Coolier - 新生・東方創想話

美桜月夜-Spiritual Cherry Blossem Dancing-(後編)

2005/02/13 11:43:11
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 樹海、と初めに評したのは誰だったのか。
 月の光を受け、夜景をその身に映す無数の竹林は、
 まさしく大海原の水面さながらだ。
 天衝く柱のように伸びた竹の一枝。
 その、些か人離れした自然の座敷で、月見を楽しむ者たちがいた。

「いい月夜だな、妹紅」
「そうだね、まんまるきらきらお月様。
 千の夜を越えても、頭の上は変わらなくて毒気を抜かれる」

 深呼吸をしながら月光を身に浴びる慧音に、
 妹紅も親しみを込めて笑いかける。

「……そうか、毒が抜けるか」
「これであいつを思い出さなきゃ、本当に最高なんだけどな」

 妹紅が漏らした言葉、そこに潜んだ僅かな刺を、慧音は聞き逃さなかった。
 妹紅と月には、縁――否、因縁とでも呼ぶべき曰くの糸があるのだ。

「月の姫か。妹紅、許せなどとは言わない。
 でも、こんな夜くらいは忘れないか」
「忘れる? 冗談でしょ? 私をこんな身体にしただけじゃ飽き足らず、
 先日はお月様にまで粗相をした――蓬莱山輝夜を忘れる?」

 けらけらと笑いながら立ち上がる妹紅の顔に、狂気の相がある。
 竹の細枝で足元をふらつかせ、しかし地に吸われない妹紅。
 不可思議な浮遊の理由は、その背にあった。
 不死鳥の羽ばたきを描くように、蠢く赤色が妹紅を包む。
 燦然と輝く月さえ焼き焦がそうとする紅蓮の炎が、
 今や藤原妹紅という形を成していた。

「私はね、慧音。不死身の輝夜をなにかの間違いで殺せる時まで、
 きっとあいつを忘れることなんてできない」

 憎い輝夜を映しているのか、妹紅は敵意に満ちた眼差しで月を貫く。
 その姿に、慧音は悲しげに眉を伏せた。

「……そんな顔、しないでよ。慧音が苦しむことじゃないんだから」
「口惜しいよ。重ねた知識でも、私自身の手でも、妹紅の傷を癒してやれない」

 両手で空を掴んで、慧音は心底悔しげに唇を噛む。
 幻想郷のあらゆる知識を綴るワーハクタクでも、
 永遠の時間に囚われた妹紅を解き放つ術は持たない。
 苦しむ妹紅に、積み上げた知識がなにも役立ってくれない。
 白沢様などと呼ばれて、少しは人間を救った気になっていたけど。

「く――」

 自分は目の前の少女一人救えてはいないと、無力感に打ちのめされる。
 俯く慧音を見て、妹紅は震えるその肩をそっと叩いた。

「大丈夫だよ、慧音。誰も私を傷つけることなんてできないんだから」

 蓬莱の薬を服した妹紅は、事実上死を超越した存在である。
 とはいえそれは機構的な意味であって、
 感覚も感情もある藤原妹紅という人格に、死は今も変わらず苦痛を与える。

 生きて機能する精神に、
 生きた機能を破壊せしめる死の苦痛が許容できるはずはない。
 だから、一つきりの命が死に触れれば耐えられずに壊れる。

 けれど妹紅は死ねない。
 耐えているわけではない。壊れないわけではない。
 砕けても砕けても、呪いが歪に欠片を接ぐのだ。
 肉が千切れ、骨が微塵に砕けようとも、不死鳥の如くに妹紅は甦る。

 けれどそれは、傷ついていないといえるのだろうか?

「輝夜がどんな刺客を送ってきたって、暖簾に腕押し。
 最後は、死なない私が勝つんだから」

 空元気を声に篭めても、妹紅の唇が引き攣る。
 胸が苦しい。
 慧音の倦んだ横顔が夜の闇に溶けそうで、自分まで泣きたくなる。
 言葉が触れ合わない。心が噛み合わない。
 妹紅と慧音の間に、言いようのない澱んだ距離が生まれてしまっていた。

「それは、違――」

 不毛だと知りつつも、慧音が反論する。
 このままじゃ駄目だ、なんとかしなきゃ。
 互いにそう感じながら、見つからない光明に焦りだけが募る。
 こんなに息苦しい夜は初めてだ。
 なにか。
 なにか、たった一つの契機さえあれば――

「――誰だっ!?」

 不意に妹紅が甲高く吼え、竹林が震えた。
 正確な順としては、なにかが竹林を震わせたから妹紅が吼えたのだが。
 慧音もにわかに緊張を走らせ、竹の上から地上を見下ろす。
 月の光が差し込む暗がりから、犯人がぽりぽりと頭を掻いて現れた。

「これは失礼、先客か。お邪魔をするつもりはなかったのだが、申し訳ない」

 右手に徳利、左手に杯。
 一目で目的のわかる風体で現れた青年は、森近霖之助だった。

「……人間? 妖怪の跋扈する夜に、よくもここまで来たものだ」

 霖之助の姿に面食らって、慧音は竹の上から一息に地面へ飛び降りる。
 人間離れした跳躍を口を開けて眺め、霖之助ははっと我に返って言葉を継ぐ。

「妖怪の栄養になりたくはないが、今夜の月を屋根の下で見るのは惜しい。
 おっかなびっくり、ついついここまで来てしまった次第だ」
「呆れた男だね。肝が太いか、命知らずか。逢魔ヶ刻って知らない?」

 毒気を抜かれたのか、妹紅も纏った炎を失って地面に飛び降りる。
 実際、この竹林は夜になれば妖魅の類で溢れ返る。
 妹紅や慧音が平然としていられるのは、それらに抗する力を持てばこそだ。
 人の身で出歩くには、些か危険の過ぎる夜道だった。

「なに、今宵の月にはそれだけの魔力がある。
 それにしても、ここはお二方の贔屓の場所だったか。いや、面目ない」

 それだけ言って、霖之助は颯爽と森の奥へ向かって歩き出す。
 慧音がぎょっとして手を伸ばしたのも、無理のない唐突さだった。

「待て、どこへ行く気だ? 
 運良くここまでは妖怪の手にかからなかったようだが、
 この先もそうとは限らないぞ」
「さりとて、他人の月見を妨げる無粋はしたくない」

 けろりと言ってのける霖之助。
 ここが妖妖跋扈の樹海ならぬ呪界であると、知ってか知らずか無知の蛮勇。
 怖いもの見たさか、怖いもの知らずか。
 徳利と杯を両手にとぼけた顔をしていると、
 まったくもってこの異界には場違いに浮く。

「別に私達の森ではないし、ここも占有しているわけじゃない。
 それにしても無謀をしたものだな」
「ここまで五体満足で来れたのが、奇跡みたいなもんだよ。運がいいね」

 深々と溜息をついて、
 慧音は相変わらずお月見気分の霖之助をしげしげと見る。
 妹紅もまた、稀な強運を持った来訪者に興味津々の様子だ。

「しかし、ここまでだ。
 みすみす妖怪に食われる人間を見過ごすわけには行かない」
「その言いよう。もしや、あなたは麓の村々を守る白沢様か?」

 お互いの言葉に呼応する形で、今度は慧音がぴくりと緊張する。

「む――そう呼ばれることもある。名は、上白沢慧音だ」
「ついでに名乗っておくけど、藤原妹紅だ」

 妹紅も珍しく名乗って、霖之助は見目麗しい二人の少女を交互に眺める。
 視線は自分の持った杯へと移って、なにやら思いついたように唇が緩む。

「これは、満月に良い縁を結んでもらった。
 願わくば、月見を御一緒させてほしいが」
「……妹紅」

 慧音にしてみれば、気まずいものを祓うにはもってこいの提案だ。
 同意を求めるように、妹紅をじっと見つめる。

「ん? いいんじゃない? 輝夜の刺客に食わせるのも癪だし。
 一度きりの命、つまらない死に方しっこなし」

 契機を求めて、言葉が見つからなかったのはお互い様だ。
 妹紅もなるたけ自然に、心は飛びつくつもりで頷いた。

「そうか。では、こっちへ――あ、っ」

 霖之助を招こうと伸ばした慧音の手が、はっと強張って頭を覆う。
 今夜は満月、濃密な月の魔力の下、慧音はその真の姿を浮かび上がらせる。
 突き出した二つの角は、ともすれば人を脅かす化け物を思わせる。
 逃げるように身を退く慧音に、しかし霖之助は静かに語りかけた。

「ああいや、隠されるな。
 その角も含めて、あなたは皆が敬する白沢様なのだからね」
「え……?」

 戸惑う慧音に頷いて、霖之助は穏やかな笑みとともに続ける。

「角はしばしば恐怖の象徴として語られるが、人が恐れるのはやはり
 “化け物”なんだ。角はわかりやすい印に過ぎない」
「……私は、人間に余計な恐れを抱かせたくはない。
 その恐れに、妖怪が付け入るから」
「それこそ杞憂だ。恐ろしい化け物の角だから、人は恐れる。
 人を守り続けた白沢様の角が、頼もしくこそあれ、
 恐ろしいはずなどあるものか」

 霖之助の言葉は、鼓舞の言霊だ。
 人の守り神である慧音を知って、
 その目に見えない慈しみを受けた者だけが紡げる、真摯な感謝の歌だ。
 お世辞にも饒舌ではないこの店主が吶々と言葉を刻むのも、
 不思議な夜の魔力だろうか。
 霖之助は眼鏡越しの瞳を細めて、
 慧音の角の片方に結ばれたリボンを見つめる。

「その飾り、誰かの贈り物と見るが。送り主も、きっとそう言うだろうね」

 言葉が動かした心は、一つばかりではなかった。
 慧音と同じく、妹紅も張り詰めていた顔に笑みを取り戻す。

「うん、私もそう思うな、慧音」

 自分の紡いだ言葉、そこへ乗せた感情に、妹紅は満足した。
 今のは、ちゃんと友達への声だった。
 さっきみたいのは駄目だ。
 慧音とは、いつだってこんな声で語らいたい。語るんだ。
 そうすれば、きっと――

「……ありがとう、妹紅」

 ほら、こんな風に笑ってくれるんだ。
 慧音はいつも自分を守ってくれる。
 だから、私も守るんだ。慧音が笑顔でいられるように。

 ――それが、友達ってものだから。

「おっと、もう一人お礼を言う相手がいた。
 そういえば、名を聞いていないな」
「ああ失礼、申し遅れたか。この近くで古道具屋を営む、
 森近霖之助といいます。店の名を取って、香霖堂と呼ぶ者もあるが」

 霖之助は杯を回しながら、
 まるで今気づいたとでもいうようにのんびり名乗る。
 思いがけず張り詰めた時を過ごした後だからか、
 その暢気さは慧音の緊張を和らげた。

「では、香霖堂殿。お心遣い、感謝する」
「なんの。では一献、お近づきの印に」

 竹林にどっかと腰を下ろして、霖之助は二人に杯を勧める。
 慧音と妹紅もどちらともなく頷き、倣って腰を下ろした。

「いただこう」
「乾杯ーっ」

 一歩踏み込めば、百の鬼が行く月夜の竹林。
 その真ん中で、妙に気楽に傾く三つの杯。

「くぁーっ、染みるねえっ」

 真っ先に幸せな溜息をついたのは妹紅だった。
 胡坐をかいて杯を呷る姿に、慧音は自分の杯もそこそこに冷や汗を垂らす。

「……妹紅、久しぶりの酒が旨いのはわかるが、もっとこう……」
「あー? 慎ましくって? 気にしない気にしない。
 こんな夜に縮こまってたら、お月さんが笑うよ、慧音」

 ほれほれ、と頭上の月を示す妹紅。
 霖之助も杯片手に、降り注ぐ月光を目を閉じて存分に浴びる。
 その閉じた視界の闇で、ふと思い浮かんだ顔がある。

「同感だ。それに、僕の友人にはもっと豪快なやつがいる」
「へえ、なんか友達になれそうだね」
「よければ、いつでも紹介しよう。店に来てくれるのも大歓迎だ」

 あいつなら、彼女らとも色々な意味で釣り合いが取れるだろう。
 実際、いい友達になるかもしれない。
 しかし霊夢も加えて、ますます店が慌しくなるな――。
 苦笑交じりに、霖之助は僅か物思いに耽る。

「いずれ折を見て、伺わせていただこう。いいね、妹紅?」
「んー、そうだね。でもなんだか、私より慧音のほうが嬉しそうだな」

 実は妹紅も結構にやけているのだが、
 言葉の通り慧音は傍目にも浮かれて見えた。
 酒の入った頬は薄紅に染まり、
 ほころんだ唇は無垢な少女のように可愛らしい。
 そんな顔で、自分でも気づかず、にこにこ笑っているのだ。

「そ、そうか?」
「そうだよ。口元なんかにやけちゃって、だらしないぞ?」
「なななっ……み、見苦しいところをっ」

 思いきりどもって慌てる慧音を、既に酔っ払った妹紅がからかい囃し立てる。
 困りながらも、慧音の口の端から笑みが絶えることはない。

 笑顔の理由。それは、友と同じ。
 今夜、新しい出会いが妹紅の孤独を僅かでも癒したなら。
 これからも誰かが、あの傷ついた心にそっと触れてくれるのなら。
 慧音は、どんなときでも笑っていられる。

 朗らかな微笑みは、妹紅や霖之助の胸にも柔らかい風を吹かせる。
 喜びで奮う五臓に酒を染み入らせながら、霖之助はまた天を見る。
 ほろ酔いにまどろんだ瞳が、そこで丸く見開かれた。

「……おや? 見てごらん、二人とも。春の雪だ」
「春の――」
「雪?」

 霖之助の漏らした声に、慧音と妹紅は同時に夜空を見上げる。
 快い風の音が響く。ここにも、遅ればせながらあの風が来たのだ。

「わあ……桜だよ、慧音」
「ああ、美しいな」

 寄り添って見上げる夜空に、紅色の旋風が舞う。
 紋様のように連なり、気侭に踊る桜吹雪は、それぞれが生きた幽霊だ。
 あるいは酒の香に惹かれて、あるいは二人の美女に誘われて、
 道草を食う風もあろう。
 今夜の風は騒がしく、特別移り気だ。

「月に桜、酒に加えて二人の美人。
 今夜は神社に賽銭でも投げてこないといかんかな」

 上機嫌で杯を呷り、霖之助も柄にもなく色気じみたことを口にする。
 だがそこは付け焼刃、優雅に杯を空ける慧音が余裕を持って受けた。

「世辞が巧いな、香霖堂殿」
「そう受け取られてしまうとは、僕もまだまだ修行が足りない。
 慣れないことはするものじゃないな」

 大げさに肩を竦める霖之助。こんな仕草も、香霖堂の日常では見られない。
 慧音も妹紅も、いつもとは少し違った顔を覗かせている。
 夜は別の顔、なんて言うけれども。
 こういう不思議な夜には、
 誰もが普段は隠れた顔を、ひょっこり見せるのかもしれない。

「月見酒? 花見酒? ……まあ、どっちでもいいか。
 ごちゃごちゃするのは、杯を空けてからにしよう」
「妹紅に同感だな。それでは白沢様に、もう一献だ」

 呵呵大笑して、霖之助は慧音になみなみと酒を奉ずる。

「おっとっと。では、御返盃しよう。
 ……今夜は、なんだか楽しく酔えそうだよ」
「あ、慧音っ、私にもー!」

 二つの杯を満たす酒を見て、妹紅が慌てて自分のものを突き出す。
 慧音は笑って、妹紅にも溢れんばかりに酒を注いでやる。

「よーし、それじゃ改めまして……」
「うむ、この満天の月、麗しい桜――」
「今夜の出会いに、乾杯だ」

 乾いた音を立てて、三つの杯がぶつかる。
 思い思いに、満月を映した雫を飲み干す。
 幸せな夜会。それを見届けたら、桜幽霊たちの道草も終わりだ。
 爽やかな風音とともに、また月へ跳ぶ。


 2/

 さて、元気すぎて風より早く飛び去った少女がいた。
 かけっこ上手な彼女にも、そろそろ風が追いつく頃だ。

 幻想の境目、人気も幽かな博麗神社へ、霧雨魔理沙がやってきた。
 熱いお茶を啜りながら、たいして嬉しくもなさそうに霊夢が迎える。

「あら、魔理沙じゃない」
「香霖に飯でもたかろうかと思ったら、留守だったぜ。
 月に惹かれて、散歩にでも出たかな」

 魔理沙も、あまり残念でもなさそうに答える。
 その背中から、ひょっこりと金髪の少女が顔を出した。

「仕方ないから、アリスを連れてきたぜ」
「仕方ないは余計よ」

 分厚い古びた魔道書を大事そうに抱えて、
 アリス・マーガトロイドは眉をひそめる。
 その肩口で、上海人形がぷんぷんと肩を怒らせている。

「残念だったわね。振られちゃったんだ?」

 からかう霊夢に、魔理沙は“は”と大袈裟に肩を竦めてみせる。

「馴染みすぎの腐れた縁だ、そう色っぽくはならないぜ。
 そもそも、霊夢は自分の心配をしなきゃだろ?」
「言ってくれるじゃない」
「真実だぜ。まあ、それはさておき、こんなものが有るんだけどな」

 魔理沙がどこからともなく取り出したのは一升瓶。
 中は透き通った液体にたっぷり満たされている。

「……お酒? 空きっ腹に流し込むネタとしては、どうなのかしら」
「こんなにいい月だ、粗茶をお供に眺める手はないぜ」
「私はお茶も好きだけどね」

 上海人形の毛並みを整えながら、アリスはのんびりと呟く。
 魔理沙はそんなアリスと頭上の月を交互に見て、溜息をつく。

「身体が浮いちまいそうな、いい月夜だ。孤独な老人みたいなこと言うなって」
「孤独って言うなー! いいわよわかったわよ、
 お酒に付き合えばいいんでしょ?」
「寂しく一人酒したいなら、別だけどな」

 孤独、という単語に過剰反応して、アリスがぶんぶん両手を振り回す。
 掴まれたままの人形はいい迷惑で、盛大に目を回している。
 一応同じ魔法使いなのに、まるで噛み合わない二人。
 それでもこうして見ていると、
 意外に仲が良いのかも――などと思いながら、
 霊夢は空になった湯飲みを傍らに置いた。

「ま、いいわ。付き合ってあげるわよ、月見酒」

 ここは結界の内側、幻想郷の内側。
 見上げる月も、幻想郷のものだ。
 確かに今夜は一際月が美しい。あれを肴に杯を傾けるのも悪くないか。
 霊夢がそう思いかけた時――
 唐突に、音もなく空が割れた。

「なっ!」

 引き攣る霊夢の前で、空がぱっくりと口を開けている。
 鋏で切れ目を入れたように、馬鹿馬鹿しいほど綺麗にそこだけ開いている。
 その空の口から、ぺろりと舌が――いや、扇が現れる。
 蝶が舞うように扇が踊り、それを追って空の隙間から八雲紫が出現した。

「ええ、付き合ってあげるわ」
「紫には頼んでないわよ」

 霊夢はそっけなく返し、突然の乱入者を歓迎しようとしない。
 だが、今夜の飛び入りは極めて不遜であった。

「霊夢には頼まれてないわね。
 でも、寂しいお腹を焦がすだけでは折角のお酒が泣くわ。
 ねえ、藍、橙?」

 紫が妖しく扇をくゆらせると、
 その背から二匹の式がくるりと回って飛び出す。
 狐の式、八雲藍がふかふかの尻尾を踊らせつつ一歩進み出て、

「仰る通り。酒に映して月を呑み、ほろ酔い加減になりましたれば――」
「お次は八雲印の満月団子、月に見立ててたんと召しませっ!」

 藍の脇から猫の式――橙が耳を揺らしながら元気に飛び出し、
 山盛りの月見団子を載せた皿を掲げる。

「お、月見の席に団子とは憎い演出だぜ」
「あっさり釣られてんじゃないわよ、魔理沙」

 紫の厄介さをよく知っている霊夢は、あくまで警戒を緩めない。
 半目で紫を睨みながら、心胆を探る。

「あなたが意固地なのよ。
 瑣末事に捕らわれないで、先ずは頭の上を御覧なさい」
「頭の上ぇ?」

 また得意のペテンか、と思いつつ、素直に上を見る霊夢。
 すべては紫の手の上。
 待ちかねたように、あの桜が博麗神社へ舞い降りた。

 夜の黒闇が、にわかに眩しく冴える。
 博麗神社の空へと現れた妖怪桜は、
 幻想郷の境に吹く風に乗って踊るように渦を描く。

「ここが風の折り返す場所。幻想郷の風は、幻想の方向にしか吹かない。
 だから、この桜の逆舞も、境界であるここでしか見られない絶景」

 うねりに乗った桜は、螺旋を描いて舞いながらまた幻想郷へ引き返していく。
 紫は楽しげに、花弁の織り成す風雅な紋様を扇の先で指し示す。

「うわあ……」
「桜色の風を纏った、完全なる月。
 些細な諍いで見過ごすには、惜しい風情と思うけど?」

 ぽかんと口を開けて薄紅色の空を見る霊夢と、
 くすくすと朗らかな笑みを零す紫。
 既に勝敗は決して見えるが、そこへ魔理沙が追撃をかけた。

「おまえの負けだぜ、霊夢。良い夜、良い月、良い桜。
 これだけ揃ったら、私なら無条件バンザイだ」
「そうそう。素直に挙手の良い子には、空飛ぶ大吟醸でもあげようかしら」
「わーい、じゃ私も~!」

 無邪気に万歳をする橙を、藍が尻尾で包んでたしなめる。

「橙は駄目。お酌に徹しなさい」
「ぶー。藍さまのけちー!」

 尻尾の中でばたばたと暴れて、橙が必死の抵抗を試みる。
 藍は皿が落ちないように支えながら、諭すように続ける。

「私も付き合って飲まないから、いい子で我慢しなさい。
 今夜は、私たちで皆を楽しませてあげるんだ」
「はぁーい」

 主の声に、聞き分けよく頷く橙。
 見上げるつぶらな瞳に藍も優しい視線を合わせ、尻尾を開放する。

「橙も藍も、殊勝ね。で、あなたは頑固役?」

 笑みを浮かべる唇を扇で隠して、紫は霊夢の反応を楽しむ。
 霊夢は、余裕たっぷりの紫からもう一度空へと視線を向け――
 唸って、月を見て、もういっぺん唸った額に桜が落ちて、ついに脱力した。

「……もう、仕様がないわね。
 頷く手間が惜しいくらいに、いい夜空だもの。降参だわ」
「初めから素直になればいいのよ。さあ、宴にしましょう。
 藍、橙、始めるわよ」

 誰より早く腰を落ち着けて、紫は意気揚々と酒盛りを仕切りだす。

「畏まりました、紫様」
「うたげ、うたげ~」

 藍と橙が忙しく走り回り、上海人形までも飛び入りで支度を手伝う。
 閑寂が常の博麗神社は、春先にして早くも今年一番の賑わいを見せ始めた。

「ま、せっかくの酒盛りだし。私もいいお酒出してあげる。
 ほら、行きましょ魔理沙っ」
「おう、久しぶりに夜通し大騒ぎだぜ」

 アリスが照れがちに差し出した手を取って、
 魔理沙も賑わいの輪へ飛び込んでいく。
 湧き上がる笑い声、杯の鳴る音、興の歌。
 宴の空気は心を躍らせ、魂を舞い浮かせる。

 あの桜に憑いた、魂の群れも飛んでいく。
 高く、高く、突き抜けるように。
 ひょっとしたら、あの月に届いてしまうまで――。


 3/

 昔々、なんとかという男が空を目指して飛んだら、
 蝋の羽根を太陽に焼かれて墜落死したそうな。
 それじゃあ、月の出ている夜なら大丈夫だったのか。彼は月まで飛べたのか。
 それはまあ、彼にしかわからないのだが。
 今日の月は狂おしく、翼ある者たちは不思議といつもより高く夜空を飛んだ。
 今夜は月が近い。あそこまで行けるかもしれない。
 そんな、彼みたいな望みを胸に。
 
 月を間近に臨む雲の上に、幾つかの人ならざる影が風を受けていた。

「いい月が出たねー」
「今夜は特に綺麗でわくわくするわ。なんていうか、妖怪日和ね」

 聖者よろしく天空に両手を広げたルーミアの首にしがみついて、
 ミスティア・ローレライは陽気に羽根を揺らす。
 二人とも頬が高潮して、全身がそわそわと浮ついている。
 妖怪も、素敵な月夜には痺れてしまうものだ。

「ああもう、じっとしてられないっ。人間を脅かしに行こうかしら」
「でも、もうちょっと見ていたい気もする」

 呑み込まれそうに大きな黄金の月を見上げて、
 ルーミアはうっとりと溜息をつく。
 今にも大空へ飛び出していきそうだったミスティアも、
 羽ばたきを落ちつけてまたルーミアの背に降りる。

「……それもそっか。ま、今夜は見逃してあげましょ」
「ミスティア、いい妖怪だね」
「良いも悪いもごきげん次第ー♪ みすちーみすちーどこへ行くー♪」

 ビューっと飛んで行きそうな歌を口ずさみ、ミスティアは夜空を舞い踊る。
 身軽な夜雀を追って、ルーミアも雲を突き抜けて下界へ降りていく。
 その途中で、ルーミアの大きな瞳がなにかを捉えた。

「ミスティア、あそこ、光ってる」

 深い闇の一点を指差すルーミアに、ミスティアも急ブレーキで飛び止まる。
 目を凝らすと、確かに一面の闇の中、木々の間から淡い光が漏れている。

「うん? あー、蛍でもいるのね。
 太陽はごめんだけど、蛍の光なら夜にお似合いだわ」
「いいこと言うわっ!」
「え、誰?」

 ルーミアが大きな口を開けて見上げると、
 得意げに腕組みをした影が月明かりに照らし出される。

「うわぁ、でっかいゴキブリ!」
「蛍っ! どいつもこいつも、私をなんだと……」

 現れたのは、蛍の怪リグル・ナイトバグ。
 翅をはためかせ、少年のように幼い顔を怒りに紅く染めている。
 激情を受けたようにぴくぴくと揺れる触角が、なんとも可愛らしい。
 いかにも月下の幻想からの住人というリグルを見つけて、
 ミスティアは嬉しそうに頬を緩ませた。
 
「あら、あんたも妖怪ね。月見? それとも人間いじめ?」
「あんたと同じよ、夜雀さん。今夜は月に免じて、ってやつ」
「なんだ、聞いてたの」
 
 悪戯を見つかったように困り顔で照れて、ミスティアが羽根を丸める。
 リグルもくすくす笑いながら、丸い月の下で空中遊泳を披露する。

「夜の散歩を楽しんでたら、楽しそうな声がしたからね。
 盗み聞きもなんだし、お褒めに預かった蛍の光でもお見せしようかしら」

 黒の舞台で軽やかなステップを踏んで、蛍の怪が踊りだす。
 静かな夜を揺らす鈴のような羽音。
 緩やかなリグルの動きを追って、
 少し遅れたように少女の放つ光が同じダンスを踊る。
 月の冷たい明るみの下で、光の舞踏と少女の舞踏が交わる。
 蛍の怪であるリグルにしか魅せられない、幻想の夜曲だ。

「すごいね……蛍さん、きれい」
「うん。いい子が迷い込んできてくれ――って、危ない蛍!」
「へっ?」

 ミスティアが鋭く叫んで、舞い踊るリグルの後方を指差す。
 誘われて振り向いたリグルの顔を目掛けて――

「――ぎゃああああああああっ!?」

 刃のように尖った極太の氷柱が突進してきた。
 上体を思いっきり後ろに曲げて、リグルは咄嗟に死の槍を遣り過ごす。
 華麗なダンスから一転、全身から必死さの滲み出るブリッジ状態だ。
 奇抜な姿勢のまま、リグルは遥か頭上に悔しげな声を聞いた。

「ちっ、外したっ」
「当たったら昆虫採集じゃなくて標本になっちゃうわよ~」
「あ、あの……二人とも、危ないから……」

 抑揚も様々の声が三種。どれもどうやら少女のものらしい。

「ふんっ!」

 勢いよく腹筋をフル活用して起き上がると、
 リグルは声の主たちへ怒声を放り投げる。

「何さらすのよっ!」
「ごめんなさいねぇ。綺麗な光が見えたから追いかけてきたんだけど、
 蛍とわかったらチルノがいきなり捕まえるって言い出してねぇ」

 おっとりした雰囲気でいきなりリグルに握手を求めたのは、
 冬の忘れ物レティ・ホワイトロック。
 その背後から、氷精チルノと妖精の少女が遅れて降りてくる。

「だ、大丈夫でしたか?」
「あー、なんとかね。でもあんなん直撃したら、捕まる前に死ぬわよ」
「カエル凍らせる時は、いつもきれいに一発だけど?」
「あのねチルノちゃん、蛙さんも蛍さんもちゃんと生きてるんだから、
 むやみに凍らせちゃダメなのよ?」

 悪びれた様子もなく言ってのけるチルノを、妖精の少女が慌てて窘める。
 姉妹のように寄り添って、厳しさを帯びた目で見据えながら。
 妹のほうには問題が多そうだが、この姉は認めてもいいかな――?
 リグルは発火しそうな腹の虫を収めつつ、代わりに右手を伸ばす。 

「こんばんは。今夜、やっと常識人に会った気がするわ」
「あはは……妖精ですけど。どうも、こんばんは」

 差し出された手を握って、妖精の少女も朗らかに笑う。
 レティは元からにこにこ顔で、チルノだけが面白くなさそうに鼻を鳴らす。
 慌しく現れる夜遊び者たちで、今夜は空の上も騒がしい。

「ちょっとちょっと、こっちにも二人いるわよ? 外野にして話進めないで」

 またルーミアの首にぶら下がって、ミスティアが賑わいの輪に加わる。
 集いも集いし都合六名、どこぞの神社にも負けない騒がしさだ。
 一時の険悪さもどこかへ消えてしまった。
 昨日はどこの誰を驚かしただの、あそこの神社のお供えが美味しいだの、
 巫女魔女メイド許さんだのと思い思いに楽しく語らう。
 そんな中、思い出したようにルーミアがリグルの袖を引いた。

「ギャラリーもたくさん増えたし、蛍さん。
 そろそろ綺麗なところ、見せてほしいな」
「はいはい、了解よ。それでは皆様、幻想的な蛍の舞を――んっ?」

 盛大な拍手に背を押されて、気分良く大空へ舞おうとしたリグル。
 その形の良い鼻先へ、芳しい紅色がひらりと降り注いだ。

「あ――」

 妖怪たちの瞳が、一斉に天を見上げる。
 夜と月が、紅く染められた――俄かにそう錯覚してしまうほど、
 舞い上がった無数の桜吹雪が空を埋め尽くしていた。
 月に惹かれて舞い上がった妖怪たちと同じく、
 今夜の桜はいつもより高くまで風に乗ってきた。
 ひょっとしたらの話だが。
 今夜、白玉楼を飛び立った魂の中に彼が混じっていたのかもしれない。
 成し遂げられなかった空への旅を、今夜果たしたのかもしれない。
 ……ひょっとしたらの、話だが。

「あ……桜ですね。幻想郷も、すっかり春なんだ」
「そろそろ私の役目も終わりね。次の冬まで、お休みしようかな」

 妖精の少女と並んで、レティは少し寂しげに笑う。
 その表情を察して、チルノは飛びつくようにレティを抱きしめる。

「レティ、……行っちゃうの? 寂しいよ」
「また冬が来たら、会えるわよ。
 そのときまで私を忘れずにいてくれれば、きっとね」

 泣き出しそうになる顔を自分の胸に埋めて、
 レティは優しく何度もチルノの頭を撫でてやる。
 妖精の少女が姉なら、レティはチルノの母親代わりみたいなものか。
 一人で生まれて一人で消え、気侭にやる者の多い妖怪たち。
 リグルやミスティア、ルーミアも例外ではない。
 それだけに冬の妖怪たちが見せる家族のような絆が、
 胸に不思議な熱を覚えさせた。
 
「絶対に忘れたりしませんよ。ね、チルノちゃん?」
「――ん」

 目の端に涙の粒を残したまま、顔を上げてはっきりチルノが頷く。
 その姿に、リグルの鼻先にもひりひりしたものがこみあげる。
 でも、しんみりしちゃダメだ。やりたいことが出来たから。
 
「そうか、レティ――あなたは冬の妖怪さんなのね。
 私は蛍だから寒いのは苦手だけど、雪景色は好きよ。
 楽しい冬をありがとう。旅立つ前に、私のダンスを見ていってね」
「じゃあ、私は桜のコーラスを。ルーミア、一緒にするよね?」
「うんっ。今年の冬も雪弾幕でいっぱい遊んで楽しかったよ。
 私もちゃんと、レティさんにありがとうするのだー!」
 
 リグルが丁寧な会釈をして翼を開くと、
 示し合わせたようにミスティアも飛び上がって横に並ぶ。
 踊り手のリグルを挟む形で、ルーミアも喜び勇んで舞台に加わる。
 奇しくも月と桜が結んだ縁、このまま静かに消えさせたりはしない。
 そんな気持ちが、妖怪たちの心を繋げていた。

「あらあら……みんな、ありがとうね。
 来年も楽しい冬を運んでくるから、いい子で待っていて」

 レティは笑おうとしたが、大粒の涙が押さえきれずに頬から零れる。
 それを浴びたチルノが、顔を上げて指先で雫を拭う。
 妖精の少女はなにも言わず、身体をいっぱいに押しつけてレティを抱いた。
 
「それじゃ、最高のステージにしましょう。
 歌姫さんたち、準備はOK?」
「いつでもいいわよ、踊り娘さん」
「はじめよう!」
 
 ルーミアの元気な声を合図に、妖怪たちのコンサートが始まる。
 ミスティアの喉が奏でる桜の歌は切なくも優しく、
 聴く者の耳に春風のように染みていく。
 美しい歌声にルーミアの無邪気な合唱が重なって、夜が明るく華やぐ。
 月光の映すステージで舞うのは、妖光を纏った舞姫リグル。
 煌びやかに、弾けすぎず幻想的に、汗を輝かせながら夜空を躍る。
 レティも、チルノも、妖精の少女も、魂を抜かれたように舞台に見入る。

 幻想歌劇を見守る桜たちも、ひとつひとつが楽しそうに風に舞う。
 花の香りで歌姫たちを励まし、リグルの服に縋りついて姿を彩る。
 月と桜、季節外れの冬景色、明るく気のいい妖怪たち。
 すべてが交わって、月下の妖怪楽団が生まれる。

 それでもやっぱり、歌は刹那の言霊。
 終わらない歌はない。夜だって、永遠には続かない。
 妖怪桜も、随分長く幻想郷を飛び続けた。
 そろそろ東の空が白んできたから、この旅も終わりだ。
 最後の最後で思いがけない大はしゃぎが出来た。
 桜たちはとても嬉しくて、身体を紅く紅く染めている。
 興奮気味のまま、声なき声でなにかを呟いて、急ぎ足の風に乗り込む。
 見下ろすのは、歌い続ける妖怪たち。
 ああ、きっと彼女たちに、“ありがとう”を言ったんだ。
 桜が、名残惜しげに飛んでいく。
 続いていく歌を邪魔しないように、静かな風に乗って。
 

 4/

 夜明け前の空が白むのは、月が眠くてうとうとしているからか。
 今夜は特に頑張って輝いたから、疲れてしまったのだろう。
 そろそろ、太陽が一日の境界を引き直しに起きてくる。
 幻想郷のちょっと変わった夜も、いよいよ幕引きだ。

 あの世にも一日があるから、太陽も昇るし月も昇る。
 白玉楼の空も暁に包まれ、新しい朝を迎えようとしている。
 朝日を浴びたら消えてしまうわけではないが、
 朝は寝床で鼾をかくのが幽霊のたしなみ。
 なにしろ、夜にはまた花見をするのだから。
 緩やかに音を失っていく白玉楼で、
 妖夢と幽々子はあの幽霊桜の帰りを待っていた。

「そろそろみんなが戻る頃ね。楽しくやれたかしら」
「きっと大丈夫ですよ。あんなに元気に飛び出していったんですから」

 幽々子の湯飲みに新しいお茶を注ぎながら、妖夢は胸を張って答える。
 大丈夫。幽々子様があんなに真剣に編んだ術だ、間違いなんてない。

「だといいけどね。あれだけ大掛かりに呪を起こして空回りじゃあ、
 減ったお腹が浮かばれないわ」
「そこは、集めた魂たちに詫びるところだと思いますけど……」

 ああ、ひょっとしたらあるかもなあ――間違い。
 妖夢の心配をよそに、のんびりと茶を啜った幽々子は深い息をつく。

「あら、みんなには飽く迄楽しんでもらおうとしたわよ。
 お詫びは、もうちょっと別口ね」
「は? あの霊箒は、本当に誰かへのお詫びだったんですか?」
「誰かといったら、誰でもかしら。相手は、この幻想郷よ」

 闇が消えつつある空を見上げて、幽々子は大きく両手で世界を抱く。
 ――幻想郷だって?
 いくら幽々子様でも、そんな大きな相手に借りを作れるものなのか。

「幻想郷に、なにか引け目でもおありですか?」
「まあ、ちょっとした罪滅ぼしね。
 先だって、西行妖のために春を拝借したでしょう?」
「ああ……」

 借りたというか、有り体に言えば盗んだのだ。
 少し前の春先に、不咲(さかず)の桜を今度こそ咲かせるために。
 春なのに他所から春を集めたのは、並の春では西行妖が咲ききらないからだ。
 けれど、やはり盗みは良くない。誰かの物を盗めば恨みを買う。
 案の定、妖夢も幻想郷から追いかけてきた連中に、しこたま報復を受けた。
 ああ――アレは痛かった。思い出したらまたひりひりする。
 
「今夜はお酒をお召しですか? 
 幽々子様のお口から、まさか罪滅ぼしだなんて」
「さっきからお茶ばかり飲ませてるのは誰よ。
 ……本当に、今夜は妙に反抗的だこと」
「自立です。地に足をつけて立ったのです」
「浮かない幽霊なんて滑稽だわ。
 ああ、こうやって子は親から離れていくのね……」

 湯飲みを置いて妖しくしなだれ、よよよと泣き崩れる幽々子。
 あまりにわかりやすい嘘泣きに、妖夢は頭を抱える。

「誰が誰の親なんですか……」
「親は関係ないわよ、親は。大事なのは、お花見の心」
「その、心とは?」
「楽しくお花見してるみんなを見てると、私も楽しい。
 私が笑ってると、妖夢もなんだか楽しそう。
 花が風に乗って流れていくように、
 花見の笑顔もそうやって次第に流れて伸びていく。
 やっぱり、大勢でにぎやかに見るに越したことはないのよ。
 そう考えたら、独り占めは美味しくない桜見物でしょ?」
「なるほど。それで、罪滅ぼしですか」

 素直に、妖夢は主の粋に感じ入った。
 巫座戯たところも多く――いや、概ねそちらで出来た方ではあるのだが。
 なにも考えていないように見えて、意外なほど深くまでを見ている。

「春で損をさせたからには、春で報いるのが筋でしょう。
 その上、お花見に来た幽霊たちの残念無念も掃えるなら一石二鳥。
 ちょっと大掛かりな思いつきだったけど、どうしてもしてみたかったの」

 東の空の先を見つめる幽々子は、瞳になにを映すのだろう。
 時折、気がつけば酷く遠くに歩いていってしまう。
 僅かに寂しさを覚えながら、妖夢は主の瞳を追いかける。
 きっと、この人と同じ目線で物を見ることは誰にも出来ないけれど。

 もう幾許もないうちに桜が戻り、夜が明ける。
 何度も気紛れかと思わせたが、筋の通った罪滅ぼしが終わろうとしている。
 否、最後に通ったのではなく、最初から丁寧に通していたのだ。
 結局――先回りで心配して踊っていたのは自分だけか。

「妖夢が手伝ってくれたから、思ったよりずっと上手くやれた。
 半分でも成長はしているのね。今夜の太刀筋は、見事だったわ」

 花咲くように微笑んで、幽々子は寄り添った妖夢の頭を撫でる。
 ああ、西行妖を咲かせることは出来なかったけれど、
 この笑みを見ることが出来ただけでも剣を振った甲斐がある。

「ありがとうございます。私も、今夜のことは感心しました」
「あら、何を感心したの?」
「霊箒の罪滅ぼし、ですよ」

 実際は、感心どころじゃない。
 迷える魂を導き、空へと導いた姿には神々しささえ覚えた。
 ただ、今夜は仰るとおりに反抗的だったから、ばつが悪いんだ。
 でも――恥ずかしがってる場合じゃない。どうしても報いたい。
 主の心意気と、今も魂を奮わせるあの歌声に。

「でも、幽々子様。幽々子様は、罪なんて気になさらなくても良いんです」
「えっ?」

 引き締まった顔が、ぽかんと綻ぶ。
 そう、それでいい。貴女をそうして差し上げることが、私の務め。

「幽々子様は、いつもありのままであってください。
 そうして罪やら罰やらが付き纏うのなら、私がすべて斬ります」

 そのために剣がある。そのために剣を取る。
 主の進む道を拓き、塞がる者は斬り、追い来る者は退ける。それが、 

「それが魂魄の者の――いえ、一人の剣士としての、私の役目ですから」
「うん、そうしましょう。それを任せられるのは、妖夢だけだし。
 ――でもね、妖夢」
「なんですか?」

 妖夢が首を傾げると、開いた扇の向こうで幽々子の瞳が意地悪く緩んだ。

「一人の剣士って言うけど、あなた、半分だけじゃない」
「うっ……幽々子様も、一言多いです。素直に受け取ってくださいよ」
「さっきの意趣返しよ。自業自得」

 ぱたぱた扇をくゆらせて、幽々子は呵呵大笑する。
 してやられた。やっぱりこの人には敵わない――
 妖夢が浮かべた笑みに、苦いものはない。
 こういう部分につき合うのも従者の勤めだし、なにより悪い気はしない。
 これが、もう気が遠くなるほど繰り返してきた、幽々子様との日常だから。

「あーあ、なんだかお腹が空いてきたわ。妖夢、お餅が食べたい」
「……さっきは、いやいやって言ったのに」
「今は食べたいのよ。御雑煮、御汁粉、磯辺巻……なんでもいいから作って」
「はいはい。幻想郷一を作ってみせましょう」
「よろしくね。いい匂いがしてくるの、のんびり待っているから」

 腰を上げた妖夢の耳に、どこからか聞こえてくる音がある。
 いや、一つの音ではない。
 幾重にも重なり入り混じって、心にまで届く――これは、大勢が紡ぐ歌だ。
 そういえば、白玉楼にも言霊語りの名手たちが遊びに来ていた。

「楽師の皆さんね。染み入る音だわ」
「昨晩に来客がありまして。“ぼぉかる”が決まったので、
 春を知らせる歌を作る、と三人とも意気込んでいましたよ」
「まあ、楽しみね。でも、私の歌には敵わないわね」
「どうでしょう、あっちは本職ですから」
「よ~む~……」

 恨みがましい視線で、幽々子が妖夢の背中をちくちくと突く。
 ……おっといけない。また地が出てしまった。

「――でも、私は幽々子様の歌が好きですよ」

 振り返って、妖夢はにっこりと微笑んで答える。
 あの歌で、誰よりも早く気持ちが晴れた。
 誰でもない、自分だけのために紡いでくれた歌声で。
 だから、作ってみせる。
 幻想郷一の、ほっぺたが落ちてしまうような最高の朝ごはんを。

 まずは餅がなければ始まらない。
 そうだ、竹林の奥のあの館。あそこの兎なら、いい餅を突くだろう。
 なにしろ幻想郷一、生半のものは作れない。
 けれど、力みはない。こんなに肩が軽いのは――
 月より桜より早く、あの優しい歌声が憂いを払ってくれたから。

 ――ああ。やっぱり私は幽々子様の歌が一番いい。

「さて、と。忙しくなるな」

 夜通し飛び回ったくたくたの魂たちが、
 もうすぐ朝日と追いかけっこをしながら帰ってくるだろう。
 餅のお椀が一つじゃ足らない。お屋敷中からかき集めないと。
 お腹を空かせた魂がないように、誠心誠意の朝餉の用意。
 それが白玉楼の庭師の務め。
 そうして今夜も、みんなで楽しいお花見だ。
 今日の花見は、自分も積極的に楽しんでみよう。
 歌を歌って、お酒に酔って。
 幽々子様や、あの花幽霊たちと一緒に笑って。
 今夜はきっと、“美味しいお花見”をしてやるのだ――。
 

                          【了】
まあ、やっぱりゆゆ様と紫様には勝てんわなー。
大変長らくお付き合い頂きましたが、これにて幻想郷のお花見も終わりであります。
欲張りに(ほぼ)オールキャラで行ってみましたが、楽しいお話に出来たでしょうか?
幻想郷はほのぼののしっくり来る世界ですが、激しい一面も機会があれば書いてみたいところ。
さておき、尺の長い話に最後までお付き合い頂いた方々に、最高の感謝を。

追記:前編でご指摘のあった20字改行ですが、アレはちょっとした実験のようなもので。
ぱっと見で左右に目を動かさなくても見える幅というのは大体あんなものかな、
という感じで区切ってみたのです。
――が、いかんせんWeb媒体では空間が余りすぎるようで、逆に見辛くなって申し訳ありませんでした。
色々とレイアウトや文字数を模索してみたいと思います。
白主星
[email protected]
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コメント



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6.80てーる削除
一足先に心に春を頂きました。

月見に花見に夜酒・・・一部未成年なのd(ry

季節は巡ると言いますが、時に 冬が死に、春が生まれる と言う言葉が過ぎったりもします。 季節の移り変わりは繫がっているのか進んでいるのか・・

個人的に幽々子様は大好きなので良かったです。
24.90rock削除
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