もしも人前で急にオナラがしたくなったらどうするか。
多数の人は解放感よりも羞恥心が勝り、己が全力を以て我慢するだろう。
少数の人は大丈夫だバレやしないさ、と小賢しくもすかしてみるだろう。
そして極々一部の人は普通に屁をこく。それはもう普通に。ぷぅ~っと。
では逆に、オナラをしても問題無い場面とは何だろうか。
自分以外に誰もおらず、いつでも換気できる状況ならば、まぁ普通に出すだろう。
もしくは、本当に気の置けない人しか周りに居ないのならば。
「あ、出る」
霧雨魔理沙の薄いおしりから、7デシリットルの気体が幻想郷に放たれた。
にくいあの子は魔法使い
「……ちょっと魔理沙」
「ん、どうした」
「何か言う事はないのかしら?」
魔理沙の隣に座る天下の博麗の巫女たる博麗霊夢も、さすがにこれには不快感を露わにした。
博麗神社の縁側でお茶を飲みながらのほほんとしていた時にいきなり屁をこかれたのだ、当然の反応だろう。
霊夢は『親しき仲にも礼儀あり』と暗に言いたい様だが、彼女を知る者は人妖問わずに口を揃えてこう言うだろう、「お前が言うな」と。
「何かって……いや、だって臭く無いだろ」
「はぁ? あなた何言ってるのよ。オナラは臭いものと相場が決まって……あれ?」
霊夢は犬の様にくんくんと辺りを匂いを嗅いだが、鼻を通るのは穏やかな昼の空気のみ。
なんと、確かに臭くは無かった。いや、むしろ清涼感さえ漂う香りがほのかに魔理沙から立ち昇っていた。
それにはインドールというオナラの臭いの元となる物質の一つが関係している。
このインドールが多量に存在していると酷く不快な臭いがするのだが、少量の場合はなんとフルーティーな香りがする。
それもそのはず、インドールは柑橘類などを始め多くの植物に含まれる香り成分なのだ。
「臭く……ない? え、そんな! 魔理沙、臭くないわよ!」
「あのなぁ霊夢、私みたいな乙女の身体が臭いわけが無いだろう?」
今明かされる衝撃の事実。なんと、乙女の身体は臭くないらしい。
いや待て、臭くないのはオナラだけかもしれない。
なぜならば霊夢自身も臭くないオナラは何度もしているからだ。
よろしい、ならば検証しようではないか。
実際に霊夢は魔理沙の細い体の上から下までにおってみた。
頭の天辺に顔を埋め、そのまま首筋を伝って腋を経由し、脇腹からおへそをなぞってお腹を下り、股間を通って足の付け根からつま先まで一直線に滑っていく。
「ま、待てよ霊夢! そこまで嗅ぐのか!?」
嗅ぎますとも。途中で魔理沙がくすぐったそうにしようが恥ずかしがろうが、霊夢は気にしない。
「……何よもう」
結論から言えば、魔理沙は臭くなかった。
もちろん無臭とまでは言わないが、気になる程の匂いは無い。
同じ女の子として、霊夢が少しばかり嫉妬してしまうのも仕方のない事だと言える。
しかし魔理沙と霊夢どちらが羨ましいかと二人を知る人妖の少女達に聞けば、十中八九霊夢と答えるだろう。
それは彼女の持つ仕事道具の一つである陰陽玉の効能に、“甘いものを食べても太らない”“好きな香りが出せる芳香剤”という能力があるからだ。
嘘か真かは定かではないが。
「あんた普段何食べてたらそんな体になるのよ」
「さてな。まあ普段何食べてるかと言えば、主に米ときのこだな。あとは納豆とか」
お茶受けの煎餅を齧りながら魔理沙が答えた。
ちなみに納豆は臭い食べ物だが、摂取することで体臭を抑制してくれる働きがある。豆知識だ。
「そんな物しか食べてないから大きくならないんじゃないの? 肉を食べなさい肉を」
「お前も大して変わらないだろ、色々と」
魔理沙はちらりと霊夢の胸を見た。
「変わるわよ、結構」
一方霊夢は魔理沙の頭の辺りを見た。
博麗神社への御賽銭が少ないという事は周知の事実であり、普段何かと食生活を気にされる霊夢だが実は結構良い物を食べている。
確かに御賽銭は少ないが、全く無いわけではない。
そしてその数少ないお賽銭の大半が食費に消えていくのだ。
それは何故か。
霊夢は博麗の巫女であり、幻想郷に何か異変が起きた時にそれを解決するのが務めである。
しかし異変というものは困ったもので、ある日突然やってくる。
それもそのはず、いついつにどこどこでこれこれという異変を起こしますよー、などと事前に告知する馬鹿は居ない。
つまり、いつ異変が起きてもそれに対処できる体を普段から作っておく必要がある。
ご飯をしっかり食べていなかったので力が出ません、ではお話にならないし、異変が起きてから慌てたところでもう遅い。
朝昼晩と三食しっかり食べる事は、即ち博麗の巫女の務めでもあるのだ。
「そういえば昨日裏手の森でイノシシを仕留めたんだけど、良かったら少し持ってく?」
そしていつの時代もパワーの源は肉である。
「ずいぶんとアグレッシヴな巫女も居たもんだな」
「あらそう、いらないのね」
「誰もいらないとは言ってないぜ」
そして肉が嫌いな育ち盛りもいない。
霊夢に猪肉を貰ってから三日が過ぎ、魔理沙は自分の体にパワーが漲っているのを感じていた。
毎日三食肉三昧だったのだ、これで力が出ないはずがない。
そして肌艶の良い顔を綻ばせ、箒にまたがり颯爽と空へ飛びあがった。
朝の清涼な空気をいつもよりも鋭く切り裂きながら、魔理沙は思う。
パワーを付けたければ肉を喰え。
誰が言ったか知らないが、正にその通りだと。
魔法の森の中を流れる小川を上流へ向かうと、そこには小さな湖がある。
夏だろうと冬だろうと気が付けば霧が立ち込めているため、霧の湖と呼ばれている。
その湖畔、住んでいる者の感性を疑う程に外観を真っ赤に塗られた大きな洋館がある。
吸血鬼の住む悪魔の城、紅魔館だ。
窃盗を繰り返し過ぎて最早常連客となり、今ではすっかり顔パスとなった門を通過し、その紅魔館の地下にある図書館で魔理沙は物色していた。
この図書館で日常的に見られる光景である。
今日は三冊。
それらを傷つかない様にと丁寧に布で包んでから愛用の鞄にしまうと、
「それじゃあコイツは借りてくぜ」
いつもの様に図書館の中央で静かに本を読んでいた少女に声をかけた。
それに対して「持ってかないでー」だの「ちゃんと返しなさいよ」だのと返事があるのもいつもの事。
「いいわよ。どうせ私が書いた本だし。ただ、大事にしてよね」
だがこの幻想郷で最も魔法使いらしい“魔法使い”にして、動かない大図書館の異名を持つパチュリー・ノーレッジの返事はいつもとは違った。
「おいおい、何か変な物でも食べたのか?」
「変な物を食べたのはあなたの方じゃないの? ……ああ、こういうのって自分では気付かないものね」
「? どういう事だ?」
パチュリーは本から顔を上げて魔理沙を見つめた。
何かかわいそうなものを見る様な、そんな雰囲気を若干感じる眼差し。
その反応に魔理沙は首をかしげた。
もし普段のパチュリーの反応ならば、おそらくこのようになるだろう。
『ちょっと魔理沙、まだ盗み足りないの?』
『人聞きの悪い事言わないでくれ、“借りていく”んだ』
『所有者の許可も取らずに、何が“借りていく”よ』
そう言ってパチュリーは魔理沙をジロリと睨む。
まるで親の仇でも見る様に、机の上に立てて開いた本の向こう側から覗く二つの目が少し怖い。
しかしそんな視線もどこ吹く風とばかりに、魔理沙はパチュリーの向かいの席に座ると悪びれもせずに言い放つ。
『だからいつも言ってるだろ? 死んだら返すってな』
『だからいつも言ってるじゃない。死んだら返しに来れないでしょ?』
『まぁまぁお二人とも、とりあえずお茶でも飲みませんか?』
堂々廻りが始まる前に、空気を読んだ小悪魔がお茶を持って来た。
立ち昇る湯気と共に広がる芳醇な紅茶の香りで、僅かに漂うカビとホコリの匂いを押し退けながら。
さり気無く机の上を片付けながら二人の前にカップを置き、丁度真ん中に焼き菓子を置く。
必要な音以外に一切余計な音をたてないその小悪魔の一連の動作は、実に優雅で洗練された動きだった。
『お、いつも悪いな。うん、相変わらず良い香りだ』
『ええ、そうね。ありがとう』
『ふふ、どういたしまして』
小さく笑うと一礼して小悪魔は下がった。
自分が緩衝材になる必要は無い。
そもそもこの二人は別に喧嘩などしていないのだから。
単にお互い素直じゃないだけで。
魔理沙だって本を“借りていく”のなら別に声をかける必要も無いし、パチュリーだって図書館の入口に結界でも張っておけばいい。
それをしないのは、お互いに切っ掛けが欲しいからだ。
ただ相手と会話をする切っ掛けが。
『そうそう、この前借りてった本の第三章のアレなんだが、記述通りにやっても全く機能しないんだよ』
『ちゃんと内容は読んだの?』
『おおよそは』
『おおよそじゃダメよ、しっかりと理解するまで読まなければ意味は無いわ。ああいう魔法は理解する事が大事であって、魔法陣や術式なんておまけなのだから』
『なるほど……じゃああの本はもう少し借りとくぜ』
『いや、返しなさいよ』
そして切っ掛けさえ出来ればこの通り、魔法使い同士で会話に花を咲かせるという寸法で。
それを見届けてから小悪魔は図書館を立ち去った。
出来る女はクールに去るものなのだ。
「という感じですよね?」
いつの間に来ていたのか、手押しのワゴンにティーセットとお菓子を乗せた小悪魔が回想を語り終えた。
「私はいつだって素直だぜ? それに、図々しいくらい嘘が交じってるな」
「どの辺りが優雅で洗練された動きなのかしら? 粗雑で稚拙の間違いでしょ」
席を薦められるまでもなく、既に魔理沙は机に着いていた。
先程の小悪魔の回想と同様にパチュリーの対面に座り、素知らぬ顔でお茶が配膳されるのを今か今かと待っている。
一体図々しいのはどちらなのかと小悪魔が半眼で睨みつけるが、そんな物はこの霧雨魔理沙には暖簾に腕押し糠に釘。
その程度でどうにかなる様な肝の小さい人間ならば泥棒の真似ごとなどやってないのだ。
一方のパチュリーは白魚の様な指先でページをめくっていた。
皮肉は言えども目線は変わらず本に向けたままで。
それはある意味、小悪魔を信じている態度の現れともいえる。
見ても見なくても下手なのは一緒だろう、という。
何とまぁ失礼な二人だろうか。
しかしその程度で揺らぐ小悪魔ではない。
肉体的にも精神的にもタフでなければ、赤より紅いこの館ではやっていけないのだ。
「これはこれは手厳しいお言葉。しかしそのお言葉はすぐに撤回されると思いますが」
自信満々に小悪魔は二人の前に紅茶を並べ、机の中央に焼き立てのスコーンを置く。
もちろんお手製のイチゴジャムも忘れずに。
その動作は優雅で洗練されている様に見えた。
カップを並べる時に甲高い音がたち、紅茶を注ぐ時に僅かに机に跳ねなければ。
「ほらね」
「だな」
「さすがの私も涙がちょちょぎれそうですよ、えーん」
もちろん嘘泣きである。
「悪魔の涙ね……いい素材になりそうだわ」
「私も実験用にちょっと貰っていいか?」
「……本当に泣きたくなってきましたよ」
ひとしきり弄られた後、若干涙目になった小悪魔は一礼してから静かに図書館から立ち去った。
出来る女はクールに去るものなのだ。
「で、どういう事なんだ?」
「何がよ」
スコーンを手に取りイチゴジャムをたっぷりと塗りたくりながら魔理沙が切り出した。
パチュリーはカップに口を付けたまま、いつもの様にうざったそうな瞳を魔理沙の方へ向けた。
なるほど、今までのやりとりは確かに効果があったのだろう。
確実に小悪魔は二人の間に流れる空気を変えていた。
「さっきまで私を避けてただろ」
「ああ、それの事。別に大した事じゃないわ。そういえばあなたは人間だったわね、って思っただけよ」
それだけ言うとカップを静かに置いて再び本へと目を向ける。
その表情は説明するのも面倒というよりは、詳らかにするのは気が引けるという風に見えた。
そんな顔をされては余計に気になるというもの。
好奇心旺盛な魔理沙に対してその表情は逆効果でしかなかった。
「回りくどい話は好きじゃないぜ」
身を乗り出してパチュリーに迫る。
魔理沙の大きな三角帽子のつばがパチュリーの丸い帽子とくっつく程に。
手元の本に影が伸びて読書の邪魔をされ、溜息と共にパチュリーはもう一度視線を上げた。
「魔理沙、暗くて本が読めないんだけど」
「話してくれればすぐに退くぜ」
お互いにほんの少しだけ顔を前に動かせば触れ合う程の距離で二人の視線が絡まり合い、口を開く事無く目だけで会話する。
本読めないでしょ。
話せばいいだろ。
そのまま十秒が経ち、二十秒が過ぎ、三十秒程見つめ合ってからようやくパチュリーが口を開いた。
「泣かないでよ?」
「それは内容によるな」
言葉とは裏腹な強気な口調での返答に、パチュリーも意を決してこう言った。
「今日のあなたは、ちょっとお肉臭い」
まるで男の子の様な言葉遣いの魔理沙だったが、その心根は見た目通りに乙女であった。
普通の乙女は例え気の置けない仲しか周りにいなくても堂々と屁はこかないが、しかし魔理沙は普通の魔法使いなんぞをやっている普通ではない乙女なのだ。
そんな魔理沙だからこそ、顔面にストレートが来ると思ってガードを上げたら豪快なボディーブローを喰らった、そんな強烈な一言だった。
生まれてこの方これ程ショックを受けた言葉は中々無い。
男の子みたいだの子供体形だのと言われてもここまでの威力は無かった。
それもそのはず、普通は女の子に面と向かって臭いなんて言わない。
「……さ、さすがの私も涙がちょちょぎれそうだぜ」
だが強がる。
それが霧雨魔理沙という少女だからだ。
瞳が潤んでいるのが対面に座るパチュリーからもはっきり判るくらい、その内心はバレバレだが。
「でも、それと私が人間だって事に何の関係が……そうか、食事か!」
「そういう事よ」
合点がいった。
そしてここ最近の食事を思い返して愕然としたのだ。
「最近肉しか食べてなかったぜ……」
三日前に博麗神社に遊びに行った際にお裾分けで貰った猪肉、およそ三キロ。
霧の湖をなわばりとしている氷の妖精に頼んで氷漬けにしてもらい長期保存を可能にしてはいるものの、美味しい物は美味しい内に食べるべきという思いで朝昼晩と毎日三食肉を食べた。
その結果、肉臭が魔理沙の身体へと染みついたのだ。
「紙は何でも吸い込むわ。水だろうと魔力だろうと、それこそ匂いだろうとね」
パチュリーはそっと視線を本に落とした。
つまり、本という純粋な知識の泉に肉臭い不純物が混じるのはいただけないと、そう言いたい訳だ。
「ごめんな、邪魔したぜ」
それを理解した魔理沙は鞄から先程持っていこうとした三冊の本を取り出して机の上に置くと、席を立ち図書館の出入口に向かって行く。
「待ちなさい魔理沙」
パチュリーはどんよりと暗い雰囲気を纏うその背中に、落ち着いた声音で制止をかけた。
「いいや待たないな。私だって女なんだぜ? 恥じらいくらいは持ってるさ」
泣き笑いの顔で走りだしそうになる足を必死に抑えながら、それでも魔理沙は歩みを止めない。
繰り返すが、普通に恥じらいを持ってる女ならば例え気の置けない連中と一緒でもいきなり屁をこいたりはしない。
しかし、そんな様子もパチュリーが告げる一言で一気に吹き飛んだ。
「いいえ、あなたは待つわ。その匂いを解消する方法があると分かれば」
まるで時間を巻き戻したかのように魔理沙が後ろ向きのまま素早い動きで戻って来た。
そのまま机の手前でくるりとパチュリーに向き直り、その頭を両側からがっしりと、それはもうがっしりと鷲掴んだ。
「今日ほどお前を良いヤツだと思った事はないぜパチュリー」
その小さい体のどこにそんな力があるのか、万力の様にギリギリとパチュリーを掴んだまま、感激の余り星の様に瞳を輝かせながらパチュリーを見つめる魔理沙。
逆にパチュリーはあまりの目力に若干引いた。
「そ、そう、それは光栄だわ。取りあえず手を離してくれる? かなり痛いわ。……あと目が怖い」
「あ、ああ……すまん」
魔理沙の両手から解放されて鷲掴みにされていた辺りをさするパチュリーに、さすがの魔理沙も申し訳無く思った。
「全く……そんなに焦らなくても大丈夫よ。小悪魔、小悪魔ー。ちょっと来て頂戴」
まだ若干痛む頭をさすり、苦笑しながら出入口の方へ声をかけると、
「何でしょうか?」
「ひゃうぁ!」
真後ろから小悪魔が現れた。
「可愛らしい悲鳴ですね、とても素敵ですよパチュリー様」
「ん、コホン……何で後ろから出てくるのよ」
「何でと申されましても……あちらの出入口から出て――」
驚きと羞恥から顔を赤くしつつ、不快感を隠すことなくパチュリーが目じりを上げて小悪魔を睨んだ。
そのようなお顔で睨まれても可愛いだけですよー、と全く気にせず小悪魔は先程自分が出ていった扉を指差し、つつーっと左へ指を滑らせて丁度九十度動いたところでピタリと止めた。
指し示すその先には、先程小悪魔が出ていった扉と同じ様な作りの赤い扉があった。
「――あちらからまた入って来ただけですが。まぁ空気を読んで華麗に去ったは良いものの、私も仕事がたくさんあるので戻って来ないといけないんですよ。けど、だからと言って目に付く様に戻って来たら折角作った雰囲気が台無しじゃないですか」
確かにそうなのだが、だからと言ってこの様なイタズラじみた登場の仕方をする必要は無いだろう。
パチュリーは後で小悪魔に説教をする事に決めた。
「なぁ小悪魔、ならあの赤い扉から出たら今度はどこから入って来るんだ?」
「おそらく上からじゃないですかね。それでパチュリー様、先程の話の流れからするとこちらでよろしいですか?」
魔理沙の疑問に適当に答えながら小悪魔がパチュリーに差し出した両手には、片手に載せられる程度の小さい袋と一冊の真新しい装丁の本。
「ええ、それでいいわ。ありがとう」
パチュリーはそれらを机に置かせると、本を手に取り表紙に右手を乗せる。
二言三言呪文の様なものを呟くと、表紙に小さな七芒星の魔法陣が浮かび上がった。
それを見て魔理沙は思わず息を飲んだ。
七芒星は不可能を可能にする象徴だ。
その様な象徴を用いてまで封印を施してあるこの本は、一体何が書かれているのか。
円に内接する七つの線がゆっくり一つ一つ消えていき、最後の一つが消えると同時に真新しい本は何年も使い込まれた様な古ぼけた本へとその姿を変えた。
シンプルな黒い装丁のハードカバーで厚みは三センチ程。
所々についた小さい傷や手垢から、何度も何度も読み返された事が窺える。それも一人や二人ではなく、もっと大勢の者に。
パチュリーはパラパラとページをめくり中身を確認すると、今度は先程机の上に置かせた袋の中身を覗き込んで確認する。
どちらも問題が無いと判断したのだろう、パチュリーは小袋には真っ赤なリボンで、古ぼけた本には青いリボンでそれぞれ封をして、一緒に魔理沙へ手渡した。
「はいコレ」
「いや、どういう事だ?」
さすがの魔理沙もいきなり渡されては何が何やら。
小袋の方はどうかわからないが、本の方は先程の様子を見るにかなり厳重に封をされていたはずだろう。
それに、封をしているリボンはパチュリーが自分の髪を纏めているのと同じ物で、これには魔力が込められている。
という事は、それなりに危険性があったりするのではなかろうか。
乙女の悩みを解決してくれるのならば多少の犠牲は止むをえまいと魔理沙は思うが、魂を取られるだの読んだら爆発するだのというオチは勘弁してほしい所である。
従ってパチュリーに説明を求める視線を向けてみるが、その視線が絡む事は無く、既にパチュリーの視線は本へと向けられていた。
「小悪魔、説明。いい加減本の続きを読みたいのよ」
それだけ言うとパチュリーは本のページをめくり始めた。
どことなく、これ以上声をかけるなという雰囲気を醸し出しながら。
「はいはい、了解しましたー」
それを受けて小悪魔が魔理沙と向き合い、お互いに頷き合う。
そして小悪魔は左手を腰に当て、右手はピンと上を指す姿勢。
傍から見ると、お姉さんが妹に言い聞かせる様にも見えるだろう。
「さていいですか魔理沙さん、まず最初にあなたの右手をご覧ください」
素直に魔理沙は自身の右手を見た。
先程パチュリーから受け取った、真っ赤なリボンで封をされた小袋がある。
最初見た時はただの小さな袋だと思ったのに、あんな魔力の籠ったリボンで封をされたとなっては途端に危険物に見えてくるから不思議なものだ。
若干の緊張からか、ゴクリと魔理沙の喉が鳴った時、
「ああ、そう構える必要はありませんよ。ただのハーブティーですから」
くすりと笑いながらそう告げた小悪魔に、魔理沙は一気に脱力した。
「中身は殺菌や抗菌、疲労回復などに効果のあるタイムを中心に、飲みやすいようにしたブレンドしたものです。要するに、体臭を抑えてくれる働きがあります」
おお、そいつはありがたい、と魔理沙が小袋を見つめる。
残念ながら魔理沙は透視能力など持っていないので袋の中身は見えなかったが、こんな魔力の籠ったリボンで封をされていると途端に宝物に見えてくるから不思議なものだ。
「淹れ方につきましては、袋の中にメモを入れておきましたのでそれでご確認を。ちなみにこのリボンは葉が湿気ないように密封状態にしてくれる作用がありますので、飲んだら必ずこれで封をしてくださいね」
「ありがとう、助かるよ」
ニッコリという擬音が幻視できる様な笑顔で、魔理沙が感謝の意を告げる。
霧雨魔理沙はやはりその性格で大きく損をしてるのではなかろうか、と小悪魔が思う程にそれはそれは素晴らしい笑顔だった。
普段もこれくらい素直に気持ちを伝えてくれれば可愛げもあるというのに、もったいない。
まぁ本人にそれを言ったところで照れ臭がって何も変わらないと思うが。
ともあれ袋の中身についての説明はさっくりと終わった。
いよいよ本命の古ぼけた本の説明に入る訳だ。
嫌が応にも魔理沙の緊張も高まる。
あのパチュリー・ノーレッジが、動かない大図書館が、知識と日蔭の少女が、わざわざ擬装用の魔法までかけて厳重に保管していた程の本、一体どのような内容なのか。
「では魔理沙さんもお待ちかねの、左手の本の表紙をご覧ください」
小悪魔の指先が、魔理沙が持つ本の表紙を指し示す。
震えそうになる腕を必死に抑えつけながら、ゆっくりと魔理沙は左手に持ったその本へと視線を落とす。
黒い表紙に金色で綴られたそのタイトルは――
「――それは“捨食の魔法”の魔道書です」
魔理沙は驚きの余り、あやうく手から本を取り落とすところだった。
幻想郷の人里から少し離れた場所に位置する魔法の森の中、少しだけ開けた場所に建っている一軒の洋風建築の家。
木々とキノコに囲まれたその家に、一人の少女が住んでいる。
女性と呼ぶにはまだ早く、子供と呼ぶにはもう遅い。
正しく少女と呼ぶのが相応しい年頃。
名前は霧雨魔理沙、魔法使いをやっている人間である。
所狭しと本や実験器具や派手な色のキノコやよく解らないガラクタが積まれ、年頃の少女が住んでいるとは思えない程に散らかっている家の中、魔理沙は数少ない安全地帯にいた。
同じ家の中とは思えないほどきれいに整理整頓されている机に向かい、レースのカーテンを抜けてくる柔らかな日差しを頼りに本を読む魔理沙。
机の上にはびっしりと文字が書き込まれたノートとペン、そして青いリボン以外に物は無く、一人暮らしの家の中には古ぼけた黒い本のページをめくる音とノートにペンを走らせる音以外に音は無い。
そんな時間がしばらく続いた後、魔理沙が静かに本を閉じた。
そのまま青いリボンで本を丁寧に結んで開かない様に封をすると、
「んぅ……くぅはぁ~……」
深く息を吐き、指を絡めて大きく伸びをする。
朝からずっと机と向き合っていたせいか、コキコキと小気味良い音が静かな空気の中によく響いた。
「ふぅ……少し休憩するか」
椅子を引いて立ち上がり、氾濫した川の様に散らかった家の中で僅かに残った中州をすたすたと踏み越えてキッチンへ。
その慣れた動きはこの家が散らかっているのはいつもの事だと語っている様なものだ。
辿り着いたキッチンはそこそこ綺麗に手入れされている安全地帯その二。
キッチンの作業台の上に手の平サイズの八角形の火炉を乗せ、慣れた手つきで火を点ける。
ライターからストーブ、果ては大出力の極太レーザーまで、魔力次第で何でもこなせる万能魔道具のミニ八卦炉だ。
お問い合わせは魔法の森の入口付近の“香霖堂”まで。
それからいつもの様に八卦炉を五徳の下へ移動させ、その上にやかんを乗せる。
一人で一回に飲む量などたかがしれている。水の量と八卦炉の火力から、お湯が沸くのに一分もかからない。
その間にカップと茶葉の用意を手早く済ませる。
緑茶や紅茶など数種類の茶の中から、魔理沙は迷わずハーブティーを選んだ。
三日前にパチュリーに貰ってから、休憩を取る度にずっとそればかり飲み続けている。
棚から赤いリボンの付いた小袋を取り出すとちょうどお湯が沸いたようだ。
ポットに少しお湯を注いで温め、そのお湯を捨ててから一杯分の葉を入れて再びお湯を注ぐ。
じわりじわりと淡い色が付き始め、じわりじわりと香りが広がりだす。
その様子を椅子に腰かけ、魔理沙はじっと見つめていた。
「よし、そろそろいいな」
数分経ち色も香りも十分出たところで事前に温めていたカップに注ぐ。
磁器のカップが淡い草色で満たされていき、すがすがしい香りが湯気と共に立ち昇る。
「んー、良い香りだ」
レモンタイムの爽やかな風味が心地良い。
窓を開け放って窓辺に立ち、魔理沙は小悪魔印のハーブティーを堪能した。
あえて机で飲まないのは、万が一こぼして本にかかってしまっては大変だからだ。
ちなみにリビングに置いてあるテーブルは実験器具だの材料だのガラクタだのが乗っていて、優雅なティータイムが楽しめそうに無いので最初から候補に入っていなかった。
ハーブティを最後の一滴まで飲み切って再びキッチンへと赴きカップを置くと、陶磁器特有の透き通った甲高い音が良く響いた。
その時、魔理沙はふと気になった。
そういえば今日はやけに静かだな、と。
それは何故かとしばし考えて気付く。今日は風が無いのだ。
いつもはさわさわと木々を揺らしカタカタと窓を叩く風が今日は無い。
実際に魔理沙が窓を開けても殆どカーテンは揺れていなかった。
だからこそ、その音は良く聞こえた。
「あ、出る」
魔理沙の小振りなお尻から、小さな風と共に可愛らしい音が生まれる。
世界にはこの音しか存在しないのではないかと勘違いしてしまいそうになるくらい、それは静かな空気の中ではっきりと聞こえた。
誰も居ないのはわかっていたが、それでも魔理沙が思わず辺りを見回してしまう程に。
「はあ……何やってるんだ私は。あ、そうだ」
魔理沙はお尻へと手を伸ばし、空気を掴む様に握りしめるとそれを鼻の前まで持ってきた。
ゆっくりと手を開き、鼻孔を広げる。
「……うん、大丈夫だ。やっぱりハーブティーが良かったのか?」
どうやら臭くなかったらしい。
魔理沙は心の中でパチュリーと小悪魔に感謝した。
「それに比べてアレはなぁ……」
ちらりと机に置かれた本を見る。
何故あれほど手垢で汚れているのか、読んだ今なら理解できる。
「中身は基礎の基礎しか書かれてないなんて、ちょっと期待外れだったな」
あの本を渡された時は心底驚いた魔理沙だったが、その内容は本当に最低限の事しか記されていなかった。
その最低限の事ですら難解な偽装と暗号で書かれているため、魔法の知識の無い者にはとてもじゃないが読める代物でも無い。
魔法の知識があったとしても解釈の仕方によっては180度違う意味に取れる表現も多用されているので、何度も何度も読みこまなければそもそもまともに理解する事すら難しい。
この三日間寝る間も惜しんで読みこみ、ノートにペンを走らせ、その結果何とか理解できた内容は先程魔理沙が呟いたそれだった。
「さて、一段落したらお腹に何か入れたくなったな。ああそういえば、図書館から帰って来てから殆ど何も食べてなか……あーっ! うわっ、くそ、そうだよ! 別に匂いなんて気にする必要無かったんじゃないか!」
お腹を撫でさすりながら呟いたと思ったら、突然魔理沙は声を荒げ出した。
「匂いの原因は肉だったんだから、それを食べ終わって元の食生活に戻れば治ったんだよあーもう!」
当時はあまりのショックで気が動転していて、魔道書を渡されてからはそれに没頭していたため、その程度の事が頭からすっぽりと抜けていたのだ。
しかし今更気付いたところで過ぎた時間は返ってこない。
「はぁ……まぁいいか。おかげでこういう知識を仕入れられたんだし、何か食べて気持ちを切り替えよう」
例え物を食べなくてもいい身体になったとしても、ご飯を食べられなくなる訳でもないし、歳を取らない訳でもない。
実際に試すか試さないかは別として、豆知識程度に覚えておけばいつか役に立つだろうと魔理沙は思った。
「よし、そうと決まれば霊夢にごちそうになるとするか!」
魔理沙はいつもの三角帽子をかぶり、箒を片手に外へと飛び出した。
その姿は三日前の朝と何ら変わりなく、とても三日間食事を抜いた人間には見えなかった。
「ちょっと魔理沙、なんであんなにお肉あげたのに臭くないのよあんたは」
「おいちょっと待て、確信犯か!」
多数の人は解放感よりも羞恥心が勝り、己が全力を以て我慢するだろう。
少数の人は大丈夫だバレやしないさ、と小賢しくもすかしてみるだろう。
そして極々一部の人は普通に屁をこく。それはもう普通に。ぷぅ~っと。
では逆に、オナラをしても問題無い場面とは何だろうか。
自分以外に誰もおらず、いつでも換気できる状況ならば、まぁ普通に出すだろう。
もしくは、本当に気の置けない人しか周りに居ないのならば。
「あ、出る」
霧雨魔理沙の薄いおしりから、7デシリットルの気体が幻想郷に放たれた。
にくいあの子は魔法使い
「……ちょっと魔理沙」
「ん、どうした」
「何か言う事はないのかしら?」
魔理沙の隣に座る天下の博麗の巫女たる博麗霊夢も、さすがにこれには不快感を露わにした。
博麗神社の縁側でお茶を飲みながらのほほんとしていた時にいきなり屁をこかれたのだ、当然の反応だろう。
霊夢は『親しき仲にも礼儀あり』と暗に言いたい様だが、彼女を知る者は人妖問わずに口を揃えてこう言うだろう、「お前が言うな」と。
「何かって……いや、だって臭く無いだろ」
「はぁ? あなた何言ってるのよ。オナラは臭いものと相場が決まって……あれ?」
霊夢は犬の様にくんくんと辺りを匂いを嗅いだが、鼻を通るのは穏やかな昼の空気のみ。
なんと、確かに臭くは無かった。いや、むしろ清涼感さえ漂う香りがほのかに魔理沙から立ち昇っていた。
それにはインドールというオナラの臭いの元となる物質の一つが関係している。
このインドールが多量に存在していると酷く不快な臭いがするのだが、少量の場合はなんとフルーティーな香りがする。
それもそのはず、インドールは柑橘類などを始め多くの植物に含まれる香り成分なのだ。
「臭く……ない? え、そんな! 魔理沙、臭くないわよ!」
「あのなぁ霊夢、私みたいな乙女の身体が臭いわけが無いだろう?」
今明かされる衝撃の事実。なんと、乙女の身体は臭くないらしい。
いや待て、臭くないのはオナラだけかもしれない。
なぜならば霊夢自身も臭くないオナラは何度もしているからだ。
よろしい、ならば検証しようではないか。
実際に霊夢は魔理沙の細い体の上から下までにおってみた。
頭の天辺に顔を埋め、そのまま首筋を伝って腋を経由し、脇腹からおへそをなぞってお腹を下り、股間を通って足の付け根からつま先まで一直線に滑っていく。
「ま、待てよ霊夢! そこまで嗅ぐのか!?」
嗅ぎますとも。途中で魔理沙がくすぐったそうにしようが恥ずかしがろうが、霊夢は気にしない。
「……何よもう」
結論から言えば、魔理沙は臭くなかった。
もちろん無臭とまでは言わないが、気になる程の匂いは無い。
同じ女の子として、霊夢が少しばかり嫉妬してしまうのも仕方のない事だと言える。
しかし魔理沙と霊夢どちらが羨ましいかと二人を知る人妖の少女達に聞けば、十中八九霊夢と答えるだろう。
それは彼女の持つ仕事道具の一つである陰陽玉の効能に、“甘いものを食べても太らない”“好きな香りが出せる芳香剤”という能力があるからだ。
嘘か真かは定かではないが。
「あんた普段何食べてたらそんな体になるのよ」
「さてな。まあ普段何食べてるかと言えば、主に米ときのこだな。あとは納豆とか」
お茶受けの煎餅を齧りながら魔理沙が答えた。
ちなみに納豆は臭い食べ物だが、摂取することで体臭を抑制してくれる働きがある。豆知識だ。
「そんな物しか食べてないから大きくならないんじゃないの? 肉を食べなさい肉を」
「お前も大して変わらないだろ、色々と」
魔理沙はちらりと霊夢の胸を見た。
「変わるわよ、結構」
一方霊夢は魔理沙の頭の辺りを見た。
博麗神社への御賽銭が少ないという事は周知の事実であり、普段何かと食生活を気にされる霊夢だが実は結構良い物を食べている。
確かに御賽銭は少ないが、全く無いわけではない。
そしてその数少ないお賽銭の大半が食費に消えていくのだ。
それは何故か。
霊夢は博麗の巫女であり、幻想郷に何か異変が起きた時にそれを解決するのが務めである。
しかし異変というものは困ったもので、ある日突然やってくる。
それもそのはず、いついつにどこどこでこれこれという異変を起こしますよー、などと事前に告知する馬鹿は居ない。
つまり、いつ異変が起きてもそれに対処できる体を普段から作っておく必要がある。
ご飯をしっかり食べていなかったので力が出ません、ではお話にならないし、異変が起きてから慌てたところでもう遅い。
朝昼晩と三食しっかり食べる事は、即ち博麗の巫女の務めでもあるのだ。
「そういえば昨日裏手の森でイノシシを仕留めたんだけど、良かったら少し持ってく?」
そしていつの時代もパワーの源は肉である。
「ずいぶんとアグレッシヴな巫女も居たもんだな」
「あらそう、いらないのね」
「誰もいらないとは言ってないぜ」
そして肉が嫌いな育ち盛りもいない。
霊夢に猪肉を貰ってから三日が過ぎ、魔理沙は自分の体にパワーが漲っているのを感じていた。
毎日三食肉三昧だったのだ、これで力が出ないはずがない。
そして肌艶の良い顔を綻ばせ、箒にまたがり颯爽と空へ飛びあがった。
朝の清涼な空気をいつもよりも鋭く切り裂きながら、魔理沙は思う。
パワーを付けたければ肉を喰え。
誰が言ったか知らないが、正にその通りだと。
魔法の森の中を流れる小川を上流へ向かうと、そこには小さな湖がある。
夏だろうと冬だろうと気が付けば霧が立ち込めているため、霧の湖と呼ばれている。
その湖畔、住んでいる者の感性を疑う程に外観を真っ赤に塗られた大きな洋館がある。
吸血鬼の住む悪魔の城、紅魔館だ。
窃盗を繰り返し過ぎて最早常連客となり、今ではすっかり顔パスとなった門を通過し、その紅魔館の地下にある図書館で魔理沙は物色していた。
この図書館で日常的に見られる光景である。
今日は三冊。
それらを傷つかない様にと丁寧に布で包んでから愛用の鞄にしまうと、
「それじゃあコイツは借りてくぜ」
いつもの様に図書館の中央で静かに本を読んでいた少女に声をかけた。
それに対して「持ってかないでー」だの「ちゃんと返しなさいよ」だのと返事があるのもいつもの事。
「いいわよ。どうせ私が書いた本だし。ただ、大事にしてよね」
だがこの幻想郷で最も魔法使いらしい“魔法使い”にして、動かない大図書館の異名を持つパチュリー・ノーレッジの返事はいつもとは違った。
「おいおい、何か変な物でも食べたのか?」
「変な物を食べたのはあなたの方じゃないの? ……ああ、こういうのって自分では気付かないものね」
「? どういう事だ?」
パチュリーは本から顔を上げて魔理沙を見つめた。
何かかわいそうなものを見る様な、そんな雰囲気を若干感じる眼差し。
その反応に魔理沙は首をかしげた。
もし普段のパチュリーの反応ならば、おそらくこのようになるだろう。
『ちょっと魔理沙、まだ盗み足りないの?』
『人聞きの悪い事言わないでくれ、“借りていく”んだ』
『所有者の許可も取らずに、何が“借りていく”よ』
そう言ってパチュリーは魔理沙をジロリと睨む。
まるで親の仇でも見る様に、机の上に立てて開いた本の向こう側から覗く二つの目が少し怖い。
しかしそんな視線もどこ吹く風とばかりに、魔理沙はパチュリーの向かいの席に座ると悪びれもせずに言い放つ。
『だからいつも言ってるだろ? 死んだら返すってな』
『だからいつも言ってるじゃない。死んだら返しに来れないでしょ?』
『まぁまぁお二人とも、とりあえずお茶でも飲みませんか?』
堂々廻りが始まる前に、空気を読んだ小悪魔がお茶を持って来た。
立ち昇る湯気と共に広がる芳醇な紅茶の香りで、僅かに漂うカビとホコリの匂いを押し退けながら。
さり気無く机の上を片付けながら二人の前にカップを置き、丁度真ん中に焼き菓子を置く。
必要な音以外に一切余計な音をたてないその小悪魔の一連の動作は、実に優雅で洗練された動きだった。
『お、いつも悪いな。うん、相変わらず良い香りだ』
『ええ、そうね。ありがとう』
『ふふ、どういたしまして』
小さく笑うと一礼して小悪魔は下がった。
自分が緩衝材になる必要は無い。
そもそもこの二人は別に喧嘩などしていないのだから。
単にお互い素直じゃないだけで。
魔理沙だって本を“借りていく”のなら別に声をかける必要も無いし、パチュリーだって図書館の入口に結界でも張っておけばいい。
それをしないのは、お互いに切っ掛けが欲しいからだ。
ただ相手と会話をする切っ掛けが。
『そうそう、この前借りてった本の第三章のアレなんだが、記述通りにやっても全く機能しないんだよ』
『ちゃんと内容は読んだの?』
『おおよそは』
『おおよそじゃダメよ、しっかりと理解するまで読まなければ意味は無いわ。ああいう魔法は理解する事が大事であって、魔法陣や術式なんておまけなのだから』
『なるほど……じゃああの本はもう少し借りとくぜ』
『いや、返しなさいよ』
そして切っ掛けさえ出来ればこの通り、魔法使い同士で会話に花を咲かせるという寸法で。
それを見届けてから小悪魔は図書館を立ち去った。
出来る女はクールに去るものなのだ。
「という感じですよね?」
いつの間に来ていたのか、手押しのワゴンにティーセットとお菓子を乗せた小悪魔が回想を語り終えた。
「私はいつだって素直だぜ? それに、図々しいくらい嘘が交じってるな」
「どの辺りが優雅で洗練された動きなのかしら? 粗雑で稚拙の間違いでしょ」
席を薦められるまでもなく、既に魔理沙は机に着いていた。
先程の小悪魔の回想と同様にパチュリーの対面に座り、素知らぬ顔でお茶が配膳されるのを今か今かと待っている。
一体図々しいのはどちらなのかと小悪魔が半眼で睨みつけるが、そんな物はこの霧雨魔理沙には暖簾に腕押し糠に釘。
その程度でどうにかなる様な肝の小さい人間ならば泥棒の真似ごとなどやってないのだ。
一方のパチュリーは白魚の様な指先でページをめくっていた。
皮肉は言えども目線は変わらず本に向けたままで。
それはある意味、小悪魔を信じている態度の現れともいえる。
見ても見なくても下手なのは一緒だろう、という。
何とまぁ失礼な二人だろうか。
しかしその程度で揺らぐ小悪魔ではない。
肉体的にも精神的にもタフでなければ、赤より紅いこの館ではやっていけないのだ。
「これはこれは手厳しいお言葉。しかしそのお言葉はすぐに撤回されると思いますが」
自信満々に小悪魔は二人の前に紅茶を並べ、机の中央に焼き立てのスコーンを置く。
もちろんお手製のイチゴジャムも忘れずに。
その動作は優雅で洗練されている様に見えた。
カップを並べる時に甲高い音がたち、紅茶を注ぐ時に僅かに机に跳ねなければ。
「ほらね」
「だな」
「さすがの私も涙がちょちょぎれそうですよ、えーん」
もちろん嘘泣きである。
「悪魔の涙ね……いい素材になりそうだわ」
「私も実験用にちょっと貰っていいか?」
「……本当に泣きたくなってきましたよ」
ひとしきり弄られた後、若干涙目になった小悪魔は一礼してから静かに図書館から立ち去った。
出来る女はクールに去るものなのだ。
「で、どういう事なんだ?」
「何がよ」
スコーンを手に取りイチゴジャムをたっぷりと塗りたくりながら魔理沙が切り出した。
パチュリーはカップに口を付けたまま、いつもの様にうざったそうな瞳を魔理沙の方へ向けた。
なるほど、今までのやりとりは確かに効果があったのだろう。
確実に小悪魔は二人の間に流れる空気を変えていた。
「さっきまで私を避けてただろ」
「ああ、それの事。別に大した事じゃないわ。そういえばあなたは人間だったわね、って思っただけよ」
それだけ言うとカップを静かに置いて再び本へと目を向ける。
その表情は説明するのも面倒というよりは、詳らかにするのは気が引けるという風に見えた。
そんな顔をされては余計に気になるというもの。
好奇心旺盛な魔理沙に対してその表情は逆効果でしかなかった。
「回りくどい話は好きじゃないぜ」
身を乗り出してパチュリーに迫る。
魔理沙の大きな三角帽子のつばがパチュリーの丸い帽子とくっつく程に。
手元の本に影が伸びて読書の邪魔をされ、溜息と共にパチュリーはもう一度視線を上げた。
「魔理沙、暗くて本が読めないんだけど」
「話してくれればすぐに退くぜ」
お互いにほんの少しだけ顔を前に動かせば触れ合う程の距離で二人の視線が絡まり合い、口を開く事無く目だけで会話する。
本読めないでしょ。
話せばいいだろ。
そのまま十秒が経ち、二十秒が過ぎ、三十秒程見つめ合ってからようやくパチュリーが口を開いた。
「泣かないでよ?」
「それは内容によるな」
言葉とは裏腹な強気な口調での返答に、パチュリーも意を決してこう言った。
「今日のあなたは、ちょっとお肉臭い」
まるで男の子の様な言葉遣いの魔理沙だったが、その心根は見た目通りに乙女であった。
普通の乙女は例え気の置けない仲しか周りにいなくても堂々と屁はこかないが、しかし魔理沙は普通の魔法使いなんぞをやっている普通ではない乙女なのだ。
そんな魔理沙だからこそ、顔面にストレートが来ると思ってガードを上げたら豪快なボディーブローを喰らった、そんな強烈な一言だった。
生まれてこの方これ程ショックを受けた言葉は中々無い。
男の子みたいだの子供体形だのと言われてもここまでの威力は無かった。
それもそのはず、普通は女の子に面と向かって臭いなんて言わない。
「……さ、さすがの私も涙がちょちょぎれそうだぜ」
だが強がる。
それが霧雨魔理沙という少女だからだ。
瞳が潤んでいるのが対面に座るパチュリーからもはっきり判るくらい、その内心はバレバレだが。
「でも、それと私が人間だって事に何の関係が……そうか、食事か!」
「そういう事よ」
合点がいった。
そしてここ最近の食事を思い返して愕然としたのだ。
「最近肉しか食べてなかったぜ……」
三日前に博麗神社に遊びに行った際にお裾分けで貰った猪肉、およそ三キロ。
霧の湖をなわばりとしている氷の妖精に頼んで氷漬けにしてもらい長期保存を可能にしてはいるものの、美味しい物は美味しい内に食べるべきという思いで朝昼晩と毎日三食肉を食べた。
その結果、肉臭が魔理沙の身体へと染みついたのだ。
「紙は何でも吸い込むわ。水だろうと魔力だろうと、それこそ匂いだろうとね」
パチュリーはそっと視線を本に落とした。
つまり、本という純粋な知識の泉に肉臭い不純物が混じるのはいただけないと、そう言いたい訳だ。
「ごめんな、邪魔したぜ」
それを理解した魔理沙は鞄から先程持っていこうとした三冊の本を取り出して机の上に置くと、席を立ち図書館の出入口に向かって行く。
「待ちなさい魔理沙」
パチュリーはどんよりと暗い雰囲気を纏うその背中に、落ち着いた声音で制止をかけた。
「いいや待たないな。私だって女なんだぜ? 恥じらいくらいは持ってるさ」
泣き笑いの顔で走りだしそうになる足を必死に抑えながら、それでも魔理沙は歩みを止めない。
繰り返すが、普通に恥じらいを持ってる女ならば例え気の置けない連中と一緒でもいきなり屁をこいたりはしない。
しかし、そんな様子もパチュリーが告げる一言で一気に吹き飛んだ。
「いいえ、あなたは待つわ。その匂いを解消する方法があると分かれば」
まるで時間を巻き戻したかのように魔理沙が後ろ向きのまま素早い動きで戻って来た。
そのまま机の手前でくるりとパチュリーに向き直り、その頭を両側からがっしりと、それはもうがっしりと鷲掴んだ。
「今日ほどお前を良いヤツだと思った事はないぜパチュリー」
その小さい体のどこにそんな力があるのか、万力の様にギリギリとパチュリーを掴んだまま、感激の余り星の様に瞳を輝かせながらパチュリーを見つめる魔理沙。
逆にパチュリーはあまりの目力に若干引いた。
「そ、そう、それは光栄だわ。取りあえず手を離してくれる? かなり痛いわ。……あと目が怖い」
「あ、ああ……すまん」
魔理沙の両手から解放されて鷲掴みにされていた辺りをさするパチュリーに、さすがの魔理沙も申し訳無く思った。
「全く……そんなに焦らなくても大丈夫よ。小悪魔、小悪魔ー。ちょっと来て頂戴」
まだ若干痛む頭をさすり、苦笑しながら出入口の方へ声をかけると、
「何でしょうか?」
「ひゃうぁ!」
真後ろから小悪魔が現れた。
「可愛らしい悲鳴ですね、とても素敵ですよパチュリー様」
「ん、コホン……何で後ろから出てくるのよ」
「何でと申されましても……あちらの出入口から出て――」
驚きと羞恥から顔を赤くしつつ、不快感を隠すことなくパチュリーが目じりを上げて小悪魔を睨んだ。
そのようなお顔で睨まれても可愛いだけですよー、と全く気にせず小悪魔は先程自分が出ていった扉を指差し、つつーっと左へ指を滑らせて丁度九十度動いたところでピタリと止めた。
指し示すその先には、先程小悪魔が出ていった扉と同じ様な作りの赤い扉があった。
「――あちらからまた入って来ただけですが。まぁ空気を読んで華麗に去ったは良いものの、私も仕事がたくさんあるので戻って来ないといけないんですよ。けど、だからと言って目に付く様に戻って来たら折角作った雰囲気が台無しじゃないですか」
確かにそうなのだが、だからと言ってこの様なイタズラじみた登場の仕方をする必要は無いだろう。
パチュリーは後で小悪魔に説教をする事に決めた。
「なぁ小悪魔、ならあの赤い扉から出たら今度はどこから入って来るんだ?」
「おそらく上からじゃないですかね。それでパチュリー様、先程の話の流れからするとこちらでよろしいですか?」
魔理沙の疑問に適当に答えながら小悪魔がパチュリーに差し出した両手には、片手に載せられる程度の小さい袋と一冊の真新しい装丁の本。
「ええ、それでいいわ。ありがとう」
パチュリーはそれらを机に置かせると、本を手に取り表紙に右手を乗せる。
二言三言呪文の様なものを呟くと、表紙に小さな七芒星の魔法陣が浮かび上がった。
それを見て魔理沙は思わず息を飲んだ。
七芒星は不可能を可能にする象徴だ。
その様な象徴を用いてまで封印を施してあるこの本は、一体何が書かれているのか。
円に内接する七つの線がゆっくり一つ一つ消えていき、最後の一つが消えると同時に真新しい本は何年も使い込まれた様な古ぼけた本へとその姿を変えた。
シンプルな黒い装丁のハードカバーで厚みは三センチ程。
所々についた小さい傷や手垢から、何度も何度も読み返された事が窺える。それも一人や二人ではなく、もっと大勢の者に。
パチュリーはパラパラとページをめくり中身を確認すると、今度は先程机の上に置かせた袋の中身を覗き込んで確認する。
どちらも問題が無いと判断したのだろう、パチュリーは小袋には真っ赤なリボンで、古ぼけた本には青いリボンでそれぞれ封をして、一緒に魔理沙へ手渡した。
「はいコレ」
「いや、どういう事だ?」
さすがの魔理沙もいきなり渡されては何が何やら。
小袋の方はどうかわからないが、本の方は先程の様子を見るにかなり厳重に封をされていたはずだろう。
それに、封をしているリボンはパチュリーが自分の髪を纏めているのと同じ物で、これには魔力が込められている。
という事は、それなりに危険性があったりするのではなかろうか。
乙女の悩みを解決してくれるのならば多少の犠牲は止むをえまいと魔理沙は思うが、魂を取られるだの読んだら爆発するだのというオチは勘弁してほしい所である。
従ってパチュリーに説明を求める視線を向けてみるが、その視線が絡む事は無く、既にパチュリーの視線は本へと向けられていた。
「小悪魔、説明。いい加減本の続きを読みたいのよ」
それだけ言うとパチュリーは本のページをめくり始めた。
どことなく、これ以上声をかけるなという雰囲気を醸し出しながら。
「はいはい、了解しましたー」
それを受けて小悪魔が魔理沙と向き合い、お互いに頷き合う。
そして小悪魔は左手を腰に当て、右手はピンと上を指す姿勢。
傍から見ると、お姉さんが妹に言い聞かせる様にも見えるだろう。
「さていいですか魔理沙さん、まず最初にあなたの右手をご覧ください」
素直に魔理沙は自身の右手を見た。
先程パチュリーから受け取った、真っ赤なリボンで封をされた小袋がある。
最初見た時はただの小さな袋だと思ったのに、あんな魔力の籠ったリボンで封をされたとなっては途端に危険物に見えてくるから不思議なものだ。
若干の緊張からか、ゴクリと魔理沙の喉が鳴った時、
「ああ、そう構える必要はありませんよ。ただのハーブティーですから」
くすりと笑いながらそう告げた小悪魔に、魔理沙は一気に脱力した。
「中身は殺菌や抗菌、疲労回復などに効果のあるタイムを中心に、飲みやすいようにしたブレンドしたものです。要するに、体臭を抑えてくれる働きがあります」
おお、そいつはありがたい、と魔理沙が小袋を見つめる。
残念ながら魔理沙は透視能力など持っていないので袋の中身は見えなかったが、こんな魔力の籠ったリボンで封をされていると途端に宝物に見えてくるから不思議なものだ。
「淹れ方につきましては、袋の中にメモを入れておきましたのでそれでご確認を。ちなみにこのリボンは葉が湿気ないように密封状態にしてくれる作用がありますので、飲んだら必ずこれで封をしてくださいね」
「ありがとう、助かるよ」
ニッコリという擬音が幻視できる様な笑顔で、魔理沙が感謝の意を告げる。
霧雨魔理沙はやはりその性格で大きく損をしてるのではなかろうか、と小悪魔が思う程にそれはそれは素晴らしい笑顔だった。
普段もこれくらい素直に気持ちを伝えてくれれば可愛げもあるというのに、もったいない。
まぁ本人にそれを言ったところで照れ臭がって何も変わらないと思うが。
ともあれ袋の中身についての説明はさっくりと終わった。
いよいよ本命の古ぼけた本の説明に入る訳だ。
嫌が応にも魔理沙の緊張も高まる。
あのパチュリー・ノーレッジが、動かない大図書館が、知識と日蔭の少女が、わざわざ擬装用の魔法までかけて厳重に保管していた程の本、一体どのような内容なのか。
「では魔理沙さんもお待ちかねの、左手の本の表紙をご覧ください」
小悪魔の指先が、魔理沙が持つ本の表紙を指し示す。
震えそうになる腕を必死に抑えつけながら、ゆっくりと魔理沙は左手に持ったその本へと視線を落とす。
黒い表紙に金色で綴られたそのタイトルは――
「――それは“捨食の魔法”の魔道書です」
魔理沙は驚きの余り、あやうく手から本を取り落とすところだった。
幻想郷の人里から少し離れた場所に位置する魔法の森の中、少しだけ開けた場所に建っている一軒の洋風建築の家。
木々とキノコに囲まれたその家に、一人の少女が住んでいる。
女性と呼ぶにはまだ早く、子供と呼ぶにはもう遅い。
正しく少女と呼ぶのが相応しい年頃。
名前は霧雨魔理沙、魔法使いをやっている人間である。
所狭しと本や実験器具や派手な色のキノコやよく解らないガラクタが積まれ、年頃の少女が住んでいるとは思えない程に散らかっている家の中、魔理沙は数少ない安全地帯にいた。
同じ家の中とは思えないほどきれいに整理整頓されている机に向かい、レースのカーテンを抜けてくる柔らかな日差しを頼りに本を読む魔理沙。
机の上にはびっしりと文字が書き込まれたノートとペン、そして青いリボン以外に物は無く、一人暮らしの家の中には古ぼけた黒い本のページをめくる音とノートにペンを走らせる音以外に音は無い。
そんな時間がしばらく続いた後、魔理沙が静かに本を閉じた。
そのまま青いリボンで本を丁寧に結んで開かない様に封をすると、
「んぅ……くぅはぁ~……」
深く息を吐き、指を絡めて大きく伸びをする。
朝からずっと机と向き合っていたせいか、コキコキと小気味良い音が静かな空気の中によく響いた。
「ふぅ……少し休憩するか」
椅子を引いて立ち上がり、氾濫した川の様に散らかった家の中で僅かに残った中州をすたすたと踏み越えてキッチンへ。
その慣れた動きはこの家が散らかっているのはいつもの事だと語っている様なものだ。
辿り着いたキッチンはそこそこ綺麗に手入れされている安全地帯その二。
キッチンの作業台の上に手の平サイズの八角形の火炉を乗せ、慣れた手つきで火を点ける。
ライターからストーブ、果ては大出力の極太レーザーまで、魔力次第で何でもこなせる万能魔道具のミニ八卦炉だ。
お問い合わせは魔法の森の入口付近の“香霖堂”まで。
それからいつもの様に八卦炉を五徳の下へ移動させ、その上にやかんを乗せる。
一人で一回に飲む量などたかがしれている。水の量と八卦炉の火力から、お湯が沸くのに一分もかからない。
その間にカップと茶葉の用意を手早く済ませる。
緑茶や紅茶など数種類の茶の中から、魔理沙は迷わずハーブティーを選んだ。
三日前にパチュリーに貰ってから、休憩を取る度にずっとそればかり飲み続けている。
棚から赤いリボンの付いた小袋を取り出すとちょうどお湯が沸いたようだ。
ポットに少しお湯を注いで温め、そのお湯を捨ててから一杯分の葉を入れて再びお湯を注ぐ。
じわりじわりと淡い色が付き始め、じわりじわりと香りが広がりだす。
その様子を椅子に腰かけ、魔理沙はじっと見つめていた。
「よし、そろそろいいな」
数分経ち色も香りも十分出たところで事前に温めていたカップに注ぐ。
磁器のカップが淡い草色で満たされていき、すがすがしい香りが湯気と共に立ち昇る。
「んー、良い香りだ」
レモンタイムの爽やかな風味が心地良い。
窓を開け放って窓辺に立ち、魔理沙は小悪魔印のハーブティーを堪能した。
あえて机で飲まないのは、万が一こぼして本にかかってしまっては大変だからだ。
ちなみにリビングに置いてあるテーブルは実験器具だの材料だのガラクタだのが乗っていて、優雅なティータイムが楽しめそうに無いので最初から候補に入っていなかった。
ハーブティを最後の一滴まで飲み切って再びキッチンへと赴きカップを置くと、陶磁器特有の透き通った甲高い音が良く響いた。
その時、魔理沙はふと気になった。
そういえば今日はやけに静かだな、と。
それは何故かとしばし考えて気付く。今日は風が無いのだ。
いつもはさわさわと木々を揺らしカタカタと窓を叩く風が今日は無い。
実際に魔理沙が窓を開けても殆どカーテンは揺れていなかった。
だからこそ、その音は良く聞こえた。
「あ、出る」
魔理沙の小振りなお尻から、小さな風と共に可愛らしい音が生まれる。
世界にはこの音しか存在しないのではないかと勘違いしてしまいそうになるくらい、それは静かな空気の中ではっきりと聞こえた。
誰も居ないのはわかっていたが、それでも魔理沙が思わず辺りを見回してしまう程に。
「はあ……何やってるんだ私は。あ、そうだ」
魔理沙はお尻へと手を伸ばし、空気を掴む様に握りしめるとそれを鼻の前まで持ってきた。
ゆっくりと手を開き、鼻孔を広げる。
「……うん、大丈夫だ。やっぱりハーブティーが良かったのか?」
どうやら臭くなかったらしい。
魔理沙は心の中でパチュリーと小悪魔に感謝した。
「それに比べてアレはなぁ……」
ちらりと机に置かれた本を見る。
何故あれほど手垢で汚れているのか、読んだ今なら理解できる。
「中身は基礎の基礎しか書かれてないなんて、ちょっと期待外れだったな」
あの本を渡された時は心底驚いた魔理沙だったが、その内容は本当に最低限の事しか記されていなかった。
その最低限の事ですら難解な偽装と暗号で書かれているため、魔法の知識の無い者にはとてもじゃないが読める代物でも無い。
魔法の知識があったとしても解釈の仕方によっては180度違う意味に取れる表現も多用されているので、何度も何度も読みこまなければそもそもまともに理解する事すら難しい。
この三日間寝る間も惜しんで読みこみ、ノートにペンを走らせ、その結果何とか理解できた内容は先程魔理沙が呟いたそれだった。
「さて、一段落したらお腹に何か入れたくなったな。ああそういえば、図書館から帰って来てから殆ど何も食べてなか……あーっ! うわっ、くそ、そうだよ! 別に匂いなんて気にする必要無かったんじゃないか!」
お腹を撫でさすりながら呟いたと思ったら、突然魔理沙は声を荒げ出した。
「匂いの原因は肉だったんだから、それを食べ終わって元の食生活に戻れば治ったんだよあーもう!」
当時はあまりのショックで気が動転していて、魔道書を渡されてからはそれに没頭していたため、その程度の事が頭からすっぽりと抜けていたのだ。
しかし今更気付いたところで過ぎた時間は返ってこない。
「はぁ……まぁいいか。おかげでこういう知識を仕入れられたんだし、何か食べて気持ちを切り替えよう」
例え物を食べなくてもいい身体になったとしても、ご飯を食べられなくなる訳でもないし、歳を取らない訳でもない。
実際に試すか試さないかは別として、豆知識程度に覚えておけばいつか役に立つだろうと魔理沙は思った。
「よし、そうと決まれば霊夢にごちそうになるとするか!」
魔理沙はいつもの三角帽子をかぶり、箒を片手に外へと飛び出した。
その姿は三日前の朝と何ら変わりなく、とても三日間食事を抜いた人間には見えなかった。
「ちょっと魔理沙、なんであんなにお肉あげたのに臭くないのよあんたは」
「おいちょっと待て、確信犯か!」
魔女は怖いですね。 ぷぅ
あと、乙女な魔理沙が可愛かったです。
だから、昔の日本人は今よりも不衛生な生活だったのにも関わらず、あまり臭くなかったんだとか。
そういう風に考えると、霊夢は臭くない……のかもしれない。
それはそうと法の世界とか幻想郷にオナラが蔓延する話もありだと思う。とても。
魔理沙なら言いそうで笑ってしまいました。
ただ、いくら同性だからって、少しは恥らえよ。乙女www
おならと体臭の話題も乙女チックに展開して下品さが少し…和らい…だ。
いいタイトルですよw。
ホントにな……。
それはともかく、体臭は怖いですねえ。ショックな指摘自分的に第一位ですよ。
いいテンポで進む掌編、楽しませてもらいました。
……いやでも嗅ぎたくないかといえばそうではな(ry
てか魔理沙のおならって柑橘系のにおいがするのか、
確かめねばならないな(キリッ)
あとがきのやつも……読んでみたいな……