「うーんと。物は試しと言ったって、いざこうしてみると何を話せばいいのか分からないんだけど……」
椅子に座る少女は向かい合う相手に話しかけるように口を開いた。
地霊殿の一室。個室にしてはそこそこの広さで、他に誰のいる気配もない部屋。
「思ってることそのまま話せばいいのかな。思ってることなんてないのにね? いまのわたしが覚えてることってなんだろう。地上でライブってやつを見てきたこと。神社の縁側でお燐が寝てたこと。お寺で説法を聞いたこと……欲を捨てて仏に近づけるなら、いまのわたしは何なのかしら」
視線が上を向く。考えをめぐらせるように。
「ねえ、たぶん、みんなが思ってるほど『わたし』っていうのははっきりしたものじゃないのよね。身体は自分とそれ以外との境界かもしれないけれど、輪郭を持たない心はいつだって何かの影響を受け続けていて、強い衝撃に晒されればいとも容易く変形してしまう。それは親しい相手を亡くす経験かもしれない、禁忌に思える背徳に手を伸ばしたのかもしれない。ライブで盛り上がるのだってそうだよね。それに……」
何を考えているのか分からない目が正面を見る。
「そんなに大げさなことじゃなくたって、誰かに会う、それだけでもう、『わたし』は『わたし』のままでいられなくなるのかもしれない」
沈黙。少し間をおいてから少女は続ける。
「空も、地面も、動物も、植物も、音も、光も、世界の全部は情報で構成されていて、それは人間もで、とりわけ人間の中にある生きた情報、感情の変化の複雑さは、ものすごい情報量を持っているんだって。お姉ちゃんの持ってた本にそんなようなことが書かれてた気がする」
人間がそうなら、妖怪も神様もきっとおんなじだよね。
確認するように少女は独り言つ。
「それで、心が受ける影響の大きさはつまり情報の大きさだから、ひとの感情に触れるっていうのはとても危険なことなんだよね。とりわけ、受け止める『わたし』の側がひとの感情の複雑さを正確に認識できるほど影響は強くなる。解像度っていったっけ? はっきりと見えるようになればなるほど。それなのに、ねえ、みんな誰かに会いたがるんだよね。出会ってしまえば心は凪でいられないのに。近づいて目をこらした分だけ『わたし』は奪われていくのに。不思議だよね。遠回りな自殺なのかな。破滅願望なのかな。みんな、いまの『わたし』が惜しくないのかな。何とも出会わなければ、誰の心も分からなければ、わたしはわたしのままでいられたのかな。ねえ、どうなのかしら」
わずかに首を傾げて少女は問う。
「あなたがその眼を閉ざしたのは、死にたくなかったからなの?」
先よりも長い静寂。問いに答える声はない。切り取られた静止画。
その均衡を破るように少女が立ち上がる。
「――しーらない」
それだけ呟くと少女は部屋を出て行った。
誰も座っていない椅子だけが鏡に映っている。
椅子に座る少女は向かい合う相手に話しかけるように口を開いた。
地霊殿の一室。個室にしてはそこそこの広さで、他に誰のいる気配もない部屋。
「思ってることそのまま話せばいいのかな。思ってることなんてないのにね? いまのわたしが覚えてることってなんだろう。地上でライブってやつを見てきたこと。神社の縁側でお燐が寝てたこと。お寺で説法を聞いたこと……欲を捨てて仏に近づけるなら、いまのわたしは何なのかしら」
視線が上を向く。考えをめぐらせるように。
「ねえ、たぶん、みんなが思ってるほど『わたし』っていうのははっきりしたものじゃないのよね。身体は自分とそれ以外との境界かもしれないけれど、輪郭を持たない心はいつだって何かの影響を受け続けていて、強い衝撃に晒されればいとも容易く変形してしまう。それは親しい相手を亡くす経験かもしれない、禁忌に思える背徳に手を伸ばしたのかもしれない。ライブで盛り上がるのだってそうだよね。それに……」
何を考えているのか分からない目が正面を見る。
「そんなに大げさなことじゃなくたって、誰かに会う、それだけでもう、『わたし』は『わたし』のままでいられなくなるのかもしれない」
沈黙。少し間をおいてから少女は続ける。
「空も、地面も、動物も、植物も、音も、光も、世界の全部は情報で構成されていて、それは人間もで、とりわけ人間の中にある生きた情報、感情の変化の複雑さは、ものすごい情報量を持っているんだって。お姉ちゃんの持ってた本にそんなようなことが書かれてた気がする」
人間がそうなら、妖怪も神様もきっとおんなじだよね。
確認するように少女は独り言つ。
「それで、心が受ける影響の大きさはつまり情報の大きさだから、ひとの感情に触れるっていうのはとても危険なことなんだよね。とりわけ、受け止める『わたし』の側がひとの感情の複雑さを正確に認識できるほど影響は強くなる。解像度っていったっけ? はっきりと見えるようになればなるほど。それなのに、ねえ、みんな誰かに会いたがるんだよね。出会ってしまえば心は凪でいられないのに。近づいて目をこらした分だけ『わたし』は奪われていくのに。不思議だよね。遠回りな自殺なのかな。破滅願望なのかな。みんな、いまの『わたし』が惜しくないのかな。何とも出会わなければ、誰の心も分からなければ、わたしはわたしのままでいられたのかな。ねえ、どうなのかしら」
わずかに首を傾げて少女は問う。
「あなたがその眼を閉ざしたのは、死にたくなかったからなの?」
先よりも長い静寂。問いに答える声はない。切り取られた静止画。
その均衡を破るように少女が立ち上がる。
「――しーらない」
それだけ呟くと少女は部屋を出て行った。
誰も座っていない椅子だけが鏡に映っている。
自由意思なんてないのじゃ…
知らないものは知らないで良いのかもですね