ビーッ、ビーッと、耳を劈くようなクラクションの音がした。
蓮子ははっと顔を上げた。バスの運転手が窓を開けて、前方に向かって何事かと騒いでいる。
「何……!?」
メリーが言うと、バスの運転手がこちらを振り返って「クマ、クマ……」と呟いた。
クマだって? 蓮子が身を乗り出すと、バスの五メートルほど向こうのアスファルトの上に、黒い塊が見えた。
体長二メートルほどの真っ黒い獣がうごめいていた。どきりと、心臓がひとつ強く打った。
対向車も坂の途中でストップし、クマを追い払うべく、盛んにクラクションを鳴り響かせている。
クマはうるさそうにバスを一瞥して、道路脇の森へ消えていった。
「すごい……」
思わず、というようにメリーが呟いた。蓮子の心臓もまだどきどきと脈打っている。
クマが山に消える一瞬のことだった。鮮やかな月の輪が胸に覗き、蓮子の目はそれに釘付けになっていたのだった。
ツキノワグマはクマの中でも小柄な部類に入るのだろうが、それでも人間と比較すると途轍もなく巨大な獣に感じられた。
動物園でヒマそうに日向ぼっこをしている印象しかないのに、野生のクマとなると途端に恐ろしい獣に思えてしまうから不思議なものだった。
運転手が苦々しげに言った。
「最近、悪さするクマが増えて困ってるんですよ。あっちこっちで畑のものを食われたり、蜂箱を荒らされたり。鶏を殺られたところもありますよ。最近のクマは節操がなくて困ったもんです」
そう言って、若い運転手はギアをローに入れてバスを発進させた。
ブルン、とバスが身震いし、再び狭い山道をのろのろと走り出した。
「凄いねぇメリー。写真撮っておけばよかった」
「クマってまだ野生のもいるんだね……」
メリーの顔は心なしか上気していた。自分たちのような都会者にとって、クマは動物園で見るものと相場が決まっている。野生のウサギの類ですら見たことがない二人にとって、ツキノワグマの邂逅はことさら刺激的だった。遠野の自然にはそれだけの懐の深さがあるということか。こうなると、異界探訪の目的など忘れてしまいそうだ。
「でもさでもさ、クマって怖いよね。死んだフリしても効果ないって言ってたし」
「時速五十キロぐらいで走れるから、逃げてもムダって聞いたわ」
「見つかった時点でもうアウトってことよね。こわーい、妖怪並みね」
「クマに遭っちゃったらどうしよう。あーあ、素敵な猟師が来てクマを退治してくれたらいいのに」
きゃあきゃあと騒いでいると、背後に視線を感じた。
なんだ? 蓮子がふっと視線を向けると、バスの後部座席に座った老人がこちらをじっと見ていた。
「罰当たりなことだ――」
目をそらすのと同時に、ぼそり、という感じで呟いて、老人はそれきり視線を窓の外に移してしまった。
「え? どうしたの蓮子?」
メリーが訊いてくる。どうやら今の呟きは聞こえなかったらしい。
なんでもない、と首を振って、蓮子はバスの座席に座りなおした。
はしゃぎすぎたにしても、「罰当たり」とまで言われると少々心苦しい。
「ねぇどうしたの、蓮子ぉ」と口を尖らせるメリーに、蓮子は「座っとけ」と苦笑顔で応じた。
「もうすぐ目的地だし、今から元気を使いすぎるとクマに食べられちゃうよ」
そう言って、蓮子は含みのある視線を老人に向けた。
連れもなく、ぽつねんと一人で座席に座っている老人は、もうこちらを見ようともしなかった。
はーい、と親の言うことを聞く子供の声を出して、メリーが座席に座り直した。
蓮子は手帳を広げて、目的地に着くまで無言を通すことにした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
山道を延々と歩き続けると、目的地が見えてきた。
アブラゼミが啼き喚いてはいるものの、奇妙に静かに感じられる森を抜けた先。『五百羅漢入り口』とある白い柱が見えてきて、蓮子は嘆息した。
「もう、こんなに山の中にあるなんて聞いてなかったわ」
後ろのメリーが精根尽き果てた表情でぼやいた。顔中が汗に塗れ、服の襟までをじっとりと濡らしている。
「ごめんごめん、ちょっと情報が違ってた」と弁解して、蓮子も額の汗を服の袖で拭った。
遠野の名所のひとつ、五百羅漢。
かつてこの地を襲った天明の大飢饉。その餓死者を供養するために、たった一人の仏僧によって彫られた三百八十体の羅漢像。自然石に彫られた羅漢の神々しい姿は、遠野が重ねてきた信仰と飢餓の歴史を余すところなく伝えるものである――。
とは聞いていたものの、蓮子はまたもや首を傾げる羽目になった。
「なんだこりゃ。どこに羅漢像があるの?」
メリーがとぼけたように言う。蓮子も「わからん」と首を振り、目の前の光景に視線を戻した。
鬱蒼と茂った杉林が広さ五十畳ほどに渡って切り拓かれ、苔むした自然石が累々と転がっている光景があった。
その光景こそ、遠野の自然の懐の深さを知らせて有り余るものだが、それ以外、特に目を引くものもない。
五百体の羅漢、と聞いて地獄を連想したのは、少し早合点だったかもしれない。
「メリー、何か見える?」
「いや、全然。気配もないわ」
メリーは首を振った。確かに、と蓮子は肯定した。
杉木立が日の光を遮っているおかげで、見た目だけはいかにもだが、ここのそれは森林浴にもってこいというような類のもので、いっそ清々しいくらいだ。
「デンデラ野と同じね。どこにあるのかしら?」
「とにかく奥に行ってみましょう」
メリーを促して、蓮子は自然石が転がる森の中へと分け入っていった。
腰の丈ほどもある花崗岩は、苔むしていて滑りやすい。岩の窪みに足をかけて、一息に体を引き上げる。
どこかからチョロチョロと水音がした。下を見てみると、岩と岩の間に水が流れていた。この巨石群の間を沢が流れているらしい。
沢の近くは真夏だというのに涼しく、自然に汗が引いていった。
服のせいでうまく石を越えられないメリーに手を貸しつつ、蓮子は沢の奥へと進んでいった。
が、肝心の羅漢像はどこにも見当たらなかった。四苦八苦しながら沢の奥にたどり着いた蓮子は、大きな石の上に立って首をめぐらせた。
今来た道を見てみても、それらしきものは何もない。時折山鳥の鳴き声が聞こえるだけで、ここではセミの声も遠く聞こえる。
耳が痛くなるほどの静寂だった。
思わず、蓮子は岩の上に座り込んだ。
「まさかガセネタ……?」
蓮子が首を捻った瞬間だった。「あ……!」という声が聞こえて、蓮子は驚いてメリーを見た。
「どうした?」
メリーは蓮子が座っている岩を指差し、「これよ、これ!」と声を上げた。
足元を覗いてみた蓮子は、メリーと同じように、あっと声を上げた。
自分が乗っている岩に、なにやら彫られている。
そこには、苔に半ば隠されるようにして、座禅を組んで瞑目する仏僧の姿があった。
「これが……!?」
慌てて石を降りた蓮子は、それをまじまじと見つめてみた。
自然の造形ではない、明らかに人工物と知れるそれ。絵面こそ稚拙ではあったが、掘り込まれた僧はどことなく高貴な顔立ちをしている。
その造形を指でなぞって見ると、花崗岩のざらりとした感触が手に伝わった。かなり古いものらしい。
「こっちにもあるわ!」
メリーが違う石を指差した。蓮子が近づいてみると、そこにも僧の姿が掘り込まれていた。
蓮子は次々と石を検めてみた。一見なんの変哲もないただの自然石。そのほとんどに、文字通り仏の微笑を浮かべる僧の姿が彫り込まれていた。
蓮子はたった今自分たちが越えてきた沢筋を見渡し、呆然と呟いた。
「まさか、この石が全部……?」
たった今、自分たちが踏みつけ、足をかけて登ってきた石。それが五百羅漢だというのか。
感激する前に、自分がやったことの理解が遅れてやってきた。
自分は何をした? 餓死者供養のために彫られた仏像を踏みつけ蹴飛ばして……。正直、ぞっとした。
「メリー……私、バチが当たるかも」
「ちょっと、ヘンなこと言わないでよ……」
メリーがひきつった笑いを返した。
草木に埋もれ苔に埋もれ、この世の終わりまで三千世界を見守る仏たち。呆然と、二人はその光景を見ていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ねぇ、蓮子」
「何?」
「どうして、あんなものを作らなきゃいけなかったのかしら」
帰りに立ち寄った神社に、奮発して百円を投げ込んで侘びを入れた帰り道だった。メリーがぽつりと言い、蓮子は顔を上げた。
今のところ、足音だけの追跡者の存在や、目の前をこれ見よがしに横切る御使いキツネの姿――などはなし。
慈悲深い阿羅漢たちは自分の所業を許してくれたのだと楽観することにして、蓮子は「そうねぇ……」と応じた。
「まぁ、天明の大飢饉のときは相当酷い口減らしがあったようだしね」
「口減らし……」
「そう、口減らし。知ってる? 天明の大飢饉の年は1783年から1788年に起こったのよ」
蓮子が言うと、メリーがどういうこと? と言うようにこちらを見た。
「問題。1780年後半に起きた世界史を揺るがす事件を挙げよ」
蓮子がそう言うと、メリーは顎の先に人差し指を置き、しばし考え込んでから、言った。
「……フランス革命?」
「正解。1789年のフランス革命ね。というのも、天明の大飢饉が起こった1780年代は世界的に天候が不順だったのよ」
「というと?」
太陽は暴力的な日差しで照り付けてくる。
ちょっとはこっちに遠慮したらどうだ。苦々しげに舌打ちして、蓮子は続けた。
「1783年の六月のことなんだけど、フィンランド南部にあるラキ火山が噴火してね。硫黄を主成分とする火山ガスと火山灰とが成層圏にまで達して、北半球全体が異常気象と凶作に見舞われたのよ。ヨーロッパでは「ラキの靄」って言われて恐れられたらしいわ」
「へぇ、それじゃあ、それによる凶作と貧困がフランス革命の遠因になったってことね」
「その通り」
蓮子は額に滲んだ汗を拭った。
フランス革命と天明の大飢饉。どう考えても繋がりそうにない歴史の転換点は、実は意外な点で繋がっていたりするのだ。
「天明の大飢饉の死者は、ここの領内だけで数万人。実際はその数倍以上だったらしいけどね。特に遠野周辺はこの通りの土地だから、当時は口減らしが横行したらしいわ」
メリーは無言だった。また飢饉かと、堅くなった横顔がそう言っていた。
飢餓と貧しさの中の暮らし。遠野の歴史を一行で要約すればそうなる。ただでさえ苦しい山村の生活は、天候が不順になるとさらに過酷なものになり、飢饉という形で多くの人命を奪う。そのとき、真っ先に減らされるのは生産性のない老人や子供の命なのだ。
「これは大学の資料で読んだ話なんだけど……子供を川原に連れ出して、子供の頭に石を振り下ろすんだって。もう食べたいって言わないから許してくれって、子供はそう言って泣くらしいんだけどね。川に棄ててもまだ子供は生きてるらしくて、泣きながら川を流れて行くんだとか……」
「ちょっと、やめてよ」
メリーが険しい顔で遮った。いかん、ついつい口が滑った。
ごめんごめんと謝りつつ、蓮子は言った。
無言の時間が流れた。
しばらく歩くと、メリーが「そう言えば……」と口を開いた。
「あの羅漢像、優しい顔をしてたわよね。まるでお地蔵様みたいだった」
「そうだね……」
メリーの言いたいことが、蓮子にはなんとなくわかった。
地蔵菩薩。釈迦入滅後、この世を託された菩薩。賽の河原で石を積む子供たちの御霊を救い上げる地蔵菩薩は、言うなれば子供のための仏である。
あの五百羅漢像が奇妙に優しい顔をしていたのは、ひょっとすると口減らしのために殺された子供たちに対する供養の意味があったのではないか。
ぼんやりそんなことを考えて、蓮子は空を見上げた。
ギラギラと照りつける太陽は、冷夏だと言われた去年のそれとはまったく違う。
そう言えば、今年は真夏日が一ヶ月近くも続いている。例年にない酷暑の年になるとニュースで盛んに言われていたっけ。
年々深刻になりつつある地球温暖化の影響か、はてまたもっと別の理由があるのか。蓮子にはわからなかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
二人が風呂から出てくると、民宿の主人と目が合った。
「やぁ、京都のお客さん。もうすぐ食事の用意が出来るから、それまで部屋で待っててくださいね」
そう言って皺だらけの顔をくしゃくしゃにした主人は、膳を持ったまま暖簾の奥へ消えていった。
霊山として名高い早池峰山は、その昔権現の啓示を受けた猟師によって開山されたのがその始まりと言われ、山は六月頃まで登山客の客で賑わう。今二人が泊まっている民宿をはじめとして、早池峰山麓にある民宿のほとんどは、春から夏にかけての『御山詣で』の時期だけ民宿の看板を掲げる半農家の民宿なのだった。
心地よい疲れが体に溜まっていた。汗も流したし、幾分気持ちもさっぱりした。
思わずひとつ伸びをすると、メリーが言った。
「ねぇ蓮子、私喉が渇いちゃった。ちょっと外の自動販売機で飲み物買って来るわね」
蓮子はメリーを見て、どきっとした。浴衣の裾を少しだけ肌蹴たメリーがいた。高潮した頬が、品のよい西洋人形を思わせる。豪奢な金髪と相まって、その様は女の蓮子から見ても十二分に扇情的だった。
こんな姿、あまり人には見せたくないものだと思う。そこらのゴロツキに目をつけられたらどうするんだ。私の可愛いメリーが……そんなことを考えてしまった蓮子は、慌ててその妄想を振り払ってうんうんと頷いた。
すぐに戻るね、と言い置いて、メリーは財布片手に民宿の外へと出て行った。
湯疲れのせいか、少々体がだるかった。泥が詰まったように重い体を引きずって、蓮子は板敷きの廊下を歩いた。
あと三十分もすれば食事だ。それまで部屋で休むとしよう。そう決めて、蓮子は民宿の二階に続く階段を昇ろうとした。
そのときだった。男湯の方から人影が出てきて、蓮子は何気なく視線をそちらに向けた。
どきりと、心臓がひとつ強く打った。昼間のバスで見た、あの老人だ。
棒立ちになった蓮子を怪訝な表情で見てから、老人の方も蓮子が誰だかわかったらしい。気まずそうに視線を反らした老人は、そのまま無言で廊下の奥へと引っ込んでいった。
左足を引きずるようにしていたのが気になった。パタパタとスリッパの足音が遠ざかってゆく。
しばし蓮子は、老人が消えていった方を呆然と見ていた。
「お客さん、どうかしましたか?」
突然声をかけられて、蓮子は慌てて後ろを振り返った。
民宿の主人がいた。板間に突っ立っている自分を見て、何事かと声をかけてきたらしい。
ちょっと迷ってから、蓮子は「あの、ちょっとすみません」と質問する声を出した。
「あの、ここに泊まってる方で、七十ぐらいのお爺さんがいますよね?」
「お爺さん……ああ、熊撃ちの爺さんの事ですか?」
主人が頷いた。「熊撃ち……?」と蓮子が問うと、主人は恥ずかしそうに頭を掻いた。
「いやはや、すみません。どうも訛りが抜けないもので。熊撃ちっていうのは、猟師のことです」
「猟師、ですか?」
「そう、猟師です。あの爺さんは、ここからずっと南に行った先にある町の人で、ずうっと昔からここの常連なんですよ」
猟師。無論、山郷には猟師が多いという話には聞いたことがある。秋田のマタギに代表されるように、その昔、土地の貧しい山村では、陸軍払い下げの村田銃を手にして獣を捕り、まとまった額の現金を稼ぐのが一般的であった。肉や毛皮は無論のこと、中でもツキノワグマの胆嚢を干した「熊の胆」は万病に効くとされ、よい収入になったのだと聞いたことがある。
「そんな人が、なんでここに?」
「それはわからないですが、猟師を辞めてからはしばらく見ない人だったですからね、御山に詣でる気なのかも知れません。もっとも、あの足では苦労するでしょうから、本当のことはわかりませんが……」
御山といえば、ここでは一般的に早池峰山を指す。そう言えば、早池峰山の開山はとある猟師が見た夢だと聞いたことがある。
猟師と早池峰山、この二つを繋げるそれ以外のキーワードがないか。考えてみたがわからなかった。
「あの、不躾な質問なんですけど、お爺さんのあの怪我はいったいどこで?」
「なんでも、熊撃ちだった頃に痛めたものらしいです。今は猟師を引退して、年金暮らしの生活だったと言ってましたが」
民宿の主人はそれだけ言うと、「すみません、私はここで」と丁寧にお辞儀をして、調理場へ消えていった。
結局、疑問は解けずじまいだった。熊と老人、否、爺さんの間には何らかの関係があることはわかったが、それでも「罰当たり」と謗られた理由はわからずじまいだった。
濡れた服を着せられたように、居心地が悪かった。
蓮子が頭を掻いていると、「お待たせ」という声が背中に聞こえた。
振り返ると、両手に缶ジュースを持ったメリーが怪訝な顔をした。
「何よ、ちゃんと蓮子の分も買ってきたわよ」
ぶすっとした表情の蓮子を見て、メリーは自分のことを怒っているのだと思ったらしい。
ほら、と掌に押しつけられたコーラの缶は冷たかった。蓮子はコーラと一緒に、何だか釈然としない気持ちを飲み込んだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
夢を見ていた。
蓮子は見たことのない神社の前に立っていた。おかしいな、こんな神社、遠野にあったかな。
大きな鳥居の向こうに、巫女服を着た少女がいた。
歳の頃は十五、六というところだろうか。あるいは蓮子と大して歳が違っていないのかもしれない。
黒く、艶やかな髪が目に焼きついた。
近づいて声をかけようとすると、少女は境内の掃き掃除をしていた手を止め、こちらを振り返った。
肩に伸ばしかけた手を慌てて引っ込めた蓮子の顔を、少女は咎めるような目で見た。
「罰当たりなヤツ」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
夢の中の少女のおかげで、次の日の気分は最悪だった。
うえー、と呻きながら歩く蓮子に、メリーは心配そうな顔で覗き込んできた。
「どうしたのよ蓮子。昨日はあんなに疲れてたのに」
老人だけでなく、夢の中の少女にまで罰当たりだと言われた。
それがバスの中での言動を指したものか、それとも五百羅漢を踏みつけにしたことに対してのものなのか、考えているうちに夜が明けてしまったのだった。
夢にしても、さすがに決まりが悪かった。
なんでもない、と首を振って歩き出した蓮子は、また山道をよたよたと歩き始めた。
今日は遠野の山々を歩いてみることにしようと、昨日寝る前にメリーと話し合っていた。
こと民間信仰や伝説の舞台は、意外にもなんでもないところにあったりするものだ。そういうものを冷やかしながら、ゆっくり遠野の自然を堪能してみるのもいいではないか。
デンデラ野に行ってみてわかったことだが、ここには思っていたよりずっと多くの異界の影があるようだし。急がなくても異界は逃げないだろう。
クマザサとシラカバが埋め尽くす山の中腹を、アスファルトの一本道が続いていた。
甲高い声で啼きながら、名前も知らない鳥が飛んで行く。通り過ぎる車もなく、遠野の山は心地よい静寂に満ちていた。
しばらくぶらぶら歩いていた蓮子は、一直線に伸びる道の向こうに人影を見つけた。
道の脇、山の斜面にひっそりと佇む鳥居の影に、誰かが座り込んでいた。いや、へたり込んでいるという方が正しいだろう。
よく目を凝らしてみて、蓮子は絶句する気分を味わった。
そこにいたのは、昨日バスの中で出会った、あの老人だった。
思わぬところで三度目の邂逅を果たしてしまったとうろたえる前に、メリーが老人を指差した。
「蓮子、誰かいるよ」
声をかけようか迷いつつ近づいてみると、老人は膝を両手で抱くようにしながら荒い息をついていた。
このまま通り過ぎるわけにもいかないようだ。意を決して、蓮子は老人に声をかけた。
「あの、すみません」
こちらに気づいていなかったのか、驚いたように顔を上げた老人は、蓮子の顔を見た途端に顔を俯けてしまった。
何事か喋っているようだが、声が小さすぎて聞き取れない。
「お爺さん、どこかお体の調子でも……?」
見かねたように、メリーが助け舟を出してくれた。
老人は力なく首を振り、また低い声で何事かと呟いた。どうやら、なんでもないというようなことを呟いているらしい。
どう見てもやせ我慢の一言に、蓮子は「お爺さん、足を怪我してるんでしょう?」と訊いてみた。
「なんで知ってんだ」
驚いたように老人が顔を上げた。慌てて民宿の主人から聞いたと説明すると、老人は曖昧に頷いた。
「この腐れ足、言うことを聞かねぇ。歳だとは思ってたけど、これじゃ何もできねぇな」
これから山の神様に詣でなきゃならねぇのに……と悔しそうに呟いた老人は、小刻みに震えている左足を憎らしそうに睨んだ。
老人の隣に座り込んだ二人に、老人はここへ来た理由を訥々と話し始めた。
昨日の晩、電車とバスを乗りついで遠野入りした老人は、今朝早くに民宿を発って、バスを乗り継いでここまできたのだという。
「お爺さん、若い頃は猟師をしてたんでしょう?」
蓮子が訊いてみると、老人はじろりと蓮子の顔を見た。
「それも聞いたのか」
「え? ……えぇ、まぁ」
「なんだってな畜生――」吐き捨てるように言って、老人は再びぼそぼそと語り始めた。
老人は、ここをずっと南に下った先、秋田と岩手の県境の町に住む元猟師と名乗った。
若い頃はそれこそ全国津々浦々を旅していたそうで、カモシカやバンドリ(ムササビ)、テンや野ウサギまで、動くものは何でも獲ったという。
昔は汽車と船を乗り継いで北海道に渡り、ヒグマを捕ったこともあるらしい。アカグマはツキノワよりも格段に大きく、力も格段に強いのだと、老人は昔を懐かしむように言った。
「へぇ、ハンターって感じですね、カッコイイ」
メリーが言うと、老人は緩みかけていた顔を強張らせて首を振った。
「熊撃ちなんぞ、褒められたもんでねぇ」
吐き捨てるような低い声に、メリーがぴくりと体を堅くした。
夏の風が山に吹き渡り、老人の呟きを半ばかき消すようにした。
「食うためだって言ってもよ、殺生する仕事だ。白い米が食える土地に生まれたなら、誰も熊撃ちなんかになりてぇと思わねぇんだ」
老人はそんなような意味のことを言った。
その言葉に、前になにかの本で読んだ記憶が蘇ってきた。
マタギの里に生まれた子供は、将来就く職業をあれこれ迷うことがないのだという。要するに物心つく前から、将来はマタギになることを当然の現実として受け入れるのである。そして、事実マタギになった後は、獣を獲ることに明け暮れる一生を送る。
『マタギ』の語源は、「また」そうして心を「鬼」にして猟に出て行くこと、つまり『又鬼』から来ているのだと、その本にはあった。
耕せる平地など皆無に等しく、まともな収入の当てがない山郷である。
猟師という職業の存在は、山の獣たちの命に縋らなければ生きていけない、過酷な生活の裏返しなのだ。
「クマっこに生まれたのも因果なら、熊撃ちになるのも因果なもんだ。クマはよ、人が山に入るとそれをわかって、胎にいる仔を流してしまうんだ。そうして身軽になってから、わざわざ撃ち殺されに人間の前に出て来るものなんだ。自分の子供を人間の手にかけさせたくない一心でよ」
それでも、鉄砲を向けなければならなかった。家族を養うため、自分が生きるため。その名の通り「鬼」になって、何度も何度も――。
老人は節くれだった自分の手を見つめ、皺だらけの顔を険しくした。
「クマを殺すと、天気が荒れるとも言ったもんだ。熊風って奴だな。殺されたクマはそうして泣いてるんだべな。だから言ったもんだ、クマなど滅多なことで殺すもんでねぇって……」
老人の声は、自分を責めているようにも、昨日の蓮子やメリーの言動を責めているようにも聞こえた。
殺さなければ生きていけない現実。五百羅漢が口減らしの歴史から生まれたように、かつての山郷には、そんな事実が厳然と存在していたのである。
蓮子はなにも言えなかった。老人がなぜ、自分を罰当たりと罵ったのか、わかった気がしたからだ。
風が止み、老人の声が徐々に聞き取りやすくなってきていた。
十年近く前、老人は高齢を理由に猟師を引退した。勤め人となった息子たちもそれぞれ独立し、殺生を重ねた猟師人生から引退することが出来た。
そうして自由になる時間が増えるかと思われた矢先、老人の足をリウマチが蝕んだ。
若い頃に痛めた膝の傷も祟り、歩けるのもあと数年のことだと医者に宣告されたのだという。
「ここに来た年はもう五十年も前だ。酷い冷害の年でよ、米なんか一粒も取れなかった。あちこち走り回ってクマ撃とうとしたけど、山全体がおかしい年だったからな、思うように行かなかった。一頭でいい、熊撃たせてくださいって、ここの山の神さんに手を合わせながら……必死だったすな」
そしてこの遠野の地で数頭のクマを仕留めた老人は、なんとかその年の冬を乗り切ることが出来た。
ここに来たのは、懺悔するだけではなく、獲物を授けてくれた山神にあのときのお礼が言いたかったからなのだという。
しかし、寄る年波には勝てず、病も災いして、お宮まであと一歩というところですっかり体力を使いきってしまった。
本当ならタクシーで来ればよかったのだが、それも叶わずにここですっかりへたばっていたというわけだ。
メリーと蓮子は顔を見合わせた。放っておくわけにはいかない。無言で確認して、二人は老人を立ち上がらせた。
蓮子が背中に手を添え、メリーが老人の手を引き、ゆっくりと山の斜面の道を進んだ。
申し訳ない、申し訳ないと繰り返す老人を、一歩一歩自分で歩かせる。
数歩歩いて、ちょっと休む。数歩歩いて、ちょっと休む。その繰り返しだった。どっと汗があふれ出てきて、顔を汚した。
三十分近く経って、ようやくお宮の鳥居にたどり着いた三人は、その場にへたり込んでしまった。
老人は二人に手を合わせて、何度も頭を下げた。
お宮は、質素なものだった。賽銭箱すらなく、真っ黒になった小銭が数枚、忘れ去られたように置いてあるだけだった。
老人は感慨深そうに鳥居をくぐり、地面に正座して目を閉じた。
長い祈りだった。
夏の風が吹いてきた。からからに渇ききった風だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
携帯電話でタクシーを呼びつけて、老人を民宿に帰してやった二人は、しばらくそこに立ち尽くしていた。
あちこち散策する気は失せてしまっていた。とりあえずお宮に手を合わせて、二人は近くのバス停まで歩くことにした。
三十分ほどして、バスがやってきた。バスに乗り込むと、「あれ、お客さん……」という声がした。
振り返ってみると、昨日の運転手だった。ああ、やっぱりそうだと、若い運転手は笑顔を作った。
「昨日見たあのクマね、捕まったらしいですよ」
運転手が言うので、蓮子とメリーは顔を見合わせた。
「市役所からの依頼で、猟友会が仕留めたらしいです。大きなクマだったらしいですよ。いや、散々悪さしたクマだったですからね、よかったよかった」
運転手は、嬉しそうに言った。二人は、無言で頷いた。
座席に座ると、老人が手を合わせていたお宮が、笹薮の中に小さく見えた。
バスが動き出した。窓の外を見てみると、あれほど晴れ上がっていた空が、急に曇ってきていた。
まるで雲がどこかから湧いてきたかのようだった。
今日の山は荒れるだろうな。蓮子がそう思うと、シラカバの林が生臭い風に揺れた。
了
それが歴史の重みなんでしょうね。
民俗学スレとか好きだからこういう話もっと読みたいです。
どんどん調子に乗って秘封の二人の活動を書いてほしい。
そんな曖昧さが、逆に深読みさせてくれますね。
定型的なオチに慣れると、こういったイレギュラーなラストが無性に楽しくなります。
蓮子の夢に、さらっと楽園の素敵な巫女さんを登場させたのも、なかなかに心憎い演出でした。
うむうむ……これはシリーズ化できるかもしれませんね、秘封倶楽部。期待しちゃいますよか?
余談ながら、マタギ関連の小説だと熊谷達也さんの「相剋の森」が面白かったですね。
次回も期待してます
そのコメしたのは、わちきです。
また秘封倶楽部の活動を書いてくれてありがとう。
ダーク♂民俗学な話……だと?
ダーク♂……
♂
まさか、金●様!?
金●様=道祖神と聞いた憶えがあるし、道祖神で連想されるのは境界……。
なんかワクワクしてきましたがな。続きがあるなら楽しみにしてます。
そういうのって全国各地にありますね。
秘祭的な物とか……
自分もマタギや村田銃の出てくる内容のを書こうとしていたから、
そういう意味では先を越されてしまいましたが……w
いやあうまかったです。
ありがとうございました。
不謹慎かもしれませんが口減らしや姥捨て伝承等が、昔に実際にあった
と思うと非常に興味を覚えてしまいます・・・。
オリキャラだとあまり読んでもらえないから、無理矢理登場人物を
東方のキャラにしてるだけに見える。
今後も秘封倶楽部の二人を使って自分が書きたい、読ませたい話を
書くんだろうけど、もうちょっと東方を意識してくれたらな、と思う。
苦手なんだけどオリキャラの使いどころがいいですよね。お話も引き込まれてしまうし!
でもそれだけに前作と比べて物足りなくも感じたかな・・・秘封倶楽部であることを生かして欲しいです
コメ番37さんと似たような意見になってしまってますけど
詳細や設定実話とかにふれられていないキャラ多いですし
自然の熊を捕獲ではなく、あっさり射殺決定ですか・・・
秘封倶楽部の世界ではなく、ただの現実世界ですね
つまり、あっち方面の民俗学的な話を書いて欲しいわけです。
秘封倶楽部の時代ではなく現代の話である事がわからず『戦前』の文字に驚いてしまいました。
無茶を言っているのは承知ですが、もっと秘封の世界観を活かしたものが見たい。
ですが民俗学を絡めたお話自体は非常に興味深く拝見させていただきました。
グッと引き込まれました。どう書くかより何時書くかが重要な事が分かって居ても難しい物ですよね。
しかし今回は東方キャラでやる必要が有ったのかが疑問ですね。
もっと練ればできたのでしょうが、早く書きたい気持ちに負けたのでしょうか?
何にせよこういった話はそそわではなかなか評価されないのが残念ですね。
こういう命に対する感覚ってのは、どんどん鈍くなっていってるんだろうなあ。
何が悪いってモンでもないが……
それはそれとして、秘封倶楽部らしさがもっとあれば良かったな、と思います。雰囲気は一貫していて良かったんですけれども。
「どうしたのよ蓮子。昨日はあんなに疲れてたのに」
前後の文章に対し何だか違和感があるような気がします。
必死だったすな -> 必死だったな
方言でしたらすみません。