呆れ気味な声音でそう云うと、霊夢はお返しとばかりに「今のあんたの顔、酷いわよ」などと云って、さも面白そうに笑った。
「おいおい、こんな可愛い顔を酷いとは、随分な言種だな」
「ははは、霊夢の云う通りだね。魔理沙のそんな顔を見るのも久しいな」
「香霖まで何を云い出すんだか。ほら、好く見てみろ、別に普通だぜ」
そう云いつつも、魔理沙も自分の浮かべている表情が強張っているのを自覚しているのか、暫く霖之助と霊夢の顔を代わる代わる見詰めていたが、その内に一寸俯いて、手の平で顔をごしごしと擦ると、「何ともないぜ」と虚勢と思えなくもない笑顔を浮かべた。霖之助と霊夢は、その様が図星を突かれて、あれよこれよと云う間に墓穴を掘って行く者の滑稽に思われたとみえて、声を揃えて笑い出した。
「ああ、もう、判ったよ。判ったからそろそろ虐めるのは止してくれ」
首を振って、参ったと云わんばかりに両手を挙げた魔理沙を見て、二人は再び笑う。「何、仕方ないさ」と霖之助が霊夢に同意を求めると、「そうね。むしろ嬉しいわ」などと云う。魔理沙は二人の猛攻に遂に観念したとみえて、「仕舞には泣くぞ」と云って、明後日の方向へ視線を背けた。
「あら、少し悪戯が過ぎたかしら。ごめんなさいね」
「全く、勘弁して欲しいもんだ。お前ら二人に絡まれたんじゃ、やっぱり敵わない」
漸く虐めから解放されたと魔理沙が安堵の溜息を吐くと、霖之助が「そう云えば」と話を切り出して、傍らに置いてあった袋を、自分の膝の上に載せた。魔理沙と霊夢は、不思議そうにその様子を見遣り、「どうしたの」と声を揃えて尋ねる。すると、霖之助が得意げに袋から一本の瓶を取り出して、二人に見せびらかす如く、一寸振って見せた。
「何だ、酒なんか持って来たのか」
「ああ、折角だから、とびきり上等な奴を持って来たんだ。神々愛飲、秘伝の神酒さ」
「何で霖之助さんがそんな物を持っているのよ」
「この間、一寸無理を云って貰ったんだ。案外話の判る神様で助かったよ」
そう云うと、霖之助は同じく袋に入っていたらしい猪口を三つ取り出すと、それぞれに酒を注ぐ。明るい月明かりに照らされて、神秘的な輝きを乱反射させる酒は、成程上等に思われる。
「それじゃ、乾杯と行こうか」
打ち合わされた猪口が、かつと小気味好い音を鳴らすと、草木も眠りに就いたかと思われるほどの静寂に包まれた宵に、三人の「乾杯」という声が静けさに溶けて行く。同時に酒を呷ると、三人は熱い呼気を吐き出して、猪口を畳の上に置いた。縁側に腰を掛ける霖之助は、それと同時に襖を更に開く。清涼なる澄んだ空気が、寝室の中に流れ込み、三者三様の髪の毛が、僅かに揺れた。
「さすが、神様愛飲の酒だな。美味い」
魔理沙は小さな猪口に注がれた酒を飲み干すと、満足げな溜息と共にそう云った。
「美味しいけど、一寸強過ぎるわね。喉が焼けそう」
「そうかい。それなら水で割った方が好いかも知れないね」
酒を少しばかり口に含んで嚥下した霊夢は、咽喉の辺りを手で押さえながら、眉を潜めて見せた。
「まあ、飲み過ぎて酔うのも厭だから、私はこの一杯だけで好いわ」
猪口を枕の傍らに置くと、苦笑を浮かべながら霊夢は云う。気怠そうに身を起した霊夢は、寝巻の上に打掛を羽織って、姿勢を正した。その慎ましやかな姿は、昔日の彼女とは一風変わって、楚々たる淑女の趣を凝らしている。霖之助はその時、魔理沙を太陽と評したのに対して、心の内で霊夢を月と評した。
太陽の光を受けて、漸くその存在を誇示するのが月である。ぎらりと輝く太陽とは趣を異にして、月は冴え冴えしく、何処か青味を帯びた寂寂たる光を大地に降ろす。幾星霜を超えて、今尚輝き続ける悠久の美を、惜しみなく天下に遍く人々に知らしめ、深淵を見詰めぬ万人は静々とした月を美しいと評する。が、霖之助は月を儚いと思う。夜空に君臨し続ける宵の象徴たる月を、有ろう事か儚いと評した事がある。太陽の輝きを以てして、漸く光を得る月は、太陽が消え果てた時、暗黒の内に溶けてしまう、儚さの象徴であると、今も信じて疑わない。故に霖之助は霊夢を月と評したのである。
やがて、三人の間には鬱々たる沈黙ではなく、何処か心地よく思われる静けさが遍満し始めた。暫時は誰も言葉を発さず、この日集まった理由を、各々が考えているようであった。魔理沙は猪口の中身が無くなっては、霖之助にお代わりの催促をする。霊夢はちびりと少しの酒を口に含んでは、眉間に皺を寄せる。霖之助は夜空を見上げながら、時折猪口に新たな酒を注ぐ。――ふと、三人は現今に翳る昔日の日々を、一様にして頭の片隅に思い浮かべた。
「なあ」
すると、何事か思い出したかの如く、魔理沙が声を発する。霖之助も霊夢も、彼女を見詰めたばかりで、言葉は用いなかった。それが、何等の不都合を与えた様子もなく、魔理沙は言葉の続きを紡ぐ。その時、遠く聳える山稜の上に浮かぶ月が、雲に覆い隠される。月光のみを頼りに催された三人の集会は、途端に闇の中へ呑み込まれる。星ばかりが、夜空で忙しく瞬いていた。
「何で私達だけ呼んだんだ」
自らの手さえ碌に見る事の出来ぬ暗い空間で、果てなく届きそうな静けさの内に、魔理沙の問い掛けが響く。誰彼の表情をも窺えぬ。また物音さえ聞こえて来なかった。
「さあね」
霊夢はただ一言発しただけである。その声音からは不機嫌とも上機嫌とも判断は付かぬ。無論魔理沙が要領を得る事はない。文句を云おうとして、口を開き掛けた時、流れ行く雲が、月の御前より過ぎ去った。暗闇を切り裂く白き光が、少しずつ寝室を包み込んで行き、やがて魔理沙の見詰める先に座った霊夢の顔が照らし出された刹那、魔理沙は閉口して穏やかな微笑を浮かべた。霖之助は全てを察しているかの如く、二人の様子を見比べて、静かに酒を口に含む。――ああ、確かにこの酒は強過ぎるかも知れない。そんな事を思うと、震える喉に手を当てた。
「さて、そろそろ時間ね。何だかふわふわした心持ち」
そう云って布団に寝転がる霊夢は、深く溜息を吐く。
「おい、まだ早くないか」
洟を啜ったのは魔理沙であった。
「もうそんな時間だったのかい」
平生と同様の声音で云ったのが霖之助である。
「あははは、霖之助さんも魔理沙も、酷い顔だわ」
霊夢は言葉に反して、自分の発した声の音が、案外にも震えていた事に驚いた。が、それを悟られぬように、尚更大きな声であははと笑う。魔理沙も霖之助も、それにつられてあははと笑った。盛大な笑い声が宵の淵に響き、三人の不器用な哄笑が、罅割れて今にも崩れそうな堰を築く。
「今の君に云われたくないよ。――安心してお休み」
「ああ、畜生、こんな時に嫌味なんて止してくれ。畜生、おい霊夢、まだ寝るんじゃないぞ」
枕元に詰め寄って、魔理沙は切れ切れの言葉を紡ぐ。霊夢は相変わらずあははと笑う。
「そんな事云ったって仕様がないじゃないの。ほら、こんな時ぐらいお祈りしてよ」
「れい……」
魔理沙の言葉を片手で制すると、霖之助は瞠目して向けられた視線に、黙って頷いた。魔理沙は歪んだ顔で、再び霊夢を見る。霊夢は皺くちゃの唇に笑みを象り、目尻に刻まれた皺に涙の川を作っていた。魔理沙は一層大きな音を立てて、洟を啜ると、姿勢を正す。すると、霖之助が静かに祈りの言葉を紡ぎ始める。
天より我等を見守り給う龍神様にお頼み申す。
此度一つの偉大なる御霊が龍神様の御許へ召さるる事に相成った。
どうか龍神様の深き御心に其の御霊を留め、安らかなる眠りへ導き給え。
汝は祈りを捧げよ、我等は汝の為に、彼岸に待つ船頭に捧ぐ船賃を託す。
汝は祈りを捧げよ、我等は汝の為に、冥途の長き旅路を無事往ける様に祈る。
汝は祈りを捧げよ、我等は汝の為に、此岸を逝く汝を永久に記憶する。
天より我等を見守り給う龍神様にお頼み申す。
此度一つの偉大なる御霊が龍神様の御許へ召さるる事に相成った。
親愛なる我等の友に其の御手を差し伸べ給え。
汝は眠れ、我等は唄う。
汝は眠れ、我等は哭く。
汝は眠れ、我等は往く。
去らば愛しき我等が友よ。
龍神様の御許へ召され、我等を見守り給え。
去らば愛しき我等が友よ。
龍神様の御許へ召され、安らかなる眠りに就き給え。……
「有難う、お休みなさい」
霖之助と魔理沙が祈りを終えると、霊夢はそう云った。まるでそのまま眠ってしまった如く、耳を澄ませば静かな寝息が聞こえて来そうなほど、安らかな表情をしている。魔理沙は遂に涙を堪え切れずに泣き崩れ、霖之助は霊夢の額に手を当てて「お休み」と云った。
――やがて、霊夢に寄り添って泣く魔理沙を置いて、霖之助は一人神社の境内に降り立った。夜空には月と星とが輝いている。霖之助はふと昔の出来事を思い出した。霊夢と二人、茶を飲んで過ごした夜、彼は何とも無しに「星は泣いているんじゃないか」と云った事がある。自らの失態に気付いたのは、霊夢が「珍しく詩人じゃない」と云って彼をからかうように笑った後であったが、霖之助は改めて思った。星は泣いているのだ。
星には形がない。無数の点が、ただ黒い夜空に鏤められて、無機質な黒地の布に宝石を飾る如く、夜空を煌びやかにさせるのである。形なき星に唯一出来るのはそれぐらいのもので、明確なる形を有する月や太陽とは、そもそも比較する意味さえない。そんな星が、自らの存在を誇示するのは、流星や星座くらいのものである。星座で曖昧に己を表現しては、時折一際目立つ一筋の尾を引かせながら己を流す。もしかしたら、星は故意に自らを隠しているのかもしれない。が、自らをすっかり隠してしまうのが恐ろしく思われるから、敢えて曖昧に己を表現するのかも知れない。星座はきっと星の表情で、時折見られる流れ星は、星が流した涙に違いないのだ。霖之助はそんな事を考えて、ふと「星は泣いているんじゃないか」と漏らしたのである。
「まるで、僕みたようじゃないか」
答える者はいない。霖之助は自分が詩人なのかどうか判らなかった。
その時、遥か彼方の空に、流れ星が一条の光を残して消え去った。
――了
貴方の緻密な表現で描き出される幻想郷が大好きです。
最期までこの三人らしく在ったんだなぁ、と感じられました。
詩のような、問いかけのような話でした。素敵。
故に、貴方の作品が読めることが、今生の幸せであるかのように感じてしまうのです。
そして、貴方は私の憧れです。
序盤でほのぼのかと思いきや、やっぱりそんなことはなかった
本当に、今際の際でもいつも通りでしたね…
どうにも形容しがたいものが込み上げてきます。
ありがとう。素晴らしかったです。
霊夢には魔理沙と霖之助が祈りを捧げる。では二人には誰が?
星明りの下で、いつも通りの最期の時間。素晴らしいお話でした。
霊夢か魔理沙か霖之助か、あるいはその全員が死んでいるかそれに近い状態
というのは丸判りで、結末もその想定の範囲内であり、読んでて衝撃も何も
無く、端的に言えばつまらなかった。
あと80過ぎでこの口調なのはこの3人、幼すぎると思うのだが、その辺り
どうだろう。
まあ童心に返ったと好意的に見ても良いんだけど。
もう二度と三人で笑いあうことはないのは、実に寂しい。
静かで淡々としている三人称でありながら、彼の心を著した作者の力量は素晴らしい。
また、彼、彼女達の意識に様々な想像の余地を残すところが巧い。
貴方の作品の読後感はいつも素晴らしいと思います。
相変わらず綺麗な作品ですっきりと読む事が出来ました。
氏に心からの敬意と感謝を表して、100点万点を入れさせて頂きます。
すごい読後感だなあ……