Coolier - 新生・東方創想話

華蝶が桜の下で見る夢は

2010/04/18 21:40:50
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 月を食らうような深い夜。サラサラと、春の木々が鳴いていた。
 辺りには桜雲、見渡す限りの花々に蝶は集い舞い踊る。
 そんな中、一羽の蝶がヒラヒラと羽を羽ばたかせ、一本の木へと向かう。周りの蝶は、それを見送るかのようによりいっそう軽やかに舞った。
 されど、振り向く事もかなわない蝶は、それに気づかない。一羽の蝶は、待ちわびたとでも言うように、木へと羽を急がせる。ゆらゆらと風を揺らしながら、ついに蝶はその木にたどり着いた。 
 全ての桜が花を着飾る中、それだけは静かに佇んでいた。他の木にはあらざる静寂と、一回りも二回りも大きな体をもつ木は、その体と静寂に似合わぬからとでも言うように、花を咲かせてはいなかった。
 蝶はそんな木に寄り添うように羽を擦らす。鱗粉が星のように舞い散らばり、木に語りかける。木は何も語らない。死んでしまっているかのように、彼は地面に腰を下ろしたまま、気が遠くなるような年月を過ごしてきた。だから、いまさら何をしようとも彼は役目を受け入れない。ただあるだけが、彼をそこに佇ませる。
 されども、蝶は彼に語りかける。花を咲かさぬのかと、咲かせてはくれぬのかと。
木はやはり答えない。蝶は、静かに木から離れた。
蝶は考える、どうすれば彼が答えてくれるのかと。蝶は彼の周りを舞い続けた。幾年経っただろうか、次第に羽が軽くなり、蝶はゆっくりと体を地に預けた。
蝶は知っていた、自分はもう飛べぬのだと。蝶は知っていた、それが死であるのだと。
蝶は悲しんだ、されど涙を流す事も叶わない。蝶は蝶であったから、土に還るしか術が無かった。
 羽が枯れ始め、いよいよ死を迎える刹那、蝶は見た。美しく咲く、大樹の息吹を。
 光は花のように凛と咲き、泡沫の夢は夜を照らし永遠を紡いだ。
 蝶は気づいた。木は待っていたのだと。そして、自分もまだ終わりではないのだと。
 幾日が過ぎ、蝶は土に返った。されど、死体すら残らぬそこに、地に落ちた桜たちは確かに見た。桜の匂いに乗った噂を聞き、静かに死にゆく蝶達は舞いながら大樹の方を見る。


               ―――――そこで一羽の蝶々がヒラヒラと老木の前を飛んでいた―――――




 暗い暗い部屋の中、小さな押入れに一人。少女は蹲ったまま泣いていた。何が悲しいのかと問われれば、口に出して言う事はかなわない。けれども、少女にはそれが、とてもとても悲しい事なのだと分かっていた。押入れの中には少女以外、誰もいない。少女はずっとこのままでいたいと望んでいた。泣き続けていれば、いつかは自分が消えるのだろうと。そうすれば、何も残らない押入れの中で誰にも気がつかれないまま、それこそ自分自身にすら放っておかれて、悲しみも何もなくなるのだろう。
 けれども、そんな無垢な願いは叶うわけも無く、真っ暗闇の押入れに光が差し込んだ。少女はその光から逃げるように両手で顔を隠す。何も見たくなかった、何も聞きたくなかった、ただ悲しみから逃げたかった。そんな少女の心の声を聞いてしまったのか、押入れの扉を開けたその人は、困ったようにため息を吐いた。
 時間が流れた。刹那であったのか、はたまた悠久であったのか、それは誰にも分からない。唯一分かるのは、時間が流れたという事実だけ。少女もその人も動かない。だから本当は時間が流れたというのも嘘なのかもしれない。けれども、風の音だけは少女の耳に届いた。風音はここに、少女は静かにゆっくりと、されど風の音が鳴り止むよりも早く顔を上げた。少女は自分が居るこの場所に変化が訪れたのが不思議だったのか、もしかしたら無意識の内にその機会を待っていたのかもしれない。その人も少女を待っていたのだろう。少女が顔を上げたと同時に音も立てずに屈む。その人の影が自分へと近づいてくるのが分かると、少女は再び顔を隠した。しかし、その人はそんな少女の事などお構いなしに、少女に近づいていく。そして、ゆっくりと少女に手を伸ばし

『………ろ』

 一度だけ頭をなでた。クシャリと髪の毛が、その人の手によって揺れる。少女は顔を隠すのをやめ、顔を上げた。少女はポカンと口を開けながら、自分の頭をなでた人を見ようとする。けれども暗闇にいたせいか、光が眩し過ぎてその人のシルエットしか見えない。

『…ゆゆ…ろ』

 その人は、少女に手を差し伸べた。少女は困惑しながらも押入れから身を乗り出し、その手を

『こら! 佐藤幽々子! さっさと起きろ!!』

 ――――――そこで、夢は終わりを告げた。手を伸ばした人は一体誰だったのだろうか。私は起きればきっと忘れてしまうそれを知りたいと、切に願った。




 頭の上で、陽気な蛙でも跳ねているらしい。ポコポコと音を立てて中途半端に耳障りなそれは、私の素敵なリラックスタイムを奪おうとしている。まったくもって、無礼極まりない。

「こら! 佐藤幽々子! あなた今一瞬顔を上げたでしょう!? 起きているなら返事をしなさい!」

 最近の蛙は、返事を強要してくるようだ。図々しいなんて次元ではないでしょうに。やれやれと、小さくため息一つ吐く。私は観念して、重い頭を惰性でのっそりと持ち上げ、声の持ち主の方に顔を向けた。
 すると、目の前には蛙ではなく苦手な人物が仁王立ちしていた。いつも被っている帽子は無いけれども、間違いなくこの人は私の雇い主だろう。右手には、丸めた教科書。先ほどから頭の上で跳ねていた蛙の正体見たり、我が天敵であった。因みにその天敵の持ち主様は表情はしかめっ面で、お世辞にも機嫌がいいとは言えそうにもなかった。
周りからは、クスクスと嫌に上品な笑い声が聞こえてくる。どうやら、その声は私に向けられているようだ。

「ようやく顔を上げましたか、佐藤幽々子。いつも窓の外を見て呆けていますが、今日はそれ以上です! 私の授業で寝るなど言語道断! まったく、貴方はいつも……」

 クドクドといつものように趣味の説教をするお方を尻目に、私の意識は別の方を向いていた。何か、違和感がある。これはいつもの光景のはずなのに、どうしても落ち着かない。
 パズルの最後のピースがどうやってもはまらないような、気持ちの悪い感覚。きっと、断言してもいいのだろう。ここは、私の知っている場所ではないのだと。なら、ここはどこなのだろうか。ここは学校で、幻想郷では―――――

(幻想郷……?)

 ああ、そうか。私の居場所はそこだったはず。じゃあ、学校って何だろう?
 自分に問いかけ、答えはすぐに返ってきた。そこも私がいるはずの場所。いるはずの場所が、二つもある。その二つはバラバラで、本当は噛み合うはずの無いもの。当たり前だ、だってその二つは

(なん…だろう?)

「こら! 佐藤幽々子!!」
「え…あ、はい」

 当たり前のはずの、聞きなれない自分の名前を呼ばれ、戸惑いながらも返事をする。私の名前は西行寺幽々子。けれども、佐藤幽々子も私の名前。どちらも自分であるというのなら、それは重なり合うはずなのに、二つの名前は重なり合う事はないのだろう。
 ……だんだん考えるのが面倒くさくなってきた。どっちでもいいや、そんな事よりもさっさと寝てしまいたい。

「まだ寝ぼけているのですか? まったく世話の焼ける……。ほら、これは何本ですか?」

 ぐっと手を出し指を二本立て、ジャンケンのチョキを作る。ボーっとする頭でもそれぐらいの事は分かる。

「二本……」
「そうです、ではもう一つ質問をします。私は誰でしょう。答えなさい」

 誰って、そんなの決まってる。

「閻魔様」
「っ!!!!」

 今までの上品な笑い声はどこへやら。爆発でも起きたかと錯覚するほどの、笑いの渦が巻き起こる。ついでに言うと、閻魔様はハムスターのように体をプルプルと震わせている。小動物然り、体の小さいものは体を震わすものなのだろうか?

「佐藤幽々子…あなたと…あなたという人は……!」

 どうやら私は何かをやらかしてしまったらしい。だが、それすらもどうでもいい。早くこの眠気を――――――

「天誅ーーーーっ!!」

 頭にガツンと衝撃一発。私の眠気はどこかへと旅立って行ったのでしたとさ。ああ、覚めるのならば、この妙な世界ごときれいさっぱり覚めてしまえばいいものを。心の中でそう呟き、衝撃を殺せなかった私は、思いっきりおでこを机にぶつける事となった。




「分かりましたか!! 佐藤幽々子!!!」
「はい、申し訳ありませんでした」

 授業の終わりを告げるチャイムと共に、わざわざこちらに出向いて延々と説教を垂れる閻魔様。自分で閻魔ではないというのならば、このような説教癖もどこかへ置いてきてくれればいいというのに。そんな事を考えながら、彼女の説教を聞き流す。

「はぁ……微塵も聞く気がありませんね。もういいです。今日のところはこれぐらいで勘弁しましょう」
「いえいえ、きちんと反省していますわ。本当ですよ」

 にっこりと笑顔を浮かべて答える。愛想笑いのつもりであったのだが、向けられた本人は皮肉を言われたと勘違いしたようで、クラス全体に染み渡るような大きいため息を吐いて、こめかみを押さえる。

「どの口がそのような事を……ああ、これほど虚しい説教は初めてです。もうやめにしましょう。ですが、最後に」

 キッとこちらを睨み、蛙どころか土佐犬ですらもすくみ上がらす様な威圧を私にかける。ああ、これは流石にまずいのでは、と思いつつもどこか可愛げのあるそれから視線を逸らさず、のんびりとピンチを感じ―――――

「私は誰でしょう? 答えなさい……」

 ―――――ゾクリと背筋に何かが這った。蛙や土佐犬なんて目じゃない、鬼とて裸足で逃げ出すであろう恐怖。なるほど、と一人で納得する。最早、授業中に居眠りしただのなんだのという話ではないのだ。目の前の閻魔様が気にしているのは、自分の沽券と認めたくない称号なのである。

「四季先生ですわ……はい」

 何を考えるわけでもなく、すんなりとその名前が出てきた。というよりも、彼女に向かって閻魔だなんて言う方が間違いであったのである。あちらとこちらでは、もとより通じるものなんて無いのだから。

「はい、正解です。やれやれ、寝ぼけていたからといって―――――いえ、寝ぼける事自体が問題なのですが。兎に角、人の名前を間違えるのは最も恥ずべき行為だと知りなさい。では」

 そう言って、ある程度満足したのかチョコチョコと教室の出口に向かっていく。そして、扉に手をかけた所で、ハッと何かを思い出したようにこちらへ振り向き

「佐藤幽々子! 明日は宿題を忘れないように! それが貴女のつめる善行です」

 そう言って、さっさと行ってしまった。いやはや、どこまでも“らしい”ひとなのだと、感心してしまう。思えば閻魔なんかをやっているよりも、今のように教師をしている方が似合うのではないであろうか。と、そんな事はどうでもよかったのだ。そう、そんな事よりも

(何か、大切な事を…逃したような……)

 それが何であったのか、それ以前に本当にあったのだろうか。宙ぶらりんのまま、虚空をかき混ぜるように考える。カラカラとも鳴らない、スカスカな器。そんな事はないはずなのに、そこには何も入っていない。ああ、それなら駄目だ。空っぽを混ぜる振りしたところで、何も混ざるわけが無い。それならば、無駄な努力などさっさとやめてしまい、諦めて寝てしまおう。

「まったく、あんな言い方するから『閻魔様』なんてあだ名がつくっていうのに。やっぱり歳を取ると人間変われないものなのかしらね」

 寝ようと思い、顔を伏せようとした所で邪魔が入る。声のした方を向くと、いつのまに隣にいたのか、後ろ髪を大きな赤いリボンで縛った美人さんが、閻魔様の出て行った教室の扉を見ながらぼやいていた。服装は私と同じ、恐らくはこの学園の指定の制服と思われるもの。少し違っているのは、皆がつけている胸のリボンをはずしているところだろうか。

「………」

 見覚えがあるのに、誰だかわからない。閻魔様の時はすんなり分かったのに。よほどトレードマーク的な何かが抜けているだろうか。けれども、喉の真ん中辺りまで出かけているのだ、少し考えればすぐにでも

「あ、そうそう、昨日はありがとね。正直境内の掃き掃除って面倒なのよ。随分と助かった―――――」
「博麗霊夢」

 ようやく分かった。そりゃあ、分からなかったのも仕方が無い。なにせ彼女が巫女服以外を着ている場面に出くわした事なんてないのだ。いわば巫女服は、彼女のアイデンティティそのものと言ってもいいだろう。いや、巫女服こそが彼女の本体であるといっても過言ではないはずだ。彼女ときたら、冬だというのにいつものように隙間風のピューピュー入る巫女服を着続けていたので、こちらが『寒くないの?』と聞けば『寒い理由が見当たらない』とマフラーをつけながら、隙間から見える地肌に鳥肌立てて頑張っているほどなのだから。
 こちらがしみじみと博麗霊夢という存在について考えている中、当の本人はというと鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔をして、硬直したままこちらを見ていた。そんな彼女と目が合う。霊夢は金縛りでも解けたかのように、ハッとするとこちらのおでこを何の躊躇も無く触ってきた。
 
「驚いた……アンタ、熱…は無いわね。初めて、アンタにフルネームで呼ばれたわ。新鮮を通り越して驚愕よ」
「あら、そんなに驚いてもらえるなんて幽霊冥利に尽きますわ。霊夢ちゃん」
「くそっ、やっぱりわざとか。しかも、まだ昨日の事恨んでいるのね。あのお札はわざとじゃなくて、本当に風に吹かれてアンタについたのよ」

 そう、それは昨日の事。彼女に誘われるまま三人で境内を掃除していた。その途中、お茶を取ってくると言って去っていった霊夢が、何故か台所に置いてあったというお札を持ってきたのが事の始まり。悪霊退散だのなんだのと散々遊び倒し、最終的には陽気な風に吹かれて、私のおでこにピッタンコ。三十分近くの間、ひたすら笑われ続けていられた恨みは蟻地獄並みには深かったりするのだ。

(しかし、参ったわ)

 ありえるはずの無い昨日が、当然として出てくるなんて。何より参っているのは、今の私が昨日何をしていたのかは分かるのだけれども、閻魔様や博麗霊夢をそれだと認識した私は昨日の事が思い出せないのだ。いわば辞書に書いてある単語を読み上げているようなもの。意識できる私は昨日の事も分からないのに、違和感のある自分は昨日どころか一週間前の出来事も思い出すまでも無く分かるのだ。自己矛盾、チグハグだらけすぎて本当の自分は何なのか分からない。ほんの少しだけ、その事実に恐怖を感じた。

「ああ、もういい。悪かったって。何にせよ大笑いしたのは事実だしね。今度甘いものでも奢るから、とりあえず許しておきなさい」
「別に何をねだったでもないのに、悪いわね霊夢ちゃん」
「あと、その霊夢ちゃんてのいい加減やめなさいって。フルネームで呼ばれるのも怖かったけど、“ちゃん”付の方はなんかむず痒いのよ」

 そう言って、背中をかくようなジェスチャーをする霊夢。まあ、これは私の記憶によるといつもの事のようなので聞き流しておこう。それよりも

「なんだかお腹がすいたわ」
「そらそうだ。だって今はお昼休みなんだもの」

 何たる不覚、昼時にご飯も食べずに何をしているというのだろうか。雀や猫とて、昼になればご飯を食べる。ならば、私が食べない理由などあってはならないのだ。そうと分かれば、何は無くともお昼ご飯は食べなくては。そう何は無くとも

「ああ……」
「どうしたのよ?」

 そこである重大な事実に気がつく。クラリと頭が揺れる。軽い眩暈がした。

「霊夢ちゃん、お昼ご飯が無いわ」

 机の上に広げられているのは教科書と涎のついたノートのみ。食べられなくはないのだろうが、一般的に食物として認識されるようなものは、どこにも見当たらないのである。眠気などではなく、体がだんだん重くなっていくのを感じる。意識してしまったが最後、空腹は体を蝕んでいく。ぐぅ~と腹の虫が素敵な音楽を奏でるのも時間の問題のはずだ。ああ、このままではサバンナの負け犬のように骨と皮だけに

「机にかけてあるカバン、どこから見ても真ん中のチャック。さっさと開けてみなさい」

 頭痛でもするのだろうか、頭を右手で抑えながら霊夢は私によく分からない指示を出す。私は空腹で頭が回らなくなっている為、彼女の命令に従い体をギシギシと動かした。
 最後に残された力を他人に従い使ってしまうとは、西行寺幽々子も落ちたものね。などと芝居がかった事を心で呟きながら言われたとおりにカバンの真ん中のチャックを開けてみる。

「霊夢ちゃん、貴女とっても素敵な人ね」
「そいつはどうも。現金なお嬢様で」

 そこには藍色の染物に包まれたお弁当が私を待っていてくれた。何かくだらない運命を感じながら私はそれを取り出し、机の上に広げた。中には桜色の小さめな箱が一つ。その桜色の端のほうに、白色の桜の花びらが描かれている。とても可愛らしく、ほんの少し古めかしいお弁当箱だった。何故だか、このお弁当箱がとても大切なものに見えた。

「それじゃ、私もいただくとしますか」

 言うが早いか、霊夢は私の席の前から椅子をぐっと引き出すと、スカートがめくれない程度に勢いよく腰をかけた。そして、

「ふぃ~、あ~も~、学校って肩こるわね」

 今度はジェスチャーなんかではなく、自分で肩を揉む。はっきり言って

「年寄り臭いわよ。ついでに下品すぎませんか、霊夢ちゃん」
「いいのいいの。なんたってここは、花も恥じらう乙女の終着駅、女学園なんだから。だーれも気にしちゃいないわよ」

 投げるように置いた紙袋の中から、サランラップに包まれたおにぎりを取り出して、それを剥きながら霊夢は適当に私の注意を流した。一応お嬢様学校な訳なのだから、多少は気にした方がいいのだろうが、彼女に言ったところで無駄だろう。霊夢は良くも悪くも着飾らない。常に平等であり、それが彼女なのだ。世間一般ではどう見られるかは分からないが、竹を割ったような性格とその陽気さは、周りを見るにこの学園では好評のようである。霊夢もその存在には気づいているようで、軽く辺りを見回しておにぎりを食べようとしていた手を止める。

「そんな所でボーっとしてるのなら、貴女たちも一緒に食べない?」

 霊夢は自分の様子をもじもじと見ていた生徒たちに声をかける。彼女からしてみれば、その方が合理的だし楽しそうだから声をかけたのだろうが

「え、そ…その……ごめんなさい!」

 勿論逆効果なのは言うまでも無い。人間誰とでも気軽に話せるわけでもないし、ましてや友達になれるわけも無いのだ。けれども霊夢は、そんな事は考えも及ばぬのか、いつも声をかけてしまう。

「はぁ……56敗目だわ。いい加減嫌になってくる」
「じゃあ、やめなさい。彼女たちの心も休まるでしょうし」

 そして毎回煮え湯を飲むのだ。飲まされているのではなく、自分からのみに行く辺り不毛としか言いようが無いだろう。懲りないというよりも、一種の日課のようなものになってしまっているのかもしれない。

「今日の敗因はきっとアンタね。近寄り難かったんでしょうに」
「そうね、幽霊にはあまり近寄りたくないものだしね」
「……悪かった、謝るわよ。逃げられたのは私の人徳の無さ故よ。まったく」

 ぶつぶつと文句を言いながら、おにぎりにかぶりつく。今日の霊夢お手製おにぎりの具は佃煮のようだ。ご飯には合うだろうけども、おにぎりにするのはどうなのだろうか。この前は確か沢庵で、その前は野菜炒めだったかな。彼女いわく、前日の余りものや、その辺にあるものを適当に具にしているらしい。おにぎりの元々の意味を考えると非常に合理的なのだろうけれども、両手を挙げて賛同とはいかないかな。
 早々と一個目のおにぎりを食べ終えると、霊夢は次のおにぎりに手をつける。真っ白なおにぎりの中から見える、鮮やか過ぎる桜色。次はどうやら桜でんぶのようだ。これは具として役割を果たしているのだろうか?
 それに比べて私のお弁当は、中々に豪勢だ。肉と野菜、海の幸はエビフライで補っているし、漬物も柴漬けが入っていた。あとは――――――

「―――――霊夢ちゃん、大変」
「ん? 何よ一体?」
「お腹が空いたわ」
「訳わかんないんだけど、今食べている真っ最中でしょうが。その弁当は飾りなの?」
「食べ終わっちゃったの」
「……さいですか」

 いやはや、まいった。お弁当箱が小さいとは思っていたけれども、量がこれほどまでに足りないとは。真に困ったものである。

「あのさ、前から思ってたんだけど」

 霊夢はぐいっとこちらに身を乗り出し、食べ終わって今しがた蓋をしたばかりのお弁当箱を触りながら私に話しかけてくる。

「どう考えても、この弁当箱じゃアンタ満足しないでしょう? いいかげん買い換えたら?」

 そう言ってお弁当箱の方に目をやる。私も霊夢についで桜色の綺麗なそれに目を向ける。霊夢はお弁当箱のつるつるとした感触が気に入ったのか、妙に真剣にお弁当箱を指で擦り続けていた。人の物だっていうのに勝手な事をしてくれる。
 しかし、霊夢の言う事ももっともだ。このお弁当箱はたいそう気に入っているが、お腹を満たせないのであれば、それはお弁当箱としての役目をまっとうできていないのも同じ。そう考えると、買い替えるのも一つの手なのかもしれない。

『おそろいだよ』

「―――――あ」
「ん? どうしたのよ」

 小さな笑顔が頭をよぎった。葉桜が咲く頃に、幼い両手で、右手には緑色のを左手には桜色のを。大切そうに手のひらに片方ずつ乗せて、アナタは私にくれるのね。アナタは緑の笹の葉を、私は桜の花びらを。両手に一つずつ、きっと大切にしましょうね。だから

「……買い換えないわ」
「そう、大切なものなのね」

 霊夢は何か納得したようにそう言うと、お弁当箱から指を離して三個目のおにぎりに手をつけた。そしてそれ以上は何も聞かない。彼女は望まぬ限り、深くは足を踏み入れない。それが、どんな優しさよりも他人思いな事を知っているから。だから、霊夢はお弁当箱にはもう興味がないとでも言うように、おにぎりを再び食べ始める。霊夢はどこかまっさらだけど、きっとだれよりも優しいのだ。

「ありがとうね、霊夢ちゃん」
「はぁ? 何よいきなり? おにぎりならあげないわよ。っていうか、もらえるのを前提で先にお礼を言うやつがどこにいるか」

 そういって、私のおでこを指で小突く。ほんの少し仰け反った頭を元の位置に戻すと、霊夢の笑顔が見えた。彼女の笑顔につられて、私も笑う。

「あら、残念ですわ」
「さっさと購買にでもいってきなさいよ。あ、購買のあの子にはちょっかい出さないようにね」
「悪気があったわけではないのよ?」

 それは、ある晴れた春の日の放課後。小腹を空かせた私は霊夢を連れて購買部へと向かっていた。何故学校の廊下は長いのか、などと霊夢に愚痴を言いながらも、駆け足気味に歩いていた足はすぐに購買部のカウンターにたどり着いた。そこで私は衝撃的な出会いをする事となった。
 頭に給食頭巾をつけて、一生懸命に購買部を切り盛りするショートヘアーのあの子。背が高くないせいか、三段で構成されている購買部の棚の隠しスポット三段目の上には届かない。ぴょんぴょんと背伸びをしながらジャンプするも後一歩のところで、腕は宙をきってしまう。三人ほど並んでいたのだけれども、全員その光景に心安らぎ癒されているご様子であった。だが、当たり前とも言うべきか、当の本人はそんな事など露知らず、今にも泣き出しそうな顔でケージに入れられた蛙のように跳ね続けていた。
 恐らく新入生だったのだろうけど、見るに見かねた私と霊夢はその子を助ける事にした。ところが、私と霊夢が売り子をし始めると、あら不思議。どこから噂を聞いたのか、学園の少女たちが次々に沸いてくる。そのお陰で購買部は頼んでもないのに大繁盛、学園の地獄と化した。
 かくして未曾有のパニックのバーゲンセール会場と姿を変えた購買部が落ち着いたのは、夕日が落ちる頃だった。疲れきって座り込んでいた私に手を差し伸べるその子。私は礼を述べて、彼女の手をとった。すると、とても素敵ないい匂いが鼻を掠めた。その匂いに居ても立ってもいられなくなった私は

「初対面で『食べていい?』なんていう奴、はじめて見たわよ」
「でも、あの子焼き鳥のにおいがするのよ。おいしそうじゃない」

 という訳である。それを聞いた耳年増な、いたいけな少女は走り去っていってしまいましたとさ。それ以来、購買部には行っていないのだけれども、まあそろそろ頃合でしょう。

「あー、はいはい。もうご自由にどうぞ」

 霊夢は心底面倒くさそうに、手であっち行けのジェスチャーをして、いつの間に入れたのか、湯飲みに入ったお茶を飲み始める。随分とぞんざいな扱いだけれども、抗議しているよりも購買部に行った方がはるかに建設的でしょう。休み時間もあまり残っていないようだし、さっさと行くとしましょうか。

「それじゃあ、行ってきますわ」
「あいよ、さっさと行ってきな」

 霊夢にぞんざいに見送られ教室を後にする。だがよもや、扱いの悪さなど頭には残っていなかった。頭の中にあったのは焼きそばパンにするか、それともカツサンドにするかの二択のみ。心を弾ませながら、私は足取り速く購買部へと向かって行った。




「やっと行ったか。なんとも世話の焼けるお嬢様だこと」

 教室から意気揚々と出て行く幽々子を見送りながら、私はそう呟いた。しかし、いつもぽやぽやしていて、何かと世話を焼かされる訳だが、今日はなにやらいつもとは様子が違ったような気がする。

「なんだろう…切れ味があった? ……まさかね」

 切れ味のある幽々子なんて幽々子ではない。恐ろしい事に、それだけは断言できる。空に浮かぶ雲が鳥を切り殺したりでもしたら、それは雲ではなくなるのと同じ。もし切れ味がある幽々子なんてものがいたら、それは

「偽者ってか? アホらし、何考えてんだか」

 ただ、いつもと違っていたのは間違いないだろう。まあ、そんな事は百も承知な訳なのだが。言ってしまえば、彼女がおかしい理由など何を聞くまでもなく分かっているのだ。

「あのお堅いちびっ子は、元気にやってるのかな」

 窓の外を見ていると、誰にも聞こえないような小さな声で独り言が漏れた。外に見えたのは一羽の蝶。ここは二階だというのに、必死に羽を羽ばたかせゆらゆらと空へ空へと上っていく。当たり前だが、上ってくる蝶の羽は二枚。片方が無くては飛べないどころか生きてはいけない。頼る事とも依存する事とも違い、当たり前として自然の摂理に依拠する左右の羽。そのあり方に、二人の少女の顔が浮かんできた。
 どちらかが居なければ生きていけないのではない。どちらかが居なくても生きていけるのではない。どちらもいて、初めて生きているのだ。だから、どちらか片方が居なくなっても意外と気がつかないのかもしれない。だってそれは、生きているようで死ねないでいるだけなのだから。

「何を……最悪」

 一瞬考えてしまった。もし、本当にどちらかが欠けたとして、私はそのどちらかの添え木程度にはなるのだろうかと。日和ってしまったのか、はたまた自分を理解し切れていないのか。どちらにしろ一つ学んでしまったらしい。大切なものの見つけ方など、誰にも分からないのだと私は理解した。

「一羽の蝶々、はたしてそれは一羽と呼べるのか……」

 いつの間にか、窓の外の蝶は居なくなっていた。暖かな陽気に当てられて、ほんの少しだけ、彼女たちが羨ましいと思った。




「むぅ……」

 購買部についてすぐに、さっとカウンターの下に姿を隠す影一つあり。恐らくは避けられたりするだろうと思ってはいたのだけれども、ここまで露骨にやられると、ちょっとした加虐心も生まれるものだ。

「あらあら、今何かカウンターの下に隠れた気がしますわ」

 わざとらしく、わざわざカウンターに近づいて、確実に聞こえるように下を向きながら言ってみる。ガタン! と大きな音がカウンターの下から聞こえた。そして、その後すぐに

「にゃ…にゃー」

 細々とした可愛らしい、猫の鳴き声が。適当に済ませて外でお日様をおかずに、もそもそと食事をするつもりだったのだが、一瞬にして気が変わった。

「まあ、珍しい。購買部で猫さんを飼い始めましたのね」

少しぐらいからかっても文句は言われまい。そう思って声をかけると

「ひ、日向ぼっこですー……にゃー」

 なんとも不思議な返事が返ってきた。そんな日陰で日向ぼっことは、いい根性をしている猫さんだこと。その一言により、スイッチが入ったとでも言うのだろうか、私は自分がいやらしい笑みを浮かべている事に気がつく。ああ、なんてひどい人でしょうか、いたいけな少女で遊ぶ気満々なのです。そんな事、許してはいけない。そう許してはいけないのだが

「そう、日向ぼっこをしいるのね。それじゃあ、邪魔をしちゃいけませんわね。立ち去るとしましょう」

 そんな事など知ったこっちゃあないのである。再びわざとらしく大きな声でそういうと、猫さんに聞こえるように足音を大きく響かせて去った振りをする。振りといっても、実際に購買から離れているので、騙しているわけではない事に念を押しておきたい。
 一旦購買部から離れると、大きく旋回して購買部のカウンターの中へ入るための入り口に立つ。そう、私はカウンターの下で日向ぼっこしている猫さんを見たいのである。これはまっとうな思考であろう。猫が居れば撫でたい、それは当然の話なのである。
 私と猫さんとを隔てる壁はわずか一枚。扉などの無粋なものではなく、上に上げればいいだけの、持ち上げ式のカウンターのみ。さあ、行こうかしら。
 なるべく音を立てないようにそれを持ち上げると、いまだに机の下から出てこようとしない猫さんへと近づく。その距離わずか二メートル。歩数にして四歩分。私はその貴重な四歩のうちの一歩を音もなく踏み出した。
 二歩、三歩、四歩とあっけなく猫さんの隠れ家にたどり着いてしまう。猫さんは、もぞもぞと可愛いお尻を小刻みに振りながら何かをしているようであった。思わず蹴ってしまいそうなほどリラックスしている猫さんに、足をかがめて更に近づく。私の右手と猫さんの頬っぺたまでの距離は棒状のお芋のお菓子一本分。いつもなら一口で食べてしまうそれをゆっくりじわじわと消費していく。そして

「猫さんみーつけた」
「ふぇぇ!?」

 ぷにゅっとした張りのあるやわらかい感触を指で感じると同時に声をかける。猫さんはよほど驚いたのか、素っ頓狂は声を上げてこちらへ振り返る。どうやら隠れるついでにおやつを食べていたようで、口から折れた棒状のチョコ菓子がポロポロと地面に落ちた。

「ごきげんよう、猫さん。お日様も当たらないのに日向ぼっこなんて、不思議な趣味ね」
「えっ!? あ、ちが、その!」

 あまりのうろたえっぷりが面白かったのか、はたまたそういう性癖があったのか私は

「取り敢えず、可愛い鳴き声が聞きたいわ。にゃーと鳴いてくださいな」

 とんでもない事を口走っていた。
 そして、目の前の猫さんも

「…にゃー」

 なみだ目になりながら、答えてしまう。しばしの硬直。取り敢えず、当初の目的のとおり頭を撫でる事にした。




 空を見上げると、雲が悠々と流れていた。天気は晴れ、気温はほどほどに春模様。外で食事をするにはうってつけである。ピクニックのようにのんびりと過ごすのが吉と見た。

「本当にいい天気だわ。ねえ、貴女もそう思わないかしら?」
「は、はい! いいお天気だと思います!」

 私の問いに緊張した様子で答える購買部の新人さん。右手と右足が同時に出ているなんて、古ぼけたブリキのおもちゃよりもカチカチなのではないだろうか。

(まいったわね)

 こんなに素敵な陽気なのに、私達はそれに似つかわしくはないままだ。このままでは、彼女をなんの為に連れ出したのか分からなくなってしまう。




 購買部での一悶着から、早数分。いまだに少女を撫で続けている私と、俯いたまま顔をあげようとはしない少女。なんとも妙な光景がそこには広がっていた。意地が働いているのか、はたまたタイミングを逃しただけなのか、お互い次の行動に移れずにいた。
 と、そこにひょっこりと現れる変な帽子を被った見知った顔の教師。こちらを見た瞬間、何事かというような顔をして眉をひそめる。私は、訪れた好機を逃すわけにはいかなかった。

『ごきげんよう、慧音先生』
『ああ…いや、何だ、その…お前ら知り合いだったのか?』
『ええまあ、これから是非仲良くしたいと思っているところですわ』

 にっこりと満面の笑みで答える。後ろから『ええっ』なんて声が聞こえてきた気がしなくもないが、そんなものは無視の一点張りである。

『ふむ…そうか』

 慧音先生は何かを考えるように、あごに手を当てて動きを止める。“うーむ”だの“ふーむ”だの、何かを考えているご様子。そのさまを身動きせずに見守る私と少女。そして、突然静けさを突き破り

『よし! 一肌脱ごう!』

 頭に乗っている妙な帽子が落ちそうになるほどに勢いをつけて頷く慧音先生。そしていきなりのストリップ宣言。今度は、こちらが眉をひそめる番であった。

『慧音先生。公衆の面前で衣服を脱ぐのはよろしくありませんわ』
『阿呆が! 誰がそんな事をするなんて言った!?』

 そう言うが早いか、私の頭に拳が降ってくるのが見えた。頭を庇おうとするが、時既に遅し。ゴツンと大きな音を立てて私の頭に直撃したそれは、私をうずくまらせるには十分すぎるものだった。揚げ足を取られるような事を自分で口にしたくせに、暴力を振るうなんて最悪である。

『まったく、お前という奴は……。私が一肌脱ぐといったのは、お前たちの仲の事だ』

 やれやれといったご様子でそう言うと、少女の方を見る。少女は顔を赤らめると、恥ずかしそうに俯き目を逸らした。慧音先生はその様子を見てため息を漏らす。

『クラスでもそうだが、その引っ込み思案を直した方がいい』

 少女にそう言うと、今度はこちらを向く。

『まあ、多少荒療治かもしれないが…その方がいいだろう』

 一瞬言いよどんだが、そういうと私から目を離し、再び少女の方を向く。何ゆえ慧音先生がこちらを見たのか分からないが、これは私に少女が任されたと見てよろしいのだろうか。いや、いいに違いない。

『分かりましたわ。この子の身柄は私が確かにお預かりいたします』
『ええっ!?』

 今度こそ聞こえてくる、慧音先生の提案を非難する声。私と慧音先生が同時に少女の方を向く。少女は私たちに見つめられて、恥ずかしそうにもじもじとしながら

『あ、あの…その…私にはお仕事がありますし…その…無理です』

 精一杯の抵抗をする。しかし

『ああ、その事か。それなら、私が代わりに番をするさ。一肌脱ぐといっただろう?』

 そう言って、慧音先生は腕まくりをする。その堂々たる様は、どこからどうみてもやる気満々であった。恐るべし天然さん。私でも分かるような、助けを求めるか細い声を耳栓でもするわけでもなくスルーするとは。しかし、私にとっては好都合だ、話がこじれる前に

『ありがとうございます、慧音先生。では、私たちは中庭にでも行かせてもらうとしますわ』

 さっさと、呆然としている少女を運び出してしまおう。少女の制服の襟首を掴むとずりずりと引きずっていく。少女はどこか遠くを見つめたまま一言も言葉を発しようとはしなかった。ああ、信じていた者に裏切られるというのは、かくも悲しき事かな。そして、知らず知らずの内に少女を裏切ったひどい人は

『こっちは任せておけ。楽しんでこいよー』

 素敵な笑顔と共に私たちを送り出したのでした。喜劇か悲劇か、妙にテンポのいいドナドナがどこからか流れている気がした。




(確かに、無理やりだったかもしれないけれど)

 俯き加減で、一言も話さない少女に眼を向ける。緊張よりも、不安の方が勝っているその顔を見て、少しだけ申し訳ない気持ちになった。けれども、私はそんな気持ちになるために少女をつれ出したわけではない。だったら、やる事なんて決まっている。楽しむためには、努力を惜しんではいけないのだ。

「ねえ」
「は、はい!」

 私が話しかけると、すぐに顔を上げる少女。可愛いお顔は強張ってしまっていて、とてもじゃないけど、普通に考えて楽しむ事なんて出来なさそう。けれども

「………」

 私はどうやら彼女のサインを逃していたらしい。そこには、緊張と不安と

(ああ、そうか)

 ほんの少しの期待の色が窺えた。それを見た私は、何も躊躇する事はないのだとようやく理解した。そもそも、あんな無理やりな連れ出し方をしておいて、遠慮するなんて馬鹿な話である。いつもの調子で、会話を楽しめばいいのである。

「ピクニックみたいだと思わないかしら? お日様の下でご飯を食べるのって」
「え…はい」

 いきなりそんな事を言い出した私を少女は不思議そうな顔で見つめる。ほんの少し強張りが解けたようであった。私は、それを嬉しく思いながら、言葉を続ける。

「私はね、ピクニックが好きよ。あなたはどうかしら?」
「え…その」

 恥ずかしそうに、顔を伏せてもじもじと両手を擦る。そして、私と顔をあわせずに

「私も…好きです」

 小さな声で、ぼそりとそう言った。

「そう、それじゃ私と一緒ね」

 少女は何の事を言っているのか分からなかったようだが、私が何を言いたいのかすぐに分かってくれたようだ。

「そう…ですね。一緒です」

 はにかんだ笑顔。始めてみる少女のそれは、私の心をほんの少しだけ、跳ね上がらせた。
 そうだ、私はこの子のこんな顔が見たかったのだ。

「一緒なら、仲良くなれるわ」

 私は、そう言って少女に負けないぐらいの笑顔を浮かべた。何を着飾るわけでも、紛う事もなく、ストレートに投げかけた私の言葉に、少女は少しだけ戸惑いを見せる。けれども、それは本当にほんの少しだけの事で、すぐに笑顔になってくれた。

「自己紹介もまだだったわね。私は佐藤幽々子、これからよろしくお願いしますわ」
「は、はい! 私は、ミスティア・ローレライです! よろしくしてください!」

 お互いお辞儀をし合う。顔を上げると、二人の目が合った。なんとなく二人同時に、苦笑いを浮かべていた。




「…それで酷いんですよ。私とお店を天秤にかけて、五分も悩んだ末にお店を選んだんです! あんまりだと思いませんか?」
「そうね、こんなに可愛い子を選ばないなんて罰当りな話ね」

 レンガ造りの花壇のふちに座りながら、二人仲良く焼きそばパンを食べる。先ほどまでの硬い雰囲気はどこへやら、春の陽気も手伝ってか話しに花を咲かせていた。
 少しの間だけれども、ミスティアちゃんと話してみて分かった事が色々とあった。確かに引っ込み思案であるが、それはどちらかと言えば人見知りの気の方が多いらしい。一度打ち解ける事が出来れば、意外と人懐っこい性格のようである。現に、私よりも彼女の方がしゃべる回数が多いほどだ。

「そ、そんな…か、可愛くなんて…ない、です」

 まあ、恥ずかしがりやな面は否めなくはないのだけれども。

「それにしても、鶏肉が食べられないのにホームステイ先が焼鳥屋さんだなんて、もしかしたら何かの巡り合わせなのかもしれないわね」
「私も、もしかしたらそうなのかと思いまして、ちょっと考えてみたんですよ。焼き鳥の撲滅を」

 物騒な事を言いながら、妙に悪い顔をして笑うミスティアちゃん。恐ろしきは焼き鳥、純粋無垢な少女をこんな顔にさせるとは。

「撲滅ね…具体的にはどうする気なのかしら?」
「焼き鳥代わるものを出そうかと。今の予定としては鰻ですね」

 鰻…鰻ね。半端に一般的ではないというか。むしろ何故それをチョイスしてしまったのかといわんばかりの品な気がひしひしとする。だが、あんなにキラキラとした目で言われてしまっては、どうしようもないであろう。

「クラスのお友達にお墨付きをもらったんですよ。絶対いけるって」
「クラスのお友達…ね」

 ほんの少しだけ、ミスティアちゃんの事が心配になった。もしかしたら、本人の知らぬところでいじめにでもあっているのではないのかと。今時の女子高生が、焼き鳥の代わりに鰻を出すなんて暴挙に、賛同するとは思えなかったからである。けれども

「はい、すっごく明るくて元気な子なんです」

 嬉しそうに、その友人の事を話す彼女を見て、それは下らぬ杞憂なのだと分かった。彼女の素敵な笑顔に思わず、私も笑みを浮かべていた。

「その子とは、随分仲がいいみたいね」
「初めてクラスで話した子なんですよ。頭の方は…あんまり芳しくはないんですけど、とっても優しい子なんです」

 慧音先生は、私にミスティアちゃんの事を任したけれども、本当は必要のなかった事なのではないかと思った。彼女は他人との交流を怖がっていない。それならば、周りと仲良くなるのも時間の問題なのだ。
 きっと、慧音先生が危惧した事なんて的外れなものなのだろう。あの人は、とことんその辺りの事に弱いのが玉に瑕なのだ。それがいい所でもあるのだけれども。
 そんな事を考えている間も、ミスティアちゃんのおしゃべりは止まる所を知らなかった。
 半分以上を聞き流しつつも、一応彼女の言葉に耳を傾け続ける。

「―――――ですから、留学してすぐにお友達になって、それからずっと一緒なんです」

(あれ…?)

 特に意識せずに、その言葉を耳で拾っていた。なんでだろう? 今の言葉に、心が痛むなんて。おかしな話だ。そんな要素なんてどこにも転がっていないっていうのに。

(なのに…どうして)

 こんなにも不安な気持ちになるのだろうか。心臓の動悸が激しくなる。張り裂けそうなほど、私の胸をたたき続けている。だから、こんなにも苦しい。けれど

(なん…で)

「先輩? どうしました?」

 ミスティアちゃんが、心配そうな顔をして私の顔を覗き込んでくる。どうしよう、心配なんてかけたくないのに、私は笑顔を浮かべる事が出来ない。
 空っぽだった私の中に、何かが入り込もうとしてくる。苦しくて仕方が無い。悲しくて仕方が無い。それでも、空っぽであったが故に、それを容易に受け入れる事なんて出来るわけが無い。堂々巡りに回され続け、痛みも悲しみもどこへも流れないのだとしたら、私はこのまま―――――

「先輩? 先輩!?」
「お~い、ミスチ~」

 間延びした、陽気な声が彼女を呼んでいた。二人で、声の持ち主の方を見る。青色の大きなリボンをつけた少女が、元気いっぱいにこちらに手を振っている姿が見えた。あの子がミスティアちゃんの言っていた友達なのだと私は気がついた。
 そして、その少女の隣に、何かが見えた。小さい体で嬉しそうにこちらに手を振る少女の姿。それは、春の陽気が見せた、くだらない蜃気楼のようなものだったのかもしれない。それでも、それだけで十分であった。痛みも悲しみも、私の内側にあったものだって、気がつけたのだから。
 私は、静かに深呼吸をした。体に力は入らないけれども、もう大丈夫であった。

「ミスティアちゃん、行ってらっしゃいな」
「え…でも、先輩!」

 とても優しい子だった。だから私は精一杯の笑顔を浮かべよう。彼女の心配を拭い去るために。

「大丈夫よ、たまに眩暈がするだけ。あんまり体が強く出来てないの」
「でも…でも」
「ほら、あの子もアナタを待っているみたいよ。ずっと一緒なのでしょう?」

 私がそういうと、ミスティアちゃんはずっと手を振り続けている少女の方へ振り向き、私と交互に見比べる。とても困っているのが分かるのだけれども、思わず噴出してしまった。

「ほら、早く行きなさい。あの子の腕が取れちゃいそうじゃない。これは、先輩命令よ」

 冗談っぽくそう言って、彼女のおでこを指で小突いた。ミスティアちゃんは、ようやく笑顔を浮かべると

「先輩。お大事になさってください!」

 元気いっぱいに私の元から去っていく。全速力で走っていたのか、ほんの少しの距離だったけれども、少女のもとについた時には息を切らしているようであった。少女がそれを心配そうに見守り、ミスティアちゃんは、勢いよく顔を上げる。そして

「せんぱーい! またお話しましょうねー!!」

 元気いっぱいに、少女と手を繋いで駆け足気味に去っていく。もう二人はこちらを振り向く事も無く、段々と小さくなってゆく。それでいいと、私は呟いた。
 ため息混じりに、もう見えなくなった二人の背中を視線で追い続けていた。不意に、右手がもういない彼女たちに向けて伸びていた事に気がつく。あまりの間抜けさに自嘲する。
 手を伸ばしたって、届くわけが無い。届いたところで意味がない。つながれた二つの手は、きっと誰にも切れないものだと私は知っていた。そう、だって

「どうして、アナタの事を忘れていたのかしら」

 私たちもそうであったのだから。
空を見上げた。春風が、私をあざ笑う。その風に吹かれて、見上げた空に浮かぶ雲の流れが、速まった。目を細め、流れる雲を眺めながら、我に問う。どうして、私は立ち止まったまま動こうとしなかったのだろうか。
 空から目を離し、目をつぶる。静かに時の流れを感じていた。私は、停まったままの世界に居続けていた。決してそれは嘘っぱちで出来た世界ではなかったのだけれども、それを知ってしまったが故に、私の時は歩み始めなければいけなかったのだ。
 瞳を開くと陽光が視界を奪い、春風が世界を奪っていった。
 周りには真っ白な濃霧。今までの穏やかな風景は、幻影として消えていった。私は立ち上がり、歩き始める。
 行けども行けども、永遠に終わりなんて無い、まっさらな道。白と白、それ以外には何も無く、段々と濃霧ではなく、薄い膜のように変化してゆく世界。私は、そんな世界をただ無心に歩き続ける。
 私の中には、たった一人の少女しか残っていない。まるで、心をどこかに忘れてきてしまったようだった。たった一つで満ち溢れている世界と、空っぽの世界。そこになんの違いがあろう事か。されども、私は愚かだと知っていても、無駄なのだと知っていても、アナタの事を思い続けるだろう。
 ずっと一緒に居続けていた。ずっと一緒に居続けると信じていた。あなたが居るだけで、私は幸せになれた。私の世界はいつだって幸福に満ちていた。
 本当は、今だってそうだった。友人や先生に囲まれて、その中で生き続ける平穏。私はその小さな円の中で、永遠に幸せだった。
 けれども気がついてしまった。だからこそ、私は問わねばならない。


どうして―――――

「妖夢」

―――――幸福な世界にアナタはいないのでしょうか?


 搾り出すように、アナタの名前を呼んだ。もうずっと口にしていなくて、古ぼけて埃を被っていたアナタの名前を。そして、私は私を取り戻してゆく。アナタといた本当の私を。




 春の日。アナタと一緒に見た桜。あの美しさを忘れない。

 夏の日。アナタと一緒に聞いた笹の音。あの囁きを忘れない。

 秋の日。アナタと一緒に踏み鳴らした落ち葉。あの楽しさを忘れない。

 冬の日。アナタと一緒に繋いだ手。あの暖かさを忘れない。




 ずっと、一緒だった。ずっとずっと一緒に過ごしてきた。いつだって、私の隣にはアナタがいて、笑ったり怒ったり、まるで四季の様にころころと表情を変えて、私に笑顔をくれた。私はアナタがいるから、そこにいられた。私はアナタがいたから、私であれた。

「………」

 だからこそ、私は今になって、それを知る事となるのだろう。アナタがいない私は、一体何なのかを。
 私は、行方知らず旅を止め、ようやく立ち止まった。どれほどを歩き続けたのだろうか。私はもうこれ以上歩けないのだと、悟ってしまった。
 私はただ佇む事しか出来なかった。それ故に、白い世界が溶けてゆく。泡のように弾け、最後にはチリよりも軽く、風も吹いていないというのに、どこかへ飛んでいってしまった。

 開けた世界。そこは、とても無機質で、沢山の建物が並んでいた。

 周りでざわざわと人の話し声が聞こえた。耳を傾けようとしたが、その話し声が多すぎて、どれか一つを聞こうとするのは無理みたいだ。私の周りには、多くの人がいた。誰も彼もが私の知らない人。だれも顔が見えないのだもの。知っている人がいたとしても、顔が見えないのなら、それは知らない人とする他にないではないか。
 沢山の人たちは、私と同じように立ち止まっている。けれども、全員私と同じじゃない。だってほら、通れるようになったらみんながみんな動き出した。目の前の機械の色が、赤から青に変わった途端に歩きだす。誰も足並みをそろえずに、一緒に話している人とすら皆バラバラに、各々の速度で渡っていく。立ち止まっている人なんて私だけ。後ろから来た人達もいるけれど、みんな私を追い越していく。
 ドン、と誰かが後ろから私にぶつかった気がした。私は、振り返らない。ぶつかった気がしただけで、その人は私を通り抜けて行ったのだから。機械から流れる民謡を模した電子音が、延々と鳴り続けている。雑踏はその音がする方へと、前から後ろから歩いていく。沢山の人が、私を通り過ぎて行った。子供もいれば大人もいた、けれども誰も私に気がつかなかった。それは当たり前の事。だって私は

「どこにも…いない」

 気がつくと、私は見慣れない和服を着ていた。真っ白で、交わりのない白装束。それが、死に装束だと気づかずに、どうしてここまで来られたのだろう。白装束は、無垢なままで今まで着てきたのが嘘のよう。自分でも口にしていたのに、誰だって知っていたのに、本当は気がついていなかった。

「そう…死んでいるのだものね」

 私は、ここに居ないのだ。私は、どこにも居られないのだ。死者は死者、生者は生者。片方は土に、片方はそれを踏みしめる。どうして、そんな事も分からずに笑っていられたのだろうか。
 死者は消える。されど、生者は残る。ならば、私は消えて彼女は残るのだろう。例え、半分は死んでいたとしても、半分生きているのなら、彼女は……あの子は、ここに残らなければいけない。ほら、一緒に居られる道理なんて、どこにもなかったんじゃないか。一緒に居たいと願う事も、これからも一緒だと思う事も間違い。私は、私。妖夢は、妖夢。それ以外に、何があったのだろうか。何が、正しい事があったのだろうか。
 本当は、本当の事を言えば、最初はあったのかも知れない。けれども、今はもう何もない。だってそうでしょう?

「―――――ていく」

 死んで一緒になろう、なんてもう言えない。馬鹿な私、もっと早くに言っておけばよかったのに。汚い私、あの子と一緒に居たいがためにそんな事を考えている。ああ、でも誰かに聞いて欲しい。私のくだらない思いを。こんなに大切になるなんて思っていなかった、そんな淡い思いを。

「―――――が消えていく」

 そして、どうか誰かが聞いてくれるのなら、伝えて欲しい事がある。たった一つだけ、たった一つだけでいい。あの子に『またね』と。
 そうすれば、あの子は私の居なくなったここで待っていてくれる。きっと馬鹿正直だから、私の帰りをずっと待ちぼうけてくれているに違いない。もしかしたら、家から動かないかもしれないけれど、彼女は一人ではないから大丈夫。私には、もう見えているから。春になればやってくる、お節介焼きの少女たちの姿が。そう、だから―――――

「私が消えていく」

 ―――――アナタとさようなら。

 さて、私はこれからどこへ行くのだろうか。もし、消えゆくのが幻想郷なのであれ、行き先は一つであっただろうに。今は、どこへ行き着くのか分からない。それは少し不安だけれど、仕方ないかな。ずっと逃げ続けてきたのだから、その結果がどうなっても文句は言えないはずだ。
 体が、透けて見えた。私は流れゆく人々を見ているのに、目の前に鏡でもあるかのように、鮮明に自分の体が見える。どうしようもないぐらいに幽霊な自分。誰も私に気がつかないまま、過ぎていく。私も、誰かが自分を通るなんて感覚を忘れつつあった。ほんの少しだけ、自分の行く場所が分かった気がした。
 きっと、私はここにあるだけの存在になるのだろう。ただ、何をするわけでも、何に干渉するわけでもなく、ただあるだけ。誰にも知覚されないから、本当に居るかどうかも分からないまま、自分でさえも忘れてしまって、それでもここにあるのだ。なくなる事がないのに、なくなるまでここにいる。他の幽霊もそうなのかと、考える。答えは出なかった。
 けれども、思うところがあった。思い残す事もないのであれば、もしかしたら本当に消えてしまうのかもしれない、と。思い残しがない人間なんてそうそういないであろうから、それもどうなのか分からない。
 ただ、困った事に私はそうそういない内の一人らしい。思い残す事なんてない。そう、思い残す事なんて何一つないの。ああ、でもそれなら何故

「―――――ない」

 私は、泣いているのでしょうか。
 知らなかった、幽霊でもこんなに涙を流す事が出来るなんて。
 私は最後まで逃げようとしていた。本当は分かっている。例え、誰が来ようともアナタが本当の笑顔で笑う事はないのだと。

「―――――たくない」

 本当は、見えていた。アナタが一人で桜を見ながら泣く姿が。そうだ、思い残す事がないなんて、どうして意地を張る必要があったのだろう。私は馬鹿だ。馬鹿で、嘘つきで、逃げようとした。今までのまま、これからもそのままであろうとした。それがいけない事なんて誰にもいえないけど。それが間違いなんて誰にも決める事はできないけれども。それでも私は……

「―――――消えたくない」

 アナタの隣にいたい。アナタはいつでも私の隣にいてくれたから、だからずっと忘れていた。アナタが私の隣にいられないのなら、私がアナタの隣に。どんなに遠くにいても、例え世界が違っていても、それだけは変わらない。約束なんてしていないから、アナタに聞きたい事がある。だから、だから―――――

「―――――私は消えたくない」

 アナタと…一緒に……!!

 パラパラと砂のように、フワフワと泡のように、私は消えてゆく。もう、自分なんてものも分からない。けれども、必死に願った。誰かも分からない人たちに、口も無くなりそうなのに必死に叫んだ。誰か、誰か

「―――――」

 私の名前を―――――

「幽々子!!」

 その人は、私に手を差し伸べた。私は何も分からないのに身を乗り出す。無いはずの手を誰かが掴んだ。何も分からないはずなのに、私はその手の温かさを感じる。そして、アナタの事を思い出す。




 夏の暑い日の事でした。アナタは私に手を伸ばし、私を押入れから優しく引き出してくれました。

 春の暖かい日の事でした。アナタは私に手を伸ばし、私を強引に引き出しました。

 アナタは泣いている私を慰めて、大きな体で抱きしめてくれましたね。

 アナタは泣いている私を引っ叩き、小さな体で抱きしめてくれましたね。

『幽々子、生きろ』アナタは私に、寂しそうにそう言いました。

『幽々子、一緒にいろ』アナタは私に、泣きながらそう言いました。

 これでさようならだと、アナタは私に告げました。

 これからずっと離さないと、アナタは私に約束してくれました。

 たった一度だったけれども忘れない。

 これからずっと一緒に居ても忘れない。

 だから、私はアナタに言いました。

『さようなら、父様』

『ありがとう、妖夢』




 真っ暗な、世界があった。そこで、幾つもの扉が開かれた。開いた扉が、音を立てて崩れていく。パラパラと桜吹雪が、周りを覆ってゆく。一面は桜雲、そして一際大きな桜の下に私はいた。着ていた白装束は、初めからなかったかのように、いつもの制服に変わっていた。嬉しいはずなのに、とてもとても悲しくて仕方ない。だから私は、私を守ってくれていた扉たちのために、涙を流そう。


                       ―――――さよなら、私だけの世界―――――


 小さく呟いて、顔を上げた。私の右手は今にも解けそうなほどに弱々しくだけれども、アナタの手を掴んでいた。アナタの右手は、私よりも温かくて普通の人よりも半分だけ冷たい。アナタは、ほどけそうな私の手を潰れてしまいそうなくらい握り返してくれました。

「妖夢ただいま」
「幽々子…」

 妖夢は、私の手をとり、私をあの時のように引っ張りあげる。私はバランスを崩しながらも、彼女に導かれるままに立ち上がる。そして

「こんな所で、なにをやっているのです!? 学校は!?」
「え……え、えっと」
「えっと、じゃないです! 後一歩早かったら、分家と鉢合わせですよ! せっかく私が幽々子の代役を務めて、事を荒立てないようにしようとしていたのに!」

 思いっきり叱られる。予想だにしていなかった事で、頭の中が真っ白になってしまう。こんな所と言われても、自分がどこにいるかなんて分からないのだから、どうしようもないではないか。
 そう困り果てていたときに、頭上から桜の花びらがゆらゆらと降ってきた。

「西行妖…?」

 大きな桜の木、名を西行妖。我が家が誇る、永遠の桜。決して咲く事の許されない、永遠に桜の木であるだけの老木。それが、花をつけそこら中に舞わせていた。雪のように細かく、風に舞う綿毛のように軽く、しんしんと降り注ぐ桜の花びら。とても不思議な気分であった。ありえないはずだったのに、ありえてはいけないはずであったのに、彼は自分に花を咲かせた。幾度となく頼んでも、駄目だったのに……どうして今更。

「ばちあたりな……確かに、妖と一部の者は皮肉っていますが、樹齢千年にも及ぶ神木です。西行桜と呼びなさい」
「西行…桜」

(そう…そうなのね)

「アナタも私と一緒なのね」

 なんとなく、私がここに居る理由が分かった気がした。きっと、アナタが咲いたから私はここにいるのでしょう。そして、私がここにいるからアナタは咲いているのでしょう。桜の下に埋まっていたのは、なんであったのか。今なら分かる気がした。

「それにしても、学校をサボるなんて…まったく、これだからアナタから目を離すのが嫌だったんです」
「ごめんなさいね、妖夢。でも、アナタがいなかったから……」

 私がそういうと、西行桜の他にもう一本、小さくて綺麗な桜が咲いた。その桜は、恥ずかしそうに私にそっぽを向くと、私の手を握ったまま歩き出す。子供が二人、桜の花びらで作られた道を帰っていく。何故か、頭にそんな光景が浮かんだ。けれども私たちは、その子供達のようにはいかない。私は、まだ妖夢に聞いていないのだから。

「妖夢」

 引かれていた手を優しくほどき、歩みを止める。妖夢は私の行動に驚いたのか、すぐにこちらに振り向いてくれた。二つの瞳が向き合う。私は、妖夢の瞳から目を離さない。妖夢も私の瞳から目を離さない。互いに見つめ合ったまま、時間だけが流れていく。
 ずっとこのままでいられればいいと思った。何も言わずに、彼女の手をもう一度握ってしまおうかとも思った。けれど、私の気持ちは揺るがなかった。妖夢が、目を逸らさず私の事を待っていてくれたから。後は、私がアナタに聞けばいいだけだった。

「アナタと一緒に居てもいいですか」

 風と共に吹き乱れた桜吹雪。それに乗せられて、私は彼女にたった一つだけ、どうしても聞いておかなければいけない事を言った。再び桜吹雪が、私たちを覆う。妖夢は何も答えなかった。目を伏せる事もなく、何を言うわけでもなく、ただ私が知るあの木の様に佇んでいるだけ。私は、妖夢から視線を逸らした。けれどもすぐに妖夢に視線を戻すと

「行きましょうか」

 笑顔を浮かべて、歩きだした。自分でも不思議だった。確かに笑顔を浮かべようと思った。けれど、こんなにあっさりと笑えるなんて思っていなかった。歩くたびに、地面に落ちずに私の足に降りる事になった桜が、宙を舞う。まるで、この花びらの主である西行桜のよう。少しだけ、愉快な気分になった。
 私がずんずんと歩いていくのに、妖夢はそこに佇んだまま動かない。私がもうすぐアナタを通り過ぎてしまうのに、こちらを向こうともしてくれない。ああ、これは寂しい事なのだろうか。そんな風に自分に問いかけてみる。私の答えは決まっていた。

「私の方が、一緒にいたい…」

 私は―――――

「私の方が幽々子が思っているよりも、ずっと幽々子と一緒にいたいって思っている!」

 ―――――ひとりじゃない。だから、寂しくなんてない。

 妖夢はきっと、こちらを向いて私の背中を見ている。その顔は桜の花なんか比べ物にならないほど、染まっているのだろう。だから私は妖夢に振り向かずに、言うとしよう。

「知っているわ」
「……え?」
「そんな事は、ずっと前から知っているわ」

 背中越しに、真っ赤に染まる大好きな人を見た気がした。さて、足を速めてさっさと行ってしまうとしよう。もうどんな状態になっているのか分かりきっているのだ、もたもたしていたら

「ゆ、幽々子ーーーっ!!!」

 ほら、真っ赤な顔して追ってきた。捕まったら、凄く怒られてしまうのだから、捕まってやるものですか。そう決めて、私は走り出した。

 桜が舞う暖かいある春の日の午後。おそろいの服を着た少女が二人、家の庭で駆け回る。その楽しそうな様子は、じゃれあう猫のようであったか。その走り回る様子は、庭を駆け回る犬のようであったか。ただ、散りゆく桜たちは見たという。二つの羽を交互に羽ばたかせる、蝶の姿を。

「幽々子!」
「あ、いたっ! いたたたたっ! 痛いわ妖夢…ごめんなさいってば」

 結局捕まって、ぎりぎりとヘッドロックを受ける。馬鹿みたいにじゃれて、笑いあう。そんな時間がいつまでも続けばいいと思った。

「妖夢」
「なんですか?」
「学校に行きましょう」
「どの口がそれを言いますか!?」

 ひょいと妖夢の腕からすり抜けて、歩き出す。後ろを振り返らないのは、そんな事は必要のない事だから。ほら

「幽々子! 待ってくださいよ!! アナタはいつも勝手だ! まったく!」

 隣には妖夢が居る。だから、もうそんな事をする必要はないのだ。ただ、前だけを向いて――――――――。




 学校に帰ると慧音先生と霊夢にひどく叱られた。何故か妖夢まで怒られてしまい、隣で理不尽すぎると嘆いていたのが印象的だった。それから暫くして、転校生が来た。妙に男っぽいしゃべり方をする、髪の長い金髪の少女だった。どうやら霊夢の知り合いだったらしく、嬉しいのだか嫌なのだかよく分からない表情を浮かべている霊夢が面白かった。私とはすぐ友達になれたけど、なんだか妖夢のほうは『なれなれしいのは苦手です』とか言って、渋い顔をしていた。けれども、それから仲良くなったようで、よく校舎内で追いかけっこをする姿が見られた。
 先輩にも知り合いが出来た。いつも扇子を持って、行く当てもなくブラブラと校内を徘徊している、美人だけれどもつかみ所のない人だった。これまた、霊夢と知り合いだったらしく、今度こそ思いっきり嫌な顔をされた。初めて霊夢の苦手なものを見た気がした。知り合ってから知ったのだけれども、この先輩はよく授業をサボったり意味もなく悪戯をするのが好きなようだった。私も面白そうなので便乗していたら『幽々子が……不良になった』などと泣きそうな目で見られてしまったので、先輩と話し合い頻繁に行うのをやめる事にした。それを誓い合った日、生まれて初めてお酒を飲んだ。『おごそかでしょう? 杯の交換なんて。まるで何かの契りのようね』などと言いながら、楽しそうに先輩はお酒を飲む。あまり好きな味ではなかったけれども、私はお酒が好きになった。
 その他にも、沢山の人とであった。妙に胡散臭い保険医が、何故か妖夢の事を捕まえようとしてきたり、隣町の神社から転校生が来て霊夢と喧嘩したりもした。沢山の人と出会い、別れ、それでも

「妖夢行きましょうか」
「はいはい、そんなに急がなくても行きますよ」

 私と妖夢は最後まで一緒だった。
 とてもとても、幸せだった。辛い事もあったけれども、それを忘れてずっと笑っていられるぐらい、幸せだった。
 だから私は――――――

「――――――」

 ―――――幸せなまま、目を覚ますのだ。




 静かだった。自分以外のものが無くなってしまったかのように、とても静かだった。風の音もない。虫の音も聞こえない。ここはいつもの白玉楼。そして、いつもの私の部屋。
私は、私の世界に帰ってきたのだと分かった。閉じたままの、ココしかない世界に。
 体は上半身だけ持ち上がっていた。いつ起きたのか分からない。ただ目が覚めた時にはこうだったのだから、無意識のうちに起き上がろうとしていたのかもしれない。起き上がって、私はどこに行こうというのか。答えは知っていた。けれども、私はきっと明日にでも忘れてしまうのだろう。自分で自分は消せないのだから、そうなる他ないのだ。けれども

「桜が…見たいわ」

 今ならば、私は世界を開く事が出来るのではないだろうか。私は布団を丁寧に退けると、ゆっくりと立ち上がった。寝間着を脱ぎ捨て、いつもの服に手をかける。私の普段着は、綺麗にたたまれていた。誰がやってくれたなんて、言うまでもあるまい。

「妖夢」

 服に手を伸ばした右手が、止まった。もしここで、私の願いが叶ったのであれば、彼女はどうなるのであろうか。
駄目だ、やめなければ。それはしてはいけない、それはやってはいけない。私が居なくなったらどうする。あの子はこれからどうすればいい?
そうだ、私は……私は―――――

「ごめんなさい」

 涙が零れ落ちた。あまりにも幸せすぎたのだ。例えそれが泡沫のゆらぎであると分かっていても、抗えないほどに。
 私は服に手をかけた。ないはずの心臓が、あるような錯覚。胸が痛い。何かに駆られるように、私は服を乱暴に着ると、履物も履かずに屋敷を飛び出した。そして、走る。浮いていけばいいというのに、走り続ける。痛みなんてろくに感じないくせに、足の裏が痛かった。呼吸なんてたまに忘れる程なのに、今は酸素が足りなくて苦しい。
 何かを求めた。手に入れてはいけないはずの何かを手に入れて、きっと不幸にしかならないはずのそれを求めて走り続けた。そして、そこにたどり着く。
 老木は、巨大な幹を携えて、何を咲かすわけでもなくそこに佇んでいた。いつもと同じ、西行妖。それはきっと、当たり前で幸運な事。だから、踵を返せばいいというのに。ならば、それ以上を求めなければいいのに。私は西行妖に掴みかかった。

「お願い、お願いよ西行桜! 花を……花を咲かせて!!」

 必死に叫ぶ。静かな夜の幕を引き裂いて、私の声はどこに届くのだろうか。闇夜に飲まれて、こだます事も許されないというのだろうか。

「お願い…お願い、西行桜」

 それでも声を出し続ける。いつの間にか私は涙を流していた。でもそれは、今ようやく気がついただけで、本当はずっとまえから流れていた。アナタを置いて、ここに来た時からずっと流れている。冷たくて、凍ってしまいそうな涙がずっと溢れ続けている。こんな涙なんて流したくなかった。こんな冷たい手で、涙を拭いたくなんてなかった。私は、私は、ただ―――――

「お願い……私を…殺して」

 ―――――ただ、人間でありたかった。それだけなのに……!
 知りたくなんてなかった。思い出したくなんてなかった。それでも、見せられてしまった。誰も彼もが暖かい事を。誰も私よりも冷たいものがない事を。知るならば、冷たさだけを知りたかった。つらい事だけを思い出したかった。なのになんで…なんでアナタは私に見せてしまったの?
 知ってしまったら、求めるに決まっている。知らなくたって、無意識に欲しているのだから、止まれるわけがないのに。西行妖、アナタはひどい奴だ。私はこんなにも―――――



「あら…?」

 風に乗って桜吹雪が頬を撫でた。辺りをきょろきょろと見渡す。桜の花が綺麗に咲いていた。そして

「なんで……西行妖が?」

 目の前には花を咲かさぬいつもの西行妖。服もはだけているというのに、何をやっているのだろうか? こんな夜更けに、こんな場所に用なんてないはずなのに。フワフワと、体を浮かしながら考える。そもそも、何で浮かずに、地面にほとんどないような足をつけていたのだろうか。考えても仕方がない。帰ろう、あの子も心配するでしょうに。
 屋敷の方へと浮かびながらゆっくりと帰っていく。その途中で

「――――――?」

 西行妖に、呼びかけられたような気がした。振り向き、西行妖に目を向ける。老木は、静かに佇むのみであった。

「妙な夜だわ。本当に、奇妙な月夜」

 そう言って、老木から目を離し、再びゆっくりと帰ってゆく。やがて、少女が見えなくなると、老木は薄く光り始めた。少女は気がつかなかった、老木が少女を見送っていた事に。そして老木が、その太く枯れかけの枝に

『――――――』

 一つだけ、つぼみを宿していた事を。




 数分もかからずして、屋敷へと帰ってくる。屋敷の中はしんと静まり返っており、どこか寂しげな印象を受けた。
 妙な話である。今までだって、夜中に目が覚める事はいくらでもあったのに、そんな風に感じる事なんて一度も無かった。いや、正確に言うならば、そんな風に感じる事がおかしいのである。

「亡霊が、何を浸っているのだか…」

 夜の屋敷をそんな風に感じる自分がおかしくて、独り言を漏らしながら、クスクスと笑う。さてと、春とはいえ今晩は少しばかり肌寒い。さっさと、部屋に戻って

「幽々子様!!」

 妖夢に見つからないうちに戻ってしまおうと思っていたのだが、行動が遅かったのか、あっさりと見つかってしまった。このままでは、面倒なお小言を聞く羽目になってしまう。上手い事誤魔化して、逃げ出してしまおう。

「あら、妖夢。こんばんわ」
「こんばんわ、じゃありませんよ!! どこに行っていたのですか!?」

 何処にって、それは―――――。

「………!」

 トクンと、どこか遠くで私の心臓がなった音が聞こえた。それは、次第に音を早めていき、弧を描くようにして広がってゆく。
 音は、私の体に染み渡り、風穴を開けた。そして、その風穴から、何かが漏れる音が聞こえた。その音が瞳に広がっていき、遠くで咲く一つの桜を映し出した。

「――――――」
「? 幽々子…様?」

 本当に、どこに行っていたのだろうか。何で私は、そこに行こうと思ったのだろうか。今となっては分からない。
 頭の中が雲のようにフワフワと浮かんでいた。けれども、それと同時に、青空のように澄み切っていた。何かを思い出せそうであったけれども、それを私は望んではいけないのだろう。
 だから他に

「幽々子でいいわ」
「はい? なんですか、いきなり?」
「幽々子でいいの。様なんて、つけないで」

 アナタにお願いしたい事があった。頭の中に、常に響き続けている誰かの声が、それが私の望みだと叫び続けている。だから、私は口にした。それはそう

「ええ!? そんな…幽々子……様!?」

 アナタが困るのを知っているにも関わらずに。思っていたとおりの反応を見て、笑いが漏れてしまった。それを見て、妖夢は顔を赤くする。ああ、違うの。違うのよ、妖夢。私は、私はね―――――

「お願いよ…妖夢」
「!」

 ―――――ただ、アナタにそう呼んで欲しいだけなの。

「ゆゆ…こ」

 バツが悪そうに、ぼそりと呟く。私は知っていた。妖夢は私の本当のお願いを断る事なんて出来ない事を。ほんの少し卑怯だったかもしれないけれど、許して欲しい。

「なあに、妖夢」
「え…あ、う…な、何でもありま…せん」

 顔を赤らめて、スカートの端をぎゅっと掴み俯いてしまう。真に愛しいとは、この時のためにあった言葉なのだ。私は妖夢を抱き寄せた。

「!?」

 よほど狼狽したのか、固まって動かなくなってしまった。少しだけ困った。私は妖夢をこんな風にするために抱き寄せたのではないのだから。

「妖夢…どこにも行かないで」
「え…? 幽々子さ…幽々子?」

 一度言い直して、私の顔を見上げる。よほど不思議な事を言われたのか、呆然としていた。けど、それでもよかった。恥ずかしがられるよりも、ずっと……

「ゆ、幽々子こそ!」
「?」

 突然、妖夢が声を荒げた。少し驚いたけど、何を言うわけでもなく妖夢の言葉を待つ。

「幽々子こそ…どこにもいかないでください!」

 妖夢はそういうと、私よりも強く私の事を抱きしめてきた。私を掴んで離そうとしない二本のか弱い手は、震えていた。

(ああ…そう……なのね)

 そうして、ようやく私はようやく思い出した。

「大丈夫、大丈夫よ。妖夢」

 それはとてもとても、大切な約束だった。どこへ行こうと変わらない、だからどこへ行かなくてもいい、そんな約束だった。

「私はずっと一緒にいるわ」
「ずっと…一緒に……」

 妖夢は私の言葉を聞いて、少しだけ考えるような顔をして黙ってしまう。けれどすぐに勢いよく顔を上げたかと思うと

「私もずっと一緒にいます!」

 私と、約束してくれた。言葉にしなくてもいいのに、言葉にしなければ不安になってしまいそうな、弱々しい約束。けれども、それが結ばれたのなら、怖いものなんてどこにもないのだ。
 私は妖夢を強く抱きしめた。妖夢も私を抱きしめ返す。ずっと変わる事のないこの世界を桜の花びらだけが見つめていた。
 けれども、いつまでもこうしているわけにはいかない。私は妖夢から手を離した。妖夢の体がビクリと跳ねる。不安そうに顔を上げて、私の事を見る瞳が、私を見つめていた。

「夜も遅いわ。もう寝ましょう」
「え? そ、そうですね! そうです…よね」

 この子はとても分かりやすい。私みたいなへそ曲がりとは違い、ストレートに思いを投げかけてくる。だから、それを拾うのなんて

「春も随分にぎわってきたけれど、まだ少しだけ肌寒いわ。一緒に寝てくれないかしら?」

 たやすい事なのだ。私は妖夢に手を伸ばす。妖夢は恥ずかしそうに、もじもじとしていたけれども

「はい…! お供します!」

 そう言って、私の手を握り返した。私よりも暖かくて、人間よりも半分だけ冷たい手の温もりが、私の手を包む。もう二度と忘れる事のないであろう、この温もりを大切にしたいと思った。二度と忘れぬように、ぎゅっと握り締めて。




 その日、少女は二つの夢を見た。一つは、自分と似た少女が、自分の知り合いと似た少女達と、笑顔でどこかへ行ってしまう夢。そして、もう一つは、一羽の蝶がどこかで見たような大きな桜の木の下で楽しそうに泳ぐ夢。とても、綺麗な桜だったのを、少女は覚えていた。そして少女は考える。もし、わが身が誰かの見ている夢ならば…と。
 少女は、まだ日も昇らぬ朝方に目を覚まし、隣に寝ている少女を起こさぬように考え続けた。そして、少女は悟る。それが取るに足りない事なのだと。少女には、信じられるものがあった。だから、揺るぐ事などもう二度となかったのだ。
 少女は、隣で寝ている少女の髪を撫でると、再び眠りにつこうとした。布団にもぐりこむと、眠ったまま少女の袖の端を掴む小さな腕があった。少女は嬉しそうに笑みを漏らすと、一つだけ願いができた事に気がついた。
 少女は、その思いを託し、どこかで聞いた懐かしい歌にのせ

『願はくは 其のもとにて 我あらん 我が夢見夜の 華蝶のように』 

 呟くように詠った。







【西行に謳う】

 桜も散り始め、ほんのりと初夏の匂いを感じ始める。私は、庭に置かれた長椅子に腰を下ろし、お茶をすすっていた。傍らには、十本以上詰まれた団子、そして肴には

「やめてー!!」
「別にいいじゃないか、減るもんじゃないし」

 黒い魔法使いもどきに、刀を取られそうになっている我が従者。声もろくに聞き取れないほどに遠くでのやり取りであったが、なんとも満足な組み合わせであった。

「まったく、嫌がっているんだし、やめてあげなさいよ」

 と、そこに横槍をさす影一つ。紅白がトレードマークの巫女であった。巫女は魔法使いに近づいていくと、魔法使いの頭を軽く小突いた。魔法使いは、こちらには聞こえないが、巫女に文句を言っているようであった。
 ああ、これでお終いなのか。そう思い、腰を上げてみなのいる所に向かおうかと思ったが

「うわーん!!」

 素敵なお声が聞こえてきたので、落ち着いてお茶をすすり始めた。どう言いくるめられたのか、巫女までもが妖夢に襲い掛かっていた。流石に二人がかりでは分が悪いのか、先ほどまでの均衡は崩れかかっていた。
 あまりにも平和な光景に、私は空を見上げた。ふと、最近思い出した事へ、思いを馳せる。

 いつの頃であったか、分かるのは気が遠くなるほどに、昔の事であると言う事だけであった。なにせ、その時の私はまだ生きていて、背丈も今の半分ほどしかなかったのだから。
 それは私の唯一の生前の記憶であった。不思議な事に、それ以外の事は何一つ思い出せないのだ。逆に言えば、それを思い出した事の方が異常なのかもしれないけれども。
 ともかく、その時の私はまだ幼く、今よりも可愛い童女であった訳だ。

 その日は、我が家よりも三里ほど離れた町で祭りがあった。母様はそこで用事があったらしく、一緒に行く事を約束していた訳なのだが…私は軽い風邪を引いてしまい、留守番と相成った。
 その時の私は、幽霊になった今とは違い、随分と体が弱かったようで、ほんの少し風邪でも、大事を取らねばならなかった。だから、それとて珍しい事ではなかったのだが

『―――――』

 父の代わりに忙しい母様と普段あまり接する事が出来なかった私からすれば、それは本当に悲しい事だったのだ。私には、父様がいなかった。私が生まれてくる寸前に死んでしまったのだと母様は言う。それ故に、母様は父様がなさねばならぬ事を一身に引き受けていた。しかも、それが私に関する事なのだから、もうなにも言えないのだ。
 子供心ながらに、母様は立派なのだと思った。けれども、それ以上に寂しかったのだ。
 私は、母様を困らせようと、押入れに閉じこもった。けれども、母様はそんな私を置いて出かけてしまった。私の様子を見に来た使用人は、気まずそうに私にそう告げたのだ。その使用人も、私の事を恐れていたのか、それだけ告げると怒りを買わぬようにと、そそくさと部屋から出て行った。
 そうなってしまうと、何が悲しかったのかも忘れて、押入れの中から出るのが嫌になった。母様は私の為に、頑張っているのだと知っていた。けれども、私はそんな事よりも、ただ愛して欲しかった。未来の事なんて考えず、今抱きしめて欲しかったのだ。
 そんな事を思いながら、押入れの中で泣いていると

『―――――どこか痛いのか?』

 押入れの戸が開かれ、誰かに話しかけられた。使用人の誰とも違うその声に、とっさに顔を伏せてしまう。そんな私の顔を夏の涼しい風が、浮き上がらせる。声も立てずに私の事を待っていた誰かは、静かに屈むと

『出ておいで』

 優しく手を差し伸べた。私は困惑しながらも、その手を握る。ゆっくりと押入れから出てきた私をその誰かは抱きしめた。とても驚き、なにがなんだか分からなくなった。けれども

『―――――うっ…うう』

 誰かに抱きしめてもらえた、その事実が嬉しくて大声で泣いてしまった。その人は、私が泣き止むのをずっと待っていてくれた。私が泣き止むと

『庭に出ようか』

 まだ鼻をすすっている私を外に連れ出した。広い庭で蝉が我が物顔でミンミンと鳴いていた。日差しは強いけれども、その分風が心地よかった。
 何を話すわけでもなく、二人でブラブラと庭を散歩する。私を連れ出したその人は、随分と顔立ちの整った男の人であった。服装からして、どこかの僧のようであった。本来なら訪れる理由も無い人間であったが、なんとなく、どうしてここに来たのかは分かっていた。
 突然、その僧の足が止まる。気がつけば、春になると周りに花びらを撒き散らす、この家で一番大きな桜の前に来ていた。
 曰く、この桜は妖木であるらしい。母の忙しい理由もこの木が関係しているのだと、おしゃべりな使用人から聞いていた。それ故に、この木の事が私は嫌いであった。

『立派なものだな』

 僧がようやく口を開いた。懐かしそうに木を見上げる僧を私はただ見つめていた。

『君も、この木のように大きくなりなさい』
『この木ほど大きくなってはもはや妖です』

 私がそう答えると、僧は『まったくだ』と愉快そうに笑った。
 僧はこの妖木を見て満足したのか、再び私の手を引いて屋敷へと戻って行く。けれども、涼しい風が吹くとはいえ、日差しが強かったので

『あっ……』

 私は軽い眩暈を起こしてしまう。僧は非常に慌てた様で、誰か人を呼ぼうとしていたが、私はそれを止めた。言われずとも、この僧が無断で敷居を跨いだのは私だって分かっていた。誰か人が来れば、この穏やかな時間も終わりを告げてしまうのだ。だから

『抱き上げてくださいな』

 きっと、これが今とれる最善の策なのだ。
 私がそう言うと、僧は迷わず私を抱き上げて、日差しから隠しながら、急ぎ足で屋敷へと向かった。
 そして、また初めて会った部屋へと戻ってきた。私を敷いてあった布団に寝かしつけると、僧は私に背を向け再び庭へと戻って行く。これが別れなのだと、私はすぐに理解した。だから私は、ただ寝ている訳にはいかなかった。布団から起き上がり、ふらつく足で立ち上がる。僧は、私の方へ振り向いたが、こちらにこようとはしない。けれど、それで十分だった。私は

『ありがとう、父様』

 ただ、それさえ言えれば十分であったのだから。貴方が誰かなんて、抱きしめられた時から分かっていた。だから、どうしても呼んでみたかったのだ。今を逃せば、二度と呼べぬ、その呼び名を。
 父様は、随分と驚いた顔をしていたが、とても寂しそうな顔をすると私に近づき

『生きろ、幽々子』

 力いっぱい抱きしめた。苦しかったけれども、とても嬉しかった。

『元気でいてくれ、いつでも笑っていてくれ。私にはそれを望む事しか出来ないのだ』

 その言葉は、とても重くつらいものだった。父様は、私の事を知らないからこそ、それを言えるのだ。生きる事のつらさを痛いほど知っている私には、父様にそれを約束する事なんて出来なかった。
 だから、最後に

『さようなら、父様』

 もう二度と出会う事の無い貴方に、本当の別れを。
 私は、父様をやさしく私から引き剥がす。父様は笑っていたけれども、それはとても寂しそうな笑顔だった。私も、笑顔を浮かべる。父様はそれを見ると、私から背を向け、この屋敷から出て行った。もう二度と振り向こうともせずに。
 私は、その背中を見えなくなるまで見送ると、その場に泣き崩れた。ありえる事の無い幸せが見えてしまったのだ。それを自分の手で振り払った。それが正しい事だとしても、泣かずにいる事なんて出来なかったのだ。

 その後の事は、思い出す事が出来ない。ただ、何故死んだのかは自分の力と照らし合わせて、理解していた。それを思えば、父様には申し訳ない事をしたものである。

「幽々子! 助けてー!」
「あっ、こら汚いわよ! 助けを求めるなんて!」
「二人がかりで襲い掛かっている、私らが言うのもなんだけどな」

 妖夢が助けを求めている。どうやら防衛線が決壊したらしい。やれやれと、腰を上げて三人にむかって走り出す。

「幽々子!」
「親が子供のケンカに顔を出すとは…」
「ん? いや、なんか様子がおかしくないか?」

 段々と、三人に近づいていく。私は速度をさらに上げて

「ど~ん!」

 三人に飛び掛った。勢いをつけたおかげか、上手い具合に全員をはじき倒す事が出来た。うん、見事なまでのストライクだと、自分を褒める。

「っ…何すんのよ! 能天気幽霊!」
「いたたっ。人間に迷惑をかけると、悪霊になるんだぜ?」
「幽々子…ひどいですよ」

 三人から文句を浴びながら、空を見上げる。人間が言うには、死人は天に昇るらしい。私はお空のどこかにいるだろう人に話しかける。

(拝啓父様へ。お願いは一つ守れませんでした)

「こら、聞いてんの!? 幽々子!!」
「あっ! こら! 幽々子になにをする気だ!?」
「おっ、ケンカか?」

 いつの間にか弾幕ごっこをはじめている三人の方を見て、笑顔を浮かべる。そして私は、空から目を離した。その代わりに、三人を見据えて、そちらに向かう。

(けれども父様)

「私もまぜて~」
「うわっ! こっちにくるな!」
「幽々子、私は味方ですよ!?」
「いいや、私の方が味方だ…っておい! 問答無用か!?」

 三人に絡み、じゃれあいながら、私は幸せをかみ締めていた。そして、一瞬瞳に映った空に最後の言葉を送る。

(私は、死しても元気で、いつでも笑っています)

 言葉は、青空に消えて、運ばれていった。私は、今度はいつ思い出すかも分からないそれに、蓋をきっかりと閉めて、笑顔を浮かべた。
 ここまで読んでくださいました皆様方、どうもありがとうございます。
 はじめまして、ガイというのものです。今回が初投稿となります。
 この作品は一年以上前に書いたもので、諸事情によりお蔵入りとなっていたのですが、一念発起し投稿する次第となりました。
 至らぬ点が多いですが、少しでも楽しんでいただけたのであれば幸いです。
 ご意見、ご指摘等がありましたらばよろしくお願いいたします。

 それではこの辺で失礼させていただきます。
ガイ
[email protected]
http://radicals_ensation.web.fc2.com/
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コメント



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5.90ずわいがに削除
何が、誰の、夢だったんでしょうねぇ。表に出てきてしまった夢の中の住人は、やはり夢の世界を望むんでしょうか。
達観してない感じな幽々子の“少女くさい”ところがまた良かったです。