Coolier - 早々思いつかない話

古明地こいしは黒猫なのか?

2020/04/01 05:48:17
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 こいしなのかしら。足元の猫に向かってお姉ちゃんの声は終末を憂うかのように尋ねる。お前はこいしなのかしら。
 猫からの返事がないと、無遠慮な手つきでわきの下に両手を差し込んで目の高さまで持ち上げて尋ねる。お前はこいしなのかしら。
 お姉ちゃんと猫はきょとんと見つめ合っていた。
 目の奥を覗き込んでも、やっぱり猫の心は読めない。お姉ちゃんは確認していた。それが私であることを確認しているようでもあった。足と尻尾がぶらんぶらんと揺れる。抱き上げる手つきは下手にもほどがあって、痛みも怒りも通り越して、私は悲しくなってしまった。屋敷に無数のペットを飼っている主人とはとても思えない小さな少女の手。猫を抱くその手。下手くそでぎこちなくてぷにぷにだった。お姉ちゃんには何の経験もなかった。
 雨がざんざぶりだった。どこかの軒下のあるいは大きな木の下で、私が雨宿りをしているとき、隣に居る猫との距離はそこへ互いに駆け込んだそのときのままで、晴れるまであるいは雨音に一歩踏み出す勇気を持てるときまで変わらず、その場からそっと居なくなるだろう。お姉ちゃんは違う。
 お姉ちゃんはその場で猫とお喋りを始める。他愛ない天気の話から始めるかもしれない。もしも猫が、見上げるざんざぶりの雨を憂鬱に思っているのなら。
 お姉ちゃんは動物の心が読める。猫を抱き上げるのが下手な理由だ。お姉ちゃんは誰とでも心が通じていると一方的に思っている。動物はそれでいいとしても、声に出して会話をするときにはいつだって首をかしげている。こんなにも相手の心を読んで慮ってあげているのに、どうして話が通じないのだろうと首をかしげている。なんて馬鹿。
 覚妖怪なんて、言葉の裏表をすべて掌握した上で正直に喋りかけてくる妖怪なんて、気持ち悪いに決まっている。お姉ちゃんは馬鹿なので、それで相手の立場に立っているつもりなのだ。こんなのが私のお姉ちゃんなのだ。
 さても、お姉ちゃんは猫に尋ねた。
 お前はこいしなのかしら。
 お姉ちゃんは、心が読めない猫=自分の妹が、すぐさまに結びつくのだ。畜生だろうがイコールで妹に見えるなんて、目玉が腐っていると思う。ところが私たちは姉妹だった。突然自室に入ってきた猫=自分の妹だなんて思うか?――普通。思ったとしても尋ねはしない。問うて小首をかしげて返答を待たない。馬鹿なのだ。尻尾をぶらんぶらん垂れ下げた猫は死体のようだった。お姉ちゃんの頭蓋骨は花瓶に使えそうだ。バランスがいい。花もよく映えるだろう。ニャア。
 猫が鳴いたことで、お姉ちゃんはかえって難しい顔になり、猫になってしまった妹をどう扱うべきかを真剣に考え始めた。猫の尻尾がぶらんぶらん揺れた。時計の音がボンボンと吠えた。ペットの誰かが爪音を立てて部屋の外の廊下をかちゃりかちゃりと歩いた。お臍を引っ掻くような音だった。
 私は歩くために四つの足がある。その代わりに、どこかに名前を落としてきてしまった。名前を持ち運ぶための手はなく、入れておくための鞄もなかった。足は四つある。落としたことを思い出した。ニャア。と鳴く声はある。
 雨だれがぽつりぽつりと、被っている帽子を打つ。静けさと冷たい空気のなか、音だけが音だけが、規則的に歩みを進めていた。ぽつりぽつりと雨だれ。お姉ちゃんは猫を抱いている。見つめあった目の前で、またたくお姉ちゃんの瞼が混じった。雨だれと帽子。ぱちり、と切り取る声がする。
 こいしなのかしら。
 どうだろう。私が訊きたかった。鳴くわけにもいかない。ニャア。私は自分を落っことしてきた? 毛皮がじっとりと湿気った。猫は毛皮を身に纏って育ったが、生涯のどこかで怪我を負った首筋は、鋭く切られてハゲができていた。地肌がみえた部分は、とても恥ずかしいピンク色をしていた。傷痕が最近できたものだと私は知っていた。そうだ。私はその首筋がまだ美しかった猫を見下ろしながら、いっしょに歩いていた。――雨音。
 私が猫とともに歩いたのはいつだったか定かではない。けれど、なんとなく朝だったと思う。あのときに感じた、髪から香る油の匂いや、体臭や、足の裏の湿っぽさを思い返して、なんとなくそう記憶する。地霊殿を抜け出して一晩歩いていた。そのときはまだ二本の足で歩いていた。鼻歌が聞こえた。意識としての私がそこにはなくて、ふと返ったとき、先導するようにして猫が歩いていたのだった。私に背中を見せながらのしのしと歩いていた。背中の骨が滑らかに左右に揺れていた。尻尾の先は美しくて、その後ろに汚れたブーツのつま先が続いた。私の足跡は乱雑で、猫の足跡はきれいな直線で、鼻歌のリズムだけが私たちを繋いでいた。そのために、跳ねた泥が歩く猫を汚すことはなかった。
 鈍色の地平へ向かって歩き、雨粒をみあげて歌う。道はどこまでもどこへ続いているのだろう。遮られた視界の向こうには、どこまでも雨音が伸びた。行先の泥だらけの道を人間が拓いたならば、必要とされる場所へと続いている。必要に私は含まれない。必要とは、私とは最も遠くに置かれた言葉だった。猫の目的地はそこだろうか。猫には必要がある。私に行き先はない。
 足が止まる。被っている帽子を、ぽつりぽつりと雨だれが打つ。猫は振り返ると、行き過ぎた足跡を踏みつけながら戻ってくる。私が被っている帽子の影に入る。私はゆっくりとしゃがみこんで、猫の小さな顔にぷうっと息を吹きかけてやった。猫は一瞬首をすくめたが逃げない。今度は手を差し伸べて、首元を撫でる。そのとき初めて猫を見た。煤けていた。毛皮は汚れて固まっていた。体は冷たくて、ごわごわと毛羽立って、ぜんぜん気持ちよくない。歩いているときはあんなにも綺麗だったのに、お前は汚いね。私は笑った。お姉ちゃんと違って心が読めない私は、雨のなかを歩く猫の気持ちも、雨のなかを歩く妖怪の気持ちも、わからない。
 猫がすでに死んでいることに、私は気がついた。道理で。
 普通の猫が私なんかに懐くはずがない。動物には酷く恐れられる。ペットになれとお姉ちゃんに言いつけられてしぶしぶ私の部屋を寝床にした連中さえ、触れることを許さなかった。だから初めて、毛皮ごしの体温は冷たいと知った。それが、猫がすでに死んでいたからだとしたら嬉しい。私にはわからないから。ニャア。猫が鳴く声を初めて聞いた。猫は死んでいなかった。開いた口に雨粒が入った。むぐむぐ動く鼻に、私の体臭と雨と泥の匂いがした。猫の死臭は私からしていた。
 とっくに死んでいた猫は、私に用事があるらしい。私は立ち上がると、道を逸れて歩き出す。必要と縁遠い場所へ向かうならば、私の行先はひとつしかなかった。
 お姉ちゃんのことはあまり褒めたくないのだが、突然目の前に現れた猫を妹と見抜いたのはさすがだと唸るしかない。私が屋敷に帰ってくるといつもそうしているように、お姉ちゃんは浴場へ猫を連れ込むと毛皮をまる洗いした。死体を洗うように丁重に濯がれるうちに、体はほかほかになった。濡れた体を乾かしたあとは、餌を食べるために食堂まで持ち運ばれた。相変わらずお姉ちゃんは下手くそだ。私は猫の手ではスプーンもフォークも持てないということに気づいていたが、猫の体には問題がなかった。お姉ちゃんも私が古明地こいしであるか猫であるかといったことは関係ないようで、いつも通りに自分の食事をとっていた。ただ、心が読めないことをやっぱり気にするのか、ちらちらと猫の様子を窺っては胸元の第三の眼を撫ぜている。今の私には無いものだ。その代わりに四本の足と毛皮がある。お姉ちゃんがそうした態度を取るたびに、私は体の一部を引き千切られたような心持がして、いちいち鼻息を鳴らす羽目になった。
 お姉ちゃんが私に向ける視線は、突然現れた猫に向けるべき視線ではまったくなかった。それはいつも通りの、ひとの心を読む覚妖怪の心が読めないほうの妹を見る視線だった。つまりお姉ちゃんにとっては、少女だろうが猫だろうが、関係がないことだった。胸元にある第三の眼のあるなしは、どうやら私の中でのみ取り扱われる問題で、すでにお姉ちゃんの中では無いものになっているらしい。つまり、お姉ちゃんにとって私以外のすべてがイコールであり、絶対解が妹なのだった。私はそのことに酷く失望した。猫の毛皮だって、欲しくて手に入れたものでもないのに。
 自分の部屋のベッドで目が覚めると、私は自分の体が猫になっていることに気がついた。ぐしぐしと顔を洗っていると、どうにも腕が毛深い。それでいて、つやつやとしている。なんだかいつもより体が軽いので、ぐるんと体を丸めてお尻を覗き込むと、いつもよりもずっと体が柔らかく曲がった。黒くてつやつやした毛並みの体が見えた。ベッドから飛び降りるとき、ごく自然に四つの足で床の上にすとん、と着地した。そのまま四つの足で部屋の外に出た。幸い昨日の自分は扉を閉め忘れたままベッドに倒れ込んで眠ったらしく、隙間からするりと猫のように出ることができた。このときにはもう、私は猫になった自分を受け入れていた。だから私は、お姉ちゃんの部屋へと向かったのだった。
 犯人を見つけて欲しいのです。死んでいた猫はそう言った。私が猫になったのか、猫が私になったのかは知らないが、猫の言うところの犯人を見つければ元通りになるのだろう。でも、どうやって?
 陰鬱な空気には飽き飽きだ。屋敷は大きくて広いがそれだけだった。そもそもこの屋敷には色が無い。絵画も音楽もすべてが駄作になっていた。視線だって低すぎる。目にも耳にも退屈ならば、あとは撫でてもらうしか猫には楽しみがない。餌もすっかり飽きた。獣の臭いもうんざりだ。色を求める私の目は、いつの間にか青空をみていた。そのうち雨が降り出して、私は、誰かの家の軒下に駆け込んだ。久しぶりに屋敷の外に出たというのに、猫の手では傘を持つことも、帽子をかぶることも、長靴を履くこともできない。
 たくさんの音が耳を叩いている。このすべてが雨音ならばとても心地よいのだと思った。家の中に入ると、どうやら廃屋のようだった。人間を失っていた。建物の中に入ったのに雨音は一段とよく響いて、雨だれ全部がこの家に集結しているみたいだ。その中心で、腐って倒壊した木材に挟まれるようにして、猫が死んでいた。死んでいた猫だった。
 毛布にくるまって眠るのが好きだった。お姉ちゃんはいつも私のことを寝相が良くないと叱った。いっしょのベッドで眠ると、必ずと言っていいほど私の体には毛布が巻きつき、代わりにお姉ちゃんは寒そうにして体を手のひらで擦っている。私が悪いのではない。お姉ちゃんが私のことを気にしすぎるのだと思う。寒いのなら、毛布を取り返せばいいのだ。それとも、もう一枚毛布を準備すればいいだけなのに。それは嫌なの。お姉ちゃんは格好をつけて口の端を曲げて、吐息を漏らす。そうするだろうとわかっていて、いつでも私は、眠るときにお姉ちゃんのベッドに潜り込む。でも今のこいしじゃあ足りてしまうわね。猫の体にベッドは広すぎて、毛布も大きすぎるのだった。いくら寝相が悪くても、猫をすっぽりと収めてなお、お姉ちゃんの体を温める余裕がある。私がいつも眠っていた場所からは、寒さがひとつもなくなってしまった。
 頭の中で幾千幾万の雨粒がざあざあと騒ぎ立てていた。神様は八百万。そのうちの誰かが、死んでいた猫の遊び相手になってやろうと口を出す。猫はとうとう白状した。自分のもとに神様がやってきたのだと。すべからく呪いというものは死体と神様からできあがると私は知っていた。少なくともお姉ちゃん自慢のペットたちは、死体と神様からできあがったはずだった。一時期私はそのために山に登ったり神社を訪ねたりしたが、恋い焦がれるような殺戮の味を知ることはできなかった。しかしどうやら死んでいた猫は、そのために私に殺されたための死体だった。神様はいつだって気まぐれで、それでいて私の味方をすることはない。恋とはほど遠いところにある。
 長いこと猫の相手をしていたお姉ちゃんは、そんな話を私に語って聞かせたのだった。どうやら死体と神様からできあがった呪いでも、お姉ちゃんの性格の悪さに勝てなかった。するとそこに残ったのは、ただの死体と、とっくに神様から見放された死んでいた猫の幽霊だけだった。
 こいしそこにいるんでしょう。
 いつかお前はこいしなのかと猫に尋ねたときとは違い、はっきりとお姉ちゃんはそう言った。私はそこにはいなかった。この部屋の中にいることを私自身が意識していなかった。というのにお姉ちゃんが、こいしそこにいるんでしょう。確信してしまったことで、私はこの部屋にいることになった。私の弱点はいつだってお姉ちゃんで、お姉ちゃんはいつだって確信した言葉を吐く。その確信は、私こそが私だけが揺るがしたはずだったのに、最近のお姉ちゃんは変に自信をつけてしまった。きっと馬鹿なのだろう。
 私は逃げる手段を考えている。
 外は雨が降っていた。死んでいた猫は既に死んでいた。ようやっと私はその死体のことを思い出したのだった。
 刺さっていた。それは錆びた包丁だった。廃屋の中に放置されていたものだろう。柱の下敷きになった猫の死体にそのまま墓標を立てるように、猫の首元に包丁が突き立っていた。見事なものだった。こんなもの、すぐに倒れてしまいそうなものだけれど。
 死んでいた猫はニャアと鳴き、私の足元にすり寄った。久しぶりに見たその姿は、最初に会ったときとは違い毛並みが綺麗になっていた。汚れ切っていた毛皮も腐りきっていた目玉もすっかり綺麗になっていた。ずるい。お姉ちゃんの仕業だった。たくさんのペットを飼っているお姉ちゃんは大したものだった。私はもうすっかり猫に触る気がなくなり、足元の猫を蹴飛ばそうと振りかぶったところで、猫はいつの間にか消えていた。
 逃げる手段を考えている。
 私は廃屋の中にひとりで佇み、たくさんの音を聞いていた。軋む音、叩く音、何かが泣く音を聞いていた。
 錆びた包丁が猫に突き立っている。



投稿機会をなくしてたやつ。
あらやしき
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コメント



0.簡易評価なし
1.12345679奇声を発する程度の能力削除
こういう世界観好きです
2.12345679サク_ウマ削除
こいしちゃんにはこういう不気味な話が似合う。お見事でした。
3.12345679虚無太郎削除
触りたくないじっとりとした怖さがあります
4.12345679瞬間不名誉西方名君削除
雰囲気いいですね
姉妹愛と言ってくくってしまうには収まりきらない途方もないものが詰まっているようないい距離間のさとこいでした
5.12345679削除
沈んでいくような没頭感に浸れました。