春の日の午後。柔らかな日差しが窓越しに部屋へと降り注ぐ。
簡素な寝台に真っ白なシーツ。
その上に美鈴を横たえて、両手いっぱいの花びらをひらひらと散らす。
手のひらの隙間から零れ落ちる花びらは、音もなく美鈴の上に舞い落ちる。
妖精がまどろむ昼下がり、舞い落ちる花びらに目を細めながら、私は束の間の夢を見る。
**華胥の夢より**
この二人だけの遊びをする場所は、私の部屋と決まっている。
理由は簡単。やろうと話を持ちかけたのが私で、それを了承してくれたのが美鈴だったから。
この遊びを思いついたきっかけは、ある日外出先から戻ったときに、紅魔館の門前で戦う美鈴をたまたま見かけたことにある。無数の花びらを操り、舞い躍らせながら戦う彼女を見て、ふいに心を奪われてしまった。甘い香りが、鼻をふわりと刺激したことを覚えている。
花びらを纏う美鈴をもっと近くで見てみたい。出来れば、私だけの特等席で、と思ったら唐突にこの遊びを思いついて、本気半分、冗談半分で話を持ちかけたら了承されてしまい、今に至る。
本当は一度きりのことだと考えていたけれど、やってみたら思っていた以上に愉しくて、何よりこんな突拍子もない提案を受け入れてくれた美鈴を意識してしまって、やめられなくなってしまった。普通なら、笑って受け流されて終わりの話だと思うから。
だから、嫌がる素振りを見せない美鈴を付き合わせて、定期的に、秘めやかに続けている。
寝台脇のナイトテーブルに置いた銀のボウルから、花びらを両手いっぱい掬い上げた。
そうして手のひらの隙間から寝台の上にひらひらと散らす。たっぷりと時間をかけて。
寝台に寝そべり、その花びらを大人しく受け止める美鈴は、舞い落ちる花びらを目を凝らして見上げた後、少し困ったように笑った。
「その花、桜ですか?」
「えぇ。今の季節、これ以上の花はないでしょう?」
「それはそうですけど……せっかく咲いたのに何だかもったいないと言うか」
「大丈夫よ。幻想郷にある桜から少しずつ集めたものだから。1本から取ったわけじゃないわ」
「そうなんですか? それならまだ良いですね。お手数お掛けしました」
「いいえ。お手数だなんてとんでもない。貴女こそ、私の遊びに付き合ってくれてありがとう」
改まってそう言うと、美鈴はふふ、と可笑しそうに笑った。
鈴が鳴るような軽やかな声。もっと聞いていたくなるような耳触りの良い声が、胸を震わせる。
少しだけ花びらを落とす量を増やすと、今度はくすぐったそうに笑った。
あぁ、本当に、全然お手数なんかじゃない。花を集める作業すら楽しいのだから。
遊ぶ日を決めると、紅魔館の庭園に足を運んで、今回はどんな花にしようか決める。
自然と足取りは軽くなり、期待から表情が緩むのを止められない。
興奮が全身を熱く滾らせ、時折背筋にぞくぞくとしたものが走る。
二人の遊びに相応しい花を見つけたときの高揚感は半端じゃない。
薔薇を筆頭に、今まで一体いくつの花で遊んだだろう……。
花を決めたら次は収集。花屋で買ったり野山で摘んだりする。
銀のボウルを花で山盛りにしたら、後は美鈴を部屋に連れ込んでこうして遊ぶ。
私は花をひらひら落とし、美鈴はただただそれを受け止める。
とてもシンプルな遊びながら、次第に恍惚としてくる。
舞い散る花びらと美鈴しか視界に入らなくなる。私の花と美鈴が溶け合う様を夢想する。
いっそ、溶け合ってしまえば良いのに。そうしたらどんなにか気持ち良く、満たされるだろう。
そういうふうに考える私は、もう相当ヤバイところまで来ているのかもしれない。
「咲夜さん」
「――何?」
「前から思ってたんですけど、何だかそれ、砂時計みたいですよね」
「それ」と美鈴が指差したのは、花を零す私の手のひら。
「そうね。……ひっくり返すことの出来ない、一方通行の砂時計だけど」
そう言った途端に後悔した。ぽっと生まれた虚しさが心を隅々まで覆っていく。
自分の愛し方が異常なのは分かっている。この遊びが倒錯的なのも分かっている。
加えて私は、一度たりとも美鈴に、好きだとか愛してるだとかは伝えていない。
だから一方通行なのは当たり前だ。こうして付き合ってくれるだけでもありがたいのに、美鈴に愛を求めるなんて――しかも自分と同等の愛を求めるなんて――おこがましいにもほどがある。
「一方通行……そうですね。こうして降り積もって終わりですもんね」
「えぇ」
「でも、その代わり、舞い散る花はいつまでも私の心に残り続けますよ」
「え?」
「私の身体に花が舞い落ちるたびに、心の奥底に溜まっていって、最近は苦しいくらいです」
「……」
「様々な色をした花に溺れそうになる。……私の気持ち、分かりますか?」
無数の花びらにまみれる美鈴に真摯な眼差しで見つめられて、ぎゅっと胸が締めつけられた。
無言ではらはらと手の内の花びらを落とし切ると、銀のボウルを掴み取った。
「……なら、溺れてしまえば良いのよ」
つっとボウルを傾けると、はらはらはらはら途切れることなく花びらが滑り落ちていく。
溺れてしまえば良いのよ。このまま溺れてしまえば良い。息つぎの余裕なんて与えない。
苦しさの向こう側へ行ってしまえば良いのよ。諦めて身を任せれば良い。
貴女の心を花で満たして、早く早く溺れさせてしまいたい。
「咲夜さん、待って。咲夜さん」
片手で降り積もる花びらから顔を庇い、美鈴が腕を伸ばしてきた。
その手は真っ直ぐ私へと向かう。溺れた者が救いを求めるかのように。
白い花びらと、白い手のひら。白い色が視界とともに私の思考をも染めつくす。
このまま溺れれば良いのに。溺れさせたいのに。私で貴女の心を埋めつくしたいのに。
そうして初めて、自信を持ってこの手を掴めるのに……。
「咲夜さん」
伸ばされた手に目が釘付けになる。この手を掴んだらどうなるの?
分からない。分からないけど、救いを求めているのなら、私を求めているのなら。
こんなに苦しそうな表情で必死に何かを訴えている貴女を、1人で沈ませることなんて出来ない。
重くむせ返りそうな花の中で溺れそうな貴女に手を伸ばす。
銀のボウルが手のひらから滑り落ちる。でも、そんなの気にしてはいられない。
「美鈴」
私の元へ懸命に伸ばされた手のひらに触れる。縋りつくように握られて、私も握り返す。
勢い良く腕を引くと、上体を起こした美鈴の身体からはらはら花びらが落ちた。
その瞬間、ふっと罪悪感に苛まれたような表情を見せた美鈴を、堪らず胸に掻き抱いた。
滑らかな白いシーツに寝そべっていた身体はひんやりと冷たい。
「……もっと早くこうしてれば良かった」
触れるのをためらわず、美鈴にあんなことを言わせる前に。
でも、どうしても出来なかった。触れるだなんて、出来なかった。
美鈴に花を散らして満足する……そうした屈折した自分を意識するたびに、そんな自分が美鈴に触れる資格なんてないと思った。屈折した独占欲と支配欲は、花びらへと姿を変え毒々しく美鈴の身体に降り積もる。そんな自らの醜悪さに眉を顰めつつも、甘美な快感を優先してしまった。
一方的な想いをぶつけるのは、痛みとともに確かに愉悦をもたらすものだったから……。
「咲夜さん。私、咲夜さんの想いだけじゃ、もう足りないんです。こうして触れて欲しかったんです。1人で溺れたくない。1人は嫌なんです」
私の腕の中で、美鈴がくぐもった声を漏らす。
「1人じゃないわよ。私だってとっくに溺れてる。だから私が手を伸ばしたところで、一緒に溺れて沈むだけよ」
幼く頼りない子供のように縋りつく美鈴に、そっと言って聞かせた。
私の手は、救いの手にはなりはしない。ただの気休めのぬくもりにすぎない。
出来るのは、無数の花びらの群の中に、ずるずると一緒に沈んでいくことだけ。
だけど、それでも、私と一緒が良いのなら、私は貴女を手放さない。
……否、きっと手放せない。貴女の身体の温度とその柔らかさを知ってしまったから。
甘く恍惚とした行為も、このリアルな感触を伴った行為がもたらす充足感には到底及ばない。
あんなに夢中だったのに、そう知らしめられた途端、潮が引いたようにすうっと熱が冷めていく。
花びらを落とす行為に、私はもう価値を見出せない。
それほどまでに、より動物的な、本能的な行為がもたらす充足感は、圧倒的だった。
どうしよう。私はもう戻れない。絶対に。漠然とした、捉えどころのない焦燥感が募る。
何よこれ……。何でこんな思いをしなくちゃいけないのよ! と癇癪を起して、叫びたくなる。
「沈んでも良いです、私は。咲夜さんと一緒なら良いですよ」
蕩々と、どこか誘いかけるような言葉は甘い蜜のようで、思わず喉が鳴った。
ひらひらひらひら、脳裏に花びらがよぎる。あの日の美鈴を思い出す。
花びらを纏って戦う美鈴の美しさに目を奪われた日のことを、鮮明に思い出す。
くっきりと青い空と、紅や黄色の無数の花びらと、その中に立つ美鈴。
とても綺麗だと思った。私にはない生き生きとした躍動的な美しさが、私の心を鷲掴みにした。
それでいて、花の香りはどこまでも甘い。……心なしか、今、花の香りまでするような気がする。
深く息を吸い込むと、甘ったるい香りが鼻を刺激する。あのときの香りだとすぐに分かった。
美鈴の香水? でも、いつも香水なんてつけていたかしら……? とくらくらする頭で思う。
甘い香りが鼻に残る。身体中が心地良く痺れて、キスをしたい衝動に駆られた。
美鈴の滑らかな髪を撫でたところで、でも……と虚ろな頭を強引に働かせる。
これじゃ私は、甘い花の蜜に吸い寄せられた、ただの虫じゃないの。そんなのは、嫌だ。
主導権は、常に私の手の中にないといけないんだから。決して美鈴の手の中にあるものじゃない。
目を閉じて、滾る支配欲と独占欲を思い起こす。花びらを落としていたときの、あの欲と情動を。
髪を弄んでいた手を滑らせて項を辿り、首と、頚椎のかたちを確かめるようになぞった。
身体の急所を執拗に触られ、本能的な恐怖が襲ってきたのか、美鈴の身体がぎゅっと強張った。
「……あの、咲夜さん。そこは……」
「黙りなさい。一緒に沈みたいのなら」
言い放った途端にびくっと身体を震わせて言葉を飲み込む美鈴を、堪らなく愛しいと思う。
寝台に押し倒すと、ふわりと花びらが舞った。私の想いの欠片たち。
無数の花びらの中に倒された美鈴は、心許なさそうな表情をしている。
そうね。この花は、貴女の花じゃないものね。貴女が操れるような花じゃない。
貴女の身体に溶け込むことは出来なくても、心の中に残り続けるんだものね。
貴女を内側から侵して、満たしていく花だもの。貴女の手に負える花じゃない。
真っ直ぐに私を見つめながらも、不安げな表情を見せる美鈴に、私はにっこりと微笑み返す。
そっと壊れ物を扱うように柔らかな頬を撫でて、ゆっくりと顔を近付けた。
「お利口さんね」
美鈴の瞳が戸惑いに揺れる。けれど口は噤んだまま。私の言葉に懸命に従っている。
自分の言葉が美鈴を縛っている。心の底から湧き上がる満足感を、押し隠すことが出来ない。
「お利口さんだから、ね、一緒に沈んであげるわ」
出した声は、極度の興奮からか少し掠れていた。
美鈴の瞳が、ぱぁっと喜色を帯びる。空が青から赤に変わるような劇的な変化に、目を見張った。
泣きそうな顔をして、あんなに困惑していたのに、私の言葉1つでいとも簡単に表情が変わる。
もう戻れないというのなら、沈むしかないというのならせめてこうして支配してやりたいと思う。
美鈴という花に魅せられ、引き寄せられた私は、もう彼女から離れられない。
それならば、すべてを私のものにしてしまおう。この花の香りも、溢れ出る蜜もすべて私のもの。
滾々と湧き出る恍惚とした感情は、時を支配するときに感じる愉悦に似ている。
美鈴の、僅かに開いた唇に口付けると、花の蜜を吸う虫がふいに頭に思い浮かんだ。
ただの虫なんかじゃないと思いつつも、結局やることは、求めるものは一緒なのか……。
自嘲気味になる思考を頭の隅に押しやって、目の前の唇に没頭した。痺れる甘さに、目を細めた。
すごい甘さですなぁ、胸焼けしそうだ!
でも好きだ!!
いいなぁ…
ゾクゾクするわぁ