Coolier - 新生・東方創想話

異聞吸血鬼異変 9.5 ~ 番外編 2 ~

2010/04/10 09:19:09
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――――再思の道


雨にけぶる細い道を大妖精は無縁塚に向かって歩いていた。
道の両側は暗い森であり、空は灰色の濃淡を描いている。
釣り人がくれた種は雨に反応して瞬く間に芽を出し、そして大きな一枚の葉を形成していた。
それを傘代わりにして雨の中を歩く。何だか絵本に登場する妖精のようだ、と妖精でも思ってしまう妙な有様だった。
ぬかるんだ道は無縁塚に近付くほどにその静けさを増し、それが降り注ぐ雨の音を余計に際立たせている。
雨が葉を叩くぱらぱらという音。曇り空の映った水たまり。
なんだか嫌だ――と大妖精は思う。一人で雨の中にいるのは余り好きではない。友だちが近くにいれば、傘を投げ出して遊んでしまうのもちっとも悪くはないけれど、一人だとそういう奔放な気持ちにもなれなくて、結局下ばかり見て歩くことになる。ぱしゃりと跳ねる水たまりにあの子の姿は映っていない。

――出来ること

それが無い。何も無い。
友だちが囚われてしまったというのに、自分は何も出来ない。おまけにその友だちを奪っていった吸血鬼のことを憎むことも出来やしない。

――だって

あの小さなヒトは必死だった。屈託のない笑顔の裏に、守りたいものを抱えていた。それはきっと貴重な宝物や高価な財宝のようなものではなくて、当り前の、ただそれでいて何にも代え得ないもの――だったのだろうと思う。
それを知ってもいるから、半ば板挟みのような状況に陥って、大妖精は結局ルーミアを頼る以外の選択肢が見つけられないのだった。

――でも

あの宵闇の少女は、彼女なりにチルノのことは気にかけているようだった。それに――それはまったく勘としか言えないものではあるけれど――彼女について行くことは間違っていないという思いが大妖精の内にはあった。
上手く表現は出来ないけれど――引き寄せられたのだ。付いて行かなければいけないと、そう思ったのだ。

「ここが無縁塚……」

森に挟まれた小道を抜けた先に小さな草むらが広がっていた。
風景を構成するのは控えるように生える数本の桜と、歳月と風雨とに洗われた墓石と思しき石たちである。草木は雨に晒され、暗い空の色をそのまま映すかのように鈍い光を発している。周囲はざわめく暗い森だ。
清浄な空気に満たされた、しかしそうであるが故にどこまでも寂しい場所――
きっと春先には桜も咲いていたのだろうけれど、その桜が咲いたらここは余計にその寂しさを増す――そんな気がした。

――ルーミアさん……

正体の知れない宵闇の少女は桜の木の傍らで雨に打たれていた。
ふわりとしていた髪は肌に貼り付いて、黒い服は水を吸って漆黒へと変わっている。

「さっきまで晴れてたんだけどね」

そのルーミアの言葉は大妖精に対して向けられたものではない。
ルーミアの目の前に生えた桜の木――その下に一人の幼い女の子が蹲っていた。
サイズの合っていない薄汚れたTシャツに、丈不足な紺色のズボン。ぞんざいに切りそろえられた感じのする短い髪。ついさっき大妖精の目の前で亡霊と化した少女だった。
身体は細く、おおよそ健康と言うには程遠い。何も食べていなかったのだろうか。
目付きは思っていたより普通の輝きをしているが、ただどことなく、ここではない遠くを、そして今ではないいつかを見ていると感じてしまう。それは彼女がもう生きてはいないからなのかもしれないし、あるいは生きていた頃に何かあったからなのかもしれないが、他人には――特に妖精には――分からないことである。
ただどうであれその姿は痛々しく、だからルーミアに話しかけるタイミングも歩み寄るタイミングも逸してしまった。二人との間に距離がある。

――痛みって

妖精だから身体の痛みはよく分からない。鈍感だ。

――でも

心だって、痛いときは痛い。
亡霊だけど、痛いはずだ――そう思う。伝わってくるのだ。ヒトの想いというのは、存外に辺りの空気に影響を及ぼすものなのである。自分が死んでしまったということを認めたくないからか、それとも独りになってしまったからなのか――妖精に身では分からないことばかりだ。
火傷の痕やいくつもできた痣は、亡霊と化した後の身体にも律儀に反映されているようで、そのまま残ってしまっている。そういえばなぜこの子はこんなにも傷だらけなのだろう?

「ここはどこなの?」

桜の葉の下で、亡霊の少女は喉を介さない幽かな声を発する。

「どこでもない場所だよ。貴女にとっては意味のない場所」

陰雨に濡れた宵の少女が答える。
どちらも声音から感情が察しにくい。やけに淡々としている。
そしてなりたての亡霊は大妖精の方をちらりと見るとああ、と呟き――

「わたし死んじゃったのか」

やはり淡白な感じのする声でそう言った。彼女がなぜこちらを見てそう悟ったのかは分からない

「寒いね。死んだらそういうのってなくなると思ったんだけど」

諦めをはらんだ口調で少女は言う。たぶんそれは雨のせいだけではないのだろう。

「……私がいなくなっても誰も捜さないだろうなあ」

だからさらわれたの、と少女はルーミアの方を見ながらたずねる。
責めているような口調ではないし、それは彼女からしてみれば単純な確認のための質問だったのだろうけれど――ルーミアは暗い顔をした。

「ねえ、そうなの?」
「そうだよ」

ルーミアが答える。濡れた金の髪が、天から降った雫を大地へと伝える。
ざあざあという雨の音。
すり抜けるように吹いていく透明な風。
やっぱりここは寂しい場所だ。

――けど

そういう寂しい場所が必要になる――そんな時が、ヒトにはあるのではないかと大妖精は思う。
上手く表現することは出来ないけれど、自分を包む場所そのものが寂しさを湛えていたのなら、逆に自分自身が抱える寂しさは薄れていくような気がするのだ。内側に抱えた寂しさが、周囲を覆うもっと大きな寂しさに呑まれ、薄まっていくような――
むかし山に囚われていた時――たしかにあの時はとても寂しくて、震えていたけれど、でもあの場所には誰もいなかった。誰もいなかったから一人でいることに耐えられた。

――でも

もしもたくさんのヒトがいて寂しさなんか欠片だって見つけられないような場所で――それでもなお一人だったら?
いろんなヒトがいるのに誰も自分のことを見向きもしなくて、知っているヒトも知ってくれているヒトも誰もいなかったなら――

「貴女のために何かをしてくれる人はいなかった。貴女の隣にいた人たちは、貴女のことは見ていなかった。だから今、こうなっているの。あなたは――」
「私は透明人間。知ってるよ、そんなこと」

その調子はやっぱり嫌に淡々としている。
だからかえってこの子が一人なんだということが強く伝わってきて――大妖精は妖精にしては珍しく憂鬱な心持ちになるのだった。

「ロザリオ落としちゃったよ……大事なものだったのに」

少女はあーあと言うと桜の樹に背中を預け、その桜はそれに応えるようにざわざわと葉を揺らすのだった。
ロザリオね――そうルーミアは呟き亡霊の少女は、シルバーの、と簡潔な言葉を返した。

「それは――たぶんもう少しすればここに届くんじゃないかしら。誰かがくれたの?」
「うん、となりの町の教会の牧師さん――神父さん? どっちだろう? まあいいや。教会のおじいさんがくれたの。私がその教会に行った時に」
「一人で?」
「そうだよ。クリスマスでね、飾りがきれいだったの。だから――えへへ、ついつい入っちゃった」

そう言って少女ははにかんでみせる。

「おじいさんはお話のあと、そのロザリオとバイブルをくれてね。健やかであれって」

少し誇らしげに少女は語る。
対照的にルーミアの表情はやはり悲痛な感じがする。普段の彼女とは違う。ただ平時の面倒くさがりで能天気そうな貌とこの何かの痛みを湛える顔とは、矛盾するものというわけでもないのだろう。そのどちらもがルーミアという少女の貌なのだと思う。

「でも、おうちに連れ戻されてから――」

――連れ戻す?

違和感のある表現だった。

「ママにはいっぱいたたかれちゃった。キライなのよ、そういうの。心を支えてくれる言葉よりパンの方があの人たちは大事なんだ。きっとそう。だからバイブルは後から焼かれちゃったし、私は煙草の刑だったし……まあわたしが勝手に家を出たのが悪いんだけどさ」
「叩く?」

その言葉の意味するところが大妖精には分からなかった。

「ん? ああ、ほら、パパがママをなぐるでしょう? だから私はママにたたかれるの。そういう――はけ口って言うの? そういうのって必要じゃない。だから、あの家は私がいないとダメなの」

その疑問に少女は事もなげにすらすらと答える。

「私が黙って叩かれて、出来の悪い子よそおってれば丸く収まる。けどわたしは結局逃げちゃったから、パパとママはもうバラバラかもしれないな」
「そんなの――」

そんなのは家族とは呼ばない――そう言おうとした。だがルーミアが首を振ってその言葉を制する。
そして大妖精でなければ聞き取れない小さな声で言う。念話の類に近い会話方法である。

「子は鎹。形はどうあれ、この子はそうやってお父さんとお母さんを繋いでいたの」
「でも……」
「この子はこの子なりのやり方で家族を繋ぎ止めてきた。だから――それは言っちゃだめだよ。それにもう何を言ったって手遅れなの。この子はもう死んでる」

――待ってよ

納得がいかない。
大妖精も小さな声をルーミアの耳だけに届くようにして発する。

「この子を――食べるんですか?」
「この子だったものを、だよ。食べるのは入れ物の方」
「手遅れって、この子を死なせたのは――」
「私たち。半分は、ね。そしてもう半分は外の世界の仕組み。この子は橋の下で濡れて弱っていたそうなの。ろくにご飯も食べていないようだったし。それでこりゃあもう駄目だってことで、班の連中が拾ってきた」

食べても構わないだろう――この子はそう判じられたということである。
何だか――厭だ。
理由をうまく説明することができないけれど、ひどく厭だ。

――私は

また、あの頃の記憶を大妖精は思いだす。
一人隔絶された雪山で、吹雪に視界も心も侵されながら一人の時間を重ねた。
そんな自分を覚えていてくれたのはチルノだけだった。
山に囚われた自分を誰もが忘れてしまっていたはずなのに、チルノだけは近くにいてくれた。
自分には彼女しかいなくて――チルノがいなかったら、自分がこの世界にきちんと存在しているということすらがあやふやで――

――でも

目の前の少女が攫われ解体されるに至った理由――その判断基準――それに従うのなら、きっと大妖精はこの子と同じく喰われていた。そうならないのは単に自分が妖精であり、食料たり得ないからでしかない。
誰からも忘れられたと感じた時の絶望と、その内にあってそれに抗おうとする小さな意思――
そして友だちに会いたいという願い――
心の内に宿るそんな矮小ながらに切実な想いの類は綺麗に無視されて、誰が定めたかも知れない基準に従い、幕は引かれるのだ。孤独に耐える必死な心も、誰かを思う心も、そんなことは一切伝わらず、鑑みられず、そして伝達の機会すらも剥奪され存在は終わる。
食材として選定される――殺められるというのは、きっとそういうことだ。

「まだ……生きていたんでしょう?」
「うん」
「なら――」
「この子以外の人たちだってそこそこ生きていたよ。犯罪者――悪いことをした奴ってことね――とか、一人ぼっちでいなくなっても気が付かれない人だとか、自殺しようとしていた人とか、そういう感じのラインナップ。妖怪はそういうことに鼻が利く」

亡霊は何か思うところがあるのか黙っている。何かを思い出そうとしているかのような仕草である。目線はルーミアの方を向いている。
そしてルーミアは濡れた前髪を煩わしそうにかき上げた。
雨滴が散って、白い額と憂いを帯びた赤い瞳とが露わになる。

「これはね、はっきり言えば誰を間引いて殺すか――そういう問題なの。この子たちは死んでも比較的影響が少なかったから選ばれたってだけ」

――でも

この子は何も悪いことしていないんじゃないの?
生きようとしていたんじゃないの?
ただ――

――私と一緒で

一人だっただけで――
それは――悪いこと?

「……必要なんですか、そうすることは?」

その選定基準は――やっぱり嫌だ。
別に好きで一人でいたわけじゃない。いつだって、隣に仲間がいてくれたらいいと思っていた。誰かとの繋がりを渇望していた。
でもその声は吹雪に打ち消されて、結局誰にも届かなかった――それだけだ。どうすることも出来なかったのだ。この子も恐らくは同じだろう。

「必要だよ。ほんの少しでもいいけれど――でも誰かがそれをしなけりゃ、妖怪は妖怪でいることがだいぶ難しくなる。妖怪は妖精とは違うの。線を引くのに苦労するのよ」

ルーミアが答える。大妖精は危なく亡霊の少女にも聞こえる声を出しそうになったがこらえた。

「喰う喰われる――それが最もプリミティブな人と妖怪のボーダーライン。そこを外してしまったら、例えば里にいる大道芸人のような扱いの妖怪たちは、もはや妖怪としてすら認識されなくなってしまうだろうね。はっきり言ってあいつ等は人間より弱いもの、そりゃ何もなしにさあ怖がれって言ったって無理な話よ。よく躾けられ訓練された猛獣は人を食べないけれど、でも『下手を打てば噛みつかれるんだろうな』って程度の獰猛さは匂わせておかなきゃサーカスの猛獣ショーとかは台無しじゃん。そういう感じ。人の本能に訴えるような分かりやすい形で恐怖を獲得することのできない連中にとっての『最低ライン』の維持のために――人喰いはどうしたって必要なこと。この要素は幻想郷から決して無くなりはしないわ」

僅かな空気の振動でもって伝えられるその言葉は、雨音や風の音に阻まれて途切れ途切れになっている。

「……ねえねえ」

その時押し黙っていた亡霊がルーミアに向かって口を開いた。
ルーミアは再び少女の方へと目線を移す。

「どうしたの?」

少女にも聞こえる声で言う。暗く、そして柔らかな声だ。

――夜

なぜだかそう感じた。

「あなたは――誰なの? 私、あなたのことは知っているような気がするんだけど」
「私は――」

少し言い淀んでからルーミアは、獣だよと小さな声で答えた。
その金の髪から伝う雨が頬を流れていく。

「貴女を――人間を食べる悪い獣」
「嘘。けだものはそんな目をしないわ」

まっすぐにルーミアを見て少女は言ったが、対するルーミアはその視線から逃れるように彼女から背を向けた。

「嘘じゃないよ。貴女だったものだって私は食べちゃうもの」
「でも――悪いものにそんな綺麗な羽が生えているはずがないよ」

ルーミアの背中を見ながら少女はそう言った。

――羽?

「本当だよ。私は食べるの。食べなくちゃいけないの」

少し苛立ちを孕んだ声でルーミアは言う。その苛立ちは少女の言に対して向けられたものではないようだ。

「パパもママもぜんぜん料理とかはしてくれなかったけど、でも私だって何回かお肉を食べたよ? コンビニの焼き鳥とか、ハンバーガー屋さんのハンバーガーとか食べたわ」
「鳥も牛も豚も羊も――その子たちは貴女に、食べないで、殺さないでとは言わないでしょう? でも私はそう言ってくるのを承知で食べるの。意思の疎通を図れる、自分と同じ形をしたものを食べるんだよ」
「ソツウ?」
「言っていること考えていることが分かるって意味。だから私は――悪い奴だよ」
「そっちの方があなたは楽なの?」

その一言にルーミアは驚いた表情を浮かべ、振り返る。その拍子に髪を濡らした雫が散った。
そして一瞬だけ苦み走った顔をして、次に下を向いて――最後に雲の彼方を見るように灰色の空を仰いだ。

「鋭いなあ……」
「あなたもひとり?」
「知り合いはそれなりにいるよ」

葉の傘から流れ落ちる水の向こうにあるルーミアの笑顔は、雨の中にあるのに妙に乾いて見えた。

「そっか……」

再び少女は押し黙った。
誰かが口を開かなければ、無縁塚は雨の音だけになる。
寂しい場所。縁の無い者たちのための場所。
ルーミアは少女の傍らに歩み寄ると、桜の幹に寄りかかった。

「じきに進まないといけない時がくる――っていうのはわかる?」

素っ気ない口調でルーミアは言う。

「なんとなくは分かるけど……」

ためらいを見せながら少女は答える。

「わたしはここにいたいな……ここは静かで、なんだかとってもいいの」
「ここに留まり続けるのは貴女のためにはならないよ」
「この桜の下にいれば濡れないですむわ」
「冬になれば葉は枯れる。雪がここを埋める。貴女を安穏とさせてくれる場所はここじゃあないよ。降り注ぐ雨の中を進んで初めて見つかる安らぎもあるの」
「雨は嫌い。誰もわたしのことを待っていてくれないなら、一人でびしょぬれになるだけだもん」
「んー……」

どうしたものか、といったふうな顔をルーミアは見せる。
この少女は頭では自分が死んでしまったということは分かっているようだったが、決してその事実を受け止め切れているということでもないらしい。その事実に対する躊躇と拒絶とがあるように思える。当然だろう。
そして――

「まだ死にたくなかったな……」

はじめて明白な――痛いくらいにはっきりとした感情を彼女は露わにした。
その言葉は辛うじて絞り出すかのようなか細いものではあったけれど、不思議と雨の音にも風の音にもかき消えないで、大妖精の耳の奥に残った。

「死にたくないよ」

でももう手遅れで――

「死にたくないのよ」

もう彼女は終わっている。もう彼女は――






「……あぁあああああああああぁああああああああっ!」






亡霊が叫んだ。
音の少ない無縁塚の空気を、張り上げられた金切り声が貫く。






「死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない
死にたくない」






無縁塚の風が軋む。
血の通わない目がそれでも血走るように見開かれ、空気を伝えない喉は吐露される言葉に打ち震え、そうして少女は叫び続ける。怯えるように両手で頭を覆い、それをもって必死に何かと己との間に境界線を引こうとしている。

「い、嫌だ! まだ死にたくない! もっと生きたい! まだ――まだやりたいことなんていくらでもあるのよ! 私は――」

そしてぴたりと懊悩の声が止み、少女の身体も硬直する。空の一点を、穴でも穿つかのように見つめている。
何を見ているのだろうか?
もう何も見ていないのだろうか?
彼女は一人だったから餌に選ばれた。
誰を間引くかという選定基準に合致したから命を奪われ、そうして桜の下に囚われている。
必要性だとか必然性だとか、そういうものはあるのかもしれない。単純に良い悪いという話でもないのだろう。妖怪には妖怪の理由が、人間には人間の理由があって――

――でも

何かしてあげたい――とは思う。せめて心安らかに、いずこかへ向かい歩を進められるように。
それは妖精としてイレギュラーな感情であるという気はする。でも単純に哀れだと思ったのだ。
その憐憫の情を自ら否定するほど大妖精は小賢しくはない。人ならばそれは偽善であるとか、安っぽい同情であるとか、こうした犠牲は日々至るところで生じているありふれた悲劇であってこの子だけに特別に手を差し伸べようとすることは誤りであるとか、そうした賢いことをのたまえるのだろう。何と物分かりの悪い愚かな娘なのだろうと呆れかえって、この思いを一蹴にしてしまうことだって出来るはずである。
けれども――生憎こっちは妖精だ。馬鹿だ。
そんな頭の良い言葉は分からない。とりあえず目の前に自分がかつて味わったのと同じ苦しみを抱えている子がいるのだから、何とかしてあげたいと思うのだ。それだけである。

「……大ちゃん、感じた?」

無言でいたルーミアが何かに気が付き空を見上げた。そしておそらくはそれと同じものを大妖精も感じ取り、同様に空を見やる。

「雲が……」

空を見ながら大妖精は呟く。
奇妙な大気の動きを感じたのだ。それも自分が操るそよ風のようなそれではない、巨大なうねりをである。
空で何か、通常では推し量れないような大規模な変化が生じている。それがこの場所の風声にまで影響を及ぼしている。
上空を覆っているのは厚い雨雲だ。
それが――

「雲が――下りてくる?」

何があったのかは分からないし、見たことも聞いたこともない現象ではあるけれど、どこかの地点を目指し天の雲たちが下降しようとしているのだ。その動きをはっきりと感じた。
そしてその変化はやがて眼に見える形となる。
雲が、かき混ぜられたかのように渦を巻きはじめたのだ。それは地上に向かうにつれて細く集束して、灰色の柱を形成していく。
雨ではなく、雲が降る。

――少しだけ

それを分けてほしい――
どうしてそう思ったのかは分からないけれど、大妖精は葉の傘を投げ出し半ば無意識に空に手をかざす。
身体を五月雨が叩く。髪、服、肌――ルーミアや亡霊の子と同様に、身は濡れていく。春なのにやけに冷たい雨だ。
そのかざした掌の向こうでは雲の渦が、竜巻のような有様で天から下りていく。

――ほんのちょっとでいいの

ほんのちょっとだけ――その下る雲をこの場所に分けてほしい。
妖精の力では、引き寄せられる量などたかが知れているけれど、この場所はそれだけで十分なのだ。
それだけで――

――何が起きるの?

分からない。でも手繰り寄せなければならないという思いはある。
だから大妖精は無我夢中で自分の力を――空気を操る力を、彼方に屹立した雲の柱に向けて解き放つのだった。






◇◆◇






「ほら、起きろ~」

幽香は間延びした声を上げると、指先から白い光弾を一発巫女に向けて放った。
それはいまだ寝ぼけ眼な巫女の額に当たるとパンという音とともに爆ぜ、そこから何かの花びらがはらりと散った。衝撃で巫女は後ろに倒れそうになる。

「い、いきなり何するのよ! ししょ――じゃなかった、幽香」

額を抑えながら言う。
散った花びらは溶けるようにすっと宙へと消えていった。

「起きた?」
「とっくに起きてますよ」
「この程度で目が覚めるなんて人間は手軽でいいわね。ちなみに障子が張り替えられていたようなのできちんと風通りをよくさせておきました」

言われて障子戸を見ると、ご丁寧に一枠一枠、指でさしたであろう穴が開いているのだった。
それを見て巫女は盛大にため息をついた。

「……小傘ちゃんだってもっとましなことをするわ」
「境界を操ることが出来るのは何もそこに寝ている胡散臭いのばかりではないということです。私もこうして部屋の内外の境界を曖昧に――」
「この残念妖怪」
「む、なによー。ヒトのこと妖怪あつかいして」
「妖怪でしょうに」
「あれ、そうだったっけ? まあいいや、そういうことにしておこっか」
「まったく、あんまりひどいと次の幻想郷縁起に掲載してもらえなくなるわよ?」
「幻想郷縁起……何だったかしら、それ?」
「いいわよ、もう……で、何しに来たのよ? あとその風呂敷包みは何ですか」

幽香の傍らにはちょうど二重の重箱くらいのサイズをした風呂敷包みが置いてあるのだった。

「そいつ誰かとやったの?」

巫女の問いには答えず、紫の方を指しながら幽香は言った。

「魅魔様と。それでのされて休養中」
「ふーん……ま、折角ですから見舞いの花でも置いておきましょうか」

幽香が手をかざすと、横たわる紫の傍らに一輪の花が生まれた。清廉な白の花弁が複雑に折り重なった、本来であれば秋を象徴するはずの花――

「……見舞いと称して菊の花を添えるのはやめてください」
「白菊の花言葉は――」
「誠実と真実」
「よろしい。でもってお茶をちょうだいな。お番茶がいいな」
「師匠は猫舌ですからお湯は温め直しておきますね」

色付きのさ湯からいよいよ色もなくなり本当にただのさ湯と化した液体をなみなみ注いで幽香に差し出す。そろそろ茶葉が朽ち出すのではないかという気もする。
それに文句を垂れつつもふうふうと吹いて一口すすると、幽香は紫が残していったかりんとうに手を伸ばした。

「相変わらず面倒そうなことをしているのね」

隣室の紫の方を見ながら幽香は言った。

「紫は――魅魔様に負けたがっているように見えたわ。この子いつもそうよね。まわりくどい。なんでそんなに回り道ばかりするんだろう?」
「んー……」

少しだけ考える仕草をすると、幽香はいつものように意味の分からないことを言う。

「空は空、大地は大地。そういう感じかしら?」
「は?」
「それって私や貴女にとっては改めて考えるまでもなく明らかなことよね?」
「そう――でしょうけど」

言っていることが当たり前すぎて真意が掴めなかった。

「それが当たり前ではないのよ、こいつの内では」

花の妖怪は雨音を背に静かに語り出す。

「ものというのはそれが他のものから区別されているからこそ、個体だの個物だのと言えるわけ。でもね、その区別の要である境界線――普通の奴なら意識すらしないその線を、こいつは頭が痛くなるくらいに見つめてしまっている。そういう目をしているのよ。だからこいつの見る世界っていうのは、境界線で編まれた織物のように見えるのでしょうね」
「世界が継ぎはぎになっているとか――そういう感じ?」
「私はこいつじゃないから知らない。でも――いいかしら、 空と大地との間にその境を形成しているであろうラインが克明に見えたと考えなさい。そのラインがもしもなくなってしまったら、あるいは途切れてしまったらどうなるのかという思いは必ず湧いて出てくるものよ。だからこいつにとっては、空は今にもどろどろに溶けて流れ落ちてきそうだし、地面はすぐにでも底無し沼になっちゃいそうなくらい不安定なわけ。古い頃の世界のお話の様にね」

そこで幽香は言葉を区切り茶をひとすすりした。あちち、という小さな声が聞こえた。

「でもね、それより何より怖いのは――何だか分かる?」
「分かりません」
「ちょっとは考えなさいよ……いい? 境界をもって隔てられているから個体は個体だとさっき言ったでしょう?」
「言ったわね……あ」
「八雲紫という個体もまた境界により象られているということです」

空と大地の間に境があるのなら、己を形作る輪郭線も、やはり嫌になるくらい明瞭に見えてしまうはずなのである。
ならば――

「空と大地とが吸いつくように、己と世界の境がどこにあるのかが分からなくなって、呑み込まれてしまう――それがたぶんいちばん身近でいちばん恐ろしいことでしょうね」
「己と世界……」
「その境を知らない者は幸せよ」

――そういえば

以前どこかで大気圧という考え方を耳にしたような気がする。香霖堂だっただろうか?
それによると、通常取り立ててその存在を意識しない空気というものにも、実は重さだとか圧力だとかといったものがきちんとあるのだそうで、ではなぜ人体がそれを感じず、また押し潰されてしまうようなこともないのかと言えば、それは同じだけの力によって身体の内部から押し返しているから――なのだそうだ。
それと同じようなことなのかもしれない。
世界の重み――通常その外圧を意識することなどはないけれど、紫は意識してしまうのだろう。そしてそうやって圧力を加えて来るのは己以外の全て――ということになる。

「自分という存在よりも遥かに――気が違えそうになるくらいに大きな容量を持つ世界の中に、こいつは一人ぽつんといる。無量の砂からなる砂漠の内の、たった一握――その砂を掬してそれと砂漠とが別のものであるのだと不断に証明し続けなければ立ち行かない位置にこいつはいるの。生まれ持った力ゆえにね。でもってその証明を怠れば、こいつは途端に八雲紫としての個体性を喪失する。これもまた能力ゆえのこと」

そうなれば――

「……紫は消えてしまうということ?」
「ええ。砂が砂漠に帰るように自分の輪郭線を失い、世界に潰され、八雲紫という個体は消失するでしょう。それはそれは悲しいお話なのです」
「じ、じゃあ紫がやたら計算に強いのは、ひょっとして――」

そうでもしなければ己の輪郭はどんどん曖昧になって――



「――とか」



幽香のその一言で巫女は嫌な予感を覚える。

「あったらいいな、と思ったの」

案の定、満面の笑顔を浮かべて幽香はそんなことを言った。
そして巫女は内心でやられた、と舌打ちをする。今まで幾度となくこのやり方で真面目に耳を傾ける必要のないことをつらつら聞かされてきたというのに、また引っかかってしまった。要するに延々与太を聞かされていたということだ。

「ところで貴女さ、神様って降ろせる?」

突然幽香はそんなことをきいた。

「神様? やってやれないことはないかと思うけど、でもそんな大層な方は呼べないと思う」
「私を呼び出した奴はね、全部呼べるんだそうよ。そう豪語していた。おまけにこっちは寝間着だったから、散々よ。ヒトが寝ている最中に勝手に呼び出しておいてさあ、嫌になってしまうわ」
「呼び出す? 師匠、いつもに増してなに言ってるのか分からないわ」
「だから、ツチノコがいて、私は間違えられて呼び出されて侵入者扱いをされて、でもってその風呂敷の中身を手土産に帰って来たのです」
「ここは幻想郷ですので日本語をしゃべって下さい」

本当に何を言っているのかさっぱり理解できなかったから巫女が突っぱねると、幽香は何で通じないかなあとぼやいた。巫女からすれば、それで通じると思っているその思考回路が驚きである。

「で、肝心の風呂敷の中身は何なんです?」
「開けちゃあダメよ? たぶんお婆ちゃんになってしまうから。人生に嫌気がさしているのでしたらどうぞ」
「お婆ちゃんになるって――玉手箱か何か、これ?」
「何かもなにも、そのものよ。浦島太郎の玉手箱。なんか急ごしらえの代物らしいんだけど、注連縄を背負った変な神様から預かっておくように言われてね。でも私が持っていたら間違いなく忘れるか壊すかするから、あんたが預かってなさい」
「よく分かんないけど大事なものってこと?」
「うん」

こくりと幽香はうなずいた。その仕草が何だか妙にあどけなくて、巫女はまたしても一抹の寂しさを覚えてしまう。
昔は幽香のことを見上げて修行――と言って良いものかどうかは甚だ怪しい――に励んでいた。それが今は少し見下ろすようなかたちになっている。態度は大きいが背はあまり高くない。座っているからそれほど差は感じないけれど、立ち上がってしまえばその差はそれなりにあるはずだ。
その差が少し嫌だ。いつの間にか自分だけが別のところに迷い込んでしまったような気分になる。

――いや

実際もう自分と妖怪たちとの距離は、自分が思っている以上に離れてしまっているのだろう。

――だって

「巫女、やめるんでしょ?」

何の前触れもなく幽香にそう言われて、巫女はびくりとした。
まっすぐな眼が巫女を見つめている。それを直視することがどうしても出来なくて、思わず目を反らす。後ろめたさが針で小突かれるような痛みになって、胸の内を苛む。

「あれ、図星だったか。当てずっぽうだったんだけど」
「……私はもう潮時かなと思ったの。それだけよ」
「んー、里心ってやつ? それとも単にバランスが保てなくなった? まあどっちにせよたしかに潮時かしらねえ……うん、早く帰って花屋でも継ぐがいいわ。そうしなさい。それなりに贔屓にはしてあげるからさ」
「この騒ぎが終わったらね」
「それまで貴女はもつの?」

まっすぐな眼で、いかにもこれはただの質問ですと言わんばかりの平淡な口調で、幽香は実に嫌なところを突いてきた。
この少女はいつだってそうなのだ。こちらの気にしている部分をさらりと笑顔でつついてくる。

「次の子はとても優秀みたいだからね。別に今すぐギブアップしても問題ないと思うけど? そこで寝ているのだってそう言ったんではなくて?」
「余計なお節介よ……大体あんた人の世話焼くような柄じゃないでしょうに」
「焼こうが焼くまいが、私の勝手なの。というかね、あんたが駄目だと私の評判まで下がるのよ」
「下がるほど評判があったためしがない」
「ねえ、貴女さあ――」
「ん?」
「この場所、嫌いになったの?」

またしても発された唐突な問いに、巫女は言葉を詰まらせる。一番たずねられたくなかった質問を衒いもなく真正面から投げかけられたのだ。

「なんで――そう思ったのよ?」

辛うじてそれだけは言った。

「うんにゃ、さっき寝言で言ってたのよ。幻想郷なんて嫌いって。種も仕掛けも身も蓋もない」
「それは……ただの寝言だよ。私の本心じゃない」

慌てて取り繕う。紫や幽香に――巫女としての自分を曲がりなりにもここまで引っ張ってきてくれた存在に――その一言は告げてはならないと思ったのだ。それを面と向かって言ってしまったら、何かが終わってしまうような、そんなような気がしてならない。

「寝言で嘘をつく奴なんて、そこの胡散臭いのくらいしか知らないけど? それにあんたは前から何となくそういう感じはしていたから」
「……本当ですよ。私は今でもここが好きよ。楽園だって、思ってる」
「自分に嘘ついてると後々辛くなってくるわよ?」

――やめてよ

諭すような穏やかな口調――そういう口調が悪口雑言の類よりも深く心を揺すってくることというのはある。
そうして沈み積もった心の中の淀みが浮き上がり、否定に心は支配される。それまで肯定出来ていた何もかもが、煩わしく厭わしく、この上なく重苦しいものであるのだと感じられてしまう。気が――塞ぐ。

――苦しい……

この心は誰の心なのか――唐突にそんなことを思う。
こうしていま重さを感じているこの心は、はたして自分自身のものなのだろうか。これが紛う事なき自分の心であったなら、なぜこうも重たくて重たくて仕方がないのか。自分の心であるはずなのに、それを今すぐ投げ打ってしまいたいと思うのは何故なのだろうか。
苦しい。
厭だ。
空っぽになってしまいたい。
周りの全てが、重い。

「ねえ、サツキ」

はっとして前を見る。
物すごく久しぶりに名前を呼ばれたような気がしたのだ。普段は巫女として別の名を名乗るようにしていたし、また周りの面々も巫女だの博麗だのとしか自分を呼びはしなかったからだ。

「人間が食べられてしまうのは嫌?」

妖怪らしからぬ類の問いを幽香は寄せて来る。その問いかけは、今までに受けたどんなからかいの言葉より痛烈に巫女の心を揺さぶった。
たずねる幽香の眼差しは、いつもは花たちに向けられているそれである。
何かを言おうとしたがそれは千切れた空気の音となり、言葉として結実しなかった。

――なんで

どうしてこんな時に限ってそういう態度なのか。いつものように傍若無人でいてくれたらいっそ楽だったのに、どうしてこんな時だけ師匠面をするのか。

「そんなの……嫌に決まってるじゃないのよ」

やっとのことで口をついて出た言葉はそんなものだった。
堰の向こうに留められていた本心は、止め得ぬ勢いを伴って溢れだす。

「当たり前でしょう? 平気な奴は平気なんだろうけど――私は嫌よ。嫌で嫌で仕方がないわよ!」

机を叩く。ばんという音とともに自分の湯呑みが倒れ、中の茶が机の上に広がる。物に当たってしまうのは久しぶりのことだった。
自分の声の向こうで、降り続ける雨の音が空しく響いている。

「笑えばいいわよ。つまらないことでいちいち悩んで自分の首を絞めてる大馬鹿者だって笑えばいいわ。そんなの私だって分かってる!」

大人げないことだというのは分かっているのに――言葉は止まることをしない。十余年分、呑み込んで留め続けていた幾多の言葉が噴き出してくる。
自分が愚かであるということは分かっている。酒か何かを呷って、深く考えず踏み入らず、適当にのらりくらりとしていれば良かったのだ。
でも、それがどうしてもできなかった。
この世界を維持し継続させていこうとすることは即ち、必要に迫られ発生する犠牲の積み重ねを肯定するということだ。
もちろん昔に比べればずっとその数が少ないというのは分かるし、それなりに丁寧なプロセスが敷かれているというのも分かる。人の味を知らない妖怪だって増えたし、知っていたってもう食すことを止めた者もいる。里には普通に妖怪たちが遊びに来るし、半ば大道芸人のような、すっかり顔なじみになって里の一員と化している妖怪だっている。身体を喰らわず、心を喰らう妖怪も数多い。人間を襲うことすら面倒くさいという若い妖怪も増えた。
今の幻想郷は――少なくともこの騒動が始まる以前は――すこぶる平和だった。平和すぎるくらいに平和だったのだ。時を経るごとに、人にとっても妖怪にとってもどんどん住みやすい場所へと変化していって――

――でも

だからこそ、僅かばかりに漂う血の臭いが鼻につく。
楽しい戯れの時にも、和やかな会話を交わす時にも、賑々しく宴会を行っている時でも――心のどこかでそれを忌わしいと思っている自分がいる。そいつはうんざりするぐらいに冷ややかな目でもって、宴に興ずる自分自身を見下ろしているのだ。
流れた血の上に生きている。
攫われてくる人間の孤独を糧に、楽しくやっている。
妖怪に責は無いということは分かる。人間だって同じことを他の生き物に対して行っているのだ。命の連続と命の断絶は往々にして合わせ鏡のように照応していて、それ自体はありふれた現象に過ぎない。それを厭わしいと思うのは単なる我侭でしかない。
だからそれはそういうもので、きっと根っこの部分ではやはり人と妖怪とは何かを違えているから――
多少の犠牲は受け容れていかなければならないことなのであり――

――嘘つき

嫌なくせに。
嫌で嫌で、どうにもならなくなっているくせに。
いつもいつも嘘ばっかり。
重ねて、幾重にも積み重ねて、自分を騙して――外の世界の人間を、たくさん見殺しにして――
だからこの巫女の衣装はきっと上も下も真っ赤なのだ。そんな服を十年以上も身にまとって暮らしてきた。
紫にもう付いていくことが出来ないと思ったのはそのせいだ。

「……人が食べられるのも」

崩れた日常が、そのまま自分の中の何かを崩した。
だから――もう、駄目なのだ。

「それを賢しらぶって看過してかなきゃならないここの仕組みも……」

嘘つきな自分も――






「……大っ嫌いよ! ずっとずっと、嫌いだった!」






言ってしまった――そんなふうに感じた。
絶対に口にするまいと決めて、心の奥底に鎖で繋いでおいた言葉。
己の内にそういう刺々しい言葉が眠っているということを、平和で変化のない日常は忘れさせてくれていた。不安定ながらに心地よい忘却がそこにはあった。
でももう駄目だった。
言葉に乗せてそれを吐き出してしまったら、途端にそれは明確な形をなし、そして重さを伴って心の中に居座ってしまった。
目に付く。くっきりと、嫌になるくらい明瞭に見える。
騙せない。誤魔化せない。見て見ぬふりがもう出来ない。

「ここに遊びに来ていた連中、みんないい奴だったわよ。愉快な奴らだったし、楽しかった。でも……でも、あの子たちのお腹の中には人間だったものが入っていたんでしょう?」

腕?
脚?
それとも臓物の類だろうか?

「頭では分かってるのよ、私たちが鶏や豚を美味しい美味しいって言って食べるのと、貴女たちが人間を食すこととの間に差異なんてないって……でも……ダメなの。割り切れないのよ。割り切れなくなっちゃったのよ。紫みたいには私はなれない。私は――」

あいつ等のことは好きだけれど――
昔は姉のように、今は妹のように思ってもいるけれど――

肉。
人間の肉。
それをあの娘たちはむしゃむしゃと食んで――

あの何かの楽器を奏でるかのような軽やかな声を発する口と、ばらばらの骨肉を食す口は一緒。
小振りで艶のある可愛らしい唇と、人の枝肉を喰らって脂に照った唇は――同じ。差し出していたお茶は、人の脂を漱ぐためのものだ。
人間を攫い、殺め、血を抜き五体を切断し、皮を剥ぎ臓物を取り分け、精肉し――それを食す口で幻想だ精神美だと麗句を紡ぎ、楽しそうに酒を呷っていたのだ。

「どうしてなのよ……」

身体は芯を抜いたように震える。
そんなふうにしている自分がとても滑稽に思えて仕方がなかったけれど、震えは止まることをしなかった。

「私は……どうすればいいのかな……」

泣き笑いのような表情になる。そうさせるのは抑え込んでいた感情の発露と、自分自身への情けなさだ。
涙が数滴落ちる。自分のエゴが雫に宿って流れていく。
対する幽香はいつも通り泰然としていて、その変わらなさがどうにも羨ましかった。
そしてすっと彼女は立ち上がると、静かに障子戸を開けて庭へと下り立ち、傍らに立てかけてあった傘を手に取った。
愛用の、当人曰く幻想郷で唯一の枯れない花――
雨にけぶる庭に、その傘はささずに幽香は降り立つ。長い髪はたちまち雨に濡れて、ちょうど新緑の頃から夏の緑の頃へと季節が移行するかのように緑色を増す。

「あんたがそいつのようになったのなら、それはそいつにとっては全く不本意な結末でしかないと思うけどね」

雨中に立った花の妖怪は庭を見ながら言った。

「ちょっと来なさい、人間」

幽香が庭先から手招きをする。巫女は力のない足取りでそれに従い庭に降りた。番傘を持とうと思ったのだが、それは取り上げられてしまった。
髪が濡れ、次いで身体が濡れる。

「雨って――」

水たまりの庭を境内に向かって進みながら幽香は言う。小さな建物だからすぐに境内へと至ってしまう。石畳がところどころめくれたり砕けたりしているのは紫と魅魔が争った跡である。
高台にある神社からは幻想郷が見渡せるようになっているのだが、本当に――朝方の晴天が嘘のように仄暗い有様だった。雨脚もちっとも緩まることを知らず、春の雨だというのに妙に冷たく、身が打たれる思いがする。
ゆっくりと進む幽香の足元ではいちいち足が地面に着くたびに何かの草花がそこから生えてきている。力が漏れているのだ。どこぞの妖精のようである。そしてその草花は幽香の足が地面から離れると、どこかへとすっと消えていくのだった。

「植物や、湿り気を好む幽霊にとってはなくてはならないものよ。慈雨ってやつね。ちなみに私もけっこう好きだけれど、貴女はどう?」
「あまり好きではないですよ」
「じゃあそれでいいじゃない」
「へ?」
「雨を嫌うのと同じように、人間が食べられてしまうことも嫌っていればいい。守れる範囲の人間は守って、ね」
「それは――話が違うでしょうに。飛躍しすぎです」
「同じよ同じ。あんたたちは所詮は植物と幽霊のあいの子みたいなものよ。でも今のところ貴女たちは植物でも幽霊でもないし、私は貴女たちに植物か幽霊でいなさいとも言わない。雨を好みなさいとも言わない。そして貴女がどれだけ厭わしく思ってもこの雨が降りやまないように、ここのシステムだってそうそう変わりはしない。ある程度食べなければ妖怪全体としてのバランスが崩れてしまうそうですから」
「でも――人喰いは受け入れなきゃ――」

それはこの場所になくてはならないプロセスだ。
だが幽香はその巫女の言葉をあっさりはね除ける。

「阿呆め、誰がそんなことを言った? 少なくともそこでぐうぐう寝ている奴はそんなことを言うはずがないわ。他の奴だってそう。同族が喰われていくという事実を、自らが獣だの魚だのを食べることに比して、厭うことも憂えることもなく受け容れてしまえる――そんな物分かりのいい奴はね、もう妖怪の側に片足を突っ込んでいるのよ。そんな人間、襲ってもつまらないわ」

とはいえ、と幽香は面倒くさそうにため息をつく。

「いきなりそう言っても、思考が上手く切り替わらないのも人間。なので出来の悪いあんたのために私が一個命令でも下しましょう」

暗く淀んだ空を見上げて幽香はそう言った

「命令?」
「そ。他ならぬ私の命令。つまりは絶対厳守ということね」

そう言うと幽香は周囲の桜の葉を見渡す。
そして次に雨を落とし続ける空を見上げ、さらにもう一度辺りの桜の樹を見つめた。

「あなたたち――」

誰かに向って幽香は語りかける。

「ちょっと無理をするけれど、付き合って頂戴な。ん? ああ、安心なさい。どうせすぐに龍が梅雨を連れてくる。その時は今よりも厚い雲が幻想郷を覆うことでしょう」

それはきっと桜の樹たちに向けて放たれた言葉だったのだろう。
そして幽香は真上の空に向かって手をかざした。

「桜は地上の雲と呼ばれるほど密度の高い花――」

呆れるくらいに強い何かの力がその手先からまっすぐに伸びて、そしてその先では空に立ちこめた雲がゆらゆらと揺らいだ。

「桜とは、雲が地上に降りてきてその形を変えた物なのです」

風に吹かれるよりも激しく雲が動く。水底の白泥をかき混ぜたかのように流動し、それは灰色の渦となって幽香の真上へと集まってくる。
雲の彼方にさす日の光は、捻れた雲を通過して奇妙な屈折を見せた。

「ゆ、幽香! 何する気よ?」

天の大渦を見ながら巫女は慌てた口調で師を問いただす。対する幽香はいったい何をそんなに慌てているのだと言わんばかりの態度で答える。

「だから雲を降ろすんだってば」

次の瞬間、集まった雲は一気に下降して、神社一帯は冷たい雲粒と霧の中へと呑み込まれた。






◇◆◇






薄紫色をした桜が無縁塚を世界から切り取っている。
桜というのは本来は四月の頃に咲くものなのだそうだが、不思議なことに五月の今、密を成す霞のような花が空に咲いているのだった。
しかし花が咲き情景も華やいだというのに、この場所の湛えた寂しさは少しも和らぐことをしない。
他方で空は雲が薄らいで、その合間からは帯のように幾筋かの光が注いでいる。天地を繋ぐようなその光が土を照らし、その土を叩いていた雨は穏やかな霧雨のようになっている。

――無縁塚が……

泣いている。
花は不思議と物寂しさを孕み、粛々として在る。

「桜……」

亡霊と化した少女は宙を舞う花びらに手を伸ばしながら呟く。
その手のひらに一枚花びらが舞い降りる。

「あ……」

風に乗った花弁は小さく呟く亡霊の手から離れ、他の花弁の中へと混ざっていった。

「こんな綺麗な桜ははじめて見たよ。あなたが咲かせてくれたの?」

少女はすっくと立ち上がり大妖精の方を見た。
自分はただ無我夢中で雲をたぐり寄せただけだ――そう大妖精は答えようとしたが、何だか余計な言葉を紡ぐことがはばかられたから結局何も言えなかった。

「咲いちゃったねえ」

桜の下から歩み出ると、ルーミアはどことなく寂しそうにして言った。
その背後――桜に囲われた無縁塚の中央に、洞窟の出口を思わせる柔らかな光が現れる。

――幽霊?

桜の木から、散っていく花たちに混じっていくつもの幽霊が浮かび上がっていく。
花に宿っていたかのようにも見えるそれらは、皆引き寄せられるように光の方へと集まり、そしてその向こう側へと吸い込まれていく。
魂の花――そんな言葉が大妖精の頭をよぎる。

「人は――」

柔らかな声が何かの言葉を紡ぐ。

「人は水と霊から生まれた――って昔の人は言ったよ」
「ヨハネの――?」
「命を与えるものは霊」

少女はその言葉に聞き覚えがあるようだった。
淡く輝く桜の塚で、宵闇の少女は目を閉ざしながら古い言葉を紡いでいく。光の向こうにむかって風が吹き込み、喪衣のような黒の服と明るい星を想わせる金の髪がはためく。
そしてルーミアはその身で十字架を描くようにまっすぐと左右の腕を広げた。腕を包む白い袖は風を受け音を立てる
背後では霊たちが光の中へと消えていく。

「プネウマはその望むところへ」
「プネウマ?」
「風のことだよ。この場所にだって、それは満ちている」

そこで一瞬だけルーミアは目を開き、大妖精の方へと視線を寄越した。その手のひらは広げられ、風を真っ向から受けている。見ようによってはそれは何かを抱きとめようとしている仕草にも見える。

「この先に……進めってこと?」

光を背負った黒衣の少女の方を向き、亡霊はどことなく吹っ切れたような表情でそう言った。
そしてルーミアは両腕を押し下げると、明るくも暗くもない至って普通の笑顔を浮かべた。

「昼の間に歩けばつまずくことはないの」

砕いた表現になってはいるけれど、それはむかし教会堂で耳にした言葉だ。屈託のない笑みとともにそれが語られている。
亡霊はゆっくりと光に向かい歩き、黒を帯びた不思議な少女の横を通り過ぎた。

「この先はまあ貴女が思っているのとはちょっとばかり違う感じのする場所になっていて、拍子抜けだろうけれど――でもきちんと貴女を導いてくれる奴はいるわ。だから程ほど惑って程ほど惑わないで健やかに行くといい。後ろはあんまり振り返らないこと。振り返ったって別に塩の塊になってしまったりはしないけど」

ルーミアは背を向ける亡霊の少女の方を向くと、短く何かを唱えた。
その右の親指と人差し指と中指の先は合わさり、薬指と小指は折り曲げられ、そして――胸元で十字が切られた。

「誰も送ってなんかくれないと思ったけど――ありがとう」

妖精さんも――と少女は言って、そして光に向かってまた歩き出した。
その身体は半分ばかり光に呑まれていて見えなくなりつつある。対する黒衣の少女はむしろ光を浴びてその輪郭を明瞭にしている。
光の向こうに風が吹きこむ。
桜は風と混ざり合い、宙に渦を描いて消えていく。風とは花を運ぶものなのだ。

「闇に追い付かれないよう、自分に光があるうちに歩くこと。貴女はまだ自分で歩けるから」

宵闇が言い、死へと向かう人の子が返す。

「居場所の分からない私には夜の闇は優しかった。焼かれるような眩しい太陽より柔らかく冷めた星空の方が私は好きだったよ」
「へー、そーなのかー」
「うん、そうなのよ」
「ま、Be of good cheer. とか言っておくの。心安らかに」
「貴女も。綺麗なヒト」
「だから勘違いだってば……じゃ、七つのラッパが鳴り響くまでにはまた会いましょう」

そして簡素な祈りの言葉とともに光は集束し、亡霊の少女も季節外れの桜の花も消え去る。
後に残ったのは地を打つ雨の音と、雨粒を浴びて流れる風の音である。
桜は元通りの緑を帯びて、雨雲も雨脚もいつの間にか元へと戻り、無縁塚は再び暗く静かな色彩に満たされた。












「あの人の信奉者なんか連れてきたら面倒になるって分かんないのか? おかげで長々喋らされるし、こんなの私のキャラじゃないし」

しばらくして不機嫌な声でルーミアは言うと、桜の樹に寄りかかり頭を押さえた。大妖精も雨をしのごうとその樹の下へと入る。あの少女が言っていた通り、樹の下にいるとあまり雨は身に届かない。

「チルノがね……」

雨音の中、ルーミアは静かに語り出す。

「あいつがあんなことにならなきゃ、私は何にもする気はなかったの。争い事なんてお腹減るだけだし、面倒くさいもん。負け戦の次に辛いのが勝ち戦」
「チルノちゃんは――」
「あの吸血鬼を『異変』の鋳型に嵌め込むことに失敗した――そこからボタンの掛け違いみたいな状況が生まれてきたの。これが『異変』の秩序に従い推移してくようなものであったなら、それこそ私やチルノや貴女みたいなのはキャスティングすらなされないし、人里の連中だってここまで危なっかしい状況に放り込まれることはなかった。でも……蝙蝠は蜘蛛の巣を突き破った。私の知り合いもいっぱい巻き込まれちゃったよ」

あーあ、とルーミアはため息をつき、漫ろな仕草で濡れた髪を掻いた。

「彼女、この後はどうなるんです?」

それが大妖精は気になっていた。

「ここでの死人の扱いは是非曲直庁下で一括化されるから、三途の川を舟で渡って、その後は裁判と事務処理。まあ冥界行きだろうね、まだ若かったからさ」
「渡し賃がどうのこうのって」
「先生から聞いたの? たしかにそういうのはある。足りなければ途中で舟から落ちるわ。すると魂は川の底へと沈んで溶けてしまう。ま、そういうと何ともおどろおどろしく感じちゃうかもだけど、実際はちょっと違うの。三途の川ってのはね、生命――気質の川なのよ。ああ、また説明的な台詞を言わされる~」
「気質の?」

幽霊は気質の具現――ルーミアが行き路でそう語っていたことを大妖精は思い出した。

「とてもおっきな気質の塊があると思って。集合体とも言えるしそれで一なんだとも言える、そういう感じの良くわかんないモノだけど、その表層の部分がたまたま生き物には川っぽく見えるからみんな川と呼んでいるってだけ。まあ『水』もきちんと湛えてはいるし魚だっているけどね。ねえ大ちゃん、ここに来る途中で何体か幽霊を見たでしょう? あれはね、全て違うものに宿っていた代物だよ。植物に鉱物、それから虫――そういうものに入っていた」

虫、と言ったところでルーミアは何かを思い出すような顔をしたが、すぐさまそれは元に戻る。

「なのに形が共通している。違うものだったはずなのに、分解していけば同じものが顔を出す。三途に沈むというのはね、雨粒が海原に落ちるようなものなの。ぽんぽん分裂して独り歩きしていた幽霊――気質――魂が、元の場所へと収まるだけのこと。個体としての自我は消えてしまうけれどね」

頭が痛い、と雨にぬれた髪を弄びながらルーミアは言う。

「あらゆるものに気質は宿る。路傍の小石、その辺で踏まれっぱなしの雑草、ちっちゃな虫たち――そこにだって五分の魂が在るの。もちろん私たちが捕食する人間たちにも、ね。そしてそれらもいずれは大きな生命の流れの内へと帰っていく。そういうふうに世界は出来ている――のかもしれないね、先生」

そう言うとルーミアは無縁塚の外れの方へと目をやった。つられて大妖精もその方角を見る。
雨の向こうに慧音が立っていた。
ずぶ濡れのその姿は、やはりまっすぐではあるけれど、同時にひどく不安定な気配を伴っている。雨を受けた細い銀髪は透過する光の量が減じて空の灰色に色が近くなっていて、それがどことなくやつれたふうな印象をこちらに与えてくる。
握られた掌に下がっているのは、あの少女が生前身に付けていたロザリオだ。
おそらく彼女はあの洞窟を奥の方まで歩き切り、そうして『出口』から出てきたということなのだろうが――

――出口……

それは幽霊や亡霊の出て行く道であり、また余った骨だの肉だのを廃棄するための道でもあるはずだ。要するに慧音はあの場のすべてを見てきたということになる。
何度も見ているのだと釣り人は言っていたけれど――その様はとても平気であるようには見えない。
妖精の身では身体が壊れてしまうことへの恐怖は分からないけれど、それはきちんと壊れた身体が元通りになると分かっているからだ。もしも壊れてそれっきりな身体をしていて、そしてそういう身体をした同族が目の前で解体されていったのなら――恐らく平気ではいられないだろう。
だからその顔が蒼褪めて見えるのは空が暗いせいではない。絶対に違う。
なぜそんな顔をしてまでこの人はあの場所と向き合おうとするのだろうか?

「静かだな……桜が咲いたのか」

桜の樹へと歩み寄った慧音は、その葉の下には入らないでルーミアにたずねた。

「うん。誰の仕業かは――まあ想像に難くないけど」
「なら――大丈夫か」
「うん。無事に先に進んだ」
「あの子は渡り切れるものだろうか?」
「若いからね、きっと問題はないよ。ただ、他の何人かは場合によっては駄目だろうね。もうお開き、魂はプリママテリアの海へ回帰する。それはあんまり憂えるべきことではないと私は思うんだけど――先生はそうは思わないかな?」
「思えないな」

きっぱりと慧音は言い、ルーミアはそうだろうねと短く呟いた。
大妖精自身はどうにも所在がない感じがして、気配を潜めるように二人のやり取りを眺めている。妖精が口をさしはさめる類の話題でないということぐらいは一目に分かる。

「ルーミア、今この時間を生きている者にとってはね、その生というのはやはり何にも代えがたいものではあるのよ。死後魂がどう移ろいゆくのかを知っているここの人間たちですら、やはり死ぬのは怖いことだもの。いわんやそれを忘れてしまった外の人間にとっては――」
「先生は真面目すぎだよ。ここでそういう真面目ぶった態度をとったって空しいだけなの。もっと適当にやるといい。貴女がそうしてしまったとしても、誰もそれを糾弾したりはしないわ。先生のやっていることはお酒を飲もうとして底の方の麹まで飲んでるようなものだよ。酒樽は上澄みだけを浚っていればいいの。綺麗な部分だけを賞味していればいい」
「それでも……人の必死な生を剥奪することに私は――」
「剥奪するのは私たちだ。先生たちじゃない」
「同じことだ。見て見ぬ振りをしている」
「今――たった今見てきたじゃないか。あんたも、あの釣り人も、あんたと仲の悪い反妖怪派の連中ですら、あの場所を無視できないからこそ躍起になっているんじゃあないの?」
「見ている『だけ』、憂えている『だけ』――それだけなんだ。それじゃあ何も変わらない。でも貴女たちにそれをやめろと言う資格だってもちろんありはしない。私は半妖で、そしてここは人と妖の双方住まう場所だ」

苦い口調で慧音は言う
恐らくこの人は人も妖怪もどちらも好いているのだろう。だからこそそのどちらかに傾ききることが出来ずにいる。

「すまない。私はやっぱり人としても妖怪としても中途半端なんだ」

絞り出すような声で慧音は言い、対するルーミアは少し額を抱えるような仕草を見せた後、対照的にはっきりとした声で告げた。

「先生、私が――『敵』になってあげようか?」
「敵――に?」
「そ、私が貴女の敵対者になってあげる。それで憎んで恨めしく思って――そういう方が先生も楽なんじゃないの?」

先ほどの亡霊とのやり取りを思い出す。

「何かの境目に立つのって結構難しい。下手を打てば押し潰されるか引き裂かれるかしてしまう。どっちかに傾いちゃった方が絶対に楽ちんに決まってるわ。だからさ、私が先生の背中を押してあげるって言ってるの」

両手で何かを押す仕草をルーミアはした。

「それで貴女は人間の方に傾いちゃえばいいんじゃないかな。無理にその場所に立ち続けることは――」
「違うな」

無縁塚を吹く風のような、ひどく透明な声――慧音はきっぱりとルーミアの言葉を否定した。そうした態度をルーミアは予期していなかったのだろうか、一瞬びくりとその身体が震える。

「先生――?」

きょとんとした表情に少し後れ、ルーミアの顔が辛そうに歪む。
悲しげに、忌々しげに――それまでどことなく漂わせていた皮肉混じりの余裕のようなものがなりを潜め、態度に明らかな焦燥が滲む。
何かを察した――のだろうか?
そして慧音は懐から何かを取り出す。
ロザリオの鎖の横に垂れ下がる、龍の髭で編まれた紐――その先端には笹の葉でできた小さな包みが括り付けられている。

「……冗談やめてよ」

ルーミアがうめくような声をあげた。そこから伝わる感情は、洞窟の奥で慧音が発していたそれととても似通った代物だ。彼女は何かを――おそらく取り出された包みにまつわる何かを――厭っている。
あの包みの中身は何なのだろうか?

「これが何か、分かるな」

慧音の瞳の色は暗い。無縁塚の色彩がそのままそこに宿ってしまったかのようだ。

「……先生はそれを持ってちゃ駄目だ。先生は――」

ルーミアの声が震える。
あの包みの中身は一体何なのだろうか? ルーミアは何をそんなに恐れているのだろうか?
そして慧音は重々しい声で宣言する。

「私が傾くのは――妖怪の方よ」

笹の包みから伝わる空気は、洞窟の奥に漂っていたあの重たい空気と全く同じ代物だ。もう一度あの洞窟の内へと踏み入ってしまったような感覚を大妖精は覚える。






「やめてよ!」






その声が張り裂けそうなくらいに辛そうだったから――それを発したのがルーミアなのだということが一瞬大妖精は理解できなかった。

「先生は『そんなこと』する必要ないじゃないか!」

形相が今までのルーミアとは違う。焦りと嘆きと、そして明らかな拒絶の意思とがそこにある。余裕の類はまるで見出せない。

――そんなこと?

「必要ならある」
「無い。私は、貴女にもミスティアの奴にもリグルの奴にも『こっち側』には来てほしくない。こっち側は私みたいな奴だけで十分だ! あんたらは大人しくカシュルートの喰い物だけを食べていろ!」

激昂するというよりは、ただ駄々をこねるといった有様でルーミアは慧音に訴える。

「子供の内股の肉――」

――え?

その彼女とは対照的な、酷く淡々とした口調で慧音はそう言った。

「それが一番『食べ易い』のだそうね」

寒気がした。
雨のせいではない。
濡れたロザリオが鈍く光る。
ルーミアは小さく嘆いて、顔を覆うように額を押さえた。

――まさか……

思わず大妖精も口を押さえる。
笹の包みがまとうあの穢れの気配。そして慧音の言葉に、それを拒むルーミア。

――そうだ

大妖精は理解する。
たぶん、間違いない。慧音がやろうとしている『そんなこと』がどんなことなのかというのも、もう分かった。
でもその行為は間違いなく慧音を傷つける。拷問にも似た痛苦を、慧音は自分で自分に与えようとしている。心が――壊れてしまうかもしれない。
穢れをまとったあの笹の葉の中身は――

――人間の肉

そして大妖精の記憶が確かならば、今日あの場所に横たえられていた人間たちの中で子どもと呼べるような外見をしている存在はただ一人しかいなかったはずである。

――あの子の……

桜の彼方に消えていった亡霊――上白沢慧音が持っているのは、あの少女の肉だ。その内股の肉――それを刃でこそいで、鮮度が落ちないように笹で包み込んで――

「う……」

吐き気がした。
妖精だろうが何だろうか、生理的嫌悪感というものはある。

「ちょうど良かったよ、ルーミア。見ていて欲しい」

鎖に吊るされた銀のロザリオが、暗く煌めく。

「先生……」
「私は――食べるよ」

悲壮な声で慧音は宣誓し、ルーミアは苦しそうに胸元を押さえながら首を横に振る。曇り空でも光を失わない髪が乱れる。

「そんなこと……させないよ」

そう呟くとルーミアは駆けた。敵を攻め落とすときのように、慧音の近くまで一足飛びに踏み込んで包みを取り上げようと手を伸ばす。
そのルーミアの身体は一瞬まばゆく輝いて吹き飛ばされた。慧音が飛び掛かったルーミアを払ったのだろう。
慌てて大妖精はルーミアの身体を受け止める。
軽い。チルノと同じくらい小さくて、華奢だ。

「見ていろ、と言ったんだ。邪魔をするな。お前は証を立ててくれるだけでいい」

発される威圧感に、大妖精は身を竦ませる。
だがルーミアは大妖精の手を払いのけるようにして再び慧音に迫った。

「……っ!」

やめて――そう言いたいはずの声が声にならない。
部外者の、それも妖精の声などはこの二人にはきっと届かないに違いない。
そして大妖精の眼前では同じことが繰り返された。ルーミアはもう一度吹き飛ばされて無縁塚に転がる。
いまだ降り止まない雨がその倒れた身体を容赦なく打った。
一方の慧音は何の拍子だろうか、芯を失ったように地面に膝をついた。虚ろな眼は倒れたルーミアを見ている。

「先生……どうして……」

荒く息をしながらルーミアは起き上がる。その服はボタンが外れて中の真っ白いシャツの部分が露になっている。

「食べられる。食べられるさ」
「慧音……」
「私は喰える。私は妖怪だ。人間じゃない。人間なんて、易々喰らってやるさ」

無縁塚に膝をつき、虚ろな瞳で慧音は呟きつづけた。

――無理だ

この人は、絶対にその手の内にあるものを口に出来ない。
そんなこと、妖精から見たって明らかだ。
声も、包みを握る手も、何もかもががたがた震えている。苦しくて苦しくて、今にも泣き出しそうな顔をしている。

「食べられる。食べられるのよ。食べなくちゃ――食べなくちゃ私は選べない」

――選ぶ?

「妖怪にならなきゃ、幻想郷を選べない」
「先生!」

ルーミアが完全に立ち、雨を貫くように叫ぶ。

「理由を言ってよ! それが納得できるような代物なら――私は貴女が彼女を食べてしまったって文句は言わないよ。でも――何にも言わないでただ見てろなんて嫌よ! それとも私が閻魔様みたく、貴女は妖怪ですって白黒はっきり宣言すればいいの? そんなのごめんだわ!」
「理由……理由?」
「なんで先生がそれを食さなきゃいけないのか――その理由だよ」
「ああ……はは、そんなことか」

浮かべた慧音の笑顔は、雨中だというのに酷く乾いて見えた。

「豆腐屋の常連に数字に強いヒトがいてね、それで一つばかり計算を依頼したんだ」
「数字に強いって――藍さん? 計算って何を――」



「幻想郷を維持するのに必要な人間の数だ」



血の気が引く――そうとしか表現しようのない顔をルーミアが見せた。その口は手で覆われている。

「どの程度までなら里の連中が殺されてしまっても大丈夫か――私はその算定を彼女に依頼した。依頼してしまったんだ。里の皆の命を秤に乗せた。私は――ただの人でなしだ」

裏切り者――洞窟での言葉の真意がようやく分かった。
ルーミアが語っていたように、この場所をこれまで通り維持していくには『人間』という構成要素は必要不可欠ということなのだろう。
妖精に難しい数字の話などは分からないが、四則演算程度ならば理解できる。式から数字を取り上げたら、もうその式は式として成り立たなくなり瓦解するものなのだ。

「私は妖怪として選択しなければならないんだ。この地の人間達を危険に晒すことを――誰と誰にこの地のために犠牲になれと通達するべきなのかを。御阿礼の子や小兎の御当主に――人間にその選択はさせられない」
「……ああ、そうだよねえ」

額を押さえたままのルーミアが静かに言う。

「なんで――こんな簡単なことが予期できなかったんだろう……」

ごめんね、先生――ルーミアは目元を拭いながら嘆く。

「貴女にこの状況を与えたらそういう選択をするだろうってことくらい、ちょっと考えれば分かるはずだったのに……やっぱり化物の思慮には限界があるみたいだ。大局に寄りすぎて、個々のパーツがまるで見えていない」

貴女たちを苦しめる気なんてなかったのに――震えた声をあげ、ルーミアはうつむく。

――ああ、そうか

この状況の原因となった吸血鬼の招来――ルーミアはそれがなされることを事前に知りながら見て見ぬ振りをしていたのであり、結果それが慧音を追い詰めることになっているのだ。
先ほどの言葉から察するに、当初の計画では人里はこの件につきここまで危機的な状況に晒される予定ではなかったということなのだろうが――

――『こんなことになるなんて思わなかったよ』

その言葉が嘘偽らざるルーミアの心情だったのだろう。
あくまで妖怪どうしのいさかい事として全ては終息するよう仕向けられていて、だからこそルーミアは何も干渉せずに情勢に流されていたのだ。そして眼前の慧音に対するルーミアの態度を見る限り、人里が度を超えた危険にさらされるようであればルーミアそれに異を唱えていた――そういうような気がしてならない。
もちろんすべては妖精の拙い想像に過ぎないのだけれど――

――何にしたって

哀しいヒト――そう思った。慧音とルーミア、そのどちらに対しても大妖精はそういう想いを抱く。幻想郷を好きつつも数奇に擦れ違う目の前の二人がどうにも哀れだった。

「でも……やっぱり先生はこっちにきちゃダメなの」

ゆらりとルーミアの肢体が動く。

「ルーミア……」

膝をつく慧音を見詰めるルーミアの周囲を、黒い霧のようなものが漂い始める。あの日湖畔で見たのと同じものだ。
暗黒の凝ったそれは、周囲の光景を着々と侵食していく。服の黒地はそのまま闇に繋がって、少女は暗黒と混じり合う。
そして大妖精は思わず後退った。

「先生がどっちの側なのか――思い出させてあげるよ」

月の消えた夜のように暗く、妖しい闇――これはきっとただ光を遮っただけでは決して生み出されることのない代物であるに違いない。
それを半身にまとい、真っ赤な瞳と黄金の髪は不思議な鮮やかさを帯びる。

――やっぱり

夜は怖い。
そして不思議なことにあれだけ雨を浴びたはずのリボンは全く濡れた様子がなかった。

「本気か?」

慧音も何かを奮わせるように立ち上がる。
魂の気配すらが消え失せた無縁塚で、銀の髪と金の髪が向かい合う。装飾は暗い灰の空と注ぐ冷雨――そして言葉なく並ぶ葉桜たちである。

「……襲え」

簡潔な命令の文言とともに、ルーミアは細長い人差し指で慧音を指した。
途端に黒い靄は明確な形を成し、幾本もの槍のように鋭く尖り、慧音に向かって伸びた。
金属同士がぶつかるような硬質な音――
慧音の周囲には光を帯びた勾玉が無数に浮かび、それが盾のように槍を受け止めていた。
相殺され、槍は靄となって消える。
続けざまにルーミアが腕を払う。一直線に無縁塚の地面を切り裂いて、黒い刃が慧音に迫った。
左に飛びのく慧音――
それを追いルーミアが跳ぶ。黒い霧を帯び、宙に走る。

――鳥だ

真っ黒な夜をまとった、鳥――
尾を引く闇は、大妖精の目に何かの翼のように映る。
側面へ跳ぶよりも正面へと駆ける方が速度は速い。ルーミアは退く慧音に追従し、腕を振り下ろす。
先端の爪はいつの間にか赤く、そして鋭く尖った形に姿を変えていて、それがすんでのところで身をかわした慧音の服の肩部分を引き裂く。細い鎖骨と華奢な肩が雨に晒された。
腕の軌道に合わせて黒が散る。
そして三度目の光が閃く。しかし今度はルーミアは吹き飛ばされはしなかった。何事もなかったかのようにその場に立っている。

「なっ――!?」
「無理だよ、先生。戦の光じゃ私は焼けない」

慧音の放った光は、ルーミアが二人の間に展開させた闇に呑まれて消えてしまっていた。
湖面からでは湖底の深いところまでは見えない――おそらくはそれと同じことなのだろうと大妖精は少ないなりの知識で想像した。

「がっ……」
「私を焦がせる光なんて、先生は最初から持ってる。なのに――貴女はそれを捨てようとしてる」

猛禽の足の様な形に変化した黒い手が闇の中から伸び、慧音の首筋を掴む。苦しそうに慧音は喘ぐ。

「そういうのは――イヤだ」

悲しそうな表情で慧音の首を掴むルーミア。その腕に慧音は自らの細腕を伸ばす。振りほどこうとしたのだ。
けれどその手が届く前にルーミアは慧音の身体を草むらに乱暴に押し倒した。

「きゃっ……」

草露が散り、慧音の帽子が転がる。

「動かないで。動くと痛いよ?」

元の形に戻った両手を、拘束するように慧音の頭の横に置き、押し倒した身体に覆い被さるようにして――ルーミアはそっと囁いた。
一瞬慧音は抗うような仕草を見せたが、すぐにその動きは鈍くなっていく。何か施されたのだろうか。

「そう、いい子なの。じっとしてて」
「ルーミア……」

慧音は戸惑いと、そして少しだけ怯えの入り混じった声で己に覆い被さる不思議な少女の名を呼んだ。
慧音に覆い被さるその姿は、獲物を逃がすまいとしているようにも見えるし、降り注ぐ雨から慧音を守っているようにも見える。
元の形に戻った白い手でルーミアは慧音の頬を撫で、そしてゆったりとした動作で慧音の左肩に顔を近づけた。先ほどの短い攻防の最中に衣の破けた個所だ。

「先生は『こっち側』じゃない。先生は人間を選んで」

思わず大妖精は驚きの声をあげそうになり口を両手で押さえる。
晒された慧音の肩――その首の付近の柔らかそうな部分――そこにルーミアは口をつけ、少し尖ったその歯を突き立てたのだった。

「う……あっ……」

慧音がうめき声を上げ、その身が一瞬びくりと痙攣した。それは痛みに起因することではないのだろう。もう少し別の感覚によるものという感じがする。
慧音の手からあの包みが転がり落ちる。ロザリオは細い手首にしっかりと巻きついて離れない。大妖精はといえば、何か見てはいけないものを見てしまったような気がして、ただひたすらにじっとしていた。
ルーミアは無言で慧音に喰いついている。
雨に打たれながら二人は身体を重ねる。
金の髪と銀の髪は雨とともに絡まり合って、奇妙な光沢を帯びる。

「あ……」

どことなく切なげなものを孕んだ慧音の声が雨音の中に消える。
そして柔らかな果実の皮が食い破られるように、濡れた白い素肌が突き破られた。
血――
死者の集う無縁塚にはない、赤色。
それが危うさと鮮やかさを伴って溢れ、青白い肌を伝い、草露と雨と宵闇に混ざった。






束の間の喧騒はまた去り、無縁塚はやはり雨風の声ばかりがする。
しばらくの間ルーミアも慧音もただ身を寄せ合い、じっと横たわっていた。
大妖精はといえば何だかこの場所にいることが酷く場違いであるように感じられて、気配を消すようにしてしばらく立ち尽くしていた。
やがてその眼の内で、ルーミアはゆっくりと立ち上がる。

「ルーミアさん……」

疲弊したかのようにルーミアはその身体を小刻みに震わせた後、大妖精の方を向いた。
細雨の霞の向こうに、宵闇の少女が佇んでいる。
口から伝う鮮血。
楚々とした白い服を染める赤。
滴る血の色に似た瞳は、やけに澄んだ感じのする輝きを帯びている。

――獣だ

ぞくりとした。
怖いくらいに――綺麗だったからだ。
少し上気した顔で荒く息をしている。

「大ちゃん……蚊帳の外で悪かったね」

そう言って少女の形をした獣は詫びると、少しだけ切なそうに空を仰ぎ、それからもう一度慧音の傍らにかがみ込んだ。

「これ、もらうよ。先生には必要無い」

投げ出された笹の包みをルーミアは手にし、それを服の裏側にしまいこんだ。
そして穏やかな声で慧音に語りかける。

「先生がね――いや、違う……人里の皆が『人間として』ここに留まることを選択したのなら――私たちは貴女たちのその選択に感謝するわ。でも、少なくとも今の先生のやり方はダメなの。先生は妖怪の側として選択をしようとしている。たとえ導き出される結果が似通ったものであったとしても、それを私たちは受け入れることは出来ない。人に妖怪の役回りをやらせてしまったら、妖怪なんて要らなくなってしまうから」

対する慧音は倒れたまま腕先で両目を塞ぎ、不機嫌な声で言う。

「……口ぐらい拭え、バカ」
「う……ごめん」

ルーミアとは対照的にその声は刺々しい。
ルーミアは言われ通りに口元を拭い、そして薄皮一枚分ばかり食い千切られたであろう慧音の肩の部分に手を当てる。するとあの黒い霧が傷口を覆うように立ち込めて、それが晴れたとき肩の傷は跡形もなく消え去っていた。

「慧音、それで……あのね」
「何なのよ、まったく……ちっとも分かんないわよ。ああ、もう、ふざけんな」

野晒しの仰向けのまま、ぐずる声で慧音は呟く。

「先生が真摯に幻想郷のことを思ってくれたことには感謝するよ。でも――それで先生がちっとも幸せにならないんだったらそんな選択は私は嫌だ」
「私は悩んだんだぞ。すごく悩んだんだ……なのに何なんだ、全部台無しじゃないか」
「うん、やっぱり私は浅慮がすぎる。いっつもそうだ」
「まったく……こんなことをされたんだ、私はもう貴女たちの側には立たないぞ」

やけになった口調で慧音はぶつくさ言う。
ルーミアは安堵と寂しさの入り混じったような複雑な表情でそれに耳を傾けていた。

「お前が線を引いてしまったんだ。もうお前なんか知らないんだからな」
「ん、それでいいよ。先生は襲われる側だもん。すごく――てへへ、美味しかった」

傷を癒したときに指に付いた血を、ぺろりとルーミアは舐めた。

「面と向かってそういうことを言うな……」
「人間は人間として、妖怪は妖怪として――それでいいのよ。そして、先生は人間の側でいて。きっと誰もがそう願うはずだから」
「でも――」
「貴女がさ、いちばんきちんと妖怪と向き合ってくれる人なんだもん」

そしてルーミアは慧音に事の顛末を告白した。
この状況が八雲紫なる人物の企みにより発生したこと、自分がそれをあらかじめ知っていたこと、そしてその企みは違え現在の吸血鬼は何者の制御下にもないのだということ。
知っていることのすべてを語り、そして詫びた。

「――ごめんなさい」
「もういいよ。お前等の迷惑千万ぶりは慣れっこだし、妖怪に付き合う程度の能力なら里の連中の標準装備だ」
「ちなみに今あの吸血鬼が何を思い行動しているのかは残念ながら分からない。休養期間ではあると思うんだけど」
「ふむ、妖怪の山がうんともすんとも言わないのはそのせいか……天魔とやらは知っていたんだな、この状況の到来を」
「天魔?」

ルーミアがきょとんとした表情をする。
いつものルーミアの顔――そんなふうに思えるほど長い時間を共にしたわけではないけれど、そう思った。

「どうした?」
「ああ、いや……今はそれで通しているのかしら?」
「違うのか?」
「うーん、あのヒトはどっちかって言えば――」

ヒエダ――そんな言葉が聞こえた。小さな声だったから慧音には聞こえなかっただろうが、大妖精は耳が良いので聞き取ることが出来る。ただ言葉の意味まではわからなかった。

「ま、そんなことよりさ、風邪ひいちゃうよ」
「そう言えばずぶ濡れだな。泥だらけだし。こんなときに傘もささずに何をやっているんだ、私たちは」

おかしそうに慧音は笑い、近くにあった帽子をかぶり直した。憑き物が落ちたような、という表現はこういうような状態をいうのかもしれない。
二人が立ちあがる。

「あ、あの!」

やっと大妖精も口を開くことが出来た。

「ああ、見苦しいところをみせたね。すまない」

そう言って慧音は穏やかな笑顔を見せた。
やっぱり――まっすぐだ。

「こ、これ釣り人さんから」

あの種を慧音とルーミアに渡す。

「あ、これはありがたい」
「ん、ありがと、大ちゃん」

雨に晒された種はやはり瞬く間に発芽して、二人分の傘の代わりになった。
そして――

「えい」
「わっ!?」

突然ルーミアは慧音の背中を押した。それで慧音はよろめいて、大妖精は桜の下で慌ててそれを受け止める。
慧音はすまないと言って大妖精に詫びた後、ルーミアの方を向き苦言を呈した。

「まったく、いきなり何をするんだ」
「ふふ、ねえ、人里の守護者さん――」

雨の中で葉っぱの傘を差し、ルーミアが微笑む。まとっていた闇はどこかへと退き、服を濡らした血は天から注いだ雨に薄れている。
もうちっとも怖くはなかった。

「今はこの地に住まう幻想たちを信じてほしい。人里は――妖が守る。あなたたちみたいな襲いがいのある人間を襲っていいのは私たちだけだもの。外から来た奴のほしいままになんかさせるもんか」
「そんなことをしていいのか? 人と妖怪の境界線が揺らぐぞ?」
「大丈夫。きっとどこぞの誰かが『線をきっちり引きなおせるヒト』を担ぎ出してくるわ。土下座してでも、お説教くらってでも、ね」

だからさ――そうルーミアは言うと、雨の向こうで人懐っこい笑みを浮かべた。

「生き残ってよ、人間。それでまたこの世界に付き合ってよ」
「……ああ、分かったよ」

桜の樹の下で人里の守護者ははっきりとそう応えた。

「今回だけは頼るぞ、妖怪」

そして血汐で衣服を染めた少女達は向かい合い、もう一度笑顔を見せた。






◇◆◇






――――博麗神社


巫女は呆然として目の前の神社の有様を眺めていた。
桜、桜、桜――
博麗神社は桜の綿津見の内である。境内を通り抜け、鳥居の彼方の石段まで桜の回廊が続いている。空は雨雲が薄れ、風景を滲ませていた雨はわずかに注ぐばかりとなっていた。

「咲いた、咲いた。満開だわ。私の手にかかればざっとこんなもんよ~」

幽かに香る春の匂いをまとい、花の妖怪ははしゃいでいる。本降りの時にはささないでいた傘布を小降りになった今になってさし、それをくるくるとさせている。
伸びて若干持て余し気味だった緑の髪が縮んで短くなっているのは力を使った反動なのだろうか? そしてぱしゃぱしゃ水の跳ねる足元では相も変わらず何かの草花が生まれては消えていく。

「花を咲かすのは土の力、でも桜はこうして天が介入してくるのです。不思議よね。だから桜は土だけでなく空にも還さなければならないの」

その能天気な調子で紡がれる言葉が呆然としていた巫女を我に戻す。

「な、何やってんのよ! これ普通に異変じゃない!」
「それは大変だわ。首謀者を向日葵にしに行くわよ」
「首謀者あんたじゃないか!」
「針を構えるのを止めなさいってば。いきなり最終ステージから始まる異変はないのよ?」

暢気な調子で言い、そして幽香は傘を閉じた。わずかばかり水滴が散る。その水滴の落ちた先で蓮の花を縮めたような小さな花が一瞬生まれ、消える。

「まあ大丈夫だってば、すぐに元に戻るから。四季が四季であらんとする抑止力を舐めてはいけないわ」
「抑止力?」
「冬のアイツが春先に暴れたって、秋の神様たちで悠々対処できてしまう。逆に季節が三冬の内にあるのなら、あれに向き合える奴はそうはいない。四季ってそういうものよ。なので今は大人しく楽しんどきなさい。そして――貴女はこの桜でも守っときなさいな」
「は?」
「来年も、その次の年もこの子たちが咲き誇れるように」

予期していなかった言葉が幽香の口から飛び出し、巫女はぽかんとする。いつでもこの妖怪はこちらの予想を裏切るようなことばかりを言う。

「それが私からの命令。妖怪は妖怪で適当にやる。里の人間どももそう易々屈するほど軟じゃあないでしょうよ。というか下手な妖怪よりもよっぽど粘るし、あんたよりは強靭よ、きっと。だから貴女はここでしおらしく桜守でもやっておきなさいって言ってるの。花屋の娘じゃない、適任よ」
「なんだそりゃ」
「人はあいつと違って境界線の上にずっと立ち続けていられるほど器用ではない。花を守ることが即ち幻想郷を守ることに繋がる――昔の人は良いことを言った」
「言ってないと思う」
「私が言った。ん?」

ぼやく巫女を尻目に幽香が何かに気が付き地面を見た。
そこに一匹の小さな雨蛙がちょこんとしている。おもむろに幽香がかがみ込み手を伸ばすと、その細い指先に雨蛙がぴょんと跳び乗った。
その手に乗った雨蛙をちょんちょんと小突く顔は中々に楽しそうである。カエルが好きなのだろうか? ますますどこぞの妖精のようだと巫女は溜息をつく。これでも巫女にとっては百歩ほど譲れば師匠である。
カエルの方はといえば特に警戒した様子も見せず、掌の上でじっとしているのだった。
そのまま巫女の方は見ずに幽香は語る。蛙をなでながら語るから、蛙に語りかけているようにも見える。

「雨露を厭うのはあんた。好むのはこの変な顔。けどこの雨が何かの命を育み、その命があんたを繋ぐということもあるの。あんたの嫌っていることだって、回りまわってあんたを助けるということはあるわ。自然というのはそういうふうに出来ているのです。大体あんたの家、花屋じゃないの。雨が降らなかったら仙人掌しか売る物がなくなってしまうわ」
「そりゃそうだけどさ……」
「ま、実はただの嫌がらせなんだけどね」

巫女に向かってではなく、母屋の方に向かって幽香は言った。
振り向くと襦袢姿の紫が立っていた。幽香とは違いいつものように傘をさしているが、白い襦袢と洋物の傘とがえらく不釣り合いである。

「貴女の目論見はまたもご破算よ」
「余計なことをするわねえ……」
「やり方が回りくどいのよ。夢へ干渉するだなんて」

――え?

はっとして巫女は紫の方を見る。ばつが悪そうに紫は目をそむけ、嘆くように額に手をやった。

「余計なことを言うわねえ……」
「貴女たしか『物語の内部に入り込む』とかいう変な力があったわよね? 稗田の子がそんなことを言ってた。その応用かしら?」
「ま、そんなところですわ」

スキマから紫は扇を取り出し、いつものポーズを見せる。その胡散臭い笑みにはしかし不思議な安心感が伴っている。

「で、幽香。一応確認するけれど――あんたどこへ行っていた?」
「月らしいわよ」

蛙を草むらに逃がしながら幽香は答える。

――月?

「やっぱりか。結界の具合がおかしいと思ったのよね。で、初めての月面ツアーは如何だったかしら?」
「それなりに楽しかったけど……でも起きたらすでに目的地に到達していたってのがいただけないわ。神降ろしだかなんだか知らないけど、移動だって立派な旅の醍醐味、あんなふうに端折ってしまってはつまらないったらない」
「青春18銀河鉄道」
「綿月という名に聞き覚えは?」
「接触したの? どっちと?」
「両方、かしらね。何人姉妹なのか知らないけどさ。ちなみにあれはかなりのお人よしの類よ。『第二次』でも起こそうというのなら、その辺りを勘案してみるといいかもね」
「情報提供に感謝いたします、と言っておきましょう。それとこの桜なんだけどね――」

境内を染める桜を紫は見渡した。

「名残惜しいけど、ちゃんと戻しなさいよ?」
「そうね、ほっといてもたぶんそのうち戻るけど、ちゃっちゃと済ませてしまおうか」

そう言うと幽香は閉じていた傘を再び広げた。そして空いた方の掌はそっと宙に伸ばす。
一瞬の間を置いて、神社一帯を渦を巻くような強い風がさらいはじめる。

――月に叢雲、花に風

そんな言葉が巫女の頭をよぎった。
花びらは枝より離れて風に乗り、桜色の渦が境内を染める。
ただ、無理矢理引き剥がすといったような粗暴な感じはそこにはない。感じられるのはむしろ本来のあるべき状態へと回帰していくような――乱された秩序が回復されていくような――安堵感である。風がなければ綿毛は飛ばないものなのだ。
その桜花の渦の中心に咲くのは、幻想郷で唯一の枯れない花である。
そして花を手放した桜たちはすぐさま青々とした皐月の緑を取り戻していく。

「『花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは――』」

紫はすっと目を閉じ、古めかしい何かの言葉を紡いだ。
一方で密をなした桜の渦はやがて大空へと立ち昇る。先ほどの雲の柱に変わり、今度は桜色の柱が神社に屹立する。
巫女はただ言葉を呑んでそれを見守った。

「ご苦労様、また来年。龍神様にもよろしく」

天理を知る不思議な少女は、花の洪水のただ中でやけに可憐にほほ笑んだ。
見守るのは数理をもって境界を渡る妖怪と、巫女という役目を背負った普通の人間である。
やがて舞い上がった桜は天に消え、雨雲は元通りとなり、五月雨が再び博麗神社を潤した。












「寝てるわね」
「寝てますわね」

桜の去来で目まぐるしい変化を見せた風景は、結局は元の形に落ち着いている。
その境内の中央で、幽香は目を閉じて立っている。一見するとそれは何かに深く感じ入っているようにも見えるのだが、首の動きが明らかに舟をこいでいる時のそれだ。傘はさしたままで、足もとには相変わらず草花が茂っている。

「器用な……ま、どうせ月で一悶着やらかしたのでしょうけど」
「月って、たしか地上とは断絶しているんじゃなかったかしら? 稗田家の記録にはそうあったと思うんだけど」
「まあそんなとこかな」
「大丈夫なわけ? こう、月と地上の関係悪化とかそういう感じのことは――」
「あちらはこちらのことなど眼中にないでしょうから大丈夫よ。それに接触したのがあの姉妹であるというのなら、荒事にはなり得ないわ。それより――あいつ起こさないと後が大変よ? 草むしりとか剪定とか」
「へ?」

言われて幽香の方を見てみると、その足元を中心にして草花が波紋のようにゆっくりと広がり生えつつあるのだった。一部の強そうな雑草に至っては石畳を退けるようにして強引に伸びている。

「ち、ちょっと!」

慌てて駆け寄る。
このままでいけば境内は降り注ぐ雨と相まってじきに緑に呑まれてしまうことだろう。そして巫女の背後では、とうに樹木として終わっているはずの賽銭箱や拝殿周りの欄干からも小さな芽が息吹きつつあった。さらにすでに生えていた草木は目に見えてその丈を伸ばしていく。

「分け入っても分け入っても青い神社……ってのもなんだかねえ」

うろたえる巫女の背後で面倒くさそうにそう言うと、パンと音を立てて扇を閉じた。するとそれに合わせるように草木の浸食速度が緩やかになっていき、やがては静止した。

「出力が無駄に大きいんだから相応の調整力も身に付けてもらわないと困る、って言っても貴女はお構いなしなんでしょうけど……さて」

胡散臭そうな瞳が巫女を見据える。

「なんか私が寝ている間に色々あったみたいだけど貴女はどうするの?」

隙間から地味な色彩の番傘を取り出しつつ紫はたずねる。

「踏み止まる? それとも霊夢に引き継いでお暇かしら?」

若干ぞんざいな口調で紫は問う。その紫が大儀そうにスキマの上に腰を下ろす間、巫女は委縮と逡巡を交互にし、そして答えた。

「桜のお守命令されちゃったし、しばらく神社でお茶でも飲んでるわ。貴女の見せた夢にも、悔しいから屈してあげない」

少しだけ姿勢を正して巫女は言い放ち、それを聞いた紫は――おそらく溜息をついたのだろう――扇で口元を覆ったまま何かを諦める表情をした。

「しんどいわよ?」
「それは紫だって一緒でしょう?」

返答を聞いた紫は一瞬きょとんとした目付きをし、そして身体を小刻みに震わせ始めた。やがてそれは楽しそうな笑い声となる。

「あははっ、ダメね。降参降参」

何かを打っ棄るような態度でもって紫は手をひらつかせた。

「泥臭い魂だわ、もう……今回はほんと思うようにいかない」

だから人間は面白いんだけど、と紫は悪戯っぽい表情で付け加え、賽銭箱から下りて境内に出る。上機嫌なのだろうか、くるくると傘を回している。

「ねえ、紫」
「んー?」
「取りあえずありがとうとは言っておくわ」
「光風霽月――わだかまりは晴れましたか?」
「ちっとも」
「でしょうね。それで『いい』と思うわよ。私はこれからも――攫い続けるから」

線を引かれた――そういう気がした。

「それは――必要なこと?」
「そうしなければいずれ立ち行かなくなる者も中には出てくるでしょうね」

紫が舟を漕ぐ幽香に歩み寄り、すっとその頬に触れる。

「んっ……ん? むむ……」

眠りつつ嫌そうな顔をする幽香と、それを可笑しげに眺める紫。案外また夢をいじくり回しているのかもしれない。
やがてその幽香の足元にスキマが開き、沈み込む。

「まったく、桜なんてややこしいものに干渉するからそうなる。せめて雨の当たらない場所で眠りなさいな」

スキマに沈んだ幽香は社殿の階段に座らされる形で現れる。目を覚まさないのは紫の扱いが紳士的だったからなのか、単に幽香が度を逸して眠り呆けているだけなのかはっきりとしない。
紫は境内に立ったまま鳥居の方を見ている。結界の様子を見ているのだろうか。その足元は幽香のせいで相変わらず無駄に繁茂している。

「はじめに言った通り――貴女は何もせずただ神社に留まりなさい」

そう告げて、紫はくるりと巫女のいる方を振り向く。拍子に白襦袢の裾が少しだけ揺れる。

「貴女を数式の一部に組み込むことにした」
「数式の? 何の話?」
「ただしあくまで演算子。貴女自体に値を持たせることはしない。貴女が――人間がこの境の地にあることが肝要ってことね。この先、人とそうでないものとの境が少々がたつくでしょうから」

数式がどうのという部分は分からないが、後者の物言いについてはすぐに合点がいった。
いま人里には着々とヒトが集まってきている。各々が各々の理由を持ち、人里を目指している。それは即ち人が妖怪に加勢し、また妖怪が人に加勢することを意味しているのだ。

「貴女が人と妖の境に打たれた楔。つまり――まあもう少し巫女やってなさい、ってことよね」

珍しく胡散臭さのない笑みを紫が見せる。
そういうふうに微笑まれると、やっぱりその姿はやけに綺麗で、だから巫女は少し嫉妬が混ざった奇妙な寂しさを覚えてしまう。
思えばいつだってそうだった。初めて出会ったときも、神社で真偽の程の知れない言葉を聞かされるときも、異変の中を共に飛んだ時も――八雲紫は綺麗だった。綺麗だったから、その時間がきっといつかは終わりを告げてしまうのだということが分かっていて寂しかった。

「早く傘をさしなさいな。風邪を引いてしまいますわ」

取るに足らない物思いは内に潜め、差し出された傘を受け取ろうとした。
白い手と、白い襦袢。灰の空と五月の緑雨。わずかに轟いた遠雷。
そして境内に生えた、小さな一本の桜――

――え?

桜は先ほど幽香が空へと還したはずだった。それにもかかわらず、どうして季節をすぎた境内にこの花が咲いているのか。
それはとても小さな桜だった。それが紫のすぐ後ろにいつの間にか生えているのだ。
大きさなどは人の身の丈ほどしかないだろう。
そして奇妙なことにその桜は淡い藤色の着物をまとっているのだった。

――違う

あれは髪だ。
桜ではない。桜と同じ色をした髪の女が紫のすぐ後ろに立っているのだ。その姿は妙に儚げで、だから発する気配までもがひどく希薄なものとなって雨の中に溶けてしまっている。

――亡霊?

そしてその姿を認識すると同時に巫女の足はよろけ、傘を受け取ろうとした手は宙を切る。
睡魔のような抗いがたい感覚が全身を覆い、身体と同じく意識までもが揺れる。
立っていることができない。足を支えるはずの地面が、壁のようにせり上がる。
そうして倒れこみ意識を失う直前に巫女が見たのは、紫の首に扇をすっと添える亡霊と、その隣で黒い蝙蝠傘をさしながら哂う小さな女の子の姿だった。


(本編へ続く)
シビアに人喰い書いてやんよ、と息巻くも結局は中途半端なぬるい話になってしまったというオチですが、とりあえず大変見苦しいものをお見せ致しました。超すっきり。やっぱどこかでこの部分も書かないとダメだよなあと思っていたので。
そしてさりげなく既存キャラの大半を人食いから遠ざける姑息さ。苦手なんだもの、人喰い。巫女さんの出番はもうほぼありませんのでご安心を。

ゆうかりん(と静姉)の月面ツアーは次の次ぐらいの月面編でやりたいとおもいます。できるだけ能天気な話にしたいな。ゆうかりんはけっこうお節介さんなイメージ。

それと生存報告用と言い訳用と世間話用にブログをこしらえました。アクセスカウンタすらついていない有様ですが……
ごんじり
http://gonzirit.blog129.fc2.com/
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コメント



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5.100名前が無い程度の能力削除
貴方の書く、どろどろ血で淀んでいても、それでもなお楽園であろうとするような幻想郷の形が大好きです。
ところで幽香さん自分で昔の人って認めちゃうんだ……。
6.100名前が無い程度の能力削除
てっきり幻想入りしたかと思っていました。
完結するまで何年でも待ち続けます。
11.100名前が無い程度の能力削除
待ってました!! 多くは語るまい、ただ相変わらず面白い!!
13.100名前が無い程度の能力削除
月面・・編・・だと。
続きも楽しみだ!
17.100名前が無い程度の能力削除
くーるなルーミアが素敵です。
18.100名前が無い程度の能力削除
>幽かに香る
なるほど、なるほど。
貴方の誰も彼もが大好きです。
一気に二つ読んでしまいましたぜ!
19.100名前が無い程度の能力削除
待ってました! 
相変わらず飛びぬけた面白さがある。
次は月面編ですか! 楽しみにしています。
23.100名前が無い程度の能力削除
書いてあることの半分くらいしか理解できない自分が悔しい
27.100名前が無い程度の能力削除
おもしろかったです。
本編も楽しみにしてます。
28.100名前が無い程度の能力削除
お待ちしておりました。やっぱりごんじりさんの話は最高に好きだわー。
35.100名前が無い程度の能力削除
追いついた!
今回も引き込まれて読みました。
特に、この幽香は凄く好きですね。
しかも、月面編とか俺得すぎる!
36.100名前が無い程度の能力削除
読んだ時最初に感じたのは、俺たちのごんじりさんが帰ってきた!って事なんだ。
昔も今も変わらず貴方の文章には引き込まれます・・。
37.100名前が無い程度の能力削除
わーい、綿月姉妹が登場するだって!
いいねいいねー。
53.100名前が無い程度の能力削除
この作品は未完になってしまったって構わない。だけれどごんじりさんの作品はまた読みたい…。