近頃の夜はたえず無数の箱が降り注ぐ暗闇の中で過ごすことになっている。私もまたその箱の一つの上で暮らしていて、ときおり手近な他の箱に移ってみるのだけれども、それで景色が変わるなんてことはない。ここには箱と重力と私以外に何も無く、私の視界に私は入りえないのだから、私は私の移動を変化と呼べなかった。想像力か獏か、きっとどちらかがもう夢に飽きてしまったのだと思う。幻想郷と比べてみればひどく退屈な夜の生活だ。
それでも、私は全然不快ではなかった。箱とともに、何が原因なのかも知れない緩やかな重力に内臓と気分を任せて暮らしていくのは思ったよりも容易で慣れきってしまうものだった。
だから、これは単にありふれた、ちょっとした欲の表出だったのだと思う。私は連続的な移住を試みはじめた。
箱の落下速度は各々で微妙に異なるため、間を置かずに少しでも上に見える落下の遅い箱へと飛び移っていけば上昇していけるはずなのだ。もし絶対的な座標というものがあるならば、だが。
とにかく、私は跳んだ。私の身体はまるで月面のように浮き上がった。行ったことないけど。動画で見た宇宙飛行士の歩行はたどたどしく、それはスローモーションで跳ねていると言った方が近かった。それを思い出しながら着地してみると、予想通り私もこけた。ずっと倒れているわけにもいかないのでその箱の重力に馴染んでしまう前に私はもう一度跳んだ。胃の辺りがちょっと気持ち悪かった。ここで吐いたらどうなるんだろうとか、何が出てくるんだろうとか、どうでもいいことを考えていたのでまたこけた。一歩は、一人の人間にとってもずいぶんな飛躍だった。歩くよりも先に空を飛ぶというような発達をしていたせいか、私はいままでそんなことも知らなかった。
「おーい」と跳びながら私は呼んだ。「どうせ見てるんでしょ、夢の支配者さーん」
返事は無かった。ここには箱と重力と私以外に何も無いから、そんなことはとうに知っていた。だから呼びかけは結局のところ私に向かっての物だった。私の想像力と、ある種の根性に対しての。
神様や妖怪は信仰によってその形を成すという。ならば、私はどうだろうか。もちろん、私は人間を物理的な存在だと知っている。けれども、信仰によって永らえていた私というものの存在を忘れてしまうほど、つまらない大人になる気も無かった。だから私は呼んだ。私を呼んだのだと思う……。
私は跳んだ。身体はさらに高く跳べるようになっていた。私はほとんど自動的に箱の上を弾むようにして暗闇を跳ねまわった。移動がこんなにも楽しいとは知らなかった。
そうして最も高く跳んでみると、向こう側に、ただ一つ上へ昇ってゆく箱が見えた。それが彼方へ消えるとき、上部が微かに白い光に濡れていたことも。
初めて目にする景色の変化に、私は少し動揺した。気まぐれが意味を持ってしまったと思った。私は一連の行為の責任について考えはじめた。足が止まる。躊躇いを待つように箱はゆっくりと落ちつづけている。私は私に応えつづけなければならないのだと思いだすとうんざりしてきた。久しぶりに箱の上で過ごしてみた。重力はいつの間にか疎遠なルームメイトになっていたが、はじめからそうだったのかもしれないとも思いはじめていた。私は穏やかに苛々していた。いまなら特徴の無い箱の表面にすら文句を付けられるかもしれない。重力にそっぽを向いて私は寝転がった。きっと消極的な永住の終わりを期待しながら(誰に?)私は苛々しつづけていた。(誰に?)
でも、奇妙なことに今夜は長かった。退屈な時間ほど長く感じて、楽しい時間ほど短く感じるとよく言うけれども、夢ではそれが逆転していた。やることがないときの方が夜は短く、あるときの方がずっと長かった。私はもう気付いていた。
私は起き上がって、渋々箱を蹴った。全然跳べなくて、危うく箱を踏み外して暗闇の底まで落ちてしまうところだった。そんな私の様子に気付いたのか、重力も目を覚ました。「おはよう」と私は言った。「やっぱり私は行くよ」たぶん重力は頷いた。
私はふたたび跳んだ。重力と箱が私を跳ばせた。ちっぽけな世界のすべてと一緒に私は跳べた。
そうして、私は最後の箱に着地した。ただ一つだけの上昇する箱に。見上げてみると、思った通り光があった。私はその中に吸い込まれて、ようやく夢から覚めた。
良い朝だ、と思うのは久々のことだった。
今夜はたえず無数の箱が昇ってゆく光の中で過ごせるだろう。
それでも、私は全然不快ではなかった。箱とともに、何が原因なのかも知れない緩やかな重力に内臓と気分を任せて暮らしていくのは思ったよりも容易で慣れきってしまうものだった。
だから、これは単にありふれた、ちょっとした欲の表出だったのだと思う。私は連続的な移住を試みはじめた。
箱の落下速度は各々で微妙に異なるため、間を置かずに少しでも上に見える落下の遅い箱へと飛び移っていけば上昇していけるはずなのだ。もし絶対的な座標というものがあるならば、だが。
とにかく、私は跳んだ。私の身体はまるで月面のように浮き上がった。行ったことないけど。動画で見た宇宙飛行士の歩行はたどたどしく、それはスローモーションで跳ねていると言った方が近かった。それを思い出しながら着地してみると、予想通り私もこけた。ずっと倒れているわけにもいかないのでその箱の重力に馴染んでしまう前に私はもう一度跳んだ。胃の辺りがちょっと気持ち悪かった。ここで吐いたらどうなるんだろうとか、何が出てくるんだろうとか、どうでもいいことを考えていたのでまたこけた。一歩は、一人の人間にとってもずいぶんな飛躍だった。歩くよりも先に空を飛ぶというような発達をしていたせいか、私はいままでそんなことも知らなかった。
「おーい」と跳びながら私は呼んだ。「どうせ見てるんでしょ、夢の支配者さーん」
返事は無かった。ここには箱と重力と私以外に何も無いから、そんなことはとうに知っていた。だから呼びかけは結局のところ私に向かっての物だった。私の想像力と、ある種の根性に対しての。
神様や妖怪は信仰によってその形を成すという。ならば、私はどうだろうか。もちろん、私は人間を物理的な存在だと知っている。けれども、信仰によって永らえていた私というものの存在を忘れてしまうほど、つまらない大人になる気も無かった。だから私は呼んだ。私を呼んだのだと思う……。
私は跳んだ。身体はさらに高く跳べるようになっていた。私はほとんど自動的に箱の上を弾むようにして暗闇を跳ねまわった。移動がこんなにも楽しいとは知らなかった。
そうして最も高く跳んでみると、向こう側に、ただ一つ上へ昇ってゆく箱が見えた。それが彼方へ消えるとき、上部が微かに白い光に濡れていたことも。
初めて目にする景色の変化に、私は少し動揺した。気まぐれが意味を持ってしまったと思った。私は一連の行為の責任について考えはじめた。足が止まる。躊躇いを待つように箱はゆっくりと落ちつづけている。私は私に応えつづけなければならないのだと思いだすとうんざりしてきた。久しぶりに箱の上で過ごしてみた。重力はいつの間にか疎遠なルームメイトになっていたが、はじめからそうだったのかもしれないとも思いはじめていた。私は穏やかに苛々していた。いまなら特徴の無い箱の表面にすら文句を付けられるかもしれない。重力にそっぽを向いて私は寝転がった。きっと消極的な永住の終わりを期待しながら(誰に?)私は苛々しつづけていた。(誰に?)
でも、奇妙なことに今夜は長かった。退屈な時間ほど長く感じて、楽しい時間ほど短く感じるとよく言うけれども、夢ではそれが逆転していた。やることがないときの方が夜は短く、あるときの方がずっと長かった。私はもう気付いていた。
私は起き上がって、渋々箱を蹴った。全然跳べなくて、危うく箱を踏み外して暗闇の底まで落ちてしまうところだった。そんな私の様子に気付いたのか、重力も目を覚ました。「おはよう」と私は言った。「やっぱり私は行くよ」たぶん重力は頷いた。
私はふたたび跳んだ。重力と箱が私を跳ばせた。ちっぽけな世界のすべてと一緒に私は跳べた。
そうして、私は最後の箱に着地した。ただ一つだけの上昇する箱に。見上げてみると、思った通り光があった。私はその中に吸い込まれて、ようやく夢から覚めた。
良い朝だ、と思うのは久々のことだった。
今夜はたえず無数の箱が昇ってゆく光の中で過ごせるだろう。