ぷろしゅー

作品集: 最新 投稿日時: 2011/04/01 23:25:38 更新日時: 2011/04/01 23:25:38 評価: 2/3 POINT: 2007777 Rate: 100390.10

 

分類
短編集的な何か
ほのぼの
コメディ
バトル
シリアス
ギャグ
ダーク
ちゅっちゅ
の予定です。
 







(以下プロローグ集となります。執筆中の拙作から冒頭を抜粋したもので、死ぬほど暇な方はどうぞご活用下さい)













 彼岸の渡しは言うに及ばず、その上司でさえうつらうつらと船を漕いでいてもおかしくはない、極めて麗らかなある日の昼下がりであった。

 境内の日溜まりは暖かく、鎮守の杜に木陰は涼やか。乙女の黒髪を揺らす風の、淑やかに裏庭を一掃き。開け放たれた障子戸を吹き抜け、梢の緑もさやと鳴り。池からの照り返しが軒先へ波紋を投げ掛けては、気紛れに鯉の斑を滑らせる。

 こんな日に勤勉ぶって仕事をこなすのも馬鹿らしいと、箒を投げ出した巫女を誰が責められようか? 

 嗚呼、たった今封切られた茶葉の芳しさといったら! 奮発した甲斐があったものだと頷きつつ、いそいそと鉄瓶に水を汲む。沸くを待つのも馳走の内だ。戸棚を開いてまた呻吟。おまんじゅにしよか、おせんべにしよか。迷いに迷って二つともお盆に。湯呑みと急須と……、忘れるところだった。小脇に抱えたるはぺしゃんこの座布団。くたびれものと甘く見ちゃいけない。二つ折りにすればほら、丁度良い高さの枕に早変わり。陽の当たる縁側で一服したらば、誘われるがまま畳にごろり。これに勝る至福はそうそう存在しないだろうと、大真面目で断言するに吝かではなく。

 妖怪共の一匹や二匹邪魔が入ったとして、今日みたいな午後なら緑茶の一杯でももてなしてやろうと、博麗霊夢は寛大にも呟いたものである。





 それが、どこをどう間違ったのやら。





 眉間の皺とへの字の唇が、縁側に腰掛ける巫女の不機嫌を如実に物語っていた。手にしたお茶は冷え切り、茶葉も重たげに底の方へ溜まっている。

 膝の上に猫、さもここが所定の位置だと言わんばかりの顔で居座る一匹。
 肩からずり落ちそうになっているのが一匹。
 頭の上にも、もう一匹。
 座敷の座布団の上に、猫溜まりを作っているのが三匹ほど。
 障子紙に頭から突っ込んで、無言のまま固まってる輩。
 池の鯉を興味深そうに見詰めている輩。その尻に体当たりをかます輩。
 縁板の下から飛び出してきた一匹二匹、唸り声を上げて威嚇し合い、一触即発の空気。
 屋根の上から飛び降りてきた一匹、妖精でも見付けたのか、一直線に木立の中へ。
 のっそりと寄り添ってきては、巫女の顔を見上げる一匹。
 どうにも身動きのとりようがなく、仏頂面で嘆く巫女が一匹。



「いくら何でも、これは多すぎじゃないかと思うのよ」





『ねこねこねこねこねこねこねこねこねこねこねこねこ巫女一匹(仮題)』






 数えてみれば十二匹も居やがる。居間で爪研ぎしていた一匹を確保し、縁側へ集合させていた一群へ落とし込む。

 あいや、決して猫が嫌いという訳ではないのだ。見ている分には愛くるしいし、抱っこしているとぬくくて気持までほっこりしてくる。べたべたと懐いてこない気性も、個人的には評価できるポイントだ。肉球を差し出すというのなら、特製の猫まんまを奢ってやってもよかろう。宴の席、猫耳付きで物真似を強要された過去は屈辱の極みだが、自身が作詞作曲した通称『ねこのうた』は、長年来鼻歌レパートリーの一つとして数えられている。

 それでも突然大挙して押し掛けられた挙句、至福の一時を台無しにされたとあっては、青筋の一つも浮こうもの。

 対する猫達もこの処遇には不満があるらしく、腰に両手を当てて仁王立ちする巫女へと、一様に面白くなさそうな視線を送っている。

「うむむ……。取り敢えず、点呼!」
「にゃー」
「に」
「なぅ」
「……」
「みゃー」
「なぐ」
「ンァーォォオ」
「うに」
「にゃ」
「わん!」
「にみゃー」
「ふし」
「にゃう……、あの、帰ってもいーい?」

 おずおずと手を上げ発言したのは、長い黒髪に青のリボンを結ぶ、星の光の妖精である。草むらで猫の一匹に押し倒されていたところを、ついでに確保したのだった。
 巫女が無言で頷くと、妖精は一目散に逃げ出し――と、名残惜しげに振り返っては、「にゃぁにゃー」猫達に手を振りながら去ってゆく。しっしっと追い払われ、ようやく杜の中に姿を消した。

 ふん、と腕組みをして、巫女は猫達を睨めつける。不服そのものといった表情で、今晩は久しぶりの猫鍋か……、なんてことを企んでいる訳ではない。しかし、これだけの数を相手にするのも面倒というか、現実的ではなかろう。どうにかお引き取り願えないだろうかと、たまたま目が合った一匹に絞って交渉を試みる。

「えっと、にゃーう」
「……」
「なーうな」
「……」
「なごご」
「……に」
「にゃんですってー」

 にべも無く突っ撥ねられ、交渉は決裂に終わった。折角温情を掛けてやろうと思ったのにと、少女のプライドはずたずただ。他の猫達も猫達で、早くも退屈そうな表情で欠伸をかましている。何だかむらむらしてきた……、じゃなかった、むかむかしてきた。こうなったら実力行使じゃい、と息巻く巫女の初動を敏感に感じ取ったのか、猫の一群は素早く散開した。
 振り被った両腕はあっさりとすり抜けられ、一匹など小馬鹿にした調子で巫女の後頭部を足蹴にしてゆく。追いかけた先で股ぐらを潜られ、危ういところで池ぽちゃを踏ん張った少女は、早くも自分が囲まれていることに気付いた。縁の下でふしゃー、屋根瓦でふしゃー、座布団の上でふわぁ、池の中であばばばばばばば。

「文句があるなら掛かって来なさいな。まとめて相手してあげようじゃない」

 ついにお札を取り出した巫女の上空を、黒い影が横切った。箒に跨るは誰あろう白黒の魔法使い。呑気に勝気にUターンし、裏庭にふわりと降り立つ。

「あら、まーた一匹増えやがった」
「どしたどした。そんなおっかない顔でお出迎えはないだろうよ。それとも、またぞろ妖怪でも出たのかえ?」
「相手が妖怪なら、叩きのめしてふん縛りゃ済む話だもの。楽っちゃ楽よね」

 嘆息して得物を仕舞い込む家人を横目に、縁側から上がり込むついで、魔法使いは湯呑みを拾い上げ、座布団の一匹に視線を落とす。

「こりゃ可愛らしい先客が居たものだ。っと、こっちにもか。うじゃうじゃ、例の黒猫は混じってないのか?」

 勝手知ったる他人の家。二人分の緑茶を淹れた白黒の少女が戻ってくる頃には、両者は休戦協定を結んだらしい、思い思いの場所で寛いでいる様が散見された。

「ほい、お茶」
「ん」
「なんだ、礼の一つも言えないのか。躾のなってない奴」
「どの口が」

 ぽりぽりと頭を掻いて、魔理沙は霊夢の横に腰掛ける。

「しかしまあ何の騒ぎだ? ペットを募集してたって話は聞いてないが」
「こいつらが勝手に寄ってきたの。邪魔くさいったらありゃしない」
「偶然集まったにしちゃ数が多過ぎだろ。匂うぜ、誰かが裏で糸を引いてそうだな」
「糸を引くって、……何者が?」
「アリスの人形にしちゃ生臭い。そもそも、お前んとこに畜生共けしかけて何の得があるんだか」
「知らないわよ。ま、私を苛立たせたいってんなら成功だ」

 巫女の不機嫌そうな横顔に、ついつい魔法使いの口元が綻ぶ。

「人外にはもてもてで結構なことじゃないか。なあ?」
「あんたが真っ先に痛い目を見たいって?」
「そんなにつんけんしてちゃあ、人様の票は集まらんぞ」
「お賽銭入れてくれないんなら、人も妖も似たようなものよ。あー、思い出したらまた腹が立ってきた。今週だってまだ一枚も入ってないのよ。山の上の連中といい、瓦葺きの連中といい、営業妨害にも程があるわ」
「妨害って……。いや、賽銭が集まらないのは元からだろうが」
「何か言った!?」
「思い切って大道芸人にでも転職したらどうなんだ? よっぽど小銭の入りが期待できるぜ」
「……っ。じゃあ、誰がうちで巫女さんやるの」
「あー……。こいつらに任せてみるか? 鼠退治ならお手の物ってな」

 欠伸をかます一匹が、睨み付ける瞳に気付いて首を傾げる。気楽なものだ。こんな連中と一緒くたにされるのが、今日に限って無性に腹立たしかった。





 ※





 虫の居所が悪いことを察してか、魔法使いは早々に退散した。残された少女は、むっつりとして独りごちる。

「ほっときゃその内巣に帰るだろうなんて、無責任な」

 ひょいと床下を覗き込む。先程の妖精が、迷惑そうな顔付きの猫一匹の前足を取って遊んでいるところだった。

「ねーこじゃ猫じゃ、ねこねこじゃー、……はっ」

 逆さまに睨み付ける霊夢に気付いて逃げ出す妖精の、四つん這いになったお尻へ仕置きする気力も湧かぬ。何だかどっと疲れが押し寄せてきた。腹も立つばかりが芸ではない。今日は早めの夕食にしましょ。そうしましょ。

 エプロンを身に付け、台所に立つ。笊に上がっているのは旬の山菜だ。今朝、どこぞの隙間妖怪が採りすぎたの何だの言いつつ置いていったものだが、どうせ面倒な作業は式神にやらせたのだろう。
 竈の火加減を調整しながら考える。今日中に食べきった方が良いだろか。それとも、甘辛く煮付ければ明日まで保つか。確認してみれば、さしすせその類は十分な量があった。ただ、白米の備蓄が少々心許無いか。
 明日には人里で市が立つはずだ。買出しついでに、丁度新しい筆が欲しかったところである。障子紙も忘れずに補給しなけりゃなるまい。

 面倒だ面倒だと呟く少女の背後から忍び寄る影。見れば、猫の一匹が物欲しそうに潤んだ瞳で見上げている。だけではない、扉の影から遠慮がちに、無言の催促が送られつつあった。昼間と比べて露骨に殊勝な態度じゃないか。

「なによ。あんたらのご飯なんて無いわよ。自分で妖怪でも獲ってくればいいじゃない」

 無視して調理を続けるも、背後の気配は動かない。決然とした面持ちで振り向くものの、口を開くより早くエプロンの裾を引かれ、再び目が合う。

「みゃあ」
「みゃあ、じゃないわよ。客だと思っていい気になるな」

 ……、鰹節の余りはまだ残ってたっけかと、情を捨て切れぬ人の子が一匹。





 白襦袢に手拭いといった出で立ちの少女が、米櫃の中身を覗いて深い溜息を吐く。いつものようなお代わりもできず、この分では明日の朝ご飯が精々だ。変な情に絆されたのがいけなかった。

 あの後も猫達のせいで散々な目に遭った。硯をひっくり返されたり、巫女装束の裾をぼろぼろにされたり。幸いお風呂にまで闖入してくることはなかったが、お陰でつい湯あたりしそうになってしまったじゃないか。……これは逆恨みだとしても、苛立ちが増しこそすれ解消されることはない。

 明日の朝にはどこかへ居なくなってしまっていることを祈るとしよう。お布団敷いて、転がって。毛布を被ってしばらくの上から、当然のように乗ってくる寝子達。いや、うるうると見つめられても。

「おーもーい」

 少女の苦言もどこ吹く風。素知らぬ顔で居座る猫共に、怒りを通り越して脱力を覚える。喝を入れれば一旦退却するだろうが、すぐまたそろそろと戻ってくる様が目に浮かぶようだ。どこで学習してきたのか、襖戸を押し開ける程度には聡い獣達だ。

「一体全体何事だってのよ。私が何をしたっての。お前らは気楽でいいな。猫じゃ、猫じゃ。なんぼのもんじゃーい」

 ついに現実逃避へ走る霊夢。しかし猫も十二匹といえば相当な重量である。重いよぅ苦しいよぅと呻きながら、それでも現金なもので、いつの間にか瞼は重くなってゆく。

 眠りに落ちるその間際、枕元の誰かと目が合ったような気がした。







(霊夢さんが猫達と戯れるハートフルストーリー、だった筈なのですが、この後、霊夢さんのキャラが迷走して作者でも制御不能に。霊夢さんレベルを上げてから、再挑戦したいと思います)


























 ――稀に、闇を出していないルーミア本体に出会うことがあるという。その条件とは、新月の夜である。この日は、何故かルーミアが闇の能力を使わないことが多いらしく、目撃情報も後を絶えない。
 直截対話をした者は少ないが、殆ど対話が成り立たないと思われる。話しかけたりするのは危険だ(*3)。





 *3 幼く見えても、人喰いである。 





 稗田阿求 /『幻想郷縁起』より抜粋





















 『はらぺこよーかい一日未満(仮題)』






















 木漏れ日の斑を風が揺らす、涼しげな森の一隅。昼下がりを過ぎた樹上に、その妖怪は微睡んでいた。
金紗の髪に朱のリボンを結わえ、黒々とした洋服に包まれる矮躯は、重心を木の股に預けていかにも無防備だ。緑濃い影の下、枝へと無造作に引っ掛けた両足といい、口を半開きにしたあどけない寝顔といい、外見からではただ幼い女の子としか判断が付かないだろう。
 事実、精神年齢もまた童子のそれと形容して差し支えなかったが。

「……むにゃ」

 違和感に薄く瞳を開く。何かが軋む音に続いて妖怪の眠りを妨げたのは、どうしたことか宙に浮かぶような感覚だった。何のことはない、足を掛けていた枝がついに根元から折れ落ちたのである。支えを失った半覚醒の妖怪は、重力に逆らう間もなく地上へと墜落していった。
 どさり、という音と共へ全身に走った衝撃でやっと両目を見開く。人ならぬ彼女にとっては大した打撲でもないのだが、心地よい午睡を中断された驚きと、一瞬自分がどんな状態に置かれているのか分からない当惑が先に立つ。
 かといって、確かめようと身を起こすも億劫である。とことん暢気な性格の妖怪は、無気力な表情で手足を投げ出されたがままにしていた。まるで生まれた時からこうしていましたと言わんばかり。幸い、森の豊かな日陰からはまだはみ出していない落下位置だ。

「うぅ、……ん?」

 微かに呻いた鼻先に、重さを感じさせない影が留まる。妖怪の鼻梁を何と勘違いしたのか、一匹の蝶がその薄い羽根を休めていた。
 一対の赤い瞳が中央に寄せられ、襟元からじわりと“闇”が滲む。撚り合わされて糸のようになった闇は白雪の皮膚を静かに這い上がると、その不定形な見た目からは想像も付かない素早さで伸び上がり、小さな獲物の脆すぎる羽根を絡め取っていた。

 ……小作りな唇をぺろりと舐め上げる妖怪に、脈絡の薄い思いが去来する。

「ああ、余計にお腹が減っちゃった。もうすぐ背中が透けて見えるんじゃないかなぁ。ん、それもそれで面白そうね」

 木端のような薄い命。数日来まともな食事にありついていない胃袋が、とてもこの程度で満足するはずがないのだ。しかも、お世辞にも美味しいとは言えなかった。

 今すぐに栄養源を確保しなければ死んでしまうほど切羽詰まっている訳ではない。しかし、倦怠感を無視して他のことで活動的になれるだけの余裕も無い。日光を遮るための闇を常時展開し続ける気力も湧かず、ともすれば深刻な腹具合である。
 何より、未だ幻想郷は昼日中。直射日光を苦手とする彼女には不都合な時間帯だ。ご飯は日が暮れてから調達すれば構わないだろう。或いは、獲物の方が通り掛かってくれるのを待つか。脳天気にも、再び妖怪はそのままうつらうつらし始めていた。

「――。あなた、何をしているの? こんなところで寝てたら風邪ひいちゃうわよ」

 頭上から声が降ってきた。大儀そうに瞼を上げてみると、誰かが逆さまに自分のことを覗き込んできている。
 いや、倒立しているのは自分の方だ。肩を地に付け片足を木の幹に凭せ掛ける、捨てられた人形のような姿勢。スカートが大きくめくれ上がってしまっていることにすらも頓着せず、妖怪は呻吟する。

「ん〜?」
「ねぇ、何者? こんな所で何をやっているの?」
「そりゃあ寝ていたのよ」
「まあ、あの高さから落ちてきたのね。怪我は無い?」

 矢継ぎ早な質問の主は、まだ年の頃十に達するか達しないかの、見るからに好奇心旺盛な少女だった。ぱっちりと円らな瞳の上で長々しい黒髪を切り揃え、蝶を模した瑠璃色の髪飾りをこめかみに留めている。妖怪にもっと観察眼があれば、藤色の普段着物や履物の鼻緒の柄からそれ以上のことも読み取れていただろう。だが、彼女の興味はただ一点に尽きた。
 気紛れな風が少女の長髪を揺らし、甘やかな芳香が広がる。途端、腹の虫が大げさに不平を訴えた。

「ええと、お腹も空いているのかしら」
「あんたは――食べてもいい人類?」

 彼女を含む妖怪全般にとって、人間を捕食することは空腹を満たす以上に自己の存在意義を充足する行為である。その機会が向こうからのこのことやってくるとは、まさしく棚から牡丹餅といったところか。

 きょとんと見返すだけの少女に、妖怪は同じ意味の質問を重ねる。

「あんたは、里の人間なの?」

 食べ物とあらば見境の無い雑食性の彼女だったが、ただ一つ、“里の人間を食らってはならない”という幻想郷の規律にだけは忠実だった。禁じられている理由は良く知らないが、何となく、里に所属している人間に手を出すことは憚られるのである。

 ――人里の子ら攫い喰らうこと罷り成らぬ。人里の子ら攫い喰らうこと罷り成らぬ――

彼女が食用にする人肉は専ら、どこからともなく配給されるか、不運にもこの箱庭に迷い込んできた外来の人間だ。巫女や魔法使いはやたら強くて迂闊に襲えない。

 首を傾げつつ少女が問い返す。

「里の人間って、里に住んでいるかってことよね」
「うーん、多分」
「それなら違うわ。あたし、家出してきたんだもの」

 何故か自慢げに腕を組む少女は、さも深刻そうに眉を寄せた。

「どうして家出したかって言うと、お父さんが妖怪に乗っ取られてしまったからよ。……そう、本物のお父さんなら絶対に私のことぶったりしないもの」
「家出、はぎりぎりかなぁ。まあいいや、いただきまーす」

 訊かれてもいない身の上話を始める少女だったが、妖怪にとってさしたる興味はない。見えない糸で吊り下げられるかのようにして、捕食者の体が地面から浮き上がった。流石に状況を察したのか、少女はぎょっとして後退る。

「あなた……、もしかして人喰いなの!?」
「人間以外も食べるけどねー。さっき聞かれた通り、私はお腹が減ってるの。さあ、美味しく大人しく私のご飯になりなさい!」

 十字架を象るように腕を広げる妖怪。その闇色の服が生き物のようにざわついた。慌てた少女は、ぶんぶんと手を振りながら言葉を挟んだ。

「ちょ、ちょっと待って! お腹が空いてるなら、あたしに良い考えがあるわ。人間よりずっと美味しい物を食べさせてあげる」
「ふぇ?」

 妖怪の興味を引かれた様子から猶予を得たと判断したのか、少女は一息に自分の提案をまくし立てる。

「あたしのお父さんは里で一番の料理人なの。何を隠そう、あたしの腕前は二番目よ。見逃してくれるんなら、後でたらふく御馳走してあげられるんだけど――」
「へぇ、どんな料理?」
「材料さえ揃えば、幾らだって食卓に並べてご覧に入れましょ。和風洋風何でもござれ。古今東西、うちで食べられない料理は無いって評判なのよ」

 一転、少女は得意げに数々の調理法(レシピ)を披露し始めた。空蜜豆を卵でとじたふわふわ宝石箱に、紫蘇喰い鶏のかりかり揚げ。骨ごと食べられる川魚のパイや、旬の花びらを透かして見目にも美味しい、四季折々に並ぶ葛菓子。次々と飛び出してくる料理はどれも耳新しく、食指を動かされるものばかりであった。途中から興が乗ってきたのか、身振り手振りで解説を加える少女もまた、活き活きとして美味しそうではあったが。


「妖怪の賢者様もこっそり贔屓にしてるんですって。私は会ったことないけど……。とにかく、きっと貴方のお口にも合うと思うわ」
「んー、いいよ。その条件で手を打ってあげる」

 淡々と頷く妖怪に、料理人の娘は本来の目的を思い出す。

「……、見逃してくれるの?」
「今だけね。食べさせてくれるまで一緒に居るけど」

 日中の本調子でない彼女だろうとも、この非力な獲物を取り逃がすことはないだろう。元より夜になるのを待つつもりだったのだ。多少の我慢で滅多にない美食を味わえるのならめっけもの。この食糧の処遇は、その後に決めても遅くはない。

 ほっと胸を撫で下ろしている少女に、地面へ降り立った妖怪は朗らかな笑みを向けた。

「それじゃ、早く早く」
「今すぐ? 幾ら何だって材料も包丁も無くっちゃあお手上げだわ。もうお家には帰れないし。先に言っとくけど、私の活け造りは美味しくないと思う。せめて薬味の一つでもないとね」
「あ、いーこと思い付いた」

 ぱちりと手を合わせては踵を返す妖怪の後ろ姿へ、もじもじと頭の蝶の位置を直していた少女が、おっかなびっくり声を掛ける。

「……そうだ。名前を聞いていなかったわ。あたしは○○って言うんだけど、あなたは?」
「私は“るぅみあ”よ。どうしてそう呼ばれているのかは知らないけど」
「お父さんとお母さんが名付けてくれたんじゃないの?」
「さあ、覚えてないわ。どうせ薬味にもならないだろうし」

 振り返ることすらしないまま、妖怪は薄暗い森の深みへと分け入っていった。木漏れ日のざらりとした感触を黒髪に残し、少女も小走りにその背を追う。





明と暗の対照も鮮やかな森で、二人は出会った。





 後は、別れるばかりである。







(定番と言えば定番、ルーミアさんの食人モノ。まあ、王道を目指していた筈が、知らぬ間に獣道へ迷い込む作者でございます。別に関係ありませんが、お腹を空かせた女の子も、よく食べる女の子も可愛いと思うものです)





















 『或る不真面目なウェイトレスの、役得とささやかな節制について(仮題)』




 有機硝子の隔てる向こう、噴水が揺らす空の色を眺めながら、少女は菫青の双眸を瞬かせた。ブロンドで縁取られる異郷めいた風貌に、わずか愁いが差す。無防備ながら触れ難い、精巧な細工物の如き空気感と、艶めかしく潤んだ眼元とのアンバランスな対比が、白昼に似合わず危うい表情を作っていた。躊躇いがちに伏せられる睫毛。所在無さげに洋服を掴んでいた指がつと持ち上がり、幼子のたどたどしさで朱唇に這わせ。

 くぁ、と小さく欠伸しては、むにむに目尻を擦る。端的に言えば、マエリベリー・ハーンはおねむなのであった。





(秘封倶楽部は大好きです。もう十パターンくらい出会いの形を妄想いたしました。別れ方は三十パターンくらい書き留めています。二人の明日はどっちだ)
























『総領娘のお嫁入り(仮題)』








 ――、総領娘様のことでございますか? ええ、覚えていますとも。良くも悪しくも、永らく色褪せぬ記憶です。



 それはそれはお美しい方でいらっしゃいました。沈魚落雁、という言葉でも足りない、浮世離れした美しさ。身内の欲目ではございませぬ。十五の山を越えた郷の長者様や、都の何某とかいう良家のご子息が、ただ噂を聞き付けて辺鄙な山間の村までわざわざ訪ねていらっしゃるという、お伽話に聞くような騒動もございました。

 ――、はて。どのような美しさか、と申されますと。

 婀娜めいて男を滅ぼし、家を傾けるような芳烈たる妖婦を想像していらっしゃるのならば、それは見当外れもいいところでございます。寧ろその逆。凛然たる香雪、清冽たる川の流れの如く、寄り来る男達の下心を無邪気に洗い流し、却って童心に戻してしまうかのような……いえ、やはり欲目というものは入ってしまうものでして。

 例えるならば、硝子の鉢を泳ぐ、朱い緋い金魚でしょうか。すいすいと、ひらひらと。水の中の宝石のような、可憐なその身に指を伸ばしたところで、透明な薄壁に爪先は隔てられ。目の前で涼しげに泳いでいながら、全く別の世界に暮らしているような心地すらして。

 ともあれ、人の身に過ぎた美貌であることには変わりなかったのかも知れませぬ。いつの世にも、美しきは罪と申します。いずれその身には、避け得ぬ悲劇が降り掛かっていたのでございましょうか。たとえ総領娘様が――“ゆく”様が、龍神様の御宮へお嫁入りにならなかったとしても。

 いえ……。それを悲劇と断ってしまうのは、わたくしの身勝手なのでしょうけれど。





 ――、短くはない経緯(いきさつ)になってしまいますが、それでも構いませんでしょうか?





 ――、左様ならば、一つ、昔語りにお付き合い頂きたく存じます。わたくしのような者が語り手とは恐れ多く、不躾な点も多々ございましょうが、何卒ご容赦頂けますようお願い申し上げます。



 それでは……。先ず、あの燃え尽きた灰のような、不死(しなず)の少女の顛末からお話ししなければならないでしょう。






(タイトルから、天子さんの結婚絡みでドタバタコメディを連想した方、申し訳ございません。天子のての字も出てきません。妹紅さんはもこもこ出てきます)


























『我ら大妖精の小規模な戦争、或いは戯れの妖精譚(仮題)』






 この妖精譚に記されているのは、我ら大妖精の一群、フェアリーサークルを囲む同志達が人間達に対して仕掛けた戦争の、その妖精らしい、滑稽な顛末である。

 故に、最初に断っておかなければなるまい。これから語られる内容に真実は無い。学ぶべき教訓も、秘された含蓄も無い。

 我ら妖精に歴史は無い。立場が無ければ責任も無く、善悪が無ければ邪気も無く、分別が無ければ節操も無い。

 私という小さな存在に、恐らく大した価値は無いのだろう。





 されど、我ら大妖精が妖精にして妖精を逸脱する存在であるからこそ、この稿に意義があることを信じるものである。私自身がそう信じることに、一つの意味があると信じるのだ。

 それがきっと、私を名も無き大妖精たらしめている由縁なのである。





 ※





「戦争よ! もーこうなったら戦争しかないわ! こんにちは!」
「こんにちはー。チルノちゃんは今日も元気だねぇ」

 可愛い後輩が不穏な言葉を叫びながら我が家にやってきたのは、春の日差しも柔らかなある日のことであった。湖面はあくまでも平和に凪ぎ、漂う霧も穏やかな午後を謳歌しているようである。
 ちなみに私といえば、朝からずっと布団の中でくったり過ごしていた。春眠暁を覚えずという奴である。妖精が怠惰に過ごしていたところで誰も文句を言うまい。それでも来訪者の気配を察知し、急いで居住まいを整えたのだ。言い訳させてもらえるならば、昨日は遅くまで書き物に夢中になっていたのである。

「戦争?」
「戦争!」

 いやはや物騒な単語が飛び出したものだ。氷精の勢いだけに任せた演説はしばらく要領を得なかったが、迎撃に立ったシュークリームを頬張り、果物ジュースを飲み干している内に、幾分か落ち着きを取り戻したようだ。

「えっと、それじゃあチルノちゃんは、あの子達と喧嘩してるんだ」
「戦争してるのー! あいつらに、私に宣戦布告したことを後悔させてやるんだから!」

 ここでいうあいつらとは、輝ける日の光ことサニーミルク、静かなる月の光ことルナチャイルド、そして降り注ぐ星の光ことスターサファイアの三名からなる悪戯ユニット、人呼んで光の三妖精である。この間は一緒に遊んでいたと思ったら、色々あって今は敵対しているらしい。
 喧嘩する程仲が良い。仲良きことは美しき哉。

「話し合いで解決するのは無理なのかな?」
「……ふっ。交渉は爆裂したわ」
「そっか。決裂しちゃったんだ」
「素直に軍門に下りさえすれば、許してやらないでもなかったのに! まーいいわ。私の力で魂胆寒がらせてやる」
「えっと、肝胆寒からしめる?」
「そうそれ! ごちそうさまでした!」
「お粗末さまでした」

 相手が喧嘩友達ならば、そう心配することもないだろう。彼女は明らかに敵わない相手へ挑戦することに躊躇わないので、見ているこっちが冷や冷やしてしまう。
 戦争、と聞こえだけならものものしいが、妖精同士のじゃれ合いなら傍から見れば酒の肴程度の騒動にしかならないだろう。しかし、どこの誰がちょっかいを出してくるやら……。

「ねぇ、チルノちゃん」
「なぁに?」
「私も参加していいかな、戦争」
「別に構わないよ? 全員まとめて掛かって来なさいったら!」
「あー、敵方なのは決定済みなんだ……」
「最強はいつも一人!」

 元気どころではない、いつも以上に絶好調な氷精であった。



 後日、私は宣言通りに可愛い後輩達の戦争ごっこに飛び入り参加を果たし、敢え無くというかものの見事にというか、こてんぱんに撃墜されてしまったのである。



 久し振りに身体を動かしてみて、中々充実した時間を過ごすと共に、日頃の運動不足を実感したのだった。そう言えば、最近は人間や妖怪相手の悪戯からも遠ざかっている。後進を見習ってもう少しやんちゃに暮らしてみるべきだろうか、といったことをつらつらと日記に書き記していると、戦争という単語がやけに気に掛かった。

 そこでこれまでに書き溜めた覚え書きを漁ってみると、かつて自分が巻き込まれた戦争――第一次及び第二次大妖精大戦についての文章を発掘してしまったのである。すっかり忘れてしまっていただけあって、読み返してみるとなかなか興味深い。良い機会だと思い立ち、適当に書き散らされていた当時の日記から関係する部分を詳しく纏めてみることにした。新メニューの成功例や一年通しての霧の様子など、これまでにも何度か同じような暇潰しをしたことがある。
 最初はそれだけだったのだが、途中から欲が出た。単に書き写すだけでなく、記録を元に再構成し、改めて一繋がりの文章として書き直してはどうだろうか。どうせやるなら、当時の関係者に取材して、足りない部分を補完してみよう。あれこれと飛び回っていたら、いつの間にか一つの季節を費やしてしまっていた。

 第一次大戦は記録に古く、記憶もかなり曖昧なことから、第二次大戦を中心に纏めることにした。読み返してみれば、本筋と無関係な部分があまりにも多かったが、それも自分らしいと思って肯定しよう。どうせ妖精の書き物である。まともであろうとする方が不自然だ。
 
 そんなこんなで出来あがったのがこの妖精譚(フェアリーテール)である。書いている間は楽しかった。妖精のご多分に漏れず、私も楽しいことが大好きである。楽しいならば、どんな大変なことでもやり遂げてしまうのが妖精である。
 しかし今、我に返って思うのだ。こんなもの、私以外の誰が読むというのだろうか?





 ※





 何のことはない、自己紹介がまだであった。



 しかし困るのは、私に紹介すべき名前が無いことである。昔は何かしら固有名詞で呼ばれていた気がするのだが、段々と周囲から名前で呼ばれることが少なくなり、ついに自分で自分の名前を忘れてしまった。百年ぐらい誰とも話さずに山籠りでもしていたのだろうか。当然、自分が何年くらい生きているのかも覚えていない。

 さりとて、大して困る機会も無かった。霧乃湖の大妖精、それが今の私を示す記号であり、名乗りなのだ。

 自然現象が人の形を取り、笑いさざめくようになった存在、それが妖精である。私はそのまま、今は霧の湖と呼ばれている湖を出自とする妖精なのだ。覚えている範囲では、まだ湖が誰にも名付けられていない頃からここで暮らしていたようだ。私より長生きしている――幻想郷を一番永く見守ってきた妖精によれば『そうねぇ、二千年くらい前から代替わりしてないんじゃないかしら』だそうである。そう言う彼女は、なんと自称一万歳だそうだ。どちらにせよ、普通の妖精に比べれば遥かに長く一つの意識を保っていることは間違いない。あまり自覚も無い。(ちなみにその妖精、千年前から同じことを主張し続けているようだ。永遠の一万歳である)
 湖と一口に言っても、私の属性は湖面近くに偏っていた。冬でも暖かい水底の包容力、光差さぬ神秘の棲家ではなく、陽光を遮る霧、月光を揺らめかす波、そして星の瞬きを湛える水面こそ、私の性質であり本質なのだ。

 いや、こんなことをつらつらと書き連ねたところでさして感興をそそるまい。ただ、私がものを書くようになった経緯だけは紹介しておかなければならないと思う。

 多くの人間や妖怪は、妖精にまともな文章が書ける訳がないと思い込んでいるのではないだろうか。その認識は間違っていない。妖精全体の識字率は、人や妖に比べればそりゃあ低いものだろう。漢字仮名交じりの文章を書ける割合ともなれば壊滅的だ。ただし、それが妖精達の頭が悪いせいだというのは誤解である。大半の妖精が、読み書きに魅力を感じていないだけなのだ。悪戯に必要とあれば、いや単に興味をそそられたのならば、私達はいつでも勉学に励む用意があるのである。楽しみのためなら如何なる骨折りも厭わないのが妖精という生き物だ。

 思い出せる限り昔から、私は湖を遊び場としていた。昼の間、霧が白く濃く視界を閉ざす湖畔には、水や食料を求めて色々な生物が萃まってきた。中でも私の興味を引いたのは、妖や人の太公望である。訪れるものを普通に驚かせたり、道に迷わせたりする悪戯に飽きた自分は、釣り人達へ何かお話を乞うたのだ。構ってくれなきゃ悪戯するぞ、という訳である。
 ご存知の通り、釣りとは待ち長いものだ。ちょっかいをかけられるよりは、退屈しのぎに相手してやった方がましだろうと考えたのか、人妖問わず、大抵の釣り人は妖精とのお喋りに付き合ってくれた。中には、私との会話を毎度楽しみにして来てくれる者も居たものである。仲間内では下らないと聞き流されてしまう与太話へ、さもありがたげに耳を傾けてくる無邪気な妖精は、今思えば都合の良い聴き手だったに違いない。
 お話の内容は実に様々だった。自慢話に法螺話、カミさんの愚痴に惚気口。自分では高尚だと考えている思想を朗々と語る者も居れば、自作の詩歌の感想を求めてくる者も居た。相手が頭空っぽな妖精だと思って、
上司や師匠の悪口、かつて犯した罪の懺悔、固く胸に秘めたる恋心を、ここだけの話として打ち明けてくる者も居た。
 私が特に歓迎したのは、子供向けのお伽噺や、老人が孫に語って聞かせるような昔語りである。小さな頭に空想される世界は、湖よりも広く深かった。話にのみ聞く大海に、私は未だ見ぬ同胞を見た。
悪戯で相手を困らせて笑うより、それはずっと楽しく快い時間だった。お話の見返りとして、こちらは外敵の接近や、獲物の気配を知らせる。湖の周囲は己の庭であり、霧は手足の延長である。勿論、邪な目的で私に近付くものや、湖畔にゴミを棄てていくような輩は、遠慮無く水中へ突き落とし、白霧に帰り道を見失ってもらうことにした。もっと性質が悪い場合は、怪物魚に頼んで食べてもらうのだ。

 そうして平和に過ごしていたある日、私は重大な事実に気付くことになる。自分の記憶力は、はっきり言ってへぼへぼだったのだ。

 あんなに楽しかったお話を、次の日には忘れている。どんなにうんうん唸っても、物語の結末が思い出せない。まるで雲中の月をぴたりと指し示すような箴言も、虹色の宝石のように輝いていた詩句も、頭からぽろぽろと零れ落ちてゆく。面白おかしい隣人を一人一人失っていくようで、酷く悲しかった。生まれて初めて、私は自分のおつむの弱さを呪った。自分が妖精に生まれたことを呪ったのである。

 そうして思い悩んでいた自分に、見兼ねた友人が助言をくれたのである。

『忘れちゃうのが嫌なら、書き留めておけばいいんじゃない? 人間みたいにさ』

 私は成程と思った。そして、愚直にもその日から読み書きの練習を始めたのである。
 いや、愚直なのが逆に良かったに違いない。貰い物の辞書と首っ引きで、私は活字と格闘を始めた。当時はまだまだ紙や本が豊富だったとは言えないから、教材は選べない。人里の文献や天狗の新聞など、手に入るものを片っ端から掻き集めた。字を書ける他の妖精や、湖を訪れた釣り人に教えを請いながら、棒で地面に文字を描き続けて十数年。自己流の上に学んだ端から忘れてゆくので、簡単な文章を書き表せるようになるまで随分と掛かってしまった。
 むしろそれから数十年の方が大変だったろう。漢字や英字、漢文に英文など、勉強しなければ山ほどあった。無論、全てを修めることなどできないに違いないが、努力の甲斐あって、今では人間並みに物を書くことができるようになったのである。
 辛かった日々かと問われれば、そうでもない。私は夢中だった。単純に楽しかった。考えてもみて欲しい、一ヵ月前に自分が考えていたことが、今ここに残っているのである。素晴らしいことに違いない。ネックであった記憶力が、勉学に励む過程でかなりの程度鍛えられてしまったのは、まあ計算違いである。
 
 無論、人間や妖怪からみればまだまだ拙いものであろうし、私より賢い妖精は幾らでも居る。それは自分にとって嬉しい事実であった。私は自らお話を作るより、他人の話を収集する方を好む。霧も湖面も基本的には受け身である。尋ね来る太公望達の耳元で、今も私は囁くのだ。貴方のお話を聞かせて頂戴――と。

 思えば、あの頃自分の名前の書き取りを怠ったせいで、私は名を失くしてしまったのではないか。






(大妖精、というのが個体名ではなく、他に無数に存在するという設定で物語は綴られます。内容の真偽はともかく。妖精という種族について、突き詰めて考えてみるために執筆中です)







 













「……泊めて」
「泊めて……って?」



 玄関先で淡々と立ち尽くしていた紅白の巫女さんに、ドアノブを握るアリスは青い眸をぱちくりと瞬かせました。傍らに浮かぶ人形も、小さな頭を傾げます。

「オメー、ウチヲミンシュクカナニカトカンチガイシテルンジャネーカ」
「びた一文支払うつもりは無いわ。でも、泊めて欲しいの」
「…………」
「泊めてくれる?」
「……霊夢にしちゃ、えらく殊勝な態度ねぇ」

 人形と人形遣いが、困惑の表情を見合わせます。季節は冬も盛りのこと、庭は一面の雪景色です。合切袋一つ提げ、相も変らぬ巫女装束は外目に寒々しく。アリス自身、早くも暖炉の温もりが恋しくなってきました。この場で、これ以上の問答を続けたいとは思いません。

「マ、アガッテケヨ。サユクレーナラチソーシテヤルゼ」

 人形に促されるまま、霊夢は玄関に上がり込みました。服に付いた雪を払ってあげながら、その素直さを訝しく思う人形遣いです。
 そういえば、以前にもこの巫女が宿を求めてきたことがあったっけ。あれはどこぞの不良天人の気紛れで、博麗神社が倒壊してしまった後でした。住居部分も甚大な被害を受け、とても人の住める状態ではなくなってしまったため、再建までの間、知り合いの家を転々とすることになったのです。しかして神社は再度全壊の憂き目に遭い、その後は流石に人里に宿を取ったらしいと聞いていましたが。
 ああ、段々と思い出してきました。あの時は、振る舞う料理に一々文句を付けられたり、どうして緑茶が無いのかと騒がれたり、ストレスが溜まる一方でした。
それでも、知った顔をあの寒気の中に放り出すのは寝覚めが悪いものです。もののついでだ。一晩くらいなら構わないだろうと人形遣い。

「それにしても……、どういう風の吹き回しかしら。貴方がうちを頼るなんて、炬燵の燃料でも切れちゃったの?」
「これで、四度目なの」
「は?」

 ふうと白い息を吐いて、巫女は無表情に言いました。

「神社が崩壊しちゃったのが、四度目だってことよ」







 アリス・マーガトロイドは後に述懐します。恐らくは、自分も彼女と共犯だったのではないかと。
 自分がもっと聡明に立ち回っていたならば、事態はああも深刻にならなかったのではないか、と。若干の呆れと、気恥ずかしさと共に。









 『寂しがりやな泊まり巫女、或いは、罪無き同居人の受難(仮題)』









「そら、取り敢えず脱ぎなさい」
「ぬ?」
「濡れてるでしょう。ついでに洗濯しとくから」

 カーテンの隙間から覗く薄暗い森では、後から後から舞い落ちる雪の白が、影の黒色を圧していました。人形の一体がせっせと結露を拭き取り、また別の一体が暖炉に新たな薪をくべます。一つ一つ機能性を吟味して配された調度が、赤々と燃える炎によって暖色に染められていました。
 言う傍から人形達が巫女装束をひん剥きにかかり、ついでとばかりに髪留めとリボンとを取り外してしまいます。されるがままになっていた巫女へ、一揃いの衣装が手渡されました。

「サイズは大体合ってる筈よ。この際、趣味に文句は言わせない」

 下着姿のまま、巫女は通された居間を見回します。都会派らしく小奇麗にまとまった、それでいて単調にならないよう配慮された家具類。糸の繋がっていない、そこかしこに寛いだ人形達が、硝子の瞳に無感動を湛えています。窓際のテーブルには、空になった小皿とティーカップとが、二人分置かれていました。まるで、今の今まで仲の良い友人同士が談笑していたかのようで。

「おーい、アリスー!」

 部屋の外から聞こえてきた声の主を、二人にしてみれば確かめるまでもありません。

「魔理沙も来てるの?」
「ええ、夕飯のおこぼれ目当てにね。図々しいったらありゃしない……。なぁーにー?」
「これ、もっとマシな着替えはなかったのか? お前のコレクションの仲間入りはご免だぜ」
「不服だって言うんなら、中身に火薬も詰めて差し上げましょうか。きっと、良い音で弾けるんでしょうね」
「可愛い人形の話だろ。そう粗末に扱うもんじゃない」

 魔法使いの憎まれ口も、それきり途絶えました。一人もぞもぞと袖を通し終えた巫女は、暖炉の前の安楽椅子に、すぽんと収まります。キッチンからの扉を開けて、人形達がそれぞれ、ティーポットとお盆とを携えて入ってきました。またその足で、放置されていた茶器を片付けてゆきます。

「なんだか、待ち構えられていたような気さえするわ」
「備えあれば憂いなしが魔女の鉄則よ。毒見役は必要?」
「出されたものなら、皿まで食べるわ」
「イヤ、サラハタベルナヨ」

 砂糖を多めにした紅茶と、バターをたっぷりと使った焼き菓子。ぱくぱくと頬張る巫女へ、アリスは迷い込んできた小動物に向ける眼差し。それにしても違和感が拭えません。普段の彼女となら、もう三度は軽口の応酬があっていい筈だろうにと。

「おい……、やっぱこれ、変じゃないか?」

 扉を開けて、魔法使いが上半身を覗かせます。指に抓んで気にしているのは、今まさに身に纏っている布でした。原色の切り張りと刺繍の素朴さを、要所に配されたレースが清楚な印象に変える、民族衣装風の洋服です。
 不満そうな顔で入ってきては、アリスを見、焼き菓子を咥えている霊夢を見て、ぴしりと硬直ます……。
 油の切れた機械のようなぎこちない動作で、扉の向こうへ消えてゆきました。

 しばし、巫女がさくさくと咀嚼する音だけが場に響きまして。

「――ってぇ! どうして霊夢がそこにいるんだよぉ!」

 蹴破られる勢いで扉が開かれ、魔理沙の絶叫が木霊します。

「ここはお前んちじゃないだろ!? どっから湧いてきた!」
「オマエンチデモネーケドナ」

 人形の冷静なツッコミを無視し、魔法使いは涙目です。

「そもそもどうしてお前まで同じ服を着てるんだ! 主人公組の個性はどこに行ったんだよ! お前は紅白で、私は白黒だろ! どうやって書き分けてもらうつもりだ! よりにもよってこんな女の子っぽい……。霊夢もどうして他人事な目で私を見る! お前から巫女を取ったらどんな属性が残るっていうんだ! もう嫌がらせの領域じゃんか! わざとだなアリス、絶対わざとだ!」
「わざとよ。それで貴方が悔しがるってんなら何とでも言ってあげるわ」
「そのスかした態度が気に入らん! 表に出ろ! 決闘だ!」
「受けて立とうじゃないの。先に行ってて頂戴。私は準備があるから」

 足音も荒く魔理沙が出てゆくのを見送り、人形遣いは巫女に向き直りました。丁度最後の一枚を食べ終えたところで、物欲しげな視線が返されます。

「お代わりの前に、聞かせてはもらえないかしら」
「何が?」
「神社が全壊したって話。しかもあれから、もう二度、ってこと?」

 露骨に面倒臭そうな表情をして、渋々巫女は口を開きます。

「三度目は、萃香よ。ちょっと喧嘩しちゃって……、気付いたら視界が広かった。あれは半分私のせいだし、すぐに再建してもらったんだけど」

 すかさずアリスは霊夢の口にクッキーを押し込みました。むぐむぐし終えたところに、続きを促すのです。

「四度目は、分からない」
「分からない?」
「今朝、起きたら潰れてた。うっかり踏んづけちゃったおこわみたいに」
「よく無事だったわね」
「もう少し寝相が悪かったら、今頃悪霊になってたでしょうね」
「悪霊になるんだ……」

 もう一枚クッキーを差し出すと、巫女の視線がついつい釘付けになります。

「前の日の夜、妙な気配を感じたりしなかった?」
「別に……」
「神社を壊そうとする輩に心当たりは?」
「別に……」
「――まあ、よし」
「はぐ」

 ぱくりと食い付いた。一心不乱にもぐもぐしています。妙に扱い易過ぎはしないでしょうか。それとも、立て続けに住居を失ったことで参っているだけなのでしょうか。

「紅茶、お代わりは必要?」
「……緑茶がいいわ」
「……。シカタネーナ。ソナエアレバウレーナシ、ダ」

 人形が霊夢の手から食器を預かり、キッチンへと消えていきました。入れ替わりに、別の扉から蒼い顔の魔法使いが現れます。両手で身体を抱き、がたがたと震えながら。

「ど、どうして来ないんだよ……」
「あ、忘れてた」
「忘れてた、じゃねぇよ。絶対わざとだろ……」

 いそいそと暖炉の前にしゃがみ込み、ほっと息を吐く魔理沙。

「意外と長く保ったのね」
「やはりわざと。流石アリス」
「まあ、火に当たってたら乾くでしょ」
「お前、もしかして私のこと嫌いなのか……?」
「そうやって泣きそうになってるところ、悪くないと思うわ」
「そうそう、私の箒とか玄関から無くなってたんだが。あと脱衣所から八卦炉が消えてた」
「貴方がシャワーを浴びている内に、武装は没収させていただきました。気付くのが遅いったら」
「こいつ、卑劣な真似を……」
「下手な真似をしてご覧なさい、ご両親の無事は保障できないわよ」
「どこまで根回しがいいんだよ」
「あ、そうだ。私達が言うのもなんだけど、魔理沙。書き分けとか属性とか、あんまりメタい発言はしない方がいいんじゃないかしら」
「同感だな。異変でもないのに、つい口が滑っちまった。平時は自重しよ。でもどっちかっていうと、メタいとか言っちゃうお前の方がメタいんじゃないか」
「人形劇オチへの伏線を張っているだけよ」
「オチとか伏線とか言っちゃうな。それ、観客は付いてこれるのか?」
「いざとなったらこう言えばいいわ。“幻想郷は全てを受け入れる――”」
「――それはそれは、残酷なお話ですわ」
「紫さん、貴方の出番はもっと後じゃなかったかしら」
「あら、ごめんなさいね」

 にゅるっと話に割り込んできたスキマ妖怪が、にゅるっと謎の空間に消えていきました。巫女は、僅かに見開いた目に宙空を映しています。

「おいアリス、出番って何事だ」
「え? 魔理沙台本読んでないの?」
「台本って何事だ!? カメラでも回ってんのか!?」
「あんたの最後の台詞は、“……む、無念。ぐふっ”よ」
「最期の言葉じゃねぇか」
「回想シーンで何十回もリピートされることになるわ」
「意外と私、退場早いのな」
「友人を庇って犬死にする役ね」
「ちょっとカッコイイと思ったら犬死にかぁ……。一応遺書は用意しておくとして、もう少しマシな脚本は用意できなかったのかよ」
「仕方ないわ。これも運命と思って諦めて頂戴。“こんなにも月が紅いから――”」

 二人は黙って耳を澄ませましたが、窓からラブリーチャーミ―な吸血鬼が乱入してくることはありませんでした。

「取り込み中か。まあ、メタいのもこれくらいにしておきましょう」

 勿論、アリスの発言は全てデタラメです。冗談だと分かって付き合うぐらいに、魔理沙も気心が知れた仲。さて霊夢といえば、適当な人形を二三体捕まえては、胸に抱いて安楽椅子を揺らしていました。思わず顔を見合わせる、森の魔法使い改め漫才コンビです。

「……ふ? どうしたの?」

 沈黙に気付いた巫女に、いっそ無防備な、縋るような視線を向けられて。二人はちょっとどうしようもなくなりました。代わって人形の一体が、カメラ目線で一言。

「エー、ソレデハCMヲドーゾー」






(この後、神社は十数回に渡って壊滅します。霊夢さんが何回目でデレるか見物ですね)






















『幻想郷血迷考 〜歴史家の犯罪/古道具屋の死体(仮題)』








 男は、既に事切れていた。人でありながら、同時に人でなかったそれも、骸と化してしまえばただの物体でしかなかった。



 やっと疎らになりつつある梢の透きから、斑に空が透くような。或いは、これから分け入る鬱蒼とした暗がりに、誰もが身を震わせるような。そんな森と林の境界線上、俗に言う《魔法の森》の入り口に、その古道具屋は営まれていた。

 香霖堂、と看板には墨が彫られ、雨に色褪せている。

 雑多な商品の、うず高く積み上がる輪郭がある。半開きになった窓から差し込む光に、舞い上がる埃がちらちらと輝いていた。飴色に艶めくまで使い込まれた木目に、ぎざぎざと毛羽立って目立たない陶の渋色に、しんしんと埃は降り積もってゆく。体温と鼓動とを失い、物言わぬようになった新参者にもまた平等に、埃が薄く降り積もっては、その歴史を周囲のものと馴染ませつつあった。

 何もかもが静かに澱んでいる中で、ただ、報われぬ想念だけが、薄明るい空間を当ても無く渦巻いているのである。







 ――小之壱







 最初に申し上げておくが、私は恋愛小説家になりたいのだ。





 ※





 無数に積み上げられた和綴じの本の山から一冊を手にとっては、ぱらぱらと捲ってみる。目当てのものは見付からない。確かめ終えた本が形作るもう一つの山積みへ、気を取り直して丁寧に置いた。

「……ふぅ。せんせいの“つい”にも困ったものです」

 両脇に本の山をこさえて床に座り込み、溜息を漏らすわたしの目の前には、実に雑多なものが散らばっていた。例えばそれは布の切れ端だったり、色褪せた名刺だったり。私が失くしたと思っていたマチ針だったり、いつの物とも知れないお守りだったりする。メモの類が一番多い。年末の買い物リストや、“今日は夕食が要らない”という書き置き、執筆のヒントだろうか、関連性の無い単語が不規則に並べられ、その内の幾つかが線で消されているもの。変わったところでは、封筒に入ったままの手紙や、変色して誰が写っているのかも分からない写真まで。

 これらはせんせいの癖だった。読書を中断する際、栞代わりにその辺のものを手当たり次第挟んでしまうのだ。家で筆より薄いものが行方不明になっていたら、十中八九せんせいの無意識の仕業なのである。

「おや、何をしているのかな」

 噂をすれば、という訳ではないだろうが、丁度せんせいが階段を下りてくるところだった。ここで嫌味っぽく返すことで聞き容れてもらえるのなら、とっくにその生活態度は改善が見られている筈だ。私は座ったまま、階段の途中で立ち止まっているせんせいの方に向き直る。

「ちょっと探し物を。――何か?」
「いや、君に頼みごとがあってね」

 頼みごと、の内容に頭を巡らせてみるが、取り立てて思い付く用事も無い。

「珈琲でもお淹れしましょうか」
「なかなか魅力的な提案だ。しかし、君には特別にやって欲しいことがある」
「はて?」
「写真を手に入れて欲しいんだ」
「写真?」
「巫女の写真だよ」
「巫女?」

 段階的に首を傾げるわたし。これまた珍妙な注文もあったものである。しかしせんせいが変なことを言い出すのは、原稿に行き詰った時と決まっていた。それでも一応、理由を問い質してみることとする。

「何故、巫女の写真が必要になるのでしょう」
「霊感――インスピレーションのためさ」

 さも当然だろうといった風に、せんせいは答える。

「今、執筆している作品の登場人物なんだが、上手くイメージが掴めなくてね。参考にしたいんだ」
「ですが、一口に巫女と言われても」
「この際、詳細は君に任せよう。必要なのは具体性ではなく、印象なのだからね」

 んん、とわたしは曖昧に返事をした。床に散らばった栞の中から、新聞の切り抜きを拾い上げる。

「単に写真をお探しなら、瓦版に掲載されていたものでも良いのでは? まだ、物置に取ってある筈ですよ」
「あれは大抵モノクロだろう。天然色の写真が欲しいんだ」
「天然色(カラー)……ですか?」
「そう。色彩は重要な要素だ。小説家の仕事とは、黒々とした鉱石インクに、香り豊かな色合いを与えることに他ならない」

 カラー写真とは、いきなり難易度が跳ね上がった。普通の写真機ならば、知り合いの趣味人に頼めば貸してもらえるだろうが。それ以前に、素直に巫女が被写体となってくれるだろうかしら。下手に話を持ち掛ければ、実力で応戦されかねない。

「頼まれてくれるかな?」

 ここで否と答えても。別にせんせいは怒るまい。しかしこのことを言い訳に、原稿は遅々として進まなくなるだろう。結果、困るのはせんせいばかりではないのだ。少なくとも、各方面との付き合いに頭を悩ませるのはわたしである。

「わかりました。確約はできかねますが」
「いや、ありがとう。助かるよ」

 頷くせんせいに、わたしは溜息をぐっと堪えた。

「せんせい、お昼ご飯はどうなさいますか? 実はこの後、友人と約束があるのですが」
「ああ、そう言っていたね。お相手は酒屋の娘さんだったかな」
「それと、くろーしぇあさんも。青年会のお仕事です」
「“捕物衆”のかい? 御苦労さまだ。時に“姫さん”は……?」
「こと様が出張るような事件ではありません。単なる窃盗で、しかも犯人は既に捕まっているもので」
「話は聞いているよ。上白沢の先生が、盗みを働いたんだって?」
「いいえ。けーねさん宅が盗みに這入られたのです」

 どこからそんな歪んだ情報を仕入れたのだろう。しかし昨日の今日で、噂の拡散は早いものだ。

「まあ、大丈夫さ。昼食くらい自分で用立てよう」
「場合によっては、帰りが遅くなるかもしれません。申し訳ありませんが、その時は夕食もお任せします。お待ちいただく必要はありませんので」
「分かった。遅くなるのはいいが、夜道には気を付けなさい」
「せんせいこそ、戸締りにはお気を付けて」

 夜道に気を付けて、だなんて、皮肉で言っている訳ではないのだろうけど。それきり話は途切れた。私は片方の山に手を伸ばし、一冊を手早くめくり――と、はらはらと舞い落ちる紙片があった。拾い上げてみれば、まさしく私の探し求めていた一枚である。ほっとして、紙片を小物入れに仕舞う。

 ……ふと見れば、まだせんせいは階段の途中からこちらを眺めていた。

「どうかなさいました?」
「いや、珈琲を淹れてはもらえないかと思ってね」
「……。万事承りましたとも、せんせい」

 本の山を片付けるのは後回しにして、わたしは台所へ向かう。何となく、うんと苦い珈琲を淹れてやろうかと思い付いた。

 特に理由は無い。しかし、人生に苦みが不可欠なのだとはせんせいの論だった。苦みこそが、甘さ香ばしさを引き立てる。そして、物語は本来五感全てで味わうべきなのだとも。成程、黒々とした珈琲の色合いは、鉱石インクのそれと少し似ていた。





(人里にて辣腕を振るう(?)“姫さん”以下、捕物衆に所属する少女達の活躍を描くなんちゃってミステリー、の予定です。シリーズ化できたら嬉しい)






















潮風と花の香りが混じり合う、色取り取りの煉瓦が重ねられた街並みへ。聳え立つ塔楼のレプリカより、厳かな鐘の音が降り注ぐ。
点描の如きチューリップの、優しいそよぎに合わせて廻る風車。睦まじく交わる橋と運河とに、声も無く群れる白鳥達。

異国情緒溢れる景観の片隅に、誰よりも調和している友人を認めるのが歯痒い。
自分ばかり場違いのような気がして、帽子を深めに被り直した。せめて足取りを軽くし、屋台で購った軽食を差し出す。

「なぁに蓮子、もうホームシックに罹っちゃったの? だらしないわねぇ」
「いいえ、メリー。ここまで執拗に再現性を追及するのは、日本人ならではじゃないかって考えていたのよ」





『秘封倶楽部、ハウステンボスへ行く(仮題)』






(趣味です。問題は、秘封世紀までハウステンボスが存続しているかどうかですが……)
(しかし、延々とチーズを物色し続ける蓮子さんとか、二人乗り自転車に乗ると言い張ってきかないメリーさんとか、パレスの庭園ではしゃいじゃう二人とか、エッシャー萌えについて真剣に考察する二人とか捨て難い)





















『恋重ロールシャッハ(仮題)』








 







……恋ってどんなモノだと思う? いえ、含蓄に富んだ哲学者の箴言(しんげん)や、詩人の浪漫溢れる文句を期待しているわけじゃなくって。もっとこう、痛いとか冷たいとか、直截的な実感が欲しいの。

誤解しないでね。別に嫌味のつもりじゃないんだから。どうしてこんなことを訊いているのかって言うと――。私が最初に居合わせたのは、幻想郷も初花月。未だ世界は白銀に覆われてあれど、春の萌芽がちらほら、可憐に息衝き始める季節のことよ。本当の発端はずっと昔――林檎を齧ったその時にまで遡るにしろ……、ね。


重い目蓋に唇重ね、開かぬ瞳に茜差す。


 人によって違うのでしょうねぇ。この模様が滑稽な喜劇に見えるか……、それとも、残酷な喜劇に見えるかは。














 魔法の森の入口に、一軒の道具屋が存在する。香霖堂――妖怪の道具に魔法の道具、加えて外の世界の道具まで扱っているという幻想郷でも珍しい店だが、その中途半端な立地と店主の偏屈さとが相俟って、閑古鳥の住処と化してしまっているのが現状だ。
 尤も、どんなに儲からない店にも馴染みの一人や二人はいるものである。夕暮れ迫る古道具屋、その主である森近霖之助は、読みかけの本に栞を挟み、二人の“常連”に冷ややかな視線を送った。

「お茶も出せないってどういうことよ! 緑茶が切れてるってっ、どういうことよー!」
「あー、この店の甲斐性はどこに行ったんだ? 私は紅茶でも一向に構わんが」
「生憎と、紅茶も飲茶も品切れなんだ。君達が本当にお客様だったら、少しは申し訳なく思えるんだがね」

 顰めっ面で地団駄を踏むは、紅白の巫女装束の上から霖之助の古着を羽織った博麗霊夢。妖怪退治のスペシャリストであり、これまでにも並み居る強敵共を片っ端から張り倒してきた実績を持つ少女は、この店の代金を踏み倒すことにかけても一流である。
 その後ろでは、モノクロームの洋服を着こなし、悪びれもせず商品の壺に腰掛けた少女が、ニヤニヤと笑っていた。霧雨魔理沙、盗賊である。……訂正、魔法を使う強盗である。

――全く、この店にはお茶を購う程度の実入りも無いのか?

 魔理沙の表情がそう語っているようにも見えて、ふと霖之助は、無性に腹が立った。ここは茶店でもないのに、どうして自分が責められなければならないんだ? 遠慮を知らない二人の闖入者に、静かな読書の時間を妨げられている今、彼の不機嫌は募る一方である。普段なら軽くあしらってしまう大人の余裕があるのだが、どうも今日は心が落ち着かない。何者かにじっと観察されているような、漠然とした不安感があった。

 因みに実入りは本当に無い。図星である。
 
「あら、今日はお客様として来たんだけど。はるばる地獄なんかに行かされたせいで、冬服が傷んじゃってねぇ。新調してもらえないかしら」
「一から仕立てるとなると、それなりに値が張るよ。君の巫女装束は、単に寒さが凌げればいいって話じゃないしね」
「問題なら無いわ。今回ばかりは支払う当てがあるの」
「そうなのかい? まあ、様を付けるのはこれまでのツケを支払ってからだが」

 店内のカーテンは、殆どが閉め切られていた。月夜には読書の助けとなってくれる雪の照り返しも、昼の間は眩し過ぎる。窓とカーテンの僅かな隙間から漏れた斜光が、とんがり帽子の据わりを弄る魔法使い、その華奢な手元を照らしていた。

「霊夢、ギャンブルは止めといた方がいいぜ。賭博場が破産しちまう」
「失礼千万、歴(れっき)としたお仕事よ! って、それより緑茶はどうなってるの?」
「最近、茶葉の消費が激しくってね。今朝気が付いたら、無くなってしまっていた。慌てて追加の注文をしたところなんだ」
「そりゃあ不気味だな。泥棒にでも這入られてるに違いない」
「いや、単に客が増えているだけだろう。やっとこの店の価値が日の目を見ることになったようだ」

 魔理沙が豆鉄砲で撃ち落とされたような顔をしているのを見て、霖之助は密かに溜飲を下げた。
 しかし、客足が増えていることは本当だったが、その“お客様”が売り上げに貢献しているかといえば素直に頷けない。むしろお茶がいつの間にか消費されてしまう相手という時点で、お世辞にも模範的な買い手ではないといえるだろう。
 そんな見栄を霊夢は看破していたようで、按摩でも始めたら? と皮肉られてしまった。霖之助からしてみれば、多少強引にでも店が繁盛しているとでも思わなければやっていけなかったのだが。金銭の問題ではないものの、見栄くらいなら彼にもある。

「……ところで、魔理沙は一体何をしに来たんだい?」
「ああ、忙しくってしょうがないから、暇を買い付けに来た。どうせ売るほど余ってるんだろう?」
「他所を当たってくれ。油ならまだ備蓄がある」
「油があっても、お茶っ葉がなくちゃあこの冬は乗り切れないわ。この際一服茶でも文句しか言わないから、観念して秘蔵のお茶を引っ張り出してきなさい!」
「無い物は無い。仕方無いさ」
「茶目っけの一つも出ないだなんて……」

三人が不毛な言葉遊びに興じていると、ドアベルが小さく鳴る音と共に、急に冷たい風が店内に吹き込んできた。雪に照り映えて眩しい茜色を逆光として、一人の少女が店内を覗き込んでいる。

「こんにちは。あら、お二人もいらっしゃったんですか」
「よく来たな。今んとこ無愛想の投げ売り中だ」
「来たわね。葉っぱっぽいのが」
「……いらっしゃいませ。どんなご用件ですか?」
「いえ、特にお目当てがある訳ではないのです。恐れ入りますが、冷やかさせて下さいな」

 接客用の笑顔を取り繕った霖之助に、少女――東風谷早苗は申し訳なさそうな表情で応えた。慌てて彼は歓迎の意を表し、お茶の一杯も出せないことを詫びる。
 安易に妥協することは善しとしないが、納得した交渉には潔く応じる。その上、“外”の道具に関する知識も豊富とあって、この風祝は香霖堂の数少ない上客なのである(“こちら側”の知識に疎く、口車に乗せやすい点が好印象であることも否定しないけれど)。外界出身の人間に特有な、想像力の欠如こそ時折鼻に付くが、彼女は彼女なりに幻想郷に馴染もうと努力しているようだった。
 青と白を基調にした風祝の衣装は見るからに寒々しかったが、当の早苗は気にした風もない。両手には、何やら重そうな包みを抱えている。その背後に、もう一名の気配があった。

「冷やかすっていったら、あたいの出番よね!」

 荷物を置こうとする早苗を押しのけるようにして、一回り小柄な少女が姿を現した。透き通る氷の羽根を背負うは、“自称”幻想郷最強の妖精、チルノである。かつて、凍らせた蛙を自慢しに店へ訪れたことがあった。力は多少強いようだが、頭の方は妖精らしい能天気である
意味も無く胸を張ったその姿は、嵐にでも遭遇したかの様にぼろぼろだった。肩から人差し指までを真っ直ぐに伸ばし、暖房器具の温度設定を変えんと腰を上げた霖之助へ突き付ける。

「あんたが香霖堂ね!」
「人違いどころの騒ぎではないな。君がいるとストーブが効かなくて困るから、用件は手短に」
「ここに来れば無償で服を繕ってくれる、って霊夢に聞いたんだけどー」

 見れば、脳内常春の巫女は早苗が持ってきた包みを早くも漁り始めていた。喉まで出かかった嫌味をすんでの所で押し殺し、視線をチルノへと引き剥がす。

「悪いが、無料という訳にはいかないんだ。お金は――持っていないんだろうな。妖精だし」
「無一文に決まってる! 宵越しのセミは死んだわ……」
「それはお気の毒に」
「えー? 何で駄目なのさー?」
 
 腰回りが大きく切り裂かれているためずり落ちそうになるスカートを必死で支えながら、脹れっ面のチルノが抗議する。その姿は流石に憐れみを誘うものの、香霖堂は慈善事業を行っている施設では無い。取り合おうとしない霖之助だったが、そこへ早苗が助け船を出した。

「もしお代が必要でしたら、私に肩代わりさせてもらえませんか?」
「ん? しかし……」
「先程弾幕勝負を挑まれたときに、ついつい熱くなってしまったの。でも、これは一つ貸しね、妖精さん」
「う……、わかったわよ。妖精に二言目はないわ。あと、私の名前はチルノよ」
「チルド? 妖精さんは数ばかり多くって」
「んー、そんな感じ」
「立て替えたいというのであれば、僕は一向に構わないが――」

 これを切っ掛けにチルノが入り浸ったりしないといいが。そう霖之助は危惧していた。夏はともかく、冬の間は厳しいものがある。非暴力主義者の彼にとって、幼稚で無知な妖精ほど度し難い存在は居ない。そもそもこの店主は自分を知的な人物だと思っているし、この店にもそうあってほしかった。金銭云々より、ここに来れば便利が良いなどという既成事実を作ってしまうことが不安である。
 だが、上客の頼みを無下にするのも忍びない。結局、今回は特別だと釘を刺したうえで、霖之助は二人の頼みを承諾した。
店の奥でチルノを彼のお古に着替えさせ、裁縫道具一式と共に水色のワンピースに挑む。弾幕少女達の服の消耗は激しく、魔理沙や霊夢から依頼を受けることもしょっちゅうなので、この手の修繕はお手の物だった。
 その頃四人の少女達は(正確には三人と一匹だが、単位を追究していくとどうしても面倒な事態が持ち上がるのだ。いや、半人半柱として数えるのだっけ?)、ストーブのある一角に集まってお喋りを再開している。

「しかし、よくこいつ相手に熱くなれるな。私なら肝も冷えはしないが」
「魔理沙さんの弾幕とも、結構似ていると思いますよ」
「全然違うじゃん。弾幕はパワーだぜ」
「そんな所が特に……。私に言わせれば、弾幕とは何より先ずコミュニケーションツールに他なりません。己の有り様を伝えると同時に、相手の何たるかを肌で感じることができるのです。――そして、自己顕示に固執し、敵の弾幕を受け止めようとしなければ、勝てる戦いにも勝てなくなる。ええと、後半は八坂様の受け売りですけど」
「一理あるかもしれんが、一々雑魚に構ってたらこっちの身が持たん。纏めて薙ぎ払うのも一つの吉だぜ? 何より爽快だしな」
「早苗、何でお茶は買ってこなかったの? 梅干ししか入ってないじゃない」
「あ、それは――」

 暖房の一番近くに陣取って壺を掲げてみせる霊夢に、早苗がおっとりと返事をしようとする。そこに、慣れない服を着込んで落ち着かなげなチルノが割り込んだ。

「ねぇ、梅干しってさー、思い浮かべるだけで唾が湧いてこない?」
「梅を望んで渇きを止む、ってやつね。これ、ちょっと分けてもらってもいいかしら」
「ええ、元よりそのつもりで立ち寄ったんです。楊枝戸の――うちの信者の方にお裾分けしていただいたものですから。私共だけではとても食べ切れませんし、その、荷物を減らすという意味合いも込めまして」
「あっそう。じゃ、遠慮なく。霖之助さん、お勝手を借りるわね」
「あたいはあんまし好きじゃないんだけど。だってさ、食べたらきゅーってなっちゃうもん。好(す)いて食べる奴の気が知れないわ」
「うん? あんたの分はいらないかな?」
「え、も、貰ってやるわよ! ドンと来ーい!」

 店主の返事は待つことも無く、霊夢は一包みの梅干しを持って店の奥へと消えた。暫く経って、人数分の湯呑を乗せたお盆を持って戻ってくる。作業を続ける霖之助にも、湯気を立てる液体の一杯が手渡された。

「――だから、夏場にお前のことを考えても涼しくならないのはだなー……。お、梅茶か。久し振りに見たぜ」
「この際、お茶と名に負えば何でもいいかなって」

 梅干しを軽く煮込み、湯呑に入れてからお湯を注いだだけの簡単な代物(しろもの)だが、霖之助はその甘酸っぱい香りだけで、喉の渇きが潤されるような心地だった。しかし、埃っぽい店内がやけに瑞々しく感じられるのは、決して梅の効能だけではあるまい。

「そうだな、生姜を混ぜて飲むと体を温めるって聞くが」
「諏訪子様は、以前蜂蜜を混ぜて召し上がっていましたっけ」
「あたいはねぇ……、氷を入れて飲むよ!」

 歓談の話題は梅から向日葵へ、向日葵から紫陽花へ。際限なく弾み続けた。少女同士の会話を聞くともなしに聞きながら、霖之助は黙々と手を動かす。

「――――高齢者の介護が――――」
「―――――――自機たる者―――」
「――次回作で―――――――――」

 偶に、聞き捨てならない単語が飛び交うこともあったが、霖之助は敢えて無視に徹した。君子危うきに近寄らず、である。

 そうこうしている内に、魔理沙が一人談笑の輪を抜け、最後の仕上げに取り掛かった彼へと近づいてきた。聞こえてくる話題は、何故か魚の活け作りについてへと転じている。

「そういや、私達が来た時、一体何を読んでたんだ?」
「納屋の整理をしていたら、一昔前の本がごろごろ出てきたんだ。折角だから売りに出そうと思った訳だが、その前に一通り読んでおこうと思ってね。因みに、買い手はもう決まっているよ」
「そりゃ重畳だな。うん、いつも読んでる本とは毛色が違うような気がしてさ。何の本だ? やっぱり、どこかのお偉いさんが自分のことを棚に上げてたりするのか?」
「『若きウェルテルの悩み』だよ。遂げられぬ恋に焦がれた若者が、悩みに悩みぬいた末に自殺するという、ありふれた題材だ……。しかし、発表された当時は衝撃の問題作だったらしくてね。『ウェルテル効果』なんて言葉が生まれたぐらいだ。『ウェルテルを読まずして、青年恋を知らず』とも――」
「あー、待て待て。言っちゃあ何だが、香霖の口から恋だの愛だの聞くと、……気味が悪いな」

 例の不敵な笑みを張り付け、からかうような口調で魔理沙は言った。ここらで一矢報いようという腹積りだろうが、霖之助にも沽券というものがある。作業の手を休めることなく、彼は切り返しを試みた。

「失敬な。僕にも恋人の一背ぐらいは居たさ」
「――んなっ」
「そら、出来たよ、チルノ。感謝なら早苗さんにしてくれ」

 余程意外だったのだろう、凍り付く魔理沙を尻目に、霖之助は氷精へと服を手渡した。どうやら、これ以上の反撃はないようだ。
 それにしても、この出来栄えはどうだろうか。よくよく注意してみないとどこが破れていた箇所か分からないほどに、修繕の結果は上々だった。時間さえあれば、まだまだ改良の余地があったのだが――いやいや。
 霖之助は眼鏡の位置を調節しながら、浮かび来る無数のインスピレーションを思考の外に追い出した。こだわり始めると止まらなくなってしまうのは、彼のあまり褒められたものではない癖である。

「っわ、すごい! ありがとうねー! 早苗に……、香霖だっけ? ……いつもは大ちゃんがやってくれるんだけど、この頃忙しいみたいなの」
「へえ、大妖精……? 何かお仕事をなさっているんですか?」
「ううん。うんと、忙しそうな顔をしててね。怨霊がどうのこうのって」
「チルノ、ここで着替えようとしないでくれ」

 大妖精、というのは、氷精の友人らしい。文字通り巨大な妖精なのだろうか。普段からこの天真爛漫な少女の世話を焼いているとすれば、さぞかし苦労しているに違いない。
 と、一旦店の奥に向かうチルノに、霊夢が、羽織っていた古着を引っかけた。梅茶を飲んで体が温まってきたのだろうか、ほっと息を吐いて背伸びをする。

「私の服も忘れないでよね。着回しにも限界があるの」
「分かっているよ。今日明日とはいかないが……。そうそう、改めて丈を測らせてもらおうか。まだまだ成長期だろうしね」
「んん、分かったわ」
「お前の場合、測るまでもない部分もあるんじゃないか?」
「ほっとけ。むしろ魔理沙は自分の心配をしなさいよ」
「え……、霖之助さんが、測るんですか……?」

 茶々を入れる魔理沙の向こうで、何故か早苗が半眼になっている。ゴホンと咳払いをした拍子に、霖之助には思い出すことがあった。

「そうだ、危うく忘れるところだった。霊夢に検分して欲しい物があるんだが」
「何かしら? 生モノなら遠慮しとく」
「冬場だからまだ鮮度は落ちていないと思うよ。まあ、ちょっと待っていてくれ」

 どたどたと駆けてくるチルノとすれ違い、勝手口から外へ出ると、霖之助は店の裏手にある納屋へ向かった。冷たい風に身を竦めながら、錆びついた古い錠前を外し、薄闇に足を踏み入れる。
 差し込む月光――いつの間に日が沈んでいたのだろうか――に、ごちゃごちゃと積み上がった品々の輪郭が浮かび上がっていた。この納屋には、手直しをしないと商品になりそうにない道具や、最初から売り物にするつもりにない物等が仕舞われている。年々嵩を増してゆくそれらは、既に容積の大部分を埋め尽くし、いよいよ整理すらままならなくなるのも時間の問題だった。
 記憶を頼りに探すと、目的の物はすぐに見つかった。赤ん坊大のそれを抱え振り返ろうとした彼の背中に、声が掛かる。

「霖之助さん」

 佇んでいるシルエットは、見慣れたはずの巫女のものだった。月明かりの逆光で、その表情は窺えない。先程までとは打って変わった、神秘的とすら形容できる無機質な立ち姿。言い知れぬ緊張感に、霖之助の動悸が速くなる。

「なんだ、驚かせないでくれ」
「良かったわね、驚かせたのが私で……。そういや、さっき恋人がどうとか言ってたけど――」

 巫女は音も無く間合いを詰めてきた。無意識のうちに、彼は後ずさりをしてしまう。

「――――」

 とうとう背中が古箪笥に突き当たり、そのまま霊夢の顔が大写しに迫った。……呆れたような表情である。

「――まさか、『本が恋人だった』なんてオチじゃないでしょうね」
「……ふん。君の勘には敵いそうにもないな」
「んー、不用心ねぇ」

 霊夢は深々と溜息を吐(つ)き、そうひっそりと呟いた。その視線は納屋の入口へと向けられている。正体不明の圧力は霧散し、霖之助の心拍数が平常値を取り戻すとともに、緊張感の余韻も消えていった。

「いい加減なことばっかり並べてると、後でどう伸(の)されても知らないわよ」
「いや、嘘をついた訳ではない。実際にそう揶揄されていたんだよ。その昔は、よく寝食を忘れて読書に耽ったものさ」
「そういう問題かしら。ああ、そういうお話なのか」
「まだ霧雨の親父さんのお世話になってもいない頃の話だよ。結局両想いにはならなかったが……。しかし、どうしてここにまで来たんだい? お茶っ葉なら、本当に無いぞ」
「ん」

 納屋の扉に手を掛け、少女は淡々と振り返った。二つの月が、その双眸に浮かんでいる。

「なんとなく、よ」







 店内の柔らかい灯火の下、四対の好奇の目に晒されたのは、新聞紙に包まれた人形らしき物体だった。天狗が書いた記事の上から、怪しげな梵字の刻まれた、封印の帯が巻かれている。

「こりゃあ憑いてるわね。生モノはやぁだって言ったのに」

 面倒臭そうな顔をしながら、霊夢が大雑把に包みを剥がしていく。おかっぱ童の頭部が覗いた時、早苗が息を呑んで身構えた。

「何だか、とても嫌な感じがしますね……。憑き物の類は専門外ですが」
「あたいも、それ嫌いだよ」

 チルノまでもが険しい目つきをするなか、魔理沙だけが何のことか分かっていないようだった。首から上だけを露出させた人形をひょいと抱えあげ、正面から観察している。

「不細工なのは認めるが、この程度ならアリスの奴が仰山操ってそうだな」
「その人形は曰くつきでね」

 普段より幾らか神妙な顔つきで、霖之助が解説を始めた。

「もう知っているかもしれないが、――つい先日、人里の外れで一家が妖怪に襲われた。その妖怪は、知らせを受けて駆け付けてきた里の調伏衆に追い払われたが、父と母、一人娘の全員が助からなかったそうだ。そしてその幼い娘が、人形を抱いて事切れていたという訳さ」
「うひょ、えんがちょだぜ」

魔理沙が放り出した人形をあっさりと掴みながら、霊夢が問う。

「そんな由緒正しくない物を、なんで霖之助さんが?」
「厄介払いさ。何でも、夜中に奇声を上げたり、置いたはずの場所から抜け出したりしていたらしい」

 外の人間ならともかく、里の人々が妖怪に害されることは近年稀である。現場が里の警戒線内であったこともあって、巷の不安は大きいだろう。その上、被害者の遺品が不気味な挙措を見せるとすれば、処分するか、それでなくとも遠ざけておきたいと考えるのは自然なこと。

「その事件については、私も聞き及んでいました。お悔やみを申し上げることしかできませんでしたが……」
「そんなの捨てちゃえばいいんじゃん。煮るなり焼くなりしてさ!」

 眉を曇らす早苗とは対照的に、チルノはあっけらかんとした態度を取り戻していた。妖精の死生観は、人間のそれと大いに異なるのだ。

「一応故人の数少ない形見だからね。霧雨の……縁ある人物に頼まれて、断ることができなかった。それに、たとえ引き取り手が見つからなくても、人形の類を迂闊に処分するのは危険なんだ。呪(まじな)い憑きとなれば尚更、僕の手には負えない」

 直接持ち込むには、どちらの神社もちと敷居が高い。里人の目線からすれば、どこまで信用できるかも微妙である。こういう場合、身近にお寺の一つでもあれば便利なのだろうが。

「ふむ、呪いの人形か。やっぱりあいつが溜め込んでそうだ。しかし、私が何も感じない程度の呪いなら、里の巫者で対応できそうなもんだが……、ああ」
 
 正体によっちゃ公にゃできないな、と俯いて帽子を下げた魔理沙に代わり、早苗が言葉を続ける。

「それで霊夢さんに頼もうと……。霊夢さんなら、生半可な呪術は撥ね退けてしまいそうですし、いざとなったら供養してしまえばいい。ですが――」
「私はここんとこ忙しいの。他を当たってくれる?」

 素気無い霊夢の言葉に、チルノと魔理沙が驚きの声を上げた。

「昼寝するのに忙しいって!?」
「数える程賽銭は入ってないだろう!?」
「一体私を何だと思ってるんだ。妖怪退治よ妖怪退治。何でも、里の人間が妖怪にやられたらしくて、下手人の始末を付けるよう正式に依頼が来たの」
「ふーん、連続殺人事件ってやつね」
「チルドさん。同じ事件のことですよ。念のため」
「それが代金の当てって訳か。しかし、始末とは物騒だな」
「穏便に済ませてやる義理も無いしー。さあ、もうとっぷりと日は落ちた。そろそろ獲物が目覚めてくる時間じゃないかな。あんたらも、夜にふらふら出歩くんじゃないよ。とばっちりと食らいたくなければね!」
「すっかりやる気だな。巻き込まれる連中も可哀想に」
「最強のあたいに氷漬けにされる連中も可哀想に!」

 鼻息荒く腕まくりをする霊夢(と何故かチルノ)を見て、霖之助は考え込んだ。ツケの一部を多少帳消しにすると言えば、霊夢は飛び付いてくるだろうと楽観していたからである。こうなると、次善の手段に頼るしかあるまい。

「魔理沙、件の人形使いに話を通してくれないかな」
「ああん?」

 恋色の魔法使いに並び、魔法の森に住まう七色の人形師、アリス・マーガトロイド。彼女もまた香霖堂の顧客ではあるが、求めるのは魔法の品ばかりで、外の世界の道具には殆ど関心を示さない。世間話も余り好まない様子で、霖之助との会話と言えば、商品に関する事務的なものに限られている。それでも魔理沙の世間話によく登場するため、ある程度の人物像は掴んでいた。
 元は別世界の住人で、魔理沙とは旧知の(しかも多分犬猿の)仲。幻想郷に並ぶ者無き人形の大家であり、マジックアイテムの蒐集家。孤独を好むが、一応社交にもそつが無い。曰く『本気を出したら中々のもんだぜ。ま、私には逆立ちしても勝てっこないがな』。
 彼女ならば、この曰く付きにも上手く対処してくれるだろうと霖之助は踏んだのだが、思いもよらない人物が名乗りを上げた。またもや早苗である。

「このお人形、私に任せていただけないでしょうか」
「貴方がですか? 勿論構いませんが……。十分注意して下さい。帯の封印で、どれだけ持ち堪えられるのか分かりませんので」
「おいおい、本当に大丈夫なのか?」
「はい。一つ考えがあるんです。――あ、ええと、長々と居座ってしまい申し訳ありません。私はそろそろお暇することにしますね」

 霊夢から人形を受け取り、元通りに包み直すと、律儀な風祝は霖之助に向けて会釈し、魔理沙達と挨拶を交わした。

「その人形、力は大したことないけど、寝首を掻かれないようにねー」
「神奈子に伝えといてくれ。家の分社に妖精共が居着きやがった」
「達者でねー。次は負けやしないから!」
「またのご来店をお待ちしています」

 またのご来店をおまちしています、……なんと甘美な響きだろうか。自虐的な感慨を抱きつつ早苗を見送った霖之助だったが、彼女の持ち込んだ荷物がそのままになっていることに気付き、慌てて夜景に目を凝らした。少女の姿は、早くも空の墨色に溶けている。

「おん? あいつ、人形だけ持っていったんだな……」
「あの子って、いつも一杯々々よね。も少し肩の力を抜けばいいのに」

 そう言えば以前にも、代金を支払った挙句、商品を忘れていったりするような一面を見せていた。しっかり者なのかうっかり者なのか、本人が至って真面目なだけ、空回りしやすい性分らしい。

「しょうがないな。ちょっくら届けに行ってやるとするか」
「待て。あんたはネコババする気満々でしょ!」
「ふああぁぁあ〜、ねむみ。あたいも帰ろうっと〜」

 幻想郷に馴染みすぎて、彼女達のようにならなければいいがと、霖之助は心中苦笑いした。







「それじゃあな、香霖。覚えてろよ」

 少女達の喧騒が去った店内で、霖之助は一人佇んでいた。若い世代から受ける刺激は貴重だが、やはりこうした静かな時間の方が、彼の性には合っている。読み掛けの本に視線を落とした彼の口元は、少しばかりの自嘲に歪んでいた。
 
「本が恋人、か」

 魔理沙達にとっては、生まれる遥か以前の話。若かりし頃の彼は、一時期まさしく本の虫と評すべきだった。無理の効く体質に任せて本を読み漁る、活字の海を泳ぐ毎日。先人の知恵を学ぶことこそが、世界を知る何よりの近道だと思い込んでいた。
 無論、典籍を極めた頂(いただき)で得られる叡智もあろうが、最終的に彼は実物を目の当たりにし、手に取ることで得られる経験を選んだ。今でこそ、道具屋こそ自分の天職だという手応えも感じている。
 あの頃に得た知識が、現在の霖之助を支える滋養になっているのは間違いないだろう。しかし、書物から学んだ知恵を、あたかも自分が思いついたことのように語る当時の自分を思い出すたび、彼は自分の脳みそを洗濯し、天日で干したい衝動に駆られるのであった。
 彼女らもいつか、そんな経験をすることになるのだろうか。それとも、既に何度も試練を潜り抜けてきたのだろうか。或いは……。
 
「まあ、最後にはどうとでもなる。まだまだ、老い先を心配する年頃でも無いだろうしね」

 椅子に深々と腰掛け、彼は栞が挟まっているページを開いた。丁度、主人公とその恋敵が口角泡を飛ばし合っている場面で、ストーブの燃料が切れかかっているのか、小さな氷精の残り香か、霖之助は小さく身震いをした。







 風を切るのではなく、身に纏って飛ぶ緑髪の少女。その腕に抱かれた人形を地上から見詰める、一対の黒い瞳があった。
 自身の体躯ほどもある自慢の尻尾が汚れるのにも構わず、少女の跡をつけ一向(ひとむき)に疾駆する四つ足の獣。偶然手に入れた新しい力は、名も無き一介の妖獣だった彼女――野干を得意の絶頂に押し上げたが、同時に慢心と視野狭窄、そして潤うことのない渇きをその身に齎(もたら)していた。
 あの人形を手に入れることができれば、彼女の妖力はさらに増すだろう。一刻も早くと滾る渇望を、獣の薄弱な理性は危ういところで押え込んでいた。既に野干は、二度の失敗を経験している。
 一度目は、人形を持つ幼子を襲った時。両親の予想外の抵抗に遭い、人間共の増援を許してしまった。命辛々逃げ出した彼女は、あと一歩で手に入れられたはずの人形が回収されるところを指を咥えて見ていることしかできなかった。
 人形が里から運び出され、とある古道具屋に納められたことで、彼に二度目の好機が巡ってきた。障害は無いも同然と思えたものの、念のために日が沈むのを待つ。その慎重さが裏目に出て、野干はまたもや挫折を喫することになる。
 ……暗闇に伏せた妖獣を、巫女の視線が射竦めた時、野干は自らの破滅を覚悟した。これまでに経験したことのない、圧倒的な眼力。自分の存在がどんなに矮小であるか、久々に思い知らされた瞬間だった。
 しかし、巫女は彼女を見逃した。運は自分に味方していると、なけなしの理性は思い込んでいる。
 緑髪の少女は、一直線に妖怪の山を目指しているようだった。元の慎重だった妖獣ならば、決して近付こうとはしない領域だ。天狗や河童達が守護する山へ侵入することは難しいだろうが、その疾走は止まらない。

 妄執に支配され、手段と目的を履き違えた野干の末路を、博麗の巫女は見抜いていたのか。
 それとも、ただただなんとなく、勘に任せて突き放しただけなのか。面倒臭そうだから放っておいたのか。

 その答えを知ることができる者は、遥か地下深くにただ一人。そして地上には……。















 同日、人間の里。その中心部にある広場の夕景に、永江衣玖は降り立っていた。
 《美しき緋の衣》の二つ名に恥じぬその艶姿は、まさしく沈魚落雁と称するに相応しい。長い羽衣を靡かせ滑るように泳げば、当然人々の注目を集めることになる。

「これはこれは永江殿。今日も精が出ますなぁ」
「ママ見てー。金魚さんがいるよー」
「しっ、指差しちゃいけません!」
「あの、私、ずっとファンだったんです! サインしていただけませんか!?」
「す、すすすみません。しゃ、写真を一枚……」

 ――違う。この衆目の集め方は、何か違う。

 竜の言葉を地上の者達に伝える使命を持つ衣玖にとって、目立つことは決して吝かではない。ただしそこには、彼女とその主人に対する畏怖があって然るべきなのだ。
 竜宮の使いは大いなる意志の宏観前兆。風の如く何者にも囚われず、空の如く何者も捕えぬ忠告者。必要以上に親しまれることも、また親しむことも得策ではない。

 来(きた)る大地震について伝えるために、初めて彼女が姿を現した時、里の人々の間には、竜の言葉を受け入れるための厳粛な態度があった。今やその威厳は地に墜ち、金魚と呼ばれ署名をねだられ、公衆の面前でポーズを取らされる始末。
 その原因の一つに、衣玖の警告に反して結局地震が起こらなかったことが挙げられる。皆にとっては喜ばしい事態だろうが、自信満々で各地を回った彼女は、多少生温い視線に晒されることとなった。また、里の人間が日頃から異類異形と接していることもあるだろう。かの大妖怪、九尾の仙狐が真昼間から油揚げを買い占めている場面に遭遇した時には、驚きを通り越して呆れてしまった(狐は頬が緩みきっていた)。

 しかし、何よりの原因は、地震の件以来彼女が頻繁に、ここ最近は毎日のように人里を訪れていることだろう。とどのつまり、慣れの問題である。

「ふぅ……。何故私がこんなことを……」

 目立つとはいうものの、彼女の《空気を読む程度の能力》を駆使すれば、風景に溶け込み、誰にも存在を気取られないようにすることも可能だったが、衣玖には敢えてそうしないだけの理由があった。例えば、とある人物にプレッシャーを掛け続けることだとか。

「あら、衣玖ちゃんじゃないの。寒い中ご苦労様です」

外見すらりと、内心ぐったりで目抜き通りを行く衣玖に、花籠を抱えた少女が声を掛ける。

人里に可憐な一輪の花、可愛いあの子は看板娘。引く手数多(あまた)に星の数、放った肘鉄同じ数。かつて風見の大妖すら『ちゃん』付けにし、里中の人々を恐怖のどん底に叩き落とした逸話を持つ彼女の名は――――

「花屋の娘、花屋の娘でございます!」
「名前じゃないじゃないですか」
「およよ、衣玖ちゃんったら厳しいねぇ。それよりどうでしょう? 四季折々の花模様!」

 ぐっと突き出された籠の中には、この季節にどうやって仕入れているのか、春夏秋冬の草花が並んでいる。

「うちで扱っている花々は、どれも妖精さんのお墨付きなの。店まで来れば、もっと色々ご覧に入れるけど?」
「申し訳ありませんが、今のところ、取り立てて必要になるとは思えませんので」
「道理だね。どんな花束を拵えたところで、衣玖ちゃんの前では藁束同然。残念なことに、カスミソウばかりは年中品薄で」
「私にとっても残念ですが、また別の機会に――」
「まま、慌てないで下さいよぅ」

 さりげなく籠を押し戻し、会話を切り上げようとした衣玖に対して、花屋の娘は馴れ馴れしい態度から一転、意味深な笑みで科(しな)を作った。

「百合も椿も松葉牡丹も、貴方の目には映らない。焦れた目蓋に映るのは、ただ一輪の桃の花――違いますか?」
「……総領娘様の行方をご存知で?」
「商品の仕入れ先は企業秘密。しかし、竜宮の使い様がたってのお望みとあらば、その一ひらをお持ちいたしましょう。いえ、お代を頂く訳にはまいりません。今後とも我が店を御贔屓にしてくだされば、それで」
「……。そうすることにいたしましょう。貴方ほど頼り甲斐のある“花”屋は、そうそう居ないでしょうからねぇ」

 やや皮肉っぽい態度になってしまった衣玖へ、毎度あり、と少女は屈託ない笑みを向けた。







 衣玖が度々人里をおとなうようになったのは、何を隠そう、総領娘様こと天界随一の問題児、比那名居天子の臨時お目付け役としてであった。

 天界での退屈な暮らしに飽き飽きした彼女は、刺激を求めて地上を望んだ。秘蔵の剣を持ち出して緋色の霧を集め、腕に覚えのある人妖達を呼び寄せようと画策した。
 集まった気質は緋色の雲となり、大地震の発生が免れない濃度にまで達したが、博麗の巫女を始めとする実力者達に敗れた天子が(これまた勝手に)要石を挿すことにより、一先ずの安心が約束された。その一件を通して、衣玖と天子は浅からぬ因縁を結ぶことになる。
 その後も彼女はしばしば下界に降り立ち、人妖達との交流を通して、その我侭っぷりを遺憾なく発揮している。他の天人達はしばらくの間天子の行動を傍観していが、流石に目に余ったのか、彼女の動きを抑えようとする意見が持ち上がった。首輪の鈴として選ばれたのが、他ならぬ永江衣玖である。

「あくまでも一時的な措置、なのですが」

 格上の天人達は低俗な地上にまで出向くことを厭い、そもそも雑事を煩わしいと切り捨てる。その他大勢の天女では、緋想の剣を持った天子に太刀打ちできない。
そこで天子と顔見知りであり、ある程度の実力を持ち、何といっても空気の読める衣玖に白羽の矢が立ったのだ(正確には、場の空気に居た堪れなくなった彼女が自ら志願するよう仕向けられたのだが)。『総領娘様のせいで仕事が減ってしまった』なんて愚痴ったのがまずかったか。
 最初は同伴を渋っていた天子だが、断れば天界に軟禁されることになると脅されては首を縦に振らざるを得ない。それでも隙を見ては逃げ出す天子を、しかし衣玖は半ば放置することにしていた。無理やり押し付けられたお役目に熱心になれるほど、彼女もお人好しではない。

しかし、ここ最近は天子が徹底的に衣玖を避け、衣玖は天子を追って東奔西走するようになっている。その理由を羽衣の下に隠し持ち、竜宮の使いはとある建物の前に立つ。鄙びた和風の通りに、頭一つ垢抜けた趣のある一軒の店。
花屋の娘に耳打ちされた場所は、里でも屈指の高級料亭だった。妖怪の賢者も偶(たま)に利用することがあるという落ち着いた佇まいの店内を、衣玖はするすると進んでゆく。

「こんな処にいらっしゃったのですか、総領娘様」
「げげ、永江のじゃない。……私に何か用?」

 階段を昇り切り辿り着いたは、一人きりで占領するにいささか広すぎる和室。西向きの障子は茜に染まり、卓上の空になった器一式に、格子柄の影を投げかけていた。空か海かと見紛う鮮やかな青が、細い背中から畳へかけて、さらさらと流れている。
 衣玖の姿を認め、一瞬ばつが悪そうな顔をした天子だったが、すぐに不敵な表情を取り戻し、手に持っていた盃を唇に運んだ。 

「随分と召し上がったんですね。これで一人前なのですか?」
「一皿一皿の量は少ないのよ。貴方ってこういうとこ来たことないの? 地上の御膳もなかなかイケるわよ。――って、立ちっぱなしもなんだし、衣玖も一杯どう?」
「うーん……。わかりました。頂きましょう」

 天子の対面に正座すると、衣玖は新たに酒が注がれた盃を受け取る。琥珀色がかった液体からは、甘酸っぱい香りが立ち上っていた。

「梅酒ですか? どちらかと言えば、健康酒の印象が強いですけど」
「アルコールにも梅にも毒消しの作用がある。衣玖の口には合うかしら」

 暗に河豚(ふぐ)と揶揄されても、竜宮の使いは顔色一つ変えない。

「成程、用向きに心当たりはあるようですねぇ。しかし、梅の果実にも毒がある」
「“梅の核(さね)は噛割らぬもの、天神憎み給ふ”だったっけ。お腹を壊すくらいなら種まで食べなきゃいいのに。地上の人間はみみっちいわね」
「ならば何故、そのみみっちい地上にいつまでもへばりついているのですか。皆様、総領娘様のお帰りをお待ちですよ。最近は、天界も随分と静かになって寂しいとかで」

 泰然とした様子の衣玖から目を逸らすと、天子は残りの酒を一息に呷った。

「それはそれは楽しみだわ。帰ったら帰ったでお説教のフルコースなんて」
「少しずつでも消化しなければ、際限無く溜まっていく一方では?」
「ジジイ共の差し金か。竜宮の使い程度じゃ、前菜にもなりはしないよ」
「そう言うと思ってましたよ。では、主菜をお目に掛けましょう」

 衣玖は羽衣の下をまさぐると、数枚の書類を取り出した(ぱっつんぱっつんの羽衣にどうやって隠し持っていたかといえば、秘密である)。見開きの台紙の片側には、スーツを着こなした青年の写真が金箔に縁取られ張り付けられている。
 所謂“お見合い写真”を前にして、天子の表情が引き攣った。

「あーっもう! 何でこんなモノまで持ってくるかなぁー!」
「こちらは、天人歴千八十九年、趣味はゴルフとバス釣り、得意料理は桃炒め、だそうです」
「意味が分からないわ! 桃炒めって何よ! そもそも何でスーツなの!?」
「ツッコミ待ちかと。次は……、通称髭天人。髭の長さは天界一、ギネス記録を日々更新中です」
「髭しか映ってないじゃないの」
「その永遠のライバル、禿天人。またの名を天界の人工太陽。帽子を被っている限りは普通のお爺さんですが、脱ぐと辺り一帯を焼き尽くします」
「いったい私にどう反応しろと! まず年寄りはお呼びでない」
「心配いりません。同年代の方も取り揃えられているみたいですよ。この方は直筆のメッセージ付きです。曰く、『絶壁愛してる!』」
「ロッククライミングでもしてなさい。って、そいつ女の子じゃないの」
「子を生すことが目的ではありませんから」

 お迎えに来る死神を返り討ちに処し続けることで長い時を生きる天人達にとって、家とは儀礼的な意味以上のものを持ち得ない。生存競争のために団結する必要も無ければ、子孫を残す意義も薄い。
 
「冗談じゃないわ! なんで私が結婚なんか――」
「身を固めれば、少しは落ち着きも出るのでは?」

勿論、このお見合い話の裏には御偉方の思惑がある。天子の勝手を抑制しようとする計画の、第二段階。降って湧いたような縁談に面食らった彼女は天界から逃げ出し、“ジジイ共”の手先と化した衣玖から距離を置くようになった。
 天子は、手近な台紙を掴み、くしゃくしゃに握り潰した。その手が微かに震えているのは、怒りのためか、それとも別の感情からか。

「お父様は、何と仰っているの?」
「天子は、自分のことは自分で決められる娘だろうと。皮肉なものですね」

 比那名居は、名居守の部下としての功績を認められて天人になった一族である。幻想郷の要石を取り扱えるのは彼らだけであり、それ相応の地位を得てはいるものの、修行を経た訳でもなく、天人としての格を備えていないため、生粋の天人からは“不良天人”と見下されている節もある。周囲からお転婆娘を庇うのにも限界があった。
 
「私は……、戻る気は無いわよ」
「左様でございますか。では、ご自由に。追い掛けやしませんよ、今日のところは」

 握り締めていた資料を放り捨てると、天子は静かに部屋を出て行った。衣玖は、結局口をつけることの無かった盃を置くと、散らばった台紙を拾い集め始める。

 この事態は天子が自ら招いたことであり、衣玖には同情するつもりなどさらさら無い。元来彼女は、他者への興味が乏しい性格であった。
 竜宮の使いにはその役割上、地上の者達に対して公平であることが求められる。特別な憐憫や嫌悪の情があってはならないし、必要以上の主張や干渉も不要。その点、衣玖は模範的な使いであった。

 それでも、斜陽に照らされながら、徐(おもむろ)に立ち上がった彼女の瞳には、決然とした静けさが宿っている。

「私が空気を読むのは、決して、日和見に徹するためではありません」

 天子が神社に挿した要石は、単に地震の発生を抑え込んでいるだけであって、大地の歪みそのものを解消した訳ではない。裏を返せば、要石が引き抜かれた時点で溜まりに溜まった歪みは一息に解放され、幻想郷は未曾有の大震災に襲われるだろう。差し当たっての平穏と引き換えに、避けられない悲劇が約束されたのだ。

 そう、地震は起こるべくして起こる。

 婚姻の絆を要石とすれば、天子を天界に繋ぎ止めておくことも可能かもしれない。だが、その状態が無理に維持されているのだとすれば、歪みは確実に蓄積し続け、いずれ取り返しのつかない破綻を迎える。衣玖には、“ジジイ共”が天子と同じ愚を犯そうとしているようにしか見えなかった。

 それは、まだ避けられる余地のある人災である。

「――ならば、多少の力添えは構わないでしょう、竜神様」

 その強引な帰結が誰に影響されたものか考えるにつけ、衣玖は苦笑を禁じ得なかった。
 自ら持ち込んだ資料を摘む、その指先から短く紫電が走り、瞬く間に炎が上がる。燃え尽きた見合い写真の灰は気流にまかれ、白魚のような手のひらの内へ収まってゆく。

 のんびりおっとりを常とする衣玖だったが、忠告が無視されるとあらば容赦はしない。風の如く吹き荒び、空の如く鉄槌を下すのみ。
 台風の気質を持つ少女は、余韻一つ残さずその場を立ち去った。





 が、料亭の受付で捕まった。

「お会計はこちらとなっております」
「……………………………………………………………………………………ふふふっ」
「ひいぃ!」

 衣玖は再び路上の人となる。物理的には身が軽くなったが、その足取りはちょっぴり重かった。















「うう、私としたことが、恥ずかしい……」

 一旦神社に戻り人形を安置した早苗は、二柱に遅くなった旨を詫び、諸々の雑事をこなしたのち、急いで香霖堂へと向かっていた。余り遅くに尋ねるのは失礼かとも考えたが、荷物の中には早苗の私物も含まれている。霊夢や霖之助ならともかく、魔理沙の手に掛かっていやしないだろうかと気が気でなかった。彼女の手癖の悪さは有名で、守矢の神社も幾度となく被害に遭いかけている。

 早めの夕食は招かれた里の有力者の家で頂戴していた(信仰に関する簡単な相談に乗っただけで手厚いもてなしを受け、お土産まで貰うのは気が引けたものの、神奈子曰くもう一押しらしい。流石に器が違う、と感心の現人神)。風祝の正装は夜気を孕んで寒々しかったが、実際は秘術によって風の循環が早苗を取り巻き、外目ほどには寒くない。

 やがて、点のように見えていた古道具屋の細部がはっきりしてくると、その戸口に金髪の少女が立っていることに気付く。遠目にも見間違えようが無い。魔理沙は飛来する早苗に気付かないまま、店内へと忍んでいった。
 店の側に降り立った早苗は、窓から中の様子を覗き見る。雪の柔らかさに画一された外とは対照的な、雑然とした商品の輪郭は、月の光に照らし出されて鈍い。店主は既に寝入ってしまっているのだろうか。……魔法使いの姿も見当たらない。

「…………」

 何故か声を掛けることが躊躇われ、早苗は音を立てないように戸を引き開ける。幸い、忘れ物はすぐ目に付く場所に置かれていた。抜き足差し足で荷物を確かめ、やっと胸を撫で下ろす。その時、店の奥から何かが落下したような音が響いた。
 束の間硬直していた早苗は、荷物のことも忘れて一目散に逃げ出す。そんな行動をとった理由を落ち着いて分析できるようになるまで、暫しの時間が必要だった。

「魔理沙さんは、盗みに入っていたんですよね……」

 夜の空を飛びながら、早苗は赤い顔で呟く。その解釈に不自然なところは無い。ある時は正面から力尽くで、またある時には裏口からこっそりと。たとえ魔理沙が香霖堂にその盗癖を向けたところで、何の疚しいことがあろうか(いや、犯罪だが)。
 むしろ疚しいのは自分の方である。夜分のお忍びを一足飛びに変な方向へ結びつけてしまった己のはしたなさに、早苗はますます頬を熱くした。

 幼くしてその才を見出され、物心ついた頃には修行に明け暮れていた彼女に、一子相伝の秘術を受け継ぐ者としての責務は重くのしかかった。後継ぎの問題もその一つである。“外”では元より恋愛結婚など選択肢の内には無く、早苗自身も当然と受け止めていたものの、幻想郷では少々勝手が違うようだ。
 
「神奈子様は、私の好きにしなさいと仰っていましたが――」

重責によって生来の真面目さは鍛え上げられ、また貞淑さも磨き上げられることになる。ませた女の子同士の秘密の会話、情報化社会における知識の氾濫を以てしても揺るがせられなかった早苗の貞操観念は、その年頃に似合わぬ潔癖を彼女に自覚させた。男女七歳にして同衾せず。男は狼気を付けるべし。お付き合いは交換日記から始めましょう。

 一言でいえば、初心(うぶ)なのである。無論、人並に知識や興味はあるが、実体験となると心許無い。

 そして、早苗がただ一人神奈子らと共に幻想郷にやってきた以上、その身の振り方一つで守矢神社の運命が左右されてもおかしくはないのだ。神奈子様や諏訪子様は何も口に出さないが、内心、浮いた話と無縁の自分を心配してはいないだろうか? 先日の、山の妖怪達を招いての宴会の席でも、誰か気になる人は居ないのかとさりげなく聞かれたところである。
 ここは早苗から積極的に動くべきなのかもしれない。里では若い男性と知り合う機会も少なくないが、何故か皆一様に早苗と距離を置きたがっているように見える。風祝という肩書がそうさせているのか、単に早苗に魅力が乏しいだけなのか。
 “選ばれた”人間としての慢心は、博麗霊夢、霧雨魔理沙の両名によって微塵に砕かれ、早苗は自分が決して特別な存在ではないと思い知らされることになった。絶対の信を置いていた秘術が幻想郷においてありふれたものであることを認めるのは身を切るように辛かったが、普通の人間として社会に受け入れられ、また実力を存分に発揮して競い合える相手が居るということは、早苗にこれまでにない充実感をもたらした。潮風の吹かぬこの狭き井戸に、風祝は無限の大海を見出したのだ。

 だが早苗の前には、より深刻な問題が立ちはだかることになった。日々の生活である。

電気が無ければガスも無い。コンビニもケータイもインターネットも無い。野菜は畑に魚は川に、肉が欲しけりゃ狩るしかない。カップラーメンの最後の一杯は、きっと涙の塩味だった。
 霊夢や魔理沙達の助けもあって、今では衣食住の安定を確立し、幻想郷ならではの風習に目を向ける余裕も出来た。外の世界では忘れ去られた昔ながらの習俗や、妖怪と人間との長い争いの中で培われた文化は興味深かったが、無意識に目を逸らしていた部分もある。この閉ざされた楽園では、男女の営みにもまた、彼女の常識の及ばない部分があることだろう。

 つらつらと状況を整理するうちに、顔の火照りも収まってきた。さて、すぐさま取って返すのか、日を改めて態勢を立て直すのか。そういえば流星の別名は夜這星でしたよね。
 
「いやいやいや! 違うんですってば。もー!」
「あやや、どうして曲芸飛行なんかしてるんです?」

 はっと振り返った早苗の目に飛び込んできたのは、眩しいカメラのフラッシュだった。思わず目を庇った手の向こうで、夜の闇と同じ色の翼が翻る。一羽の鴉を肩に侍らせ、烏天狗が笑っていた。

「毎度お馴染み射命丸です。『文々。新聞』のご愛読、ありがとうございます」
「はい。うちでは、八坂様が流し読みなさっている位ですが……。そうそう、窓ふきに火種に包み紙にと、活用させていただいております」
「記事を読んで下さいよ〜。嘘は書いていませんから」
「わざわざ断りを入れることなんですか?」
「ちゃんと注意書きも入れているはずです。『この記事には本当のことが書いてあります』ってね」
「顔写真も入れてみたらどうでしょう。『生産者の顔が見える新聞』と銘打って。画期的ですね」
「ふむ、ちょっと面白そう……。考慮してみましょう」
「そうですか。では、私はこれにて」

 そう言って飛び去りかけた早苗の前に、記者は素早く回り込んだ。

「まあそう言わずに。一体何でふらふら飛んでたんですか? 白状して下さい。毒キノコを盛られたんですね?」
「うーん……」

 わくわくした顔の文を前にして、早苗は考え込んだ。同じ山の住人であるため蔑ろにはできないが、正直、この新聞記者とは深く関り合いになりたくない。面の皮こそ礼儀正しいが、内心では取材対象を虚仮にしているのが見え見えである。
その上、お世辞にも報道に対する態度が誠実とは言えない。記事は偽証と誇張にまみれ、果たして写真すらも信用できるかどうか。彼女なりのジャーナリズムを否定するつもりは無いが、早苗の生真面目さとは相容れないのだった。他者の正義を受け容れられるだけの貫録を備えるには、自分はまだまだ人生経験が足りないのだろう。
 自らを夜風に晒し、風祝は今度こそ冷静さを取り戻す。

「では、霖之助さんのことをご存知ですか?」
「ん? 霖之助って……、あの古道具屋の店主? 写真映えしないからなぁ。あまり興味はありませんが。むしろ、なぜ貴方がそんなことを聞くのか興味津々です」
「洩矢様が仰っていました。射命丸文以上に幻想郷の事情に詳しい鳥頭は、妖怪の山に居ないと」
「訂正して下さい。私以上に幻想郷の事情に詳しい天狗は、幻想郷に居ないと」
「私に取材したいのなら、対価を支払って貰わないといけませんねぇ」
「対価って情報? それとも反省材料のこと? 天狗に喧嘩を売った愚かさの……」
「試してみて下さいな。私の風と貴方の風、どちらがより自在に空を満たすのか」
「いいでしょう!」

 にやりと口元を歪めた文が、懐から大団扇を取り出して構える。対する早苗は、静かな表情で幣帛を捧げ持つ。
 両者の周囲に飛び交い始めた光は、ある種の契約が込められた矩形(くけい)、スペルカードである。博麗の巫女によって考案された、全く新しい決闘方法。各々が得意を弾幕に準(なぞら)え、その美しさを競い合う。今や、幻想郷の乙女達にとって当然の嗜みである。

「さあさ、勝負です――!」

 楽しげな掛け声を皮切りに、一時、上空は暴風域と化した。





 ――十数分後、静けさを取り戻した空に、二人の少女が相対している。

 片や息を荒げながらも他方の胸元に得物を突き付け、片や飄々とした態度で頭を掻く。

「いやー参りました。それにしても成長しましたねぇ。引っ越してきた時と比べたら、見違えるようですよ」
「はぁ、はぁ……。いえ、胸を貸していただいて、ありがとうございます」

 弾幕ごっこにおいて、片方が戦闘不能になるか、負けを認めるか、或いは用意したスペルを全て破られるかした場合、その時点で決着となる。
 今夜の勝負は、辛くも早苗に軍配が上がった。
 
「さて、負けてしまったものは仕方ありません。話して差し上げましょう」
「いえ、結構ですよ」
「は?」
「射命丸さん、手を抜いていたでしょう」
「手を抜いたって……。私が本気を出していたら、今頃あんたは隣の大陸よ?」

 文の表現が誇張だったとしても、二人の実力には歴然とした開きがある。スペルカードルールは、元々底力に差がある人間と妖怪が、気軽に対等に戦うためのツール。早苗の勝利は、“弾幕ごっこ”の形式を取ったからこそよ実現したのであるが……。

「それはその通りですが、手を抜き過ぎです。それくらい、私にも分かるようになりました」
「へ?」
「洩矢様はこうも仰っていました。射命丸文以上に信用ならない天狗は、この世に居ないと」
「……お褒めに与り光栄ですねー」
「最初から、こちらに情報を与えるつもりだったのではないのですか? 私はまだまだ若輩者ですが、自分の修行不足くらいは弁えているつもりです」
「ふむ、確かに貴方を見くびっていたようですね。俄然興味が湧いてきました」
「あうー。とにかく、積極的に渡したがるような情報は信頼できません。……今夜は、これで失礼します」
「はい! また後日にでも」
「や、藪蛇かなぁ……?」

 ふらふらと飛んでゆく早苗を笑顔で見送ると、文はほんの少し肩を落とし、使い魔の鴉に問いかけた。

「私ってそんなに信用無いですか? 成長しているとは、半分、いえ、4分の1程本音だったのですが」

 しかし、落ち込んでいたのは僅かな間。すぐさま気を取り直すと、文は興味深そうに呟いた。

「どうもスキャンダルの匂いがするわね。これはきっと特ダネに繋がっているはず。文々。新聞の明日のため、さあ、徹底取材よ!」

 拳を握って意気込んで。幻想郷最速の記者は、濡れ羽色の闇へと消えた。







 ……誰も居なくなったはずの空中に、一匹の妖精が浮かんでいる。彼女は誰にも見咎められること無く、一部始終を目撃していたのだ。気配を絶無に保ったまま、少女は細い首を傾け、そのまま忽然と消え失せる。



 残ったのは、月光に淡く輝く、ただ一面の雪化粧のみである。















「咲夜。貴方は、恋というものを知っているかしら」

 夜の深きの静けさを、童女の囁きが押しやった。甘く軽やかな中に、どこか蠱惑的な響きのある声だった。

「こい、と申しますと――」
「恋愛の、恋慕の、恋情の、“恋”よ。今、ボケようとしてたでしょう」

 図星を指され、銀髪のメイドは押し黙った。尤もそのことに、悔しさや戸惑いを覚えたりはしない。只今の心中をぴたり言い当てられたところで、驚きこそすれ、不条理だとは思わない筈だ。目の前に座っているのは、誰あろう、少女に十六夜咲夜という名を授けた吸血鬼――レミリア・スカーレットである。主人と従者という、ありきたりな関係性で形容してしまうには、この二人の絆は深過ぎるのだった。

「お嬢様――」
「どうしてそんな話題、って顔をしてるわね」

 レミリアは、腹心の台詞をあっさりと遮った。光源は、僅か一本灯された燭台の炎のみ。卓上には他に、空となった様々の食器と、頬杖突く吸血鬼の、白磁より透き通った肌が照らされている。無闇に広い部屋の隅々を明らかにするには到底足りず、傍らに侍る少女の機微を窺うにも心許無い光量だった。いやそもそも、主人は侍従の表情を振り向きすらしていない。

「まあ、説明したって分からないでしょうけど。分かってもらうつもりもないし。暇潰しの種よ」
「……ならば、お嬢様。先日の、脱走者の処分についてですが」
「捨て置けって言ったでしょう。妖精共を無理矢理連れ戻したところで、戦力になりはしないもの。こっちはちゃんと説明した筈よね? 話を逸らしちゃ駄目じゃない」

 指摘されて初めて、自分が逃げを打ったのだと気付く。食後にと用意された赤ワインには、まだ一切手が付けられていなかった。偏食の嫌いがあるレミリアが、珍しくナイフとフォークを留めずに平らげた晩餐。ささやかながら満たされた自負心まで、みるみる萎んでゆくのが分かる。

「そう肩肘張らなくたっていいのに。女の子同士の、恋バナって奴でしょ。それとも、私には打ち明けたくないってことなのかしら?」

 窘められたところで、おいそれと口を開けはしない。何分、仕事一筋の自分には縁遠い話柄だった。しかし、素直に興味が持てないと答えたところで、主人は満足しないだろう。そんな咲夜の心情を分かりきった上での、嗜虐的な戯れだった。
 だからメイドは、慎重に言葉を選ぶ。

「この十六夜咲夜、身も心も全て、他ならぬお嬢様に捧げる所存です」

 一旦、言葉を途切れさせる。まだまだ底冷えのする季節にもかかわらず、頬が火照っているように思えるのは、夜気を吹き込まれて艶の増した葡萄酒の香りのためかもしれないと、場違いに思案する少女。

「なれば私の恋心もまた、お嬢様のものではないか、と……」

 卑怯な答えだが、本心でもあった。これが通用しなければ、他の受け答えは思い付けそうにない。元より、藪から棒の質問である。
 案の定、というべきか、吸血鬼はくつくつと、声も出さずに口の端を曲げている。呆れているのか、それとも面白がっているのか。ともかく、真に受けてはいない横顔だった。

「お嬢様。咲夜は、これでも勇気を出したつもりです」
「ふふっ。悪かったわね。あんまりお前が可愛いものだから」
「お嬢様」
「そう拗ねるな。丸きりお遊びで口に出したって訳じゃない」

 遅ればせながら、メイドは主の遠回しな示唆を汲み取る。

「“真珠石”のことでしたら、パチュリー様がまだ解析中かと」
「パチェの様子は?」
「始終ぶつくさ仰ってましたよ。『これでまた睡眠時間が削られる』と」
「読書の時間を削ろうって気は、無いんでしょうねぇ」
「一応、入手ルートに関する情報収集にも人手を割かせてはいますが……。お嬢様、アレを本物とお考えなのですか?」
「ふん。本物か紛い物かの区別なんて、瑣末事じゃないの。善も偽善も、傍から見れば同じものさ」

 自らを“真なる物”だとして疑わない、貴族ならではの傲岸な言葉だった。ワイングラスを手遊びに揺らしながら、悪魔は片目を閉じる。

「そう。んなことはどーでもいいのよ。咲夜は私に、べた惚れの首ったけって話だったわよね?」
「その話題に戻るのですか!?」

 ナイフの面差しを常とする少女も、流石に取り乱さざるを得なかった。今度こそ茶目っ気たっぷりに、吸血鬼は笑みを作る。

「なんだ、違うの?」
「……。違いません。私は、お嬢様にぞっこん惚れこんでいるに違いありません。これで満足ですか?」

 開き直る従者の傍ら、レミリアは蝙蝠の黒翼を広げてみせた。

「それじゃあ、私に絶対の忠誠を誓えるかしら?」
「全て、と申し上げた筈ですが」

 ふんふんと頷きながら、夜の女王は灯りを握り消した。途端、部屋には暗闇が満ち、蝋燭の炎芯だけが瞼に焼け残る。

「ならば、その二者をどうやって区別しようというのかしらね。忠節と眷恋と、そのどちらがお前の身を投げ出させるのかな」
「――――」

 問い掛けの意味を計りかねて、静かなメイド。華奢な足音が、直立する少女の背後へ回り込む。

「どうしてそんな質問、って顔をしているわね……。何故ならこの物語において、全てがそこに収束するからよ。命題を真と偽とに峻別するもの――他愛ない線引きの存在に。ま、瑣末事なんだけどね。私は脇役で我慢しましょう。悪魔に代わり、花道で踊ってきなさいな、……へくちっ」

 勿体ぶった長広舌は、可愛らしいくしゃみによって中断された。何も見えないと知りながら、思わず振り向いて主を探す。
 というか、お嬢様のくしゃみを見逃したのが悔し過ぎた。

「最近また冷えますからね。お風邪を召されたのでは?」
「馬鹿。吸血鬼が風邪をひくか」
「ああ、どちらかといえば、熱病を媒介する方でしたね」
「そりゃ蚊のことかい? 馬鹿犬。折角人がシリアスで通してやろうと思ったのに……」
「問題ありませんわ、お嬢様。要するに、私が動けばよろしいのでしょう?」
「そういうこと。精々足掻いてくるといいわ。病蔓延る泥沼の中、虚像の重みに喘ぎながら。私はお家で、高みの見物と洒落込みましょ」

 レミリアが、腕を一振りした。ざぁ、と厚ぼったいカーテンが寄せられて、窓外には二つの月が浮かぶ。空と湖とに揺曳され、世界を皓々と照らしている。指し込んでくる月光に、全てが青白い陰影へと沈む中、夜景を望む吸血鬼の双眸だけが、尚も紅の輝きを湛えていた。葡萄酒が、一際強く香る。

「……下げて構わないわ」
「お口に合いませんでしたか?」
「自分に酔うには、不要な代物でしょう?」

 頷いて、銀髪のメイドは姿を消した。同時、卓上の食器とワイングラスも綺麗に片付けられている。僅かに愁いの色を覗かせ、紅糸を手繰る悪魔は呟いた。

「私だって、何もかもお見通しとはいかないんだけどね。月より高く飛べはせず、心が読める訳も無し」

 呟いて、目を閉じる。

「諳んじていることといえば……、運命と、その恋人についてばかり」

 カーテンが閉じ、部屋は再び暗闇に支配された。少女の影は、もうどこにも見当たらない。















 鎮守の森に枝を張る、果てしなく前から立っているような大木。その内部に居を構える光の三妖精は、普段より静かな初花月の朝を迎えていた。

瞼を射す光線に目を覚ましたサニーミルクは、先ず真っ先に自室のカーテンを開け放ち、全身で日の光を受け止めた。太陽の光を力の源とする彼女でなくとも、そのじんわりとした温かさは魅力的なものだろう。冬の盛りを過ぎたとはいえ、まだまだ午前の冷え込みには容赦が無かった。

「ふぁああぁ〜。おはよう、スター……。あら、ルナはまだ起きてないんだ」
「『お早う』じゃないわ、お寝坊さん。時計を見てみなさいな」

 充電を終え、輝く金髪を左右で結んだサニーが居間に顔を出すと、ふわりと甘ったるい香りが鼻腔をくすぐった。湯気の立つホットチョコレートのカップを片手に応(いら)えを返したのは、《降り注ぐ星の光》ことスターサファイア。青いリボンで飾った黒髪を傾げ、澄ました顔でカップを啜る。もう一人、気難しい同居人の姿は見えなかった。

 サニーは窓の外に目を遣った。起き抜けの頭では気が付かなかったが、太陽は予想以上に中天へと迫っている。

「もうこんな時間! 今日は早起きして探検に行くって決めてたじゃない。起こしてくれれば良かったのにぃ」
「起こしたら起こしたで文句たらたらだったと思うの。あ、サニーも飲む? 体があったまるわよー」
「飲む飲む! でも、その前に顔を洗ってくるわ」

 さっぱりとした面持ちの少女が戻ると、スターは台所に立っているのか、居間には誰も居なくなっていた。相変わらず、ルナが起きてくる様子もない。
 ふと、テーブルに置かれた一つの硝子の小壜が目に留まった。日の光を屈折し、テーブルクロスに複雑な形の影を投げかけるそれは、妖精の彼女から見てもちんまりとした代物である。にもかかわらず精緻に刻み込まれた意匠は、職人の手で磨かれた宝石を思わせた。
 美しさの中に、どこか違和感があった。まるで騙し絵を見ているかのような……。しかしそんな感慨も、巧みな光の屈折に惚れ惚れとしているうちに忘れてしまった。
 しばし見蕩れていたサニーだったが、両手にカップを持ったスターに声を掛けられ、我に返る。ちゃっかり者の星の光は、自身の分もお代りを用意してきたらしい。

「どうしたの。ぼーっとしちゃって」
「ううん……。ねえ、この壜って前からあったっけ」
「いや、多分ルナが拾ってきたんじゃないかしら。昨日の夜も随分と遅くまで出歩いていたみたいだし。あの星も凍る寒い中」

 ふるりと体を震わせ、スターはカップに口を付けた。サニーも右に倣い、とろとろと甘い液体をのどに流し込む。体が芯から温まる心地に浸り、二人は揃って顔を綻ばせた。

「ふう、それで珍しく寝坊助なのかな。だらしがないねぇ」
「サニーが言えたもんじゃないと思う」
「なによ、私はいつだってちゃんと最後に起きてくるじゃないの!」
「……それは逆ね。お日様が昇らなければ、鶏も明六つを歌えない。お月様も引っ込みがつかなくなる。まあ、私には関係のない話だけど」

 カップを干して一息つくと、サニーは小壜を手に取り、光に向けて翳してみた。内容物は、ころころと音をたてる丸い球ただ一つ。好奇心の赴くまま、容器と同じく凝った造形の硝子栓を抜きとると、彼女達の親指の先ほどしかない球体が転がり出た。

「これは……、一体何だろう? こんなに素敵な装置の中に入っているんだから、とびきり楽しい物に間違いはないんだけどね」
「確かに、この壜は光の屈折を計算して作られているみたい。それに――あ、まだ何か入ってる」

真珠のようなその一粒を手に取りしげしげと眺めているサニーの隣では、スターが壜の中に指を突っ込んでいる。ちょっとした格闘の末に取り出されたのは、小さく折り畳まれた薄紙だった。広げてみると、几帳面(きちょうめん)な手書きの文字で『真珠石の使用方法』と始まっている。
頭を突き合わせて黙々と字面を追っていた二人は、やがててんでんの表情で顔を上げた。

「“惚れ薬”って……あの惚れ薬?」 
「惚れた腫れたの熱冷まし、ってワケじゃなさそうね」

 スターは戸惑いを薄く貼り付かせて。
 サニーは悪戯っぽい笑みを浮かべて。

「ねえ、これ、次の悪戯で使ってみない? 何だか面白いことになりそうよ〜」
「うーん、かなり胡散臭いわね」
「でしょ? きっと効果も上々よ。胡散臭い分」
「まあ確かに。人間の胡乱な眼差しが目に浮かぶようだわ」

 嬉々とした様子のサニーが丸薬を仕舞い直そうとした時、どさりという音が上階から響いた。訝しげに二人が見上げた先は、ルナが私室としている部屋である。

 白と黒を基調にしたレースやらリボンやらに飾られ、人形やぬいぐるみがここかしこに転がる室内は、そこが自然の樹の中だと感じさせない雰囲気がある。妖精の住処としては異質な調度に交じって、寝間着姿の妖精が転がっていた。場所は寝台のすぐ傍だ。

「ルナって、意外と寝相が悪かったりする? いっつもいの一番に起きてくるから気付かなかったけど。それとも毎日重力を目覚ましに使ってるの?」
「ちが……う、わよ……」

 サニーのからかい交じりの問いかけに、ルナは力無い苦しげな声で返した。体を起こすのも億劫そうで、いつもくるくると弧を描く自慢のカールも、今はしどけなくほつれてしまっている。
 只ならぬ様子を察したサニーが慌てて助け起こすと、その腕の中でルナが乾いた咳をした。二人を遠巻きに見守っていたスターは、サニーの目配せを受けて踵を返す。

「元気溌剌ゥ! ――には見えないわね。熱があるみたい。こら、あんまり暴れないでよ」
「ねぞう、が、わるいんじゃ……」
「はいはい、それは半分冗談だってばー。ちょっとぐったりしてなって」

 スターが持ってきた冷水を飲み、寝台の端に腰を落ち着けた月の光は、幾分か平静を取り戻したようだった。雪を詰めた革袋を火照った額に乗せ、バツが悪そうな表情で弁解する。

「目が覚めてみたら喉がからからで、起き上った途端に気分が悪くなって……。だから、本当に寝相は悪くないの」
「それより、他に言うことがあるんじゃない?」
「……サニーったら、まだ寝癖が付いてるわ」
「じゃなくって」
「冗談だって。ありがとうね、二人とも」
「どーってことないわっ!」

 にこにこと拳を突き上げるサニーを尻目に、スターは部屋の隅で人形を抱えていた。何を考えているのかわからない微笑を湛えたまま、ルナへと問いかける。

「ねえ、寝てなくても大丈夫なの?」
「んー、少しだるいくらいかな。一晩月光浴をしてたら治ると思うわ」
「そういえばさ、ルナ。あの薬はどこで手に入れたのかしら?」
「サニー、寝癖がついているのは本当のことよ。――薬って?」
「星屑みたいに綺麗な硝子のこと」
「またそんなこと言って、スター。日の光あっての輝きじゃない」
「アレのことか。おかげで酷い目にあったわー」

 嘆息し、ずり下がった氷嚢を押し上げると、月の光は語り始めた。

「昨夜は特に明るくって、雪の照り返しが見事だったから、ついつい遠出しちゃったのよ。冴えた月の影を追って、どこまでも行ける気がしたわ。それで調子に乗ってたら……、いつの間にか人里の近くまで来ていてね。そろそろ帰ろうと思って振り返ると、雪の中で何かが光ってて――」
「それがあの薬だったってワケね」
「薬って……? まあいいや。“外”のものじゃあなさそうだったけど、月光にこそ映えて美しかったから、持って帰ることにしたの。そうしたら、いきなり猫みたいな鼠が襲いかかってきたのよ」
「鼠だって? 普通今時見かけないけどなぁ。冬眠中じゃなかったの?」
「それに、猫なら炬燵で丸くなっているはず」
「猫みたいに大きい鼠だったのよ! チュウチュウ鳴いてたから、間違えようがないわ」
「吸血鬼と見間違えたのね」
「いやいや、チュパカブラだったんじゃない?」
「鼠だった。それから方々(ほうぼう)逃げ回って、雪まみれになってやっと帰ってきたのよ……」
「よくもそんな覚えていたくないことを覚えているわねぇ」

 ぽつりとスターが呟いた。回想するだけでげっそりしたのか、肩を落として咳をするルナを、サニーが軽く小突く。

「馬鹿ねぇ。馬鹿と鋏は風邪をひかないって言うけど」
「まあまあ、ルナは少し休んでるといいわ。今日の朝ご飯は熱々のお粥にしましょ〜」
「お言葉に甘えとく。それにしても、何であの鼠は私を追っ掛けてきたんだろう……。もしかして、鼠のお薬だったのかなぁ」

 サニーとスターは顔を見合わせ、思わず吹き出してしまう。きょとんとしたルナを置き去りにして、二人はしばし笑い倒(こ)けた。















「『またさとり様が見に来るといけないから、仕事する振りくらいしとこっと』ですって? 見上げた根性ね、お燐」
「やだなぁ。そう思っている振りをしただけだって」

 旧地獄の奥深く、とある二人組の神がやってきて以来、ますます熱く燃え盛るようになった灼熱地獄跡。尽き果てることがない炎は森の如く海の如く、時には意思持つかの如く蠢き、無機物とは思えない華々しさで、報われぬ魂達を呑みこんでいる。
そこで怨霊の管理を任されている黒猫の少女は、内心冷や汗をかきながら飼い主を見上げ、舌を出してみせた。尤も彼女がどう表面を取り繕った所で、主の持つ第三の目には、尽く看破されてしまうだろうが。

「さとり様、あの――」
「私がこうして地霊殿の見回りを始めたことを、不思議に思っているようですね。長い間放任主義を決め込んでいた癖に、何を今更。と」

 宙に浮かぶさとりの白い肌には汗が浮かび、地獄の炎に煌々と照らされている。最早拭うことも諦めたのか、紫色に煙る髪は首筋に張り付くままにされていた。熱に晒された頬を赤く火照らせながらも、その気怠げな表情は普段と変わりがない。

「これでも反省しているのです。空の一件は、私がペットの管理を怠ったことにも責があるでしょう」

 そう言うと、さとりはお燐の隣に降り立った。火車の妖怪は、辺りで所在なさそうに漂っていた地霊達を下がらせ、主へと向き直る。両肩に垂れた赤いお下げが、不安げに揺れた。

「『いつもはちゃんとお仕事してるよぉ』……そんなに意地にならなくても、ちゃんと分かっていますわ。それで? 真面目一徹の火車が、仕事も手に付かなくなっている原因は?」
「実は――」
「『怨霊の数が足りない。地上に送った霊の一部が、戻ってきていないのかも』。それは大変ね。怨霊は、地上の者に悪影響しか及ぼさないもの。何々、『ちゃんと戻ってくるよう命じておいたはずなのに。こないだ暇潰しに数えていたら、少なくなっている気がした』 ……私は今、飼い主としての自信が揺らいでいます」
「い、今からちょいと地上に行って、調べてこようと思った所でねぇ。なあに、餓鬼のお使いより簡単さ。さとり様、お土産は何がいいかい?」
「要りませんよ。そして、貴方を怒ったりもしません」

 覚(さとり)の少女は、汗ばんだ手でそっとペットの頭を撫でた。くすぐったそうに身を捩るお燐を見て、ほんの少し目を細める。

「貴方達が私を恐れるのは理解できます。むしろ、忌み嫌われることこそ古明地が本懐。とうに覚悟は済んでいるわ。あの子には……」

 ふと寂しげに言葉を切り、さとりは瞳を閉じた。
 “あの子”が誰を指しているのか、お燐には容易に想像がつく。古明地こいし、さとりのただ一人の肉親――実の妹である。生まれ持つ能力を厭うた彼女は、自ら第三の瞳を閉ざし、古明地の宿命から逃げ出した。そんなこいしのことを、姉は何かと気に掛けているのだ。
 飼い猫に去来した思いには触れず、さとりは手を離した。

「そういえば、空と一緒には行かないのかしら? 彼女も随分と暇そうにしていたけれど」
「うん。あたい一匹で十分さ」
「『変に気に病まれても悪いしね』、と」

 霊烏路空は、お燐がさとりに飼われ始めた頃以来の古い友人である。しかし、神の力を手にして増長した親友を、彼女は止めることができなかった。『黒い太陽の火によって、地上を灼熱地獄に変える』――そんな彼女の野望が地底の妖怪達の耳に入れば、単細胞の空など一溜まりもない。
親友が始末されてしまうことを危惧したお燐は、禁忌に手を染める。すなわち、地霊達を間欠泉に乗せて送り込み、地上の妖怪に異変を知らせようとしたのだ。
 地霊殿は元々、廃棄が決まった地獄に鎖(とざ)されていた怨霊達を封じるため建てられた施設である。お燐の行ったことは、間違いなく一級の背信行為。結局、止むを得なかったこととしてお咎めは避けられたが、一歩間違っていれば、彼女も空共々始末されていてもおかしくなかった。根が純情な地獄鴉は、それを自分の責任だと思うかもしれない……。まだ、覚えていればの話だが。

 ともかく、怨霊は文字通り世の中を怨んでいる霊である。彼ら彼女らが今も地上に残っているとすれば、見過ごす訳にはいかなかった。
 拳に力を入れるお燐の前で、さとりがぽんと手を打つ。

「そうね、ついでに頼まれてくれないかしら。地上に行きがてら、妹の動向を探ってほしいの」
「こいし様の? そりゃちょっとばかし難しいかもねぇ」

 こいしは読心能力の封印と引き換えに、無意識で行動する能力を手に入れた。誰にも悟られずに行動する彼女の足取りを掴むのは、並大抵のことではない。さとりにさえ、妹の心を読むことは不可能になってしまったのだ。

「それに、ふらふら出歩く癖は昔からじゃなかったかい?」
「最近は地上がお気に入りのようですね。心配なのよ。あの子には変に純粋な所があるでしょう。悪い人間や妖怪に誑かされてはしないかと。それに――」
「それに?」

 ふと、さとりの表情に影が差す。日頃の飄々とした様子はどこへやら、深刻そうな様子の主に、お燐は続きを促した。

「どうも、最近私は避けられているようなのよ」
「避けられてる?」
「それもあからさまに。私の顔を見るなり、“急用を思い出す”こと数えて五回。何度も鏡を見て確かめてみたのだけれど、メモ帳代わりにされた形跡は無かったわ」
「うーん。あたいにゃ思い当たる節は無いねぇ」
「“視れば”分かりますとも。貴方に関しては」

 細くともどんな逆風にだって負けないはずの肩ががっくりと落ち込む様を見て、お燐は困惑してしまう。

「もしかしたら私は、妹にまで嫌われてしまったのかもしれないわね……」
「そんなことはありえないよ! いや、そもそもこいし様が誰かのことを嫌いになるなんて――」
「そして、好きになることも無いでしょう。本当の意味ではね」

 何の前触れも無く、さとりの背がすっくと伸ばされた。一息で精神状態を立て直したのは流石というべきか。動揺を押し殺した紫の瞳が、じっとお燐を見据える。

「私には、まだまだ姉失格になるつもりはありません。飼い主失格にもね。“火焔猫燐”、無理してまで調べろとは言いませんが、何か妹について分かったことがあったなら、包み隠さず報告するように。そして怨霊の件、後腐れが無いよう片を付けてきなさい」
「勿論。猫は、自分のアレの後始末を欠かさないものなんでね。さとり様も、体調には気を付けて」
「言わずもがなよ。その前に、残っている仕事もどうにかしておくこと」
「あーい。了解さぁ」
「――待ちなさい」

 陽気に立ち去ろうとしたお燐を、覚の少女は静かに呼び留めた。

「貴方はまだ、空の一件について心の整理がついていないようね。いつまでも引き摺りたくないのなら、茶化しては駄目」
「…………」
「お燐は生ある者に対して残酷ですけど、それだけではない。情が深くなければ、ああも空を庇うことはなかったでしょう。それ以前に、彼女と親友になりようがない」
「勘弁しておくれよ。背中に蚤が湧いてきそうで困っちゃうね」
「蚤取りくらい、私がやってあげますよ。貴方も、空も、私の可愛いペットなのですから。努々そのことを忘れないように」
「……、くすぐったいなぁ、さとり様」

 お燐は、今度こそきっぱりと背を向けた。主人に一体どんな顔を向ければいのか――どんな言葉を返せば事足りるのか、どうにも見当が付かなかったからだ。













 魔法の森にある、洋風の小奇麗な邸宅。その窓から差し込む冬の日差しは、これまたさっぱりとした純白のカーテンに漉され、室内にふんわりとした影を投げていた。

 各所に配されたレースにフリル、棚の上を飾る愛らしい小物や、窓辺に並んだ華奢な観葉植物は、訪れた者にお年頃の少女を思い起こさせるだろう。しかしこの部屋の持ち主の性格は、調度の細部にわたる意匠、隈なく磨き上げられた木目の色艶、そして、装飾性と実用性のバランスが几帳面に保たれている配置にこそ見出されるのだった。
 ともあれ、部屋の持ち主を推定するためには、大して深い考察がなされる必要も無いだろう。戸棚に、テーブルに、あるいはソファの上に、思い思いの格好をした人形達が、すっかり寛いでいるのだから。彼女達は全て、《七色の人形使い》、アリスによって蒐集されるか、さもなくば手ずから作り出された人の形である。
 アリスの私室のテーブルには、ただ二つの椅子が備えられているばかりであった(彼女の家を複数の客が同時に訪れることは少なかったし、居間兼応接間より奥に招き入れられる者はもっと少なかった)。その片方を占領しているのは、同じく魔法の森に居を構える金髪の魔法使い。部屋中の人形達に見詰められながら、魔理沙はしめしめとほくそ笑んでいた。
 いや、見詰めているのは人形ばかりではなかった。キッチンへと続く戸口から、人形めいて整った容姿の少女が、客人の後ろ姿に熱い眼差しを注いでいた。胸の内から沸き起こる激情を堪えようと、その体を震わせながら。

「アクギャクノトモガラ、マリサ。ワガツルギヲモッテセイバイシテクレルワ!」
「いえ、ここで冷静に振舞わなくては。無事に帰しはしないわよ……!」

 最初に片言(かたこと)の憎悪を紡いだのは、アリスの肩口から上半身だけを乗り出した手乗りサイズの人形であった。当然だが、その顔は澄ましたままである。

「こちらが珍しく親切にしてやった途端にこの仕打ち! 一体全体どこまで付け上がるつもりなのかしら? もうそろそろ成層圏を突破してるんじゃない?」
「ソシテマリサハカンガエルノヲヤメテシマエバイインジャネー?」

 鬼のような形相で人形使いは呟く。人形を操っているのはアリス自身なので、この会話は一人芝居ということになるが、気分を落ち着かせるのには効果があった。仮初めの冷静さを以て、状況の分析を試みる。

 この日、アリスは朝から機嫌が悪かった。試作中の人形の改良が行き詰まり、ここ数日一歩も進展が無いという悪夢が、現実であると理解した時からだ。気分を切り替えようと研究から離れたはいいが、人形の手入れをしようとすれば指に針を刺し、魔道書の内容も頭に入ってこない。
 これはいよいよ博麗神社の境内裏で憂さ晴らしかな、と藁人形の準備をしていた折に、上機嫌の魔理沙が訪れたのだ。彼女との会話が突破口になるかもと、アリスは快く客を招きいれ、恒例になった嫌味の代わりに紅茶を提供した。気分転換は見事成功、人形使いはブチ切れた。
 思えば魔理沙の上機嫌な面(つら)は、とびきりの悪戯を思い付いた妖精のそれではなかったか。当初から無意識に疑っていたのだろう。おい茶請けの用意は無いのかという魔理沙の要望に応えるべく、紅茶が冷めないうちにとキッチンへ急ぐアリスは、ふと部屋にあった人形へ魔法の糸を繋いだ。秘密裏に備え付けられていた視覚センサーが捉えたのは、アリスの紅茶に小壜を傾けるお客様の姿。垂らされた液体の正体が何にしろ、思わず忍び笑いを漏らしたくなるような代物に違いない。
 怒りの中にあってさえ、人形使いの指先は寸分の狂いも見せなかった。二体の小さな人形が、焼き菓子を乗せたトレイを支えて飛んでくる。自然体を装うアリスが部屋に足を踏み入れた時点で、人形は一体に減っていた。

「お待たせ。その紅茶は甘みが強いから、渋めの奴を用意してみたの」
「お、分かってるじゃんか。……またどぎつい色のクッキーだな。お前が作ったのか?」
「里の菓子屋で購ったのよ。今旬の新作ですって。どうやったらこんな色になるかは、今日は教えてもらえなかったけど」

 人形が、マゼンタに染められた菓子の皿をテーブルの中央に置いた。魔理沙と向かい合う位置にある椅子に、アリスはそっと腰を下ろす。これが二人の定位置だった。魔理沙から見て左手にある窓から、柔らかい日光が降り注ぎ、琥珀色の水面に反射している。ティーポットとお揃いである二つのカップの柄がそっくりであることは、前以て確認済みだ。

「そりゃ良かった。毒が仕込んであるわけじゃなさそうだな」
「私だったらこんな警戒されるような色は使わないわ。毒にしろ、媚薬にしろね」

 言い終わるか終らないかのうちに、アリスは命令を飛ばしていた。魔糸を通じて信号を受け取ったキッチンの人形が、直ちにその身を爆裂へと化す。
 背後で響いた轟音に、魔理沙が何事かと振り向く。その一瞬を突き、卓上では神業が交錯していた。
 トレイを運んでいた人形が、素早くアリスのカップを掴んだ。同時に、アリスの体を盾に隠れていた人形が、第三のカップを手に飛び出してくる。無論、柄も内容も揃いの物だ。
 腐れ縁とて付き合いの内。こういう場合、魔理沙がどちらにどんな具合に振り向くかは予測通りだった。アリスのカップを掴んだ人形は、ただ一人の観客の死角――窓の方向へと突進し、勢いをそのままに紅茶を観葉植物の鉢へぶち撒(ま)ける。第三のカップがアリスのソーサーへ振り下ろすようにして置かれる頃には、鉢植えの影に空のカップと人形が躍り込んでいた。慌てた振りをしてテーブルを蹴り、音と液面の揺れを誤魔化すのも忘れない。
 まだ吃驚が治まらない魔理沙の視線が戻ってきた時、入れ替わった人形は、何食わぬ顔で虚空を見詰めていた。

「何だ、お前はいつも爆弾を目覚まし代わりにしてるのか? にしちゃあ方向が寝室と別だったな。キッチンか」
「人形を使った新しい調理法……と言いたい所だけど、何か不手際があったようね。ちょっと様子を見てくるわ」
「ああ、シェフによろしく伝えてくれ」

 残念ながら、シェフはバラバラに飛び散っていた。しかし急拵えの結界が功を奏し、キッチンの調度には傷一つ付いていない。焦げた臭いが立ち込めていることを差し引いても、成果は上々といったところか。人形目線で捉えた魔理沙は、こちらの仕掛けに気付いた様子も無い。

「グッジョブネー、アリスー」
「ま、お茶の子さいさいってとこかしら」

 人形を操る修行の一環で、アリスは度々人里において人形劇を披露している。一端(いっぱし)のエンターテイナーとして、観客の注目を操る術も習得済みだった。
 戻ってきた人形使いに、白黒の少女が声を掛ける。

「一体何があったんだ? どうせ、新しい魔法を煮込み損なったんだろう?」
「失敗はしてないわ。少しばかり火力が強すぎたせいで、片付けの必要が出てきたけれど」
「手伝おうか?」
「不気味に親切ね」
「普通に親切だぜ」
「……『面倒な事態にこそ、一杯の紅茶を楽しむ余裕が必要だ。大抵の問題は、紅茶よりも早足に冷めてゆくものだからだ』」
「そいつはアレか。シェークスピアか」
「うちの神様よ。その代わり、優秀なスタッフが右往左往する羽目になるんだけど」

 そう言って、アリスはカップを口元へ運んだ。対面の魔理沙もそれに倣う。お互いに策謀を胸の内に抱えながら、二人は微笑んだ。

「おお? 初めて飲む味だぜ。こいつも里の新作なのか?」
「うちの神様よ。……いやいや、原材料じゃなくて、送り主が」





 アリスの分の紅茶は酷い味だった――素早く見た目を誤魔化さなければならなかったのだから、仕方がない――しかし、会話は思っていたよりも楽しむことが出来た。相手が哀れな犠牲者だと思えば、多少の無礼にも目を瞑れるというものだ。魔理沙が何かを期待するような視線を寄こすたび、アリスはおかしみを顔に出さないよう苦労した。
 皿上のマゼンタが姿を消し、カップが二度目に底を見せる頃になると、会話はほとんど議論の形を取っていた。同じ志を持つ者同士特有の、透徹な、それでいて熱に浮かされたような止揚。魔理沙との交流は、しばしば彼女にこのような高揚をもたらした。思索の袋小路に充満していた霧が、少しずつ流れを変え、一つの答えを浮き彫りにしてゆく。それは新たな扉を開く鍵か、砕き進むための鉄槌か。考えに夢中になる余り、何時の間にかアリスは当初の目的を忘れかけていた。

「じゃあ、私はそろそろお暇するとするか」
「あら、やけに素直に退散するのね。夕飯ぐらいは強請(ねだ)ってくると思ったのに」

 箪笥の角に引っ掛けてあったとんがり帽子を摘む魔理沙の表情には、少し残念そうな色が滲んでいた。薬の“効果”が思ったように発揮されなかったためだろう。それもそのはず、件(くだん)の薬入り紅茶は鉢植えへと注がれてしまっている。

「何だ? そんなに居残ってほしいのか? 心配するな。明日にでも様子を見に来るつもりだぜ」
「それはご親切に。片付けを手伝ってくれるつもり?」
「手に負えない状況になってたらな」

 何が、と魔理沙は言及しなかった。玄関の脇に立て掛けてあった愛用の箒を手に取り、ドアノブに手を伸ばす。日は大分傾いており、魔法の森の木々は長い影を横たえていた。
 魔女二人の間に、シニカルな笑みが交錯する。

「魔理沙がそんなに親切だなんて、夢にも思わなかったわ」
「私はいつだって親切だ。中々理解してもらえなくて涙が出そうだぜ」
「そりゃ普通は気付かないわよ。無味無臭の親切なんてね。当の貴方だって気付いていなかった」
「ん? アリス、お前――」
「そんなに結果が気になるのなら、明日と言わず、今晩中鏡を見て過ごすべきよ。姿見が行方不明なら、特別に貸し出してあげる」

 魔理沙の表情がさっと青ざめるのを見て、アリスは笑みを深くした。

「おま――、まさか――、あの時?」
「私は、シェフの働きに満足しているわ」

 逃げるように飛び去る少女を、人形の無表情な瞳がじっと見送っている。その硬い唇は、いつにも増して淡然と言葉を紡いだ。

「ザマーネーナァ、オイ」
「……いつ訪れるかも分からない成果に怯えて、眠れない夜を過ごすといいわ、魔理沙」







 次の日、アリスは自分が机に突っ伏したまま眠っているのに気がついた。時計を見てみると、寝坊どころの騒ぎではない。夜通し猛然と研究に取り組んだ挙句、そのまま眠り込んでしまったらしい。慌てて机の上を漁り、昨夜の成果が夢ではないことを確認する。
 安堵の息を吐(つ)くと同時に、魔理沙との遣り取りを思い出していた。少女の青ざめた顔が脳裏をよぎり、僅かに胸が痛む。

 アリスとて、無条件に魔理沙を嫌っている訳ではない。どちらかといえば彼女の美点を積極的に評価したいと思っている。弱冠にしてあれだけの魔法を使いこなすのは、天賦の才ではなく、たゆまぬ修行に依る所が大きいだろう。本人は決して認めようとしないが、彼女が努力家なのは周知の事実である。
 そして、定命の魔法使いながらに――もしくは定命だからこその、既存の枠を物ともしない大胆な術式。単なる行き当たりばったりではなく、試行錯誤に裏打ちされた完成度。その奇抜な発想は、堅実を旨(むね)とするアリスに数々の刺激を与えてきた。

 しかしながら、その長所を相殺して余りある悪癖の数々よ。

 彼女が物ともしないのは、借用と窃盗の定義も同様である。『死ぬまで借りてるだけだ』……その台詞を耳にするたびに、今すぐ息の根を止めてやろうかと考えた者は、アリス一人ではないだろう。
 白黒の魔法使いに礼儀を期待することは、妖精に微分積分を要求するのと同じ愚行である。窓と玄関の区別もつかない者に、嘘と真(まこと)の使い分けが可能か怪しいものだ。図々しさが箒に乗って飛んでいる、それが霧雨魔理沙という少女なのだった。
 何より許せないのは、蒐集家としての彼女である。碌な鑑定眼も持ち合わせていない癖に、何故かアリスの狙う獲物とかち合ってばかりなのは、まあ偶然としよう。たとえ横取りされたとしても、自分の実力不足だと思えば諦めもつく。
 ――問題は戦利品の扱いである。アリスの知る限り、魔理沙がそれらを有効活用している様子は無い。貴重なマジックアイテムの価値を徒(いたずら)に弄び、飽きたらその辺のガラクタと一緒くたにしてしまう。どんな希少品を手に入れたところで、三日と保たずに物置行き(物置で暮らしているようなものだとすればそれまでだが)。
 “道具”の一品々々を愛するアリスには、冒涜に思えてならないのだ。

「なーんか、思い出すだけで腹立ってきたわ……」

 自前の悪戯に自分で引っかかったのだから、文句を言われる筋合いは無い。日頃の魔理沙の所業を鑑みれば、物足りない位である。

 ならば、アリスは何故胸に閊(つか)えたような異物を感じなければならないのだろうか。やっとのことで研究が進展を見せたにも関わらず、気分が晴れないのか。

 書き損じの紙をくしゃくしゃに丸め、アリスは屑籠に狙いを定める。精妙を誇るはずの投擲は、籠の縁に弾かれ、カーペットを転がった。















 寸分違わずに正方形を描く板張りの廊下。その内側はこぢんまりとした庭園になっており、苔むした岩やら、浅い水場、小さな社が配置されている。白い砂利と対照をなしていた青草は、瓦屋根に四角く切り取られた空から舞い降りる雪に、細いその身を震え上がらせていた。
 そんな寒々しくも趣味の良い空間の立役者は、一本の、古色床しい梅の木である。黒く引き締まった枝ぶりに振り落ちた白雪からは、もう花盛りの芳香さえ漂ってきそうだ。

 ……梅木の根元には、二つの人影が座り込んでいる。

 片方は、深い若草色の髪をした少女。黄色いリボンが、頭の横で一束の房を作っている。精々十代に見えるか見えないかという背格好や幼げな顔立ちに似合わず、瞳には大人びた光が湛えられていた。その背から伸びる薄い羽根が、彼女が人外の存在であることを示している。

「早かったわね、湖の。鼠達の様子は?」

 口を切ったのは、もう一つの人影だった。“湖の”と呼ばれた少女は、片目に手の平を重ね、悩むような仕草をした後、静かに答えを返した。

「大半が撤収したみたいです。これでやっと、一段落といった所でしょうか」
「そうね。でも、あたし達の仕事はこれからが本番よ。里の内部の丁々発止は、こっちに任せておいて」
「私は外回りの調整に当たりますね。無縁塚の方々と、連絡は付きましたか?」
「間接的になら手伝っても構わないんですって。あの上から目線、ムカつくわ……。そうそう、高草郡の姫竹が不穏な動きを見せているって話を聞いたんだけど――」

 “湖の”は、さもうんざりといった表情でもう一人の少女を眺めた。

「分かりました。私に牽制を入れてこいっていうんでしょう? ……はぁ。随分と長い間、チルノちゃんと顔を会わせていないような気がします」
「あんたはいいわよ。会おうと思えばすぐに飛んで行けるんだから。あたしだって、あたしだってねぇ――」
「あー、はい、分かりましたってば。お互い、色々最善とかを尽くしましょう」
「う……、うん。そうよ、この作戦は是非とも成功させなくっちゃ。“偉大にして唯一の目的”のためにも――ご主人様にお褒めいただくためにもね。『おもしろき、夢をことさら、おもしろく』」
「『すみなすものは、心なりけり』、と。さて、悪戯っぽく参りましょうか」

 うーんと背伸びし、次いで空気へ溶け込むかのようにして、若草色の妖精は姿を消していた。残された少女は、不敵な表情で梅の木を仰ぐ。

「『独り寒気を凌いで発し、衆花を逐って開かず』。――冬ヶ枝を以て迎え撃つは、一騎当千のお歴々。手玉に取って不足なし、ってね。やれやれ、久方振りに忙しくなりそうだわ」

 そして彼女もまた、樹木の影へ引き込まれるように消えていく。



 密やかな会話が終わり、再び沈黙に支配された廊下には、物言わぬ数匹の怨霊達が、ただぼんやりとその尾を棚引かせているのだった。







 








(これで序章かよ! と突っ込む読者の皆様へ。それは作者の台詞です)










 
以上、執筆中SSのプロローグ集でございました。皆様方のお暇潰しに貢献できたのなら幸い。

……一応、全品完成させようという心意気だけはあるのです。ウソじゃないです。ホントですよ?
プラシーボ吹聴
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2011/04/01 23:25:38
更新日時:
2011/04/01 23:25:38
評価:
2/3
POINT:
2007777
Rate:
100390.10
簡易匿名評価
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0. 7777点 匿名評価
1. 1000000 ののわ ■2011/04/02 01:59:08
とりあえずねこ巫女と総領娘とフェアリーテールと泊まり巫女とハウステンボスを完成させようか。
3. 1000000 名前が無い程度の能力 ■2011/04/02 19:15:41
ぞっこんでくびったけなレミリアと咲夜の深すぎる仲に2828がとまりませんでした。
全てのSSの完成を待っています!
名前 メール
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